Galapagos Japas

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タカタ製エアバッグの理不尽な余波、車検パニックは誰の責任か
● 当分、車に乗ることができない? タカタ製エアバッグの意外な余波
 タカタ製エアバッグ不祥事の意外な余波が、今ごろ起きることになった。国土交通省は、タカタ製の欠陥エアバッグを搭載しているリコール対象車両のうち、年式が古いものを中心に約94万台の車検を未改修のままでは通さないことを決定した。

 タカタ製エアバッグのリコールは国内最大規模で、範囲はトヨタ、日産、ホンダなど大半の自動車メーカーに及び、届け出台数は過去最多の1981万台。わが国の乗用車保有台数が約6000万台だから、リコール対象はおおよそ3台に1台であった。

 それでもすでに1700万台超の車については改修が終わり、残る246万台のうち、年式が古い94万台を5月以降このままでは車検に通さないと、国土交通省が決めたというのが今回のニュースである。

 このことで、一部の車の所有者に「車検パニック」が起きることが予想されている。おおむね次のような事態だ。

 中古車の持ち主が5月に入って、整備工場などに車検を依頼する。すると、そこで自分の車がリコールの対象になっていて、このままでは車検に通らないと知らされる。

 本来であれば、無償回収修理が行なわれるリコールだが、古い車種の対応部品がメーカー欠品で手に入らない。だから最悪の場合、オーナーが「当分の間、車に乗ることができない」と突然知らされることになる。車がないと通勤ができない環境の持ち主であれば、生活が成り立たずパニックに陥る可能性もあるというわけだ。

 そもそも、メーカー系のディーラーや中古車販売会社から車を購入した人たち、つまりメーカーから連絡が届く人たちは、その大半がすでに改修を終えている。これが「1700万人が対応済み」という数字の意味だ。

 逆に言えば、今回の車検にひっかかるであろう、まだ修理に応じていない車のオーナーは、(メーカー系列ではない)独立系の中古車屋さんで古い年式の車を購入したり、個人間売買で中古車を購入したり、ないしは引っ越して販売当初のディーラーがその行方を把握できていなかったりする人たち、ということになる。
 前回の車検もガソリンスタンドや近所の整備会社に頼んだという場合は、自動車の持ち主本人も、場合によっては車検を通したサービスマンも、そのリスクに気づいていないわけだ。そして車検パニックに直面するのは、最終的に情報弱者という構図になる。これがこの問題の深刻なところだ。

 思えば家電製品でも、似た構図の問題は起きてきた。老朽化すると一酸化炭素中毒を引き起こしたり、発火したりする恐れがあることがわかった暖房器具などが、全面回収となった事例がある。それでも100%の回収は無理である。

 そして、そのリコール問題も世間が忘れた頃になって、老人たちが住むグループホームが火災事故を起こす。原因がその暖房器具であり、そんなものがまだ残っていたということを、事件が起きて関係者が初めて気づくことになる。

● タカタ、国交省、オーナー… 「車検パニック」は誰の責任か

 自動車の場合は、車検というルールがあるがゆえに、こうした不幸を事前に防ぐことができる可能性がある一方で、強制的に車検で発見された未修理車が、一時的に使えなくなる危惧はある。ではいったいこの問題、誰の責任なのだろうか。

 そう、大問題を提起しておいて申し訳ないのだが、今回、もし車検パニックが起きるとすれば、それは残念ながら「自己責任」ということになる。それで仕事に出勤できなくなる、買い物に行けなくなり不便な状況になる、病院に通えなくなり病状が悪化する、といった状況になっても、それは自己責任だ。

 メーカーは販売した自動車に対して、製品面での責任を持つ。しかしその責任は、あくまで製品の不具合を無償で回収して修理するところまでだ。結果的に起きる二次的な経済損失まで負担するような責任はない。

 エアバッグをつくったタカタには本来、大いに責任があるのだが、すでに戦後最大と言われる倒産劇を起こしたことから、関係者にこれ以上の法的責任を問うことは難しい。

 また国の責任は、安全が保証できる車だけを街中で走らせることにある。むしろ今回のように強権を発動しながら強制的に未修理の車を炙り出すことで、中古車市場の安全が保証できるようになることはいいことだ。全ての車が車検を通過するにはそれでも2年かかるが、中古車を買うとロシアンルーレットのように不具合を持つ車が混ざっていて、消費者がそれを知らずに買っているという今のような状況は、いずれ消える。
 部品が手に入らない車のオーナーのための車検時の救済措置は、本当は考えたほうがいいのだが、むしろ国土交通省がこれまで踏み込まなかった、4月以前に車検を通してしまった車の安全性についての方が、その責任が問われるはずだ。

 とはいえ、日本を代表する大手自動車メーカーの、誰もが知っている有名車種の車を購入したにもかかわらず、それが車検に通らない上に自己責任を問われるという事態は、一般消費者にとってどのように割り切るべき問題なのだろうか。

● 「喫煙の是非」と似ている 車に乗ることの社会的責任

 この一件は、「自動車は便利だが、それを使うには社会責任が伴う」ということを、世の中が再認識するための教訓ではないかと私は思っている。

 経済学の逸話にこんな話がある。たばこをなくすべきかどうかという議論のときに使われる話だ。禁煙論者に対して、経済学者が次のような質問をするとしよう。

 「ある商品が存在する。この商品は使っている本人にとってはいいのだが、統計的に見れば、実は本人の寿命を短くしている。それだけでなく、家族の寿命や見ず知らずの人の寿命にもマイナスの影響を与えている。そういった商品は禁止すべきか?」

 たいていの禁煙論者は、この経済学者の質問に「即座に禁止すべきだ」と答えるだろう。そこで経済学者は「実はこの商品は自動車なのだが、それでも禁止すべきか?」と念のために確認する。それがこの話のオチになる。

 欠陥車が2000万台近く売られてしまったというのも不幸な話だが、その87%まで改修が済んでいることは、関係者の努力の成果とも言える。一方、まだ残っている246万台については、オーナーは万一の事故の際、本人だけではなく家族や知人などの周囲を巻き込む可能性がある。

 こうした状況を考えれば、今回の問題で起きる損失に対して責任を持つのは本人であると、言わざるを得ないのではないか。「割り切れない」と感じる人もいるかもしれないが、車の使用には社会責任が伴うのだから――。

(百年コンサルティング代表 鈴木貴博)
(記事引用)

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タカタ、高田社長退任 創業家からの社名も消滅
2018年4月12日13時14分 朝日新聞
 欠陥エアバッグ問題で経営破綻(はたん)し、民事再生手続き中の自動車部品大手タカタは12日、高田重久会長兼社長が退任し、後任の社長に野村洋一郎取締役が就いたと発表した。11日付。中国資本傘下の米自動車部品メーカー、キー・セイフティー・システムズ(KSS)への事業譲渡が完了したことに伴う。

特集:タカタ製エアバッグ問題
 野村氏は民事再生手続きの完了をめざす。

 本業の自動車部品を手がける会社は分離し、社名をジョイソン・セイフティ・システムズに変更。本社も東京から米ミシガン州に移した。創業家の名前を冠した社名は実質的に消滅することになる。

 KSSとは、リコールの原因となったエアバッグ部品を除くほぼすべての事業を15億8800万ドル(約1700億円)で売却することで合意していた。

(記事引用)












「人工知能の "考え方" は我々とは異なる」アラン・チューリング
最終更新日:2017年6月2日 編集:Yu Goto
1.機械は(人間的な)思考をするか? 
アンドエーアイ株式会社(and AI. Inc.) - 人工知能のwebメディア
アラン・チューリングは論文「COMPUTING MACHINERY AND INTELLIGENCE」の冒頭で「機械は(人間的な)思考をするか?」という普遍的な”問い”を掲げた上で、「”問い”の視点を変えてみよう」と提案しました。

何故、視点を変えようと提案したのか。

それは、チューリングは「人間には扱えて」「機械には扱えない」概念があると考えていたからです。
(停止性問題)

つまり「人間を完全に再現する事は不可能」である事が確定している以上、それ以上論じても仕方が無いという訳です。

ですので建設的な議題として、「考え方(プロセス)は考慮せず」、「結果(出力)の正しさに着眼すべき」であると展開しています。

これが後ほどご紹介するチューリング・テストです。 

2.コンピュータの父と呼ばれているアラン・チューリング 

チューリングマシンによってコンピュータの原型は作られた
コンピュータの父と呼ばれているイギリス人の天才数学者「アラン・チューリング」。

彼がいなければ、今日あるコンピュータの存在はなかったともいわれています。

コンピュータ概念を初めて理論化し、第二次世界大戦中にドイツ軍の暗号“エニグマの解読”をし、
対独戦争を勝利に導いた立役者としての功績が広く知られています。

今日のマイクロソフトやアップルより前に、コンピュータの原型を作った人物のひとりであり、
そのコンピュータは彼の名前から「チューリングマシン」と呼ばれています。

 コンピュータ発想の起点
『脳は神経線維でできていて、人間の心はそれらがネットワークで結びついて生まれている』。

チューリングは幼少の頃に見た科学解説本にあったこの一節に心惹かれ、
コンピュータへ関心を持つきっかけとなりました。

やがてケンブリッジ大学在学時、
1936年に出した「計算可能な数について」という論文の手法のモデルが、
「チューリングマシン」と呼ばれるようになったのです。

3.不可能と言われていたエニグマの解読に成功
 
エニグマの暗号の難攻不落さ
エニグマというのは、1918年にドイツで発明されてナチスに採用された暗号装置。

解読が難解とあって、敵国の暗号解読者たちにとっては戦争より高い壁だったのかもしれません。
それだけに、ナチスは絶対の自信の上にエニグマの暗号で機密文書を送受信していました。

難攻不落といわれたエニグマの暗号でしたが、
イギリス人の天才数学者「アラン・チューリング」によって、
連合軍はエニグマの解読に成功していたのです。

最大の弱点は、「1日の送信量が大量なこと」で、
パターンのサンプルを多く敵側に与えてしまうことにありました。

チューリングボンベの仕組み
エニグマ暗号の鍵は、159,000,000,000,000,000,000通り。
この天文学的な数字の中から、たった1つの正解を探すのは、時間的に無理でしょう。

 そこで登場したのが数学的解決。
ひとつずつ探す総当たりではなく、探索空間をある程度区切って探すことで、
「高速な計算機械により、探索時間も短縮する」というのが、
チューリングをリーダーとする暗号解読チームのとった方法でした。

その高速な計算機械を指すのが「チューリングボンベ」というもので、
電気式のアナログ探索装置と呼ばれています。
これにより、気の遠くなる可能性の中から「正解」をほんの15分ほどで見つることが可能になり、
エニグマ暗号の解読は成功したのです。

チューリングのすごさ
 
チューリングのすごさは、「科学」と「政治」の両分野で偉業を成し遂げたことにあり、
一つは「チューリングマシン」でデジタルコンピュータの基礎理論に貢献したこと、
二つめは第二次世界大戦で、ドイツ軍の“エニグマ暗号を解読”したことで、
イギリスの勝利に貢献したことでしょう。

その功績をたたえ、世界の歴史に残るような革新的な業績に与えられる賞として、
コンピュータ科学界のノーベル賞といわれているのが、
このアラン・チューリングの名にちなんだ「チューリング賞」になります。
 
4.チューリング・テスト
 
チューリングテスト
 
1950年、アラン・チューリングは、「機械が考えることができるのか」の試験方法を考え出しました。
それが「チューリングテスト」と呼ばれるもので、例えばこういうことになります。

2台のディスプレイの前にそれぞれテストを受ける人がいるとします。
1台のディスプレイには人が回答を、もう1台はコンピュータが回答するようになっていますが、
テストを受ける人にはどちらがどちらかさえわかっていません。
テストを受ける人はあらゆる分野からの質問をし、
どちらが人間、コンピュータなのかを探っていきます。
そのとき、コンピュータがわざと計算に時間をかけるようにしたり、
間違えたりして、人間らしい振る舞いをしたとします。

そうすると、テストを受ける人が2台のディスプレイにおいて、
どちらが人間か、コンピュータかの区別がつかない場合、
このコンピュータに知能があるという結論を導き出すものです。
しかし、チューリングテストの論文というのは、そもそもチューリングテストという言葉はなく、
人工知能の判定にチューリングテストを提案したこともなく、
デジタルコンピュータが思考できることを示しているだけだと指摘する学者もいるようです。

 5.現在に残る功績
 
チューリング賞
 
1966年、計算機科学分野の国際学会「ACM」が創設した賞で、
「コンピュータ科学のノーベル賞」ともいわれるチューリング賞。
長年のスポンサーはグーグルとインテルが務め、
2014年からグーグルが単独となり、賞金額も4倍の100万ドルとなっています。
映画「イミテーションゲーム」
イギリスの俳優、ベネディクト・カンバーバッチ主演で、
イギリスの天才数学者、アラン・チューリングの人生を描いている映画「イミテーションゲーム」。
第2次世界大戦時、ナチスドイツ軍が使用した、
難関不落といわれた“エニグマ暗号”の解読に成功し、
連合国軍であるイギリスに勝利をもたらした功績と、
数学者として、コンピュータ概念を初めて理論化した功績と、数奇な人生を描いた映画です。

100名の最も偉大な英国人
「100名の最も偉大な英国人」とは、2002年、BBC(英国放送協会)が放送したテレビ番組です。

イギリス国内の投票で歴史上最も偉大な英国人を選出するもの。

アラン・チューリングは21位に入っています。
41歳の若さで迎えた死は謎で、検死では青酸中毒による自殺とされたものの、
他殺説や事故説もあり、未だに解明はされていません。

画像 天才数学者アラン・チューリングが世界ではじめてコンピューターで演奏 ...
soundrope
天才数学者アラン・チューリングが世界ではじめてコンピューターで演奏した音楽が現代に甦る。
(記事引用)

『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』(The Imitation Game)は、2014年の歴史ドラマ映画。アンドリュー・ホッジス(英語版)による伝記『Alan Turing: The Enigma』を基にグレアム・ムーア(英語版)が脚本を執筆し、モルテン・ティルドゥムが監督、ベネディクト・カンバーバッチが主演を務めた。映画は第二次世界大戦中にエニグマ暗号の解読に取り組み、のちに同性間性行為のかどで訴追を受けたイギリスの暗号解読者アラン・チューリングを描く。

ムーアの脚本はハリウッドの優れた製作予定のない脚本を挙げる『ブラック・リスト(英語版)』2011年版の1位を飾り、映画は2014年2月、ワインスタイン・カンパニーによりヨーロピアン・フィルム・マーケットで支払われた米配給権購入額としては最高となる700万ドルで購入された。映画は2014年11月14日にイギリスで、11月28日にアメリカで、2015年3月13日に日本で公開された。

本作は批評的にも興行的にも成功を収めた。ナショナル・ボード・オブ・レビューおよびアメリカン・フィルム・インスティチュートの年間トップ10に入選し、第87回アカデミー賞では作品賞、監督賞(ティルドゥム)、主演男優賞(カンバーバッチ)、助演女優賞(キーラ・ナイトレイ)を含めた8部門で候補に上がり、ムーアに脚色賞をもたらした。第72回ゴールデングローブ賞では5部門、第21回全米映画俳優組合賞では3部門、第68回英国アカデミー賞では9部門にノミネートされた。また本作の製作関係者はチューリングの功績を広く知らしめたことでLGBT権利の推進団体ヒューマン・ライツ・キャンペーン(英語版)によって表彰された。1400万ドルの予算に対し、映画の興行収入は2015年3月までに2億850万ドルに上り、2014年のインディペンデント映画としては最高の売り上げを収めている。

ストーリー
1951年、数学者アラン・チューリング(ベネディクト・カンバーバッチ)の家が空き巣に入られ、ノック刑事ら2人の警官が捜査に当たる。取り調べを受けたチューリングは、ブレッチリー・パークで働いていた頃を回顧する。

1927年、寄宿学校で不遇の日々を送っていた若きチューリング(アレックス・ローサー(英語版))は、友人クリストファー・モーコム(ジャック・バノン)に触発され、暗号の世界にのめりこんでいく。チューリングは同性ながらモーコムに恋心を抱くが、告白しようとした矢先にモーコムは結核で死んでしまう。

イギリスがドイツに宣戦布告した1939年、チューリングはブレッチリー・パークを訪れ、海軍中佐アラステア・デニストン(英語版)(チャールズ・ダンス)の指揮の下、ヒュー・アレグザンダー(マシュー・グッド)、ジョン・ケアンクロス(英語版)(アレン・リーチ)、ピーター・ヒルトン(マシュー・ビアード(英語版))、キース・ファーマン、チャールズ・リチャーズとともに、ナチスの暗号機エニグマの解読に挑むチームを結成する。

同僚を見下すチューリングは協調性を欠き、ひとり暗号解読装置の設計に没頭する。デニストンが装置の組立資金拠出を拒否すると、チューリングはウィンストン・チャーチル首相に直訴の手紙を送る。チャーチルは拠出を許可し、チューリングをチームの責任者に任命する。チューリングは実力の劣るファーマンとリチャーズをチームから解任し、新聞に難解なクロスワードパズルを載せて後任を探す。ケンブリッジ大学の卒業生ジョーン・クラーク(キーラ・ナイトレイ)はチューリングのテストに合格するが、男性と同じ職場で働くことを両親に反対される。チューリングは彼女が通信傍受係の女性職員と同じ場所で働けるよう手配し、彼女に解読装置の計画を教える。

チューリングに興味を持ったジョーンは、プロジェクトを成功させるため、チューリングと同僚の関係を取り持ち、チームを結束させることに成功する。彼らの協力により、「クリストファー」と名付けられたチューリングの装置は完成したものの、ドイツ軍が暗号のパターンを毎日変えるため解読が追いつかない。デニストンは期限切れを理由に装置の破棄とチューリングの解雇を命じるが、チューリングの同僚たちは総辞職をちらつかせてこれを阻止する。クラークが両親の意向に従って職場を去ろうとすると、「独身じゃなくなればいい」と思いついたチューリングは彼女に求婚し、彼女もこれを承諾する。しかし、同性愛者であるチューリングは、自分の性的指向と現実との乖離に思い悩む。それに気づいていたケアンクロスは、彼にその事を隠し続けるよう忠告する。

最後のチャンスとして提示された1ヶ月の刻限が迫る中、チューリングは通信の傍受内容にまつわる女性職員の会話を耳にし、あることに気づく。通信内容に特定の言葉が含まれると分かっていれば、装置がそれを復号するようにプログラムすれば良いのだ。毎朝6時に発せられる最初の通信の常套句であった「天気」「ハイル・ヒトラー」という3つの単語を拾うよう調整を施すと、装置は即座に暗号の解読に成功。同僚たちは歓喜し、さっそくドイツ軍の作戦を阻止させようとするが、チューリングに「解読された通信に逐一反応してしまっては、エニグマが破られたとドイツ軍に知られてしまう」と指摘され、無念さを感じながらも思い留まるのだった。

MI6の協力を得つつ、チームが軍部に流すべき情報を選別する中、チューリングはふとした偶然から、ケアンクロスがソ連のスパイであることを知る。それに対してケアンクロスは、英ソはナチス打倒という共通の目標を持った仲間だと主張し、身分を明かせば仕返しにチューリングの同性愛を暴露すると脅迫する。MI6の諜報員スチュアート・ミンギス(マーク・ストロング)がチューリングにクラークの身の危険を仄めかした際、チューリングはケアンクロスがスパイであることを告げるのだが、ミンギスは既にこれを知っており、ドイツ軍との戦いを有利に進めさせるべくケアンクロスをチームに配属しソ連へ情報を流すよう仕向けていたのだと明かした。チューリングはクラークを危険から遠ざけるため、彼女に同性愛を打ち明けて婚約破棄を言い渡し、ブレッチリー・パークを去るよう促す。終戦後、ミンギスは職員たちに暗号解読の仕事にまつわる一切を破棄するよう命令し、仕事内容を口外したり再び互いに会ったりする事を禁じた。

そして1950年代、空き巣犯の仲間に懇ろだった男娼がいた事から、淫らな行為を犯したとしてチューリングに有罪判決が下り、服役か化学的去勢の選択を迫られた彼は、仕事を続けるために後者を選んだ。チューリングの家を訪れたクラークは、彼の心身の衰えを目の当たりにする。彼女はチューリングを励ますために、チームの成果が戦争終結を早めて多くの命を救ったことを思い出させ、かつてモーコムがチューリングに、チューリングが彼女に言った台詞を語りかけた。――「誰も予想しなかった人物が誰も想像しなかった偉業を成し遂げる事だってある」と。

宣伝
英国政府によるチューリングの恩赦が発表された2013年12月24日、映画の製作者はbombe(英語版)の傍に立つカンバーバッチ演じるチューリングを捉えた最初の公式写真を公開した[17]。続いてチューリングの命日に近い2014年6月の初旬には、キーラ・ナイトレイ、マシュー・グッド、マシュー・ビアード(英語版)、アレン・リーチのキャラクターを初めて写した2枚の写真が『エンターテインメント・ウィークリー』誌で公開された[18]。チューリングの102回目の誕生日に当たる6月23日には、演技中のマーク・ストロングとチャールズ・ダンスを収めた2枚の写真が『エンパイア』誌で公開された[19]。

映画の予告編は2014年7月に公開され、9月には映画の原作に当たるアンドリュー・ホッジスの伝記『Alan Turing: The Enigma』の映画公開に合わせた版がプリンストン大学出版局とヴィンテージ・ブックス(英語版)から出版された。

2014年11月8日、ワインスタイン・カンパニーはデジタル・スカイ・テクノロジーの創業者ユーリ・ミルナーとFacebookのCEOマーク・ザッカーバーグとともに試写会を開いた。試写会はカリフォルニア州ロスアルトスヒルズ(英語版)で行われ、FacebookのCOOシェリル・サンドバーグ、LinkedInのリード・ギャレット・ホフマン、Googleの共同創業者セルゲイ・ブリン、Airbnbのネイサン・ブレチャジック、Theranosの創業者エリザベス・ホームズらが会場に現れ、ティルドゥム、ムーア、ナイトレイも出席した。

2014年11月10日から1年間開催予定のブレッチリー・パークの映画を記念した展示では、映画のために再現されたやbombeのほか、映画で使用された衣装や小道具が公開されている。

チューリングならびに映画への支援と賛同を表明しているYahoo!のCEOマリッサ・メイヤー (左) と第22代合衆国国防長官ロバート・ゲーツ (右)。 チューリングならびに映画への支援と賛同を表明しているYahoo!のCEOマリッサ・メイヤー (左) と第22代合衆国国防長官ロバート・ゲーツ (右)。
チューリングならびに映画への支援と賛同を表明しているYahoo!のCEOマリッサ・メイヤー (左) と第22代合衆国国防長官ロバート・ゲーツ (右)。
映画の公式ウェブサイト theimitationgamemovie.com ではチューリングが考えたクロスワードパズルを解くことによって特別なコンテンツにアクセスすることが可能となっている。映画のニューヨーク・プレミアのスポンサーでもあったGoogleは2014年11月23日、参加者が暗号解読を競うコンテストを公開した。

アメリカでの映画公開直前の2014年11月27日、『ニューヨーク・タイムズ』は1942年にブレッチリー・パークへの求人のために掲載された『デイリー・テレグラフ』のクロスワードパズルを再掲した。パズルを解いた応募者は1組2名のロンドンおよびベッチリー・パーク旅行への抽選に参加できるというものだった[25]。

ワインスタイン・カンパニーは2015年1月2日からチューリングの業績に因んで技術、軍事、学術、性的少数者を代表する人々の推薦コメントを掲載する紙面およびネット上のキャンペーンを開始した。コメントを寄せた中にはYahoo!のCEOマリッサ・メイヤー、NetflixのCEOリード・ヘイスティングス(英語版)、Googleの会長エリック・シュミット、TwitterのCEOディック・コストロ(英語版)、PayPalの共同創業者マックス・レヴチン、YouTubeのCEOスーザン・ウォジツキ、ウィキペディアのジミー・ウェールズや、ヒューマン・ライツ・キャンペーン(英語版)の会長チャド・グリフィン、GLAADのCEOサラ・ケイト・エリス(英語版)といったLGBTの活動家、そして第22代合衆国国防長官ロバート・ゲーツといった軍事界の人物がいる。

社会活動
「アラン・チューリングは、すべての人間がそうであるように、与えられて当然の愛を求めたがためだけに、彼を犯罪者呼ばわりした社会によって、訴追されたばかりか、ほぼ間違いなく人生を早く終えるよう促された。60年後、同じ政府が彼を恩赦する、「赦す」といった。これは嘆かわしいと私は思う。なぜなら、赦しを可能にしたのはチューリングではなく政府の行為であり、他の4万9000人の訴追された男性たちも同じ処遇を受けて当然だからだ」
—カンバーバッチ、英国の同性間性行為に関する法律によって有罪とされたゲイ

男性たちの恩赦に賛同して
2015年1月、LGBTQの権利を推進するスティーヴン・フライはハーヴェイ・ワインスタイン、チューリングの大姪レイチェル・バーンズ、そしてカンバーバッチとともに、チューリングを化学的去勢へと導いた法律によって有罪とされた4万9000人のゲイ男性たちの恩赦を求める活動を開始した。『ガーディアン』に掲載された公開書簡では、英国政府および王室、とりわけ女王エリザベス2世とケンブリッジ公夫妻に活動への賛同が求められた。

フライは、「チューリングを苦めたのと同じ法によって5万から7万もの男性たちが投獄され、化学的に去勢され、人生を破壊されたり自殺を図ったりしたとき、アラン・チューリングは天才だったからというだけで恩赦されてよいのか。彼が恩赦されるべきなら、その名前を生涯毀損され、しかしまだ家族のいるすべての男性たちも恩赦されるべきではないかという普遍的な感情がある。それは多くの脅迫と不幸と苦痛を可能にした、汚く、悪しき、忌むべき法律だった。さらに忌むべき、しかし同類の法に苦しんだオスカー・ワイルドがそうであったように、チューリングは彼の時代において象徴的な存在である」と述べた。ヒューマン・ライツ・キャンペーン(英語版)のチャド・グリフィンも「イングランドでは4万9000人以上のゲイ男性やゲイ女性が同じ法律によって訴追された。チューリングは女王エリザベス2世によって2013年に恩赦された。彼以外はされていない。この映画を称えよ。この男を称えよ。そして、他の4万9000人の正義を成し遂げるための運動を称えよ」と、活動への賛同を示した。活動家ピーター・タッチェル(英語版)や『アティテュード(英語版)』誌など、ゲイコミュニティの有名人たちがこの運動への支援を表明した。

2015年2月にはマット・デイモン、マイケル・ダグラス、ジェシカ・アルバ、ブライアン・クランストン、アナ・ウィンターらも反同性愛法の被害者たちの恩赦を求める Pardon49k.org の請願に同意した。

第二次世界大戦の間、ブレッチリー・パークにあるイギリスの暗号解読センターの政府暗号学校で、ドイツの暗号を解読するいくつかの手法を考案し、英国の海上補給線を脅かすドイツ海軍のUボートの暗号通信を解読する部門 (Hut 8) の責任者となった。ドイツが使用していた、エニグマ暗号機を利用した通信の暗文を解読する(その通信における暗号機の設定を見つける)ための機械 bombe を開発した。

戦後は、イギリス国立物理学研究所 (NPL) に勤務し、プログラム内蔵式コンピュータの初期の設計のひとつACE (Automatic Computing Engine) に携わった(ただし、チューリング自身は、その完成を見ずに異動している)。1947年、マンチェスター大学に移ると、初期のコンピュータ Manchester Mark I のソフトウェア開発に従事し、数理生物学に興味を持つようになる。形態形成の化学的基礎についての論文を書き[8]、1960年代に初めて観察されたベロウソフ・ジャボチンスキー反応のような発振する化学反応の存在を予言した。

1952年、同性愛の罪(風俗壊乱罪)で警察に逮捕され、保護観察の身となり、ホルモン療法を受ける。1954年に41歳で死去。検死によると、青酸中毒による自殺と断定されたが、母親や一部の友人は事故だと信じていた。

2009年9月10日、インターネットでのキャンペーンに続いて、首相のゴードン・ブラウンが、戦後のイギリス政府によるチューリングへの扱いについて、公式に謝罪した。

6歳でセント・マイケルズ学校に入学した。担任教師に続き、校長もすぐに彼の才能に気づく。1926年、14歳でシャーボーン学校に入学。登校初日がゼネラル・ストライキ予定日と重なったため、前日から100kmの距離を一人で自転車で行くことにして、途中で宿をとって登校。このできごとは地元紙に掲載された。

シャーボーンは有名なパブリックスクールであり、その校風は古典を重視するものだったが、チューリングは、主に数学と科学に才能を発揮した。そのため、同校の校長は、アランの両親に「ふたつの学校の間で落ちこぼれないことを望みます。パブリックスクールに留まるなら、教養を身に付けねばなりません。単に科学者になるのなら、パブリックスクールに通うのは、時間の無駄です」という手紙を書いた。

しかし、このようなことがあっても、アランは、学問に対する驚くべき能力を示し、初等微分積分学も習っていない1927年に、もっと難しい問題を解いていた。1928年、アルベルト・アインシュタインの書いた文章に触れ、16歳でその内容を理解しただけでなく、そこには明記されていなかったニュートン力学について、アインシュタインの疑問を外挿したという。

親友のクリストファー・モルコムに恋をしたが、シャーボーンの最終学期中、感染牛のミルクを小さいころに飲んでいたため牛結核症を患って、モルコムは死去した(1930年2月13日)。このことがきっかけとなり、チューリングは、無神論者になった。また、脳の働きなどの現象についても、唯物論的に解釈するようになったが、心のどこかで死後の生を信じていたという。

大学時代と計算可能性についての研究

キングス・カレッジの計算機室はTuringと名づけられている
数学や科学ほど古典をまじめに学ばなかったことが原因で、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの奨学金を受けられなかったため、第二希望であったケンブリッジ大学キングス・カレッジへ進学した。1931年から1934年まで学生として学び、数学で優秀な成績を修めて卒業した。1935年に、中心極限定理を証明した論文が認められ、キングス・カレッジのフェロー(特別研究員)に選ばれた。ただし、中心極限定理は1922年にJ・W・リンデベルグ(英語版)が証明済みだったが、チューリングはその業績を知らなかった。

1928年、ドイツの数学者ダフィット・ヒルベルトは、「決定問題」への注目を呼びかけた。チューリングは、重要な論文 "On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem"(「計算可能数、ならびにそのヒルベルトの決定問題への応用」、1936年5月28日提出、11月12日配布)で、この問題の解決に重要な役割を果たした。

この論文の重要な点を、現代の数学および数学基礎論およびコンピュータ科学の視点からまとめると次のようになる。(1)「チューリングマシン」という計算モデルを提示し、19世紀以前の数学では数理論理の視点からすると自然言語で記述されるなど曖昧な点があったアルゴリズムを形式的に表現する手法(のひとつ)を確立し、「何らかのチューリングマシンで計算可能な関数を計算可能関数とする」という計算可能性理論における重要なテーゼであるチャーチ=チューリングのテーゼを示した(チャーチの業績とは独立であり、チューリングのほうがよりわかりやすく直感的であった。人によってはチューリング=チャーチのテーゼ、の順とすることもある)。(2)どんなチューリングマシンの動作をも、現代の言葉で言えば「エミュレート」できる、「万能チューリングマシン」が可能であることを証明し、その構成法を示した。(注意: この(1)と(2)が表現していることを曖昧に理解しないように注意すること。「テーゼ」は証明ではない(証明できるような性質のものではない)。しばしば、万能チューリングマシンによりあらゆる計算が可能であることを証明した、というような誤解が見受けられる。)(3)「万能チューリングマシン」の概念を利用して、停止性問題を否定的に証明した(これはゲーデルの不完全性定理と同等の結果とも言えるものである。詳細は停止性問題の記事を参照)。

1936年9月から1938年7月にかけて、プリンストン高等研究所においてアロンゾ・チャーチ(前述の「チャーチ=チューリングのテーゼ」のチャーチである)に師事した。1938年、プリンストンで博士号を得た。博士論文では、数の広がり(正の整数→負数→無理数→虚数)とその公理体系の進化に関して、それらすべてを包含する「順序数」という概念の体系を整理しようとした。その中で、チューリング還元の概念を提案している。純粋数学とは別に暗号理論もここで学び、電気機械式乗算器も試作している。また、この時期、ジョン・フォン・ノイマンも同じくプリンストンにおり、二人は親交があったと言われている。ノイマンは、チューリングにアメリカに残ることを勧めたという。

1939年にケンブリッジに戻ると、ウィトゲンシュタインとの講義に参加した[31]。そこでは、ウィトゲンシュタイン「数学は絶対的真実を発見するのではなく、発明している」という立場を取ったのに対して、チューリングは形式主義を擁護する立場を取った。

暗号解読

ブレッチリー・パーク内にあるこの建物で、チューリングは、1939年から1940年まで働き、その後 Hut 8 に移った。
第二次世界大戦中、チューリングは、ブレッチリー・パークでドイツの暗号を解読する仕事をしていた。歴史家で自らも戦時中に暗号解読に従事していたエイザ・ブリッグズ(英語版)は次のように述べている。

類まれな才能が必要で、ブレッチリーで天才が必要とされていた。チューリングは、まさにその天才だった。

第二次世界大戦に先立つ1938年9月から、イギリスにおける暗号解読組織である政府暗号学校 (GCCS) でパートタイムで働き始める。そこで、ディリー・ノックス(英語版)と共にエニグマの解読に当たった。その少し前の1939年7月、ポーランドの暗号局 (en) とイギリスおよびフランスの関係者がワルシャワで会合し、ポーランドが解明したエニグマのローター回路についての情報を得ていた。チューリングとノックスは、その情報を元に、問題にアプローチしようとしていた[35]。ポーランドの解読法は不安定なもので、ドイツ側がいつでも変更可能だった。実際1940年5月に変更されている。チューリングの方法はもっと汎用的でクリブ式暗号解読全般に使えるもので、最初の bombe の機能仕様に盛り込まれていた。

1939年9月4日、イギリスがドイツに宣戦布告した翌日、GCCSの戦時中の基地となっていたブレッチリー・パークに出頭した。bombe の仕様は戦時中の暗号解読でチューリングが成し遂げた5つの成果のうち最初の1つである。他には、ドイツ海軍が使っていたインジケーター手続きの推測、Banburismus と名付けた bombe の効率を上げる統計的手法の開発、Turingery と名付けた Lorenz SZ 40/42 (Tunny) のホイール群のカム設定を明らかにする手続きの開発、そして終戦間近に開発した音声信号スクランブラー Delilah である。

ブレッチリー・パークでは変人で通っていた。同僚は彼を 'Prof' と呼び、 エニグマに関する論文は 'The Prof's Book' と呼ばれていた。同僚の暗号解読者ジャック・グッド(英語版)はチューリングについて次のように述べている。

6月の第1週には毎年花粉症に悩まされるので、彼は花粉を吸わないようガスマスクをして自転車でオフィスに通っていた。自転車は故障していて、定期的にチェーンが外れていた。それを修理してもらう代わりに、ペダルをこいだ回数を数えて、危なくなると一旦降りてチェーンを調整していた。もうひとつの変人ぶりとして、マグカップが盗まれるのを防ぐために、それをラジエータパイプに鎖で繋いでいた。
ブレッチリーで働いていたころ、ロンドンで重要な会議に出席しなければならないとき、長距離走が得意だったチューリングは、約 64km を走ったという。タイムは、世界レベルのマラソン記録に匹敵していたという。

1945年、戦時中の功績によりOBEを授与されたが、その後1970年代までその業績は秘密にされ、近しい友人すらそのことを知らなかった。その功績の大きさにもかかわらず、暗号という重要な機密事項を扱う仕事柄ゆえに、ブレッチレイ・パークから一歩外に出れば、チューリングの仕事を知る者は誰一人いなかった。それは、家族すら例外ではなく、母親に一度だけ「軍関係の研究をしている」と話した際には、政府の仕事に携わっていながら身なりに気を払わない息子に対し、母はかえって落胆するばかりであったという。戦後もブレッチリー・パークに関係する事柄は引き続き機密とされ、チューリングが同性愛者として罰せられてからは、その功績を知らない世間から、公然と辱めを受けることとなる(後述)。

チューリングとウェルチマンの bombe

ポーランドの bomba kryptologiczna よりも効率的にエニグマの暗号を解読する電気機械式の装置の仕様を生み出し、ポーランドの bomba にちなんで bombe と名付けた。数学者ゴードン・ウェルチマン(英語版)の示唆によって改良した bombe は、エニグマの暗号解読の主要な自動化ツールとなった。

ジャック・グッドは次のように述べている。

チューリングの最も重要な貢献は、私が思うに暗号解読機 bombe の設計だ。彼はあなたも使えるアイデアを持っていた。要するに、やや不合理な訓練されていない耳でも聞き分けられる論理的理論で、すべてを推論できる。

bombe はエニグマの暗号文で使われたと考えられる正しい設定(ローターの順序、ローターの設定、プラグボードの設定など)を、適当なクリブ(平文に存在が推定される単語やフレーズ)を使って探索する。ローターの考えられる設定(組み合わせのオーダーは 1019、4ローターのUボート版では 1022)ごとに、bombe はクリブに基づいた一連の推論を電気的に行う。bombe は矛盾が生じるとそれを検出し、その設定を除外し、次の設定を調べる。ほとんどの設定は矛盾を生じるので除外でき、詳細に調べるべき少数の設定だけが残る。最初の bombe は1940年3月18日に実装された。終戦のころには200台以上の bombe が使われていた。

Hut 8 と海軍のエニグマ

チューリングは「他の誰もそれに取り組まず、自分ならやれるかもしれない」と思い、ドイツ海軍のエニグマの解読というさらに難しい問題に取り組むことを決めた。1939年12月、海軍のエニグマのインジケーターシステムの基本部分を解明。海軍以外が使っているインジケーターシステムよりも複雑だった。そしてある夜、Banburismus のアイデアを思いつく。これは逐次的かつ統計的な技法で(後にエイブラハム・ウォールドは sequential analysis と呼んだ)、海軍版エニグマの暗号解読を助けるものだった。「私はそれが現場でうまく機能するか確信を持てず、何日かかけて具体化してやっと確信した」 このために彼は証拠を重み付けするための測度を考案し、それを Ban と呼んだ。Banburismus はエニグマの特定のローターの並びを除外することができ、bombe の設定をテストする時間を大幅に減らすことに寄与した。

1941年、チューリングは、 Hut 8 の同僚で数学者・暗号解読者のジョーン・クラークに結婚を申し込んだが、婚約期間は短かった。同性愛者であることをフィアンセに告白しても、彼女は動じなかったといわれているが、チューリングのほうがこのまま結婚はできないと別れることを決心した。

1942年11月には、暗号に関する情報交換の一環として、アメリカを訪れた[50]。そこでは、ワシントンでアメリカ海軍の暗号解読者に海軍版エニグマと bombe の構造について伝授し、英米間の盗聴不可能な音声通信手段としてベル研究所で当時開発中だった秘話装置SIGSALYの情報提供を受け暗号化方式の安全性についての評価作業を行った。ベル研究所では同じようにSIGSALYの評価を行っていたシャノンにも会っている。1943年3月、ブレッチリー・パークに戻る。この間に Hut 8 の責任者がヒュー・アレグザンダーに変わり、チューリング自身は部門の日常業務の運営に興味を持たなくなっていたため、ブレッチリー・パークの暗号解読コンサルタントのような立場となった。

アレグザンダーは、次のように書いている。

チューリングの仕事が Hut 8 の成功の最大の要因であることは誰もがわかっていた。当初、暗号解読者としては、彼だけがこの問題に取り組む価値があると考え、彼1人ではないものの Hut における理論的成果の最大の功績者であり、彼に次いでウェルチマンとキーンが bombe の発明に貢献した。全員が不可欠だったというのは難しいが、Hut 8 で誰が一番不可欠だったかといえば、それはチューリングだ。経験と日常がすべてを簡単なように見せるので、先駆者の業績は忘れられがちだが、Hut 8 の多くの者がチューリングの功績の大きさが外の世界に完全に伝わることは決してないだろうと感じていた。

Turingery
1942年、チューリングは Turingery(冗談で Turingismus とも)と名付けた技法を考案[53]。ドイツが新たに開発した暗号生成ローターつきのテレタイプ端末で生成されるローレンツ暗号を解読するための技法である。この暗号機械をブレッチリー・パークでは Tunny と呼んでいた。Turingery は Tunny のホイール群のカム設定を解明する手続きである。彼は Tunny のチームにトミー・フラワーズを紹介し、フラワーズがマックス・ニューマンの指導下で世界初のプログラム可能な電子式デジタル計算機 Colossus を構築することになった。Colossus は当時としては極めて高性能で、総当り的な統計的暗号解読技法を適用しても十分な性能を発揮した。なお、チューリングがColossusの設計に重要な役割を果たしたと間違って主張している文献などがある。Turingery と Banburismus の統計的暗号解読法は間違いなくローレンツ暗号の解読技術に影響を与えているが、チューリング自身がColossus開発に直接関与した事実はない。

秘話装置 Delilah
アメリカのベル研究所で提供を受けたSIGSALYの情報を元に、よりシンプルな形で電話の音声信号を電子的に暗号化するというアイデアを追求し、戦時中の後半はハンスロープ・パークにあるイギリス情報局秘密情報部のラジオセキュリティサービス(後のHMGCC)で働いた。そこで彼は技術者ドナルド・ベイリーの助けを得て、電子工学への造詣を深める。2人は携帯型の秘話装置 Delilah を設計・構築[59]。Delilah は様々な応用が意図されていたが、長距離の無線通信ができず、いずれにしても完成したのは終戦間近で遅すぎた。それでも役人の前でウィンストン・チャーチルの演説を暗号化してさらにそれを元に戻すデモンストレーションを行ったが、実際には使われなかった。

初期のコンピュータに関する仕事とチューリングテスト
1945年から1947年まで、チューリングはロンドンのリッチモンドに住み[61]、イギリス国立物理学研究所 (NPL) にてACE (Automatic Computing Engine) の設計を行う。1946年2月の論文では、プログラム内蔵式コンピュータの英国初の完全なデザインを発表している。フォン・ノイマンの First Draft of a Report on the EDVAC はチューリングの論文より先に存在したが、チューリングの論文の方が詳細であり、NPL数学部門の責任者だった John R. Womersley は「チューリング博士の独自のアイデアがいくつか含まれていた」と記している[63]。ACEは実現可能な設計だったが、ブレッチリー・パークで軍事機密に関わる仕事をしていたことが原因でプロジェクトは遅々として進まず、1947年、サバティカル休暇でケンブリッジに戻る。彼がケンブリッジにいる間にACEを縮小した Pilot ACE が作られた。1950年5月10日に初めてプログラムの実行を達成している。

1948年、マンチェスター大学数学科の助教授に招かれる。1949年、マンチェスター大学のコンピュータ研究室に移り、そこで初期のコンピュータ Manchester Mark I におけるソフトウェア開発に従事。この時期はより概念的な仕事にも取り組み、Computing Machinery and Intelligence(「計算する機械と知性」、1950年10月、「Mind」誌)という論文では人工知能の問題を提起、今日チューリングテストとして知られている実験を提案している。すなわち、機械を「知的」と呼ぶ際の基準を提案したもので、人間の質問者が機械と会話をして人間か機械か判別できない場合に、その機械が「思考」していると言えるというものである[64]。その中で、最初から大人の精神をプログラムによって構築するよりも、子どもの精神をプログラムして教育によって育てていくのがよいと示唆している。

1948年、当時まだ存在していなかったコンピュータチェスのプログラムを書き始める。1952年、当時のコンピュータは性能が低くそのプログラム実行には適さなかったため、自分でコンピュータをシミュレートしてチェスの試合を行ったが、一手打つのに30分かかったという。その対戦の棋譜が残っている[65]。同僚との対戦ではプログラムが負けているが、別の同僚の奥さんにはプログラムが勝利している。

チューリングテストは独特の挑発的特徴があり、人工知能に関する議論で半世紀にわたってよく引き合いにだされ続けた。

1948年にはLU分解も考案しており、今でも方程式行列の解法として使われている。

形態形成と数理生物学に関する仕事
1952年から、亡くなる1954年まで数理生物学、特に形態形成について研究を行う。"The Chemical Basis of Morphogenesis"(形態形成の化学的基礎)と題する論文を1952年に発表、形態形成について仮説を提唱した。この分野での関心は、フィボナッチの葉序研究、すなわち植物の葉のつき方に現れるフィボナッチ数の存在である。これに反応拡散方程式を用いたが、これは形態形成の分野で現在よく使われる手法である。その後の論文は 1992年の Collected Works of A.M. Turing の出版まで未発表だった。近年再評価が著しい仕事である[69]。

同性愛の告発
Anthony Cave Brown の著書 "C": The Secret Life of Sir Stewart Menzies, Spymaster to Winston Churchill には次のような記述がある。

ミンギスは、チューリングをブレッチリーで雇用した直後から彼が長年の積極的な同性愛者だと知っていた。しかし、ブレッチリーの同僚にちょっかいを出すこともなく、ミンギスの部下の中では唯一「不可欠」と呼べる男だったので、そのまま雇っていた… 1944年初め、ブレッチリーに程近い大きな工業都市ルートンの公立図書館で男子生徒が性暴力を受けるという事件があり、チューリングが犯人ではないかと疑われた。全く記録には残っていないが、秩序と風紀を保つには彼を排除するしかないという決定がなされた。しかし、それも彼が素晴らしい仕事を完了してからのことである。

1952年1月、チューリングはマンチェスターの映画館のそばでアーノルド・マレーと出会う。ランチデートの後、週末を一緒に過ごそうとマレーを自宅に招いたが、マレーはその誘いを断わっている。次の月曜日、2人は再びマンチェスターで会い、今度はチューリングの自宅を訪問している。数週間後、マレーは再びチューリング宅を訪れ、一夜を共にしたとみられている。

間もなく自宅に泥棒が入り、事件を警察に報告したが、捜査の過程で、泥棒の手引きをした19歳の青年(マレー)と同性愛関係にあったことが警察の知るところとなった。同性愛は当時のイギリスでは違法であり、2人とも逮捕された。

チューリングは有罪となり、入獄か化学的去勢を条件とした保護観察かの選択を与えられ、入獄を避けるため、同性愛の性向を矯正するために、性欲を抑えると当時考えられていた女性ホルモン注射の投与を受け入れた。

結果としてセキュリティ・クリアランスを剥奪され、GCHQで暗号コンサルタントを続けることができなくなった。当時、ケンブリッジ・ファイヴの最初の2名ガイ・バージェスとドナルド・マクリーンがKGBのスパイだと露見した事件があり、スパイについて大衆の不安が増大し、ソ連のエージェントが同性愛者を罠にかけるという噂があった。スパイ活動で告発されたわけではないが、ブレッチリー・パークで働いていた全員と同様、戦時下の業績について論じることは禁止された。

1954年6月8日、家政婦がチューリングが自宅で死んでいるのを発見した。検死の結果、死亡したのは前日で、青酸中毒による死であることが判明。ベッドの脇には齧りかけのリンゴが落ちていた。リンゴに青酸化合物が塗ってあったかの分析はなされなかったが、部屋には青酸の瓶が多数あった。死因審問で自殺と断定され、1954年6月12日に火葬された。
母は、実験用化学物質を不注意に扱ったために起こった事故であると主張している[80]。あるいは、母に事故だと思わせるようにして自殺したという説もある[81]。同僚によれば、映画『白雪姫』を見た直後の彼が「魔法の秘薬にリンゴを浸けよう、永遠なる眠りがしみこむように」と言っていたのを耳にしており、白雪姫のワンシーンを真似てこのような死に方をしたのだという。

再評価

ウィルムズローのチューリング宅にあるブルー・プラーク
チューリングの死後まもなく(戦時中の業績が機密扱いだったころ)、王立協会が伝記を出版しており、以下のように記されている。

3つの多様な数学的主題について、戦前に3つの特筆すべき論文を書いており、この重要な時期(戦時のこと)に何らかの大きな問題にとりかかっていたら重大な業績を残していただろうということがわかる。外務省での業績により、OBEが授与された。

国立物理学研究所の同僚で、後にチューリング賞を受賞したジェイムス・H・ウィルキンソンも、受賞講演で、外務省時代に別の環境にチューリングがいたなら、もっとも生産的な時期たりえた可能性が大きい、としている。しかし、問題やパズルといったものであれば種類を問わず大好きであったから、外務省での仕事にも興味をもって取り組んだであろうし、電子工学について知識を獲得したのもその時であった、と指摘している。

1966年から、コンピュータ科学者らによる国際的学会のACMは、同学会の守備範囲であるコンピュータ科学を中心とした分野の最高の賞として、チューリング賞を授与している。物理や化学といったようなかなり広い分野の最高の賞、という位置づけにあるものとして、コンピュータ科学分野におけるノーベル賞に相当するものと一般に扱われている。

1974年夏、ブレッチリー・パークの活動について書かれた「ウルトラ・シークレット」出版[86]、チューリングらの功績について世間の知るところとなる。

1986年、ヒュー・ホワイトモアの戯曲「ブレイキング・ザ・コード」でチューリングが描かれた。1986年11月からロンドンのウェストエンドで公開され、1987年11月15日から1988年4月10日までブロードウェイで興行。1996年にはBBCでテレビドラマ化されている。いずれもチューリング役はデレク・ジャコビ。ブロードウェイでの公演はトニー賞3部門にノミネートされている。

1998年6月23日、86回目の誕生日に、伝記作者にして数学者のアンドリュー・ホッジスは公式の英国遺産としてブルー・プラーク(記念銘板)をチューリングの生まれた病院であったロンドンのウォーリントン・クレセントにあるコロネードホテルに掲げた。2004年6月7日には、死去50周年を記念して、ウィルムズロウ・ホリーミードの家にも記念のプラークが設置された。

1999年、タイム誌の「タイム100: 20世紀の最も影響力のある100人」で、コンピューター創造に果たした役割からチューリングを選んでいる。1999年のニール・スティーブンスンの小説『クリプトノミコン』にはチューリングが登場している。2000年3月13日、セントビンセント・グレナディーンにて20世紀の偉人を集めた切手セットが発行された。その中にチューリングの肖像が描かれた切手もあり、「1937: アラン・チューリングのデジタルコンピュータ理論」と記されている。2002年、BBCが行った「偉大な英国人」投票で第21位にランクインした。

晩年に働いていたマンチェスターでは、様々な方法でその栄誉を称えている。1994年、マンチェスターの環状道路が "Alan Turing Way" と名付けられている。またこの道路には Alan Turing Bridge という橋もある。2001年6月23日(誕生日)には、マンチェスター大学に隣接するサックビル・パークにベンチに座っている形の銅像が設置された。

この銅像はリンゴを持っている。リンゴは古来「禁じられた愛」の象徴であり、アイザック・ニュートンの万有引力の法則も思い起こさせるし、チューリングの死の状況も思い起こさせる。また、ブロンズ製のベンチにはレリーフで 'Alan Mathison Turing 1912–1954' と書かれていて、その下には 'Founder of Computer Science' をエニグマで暗号化した文字列が書かれている。台座には「計算機科学の父、数学者、論理学者、戦時中の暗号解読者、偏見の犠牲者」と記されている。バートランド・ラッセルの言葉も引用されていて「正しく見た数学は、真実だけでなく最高の美 - 彫刻のように冷たく厳しい美も有している」とある。台座の下には彫刻家が所有していた古いアムストラッド製パソコンが「あらゆる現代のコンピュータのゴッドファーザー」への捧げ物として埋められている。

没後50年を記念して、2004年10月28日には、幼少時に住んでいた町にあるサリー大のキャンパス内に銅像が置かれる。

プリンストン大学の発行する Princeton Alumni Weekly では、チューリングをジェームズ・マディソンに次ぐ偉大な卒業生だとしている。

2007年6月19日、ブレッチリー・パークに1.5トンの等身大の石像が立てられた。ウェールズの粘板岩を多数使用したもので、億万長者の Sidney Frank が彫刻家 Stephen Kettle に制作を依頼したものである。

2011年2月、チューリングの第二次世界大戦中の論文がオークションで買い取られ、ブレッチリー・パークに戻された。

2014年、人気俳優ベネディクト・カンバーバッチがチューリングを演じる映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』が公開された。

政府による謝罪
2009年8月、ジョン・グラハム=カミングがイギリス政府に対して、アラン・チューリングを同性愛で告発したことへ謝罪するよう請願活動をはじめた。これに対して数千の署名が集まった。

イギリス首相のゴードン・ブラウンはこの請願を認め、2009年9月10日に政府として正式な謝罪を表明し、当時のチューリングの扱いを「呆れたもの (appalling)」と表現して、次のように声明を発表した。

数千の人々がアラン・チューリングのための正義と彼がぞっとする扱われ方をしたという認識を求めて集まった。チューリングは当時の法律に則って扱われ、時計の針は戻すことはできないが、彼に対する処置はまったく不当であり、深い遺憾の意を表す機会を得たことを我々全てが満足に思っている… イギリス政府とアランのおかげで自由に生活している全ての人々を代表し、『すまない、あなたは賞賛に値する』と言えることを非常に誇りに思う。
2011年12月、William Jones はイギリス政府に対してアラン・チューリングの罪を免罪(名誉回復)してほしい[99]という電子請願を申請した。

この請願には21,000以上の署名が集まったが、法務大臣はチューリングが有罪宣告されたことは遺憾だが、当時の法律に則った正当な行為であったとしてこれを拒否した。

その後、2012年に英国貴族院に正式な恩赦の法案が提出され、2013年12月24日にエリザベス2世女王の名をもって正式に恩赦[103]が発効した。キャメロン首相は、彼の業績をたたえる声明を発表した。

各大学における顕彰

マンチェスター大学のアラン・チューリング・ビルディング
生涯と業績に関する催しが英国論理学会議と英国数学史学会主催で2004年6月5日にマンチェスター大学で行われた。

エディンバラ大学情報学科には 'Turing Room' と呼ばれる部屋があり、エドゥアルド・パオロッツィ作の胸像がある。
サリー大学の主広場には銅像がある。
Istanbul Bilgi University では計算理論の会議が毎年開催されており、その期間を "Turing Days" と呼んでいる。
マンチェスター大学、オープン大学、オックスフォード・ブルックス大学、オーフス大学(デンマークオーフス)には、それぞれチューリングの名を冠した建物がある。
オレゴン大学計算機科学科の建物のそばにはチューリングの胸像がある。
スイス連邦工科大学ローザンヌ校にはチューリングの名を冠した道路と広場(Chemin de Alan Turing と Place de Alan Turing)がある。
生誕100周年
詳細は「en: Alan Turing Year」を参照

デ・ラ・サール大学(マニラ)において開催されたAlan Turing Yearカンファレンスの壇上に立つデイヴィッド・チャーマーズ(2012年3月27日)
生誕100年を記念して、Turing Centenary Advisory Committee (TCAC) は2012年を Alan Turing Yearとし、一年を通して世界各地でチューリングの生涯およびその功績を称えるイベントを行った。TCACには、マンチェスター大学、ケンブリッジ大学、ブレッチリー・パークなどの関係者が協力しており、数学者のS・バリー・クーパー(英語版)が議長を務め、甥のジョン・ダーモット・チューリングが名誉会長を務めている。

2012年6月23日には、Google Doodle(Googleトップページのロゴ)がチューリングマシンを模したデザインに変更された。アルゴリズムを設定するミニゲームが遊べるようになっていた。

ブレッチリー・パーク・トラストは、Winning Moves社と共同で、モノポリーのアラン・チューリング版を発表した。このモノポリーのマスとカードは、メイダヴェールにある出生の地からブレッチリー・パークのHut 8に勤務するまでのアラン・チューリングの生涯をたどるような内容に改訂されている[109]。また、このゲームには、チューリングを指導していたマックス・ニューマンの息子であるウィリアム・ニューマンが手書きで作成したモノポリーの原型のレプリカも同梱されている。この原型となったゲームを、1950年代にチューリングもプレイしていた。

フィリピンでは、デ・ラ・サール大学の哲学科が、2012年3月27日から28日にかけて、チューリングの生誕100周年を記念し、哲学、人工知能および認知科学に関する国際会議であるTuring 2012を開催した。インドでは、マドゥライにおいて、6,000人の学生が出席する記念式典が行われた。

英国での記念イベント
ACMが6月にマンチェスターにおいて3日間のカンファレンスと、サンフランシスコにおいて2日間のカンファレンスをそれぞれ開催した。またケンブリッジでは、キングス・カレッジおよびケンブリッジ大学においてそれぞれチューリングの誕生日パーティとチューリング生誕100周年記念カンファレンスが開催された。ケンブリッジ大学でのものは、Computability in Europeにより開催された。

ロンドンのサイエンス・ミュージアムは、2012年6月から2013年7月にかけて、チューリングの生涯とその功績に特化した無料の展示を行った。2012年2月には、ロイヤルメールが「Britons of Distinction」シリーズの一環として、チューリングの切手を発行した。2012年ロンドンオリンピックの聖火リレーは、チューリングの100回目の誕生日である2012年6月23日に、サックヴィル・ガーデンズにあるチューリングの像の前で引き継がれた。

2012年6月22日、マンチェスター市議会は、Lesbian and Gay Foundationと共同で、Alan Turing Memorial Awardを創設し、マンチェスターにおいてホモフォビアに立ち向かうことに顕著な貢献のあった個人・団体を表彰することとした。

オックスフォード大学では、チューリングの生誕100周年を記念して、コンピュータサイエンスと哲学の新しい科目が開設された。

これ以前にも、2004年6月5日にマンチェスター大学において、British Logic ColloquiumおよびBritish Society for the History of Mathematicsの主催で行われた、チューリングの生涯とその功績を称えるイベントを含め、さまざまなイベントが行われている。
(資料ウイキペディア)










カジノで106億円熔かして服役、大王製紙前会長のオーナー経営者論
井川意高・大王製紙前会長
外国人投資家が日本のオーナー企業に熱視線を送っている。『週刊ダイヤモンド』4月14日号の第1特集「オーナー社長 最強烈伝」では、トップが指導力を発揮しやすいオーナー企業を完全解剖した。
一方で、オーナーは強い権限を持つが故に不正に走ることもある。カジノにのめり込み、ファミリー企業から総額106億円を借りて有罪判決を受けた大王製紙前会長の井川意高氏に転落の背景を語ってもらった。(聞き手/「週刊ダイヤモンド」編集部・千本木啓文、同編集部委嘱記者・村井令二)

いずれカジノで勝って
返せると考えていた
──カジノの資金をファミリー企業から借りるほどギャンブルにはまってしまったのはなぜですか。
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 ギャンブルが好きだったからです。学生時代から友人とマージャンしたり、パチンコをやったりしていましたから、嫌いじゃなかったんです。

──オーナー社長としてのプレッシャーもあったのでしょうか。

 私がそういうタイプに見えますか(笑)。会社法違反(特別背任)の容疑で東京地検特捜部に逮捕され、東京拘置所に入ったとき、担当の弁護士に「『(拘置所の生活が)面白い』と言っている人間は初めて見た」と驚かれたくらい、神経は太い方なんです。

──著書『熔ける』によれば、「過半の株式を持っている会社から、一時的にカネを融通したって問題はなかろう」と考えていたようですが、なぜこうした認識に至ったのでしょう。

 良くないとは思っていました。でもカジノに返すお金が手元になかった。外部と金の貸し借りでトラブルになるわけにはいかないということで一線を越えてしまいました。

 しかし、これはギャンブルで借金をつくった人間の心理なのですが、いずれカジノで勝って返せると考えていました。

オーナーの会社私物化と
サラリーマン社長の不正、どっちが悪いか
──事件発生後、オーナー社長への風当たりの強さは感じましたか。

 それは日本特有の嫉妬でしょう。

「あの人は苦労人だから性格が良い」と言われる人もいれば、「苦労しているから性格が悪い人」もいる。育ちのいいお嬢様だから使用人に優しく接する人もいれば、その逆もあります。結局、オーナーの性格次第なのです。

 トップに居座って業績低迷を招いているサラリーマン社長だって少なくない。オーナーが会社を私物化するのと、株を持っていない人が私物化するのとではどっちが悪いのでしょう。

──確かに、東芝、日産など、サラリーマン社長の会社でも不正は起こっていますね。

 そうですし、株主を無視したことをしているサラリーマン社長が多い。

 そもそも、オーナー企業から始まっていない会社はどれくらいあるのでしょうか。オーナーが悪いというなら起業は無理です。

 共産主義じゃないので自分の子や親戚に株式を譲るのは悪いことではありません。二代目、三代目で私みたいなのが悪いことをしてしまったら批判されて当然ですが、オーナー企業そのものが悪いというのは日本社会の悪い癖だと思います。

──三代目の井川さんは子供のころから家業を継ぐことを意識されていたそうですね。就職してから、オーナー企業の強みをいかすためにどんなことを心掛けましたか。

 自分にもプライドがあったので他の社員連中には仕事では負けないぞという気持ちでした。誰よりいい知恵を出して誰より成果を出そうと思っていたし、実際にそうだったつもりです。

 オーナー企業の強みにリーダーシップを発揮しやすいというのがありますが、一例としてティッシュやオムツといった家庭紙部門トップ時代に行った改革があります。

 部門トップに就いた当時、家庭紙は売上高500億円で100億円近い赤字があった。これを立て直そうと一所懸命やりました。失敗したら業界から「やっぱりボンボンだったな」と言われてしまいますしね。

 しかし、就任後、百何十億の赤字を出してしまった。当時は本社の廊下の端っこを歩いていました。でも、3年目でやっと分かってきたんです。

 当時、大王製紙は良いものを安く大量に作ればいいという発想でした。それが製紙業界の体質だったし、大王製紙の中興の祖と呼ばれた父の高雄ですらそうだった。

 家庭紙を立て直すには、なぜフェラーリは日本の高級車の3倍で売れるのかを、私だけでなく社員が理解しなければならないと考えました。儲からないのを他部署のせいにする体質も改める必要がありました。

 凝り固まった社員の意識を変えるために2年間、毎週土日に泊まり込みの研修をやってマーケティングやマネジメントを叩き込みました。社員はローテーションだったから数ヵ月に一度でしたが、私は毎週土日休みなくこれを続けた。

 研修ではなぜ上手くいかないのかを社員に発表させ、机を叩きながら“吊し上げ”ました。いまだったらブラックと言われそうなやり方です。

ファミリーの株式評価額が上昇
服役後、仕事もせずやっていける理由
──それはオーナーだからできたと。

 当時の役職は専務取締役家庭紙事業部長ですが、30歳そこそこの若造でした。サラリーマンだったらできっこないです。

 私が家庭紙を離れるとき、当初500億円だった売上は倍増。経常利益で80億円を計上し、赤字を解消しました。5年間で利益を160億円ほど引き上げたわけです。

 今だから話しますが、事件後の対応でもオーナーとサラリーマン社長(である大王製紙現社長の佐光正義氏)の責任感の違いは大きかった。

 私の借金を返すためにどう資金を捻出しようかとなったとき、ファミリーが持っていた大王製紙関連の株式を売ることになりました。

 実は、その売値が佐光氏のおかげで2.5倍以上の440億円になったのです。

 当初はファミリーが大王製紙の経営者として残っていたので非上場株は純資産価額方式で評価する必要があった。しかし、問題を起こした私が顧問から外されただけでなく、父や弟も大王製紙から排除されたので、ファミリーの株式売却は当事者間の取引から第三者との取引になり、税務上の制約が外れて評価額が跳ね上がったのです。

 おかげで服役後、こうして仕事もせずやっていける。皮肉なものです。

 一方で、この440億円のディールは社員や株主のためになったのでしょうか。ファミリーを排除して佐光氏は権力を安泰にした。しかし、そのために大王製紙に約300億円(純資産価額方式による評価額と実際の売値の差額)を余計に使わせているのです。

 これはサラリーマン社長の悪いところと言えます。会社のリスクは自分のリスクじゃないわけです。

──オーナー社長としての幅を広げるためにどんなことをしていましたか。オーナー社長同士の付き合いも多かったようですが。

 父に連れられて大学生のころから銀座で飲んでいました。名だたるオーナー社長に可愛がってもらいましたよ。まさに銀座は夜の社交界でした。

 価値観や話題が合うので、やはり創業家出身の社長に親近感を持ちます。正直、相手がサラリーマン社長なら「ああサラリーマンか」と思っていました。オーナーと同じような遊び方もできませんしね。上場会社の社長より、むしろ地方のオーナー社長の方が使える額が多いようです。

オーナー社長が陥りやすい罠
人事に偏りが出る傾向も

──オーナー社長が陥りやすい罠とは何でしょうか。

 まずは、私のように会社を私物化してしまうことですね。

 それと人事に偏りが出る傾向がある。父を見ていて反面教師にしていたのは、そこまで悪くないと私からは見える人でも、すぱっと切ってしまうことです。

 こいつはできると思って引き上げるのですが、少しでも駄目なところがあったら左遷してしまう。

 例えば本社の財務部長をいきなりゴルフ場の支配人にしたことがありました。それなら最初から登用するなよと。社員にも家族があるんですから。

 父は好き嫌いで人事はしませんでしたが、ちょっとしたことで上げたり、落としたりとエレベータみたいな人事をしていました。

──井川家とそれ以外の間の不公平感はどうでしたか。

 それはないです。最終的に大王製紙本体に残っていたのは父と叔父、私、弟の4人だけでしたから。

 逆に言うと、4人だけだったから、佐光氏に足元をすくわれてしまった。父は絶対権力者でしたが、役員会を掌握しなければ力を発揮できないことを分かっていませんでした。父が会長を退任した後も影響力を持てたのは私と弟が役員だったからです。

──非創業家の経営者との対立も、オーナーが直面しやすいリスクです。

 佐光氏の判断次第では、そもそも私の借金は事件にならずに済んでいたことを指摘しておきます。

 私の借金は有価証券報告書にも記載されていて、決して隠していたわけではありません。契約では2011年9月末に返すことになっていた。

 ただ、返済のための現金がなかったので関係会社の株式で代物弁済しようとしていました。債権者である関係会社7社の取締役会で、それを認める決議をする予定だったのです。

 ところが、7社は「現金で返してくれ」と言って代物弁済を拒否した。それは、本社の指示に基づくものだったと関係会社の一部幹部が裁判で証言しています。

 本社を仕切っていた佐光氏は、(井川家が保有する)大王製紙関連の株式をのどから手が出るほど欲しかったはずです。最終的に440億円で全部引き取ったわけですから。

 佐光氏が代物弁済を認めていれば、借金を返せていた。返済されていれば事件にする必要はないと、東京地検特捜部の検事も言っていました。

──時が経つにつれて大王製紙に関係する親族が増えたことも問題でしたか。

 だと思いますね。父の兄弟は、自分が経営する関連会社と大王製紙の役員を兼ねていて、今なら利益相反で問題になるような状況でした。

 大王製紙の副社長をやりながら、大王製紙の営業部長を呼び付けて、自分が経営する関連会社の代理店にもっと安く卸せと言っているんだからひどい話です。

 父がおじたちを大王製紙本体から追い出したのは大王製紙だけの利益を考えて経営する体制をつくるためでした。おじたちとは、それで仲が悪くなってしまったわけですが。

「大王」という名は
「王子」を超えるという意志
──カジノ問題で大王製紙株式が売却されることになったのは業界再編のきっかけに成り得ましたが、結果的には各社とも展望を描きにくい状況のまま停滞しているようです。

 正直、私と弟は事件が起きる前から大王製紙からいつエグジットするかを考えていました。

 先を見通したらそうなりますよ。斜陽産業で国際競争力もなくなり、しかも当時業界3位の会社です。素材産業で生き残るのは業界2位まででしょう。エグジットしたほうが、社員も株主もハッピーだろうと考えていました。

 実は、私の借金返済に当たって、国内最大手の王子製紙に井川家の大王製紙関連株を譲渡して、合併してもいいと思っていました。

「大王」という名は、「王子」を超えるという意志を表しています。でも、これは明治の人の青雲の志というやつで、いまはそんな時代じゃない。

 私は王子製紙の篠田和久さん(当時社長、15年に死去)は大好きだった。レストランなどに招待し合う仲でした。

 事件になった後、一審が終わる前に借金を返せば量刑も違うので、まずインドネシアの製紙会社APPグループとファミリーの持ち分の売却交渉をした。しかし、折り合えなかったので篠田さんのところへ行きました。王子製紙なら大王製紙の社員に冷や飯を食わせることはないと思っていたのです。

 私も父も経営者としては王子製紙に強い敵対心を燃やしていた。けれど、バカ息子が問題を起こして、大王製紙の社員、株主、業界でのポジションを真剣に考えて、王子製紙と統合するのがいいと12年の年頭に断腸の思いで決断したのです。

 でも篠田さんからは「株式を引き受けるのはやぶさかじゃないが、敵対的な取引は避けたい。大王製紙の役員の了解がないと難しい」と言われてしまった。

 篠田さんは北越製紙(現北越紀州製紙)の敵対的TOB(株式公開買い付け)で失敗した経験があるのでトラウマがあったのだと思います。

 そのうちに情報が漏れたのでしょう。佐光氏が王子製紙による株式取得に強く反対したそうです。王子製紙と統合すれば佐光氏は自分の居場所がなくなるからでしょう。

 サラリーマン社長は最終的に自分の保身を考えがちです。

 オーナーはかまどの下の灰まで自分のものという意識があって、ぎりぎりまで自分の会社を存続させようとしますが、いざ決断を迫られたら、会社のためになる道を選ぶものです。資産があるので自分が辞めても生計は立ちますから。

 ところが、俊高をはじめとした私のおじたちは王子製紙との統合に反対する佐光氏に同調しました。おじたちは大王製紙の関連会社の仕事で所得を得ています。王子製紙と統合すれば不利益を被ると思ったのでしょう。かつて大王製紙本体の経営から兄弟を排除した父への複雑な思いもあったと思います。

──王子製紙との交渉が成立せず、結局、北越紀州製紙に株式が渡りました。しかし、大王製紙の現経営陣は北越紀州製紙と対立しています。

 北越紀州製紙社長の岸本晢夫氏は国内首位の王子製紙、2位の日本製紙に対抗できる第三極の形成を提唱していました。

 私としては、本当は王子製紙との統合が望ましかったのですが、プランBとして「第三極論」を選択したわけです。

 佐光氏が北越紀州製紙ともめているのは、叔父の俊高が他のおじたちを焚き付けて、「アンチ高雄」でまとめているからです(俊高氏本人は大王製紙への自身の影響力を否定している)。

 父は3%超の大王製紙株式を持っています。(大王製紙との統合を目指す)北越紀州製紙が保有する株式を合わせた持ち株比率は25%超ですが、それで大王製紙と北越紀州製紙を統合させようとしても足りませんよね……。

私は創業者タイプじゃない
今後は社会貢献を手伝いたい
──エグジットしたかったのなら、大王製紙会長時代に井川さんが道筋をつけていれば混乱を避けられたのではないですか。

 それはタイミング的に無理でした。父は大王製紙が順調で、自分の目が黒いうちは独立独歩でやってほしいと思っていた。

 自分を正当化するわけじゃないですが、従来の枠組みから脱するのは難しいものです。会長時代に私が「王子製紙といっしょになる」と言ったら、大半の人間が拒否反応を示したでしょう。

──刑期はいつ満了でしたか。

 昨年10月でした。

──今後、新たなビジネスを始めようという気持ちはありますか。

 私は大王製紙に入って仕事が楽しかったことは一度もないんです。「俺は何でこんなことしているんだろう」と砂を噛むような思いでやっていた。

 工場は24時間365日動いていて、マシンが少し止まっただけで大きな損失を出す装置産業です。派手さは一切ない。私のやりたい仕事ではありませんでした。

 いまはファミリーに残った外食の企業を見ています。これは私がやりたかったBtoCの仕事ですから楽しいのですが、命を懸けてやろうとは思っていません。

 かといって新しい事業を立ち上げようという気持ちもない。私自身、創業者タイプじゃないことは分かっています。あるものを改善することはできるけど、全く新規のことはできない。

 図らずもこういうことになったので、社会貢献を手伝いたいと思っています。初めての著書の印税は全て障害児専門の保育園とDVを受けた女性や子供の避難所に寄付しました。

「私もお金を出すけれど、皆さんも出してください」と慈善事業のためなら頭を下げにどこへでも行きます。私の人脈や知識を活用してもらえればいいなと思っています。

カジノに預けてるのを
取り返さないといけない
──カジノからは足を洗うのですか。

 カジノはね、預けてるのを取り返さないといけないですね(笑)。

 1月に知人を連れて行って来ました。わいわいやりながら海外のカジノを体験するツアーのようなものです。

 私は持っていったお金をスってしまった。また預けちゃった(笑)。

──今後、本気で勝負しに行くこともあると。

 将来的にはあるのではないでしょうか。

 でも、持って行ったお金をすったら終わりです。昔のように負けたときにカジノがお金を貸してくれませんから。パチンコや競馬やるのといっしょですよ。カジノで地獄を見るのは、負けたときに現地でお金を借りるからなのです。

 カジノを含む統合型リゾート施設(IR)実施法案の議論が進んでいますが、官僚も議員もカジノで遊んだことのない人が議論しているのは問題です。

 カジノ狂いになった人間からすれば、数千円の入場料はどうかと思います。カジノに足を踏み入れた時点で入場料分の負けが発生しているわけですから、それを取り返そうと熱くなってしまう。

 時間制限を設ける案も、「終了間際に最後の大博打だ!」などと言って勝負してしまうかもしれない。むしろ犠牲者を増やすのではないでしょうか。

 回数を規制するのはぎりぎり効果があるかもしれませんが、入場料と時間規制はあさっての方向だと言わざるを得ません。

 ちなみに、日本にカジノができても私は行きません。日本ではディーラーも日本人だから。客のことが分かってしまうじゃないですか。日本人のハイローラー(大金を賭ける大口顧客)は国内のカジノを避けると見ています。

井川意高いがわ・もとたか/1964年、京都府生まれ。東大法卒、87年に大王製紙入社。同社会長当時に、カジノの資金を子会社から借りていた事実が発覚。会社法違反(特別背任)の容疑で東京地検特捜部に逮捕される。13年に懲役4年の実刑判決を受け服役。17年10月に刑期満了。近著に堀江貴文氏との共著、『東大から刑務所へ』(幻冬舎)がある  

(記事引用)

■【引喩失義】いんゆしつぎ
【喩(ユ)を引きて義を失す】と訓読みされまして、自分に都合のよい譬(たと)え話を持ち出して、正しいことを言わない、しないことを表した四字熟語です。
【引喩】は、喩えを引くことです。
【失義】は、道理を踏み外すことです。

諸葛孔明(ショカツコウメイ)が、魏(ギ)の国へ遠征をする際(A.D.227年)に、主君の劉禅(リュウゼン: 劉備の息子)に奉(たてまつ)った上奏文(出師表:スイシのヒョウ)に【引喩失義】がでています。

  臣亮言。
  臣・亮(リョウ)言わく
     家臣である、亮が申し上げます。

  先帝創業未半、而中道崩殂。
  先帝、業を創(はじ)めて未だ半ばならずして、中道にして崩殂す
  
  先帝は、国を作り始められて、その事業の半分も行えないままに途中でお隠れになり

  今天下三分、益州疲敝、此誠危急存亡之秋也。
  今 天下は三分され、益州(エキシュウ)は疲弊し、此れ誠の危急存亡の秋(とき)なり。
     今 天下は三つに分かれ、この益州(えきしゅう)は疲れ果ててしまい、
     これは誠にに危急存亡の時なのであります。

  然侍衛之臣、不懈于內、忠志之士、忘身于外者、
  然るに侍衛(ジエイ)の臣は内に懈(おこた)らず、忠志(ちゅうし)の士は身を外に忘るるは、
     しかるに陛下(劉禅)の護衛をしている兵士たちが怠ることなく、
忠実なる役人たちが、外部の務めをこなしているのは、

  蓋追先帝之殊遇、欲報之于陛下也。
  蓋し先帝の殊遇(シュグウ)を追うて、之を陛下に報いんと欲すればなり。
     つまりは先帝に特別の礼でもてなされたことを思い慕って、その御恩を陛下に報いようと
     思っているからであります。

  不宜妄自菲薄、引喻失義、以塞忠諫之路也。
  妄りに菲薄(ヒハク)に自(よ)りて、喩えを引きて義を失うて、以て忠諫(チュウカン)の路(みち)を
  塞(ふさ)ぐべからざるなり。
     みだりに、家臣たちへの遠慮により、また自分に都合のよい譬(たと)え話を持ち出して、
     正しいことを言わないことにより、家臣たちが真心を持って陛下を諫める道をふさがない
     ようにしていただきたいのです。

八重樫一 監修福島テレビ

※井川意高氏の引喩失義とは
こういうタイプの列伝は世に多いが、これも例外ではない。創業者企業の後継相続問題に話しは尽きないが、夫婦喧嘩同様、そんなもの見たくも訊きたくもない、というのが本音だ。リアル実話として、私の経験談話の若いころ使えていた創業会社が50年の時を経て消滅した。もう一つの勤めていた他の老舗フランス菓子会社も同じく倒産直前で更生法によって生き返ったという話しをテレビでみた。それは実質的に創業者一掃による建て直しであり消滅と同じだ。

と云うようにほとんどのケースが創業跡目が存続しないという事例が物語る。
この井川意高氏の場合も、同様に会社から完全に離縁された。会社の規模からして組織は存続するだろうが、そのポストの去就ということなのだろう。

「引喩失義」だから本人の思い違いから、そのポストを捨てた、と解釈してもいいし、「私がそういうタイプに見えますか」、の一言がそれに尽きる。

誰だって第三者的外見判断と、自分の性格のギャップはあるだろうし、ましてや世襲環境で育てられ「大人虚の世界」を知っている人間は社会に多くはいない。
誰もが羨望の眼差しで見る中、本人は「冗談じゃないさ」と内心おもっているに違いない。

同一線上の親の七光りで、黒澤久雄、寺尾聡らが思い浮かんだが、父親に対する異常な反抗抵抗心と、完全に打ちのめされたコンプレックスは常に付き纏う。そのほとんどが、そこから抜け出せないで終わってしまう。
だからそれを世間では「いいとこのボンボン」で何をやっても許される単なる「バカ」としかみない。
だから会社を私物化してカジノ大賭博でスッテンテンになっても、命はあった。普通ここまでだと命はない。

履歴の「東大法卒」も、そうした アバンギャルドになるための必須条件なのだろう。
今世間で話題の森友騒動に狩り出された永田町高級官僚と紙一重のタイトロープだが、いずれに転んでも左右は断崖絶壁千尋の谷。

せっかくだからドキュメントでも上梓したらどうか、と思うくらい話題満載だ。この本が売れないCDも売れない時代の世相に乾坤一擲の一撃を食らわすだけのポテンシャルはたっぷり持ってる。ただ、そうしたタイプはシャイな性格で、人の云われたことは絶対しないという節操のないのが致命傷的キズだ。

世のためと思えば、それくらいはできるはずだ、もしこれを読んでいたとしたら。

アヴァンギャルド「
井川意高」氏 様

 当ブログ責任者 豊田七生~









北朝鮮ハッカー部隊、狙うはビットコイン-制裁強化に備え動き活発に
中村友治、Sam Kim
2017年9月12日 5:00 JST bloomberg
 北朝鮮は制裁が強化された場合に備え、ビットコインなど仮想通貨をため込もうと活発に動いている様子だ。
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 米サイバーセキュリティー会社ファイア・アイの新たな報告書によると、北朝鮮のハッカーらは韓国内の仮想通貨取引所や関連サイトへのサイバー攻撃を増やしている。ビットコイン関連ニュースを扱う英語サイトをハッキングしたほか、身代金要求型ウイルス(ランサムウエア)「ワナクライ」で全世界からビットコインを巻き上げたという。
  
  北朝鮮の最高指導者、金正恩氏は仮想通貨に対して明らかに高い関心を持っている。国家の統制を受けず、秘密が守られるという仮想通貨の特徴は、資金調達やマネーロンダリング(資金洗浄)の手段として有用だ。制裁強化と仮想通貨の利用拡大が見込まれることを考慮すると、北朝鮮の仮想通貨志向は強まる一方だと専門家らは語る。

  この報告書をまとめたファイア・アイのリサーチャー、ルーク・マクナマラ氏は「制裁を大きなばねに、この種の活動が加速しているのは間違いないとみている」と指摘。北朝鮮は仮想通貨を「外貨を稼ぐ極めて低コストのソリューション」だと考えているのだろうと分析した。

  ファイア・アイが確認したところでは、韓国では今年に入り少なくとも3つの仮想通貨取引所が攻撃され、うち5月の攻撃では実害が出た。同社は北朝鮮の関与を示す明らかな示唆はないとしているものの、現地メディアの報道によると、ソウルを拠点とする仮想通貨取引所「ヤピゾン」が盗難により3800BTC(現在のレートで約16億円相当)を失った。
  
  北朝鮮の外国メディア担当窓口はコメントの要請に応じなかった。同国外務省や国営メディアはこれまで、2014年のソニー・ピクチャーズエンタテインメントに対するハッキングを含めいかなるサイバー攻撃にも同国は関与していないと主張している。

  北朝鮮のハッカー部隊は軍事的な情報活動から金銭の窃取へと焦点を拡大させていると、韓国当局はみている。オーストラリア戦略政策研究所の国際サイバー政策センターが2016年にまとめた報告書によると、北朝鮮で情報活動から通信網の混乱まで平時のサイバー業務を担う偵察総局は金正恩氏が直接統括し、約6000人の職員を擁する。
(記事引用)

世界中から仮想通貨を奪う北朝鮮ハッカー部隊は1700人規模
2018年3月4日 2時0分 Smart FLASH 
平昌オリンピックも無事終了した。引き続き、パラリンピックが開催されるが、問題は3月18日にパラリンピックが閉幕した後である。

 なぜなら、オリンピックの開会式に出向いたペンス副大統領や閉会式に参列したイバンカの韓国での言動を見る限り、非核化に向けた北朝鮮との対話は期待できそうにないからだ。

 特に、ペンス副大統領の発言は北朝鮮への敵意をむき出しにしたものだった。曰く「金与正はゴミの怪物だ。10万人もの政治犯をゴミ扱いし、極悪な環境に置いている。平和の祭典の最もそぐわない」。

 イバンカも父親であるトランプ大統領の意向を受け、「北朝鮮への最大限の圧力を強める」と強調。ホワイトハウスは「北朝鮮と公海上で物資の密輸に携わっている」として30社近くの中国の船会社や船舶を名指しで制裁の対象に指定。

 中国政府は猛反発しているが、このトランプ発言は明らかに北朝鮮への攻撃を前提にしたものだ。

 要は、中国に仲介役を期待したが、「堪忍袋の緒が切れた」というわけだ。

 このままでは、北朝鮮がアメリカ全土を射程に収めるICBMを完成させてしまう。その前に、北朝鮮の脅威を取り除くのが「アメリカ・ファースト」を掲げて当選した自分の責任だと考えているに違いない。

 実は、これまで国際社会による経済制裁が科せられていながら、金正恩体制は巧妙に潜り抜けてきた。それどころか、サイバー攻撃を専門とする「586部隊」を編成し、2016年2月、バングラデッシュ中央銀行から9億5100万ドル強奪したのを皮切りに、ベトナム、エクアドル、フィリピンなど途上国の銀行を次々に狙っては資金を奪ってきている。

 その手法は、さままざま組織や一般企業のサイトを「踏み台」にしていくもの。確認されただけでも、ポーランド政府のサイトを始め、メキシコ、ブラジル、中国、米国など31カ国104機関が経由されている。すでに「WannaCry 」と称されるウィルスを、150カ国30万台のコンピュータに侵入させたともいわれている。

 2017年からはビットコインなど仮想通貨に狙いを定めたといわれ、最近大きなニュースとなった日本のコインチェックのNEMもターゲットにされていた。

 アメリカ財務省の調査では、この「586部隊」所属のハッカーは1700人で、支援部隊も5000人という規模を誇る。それだけではない。彼らは、国際的な犯罪組織と連携しつつ、武器、麻薬、偽札の売買でも大儲けを繰り返している。アメリカにも「アイス」と呼ばれる合成麻酔薬が密輸されている有様だ。

 もはや対話では決着のつけようがない。トランプ大統領は金正恩の斬首作戦にゴーサインを出したと思われる。開戦の火ぶたが切って落とされるのは、そう遠いことではあるまい。(国際政治経済学者・浜田和幸)

(記事引用)

第 5回 アイスの恐怖 覚醒剤・エクスタシーMDMA(06年11月)
NPO法人GINA エイズ自助グループ・エイズ孤児支援
オーストラリアはアジアの一員である、と言えば(狭い意味の)アジア人にもオーストラリア人にも抵抗を示す人は少なくないでしょう。しかし、オーストラリアは確実にアジアの一員である、と言える領域があります。

 それは、違法薬物の世界です。オーストラリアを含むアジア諸国(もちろん日本も含みます)で最も流通量が多い薬物が、大麻を除けば、覚醒剤とエクスタシー(MDMA)です。

 一方、欧米諸国では、大麻以外には、エクスタシーの存在は無視できませんが、コカインやLSDが多いのが特徴です。覚醒剤の流通量はそれほど多くないと言われています。突然死に至ることも多いコカインとヘロインの合剤である通称「スピードボール」は欧米諸国で問題になっていますが、アジア諸国ではまだそれほど流通量が多くないと言われています。(最近の東京ではアメリカ大陸からの直輸入で若者に浸透しだしているという噂もありますが・・・)

 覚醒剤はアンフェタミンとメタンフェタミンのことを指し、以前の日本では「シャブ」と呼ばれていましたが、最近ではイメージアップを図ってなのか、「スピード」「エス」などと呼ばれることが増えてきました。粉末や錠剤の他に、透明な結晶をしたものがあり、これは純度が高くアルミ箔に乗せて下から火であぶり気化させたものを吸入する摂取法がよくとられます。(この方法を「アブリ」と言います) 

 この結晶は、かたちが氷に似ていることと覚醒剤がキマれば身体が冷たくなっていく感覚があることから、ジャンキーたちには「アイス」と呼ばれています。

 9月27日のNEWS.COM.AUが、アイスがオーストラリアの若い世代に浸透してきていることを報道しています。エクスタシー(MDMA)に代わって、アイスがパーティ・ドラッグの主役になりつつあるそうです。

 国民薬物アルコール研究センター(National Drug and Alcohol Research Centre)は、オーストラリアの若者の間で、仲間と一緒にアイスを吸入する(アブる)のが流行しており、薬物シンジケートも最近は若者をターゲットにしていることを報告しました。

 また、オーストラリア違法薬物委員会(ANCD、Australian National Council on Drugs)は、シンジケートが取り扱う違法薬物をヘロインからアイスに変えてきていると発表しました。

 「我々は薬物シンジケートのマーケティング能力を過小評価している。彼らはアジア全域の若者をターゲットにしている」と、ANCDの幹部はコメントしています。

 シンジケートはアジアの工場で大量に違法薬物を製造しているようです。最近、オーストラリア連邦警察(AFP)も加わっておこなわれた国際調査で、マレーシアのある場所でシャンプーを製造しているかにみせかけた工場で、一日に60キロものアイスが製造されていることが発覚しました。60キロのアイスは、末端価格にして270万オーストラリアドル(約2億4千万円)に相当するそうです。逮捕されたのは21人で、彼らはごく簡単に入手できる化学物質を原料にこの覚醒剤を製造していたそうです。また覚醒剤以外にも8万錠のエクスタシーも押収されたようです。

 オーストラリア連邦警察のある幹部は言います。

 「これは我々が知る限り世界最大の薬物工場である。今回押収したものはアジア太平洋全地域に流通する可能性のあるもので、オーストラリアも例外ではない。そして、最近では押収量が最も多いのがアイスである」

 国民薬物アルコール研究センターの調査では、16歳から25歳の若者でアイスの吸入が流行していることが分かりました。

 ある研究者は、「若者の多くは、エクスタシーやマリファナを経験し、やがてアイスに手を出し始める」、とコメントしています。

 9月27日のNEWS.COM.AUは別の記事で違法薬物に関する二つのレポートについて報告しています。

 ANCDによる調査で、アジア太平洋諸国13カ国で最も問題になっている薬物は、覚醒剤とエクスタシー(MDMA)であることが分かりました。

 ANCDの代表者John Herron医師は、「我々は違法薬物がアジア太平洋地域の安定性を脅かしオーストラリアにも大きな影響を与える可能性を過小評価すべきでない。覚醒剤はすでにアジア太平洋諸国の若者の文化に溶け込んでいる」、とコメントしています。

 ANCDは自国以外の状況についてもレポートしています。

 「インドネシアが麻薬も含めた違法薬物の消費地のみならず中継地となっている。インドネシアのHIV陽性者の80%が違法薬物の静脈注射をする者で、タイでは毎年25,000人が新たな違法薬物のユーザーとなっている。アイスは現在のフィリピンの最もメジャーな違法薬物である」

 もうひとつのレポートは、UNODC(国連薬物犯罪オフィス)によるものです。UNODCは覚醒剤(アイスを含む)がオーストラリアの路上で出回っていることを警告しています。

 UNODCによりますと、オーストラリアでおこなわれた1999年から2000年、2004年から2005年のふたつの調査を比べると、薬物中毒が原因で入院となる者が56%も増加しています。薬物中毒者は攻撃的になり暴力をふるい救急医療の対象になることもあります。

 覚醒剤に依存している人は世界で2,500万人にものぼり、そのうち6割以上は東南アジアと東アジアに住む人たちです。

 覚醒剤の前駆体物質は容易に入手でき、精製はそれほどむつかしくありません。そして、国際間に流通させているのは若い世代であることをUNODCは指摘しています。

 これらの記事には日本に関する記載がありませんが、日本はいまや世界有数のドラッグ天国です。そして、この記事にあるように、日本でも最も流通している違法薬物は覚醒剤とエクスタシー(MDMA)です。最近は覚醒剤の北朝鮮ルートが次第に減少してきており、数年前に比べると仕入れはやや困難になってきているという情報もありますが、アイスの入手しやすさは世界一と言う人は少なくありません。そのため日本人の元ジャンキーのなかには、怖くて日本に帰れないという人もいる程です。

 アジア太平洋地域の先進国であるオーストラリアが国際捜査に加わりマレーシアの工場を摘発しているわけですから、日本もアジア全域に対する薬物撲滅政策を展開すべきではないでしょうか。それが、国内外に住む日本人を救うことになりますし、それ以前に、アジアのなかで日本が担うべき役割と責任は小さくないのですから。
(記事引用)





アメリカ シンクタンクの一覧
■セルゲイ・ミハイロヴィッチ・ブリン
ローレンス・エドワード・ラリー・ペイジ
イーロン・マスク
ビル・ゲイツ

ニコラ・テスラ

セルゲイ・ミハイロヴィッチ・ブリン(1973年8月21日 - )
Googleの共同創業者。
ソビエト連邦モスクワに住む東欧系ユダヤ人の家庭に生まれる[1]。ロシア語名はセルゲイ・ミハイロヴィッチ・ブリン(ロシア語: Сергей Михайлович Брин)。父ミハイルはソ連のゴスプラン経済研究所で働く数学者でその後米国に渡りメリーランド大学の数学教授、母エヴゲーニャはアメリカ航空宇宙局の研究員。1979年、6歳の頃に家族でアメリカ合衆国へ移住し、ロシア語と英語のバイリンガルになった。
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幼少時からコンピュータに興味を持ち始め、1990年にメリーランド大学に入学し計算機科学と数学を専攻。1993年に理学士号を取得した。卒業後、米国科学財団から特待生として認められ、スタンフォード大学にて計算機科学の修士課程に進む。スタンフォード大学ではインターネットに関心を持つようになり、検索エンジンや構造化されていないソースからの情報抽出法、莫大なテキストデータや科学データのデータマイニング手法などを研究し、学会誌にも多数の論文を発表した。1995年に計算機科学の修士号を取得。また、2003年にはスペインのIE ビジネススクールから名誉MBAを授与された。

ラリー・ペイジとはスタンフォード大学在学中に知り合った。初めは仲が良くなかったものの[7]、やがて「膨大なデータの集合から関連した情報を検索するシステムを作る」という共通する関心があることに気づき、The Anatomy of a Large-Scale Hypertextual Web Search Engine(大規模なハイパーテキスト的な Web 検索エンジンに関する解剖)と題された検索エンジンに関する論文をペイジとの共著で執筆した。スタンフォード大学の博士課程を休学し、1998年に Google 社を共同設立。この論文は後に Google の PageRank 技術に取り入れられることになった。

国際会議やビジネス・テクノロジーフォーラムにも度々招聘され、世界経済フォーラムにて講演を行った実績もある。CNBCやCNNのテレビ番組にも出演し、技術産業や検索技術の将来について意見を述べた。

2008年6月11日、スペース・アドベンチャーズ社と契約し、宇宙旅行に行くことを発表した。実施時期は未定。
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ローレンス・エドワード・“ラリー”・ペイジ( 1973年3月26日 - )は、Googleの共同創業者、前最高経営責任者(CEO)。
現在は持株会社であるアルファベット社CEO。ファミリーネームについてはページとの表記もある。
アメリカ合衆国ミシガン州ランシングに生まれる。祖父はゼネラルモーターズの工場労働者、父カール・ビクターはミシガン州立大学(Michigan State University)計算機科学・人工知能教授、母グロリアはユダヤ人で、彼女もミシガン州立大学でコンピュータプログラミングの教師をしている。兄のカール・ビクター・ペイジ・ジュニアは、メーリングリストサービスeGroupsの設立者で、後にYahoo!へ売却して財をなした。

6歳の頃からコンピュータを触り始める。ミシガン大学で計算機工学を専攻し、1995年に学士(計算機工学)号を取得した。卒業後、スタンフォード大学計算機科学の博士課程に進学し、テリー・ウィノグラードの指導の下、ウェブのリンク構造、人間とコンピュータの相互作用、検索エンジン、情報アクセスインタフェースの拡張性、個人的なデータのデータマイニング手法などを研究した。

在学中、同じくスタンフォード大学計算機科学の博士課程に在籍していたセルゲイ・ブリンと出会い、The Anatomy of a Large-Scale Hypertextual Web Search Engine(大規模なハイパーテキスト的なウェブ検索エンジンに関する解剖)と題された論文を共著で執筆した。修士号を取得した後スタンフォード大学を休学し、1998年にGoogle社を共同設立。論文はページランク技術(ペイジは、彼の姓に由来)に取り入れられることになった。従業員200人程度の規模になった2001年4月頃まで共同社長兼最高経営責任者を務め、同年7月に最高経営責任者職をエリック・シュミットに譲った。シュミット、ブリン、ペイジによる三頭体制で製品部門担当の社長を務めていたが、2011年4月4日付で最高経営責任者に復帰した。2015年10月2日、グーグルの組織再編に伴い新たに設立された持株会社・アルファベット社の最高経営責任者に就任した。グーグルCEOはサンダー・ピチャイが後任となった。
ミシガン大学工学部の国家諮問委員も務めている。2002年、世界経済フォーラムにてGlobal Leader for Tomorrow(未来のグローバルリーダー)に指名される。2003年には、スペインのIE ビジネススクールから名誉MBAを授与された[4]。2004年には全米技術アカデミーの会員に選出され、2005年からはエックスプライズ財団の理事も務めている。
2015年9月の時点で333億ドル(約4兆円)の純資産を有する。
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ニコラ・テスラ( セルビア語: Никола Тесла, セルビア語ラテン翻字: Nikola Tesla, 1856年7月10日 - 1943年1月7日)、19世紀中期から20世紀中期の電気技師、発明家である。
交流電気方式、無線操縦、蛍光灯、空中放電実験で有名なテスラコイルなど多数の発明や、「世界システム」なる全地球的送電システムなど壮大な提唱もあり、磁束密度の単位「テスラ」にその名を残している。

8つの言語に堪能で、詩作、音楽、哲学にも精通し、電流戦争ではトーマス・エジソンのライバルだった。

1856年7月9日深夜、オーストリア帝国(現在のクロアチア西部)リカ=コルバヴァ県ゴスピッチ近郊の村スミリャン(英語版) で生まれる。父母ともにセルビア人で父はセルビア正教会司祭に奉じ、兄弟は兄のデンと姉2人と妹1人がいた。兄を失った5歳の頃から頻繁に幻覚を見たとされ、「テスラ以上の神童」と呼ばれた兄を上回るため勉学に励んで特に数学で突出した才能を発揮したとされる。

1880年、グラーツ工科大学在学中に交流発電機と交流モーターの原理を考案する。1881年、同校を中退してブダペスト国営電信局に就職する。23歳でプラハ大学を卒業後にエジソン社フランス法人に勤めたとされている。

1882年、誘導モーターの開発に成功する。

1884年、渡米してエジソンのエジソン電灯会社に採用される。当時直流による電力事業を展開する社内で交流による電力事業を提案し、エジソンと対立して1年ほどで失職する。

1887年4月、独立したテスラは Tesla Electric Light Company(テスラ電灯社)を設立し、独自に交流による電力事業を推進して同年10月に交流電源の特許を受諾される。

1888年5月16日、アメリカ電子工学学会でデモンストレーションを行い、感銘したジョージ・ウェスティングハウスから研究費100万米ドルと特許使用料を提供される。テスラの特許を使用した交流発電機は、ウェスティングハウス・エレクトリック社ベンジャミン・G・ランム(英語版)の設計で、ナイアガラの滝エドワード・ディーン・アダムズ発電所(英語版)に三相交流25サイクルのものが設置され、同年に循環磁界を発見して超高周波発生器を開発するが、ウェスティングハウス社技術陣の中で孤立して1年で離れる。

1891年、100万ボルトまで出力可能な高圧変圧器を発明する。

1893年、無線トランスミッターを発明する。シカゴ万博会場内の電気供給に、電気館の電源システムをウェスティングハウス社が構築して交流の優位性を示した。これは、20台の単相500馬力発電機を2群にわけ、それぞれ回転子を90度ずらして二相交流12000馬力発電機として構成し、蒸気機関により駆動して発電した電力を変圧器で昇圧して送電後、再度変圧器で降圧して16燭光の電灯を1000個点灯するとともに誘導電動機を回したもので、ほかに回転変流機を設置して直流電源電車を走行させた。

1898年、点火プラグの米国特許を取得し、無線操縦特許を取得してニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンで無線操縦の船舶模型を実演した。

1901年、J・P・モルガンの援助により、ロングアイランドのショアハムに高さ57メートルの無線送信塔「ウォーデンクリフ・タワー」を建設開始し、1905年に完成するもモルガンとの関係悪化により資金繰りが悪化し研究を中断する[要出典]。アメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦すると、タワーは標的になるとして1917年に撤去された。

1915年、エジソンとともにノーベル物理学賞受賞候補となったという噂が流れるが共に受賞しなかった。1930年代にも受賞候補に選ばれるが受賞しなかった。

1916年、米国電気工学協会エジソン勲章の授与対象になり一度は辞退するが(後述)再考後1917年にこれを受ける。晩年は精神障害に悩まされた。

1943年1月7日、マンハッタンのニューヨーカー・ホテルで死去する。享年86歳であった。数トンの重量に及ぶとされる彼の発明品や設計図は「アメリカ軍とFBIが没収した」「ユーゴスラビアを通じてソ連の手にも渡った」と街談巷説されたが、実際はFBIの押収後に複製されて母国に返還された。原版はベオグラードのニコラ・テスラ博物館に保管され、2003年にユネスコ記憶遺産に登録された。

エジソンとの確執
詳細は「ジョージ・ウェスティングハウス」および「電流戦争」を参照
テスラがエジソン電灯に入社した当時のトーマス・エジソンは研究者と発明家としてすでに実績があり、エジソンへの憧憬や敬意から就職したとも考えられ、給与未払いなどの話題もあるが、両者の確執は「直流と交流との確執」に起因している。

エジソンは、エジソン好みの直流用に設計された工場システムをテスラの交流電源で稼働させたら、褒賞として5万ドル払うと提案した。直流の優位性や安全性に加えて交流の難しさなどを考慮した発言だったが、テスラはこれを成功させた。交流を認めたくないエジソンは褒賞を「冗談」で済ませたため、テスラは激怒して後に退社する。

後年にテスラら交流陣営とエジソンの直流陣営が紛争し、エジソンは交流の危険性を広めるためのキャンペーンとして有名な電気椅子処刑を発案するなどしたが、現在は全世界で交流送電が採用されている。

以下はエジソンとの確執をあらわすエピソードである。

1917年、生活に貧するテスラへ米国電気工学協会からエジソン勲章授与が知らされるが、「私に名誉の勲章をくださるということですが、それを上着につけてあなた方協会員の前で得意げに見せびらかせばよいということですか。あなた方は私の体を飾り立てるばかりで功績を認められそこなった私の頭とその画期的な発明には何も与えてくださらない。今日、あなた方の協会があるのは、おおかた私の頭とその産物が下地を与えたからだというのに」[要出典]と、エジソンの名が冠されたこの賞を断った。
エジソンの死後、ニューヨークタイムズのインタビューで否定的にコメントしている。
私は少し理論を利用するか計算するだけで90%削減できたであろう労力を彼が費すのを残念に思いながらほとんど見ているだけだった。彼は本での学習や数学的な知識を軽視し、自身の発明家としての直感や実践的なアメリカ人的感覚のみを信じていた。
I was almost a sorry witness of his doings, knowing that just a little theory and calculation would have saved him 90 percent of the labor. But he had a veritable contempt for book learning and mathematical knowledge, trusting himself entirely to his inventor's instinct and practical American sense.

テスラ、エジソンとの確執
「ジョージ・ウェスティングハウス」および「電流戦争」
トーマス・エジソンは研究者と発明家としてすでに実績があり、エジソンへの憧憬や敬意から就職したとも考えられ、給与未払いなどの話題もあるが、両者の確執は「直流と交流との確執」に起因している。

エジソンは、エジソン好みの直流用に設計された工場システムをテスラの交流電源で稼働させたら、褒賞として5万ドル払うと提案した。直流の優位性や安全性に加えて交流の難しさなどを考慮した発言だったが、テスラはこれを成功させた。交流を認めたくないエジソンは褒賞を「冗談」で済ませたため、テスラは激怒して後に退社する。

「ワイヤレス充電」実現へ前進――MITが実験に成功 
マサチューセッツ工科大学(MIT)は2009年6月7日、PCなどへの「ワイヤレス充電」の実現へ向けた実験的なデモに成功した と発表した。 デモでは、電源から7フィート(2メートル強)離れた60ワット電球にワイヤレスで送電、点灯することに成功したという。

ニコラ・テスラ(1856年7月10日 - 1943年1月7日)
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これは、ニコラ・テスラが発見した、(現在は、ELF(極超長波)による「シューマン共鳴」として知られている)現象を用いた、地球を媒介とする送電システム「世界システム」の縮小現代版であった。

ニコラ・テスラ( セルビア語: Никола Тесла, セルビア語ラテン翻字: Nikola Tesla, 1856年7月10日 - 1943年1月7日)は、19世紀中期から20世紀中期の電気技師、発明家である。交流電気方式、無線操縦、蛍光灯、空中放電実験で有名なテスラコイルなど多数の発明や、「世界システム」なる全地球的送電システムなど壮大な提唱もあり、磁束密度の単位「テスラ」にその名を残している。

8つの言語に堪能で、詩作、音楽、哲学にも精通し、電流戦争ではトーマス・エジソンのライバルだった。

1856年7月9日深夜、オーストリア帝国(現在のクロアチア西部)リカ=コルバヴァ県ゴスピッチ近郊の村スミリャン(英語版) で生まれる。父母ともにセルビア人で父はセルビア正教会司祭に奉じ、兄弟は兄のデンと姉2人と妹1人がいた。兄を失った5歳の頃から頻繁に幻覚を見たとされ、「テスラ以上の神童」と呼ばれた兄を上回るため勉学に励んで特に数学で突出した才能を発揮したとされる。

1880年、グラーツ工科大学在学中に交流発電機と交流モーターの原理を考案する。1881年、同校を中退してブダペスト国営電信局に就職する。23歳でプラハ大学を卒業後にエジソン社フランス法人に勤めたとされている。

1882年、誘導モーターの開発に成功する。

1884年、渡米してエジソンのエジソン電灯会社に採用される。当時直流による電力事業を展開する社内で交流による電力事業を提案し、エジソンと対立して1年ほどで失職する。

1887年4月、独立したテスラは Tesla Electric Light Company(テスラ電灯社)を設立し、独自に交流による電力事業を推進して同年10月に交流電源の特許を受諾される。

1888年5月16日、アメリカ電子工学学会でデモンストレーションを行い、感銘したジョージ・ウェスティングハウスから研究費100万米ドルと特許使用料を提供される。テスラの特許を使用した交流発電機は、ウェスティングハウス・エレクトリック社ベンジャミン・G・ランム(英語版)の設計で、ナイアガラの滝エドワード・ディーン・アダムズ発電所(英語版)に三相交流25サイクルのものが設置され、同年に循環磁界を発見して超高周波発生器を開発するが、ウェスティングハウス社技術陣の中で孤立して1年で離れる。

1891年、100万ボルトまで出力可能な高圧変圧器を発明する。

1893年、無線トランスミッターを発明する。シカゴ万博会場内の電気供給に、電気館の電源システムをウェスティングハウス社が構築して交流の優位性を示した。これは、20台の単相500馬力発電機を2群にわけ、それぞれ回転子を90度ずらして二相交流12000馬力発電機として構成し、蒸気機関により駆動して発電した電力を変圧器で昇圧して送電後、再度変圧器で降圧して16燭光の電灯を1000個点灯するとともに誘導電動機を回したもので、ほかに回転変流機を設置して直流電源電車を走行させた。

1898年、点火プラグの米国特許を取得し、無線操縦特許を取得してニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンで無線操縦の船舶模型を実演した。

1901年、J・P・モルガンの援助により、ロングアイランドのショアハムに高さ57メートルの無線送信塔「ウォーデンクリフ・タワー」を建設開始し[2]、1905年に完成するもモルガンとの関係悪化により資金繰りが悪化し研究を中断する[要出典]。アメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦すると、タワーは標的になるとして1917年に撤去された。

1915年、エジソンとともにノーベル物理学賞受賞候補となったという噂が流れるが共に受賞しなかった。1930年代にも受賞候補に選ばれるが受賞しなかった。

1916年、米国電気工学協会エジソン勲章の授与対象になり一度は辞退するが(後述)再考後1917年にこれを受ける。晩年は精神障害に悩まされた。

1943年1月7日、マンハッタンのニューヨーカー・ホテルで死去する。享年86歳であった。数トンの重量に及ぶとされる彼の発明品や設計図は「アメリカ軍とFBIが没収した」「ユーゴスラビアを通じてソ連の手にも渡った」と街談巷説されたが、実際はFBIの押収後に複製されて母国に返還された。原版はベオグラードのニコラ・テスラ博物館に保管され、2003年にユネスコ記憶遺産に登録された。

(資料ウイキペディア)






大杉漣 訃報 2018/2/21
名バイプレイヤー・大杉漣さんが急性心不全で死去した。
しらべい21日午前3時53分、『バイプレイヤーズ~もしも名脇役がテレ東朝ドラで無人島生活したら~』(以下、『バイプレイヤーズ』)の第3話放送直前に流れた悲報に、多くのファンがその早すぎる死を悼んだ。今回の放送分が撮影された時には、もちろん大杉は元気だった。こんなことが起きるなんて、本人はもちろん、誰も予想できなかったはずなのに、数々のセリフがシンクロしていた。

【関連記事】
5人に1人”突然死”のリスク…「隠れ心不全」見抜くサイン
投稿日: 2017年09月13日 16:00 JST 女性自身
「うちの家系は心臓が強いから大丈夫!、なんて根拠のないことを言う人に限って、心不全によって突然死するケースは多いのです」
そう話すのは、『心臓を使わない健康法』(マガジンハウス)などの著書をもち、血管の名医として知られる池谷敏郎先生。
いま「隠れ心不全」が急増していることに警鐘を鳴らす。心不全とは、心臓が血液を送り出したり収縮したりする“ポンプ”の働きが低下して、全身の臓器に必要な血液量を送ることができなくなった状態のこと。

今月、佐賀大学医学部循環器内科が心不全に関する研究結果を発表した。30〜60代の20%が軽度の心不全か、その予備軍、つまり隠れ心不全だったという。2140人を対象に、心不全を判断する指標になるホルモン「NT-proBNP」の血中量を調べた結果、心不全が疑われるホルモン量が検出された人が多く見つかった。“高齢者に多い”と思われていた心不全が、若い世代にも一定のリスクがあることがわかった。隠れ心不全については、池谷先生も注目しているというのだ。

「近年、糖尿病やその予備軍である隠れ高血糖の患者さんが増えています。糖尿病と心不全は関連性が強く、血糖値の約2カ月間の平均値を表すヘモグロビンA1Cが1%増えると、心不全のリスクが15%増加するといわれています。太り気味、メタボの人は血糖値が高い場合が多いので、要注意です」

急死の原因になる、心筋梗塞や虚血性心疾患、心筋症など急性心不全がある一方で、症状が“じわじわ”と現れる慢性的な心不全も多い。その場合、日常生活では症状がはっきりと現れないので、「太ったから」「年のせい」と見過ごされがちなのだとか。

「日本人の死亡の原因は、がんに次ぐ2位が心疾患です。心臓というのは、少々無理をしてでも頑張り続ける臓器なので、意外と気がつかない。隠れ心不全を放置すると、突然死につながります。スポーツをしたり体を動かしつづけてきた元気な人でも、ある日ポックリということは、ありえないことではないのです」

早期発見するのが何より大事。そこで、池谷先生が教えてくれた“隠れ心不全”リストを今すぐチェック!

□夜間のトイレが増えた

□ベッドに入るとせきが出る

□全身にむくみがある

□みんなと歩いていると自分だけ遅れる

□坂を上がると苦しい

□息切れしやすい

□倦怠感がある

□手足の先が冷たい

□胸が苦しい、痛いときがある

□冷や汗が出る

これらのチェックリストに1つでも思い当たることがあれば黄色信号! 
2つ以上なら“隠れ心不全”の可能性大! とくに池谷先生が初めに指摘したように、肥満やメタボと、心不全を起こしやすい人に当てはまるならなおのこと。ただし、貧血やぜんそく、腎機能が低下しているときや甲状腺系の病気、そしてたばこを吸う人なら、肺の炎症COPD(慢性閉塞性肺疾患)などが似た症状なので、混同されることも。気になるようなら迷わず検診を受けてみて。

「心不全は死亡の原因になるだけでなく、生活の質がぐっと下がってしまいます。階段を上がるのも買い物に行くのも大変。味が濃いものが食べられない、寝つきが悪くなるなど、さびしい生活になりがちなんです。そのためにも、隠れ心不全を放置しないことが大切です」

チェックリストで当てはまるものがなくても、心臓に負担をかけない体づくりが大事だと池谷先生。

「まず塩分と糖分の取りすぎに注意してください。心臓や血液など体のあちこちに負担をかけます。太りすぎにも要注意。栄養バランスを考えた適量の食事が基本です」

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Voicy ボイシー

どんな人にVoicyで喋ってもらいたいですか 
緒方:プロアマ問いません。音声メディアの世界にはボトルネックが3つあると思っています。 

「 音質に文句を言ってくるのはプロだけ」スマートスピーカー時代のボイスメディア"Voicy"の挑戦
BLOGOS編集部2018年02月20日 07:00

渋谷駅前の、とあるビルの一室。注目の音声配信アプリ『Voicy』CEOの緒方憲太郎氏にお話を伺いにやってきました。オフィスには金のバルーンアートで「VOICY」と掲げられています。 

そんな和やかな室内の雰囲気とは真逆に、緊張の面持ちのBLOGOS田野編集長(以下タノヘン)。実は今回の直撃取材の前に、タノヘンは自らのブログでVoicyに噛み付いていたのです。 

「まず音が悪い。このアプリを作ったやつラジオ舐めてるな」 

ラジオディレクターの顔ももつ田野編集長。ラジオ局のADとして社会人のスタートを切ったのですが、ADって厳しいんですよ。人の名前を間違ったくらいで腹を切れくらいの勢いで怒られます。家に帰る時間もないほど働いて、ノイズを削り、音を美しく編集してリスナーに届ける。時に殺伐とした収録であっても編集マジックで楽しげなトーク番組に変えてしまう、そういう技術を20代の楽しい盛りと引き換えに身につけました。 

そこまでの我慢が出来た者のみ、パッケージをオンエアすることができる。 

それを信じて仕事をし、ラジオや音にまつわる業界の斜陽化に心を痛めてきたタノヘン、気づけば老害全開で「聞きやすい放送というものは~」とブログで説教を垂れていました。 

そのアップから数日でVoicyのCEO緒方氏とのアポイントがとれ、タノヘン一座は渋谷のVoicy本社へお招き頂いた次第です。 

にこやかにスリッパを勧めてくださる緒方社長。一同、穏やかに着席して、対談がスタートしました。【取材・文 蓬莱藤乃】

音質に文句を言ってくるのは"プロ"だけ

BLOGOS編集部
緒方:今回、実は田野さんに会えるのも楽しみにしていました。「Voicyはラジオを舐めてる」って書かれていたので、これは面白いなと思っていたんです。 

僕自身、ベンチャー支援をしていたときに何百社も会社を見てきて、何かが盛り上がった時には、「そういうものはおかしい」というメディアが出てくることは必ずあるので、それは全然構わないと思っています。 

田野:Voicyで一番気になったのは音質です。収録時にスマホのマイクから口元が遠いからノイズ多いし声小さいし、圧縮率も高くて音が悪い。聞いていて「しんどいな」と正直思いました。 

喋り手に対してはすごく親切な設計になっていて、スマホ一台でマイクもいらず、収録した音声にBGMを後から自動で乗せて、ラジオごっこが誰でも簡単にできるというアイディアはすごいと思います。 

緒方:音質の話でいうと僕らはやりたいことの5%もまだできていないんです。Voicyはまだβ版なので、それでもプロの方に刺さるんだって逆にびっくりしています。たった4人の会社で、できる範囲のことをやって、一番ニーズがあるところで回している、という事業です。 

今は「誰と誰の番組はいいクオリティだ」という評価で構わないと考えています。例えるならば僕たちはテレビであって、音のクオリティは各放送局ごと、パーソナリティが自由にやればいいと思うんです。      

田野:家電の「テレビ」自体ってことですね、「テレビ局」ではなく。 

緒方:僕らはテレビ網、つまりVoicy網をやっているんです。あと、田野さんと実感値が大きく違うところがあります。このサービスをリリースしてから叩かれまくってきましたけど、これはいけたなと思ったのは逆に「音質」だったんです。 

田野:スマホ1台でここまでいけるか、みたいなことでしょうか? 

緒方:そうです。プロ以外で音質に文句を言ってきた人は、まだひとりもいないんです。 

田野:アハハハハハハ。 

緒方:Twitterを見ていると、「音質が良くていいね」っていう人の方が多いくらいなんです。 

田野:えー!?(驚) 

緒方:動画アプリとかで、みんなすごくうるさいところで撮ったものを見ているので、そういう人たちには「Voicyはちゃんと聞こえる、すげー」ってリアクションになるんです。 

僕らはラジオの人たちがやってきた仕事とは別のものをゼロから作っているわけで。だから音のプロたちがVoicyを「違う!」と怒っても、そもそも別なんだから「知らんがなー」と。 

実際にVoicyのお客さんにヒアリングしてみると、ほとんどの人から聞きやすいねと言われます。プロと一般の人たちとの間にはものすごい乖離があったわけです。ということは音声産業は1回リセットだなと、産業の発展に音のプロたちが足枷になっているなと気づいてしまいました。 

田野:ハハハハハ。 

緒方:僕はラジオも好きなんですよ。父がアナウンサーで、MBSヤングタウンの初代パーソナリティをやっていました。YouTuberみたいに、Voicyからテレビやラジオに出演したりする人が出てくるのをすごく楽しみにしているんです。 

またラジオ局とも積極的に連携したいと思っていて、文化放送さんにも参入していただいています。 

音質に関しては、ユーザーの耳も肥えてきて、Voicyのパーソナリティの中から、何人かが自分で音質を向上させてくる時がいずれ来ると思うんです。みんなの中で音質というものが評価の対象になってきた時に、システムをアップデートしていけばいいのかなと、今は考えています。 

「古い人ほど偉い文化」の世界は滅びる

画像 日本書紀写本
Nihonshoki_tanaka_versionBLOGOS編集部
田野:緒方さんが「音声コンテンツ」に未来を見ているところに強い興味を持ちました。ここ10年、ラジオの人と話していても明るい話を聞いたことがなかったので。 

緒方:僕もラジオの人から明るい未来の話は聞いたことないです。 

僕はビジネスモデルデザイナーとしていろんな事業を作っていくことを仕事としてきました。その中で見ている限り、衰退する産業にはルールが何個かあるんです。 

その中の一つがクラシックミュージックやラジオ、歌舞伎などで言えることで、「古い人ほど偉い」という文化になっていること。その人たちに気に入られるために作られて、評価者が上の人になっていることが、一番問題になっているのではないかと考えています。ライトなユーザーからの声を反映できない場所や若手にチャンスがない産業は時代の変化への対応力が低いです。 

ラジオってもったいないと思うんです。これだけ斜陽だと言われながらも聞く人はまだまだいて、広告費が1200億円もあって、もう少しできることがあるのではないかと。 

ラジオ業界はファンビジネスの流れが分析できていない
ラジオが圧倒的に遅れているのは、ファンビジネスの流れの分析ができていないことだと思います。 

ファンビジネスには3階層あって、1層目はおもしろい、または便利だから聞こうと思うステージ、2層目が毎回聞こうと習慣化するステージ、3層目がファン化するステージ。 

朝の帯番組をずっとやっていたら、リスナーがパーソナリティのことを好きになってお中元やお歳暮が送られてきたりする、というのは習慣化からファンのところまでジワジワしみ込んでいった人たちですよね。 

でも今のコンテンツのほとんどが、「面白い」「便利」というところだけで作り込もうとされています。それをまた聴きたい、もっと聴きたいから、それのある生活ってイケてる〜っていうところまで持っていかなきゃいけないのに、そこまで出来ていないんじゃないだろうかと。 

ラジオには20年以上続く番組があったり、ラジオ通販は現物を見ていないのに売れたり、返品率が低かったりしている中で、確実に刺さる要素はどこかにあるはずです。 
「声のブログ」は人となりを表現できる

BLOGOS編集部
田野:緒方さんが音声、特に「声」に注目したのはなぜでしょう? 

緒方:音声には画像を超える可能性があるのではないかと感じています。声の素晴らしさには要素が4つあると思うんです。 

1つ目はコミュニケーション、2つ目に情報伝達、3つ目が表現、そして4つ目が本人性、その人が出しているからこそという点。そのうちコミュニケーションと情報伝達、正確に伝えたいことは機械ができて無料になります。 

でも表現やその人だからこそという要素に関しては、人の生あたたかい声の方が、他者の心にも届いて、より価値があるのではないかと。 

僕らVoicyは「人」を届けているメディアなんです。その人の頭の中だったり、その人自体だったり、その人の生活だったり。それを届けるために声を使っている。生々しくその人の体から出てきたものに情報を載せる「声のブログ」として、文字情報よりも濃く、その人となりを表現できるんです。 

Voicyは会社全体の事業の2割
田野:Voicyのマネタイズプランはどうなっているのでしょうか。 

緒方:僕らが作っているVoicyという音声メディアの世界は、会社全体の事業の2割。メインの事業はもっと大きくて、五感のひとつ、耳に関わることは全部取っていくという方針です。 

せっかく全力で起業したので、世界を代表するプラットフォームを日本発で作りたいと考えています。 

ちょうど2年前に起業するタイミングで、生活の様々なものの中に全部インターネットが組み込まれるIoTの時代が来ることがわかっていました。 

全てにネットがつながると、それらはメディア化するんです。そこにスピーカーひとつ積めば、扉や机、あらゆるものから音声情報が出てくる。 

これからの世界は音声が中心となるはずです。そのメディアプラットフォームを全部手掛けようというのが僕らの事業。 

つまり、僕らはすべてのものに対して声という水を通す土管屋さんなんです。 

なので、Voicyのサーバーに音をあげたら、パソコンでもスマホでもスマートスピーカーでもIoTでも音響施設でも、どこからでも好きな時に取り出せて、何時にどこで誰が何を聞いているのか全部分かる。 

とすると、この人の朝のコンテンツはこれ、車に乗ったらこれ、電車に乗るとこれ、ご飯を食べている時にはこれ、という風に、生活の中にずっとメディアが流れている世界を、ストレスがない環境まで作り込んでしまおうと考えています。 

メディアは可処分時間の取り合いをしています。それは能動的な可処分時間。目で見る、何かをする能動的な時間のことです。 

その一方で受動的な可処分時間もあります。何かをしながら、何も意識しない時に得られる時間。そういう時間に合わせてその人にぴったりのものを提供するということが可能ではないかと。 

音声の世界がもう一度盛り上がるためには、発信の自由化・民衆化、そして受信する場所の多様化、最後はその人にぴったりなパーソナライズレコメンデーション。この3つが充実できた時に音声マーケットは全部ひっくり返りますね。 

企業の音声コンテンツをAIスピーカーへ
田野:音声メディアはAIスピーカーの登場で再び注目されていますが、Voicyさんもいろいろとやられているんですよね。 

緒方:Googleのスマートスピーカーに野村證券さんのコンテンツを出しています。音声化から放送するまで、企業の音声参入というところでお金を頂いて。 

生活の中に自分たちの音声コンテンツを流すということに価値を感じていただける方の導入をサポートする、というのがまずはひとつです。これからの音声産業は間違いなくブルーオーシャンです。 

野村證券さんの公式チャンネルも、今のVoicyの音声クオリティで対応できているんです。だから音声屋さんたちがいうところのクオリティじゃないところにベンチマークを作れるかは逆に勝負でした。 

ここで音声屋の人たちがOKというレベルをクライアントからも求められていたら、僕らはこの事業を続けることができませんでしたね。 

田野:野村証券さんの番組は音が綺麗ですよね。 

緒方:あれもスマホで録っているんですよ。やろうと思ったらできるんです。AIスピーカーの音声広告も将来的にやっていきたいなと考えています。 

インターネット広告が1兆円から2兆円に到達しようとしているタイミングですが、僕たちなら音声広告のパーソナライズ化も可能です。今後は音声広告がポイントとなることも増えていって、ネット広告費の10〜20%くらいが音声広告になりうるんじゃないかなと期待しています。 

その時にどういう音声広告がぴったりなのかという情報を持っている人はまだいないんです。だから僕たちは、今マネタイズしなくてもいいから、誰にどういうものが求められるのかというビッグデータを分析したいので、バラエティに富んだコンテンツが欲しいし、Voicyにはいろんな人に参加してもらいたい。 
田野:どんな人にVoicyで喋ってもらいたいですか。 

緒方:プロアマ問いません。音声メディアの世界にはボトルネックが3つあると思っています。 

まず1つは発信が難しかったこと。日本にいる1億2〜3千万人、寿司屋の大将や漁師のお父さん、誰が喋っていてもいいじゃないですか。それをVoicyではスマートフォン1台で可能にした。 

2つ目は発信するコンテンツはスタジオから、しかるべき技術者によって作られたものしかダメだっていう文化が作り上げられてきたこと。これを変えなきゃいけないと思っていたんです。だから田野さんの「ラジオ舐めてる」発言なんて超嬉しくって。 

田野:なるほど(苦笑)。 

緒方:音質とか関係なく面白いものなら聞きたい、そういう世界を作り込む。内容にこだわらずに内容の装飾にこだわる人が意識を変えないと音の世界は残っていけないだろうなと。 

プロのカメラマンが撮った写真より、カメラアプリで加工した写真が多くの人に見られる時代じゃないですか。同じように音声アプリで発信することが大衆化していけばいいなと思っています。 

ボトルネックの3つ目はパッケージにする難しさ。 

たとえ話になりますが、なぜ歌が流行ったかというと、カラオケがあったことも一つの要因だと思うんです。自分で歌ってみるとプロの上手さに気づいて本物を聞きたくなる。 

音声もみんなが発信するようになると、話すことはこんなに難しいものなんだ、こんなに「間」って大事なんだ、様々なことに気づくと思うんです。 

Voicyは発信者がとっつきやすいアプリにしてあるので、自分を発信する入り口として「まぁやってみよか」という感じで始められるのが一番いいんだろうなと。誰でも簡単に発信できます。 

世の中に新しいワクワクするものを作りたいんですよね。それだけなんです。面白い話をする人が大好きなんですよ。最近は「可愛い」が全てみたいな世界になっているでしょ?「話が面白い」もめちゃくちゃ魅力的なはずなんです。 

今は面白い話をすぐ聞きたいときは『アメトーーク』や『すべらない話』を探すくらいしかないんですよ。僕らはここに来ると面白い話が山ほどあるって場所を作りたいんです。 

ユーザーからのツイートに感動

BLOGOS編集部
そうだ、最近こんな素敵なツイートをもらったんですよ。 
 
あっきー
@akki_web
なんだろこの新しいと言われてるけど新しいとは少し違うと感じるもやもや感。声はいわゆるオタクの世界の話だったがvoicyさんがお洒落にパッケージすることで、表立って声好きを公言できる場を作った。それが著名人パワーによりさらに加速している、そんなイメージでしょうか。すごいなぁ。 #voicy

15:50 - 2018年2月7日
18
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田野:声優ファンのことですかね? 

緒方:かもしれません。そういう風に感じてもらえるのも嬉しいし、あと、もう1個、これも感動しました。 
 
かつどん
@oomori_1chooooo
ブログやTwitterを追う通勤からVoicy通勤に変えたら車窓を見るようになった。富士山初めて見えた。

8:15 - 2018年2月5日
30
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田野:確かに通勤中は画面見てますからね。 

緒方:Voicyはラジオの人たちにも一緒にやりたいなと思ってもらいたいな。僕らはやりたいことの5%しかできてないのにすぐ粗探しするから~。 

田野:音質なんて、音声編集ソフトのプラグインであっという間に直せるんですよ。その一手間をかけないことにイライラしてしまう(笑)。 

緒方:今はYouTuberが活躍していて、演者側がディレクターを雇うというモデルに変わってきていています。どんどん演者が自分で考えて主導権を握ってきています。編集者は自分がパフォームして人から評価を受けていないわりに、ディレクションをするという旧来の形は今後変わってくると思うんです。そういう人の仕事がなくなるから反対し続けるんだろうなー。 

田野:うわ(苦笑) 

緒方:田野さんみたいな人がいるから、いけないんですよ(笑)。 

そんなタノヘンのモットーは『迷ったら面白い方を選ぶ』
緒方CEOの座右の銘は『人生、迷ったら面白い方を行く』
あらそっくり。 

面白いものが好きという同じ方向を向いている同士、いつか手に手をとって同じ道を歩く日がくるかもしれません。 

プロフィール
緒方憲太郎 大阪大学基礎工学部卒業。公認会計士。2006年に新日本監査法人に入社し、その後Ernst & Young NewYork、トーマツベンチャーサポートを経てVoicy代表取締役CEO。
・Voicy
・Twitter(@ogatakentaro)

田野幸伸 BLOGOS編集長。1977年東京生まれ。明治大学政治経済学部経済学科卒業。ラジオディレクター・ニコニコ動画運営などを経て2010年に株式会社livedoor入社。2016年10月より現職。
・田野幸伸の記事一覧
・Twitter(@tanocchi)
(記事引用)

ボイシーサイト https://voicy.jp/











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