Galapagos Japas

国際政治と日本の古代政治変遷歴史 明治維新など特に集中して書いている

天孫降臨「古事記 -712年:太安万侶 -」言霊
はるか昔のお話です。何もないおぼろげな宇宙に天と地の兆しが起こりました。

天の彼方にある清らかな場所、高天原に天之御中主神、高御産巣日神、国之常立

神、豊雲野神など多くの神がお生まれになり身を隠されました。

大国主命(オホクニヌシ)より譲り受けた豊葦原国を、天照大御神(アマテラス)はかねてからのお考えの通り、ご長男の天之忍穂耳命(アメノオシホミミ)に治めさせようとなさいましたが、当の天之忍穂耳命は自分よりも若く生命力に溢れた息子の番能邇邇芸命(ホノニニギ)を推薦なさいました。天照大御神はご自身にとって孫である邇邇芸命を下界に降ろすことにお決めになりました。
さて、その邇邇芸命が天下りなさろうとした時のことです。

天下りの道が八方に分かれる岐路に、上は天界の高天原を、下は豊葦原国を、燦々と照らす見知らぬ神がいらっしゃいました。
そこで天照大御神と高木神(高御産巣日神)は、以前天岩戸で舞をなさった女神の天宇受賣命(アマノウズメ)にこう命じられました。
「貴女はか弱い女性の身ですが、対峙する神と真っ向から向き合い、勝つことが出来る神です。貴女一人でその神の元へ行き、『天照大御神の御子孫が天下りする道を塞ぐ貴方は何者か』と問うて来てください」
命を受けた天宇受賣命が、その道の岐路に向かい、尋ねます。
「こちらの道は天照大御神の御子孫の邇邇芸命が天下りなさいます。その道の岐路にお立ちになられた貴方様はどこの神であらせられますか?」
すると、
「私は国の神で、猿田毗古神(サルタビコノカミ)と申します。こちらに居りますのは、天照大御神の御子孫が天下りなさると聞きましたので、道案内を務めさせて頂きたく、参りました」
かの神はこうお答えになりました。

この後、天児屋命(アメノコヤネ)、布刀玉命(フトダマ)、天宇受賣命、伊斯許理度売命(イシコリドメ)、玉祖命(タマノオヤ)、合わせて五つの技術の神を伴って、邇邇芸命の天孫降臨は行われました。
古事記より天孫降臨
その際に、あの天岩戸から天照大御神を招き出した八尺勾玉と八咫鏡、八俣の大蛇より現れた天叢雲剣の三種の神宝、さらに天岩戸の折に活躍された思兼神(オモカネカミ)、手力男神(タヂカラヲ)、天石門別神(アメノイワトワケ)の三神を副え、天照大御神は、
「この鏡は、私の霊魂そのものとし、私に仕えるが如く、心身共に清らかにして祀りなさい。そして、思兼神は政(まつりごと)の実務に務めなさい」
と命じられました。

こうして天照大御神と高木神の命により、天孫であらせられる邇邇芸命は、高天原の岩の神座から離れ、天空に重なる幾重もの雲を押し分けて、威風堂々と天下りの道をお進みになりました。高天原と豊葦原国を結ぶ天の浮橋で荘厳な儀式を行われ、筑紫の日向(宮崎県)の高千穂の霊峰にお降りになられたのでした。

その時、天忍日命(アメノオシヒ)、天津久米命(アマツクメ)の二神は、たくさんの矢を盛った聖なる大きな靫(ゆき。矢を携帯する用の筒状の容器)を背負い、柄頭が槌状の頭椎の太刀を腰に帯びて、櫨(はぜ)の木で出来た聖なる弓を手に、狩り矢を手挟んで、邇邇芸命の先導をなさいました。
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地上に降り立たれた邇邇芸命は、
「ここは唐国(朝鮮)に面し、笠沙の岬(鹿児島県)に真っ直ぐ通じていて、朝日が直に注がれ、夕日も照り輝く国だ。実によき地だ」
とお褒めになり、地の深い底に大きな宮柱を打ち立て、天高く千木をそびえさせ、豪壮な御殿をお造りになられました。

この天孫の邇邇芸命と知恵の神である思兼神は、伊勢神宮の内宮を祀っています。外宮には食物神の登由宇気神(トヨウケ)を祀り、櫛石窓神(クシイワマド)又は豊石窓神(トヨイワマド)とも別名を持つ天石門別神は御門の守護神となっています。力の神であります手力男神は佐那県(さなのあがた。三重県佐那郡)に鎮座されています。

因みに、邇邇芸命と共に天下りされた、天児屋命は朝廷の祭祀を担う中臣の連(むらじ)らの、布刀玉命は神事の道具を作る忌部の首(おびと)らの、天宇受賣命は神楽を奉仕する猿女の君らの、伊斯許理度売命は鏡を作る作鏡(かがみつくり)の連らの、玉祖命は玉類を作る玉の祖(おや)の連らの祖先でありました。
又、邇邇芸命の警備をなされた天忍日命は朝廷の軍事を司る大伴の連らの祖先、天津久米命は親衛隊を組織する久米の直(あたえ)らの祖先にあたります。

邇邇芸命は天宇受賣命にこう仰られました。
「貴女は、案内してくれた猿田毗古神の名前を明らかにしてくれました。貴女が猿田毗古神を送って行ってあげてください。そして、その名を貴女が譲り受けるといいでしょう」
このように神楽を奉仕する女性が『猿女の君』と呼ばれるのは、猿田毗古神の名から由来しているのでした。

猿田毘古神(サルタビコノカミ)の名を受け継いで猿女君(サルメノキミ)となられた天宇受賣命(アメノウズメ)には、このようなお話があります。

猿田毘古神が伊勢の阿耶訶(あざか)にいらっしゃって、漁りをなさった時のこと。
比良夫貝(ひらぶがい)が猿田毘古神の手を挟んで海の中へ引き入れ、猿田毘古神を溺れさせてしまったことがありました。
猿田毘古神が海底(うなそこ)に沈んでいった時の名を底どく御魂と言い、海水が逆巻き、水底から泡が立つ時の名をつぶ立つ御魂と言い、水面で泡が弾けた時の名を泡咲く御魂と言います。

天宇受賣命は猿田毘古神を送り届けて帰ってくると、直ちに鰭(ひれ)の広物、鰭の狭物を追い集めて、
「汝らは天つ神の御子にお仕えするか」
と、問い質しました。
魚達はみな口を揃え「お仕え致します」と答えましたが、海鼠(こ)だけは硬く口を閉ざしていました。

「この口や答へぬ口」
古事記より猿女

天宇受賣命は手早く紐飾りの付いた懐刀を抜き放ち、海鼠の口を抉り割いて仕舞われました。
海鼠の口が横に裂けているのには、このような謂れがあるのです。

そうして、御代ごとに島で採れた新鮮な速贄(はやにえ)を朝廷に献上する時には、猿女君等にも分け与えるようになったのでした。

※鰭の広物、鰭の狭物……大小様々な魚


名前 和術師担当
サイト運営・物語執筆好きな時代弥生時代 / 江戸時代(幕末長州藩士とか)好きな物語古事記「天の浮き橋」しっぺい太郎の猿神退治影響
ブルーノ・ムナーリ / 琵琶法師 / 吉田松陰URL
Twitter(@tonao)和術師日本の文化に心を打たれて言霊を制作。 和歌や短歌に興味津々!!職業は、DTPディレクター。WEBも少々出来ます。趣味は読書でアレックス・シアラーと司馬遼太郎を愛読。刺激を求めて神社仏閣にしばしば出向く
(記事引用)





古事記と日本書紀はどうして書かれたか
歴史 サイト~
 古事記と日本書紀。共に7世紀に天武天皇の命令によって編纂された書物であることは学校などで習っていますね。でも、なんでわざわざ2つに分ける必要があったのでしょうか?そもそも古事記と日本書紀に違いはあるのでしょうか?

画像 日本書紀
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 まず、古事記ですがこれは天皇家による支配を正当化するために国内向けに書かれています。ですから、日本人に読みやすいように漢文体を組み替えた「日本漢文体」というのが使われていますよ。そもそも、古事記以前にも歴史書として500年代に編纂された「帝記」といわれる天皇の系譜が書かれたものや「旧辞(きゅうじ)」という伝承を記した書物はあったのですが、修正に次ぐ修正で歴史書としての真実味は失われていっていました。その他の歴史書も焼けてなくなってしまったりしていましたから「正しい歴史書を後世に残さなければならない!」という理由で天武天皇は歴史書の編纂を命じたのです。

 ・・・というのは、表向きの理由。本当は、もっと天皇による支配に正当性を持たせよう。都合の悪いところは消してしまえっていうのが本来の目的!?だったのでは?と一般的にはいわれています。

 ですから、天皇の先祖はアマテラスという女神ということになっています。日本列島を生んだのはイザナキとイザナミという神。そのイザナキの左目から生まれたのがアマテラス。そして、その子孫が初代天皇の神武天皇ってことになっているんです。日本を造った神様の左目から生まれたアマテラスが天皇の先祖なのだから天皇による支配は当然ってことですね。
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 さて、この古事記は「帝記」「旧辞」らを参考にし天武天皇の命によって編纂され(この最初の編纂は誰だかわかっていません)稗田阿礼(ひえだのあれ)というとんでもなく記憶力のいい人物に暗記させました。この稗田阿礼という人物は男か女かもわかっていません。
 古事記の序文に「一人の舎人(とねり・役職)がおりました。その氏は稗田、名は阿礼。年は28歳。生まれつき聡明な人で、一度目に触れたものは即座に暗誦し一度聞いた話は心に留めて忘れることがありません。そこで天武天皇は阿礼に仰せ下されて、「帝皇の日継」と「先代の旧辞」を誦み習わせなさったのです。」と書かれているだけです。もしかしたら、稗田阿礼という人物は記憶力が抜群だったのですでに焼けてなくなってしまった書物なども頭に入っており、編纂に大きくかかわっていた可能性はありますね。

 その後、天武天皇が突然亡くなってしまったため、古事記の編纂は中断。およそ30年経った711年に元明天皇によって再開され、稗田阿礼に口述させた内容を太安万侶(おおのやすまろ)によって執記、編纂させたのでした。

 一方の日本書紀。こちらも天武天皇によって命じられ、川島皇子(かわしまのみこ)ら6名の皇族、6名の官人らによって681年から編纂がはじまります。古事記の編纂はすでに始まっていましたので稗田阿礼がまとめた資料をもとに編纂は進められたようです。

 古事記が全3巻であるのに対して日本書紀は30巻+系図1巻という多さ!古事記の完成が712年ですが、その頃、まだ日本書紀は完成していません。日本書紀の内容を見ると藤原氏の地位の高さが強調されている部分がありますので藤原氏をはじめとする有力者の意見などが、まぁ~うるさかったんでしょうね。完成したのは720年になります。

 天武天皇の子である舎人親王(とねりしんのう)によってまとめられ、やっと完成です。
 
  古事記 日本書紀 
発起人 天武天皇 天武天皇 
完成年 712年 720年 
巻数 全3巻 全30巻+系図1巻 
編纂者 稗田阿礼が語り、太安万侶が筆記、編纂 皇族、官人らが中心となって編纂。舎人親王により完成 
特徴 天皇家の歴史を中心として物語風に書かれている 年代を追って出来事を記す編年体 
収録時期 天地初発から推古天皇まで 天地開闢から持統天皇まで 
表記 日本漢文体 漢文体 
目的 天皇家を中心とする国家統一の正当性(国内向け) 国外に国家としての日本のアピール(国外向け) 

 以上のように書かれている内容は重複する部分があるものの古事記と日本書紀には結構な違いがあるわけですね。さらに古事記は物語風に書かれているためドラマチックに感じるところもあるのですが、日本書紀は結構淡々と語られるような感じで書かれています。

 大地が生まれ、神々が登場するくだりなどは古事記では、こと細かに書かれているのに対して日本書紀では、ダイジェスト版のような感じで駆け足紹介。また、内容としても三柱の神を古事記では性別のない独り神としているのですが、日本書紀では男神とされているなど、細かな点での相違はいくつかみられます。

 また、古事記の参考文献は「帝紀」と「旧辞」だけですが、日本書紀では豪族の墓記、政府の公的記録、個人の覚書、手記、百済の文献など多くの資料を参考として編纂されたようです。

 学校では、完成の年と編纂者、表記や目的くらいしか教わることはないと思いますが、実際に現代語訳されたものを読んでみると皆さんゲームや漫画でおなじみのイザナキ、イザナミ、アマテラス、スサノオ、ツクヨミ、クシダナ、ヤマタノオロチ、ヤマトタケルなどが登場し、物語としても面白いですよ。
(記事引用)

ウイキペディアによる「日本書紀」
『日本書紀』は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。

記紀編纂の要因
乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)で中大兄皇子(天智天皇)は蘇我入鹿を暗殺する。 これに憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。 この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上する。 『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ、「国記」は難を逃れ中大兄皇子(天智天皇)に献上されたとあるが、共に現存しない。 献上されたことが事実であったとしても、天智天皇は白村江の戦いにて唐と新羅連合に敗北しており、記紀編纂の余裕はなかったと推測される。
既に諸家の帝紀及本辭(旧辞)には虚実が加えられ始めていた。そのために『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に代わる『古事記』や『日本書紀』の編纂が、天智天皇の弟である天武天皇の命により行われる。
まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に、『古事記』が編纂された。その後に、焼けて欠けた歴史書や朝廷の書庫以外に存在した歴史書や伝聞を元に、さらに『日本書紀』が編纂された。

なお、近年になって笹川尚紀が持統天皇の実弟である建皇子に関する記事に関する矛盾から、『日本書紀』の編纂開始は持統天皇の崩御後であり、天武天皇が川島皇子に命じて編纂された史料は『日本書紀』の原史料の1つであったとする説を出している。
なお、『続日本紀』和銅2年(714年)2月戊戌条に記された詔によって紀清人と三宅藤麻呂が「国史」の撰に加わったとする記事が存在しているが、『続日本紀』文中に登場するもう一つの「国史」登場記事である延暦9年(790年)7月辛巳条に記された「国史」が『日本書紀』を指し、かつ『続日本紀』前半部分の編纂の中心人物であった菅野真道本人に関する内容であることから、菅野真道が「国史」=『日本書紀』という認識で『続日本紀』を編纂していたと捉え、紀・三宅の両名が舎人親王の下で『日本書紀』の編纂に参加したことを示す記事であると考えられている。

『日本書紀』とする説
この説を支持する根拠は、古写本と奈良時代・平安時代初期のように成立時期に近い時代の史料がみな『日本書紀』と記していることを重視する点である。例えば、『弘仁私記』序、『釈日本紀』引用の「延喜講記」などには『日本書紀』との記述がみられる。初出例は『令集解』所引の「古記」とされる。「古記」は天平10年(738年)の成立とされる。『書紀』が参考にした中国史書は、『漢書』・『後漢書』にて見られる体裁のように、全体を「書」としその一部に「紀」を持つ体裁をとる。そこで、この説の論者は、現存する『書紀』は中国の史書における体裁をあてはめると『日本書』の「紀」にあたるとして、『日本書紀』と名づけられたと推測する。
神田喜一郎は書名を本来『日本書』であったとする。『日本書』という題名の下に小字で「紀」としるし、これが『日本書』の「紀」であることを表示したが、伝写を経る間に『日本書紀』となってしまったとする。
なお、平安時代初期には『続日本紀』と対比させる意味で、『前日本紀』と称している事例もある(『日本後紀』延暦16年2月乙巳条所引同日付詔)
(ウイキペディア)


サウジアラビア国立博物館蔵 国内展示
移牧民や遊牧民が墓や祭祀施設に立てた『人形石柱』。こうした石柱・石板などはアラビア半島各地に残っている  前3500~前2500年頃 カルヤト・アルファーウ出土 サウジアラビア国立博物館蔵

初来日! イスラーム発祥の地「サウジアラビア」の絢爛たる「至宝」
執筆者:フォーサイト編集部 2018年2月13日
アラビア半島は、古代から重要な交易路が張り巡らされ、諸文明が繁栄してきた。このアラビア半島の大部分を占めるサウジアラビア王国は、アラビア語で「サウード(家)によるアラブ(の王国)」という意味を持つ専制君主国。マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)というイスラーム教の2大聖地を擁するイスラーム世界の中心的存在だ。

アラビアの道-サウジアラビア王国の至宝 / 表慶館     2018年1月23日(火) ~ 2018年3月18日(日)
  
人形石柱 カルヤト・アルカァファ出土 前3500~前2500年頃 サウジアラビア国立博物館蔵
古代より交易路が張り巡らされ、人々と諸文明が行き交ったアラビア半島。
本展では、その躍動的な歴史と文化を示すサウジアラビア王国の至宝を日本で初めて公開します。100万年以上前にさかのぼるアジア最初の石器、5000年前に砂漠に立てられた人形石柱、ヘレニズム時代やローマ時代に賑わった古代都市からの出土品、イスラームの聖地マッカ(メッカ)のカァバ神殿で17世紀に使われた扉、サウジアラビア初代国王の遺品(20世紀)など、400件以上の貴重な文化財をとおして、アラビア半島の知られざる歴史をお楽しみください。
(記事引用)






金融から紐解く、世界の「今」
山岡 浩巳 , CONTRIBUTOR フォロー 2018/02/03 11:00
1987年に公開された伊丹十三監督の映画「マルサの女」は、脱税のため現金の流れを隠そうとする人々と、その流れを突きとめようとする国税査察官の攻防を描いている。
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パチンコ屋では現金にマジックで印を付け、「ラブホテルで、証拠の残るクレジットカードで払いたがる奴がいるか!?」と喝破するマルサの女。これらは、現金が「価値」以外の情報を持たず(=「匿名性」が高く)、受け渡しとともに支払が完了する(=「ファイナル」になる)という性質を反映している。

「いつもニコニコ現金払い」という言葉が示すように、商売をする立場からは、このような現金の性質にはありがたい面がある。

例えば、駅の売店で、改札口から駆け込んできた見知らぬ人が、千円札でタバコを買ったとしよう。その5分後に別の人が駆け込んできて、「さっきの人が使った千円札は、10分前に私から盗んだものです。だから返してください」と言われても困るし、それをいちいち心配しなければいけないようでは、安心して商売ができなくなってしまう。

そうした心配をしなくても良いように、現金については、かねてから学説により「占有とともに所有も移転する」という考え方が打ち立てられ、「動的安全」が強く保護されてきた。

一方で、このように動的安全が保護されているということは、逆に言えば、落としたり盗まれたら一番危ないのも現金だということになる。国内ではもっぱら現金を使っている人々も、海外旅行に行く時だけは大量の現金は持ち歩かず、クレジットカードを使う人も多いのではないだろうか。クレジットカードなら、落としたり盗まれても、支払を止めることができるからだ。

仮想通貨の一つの特徴も、その「匿名性」(正確に言えば「仮名性」)にある。仮想通貨に適用されている暗号技術は、その多くが「匿名性」を作り出すためのものである。それだけに、現金同様、「落としたり盗まれたら非常に危ない」ものでもある(仮想通貨を預かる先の「鍵」の管理が、他の手段にも増してきわめて重要になるのも、このためである)。

クレジットカードやデビットカードといった他の「キャッシュレス手段」とは異なり、「匿名性」を作り出す代償として、リスクも負っているのである。仮想通貨に投資をする人々は、このことを十分に認識しなければいけないし、関係者もこの点について、きちんと説明することが求められる。

「増えるけどいつでも使える」お金なんてない

仮想通貨はそもそも法定通貨ではない以上、それが支払決済に使えるかは、ひとえに「相手側がそれを受け入れてくれるかどうか」にかかっている。よって、「仮想通貨は世界中で使える通貨」という言い方は、かなりミスリーディングである。

また、仮想通貨は裏付けとなる資産を持たず、債券や株とは異なり、持っていても利子や配当が得られる訳ではない。究極的には何らかの財やサービスと交換しないと、その価値を具現化することはできないものである。

一方で、値動きの激しいものは、支払決済にはなかなか使われにくい。明日値上がりすると思うものを、今日の支払には使いたがらないだろう。また、明日値下がりすると予想されるものを、受け取りたがる店もないだろう(だから、インフレやデフレは経済にとって有害なのである)。値動きの激しい仮想通貨が、若干なりとも支払決済に使われているとすれば、誰かがその価格変動リスクを負担しているわけだが、そうしたリスク許容度には限界もあるはずだ。

仮想通貨が「支払決済手段である」ことと「投機的投資の対象である」ことは、本質的に相反するものなのである。「自分が投機をする間は値上がりを続けるが、使う時には急に価格が安定して広く使える」といった夢のようなお金は、ないと思った方が良い。

冒頭紹介した伊丹十三監督の別の映画「タンポポ」では、売れないラーメン屋を、通りすがりの人々が力を合わせて立て直していく物語が描かれている。夢は、お金そのものの中にあるわけではない。お金の「使い道」の先に、人間が作っていくものである。
(記事引用)


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上総屋rza012

♪タラボラ804






資金があったのに…」コインチェックのNEM流出にひろゆき氏が見解
 2018年2月10日 11時0分livedoor 2018年2月10日 11時0分 週プレNEWS
NEMが流出したコインチェックについて堀江貴文氏とひろゆき氏が話している
「手数料が高く売買差益も大きかったし、相当儲かっていたと思う」と堀江氏
ひろゆき氏は「資金があったのに技術者も増やさなかった」との見解を示した
ホリエモン×ひろゆきが仮想通貨の流出事件で「コインチェックに入社したら、イケそうな気が(笑)」!?

不正アクセスによって仮想通貨取引所「コインチェック」から仮想通貨「NEM(ネム)」が流出した事件。

『週刊プレイボーイ』の対談コラム「帰ってきた! なんかヘンだよね」で、“ホリエモン”こと堀江貴文氏と元「2ちゃんねる」管理人のひろゆき氏はこの事件をどう見たのか? ふたりが考える仮想通貨の安全性とは?

* * *
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ホリ 今週は「コインチェック」から580億円の仮想通貨「NEM(ネム)」が流出した事件について話せって担当から言われてる。毎日ニュースになっているし、金融庁が立ち入り検査したって話題だからね。

ひろ セキュリティ的にも経営的にも緩かったっぽいっすよね。記者会見を見ていても、ヤバイとすら思っていない感じが出ていておもしろかったです。

ホリ ははは。

ひろ 例えば「社員が不正を行なう可能性をどう避けるか?」ってことを考えると、経営的にはかなり大変ですよね。

ホリ ん? どういうこと?

ひろ 仮想通貨って、今回みたいに「ちょっとイジくれば数百億円を受け取れる」チャンスがあるわけですよ。極端な話ですけど、数百億円儲かるのがわかってるのなら、例えばコインチェックの入ってるビルごと買って、深夜に忍び込んでバックドア(一度システムに侵入した際、次回から簡単に侵入できるようにする経路)を仕掛ければ元が取れちゃいます。

ホリ おもろいこと考えるね(笑)。

ひろ アメリカ政府が作って、アメリカの軍隊が守っていたシステムでも、スノーデン元CIA局員みたいな内部犯にはかなわなかったわけですから、社員がこっそり盗んで素知らぬふりして出勤し続けていても凡ミスとかしない限り、まずバレないです。

ホリ ブロックチェーンを使った仮想通貨はセキュリティの高さが特徴なわけだけど、それは逆に言えば個人を特定しづらいってことになるからね。

ひろ 物的証拠を残さないで仮想通貨をちょろまかす方法なんていくらでもあるんですよね。それを防ぐには各エンジニアの後ろに人が立ち続けて何をしてるのかを見るみたいな非現実的な方法くらいしかない。

キーロガー(PCへのキー入力の記録と監視をするソフト)とかを入れても、ログを改竄(かいざん)されたらアリバイがなくなるわけで、よけいに疑いが晴れちゃいます。ってことで、僕が悪意を持ってコインチェックに入社したら、結構いけそうな気がしちゃいます(笑)。

ホリ コインチェックは、慣れないオルトコイン(ビットコインではない仮想通貨)に手を出して、社内技術者の確保ができなかったってのはあるんじゃないかな。流出の原因になったNEMのコールドウォレット管理とマルチシグ対応ができていなかったのはリソース(資源や情報)不足だろうし。

ひろ そういう説があるみたいですけど、僕は「社内リソースが足りずに結果的にこうなった」ってのは嘘だと思うんです。状況証拠で判断するに「故意にやってなかった」か「嘘をついてる」かのどっちかだと思うんですよ。

ホリ そう?

ひろ 今回の件で、試しにコールドウォレットを実装した人がいるんですけど、プロトタイプが動くまでにかかった時間は4時間くらいらしいです。で、NEM財団自体はコールドウォレットを推奨してるので、ノウハウのない特殊な実装ってわけじゃなくて、リファレンス(参照先)のある実装なんですよね。

ってなると「技術的に難易度が高くないのになぜやらなかったのか?」って話になる。「人を雇うお金がなかった」というのであれば、まだわかるのですが。

ホリ コインチェックは流出分を自己資金で補填(ほてん)するといってるから、資金がないわけじゃなさそうだよね。あと、オルトコインに関しては“取引所”ではなく“販売所”なんで、手数料が高く売買差益も大きかったし、相当儲かっていたと思う。

ひろ ってことで、故意に実装もしなかったし、資金があったのに技術者も増やさなかったということだと思うんですよ。

★コインチェック事件は再び起こる!? この続きは、本日2月10日(土)発売の『週刊プレイボーイ』9号にてお読みいただけます!

●堀江貴文(ほりえ・たかふみ) 

1972年10月29日生まれ、福岡県出身。旧ライブドア社長。SNS株式会社オーナー兼従業員。『やっぱりヘンだよね』(集英社)が好評発売中

●西村博之(にしむら・ひろゆき) 

1976年11月16日生まれ、神奈川県出身。元『2ちゃんねる』管理人。近著は『無敵の思考―誰でもトクする人になれるコスパ最強のルール21』(大和書房)
(記事引用)









芸能界のコペルニクス~
あいかわらず、どこもかしこも芸能不倫記事と無用受験話題に翻弄(だれがほんろうされているのかもわからない?)の貧しいネット記事のさなか、突如としてふって沸いた山田孝之氏のアクションに眼がさめた。やればできるじゃん。
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きのう書いたブログメイン記事はこれだった。
世界最高の衝突性能を目指す加速器「SuperKEKB」が始動 - 宇宙誕生の謎の解明なるか
 大塚実マイナビニュース2016/03/04 14:00:40

ほとんど注目されない読まれない、と判っていてノーコメントで書いた記事である。
物理科学の最先端技術の詳細を書き連ねてあるが、それがどういうものであるのか、私自身も9割方理解できない難解なものである。
一つだけ確実にわかっていたのは素粒子が光速衝突して核が破れると、強大な力が発生する、というのは高校の物理の時間にならった。ただそれだけの話しである。
芸能人密室のきわめて個人的なエロ話しより、それはよっぽど価値があるとおもった。

山田孝之「1日受付」権利が2千700万円超で落札
女性自身 年02月07日 18:00
俳優の山田孝之(34)が、取締役CIOを務める会社『me&stars』は、1月31日に開催されたスターとプレミアム体験をライブネットオークションで提供する「山田孝之の1日受付」がわずか40分で2千700万円を超える金額で落札されたと発表した。 

1月31日に専用アプリ『me&stars』内で行われた「スターとプレミアムな体験を提供すうるライブネットオークション」。第1回となった今回は山田孝之が企業や店舗の受付、結婚式場など各種イベントの受付を請け負うといった内容の「山田孝之の1日受付」だった。 

21時よりスタートし、わずか40分ほどで、金額は27,083,52円で落札された。 

落札者は美容メーカーの「株式会社シーオーメディカル」の代表・瀬出井氏で、サービスの提供は3月を予定していると発表。山田は美容メーカーの会社受付をするものとみられる。 

ライブオークションの終了後、山田は『me&stars』の公式インスタグラムに《「どうも、スターの山田です。みなさん、オークションへの参加、ご視聴ありがとうございました。全力で受付をさせていただきます。その様子は後日配信されるプレミアム動画にてお楽しみください。」 山田孝之》と意気込みのコメントをしている。 

山田は、昨年9月に、ITサービスを提供するトランスコスモスと共同で、社会において影響力を持つインフルエンサーのプレミアムコンテンツをライブ動画で販売・運営するECプラットフォームである同社を設立し、取締役CIOに就任した。
(記事引用)



















平成バブルから30年後の世界(2018年)
2016年から2017年にかけて劇的なグラフ曲線変化がみられた。結婚適齢期世代が、結婚しないという「婚姻届」の大幅ダウンが数字にあらわれている。
その落差が余りにも激しく、その理由は一体なにか、という観点から、様々な要素を検証していたところ、30年前の昭和から平成に時代がシフトする瀬戸際で、大規模な経済活動が行われていた。世に云う「バブル経済」だった。

その後遺症ともいうべき現象が30年後の時代に決定的な数字としてあらわれるとは夢にも思わなかった。その夢物語が突如として終焉した1987年。

画像 ビルゲイツ
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<当時、ドル高による貿易赤字に悩むアメリカ合衆国はG5諸国と協調介入する旨の共同声明を発表した。これにより急激な円高が進行。1ドル240円前後だった為替相場が1年後に1ドル150円台まで急伸した。日本と西ドイツがアメリカのドル安政策の標的にされた。
このショックを和らげるため日本政府は、内需主導型の経済成長を促すため公共投資拡大などの積極財政をとり、また一方で日銀は段階的に公定歩合を引き下げ、(最終的には2.5%)、長期的に金融緩和を続けた。この結果、長期景気拡大をもたらした一方で、株式・土地などへの投機を許しバブル発生を引き起こしたとされている。
中曽根内閣は貿易摩擦解消のため、国内需要の拡大を国際公約し(前川リポート)、これまでの緊縮財政から一転させた。5回の利下げの実施後の1988年度補正予算で当時の大蔵大臣であった宮沢喜一は公共事業拡大に踏み切った。また、急激な円高によるデフレ圧力にもかかわらず日銀は当初、公定歩合を引き下げずに据え置くとともに、むしろ無担保コールレートを6%弱から一挙に8%台へと上昇させるという「高目放置」路線を採った。そのため、一時的に非常な引き締め環境となり、その後数年のインフレ率の低下を招いた。一方、翌年以降は緩和へと転じ公定歩合を2.5%まで引き下げ、その後も低金利を続けたが、この金融緩和政策は当時国際公約と捉えられており、これが継続されるとの期待が強固であった。
インフレ率の低下と低金利政策維持への期待によって名目金利は大きく低下し、このことが貨幣錯覚を伴って土地や株式への投資を活発化させた。日銀の金融政策は、卸売物価・消費者物価を基準に考えるという伝統的な考え方が支配的であったため、日銀は地価は土地対策で対処すべきという立場であった。
それ以外に1986年初めに原油価格が急落し、交易条件が改善した。このことによる交易利得は、1987年5月の緊急経済対策とほぼ同規模となる大きなものとなり、景気を刺激したとされている。経済学者の田中秀臣は「原油価格の下落などの要因を、日本経済の潜在能力が向上したと誤って過大評価してしまい、日本はバブル時代へと突入していった」と指摘している。
就職
有効求人倍率は、1991年に1.40倍を記録。リクルートの調査では、同年の大卒最高値は2.86倍になった。この時代に大量に採用された社員を指してバブル就職世代とも言われる。>
(記事部分抜粋)

当時の世界情勢  
画像 当時買収しロックフェラー・センター
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1980年代に入ってからの世界的な(物価の)ディスインフレーションの中で、資産価格(株式)は上昇しやすい状況になっていた。

1945年2月のヤルタ会談以降の冷戦体制下で、日本を含む西側諸国と対立していたソビエト連邦は、アフガニスタン侵攻による疲弊の影響で、改革派のミハイル・ゴルバチョフが登場する。>

ではその「バブル経済」とはなにかを検証した。資料はウイキペディアによる。

平成バブル
バブル景気( bubble boom)は、景気動向指数(CI)上は、1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までの51か月間に、日本で起こった資産価格の上昇と好景気、およびそれに付随して起こった社会現象とされる。情勢自体はバブル経済と同一であり、平成景気(へいせいけいき)や平成バブル(とも呼ばれる。日本国政府の公式見解では数値上、第11循環という呼称で、指標を示している。

ただし、多くの人が好景気の雰囲気を感じ始めたのはブラックマンデーをすぎた1988年頃からであり、政府見解では、1992年2月までこの好景気の雰囲気は維持されていたと考えられている。

また、アメリカの2003年以後の住宅と金融を中心にした資産価格の高騰、景気拡大期を米国バブルなどと呼称する。ここでは、かつて日本で起きた事象について説明する。

日本では、1986年12月-1991年2月までの株式や不動産を中心にした資産の過度な高騰、経済拡大期間を指すことが主である。目安となる指標も多く存在し、景気動向指数(CI・DI等)、土地価格(公示価格・調査価格の6大都市、地方、平均値等)、株価、GDP(総GDP伸び率等)、消費者物価、民間消費支出等どれを基準にするかということと、政府見解により諸説は左右される。

1980年代後半には、テレビ等のマスメディアの必要以上に毎日繰り返された不動産価値の宣伝により、地価は異常な伸びを見せる。当時の東京都の山手線内側の土地価格でアメリカ全土が買えるという算出結果となるほど日本の土地価格は高騰し、日経平均株価は1989年(平成元年)12月29日の大納会には、史上最高値38,957円44銭を付けるなどし、資産価格のバブル化が起こっていた。このことを指して「バブル経済」と呼ばれる。

バブル経済とは、総じて結果論として語られることが多く、その過剰な拡大期間の中では単に「好景気」といわれる。
バブル景気による過剰な経済拡大期があり、その後にはその反動としてバブル崩壊による大幅な資産価格下落や金融収縮などが起こり経済問題が多数噴出することとなる。結果として過去のその経済状況を否定的意味あいでバブルなどと呼称する。

日本の景気動向指数でみる、景気循環における第11循環の拡大期に当たる。指標の取り方にもよるが、おおむね、1986年12月から1991年2月までの4年3か月(51か月)間を指すのが通説である(昭和天皇が吐血した1988年9月19日から翌年2月24日の大喪の礼頃まで自粛ムードあり)。これは、2002年2月から2008年2月まで73か月続いた長景気(通称:いざなみ景気、かげろう景気など)や1965年11月 - 1970年7月の4年9か月の57か月続いたいざなぎ景気に次いで第二次大戦後3番目に長い好況期間となる。

バブル以前の1985年、プラザ合意直後の日本は円高不況と称された深刻な不況であり、輸出産業が大打撃を受け、東京や大阪などの町工場には倒産が続出していた。当時の日本のGDPに占める製造業比率は高く(現在は18%程度)、円高が輸出産業、ひいては日本経済に与えたダメージは現在と比較にならないほど大きく、製造業の日本国外への流出もこの時期に本格化した。円高不況という文字がメディアから消え、多くの一般の人がいわゆるバブル景気の雰囲気を感じていたのは1988年頃から1991年2月のバブル崩壊以降少し後までの数年である。

日本のバブル崩壊による深刻な経済問題が表面化するまでには数年の時間を要し、当初は一時的な景気後退として楽観論が大勢を占めていた。1992年には政治的に宮沢喜一などが公的資金投入による早期の不良債権処理を言及しているが、官庁、マスコミ、経済団体、金融機関などからの強い反対に遭い実行に至らなかった。バブル崩壊と同時に1973年より続いてきた安定成長期は終焉を迎え、その後20年以上にわたる長期不況(失われた20年)などの引き金となった。

名称(通称)の由来
実体経済から乖離して資産価格が一時的に大幅に高騰し、その後急速に資産価格の下落が起こる様子が中身のない泡が膨れて弾ける様子に似て見えることからこのように呼称する。もともと「バブル」は「泡」を意味する語なので、泡沫景気(ほうまつけいき)と呼ばれることもある。1990年代初期からは、「平成景気」と呼ばれた。

1980年代後半、「バブル」という言葉は一般に認知されていなかった。「バブル景気」という語は1987年に命名されたとされる。基になった「バブル」という語自体は1700年代のSouth Sea Bubble(南海泡沫事件)を語源とし、1990年にはすでに「バブル経済」という言葉が流行語大賞の流行語部門銀賞を「受賞者:該当者なし」(だれが最初に使い、はやらせたのか分からないため)で受賞している。しかし、この語が広く一般に、実感を伴って認知されたのはバブル経済が崩壊したあとである。また、その景気後退期または後退期末期、景気が上昇に転じるまでの期間を「バブル崩壊」(平成不況)などという。

野口悠紀雄は1987年11月に「バブルで膨らんだ地価」という論文を『週刊東洋経済・近代経済学シリーズ』に掲載しており、「私の知る限り、この時期の地価高騰を「バブル」という言葉で規定したのは、これが最初である」と述べている。

1985年1月1日から1988年1月1日までの円とドルの為替レートの推移。点線はプラザ合意のあった日(1985年9月22日)を示す。プラザ合意後、急激に円高が進行している。
政府・日本銀行の金融・財政政策による景気刺激策がバブルの主因とされている。
安定成長とバブル期を分けたのは1985年9月のプラザ合意である。その後のルーブル合意まで100円以上の急速な円高が進行する。ミルトン・フリードマンは「日本の『バブル経済』は、1987年のルーブル合意がもたらしたものである」と指摘している。

バブル以前の1985年のプラザ合意直後の日本は円高不況と称された深刻な不況であり、輸出産業が大打撃を受け、東京や大阪などの町工場には倒産が続出していた。当時の日本のGDPに占める製造業比率は高く、円高が輸出産業、ひいては日本経済に与えたダメージは現在と比較にならないほど大きく、製造業の日本国外への流出もこの時期に本格化した。円高不況という文字がメディアから消え、多くの一般の人がいわゆるバブル景気の雰囲気を感じていたのは1988年頃から1991年2月のバブル崩壊以降少し後までの数年である。

当時、ドル高による貿易赤字に悩むアメリカ合衆国はG5諸国と協調介入する旨の共同声明を発表した。これにより急激な円高が進行。1ドル240円前後だった為替相場が1年後に1ドル150円台まで急伸した。
日本と西ドイツがアメリカのドル安政策の標的にされた。このショックを和らげるため日本政府は、内需主導型の経済成長を促すため公共投資拡大などの積極財政をとり、また一方で日銀は段階的に公定歩合を引き下げ、(最終的には2.5%)、長期的に金融緩和を続けた。この結果、長期景気拡大をもたらした一方で、株式・土地などへの投機を許しバブル発生を引き起こしたとされている。

中曽根内閣は貿易摩擦解消のため、国内需要の拡大を国際公約し(前川リポート)、これまでの緊縮財政から一転させた。5回の利下げの実施後の1988年度補正予算で当時の大蔵大臣であった宮沢喜一は公共事業拡大に踏み切った。

また、急激な円高によるデフレ圧力にもかかわらず日銀は当初、公定歩合を引き下げずに据え置くとともに、むしろ無担保コールレートを6%弱から一挙に8%台へと上昇させるという「高目放置」路線を採った。そのため、一時的に非常な引き締め環境となり、その後数年のインフレ率の低下を招いた。一方、翌年以降は緩和へと転じ公定歩合を2.5%まで引き下げ、その後も低金利を続けたが、この金融緩和政策は当時国際公約と捉えられており、これが継続されるとの期待が強固であった。

インフレ率の低下と低金利政策維持への期待によって名目金利は大きく低下し、このことが貨幣錯覚を伴って土地や株式への投資を活発化させた。日銀の金融政策は、卸売物価・消費者物価を基準に考えるという伝統的な考え方が支配的であったため、日銀は地価は土地対策で対処すべきという立場であった。

それ以外に1986年初めに原油価格が急落し、交易条件が改善した。このことによる交易利得は、1987年5月の緊急経済対策とほぼ同規模となる大きなものとなり、景気を刺激したとされている。経済学者の田中秀臣は「原油価格の下落などの要因を、日本経済の潜在能力が向上したと誤って過大評価してしまい、日本はバブル時代へと突入していった」と指摘している。

「日本銀行調査月報」(1992年9月)は、バブルの原因について「土地担保価値の拡大」を挙げ「多くの金融機関が業務拡大を目指したことにより、M2+CDの伸び率を高めた」と述べている。

1985年5月に国土庁は「首都改造計画」を公表し、「東京のオフィスは2000年までに合計5000ヘクタール、超高層ビルで250棟分必要となる」と指摘した(当時のオフィス供給量は年間130ヘクタール)。国土庁のレポートの意図は「地価高騰の抑止」であったが、その意図とは逆に不動産会社・ゼネコンは「オフィス供給は国策となった。都心の用地を確保せよ」と一斉に飛びつき、やがて「地上げ屋」を生んだ。国土庁のレポートはバブル醸成の一因となった。

ベンジャミン・フルフォードは、和佐隆弘(元日経新聞論説委員)の言葉を借りて、1963年当時の自治省が地価の大幅な値上がりに対して、固定資産税の課税上昇率を抑えたために、土地が「最も有利な投資対象」となってしまったことを日本の土地神話ないしバブルの遠因として挙げている。

展開
日経平均株価(月末値)。1989年12月29日の東証大納会で日経平均株価が史上最高値の38,957円44銭(同日終値38,915円87銭)を記録、1990年1月4日の大発会から株価の大幅下落が始まる。
1985-1990年度の5年間で日本の金融機関の資金量は90%拡大し、貸出先の開拓に追われていた。

1980年代後半、エクイティファイナンス(新株発行にともなう増資)の隆盛は大企業の銀行離れを加速させ、銀行は行き場のない資金をだぶつかせていた。プラザ合意以降、金利低下に拍車が掛かった。金利自由化の影響により、銀行は従来のやり方では利ざやが稼げなくなっていた。1987年末には都銀の収益を支えていた製造業向けの貸出が初めて2割を割った。

企業は設備投資を積極的に行っていたが、その資金は銀行の長期融資に依存せず、エクイティファイナンスでまかなっていたため、金融機関の融資は不動産に向かった。日本では投機熱が加速、特に株と土地への投機が盛んになった。なかでも「土地は必ず値上がりする」「土地の値段は決して下がらない」といういわゆる土地神話に支えられ、転売目的の売買が増加した。
地価は高騰し、数字の上では東京23区の地価でアメリカ全土を購入できるといわれるほどとなり、銀行はその土地を担保に貸し付けを拡大した。1985年3月末から1993年3月末にかけて、全国銀行の貸出は251兆円から482兆円へと増加している。
資産価格高騰は資産保有者に含み益をもたらし、心理的に財布のひもを緩める資産効果によって消費が刺激され、景気の過熱感を高める効果もあった。また、1986年から日本企業の欧米企業に対するM&Aが進められた。企業収益の向上と共に個人所得も増加し、消費需要が上昇する乗数効果を生んだ。

日本の1人あたりの国民所得はアメリカを追い抜いた。

1986年2月にNTTが上場し、株価は2カ月で売り出し価格の3倍にあたる318万円の高値をつけ、企業・個人が財テクに入り込んでいくきっかけとなった。「財テク」(=財務テクノロジー)に代表される企業の余剰資金運用を日本経済新聞等のマスコミが喧伝し、「特金ファンド」(特定金銭信託ファンド)で法人の株式投資を活発化させ、個人投資家の株式投資を誘発した。主要全国紙はこの頃、株式欄を拡大させ、金融雑誌や金融商品評論家、不動産取引評論家等が出現して個人の金融取引を煽った。
三大都市圏における地価は1986年から上昇し、1987年には東京都の商業地で対前年比で約80%となった。

1987年に入ると現象は経済全体に波及し、土地に対する需要が高い限り決してこの景気は終わらないという楽観論が蔓延した。特に株式は1987年10月に起こった米国ブラックマンデーによる世界同時株安の影響を世界で最初に脱出し、高値を更新したことから日本株に対する信任が生じた。その後、投機が投機を呼ぶ連鎖反応が起こり、「岩戸景気」「神武景気」に続く景気の呼び名を公募する記事が、雑誌を賑していた。

1988年秋に来日したアラン・グリーンスパンFRB議長は、日本銀行にて「日本の株価は高過ぎるのではないか」と述べていた。
1989年(平成元年)4月1日、消費税(税率3%)が導入された。このとき、便乗値上げが起きた。

すでに地価や株価は収益還元法などで合理的に説明できる価格を超えて高騰しており、日本経済はいつ破裂してもおかしくないバブル経済に突入していた。そもそも日本の人口増加率が低下し、2007年から2008年には人口が減少に転じると予想されたことから、土地の需要がこのまま持続・増加するはずが無いとの指摘もあったが、政府の「世界の中心都市としての東京は今後も発展を続け、オフィス需要は拡大しつつあり、これに対して供給はまだまだ不足している」とする見解をはじめとする強硬な反論が幅を利かせていた。

一部の経済学者は地価を考慮すると家賃は安すぎると主張し、容積率の規制緩和を主張した。
もともと、地価が上昇した場合はその上で操業している賃貸の工場やビルの収益率が低下するため、土地を売却し債券などを購入することが合理的になる。この結果、高騰した土地の上で経営が成り立つ産業だけが立地することになり、やがて価格は均衡する。
しかし、日本においては土地資産などの計上が簿価で行われていたため、名目的に収益率は変わらずに土地を持ち続けることが正当化された。
加えて、簿価と時価の差額が含み益をもたらし、担保価値の上昇という形で資金を導入して経営を拡大する方向に動いた。損失を出してもいざとなれば含み益を用いて解消できるとして経営の多角化を進めたりハイリスクな事業を展開する、放漫な経営で損失が出ても重大に受け止めないなどの例もあった。このような動きの中で、日本企業は収益率を高めるのではなく総資産を増加させることを第一義的な目標とするようになった。

経済への影響
1986年頃から日経平均は急上昇し始め、1989年大納会ザラ場で38957円の最高値を記録、株価上昇は1985年9月の12598円と比較すると約3倍となり、上昇率で約200%の上昇であった。バブル期の日本株のPER(株価収益率)は、80倍以上となっていた。バブルが弾ける直前の日本株のPERは、100-200倍であった。株価に遅れて地価も1985年と比較して、1990年には約400%の上昇となった。

1986-1990年までの5年間で、日本国内の非金融法人企業は年平均142兆円のペース、家計は年平均約25兆円のペースで金融負債を増やした。バブル絶頂期の1990年の非金融法人企業の純負債は636兆円であった(2008年12月末には非金融法人企業の純負債は322.9兆円となっている)。

1986-1989年に発生したキャピタル・ゲインは、資産価格の上昇により1452兆円に及んだ。1989年に家計が得た土地・株式のキャピタル・ゲインは260兆円となっている。

バブル景気では、中小企業の売上経常利益率は大企業を上回っていた。

経済学者の松原聡は「バブル景気で日本がインフレにならなかったのは、円高の影響で安い輸入品が多く日本に入ってきたからである」と指摘している。

地価高騰
内閣府の国民経済計算によると日本の土地資産は、バブル末期の1990年末をピークに、約2456兆円となったと推定されている。日本全体の土地の価格総額は、1990年末時点で1985年末の2.4倍となった。バブルピーク時、日本全体の地価の合計は、アメリカ全体の地価の合計の4倍となった。

東京圏では1987年と1988年の住宅地の価格はそれぞれ22%、69%上昇し、商業地の価格はそれぞれ48%、61%上昇した。大阪圏では1989年と1990年の住宅地の価格はそれぞれ33%、56%上昇し、商業地の価格は1988-1990年で30-40%上昇した。

第二次世界大戦後、1990年代初めにバブルが崩壊するまで、地価は永遠に上がり続けるという「土地神話」が信じられていた。戦後一貫してオイルショックの一時期を除き、バブル崩壊まで地価は下がらなかった。それに追随したのが当時のテレビを含むマスコミであり、土地神話による地価の高騰が永遠に続くものであるかのような宣伝を繰り返していた。

1970年代後半から優良製造業向けの融資案件が伸び悩み、銀行が不動産業や小売業、住宅への融資へ傾斜していた。1980年代初め、東京の国際都市への期待が高まり、外資系金融機関なども増加し、オフィスが大量に不足すると予想された。1980年代半ば以降、銀行は土地神話を信じ土地担保融資を拡大した。1980年代の日本は様々な規制等により土地の供給が極端に少なく、人口が増え続けるという見方が強かったため土地バブルが発生した。

1985年、日本開発銀行は「東京は世界の金融センターになる」とレポートで指摘した。

中曽根税制改革により法人税が42%から30%へ、所得税最高税率が70%から40%に引き下げられるとともに物品税も撤廃され、可処分所得はその分増大して土地や株式の購入に向かったため、土地価格や株価が高騰した。

中曽根内閣による大都市圏内の土地容量(容積率)の規制緩和、東京湾横断道路(東京湾アクアライン)建設プロジェクトの推進、当時の鈴木俊一 (東京都知事)による「第二次東京都長期計画」による東京臨海副都心構想の具体化による東京発の不動産取引が活発化した。

大蔵省、日本銀行、東京証券取引所を結ぶ三角地帯は「ゴールデン・トライアングル」と呼ばれていた。

1986年の都心の地価の上昇は7割に達しており、全国的には地価が落ち着いている中で「異常値」を示していた。大都市等の優良な土地の高騰にとどまらず、収益の見込めない北海道や沖縄などの遠隔地の土地もリゾート開発を名目に相当の値段で取引された。こうして得た土地を担保に、巨額の融資が行われた。インカム・ゲイン(土地の有効活用による収益)ではなくキャピタル・ゲイン(将来地価が上昇することで得られるだろうと見込まれる値上がり益)を目的とすることが多かった。

1986年秋に売り出された東京新宿区の再開発住宅「西戸山タワーホームズ」はマンションブームに火をつけた。1987年4月に売り出された東京江東区のマンション「スカイシティ南砂」は259戸の分譲に対し、38500人が応募した。また、リクルート社の銀座日軽金ビル購入の不動産取引成功が大々的に報道され、その後の不動産取引が活発化した。

また、地価の上昇局面でも、国鉄清算事業団の未利用地販売に際しては「地価の高騰を煽る」として売却が凍結されて、逆に土地の飢餓感が煽られて地価の上昇を招いた。

土地を担保として融資を行うに際しては、通常は評価額の70%を目安に融資を行うが、将来の土地の値上がりを見越して過大に貸し付けることも珍しくなかった。破綻した北海道拓殖銀行では120%を融資した事例もある。単一の物件に複数の担保をつけることも行われた。背景には、金融機関の貸出競争が激化する中、潤沢な資金をとにかく運用する、貸付に回す、という金融機関の姿勢もあった。この融資の一部は後の地価下落(担保価値が低下)によって不良債権となった。

道路用地の取得価格も高騰し、新東名高速道路などの建設に要する資金の増大を招いて、日本道路公団の経営圧迫の一因ともなった。高価な土地が障害となって、地方公共団体の公共事業が進められなくなる事態も生じた。

地価の上昇によって住宅取得が困難となり国民からは政府に対する非難が高まったことが、不動産融資の総量規制に繋がり急速な地価の下落を招いたという批判がある。こうした地価に関する政策的な失敗は、マスコミや国民の感情的な批判に政府が冷静に対応できなかったという問題と見ることができる[誰?]。

地上げ
潤沢な資金を背景に大都市の再開発の動きが活発になった。都心の優良地区には、地権が細分化された上に借地借家が多数混在し、権利関係が複雑に絡んでいるケースがあった。日本においては、借地借家法によって借主の権利が保護されていたため、土地をまとめて大規模開発をするプロジェクトは必然的に推進が困難となった。そのため、大都市周辺の土地取得のため、大手不動産会社を代表したり、依頼を受けた地上げ屋(主に暴力団員)の強引な手口による「地上げ」が行われるようになり、社会問題となった。

銀行は「地上げ」に巻き込まれるのを嫌い、リスクの高い物件に自ら直接融資をせず系列ノンバンクに融資させようとした。

しかし、計画を完遂できないままにプロジェクトが中止されるケースも多数生じ、バブル崩壊後には往々虫食い状態の利用しにくい空き地が残されることとなった。これらの空き地は「バブルの爪あと」などとも呼ばれる。

住宅高騰
高級マンションの代名詞的存在とされていた広尾ガーデンヒルズ
1980年代後半のバブル期に政府は「年収の5倍で住宅を」というスローガンを掲げていた。

地価上昇は、地価の高い都心の戸建て住宅や高級マンションだけでなく、都市近郊にさえ適当な戸建住宅を取得することを困難にした。日本のような戸建主義的な都市構造において、いずれは戸建住宅を取得することが人生の夢・目標の一つであるとされ、それを動機として貯金に励むことも行われていた。しかし過度の地価上昇を見て、これ以上値上がりする前に一刻も早く住宅を取得するべきだと考える人も増え、その行動は、また、地価上昇に拍車をかけた。東京圏のマンション価格は、サラリーマンの平均年収の8.9倍に達した。あまりにも住宅が高騰して、平均的な収入では最早購入するのが不可能な域に達すると、二世代ローンも登場した。本人の資力で支払きれないところを、その子の資力をもって補うものである。

地価・住宅高騰と共に相続税も無視できない額に増えた。サラリーマンのマイホームの夢が遠のく一方で、相続税の負担が急激に重くなっていた[58]。特に、長年のローンを組んで余裕が無い状況で相続が発生すると、支払うべき相続税を用意することができずに困窮することもある。これに対応するために、親類縁者の若者を養子にして一人当たりの相続額を下げて相続税を節約する手法が採られたり、変額保険を利用する節税手法が利用された。
しかし、バブル崩壊後は資産運用の計画が狂い、窮地に追い込まれる契約者もあった。

住宅すごろく
地価上昇を前提とした住宅取得のモデルも提示された。若いうちに小さいながらもマンションを取得し、それを下取りに出して順次条件の良いマンションに買い換えれば、最終的には望む戸建ての住宅を手に入れられるとされ、「住宅すごろく」とも言われた。単に貯蓄をしていては住宅高騰に決して追いつけないが、マンションを資産として購入しておけば価格上昇が見込めて有利である、と説かれた。しかし、バブル崩壊後は物件を見極める目も厳しくなり、単にマンションであることでは資産価値を認められなくなった。事実上資産価値の無くなった都市近郊のマンションに対する多額の支払いが残り、負債を抱えて身動きが取れないケースもある。

他方、あまりにも高騰した住宅の取得を早々に諦め、『あきらめリッチ』と呼ばれ、収入を貯蓄することなく、高級車など耐久消費財の購入や海外旅行に充てる刹那的な動きもあった。これは、さらなる消費の過熱と貯蓄率の低下に繋がった。

地価高騰を見て賃貸住宅の家賃も高騰し、結局都心から離れた土地へ移転を迫られ、通勤時間が長くなるという状況も生まれた。これら地価高騰と住宅問題は当時の日本政府の懸念事項であり、後の地価抑制政策に繋がり、信用構造を圧迫することになった。

バブル三業種
バブル期に特に借金を増やしたのは非製造業であった[60]。建設業、不動産業、ノンバンクはバブル三業種と呼ばれ、借金がそのほかの業種と比べて大きく増えた業種であった。

国鉄清算事業団
国鉄清算事業団は、旧国鉄から引き継いだ未利用地を販売して負債削減を図った。その中でも31ヘクタールの「汐留駅跡地」は、東京都心にある汐留の『まとまった優良地』として、都市再開発の注目を集めた。しかしバブル景気で地価が高騰していた時代においては、かかる土地の売却が地価高騰を一層あおりかねないとの懸念が政府内部の他、経済界やメディア、国民諸階層にも了解があり、汐留駅跡地の売却を地価高騰時にしなかったことについて、その当時には全く問題のないこととされていた。

その結果、地価が暴落した後に売却に掛かり、その他の土地も国鉄清算事業団の解散を控えて全て処分する必要があることから、バブル崩壊後の地価下落とも相俟って投げ売り同然で処分せざるをえなかった。結局、事業団全体ではかえって負債を増やした状態で解散した。

最終的に、国鉄清算事業団はその役目を終え、1998年(平成10年)10月に解散した。
日本国有鉄道(現JR)のほかに日本電信電話公社(現NTT)、日本専売公社(現JT)、日本航空等の公共企業体・特殊法人が民営化され、社会全体の企業活力が増した。

リゾート地開発
バブル期に建設・不動産・ホテル業界は、リゾート地やゴルフ場を次々と開発した。

1987年に総合保養地域整備法、通称「リゾート法」が制定され、都市から離れた地域においても、大企業を誘致してリゾート施設を開発する動きが活発となった。特に北海道ではスキー場などのリゾート事業が急激に拡大した。これにより、それまで見向きもされなかった土地が相当な価格で取引されるなど、土地価格の上昇に拍車を掛けた。

またゴルフ場の会員権の価格は高騰し、それとともに次々に豪華な設備を持ったゴルフ場の開発が全国で進められた。なお、当時のゴルフ場のテレビCMでは、バブル景気崩壊後なら「○○自動車道○○インターから車で○分」などとするところを「東京ヘリポートから○○分」などと案内するほどであった。

世界への投資
アメリカの不況や貿易摩擦の解消のために輸出規制が掛かり、企業は日本国内市場の開拓に目を向けざるを得なかった。金融市場の国際化の流れから海外金融機関の新規参入が相次ぎ、金融取引が活発化した。

潤沢な資金を得た企業が、日本国外の不動産や企業を買収した。著名なところでは三菱地所によるロックフェラー・センター買収(2200億円)、ソニーによるコロムビア映画買収をはじめとする事例で、日本国外の不動産、リゾート、企業への投資・買収が行われた。また、企業に留まらず、土地を担保に大金を借り入れた中小企業オーナーや個人、マイホーム資金を貯蓄していた個人の中からも、日本国外の不動産に投資を行う者が出てきた。

一方で象徴的ビルや企業が日本企業の手に渡ったことにつき、アメリカの心を金で買い取ったとする非難(所謂ジャパン・バッシング)が浴びせられた。また、日本国外の不動産への投資は現地の地価の高騰を招くとともに資産税を上昇させ、正常な取引を害し地元経済を混乱させたものとの非難が浴びせられた。

就職
有効求人倍率は、1991年に1.40倍を記録。リクルートの調査では、同年の大卒最高値は2.86倍になった。この時代に大量に採用された社員を指してバブル就職世代とも言われる。

当時の世界情勢
1980年代に入ってからの世界的な(物価の)ディスインフレーションの中で、資産価格(株式)は上昇しやすい状況になっていた。

1945年2月のヤルタ会談以降の冷戦体制下で、日本を含む西側諸国と対立していたソビエト連邦は、アフガニスタン侵攻による疲弊の影響で、改革派のミハイル・ゴルバチョフが登場する。

一方でアメリカ合衆国は、このころ1980年代半ばのユーフォリアを経て迷走気味になりつつあった。住宅金融に破綻の兆しが出て、信用問題に発展しつつあった。経常収支が均衡に向かう中で国内経済は低迷し、失業増大や記録的財政赤字に繋がりつつあった。

こうした世界情勢の中で、政治的に安定している上に空前の好景気で、投資先として非常に大きな魅力を持つことになった日本は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(エズラ・ヴォーゲル著の同タイトルの書籍より「世界の頂点にいるも同然の日本」の意)の呼び声とともに、アメリカにおいても「日本社会に学べ」「日本に負けるな」という声が出るほど好景気を謳歌していた。

三菱地所がニューヨークの象徴的な建物であるロックフェラーセンターを買収して日本脅威論が噴出したのもこの頃である。また東南アジア諸国からも「日本の成功を見習うべし」との声が上がった。

バブル景気の時期は、ソビエト連邦の「ペレストロイカ」とほぼ同じ時期である。バブル景気とペレストロイカの真っ只中にあった1989年には、ベルリンの壁崩壊に代表される東欧民主化革命が起こり、44年間続いてきた冷戦が終結した。

問題
バブル期にバブルになっているという問題があまり意識されなかったことについて、翁邦雄は「土地神話によるところが大きい」と指摘している。

1980年半ばに始まった地価高騰は、やがて土地を持つ者と持たざる者の不公平感を生んだ。バブル景気による地価高騰・株価上昇を背景とした土地・住宅・株式の値上りによって、資産・資産取引によって生じる所得格差が拡大したとされている。

資産を用いた経済活動によって生み出される収益(インカムゲイン)ではなく、資産そのものの値上がりにより利益を得ようとする手法(キャピタル・ゲイン)は、資産価格が高騰するほど困難になる。やがて資産価格が高い水準で均衡すると、その時点で資産を保有していた者はもはや値上がり益を得られない。

そして、高値均衡を維持できず、価格が下落に転じると、それまでの歴代の所有者がそれぞれ利益を得たのに対して、最終的な資産保有者はその分の損をまとめて被ることになる。このように、資産価格の上昇を維持することが困難になるにつれ、資産取引は次第に「ババ抜き」の様相を見せ、ますます資産価格の維持が困難となる。

「不平等の拡大は、バブルのための資産格差・産業間賃金格差が原因である」との議論について、経済学者の大竹文雄は 「(不平等の拡大を)資産格差に要因を求めるのは無理がある。バブル崩壊で資産格差は縮小傾向にあるからである。産業間賃金格差については、バブル時代に金融業の賃金が上昇したことで格差は拡大したが、最近(2000年)は金融業の賃金が逆に低がり、格差は縮小している」と指摘している。

景気後退
絶頂期の1989年頃には投資が活発となり、「平成景気」「ヒミコ景気」「高原景気」と呼ばれるこれまで類を見ない空前の超好景気となったが、実体経済の成長では到底説明できないほどの資産価格上昇を伴うバブル経済であったため、やがて縮小することとなる。

株や土地などの資産は下落し、一転して大きなキャピタルロスを抱える個人や企業が増え、キャピタル・ゲインを当てにして過大な投資をしていた企業や投機家が多大な損失を抱える事態となった。当時の日本は資産価格上昇により、土地や株式などの収益率(値上がり益を除く)が著しく低下していたため、金融緩和の終了で持続可能性を喪失した。

なお1973年12月より17年3か月間続いてきた安定成長期はこのバブル崩壊で終焉を迎えた。

※参考ニュース(セブンイレブン)
「山本憲司氏は、19歳で家業の酒屋を継ぐも将来の展望が持てず、アメリカ生まれのコンビニエンスストアへ商売替えを決意
1974年5月15日、東京・江東区豊洲に日本初のコンビニをオープン。以来43年、現場から生まれた「より売れる」商品やサービスを提案し、セブン-イレブンの発展の一翼を担ってきた。」

「バブル崩壊」バブルと経済政策
バブル景気が膨張を続けてしまい、また、バブル崩壊からの脱却に長期間を要した原因については、政府・日本銀行(日銀)による経済政策の一環として実行した金融引き締め策の失敗が指摘されている。

まず、バブルの発生については先に述べた通り、1985年のプラザ合意による急速な円高に伴うデフレ圧力と金融緩和の長期化予想によって名目金利が大きく低下し、それが貨幣錯覚を通じて土地や株への投資を刺激したこと、また貿易摩擦解消のため国内需要の拡大を国際公約し公共事業の拡大および減税策が採られたこと、が原因とされている。政府は、数次にわたり経済対策を策定し、1987年5月には6兆円を上回る財政措置を伴う「緊急経済対策」をしたが、景気は1986年11月を底に既に回復していたため、景気を刺激し過ぎたという批判がある。

第二に、バブルの膨張を抑止できなかった理由として、金融緩和を続け過ぎたことが指摘されている。公定歩合は1987年2月に2.5%に引き下げられ、その後1989年5月までこの水準を維持した。実は1987年9月には日銀の理事たちは利上げに踏み切る方針を確認していたが、10月19日のブラックマンデーによる世界的な株価の下落があり、利上げが見送られた。1986年11月に日本の景気は底入れが確認されていたが、ブラックマンデーによるドル暴落を阻止するため、対米協調から低金利政策を1989年5月までの2年3カ月の長期に渡って継続した。

金融緩和が続けられた国内の要因としては、第一に、政府が財政再建のために赤字国債からの脱却を目指しており、金融政策による景気刺激を求める政治的な圧力があったことがある。第二には、大幅な経常収支の黒字を背景とした円高圧力があったことから、金融緩和によって円高を回避しようという政府・与党などからの圧力があったことが指摘できる。急激な円高に苦しむ輸出企業の体力を強化するためにも金融政策は緩和的であるべきという認識もあった。この反省から、1997年に日銀法は改正されて、日本銀行の独立性が高められた。

元日銀行員でバブル期には同行総務局調査役などを務めた経済学者の翁邦雄は「資産価格の上昇は、金融政策運営において警戒信号として十分に活用されなかった」と指摘している。

しかしバブル膨張は金融政策のみによるものではない。政府は、国際化によって東京のオフィス需要が急拡大して、オフィスが不足するという試算を発表してバブル期の不動産投資をさらに過熱させた。財政面でも、国の公共投資は抑制されたが、好景気によって税収が増加した地方自治体では地方単独事業の増加が見られ、これも景気を刺激することになった[要出典]。地方単独事業の増加には、国の財政赤字を抑制するために地方単独事業の増加を歓迎していたという背景もある。

経済学者の飯田泰之は「日銀の低金利だけでバブルを生み出したとは説明できない。バブルは、将来の東京の経済的位置づけを、過剰に評価し過ぎたことによって生み出された」と指摘している。

2000年6月1日、日銀理事の増渕稔は大阪大学で講演し「過去に金融緩和された時期はいくらでもあるが、その度にバブルが発生したわけではない」と述べており「金融緩和がバブルの主犯」という見方に反論する一方で「1988年から1989年にかけての対応に問題があったと言えるかもしれない」「利上げが遅れ、低金利が永続するといった期待を生み、バブルを膨らませた可能性はある」と述べている。

元大蔵官僚でバブル期には大臣官房審議官(銀行局)などを務めた西村吉正は「民間活力・規制緩和・自由化が結果的に金融活動を異常に活性化させた原因かもしれない」と指摘している。西村は「護送船団方式がよくなかったし、市場原理がもっと浸透する金融システムにしておくべきであった」「バブル崩壊の初期段階までは、日本の間接金融・メインバンクシステムは、日本経済全体の保険として機能するという意識があった」と指摘している。

元大蔵・財務官僚でバブル期には大蔵省証券局業務課課長補佐を務めた経済学者の高橋洋一は「日本では株式・土地の取引規制に抜け穴があったため、バブルが発生し、銀行融資が助長された」と指摘している。

(資料平成バブルウイキペディア)


世界同時株安でリーマンショックは再来するか
熊野英生:2018.2.7 ダイヤモンドオンライン












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