Galapagos Japas

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田中角栄 概説
自民党最大派閥の田中派(木曜クラブ)を率い、巧みな官僚操縦術を見せる田中は、党人政治家でありながら官僚政治家の特長も併せ持った稀な存在だった。
次世代のリーダーの一人として自民党総裁の座を狙っていた頃は、その膨大かつ明晰な知識と、徹底してやり抜く実行力から「コンピュータ付きブルドーザー」と呼ばれていた。

大正生まれ初の内閣総理大臣であり、在任中には日中国交正常化や日中記者交換協定、金大中事件、第一次オイルショックなどの政治課題に対応した。政権争奪時に掲げた日本列島改造論による日本列島改造ブームは一世を風靡したが、その政策はインフレーションを招いてこれを狂乱物価と批判していた政敵の福田赳夫を蔵相に抜擢して日本は安定成長期に入った。
その後の田中金脈問題によって首相を辞職、さらにアメリカ合衆国の航空機製造大手ロッキード社の全日本空輸への航空機売込みに絡んだ贈収賄事件、いわゆる「ロッキード事件」で逮捕・収監され、自民党を離党した。

首相退任後やロッキード事件による逮捕後も田中派を通じて政界に隠然たる影響力を保ち続けたキングメーカーだったことから、マスコミからは「(目白の)闇将軍」の異名を取った。1972年(昭和47年)に総理大臣になると、高等教育を受けていないにもかかわらず努力一筋で首相にまで上り詰めた経歴から「今太閤」、「庶民宰相」、「豊臣秀吉」とも呼ばれた。また、天下人の太閤秀吉になぞらえ子飼いの武将の「七本槍」を彷彿とさせることから、中堅幹部は「七奉行」とマスコミに表現された。

道路法の全面改正や、道路・港湾・空港などの整備を行う各々の特別会計法など、衆議院議員として33件の議員立法を成立させ、戦後の日本の社会基盤整備に正負両面にわたる大きな影響を与えた。また、社会基盤整備を直接担当する建設省や運輸省、大臣として着任していた通商産業省や郵政省などに強い影響力を持ち、政治家による官僚統制の象徴、族議員の嚆矢となった。

1972年8月7日の駐日アメリカ大使から本国への機密の報告書には「田中の粘り強さと決断力の源は、自らの力でのし上がってきた、その経歴にあると思われる。彼の大胆さと手段を問わないやり方は終戦直後の混乱からトップに登り詰めたことを反映している」とある。通産大臣時代に担当した戦後初の日米貿易摩擦とされる日米繊維交渉ではアメリカに対して粘り強く交渉し、貿易戦争の瀬戸際になるまで妥協しなかったこともあった。

学歴 小学校卒業まで
新潟県刈羽郡二田村大字坂田(後の同郡西山町、現:柏崎市)に父・田中角次(1886〜1964)、母・フメ(1891〜1978)の二男として生まれる。
ただし長兄は早逝しており、実質的には7人の兄弟姉妹で唯一の男児(他に姉2人と妹4人)だった。田中家は農家だが父は牛馬商、祖父・田中捨吉(田中角右衞門の子)は農業の傍ら宮大工を業としていた。母は寝る間も惜しんで働き、「おばあさん子」だったという。幼少年時代に父がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し、家産が傾き、極貧下の生活を余儀なくされる。幼い頃、ジフテリアに罹患した後遺症で吃音症を患い、浪花節を練習して矯正した。

1933年(昭和8年)、二田尋常高等小学校(現:柏崎市立二田小学校)卒業。なお、田中は最終学歴について「中央工学校」卒と公称することが多かった。しかし、現在の中央工学校は専門学校として東京都から認可を受けているが、専門学校を含める専修学校は1976年(昭和51年)に創設された学校制度であるため、彼が学んだ当時の中央工学校は学校制度上の学校ではなかった。また田中自身も、大蔵大臣就任時の挨拶に見られるように「高小卒業」を一つのアピールにしていたことがある。小学校時代から田中は勉学に優れ、ずっと級長をしていたという。高等小学校の卒業式では答辞を読んだ。

卒業後の田中は土木工事の現場で働くが一ヶ月で辞め、その後、柏崎の県土木派遣所に勤めた。旧制中学校への進学は、家の貧困と母の苦労から「気が進まなかった」という。
1934年(昭和9年)3月、「理化学研究所の大河内正敏が書生に採用する」という話が持ち込まれ、それを機に上京する。だが東京に着いてみると書生の話は通っておらず、やむなく仮寓先としていた井上工業に住み込みで働きながら、神田の中央工学校夜間部土木科に通う。
その後、保険業界専門誌の記者や貿易商会の配送員といった職に就いた。一時は、海軍兵学校入校を目指して研数学館や正則英語学校などにも通ったが、母の病気の報を受けて実業に志望を変えた、学籍は放校となっている。

1936年(昭和11年)3月、中央工学校夜間部土木科を卒業し、建築事務所に勤めるようになるが、事務所の主催者が軍に徴集されたため、1937年(昭和12年)春に独立して「共栄建築事務所」を設立する。これに前後して、日比谷のビルで大河内正敏と偶然エレベータに乗り合わせたことから知遇を得て、事務所は理研コンツェルンからの仕事を数多く引き受けた。この頃、仕事のかたわら実業学校である錦城商業学校(1936年商業4年修了) にも籍を置き、商事実務(コーポレート・ファイナンス)を学ぶ。

1938年(昭和13年)、徴兵適齢のため受けた徴兵検査で甲種合格となり、現役兵たる騎兵として陸軍の騎兵第24連隊への入営が通知される。
1939年(昭和14年)に入営し、4月より満州国富錦で兵役に就く。軍隊時に早稲田大学の「建築に関する専門講義録」を入手し勉強に励む。入営当初は内務班での私的制裁を古兵から受けたが、夏に勃発したノモンハン事件に古兵が動員されたことに加え、部隊内の事務や能筆といった技能により、上官に一目置かれるようになった。

1940年(昭和15年)3月、入営から1年で陸軍騎兵上等兵となる。しかし、同年11月にクルップ性肺炎を発症、翌年2月内地に送還される。治癒後の1941年(昭和16年)10月に除隊、翌月に東京の飯田橋で田中建築事務所を開設し、1942年(昭和17年)3月に事務所の家主の娘、坂本はなと結婚した。家主は土木建築業者で、結婚によりその事業も受け継いだ。同年11月に長男正法(1947年9月、4歳で死亡)が、1944年(昭和19年)1月に長女眞紀子がそれぞれ誕生している。

1943年(昭和18年)12月に、事務所を改組して田中土建工業を設立した。理研コンツェルンとの関係も復活し、理化学興業(ピストンリング製造、現:リケン)などから仕事を請け負う。田中土建工業は年間施工実績で全国50位入りするまでになった。

1945年(昭和20年)2月、理化学興業の工場を大田(韓国のテジョン)に移設する工事のため、朝鮮半島に渡る。8月9日のソ連対日参戦で状況が変わったのを察して、降伏受諾の玉音放送前に朝鮮にある全資産の目録を「新生朝鮮に寄付する」と現地職員に渡した。敗戦後の8月下旬に朝鮮半島から引き揚げた。田中土建工業は戦災を免れる。

政界入り 写真 長岡鉄道社長時代の田中

「泥沼の政界決算白書――決算委員誌上討論會」(『文藝春秋』32巻16号、文藝春秋新社、1954年10月)に掲載された肖像写真
1945年11月に戦争中より田中土建工業の顧問だった進歩党代議士の大麻唯男からの要請で献金を行ったことをきっかけに、大麻の依頼により1946年4月の第22回衆議院総選挙に進歩党公認で、郷里の新潟2区(当時は大選挙区制でのちの中選挙区制での区とは異なる)から立候補する。
田中は1月から地元に乗り込んで選挙運動を行ったが、有力者に与えた選挙資金を流用されたり、見込んでいた支援者が立候補するといった誤算もあり、候補37人中11位(定数は8)で落選した。この選挙の時に、「三国峠を崩せば新潟に雪は降らなくなり、崩した土砂で日本海を埋めたら、佐渡まで陸続きになる」という演説をした。

翌1947年4月、日本国憲法による最初の総選挙となった 第23回総選挙に、新たに設定された中選挙区制の新潟3区(定数5)から、進歩党が改組した民主党公認で立候補し、12人中3位(39,043票)で当選する。民主党は日本社会党・国民協同党の3党連立による片山内閣与党となったが、1947年11月に炭鉱を国家管理する臨時石炭鉱業管理法が提出されると、田中は本会議で反対票を投じ、他の14名とともに離党勧告を受ける。同様の理由で除名・離党した民主党議員と共に11月28日結成された同志クラブ(のち民主クラブ)に加盟した。民主クラブは1948年3月に、吉田茂を党首とする日本自由党と合同して民主自由党となる。この政党再編により、田中は吉田茂の知遇を得た。民主自由党で田中は「選挙部長」の役に就く。

1948年10月、芦田内閣が昭和電工事件により総辞職すると、後継首相として野党第一党党首であった吉田茂が浮上するが、連合国軍最高司令官総司令部民政局は吉田を嫌い、幹事長の山崎猛を首班とする工作を行った(山崎首班工作事件)。
しかし、民主自由党内からの反対によりこの工作は潰え、第2次吉田内閣が発足する。新内閣で田中は法務政務次官に就任した。まもなく、1年前の炭鉱国家管理法案をめぐって炭鉱主側が反対議員に贈賄したとされる疑惑(炭鉱国管疑獄)が表面化し、11月23日には田中の自宅や田中土建工業が東京高等検察庁に家宅捜索される。12月12日、衆議院は逮捕許諾請求を可決し、翌日田中は逮捕されて東京拘置所に収監された。田中の主張は、受け取った金銭はあくまで相手からの請負代金であり、贈収賄ではないとするものだった。

直後の1948年12月23日に衆議院は解散し、第24回総選挙が実施される。この選挙に田中は獄中立候補する。政治資金も底をつきかけた状況で、1949年1月13日に保釈されたものの、わずか10日間の運動しかできない中、1月23日の選挙では2位で再選を果たした。地元である柏崎市や刈羽郡で得票を減らす一方、北魚沼郡や南魚沼郡で前回の二倍に票を増やした。都会ではない「辺境」の地域、その中でも有力者ではない下層の選挙民、そして若い世代が田中を支持した。炭鉱国管疑獄は1950年4月に東京地方裁判所の一審で田中に懲役6か月・執行猶予2年の判決が下るが、1951年6月の東京高等裁判所の二審では、田中に対する請託の事実が認められないとして逆転無罪となった。

再選後の田中は国会で衆議院建設委員会に所属し、生活インフラ整備と国土開発を主なテーマに活動した。田中が提案者として関わった議員立法は33本にも及んだ。その主なものとして建築士法 や公営住宅法などがある。公営住宅法では、池田勇人蔵相に増額を説得し、後に日本住宅公団が設立された。また道路法の全面改正に取り組み、この改正法も自らが提案者となって1952年に成立した。二級国道の制定で国費投入の範囲を広げ、道路審議会を設置して「陳情」の民意を反映させる方式を取り入れた。1953年には、建設省官僚の意も受ける形で、道路整備費の財源等に関する臨時措置法を議員立法として提出し、「ガソリン税(揮発油税)相当分」を道路特定財源とすることを可能にした。

民主自由党は1950年3月に自由党となる。田中は1954年に自由党副幹事長に就任。「吉田十三人衆」と呼ばれる側近の一人と目されるようになった。1955年3月、衆議院商工委員長となる。同年11月の保守合同で自由党は日本民主党と共に自由民主党を結党する。

政界外では、長岡鉄道(後の越後交通長岡線)の沿線自治体から、路線の存続と電化を実現させる切り札として要望を受け、1950年10月に同社の社長に就任した。田中は電化を実現させるため、鉄道省OBで「電化の神様」といわれた西村英一に依頼したり、やはり鉄道省OBの佐藤栄作を顧問に呼ぶなどの手を打ち、1951年12月に電化を実現させる。電化に際しての莫大な費用は国庫から捻出されたが、これは大蔵大臣だった池田勇人が一肌脱ぎ、池田が創設した日本開発銀行が巨額の融資を行った。これを契機に西村は晩年まで田中の支援者となる。また、それまで大野市郎や亘四郎の地盤であった(長岡鉄道沿線の)三島郡で支持を広げることとなった。この効果も寄与する形で、田中は1952年10月の第25回衆議院議員総選挙では初めてトップ当選を果たしている。
このほか、1953年4月には、母校の中央工学校の校長に就任している。1972年に退任。また、同じく1953年に『越山会』が誕生した。


ロッキード事件と石油利権 2016-07-24 10:29:58 表示を確認 | 記事
田中角栄の政策は何をもたらしたのか?/斉藤淳×荻上チキ ...
https://synodos.jp/opinion/politics/18227

荻上今日のゲストを紹介します。元イェール大学助教授で政治学者の斉藤淳さんです。よろしくお願いします。 斉藤よろしくお願いします。 荻上最近の田中角栄ブームについて、さっそくこんなメールが届いています。 「私は書店に勤めていますが、最近、たしかに田中角栄の本がよく売れています。 










人口100人の里に伝わる「根子番楽」
華麗な舞と火花散る剣のエンターテインメント
朝日新聞 2023年03月08日
3月に秋田市で開催される「わっかフェス」は、未来を担う若者たちやゲストアーティストとともに、地域と伝統芸能の魅力を発信する催し。人口わずか100人あまりの集落に古くから伝わる国の重要無形民俗文化財「根子番楽」の練習風景を取材し、湊健作さん・彩音さん親子にわっかフェスへの意気込みを聞いた。
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インタビューに答えていただいた、湊健作さん(右)、彩音さん(左)親子。

週に一度、大人も子どもも集まる場所
秋田市から車を走らせること約2時間。「隠れ里」「秘境」といった言葉で紹介されることもある根子集落は、昭和50年にトンネルが開通するまで、行くにも来るにも山を越える以外になかったという。現在も世帯数は50戸強、住民110人ほどの小さな集落で、四方を山に囲まれた小盆地に家々が肩を寄せ合うように並ぶ。毎週水曜の夜、この集落では伝統芸能「根子番楽(ねっこばんがく)」の練習が行われている。地域の児童館には大人と子ども合わせて30人ほどが集まっていた。

修験道の山伏たちが山を降りた際、里の人たちに伝えたとされる「山伏神楽」は東北一帯に今も残り、秋田や山形ではそれが「番楽」と呼ばれる。根子番楽は、源氏の遺臣または平家の落人が伝えたものとされ、武家の文化らしい勇壮で荒々しい武士舞や、雅やかで文学性の高い謡に特徴があるといわれる。

そのような予備知識を持って臨んだのだが、目の前に広がるのは実にほのぼのとした光景だった。一番下はまだ保育園児という年少の子どもたちは文字通り駆け回って遊び、大人たちはそんな子どもたち一人ひとりに「よく来たな」「風邪ひいてねえか?」とやさしく声をかけている。800年の歴史を持つ伝統の舞いがこれからここで行われるとは、にわかに信じられない気がする。 

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口承だけで伝えられてきた800年の伝統
練習前に、湊健作さんと彩音さん親子に話を聞くことができた。2人とも小学校に上がるとすぐに番楽の練習を始めたという生粋の根子育ちだ。

「根子番楽は昔、担い手不足で中断してた時期があるんです。それを復活させようとしてたのが、ちょうど俺が子どもの頃で。小学校に上がるとそろそろやるかと声がかかって、自然に始めたって感じです」(健作)

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現在、根子番楽保存会のメンバーは大人が25人、こども会が10人。集落には子どもが少ないため、最近では近隣の阿仁合や上小阿仁の子どもたちも参加している。しかし、テレビやゲームなど子どもにとっては魅力的なものが他にもたくさんある時代に、毎週決まった曜日の練習は少々おっくうではないのだろうか。

「子どもの頃は夜に友だちと会えるだけでも特別感があったし、行きたくないと感じたことはないですね。私は根子集落に同級生がいなくて、年の近い人たちと一緒に番楽ができる水曜日が待ち遠しかったから、今の子たちもきっとそうだと思います」(彩音)

昭和の初め、根子番楽を広く一般に紹介したのは民俗学者の折口信夫だ。その後多くの人が研究したところによると、根子番楽は他の地域の山伏神楽と比べても特に古い形式をよく残していると考えられるという。しかし何しろ鎌倉時代に興ったといわれる芸能だ。録音や録画はもちろん、楽譜や舞の図解さえもあるわけではない。

「小さいうちは、年長のお兄さんやお姉さんたちの舞をひたすら見るだけ。その後に少しずつ、細かい所作を教えてもらって徐々に長い舞を覚えていきます」(健作)

「私が演奏する篠笛も楽譜はないので、上手な人の手元をよく見て、必死で音を聴いて、それを自分なりに真似して……というのを繰り返して練習しました。でもまだベテランの人たちの演奏には全然かなわないです」(彩音)

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受け渡す側の確かな技術と、受け継ぐ側の十分な熱意がなければ、そうした伝統はすぐに途絶えてしまうだろう。子どもたちの明るい声が響くこの根子集落の児童館では、一体どんな方法でその継承が行われているのか。これから見学する練習への期待が大いに膨らんだ。

伝統を守り続けることが私たちの「誇り」
練習の初めは子どもたちによる「露払い」から。毎年8月14日に集落の「根子番楽伝承館」で開催される本公演では、最初に披露される演目だ。さっきまで黄色い声を上げてはしゃいでいた最年少の子さえも、今は扇を巧みに使い、テンポの速い舞を流れるように舞う。

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京の五条で出会った弁慶と牛若の攻防を描いた「鞍馬」は、力強さと軽やかさの対比が見事な演目。クライマックスでは弁慶の振るう長刀に牛若がひらりと飛び乗るという驚きの見せ場もある。

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「イベントで他の芸能の方々と共演すると、根子番楽は特にテンポの速さとリズムが特徴的だなと思います。私たちにとっては普通ですけど、似たようなものってあまりないみたいです」(彩音)

「そういうイベントで根子番楽のファンになった人が、8月の本公演にわざわざ足を運んでくれることがあるんです。そういうのはうれしいです」(健作)

続いての演目は、3月のわっかフェスでも演じられる予定の「曽我兄弟」。1193年、源頼朝が富士の裾野で大規模な狩を催した際、それに乗じて父の仇討ちを果たした曽我十郎祐成と五郎時致の史実に基づく演目だ。2人いる舞い方のうち、1人は健作さん。先ほどの朗らかな笑顔とは一転、若武者たちの厳しい修行を描いた舞を力強く演じている。息の合った兄弟らしい、左右対称の動きが面白い。2人が激しく斬り合う場面では、ぶつけた刀から本物の火花が散った。ものすごい迫力だ。

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彩音さんは子どもの頃、健作さんや年上の人たちが番楽に打ち込む姿が「キラキラして見えた」という。その姿に憧れ自分も同じ道を歩み、今も仕事の傍ら囃子方の練習を欠かさない。「伝統芸能というのは、若い人がやらなければ途絶えてしまうものだと思います。根子には番楽があって、子どもから大人までみんなが一生懸命取り組んでいる。私はそのことが誇りなんです」

練習前、「これまで番楽の練習をやめたいと思ったことはないですか?」という質問に、「この辺は飲み屋がないし、同世代と週に1回飲める機会だから」と笑って話していた健作さんだったが、後でもう一度同じ質問をすると「ずっと残ってきたものにはそれだけの意味があると思うし、自分もなんとか後に残していきたいという思いはあります」と真剣な眼差しで語ってくれた。雪国のトンネルを抜けた先にあったのは、親から子へ、さらにその子へと長きにわたり受け継がれてきた、尊く美しい「キラキラ」だった。

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細部まで磨き上げ、最高の番楽を見せたい
「見ているだけで旅をしたような気分になりました。それぞれに独特の宇宙があって素晴らしい。感動しました」。2月中旬、わっかフェス出演者との交流会のため秋田を訪れた東京スカパラダイスオーケストラの谷中敦さんは、根子番楽、なまはげ太鼓、西馬音内盆踊りを鑑賞した後にそう語った。同じくスカパラのNARGOさんは、「何百年という歴史ある芸に触れて、たくさんエネルギーをもらいました。なんだか体が軽くなった気がします」、茂木欣一さんは「僕はドラマーとしてみなさんの奏でるリズムに本当に興奮しました。秋田のグルーヴはすごいです」と感想を述べた。

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3人の「感動」や「興奮」が、鑑賞中の様子から十分に伝わってきた。短い時間ながら秋田の芸能の奥深さに触れ、本番へのイメージが広がったようだ。最後に谷中さんは、出演者たちに宿題を課すようにこんなメッセージを贈った。

「細部に神が宿ると言いますが、もうこれでいいかなと思ってからも磨き上げってできるもので、磨けば磨くほどもっと光るんですよね。みなさんの芸能もそうやって磨き上げてきたものだと思います。わっかフェスでは、みんなで最後まで粘って磨き上げて、最高のステージにしましょう」

対面が終わり健作さんに感想を聞くと、「いやあ、でも盆に集落でやる本公演に比べたら緊張しねえ。あっちは目の肥えた人ばかり見にくるから、集落でやるのが一番こわい(笑)」と、まるで力む様子はなかった。しかし、言葉とは裏腹に本番までにはきっちり「磨き上げ」をしてくるのだろう。

北秋田の小集落に伝わる根子番楽が、スカパラと同じステージに立つ第1回わっかフェスは、いよいよだ。

※第1回わっかフェスは2023年3月9日に終了しました。ご来場・ご視聴くださり、誠にありがとうございました。



泥棒か英雄か、顧客の脱税情報を大暴露
腐敗を一掃し経済を市民の手に取り戻そうとする男の10年
工藤律子(ジャーナリスト)イミダス・集英社 2016/10/21 
 日本ではあまり知られていないが、2006年11月からの約5カ月間に10万人以上の脱税者の記録をスイスにある銀行から盗み出した男がいる。欧米では「スイスリークス」として衝撃的に報じられた。その彼が、いま、市民による変革をリードするスペインの市民政党ポデモスの反汚職政策の作成に参加。銀行や金融システムを市民の手に取り戻すことを訴えている。果たして彼は何者なのか!? ジャーナリスト工藤律子が取材した。

金融界のスノーデンかアサンジか

 エルベ・ファルチアーニ(44歳)。彼の存在を知ったのは2014年の春、スペインで取材をしていた時のことだ。08年のリーマン・ショック後の経済危機の中で緊縮政策を実施し、国民を苦しめる一方で保身に走る政治家や銀行にノーを突きつけ、社会変革を求めて11年5月に生まれた市民運動「15M(5月15日)」。この運動を追いかけていた私は、15Mに参加した若い世代が12年12月に生み出した市民政党「パルティードX(X党)」が気になっていた。パルティ-ドXは、「腐敗を一掃し、民主主義を実現する」という明快なスローガンを掲げ、政党登録はしているが、メンバーの名前などを一切公表することなくネット上に現れ、「バーチャルな」存在でしかなかった。しかし、その後「姿」を現わし、14年5月の欧州議会選挙に、「リアルな」候補者をたてて挑んだ。その候補者リストのトップにいたのが、ファルチアーニだった。

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 欧州議会選挙では、同年1月に誕生したばかりで5議席を獲得した市民政党「ポデモス(私たちはできる)」に注目が集まり、パルティードXは結局、議席を得ることができなかった。とはいえ、彼らがファルチアーニを前面に出して戦ったことには、ひとつの強いメッセージが込められていると感じた。「腐敗の一掃」だ。ファルチアーニは、選挙時の記者会見で、こう述べている。「私たちが開発した、銀行の取引をモニタリングするシステムを、欧州全体に導入することを提案します。すべての銀行にその使用を義務づけることができれば、脱税を監視することができます」

 モンテカルロ生まれでイタリアとフランスの国籍を持つファルチアーニは、イギリス資本の大手銀行HSBC(香港上海銀行)のシステムエンジニアとして、スイスのジュネーブに勤務していた06年11月からのおよそ5カ月間に、同銀行に秘密口座を持つ10万人以上の顧客の情報を盗み出した。

 それは、HSBCのプライベートバンキング部門が、世界200カ国を超える国々の顧客の脱税を幇助(ほうじょ)していたことを示すものだった。スイス当局は、彼をデータ窃盗などの罪で08年12月22日に逮捕したが、翌日取り調べに戻る条件で解放した。すると直後にフランスへ逃亡したファルチアーニは、ニースでフランス検察を通して、情報をフランス政府に提供。フランスはスイスへの彼の身柄引き渡しを拒否し、データをもとに脱税捜査を始める。データは、アメリカやスペイン、イギリスなどへも渡り、各国の脱税摘発に貢献することになる。
 ファルチアーニ自身は、スイス当局によって国際指名手配され、逃亡生活を送ることになった。そして12年7月、フランスからスペインのバルセロナへ入ったところで逮捕、勾留される。だが、スペインでは金融情報の持ち出しを犯罪とは定義しておらず、また脱税という不正行為の告発に貢献するものとして、同年末に無罪放免となった。それは、「アメリカがスペインの司法制度を知った上で、ファルチアーニにアドバイスした」行動の結果だといわれる。
 こうしてスペインを拠点に活動することとなった彼は、13年10月、パルティードXの腐敗対策委員会への協力者として、スペインのマスコミに再登場することになる。そして翌14年に、欧州議会選挙に出馬するわけだ。
 この辺りまでの経緯は、日本ではあまり知られることがなかったが、15年2月、「パナマ文書」で有名になった「国際調査ジャーナリスト連合(ICIJ)」が同団体のウェブサイトで、ファルチアーニが提供したデータを公表すると、たちまち世界中で話題となった。欧米のマスコミは、彼を「金融界のスノーデン」とか「アサンジ」とか呼び、彼がもたらした情報を「スイスリークス」(スペインでは、「リスタ・ファルチアーニ」、つまりファルチアーニ・リスト)と名づけて報道する。


「泥棒」か「英雄」か

 ファルチアーニはなぜ、逮捕のリスクまで犯して情報を持ち出し、リークしたのか? スイス当局は、彼がその情報を売却して大金を得るために盗んだとし、あくまでも「経済スパイ」や「泥棒」という犯罪者として裁こうとしている。が、本人の主張は、それとは異なるものだ。
 16年5月、スペインの首都マドリード郊外の町、アルカラ・デ・エナーレス(『ドン・キホーテ』の作者、セルバンテス生誕の地)で、本人が直接語ってくれた経緯は、こうだ。
「情報そのものに関心があったわけではなく、(HSBCという)大企業がついているウソ、脱税の手口を明らかにしたかったんです。そのウソに関わり続けたくなかったですし。だから、具体的な証拠を示して、例えばHSBCは麻薬カルテルのための銀行だということを、証明したかった。情報を共有することでそれを達成できたことが、一番の成果だと思っています。また、情報を共有すれば正しいことが行えるということを示すのも、リークしたもう一つの理由です」

 実際、アメリカでは、この情報に基づいて麻薬カルテルの資金洗浄などに協力した疑いでHSBC銀行が司法省に告発されたといわれ、同銀行は19億ドル(約1900億円)の罰金を支払った。スペインでも、これまでに659人分の口座についての脱税調査が行われ、約2億6000万ユーロ(約312億円)の税が回収された。ちなみに日本人もリストに載っていたが、今のところ、脱税捜査の気配はないようだ。
 一連の脱税捜査を巡り、ファルチアーニ自身は今、フランスをはじめとする複数の国の税務関係機関の仕事を請け負うことで報酬を得るなどして、生活している。

ローカルな闘いでグローバルな問題を解決

 実は、私が16年5月にファルチアーニと会ったのは、スペインの「全国補完通貨大会」という地域通貨の普及などに取り組む市民の集まりにおいてだった。彼はその日、「フェア・ペイ(fair pay)」というテーマで、30人ほどの参加者を前に、話をしていた。地域社会といったローカルな場面での取り組みが中心の大会で、彼のような「国際的金融システムの問題に関与する」人間が何を話すのか、興味があった。
 青いカッターシャツできめた、案外イケメンのフランス人システムエンジニアは、聴衆にフランス語訛りのスペイン語でまず、「金儲けのためではない、社会的意味合いの強い金融手段は作れるか?」という問いかけをした。
「例えばビザ、マスターなどのクレジットカードは、顧客のためというより、むしろ企業の利益のために作られたものです。しかし、それとは逆の、市民のためのクレジットカードを作ることもできます。自分は誰に貢献したいのかを明確にし、それに合ったクレジットカードを作ることは可能なのです。要は、そのカードが信頼できるものかどうか、つまり情報への信頼が重要なので、それさえ確保すれば、何も大企業が発行するクレジットカードを持つ必要はないのです」
 そう話すと、一例として、各市町村で独自のクレジットカードや電子マネーを作る可能性について、説明する。

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「市民は信頼できる町(市政・町政)を築き、町が市民とともにカードや電子マネーを含む独自の通貨を発行し、その貸し付けや支払い方法などを決めて、コントロールする。そうなれば、金融サービスに関する不正は排除され、信頼できる情報のやり取りができます。タックスヘイブン(租税回避地)の問題も解消する。信頼を維持するために最も大切なことは、私たち市民がその制度についての知識をきちんと持つことです」
 つまり、従来のような金融機関に自分の財産や消費行動をコントロールさせるのではなく、自分たちのコミュニティを基礎にした金融システムを築き、市民が地域行政とともに自分たちの経済をコントロールしようというのだ。
 地域通貨を扱っている人たちにとって、その根底にある考え方はよく理解できるものだが、例えば「クレジットカード」のようなものは、自分の町の中だけでなく、国内外のどこででも利用できないと困るではないか、という疑問が出た。これに対し、ファルチアーニは笑顔でこう応じる。

「ローカルマネーをグローバルに利用することは、可能です。金融取引は単に『情報の共有』にすぎないからです。『銀行』というのも、実は『情報テクノロジー会社』とほぼ同義語で、現金による取引は、取引全体の2%程度にすぎません。ですから、オープンソースを使って世界とつながり、独占を排した取引システムを構築すれば、どんな町が発行したクレジットカードでも、外国での買い物に使えるようになります。そして、もし問題が起きた場合は、自分の町の役所で問いただせばいいのです。実現にはまだ時間がかかりますが、皆さんのように地域通貨を扱っている市民がその気になれば、第一歩が踏み出せると思います」
 確かに金融取引はデジタルデータのやり取りにすぎないのだから、システムさえ確立できれば、基礎単位が「市町村」であっても、国際的なやり取りができるわけだ。最近流行の「ビッグデータ」も、それを入手するシステムを築き上げれば、私たち市民がそれを有効利用できるようになると、ファルチアーニは言う。
「現在は、欧州中央銀行のような機関や大手クレジットカード会社のような大企業が、金融とテクノロジーを独占し、中央集権的に統制しています。それを私たちの手に、ローカルな主体のもとに持ってくることが、公正な取引、つまりフェア・ペイのために重要なのです」
変革のエージェント

 この日ファルチアーニの話を聞きにきていた人たちの中には、大会開催地アルカラ・デ・エナーレスの「ポデモス」党員もいた。それは彼が、15年2月からポデモスの腐敗対策部門の活動に協力しているからだ。「(社会変革を目指す複数の)政党への協力は、あくまでもボランティア」だと語り、各地のポデモス支部と連携して、政治家の汚職や企業の脱税問題の告発のために動いている。
「政治腐敗が、経済の病いを引き起こす」と断言するファルチアーニは、ポデモス系の市民政治組織が担うバルセロナ市政を、絶賛する。バルセロナは、タックスヘイブンを使って脱税をしている疑いのある企業とは一切の契約をしないという、国内初の条例を出すなど、具体的な腐敗対策に取り組んでいるからだ。
「情報と経済的知識をしっかり持つことは、政治を豊かにします」
 ファルチアーニは果たして、泥棒なのか、それとも「変革のエージェント」なのか。どちらにしろ、彼がしていることが市民に利をもたらしていることだけは、確かだ。

メキシコやスペイン、フィリピンなどで、格差社会に生きる人びとを見つめ続けるジャーナリスト工藤律子の連載コーナー。

工藤律子 (くどう りつこ)ジャーナリスト
1963年大阪府生まれ。東京外国語大学地域研究研究科修士課程在籍中より、メキシコの貧困層の生活改善運動を研究するかたわら、フリーのジャーナリストとして取材活動を始める。著書に「仲間と誇りと夢と」(JULA出版局)、「ストリートチルドレン」(岩波ジュニア新書)、「マラス 暴力に支配される少年たち」(集英社、開高健ノンフィクション賞受賞)、「マフィア国家 メキシコ麻薬戦争を生き抜く人々」(岩波書店)などがある。NGO「ストリートチルドレンを考える会」共同代表。

「社会的連帯経済」への誘い17「ケアセンターほみ」地域を支える多文化協働
工藤律子 2023/03/10イミダス・集英社
https://imidas.jp/latingang/?article_id=l-70-048-23-03-g471
 2008年のリーマンショックは、愛知県豊田市にある自動車関連の工場で働いていた大勢の外国人から職を奪った。多くの人が生活していけなくなり帰国を余儀なくされる中、日本人と手を取り合って協同組合を運営し、地域で新たな役割を担うようになった外国にルーツを持つ人たちがいる。


「令和の虎」降板が発表された竹之内社長、謝罪したガーシーから「ここから先は手助けに回る」DJ社長も『救いたい』動画で援護
石井 有紀 2023.01.13  All About NEWS
 東谷義和(以下、ガーシー)さんによって金銭トラブルを暴露された、りらくる創業者の“竹之内社長”こと竹之内教博さんについて、YouTubeチャンネル「令和の虎CHANNEL」主宰の岩井良明さんが1月11日に動画を公開しました。
 
「経営者としては最高の判断」

岩井さんは「真偽のほどは定かではない」としつつ、これまでに竹之内さんが起こしたトラブルを踏まえて「距離を置かせていただきたい」と事実上の降板を発表しました。岩井さんは「本音で言うと ちょっとさすがに僕も疲れた」と思いも明かしています。また、動画の最後では竹之内さんに向け、「そろそろ落ち着いてちゃんとやりましょうよ」とメッセージを送りました。
 
コメント欄には「金のために反社との関わりや裏での恐喝を認めたとなると、今後の出演者や他の社長達の被害者出さないためにも距離をおくというのは素晴らしい」「ナイスすぎる」「経営者としては最高の判断」と、岩井さんの決断を支持する声が相次ぎました。
 
同日、2022年12月にチャンネル登録者数400万人を達成したRepezen FoxxのDJ社長さんも動画を更新。「反社からお金を借りて? さらに裏では青汁を脅そうとしたりとか?」「俺からアマギフ代 嘘ついて借りてたよな?」と指摘し、竹之内さんの言動から「実は俺… 怪しいなって思ってた」と明かしました。
 
さらに竹之内さんが「助かる唯一の方法」として、「一緒に ドバイに行かないか?」、ガーシーさんに「会いに行こう」と提案。「いつもこのくだりは冗談なのが99%だけど 今回の『ドバイに行かないか』はガチだからな!?」と念を押し、実際に13日にはドバイの空港から竹之内さんを待つYouTube Liveまで配信しました。
 

一方、竹之内さんは12日にガーシーさんが運営するオンラインサロン「GASYLE(ガシル)」の生配信に登場し、ガーシーさんへ謝罪。ガーシーさんからは、「謝ってもらったから ここから先は手助けに回る」と“許し”をもらったようです。
 

また、借金については11日に完済したと報告。さらに「DJ社長に関してはドバイっていう話が出たので、直接会いたい」「明日の夜発で行こうと思ってて」と、13日の夜にドバイに向け出発する意向も示しています。ドバイでガーシーさんやDJ社長さんへ直接謝罪となるのか。いずれにしても、窮地に陥った竹之内さんには、追い風が吹き始めたようです。
 
>:関連  https://news.allabout.co.jp/articles/o/55417/
 DJ社長からも500万の借金をしていたことが明るみに
画像出典:三崎優太 青汁王子
8日、“青汁王子”こと実業家の三崎優太さんが「緊急で」とYouTube Liveを配信。そこに登場したのが、世間を騒がせているガーシーこと東谷義和(以下、ガーシー)さんです。ガーシーさんは、令和の虎のメンバーや反社会的勢力などから借金をしている竹之内さんが、三崎さんからお金をだまし取ろうとしていると暴露しました。
 さらにガーシーさんは、2022年12月にRepezen FoxxのDJ社長主導で企画したAmazonギフト券配布企画についても、竹之内さんがDJ社長から500万円の借金をして参加していたことを明かしました。


DJ社長、「アマギフおみくじキャンペーンは失敗」「全て僕の責任」と謝罪。あおっていたコムドットと勝敗分かれる
石井 有紀 2022.12.28  https://news.allabout.co.jp/articles/o/54699/
Repezen Foxx(以下、レペゼン)のDJ社長さんが12月27日、自身のTwitterを更新。チャンネル登録者数増加を狙ったキャンペーンについて、発信しました。

 DJ社長さんは、「ヒカル君と令和の虎の方々、各チャンネルのファンの皆様、そして、このキャンペーンを楽しみにしてくださってた沢山の方々。アマギフおみくじキャンペーンは失敗に終わりました。全て僕の責任です。何も言い訳出来ません。誠に申し訳ありませんでした」と、キャンペーンが失敗に終わった報告と謝罪をしました。
 
このキャンペーンはレペゼンの公式LINEと指定された10本のYouTubeチャンネルを登録するとおみくじが引け、総額1億5000万円が応募者へ当たるというものでした。ところが初日から応募が殺到。システムに負荷が掛かり、なかなかおみくじが引けないとトラブルが発生し、その後も安定した運用ができていませんでした。さらに、25日の深夜帯から26日にかけてYouTubeチャンネルの登録者が相次いで解除されるなどの状況にも陥っていました。
 
ネット上では「絶対YouTubeのバグだよ!社長応援してる」「失敗じゃなくて経験でしょ?」「次にどう巻き返すか。快進撃を見せて」と前向きな声も上がる一方、「登録者数減ってるのAmazon関係ないかもよ」「グーグルが強制的に解除してるので確定だと思う」「Youtubeの規約違反」など、キャンペーンや登録解除についてさまざまな声が上がっています。
 
皮肉なことにけんかを吹っ掛けた5人組YouTuberグループのコムドットは、DJ社長さんの謝罪した27日に400万人を達成。
28日現在、レペゼンのYouTubeチャンネル登録者数は393万人です。残り4日間(※28日含む)で400万人達成の雄たけびを上げることができるのか。DJ社長さんの今後の動向に注目が集まっています。


「DJ社長」木元 駿之介は福岡県出身の男性歌手、DJ、YouTuber、キックボクサー、総合格闘家。
本名は木元 駿之介であり駒澤大学経営学部出身である。日本人と韓国人のハーフ。
Repezen Foxxのリーダー。Studio Candy Foxx所属。現在はインドネシアと日本を拠点に活動している。 ウィキペディア

「DJ社長」の英会話動画レッスン https://youtu.be/1JBI1-e0KmI





「高橋幸宏」さん死去 YMOメンバー沈痛…

坂本龍一は灰色画像投稿、細野晴臣コメント出せず
2023年1月16日 5時25分 スポーツ報知



動画 ニュース翻訳サイト https://youtu.be/w8zy5FEdAus



与作、与作は雨が~降る・・・



output (22)

アルメニア王国は、紀元前190年から紀元前66年まで独立していた王国であり、428年までローマとペルシア帝国に従属していた国家だった。1世紀にキリスト教の布教が行われ、301年にキリスト教を国教とした。大アルメニア王国とも言われる。
独立まで
アルメニアは王国として独立するまで、アケメネス朝、アレクサンドロス帝国、セレウコス朝のサトラッピ(州)であった。アルメニア人はおもに交易の担い手としてメソポタミア、小アジア、地中海方面で活躍していた。セレウコス朝のアンティオコス3世(在位:紀元前223年 - 紀元前187年)がマグネシアの戦い(紀元前190年 - 紀元前189年)でローマ軍に敗れると、アルメニアのサトラップ(太守、総督)であったアルタクシアスとザリアドレスはローマ軍の賛同を得て独立を宣言し、それぞれアルメニア王国、ソフィーネ王国を建国する。

アルタクシアス朝
アルメニア王国はその創立者アルタクシアス1世(在位:紀元前189年 - 紀元前159年)に因んでアルタクシアス朝と呼ばれる。
アルタクシアス朝(紀元前189年 - 66年)はかつてのウラルトゥ帝国の版図を中心として約2世紀の間その支配を確立することとなる。
アルタクシアス1世の在位中、アルメニア語は公用語としての地位を確立するが、諸々の記録にアルメニア文字が使われるようになるには、紀元後3世紀~5世紀の人と思われる聖メスローブすなわちメスローブ・マシュトツの出現を待たねばならない。
したがってアルメニア文字によるアルタクシアス朝の当時の記録は存在しない。アルタクシアス1世の在位中、東と西に分裂していたアルメニアの統一が紀元前165年に提案されたが、彼の生存中に果たすことができなかった。

アルメニア王国の繁栄
アルタクシアス朝を継いだ者の中でアルメニア史において〝帝王”の名を冠して呼ばれるのはティグラネス2世(ティグラネス大王と呼ばれる)ただ一人である。

ティグラネス2世(在位:紀元前95年 - 54年)はアルメニア人の間では〝王の中の王”として伝説的な存在にすらなっている。ティグラネス2世の統治のもと、アルメニアの東と西が統一され、アルメニア王国は古代史上における最盛期を迎えることになる。

ティグラネス2世はパルティアから広大な領土を得ただけでなく、大アルメニア帝国の確立を目指して各地を転戦し、その遠征先は遠くパレスチナのプトレマイオスにまで達したといわれる。
さらにティグラネス2世は領土を拡大し、イベリア、アトロパネテ、アルバニアをはじめとするコーカサスの諸地域も紀元前83年までに帰属させた。これらの征服地はシリアと南方の一部を放棄させられた以外、ほぼ500年間アルメニアのアルタクシアス朝によって統治される。しかしその晩年にはセレウコス朝とも婚姻関係を持っていた義父のポントス王ミトラダテス6世とローマ帝国との紛争に巻き込まれ、シリアをはじめとする一部の領土を放棄してローマ帝国の同盟国となることでその独立を承認された。

ローマとパルティアの支配
ネロの治世下、ローマは同盟を結んだアルメニアに侵略してきたパルティアと55年から63年まで戦った。60年のアルメニア奪還と62年の喪失の後、ローマはパンノニアから第十五アポロン軍(英語版)のシリア総督コルブロを派遣する。コルブロは第十五アポロン軍の他、第三ガリア軍、第五マケドニア軍(英語版)、第十フレテンシス軍(英語版)と第二十二軍を率いて63年、アルメニアの王位をティリダテス1世(英語版)に復位させたヴォロガセス1世の領域に入った。これ以来、パルティアが望む人物を王に就け、戴冠はローマ皇帝及びその代理が行うという両属体制が出来た。名目上はローマ帝国の属国で、実質はパルティアの属国という折衷案である。

114年、第5次パルティア戦争を有利に運んだトラヤヌスは、一時的にアルメニアを属州化した。しかし、新たに属州化したメソポタミア地域の維持に耐えかねたローマ帝国は、118年にこれらの属州を放棄した。その後、再びアルメニア王国の支配に戻った。

ヴォロガセス4世がアルメニアに侵略し、旗下の将軍を王位に就けたことによって162年から165年までルキウス・ウェルス帝の戦役が引き起こされた。パルティアの脅威に対し、ウェルスは東へ出発した。彼の軍は大勝を治め、首都を取り返した。ローマ市民権を持ち、アルメニアの相続権利を持つソハエムスが傀儡王として即位した。

アルメニア王国の衰退
サーサーン朝ペルシアは252年アルメニアを占領し、ローマが287年に取り戻すまで保持した。384年に王国は東ローマとペルシアの間で分裂した。西アルメニアは即座に小アルメニアという名でローマの属州となった。東アルメニアは428年までペルシアの内部でそのまま王国として残った。その後地方貴族が王制を廃止、サーサーン朝が行政官を送り込んだ。アルメニアは301年にキリスト教(後のアルメニア使徒教会)を国教としたが、これは世界初であった。アルメニア人の間にはキリスト教は浸透しており、ローマ側においても、ペルシア側に併合された地域でもキリスト教の信仰は衰えることはなかった。

建国神話
マケドニアの建国神話は、異説もあるが、最も有名なのはヘロドトスの伝える建国神話である。

ヘーラクレースの曾孫であったテメノスがアルゴスの王位を継承し、その子供たちがテメノスの王位継承を巡って争いを起こした。この時、敗れたペルディッカス1世は兄たちと共にレバイアという上マケドニアの町に亡命したが、ここで凶兆が現れたとして更に追放された。
ペルディッカス1世は兄たちを引き連れて更に放浪とし、最終的にはミダスの園と呼ばれる場所の近くに定住した。そこを拠点として彼らは周囲の土地を征服し、マケドニア王家を創始した。
したがって、マケドニア王家はアルゴスを故郷とし、更にヘーラクレースの血を引く由緒正しき英雄の血筋であるとした。



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