Galapagos Japas

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「バナナ・キャッチ」

 この業界では、東京税関に摘発されることを「キャッチ」と呼んでいる。 

  帰国日の朝を迎えた。午前中にホテルをチェックアウトし、午後の全日空便に搭乗、夜には成田着となる予定だった。

 香港空港での保安検査も出国審査も全員問題なくパスし、問題の「バナナ」を受け取ると、各自個人行動になってから飛行機に乗り込む。
いつも通りに、機内食を食べ終わってしばらくしてから、機内のトイレで「バナナ」のポジションを調整してみた。

「違和感あるな、いやシリコンの張り具合が硬いだけさ]、と自分にいい訊かせた。
 バナナ六本というのは存外に重く、調整してもしばらくすると、ポケットの付いた内側のスポーツティーシャツが徐々に垂れ下がってきてしまう。ズボンのベルトをキツく締めておかないと、重さで垂れてきた「バナナ」が脇にズレて、腹のシリコンの外にはみ出してくるのだ。
 もしもボディーチェックで、ベルトを緩める羽目になったら「ヤバいぜ」、と嫌な予感は感じていたものの、もう今更どうすることもできない。この場に及んでいま一つの不完全材料をぬぐさることの出来ない自分にいらだった。 


 そうこうしているうちに飛行機は成田空港上空を飛んでいた。下界から見た道路沿線と、空から見たグーグルマップが同じものだとはまったく見えない。

「もしかするとオレ、騙されているのか?」
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 そんな余計なことを考えている暇もなく、あの手この手と思案していた段取りは、ことごとく消え去り、対策を練るにも打つ手がないままに税関検査へと臨む羽目になってしまった。「時は金なり」なんていってる余裕はまったくなかった。

 
 平常なら税関検査官の無機質挨拶通り、「どちらからお帰りですか?」という一言から始まり、パスポートと税関申告書を渡すことになっていた。

 通常、何も訊かれないままスルーのこともあるし、訊かれるとしても、お決まりの渡航先や滞在日程のはずなのだが、この日はまるで様子が違った。

 列に並んで数分、前にいた男の検査を終えるや否や、二人体制で待ち構えていた検査官は俺に 「こういうモノをお持ちでありませんか?」 と、いきなり金塊の写真の載ったクリアファイルを見せてきた。
 それは奴らが何時もやりそうな手口だったが、咄嗟の不意を突かれると、完璧には対応できない。何事もリハーサルが必要だと、このときばかりは後悔した。

 不意を突かれて一瞬心臓が止まりそうになったが、それでも俺は平然を装って 
「いや」 
 と答えた瞬間 、
「ちょっとボディーチェックさせていただいてよろしいですか?」  
 と検査官がたたみかける。 

 激しい心臓鼓動拍をさとられまいと必至だった。

 その背後にはもう一人の別の検査官が、既にスタンバイしていて、俺は三人の検査官に取り囲まれてしまった。 

 検査官たちの行動がこれまでと違い、素早く無駄がない。なんとなく怪しいからちょっと質問を掘り下げてみよう、という段階を一気に超えて、俺が絶対に何かを隠し持っていると、決めてかかっているようだった。 そりは見事に当たっていた。

「完全に狙い撃ちだ」 
 としか思えなかった。検査官たちが放つオーラがピリピリとしていて、剣呑過ぎる。本能的に危機を察知した俺の脳は、瞬間的に様々なシミュレーションが駆け巡り、そこから出した結論は、 

「とにかく、この場を早く終わらせる」、
それしかなかった。 
 
 それが今取れる最善策だと思った。誤魔化して時間を稼いでも、誰も助けてくれない。抜け道を探すことはもはや不可能だし、あったとしても旨い芝居ができる状態ではなかった。
 
「腹に、あります…今のモノ…」 

 俺は動揺を表層に出さないように云ったつもりだが、喉の奥から振り絞って出た言葉だったので、そうは聞こえなかったらしい。検査官の眼光が鋭く光り 、こちらを凝視する。

「どこにあると云いました・・・?」 
 と顔をわざとらしく近寄せてきた。俺が自分の手で腹を触ると、そこに検査官の手が伸びて、感触を確認される。はみ出た「バナナ」に検査官の指が当たったのが、俺にもわかった。 

「別室に行きましょう」 

 すべては終ったか、諦念する精神が逡巡している。こんなときの形容として「真っ暗」と比喩するらしいが、そんなことはなく蛍光灯直下の室内描写は1ミリ単位で脳内にインプットされていた。

 三人の検査官に左右と後ろを囲まれ、俺はそのまま、普段とは違う特別な通路に案内され検査室へ通じる通路に導かれた。
 いつか通った道、あるある、こんな風景だった。歩いても歩いてもまったく前に進んでいない、逃げようとしても自分の体躯が云う事を効かない。あれは14歳のときに経験した片方の腎臓摘出手術の薄暗い通路だった。その大学病院はおそらく100年前の建物らしく、室内電線がむき出しに配線されているという古さで、それが余計に通路を暗くしていた。
 
「なぜこんなことになってしまったのか…」。暗い通路をとぼとぼ歩きながら俺の頭の中は機能停止寸前だった。パソコンだったら完全フリーズ状態。

 ボスや利根川、メンバーみんなの顔、香港の街角の風景、孫さんの笑い声などが、グルグルと走馬灯のように逡巡していた。

 この後に何が待ち受けているのかという重いプレッシャーに苛まれ、わずか十数メートルの通路が遥か先まで続くように感じた。それはまったく「ムンクの叫び」のような光景で、この世のものとは思えなかった。
 
 通路の奥にある検査室に着くと、まずは全身写真と顔写真を撮られた。若い係官は撮影するのに手間取っていて、何度も同じ箇所をいじって首をかしげていた。
 俺は、それをみて、そこのスイッチを押せばいいのに、とおもったが、知らぬ振りをしていた。どうせ奴らだって、家に帰れば若妻もいるだろうし、年少の子供だっているだろう。下手をすと認知症の親を抱えいてるかもしれない。官吏官といえども人の子で邪険にはできないだろう。俺の罪が仮に確定したとしてもだ。

 次にジャケット、ワイシャツ、肌着を脱ぐように云われ、黒のスポーツティーシャツのみの姿にさせられた。いまさら隠す歳でもなかったが、そいつらに素肌を見せることには抵抗があった。
 
 その腹部を、二人の検査官が交互に、「バナナ」の位置を確かめるように触って確認する。命じられるがままに、上に重ねている黒いスポーツティーシャツを腹までたくしあげると、挟み込んでいた腹型シリコンが、ズルッと落ちてきた。それを拾って手で持つように云われ、その姿をまた写真を撮られた。 屈辱的ポーズだなと、そのときばかりは鳥瞰図でみている自分を笑った。それもほんの束の間だった。
 とにかく脱いでは写真撮影、剥いでは写真撮影の繰り返しだった。
「あれっ、こんな図柄どっかでみたな」。
 それは大麻を下着に隠して逮捕された時代劇俳優の一シーンで、あまりの滑稽さに涙が出た。それとまったく同じことをしている自分の姿は、「それとは別だろ」と変な屁理屈をつけて自虐納得させていた。人間、人前でハダカになるとこんな惨めなことは無い。
 最終的にはパンツ一丁になり、身に着けていたものが床に広げられているのを、ひとつひとつ指差しながら、その姿の写真撮影も行われた。犯罪者画像のソレだった。
 古事で「剣気褌脱」というのがある。いさましい武将が闘魂している中、ふんどしから玉が飛び出しても気が付かないという、武勇を准えたものだが、なにもしないで、その格好になったら、こんな惨めなものはない。まさにそれだった。

 検査官は事務的な対応をしつつも、時として嘲笑うような表情を見せてくる。客観的に見たらかなり屈辱的な光景なのだろうが、俺にはその感慨に浸る余裕もない。今後の追及にどう対応すれば良いのか、という考えだけが、目まぐるしく交錯していた。

 家族にはどう説明しよう。娘には内緒話しで騙せるか。隣り近所の世間体はどう繕うか、このときばかりは思考がまったく日本人化していた。普段こっぴどく日本人特性をけなしていたくせにだ。
 
 それから矢継ぎ早に、ゴールドバーはもちろん、シリコンやらティーシャツやらの、ゴールドバーを隠すために使った道具が押収された。
 続いて、パスポートや携帯電話、財布の中に入っていた銀行のカード類なども押収されてしまった。それらの物品のリストが作られ、書類にサインさせられた。押収は一時的なものである、と説明されたが、いつ返すとは云われなかった。いずれにしたってお役所仕事であることは判っていたが、いまは、それを追求する立場にない。やろうとすれば罪の一つ二つが加算されそうな空気が充満していて、そんなどころではない。
 
 ここでたったひとつだけ、奇跡の女神が微笑んだ。「押収目録」の中にはタブレットが入ってないのだ。通信データの削除はしてあったが、そんなものは専門の機器を使えば簡単に復元されてしまう。
 よくよく考えてみれば犯罪者といえでも最低限の人権は守られるべきで、個人の交信手段であるタブレットを高圧的、威丈高な行使によって阻止するのは、後々問題だと当局は判断したのだろう。いや、まったく違う理由かもしれない。それは今でも謎だ。

 タブレットさえ押収を免れれば、仲間とのやり取りは漏れずに済む。この僥倖に少しだけホッとしつつ、ここからの展開を、また頭の中でシミュレーションし始めた。 

 この時点で既に二十三時だった。搭乗便の成田着陸が二十時なので、三時間経過。税関には逮捕権はないという認識だったが、もしかすると警察が呼ばれて現行犯逮捕され、拘束が続くかもしれないとも考えた。
 だが、見る限りその様子はないようなので、ボスから訊いていた通り、現行犯逮捕はないと判断した。時間的に、ここは一旦解放されて、後日出頭になるのだろうか? 

 ところが現実にはそんなに甘くはなかった。身体検査の担当者が下がり、別の取り調べ官二名が代わりにやって来た。さてここからがいよいよ追及の本番という感じだ。 

 取り調べ官の一人は二十代に見える若い女性、もう一人は俺と同世代とおもわれるアラフォー男性だった。その男性官は温厚そうな見た目だったが、反して女性の方は目尻の上がったキツい顔付きに薄い笑みを浮かべており、ドエスの匂いが漂っている。 
(ああやめてもっと、とそのオンナ官はしているのだろうか)。真面目なオンナほど激高して激しい、とはいうものの、そんな女にめぐりあったためしがない。ひまが出来たらナンパもいいかな。

 時系列で経緯を話せ、と云われると思い、心の中で復唱していたのだが、予想が外れた。席に着くやいなや、女性取り調べ官が怒鳴ったのだ。 
「誰に頼まれて運んだんだ!」 
 俺は思いがけない展開に驚いた。 

「いや。自分で購入したものです」 
 とセオリー通りに答えた。 
 
 どこで買ったか、とか、なぜこんなことをしたか、ではなく、誰に頼まれたか、と開口一番に聞かれたことが、俺がマークされていたことの証のような気がした。おそらく「ボス」までワレているのではないか。なぜかという説明は難しいが、直感的にそう感じたのだ。 
「自分で買ったんなら、これが密輸という犯罪だって、しっかりわかってやったんだよな!」  

 女性取り調べ官は強い口調で怒鳴り続ける。 

「いえ、タバコの持ち込みと同じような感じかと思っていまして…すみません」 
 と答えてはみるが、 
「四十越えているいい歳したオヤジが、そんなことも知らねえわけないだろうが!」 
「いや…知らなくて…すいません…」 
 と謝り、しばらく沈黙。 

 この先はずっとこの調子だった。怒鳴られて、シナリオ通りに答え、また怒鳴られ、謝って黙りこむ。合間合間に男性取り調べ官が、どこで買ったのか、宿泊ホテル名は、などという状況確認をしてくるので、真摯に聞こえるように具体的に答えてみるのだが、答えるごとに女性取り調べ官に「適当なことばかり言うんじゃねえぞ!」と罵られ続けた。 

 それにしても・・・、これで「アア止めてもっと」といわれたら男はたまらない。2.5秒速射砲だ。

 長時間に及び激しい口調で責られて確かに動揺はしたが、以前働いていた会社では自分ではなく同僚たちが社長から面罵されるシーンに何度も立ち会わされた。
 他人が責められるのを見せられて、それに何も云うことができない気まずさに比べれば、ただただ自分が耐えれば済むこの場は随分マシだと思えた。だが、女性取り調べ官は、誰かに依頼されたことを大前提に、そればかりしつこく聞いてくる。誰からの依頼なのか、把握されているとしか考えられず、何が何でも名前を云わせたいようなのだ。
 この取り調べの前途は多難だと、思わずにはいられなかった。最終的にはもう答えられることがなくなり、俯いてダンマリを決め込んだ。 とうとう嵌ってしまったのか・・・・。

 重い沈黙が一時間ほど続いたところで、男性取り調べ官から「真田さんの話をまとめたのでサインしてください。今日はこれで終わりますが、本当の話をするまでは、何回でもこちらに来てもらうことになりますからね」、という解放宣言があった。

 今となっては、何回でも、という気分だが、同じ暗い通路は二度と潜りたくないときっぱり決めていた。

 ようやく帰れるのだ。持ち帰りを許された荷物をまとめ、その中にやはりタブレットがあったことに小躍りしつつ、到着ロビーフロアに放り出された。時刻は既に午前三時を過ぎていた。 

 とにかく早くこの地場を離れよう、そして事の顛末を仲間に連絡せねばならない。電車もとうにない時間なので、まずはタクシーで京成成田駅まで向かう。途中、公衆電話ボックスを発見したので、タブレットの電源を入れ、仙道の電話番号を確認した。

 深夜というよりは明け方に近い時間ではあったが、事態が事態なだけに、三コールで仙道は電話に出てくれた。きっと僕からの電話連絡があることを予測して、待っていたに違いない。 

「キャッチされたよ」 

 と重苦しく一言伝えると、 
「みんな見ていましたよ。連れていかれるところ。それより大丈夫ですか?」 
 と心配そうに尋ねた。 

「大丈夫だから電話してるんだよ。勾留はされずに終わったよ。悪いけどみんなに、僕が解放されたってメッセージ送ってくれるかな。実際に摘発されてみて、イロイロわかったことも多いし、何事も勉強だと思ったよ。詳しい話はまた後日ゆっくり話すよ」 

 僕は、ことさら明るくきこえるように答えた。 
「帰宅したらゆっくり休んで下さい。でも真田さんがこうなった以上、この仕事も終わりですよね」 

 僕の明るい口調に少し安心したのか、割のいい収入源を断たれたことを、早速残念がる仙道が少しだけ憎らしかった。 
「何事も、そう都合良くはいかないもんだね。だけど、僕がキャッチされただけで、組織が退くとは思えないけどね」 

 深い考えがあったわけではないが、この予想は見事に的中し、俺らはこの裏稼業の泥沼にどっぷりと嵌まりこんでゆくことになる。


(原文著者 真田正之 加筆 racoco)







パルティア

ラテン語の「Post-script」の略称で追記・後書

天変有為 010

   tetuu6

 いつもの喧騒はピタリと止んで、ひっそり静まり返った一室でひとりディスプレーを眺める。そんなあなたにとっておきの、「読み物」を提供しよう。
 
 話は古代北欧紀元前と後の物語。古代ローマ帝国の逸話にまつわる古代国家存亡諸説。そこにパルティアといういにしえの美しい国があった・・・。

「古代国家パルティア」 
 パルティアのことは古代音楽楽器を紹介している本に書いてあった。
「シルクロードの響き」という題名で、それは「古代音楽と楽器のルーツ」を語った本である。その中にパルティアという国を初めて見て知った。
 すなわちそれはパルティアが古代歴史の中での存在感が希薄であるという証明でもある。

 西欧史上の歴史的なアレクサンドロスの東征物語は東洋世界の人間でも知っている。しかしユーラシア大陸、中央アジアを拠点としたパルティア。

 王国は西ではなく東、という座標上の条件も加味され、それ故今日の歴史編纂にも登場しない、という穿った見方もできる。
 今でもヨーロッパ諸国は東側に対して、正当な理由を付けられない偏見をもっている。そのことは古代パルティア戦争、古代シリア戦争にも現れている。
 否、それは逆で古(いにしえ)より、地球規模の東西関係が決して交じり合うことなく闘ってきた、そして今でも闘っているという超現実を物語り、それはDNA次元の深層心理の根の深さを意味している。

 そして次の考察を再度検討する必要に迫られた。それは「ギリシア学術」の変遷過程が余りにも複雑で突飛なことに一抹の不安というか謎、謎そしてナゾに思えたからである。
 ギリシア学術、それがラテン語圏内に移入したことはアバウトに理解したとしても、アラビア語圏内に突飛に及んだという理由が何故か、という想いが拭えなかったからである。

 その答えは紀元前323年、アレクサンドロス没後の政権争いに端を発していた。結論を先に云ってしまえば、ギリシア学術を生来もっていたギリシア人、マケドニア人、バビロニア人たちが王朝執権者の軍事植民地下において重要な組織的ポリス「カトイキア」を形成していたからである。 
 古代ギリシア学術の時代変遷については伊東俊太郎氏の著述に詳しいが、大筋で要約すると次のような足跡となる。

 4世紀、古代ギリシアの数学研究は衰退する。主要な研究学術はビザンチン文明圏、シリア文明圏へと流入。シリア的ヘレニズム科学はアラビア語訳されてアラビア文明圏へと移入されアラビア学術文化の勃興の兆としてギリシア学術の存在があった。

 このエッセンスをもとに、当サイトは古代ギリシア科学の主題を追っている。 
 そして現時点で判ったことは、上記「ギリシア学術」が12世紀ルネサンスまでに至る経過が、単純にその理由だけではなく、もっともっと複雑で猥雑で余りにも闘いの歴史に彩られていたという歴史書の記述が、あからさまに証明していたのである。

 もしも、アレクサンドロスが居なかったら、仮にもギリシア学術がアラビア圏に及んでいなかったらどうなっていたのか、というレバタラ論は通用しない。今はいまでしかなく紀元前5世紀のギリシア学術が存在して現代「量子力学」がある。

 アレクサンドロス没後、紀元前323年以降、当時の世相は政権争いの大規模戦争時下に突入した。それは今日、20世紀の第一次、第二次世界大戦にも匹敵するような戦争が展開していたのである。

 絶対的な力を誇っていた「アレクサンドロス王」亡き後の政権争いは、その後約300年間も続いた。その後継者たちは王の腹心であり子孫である。
 さらに親子兄弟の戦争と言い換えてもいい。その代表的な王は、アンティゴノス朝・マケドニア、プトレマイオス朝・エジブト、セレウコス朝・シリアである。これらの王朝の傍らには常にギリシア人の存在があり重要なポジションを担っていた。

 シリア戦争はローマとセレウコス朝シリアの間で紀元前192年から前188年に戦われた戦争。マケドニア戦争に勝利してマケドニアとギリシアに影響を及ぼしたローマはシリアの勢力浸透を喜ばずヨーロッパからの撤退を求めた。
 アンティオコスはローマの要求をはねつけ前192年に戦争を開始した、というのがシリア戦争の発端である。

 アンティオコスは講和を申し入れスキピオが提示した条件を呑んだ。前188年のアパメアの和約でシリアはタウルス以西のアジアを放棄し、ローマに賠償金を支払い象軍を保有せず保有する軍艦を10隻に制限され人質を出すことになった。
 ローマは直接の領土拡大はしなかったがシリアが放棄した地域を従属させた。以後もシリアは大国として残ったが戦後すぐにアンティオコス大王が死ぬと内紛に明け暮れ国力を消耗していった。これと別個にアイトリア同盟もローマと和を結びローマに従属することになった。 
 幾度となく戦争は続きシリア戦争は第5次シリア戦争までの記録が残っている。         

 時代を前後して、それらの戦争相手はパルティアの場合が多かった。その場に常に居合わせたのがギリシア人軍事植民地カトイキアの存在である。敵味方の双方に存在していた。

パルティアは中央アジアに近い地域の一角を占める地方勢力でしかなく古代の記録者たちも彼らに対して格段の興味をしめしていなかった、とはネット検索の記述。
 さらに次の検索では、紀元前63年にはセレウコス朝がローマのポンペイウスにより滅亡、パルティアもローマと直接向き合うこととなった。この時期は政治混乱のために記録が少なくパルティアの内情は不明な点が多い、…と。

 パルティアに関する記述例を挙げたが、このセレウコス朝というのが重要で、ヘレニズム文化の中心となったギリシア人の居住が多いバビロニアで、セレウキアの都市はギリシア文化の中心である。
 それはバクトリア時代にさかのぼり、セレウコス朝とアルサケス朝の度重なる戦闘で政治混乱が起きたというから当然記録も消失したと思われる。
 そのような理由からパルティアの歴史は古代歴史の隠れた歴史のような存在となった。そして私にとっては「エポック」、それはとても重要な時代だと認識したのである。

 また別の情報では、「パルティア(安息)はもともと古代ペルシア語でパルタヴァと呼ばれていた地域で、現在のトゥルクメニスタン南部からイラン東北部をさした。
 だがアルサケス朝パルティア王朝は゛世界を二分゛するほど拡張し、前3世紀半ばより後3世紀初めまでに東は現在のパキスタン国境から西はメソポタミア、シリア、アルメニアまでオリエントの大半を支配した。

 バクトリアの音楽がパルティアの音楽に影響を与えなかったはずがない。マルギアナは前2世紀にパルティア王国の支配下に入ったが、今日のトルクメニスタンのマリ(メルヴ)と呼ばれている土地である。」

参考文献(『シルクロードの響き』 監修 拓植元一)


セレウキアはセレウコス朝の開祖セレウコス1世(位B.C.312?/B.C.305?-B.C.281)が建設した(B.C.305頃)、ティグリス河畔の都市である。王朝を創建後もディアドコイ戦争は決着がつかず、B.C.301年に最大の激戦となったイプソスの戦いでセレウコス1世は当時最大の領域を継承しようとしていたアンティゴノス朝創始者アンティゴノス1世(位B.C.306-B.C.301)と会戦することとなった。
セレウコス1世は自軍の兵力は少なかったが、臨戦前のB.C.305年頃にインドのマウリヤ朝マガダ国(B.C.317?-B.C.180?/B.C.321?-B.C.181?)のチャンドラグプタ王(位B.C.317-B.C.298)と同盟を組み、数百頭の戦象を得た。
また同じくディアドコイの対象であったトラキア王リュシマコス(位B.C.306-B.C.281)もセレウコス1世側に加わり、小アジア中西部のイプソスは激戦場と化した。
結果、セレウコス1世とリュシマコスの連合軍が勝利を収め、アンティゴノス1世は戦死(B.C.301)、マケドニアの領土はいっきに縮小して小アジアの一部とギリシアを領有するに留まり、一方のセレウコス朝はシリア地方と小アジア過半、そしてその以東のインダス川沿いにまでおよぶ広大な地域を領有し、まさにディアドコイの勝者となった。このためセレウコス1世はニカトル(勝利王。征服者)と言われた。


 セレウコス朝の首都セレウキアは人口が増加し、南方のバビロンにかわって繁盛したが、勝者となったセレウコス1世は首都移転を考え、B.C.300年、地中海東岸に流れるオロンテス川左岸に、新首都・アンティオキアを建設した。
この名称はアレクサンドロス3世の家臣であったセレウコス1世の父アンティオコス(生没年不詳)に因むといわれている(セレウコス1世は、アンティオキア以外にも母や妻の名に因んだ都市を建設した)。
セレウコス朝シリア王国の新しい首都となったアンティオキアは、セレウキア同様、目覚ましく発展していき、ヘレニズムを代表する都市となっていった。


 セレウコス1世は子のアンティオコス1世(位B.C.291共同統治。位B.C.281-B.C.261単独統治)と東西分割統治を行い、ギリシア人入植・移住、区画整理、通貨統一、その他の都市建設などを施し、一時はヨーロッパ遠征も考えていたと言われる。
これにより東方へのギリシア化がすすみ、文化や慣習がより浸透していった。そして、B.C.280年にはトラキア王リュシマコスも討って(B.C.281)、文字通り東方の覇者となった。
 そして目指すは故国マケドニアの領有であったが、同じくこれを狙うプトレマイオス朝のプトレマイオス=ケラウノス(位B.C.281-B.C.279)に睨まれ、B.C.281年、彼によってセレウコス1世は暗殺された(セレウコス1世暗殺。B.C.281)。勝利の王とよばれたセレウコス朝創始者の最期であった。


 一方マケドニア王国だが、アンティゴノス朝はB.C.288年にいったん断絶し、その間はリュシマコスやプトレマイオス=ケラウノスらの王朝がおこるも短命に終わり、B.C.277年にアンティゴノス2世(位B.C.277-B.C.274,B.C.272-B.C.239)が途中断絶するも生きながらえていた。
同時期にセレウコス朝はガリア人の侵入に脅かされていたため、国王アンティオコス1世はマケドニアと同盟関係となって協調策をとり、ガリア人を敗退させて小アジアの民より"救済者(ソテル)"の尊称を得た。
しかし一方で多くの領土を戦役でなくし、セレウコス朝の広大な領土は分裂状態となっていった。
すでにセレウコス1世の晩期にもアッタロス朝ペルガモン王国(B.C.282-B.C.133)という国家が小アジア北西部におこっており、アンティオコス1世の後を継いだアンティオコス2世(B.C.286共同統治。
B.C.261-B.C.246単独統治)の治世にはギリシア系バクトリア王国(グレコ=バクトリア。B.C.255?-B.C.130?)がアム川流域のバクトラ(現アフガニスタン北部のパルフ)を中心にて、またイラン系のアルサケス朝パルティア王国(安息国。B.C.248?-A.D.226?)がカスピ海南東とイラン北部方面にて、それぞれセレウコス朝から独立、セレウコス朝はエジプトからも戦争を仕掛けられて敗退、領土は縮小していった。


 B.C.223年にセレウコス朝シリア王に即位したアンティオコス3世(位B.C.223-B.C.187)は、かつてのセレウコス1世時代のシリアを再興するべく、小アジアの諸勢力を勢力下においたほか、東方遠征を実施してパルティアやバクトリアを支配、インダス川流域まで迫る勢力を得、シリア王国の復興が遂げられ、アンティオコス3世はアレクサンドロス大王の再来として、"大王"と称された。しかしこの政権は短命であった。
ローマの波が押し寄せたのである。第2次ポエニ戦争(B.C.218-B.C.202)で勝利したローマが第2次マケドニア戦争(B.C.200-B.C.197)でマケドニアにも勝利し、マケドニアはローマの勢力範囲となった。
数次にわたるローマとのマケドニア戦争でアンティゴノス朝マケドニア王国は荒廃し、B.C.168年に滅亡(アンティゴノス朝マケドニア王国滅亡。B.C.168)、ヘレニズム三国の内の一国が姿を消した。

(引用記事一部抜粋〆) 

 チプラスのギリシア世界.1 続編2


ペトラ

ペトラ(アラビア語: البتراء‎)は、ヨルダンにある遺跡。死海とアカバ湾の間にある渓谷にある。死海から約80km南に位置する。またペトラとは、ギリシャ語で崖を意味する。
1985年12月6日、ユネスコの世界遺産(文化遺産)へ登録。2007年7月、新・世界七不思議に選出。


ペトラのある地は、自然の要塞であった。また西にガザ、北にダマスカス、紅海にも近く、中東での人や物の行き交う要衝の地でもあった。ナバテア人(Nabataeans)の首都、砂漠を移動していたキャラバン隊の中継基地であったと伝えられてきた。


立地条件の良さのため、紀元前1世紀ごろから、古代ナバテア人の有力都市として栄えた。ペトラの特徴として、スパイス交易の拠点機能と治水システムがあげられる。


完全な岩礁地帯であるので、農業には不向きであった。また雨が降ると、鉄砲水となって渓谷内を通過していった。ナバテア人は、ダムを作って鉄砲水を防ぎ、さらに水道管を通して給水設備を作り上げたことが分かっている。


歴史

紀元前1200年頃から、エドム人たちがペトラ付近に居住していたと考えられている。エドム人たちの詳細は不明である。 (旧約聖書の創世記第36章からの文書データによると、アブラハムの孫・エサウ系の子孫と、その地のセイル(セラ) 山地に先住していたホリビとセイルの子孫らとの一部混淆による人たちであろうと推定されうる。)


紀元前1世紀ごろから、エドム人達を南へ追いやったナバテア人達が居住しはじめる。ナバテア人はアラビア付近の貿易を独占。それにともないペトラも古代ナバテア人の有力都市として栄えた。


紀元前64年から紀元前63年ごろ、ナバテア人はローマの将軍、ポンペイウスにより、その支配下におかれる。ローマは、ナバテアの自治は認めたものの、税を課した。また砂漠から進入してくる異民族の緩衝地帯とした。また、ローマ風の建築物の造営がこのころ始まった。


紀元後1世紀の初期には、ナバテア王であったアレタスは隣接するペレアの領主ヘロデと仲が悪く何度も争い事があり、一度は小康状態になりアレタスの娘がヘロデの元に嫁いだものの、後日ヘロデが兄弟の妻(姪でもある)ヘロディアを夫と別れさせ新しい妻にしようとしたため、アレタスの娘は逃げだして実家に帰り、間もなくヘロデとアレタスの間に戦が起き、ヘロデ軍内の内部分裂もあってアレタスが勝利したものの、宗主国であるローマ帝国が割って入り、戦を仕掛けたアレタスに問題があるとしてとらえ次第処刑の命令を下した。


紀元後105年に、ローマ皇帝トラヤヌスが反乱を起こしたペトラを降伏させ、106年には、ペトラとナバテア人はローマのアラビア属州として完全に組込まれる。


363年、ガリラヤ地震 (363年)(英語版)が発生した。多くの建物が崩壊し、水路網が破壊されるなどの被害が生じた。


663年、イスラム帝国によってこの地域が征服され、ペトラが主要通商路から外れると、ペトラは次第に衰退していった。


749年、ガリラヤ地震 (749年)(英語版)が発生した。この地震によって大きな被害が生じると、ついにナバテア人はペトラを放棄した。


1812年、スイス人の探検家、ルートヴィヒ・ブルクハルトが、12世紀の十字軍以降、最初にヨーロッパへ紹介した。


発掘調査

ルートヴィヒ・ブルクハルトによる紹介以降、20世紀の頭から発掘調査が行われ始めた。2014年現在でも続いている。2000年の調査段階でも、未だ遺跡の1%程度しか完了していないと推定されている。2014年現在、85%が未発掘とされる。


主な史跡


王家の墓とウナイシュの墓


エド・ディル(修道院の意)


エル・カズネ(宝物殿)

古代のペトラにおいては、アーロン山(Jabal Haroun, 英語: Aaron's Mountain)周辺に通じる行路を南から、ペトラの平野を横切るか、あるいは高地から北に進入していたとも考えられるが、現代の訪問者のほとんどは東より遺跡に入場する。

荘重な東側の入口は、暗く狭いシーク(Siq, 英語: the shaft)と呼ばれる峡谷(所により幅わずか3-4m)を抜けて通じており、それは砂岩の岩盤の深い亀裂より形成された自然の地質特性であり、ワディ・ムーサ (Wadi Musa) に流れる水路の役目もある。

狭い峡谷の終わる先に、砂岩の断崖に刻まれたペトラの最も精緻な遺跡であるエル・カズネ(一般に「宝物殿」として知られる)が建っている。エル・カズネは、1 世紀初頭に偉大なナバテア人の王の墳墓として造られたものとされ、切り立った岩の壁を削って造られた正面は、幅 30 m、高さ 43 mにおよぶ。




エドガル ケレット


「物語のウソとホント〜エトガル・ケレットの超短編小説」NHK『BS世界のドキュメンタリー』で放送4月25日

2019年4月25日(木) 午前0時00分(45分) 

ゲットー育ちの両親のもと自由奔放に育ったケレットは、3年間の兵役義務のさなかに親友の自殺現場を目にしたことで、小説を書き始めた。工場で落ちこぼれた男が、曲がりくねったパイプを作り、別世界とつながって居場所を見つけるという物語だ。風刺と空想の中に、社会の矛盾や不条理を描く作風を、アニメ化した物語や、本人と関係者が総出演の演出で描く。国際エミー賞の審査員を笑いの渦に包み、芸術番組部門で最優秀賞を獲得。


http://etgar-shira-jp.strikingly.com/blog/924908d3b65

ステファン・カース監督の2017年の映画 Etgar Keret: based on a True Storyがなんとテレビ放映!NHKのBS1で4月25日(木)深夜00:00から の放送です。


 この映画はエトガル・ケレットのおかしな短編に魅了された若き監督たちが作ったハイブリッド・ドキュメンタリーで、エトガル・ケレット本人や周りの作家、家族、友人たちの証言からケレットの実像を浮き彫りにするだけでなく、エトガル・ケレット主演で彼の作品も再現するし、実写とアニメのハイブリッドでもあるし、さらにはこのドキュメンタリー自体がファクトとフィクションの間のどっちに位置するかわからない、という非常によくできた映画です。


 このサイトでも映画祭で上映予定の作品として簡単な紹介を上げています。


 2018年の秋に甲南大学での文芸イベント「今、この世界で、物語を語ることの意味」において国内初上映し、そのあと国際エミー賞の芸術部門を受賞したという必見の作品が、なんとテレビで見られます!これは嬉しい。ぜひケレットファンにも、そうじゃない人にも見て欲しいです。


 秋の映画祭ではこの作品を『エトガル・ケレット ホントの話』として上映します。NHKの放送は番組枠の都合で50分に短縮されたものになりますが、映画祭では67分のフル・バージョンで上映します!助監督のラトガー・レムは「長尺特別ディレクター・カット版と銘打って上映すればいいよ!」って言ってます(笑)。


 ぜひNHKの放送を見て予習して、秋の完全版の上映をお待ちください!


サー・カズオ・イシグロ(Sir Kazuo Ishiguro OBE FRSA FRSL、漢字表記: 石黒 一雄[2

1995年、第4作『充たされざる者』(原題: The Unconsoled) を出版する。2000年、戦前の上海租界を描いた第5作『わたしたちが孤児だったころ』(原題:When We Were Orphans) を出版、発売と同時にベストセラーとなった。2005年、『わたしを離さないで』を出版する。2005年のブッカー賞の最終候補に選ばれる。この作品も後に映画化・舞台化されて大きな話題を呼んでいる[19]。同年公開の英中合作映画『上海の伯爵夫人』の脚本を担当した。


誕生 1954年11月8日(64歳)

日本の旗 日本 長崎県長崎市

職業 小説家

言語 英語

国籍 (日本の旗 日本→)

イギリスの旗 イギリス[注 1][1]

最終学歴 イースト・アングリア大学大学院

ケント大学

活動期間 1980年 -

ジャンル 小説

代表作 『日の名残り』

『わたしを離さないで』













イラン叩きの道具に使われた安倍首相
記事天木直人2019年06月15日 11:29
今度の安倍首相のイラン訪問の背景に何があったのか。

この真実に迫るのはとても重要である。

そして、メディアが報じることだけではもちろんわからない。

わからないが、様々な憶測がなりたつ。

限りなく想像が膨らむ。

私はハメネイ師が米国をあしざまに言って米国との対話を拒否した事は米国にとって思惑通りだったのではないかと思う。

いや、そう思えてならないのだ。

米国がいつの日かイランを攻撃するかどうかはわからないが、間違いなく米国はイランを悪者にして、米国のイランに対する強硬姿勢の正当化を図ろうとしている。

私が注目したのは、安倍首相がハメネイ師と会って見事に仲介に失敗したにもかかわらず、トランプ大統領が安倍首相の仲介努力を褒めたたえたことだ。

すなわち。トランプ大統領は安倍首相がハメネイ師と会談した事に謝意を表明している。

明らかに安倍首相が仲介に失敗したというのにである。

なぜか。

それはトランプ大統領は初めから安倍首相に仲介など期待していなかったのだ。

成果がない事はわかりっきっていたのだ。

それでも安倍仲介外交を絶賛している。

なぜか。

シナリオ通りだったからだ。

日本という友好国の首相がわざわざ訪問し、仲介努力をしているにも関わらずハメネイ師は仲介に応じる気配はまるでなかった。

それどころか、すべては米国のせいにして安倍首相の面目を潰した。

イランという国は、友好国の日本でさえ説得に応じない無礼で頑なな国である事を、日本国民に見せつけ、そして世界に知らしめることになったのだ。

まさしくこれが安倍仲介外交の猿芝居だったということなのではないか。

安倍首相がイランから恥をかかされたこと自体が、私や日刊ゲンダイが批判するように安倍外交の失敗ではなく、ハメネイ師の強硬姿勢を引き出したと言う意味でトランプ大統領の命令に忠実に役割を果たした立派な対米従属外交だったのだ。

おりから日本のタンカーが攻撃さえ、それを行ったのはイランだとポンぺオ国務長官は発表した。

そしてたったいま、この原稿を書いている時にテレ朝の報道ステーションが報じた。

まもなく安倍首相がトランプ大統領と電話会談すると。

「うまくやってきました」

「よくやった」

おそらくこんな電話会談ではないかと私は思うのである(了)

(記事引用)


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米紙「安倍氏は初心者」と報道 タンカー攻撃、痛い教訓得た
2019年6月15日 10時15分 共同通信
【ワシントン共同】米紙ウォールストリート・ジャーナルは14日、安倍晋三首相のイラン訪問中に日本のタンカーが攻撃を受けたことに絡み「中東和平における初心者プレーヤーが痛みを伴う教訓を得た」との見出しで報じた。トランプ米大統領が今回の訪問に謝意を示す一方、米国内に日本の中東外交への冷ややかな見方があることを示したと言える。

 同紙は、タンカー攻撃で緊張が高まる中東情勢を踏まえ「日本の指導者による41年ぶりの訪問を終え、米国とイランの対立関係は以前より不安定になった」と論評。「米イランの橋渡し」を目指した訪問と紹介したが、訪問の成果に関する言及はなかった。
(記事引用)



日本がアメリカとイランの仲介役をした歴史的な理由
2019/6/13 13:30 (JST)©株式会社ニッポン放送
ニッポン放送「飯田浩司のOK! Cozy up!」(6月13日放送)にキャスターの辛坊治郎が出演。なぜ日本がアメリカとイランの仲介をしたのかということについて解説した。

安倍総理とイラン大統領との会談が終了~核合意維持へ
安倍総理は6月12日、日本時間の午後8時頃、イランの首都テヘランを訪問しロウハニ大統領と会談した。会談で安倍総理は核開発を巡るイランとアメリカの対立が激化するなか対話に応じるよう要請し、衝突回避に向け緊張緩和を呼び掛けた。その後、行われた両首脳記者発表でロウハニ大統領は核合意を維持すると表明したが、イランに対する戦争があれば徹底的に対応するとの考えも示した。

安倍総理)イランが建設的な役割を果たすことが不可欠です。イランが核合意を引き続き遵守することを強く期待しています。本日はこのような基本的な立場に立ってロウハニ大統領と率直かつ有意義な意見交換を行いました。何としても武力衝突は避ける必要があります。緊張の緩和に向け、日本としてできる限りの役割を果たしていきたい。

飯田)総理のコメントもお聞きいただきました。この仲介外交がどうなるかということですね。

時事通信社『時事通信 日刊時事解説板』第2235号(1953)より日章丸(2代目)。右上は新田辰夫船長(日章丸事件 – Wikipediaより)

日本とイランの歴史的な関係と安倍総理とトランプ大統領の特別な関係によって実現した仲介
辛坊)「なぜ日本がイランとなのか」と思っている方も多いと思いますが、世界の民主主義国のなかで、もっともイランと仲が良くて関係が深いのは日本なのです。
もともと欧米のメジャーズと呼ばれる大きな石油資本に、産油国が全部抑えられていたのです。第二次大戦後に民族主義が高まり、イランが「うちの石油はうちに売らせてよ」と訴えたところ、イギリスが激怒して、「だったらイランは封鎖してやる、イランから原油を出すタンカーは撃沈する」となった。そのときに日本の出光さんという人が、日章丸というタンカーをイランに派遣したのです。イギリス海軍に撃沈されるかもしれない恐怖のなか、イランにとっては原油の輸出ができる、日本にとっても世界の石油資本以外のところから原油が確保できるということで、大ギャンブルだったのですが、決行したのです。これは『海賊とよばれた男』という小説になって、映画にもなりました。世界の石油資本を敵に回したので欧米から総スカンを食らっていたイランを、日本だけが助けたのです。
その後、イラン革命が起きたときに、当時のパフラヴィー国王をアメリカがかくまったのでアメリカとイランは戦争状態になり、以来イランはアメリカと仲が悪いし、ヨーロッパとも仲が悪い。イランとまともに付き合って来たのは、日本だけなのです。
欧米とイランはずっと敵対関係なのですが、日本だけは歴史的な経緯で仲が良いので今回、仲介役になりましょうということになったのです。安倍総理とトランプ大統領との関係も含めて、歴史的なことなので頑張ってほしいとは思うけれども、そう簡単ではありません。

(記事引用)












米大統領訪日中に通商問題の合意ない見通し=茂木再生相
ロイター2019年05月25日 23:23 
[東京 25日 ロイター] - 茂木敏充経済再生相は25日夜、来日中のライトハイザー米通商代表部(USTR)代表と都内で日米通商交渉の閣僚協議を行った。終了後、茂木再生相は記者団に対し、27日の日米首脳会談において、通商交渉をめぐり部分的に合意することはないとの見通しを示した。この発言は、今回の日米首脳会談で通商問題での大筋合意や最終合意に至ることはない、との見通しを示したとみられる。

また、茂木再生相は、米国側から自動車数量規制や為替、環太平洋連携協定(TPP)の水準を上回る農産品での要求に関する議論は「なかった」と明言した。

一方、ライトハイザー代表は協議終了後、記者団からの質問には全く応じなかった。

閣僚協議は、25日午後7時過ぎから約2時間半行なわれた。茂木再生相は協議について「率直な意見交換ができた。双方の立場や考え方、理解はさらに深まった。現段階では、当然それぞれの立場が完全に一致しているわけでないが、そのギャップを埋めていくために、実務者協議の可能性も含め、さらに互い努力していくことで、ライトハイザー代表と一致した」と述べた。

トランプ大統領は27日に安倍晋三首相との首脳会談が予定されている。米側に早期合意への意欲が見られることに対し「お互い早期に合意を得るべく努力することで一致しているが、現段階で完全な一致ということでないので、なかなか27日の段階で合意する、一部について合意することにはならないと思っている」と語った。

トランプ政権は今年5月、輸入自動車に対する追加関税の発動決定の判断を180日間猶予すると同時に、輸入車が安全保障上の脅威とも言及している。この点に関し、この日の今日で話があったのかとの質問に対し、茂木再生相は、関連する話は出なかったと説明した。

トランプ大統領は25日午後に来日。羽田空港から東京都内の米大使公邸に向かい、日本の企業経営者らを招いた会合に出席した。

その会合でのあいさつで、トランプ大統領は日米貿易不均衡に関連し「もう少し公正な貿易関係にしてもらいたい」と述べた。

また、日米通商交渉の進ちょくでは「いくつかの合意を数カ月のうちに発表することを希望している」と表明した。

この会合には、トヨタ自動車<3116.T>の豊田章男社長やソフトバンクグループ<9984.T>の孫正義会長兼社長らが参加した。

*見出しと内容を更新しました。

(竹本能文、編集:田巻一彦)

(記事部分引用)


※国賓トランプの警備戒厳令並みのガード
茂原市の茂原カントリークラブの周辺警備はただごとではなかった。

YouTube 
















「Winny事件」
Winny事件、逮捕と無罪判決
同じファイル共有ソフトであるWinMXを利用した公衆送信権(送信可能化権)の侵害が横行し、著作権法違反で逮捕者も続出していた中で、匿名性が強化されたWinnyへ移行する利用者が後を絶たず、2003年11月にはWinnyを利用して著作物を送信した人物が逮捕された。
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これに影響される形で2004年5月10日、金子は著作権法違反幇助の疑いにより京都府警察に逮捕、5月31日に起訴された。裁判所での事件名は「著作権法違反幇助被告事件」。

弁護士の壇俊光ら「ウィニー弁護団」が、2ちゃんねるやサイトなどのネット上で呼びかけをすることで裁判費用を有志で募り、わずか3週間で1600万円を集めることに成功する。今でいう「クラウドファンディング」の先駆けであり、本件の問題が「イノベイターの活動を萎縮させ将来的に支障をきたす可能性がある」ことを、ネットユーザーらが懸念し本件に注目していた事が伺える。

2006年12月13日、京都地方裁判所(氷室眞裁判長)において罰金150万円(求刑懲役1年)の有罪判決が言い渡された。金子側は同日、大阪高等裁判所に控訴し、検察側も刑が軽すぎるとして控訴した。2009年10月8日に大阪高裁での控訴審(小倉正三裁判長)判決にて逆転無罪判決となり、21日に大阪高等検察庁は判決を不服として最高裁判所に上告。

2011年12月20日 最高裁第三小法廷(岡部喜代子裁判長)は検察側の上告を棄却。無罪が確定した。

Winnyは元東京大学大学院情報理工学系研究科助手の金子勇によって2002年に開発が始まった。当時は既にNapsterやファイルローグなどのP2P型ファイル共有ソフトが存在していたが、多くはハイブリッド型であり、ファイル情報やノード情報を管理する中央サーバーが必要であった。
そして、ファイル共有ソフトを用いて不正なファイルが多くやりとりされていたことから、中央サーバーがたびたび著作権法違反で摘発されるという事件が起きていた。一方で、完全なP2Pネットワークとしては既にFreenetが存在したが性能が低く、広く使われるまでには至っていなかった。WinnyはこのFreenetのアイデアを元に実用的で、かつ中央サーバーを必要としない完全なP2Pネットワークを作ることを目的としていた。

金子は掲示板サイト2ちゃんねるのダウンロードソフト板に匿名で書き込みを行い、ユーザーとやりとりしながら開発を進めた。彼は最初の書き込み番号である「47」を名前として使用していたことから利用者からは「47氏」と呼ばれていた。当時の日本ではWinMXがP2Pファイル共有ソフトとして広く使われており、新しい共有ソフトはその後継を目指すという意味合いを込めて、MXの2文字をアルファベット順にそれぞれ1文字ずつ進めたWinNY(後にWinny)がソフトの名前として決まった。

2002年5月6日にベータ版が公開。以後、金子が著作権侵害行為幇助の疑いで逮捕されるまで開発が続いた。不正なファイルのやりとりをした使用者ではなく、技術の開発者を逮捕するという事件は世間の耳目を集めたが、後に裁判の結果、無罪が確定している(詳細は違法性の節を参照)。
なお、金子による最後のバージョンは逮捕前に公開された「Winny 2.0 Beta7.1」だが、第三者によるクラック版が開発・配布されている。金子は無罪が確定後もWinnyの開発に戻ることはなく、2013年に急性心筋梗塞にて死去。開発は事実上終了した。

ACCSの実態調査では、2006年6月調査でWinMXを初めて凌駕して国内最多の利用者率(主に利用している人が33.3%)となり、ネットエージェントの報道によると、2006年4月現在のユーザー数は44万人から53万人程度であるという。
(資料ウイキペディア)

NHKスペシャル 平成史(8)情報革命
ふたりの軌跡~ネットは何を変えたか
2019年4月28日(日) 午後9時00分(50分) 
シリーズ「平成史スクープドキュメント」エピローグとなる第8回は、インターネットによって激変した日本社会の姿を2人の先駆者の足跡から描き出す。ヤフーを日本一のインターネットサービスに押し上げた井上雅博氏と画期的なファイル共有ソフト・ウィニーを開発した金子勇氏。これまで語られることが殆どなかった2人の夢と挫折を通して、情報空間がさらに拡大していく次の時代の姿を照射していく。

NHKスペシャル 平成史スクープドキュメント第8回「情報革命 
ふたりの軌跡~インターネットは何を変えたか~」
壇俊光2019年04月24日 11:46
https://blogos.com/article/373056/
NHKスペシャルでWinny事件が取り上げられるらしい。
ヤフーと対比というのは、私には、予想がつかないところであるが、私にも取材があり、金子さんやWinny事件を思い出す良い機会となった。

正直、当時の私の目には1人のプログラム馬鹿の為に闘うという小さなものしか写っていなかったので、平成という時代で振り返られるような大きな事件なんて思っていなかったし、NHKというと弁護妨害してくる人くらいの認識だったので、NHKスペシャルで取り上げられるのはとても意外である。
この番組を通じて、彼の名誉が幾ばくかでも回復することを願っている。
平成にはインターネットの出現とともにネットワークに対する無知や誤解から生じた悲しい事件がたくさんあった。
令和という時代に生まれた人達が、ネットワーク社会を明るいものに導いてくれることを願っている。

金子勇氏の死を悼む。
2013年07月09日 07:55
企業法務戦士(id:FJneo1994)
21世紀初頭に「Winny」開発者として一躍“時の人”となったプログラマー・金子勇氏が、急性心筋梗塞により42歳という短い生涯を終えた、ということが報じられている・・・。

自分が、金子氏のお名前を聞いて思い出すもの、と言えば、2004年5月に逮捕されて以降、被疑者・被告人として法廷で闘ってこられたお姿のみ。それも、あくまで報道や壇弁護士のブログ等を通じて、間接的に伝え聞いたものでしかない。
「47氏」として某巨大掲示板上で活躍されていた姿を、自分がリアルタイムで目撃することはなかったし、今まさにあちこちのサイトで称えられている金子氏のプログラマーとしての才能だとか、“天才”たるゆえん、といったことについては、筆者の浅学無知さゆえ、どれだけ説明されても、本当の意味で理解することはできないだろう、と思う。
ただ、一つだけ言えることは、金子氏が文字通り「当事者」となったあの著作権法違反幇助事件は、日本の刑事訴訟の歴史に刻まれるものである、ということ。

そして、一審の京都地裁で「罰金刑」のみ、という判断が下されてもなお、金子氏があくまで「無罪」を求めて戦われたことが、最終的には、ソフトウェア開発者にも一定程度配慮した、あの最高裁判決を導くことにつながった、ということ。
金子氏ご自身は、2004年から2011年まで、技術者として脂の乗り切った7年間という歳月の多くを、法廷での戦いに費やすことになり、無罪確定後も、それと同じ時間を新たな開発に捧げることができないまま、この世を去らなければならなくなってしまったわけで、これはある種の“悲劇”とすら言えるのかもしれない。
ただ、あの最高裁判決が、近い将来、世の中のコンテンツ流通の在り方を劇的に変えるようなソフトウェアや画期的なサービスが世に現れた時に、“坊主憎けりゃ袈裟まで・・・”的な風潮で、安易に開発者に刑事責任追及の矛先を向けるような事態に歯止めをかけるための一つの材料になりうるものであることは間違いないわけで、そういった観点からも、金子氏の技術開発の世界に向けられた功績は、長く語り続けられていくべきもの、だと思うのである。
<過去の主な関連エントリー>

□最高裁判決後 http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20111222/1324751384

□高裁判決 http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20091010/1255263662

□地裁判決前 http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20061013/1160675462
今は、心よりご冥福をお祈りしたい。
(記事引用)














スペインの左派ポピュリズム政党PODEMOS、チャベスからの資金提供が発覚して炎上。総選挙でも議席を失う
HARBOR BUSINESS Online 2019年4月29日 15時31分
 4月28日に行われたスペインの総選挙で、ポピュリズム左派政党ポデーモス(Podemos)は29議席を失い、第4位となった。 

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 その背景には、選挙に先立ち。同党がベネズエラのウーゴ・チャベス前大統領から同党の設立資金として7,168,090ユーロ(9億3200万円)が提供されていたことを証明する録音の内容が明るみになって現在スペインのメディアで話題になっていたことが少なからず影響していたと思われる。(参照:「El Confidencial」) 

 チャベスが資金提供した目的は、スペインでボリバル革命を喧伝し推進するための政党づくりであった。 

◆2016年から囁かれていた噂 

 チャベスが大統領の時に財務相を務めたラファエル・イセアがこの資金を提供したことを証明する書類に記載されているチャベス大統領と彼の署名が正真正銘であることを明らかにしたのである。が、その過程が彼と会見したスペイン国家警察官によって盗聴され、その録音内容が4月3日に電子紙『Moncloa.com』が他紙に先駆けて報じたのである。それは同時に電子紙『El Confidencial』の手にも渡っていた。 

 政党ポデーモスは2014年3月に設立されたが、その資金がベネズエラから出ていたという噂は2016年からあった。2017年11月のスペインの上院調査委員会に同党創設者のひとりファン・カルロス・モネデロが召喚されて、その時与党だった国民党のルイス・アズナール上院議員からこの事実を証明する核心をついた質問をモネデロは受けた。モネデロは勿論それを全面否定した。 

 ところが、今月になってその事実を明らかにする録音内容が冒頭で触れたように公にされたのである。その録音内容によると、2016年4月と5月にスペインから3人の国家警察官がニューヨークのスペイン領事館でチャベスが大統領の時にベネズエラの財務相だったラファエル・イセアと会見して冒頭で触れた資金が2008年にCEPS基金に支払われていたことがイセアによって確認されたのである。 

 イセア元財務相はチャベスから最も信頼された人物のひとりであったが、マドゥロ大統領の政権になると彼への信頼は崩れ、遂に彼は米国に亡命して米国麻薬取締局(DEA)の証人としてマドゥロ政権が麻薬の密売を行っていることを摘発するためにDEAに協力していた。だから、スペインの3人の国家警察官は亡命したイセアが在住しているニューヨークで会見したというわけである。(参照:「OK Diario」) 

◆法改正前なので外国からの献金も違法ではないが…… 

 イセアがCEPS基金に支払った理由は、この基金がラテンアメリカの左派政権に政治、経済、法律などについてアドバイスするコンサルタント組織として存在し、ポデーモスの創設者であるパブロ・イグレシアス(ポデーモス党首)、ファン・カルロス・モネデロ、イニィゴ・エレホンらがこの基金を介してチャベス政権のアドバイザーとして活動していたからであった。チャベスよりCEPS基金が受け取った資金をイグレシアスらがポデーモスの設立資金に充てたということなのである。 

 2015年6月までスペインの政党は外国の政府や企業からの献金を受け取ることは禁止されていた。しかし、仮に献金を受けても犯罪として問われることはなかった。しかし、同年7月から刑法の改正があり、政党の幹部が外国の政党や企業から10万ユーロ(1300万円)以上の献金を受けると懲役最高4年の刑が科せられることになったのである。ポデーモスの幹部のこの716万ユーロの献金はこの刑法改正前だったので犯罪にはならない。 

 しかし、スペインの財政経済犯罪班(UDEF)が動いたのは彼ら幹部がそれを受領した年度の所得申告に加えていたかどうかという疑いについて調査を始めたのである。(参照:「El Confidencial」) 

◆「炎上」の背後にポデーモス潰しの策略 

 では、なぜスペインからわざわざ警察官をニューヨークにまで派遣してポデーモスの設立資金の出どころを調査する必要があったのかという疑問が湧く。彼らを派遣することを決めたのは当時のスペイン内務相フォルヘ・フェルナンデス・ディアスであった。派遣の理由は、当時の政治情勢から2016年6月の総選挙でポデーモスが社会労働党を抜いて野党第一党になる可能性が出て来ていたからであった。ベネズエラのボリバル革命を推進しようとするポピュリズム政党が野党第一党になると国民党の選挙後の政権運営が非常に難しくなると同内務相は判断したようである。 

 そこで国家警察が掴んでいた716万ユーロを送金したと証明する書類にある署名がチャベスとイセアの正真正銘のものあるかを確かめにニューヨークに赴いたのであった。そうであれば、それを裏からマスコミにその情報を流してポデーモスへの国民からの支持を減少させようと図ったのである。 

 録音された内容からイセアは、当初その証拠書類の署名を彼本人のものか2016年4月の最初の会見では避けた。しかし、彼の家族がカラカスに在住してマドゥロ政権から抑圧されていることを懸念しているイセアに、警官は家族をアルゼンチン経由でスペインに亡命させてそれ以後偽名にして身元を分からないようにするということをイセアに提案するのであった。フェルナンデス・ディアス内務相もそれを了解しており、彼からラホイ首相にもそれが伝えられていると言及したのであった。 

 最初の会見からひと月経過した5月の2回目の会見でイセアは証拠書類にある彼の署名とチャベスの署名が正真正銘のものであると実証したのであった。また、今年4月4日のテレビ番組『Al Rojo Vivo』でのインタビューでもイセアはそれを実証したのであった。(参照:「El Confidencial」、「Moncloa.com」) 

◆ポデーモスの今後に立ち込める暗雲 

 当の2016年の選挙結果は国民党の勝利であったが、野党の社会労働党の540万票(85議席)に対し、ポデーモスは連携政党を加えて500万票(71議席)を獲得するという僅差となったのであった。(参照:「El Pais」) 

 国民党は137議席で過半数の176議席からは程遠い議席数となったが政権を維持することができた。しかし、そのあとこの選挙結果が昨年の内閣不信任案を可決させて社会労働党のサンチェス党首が首相になる要因を作った。勿論、この内閣不信任案にポデーモスは賛成したのが政権交代の主因となった。 

 しかし、4月28日の総選挙でポデーモスは71あった議席を29失い、42議席となった。逆に、極右のVOXが初の議席獲得となり大きく躍進するという結果になった。 

 この背景には、本記事で報じた事実と、反体制主義で社会で恵まれない人たちの味方を政策を掲げて躍進したにもかかわらず、創設者の一人で委員長のパブロ・イグレシアスは1年程前に富裕者が住んでいる別荘地に高級住宅を購入したことが明らかになったことなども少なからず影を落としているだろう。(参照:「The Guardian」) 

 彼が高級住宅を購入した時に離党した議員も僅かだがいた。しかし、このとき、多くの議員は彼の行為に内心反対しながらも議席欲しさに黙っているという方を選んだようだ。しかし、議席を減らし閣外協力をしていた社会労働党との連立も過半数を切る結果となった今、同党の行方に暗雲が立ち込めていることは想像に難くない。 

<文/白石和幸> 

しらいしかずゆき●スペイン在住の貿易コンサルタント。1973年にスペイン・バレンシアに留学以来、長くスペインで会社経営から現在は貿易コンサルタントに転身
(記事引用)

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