Galapagos Japas

Galapagos Japas Galapagos Japas Galapagos Japas

トランプ大統領は本気で日本の自動車メーカーを潰すか
【第232回】 2016年11月15日 著者・桃田健史ダイヤモンド 
過去30年間で感じてきたアメリカ社会の変化
大手メディアの予想を裏切った、第45代アメリカ大統領選挙の結果。

 だが、80年代半ばからこれまで、自動車産業界を通じて全米の主要各都市や地方都市を定常的に巡ってきた筆者としては、「十分に理解できる結果」だと感じている。

 いまのアメリカ国内の社会情勢は、富が偏在して中間所得層が急減し、新しい産業への移行を見誤った都市の経済は疲弊し、庶民は「いつまで経っても景気が悪い」と感じている。

 その証明とも言えるのが、地方都市のブルーカラーが主な顧客である、全米最大規模の自動車レース・NASCARスプリントカップシリーズの入場者数の減少だ。同シリーズは、野球のMLB、フットボールのNFL、バスケットのNBA、ゴルフのPGAと興行収入やテレビ放送の視聴率で同格の、アメリカを代表するエンターテイメントスポーツである。

 NASCARは60年代に創設されたが、90年代後半から急速に人気が上昇し、全米各地に10万人規模を収容する巨大レース場が数多く建設された。筆者は日本テレビ系列のCS放送で、同シリーズの実況解説を今年で13年間続けているが、2010年代前半から観客席に空席が目立つようになったと感じてきた。ブルーカラー層の所得が増えず、または減少し、将来への生活への不安を感じて、彼らの遊興費が減っているのだ。

 最近、NASCAR関係者がよく使う言葉に「オールドスクール」というものがある。これは、「古き良き時代」と同義だ。近代的なスポーツへと変革してしまったNASCARに対する、彼らの反省の弁だ。さらには、アメリカ国民として、アメリカ社会の過去数十年間の歩みに対する嘆きである。

 こうしたアメリカで感じる、筆者自身の肌感覚から、トランプ政権が日系自動車メーカーに及ぼす実質的な影響を分析してみたい。

キーファクターはNAFTA
TPP不成立の打撃は少ない
img_a71b7bf503c02d72877a2112f51fe1f776307
 「Make America Great Again」

 この、トランプ次期大統領が選挙キャンペーンで掲げたスローガンによって、トランプ政権は日系自動車メーカーに対して排他的な政策を打つのではないか、という不安がいま、日系自動車産業の周辺で噴出している。

なかでも、トランプ次期大統領が選挙期間中に発言した、NAFTA (北米自由貿易協定)の見直しの可能性が焦点になっている。カナダではトヨタとホンダ、メキシコでは日産とマツダが北米向けの主要製造拠点を稼働させている。ただし、NAFTAの活用は日系のみならず、デトロイト3も近年、メキシコでの生産を強化しており、トランプ政権が日系メーカーのみを対象にするという異例措置を講ずるとは思えない。

 仮にNAFTA見直しによって、アメリカへの輸入関税アップや、完成車や部品としての総量規制がかかる場合、当然ながら自動車メーカー各社はカナダ・メキシコからアメリカ国内へ生産拠点をシフトする必要がある。資金力のある自動車メーカーにとっては、少々値が張る事業計画の変更の範疇かもしれない。

 だが、自動車メーカーを後追いする形でカナダ・メキシコに進出した部品メーカーにとっては多大なる損失となる。特にメキシコでは、日産がアグアスカリエンテスに20億米ドル(約2000億円)を投じて2013年に開設した新工場、及びその周辺のサプライヤーパークでは、投資の回収が難しくなる危険性がある。

 一方で、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に関しては影響は少ない。なぜならば、そもそもTPPにおける自動車分野は、参加国全体での協議ではなく、日米の2国間協議だからだ。TPPにおける自動車分野は、アメリカにとって「他の分野への影響力を行使するための、手段のひとつ」であったに過ぎない。

 その点について、TPP交渉は原則非公開だが、筆者は以前、永田町の議員会館での政党関係者らと意見交換、また霞が関周辺との意見交換のなかで「交渉の雰囲気」を確認できた。そのうえで言えるのは、アメリカがTPP発効を拒否した場合でも、今後、TPPとは別枠での個別協議として、日本に対して自動車がらみで「なんらかの駆け引き」を仕掛けてくる可能性は残されている。

対米輸出は事実上なくなる?
日本の国内産業への影響は必至

 では、アメリカによる保護主義は、日系自動車産業にどのような影響を与えるのか?

 80年代、アメリカの労働者が日本車を斧でぶった切り火をつけた、あのような光景が再現するのか?

当然ながら、その答えはNOだ。なぜならば、トランプ政権にとって最重要課題は、アメリカ国内での雇用だからだ。90年代以降、日系自動車メーカーのアメリカでの現地生産が進んだ状況では、日系自動車メーカーはアメリカで衰退する製造業を支えるありがたい雇用主である。

 その証明が、先に紹介したNASCARのなかで起こっている。トヨタはNASCARの最高峰レースに2007年に参戦開始。その前年、この話が公表されると米大手メディアはこぞって「アメ車の聖域にトヨタが入ることは難しく、アメリカ人からトヨタ叩きが起こるのではないか?」という論調で記事化した。だが実際には、アメリカ国内で雇用を創出しているトヨタに対して、観客やテレビ視聴者のアメリカ人は寛容だった。いまでは、トヨタはNASCARにとってなくてはならない一員である。

 アメリカ国内で材料を調達し、アメリカ人の手でアメリカ国内で製造・販売することが、「Make America Great」を継続させる。トランプ政権として、「日本車を買うな、アメ車を買え」とはけっして言わない。

 そうなると、日系自動車メーカーは、日本からの対米輸出を減少させ、さらなるアメリカ国内生産へとシフトすることになる。具体的には、ホンダは狭山工場、日産は日産九州、トヨタはトヨタ九州での生産の見直し。また、アメリカが稼ぎ頭であるスバルは、先ごろ日本で販売した新型『インプレッサ』で北米向けをインディアナ工場に集約したが、今後は他モデルの北米生産のため、同工場の拡張と、国内生産の縮小を検討しなければならない。

 そして、最も影響が大きいのがマツダだ。同社からフォード資本が抜けた際、北米の生産拠点を閉鎖し、北米向けには広島宇品工場及び山口の防府工場からの輸出に転じた。さらに、当初はブラジル向けに計画したメキシコ工場を、ブラジル政府の政策変更によって北米向け輸出拠点へと変更したが、NAFTAが見直されればさらなる変更が必要になるだろう。

自動車産業はオールドスクールに戻らない
トランプ政権の選択肢はITとの融合あるのみ

 こうして、トランプ政権は保護主義によって、アメリカ国内での「クルマの地産地消」を促進するだろう。

 とはいえ、近年のアメリカは、20~30歳代を主体として、UberやLyftなどライドシェアリングを利用する「クルマを買わない層」が急増している。

 「人とクルマ」「社会とクルマ」の関係が大きく変化し始めている今、アメリカ国内の自動車産業で雇用を拡充するためには、フォードのT型フォードに由来する、大量生産大量消費という「オールドスクール」は通用しない。トランプ次期大統領を支持する地方都市の人々も、そうした現実は十分に理解しているはずだ。

 結局、トランプ次期大統領が自動車産業において「Make America Great Again」を実現するためには、ヒラリー・クリントン氏を支持した層が多いIT産業との連携を強化し、自動運転やクラウドをベースとしたビッグデータ関連サービスの実利を、全米各地に平準化する仕組みの構築が必要だ。この実利とは、庶民生活の活性化だ。

 これからアメリカで起こる、自動車に関する新たなる巨大トレンドを、日系自動車産業界は十分に注視しなければならない。
(記事引用)

ロジャー・エイルズ辞任
[FOXニュースCEOがセクハラ辞任]
ロジャー・アイレスCEOがセクハラで辞任。21世紀フォックスが発表。
Posted on 2016年7月22日okatai.com/blog

76歳にもなって恥ずかしい。

FOXニュースのROGER AILES (ロジャー・エイルズ)CEO辞任
AFPによると、FOXニュースのRoger Ailes (ロジャー・エイルズ)CEOが21日、辞任したとのこと。エイルズCEOは人気女性キャスターからセクハラ行為で提訴されていたとのこと。後任には、親会社21世紀フォックスのRupert Murdoch (ルパート・マードック)会長が就任するとのこと。
0c3dc881c3e3ea62f46bc3d86277f45b4fb3e6fe
人気女性キャスターからセクハラ行為で提訴
米FOXニュース
ロジャー・エイルズ
21日、辞任
21世紀フォックス
ルパート・マードック
いやー、恥ずかしい。エイルズ氏は76歳です。何やってんでしょうか。

エイルズ氏、性的関係を迫る
 
上記AFPによると、エイルズ氏は元ミス・アメリカでFOXニュースのキャスターを務めていたグレッチェン・カールソンに性的関係を迫ったとのこと。それを拒否したため、解雇されたとのこと。FOXニュースは内部調査をしていたとのこと。

エイルズ氏を提訴したのは、元ミス・アメリカでFOXニュースのキャスターを務めていたグレッチェン・カールソン
エイルズ氏に性的関係を迫られ、それを拒否したために解雇されたと主張
内部調査に着手したと発表
 
76歳の方から性的関係を迫られ、拒否されたら解雇。しかし、まさかあのエイルズ氏がって感じです。それが下記。

エイルズ氏の驚くべき転落劇
ロジャー・エイルズ氏ってのは、世界のメディア業界で一目置かれていたビジネスマンでした。Bloombergによると、エイルズ氏はこの半世紀で最も成功したメディアコンサルタント、テレビ局幹部の一人としています。また、ニクソン、レーガン両大統領の助言役も務めていたとのこと。その後、当時CEOだったルパート・マードック氏と組んで、1996年にFOXニュースチャンネルを設立したとのこと。その後、FOXニュースチャンネルがいかに巨大化したかを考えれば、彼の功績はすごいものです。

エイルズ氏はこの半世紀で最も成功したメディアコンサルタント、テレビ局幹部の1人
ニクソン、レーガン両大統領(当時)の助言役
当時CEOだったルパート・マードック氏と組んで1996年にFOXニュースチャンネルを設立
メディア有数の事業に育て上げた
 

あと、注目してほしいんですが、ルパート・マードック氏と組んでFOXニュースチャンネルを設立したってとこ。上記にも書いたように、ルパート・マードック氏は現在親会社の21世紀フォックスの会長であり、エイルズ氏がセクハラ辞任したあと、FOXニュースのCEOになる方です。 
366E51F100000578-3699220-image-a-17_1469015579591
つまり、盟友と同じ志で会社をここまで大きくし、盟友の転落劇を見てしまった当事者。そしてこの後釜を務めるのもこのマードック氏なわけです。なんともやるせない。 

私もアメリカにいたときは、FOXニュースをよく見てました。76歳、セクハラ辞任とは、何とも言い難いこと。こういう転落劇はちょっとむなしくなってきますね。まじめに生きましょう。それでは!
(記事引用) 
 

いにしえの古楽 その理由.1
春日、伊勢いずれも古社として祭には雅楽舞楽が演奏されている。その理由は何か。さらにどうして「唐時代の雅楽」を未だに演奏しているのか、という問い、また疑問を解説してみたい。

しかしながら「聖徳太子」以来の話であり、また学者、研究者の諸説によって多少ことなる点もあり、総括的に説明はできないが、残された文献を元に復元してみると、ある程度の骨子が解読できる。
なんといっても「遣唐使」の功績が大きく、音楽に関しては「吉備真備」が膨大な学術文献を持ち帰ったことが評価される。
Todaiji_gigaku_mask
雅楽研究所「研楽庵」
伎楽 2(歴史1)
『聖徳太子伝暦』によると、『日本書紀』と同様の文書に続いて、「太子は、「諸氏の子弟の壮年の男子に勅して、呉鼓(くれつづみ)を習わせるようにしましょう。また、天下に命じて鼓を撃ち、舞を習わせるようにしましょう。」と奏上しました。太子は落ち着いて左右の者に「三宝(仏・法・僧)を供養するには諸々の蕃楽(外国の音楽)を用いなさい。

あるいは学習せず、あるいは、習っても佳くないかもしれないので、今、永く習い伝えることを業とするならば、よろしく課役を免じるべきである。」と言い、すぐに大臣に命じて免じた。(鳳笛訳)」とあります。

また、『教訓抄』には、「古記によると、聖徳太子が我が朝にお生まれになられた後、百済国から舞師味摩子が渡ってきた。妓楽を写し留めて、大和国橘寺一具、山城国太秦寺(広隆寺)一具、摂津国天王寺(四天王寺)一具を寄せ置かれたところである。その後、百年余後に、七大寺に移し置いて、余所は皆絶えてしまった。東大寺、興福寺に残り留まる。また、天王寺、住吉社には形だけは今に伝えられている。また、雅楽を習い写してから、公家が一具寄進された。天王寺に一具を寄せ置かれた。かの寺の仏教供養の料としてである。今、秦氏の舞人・楽人が天王寺に住む。寄進の後、3度絶えてしまった。」とあります。
このように、伎楽は聖徳太子により、寺院での荘厳のための音楽とされ、各地で伝承されるようになります。しかし、雅楽伝来に従い、衰えていった事がわかります。
なお、七大寺とは、一般的には、興福寺・東大寺・西大寺・薬師寺・元興寺・大安寺・法隆寺とされています。しかし、法隆寺は平城京から外れるので、代わりに唐招提寺を入れる説、歴史的経緯から西大寺の代わりに川原寺を入れる説もあるようです。唐招提寺に林邑楽の他に伎楽もあったのかは判りませんが、川原寺に伎楽があったことは『日本書紀』の記述からわかります。
(記事引用)

真備は、留学中に儒学のほか、天文学や音楽、兵学などを学び、帰朝時には、経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻、『大衍暦立成』12巻)、日時計(測影鉄尺)、
楽器(銅律管、鉄如方響、写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、
弓(絃纏漆角弓、馬上飲水漆角弓、露面漆四節角弓各1張)、矢(射甲箭20隻、平射箭10隻)などを持ち帰り、朝廷に献上している。

『楽書要録』とは、7世紀末頃、唐の則天武后の命によって編纂され、8世紀前半に日本へ渡来した全10巻の音楽理論書である。
中国では散逸したが、日本では巻第五・巻第六・巻第七の3巻と残りの7巻の逸文が伝存する。本論文では、羽塚啓明「楽書要録解説」「校異楽書要録」(1940~42)を土台として、可能な限り全ての史料を調査し、本文の構造を分析した。その結果、理路整然とした内容と、複雑な伝存の過程とが明らかになった。

楽器(銅律管・鉄如方響・写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、など。
 
「蕃楽」(ばんがく)
古代中国思想の影響というよりも、殆ど直接的に思想導入した考えは既に先例がある。聖徳太子が国史を作るときに用いた讖緯説も陰陽五行思想が基礎にある。また、蕃楽を奨励して渡来音楽を積極的に導入している。

鎌倉、音楽の推移
 十二世紀の中ほどになると武士と宮廷貴族の均衡バランスが崩れ始める。続く戦乱で社会は荒み武家社会が隆盛すると宮廷公家社会は衰退する。
 
 併行して宮廷内の儀式である祭祀・節会に奉奏される雅楽が滞ってしまう。それはもっぱら京都の楽家に因っていたのである。
 
 そこで南都系の上、窪、奥、四天王寺系の東儀、薗、林、岡、などの楽人が宮廷に招かれて演奏するという歴史があった。1467年の「応仁の乱」は時代を象徴するような事件でその時、雅楽に関係していた楽人は戦禍を逃れて地方に散逸してしまった。

 いま地方に残る雅楽はその名残とされている。その「楽家」が一子相伝を世襲し明治維新まで雅楽を継承していた。

 近代歴史の大変革明治維新を境に今度は遷都に伴い主要な楽家は西から東へ移される。それら音楽一家は一子相伝を世襲し楽家として雅楽演奏に携わり、現在の宮内庁式部職楽部に名を連ね今日に至っている。多姓は古事記で著名な太安萬侶の後裔である。
 歴史的に雅楽が皇族貴族公家の音楽であったことが古い文献によって確かめられるが、特に印象的なのが平清盛と源頼朝が雅楽に特別な関心を寄せていたことである。

 平清盛は厳島神社を守護神として舞楽を興し、源頼朝は鎌倉幕府の創設者として知られるが家臣らに京都より下った楽人に雅楽を習わせ鶴岡八幡宮で雅楽を演奏させた。そのことを考え併せても平安朝の伝統である雅楽が武家政権に移行しても重要な政事の儀式に欠かせない音楽であることを物語っている。
 
 平安末期の武将として源氏を打ち破り平家勃興の立役者として名を馳せた平清盛は娘の徳子を高倉天皇の皇后として、皇室の外戚を利用して勢威を発揮した。

 平清盛に代表される武士政権が宮廷の雅楽に与えた影響は大きい。中世の歌舞である白拍子の様相が、それまで伝統的に継がれていた正統的型が平清盛政権を境にして微妙に変化し簡素化されたのである。
 頼朝が鎌倉幕府を開き鶴岡八幡宮で家臣らに雅楽を習わせ演奏させたのが1192年の事であったが、その7年前の1185年では『管絃音儀』という雅楽に関する重要な音楽理論の書物が涼金という僧によって書かれている。
 もともと中国の『呂氏春秋』を手本にした書とされ、その内容は五行思想が強く反映されている。その五行思想と音楽を一体化した音楽理論書である。
「音楽は天の気を和らげる」、また「それ管絃は萬物の祖なり、天地を絲竹(絃・管楽器)の間に篭め、陰陽を律呂の裏に和す」などの意味を込め、音を五行思想の方位・季節・色などと組合わせて一つの宇宙観を作り上げている。宮廷雅楽の秘儀的要素の一端を観ることができよう。

 その詳細を挙げると次のように具体化されている。 壹越調は中央で土、盤渉調は北の玄武・冬・黒、双調は東の青龍・春・青、黄鐘調は南の朱雀・夏・赤、平調は西の白虎・秋・白、 を用いて方位ごとに音程を現している。五つの各調子は和律名で曲を現す基音の音程を表記したものである。(キトラ古墳に確認された)
 雅楽をそのような宇宙観によって捉え五行思想と音の世界を結び一定の概念をつくった。

 古代中国思想の影響というよりも、殆ど直接的に思想導入した考えは既に先例がある。聖徳太子が国史を作るときに用いた讖緯説も陰陽五行思想が基礎にある。また、蕃楽を奨励して渡来音楽を積極的に導入している。
 
C0007726
春日大社は、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された奈良県奈良市にある神社。旧称は春日神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「下がり藤」。
全国に約1000社ある春日神社の総本社である。武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。
collection_ph09-06
2016年11月7日 舞楽曲 南都楽所
「本殿遷座祭」の翌日に奉祝の舞楽が古式に則り奉納された。
開催日 平成28年11月7日(月)
開催時間
第1部:14:00~17:00
第2部:16:30~19:30
※1部、2部入れ替えとなります。それぞれ事前解説の時間を含む。
曲目
第1部 集会乱声(しゅうえらんじょう)
振鉾三節(えんぶさんせつ)
萬歳楽(まんざいらく)
延喜楽(えんぎらく)
賀殿(かてん)
地久(ちきゅう)
第2部 太平楽(たいへいらく)
狛桙(こまぼこ)
蘭陵王(らんりょうおう)
納曽利(なそり)
祝儀の口上(しゅうぎのこうじょう)
長慶子(ちょうげいし)

南都楽所 世界唯一の音色
産経west
 古都・奈良の夜に、冷たい空気を震わせるような笙(しょう)や龍(りゅう)笛(てき)、篳篥(ひちりき)の真っすぐな音が響いている。
古都・奈良の夜に、冷たい空気を震わせるような笙(しょう)や龍(りゅう)笛(てき)、篳篥(ひちりき)の真っすぐな音が響いている。

 5世紀以降、中国や朝鮮半島から日本に渡ってきた音楽や舞が取り込まれ、宮中や神社仏閣の催事に欠かせない音楽として今に伝わる雅楽。その歴史を伝える音楽団体が奈良市にある。

 近鉄奈良駅に連なる商店街の奥まった場所、春日大社境内「大宿所(おおしゅくしょ)」にその「南都楽所(なんとがくそ)」の稽古場がある。平安時代に奈良の寺社の法要、祭祀(さいし)音楽をつかさどるために設置された南都楽所だが、明治維新の影響で一時期その名は途絶えた。それが昭和43年に復興され、今に続く。

 楽所の復活に尽力し、現在も率いる楽頭の笠置侃一(かさぎかんいち)さん(86)は「ルーツであるアジア大陸ではもう失われた音楽が、唯一日本に残っている。その伝統をしっかり受け継いでいかなければ」と話す。

 今、南都楽所には笠置さんが名誉教授を務める奈良大学の学生やそのOBらも加わって伝統を継承する。大人たちが練習する傍らで、小学生の少女も一心に龍笛を吹いていた。

 「雅楽の始まりはアジア大陸の音楽が仏教とともに日本に伝わったころ。以来、社寺の法要や祭祀に必要なものとして音楽、舞踊がありました」と南都楽所の笠置侃一さんは説明する。

 奈良に都があった天平勝宝4(752)年、東大寺で開かれた大仏開眼法要も音楽で彩られた記録が残っているという。

 音楽舞踊の文化が花開き、やがて都が京都に移った平安時代以降、京都「大内楽所」と奈良「南都楽所」、大阪「天王寺楽所」の「三方楽所」と呼ばれる3つの組織に分かれた。南都と天王寺はそれぞれ興福寺や四天王寺に庇護(ひご)されたが、明治維新で楽人が東京に集められ、南都楽所の名は途絶えてしまった。

 市井の人々が細々と雅楽を継承し、南都楽所が社団法人として復活したのは昭和43年。今では、冬の風物詩「春日若宮おん祭」をはじめ年間約40の社寺の儀礼に奉仕している。

 宮内庁式部職楽部で首席楽長を務め、日本を代表する楽人だった東儀俊美(1929~平成2011年)は、おん祭を見てこう書き残している。「三方楽所は現在も続いている。そして立派に機能している」と。


 南都楽所の稽古場では10歳から12歳の少年たちが舞を習っていた。「やりたいというより、やらなあかんかなぁ」と、幼いながらも責任感を口にする。

 現代的なダンスとは異なった動き。ゆっくりとした独特の振りは難しく、つい動きが速くなる。「そうやって足がピュッといかないようにし」。体重移動のコツを80歳近い年長者が指導していた。

 高校時代に南都楽所に入り、今では楽人の一人として活躍する佐藤いずみさん(33)は「私は歴史の一コマにすぎない。たとえ私がいなくても誰かが必ず伝える。だからこそ途絶えなかったのではないでしょうか」。


 「雅楽を聴いたことある人、どれぐらいいるかな」

 この冬、奈良市立佐保川小学校で南都楽所による音楽鑑賞の授業が開かれた。教師が尋ねると、6年生の児童約60人のうち3分の1近くが手を挙げた。「お祭りで聴いた」「初詣で聴いた」と声があがる。

 衣装を身につけた楽人が音楽の教科書にも載っている演目「越天楽(えてんらく)」を演奏。笠置さんは「寺社の法要、祭礼があったから奈良に雅楽が残りました。これからも伝えていかなければなりません」と子供たちを前に熱く説いた。

 南都楽所の1年は元日の春日大社の歳旦祭で始まったばかり。今年も長い歴史の中の一歩を刻む。

文 安田奈緒美 写真 岡本義彦

 南都楽所 長保3(1001)年に組織され、明治3年に廃止。楽人は京都と大阪の楽人とともに東京に集められた。しかし、社寺での演奏の必要があったため、それまで一般には伝えられていなかった演奏が、一般の人も交えて稽古されるようになり、昭和7年には雅楽や田楽を伝承する「春日神社古楽保存会」が発足。43年には保存会から雅楽部門を独立させ「社団法人 南都楽所」が結成された。

南都楽家の舞譜『掌中要録』を舞う 
その1 記事
─平安・鎌倉時代の舞楽はこんな舞!? ─
1)中古・中世の文献にみえる音楽・舞の描写
あまりに有名な『源氏物語』紅葉賀の、光源氏・頭中将が舞う《青海波》をはじめとして、中古・中世の物語などには、雅楽・舞楽のシーンがたびたび描かれています。それらをよくよく読むと不可解な点がたくさんあります。今の雅楽を思い浮かべるかぎり、伴奏のような音型しか奏していない琵琶や箏を日常のなかで楽しそうに演奏していたり、また、(現行の)舞楽の舞はとても静止状態が長く、足の動きは極めて抑制された動きであるはずなのに、歩きながら─前進しながら─舞っていたり(『うつほ物語』)、蹴鞠の足の運びやタイミングを舞楽の “足踏”なるものや鞨鼓・太鼓のリズムに擬えて説明していたり(『革匊要略集』1286)。当時の雅楽(舞楽)の音楽・動作の様式は、現行とはまったく異なっていたと考えざるをえません。

では、中古・中世の雅楽(舞楽)の音楽・舞はどのようなものだったのでしょう。それは、研究者それぞれの研究方法、史料解釈によってかなり見解がことなります。もちろん時間の流れになかで一時的に存在する音楽や舞は、時代とともに変化するものであり、楽家によっても様式は異なるものです。のみならず同じ人物が演奏する音楽・舞でも若いころと晩年では異なり、朝と夕でも異なります。解釈の方法によっても、またそういった伝承の実態を考えても、唯一無二の答えはありえません。ここに提示する中古・中世の舞楽の姿は、あくまで無数に考えられる解釈のひとつです。

雅楽の六調子

 雅楽には調子が6つあります。洋楽の「ハ長調」や「イ短調」といった「調」に当たるもののことです。これもおそらく雅楽で「調子」という言葉を使うので、洋楽が入ってきたときに「調」の言葉を使うようになったと思います。

 雅楽では「壱越調」「平調」「双調」「黄鐘調」「盤渉調」「太食調」の6つの調子があり、「六調子(ろくちょうし・りくちょうし)」と呼ばれます。

壱越調 「壱越(D・レ)」呂旋 
平 調 「平調(E・ミ)」律旋 
双 調 「双調(G・ソ)」呂旋 
黄鐘調 「黄鐘(A・ラ)」律旋 
盤渉調 「盤渉(B・シ)」律旋 
太食調 「平調(E・ミ)」呂旋

 それぞれの音階は、理屈ではいろいろ言われてますが、実際は微妙に違います。これは師匠となる人に聞きながら音を合わせていくのが良いと思います。

 洋楽では、A=440Hzで演奏しますが、雅楽はA=430Hzに合わせますので、全体的に音が少し低くなります。どの調子にも特有の旋律があり、雅楽に親しむうちに、調の区別が自然にわかってくるもんだそうです…
 上に書いたのがメインの調子ですが、「枝調子」と呼ばれるものがあり、古代中国では、理論上、84もの調があったそうです。

 そのうち12の調子が日本に伝わりましたが、その後、六調子に整理されました。
 壱越調 「壱越性調(いちこつしょうちょう)」「沙陀調(さだちょう)」
 平調  「性調(しょうちょう)」と「道調(どうちょう)」
 黄鐘調 「水調(すいちょう)」
 太食調 「乞食調(こつじきちょう)」 

 調子には「陰陽五行(いんようごぎょう)」というのと深い関係があり、季節、音、色などなどが関係しているんだそうです。
 一例としては、
   春:双調  東方 木音 青色
   夏:黄鐘調 南方 火音 赤色
   秋:平調  西方 金音 白色
   冬:盤渉調 北方 水音 黒色
   壱越調   中央 土音 黄色 若紫色
gagaku 記事引用)
 

初代神 神武天皇
神武天皇即位紀元または神武紀元は、『日本書紀』の記述をもとに設定された日本の紀年法である。
b64adeff
古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位は、日本書紀に辛酉の年とあり、紀元前660年1月1日 (旧暦) と比定されている(比定の詳細は注および後述)、この即位年を明治に入り神武天皇即位紀元の元年と制定した。

異称は、皇紀(こうき)、即位紀元、皇暦(すめらこよみ、こうれき)、神武暦(じんむれき)、日紀(にっき等。

なお、古事記や日本書紀のその神話的な内容や考古学上の確証がないことから、現在の歴史学では、神武天皇(古事記では137歳、日本書紀では127歳まで生存とある)が実在した人物と認めていない。またその内容・筋書きをそのまま史実であるとは考えられていない。
西暦2016年(本年)は、神武天皇即位紀元2676年に当たる。

神武天皇即位紀元は、キリスト紀元(西暦)に換算して紀元前660年とされている。明治5年(1872年)の太陽暦導入と同時に、神武天皇即位を紀元とすると定められた。暦の販売権をもつ弘暦者が改暦に伴い作成した『明治六年太陽暦』の表紙には「神武天皇即位紀元2533年」が使用されている。

日本の紀元を神武天皇の即位に求めること自体は、古代の『日本書紀』編纂以来、一般的な認識であった。ただし、それが何年前か定量的に求められたのは江戸期であり、制定は明治期である。

二次世界大戦前の日本では、単に「紀元」というと即位紀元(皇紀)を指していた。条約などの対外的な公文書には元号と共に使用されていた。ただし、戸籍など地方公共団体に出す公文書や政府の国内向け公文書では、皇紀ではなく元号のみが用いられており、皇紀が多用されるようになるのは昭和になってからである。他に第二次世界大戦前において神武天皇即位紀元が一貫して用いられていた例には国定歴史教科書がある。

第二次世界大戦後になると、単に「紀元」というと西暦を指す事も多い。現在では皇紀を見る機会はほとんどなく、政府の公文書でも用いられていないが、日本における閏年の算定方法は、神武天皇即位紀元を基に定めた「閏年ニ関スル件」(明治31年5月11日勅令第90号)が根拠となっている。

その他、一部の日本史や日本文学などのアマチュア愛好家、神道関係者、全日本居合道連盟などが使用している。
CIA(アメリカ中央情報局)のウェブサイトにある『ザ・ワールド・ファクトブック』(The World Factbook)のうち、「独立」(Independence)の項目では、日本国憲法の施行日1947年5月3日(3 May 1947)と、大日本帝国憲法の施行日1890年11月29日(29 November 1890)が独立日として記されているが、同時に、神武天皇に基づく紀元前660年(660 B.C.)が伝承的日付(traditional date)として併記されている。

神武天皇は古代の人物であるが、歴史学的には3世紀に即位したとされる応神天皇以前の初期の天皇の実在性は不明確である。古墳の出現年代などから考古学上はヤマト王権の成立は3世紀前後であるとされており、神武天皇が紀元前660年に即位したことが事実であるという一致した見解は成立していない。
なお、日本政府は質問主意書に対する答弁書で『「辛酉年春正月庚辰朔」は、暦学上、紀元前六百六十年二月十一日に当たる』としている。

考古学的には、紀元前660年は伝統的な土器様式などに基づく編年によれば縄文時代晩期、2003年以降に国立歴史民俗博物館の研究グループなどが提示している放射性炭素年代測定に基づく編年によれば弥生時代前期にあたる。

明治5年11月9日(1872年12月9日)に布告された「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(改暦ノ布告、明治5年太政官布告第337号)に関連して、明治5年11月15日(1872年12月15日)に布告された「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付11月25日御祭典」(明治5年太政官布告第342号)で制定された。
今般太陽暦御頒行 神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被爲告候爲メ来ル廿五日御祭典被執行候事
但當日服者参朝可憚事
— 「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典」(明治5年太政官布告第342号)

「今般太陽暦ご頒行、神武天皇ご即位を以て紀元と定められ候につき、その旨を告げさせられ候ため、来たる25日ご祭典執り行われ候こと」つまり「このたび(天皇陛下が)太陽暦を頒布されるについて、神武天皇が即位された年を元年とすると定められたので、その旨を告知されるため、来たる25日に記念式典を執り行われることになった(ので参内する資格のある者はすべて出席すること)。
ただし25日が喪中となるものは参内を遠慮すること」というもので、文面からもわかるように具体的な数字は全く無く、単に神武天皇即位を紀元とするとのみ述べている(紀元前660年への同定自体は『日本長暦』により江戸時代になされている)。布告の本来の主旨は、天皇も列席して開かれる改暦を記念する式典への出席を命じる通知であった。

公文書で明治6年=神武天皇即位紀元2533年とする明確な表現があるのは、外務省外交史料館が所有する、明治5年(1872年)11月に外務省から各国公使・領事へ通知した史料の文書に存在する。

「閏年ニ関スル件」について

「改暦ノ布告」では、年については4年毎に閏年があることしか述べておらず、維新後の混乱の中たった1箇月の猶予期間で実施された日本の新しい暦は、本来のグレゴリオ暦ならば存在するべきである、閏年の100年と400年の規則を欠いていた。明治31年(1898年)5月11日の「閏年ニ関スル件」(明治31年5月11日勅令第90号)により正しく閏年を置くように補正を追加した。この勅令は現在も有効である。
朕閏年ニ関スル件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム神武天皇即位紀元年数ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス但シ紀元年数ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トスル
— 「閏年ニ関スル件」(明治31年5月11日勅令第90号)

この勅令中の規定のグレゴリオ暦との整合性からも、また算術的には260を引けばよいところをわざわざ660を引いていることから、神武天皇即位の年は紀元前660年と同じ年という前提があるといえる。

紀元前660年とする根拠

『日本書紀』神武天皇元年正月朔の条に「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」(読み下し文:辛酉(かのととり)の年の春正月(はるむつき)、庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)。天皇(すめらみこと)、橿原宮(かしはらのみや)に於いて即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳(このとし)を天皇元年(すめらみことのはじめとし)と為す)と記述がある。海外の文献と突合せると、『宋史』日本国伝(『宋史』491卷 列傳第250 外國7日本國)では「彥瀲第四子號神武天皇 自築紫宮入居大和州橿原宮 即位元年甲寅 當周僖王時也」とあり、即位は周の僖王(紀元前681年 - 紀元前677年)の時代の甲寅が即位元年とする。一方、三善清行は革命勘文において神武天皇即位を辛酉の年とし、これは僖王3年に当たると述べている。

記紀をはじめとする歴史的資料(乃至、現代の視点からは神話)中にある、年の記述は以上のような大陸伝来の十干十二支の組合せによる表現だけで、1000年といった長期(記紀の成立から神武天皇即位まで遡る時間はそれくらいになる)についての具体的な表現があるわけでは基本的にはない。
しかし、数十年以内の間隔であると考えられる記述を次々と拾ってゆけば、神武天皇即位の年まで遡って同定できる。
これを最初に行ったのは渋川春海による日本初の長暦『日本長暦』(1677年(延宝5年))で、同書は日本において暦が施行された以降の全ての暦のみならず、神武天皇即位紀元まで遡り暦法を推し量って暦を掲載した。これは渋川春海の思想にもとづいたものであった。
思想的には、後に「やまとごころ」を唱え中国伝来の影響のある思想を「からごころ」として退けた本居宣長は『真暦考』(1782年(天明2年))で、古来の日本にそのような日時の意識は無かったはずと批判している。

ともあれ『日本長暦』に大きな修正を加える理由も無く、以後「辛酉年」は紀元前660年に相当する年に同定することが定着し、王政復古後の政治・思想状況の中で前述のように規定されることとなった(近年の長暦である『日本暦日原典』の記事も参照のこと)。

讖緯説
 
以上のような、紀元前660年を神武天皇即位紀元とした記紀の記述の神話学的な分析として古いものとしては、1870年代初期に歴史学者の那珂通世が、『日本書紀』はその紀年を立てるにあたって中国の前漢から後漢に流行した讖緯説を採用しており、推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年(辛酉年)から1260年遡った紀元前660年(辛酉年)を、大革命である神武天皇即位の年として起点設定したとの説を立てた。
これは隋の煬帝により禁圧されて散逸した讖緯説の書(緯書)の逸文である『易緯』の鄭玄の注に、干支が一周する60年を1元(げん)といい、21元を1蔀(ぼう)として算出される1260年(=60×21)の辛酉年に、国家的革命(王朝交代)が行われる(辛酉革命)ということに因む。

干支年について
 
干支による紀年は、前漢の太初元年(紀元前104年)は乙亥(『呂氏春秋』)、丙子(『漢書』賈誼伝)、丁丑(『漢書』翼奉伝)、甲寅(『史記』歴書)となっていた。太初暦では同年を丙子から丁丑としたが、三統暦では丙子に戻し、合わせて太始2年(紀元前95年)を乙酉から丙戌とするなど混乱があり、前漢以前は後の60周期にはなっていなかった。なお『日本書紀』の暦は小川清彦の「日本書紀の暦日に就いて(第五稿)」(『日本暦日原典』に収録)によれば450年までは儀鳳暦の平朔で後代は元嘉暦を使用しているとする。

皇紀2600年記念行事
 
「紀元二千六百年記念行事」を参照

制式名など
昭和に入って以降、戦時中まで、日本の陸海軍が用いた兵器の制式名称には、主に皇紀の末尾数字を用いた年式が用いられている。
航空機を例に取ると、「ゼロ戦」の通称で知られる大日本帝国海軍の「零式艦上戦闘機」は、皇紀2600年(西暦1940年)に採用されたことを示す名称である。したがって、同年の採用であれば、「零式三座水上偵察機」、「零式輸送機」など、同じ「零式」の名を冠することになる。ただし、この命名則には、陸海軍で若干の差があった。

大日本帝国陸軍の場合、航空機は皇紀2587年(1927年)採用であることを示す「八七式重爆撃機」、「八七式軽爆撃機」より皇紀を使用している(実際には両機とも翌1928年制式採用)。また海軍と異なり、皇紀2600年制式採用の場合は、一〇〇式重爆撃機、一〇〇式司令部偵察機、一〇〇式輸送機など、零ではなく百(一〇〇)を使用する。
皇紀2601年(西暦1941年)以降は、例えば一式戦闘機(通称隼)のように、皇紀末尾一桁のみを使用している。
銃砲、戦車等の場合も命名則の基本は同様(「九七式中戦車」、「一式機動四十七粍速射砲」など)。
また、皇紀による命名以前は、航空機はメーカーの略号+続き番号であったのに対し、銃砲等は、元号による年式を用いた(例:明治38年採用を示す「三八式歩兵銃」など)。

海軍
大日本帝国海軍の場合、制式名称における皇紀の使用は陸軍よりやや遅く、航空機では皇紀2589年(1929年)採用であることを示す「八九式飛行艇」、「八九式艦上攻撃機」より使用されている(実際には両機とも1932年に制式採用)。
それ以前は元号による年式を使用しており、「三式艦上戦闘機」は昭和3年(1928年)、一三式艦上攻撃機は大正13年(1924年)の採用を示す。

また、海軍では皇紀2602年の「二式水上戦闘機」、「二式陸上偵察機」等を最後に航空機の年式名称を取り止め、「紫電」、「彩雲」、「天山」など、機種別にグループ分けされた漢字熟語の制式名称となった(これに対し、陸軍の「隼」「飛燕」などはあくまでも愛称であり、制式名称ではない)。
なお、海軍から各メーカーに対する開発要求については、「十二試艦上戦闘機」、「十八試局地戦闘機」など、一貫して元号が用いられている。
(資料ウィキぺデア)

サルトルのポジ、ディランのネガ
──GQ JAPAN編集長・鈴木正文
Author: 鈴木正文GQ JAPAN
毎週更新中のGQ JAPAN編集長・鈴木正文による「ウェブ版エディターズレター」。今週は、かつてノーベル文学賞受賞を拒否した文学者・哲学者のジャン=ポール・サルトルと、いままさに拒否せんとしているかのようなボブ・ディランについて。
jean-paul-sartre_ec-435-244
ジャン=ポール・サルトルが1964年にノーベル文学賞の受賞を拒否したころ、ボブ・ディランは「風に吹かれて」を歌っていた。1963年にリリースされてディランの名を全米に知らしめたこの曲を、まだ中学生になりたての僕が知ったのは、ラジオのFEN(米極東放送網)から流れてきたピーター・ポール&マリーの、ディランの歌いっぷりとはまったく異なる美しい混声ハーモニーによるカバー・バージョンによってだった。

JFK(ジョン・F・ケネディ第35代米大統領)の暗殺は1963年11月のことで、その報を日本人に最初に伝えたのは、奇しくも日米間の初の衛星テレビ中継の実験放送だった。この衛星中継は、宇宙中継といわれていて、それが仕組まれたのは、翌年の東京オリンピックの映像を世界に中継できるようにするためだった。そんなポジティヴな近未来の物語の最初のリアルな語り部となるべき宇宙中継の最大のニュースが、予想外にもネガティヴ100%の、若き米大統領の暗殺事件だったことは、どこか暗示的である。

さて、1964年にはおなじくディランの「ミスター・タンブリン・マン」をカバーしたザ・バーズの無感情的な唱法に魅力を感じたことをおぼえているけれど、そのまえに僕はザ・ビートルズの「抱きしめたい」や「プリーズ・プリーズ・ミー」にすっかり魂を奪われていた。それでも「ミスター・タンブリン・マン」というソング・タイトル(タンブリン・オトコさん)を忘れることができなかったのは、中学生でもわかった歌い出しの歌詞(「ねえ、タンブリン・マンさん、一曲僕のために歌ってくれないか」)の、ボヘミアン=根なし草的な虚無感ゆえだった。というのも、ザ・ビートルズの「君の手を握りたい、君の男になりたい」というストレートで、どこまでもポジティヴな求愛の歌に比すれば、タンブリン・マンにたいして一曲を所望するほかにとくに希望らしい希望もないような男の精神世界を歌ったこの曲は、まことにネガティヴ至極だったからだ。

「風に吹かれて」はしばしば、アメリカの公民権運動をシンボライズするプロテスト・ソングであるといわれるけれど、公民権運動のリーダーであったキング牧師の「I Have a Dream」(私には夢がある)という有名な、徹頭徹尾ポジティヴな演説が、ワシントンのリンカーン記念館の階段上でぶたれたのは1963年夏のことだった。「風に吹かれて」のリリースとほぼ同時期である。ちなみに、アメリカにおける人種差別の法律上の終焉を告げる公民権法が成立したのは、ほぼ1年後の1964年7月で、その3カ月後に、サルトルはノーベル賞の受賞を拒否したのである。

このノーベル賞拒否には前奏曲があった。アメリカで公民権法が成立したころ、サルトルは自伝的な小説である『言葉』の刊行に寄せて、「ル・モンド」紙のインタビューに応じ、そこで「飢えて死ぬ子どものまえで文学は有効か」と反語的に問いかけたのである。

そのころのサルトルは社会と世界の「不正」とたたかう行動派の文学者として自己を規定しており、人間性の悲惨にたいする告発を文学的にも行動的にも実行する「異議申し立て」の活動家であった。そして、そのような立場から、みずからの戦前における代表作のひとつである『嘔吐』は、なるほど人間の自由の本質を問う作品として、人間性のまえに無罪であるかもしれないが、げんに目前で進行している人間的不正としての飢餓のまえでは無力である、と認めた。

それはしかし、僕の解釈では、そのじつ、文学が人間的な悲惨にたいする異議申し立てであることを再確認するとともに、文学者が非文学的な異議申し立てにたいしても積極的であるべきことを、前向きに説いたものであった。という僕の理解の当否はひとまず置くとして、サルトルは、受賞拒否についてノーベル財団に宛てた手紙でいっている。

「いかなる芸術家、作家、人間も、存命中に神聖化される価値のある人間はいない。なぜなら、人はいつでもすべてを変えてしまう自由と力を持っているからだ」と。

これは人間の可塑性=つくりかえ可能性にたいするサルトルのポジティヴでロマンティックな信念を投影した発言だとおもう。いっぽう、ディランの、たとえば「転がる石のように」(Like a Rolling Stone)の世界は、サルトルのポジティヴな理想主義に照らすと、著しい対照をなす。サルトルの正確な陰画であるかのようにネガティヴである。

1965年発表のこの曲でディランは、地位も栄光も、その他いっさいの装飾記号をも失って人生の坂を裸で転げ落ちてゆく人間を歌にした。人間が良き方向へと変わっていくことができるというロマンティックな可能性を勇気づけるのではなく、高みから低みへと転落してゆく反ロマン的な人間的生の現実を突き出す。「風に吹かれて」にしても、そこに希望へのロマンティシズムは見いだせない。答えは風に吹かれているのだから。

サルトルがノーベル文学賞の受賞を拒否したのは、かれが59歳のときだった。そして、その15年後の74歳のときにこの実存主義者は没した。いま75歳のディランはサルトルが他界した年齢をすでにひとつ上回っているけれど、ノーベル賞発表後の沈黙状況などをみていると、59歳だったころのサルトルを想起したくなる。

というのは、人間にはいつだって、これまでの「すべてを変えてしまう自由と力」があるとしたサルトルの信念を、ディランもまた共有しているように僕にはおもえるからだ。ただ、サルトルの場合は人間に対するポジなロマンティシズムに発する信念だったのにたいして、ディランの場合はネガな反ロマンティシズムに貫かれる信念である、という違いはある。いずれにしても、そこで照射されているのは、ポジであれネガであれ、人間の実存がかかえる根源的な自由への信憑である、と僕はかんがえたい。
(記事引用)

田中角栄の政策は何をもたらしたのか?
斉藤淳×荻上チキ2016.10.17 Mon synodos
最近、続々と本が出版され、テレビでも特集が組まれるなど、今再び大ブームとなっている田中角栄・元総理。そのキャラクターが注目されがちだが、実際に行われた政策はどのような結果をもたらしたのか? そして日本はどう変わってきたのか。元イェール大学助教授で政治学者の斉藤淳氏が解説する。2016年8月22日放送TBSラジオ荻上チキ・Session-22「田中角栄の政策は、一体何をもたらしたのか?」より抄録(構成/大谷佳名)
 20160719-00060125-roupeiro-002-4-view
■荻上チキ・Session22とは
TBSラジオほか各局で平日22時〜生放送の番組。さまざまな形でのリスナーの皆さんとコラボレーションしながら、ポジティブな提案につなげる「ポジ出し」の精神を大事に、テーマやニュースに合わせて「探究モード」、「バトルモード」、「わいわいモード」などなど柔軟に形式を変化させながら、番組を作って行きます。あなたもぜひこのセッションに参加してください。
番組ホームページはこちら→ http://www.tbsradio.jp/ss954/
 
田中角栄の地域政策とは?
 
荻上 今日のゲストを紹介します。元イェール大学助教授で政治学者の斉藤淳さんです。よろしくお願いします。
 
斉藤 よろしくお願いします。
 
荻上 最近の田中角栄ブームについて、さっそくこんなメールが届いています。
 
「私は書店に勤めていますが、最近、たしかに田中角栄の本がよく売れています。買っていかれるのは当時を知る世代の方が多いようです。しかし私個人としては、田中角栄は金と権益誘導によって政治を牛耳り、現在までの密室的政治を確立した人物だと思っています。それなのになぜリアルタイムで見てきた人々に未だに支持されているのか、まったく理解できません。」
 
本が売れていても自分は支持できない、という率直なご意見をいただきました。斉藤さんは田中角栄という政治家に対して、どのように評価されていますか。
 
斉藤 書店に行くと、いつの時代も田中角栄の本は平積みで並んでいます。角栄は、高等教育を受けずに宰相まで上りつめた、日本近代・現代政治史上最もチャーミングな人物であることは、誰の目にも疑う余地のないことだと思います。一方で、これまで首相を務めた政治家の中で最も経済成長志向、そして農村近代化志向の強い政治家であったということも注目に値します。
 
荻上 農村近代化とはどういうことですか。
 
斉藤 農村社会を工業化するということです。現在の脱工業化社会においてはピンとこないかもしれませんが、日本全体の就業者の半分が農家だった時代に、経済成長を刺激し、都会も田舎も豊かにしようという発想でした。これを強力に推進し、初当選以来ずっと取り組んできたのが、田中角栄です。
 
1960年代までの日本の地域政策は、太平洋ベルト地帯、つまり雪の降らない地域に工場を立地して産業化を進めようというものでした。そうではなく、むしろ農作物が育ちやすい温暖な地域を農業地域とし、寒い地域に工業を誘導しようというのが、田中角栄が打ち上げた「日本列島改造」だったわけです。
 
荻上 どの地域にもそれぞれの産業をつくっていこうという政策だったのですね。最近、安倍総理も「アベノミクスの成長の果実を全国津々浦々にまで行き渡るようにする」と演説するなど、角栄を彷彿とさせるような政策を打ち出していますよね。
 
斉藤 安倍総理ご自身は、田中角栄の政敵であった福田赳夫の派閥の流れを汲んでいます。しかし、外交政策、経済政策、とくに地域政策においては、むしろ田中角栄の列島改造の理念を引き継いでいる側面が大きいと思います。
 
荻上 その地域政策について、リスナーの方々からこんなメールをいただいています。
 
「田中角栄の行動力はたしかに世の中を大きく動かしたと思います。しかし、結局は利益誘導によって(角栄の出身地である)新潟県だけが良い思いをすることも少なくなかったでしょう。良いところもあるが、悪いところも検証すべきです。」
 
「私は生まれも育ちも新潟県長岡市、田中角栄の地盤であった旧新潟三区の中心地です。都会の人からは「金権政治」「利益誘導」などと批判されていますが、彼のような政治家が中央からお金を持って来てくれなければ、田舎には本当に何もないままでした。田中角栄は、今でも新潟の誇りだと思っています。」
 
人によって評価はさまざまですが、やはり角栄の行った「地方へのばらまき」が注目されていますね。
 
斉藤 この点については、まず歴史的経緯を抑えておく必要があります。当時、東京オリンピックが開催された1964年までは、東京への行政投資が重点的に行われました。一方で、地方においてはまだインフラが未整備の段階であり、むしろ公共事業は都市偏重だったのです。
 
荻上 当時は、貧富の格差が都市部と地方にかなり比例する状況もあったので、角栄の政策には再分配の意味もあったわけですね。
 
斉藤 そうです。実際に、東京オリンピックの頃から1970年代中盤まで、地方と都市の所得格差が縮小していきます。つまり、田中角栄的発想に基づいて行われた農業政策、地域政策がある一定の再分配効果を持っていたと言えます。角栄は、全国の道路やダム、さまざまな生活基盤インフラを整えるための仕組み作りも積極的に進めました。
 
ただ、出身地である新潟県に公共事業が集中したという事実も確かにあります。1978年、1980年には、人口一人あたりの公共事業の金額が全国1位だったのです。私の出身地である山形県と比べても2倍に近い予算がありました。
 
荻上 そんなに他県との差があったのですね。
 
斉藤 田中角栄が大蔵大臣に就任した1960年代の中盤ごろから、新潟県は比較的、公共事業の予算が多く流れ込む県だったのです。ちょうど関越自動車道、上越新幹線などの大規模な事業が集中していたことも関係しています。
  
「闇将軍」「金権政治」
 
荻上 そんな中で、田中角栄といえば「金権政治」と批判されることも多いですよね。
 
斉藤 たしかに、「闇将軍」として議会民主主義を踏みにじるというイメージは、当時の報道においても根強くありました。しかし、田中角栄は総理になる以前に、日本の憲政史上、最も多く法律を通した議員であることは、あまり知られていません。実は、彼は議員立法で33本、共同提出も含めると84本も提出しています。
 
むしろ、議員立法を最も着実に推進し、選挙で民意を汲み取ることに最も心血を注いだ政治家であるとも言えるのです。だからこそ、少し飛躍だとは思いますが「政治は数であり、数は力、力は金だ」という言葉も角栄自身から出てきたわけです。
 
荻上 地方でインフラを作り、格差を是正していくためには、お金をどう配分するかが重要であり、それこそが政治なのだという、ある意味本質的なコメントでもあるのでしょうか。
 
斉藤 田中角栄は仕事をすることに非常に貪欲な政治家でした。その事前工作として、エンジンに潤滑油をオイルを回すように金を流し込んだところがあったようです。
 
荻上 また、角栄は演説も注目されていますね。やはり、その言葉は当時の人々の心に響いたのでしょうか。
 
斉藤 そう思います。とくに、高等小学校卒業で宰相に登りつめていく中で、大臣を務めながら一流大学卒業の幹部職員を掌握していく、そうした姿勢は見事だったと思います。一方で、「人に金を渡すときは頭を下げて渡せ」など、生々しい名言も吐いているわけですが。
 
荻上 一人一人の官僚の名前やプロフィールを覚えるなど、社交力が非常に高かったとも言われますね。
 
斉藤 以前、私も書店で20代のサラリーマンの方が角栄本を買っていくのを目撃したことがあります。社会人のマナーを田中角栄の生き様から学ぼうとしているのかなと想像しました。
 
 『日本列島改造論』と自民党のジレンマ
 
荻上 さて、角栄は総裁になる直前に『日本列島改造論』を出版し、さまざまな経済政策、地域政策を打ち出していきました。この本にはどういったことが書かれているのでしょうか。
 
斉藤 私は博士論文を書く時に、この本を隅から隅まで読みました。一言で言ってしまうと、当時の主な政策課題であった農村部の過疎化、都市部の過密、公害問題を解決するために産業を地方に分散しよう、ということが書かれています。それを実現するために、高速道路網、整備新幹線網といった情報と交通のネットワークを全国的に整備することを目指したわけです。
 
また、エネルギー政策においては火力から原子力への転換を主張しています。当時はまだ、原子力は「夢のエネルギー」として信じられていた時代だったのです。
 
荻上 具体的な手段としては、道路や鉄道の整備などの公共政策が中心になっていったのですね。
 
斉藤 はい。それもただ単に道路を作っただけではありません。田中角栄は自民党結党前の段階で、改正道路法(1951年)や、道路整備日の財源等に関する臨時措置法(1952年)、つまりガソリン税から道路整備の財源を生み出す法律を議員立法で通しているのです。
 
また、有料道路の通行料から得た財源を道路整備に回す仕組みも作っています。こうした道路特定財源はのちに一般財源化するわけですが、現在の道路の仕組みの大本はこの時に出来上がったものなのです。
 
荻上 そうした公共政策の効果はどうだったのでしょう。
 
斉藤 それが非常に皮肉なのです。というのも、田中派の議員が利益誘導をした地域ほど早く都市化が進んだわけですが、それにより自民党自身の集票基盤を崩してしまう結果になりました。自民党はもともと農村部を地盤にしていた政党でしたから。政策を進めれば進めるほど、自民党が弱体化するというジレンマがあったわけです。
 
さらに、田中派が行ったような、議員立法を通して予算をつけて関連の業界団体を集票マシーンとして手懐けるという手法は、経済全体が成長している時代にはそれほど軋轢を生み出さなかったのですが、低成長時代となり予算が限られていくと、その非効率性が目立つようになっていきました。だからこそ小泉政権での改革の遡上に挙げられてしまったわけです。田中角栄は戦後日本の政治経済を語る上で、功罪相半ばする存在なんですね。
 
荻上 いわゆる「族議員」といって、官僚と業界を議員が繋ぎながら献金政治を行いつつも、利益を誘導してさまざまな政策を実行していくというやり方だったのですね。ただ族議員は否定的な側面もありますが、政策通を生んでいく側面もありますよね。
 
斉藤 はい。要求・表出を法律として着実に実行していく、むしろ民主主義に忠実な姿勢ともとれるわけです。全体の利益の調整さえすれば肯定的に評価できる部分も多いです。
 
田中角栄は自身が族議員であっただけでなく、最盛期には140人いた派閥のメンバー全員に族議員化を促した「スーパー族議員」でした。そして「田中派は総合病院である」とも自ら豪語しています。
 
荻上 田中角栄のやり方から「その手腕こそが政治なんだ」と学んだ人たちが、チルドレンをたくさん生んでいったわけですね。
 
斉藤 ただ、「総合病院」というのは象徴的な表現で、病気が全快すればいいのですが、常に患者さんでごった返している病院こそ、大規模な院内感染を起こしてしまう可能性さえあります。実際、田中派的な政策は、特に地方における公共事業への依存状況を生み出した側面があります。この点は否定的に捉えるべきかもしれません。
 
荻上 つまり、産業をすべての地域に作ろうとしたことで、現在では補助金などに頼らなければ産業を継続できない地域が出てきてしまった。あるいは原発政策のように、この政策で本当に良かったのか、と問われるところもあるわけですよね。
 
斉藤 田中角栄が関わった議員立法の中には、地域経済の成長を促しうる交通インフラ関係のものから、あまり経済成長には貢献しそうにない分野のものまでいろいろとあります。ひとつひとつを精査していかなければ、なかなか全体的な評価や経済効果は分からないと思います。【次ページにつづく】

時代の転換点
 
荻上 1973年以降、高度経済成長がいったん落ち着き、安定成長と呼ばれる時期に入っていきます。ちょうどこの時期に角栄は総理を務めたわけですが、「田中角栄のせいで高度経済成長が早く終わったんだ」という批判もありますよね。一方で、「田中角栄がいたからこそ日本全国の経済基盤が安定し、総中流の社会が実現したんだ」という意見もある。このあたりの政策効果については、どうなのでしょうか。
 
斉藤 田中角栄が総理を務めた時期は、まさに時代の転換点だったのです。国際政治が大きく動き、その荒波の中で日本政治経済はかなり舵取りの難しい時期でした。米中国交正常化という非常に大きな出来事がありましたし、変動相場制に移行する準備期間に入ったということもあります。
 
また、自民党としても重要な時期でした。というのも、高度経済成長期は、岸、池田、佐藤と官僚出身の宰相が続いていました。1955年、保守合同で結党した時、自民党は過半数を大幅に上回る議席をもち、選挙の得票率でみても盤石でした。
 
しかし日本の人口が全体的に都市化を続けていく中で、自民党の集票基盤が弱体化していったのです。そんな中で、自民党の退潮を食い止めるべく、党人派の田中角栄が宰相に選出されたのです。つまり選挙で勝てる総裁を期待されていたのです。
 
ひとつ言えるのは、日本列島改造策を打ち出したことで地方の経済成長期待が大いに高まったということです。それが何を引き起こしたかというと、地方の土地価格の急激な値上がりでした。やがて資産価値の上昇に伴い、物価の値上がりが発生しました。
 
そこで、総需要全体を抑制する必要があるということになり、財政均衡主義者でもあり大蔵省出身である福田赳夫が、角栄の政敵であるにもかかわらず、田中内閣で大蔵大臣に就任するわけです。そこから先はどちらかというと日本列島改造策で膨らんだ期待を弾いてしぼませるような政策が取られていきました。
 
そして変動為替相場制に移行し、日本円がドルに対して切り上がっていく中で景気のスローダウンが始まる。それが、70年代以降の政治経済の流れになります。
 
荻上 こんなメールがきています。
 
「田中角栄の時代は、当時の日本列島を改造する伸び代があったからこそ、物事が上手くいったのでは? 今の日本は内需拡大が飽和して、安い労働力を求めて海外進出が進んだため、国内は廃れていくのだと思います。」
 
当時の経済状況はどこまでが田中角栄によるものだったのか、あるいは時代的な必然性だったのか、このあたりはどうでしょうか。
 
斉藤 評価を定めるのは難しいと思います。実際、田中角栄が宰相の座を降りてからインフラ開発への予算が若干減らされて、一方で選挙対策の福祉、農村構造改善などに力を入れるようになるなど、予算全体の組み替えが起こっていきます。つまり地方の経済成長促進というよりは、自民党の地盤を保守するような公共政策に転換していくわけです。それは田中角栄のせいなのか、あるいは後任の政治家たちのせいなのかは分かりません。
 
荻上 その転換による影響はどのようなものだったのでしょうか。
 
斉藤 仮に日本列島改造政策をより加速させる形で推進していれば、農村人口が多かった都道府県の経済成長率はもう少し高かったのではないかと思います。
 
一方で、そうした地域が都市化することによって、自民党が政権から転落するタイミングがもう少し早まったかもしれないと考えられます。実際、1993年の政界再編では、旧田中派の流れを受け継ぐ竹下派が分裂したことにより、自民党が過半数割れをして細川連立政権が出来上がりました。その渦の中心にいたのが、旧田中派の若手の面々だったのです。
 
荻上 なるほど。ということは、もし東京以外の各地域の都市化が進んでいれば、集中型の国家作りではなく、より分散型の国家モデルになっていた可能性もあるわけですね。同時に、田中角栄の政策のコアな部分というのは、本来それを進めていくと自ずと自民党を瓦解させ、別のスタイルの政治状況を生み得たものでもあったと。
 
斉藤 そこが、日本の自民党長期政権の終焉について考える中で、一番面白いところなんです。利益誘導の中にも、ただ単に選挙の集票基盤を保守するための利益誘導と、経済成長全体を刺激するような利益誘導と両方あるわけです。地域経済そのものを都市化する、あるいは産業競争力を強くするような政策をとりすぎると、むしろ自民党が弱体するというパラドクスがあったわけです。
 
荻上 とはいえ、日本全体にとってはその方が良かったわけですよね。
 
斉藤 恐らく産業競争力のみについて言えばそうだったのでしょう。一方で、冷戦時代において、日本国内の政治的安定性がより重要であったかもしれないなどという、メタな判断基準もあり得るでしょう。
 
荻上 そのあたりは政治の難しいところですね。
 
田中角栄以降の地域経済
 
荻上 小泉内閣で「角栄モデルを脱しよう」と言われたりもしましたが、結果的には今でも整備新幹線、高速道路網の建設が続くなど、政策が引き継がれている面は否めないですよね。田中角栄以降の地域経済への影響をどう評価するべきなのでしょう。
 
こんなメールも来ています。
 
「日本列島改造論で作られた高速道路のおかげで便利にはなりましたが、結果的にどの地方都市も似たようになってしまったと感じます。」
 
日本全国を平準化しようという政策によって、結果的に地域の特産物や観光による収益の減少を招くようなインフラを作ってしまったということでしょうか。
 
斉藤 田中角栄がいたから日本全国が同じになってしまったのかどうかは、なかなか微妙なところだと思います。たとえば、連邦制で地方分権の最たる例として紹介されるアメリカでも、どこに行っても同じようなダウンタウンや郊外のショッピングモールが風景です。グローバリゼーションが進んだ現代において、「財源を下ろして地域間競争を促進すれば平準化しなくなる」というのは、楽観的すぎるのではないかと思います。
 
荻上 平準化するのではなく、それぞれの地域で経済を回していくだけの適切なサイズの都市を作っていくことについては、どう思われますか。
 
斉藤 それは必要な施策と思います。とはいえ、これまでの背景として地方の住民が平準化したサービスを欲しがっていたという現実もあるんです。そこを否定して、「地方は地方で頑張れ」というのは少し大都市目線ですよね。
 
荻上 そんな中で、安倍政権のこれからの課題を考える上で田中角栄の政治から学ぶことがあるとしたら、どんなところでしょうか。
 
斉藤 田中角栄型の政治の負の側面といえば、やはり陳情政治です。当時は地方からたくさんの陳情団が東京にやって来て、頻繁にロビー活動を行っていました。それが、どこまで意味があったことなのでしょう。それよりは地方に権限を委譲し、地元で工夫しながら効率的に政策を実行していく。そうした姿に変わっていくべきだと思います。
 
荻上 ただ現在の地方創生においても、実際には交付金モデルが全面に出がちですよね。
 
斉藤 そうしたインセンティブの設計は非常に難しく、なかなか一筋縄にはいきませんね。ただ私としては、ばらまきはある意味で賢明なやり方だと思っています。田中角栄はよくばらまきを批判されますが、より最近の利益誘導政治の実態は、支持をしてくれた人に便益を切り売りする「えこひいき政治」だったのではないでしょうか。そうではなくて、基準に基づいてきちんとばらまくのなら、その方が機能するのではないかと考えます。
 
荻上 今、安倍総理は「成長と再分配の両輪を回していく」と言っていますが、この再分配というのは単に集票のためではなく、経済効果もあり、かつ弱者に優しい地方創生という意味で、是非やってほしいところですね。
 
斉藤 日本は課税による再分配後の貧困が緩和していないというデータもあります。地域的な再分配はもちろん、世代間の再分配も含めてその仕組みをきちんと設計していかなければいけません。
 
荻上 斉藤さん、今日はありがとうございました。

(記事引用)

↑このページのトップヘ