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時代を記録する「小保方氏報道」.5
小保方晴子氏、手記出版で「作家」として復活? 
“第2の佐藤優”と出版界が食指2016年1月29日 11時33分   

 新たなる第一歩を踏み出した――1月28日、元理化学研究所の小保方晴子氏が手記を出版した。「あの日」(講談社)と題されたこの書には、騒動の最中、小保方氏が話せたくても話せなかったメディア・スクラム被害、そして前時代的なアカデミズムの“闇”がつまびらかに描かれている。手記が発表された1月28日は、2年前、騒動の発端となった「STAP細胞」が発表された日でもある。

 この小保方手記の出版化の報は、マスコミ界、とりわけ出版業界では大きな驚きをもって迎えられた。騒動以来、ずっと小保方氏を取材してきた週刊誌記者のひとりが語る。

「小保方氏、そして彼女の代理人弁護士の事務所にずっと書籍や雑誌への寄稿依頼を続けてきました。でも、いいお返事を頂くことはなかった。オファーはすべて断っているとのことなので……。今回、講談社さんは、相当、頑張られましたね。完敗です」

 事実、小保方氏に近い関係者の話では、新聞社、テレビ局、出版社などのマスコミ各社、芸能事務所からのオファーが、騒動の最中、引きも切らなかったという。

 そうした声を裏付けるかのように、大手出版社が発行する週刊誌の編集長は「小保方氏の連載企画を検討し、オファーを出したことがある」と語る。

「そもそも小保方氏は刑法上、罪を犯したわけではありません。騒動について“真実”は誰もわからないでしょう。何十年かたって彼女の主張が“真実”と認められる可能性もある。科学とはそういうものですから。なので理系に強い執筆陣として連載を持って頂くことも考えています。あれだけのネームがあれば作家としてもバリューは十分です」

 テレビ局や芸能プロダクションも同じだ。“タレント”起用を視野に小保方氏への接触を試みたが叶わなかったという都内芸能事務所幹部は、こう話す。

「元衆院議員で、現在はタレントとして活躍されている杉村太蔵さんの女性版、リケジョ(理系女子)という立ちです。科学をわかりやすく解説する、そんな新しいタレントとして活躍してもらおうと。テレビ番組でのMC、コメンテーターのほか、ご本人さえよければ、あのルックスです。女優、グラビア・アイドルとしても十分売り出せますよ」

 テレビ、出版、芸能の各社の話を総合すると、今、騒動の“号泣県議”野々村竜太郎被告のような刑法犯とは異なり、小保方氏の場合、実社会とは縁遠い学究社会でのトラブルで話題となったに過ぎない。なのでメディア露出へのハードルは低い。…

一連の騒動を遠因とする博士号剥奪という“悲劇性”もタレントとしての資質十分だ。小保方氏がメディアに“出やすい”環境は、すでに整えられつつあるという。

 さて今回、小保方氏による手記発表を、化学研究者たち、アカデミズムの世界ではどう捉えているのか。かつて小保方氏が所属した理化学研究所の関係者がさばさばとした口調でこう応えた。

「もう小保方氏は研究者人生に完全に見切りをつけたなという印象です。手記を出さなければまだ首の皮一枚、いばらの道ではありますが研究者としての道は残されていましたから」

 あまり現実的ではないが、大学や研究機関に属さずとも研究活動は一応続けられる。その研究を発表する場さえあれば、研究者ではいられるからだ。もっとも今、小保方氏を受け入れる権威ある学会はないかもしれない。しかし、いつか風向きが変わる可能性も捨てきれず、研究者として復活の目もわずかに残されていた。

「手記では、かつて小保方氏を指導した山梨大学の若山照彦教授に関する記述が目立ちます。これは新たな火種となりかねない。そんな手記を発表する小保方氏を迎え入れる学会は恐らくないでしょう。研究者としては終わりです」(前出の理研関係者)

 若山山梨大教授とは、騒動の最中、「小保方氏は自分の渡したマウスを使っておらず、別のマウスとスリ替えた」「私は小保方氏に裏切られた」とマスコミに語り、STAP細胞研究に関わりながらも、当時、小保方氏が“悪玉”と目されたのに対して、“善玉”と目された人物だ。その若山教授について、小保方氏は手記でこう述べている。

<若山先生が作った細胞を、若山先生ご自身が調べて「おかしい」と言っている異常な事態に(以下、略)>

<もし私がES細胞をSTAP細胞だと偽って渡していたのなら、もともと増殖している細胞が渡されていたことになり、若山先生が観察した、増殖能の低いSTAP細胞からの無限増殖する幹細胞への変化は起こるはずがなく、気がつかないはずはないのではないだろうか>

 騒動の当事者による一方的な話かもしれない。しかしここにもまた真実がある。冒頭部で紹介した週刊誌の編集長は手記を読み終えた後でこう述べた。

「この手記は、いわゆる“ムネオ疑惑”に連座、『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社刊)を著した元外務省主任分析官で作家として復活した佐藤優氏(56)を彷彿とさせます。理系版、女性版の“第2の佐藤優”になって頂きたい」

 作家かタレントか。…

アカデミズムの世界に“絶縁状”を叩きつけた小保方氏の手記出版で、マスコミ各社による“争奪戦”はますます激化することは間違いなさそうだ。

 小保方氏のメディア露出で、「STAP細胞」を巡る疑惑がつまびらかになる日もそう遠くはないのかもしれない。何が真実か。世論は固唾を飲んで見守っている。

(フリーライター・川村洋)
(記事引用)

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【小保方晴子氏『あの日』レビュー】描かれていたのは、少女マンガ的な半生とある人物への怒り
2016.1.29ダヴィンチニュース Ads by Yahoo! JAPAN
『あの日』(小保方晴子/講談社)
 真っ白な表紙に、センス良く配置された書体で「あの日小保方晴子」と書かれている。まるで名刺のようなデザインだ。だが悲しいかな。流通時についたのか、書店に平積みにされた本の2割程度がうっすらと汚れていた。なるべくきれいなものを選んで、レジに持っていくことにした。

 小保方晴子さんが手記『あの日』(講談社)を出版するという情報が、インターネット上に出回ったのは発売前日の1月27日。よくリークされなかったと関心しつつも、ちょうど甘利経済再生担当相の現金授受&接待疑惑で沸いていたこともあり、もはや「そういえばSTAP細胞って、結局なかったんだよね……?」程度の気持ちしか持てなかった。そもそも「あの日」って、一体いつのこと?

 ページをめくるといきなり「あの日に戻れるよ、と神様に言われたら、私はこれまでの人生のどの日を選ぶだろうか。一体、いつからやり直せば、この一連の騒動を起こすことがなかったのかと考えると、自分が生まれた日さえも、呪われた日のように思えます」とあった。……。

 さらに進めていくと、STAP論文指導者で、小保方さんの研究を支えるも2014年8月に自死した笹井芳樹氏をはじめ、守り抜いてくれた弁護士や医師など「私の先生」への謝辞が述べられていた。共同研究者だった、山梨大の若山照彦教授の名前はない。フツーなら巻末に後書き形式で述べることが多い謝辞が、前書きの段階で来るとは。表紙の清廉さとは裏腹に、どろどろした雰囲気が漂っている。

 全253ページの構成は大まかにわけると3つだ。まずは「全国模試での成績を見ても首都圏で最難関の国立大学付属高校等への合格は確実」にも関わらず受験に失敗し、無念の高校進学から早稲田大学をAO入試で合格したなど、自身の生い立ちについて書かれている(といっても、プライベートな話はほとんどない)。

 早稲田ではラクロスに励みつつも希望していた研究室に所属でき、卒業後は東京女子医大で再生医療を研究する。そこではラットを使って研究していたが、麻酔をかけて組織を採取し、低温になったラットを手のひらで包み込んで「どうか生きてください」と祈り麻酔から覚めるのを待っていたことに触れている。この時小保方さんは、「ラットがピクピクと動きを取り戻すのを見ると、ほっとした気持ち」になったそうだ。

 またある時は研究指導者のもとにボストンから来客があり、夕食会に同席したものの、普段は飲まない酒を注がれるままに飲み、畳の上で寝てしまった。会がお開きになり起こされるやいなや「アメリカに行きたい!」と言うと、その場でハーバード大の先生が名刺をくれた。留学費用が不安だったものの、早稲田と女子医大の先生方などが「私のために動いてくれた」そうだ。……なんというか終始、少女マンガによくある「優しくていつも一生懸命。だけどちょっとドジっ子のあたしが、持ち前のポジティブさでチャンスをつかんじゃった★」的なにおいが感じられてならない。

 次は東京女子医大からボストンのハーバードメディカルスクールに留学し、3人のエリート女子との交流や指導教員のチャールズ・バカンティ教授との出会いなどが描かれている。

 アメリカで「スフェア」という細胞塊がストレスによってOct4という遺伝子が発現することを確認し、心臓が高鳴った。しかし自身の研究にそっくりな研究を、東北大学に先に発表されて気落ちする。そこでキメラマウス作りに挑戦して答えを見ようと、帰国後は理化学研究所の扉を叩いた。ここからSTAP論文発表に繋がっていく、という一連の流れが説明されている。

 しかしこのあたりは「ポリメラーゼ連鎖反応」やら「スポアライクステムセル」やら、専門用語の羅列が続く。高校時代、理科の成績がたったの2だった私には、正直面白さを感じられない。文章も日々起きたことや人名をただ並べているので、「日記か!」と言いたくなるが、小保方さんの本業は物書きではない。なのでこれは仕方がないのかもしれない。

 そして残り約110ページを、STAP論文のねつ造やデータの改ざんが指摘され、科学者としての未来が暗転した「STAP騒動」について割いている。ここで主に書かれているのは、研究を主導していたのは若山照彦教授だったにも関わらず「全部小保方のせい」にされてしまったこと、理研の中の誰かが、彼女に不利な情報をマスコミに逐一リークしていたこと、NHKや毎日新聞をはじめメディアに連日追い掛け回され、心身共に疲弊してしまったことへの恨み節だ。とくに『捏造の科学者――STAP細胞事件』(文藝春秋)で2015年度の大宅賞を受賞した、毎日新聞の須田桃子記者に対しては、「「取材」という名目を掲げればどんな手段でも許される特権を持ち、社会的な善悪の判断を下す役目を自分が担っていると思い込んでいるかのようだった」と名指しで批判している。

 しかしそれ以上に強く言及しているのは、ある時「僕ばかり成功してごめんね。フフフ」と小保方さんに向かって言った、若山照彦教授についてだ。共同研究者の先輩にハシゴを外され、「捏造の科学者」として1人、いかに奈落に突き落とされていくか。詳細な描写のなかに、「悪いのは私なのか!」という怒りが込められているの読み取れる。

 誰がウソをついていて、誰が真実を述べているのか。STAP細胞が実用化する可能性は全くないのか、まだほんの少しでも残されているのか。残念ながら同書を読むだけでは判断つきかねる。しかし小保方さんが「科学ってもっと優雅なものだと思っていた」と言うと、「やっぱりお前はバカだな。こんなどろどろした業界なかなかないぞ。もうやめろ」と答えた理研の相澤慎一氏の言葉から、堕ちた奈落の深さが感じられる。そのぞっとするほどの深みは、決して簡単に這い上がれるものではない。そんな後味の悪さが、この本の一番の特徴なのかもしれない。

文=玖保樹 鈴
(記事引用)


--サイト主よりお願い--
凄まじいばかりのメディア取材(書き直しが多い)合戦を、これからもコピー掲載する予定。

STAP細胞に関する決着は既についている。

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にもかかわらず、これだげ多くの「メディアサイト」が追っているには訳がある。刹那にいって金になる。

ただ、それだけじゃ格好がつかないので表層装丁は、○◎○◎らしく、なおかつアイデンティティーを挿入しつつ、わきまえた報道をする。

といったところで、これだけ雑多になると、小保方氏の姿勢よりもむしろ反対に、よってたかって好き放題、いい放題のサイト発言を集大成して、品評会をした方がパラドックスとして有用だと一計を案じた。

だから、メディアの皆様、どうぞ節操なきパワハラ発言を存分に提供してください。一字一句もれなく掲載いたします。ただし金品薄謝類は一切供与いたしません。(主・幣帛)



STAP細胞に関する小保方晴子氏(32)の手記 A2016/1/28
STAP細胞論文の著者だった理化学研究所の元研究員、小保方晴子氏(32)の手記が28日、講談社から出版される。

小保方氏が退職後、まとまった主張をするのは初めて。「あの日」と題した同書で、一連の騒動について「真実を書こうと決めた」と執筆の動機を説明。

理研によって存在が否定されたSTAP細胞が、本当に実在するかどうかについては触れていない。

STAP細胞が本当にあるのかどうかという核心には触れていない。9000万円が投じられた理研の調査でSTAP細胞の存在は否定されたが、著書の反響次第では問題が再燃する可能性もある。

出版記念会見開かず講談社によると、「あの日」は初版5万部で1部1400円(税別)。出版に関して小保方氏が記者会見を開く予定はないという。一般的に著者への印税は約10%とみられ、それで計算した場合、小保方氏の手元に入るのは約700万円になる。
(スポニチ記事引用)

小保方氏は手記を「不思議と、今でも実験をしている夢を見る。でも、その夢から覚めた時、思い描いていた実験はもうできないんだと思うと、胸が詰まり、涙が勝手にこみ上げてくる」と締めくくっている。
(引用 Fuji News Network)


「STAP細胞」発表から2年 
元理研の小保方 晴子氏が手記発表へ
フジテレビ系(FNN)1月27日(水)21時23分配信
世界中に衝撃を与えた「STAP細胞」の発表が行われたのは、2014年の1月28日だった。
一連の騒動の始まりになった「あの日」から、ちょうど2年となる、2016年1月28日。
これまで、沈黙を守り続けていた小保方 晴子氏(32)が手記を出版する。本のタイトル、ずばり「あの日」。

「あの日に戻れるよと神様に言われたら、私は、これまでのどの日を選ぶだろうか」という書き出しで始まる、1冊の本。

タイトルは「あの日」。

書いたのは、元理化学研究所研究員・小保方 晴子氏。

STAP細胞論文の研究不正問題。
その裏で、何が起き、それを小保方氏は、どのように受け止めたのか。STAP細胞の名前で注目を集めた万能細胞について、手記では、「この新しい細胞に名前をつけようという話になった。研究室のみんなで考えてくれ、私の名字から『オボセル』や、『おぼっちゃまくん』という漫画から、『チャマセル』など、いろいろと冗談めかした案も出たが、どれもピンとこないままだった」と記されていた。

しかし、STAP細胞については、次々と疑問が浮上した。
そして、小保方氏への追及の声が強まると、「私は『死にたい』と繰り返し、完全に動けなくなり、入院が決まった」と記されていた。

華々しい発表会見から半年、論文にねつ造や改ざんがあったとされたことを受け、小保方氏は、STAP細胞の存在を証明するため、検証実験に取り組むことになった。
「『魔術を使うことを防ぐため』に、監視カメラや立会人による24時間の監視に加え、私の行動の全ては、立会人によって記録された。ほんの少し、手を動かすことも、物を持ち直すことも、自由にできなくなった。それでも、実際に検証実験が始まり、緑に光る細胞塊を久しぶりに見た時、やはり、自分が見たものは幻ではなかったのだと思い、もう一度、この子たちに会えてよかったと」などと、検証実験に手応えを感じていた小保方氏。
そこに、突然の知らせが飛び込んできた。

小保方氏の指導役で、STAP細胞論文の共著者でもあった、笹井芳樹氏が自殺した。
そして、この年の12月19日、理研は、小保方氏本人が、48回にわたって行った再現実験の結果、STAP細胞を作製できなかったと発表した。
小保方氏は、理研に辞表を提出した。
さらに理研は、調査の結果、万能細胞として知られている「ES細胞」が混入していた可能性が高いと結論づけた。
しかし、誰が混入したかは特定できず、故意か過失かはわからないと説明した。
小保方氏の手記には「私が担当していた実験部分の『STAP現象』の再現性は確認されていた。私がES細胞を混入させたというストーリーに収束されるように仕組まれているように感じた。周到に準備され、張り巡らされた伏線によって仕掛けられた罠(わな)だったとも受け取れた」と記されている。

「あの日」と題された小保方氏の手記。
発売される28日は、小保方氏がSTAP細胞発見の記者会見をしてから、ちょうど2年となる日。
小保方氏は手記を「不思議と、今でも実験をしている夢を見る。でも、その夢から覚めた時、思い描いていた実験はもうできないんだと思うと、胸が詰まり、涙が勝手にこみ上げてくる」と締めくくっている。
今回の手記の出版について、理研はコメントはないとしている。
最終更新:1月28日(木)8時29分 Fuji News Network
 
気になるニュースのことなどをダラダラと
よもや真話 2016年01月19日
理研と岡山大学の問題の先にあるもの
岡山大学には、岡山大学病院を「地域医療連携推進法人」化し地域医療ネットワークを構築する「岡山大学メディカルセンター」構想があるらしい。
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/politics/article/212567
岡山大学の不正対応の問題は構図的には理研とそっくりだ。
「特定国立研究開発法人」のためにSTAP細胞論文の不正問題を大急ぎでテキトーに処理してお茶を濁そうとした理研では、「正義の有志」が立ち上がり、アカデミアからは「不正の実態を明らかにせよ!」と「声明」まで出して大騒ぎをしたが、「地域医療連携推進法人」のために不正問題を揉み消そうとした岡山大学では、「ふたりの教授」が立ち上がったものの、アカデミアからは無視され大学からは解雇されてしまった。

構図としてまるで瓜二つなのに、アカデミアもマスコミも正反対の反応になっている。まあ、マスコミが「権威のお言葉」の拡声器でしかないことは、STAP騒動でも明らかだったし、片瀬久美子氏のツイートでも裏付けられてはいるのだが。また、今月3日に毎日新聞が記事にした「不正調査の問題点」は細かい話でしかなく、岡山大学の問題は近視眼的な科学記者よりも社会部記者が扱った方が良い問題だろう。

片瀬氏の場合はSTAPの時と同じスタンスで行動に一貫性があるので、近視眼なりに信念を貫いていただければ良いのだが、某男性ライターのようにiMuSC細胞論文が意味することについて自分の頭で考えることもなく、著名な科学者のネット証言を継ぎ接ぎしたような「権威のお言葉の受け売り」しか出来ない中途半端な科学ジャーナリストの存在価値はやっぱりないだろう。不正告発者が解雇されても無視し続けている「学会の偉い先生」達の存在も。日本のアカデミアと科学報道は一蓮托生で壊れている。

STAP問題では『日本を代表する研究機関である理研で起きた前代未聞の研究不正の解明にあたり、理研内で真相と科学的真実の解明のため勇気ある行動をとっている研究者が複数名いることは、理研にとって大きな救いである。』とまで褒め称えた人達は、いまどうしてるのだろうか。
STAP騒動の際、理研は自主的に不正調査に乗り出した有志達の研究環境を破壊するような不当なことは全くやっていなかったと思われる。逆にCDB解体を提言し、彼らの研究環境を破壊しようとしたのは国立大学の教授達で構成されていた理研改革委員会の方だ。
一方、岡山大学では不正調査に乗り出したふたりの教授達の研究環境は完全に破壊されまった。STAP騒動であれだけ騒いだ人達は、森山・榎本両教授の「勇気ある行動」に対して見て見ぬふりを続けている。というよりも、両教授の「真相と科学的真実の解明のための勇気ある行動」は、国立大学法人にとっては邪魔臭いだけの存在なのかも知れない。

今回の問題がここまで拗れたのは、STAP騒動で不正論文=研究犯罪というイメージで大変なバッシングが起きたことも要因のひとつなのかも知れない。森山教授らのスクリーニングで発覚した細かい疑義に対して、指摘された側が不正批判の恐ろしさに完全否定で逃げようとした的な何かがあったのかも知れない。

STAP騒動の際に、不正論文=研究犯罪的な世間のイメージを煽って炎上させたのは、サイエンスライター片瀬久美子氏だったり、科学雑誌「日経サイエンス」編集部の古田彩氏だったり、中山敬一氏、大隅典子氏、近藤滋氏ら日本分子生物学会理事達だったりする。なんせ「詐欺師の持ってきたデータ」呼ばわりなのだから。
石井調査委員会の記者会見後しばらく私は「科学語は正しく日本語に翻訳されなければならない」という主張をしていた。石井調査委員会の不正認定で使用された「捏造」と「改竄」という言葉が、調査委員会から具体的内容を説明された行為に対する日本語として正しくないからだ。論文の体裁上の問題と研究犯罪としての不正問題を分けることなく「不正は不正」として同じ扱いをされた結果、2014年4月1日の理研の公式発表で小保方晴子氏は「捏造犯」とされてしまった。

科学者達が批判するマスコミは、NHK藤原淳登記者だったり毎日新聞須田桃子記者だったりという科学専門記者が「権威のお言葉の拡声器」の役割を果たしているに過ぎない。更に陰からリークしまくる放火魔までいれば尚のことだ。権威のお言葉によってSTAP騒動の狂乱が巻き起こり、大変なバッシングを引き起こしてしまったのだ。そして、日本分子生物学会理事ら生命科学の専門家達は、業界の潔癖を装うために小保方氏の研究成果すべてを捏造の産物と決めつけ、故笹井芳樹博士が「STAP現象を前提としないと説明できないデータがある」と言い、理研内外で予断のない検証をすべき「合理性の高い仮説」であると訴えたSTAP細胞研究を叩き潰してしまった。

STAP細胞論文に対する理研の拙速な不正対応が引き起こした悲劇を見て、私はこういった不正問題の対策には「第三者機関の設置」が急務だと安易に考えていたのだが、それは即ち「大学の自治」を放棄することだと指摘されて、言われてみればそうだなと気付いた。で、大学の自治など放棄して不正問題に対応する公的機関を設置するとして、その運営資金はどこから出るかと言えば、科学予算の枠内なので「アカデミアの人たちに配られるはずだった研究費を削って捻り出す」ことになると。当然、公的機関を設置するとなれば不正まみれの生命科学系の予算を削って捻出するのが筋だろう。科学予算とは別枠で公正取引委員会みたいなのをという考えは図々しい。基本的に業界内で処理すべき問題なのだから。

結局、理研にしろ岡山大学にしろ、こうした事態になってしまっているのは「学者さんには統治能力がない」ことが主な原因ではないかとやはり思ってしまう。理研と岡山大の問題の教訓としては「科学者に政治的な力を持たせてはいけない」ということだろう。ガバナンスが機能せず大学の自治が脅かされているのは理系学者が権力を持ったせいだと私は思う。博士論文の不正問題が指摘された早稲田のように学長が法学系ならこんな事態になる訳がない。
ちなみに、再生医療で最先端を目指すハーバード幹細胞研究所の所長は、学者さんではなくMBAを取得しているビジネスマンだ。
http://hsci.harvard.edu/people/brock-reeve-mphil-mba

こういった流れの末に、日本の科学を取り巻く環境は、学生や研究者が落ち着いて研究に専念することが出来ない状況になって来ているように思えるが、これは結局、学会の偉い先生達が自分で自分の首を絞めてしまったことなのだ。STAP騒動で生命科学分野の構造的な問題が表面化してしまった今となっては、本気で研究の道に進みたい若者にとって、日本のアカデミアは自分の将来を賭けたいとはとても思えるような所ではない。研究者を目指す頭の良い若者達が選ぶ進路は日本ではないのだろう。

森山・榎本両教授に対する岡山大学の仕打ちに今さらになって「なんとかしないといけない」と声を挙げている大学の先生達は、今まさに研究環境を奪われている人達を研究室ごと自分の大学で引き受ける位のことをやれば良いのにと私は思う。「裁判所に任せるしかないのか?」などと悠長なことを言ってないで。
(記事引用)

躍進するスペインの新政党「ポデモス」は極左なのか 
首都大学東京教授・野上和裕
2015.01.10 18:41 THEPAGEネットワーク
 2014年末のヨーロッパ最大の話題の一つは、ギリシアで次期大統領が決まらず、議会の解散総選挙になったことでしょう。1月25日に予定される選挙で誕生する新政権が、今の緊縮策を放棄しないよう、IMFやECB(欧州中央銀行)、ドイツ政府が露骨にけん制しています。
 政策転換を図る最大野党の急進左派連合「SYRIZA」(スィリザ) が政権を握る可能性があるからです。スペインには、スィリザと同じく、緊縮策からの離脱を唱え、スペインの政権の座をうかがう政党があります。それが「Podemos」(ポデモス)です。

「ポデモス」の考え方は?
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2014年11月、マドリードの会議に出席した「ポデモス」書記長・イグレシアス氏(右)(ロイター/アフロ)

 ポデモスは、2014年1月にできたばかりの新政党で、ほとんどネットを使った運動だけで、5月の欧州議会選挙でスペイン第4の政治勢力となりました。ポデモスの台頭は、スペインの政治に大きな衝撃を与えています。結党大会が10月で、執行部が作られたのは11月です。それでも各種世論調査では、断トツの支持率を得ています。現在総選挙を行なうと、下院350議席中、ポデモスが100を超える議席を獲得すると予想されています。

 ポデモスとは、オバマ氏が2008年のアメリカ大統領選挙で使った「Yes, we can!」というキャッチフレーズに対応するスペイン語です。後で触れるように、ポデモスは、極左というレッテルが貼られていますが、左翼というよりも、市民の政治への声を強めようという市民運動の延長上にその理念がある政党です。

 ポデモスは、スペインの民主主義が曲がり角に立っていると考えています。スペインは、1975年にフランコ将軍が死去するまで40年もの間、独裁制の下にあり、その後急速に民主化を遂げました。彼らは、現在の1978年憲法体制の下での保守の人民党(PP)と社会労働党(PSOE)の二大政党制が閉鎖的な特権階層(カースト)を作っていると考えます。市民は、政治から排除され、無力感を持っています。そこで、政治を市民の手に取り戻そうと作ったのがポデモスです。

 ポデモスの発起人のほとんどは、40代までの若手の大学教授たちです。特に日本の東大に相当するマドリードのコンプルテンセ大学の政治学社会学部に集中しています。書記長のパブロ・イグレシアス氏は、1978年生まれ36歳。常にノーネクタイで、カジュアルなシャツ姿です。どこにでもいる若者のようですが、2008年に提出した博士論文が高く評価され、2011年まで母校でも教鞭を執った大変なインテリです。

 イグレシアス氏は、政治学社会学部の同僚でもあり、ポデモスのリーダーである、フアン・カルロス・モネデーロ氏(1963年生まれ)、イーニィゴ・エレホン氏(1983年生まれ)などとともに、中南米の左翼政権を評価し、ベネスエラのチャベス政権の諮問委員を務めました。2010年からは、反グローバリズム運動や環境運動などいわゆる新しい左翼に近い思想家や大学教授を数多く招く(インターネット中心の)討論番組「La Tuerka」の司会者を務めました。イグレシアス氏は、保守的な傾向を持つ一般のテレビ局の討論番組にも呼ばれ、たった一人で緊縮策を批判する姿が全国的に知られるようになりました。

ポデモスを結党した背景とは?

2011年11月の総選挙の結果、野党が勝利し、ラホイ政権が誕生(右側がラホイ首相)(ロイター/アフロ)
 
 イグレシアス氏たちは、PPとPSOEの二大政党制がつくる特権階層「カースト」が、権力を独占し、政党幹部だけでなく、政府官僚機構、司法府、企業や公社などのポストを独占し、たらい回し人事を行なっていると指摘します。そこで、彼らは、1978年憲法体制を転換し、二大政党制を解体して、政治、経済、社会の民主化を達成しなければならないと主張しています。

 スペインでは、さまざまな抗議デモに何十万人もの人が参加します。たとえば、2003年2月の国際的な反イラク戦争のデモでは、マドリードで60万~166万人、バルセロナで70万~130万人の市民が参加しました。

 2011年5月15日に発生した「15M運動」では、マドリードの中心地であるソル広場を多くの人が、2か月近く占拠したのです。この運動は、スペインの他の都市に広がっただけでなく、他国にも波及しました。同年9月にニューヨークで行なわれた「ウォール街占拠運動」(Occupy Wall Street)もスペインの15M運動の模倣でした。この運動は、ネット上の「今こそ真の民主主義を!(Democracia Real, Ya!)」という呼びかけから始まったとされます。

 ところが、15M運動は成果を上げることができませんでした。実は、参加者の不満は、主に市や州の政権を握る保守の福祉・教育予算削減に向けられており、当時のPSOEのサパテーロ政権に対する抗議でありませんでした。しかし、11月総選挙でPSOEが59議席減の大敗を喫したのに対して、PPが32議席増の(全350議席中)186議席という過半数を獲得し、現ラホイ政権が誕生しました。
 その保守PPの大勝の一因であるなら、その後の過激な緊縮路線は、15M運動が逆効果であったことを示します。そこで、市民運動に集った人の意思を正確に政治に反映させようというのがポデモスの設立の動機となりました。

経済格差や新自由主義への不満

 ポデモスによれば、現状の経済格差、新自由主義的な規制緩和、福祉国家の解体を伴う緊縮財政政策は、政府の首脳が大企業・銀行の幹部ポストに就く人事慣行(回転ドア)によって支えられています。ポデモスは、このような政界と財界の癒着を排除して、民主主義の原則に立ち返ることを目指します。つまり、民主主義の理念を徹底することにより、国政をカーストから一般市民に取り戻すことができ、そこで初めて経済政策も変えられるとするのです。

 他方、ポデモスも自らがそういった政治の世界に取り込まれることを警戒します。そこでポデモスでは、創立メンバーが自動的に選挙の候補者になるのでもなければ、執行部を形成するのでもなく、改めて予備選や党内の書記長選挙、幹部選挙を行なうなど徹底した党員の平等主義・党内民主主義を追求しています。

 ポデモスの政策は、モデルが北欧の社会民主主義であり、共産党と(彼らから見れば)右傾化したPSOEの中間にあります。経済政策ではPSOEと変わりません。実際、イグレシアス氏は、2010年の政策転換までサパテーロ政権を支持していました。

 はっきりとPSOEとポデモスが異なっているのは、バスクやカタルーニャの地域ナショナリズムに対する態度です。ポデモスのリーダーたちは、自己決定権を擁護する立場から、独立の是非を問う住民投票の実施そのものを支持します。
 しかし、明確に独立に対して反対の立場を表明しています。この点で、ポデモスは、カタルーニャに対するさらなる特権と連邦制化によって事態の収拾を目指す従来の左翼より「中央集権」的です。ポデモスのカタルーニャでの支持者は、地域ナショナリズムに反対です。

 以上をまとめると、PSOEとの関係でポデモスの伸張は、(1)PSOEの2010年以降の政策転換と新自由主義に対する不満から伝統的な社会民主主義の支持層が動いていること、(2)カタルーニャに対する譲歩に不満を持つ層がポデモスに流れていることの二つが示唆されます。

ヨーロッパの中で比較すると

 ポデモスは、他のヨーロッパの新左翼と異なっています。第一の違いは、そのヨーロッパ指向です。イグレシアス氏は、ヨーロッパの統合が反ファシズムの民主主義から生まれたと述べ、いわゆるヨーロッパ懐疑主義やEU離脱論とは無縁です。第二の違いは、ポデモスが左右対立の克服を目指す中道指向にあります。実際、ローマ教皇の演説にも国王のクリスマス・メッセージにも、PPやPSOEと同じく賛辞を送っています。それなりに「行儀がよく」穏健なのです。

 なお、既成政党に対する挑戦を行なう勢力として、イタリアのベッペ・グリッロの「五つ星運動」と同種のものと誤解されることがあるのですが、その歳出削減・民営化路線とは対極にあります。

新たな民主主義の「実験」に

 ポデモスの政策は社会民主主義的なのですが、リーダーたちは、「金融オリガルキア」とか「カースト」といった新左翼の刺激的な用語を多用します。
 それでも、彼らのほとんどが大学教授や学者ですから、「人々にわかりやすい単純なメッセージを繰り返すことにより支持を拡大する」というポピュリズムと正反対に、実は説明が回りくどくなり、話がまどろっこしいのです。
 そのためキャッチフレーズや紋切り型の「イエスかノーか」が好きなマスメディアと話が全くかみ合わないので、「本当の政策を隠している」というイメージが作られました。ポデモスの台頭に脅威を感じている他の政党も、ポデモスが極左であるという宣伝を繰り返します。

 もちろん、ポデモスが政権に到達したとしても、緊縮策が転換できるかは別問題です。
しかし、緊縮財政政策だけを正しいと考える今日の政治状況の下で、ポデモスは、かつての社会民主主義を再生させる試みの一つといえます。そして、同時にネット社会における新たな民主主義の政治的実験として、今後の政治を考えるヒントを我々に与えてくれるものとなるでしょう。
(記事引用)

米ツイッター、メディア部門などの主要幹部退職へ 株価急落
ロイター2016年01月26日 15:51[25日 ロイター
 - 米ツイッター<TWTR.N>のジャック・ドーシー最高経営責任者(CEO)は24日夜、同社の幹部4人が退職することを明らかにした。成長回復のためドーシー氏が昨年CEO職に復帰して以来、最大規模の幹部交代となる。

これを受け、指導部の不安定さや業績低迷への懸念から同社株は25日の米株市場で4.6%急落した。昨年4月以降では67%下落している。
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スタイフェルのアナリストは、リサーチノートで「事業の立て直しを進める中での3つの主要事業部門の幹部退職はポジティブには受け止められないだろう」と指摘。ツイッターの投資判断を「バイ」から「ホールド」に引き下げた。

同社のユーザー基盤は過去1年間、3億人をやや上回る水準で推移し、ほぼ横ばいとなっている。その一因は、新たなユーザーがツイッターをどう使用すればいいのか理解しにくい点にある。

ドーシーCEOによると、メディア部門トップのケイティ・ジェーコブス・スタントン氏、プロダクト部門トップのケビン・ウェール氏、エンジニアリング部門トップのアレックス・ロエッター氏、人事部トップのブライアン・シッパー氏が退職するという。

ドーシーCEOは4人の功績をたたえ、退職は残念だと表明。プロダクト部門の収益関連や人事部などの責任者は最高執行責任者(COO)のアダム・ベイン氏が担当するとした。

また広報担当者によると、ウェール氏の後任は配置せず、アダム・メッシンガー最高技術責任者がエンジニアリング、コンシューマー・プロダクト、デザイン、リサーチ、ユーザーサービス、開発プラットフォーム「Fabric(ファブリック)」を統括するという。

24日夜には、同社の動画ストリーミング・サービス「バイン」の責任者であるジェーソン・トフ氏も退職を明らかにし、グーグルのバーチャルリアリティー部門へ移ると発表した。ドーシーCEOは、トフ氏の退職については触れていない。

ウェール氏、スタントン氏、ロエッター氏はいずれもツイッターに5年以上在籍しており、3氏の退職によりコストロ前CEO時代からの経営チームメンバーのほとんどがいなくなる。

関係筋によるとツイッターは、25日にも最高マーケティング責任者(CMO)などの採用について発表する可能性がある。近日中に2人の取締役を発表するもようだ。

同社がユーザー数を大幅に増やすことに失敗したとの見方から、株価はドーシー氏のCEO復帰以来ほぼ50%下落。現在、新規株式公開(IPO)時の公開価格を下回る水準にある。

ドーシーCEOは10月の決算発表時、才能のある人材の採用や投資、大胆な見直しの必要性を強調していた。

MKMパートナーズのアナリスト、ロブ・サンダーソン氏は、特にプロダクト部門とエンジニアリング部門の幹部退職について非常に失望したと指摘。「プロダクト部門とエンジニアリング部門の幹部は入れ替わりが激しかったが、ウェール氏はその対抗手段として期待されていた」と語った。

 

原油価格下落は世界と日本にとって吉か凶か
真壁昭夫 [信州大学教授] 【第413回】 2016年1月26日
“逆オイルショック”はリスクオフを加速させ
世界経済の足を引っ張る悪循環をもたらす

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 ガソリン価格や生産コストの低下は、消費の下支えにつながるはずだが…

 原油価格が不安定な展開を続けている。1月15日には、代表的な指標であるWTI(ウエスト・テキサス・インターミディエート)原油先物価格が、約12年ぶりに1バレル当たり30ドルを下回って取引を終え、20日にはさらに26ドル台となった。

 足元では反発しているものの、2014年前半、100ドル台だったことを振り返ると、原油価格はまさに地すべりのような勢いで下落した。それは“逆オイルショック”と呼ぶべき動きだ。

 この背景には、世界的な原油需給の悪化がある。中国など新興国の景気が減速し需要が低迷しているにもかかわらず、サウジアラビアなど主要産油国は減産を見送ってきた。足元では、イランの原油輸出観測が供給圧力への懸念を追加的に高めている。

 主要需要国であった中国などの景気減速で、原油だけでなく、鉄鉱石や銅など多くの商品も下落している。まさに“資源バブル”の崩壊という表現が適切な状況だ。

 最近の原油価格の下落と不安定な株価の相関関係を見ると、これは世界経済のリスク要因の一つと考えた方がよい。これまで世界経済を牽引してきた米国でも、原油価格の下落がエネルギー関連企業の業績、財務体力への懸念を高め始めている。

 原油価格の下落は、エネルギー資源を輸入する国にはプラスに作用する。しかし、原油を売る側の産油国にとっては大きなマイナス要因だ。中東の産油国の中には、保有している投資ファンドを現金化する動きも出ている。

 それに伴い、欧米やわが国の株式市場には、中東筋からの売りが出ているようだ。株価の下落は投資家のリスク許容量を減少させ、金融市場を不安定化させる。それは投資家のリスクオフの動きを加速させ、金融市場の下落で世界経済の足を引っ張る悪循環ができる可能性が高い。

サウジの思惑とイラン制裁解除で供給過剰
中国と世界の景気減速で需要は低迷

 原油価格の下落の背景には、世界的に原油が過剰気味になっていることがある。供給サイドでは、シェールオイルブームによって米国などで産油量が大きく上昇した。それに加えて、サウジアラビアをはじめとする主要産油国が減産を見送ったことが大きく影響している。

 2014年、米国の原油生産量は、サウジアラビアを抜いて世界第1位となった。米国の生産増加は、世界の原油市場をコントロールしてきたサウジアラビアにとって、影響力の低下を危惧させたはずだ。

 かつて、サウジアラビアはOPEC(石油輸出国機構)内の減産合意に基づいて、産油量を減らし市場シェアを落としてしまった。その時の経験もあり、同国などOPEC諸国は減産を見送り、結果として原油の供給圧力が高まった。

 また、1月16日、欧米諸国がイランに対する経済制裁を解除すると発表した。すでに、イランは原油輸出量を一日当たり50万バレル増やす用意があるという。イランの追加的な供給圧力は、原油価格の下押し圧力として働く。

 一方、原油に対する需要は低迷している。基本的に、原油への需要は世界の経済状況に大きく左右される。経済状況が上向きになると、生産活動の活発化等のためにより多くのエネルギーが必要になる。経済状況が悪化すると、原油への需要も弱まりやすい。

 世界経済の下落を招いた最大の要因は中国の景気減速だ。リーマンショック後、中国政府は約4兆円(約57兆円)の景気刺激策を打ち出した。それは、リーマンショック後の景気を一時的に支えた。

 しかし、景気対策の賞味期限はほとんどが3年程度だ。中国の景気拡大は続かず、2014年以降、減速は鮮明化した。積極的な景気対策の結果、国内では鉄鋼や石炭などの過剰な生産能力が蓄積された。それが中国での不良債権への懸念を高めてきた。

 こうして中国経済の成長期待は低下し、世界的に原油など資源に対する需要が低迷した。中国経済の減速は、ブラジルなど他の新興国やオーストラリアなどの資源国の景気減速にもつながった。

原油下落は米国経済への懸念を高める
わが国にとっても大きなリスク

 原油価格は、昨年末から1月中旬までの期間だけを見ても、20%程度下落した。ただ、価格下落が顕著なのは原油だけにとどまらない。鉄鉱石や銅をはじめ、多くの天然資源や農産物の価格が下落している。こうした急落は、“資源バブル”崩壊との表現がふさわしい。

 資源価格が軒並み大きく下落すると、世界経済にも大きな影響が及ぶことは避けられない。

 インドやわが国など、エネルギー資源を輸入に頼っている国では、ガソリン価格の低下や生産コストの低下を通して消費の下支えにつながる。

 しかし、冷静に考えると、逆オイルショックのマイナス面も大きい。原油価格が下落すればエネルギー関連企業の業績、財務内容に対する懸念が高まりやすい。それは株式や社債の価格を下落させる。

 すでに米国では、シェールガス開発のブームに乗って発行された非投資適格級の社債(ジャンク債)の価格が大きく下落している。投資家のリスクオフの動きを通して、同国経済に対する懸念を高めるマイナス要因だ。

 米国景気に対する懸念が高まると、それが牽引する世界経済の先行きに黄色信号が灯ることになる。特に、米国には大手エネルギー関連企業も多く、原油価格の下落は米国株式市場の足を引っ張る要因になる。

 そのため、原油価格の下落が、世界の金融市場に急速なリスクオフの動きもたらす可能性は高い。その場合、為替市場ではドル高の巻き戻しによる円高が進むことが想定される。円安がこれまでの企業業績、株価の上昇を支えてきたことを考えると、逆オイルショックは、わが国にとっても大きなリスクになり得ると考えるべきだ。

相場の反発はあっても一時的
投機的な売りが出やすい状況

 世界経済を原油価格の動向と併せて考えると、ディスインフレ環境下での金融政策、新興国の景気に与える影響には注意が必要だ。

 原油価格の下落は物価上昇率を抑制し、世界的にディスインフレ圧力を高める。そのため、金利は上がりづらい。利上げに踏み切った米FRB(連邦準備制度理事会)も、今後、慎重な政策スタンスを示すことになるはずだ。

 昨年の年末にかけて米国の製造業の景況感が悪化し、それに加えて、12月の小売売上高がマイナスに落ち込んだ状況を考えると、同国経済の状況にも少しずつ不透明要因が目立ち始めている。今後の米国経済の展開次第では、FRBは利上げの実施に踏み切れない可能性もある。

 その場合、わが国やユーロ圏などでは追加的な金融緩和が期待されることになるだろう。政策効果への期待が、一時的に原油価格や株価を反発させるかもしれない。ただ、世界経済が抱える不透明要因を考えると、そうした状況が長く続くとは考えにくい。

 投資家にとって、一時的な相場の反発は株式などのリスク資産を売却するいいタイミングかもしれない。

 資源価格の下落の引き金となった中国では、これからゾンビ企業の淘汰など構造改革を進めようとしている。大胆な改革は失業者の増加など、社会の不満を高めやすい。政府は社会の混乱を避けたいはずで、改革は進まず今後も中国の景気はずるずると低迷する恐れがある。

 現在、中国政府は市場安定のために、株式の売却制限や為替相場への介入を実施している。今のところ市場は小康状態を取り戻しつつあるように見える。しかし、ひとたび投資家が大挙して中国の本土株や人民元を売り始めれば、政府の力で売り圧力を食い止めることには限界があるだろう。

 すでに、アジアの新興国通貨の中には、1997年の通貨危機以来の安値まで落ち込んだ通貨もある。産油国等でのドルペッグの維持など通貨制度に対する懸念も強くなっている。そうした市場の綻びを狙って、投機的な売りが出やすい状況になっている。

 下落のペースが速かっただけに、一時的に原油価格が反発することはあるかもしれない。しかし、世界的な資源に対する需給の悪化という問題は、短期間での解決が難しい。原油をはじめとする資源価格の不安定な展開は、これからも世界経済や金融市場を動揺させることになるはずだ。
(記事引用)

百姓は百姓にあらず
「第3章:近世の日本」批判18
①幕藩経済は農業だけに依存していたわけではない
 例えば、戦国時代から江戸時代は、日本が世界の銀の3分の1あまりも産出し、その銀の産出量が減ってからも、銅の産出量は世界屈指であった。
 この時代の国際交易の決済通貨は銀であり、銅は各国の国内通貨として使用されていたのだから、日本は貨幣を製造・供給できる世界でももっとも豊かな国の一つであったわけだ。
 そして日本はこの豊かな銀と銅を使って、中国や朝鮮・東南アジア・インド産の生糸・絹織物・綿織物・砂糖・染料・陶磁器などの品々を大量に輸入していたことは、すでに国際貿易の項で見た通りである。
 
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この銀や銅を産する鉱山は、幕府や有力な藩による直轄経営であり、幕府や藩は、鉱石の採掘を山師とよばれる鉱山技術者に請負わせ、その産出量に応じて税金(運上金)をとり、銀や銅の地金で納めさせていた。
 幕府の最も重要な鉱山は佐渡であったが、この佐渡の鉱山から幕府に納められる運上金は莫大な量に上っていた。
 最盛期の17世紀初頭で言えば、1622(元和8)年の佐渡からの運上額を金であらわすとおよそ20万両となる。これは幕府が一国全てを領国とした佐渡一国の百姓が納める年貢額の1万両弱に比べれば、膨大な金額になることが分かるであろう。
 そしてこの鉱山が栄えたことは、同時に幕府に多額の商品輸入税が入ったことも意味している。なぜなら鉱山が栄えたということは、その地に多くの鉱山技術者と鉱山労働者が移住し、大規模な鉱山都市が生まれたことを意味した。
 
 例えば佐渡の鉱山町相川は5万人の人口を擁し、これらは全て鉱山技術者と労働者、そして銀山役人と商人・職人であった。
 5万人というのは、通常の城下町の人口1万数千人をはるかに凌駕する数字である。また鉱山の経営には坑道の維持に必要な木材や銀の精錬に必要な炭や薪など多量の物資を必要とし、さらに鉱山町に住む人々の生活には多くの生活物資が必要であり、これらはほとんど佐渡国外から移入されていた。
 
 そしてこの移入される物資に対して幕府は、10分の1の現物税を課し、そうして得た商品を転売して、多額の利益を得ていたのだ。
 1622(元和8)年の佐渡にもたらされた商品に課せられた現物税は2万5000両にも達している。この中には、鉱山で消費される1俵10貫入りの炭の年7・8万俵の10分の1税も含まれている。そしてこれ以外には、佐渡に移入されるタバコの独占販売を許可された商人の座からの役銭年3000両など、様々な日用品の独占販売権を得た商人の座からの役銭が加わってくる。
 佐渡一国から入ってくる鉱山の運上金や輸入税そして座の役銭を合わせれば、佐渡一国の百姓が納める年貢の何十倍にもなっていたのだ。
 このような鉱山町は全国に多数存在したし、幕府が運上金や冥加金の名目で役銭を納めさせた商人の座も、江戸や大阪など、各地の大都市に数多く存在したのだから、これらから入る税の額も相当のものであったろう。
 
 19世紀初頭の文政期に、江戸で菱垣廻船積問屋仲間が結成され、そのときの冥加金は、下り酒問屋株仲間の1500両を筆頭に、63組の株仲間が合計で1万2000両を年々納めている。さらに江戸に上方から入る諸物資にも税がかけられていたはず。そしてこれは各藩でも同様であった。

 残念ながら幕府や藩の財政規模の全体像と、諸色運上金・冥加金の全体像を示す資料がないので、幕府・藩財政に占める商業税の割合を測ることができないが、都市は幕藩体制の基盤として、村と同様かそれ以上に重要な位置を占めていたのだ。
 だから町を治める町奉行のほうが、村を治める郡奉行よりも上席とされたこともうなづける。
 また百姓が納める年貢も、米だけで納められたわけではない。百姓が納める年貢には、田畑や屋敷地にかけられる本途物成(ほんとものなり)と、山林・原野・河海の用益に対して賦課された小物成(こものなり)とに分かれていた。
 そして本途物成も米納が原則ではあったが次第に金納化したし、畑での商品作物の現物納も行われていた。さらに小物成は山林・原野・河海を利用して獲られる、炭や木材、そして海産物などの商品にかけられる税であり、これは早い段階から金納であった。
 この年貢を納める百姓は、次ぎに述べるように、農民に限らず、その中には商人や職人、林業者や漁民なども含まれていたのだから、年貢そのものが農業だけに依存してわけではなく、多様な農林水産業・商工業に依拠していたのだ。そして後に見るように、農業そのものも自給的農業ではなく、中世戦国時代からすでに商品作物を生産する商業的農業であったのだから、幕府や藩が農業に依存していたと捉えることは誤りである。

②百姓は多様な職業の人を含んでいた

 さらに、江戸時代の百姓とは、村に住む人を指しているのであり、これには多用な職業の者が含まれていた。
 江戸時代は城下町が出来て、村に住んできた全ての商人や職人が都市に集められたかのような誤解がまかり通って来たが、江戸時代の村にはたくさんの商人や職人がおり、「村」とされた地域にも、交通路にそって「町」としての機能を果たしている地域も数多く含まれていた。そして村には、町だけではなく、農業を基本とした村もあれば、林業を基本とした村も、さらには漁業を基本にした村もあり、一様ではなかったのだ。

 さらに多くの村人は農林漁業以外にも商業や手工業を兼ねていたが、それは農閑期の手間仕事などだけではなく、中には専業の商人や職人も数多くいた。とくに教科書が、水呑百姓として田畑を全く持たず年貢も負担しない「貧しい」百姓であるかのように記述した人々の中には、このような専業の商人や職人がおり、中には、いくつもの藩(国)を越えた広域の範囲で商いを行っている大商人・大親方もいたのだ。
 これは考えて見れば当たり前のことである。
 城下町は、幕府の一国一城令によって、藩(国)の中に基本的には一つだけしかない。その城下町にだけ商人と職人が集住したのでは、広範囲にわたる村に住む人々の日用生活品はどのようにして供給されるのだろうか。日常生活に不可欠な塩や農機具、そして衣料品など、これらを村に住む人が自給自足していたはずはないのだ。
 中世において各地に、三斎市とか六斎市とか言って月に3回ないしは6回開かれる定期市が全国各地に広がっていた。このような市は、江戸時代を通じても各地で開かれ続け、村に住む人々もこれらの市で日用品を手に入れていたし、これらの市や城下町に向けて商品を生産していたのだ。
 江戸時代を自給自足の経済だと考えていた従来の説が間違っているのだ。

③村の自治は拡大し続けた

 また、村の自治のありかたについての記述にも、いくつもの誤りがある。

(a)村は自立した「政治組織」であり「生活共同体」であった。
 教科書の近世の村についての記述は、そこが中世の惣村の伝統を引いた自治の場であると記述していながら、その実態は幕府・藩による支配の末端組織という捉え方が今なお尾を引いている。 これは例えば五人組についての記述で、「村人は五人組に組織され、年貢や犯罪の防止の連帯責任を負った」という記述にも示されている。

 五人組は幕府や藩が組織したものではなく、村が組織したものである。これは村といっても、いくつかの集落に村が分かれて存在することから、それぞれの集落の核になる名主(みょうしゅ)百姓を中心に村人が組みをつくり、村政を担ってきたことに由来している。
 
 そして五人組が年貢に関して連帯責任を持つのは、村の自治が年貢の村請けによって成り立っているからであって、領主との間で取り決めた年貢高を村として納めるのであるから、家に分配された年貢高を払いきれない家があれば、他の裕福な家が肩代わりして年貢を納めるのは、共同体としての村の役割であったからであり、五人組が村共同体の下部機構だったから五人組で連帯責任を負ったのである。
 また、村の家が没落して田畑を耕作できなくなることは、その分の年貢負担が他の者の肩にのしかかってくるのであるから、村として各家の存続に便宜を図り、没落した家の再興を図っていくのも、村共同体としての機能であった。そしてこれは犯罪の防止という治安機能についても同様である。

 村はそれ自身として治安の権限を有していた。これは村が幕府や藩の支配の下部機構であったからではなく、村が自立した「生活共同体」であったからだ。

 村には必ず村の掟が存在する。中世の村の掟との違いは、そこに領主が決めた掟の遵守と年貢の完済が挿入されたことだけで、あとは中世の村の掟と同様な内容である。
 
 では村の掟は何を定めていたのだろうか。多くの村の掟に登場する決まりの中には、田畑荒らしの禁止と罰則規定や山林や野荒らしの禁止と罰則規程、用水の利用規定と罰則があった。
 田畑は村人の生活資材の供給地であったからそれを荒らして自分だけの利益を得ることは当然禁止された。
 そして村が所有する山林は、村人が必要とする薪や炭を生産したり、家屋を建築するための用材の生産場であり、それは日用生活のためだけではなく、山で取れるものを商品として出荷し、村の運営費用を捻出するためのものでもあった。
 そして村有の野原は、農業にとって不可欠の刈敷きという肥料を得る場であり、牛馬の飼料を得る場であった。その山林や野原から自分の必要以上のものを切りだしたり刈り出したりして自分だけの利益を追求することは、他の村人の生活を圧迫するとともに村共同体の不利益を招く。さらに用水の使用も同様であろう。
 
 要するに村は、村共同体として村人の生活を支えているのだから、その秩序を破壊する個人的な利益をはかる行為は村として指弾されるわけだ。したがってその犯した犯罪が重い場合には、村での付き合いを当分の間制限したり、村から追放したりするという村八分の処置が取られたのである。

 しかしこれは、刑事罰というより経済的な制裁であった。
 
 こうして村は、村の秩序を維持するために自前の掟を持ち、自前の自衛のための治安組織を持っていた。幕府や藩は、村の自治機能を利用したに過ぎないのだ。
 また年貢も幕府や藩が一方的に押しつけたのではなく、村との契約でなりたっていた。そしてその年貢の実際の各家の負担は村組織が行い、独自に割り振り帳面を作って割り振り、そして村として年貢を領主のもとに納めたのである。
 五人組を含め、近世の村のありかたを従来は過酷な収奪を行う幕藩制国家の支配機構として認識してきた。だから五人組や村は、年貢をしっかりとるために百姓に連帯責任を負わせるものと認識されてきた。
 しかしこれは、太平洋戦争に向かう中で、近世の五人組を範として隣組が作られ、隣組を核とした村や町が戦争遂行に人々を動員し、同調しないものを非国民として摘発する過程で生まれたイメージであった。

  近世の村は百姓の自立的な生活共同体であり、政治組織であった。だからこそ村人は共同体の利益を守ることにおいて連帯責任を負い、互いに助け合うとともに、村の掟を破って共同体の利益を私的に侵害するものには、村八分という制裁を科していたのだ。この点をしっかり教科書においても記述しておかねばならない。

(b)村役人は選挙で選ばれるようになった
 また、このような村の自治を実際に担ったのが、村役人なのであるから、村役人をどう選ぶかもまた問題であった。教科書は村役人を「名主・組頭・百姓代」と並列的に記述しているが、それぞれの役割と出現の時期は異なるし、またそれらの選定方法も時代の移り変わりに伴って変化していた。
 名主(なぬし)は近世初期には、村で最も有力な名主(みょうしゅ)百姓が世襲した。中世以来の国人領主やその親族の系譜を引くものが、その地位に着いたのだ。そして近世初頭においては村を越えた惣名主という職が置かれ、これも中世の惣村の代表の系譜を引き、有力名主百姓が世襲した。
 しかし名主は幕府や藩との折衝に携わったし、村の治安維持の元締めでもあり、個々の百姓に対する年貢負担の分配の差配の元締めでもあった。これが一つの家に世襲されることは、権力との癒着に繋がる。
 そこで登場したのが組頭であった。

 これはその名が示すように、五人組の長であり、しばしば五人組を幾つか束ねた集落単位の組の長であり、中世以来の惣村の年寄り衆の系譜を引いていた。つまり組頭は村共同体の年寄りとして名主を補佐し村政を合議によって運営してきた者たちであったが、彼らを組頭として認定することで、村政を公的にも合議体制に移すこととなったのである。そしてこれに伴って名主は、組頭の中から選ばれるようになっていく。世襲制が崩れて行ったわけだ。18世紀も中頃のことである。
 また百姓代は、新田開発によって耕地が拡大し、名主百姓の下人や百姓の次三男が独立して、一人前に耕地を持って年貢を負担する百姓の数が増えるとともに生まれた村役人であった。本来この役職は、「惣百姓代」であり、名主百姓だけではなく小前百姓も含む百姓全体の利益を図るために設けられた役職であった。
 先に見たように、村政を執行する名主は世襲制から選挙制に移行したとはいえ、それは相変わらず名主百姓という有力な百姓に限られていた。
 つまりそれ以外の小前百姓と呼ばれた村人は、実際には村政に関ることができなかったのだ。百姓代は、このような小前百姓の利益を代表して、名主・組頭を監視する役目として置かれ、百姓全体の投票で選出された役職であり、17世紀後半には登場し、享保期の18世紀前半に定着した。

  こうして村政は次第に、百姓全体の意向を反映するものに変化し、村の決定機関である寄合における意思決定も「入れ札」という投票方式による多数決となっていった。従って近世後期になると、有力百姓の間で選挙または持ちまわりで選出されていた名主も、百姓全員の入れ札で選出されるようになっていく。いわば村の自治は拡大し続けたのである。

 近世の村は、幕府や藩という武士の生活共同体からは自立した、それ自身が政治的組織であり生活共同体であった。近世の村人は彼らの意思で掟を決め、彼ら自身で代表を選び、彼ら自身で村の治安を維持して、協力して暮らしていたのだ。いわば村は「自由な」(公権力の規制からは自由な)生活の場であったのだ。

(2)幕府や藩は村人の暮らしを統制できなかった

 教科書は、村人と幕府・藩との関係について次ぎのように記述している(p133・134)。

 幕府は、安定した年貢を確保するために、田畑の売買を原則として禁じるなど、百姓の生活をさまざまに規制しようとした。
 百姓という言葉は、もともと古代律令制度の公民の伝統を引きついだもので、農民は年貢を納めることを当然の公的な義務と心得ていたが、不当に重い年貢を課せられた場合などには、一揆をおこしてその非を訴えた。幕府や大名は一揆にきびしく対処したが、訴えに応じることもしばしばあった。

 百姓を公民と位置付け、百姓と幕府・藩との関係が、単なる支配・被支配の関係ではなかったことが示されている。だがこの記述にも多くの間違いがある。
 一つは、「田畑売買永代禁止令」が存在したかのような記述をして、幕府や藩が百姓の生活を恒久的に規制してきたかのような記述をしたこと。
 
 実は幕府や藩には一貫した民政・農政方針はなく、その時々の時代に対処して様々なお触れを出したに過ぎない。幕府や藩の法令は、それが出された時の具体的な事例にそって解釈すべきなのだ。
 また二つ目には、年貢のこと。たしかに百姓は年貢負担を公的な義務として捉えてはいた。年貢を負担する事が「公民」として権利を公認されることだったからである。しかし教科書の記述はまるで年貢は幕府・藩が一方的に決めたかのような記述をしているが、実態はそうではない。
 年貢の決定も百姓との合議によっていた。従って「重い年貢」と百姓が判断した事例は、幕府や藩が百姓との合意を踏みにじって年貢を決めた場合である。だから当然これには抗議するし、百姓に理があれば、幕府や藩もこれを認めざるを得ない。このことの認識が教科書の記述には欠落している。
 さらに三つ目には、教科書は幕府や藩が百姓の一揆を一貫して禁止していたかのような記述をしているが、事実はそうではない。

 近世の各時代によって、幕府や藩の百姓の抗議に対する方針は変化しているのだ。そして百姓の抗議形態は一揆と認識された集団での強訴だけではない。
 正式な手続きを経た訴えがあり、さらには手続きを経ても訴えが無視された場合には、より上級の権力に直接訴える越訴(おっそ)もあった。
 さらに逃散(ちょうさん)という、村単位で他領に逃亡して訴える方法もあった。そして仕方なく一揆を行った場合も、これを武装蜂起と捉えてはならない。
 一揆においては武力行使は厳しく戒められており、これは集団抗議デモと言ったほうが正しいのであり、けして非合法の抗議行動ではなかったのだ。
 従って一揆に対しても、幕府や藩の対処は、個々の場合によって異なるものであった。教科書の記述は、一揆を百姓の武装蜂起として捉える、旧来の左翼に見られた人民闘争史観をまだ引きずっているのだ。

①幕府の法は恒久法ではなかった

 幕府や藩が村人の生活を規制しようとしたことはたしかである。しかしこの規制を、近代以後におけるような法制度と考えて、幕府や藩がある一つの理念・目的をもって、近世の時代を通じて一貫した方針で村人の生活を規制したと考えてはならない。
 幕府や藩の法は、それぞれの時代の出来事に対処するための時々の方針であり、それが一貫した全国的な法になった場合もあったし、その場限りで忘れ去られた場合もあった。そして幕府が出した法は、全国を対象としてはおらず、幕府の領国やしばしばその一地域を対象にしていた。これが他の大名領国に及ぼされるには老中奉書という添え書きがなされ、あて先を限って大名に送付されたのだ。
 さらに送付された幕府の法を大名が大名領国に法として広めるかどうかは、大名の判断に任されたのだ。特に国持ち大名と呼ばれる大身の大名は、幕府から自立する傾向が強かった。近世幕藩体制というのは、幕府と諸藩とが、それぞれが自立した国家として連合した形態だったことを忘れてはいけない。
 さらにもう一つ大事なことは、幕府や藩は本来は軍事機構であって、武士は村や町の政治を行ったことがなかったことだ。村や町の政治は、村や町という政治組織・生活共同体が担ってきた。従って幕府や藩には、村や町を統治するための知識も経験も不足しており、民政統治や農政などのさまざまな産業政策はなかったのだ。
 幕府や藩は、それぞれの場所でそれぞれの時代に起きた具体的な出来事に対処する個別の方針を出したに過ぎない。それが恒久法になるかどうかは、個別事例ごとに異なっていたのだ。

 以下具体的に見ておこう。

②田畑の売買は禁止されてはいなかった

 従来、幕府や藩が百姓の暮らしを規制したことの象徴として示された法令の第1に、「田畑永代売買の禁令」があった。だがこの「禁令」は罰則を伴った法としては一度も施行されたことはないし、全国的に施行されたものではなく、幕府領と限られた範囲の藩の間だけであった。この事情については、田中圭一著「日本の江戸時代」(刀水書房刊)によって見ておこう。

(a)飢饉対策として最初は出された
 田畑の永代売買を禁止する条項が幕府の定めに現われた最初は、1643(寛永20)年に幕府領佐渡に出された「御触書条々」という13条の触れにおいてであった。この触れはとても興味深いので全文紹介しておこう。

一、庄屋・惣百姓共は、これ以後身分不相応な家作をしてはいけない
一、百姓の衣類は、以前からの定めのように庄屋は妻子とも絹・紬・布木綿、百姓は 布木綿だけを着ること
一、庄屋・惣百姓とも、衣類を紫紅梅に染めないこと、このほかは何色でも勝手であるが、型なしに染めること。百姓の食べ物はつねに雑穀を用いること。米はみだりに食べないように申し聞かせよ
一、村では、うどん・切麦・そうめん・そば切・まんじゅう・豆腐は五穀の浪費であるから、商売は禁止する
一、町の中でむざと酒を飲まないこと
一、田畑の耕作は手入れをよくし、草とりにも念を入れるように。もし農作業に精を出さない不とどき者がいたら見つけて処罰すること
一、一人ものの百姓が病気になって耕作ができない場合は、五人組あるいは一村としてたがいに助け合い、田畑を耕作し、収納するように
一、庄屋・惣百姓ともに乗物(駕籠)には乗ってはならない
一、よそからきて田地もつくらず怪しい者は、村においてはならない。もし隠しおいた場合には科(とが)の軽重を糺し、宿をした者は処罰の対象とする
一、田畑の永代売買はしてはならない
一、百姓が年貢の訴訟のため村を欠落した場合は、その者の宿はしないように。もし背いた場合には処罰する
一、仏事祭礼など、身分不相応なまねはしないこと
 この触書は「申し聞かせよ」とあるとおり、直接百姓に出されたものではなく、村役人にたいして出されたもので、法令というより、村の施政に関する指導書である。またこの触書を見ると、当時の百姓の暮らしは、従来の常識に反してかなり豊かなものであることがわかり、とても興味深い。さらにこの条文は後に見る1649年に出されたという「慶安のお触書」とかなり内容がダブっており、この点も興味深い。

 それはさておき、この触書に初めて「田畑永代売買の禁止」が出されたのだが、他の条文には「処罰する」と書かれているのに、「田畑永代売買の禁止」には「処罰する」という但し書きがないことが注目される。罰則が存在しないことを示しており、これが禁令とは名ばかりの訓告にすぎないことが示されている。

 では1643年の佐渡に、このような触書が出された理由は何であろうか。
 佐渡は先に見たように、幕府屈指の金銀銅鉱山であった。そのためたくさんの山師と坑夫が島に集まり大規模な鉱山開発が行われ、山は次々と切り開かれて行った。そして5万人とも言われる人々が鉱山町に集住し、この大量消費をあてこんだ農業開発も進行し、各地で急速な新田開発が行われた。ある意味でどんどん自然は破壊されたのである。
 その中で1636(寛永13)年には大洪水が起き、1640(寛永17)年は干ばつとなり、不作となった。さらに1642(寛永19)年も凶作となり、米価は5倍にも跳ね上がった。こうして次第に佐渡は荒れていったのだ。
 そして翌1643(寛永20)年春には、未曾有の大飢饉に襲われたのだ。このような中で、「田畑永代売買禁止」を含む、先の触書が出されたのだ。つまりこれは恒久的な禁令として出たのではなく、直面する飢饉の対策として村政の指南策として指針として出されたのであった。

 近世の百姓は、米が産地間の価格差で高く売れることをよく知っていたので、普段は麦や粟を食べて米を節約し、飯米までも売り出して金に換え、さまざまな日用品を買いこんだり農業経営資材を買いこんでいた。
 
 そして米の値段の安いところからその金で米を買い、それを飯米にあてるということすらしていた。しかし不作や凶作が続けば、最初は米価が高くて大もうけしても、不作・凶作が続けば売り出す米も不足し、飯米すら、やがてどこでも米価は高くて米を購入できなくなる。
 もともと蓄えがないのだから飢饉が起きるわけである。また百姓は未来の豊作をあてにして田畑を質に入れて金貸しから金や種籾を借りて生活・農業をしていた。しかし不作・凶作が続けば、利子の支払いどころか貸し金の返金もできなくなり、やがて田畑を失うこととなったのだ。そのような危険が生まれる事を避けるためには、田畑を売るなというわけである。

(b)実際には田畑永代売買はなされていた

 しかし以後も、田畑永代売買はなされていたのだ。ただし直接永代売買をしたのではない。各地に残された田畑売買証文を見ると、形の上では田畑を10年間質に入れ、それが過ぎても金を返せないときは相手方に所有権が移るという形をとっていた。
 形は年季を限った質入れだが、実質的には永代売買になってしまう。従って形の上では、「田畑永代売買禁止」が続いていて、実際には永代売買がなされるということになっていた。

 1744(延享元)年に江戸町奉行大岡忠相がこの法令を批判して、廃止を勧告している。田畑の質入れを許しているから田畑の年季質入れは行われている。そして田畑を質に入れるような百姓はよんどころない理由でそうしたのだから、しばしば借金を返せず田畑を取られることになる。名目は違っても永代売買がなされているのだから、先の禁令は廃止すべきだというわけだ。
 しかし幕府は廃止しなかった。

(c)罰則が伴う禁令として存続する

 そして18世紀後半になると、先の禁令に罰則がついたものとして登場する。罰則は、「売り主(本人が死んだときはその子)の入牢・追放」「買い主(本人が死んだときはその子)の入牢・買い取った田畑は没収」「売買の保証をしたもの(本人が死んだときはその子)の入牢」であった。
 18世紀後半になると、こんな禁令をださないと、田畑の売買は止められなかったのだ。しかし相変わらず田畑の質入れは禁止されなかった。だから実質的に田畑の永代売買はなされ続けたのだ。
 幕府はたしかに18世紀後半になると、罰則を伴った「田畑永代売買の禁令」を出した。しかし経済活動は一編の法令で左右できるものではない。実態はこういうものだったのだ。

 では、教科書が記述する、田畑永代売買の禁止以外の「百姓の生活に対する様々な制限」とは何であろうか。
 すぐ思い浮かぶのは、1649(慶安元)年に出されたと言われる「慶安のお触書」である。そして高校日本史の教科書であれば、「分地制限令」と「田畑勝手作禁令」が出て来るだろう。

②それぞれの時期の事情に応じて出された禁令

(a)タバコ税収入を確保するためのタバコ栽培の禁令

 「田畑勝手作禁令」の代表的なものは、本田畑でのタバコの作付けの禁止令である。しかしこれは全国何処でも禁止されたものではないし、近世を通じて禁止されつづけたわけでもない。
 佐渡の名主の家に伝わる近世文書を通じて近世を分析してきた田中圭一によれば、佐渡の国で最初にタバコの作付けが禁止されたのは、1616(元和2)年のことで触書として通達された。
 そして1619(元和5)年には御制法と称して、タバコの作付けだけではなく百姓がタバコを売買することも禁止された。しかしこれは従来の歴史学者が解釈してきたような、本田畑の年貢確保が目的ではなく、巨大な鉱山町を抱える佐渡の特殊性に対応したものであったという。

 すなわち、佐渡の鉱山町には5万人とも言われる鉱山関係者が住みつき、この人々の生活や鉱山に必要な消費物資は、佐渡国外からの移入に頼っていた。
 この国外から移入される物資への現物での10分の1税が、幕府の財政に大きな位置を占めていたことは先に示したとおりである。
 このため幕府が移入されたタバコを扱う商人たちが作ったタバコ座を公認し、タバコ座から納められる運上金も、年に3000両余りに及んでいたのだ。
 
 だから先の佐渡におけるタバコ栽培の禁止令は、佐渡でタバコが栽培されると国外から移入されるタバコの量が減り、幕府に入る運上金や10分の1税が減ってしまうことを恐れてのことだったのである。
 まさに幕府は、タバコ税が欲しいために佐渡でのタバコ栽培を禁止したのだ。しかし佐渡でのタバコ栽培はなくならない。
 当然である。タバコが高い値で売れる限り、百姓がタバコを栽培するのは当然である。そして本田畑でタバコを作付けしてもそれで年貢が減るわけではなかった。これは次ぎの項で詳しく説明するが、近世の年貢の高は、収穫の2分の1ではなく、実質的には10~20%であったのだ。
 タバコ栽培禁令がなんの目的で出されたのかは、禁令が出された時期や禁令が施行された地域の事情によって個々に判断しなければいけない。

(b)百姓の必要で生まれた「分地制限令」
 また分地制限令は1673(寛文13)年に幕府が出したものが最も初期のものだとされているが、これもその典拠がはっきりしないようだ。

 田中圭一(漫画家)によれば、17世紀後半から18世紀前半にかけて、各地の村落における村の掟で、「分地制限」を定めたものが散見されるそうである。
 そしてその背景は、耕地の開発が進んだために用水が不足し、そのために村の家が分家を出して耕地を分割すれば家数が増えて用水が不足するので、家数を制限しなければならなくなったからだという。
 つまり「分地制限」は領主の必要から生まれたのではなく、百姓の村を維持する必要から生まれたというのだ。この百姓の要請を受けて領主が出したのが「分地制限令」ではないかという。

③「慶安のお触書」は慶安には出されていなかった

 さらに「慶安のお触書」である。これは1649(慶安元)年に出されたと言われるが、近年の研究によって、慶安時代には法令としては出されてはおらず、これが法令として出された最初は17世紀後半にある藩で出されたもので、しかもこれも罰則の伴った法令ではなくて、飢饉に備えた村政運営の指針として出されたことが明かとなっている。実はこのような事情があって、「つくる会」教科書では、「慶安のお触書」のことが全く触れられなかったのだ。
 ではどのようなことなのか。山本英二著「慶安の触書は出されたのか」(山川出版社刊)によって見て置こう。

(a)村の道徳・農業指南書としての「慶安のお触書」
 後世に「慶安のお触書」として流布したものは、17世紀のなかばに、甲州(山梨県)から信州(長野県)にかけて流布していた地域的教諭書「百姓身持之事」がその源流であった。この教諭書は全部で31ヶ条からなり、後に「慶安のお触書」として流布したものとは多少内容が異なっていた。
 たとえば、「慶安のお触書」の第5条で百姓は「朝早起きして・・・」と農作業の心得を説いたものがあるが、もとの「百姓身持之事」では、第11・12条に、「下男や下女を抱える百姓たちにたいして、自分が何もせずに指図していたのでは、下人たちがしっかり仕事をするわけがない。
 自分も朝早起きしてまず下人を草刈につかわし、帰ってきたら一緒に作業場に出てそこで指図をせよ」という形で指示をしていた。つまりこの「百姓身持之事」という教諭書は、下人などを数多くもつ家父長的大家族経営をする上層農民を対象とする農業指南書だったのだ。そして甲州や信州の上層農民の間に手習いの教本として流布していたという。
 ただし山本は、「百姓身持之事」の源流を探ることはしていない。しかし先に示した、1643(寛永20)年に佐渡の国に出された触書の内容もまた、後世「慶安のお触書」として流布したものや「百姓身持之事」と極めて良く似た条項を持っている。
 そしてこの触書は、このころ深刻な飢饉に見まわれていた佐渡の地の百姓に対して、農業指南書として幕府から出されていたものだ。ということは、山本が甲州・信州の地域的教諭書として紹介した「百姓身持之事」の源流となる農業指南書が、すでに寛永や慶安の頃、当時の飢饉に際して幕府領が多かった関東甲信越に対して出されていたということを意味してはいないだろうか。

(b)藩法として普及した「慶安のお触書」

 この農業指南書としての「百姓身持之事」が、藩法として最初に成文化され流布されたのが、甲斐の国の甲府藩であった。1697(元禄10)年のことである。当時の藩主は徳川綱豊。後に徳川宗家を継いで、6代将軍家宣となった人物である。

 1697(元禄10)年、甲府藩では「百姓身持之覚書」という触書が作られ、藩内の名主に配布された。これは32ヶ条で、のちの「慶安のお触書」として流布したものと全く同じ内容のものであった。
 そしてこれは名主が交代するときに、年番の名主の家に百姓たちに読み聞かせるものとして配布されていた。まさにこれも農業指南書として配布されたのだ。
 ただしさきの「百姓身持之事」とは異なり、対象を下人を多く持っている家父長的大家族経営の上層農民から一般農民に変えて、時代と甲州と言う土地柄にあう内容に書き改められていた。こうして17世紀の最末期になって後の「慶安のお触書」は、甲府藩法として定められたのだ。

(c)18世紀末~19世紀中の危機の時代に普及した「慶安のお触書」

 この甲府藩の藩法が全国的に流布するのは、18世紀後半以後のことである。
 1758(宝暦8)年、下野の国(栃木県)の黒羽藩において「百姓身持教訓」が出版配布された。これは全部で18ヶ条からなり、内容の多くは先の「百姓身持之事」から取られている。
 この藩では相次ぐ飢饉に対して、家老鈴木武助正長を中心にして郷村の建て直しや産業の振興、そして飢饉に備えての年貢米の一時保管所としての郷蔵の設置などを進め、1783(天明3)年の大凶作にも一人の餓死者も出さなかった。家老の鈴木は、農村を復興するための心得をやさしく書いた木版画などを村々に配って、農業の心得を指南してもいたからだ。

 「百姓身持教訓」はこのような農政の展開の中で印刷配布され、名主が毎月百姓たちに読み聞かすべき農業指南書として出版されたのである。そしてこの指南書は、関東地方の諸藩だけではなく全国に広まり、黒羽藩の農政は、時の老中松平定信にも影響を与えた。
 そして18世紀後半から19世紀中頃における飢饉の連続などによる農村の荒廃の中で、農村復興のための農政が各藩で展開される中、1830(文政13)年に美濃の国(岐阜県)岩村藩が「慶安御触書」を木版で出版した。これはかつて17世紀末に甲府藩で出版された「百姓身持之事」を引き写して木版で印刷し、村々の名主に配布され、百姓に読み聞かせるよう指示された。
 
 この出版を契機にして、「慶安御触書」は全国各地の大名・旗本・幕府代官などが受容し、各地で木版印刷されて配布された。時はまさに天保の大飢饉の最中であった。各地で百姓一揆が頻発し、幕府や藩の悪政を糾弾する小百姓の群れは村の名主たち村役人を突き上げ、村役人を始めとして各藩の役人や代官は、秩序維持に苦心惨憺することとなる。
 この「慶安触書」が全国的に広がった時期はちょうど、「義民伝説」が作られて流布された時期と重なる。つまり村名主などは昔から百姓の苦難を見過ごすことができず、強訴を押し留めて代表越訴を起こし、生命を賭して村を守ったという伝説が流布された時期であった。
 「慶安御触書」はまさに冒頭において、名主たちに対して、村人の模範となって救済者たれと説くものであり、百姓全体に対して、飢饉に際して飢え死にしないための、日頃からの農業の心得と村内での助け合いを説くものであった。
 飢饉は天災ではなく、そして百姓たちが農業を怠って来たからではなく、農政の不備や全国的な商品流通を藩が分立している体制が阻害していることから生じた、人為的災害であったことを押し隠すかのように。
 
 こうして「慶安御触書」は、体制的危機が生じた19世紀中頃に、それも大規模な飢饉が襲って農村が疲弊した東日本の幕府領や小藩に流布したのだ。
 
 では、17世紀末に甲府藩で「百姓身持之覚書」と題された農業指南書が、18世紀中頃に「慶安御触書」と名付けられて出版されたのはいかなる事情があったのか。これについてはまだ確証がないが、山本英二は次ぎのように推論している。

 この「慶安御触書」を岩村藩が出版した当時の藩主の補佐役についていたのが、幕府学問所総裁林衡(たいら)、号して述斎であった。彼は岩村藩主の庶子であり、林大学頭の養子となった人物で、老中松平定信のブレーンとして幕政の復興や朱子学の復興に努めた人物であった。
 そして林家の開祖・林羅山が念願の知行取りとなったのが1651(慶安4)年。慶安年中である。さらに慶安という年号は、民衆にとっても由井正雪の乱を扱った「慶安太平記」として流布し、大きな時代の変わり目として認識されていた。このような背景の下で、幕府は、そして林家は以前から民百姓を思う仁政を敷いてきたと言いたいがために、林述斎が「百姓身持之事」を「慶安御触書」と解題して出版し、後にこれが1649(慶安2)年に出された幕府法であると誤認される元を作ったのではないかと。
 
 「慶安のお触書」とされたものは、17世紀末に百姓への農業指南書として甲府藩で策定されたものを、19世紀中頃に「慶安御触書」と解題して配布流布されたものだったのだ。「慶安お触書」は1649(慶安2)年に出された幕府法ではなかったし、百姓の生活を規制する禁令でもなかったのだ。

(d)近世江戸の百姓の暮らしを知る貴重な資料

 だが、「慶安のお触書」はなかったとして教科書から削除する「つくる会」教科書の姿勢は正しいのだろうか。
 正しくないと思う。なぜならばこのお触書は、読んで見ればわかることだが、江戸時代の百姓の暮らしを知る貴重な資料だからだ。
 まず「慶安のお触書」の全文を掲載しておこう。全部で32ヶ条で構成されている。
(記事一部引用) 

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