Galapagos Japas

国際政治と日本の古代政治変遷歴史 明治維新など特に集中して書いている

ニュースはどこまで知る必要があるか

100項目全部のニュースを人は1項目しか読めない!!!
AK-47(カラシニコフ自動小銃)で武装した黒づくめの男たちが入ってきて、悲鳴を上げる数百人の観客に向かって冷静に銃を乱射した――。フランス・パリ(Paris)で13日夜に起きた同時多発攻撃で、襲撃を受けたコンサートホール内にいた仏ラジオ局の記者が「恐怖の10分間」について証言した。
「無差別殺りくだった」。仏パリ(Paris)東部にあるコンサートホール「バタクラン」で事件に遭遇した仏ラジオ局ヨーロッパ1のリポーター、ジュリアン・ピアースさんは米CNNテレビにこう語った。この夜、バタクランでは米ロックバンド「イーグルス・オブ・デス・メタル」のコンサートが開かれていた。
「みんな、わめいたり悲鳴を上げたりして、全員が床に伏せた。10分間続いた。10分間だ。恐ろしい10分間、誰もが床に伏せて自分の頭を腕でかばっていた」(記事部分抜粋)

記事はフランスで発生した大規模テロニュースだ。現地では大変な惨事のようでフランス
全土に非常事態を宣言した。まるで戦争時の「戒厳令」発令の様相である。

この重大なニュースを、遠隔地日本だからといって知らない、という言い訳は通用しない。
しかし、どのくらい大変なのか、という程度問題は測りかねる。
まず、フランスの外交上の複雑な問題を一般的日本人は知らないし、昨日たまたまやっていたニュースで「阿波踊り」をフランスで公開する、とした文化的ニュースについては、よく配信される。
だから世間的な日本人の意識というのは、その程度でしかない。
したがって、その程度のニュースしか知らない、また配信しない発信基の事情まで、知ることはない、としかいいようがない。

昔、といっても僅か数年前のことだが、家に届いたその日の「タブロイド新聞紙」を広げて、では何を読むかとそれを広げてみると、全面にびっしりと詰め込まれた印字数に圧倒されて、その中から何を抽出して読み出すか、という選択も一苦労した。だいたいは、末ページに記載されているテレビ番は、広げる必要もないので、まずそれから目を通すというのが一般的な読み方だ。場合によっては、それで終わってしまうときもある。やはり、気分が載らない時や、疲れているときは細かい字面は読みたくないとおもってしまう。

それと対照的なのがテレビで、スイッチを入れておけば、番組は勝手に進行し時間になるとニュースも配信するので、手があけば、それを見て世間の今、さらに世界の情勢や、今起きているフランスの大規模テロ事件も知ることができる。
テレビは強制されているわけではないので、勝手に映っているが見ても見なくても気にしない。テレビは、そうした「雰囲気的家具調度品」としての機能を果たしている。

昨今、事情が変わってパソコン、スマホ、タブレット端末が、それにとって変わり経済動向も、そちらに移行しつつある。早い話が広告媒体が、新聞テレビから、モバイルにシフトしている様子が覗えるが、現実市場はいまでもアナログインフラで占有されており、そのことはアナログ人口世代が、いまだ健在で経済を支えているということを示している。

ニュースに限定して話してみれば、新聞テレビやパソコンインターネットも、主要情報は報道ニュースに変わりなく、その配信道具の使い方によってソースの幅とか、横への拡散程度が格段に違うということである。特にネット世界では共有と称して「いいね」を強要して、無駄な拡散をおこなっている。これはあと数年すると消滅する命だ。なぜなら、いま無意味な横の連携に疲れ始めているからだ。
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もともと、新聞から始まった文明的ニュース拡散は、情報の多さを誇っていたが、それが過多になり、許容範囲の飽和が始まると、見出しをみただけで全体を読んだ、と思い込み勝手な解釈のニュースが語り始める。ましてや膨大な量のニュースソース、全世界の広範囲の出来事を1日8時間の時間帯を費やしても読み切ることは不可能である。
それがネットの個人的発信によると、その度合いがより強くなって、さらに匿名という鎧を着ることによって発言が過激になる。
いまこれを書いている記事にしたって、それに嵌っているわけで、自戒しないといけない。



マスコミは報じないのか (※パリ同時テロ~そのほか・筆者注)
赤木智弘2015年11月14日 16:06
http://blogos.com/article/144643/
 パリで同時多発テロらしき事態が発生し、混乱が生じている。
 日本人の観光客やビジネスでの滞在者なども多く、修学旅行生なども滞在しているそうだ。これを書いている今のところ、日本大使館の発表では、日本人が巻き込まれたという情報はないという。
 Twitterのタイムラインを眺めると、いろんな人達が口々に「パリではあんなに大変なことになっているのに、日本のテレビ番組はパリの事件を全く報じず、バラエティー番組を放送している。恥ずかしくないのか」なんてことをツイートしている。
 この手の「日本のマスコミは報じない!」という主張を見ると、僕はちょっとクビをひねってしまうのだ。

 例えば、東日本大震災の影響で福島第一原発が事故を起こした後に「マスコミは反原発のデモを報じなかった」とか「第3号機の水素爆発を報じなかった」と主張したジャーナリストがいた。しかし調べてみればそのどちらも日本の主要新聞紙で普通に報じられていた。
 人はすべてのマスコミの報道内容を精査しているわけではないので、「マスコミは報じていない!」と言っても、意味合いとしては「俺はマスコミで報じられていることに気づかなかった!」にしかならないのである。一般人ならともかく、ジャーナリストを名乗りながらこれをやってしまうのは、相当に恥ずかしいことである。

 また、外国のWebサイトなどにリンクを貼って「海外では報じられているのに、日本では報じられていない!」と吹き上がる例もよく見かける。
 しかし、「海外ではこんなに報じているぞ!」としてリンクを張られているメディアが、讀賣や朝日のようなメディアなのか、東スポのようなメディアなのか、インプレスウォッチのようなメディアなのか、アフィリエイト目当てのまとめサイトやキュレーションメディアなのかは、全く判断できない。
 日本においても、有名で広く見られているマスメディアが報じていなくても、よくわからないまとめサイトが真偽不確かなネタを決めつけで報じていることはよくあるので、日本のネット界隈のごく一部で注目されているニュースが、海外でもそうした扱いをされているという可能性は極めて高い。

 僕は、東日本大震災の報道で、いかに海外メディアというものが、信頼に値しないいい加減なものであるかを知った。例えば最初に例示した福島第一原発での第3号機の爆発」ということですら、あるテレビメディアは、福島中央テレビが所有している素材を無断で転載した上に、オリジナルには存在しない爆発の効果音をつけて、センセーショナルに報じたことが確認されている。*1
 最近でも、北海道でオオカミウオという、とても強烈な個性のある魚を釣った写真が、海外のメディアに無断で転載され、「福島のそばの北海道で、原発事故の影響でゴジラフィッシュが釣られた」などという記事になって配信されるということがあった。*2
 これもまた無断転載ということを考えても、海外のメディアが放射能問題をセンシティブに見ているなどということは全く無く、単に目を引くためのキャッチーな記事として、日本の福島第一原発事故の問題を面白おかしく書いているということは明白である。
 海外のメディアだってこの程度の倫理観なのである。日本が報じず、海外のメディアが報じているからって素晴らしいことや正しいことではないのだから、だからなんだということでしかない。

 それでも多くの人が「日本のメディアが報じていない」と主張するのは、いかに自分が情報通で、マスコミに先んじてこの素晴らしい情報をゲットしたか。そんなことを宣言したいからだろう。あー、そうですか。すごいですねぇ。
 確かに、限定チケット情報とか、スーパーの特売みたいなお得な情報だったり、隣近所が火事だったり、津波がくるぞのような、一分一秒を争うような情報であれば、なるべく早く得たほうがいい。
 しかし、今回のような自分たちが関わっていない大きな事件は、いちいち真偽の分からない細かな情報を得るよりも、ちゃんとした情報を後から得るほうが楽だろう。どうせ1日の終わりにはマスメディアがある程度の情報をまとめて報じてくれるのだから、わざわざ自分で細かな情報の真偽を判別する必要はない。あ、もちろん「子供が修学旅行でパリに行っている」というご家庭は別である。

 少なくとも自分たちがかかわらない大きな事件は、十分に真偽がハッキリしてから、それを聞いて考えるなりなんなりした方がいい。特に今回の事件は大規模なテロであろうから、ことによっては戦争に至る可能性までありえる。慎重に情報を精査しなければ、無実の人や民族が、また迫害を受けることになるだろう。
 1つ心配な報道として「テロリストが「アッラーは偉大なり」」と叫んでいたという情報が報じられている。しかし、こうした混乱の時には得てして、多くの騒乱の声や雑音が、誰かの偏見によって、その人が望む声となって聞こえてしまうことがある。
 かつて、イラクで日本人3人が人質に取られた時、日本のとある新聞が犯行組織が人質に発言させて流したビデオを見て「「言って言って」と発言を促す日本人が裏にいた」と報じたことがあり、ネットでも「事件は自作自演ではないか」という声が囁かれていた。
 もちろん、そのような事はなかったのだが、こうした事件で聞こえた音や言葉というのは、あまり信用できる情報ではない。

 どこのマスコミが報じたとか報じないとかではなく、できるだけ情報を精査し、あまり曖昧なことは曖昧なこととして、事実であるかのように述べるべきではない。なるべく冷静に、大上段から誰かを叩くために今回の事件が報じられるべきではない。それは結局他の差別を産み、次なるテロリズムの温床となってしまうのだから。

*1:福島中央テレビ スタッフ情報(福島中央テレビ Twitter)https://twitter.com/fct_staff/status/104394245779111936
*2:オオカミウオを釣って食べたら色々大変だった(デイリーポータルZ)http://portal.nifty.com/kiji/151112195027_1.htm
(記事引用)
 
「無差別殺りくだ」 パリ人質事件のコンサート会場にいた仏記者が証言
AFPBB News / 2015年11月14日 11時58分【AFP=時事】
AK-47(カラシニコフ自動小銃)で武装した黒づくめの男たちが入ってきて、悲鳴を上げる数百人の観客に向かって冷静に銃を乱射した――。フランス・パリ(Paris)で13日夜に起きた同時多発攻撃で、襲撃を受けたコンサートホール内にいた仏ラジオ局の記者が「恐怖の10分間」について証言した。

「無差別殺りくだった」。仏パリ(Paris)東部にあるコンサートホール「バタクラン(Bataclan)」で事件に遭遇した仏ラジオ局ヨーロッパ1(Europe 1)のリポーター、ジュリアン・ピアース(Julien Pearce)さんは米CNNテレビにこう語った。
 この夜、バタクランでは米ロックバンド「イーグルス・オブ・デス・メタル(Eagles of Death Metal)」のコンサートが開かれていた。

「みんな、わめいたり悲鳴を上げたりして、全員が床に伏せた。10分間続いた。10分間だ。恐ろしい10分間、誰もが床に伏せて自分の頭を腕でかばっていた」

「ものすごくたくさんの銃声が聞こえた。テロリストたちは非常に冷静で、決意に満ちた様子だった。3~4回は銃に弾を込め直していたが、叫ぶこともなかった。彼らは一言もしゃべらなかった」

 ただ、別の目撃者証言によると、銃撃犯らは「アラーアクバル(神は偉大なり)」と叫んで観客らに発砲したという。

 ピアースさんによると、観客らはわれ先に出口を探し、床に倒れた人を踏んで逃げようとした。ピアースさんは幸いステージ近くにいたため、「テロリストたちが銃に弾を込めている隙にステージによじ登って、出口を見つけた」という。

 ピアースさんは、襲撃犯の男たちは20~25歳くらいだったと話している。
【翻訳編集】AFPBB News
(記事引用)

乱れた課外授業

中学教師が溺れた女子高生との乱れた課外授業「事件が発覚した経緯とは?」
アサ芸プラス / 2015年11月13日 12時55分
 そもそも事件が発覚した経緯は何だったのか。捜査関係者はこう話す。

「神奈川県の青少年保護育成条例では夜11時以降、青少年は親の承諾なしに外出することが禁じられています。そのため、昨年10月頃、深夜に男性と一緒にいた女子高生を被害児童として保護しました。翌月あらためて話を聞いてみると、『そのパーティでアルバイトをしていたことがある』と証言したのです」

 その女子高生こそが、逮捕容疑になった9月26日のパーティ参加者だった。

「冨山容疑者はネットの交流サイトで女子高生と出会いました。女子高生が掲示板に『ひま』と書き込みをすると、それを見た冨山容疑者から、『儲かる仕事してみない?』と返事があったそうです」(前出・捜査関係者)

 この怪しいアルバイトの誘いに乗った女子高生は、13年6月から翌年12月まで、約60回のパーティに参加。参加男性の人数によって、2万円から8万円の報酬を毎回受け取っていたという。13年10月29日のパーティに参加した、別の女子高生を冨山容疑者に紹介していた。捜査関係者はこうも明かした。

「冨山容疑者がアルバイト代を支払っていたのは、女子高生たちだけ。他の女性参加者は20代から40代が中心で、掲示板の告知を見て集まっていた。参加費は無料だったようです」

 都内の高級ホテルで乱交パーティを開催していた容疑者2人は、

「(逮捕容疑について)間違いありません」と供述している。

 困惑を隠せないのは、中学校教諭として坪内容疑者が勤務していた学校側だ。勤務先を直撃すると担当者がこう答えた。

「10月20日の朝、(坪内容疑者の)父親から学校に連絡があって、『児童福祉法違反の疑いで警察に連れて行かれた』と。慌てて校長が警察に行って、事件の詳細を確認しました。14年4月から教員として勤務し、本年度は中学3年を担当して、保健体育を教えていました。授業中や職員室でも真面目で、下ネタを口にするタイプではなかったので驚いています。生徒には臨時集会を開いて説明しました」

 東京都教育委員会人事部職員課の担当者は、坪内容疑者の今後について、「事実関係を確認のうえ、厳正に対応していきます。現段階ではそれ以上、コメントできません」

 中学教諭が起こした破廉恥な事件について、ジャーナリストの大谷昭宏氏はこう嘆く。

「社会的鍛錬が必要な女子高生を守るべき立場の教師が、教え子とほぼ変わらない年齢の生徒に売春をさせていたとは、開いた口が塞がりません。今後、『子供が好きで教師になりたい』という教員希望者には、熱意を持った発言か、ロリコン趣味なのか─教育委員会を含めて校長や管理職は最初から疑って、見抜く目を持つ必要があるでしょう」

 警察の捜査は続き、これから他の参加者の素性を調べていくという‥‥。

女子中学生誘拐し自宅に泊める 塾講師の男逮捕 児童ポルノ動画の撮影も?
産経ニュース / 2015年11月13日 13時58分

 女子中学生(14)を誘い出し自宅に連れ込んだとして、警視庁石神井署は13日、未成年者誘拐容疑で、東京都練馬区関町南、塾講師、井上勝裕(かつひろ)容疑者(32)を逮捕した。「誘拐したつもりはない」などと否認している。

 12日に「(井上容疑者が)未成年者を自宅に監禁し、児童ポルノを撮影している」などとする匿名の通報があり、発覚。同署は児童買春・児童ポルノ禁止法違反の疑いもあるとみて、詳しい経緯を調べる。

 逮捕容疑は3日午前4時ごろ、大阪府内の中学3年の女子生徒に「東京に来て。俺のところに泊めてあげる」などと連絡。自宅アパートに連れ込んだとしている。

 同署によると、井上容疑者は約1年前にインターネット掲示板を通じて女子生徒と知り合い、これまでも複数回、会っていたという。12日の情報をもとに同署員らが現場を訪れ、室内に1人でいた女子生徒を保護。帰宅してきた井上容疑者を逮捕した。
(記事引用)

◆◆◆[一言いいたいコーナー]!!!
中学教師が溺れた女子高生との乱れた課外授業坪内容疑者、
女子中学生(14)を誘い出し自宅に連れ込んだ塾講師、井上勝裕、の二つのニュースは、ショッキングな出来事なのか、それともごく一部の変態的な人間の仕業なのか、このニュースでは書かれていない。

ともに教育者としての、あるまじき所業という戒め的な記事として、社会に訴えているのだろうが類型的な未成年女子性犯罪は、いっこうに減ることがない。たぶんこれから増加の一途だろう。
その度に、こうした「女子高生との乱れた課外授業」などという映画タイトルのような見出しで、面白おかしく書いてニュース配信する、メディア側も考えたほうがいい。

話しは飛躍するが、来年から18歳選挙権(一部高校生)となって、それら「大人にそそのかされた」とはいえ、政治家を選ぶ権利が与えられる、という人としての自覚があるのだろうか、という一抹の不安は払拭できない。

そのことは単に、犯行に加担した人間を責めるよりも、そうした社会構造そのものが問われるべきで、では誰が誰に対してそれを問うのか、という重要な問題が含まれている。

7ca3b57aさて、それは誰なんでしょうか ???


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アリストテレスという人物 アリストテレスはソクラテス、プラトンと並び称される、古代ギリシア最大の哲学者です。加えて、「万学の祖」と呼ばれるほどに、あらゆる ...








産業財産権相談サイトアンケート回答

産業財産権相談サイトアンケート回答
メールの回答について

特許関連の登録申請がネットで出来るようになって2年が経過した。このことは、一般ユーザーの要望というより特許庁の業務簡略保存という視点で行われたように思う。遅かれ早かれ、こうしたデジタル化はやらなければならない。
今は、複雑煩雑で超厄介な手続きだが、年数がたてば、送信書類とネットアクセスの難しさが解消して、もっと多くの一般素人ユーザーが、このルートで申請されることを期待する。
私の場合「意匠申請」で料金も一番安かったが、ロゴや、商標文字など5万以上の手数料など高額は、これから趣味の範囲で、申請する人が多くなると推定されるので、この部分の企業でない、営利を目的としない「個人」に、門戸を開放すべきだ。

産業財産権相談サイト

個人の権利を占有保守する法律上の手続きであるから、誰でも簡単にアクセスして、ハッカーなどの被害にあわないためのガードは必要不可欠で、ガードの壁が二重三重であるのは仕方ない。
しかし、この道の素人が、最初からインターネットアクセスして、自分のアイディアを権利化するという大それた挑戦をするには、その壁は途方もなく厚く高かった。あまりに難解なので「弁理士」にお願いするか、というところまで追い込まれる。そして、その料金が10万前後となると、再び自分の足元に戻ってやり直しに舞い戻る。これを三回やると、大方の人間はやめてしまう。
権利を登録獲得したからといって、それが金を産む、という保証はまったくない。簡単にいってばくちの世界と同様。だから少ない経費で済ませたいというのは誰でも抱く損得勘定だと思った。

IMG_707377相談業務について

これが一番問題であるはずだ。
というのは、この申請登録手続きは、過去の事例から言うと、1ミリの余白も許さない、という厳格さで縛っていた。いま現在ネット申請書類など、1ミリ余白の幅とか位置指定などしていたら、書類そのものが完成しない。
その施行者側と、申請提出者らのギャップが大きいので、こうした相談窓口を設けたのだろう。
特許庁の仕事としては、官公仕事範囲であるが、内容はいたってサービス業的内容である。さらにパソコン、インターネットといったら、判らないセクションだらけで、一般的に、それは機種メーカーかプロバイダーが、そうした困り問題の専門窓口で対応して、そこで殆どが解決している。
「権利申請登録」もそれと何ら変わるところがろがない。にもかかわらず、職員の意識は公務員であるという意識から逸脱しない、という推測が生じるが、どうだろうか。
この「独立行政法人」という外郭団体も、そうした観点から設立されたのだろう。インターネットで、居ながらにして「権利登録」するというのは、まさに21世紀の革命的仕業と心得る。
私の場合に限っていえば、無職(年金)の身であるから、このネット申請に時間を費やせたが、昼間、仕事を持っている人にとっては、とても奨められない頭脳重労働である。

(サイトの内の申請に関する案内書きに不足はないが、余りにも細かすぎて全体が把握できない。その点を考慮して、文も図も配置して頂くとよいと思う)

 

2016年ノーベル賞ノミネート 完全に正体不明

完全に正体不明…ノーベル賞に謎の人物がノミネート
サトシナカモト、一体誰なの…
更新日: 2015年11月11日   NAVERまとめ

年のノーベル賞に推薦されたある人物が話題に

サトシ・ナカモトという人

Photo by Sam Edwards / OJO Images

偉大なる賞の来年度の受賞者候補に、サトシ・ナカモトがノミネートされたとのニュースが飛び込んできました。

「私は委員会から、2016年度のノーベル賞に、誰かをノミネートするように言われました」

「私は21世紀に大きな影響を持つアイデアを誰が持っているか考えましたが、頭に浮かんだのはサトシナカモトだったのです」

その功績は「ビットコインを作ったこと」










(記事一部引用)


事 抜粋 2014.3.7 FRI
http://wired.jp/2014/03/07/bitcoin-creator-satoshi-nakamoto-revealed-after-years-of-mystery/
ビットコイン発明者「ナカモト氏」判明か
これまで謎とされてきたビットコインの発明者「ナカモト氏」を、「Newsweek」誌が突き止めた模様だ。66歳の日系人である同氏の履歴等を紹介。

暗号通貨「ビットコイン」の発明者とされる謎の人物の正体が明らかになったようだ。ビットコインの論文を2008年に発表し、その発明者とされるサトシ・ナカモトを追跡調査していた「Newsweek」誌の記者が、カリフォルニア州ロサンジェルス近くのテンプルシティでナカモト氏を見つけたのだ。

ナカモト氏は64歳の日系アメリカ人で、ビットコインを発明したことを家族の大半にさえ秘密にしていた模様だ。
同記事によると、ナカモト氏は1949年に日本で生まれ、10年後に米国に移住した。23歳でカリフォルニア州立工科大学を卒業したときに、彼は名前を「ドリアン・プレンティス・サトシ・ナカモト」に変えた。その記録は、1973年にロサンジェルス連邦地方裁判所に提出された書類に残っている。それ以来、彼はサトシという名前を使用せず、名前をサインするときは「Dorian S. Nakamoto」と記していたという。

記事によると、ナカモト氏は鉄道模型のコレクターであり、英国の会社から鉄道模型を取り寄せるのに苦労したことから、国境を速く低コストで超えられる貨幣システムを思いついたのだという。

Newsweek誌のリア・グッドマン記者は、米国籍を取った人々のデータベースを検索してナカモト氏を見つけた。メールアドレスは、同氏が鉄道模型を買った会社から入手したという。記者はナカモト氏とメールでやり取りしてから、彼の自宅で直接面会した。ただし、ドアの隙間からちょっと目が合ったという、ほんの短い時間だったという。その後、グッドマン記者は「2人の警官の立ち会いを受けながら」ナカモト氏と面会したという(同誌にはナカモト氏の自宅の写真も掲載されている)。
「わたしはもうすでにかかわっていないし、それについては話すことはできない。それについてはほかの人たちが責任を持っている。わたしはすでになんの関係もないんだ」と、ナカモト氏は述べたとのことだ。

ナカモト氏がビットコインを発明したのは2008年のことだ。しかし、彼の素性はずっと明らかにされず、彼の名前を偽名ではないかと考える人たちもいた。

ビットコインに詳しく、発明された当時に、フォーラムでナカモト氏と会話もしていたというギャヴィン・アンドリーセンは記事のなかで、ナカモト氏がビットコインを発明したのは政治的な理由からだろうと述べている。
「彼は今日の社会システムを好ましく思っておらず、もっと公平になるような異なるシステムを求めていた」とアンドリーセン氏は言う。「銀行や銀行家が、『鍵』を握っているだけの理由で裕福になることが嫌いだったのだ」
ただし、「彼には、このプロジェクトのリーダーになりたいという意志はまったくなかった」とアンドリーセン氏はいう。「ビットコインのリーダーとしてコメントしたりプレゼンテーションしたりする行動は、彼のパーソナリティと合わない。
さらに彼は、このプロジェクトは、彼抜きでも進んで行くと理解していた」ナカモト氏は4億ドル分のビットコインを所有しているとみられるが、生活は質素で、手持ちのビットコインを現金に替えてはいない。

記事によると、ナカモト氏が大学卒業後に最初に就いた職は、南カリフォルニアにあるHughes Aircraft Company社の防衛および電子通信部門での仕事だった。
その後ナカモト氏は、RCA社や、情報サービスを手がけるQuotron Systems社など、いくつかの技術企業でエンジニアとして働いた。しかし、1990年代には、2度解雇されて住宅ローンと税金の支払いが滞ったため、自宅を差し押さえられた。現在は93歳の母親と一緒に生活している。

記者は2カ月にわたって、ナカモト氏の家族や開発者たちを取材しているが、家族はナカモト氏がビットコインを発明したとは気がついていなかったという。

弟のアーサー・ナカモトは、兄のことを「優秀」で「素晴らしい物理学者」だと言いながらも、こう述べた。「兄は馬鹿なやつ(asshole)だ。あなたは知らないだろうが、兄は何か秘密の仕事をしていて、その生活はしばらくの間まったくわからなかった。兄について知ろうとするなんて無理だろう。彼はすべてを否定するよ。ビットコインを始めたことを認めるなんて絶対にないね」
娘のアイリーン・ミッチェルは、自分の父がビットコインを発明した可能性があるという話について、「本当にびっくりしている」と述べた。

「父はいつも、政府にじゃまされるのをとても警戒している」とミッチェル氏は言う。「わたしが幼いころ、みんなでよくやる遊びがあった。『政府のエージェントがお前の後を追ってきたぞ』と父が言うと、わたしがクローゼットの中に隠れることになっていた」

なお、Newsweek誌の記事が公開されたあと、たくさんの記者たちがナカモト氏のもとを訪れているが、玄関に集まった記者たちに対して同氏は、「わたしはビットコインにはかかわっていない」と述べたと報道されている。
(記事引用)
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さらに「The Beatles」 .2

著作権法 「外国作品の著作隣接権の保護期間
―ザ・ビートルズのレコード『ラヴ・ミー・ドゥ』は切れているのか?」
弁護士 永井幸輔(骨董通り法律事務所 for the Arts)
1. はじめに
インターネットが日常に存在し、音楽や映像、書籍をデジタル環境で入手し鑑賞するのが普通になった今日、著作物という情報のコピー&ペーストを司る権利「著作権」は随分身近な言葉になりました。しかし、著作権法が定めるもう一方の重要な権利「著作隣接権」については、権利の内容がかなり複雑であることもあって、まだまだよく知られていないのではないでしょうか。 
これは、著作権・著作隣接権の「保護期間」についても同様です。著作権の保護期間については、現状の著作権者の死後50年にとどめるのか、70年に延長するのかという、いわゆる「保護期間延長問題」がここ数年でさかんに議論されていることもあり(著作権保護期間の延長問題を考えるフォーラムやTPPの知的財産権と協議の透明化を考えるフォーラム)、人々の話題に上ることも少なくありません。他方、「著作隣接権」の保護期間については、筆者が知る限り、これまで大きな話題になったことは少ないように感じます。

そこで、今回は著作隣接権の保護期間をテーマにお話をしてみたいと思います。その中でも、ターゲットを絞って、1970年に現行法にリニューアルされる前の著作権法である旧著作権法における、「外国作品」の著作隣接権の保護期間を! ...興味が一気に引いて行く音が聞こえますが、このある種「マイナー」な論点についてコラムを書くのには、2つの理由があります。 
1つは、旧法下における外国作品の著作隣接権の保護期間は、法律上非常に複雑な規定になっており理解が困難であるにも関わらず、これを解説したテキストがほとんど見当たらないこと。そして、もう1つは、ご存知、音楽史上最も著名なアーティストの1つザ・ビートルズの1枚目のシングル、「ラヴ・ミー・ドゥ」が発売された1962年10月5日から、今年(2013年)で50年が経過し、その著作隣接権の保護期間が満了している可能性があるからです。 
条文の構造の検討が必要な部分も多く、いささか退屈な旅になるかも知れませんが、どうぞお付き合いいただければと思います。

2. 現行法における著作隣接権の保護期間

旧法を検討する前に、まずは現行法の著作隣接権の保護期間から確認しましょう。 
そもそも、著作隣接権って何?という疑問については、例えばこちらのコラムをご覧ください。ここでは簡単に、著作物の伝達について重要な役割を担うプレーヤー(実演家、レコード製作者など)に認められる、その実演やレコードの複製などを禁止できる権利、としておきましょう。例えば、実演家は、自分の実演を勝手に録音してCDをプレスしようとした第三者にそれを止めるよう請求することができますし、既に録音された音源(レコード)の製作者は、そのレコードを勝手にコピーして販売しようとする第三者に止めるよう請求することができます。

それでは、著作隣接権の保護期間は、現行法では一体どのように定められているのでしょうか。著作権法の条文には、次のように規定されています(現行法101条)。外国の実演家・レコード製作者の権利についても、基本的には同様です(現行法7条5号以下。本来はここに1996年改正法による保護の遡及復活という問題があるのですが、詳細は省きます)。

権利の種類 開始時 満了時
実演家の権利 実演時 実演の翌年から50年
レコード製作者の権利 音の最初の固定時 発行の翌年から50年
(不発行の場合は、音の最初の固定時から50年)


3. 旧法における著作隣接権の保護期間

(1) 旧法における著作隣接権の保護期間の原則

しかし、「ラヴ・ミー・ドゥ」などが発行された1962年は、現行以前の旧著作権法の時代です。それでは、旧法における著作隣接権の保護期間はどうだったでしょうか。 
実は、旧法では、「著作隣接権」という権利は存在しません。著作隣接権は、我が国では現行法になって初めて定められたもので、旧法時代には、実演家の権利は「演奏歌唱」として、レコード製作者の権利は「録音物」として、「著作権」の一部として保護されていました。 
そこで、旧法時代における実演家・レコード製作者の権利がどのくらいの期間保護されていたかですが、原則として「著作者の死後30年間(団体名義の場合は実演または発行時から30年間)」保護されていました。しかし、旧法が現行法に変わり、実演家やレコード製作者の著作権が「著作隣接権」として生まれ変わった後、その時点で保護されていた既存の実演やレコードについては、現行法の保護期間(実演または発行時から50年間)と、旧法の保護期間(「著作者」の死後30年間)のうち、長い方を期間とするという経過措置が置かれたのです(現行法原始附則15条2項)。

権利の種類 原則 例外
実演家の権利 実演の翌年から50年 著作者の死後30年の方が
長い場合には、その期間
レコード製作者の権利 発行の翌年から50年
(不発行の場合は、音の最初の固定時から50年) 著作者の死後30年の方が
長い場合には、その期間

ここで、ザ・ビートルズの「ラヴ・ミー・ドゥ」の場合を考えてみましょう。 
現行法では、実演家の権利は実演の翌年から50年間、レコード製作者の権利は発行の翌年から50年間継続することになります。
とすると、1962年10月5日に発売された「ラヴ・ミー・ドゥ」の著作隣接権は、その翌年から50年間保護され、2012年12月31日をもって保護期間が終了したことになりそうです(※1)。 
これに対し、旧法では、まずレコード製作者の権利については、「ラヴ・ミー・ドゥ」がレコード会社の名義で発行されているとすると、その保護期間は発行時から30年です(旧法6条)。したがって、両者を比べてより長期である現行法の50年が保護期間となり、上記のとおり現時点では保護期間が終了していることになるでしょう。他方、実演家の権利については、ザ・ビートルズのメンバーうち「最終に死亡したる者」の死後30年間継続することになります(旧法3条2項)。したがって、ポール・マッカートニーとリンゴ・スターの両氏が健在である現時点では、旧法下の実演家の権利は存続していることになるように思われます(※2)。

(2) 旧法下の「外国作品」の著作隣接権の保護期間

しかし、旧法下の実演家・レコード製作者の権利を巡る旅はまだ続きます。 
旧法下では外国作品の著作権は、日本で初めて発行された著作物を除き、条約に保護の規定がない限り、そもそも保護されませんでした(旧法28条)。そのため、もしも当時条約で保護されていなかったならば、旧法からの経過措置は無関係となり、旧法下の実演・レコードについて上記※2の検討は不要で、上記※1の検討だけをすれば良いことになります(※3)。そこで、現行法が施行された1971年当時、日本が加盟していた①万国著作権条約、又は②ベルヌ条約(ローマ改正条約。以下同じ)で、外国作品の実演家・レコード製作者の著作権が果たして保護されていたのかが、問題になって来ます。

まず、①万国著作権条約は、「著作物」の例示の中に演奏歌唱や録音の著作物を含めていません(万国著作権条約1条)。また、仮に含まれるとしても、万国著作権条約は、ベルヌ条約加盟国の著作物には一律適用されません(万国著作権条約17条附属宣言(c))。そのため、いずれについても、ベルヌ加盟国だった日英関係については、万国著作権条約はここでは関係が薄そうです。 
それでは、②ベルヌ条約はどうでしょうか。ベルヌ条約には、いわゆる「内国民待遇」と呼ばれる規定があります(ベルヌ条約4条1項)。本件に即していうと、「外国の著作者は、日本において日本の法律が内国民に与えている権利等を享有することができる」というものです。この点、実演家・レコード製作者の権利は、前述のとおり、旧法では「著作権」として保護されていました。したがって、旧法下の外国の実演やレコードは、ベルヌ条約によって、日本においても日本作品と同様の保護を受けていたように思えます。そうすると、やはり上記※2に戻って、「ラヴ・ミー・ドゥ」の実演家の権利は未だ存続していることになるのでしょうか。

しかし、ここでさらに疑問が生まれます。ベルヌ条約では著作物として列挙されていない演奏歌唱・レコードについても、日本では「著作物」扱いを受けていたという事情をもって、ベルヌ条約上の著作物として日本で保護されていたと考えるべきなのでしょうか。保護されていなかったなら、※3→※1と戻って、旧法下のレコードばかりか実演もすべて切れていることになりそうです。これについて、明確な文献・解説は見当たりません。しかし、私見ではありますが、次のような理由から、現行法施行当時、ベルヌ条約では外国の実演・レコードの保護は求められていなかったと考えます。

理由①:ベルヌ条約における「著作物」には、演奏歌唱・レコードは含まれないと考えるのが最も自然なこと 
ベルヌ条約は「著作物」に関して規定を置いていますが、その意味については定義していません。しかし、ベルヌ条約の「著作物」の例示の中に演奏歌唱や録音の著作物がないこと、実演家やレコード製作者の権利については並行して協議・締結された?ローマ条約やレコード保護条約などの条約で別途保護していることから、ベルヌ条約がいう「著作物」には、演奏歌唱・レコード製作によるものを含まないと考える方がより自然に思えます。

理由②:現行法制定当時、条約による著作隣接権の保護がなかったと考えられること 
1970年に制定された現行法には、当時日本がローマ条約に未加入だったこともあり、外国作品の実演家・レコード製作者の権利の保護は規定されていませんでした。その後、外国作品のレコード製作者の権利は、1978年加入のレコード保護条約に基づいて、同年の現行法改正時に初めて規定され(現行法8条3号以下)、外国作品の実演家の権利は、1989年加入のローマ条約に基づいて、同年の現行法改正時に初めて規定されています(現行法7条5号以下)。 
このように、現行法制定時にあえて外国の実演家・レコード製作者の権利の保護を規定せず、その後著作隣接権保護に関する条約が締結されて初めて規定するに至ったことからは、旧法時に外国の演奏歌唱・録音物の著作権は日本で保護されていなかったと考えると整合しやすいところです。

以上、現行法制定当時、ベルヌ条約で外国作品の実演家・レコード製作者の権利が保護されていなかったとすると、外国の実演・レコードは、日本で初めて発行された作品以外は保護されないことになります。その場合には、「ラヴ・ミー・ドゥ」が初めて発行されたのはイギリスであるため、実演家・レコード製作者の権利は旧法下の日本では保護されず、したがって、上記※1により「ラヴ・ミー・ドゥ」の著作隣接権の保護期間は2012年12月31日で満了していることになりそうです。

(3) 著作隣接権の保護期間が満了したら「ラヴ・ミー・ドゥ」は自由に使えるのか?

それでは、仮にこうした理解が正しく実演家・レコード製作者の権利の保護期間が満了していた場合、「ラヴ・ミー・ドゥ」は誰でも自由に利用できるのでしょうか。 
まず、音源(著作隣接権)の保護期間が満了したとはいえ、「ラヴ・ミー・ドゥ」の曲の著作権はまだ存続しているため、著作権者に無断で利用するという訳には行きません。しかし、「ラヴ・ミー・ドゥ」を含むザ・ビートルズの楽曲の多くは、現在日本音楽著作権協会(JASRAC)により管理されているため、JASRACに所定の手続で利用を申請し、規定の利用料を支払うことで、基本的には誰でも「ラヴ・ミー・ドゥ」のレコード音源を利用することが可能になります(広告利用その他難しい処理が必要な場合もあるので要注意)。これまでは、レコード音源を利用するためには、JASRACだけでなく、レコード会社などの許諾を受ける必要があり、別途利用料を支払ったり、利用を拒否されたりする可能性がありましたが、著作隣接権の保護期間が満了した場合、この部分の処理は不要でレコード音源を使用することができようになるでしょう。 
例えば、「ラヴ・ミー・ドゥ」を含んだコンピレーション・アルバムを製作して販売したり、国内向けの音楽配信に自由にしたり、といった事態が想定できます。

4. おわりに

1962年にデビュー、アルバム第1作である「プリーズ・プリーズ・ミー」が全英アルバムチャートで連続1位を30週にわたって獲得し、その後発売したアルバム11作のうち10作が1位を獲得...といった説明は不要でしょう。世界で最も著名で先鋭的な音楽を発表し続けたザ・ビートルズ。そのザ・ビートルズのレコード音源の権利保護が既に終わっている(=パブリックドメインになっている)としたら、なかなかインパクトのある話です。また、仮にこう理解できるならば、「ラヴ・ミー・ドゥ」以外にも、今後著作隣接権の保護期間が満了する60年代の音源は続々誕生することになりそうです。今後の議論の集積が待たれるところですね。 
以上、著作隣接権やその保護期間は、権利の内容が複雑で、また私たちの生活にどのように関わるのか今ひとつ分かりにくいかと思いますが、実は作品の流通や広がりにとても大きな影響を与えています。このコラムを機に、少しでも興味を持っていただけたら望外の幸せです。

※本コラムの執筆に際して、多くの文献と共に、横浜国立大学の川瀬真先生に有益なご示唆をいただきました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。なお、言うまでもなく、本コラムの文責はすべて筆者にあります。
以上
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※本サイト上の文章は、すべて一般的な情報提供のために掲載するものであり、法的若しくは専門的なアドバイスを目的とするものではありません。

ロッキード事件俯瞰図.2

ロッキード事件俯瞰図 2013/01/1719.29
「追放解除組の松村謙三・堤康次郎・三好英之らと民政旧友会を結成、その後、国民民主党との合流により新党を画策し、民政旧友会の大麻・松村・堤らは追放解除後、国民民主党に復帰していた旧民政党出身の宮沢胤勇や野田武夫らを加えて新政クラブを結成した」。

それは昭和27年(
1952年2月8日の話しである。もちろん「ロッキード事件」との関連性については時間的にはクロスしない。

そこに特筆すべきは「
堤康次郎」の名があったことだ。知る人とぞ知る「西武グループ」の創始者であることは周知の事実。

つい最近まで「明治維新」武勇者を調べていた。端緒は「藤田伝三郎」であったが、その血統に「久原房之介」という「明治維新」より輩出の政治家兼実業家がいた。これもまた現日本のトップ企業「日産コンツェルン」の創始者である。 

その流れからして、「堤康次郎」は、日本の立身出世物語、その最後の一人として上げられる。

堤 康次郎(つつみ やすじろう、1889年(明治22年)3月7日 - 1964年(昭和39年)4月26日)は、日本の実業家もしくは財界人で、滋賀県選出の衆議院議員として政治家でもあった。西武グループ(旧コクド及び旧セゾングループ)の創業者。第44代衆議院議長。滋賀県大津市名誉市民。滋賀県平民。
正三位勲一等。「ピストル堤」の異名を持つ。五島慶太は東急対西武戦争(箱根山戦争・伊豆戦争)でライバルとも言われた。 (資料ウィキぺデア)

滋賀県愛知郡八木荘村大字下八木(のち・秦荘町、現・愛荘町)に農業兼麻仲買商・堤猶次郎、みをの長男として生まれた。5歳で父を腸チフスで失い、母が実家に戻されたことから、康次郎は妹・ふさとともに祖父・清左衛門、祖母・キリの手で育てられる。

1902年(明治35年)に八木荘小学校高等科を卒業し彦根中学校への入学手続をしたものの、祖父が「せっかくここまで育ててきたのに、彦根のような繁華なところへやって悪い人間になられたら大変だ」と心配したことから進学を断念して農業に従事する。1903年(明治36年)6月に祖母が死去すると、祖父とともに彦根へ出て米相場を張ったり肥料商を手掛けるも何れも失敗。翌年には八木荘に戻って、耕地整理と土地改良に精を出すことになる。

早稲田大学へ

早稲田大学政経学部政治学科在学中の堤康次郎
1906年(明治39年)に京都の海軍予備学校へ入学し、翌年に予備校を卒業すると郡役所の雇員となる。同年に祖父が死去し、「堤の家の再興は、金を儲けよというのではない。金儲けもよいが、それより名誉ある堤家にしてくれ」と遺言を遺した。

1909年(明治42年)故郷の田地を担保に入れて5000円の金を工面して上京、早稲田大学政治経済学部政治学科に入学した。
早大では弁論部と柔道部に属するも、授業はあまり顔を出さずに試験の時に通学するだけで副業やアルバイトに熱中していた。

また政治活動にも熱中し、中橋徳五郎の応援演説に大阪まで出張ったこともある。このように、大学時代に経済活動、政治活動において経験を積んだ。
1913年(大正2年)3月に早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業(政治学士号を取得)すると、大隈重信が主宰し主筆に永井柳太郎を据えた政治評論雑誌『新日本』(1911年発刊)に社長として経営に携わった。

首相桂太郎による立憲同志会の結成計画に永井らも参加すると、これを追って創立委員に名を連ね、桂を介して後藤新平を、更に財界の大物だった藤田謙一を紹介される。だが名士とお近づきになるのとは裏腹に『新日本』を含めて康次郎の事業は何れも巧くいかず、不調を挽回しようと手を出した真珠の養殖も失敗。
失敗の連続だった当時を「毎日血尿が出る思いだった」と本人は振り返っている。結局、最後の望みを不動産事業に託し、『感謝と奉仕』を生活信条とする。

実業家として
 
康次郎が最初に不動産事業に着手したのは、沓掛村一帯(現在の中軽井沢駅周辺)の別荘地開発だった。
1915年(大正4年)夏頃に早大の学生服姿で沓掛村に出向き、村長に「別荘地をつくりたいからできるだけ大きな土地が欲しい」と村有地の購入を打診した。
隣の軽井沢が欧米の宣教師達の別荘地として発展していくのに危機感を抱いていたとは言え村民の議論は2年越で続き、1917年(大正6年)12月の区民総会での了承を経て60万坪(後の再測量では80余万坪)を30,000円(現在の数億円)で売却し、50軒の別荘を分譲することを条件として契約が成立した。

だがこの時点で康次郎は手許資金が不足していて、当時の妻であった川崎文の実家などから買収金を工面しても足りず、佐久の銀行から1万5千円借りて不足分は新聞紙を10円札の大きさに切って上下に本物の札を重ねて「見せ金」とした。沓掛一帯の分譲を行う会社として藤田謙一を社長に招聘し千ヶ滝遊園地株式会社を設立(資本金25万円)。
沓掛の土地を一軒500円で簡易別荘として分譲販売を始め、その収益を基に1919年(大正8年)箱根の強羅に10万坪の土地を買収した。
翌1920年(大正9年)には千ヶ滝遊園地を清算(計画倒産説あり)し、同じく藤田を社長として箱根土地株式会社(後のコクド、現在は消滅)を設立。
更に湯の花沢10万坪を13万5千円で買収したり、1923年(大正12年)には駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)の経営権を掌握していった。関東大震災後には都内皇族・華族の大邸宅を買収し、目白文化村など住宅地として分譲した。

政界進出後も事業欲は衰えを見せず、大泉学園や国立・小平学園都市開発に着手し、東京商科大学の誘致に成功すると共にアクセス鉄道として多摩湖鉄道を開通。
大泉学園開発では沿線を走る武蔵野鉄道との関わりが出来、1940年(昭和15年)には大株主の浅野財閥からの株式を買収して多摩湖鉄道をこれに合併させた。
太平洋戦争中は武蔵野鉄道に加え(旧)西武鉄道の経営に参画すると共に、都内の糞尿処理対策や流木対策として糞尿運搬や木工業、更には合成ゴム・化学肥料製造、果ては銀行業(高田農商銀行)にまで事業の手を広げた。
東京大空襲の最中でも、自宅地下壕に電話線を何本も引いて不動産の購入交渉を行い、戦災で地主が不在となったところを片っ端から自らの名義としたとも言われている。

戦後は皇籍剥奪や華族の特権廃止・財産税などの負担で困窮した旧宮家や華族が都心部に所有していた邸宅地を買い取り、華族やその関係者をグループで雇用して生活を保障するとともに、邸宅地を活用してプリンスホテルを開業した。
堤康次郎が開発した国立は高級住宅街として、軽井沢や箱根などは日本の代表的なリゾート地として発展し、現在も人気を集めている。

政治家として

箱根土地の経営に関与している頃から、康次郎は永井柳太郎の選挙参謀となるなど政治にも関わっていたが、1924年(大正13年)の総選挙に滋賀5区(当時)から衆議院議員に立候補する。
旧彦根藩士で家老職を務めた家柄である堀部久太郎が対立候補だったが、当時としては先進的な土地改革を公約するなどして大差で初当選を果たした。
以後、途中の断続を経て衆議院議員には計13回当選。当選後は立憲民政党に所属し、1932年(昭和7年)6月斎藤実内閣で拓務政務次官に就任した。
翼賛選挙で推薦議員であったばかりか西武農業鉄道の首脳として国策に関与するなどしたことで公職追放を受けるものの、追放解除後の昭和26年(1951年)に民政党時代の同僚議員だった大麻唯男・松村謙三らの「民政旧友会」へ参加。民政旧友会は「新政クラブ」を経て、翌1952年(昭和27年)に改進党の結党に参加した。

1953年5月18日、衆議院議長に就任(上。下は副議長の原彪)
1952年(昭和27年)の総選挙で国政に復帰し、1953年(昭和28年)5月に全野党に推される形で衆議院議長に就任( - 1954年12月)、議長秘書官は山本廣治と堤清二が務めた。議長の認証式には当時内縁関係にあった青山操(清二の母)を伴ったことで大きく批判され、しかも議長就任後は改進党とは距離を置き山下春江らと新党同志会を結成、保守合同を目指した。

大津市の米軍キャンプ地返還や膳所刑務所移転等、今日の大津市の基盤づくりに大きく貢献したため、1957年(昭和32年)に大津市初の名誉市民の称号を受賞した。

康次郎は、1963年(昭和38年)の総選挙で13回目の当選を果たすが、この時地元後援会の堤会から選挙違反で180名余が逮捕、後に150名余が有罪となる。

1964年(昭和39年)4月24日内縁関係にあった石塚恒子(義明の母)を連れて熱海に向うため、13時15分発の準急「いでゆ号」に乗ろうと国鉄東京駅の地下道を急いでいた途中で昏倒し緊急入院。4月26日に心筋梗塞で死去。
本葬は自民党葬として豊島園でとり行われ、約3500人が参列。東京オリンピックのために建設を計画した東京プリンスホテルの完成を見ることはできなかった。堤の没後、選挙地盤は山下元利が引き継いだ。

HHH HHH HHH

2013年正月の閑話休題・譚 (引用記事より)
ひまな一時(ひととき)に、この話題はもってこいのワンセクションだった。長い間ノドに小骨が掛かったような、靴の中の足がかゆくて掻いても掻いても釈然としない隔靴掻痒としたおもい。政治も経済も混沌としたカオスに包囲され、閉塞とした闇の中で一人悶々と膝を掻く。

それにしても読売の記事の中に「立花隆」のたの字も出てこないのが、よく判らない。良いにつけ悪いにつけ、ロッキード事件と立花隆の「田中角栄研究」は対の言論説であり、どちらを落としても成立しない、と恣意するのだが。

※立花氏は非常に謙虚でした。「たしかに、『文芸春秋』11月号の〈田中角栄研究〉の与えたインパクトは大きかった。しかし、そのインパクトの大きさは、その論文のプロパーではなかった。背中に荷物を目いっぱいに積んでようやく立っているロバの背に、ワラをもう一本乗せただけで、ロバがひっくりかえることがある。私はただ、最後の一本のワラを乗せる栄誉になっただけにすぎない。」P.4

「阿修羅」サイトより一部抜粋 ↑ http://www.asyura2.com/10/senkyo97/msg/653.html

「ロッキード事件」はすでに歴史の風化した昭和の残滓として残っているだけで、その事件さえ風聞でしか知らないという世代が台頭している。戦争の惨状と同じくこれも語り継がなければアッと言う間に忘却の彼方へと霞んでしまう。
とくにその思いを強くしたのは、そこに関った現役政治家が健在である時代に、そのことの真相を是非とも語って戴きたいと思案するし、また、自叙伝でもいいからその琴線部分を語ってもらいと切望する。

抜粋記事~
ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があったと報告する公文書が米国で見つかった。

裏金を受け取った政府高官の名が表に出ると「自民党が選挙で完敗し、日米安全保障の枠組みが壊される恐れがある」という理由。
三木武夫首相(当時)は事件の真相解明を言明していたが、裏では早期の幕引きを図る動きがあったことになる。
中曽根事務所は「ノーコメント」としている。この文書は76年2月20日にジェームズ・ホジソン駐日米大使(当時)から国務省に届いた公電の写し。
米国立公文書館の分館であるフォード大統領図書館に保管され、2008年8月に秘密指定が解除された。ロッキード事件は76年2月4日に米議会で暴露されたが、ロ社の裏金が渡った日本政府高官の名前は伏せられた。

与野党いずれも政府に真相解明を要求。三木首相は2月18日、「高官名を含むあらゆる資料の提供」を米政府に要請すると決めた。
文書によると、中曽根氏はその日の晩、米国大使館の関係者に接触し、自民党幹事長としてのメッセージを米政府に伝えるよう依頼した。
中曽根氏は三木首相の方針を「苦しい政策」と評し、「もし高官名リストが現時点で公表されると、日本の政治は大変な混乱に投げ込まれる」「できるだけ公表を遅らせるのが最良」と言ったとされる(10年2月12日付『朝日新聞』)。 

ロッキード事件をめぐり「I HOPE IT WILL HUSH UP(MOMIKESU)THE MATTER」(この問題をもみ消すことを希望する)」との要請が記載された米政府の公文書=米ミシガン州のフォード大統領図書館(10年2月12日付『朝日新聞』) 
※「ロッキード事件 日本を震撼(しんかん)させた200日」 サイト
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田中角栄の顧問 
大麻 唯男(おおあさ ただお、1889年(明治22年)7月7日 – 1957年(昭和32年)2月20日)。
日本の内務官僚、政治家。敗戦後は大日本政治会を母体とした政党・日本進歩党の結成に尽力する。大麻は町田忠治を党首に据えるため、自分が顧問を務めていた土建会社の若手経営者に政治資金の献金を懇願した。
それが田中角栄である。しかし間もなく公職追放となる。公職追放解除後、同じく戦前民政党に属していた追放解除組の松村謙三・堤康次郎・三好英之らと民政旧友会を結成、その後国民民主党との合流により新党を画策し、民政旧友会の大麻・松村・堤らは追放解除後国民民主党に復帰していた旧民政党出身の宮沢胤勇や野田武夫らを加えて新政クラブを結成した。 
ウィキペディア 

第36回 平成25年1月12日讀賣新聞 第2部
戦後転換期(1965年~79年)
「ロッキード事件 (下)」
ロッキード事件で、東京地検特捜部は1976(昭和51)年7月、前首相・田中角栄を逮捕した。真相解明に政治生命をかけた首相・三木武夫に対し、自民党内では「三木為ろし」の旋風が吹き荒れた。田中は裁判で無罪を主張する一方、党内最大派閥を率いて「田中支配」といわれる体制を築いていく。(文中敬称略)

■今日は忘れられない日
1976(昭和51)年7月27日午前7時27分、東京地検の玄関前に地検の車斌滑り込んだ。容疑者逮捕に備え、待機していた報道陣がカメラを向ける中、松田昇検事が降車した。
続いて降り立ったのは田中角栄だった。

前首相の出頭に、報道陣は虚を突かれ、しんと静まりかえった。
「白い時間だった」と、松田は振り返る。田中は一、二歩進んで「ヨッ」と片手を挙げた。一斉にシャッター音が鳴り始めた。
2月に発覚したロッキード事件捜査は大詰めを迎えていた。

特捜部は6月22日、丸紅前尊務の大久保利春を議院証言法違反(偽証)容疑で逮捕。
7月に入ると、丸紅前専務の伊藤宏(偽証容疑)、全日空杜長の若狭得治(偽証、外国為替及ぴ外国貿易管理法違反容疑)、丸紅前会長の槍山広(外為法違反容疑)を逮捕した。マスコミは「次は政府高官か」と、観測記事を書き立てていた。

ときの法相、稲葉修は逮捕の前日、地元の新潟県村上市の自宅にいた。法務省刑事局長から電話が入り「明朝逮捕」を知る。三木首相には逮捕の日の朝、「検察が田中邸に向かっているころ、私が伝えた」と、後に語っている。

松田は、田申逮捕の当日午前6時半、事務官3人と、東京・目自の田中邸に入った。
「東京地検の松田です。ちょっと先生にお話があって参りました」。

応対した書生に名刺を差し出すと、応接室に通された。

しばらくして背広姿の田中が現れた。

「君が松田君かね。きょうはやけに早いね」。

そう語ると、田申は玄関に向かった。

田中の逮捕容疑は、法定手続きをとらずに、丸紅からロッキード社の資金5億円を受け取った外為法違反。東京地検で逮捕状が執行された。

田中は、自民党離党届と、田中派退会届を書いた。地検から東京拘置所に向かう車中で、田中が松田に言った。

「きょうの日は、オレは忘れられない日だ。松田君、君も忘れないでくれ」。

この日、地検特捜部は、榎本敏夫・元首相秘書官も外為法違反容疑で逮捕し、田中邸、砂防会館の田中事務所など5か所を捜索した。
8月、橋本登美三郎・元運輪相や佐藤孝行・元運輸政務次官が、受託収賄容疑で逮捕された。

1977年1月21日、地検特捜部は小佐野賢治・国際興業社主を偽証で起訴し、捜査は事実上、終了した。ロッキード事件は法廷へと舞台を移す。

「三木おろし」の一大旋風
ロッキード事件の真相究明に対する三木の執念は凄まじかった。その前のめりの姿勢に、自民党内の不満は高まった。とくに自らの裁定で三木を政権の座に就けた党副総裁・椎名悦三郎は、「三木ははしゃぎすぎだ。いつから検事総長になったのか」と苛立ちを深めていた。

1976(昭和51)年5月初め、椎名は、田中、福田赴夫副総理、大平正芳蔵相と個別に会談し、三木の早期退陣で一致した。
13日付の読売新聞の特報で、これが明るみに出ると、三木は「真相解明に全力を挙げることが私に課せられた使命だ」と激しく反発した。
反三木陣営は、三木が政権維持のために事件を利用しているとみていた。

だが世論は「三木おろし」を「ロッキード隠し」と見て非難した。7月27日、田中が逮捕されると、沈静化していた三木おろしの動きが再び噴き出した。田中派の"三木憎し、の感情はもちろん、田中が逮捕された以上は、ロッキード隠しとの批判を恐れることはなくなっていた。

挙党協の結成
田中が保釈されて2日後の8月19日、反三木勢力は、挙党体制確立協議会(挙党協)を結成、田中、福田、大平、椎名、船田中、水田三喜男各派などの議員が結集した。
24日には党所属議員の3分の2を超える271人が出席して両院議員総会を強行し、三木退陣へ圧力を強めた。
福田、大平ら挙党協の閣僚15人も会合を開き、一致して行動することを確認した。
三木を支えていたのは、三木、中曽根両派と少数の無派閥議員だけだった。しかし、三木はここから驚くべき粘り腰をみせる。三木は退陣要求を突っぱねる一方で臨時国会を召集して自らの手で衆院解散を行うことを企図する。

衆院議員の任期切れは12月に迫っていた。
三木は8月24日、25日、両日、福田、大平と会談、国会召集に協力を求めたが、2人とも早期召集に反対の考えを示した。
そこで三木が「あなた方は私に代われと言うが、私が辞めた後、とっちがやるのか」と問いただすと、福田と大平は「まだ決めていない」と答えるしかなかった。会談は不調に終わり、臨時国会召集は宙に浮いた。

だが赤字国債発行法案などの処理のため、国会はどのみち開かねばならなかった。
(以下省略)

抜粋 元記事当サイト



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