Galapagos Japas

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ブルースギター弾き 天才少年 動画
 https://www.youtube.com/watch?v=E45sDrGsCtY
Queen Bohemian Rhapsody HD Miguel Montalban busking street performance0

 

ピアノも弾く







ブルースギターデュオ






バック風景と一体感のストリートギター弾き うまい!!!

太宰治の書いた「魚服記」
1280px-初冬の早池峰山1.
 本州の北端の山脈は、ぼんじゅ山脈というのである。せいぜい3.4百米メートルほどの丘陵が起伏しているのであるから、ふつうの地図には載っていない。むかし、このへん一帯はひろびろした海であったそうで、義経よしつねが家来たちを連れて北へ北へと亡命して行って、はるか蝦夷えぞの土地へ渡ろうとここを船でとおったということである。そのとき、彼等の船が此の山脈へ衝突した。突きあたった跡がいまでも残っている。山脈のまんなかごろのこんもりした小山の中腹にそれがある。約一畝歩せぶぐらいの赤土の崖がけがそれなのであった。
 小山は馬禿山まはげやまと呼ばれている。ふもとの村から崖を眺めるとはしっている馬の姿に似ているからと言うのであるが、事実は老いぼれた人の横顔に似ていた。
 馬禿山はその山の陰の景色がいいから、いっそう此の地方で名高いのである。麓ふもとの村は戸数もわずか2.30でほんの寒村であるが、その村はずれを流れている川を二里ばかりさかのぼると馬禿山の裏へ出て、そこには十丈ちかくの滝がしろく落ちている。夏の末から秋にかけて山の木々が非常によく紅葉するし、そんな季節には近辺のまちから遊びに来る人たちで山もすこしにぎわうのであった。滝の下には、ささやかな茶店さえ立つのである。
 ことしの夏の終りごろ、此の滝で死んだ人がある。故意に飛び込んだのではなくて、まったくの過失からであった。植物の採集をしにこの滝へ来た色の白い都の学生である。このあたりには珍らしい羊歯しだ類が多くて、そんな採集家がしばしば訪れるのだ。[#「訪れるのだ。」は底本では「訪れるのだ」]
 滝壺は三方が高い絶壁で、西側の一面だけが狭くひらいて、そこから谷川が岩を噛かみつつ流れ出ていた。絶壁は滝のしぶきでいつも濡れていた。羊歯類は此の絶壁のあちこちにも生えていて、滝のとどろきにしじゅうぶるぶるとそよいでいるのであった。
 学生はこの絶壁によじのぼった。ひるすぎのことであったが、初秋の日ざしはまだ絶壁の頂上に明るく残っていた。学生が、絶壁のなかばに到達したとき、足だまりにしていた頭ほどの石ころがもろくも崩れた。崖から剥はぎ取られたようにすっと落ちた。途中で絶壁の老樹の枝にひっかかった。枝が折れた。すさまじい音をたてて淵ふちへたたきこまれた。
 滝の附近に居合せた四五人がそれを目撃した。しかし、淵のそばの茶店にいる十五になる女の子が一番はっきりとそれを見た。
 いちど、滝壺ふかく沈められて、それから、すらっと上半身が水面から躍りあがった。眼をつぶって口を小さくあけていた。青色のシャツのところどころが破れて、採集かばんはまだ肩にかかっていた。
 それきりまたぐっと水底へ引きずりこまれたのである。

2.

 春の土用から秋の土用にかけて天気のいい日だと、馬禿山から白い煙の幾筋も昇っているのが、ずいぶん遠くからでも眺められる。この時分の山の木には精気が多くて炭をこさえるのに適しているから、炭を焼く人達も忙しいのである。
 馬禿山には炭焼小屋が10いくつある。滝の傍にもひとつあった。此の小屋は他の小屋と余程はなれて建てられていた。小屋の人がちがう土地のものであったからである。茶店の女の子はその小屋の娘であって、スワという名前である。父親とふたりで年中そこへ寝起しているのであった。
 スワが13の時、父親は滝壺のわきに丸太とよしずで小さい茶店をこしらえた。ラムネと塩せんべいと水無飴みずなしあめとそのほか2.3種の駄菓子をそこへ並べた。
 夏近くなって山へ遊びに来る人がぼつぼつ見え初めるじぶんになると、父親は毎朝その品物を手籠てかごへ入れて茶店迄まではこんだ。スワは父親のあとからはだしでぱたぱたついて行った。父親はすぐ炭小屋へ帰ってゆくが、スワは一人いのこって店番するのであった。遊山の人影がちらとでも見えると、やすんで行きせえ、と大声で呼びかけるのだ。父親がそう言えと申しつけたからである。しかし、スワのそんな美しい声も滝の大きな音に消されて、たいていは、客を振りかえさすことさえ出来なかった。1日50銭と売りあげることがなかったのである。
 黄昏時たそがれどきになると父親は炭小屋から、からだ中を真黒にしてスワを迎えに来た。
「なんぼ売れた」
「なんも」
「そだべ、そだべ」
 父親はなんでもなさそうに呟つぶやきながら滝を見上げるのだ。それから二人して店の品物をまた手籠へしまい込んで、炭小屋へひきあげる。
 そんな日課が霜のおりるころまでつづくのである。
 スワを茶店にひとり置いても心配はなかった。山に生れた鬼子であるから、岩根を踏みはずしたり滝壺へ吸いこまれたりする気づかいがないのであった。天気が良いとスワは裸身になって滝壺のすぐ近くまで泳いで行った。泳ぎながらも客らしい人を見つけると、あかちゃけた短い髪を元気よくかきあげてから、やすんで行きせえ、と叫んだ。
 雨の日には、茶店の隅でむしろをかぶって昼寝をした。茶店の上には樫かしの大木がしげった枝をさしのべていていい雨よけになった。
 つまりそれまでのスワは、どうどうと落ちる滝を眺めては、こんなに沢山水が落ちてはいつかきっとなくなって了しまうにちがいない、と期待したり、滝の形はどうしてこういつも同じなのだろう、といぶかしがったりしていたものであった。
 それがこのごろになって、すこし思案ぶかくなったのである。
 滝の形はけっして同じでないということを見つけた。しぶきのはねる模様でも、滝の幅でも、眼まぐるしく変っているのがわかった。果ては、滝は水でない、雲なのだ、ということも知った。滝口から落ちると白くもくもくふくれ上る案配からでもそれと察しられた。だいいち水がこんなにまでしろくなる訳はない、と思ったのである。
 スワはその日もぼんやり滝壺のかたわらに佇たたずんでいた。曇った日で秋風が可成りいたくスワの赤い頬を吹きさらしているのだ。
 むかしのことを思い出していたのである。いつか父親がスワを抱いて炭窯すみがまの番をしながら語ってくれたが、それは、三郎と八郎というきこりの兄弟があって、弟の八郎が或る日、谷川でやまべというさかなを取って家へ持って来たが、兄の三郎がまだ山からかえらぬうちに、其のさかなをまず一匹焼いてたべた。食ってみるとおいしかった。二匹三匹とたべてもやめられないで、とうとうみんな食ってしまった。そうするとのどが乾いて乾いてたまらなくなった。井戸の水をすっかりのんで了って、村はずれの川端へ走って行って、又水をのんだ。のんでるうちに、体中へぶつぶつと鱗うろこが吹き出た。三郎があとからかけつけた時には、八郎はおそろしい大蛇だいじゃになって川を泳いでいた。八郎やあ、と呼ぶと、川の中から大蛇が涙をこぼして、三郎やあ、とこたえた。兄は堤の上から弟は川の中から、八郎やあ、三郎やあ、と泣き泣き呼び合ったけれど、どうする事も出来なかったのである。
 スワがこの物語を聞いた時には、あわれであわれで父親の炭の粉だらけの指を小さな口におしこんで泣いた。
 スワは追憶からさめて、不審げに眼をぱちぱちさせた。滝がささやくのである。八郎やあ、三郎やあ、八郎やあ。
 父親が絶壁の紅い蔦の葉を掻かきわけながら出て来た。
「スワ、なんぼ売れた」
 スワは答えなかった。しぶきにぬれてきらきら光っている鼻先を強くこすった。父親はだまって店を片づけた。
 炭小屋までの三町程の山道を、スワと父親は熊笹を踏みわけつつ歩いた。
「もう店しまうべえ」
 父親は手籠を右手から左手へ持ちかえた。ラムネの瓶がからから鳴った。
「秋土用すぎで山さ来る奴もねえべ」
 日が暮れかけると山は風の音ばかりだった。楢ならや樅もみの枯葉が折々みぞれのように二人のからだへ降りかかった。
「お父ど」
 スワは父親のうしろから声をかけた。
「おめえ、なにしに生きでるば」
 父親は大きい肩をぎくっとすぼめた。スワのきびしい顔をしげしげ見てから呟いた。
「判らねじゃ」
 スワは手にしていたすすきの葉を噛みさきながら言った。
「くたばった方あ、いいんだに」
 父親は平手をあげた。ぶちのめそうと思ったのである。しかし、もじもじと手をおろした。スワの気が立って来たのをとうから見抜いていたが、それもスワがそろそろ一人前のおんなになったからだな、と考えてそのときは堪忍してやったのであった。
「そだべな、そだべな」
 スワは、そういう父親のかかりくさのない返事が馬鹿くさくて馬鹿くさくて、すすきの葉をべっべっと吐き出しつつ、
「阿呆、阿呆」
 と呶鳴どなった。

3.

 ぼんが過ぎて茶店をたたんでからスワのいちばんいやな季節がはじまるのである。
 父親はこのころから4.5日置きに炭を脊負って村へ売りに出た。人をたのめばいいのだけれど、そうすると15銭も20銭も取られてたいしたついえであるから、スワひとりを残してふもとの村へおりて行くのであった。
 スワは空の青くはれた日だとその留守に蕈きのこをさがしに出かけるのである。父親のこさえる炭は一俵で五六銭も儲もうけがあればいい方だったし、とてもそれだけではくらせないから、父親はスワに蕈を取らせて村へ持って行くことにしていた。
 なめこというぬらぬらした豆きのこは大変ねだんがよかった。それは羊歯類の密生している腐木へかたまってはえているのだ。スワはそんな苔を眺めるごとに、たった一人のともだちのことを追想した。蕈のいっぱいつまった籠の上へ青い苔をふりまいて、小屋へ持って帰るのが好きであった。
 父親は炭でも蕈でもそれがいい値で売れると、きまって酒くさいいきをしてかえった。たまにはスワへも鏡のついた紙の財布やなにかを買って来て呉れた。
 凩こがらしのために朝から山があれて小屋のかけむしろがにぶくゆすられていた日であった。父親は早暁から村へ下りて行ったのである。
 スワは一日じゅう小屋へこもっていた。めずらしくきょうは髪をゆってみたのである。ぐるぐる巻いた髪の根へ、父親の土産の浪模様がついたたけながをむすんだ。それから焚火たきびをうんと燃やして父親の帰るのを待った。木々のさわぐ音にまじってけだものの叫び声が幾度もきこえた。
 日が暮れかけて来たのでひとりで夕飯を食った。くろいめしに焼いた味噌をかてて食った。
 夜になると風がやんでしんしんと寒くなった。こんな妙に静かな晩には山できっと不思議が起るのである。天狗てんぐの大木を伐り倒す音がめりめりと聞えたり、小屋の口あたりで、誰かのあずきをとぐ気配がさくさくと耳についたり、遠いところから山人やまふとの笑い声がはっきり響いて来たりするのであった。
 父親を待ちわびたスワは、わらぶとん着て炉ばたへ寝てしまった。うとうと眠っていると、ときどきそっと入口のむしろをあけて覗のぞき見するものがあるのだ。山人が覗いているのだ、と思って、じっと眠ったふりをしていた。
 白いもののちらちら入口の土間へ舞いこんで来るのが燃えのこりの焚火のあかりでおぼろに見えた。初雪だ! と夢心地ながらうきうきした。

 疼痛とうつう。からだがしびれるほど重かった。ついであのくさい呼吸を聞いた。
「阿呆」
 スワは短く叫んだ。
 ものもわからず外へはしって出た。
 吹雪! それがどっと顔をぶった。思わずめためた坐って了った。みるみる髪も着物もまっしろになった。
 スワは起きあがって肩であらく息をしながら、むしむし歩き出した。着物が烈風で揉もみくちゃにされていた。どこまでも歩いた。
 滝の音がだんだんと大きく聞えて来た。ずんずん歩いた。てのひらで水洟みずばなを何度も拭った。ほとんど足の真下で滝の音がした。
 狂い唸うなる冬木立の、細いすきまから、
「おど!」
 とひくく言って飛び込んだ。

4.

 気がつくとあたりは薄暗いのだ。滝の轟とどろきが幽かすかに感じられた。ずっと頭の上でそれを感じたのである。からだがその響きにつれてゆらゆら動いて、みうちが骨まで冷たかった。
 ははあ水の底だな、とわかると、やたらむしょうにすっきりした。さっぱりした。
 ふと、両脚をのばしたら、すすと前へ音もなく進んだ。鼻がしらがあやうく岸の岩角へぶっつかろうとした。
 大蛇!
 大蛇になってしまったのだと思った。うれしいな、もう小屋へ帰れないのだ、とひとりごとを言って口ひげを大きくうごかした。
 小さな鮒ふなであったのである。ただ口をぱくぱくとやって鼻さきの疣いぼをうごめかしただけのことであったのに。
 鮒は滝壺のちかくの淵をあちこちと泳ぎまわった。胸鰭むなびれをぴらぴらさせて水面へ浮んで来たかと思うと、つと尾鰭をつよく振って底深くもぐりこんだ。
 水のなかの小えびを追っかけたり、岸辺の葦あしのしげみに隠れて見たり、岩角の苔をすすったりして遊んでいた。
 それから鮒はじっとうごかなくなった。時折、胸鰭をこまかくそよがせるだけである。なにか考えているらしかった。しばらくそうしていた。
 やがてからだをくねらせながらまっすぐに滝壺へむかって行った。たちまち、くるくると木の葉のように吸いこまれた。

底本:「晩年」新潮文庫、新潮社
   1947(昭和22)年12月10日初版1刷
   1985(昭和60)年10月5日70刷改版
   1987(昭和62)年11月25日75刷
初出:「海豹」 1933(昭和8)年3月号
入力:中嶋壮一
校正:鈴木厚司
2003年4月9日作成
2013年4月6日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について
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漁服記 太宰治


遠野物語 柳田国男
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『遠野物語』(とおのものがたり)とは、柳田國男が明治43年(1910年)に発表した岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集である。 遠野地方の土淵村出身の民話蒐集家であり小説家でもあった佐々木喜善より語られた、遠野地方に伝わる伝承を柳田が筆記、編纂する形で出版され、『後狩詞記』(1909年)『石神問答』(1910年)とならぶ柳田國男の初期三部作の一作。日本の民俗学の先駆けとも称される作品である。

遠野物語における遠野、あるいは遠野郷とは、狭義には藩政時代の旧村が明治の町村制によって編制された遠野、松崎、綾織、土淵、附馬牛、上郷、を指すが、広義には上閉伊郡宮守村、釜石市橋野町、上閉伊郡大槌町、下閉伊郡川井村などの隣接地域も含まれ、その地で起きたとされる出来事も取り上げられている。
内容は天狗、河童、座敷童子など妖怪に纏わるものから山人、マヨヒガ、神隠し、臨死体験、あるいは祀られる神とそれを奉る行事や風習に関するものなど多岐に渡る。 作成過程で3つの原稿が存在し、佐々木の話を都度書き記すかたちで作られた草稿にあたる毛筆本、実際に遠野に赴き、自ら得た見聞を加えて人名、地名、数字などの事実関係を補完して作られた清書本。
毛筆本の段階では107話であったが清書本の段階で12話が追加され119話となった。そして清書本をもとに初稿が印刷され、初稿を再考し、一部伏字となっていた固有名詞などに手を加えられ完成本となった。 

これら3つの原稿は、長野県松本市で政治家を務めていた池上隆祐が昭和7年に『石神問答』の刊行に対する記念として『石』の特集号を発行した際、折口信夫、金田一京助らの署名を入れた特装本を柳田へ贈った事に対する謝礼として柳田より池上へ贈られた。池上の没後に遺族より遠野市へ寄贈され、それ以降は遠野市立博物館が保管している。
『遠野物語』の反響により、昭和10年(1935年)には各地から寄せられた拾遺299話を追加した『遠野物語増補版』が発表された。

柳田國男が初めて遠野を訪れたのは明治42年(1909年)8月23日の夜のこと。8月22日(日曜日)午後11時、上野発海岸回り青森行きの列車に乗った柳田は、翌23日に到着した花巻駅で下車。人力車に乗り換え、矢沢村、土沢、宮守、と経て鱒沢の沢田橋のたもとにあった木造三階建ての宿屋で食事と人力車を乗り継ぎ、遠野に到着したのは夜の8時であった。 
柳田は遠野では高善旅館に宿をとり、主人の高橋善次郎から馬を借りて伊納嘉矩や佐々木喜善を訪ね、南部家所縁の地などを回ったが、これらの日程には諸説存在しており、定説があるわけではない。ここでは便宜上、岩崎敏夫による説を主として解説を行う。

24日の朝、鍋倉神社近くにあった上閉伊郡役所を訪ね、郡内の説明を地図を貰いうけ、まず土淵村山口の佐々木喜善宅を目指した。あいにく喜善は東京にいたため不在で、家には養母のイチと叔母のフクヨがおり、柳田は来意を伝えると、二人から土淵村で助役を務めていた北川清を紹介された。
来た道を1kmほど戻り、訪れた北川家で清より話を聞き、翌日、清の代わりに附馬牛小学校で教員を務めていた息子の真澄が附馬牛まで柳田の案内をすることになった。その日の晩には新屋敷まで伊納嘉矩を訪ねているが伊納は不在であった。
25日、北川真澄の案内で早池峰山道を通り附馬牛に辿り着いた柳田は上柳の附馬牛役場を訪れ、役場書記の末崎子太郎と附馬牛小学校から呼び寄せられた福田恵次郎の二人より附馬牛村の成り立ちや歴史について聞き、附馬牛の源流のひとつである東禅寺跡へと案内された。
帰りは石羽根から大袋を通り、その道すがら菅原神社でしし踊りが行われているのを目撃し、また掲げられたムカイトロゲに旅情を感じ、忍峠へと入っていった。宿に戻ると伊能が訪ねてきたという事であったが、附馬牛を発った時点で黄昏時であったので宿に着いたのは夜の8頃と推測され、既に遅い時間であった事からこの日はそのまま休む事にした。

26日には先日宿を訪ねてきた新屋敷の伊能の家を訪問し、伊能の台湾研究に関する研究資料、および『阿曾沼興廃記』や『旧事記』といった遠野に関する資料、オシラサマや雨風祭の藁人形、あるいは遠野周辺に伝わる妖怪に関する伝承や住人達の生活の在り方を聞いた。

27日に伊能は高善旅館まで再び出向き、柳田を南部男爵邸へ案内し、屋敷の保守にあたっていた及川忠兵、郷土資料家の鈴木吉十郎の案内で男爵家に伝わる古文書や受け継がれてきた宝物を見た。その後、昼過ぎに人力車に乗り、来たときとは異なり下組町から愛宕橋を渡り、綾織村の小峠を越えて日詰街道を盛岡へ向かった。
後の『現代随想全集』で「帰りに横手から五色温泉に遊ぶ」と述懐されていることから、盛岡から秋田へ行き、帰京したのは31日とされている。
上記の説のほか、遠野に到着した翌日の24日にまず伊能を訪ねたとする説。山口の佐々木家を訪問し「土淵村山口から附馬牛に出る時でした。あそこは南部公の寺があるんで、それを見に行ったのです。ちょうどシシ踊りなんかしてました」という『民俗学と岩手』における記述から、土淵から附馬牛へ向かったと推測し、一連の行程は25日に行われたとする説。当時の柳田の立場を考慮すると郡役所に立ち寄って何もなく送り出されるのは不自然であるとし、郡役所に立ち寄る事は無かったとする説。あるいは遠野を離れたのは26日であったとする説などが存在する。

神の始 (2話)
早池峰山 遠野物語の位置
遠野の町は南北の川の落合にあり、以前は七七十里として、月に6度開かれる市には7つの渓谷、70里(およそ28km)の距離から売買の為に商人1000人、馬1000頭が集まる賑わいをみせていた。
周囲には遠野三山と呼ばれる山々があり、早池峰山、六角牛山、石上山(石神山)、これらには成り立ちに関する神話が存在する。大昔に女神とその3人の娘が遠野を訪れ、来内村の伊豆権現のある所に宿った際、女神は娘達に良い夢を見た娘に対して良い山を与えると伝えた。夜深く天から霊華が舞い降り、姉の胸の上にこれが降りるも、末の娘が目を覚まし、これを自分の胸の上に移すことで最も美しいとされる早池峰山を手に入れた。そして姉達はそれぞれ六角牛山と石上山を得た。

草稿版には夢の中でそれぞれの娘にそれぞれの山が宛がわれたという記載は無く、姉から奪うことで利益を得たという妹の行為に対して柳田の手が加えられたと考えられている。
早池峰山はその経緯より、盗みを働いた者がその発覚を免れるよう願掛けをする、といったことでも霊験を得られると考えられ、早地峰信仰の普及に一役買ったとされている。また、これら3つの山は女神が住まう山である為、遠野の人たちは神罰を恐れ、戦前までこの山には女性が入ることが禁じられていた。かつて神職であるため差支えがないと石上山に入った巫女はその琴線にふれ、大雨風が起こり、姥石と牛石になってしまったという逸話も残されている。
(参照ウィキぺデア)

「旧日本軍が終戦直前、原爆実験?」1945年8月
朝鮮半島東岸沖合 GHQに極秘情報(西日本新聞) 阿修羅サイトhttp://www.asyura.com/sora/bd19992/msg/984.html
740b3eac-s
投稿者 兪駄 日時 1999 年 8 月 06 日 20:10:12:(西日本新聞)
「旧日本軍が終戦直前、原爆実験?」 朝鮮半島東岸沖合 GHQに極秘情報
【ワシントン5日時事】旧日本軍が第二次世界大戦の終戦直前、現在は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)領となっている朝鮮半島東岸の興南沖合で原爆実験を実施したとの情報を米軍がつかみ、戦後日本を占領統治した連合国軍総司令部(GHQ)などが秘密裏に調査していたことが、米国立公文書館で時事通信が入手した米軍機密文書(約300ページ)で分かった。1947年の米軍防ちょう機関の報告は「原爆に似た爆発があった」と伝えているが、真相は解明できなかったもようだ。また、これらの文書から、米軍は興南にあった化学コンビナートで日本海軍が秘密裏に核開発を進めていたとみて、朝鮮戦争(1950年)に乗じて疑惑施設を徹底的に爆撃していたことも明らかになった。

米軍犯罪調査部隊のデービッド・スネル氏は、旧日本軍が1945年8月12日未明、興南沖30数キロの海上で原爆実験を行い、巨大なきのこ雲が上がったとの情報をソウルで元日本軍情報将校から入手。退役後の1946年、米ジョージア州アトランタの新聞に公表したが一笑に付されていた。

しかし、在朝鮮米軍司令部防ちょう部隊が1947年1月16日付で作成した報告は、調査結果として、「日本軍は朝鮮北部東海岸沖に浮かべた小さな船で爆破を伴う実験を行い、原爆に似た爆発が起きた。関与した科学者らの名も(スネル報告は)正確だ」と指摘、科学者は旧ソ連軍によってソ連に抑留されたと伝えた。興南は8月12日、進攻ソ連軍に占領された。

興南での日本軍の核開発説について、1945年のGHQ文書は
(1)日本軍復員者によると、興南の化学工場で原子力関係の実験が行われていた
(2)日本海軍は興南の化学工場の秘密部門で、「NZ計画」と呼ばれる水素化合物によるジェット燃料実験を実施していた
(3)ソ連による興南占領後、秘密施設がソ連軍に接収され、日ソ両国科学者の共同研究が行われている―などの情報を挙げて、徹底調査を命じた。

興南には戦前、日本窒素肥料(チッソの前身)の大型化学工場があり、海軍と共同で重水などを生産していた。一方、朝鮮戦争中の米軍文書(1950年12月29日付)によれば、米軍は興南の化学工場施設に空爆を加え、施設の95パーセントを破壊したという。

[西日本新聞1999年8月6日]  1999年8月6日(金)10時45分
アクセ不可http://news.yahoo.co.jp/headlines/nnp/990806/loc_news/10450000_nnpnws018.html
(記事引用) 

中間子
原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言した。
1947年、イギリスの物理学者セシル・パウエルが宇宙線の中からパイ中間子を発見したことにより、湯川の理論の正しさが証明され、これにより1949年(昭和24年)、日本人として初めてノーベル賞を受賞した。
京都大学・大阪大学名誉教授。京都市名誉市民。1943年(昭和18年)文化勲章。位階勲等は従二位勲一等旭日大綬章。学位は理学博士。
湯川 秀樹1907年(明治40年)1月23日 - 1981年(昭和56年)9月8日)は、日本の理論物理学者。京都府京都市出身。
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湯川は自伝に「私の記憶は京都に移った後から始まる。やはり京都が私の故郷ということになるのかもしれない」と記している。
母方の祖父・駒橘は元紀州藩の藩士であり、また湯川家自体が先祖代々和歌山県出身であるため“和歌山出身”と紹介されることもあるが、本人は京都市出身と称している。
和歌山県出身の実業家・松下幸之助の郷里に「松下幸之助君生誕の地」の石碑があり、題字は同郷ということで湯川の筆によって書かれたが、湯川本人は和歌山で暮らした経験はない。
5、6歳の頃、祖父・駒橘より漢籍の素読を習った。駒橘は漢学の素養が豊富で、明治以後は洋学を学び、晩年までずっと『ロンドン・タイムズ』を購読し続けた人物であるという湯川は自伝に「私はこのころの漢籍の素読を決してむだだったとは思わない。…意味もわからずに入っていった漢籍が大きな収穫をもたらしている。その後大人の書物をよみ出す時に文字に対する抵抗は全くなかった。漢字に慣れていたからであろう。慣れるということは恐ろしいことだ。ただ祖父の声につれて復唱するだけで、知らずしらず漢字に親しみその後の読書を容易にしてくれたのは事実である。」と記している。

京都市立京極小学校卒業後、1919年(大正8年)、京都府立京都第一中学校に入学する。中学時代の湯川はあまり目立たない存在であり、あだ名は「権兵衛」だった。また、物心ついてからほとんど口を利かず、面倒なことは全て「言わん」の一言で済ませていたため「イワンちゃん」とも呼ばれていたが、案外『イワンのばか』から取ったのではないかと自分で考えた時期もあった。この無口さが理由で父の琢治から「何考えているのやらわからん」と疎んじられ他の兄弟に比べて能力を低く見られ、大学進学は諦めさせて専門学校へでもやろうかと考えられていた時期もあった。京都一中の同期には学者の子供が多く、後に学者になった者も多かったという。同じくノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎は一中で1年上、三高・京大では同期だった。

ノーベル賞受賞
 
1929年(昭和4年)、京都帝国大学理学部物理学科卒業。同大学玉城嘉十郎研究室の副手となる。1932年(昭和7年)、京都帝国大学講師。1933年(昭和8年)、東北帝国大学で日本数学物理学会年会が開催された時に八木秀次と知り合い、当時大阪帝国大学の理学部物理学科(は塩見理化学研究所)の初代主任教授に就任した八木に頼んで大阪帝国大学講師を兼担することになる。

教え子の間では、声が小さく講義はかなり難解であったと伝えられている。この頃、大阪胃腸病院(1950年に湯川胃腸病院と改称)の院長:湯川玄洋の次女湯川スミと結婚し、湯川家の婿養子となり、小川姓から湯川姓となる。
大阪帝国大学に移籍後、全く成果が出ない湯川を八木はさらに勉学に努めるよう注意した上で、「本来なら朝永君に来て貰うことにしていたのに、君の兄さんから依頼されたので、やむなく君を採用したのだから、朝永君に負けぬよう、しっかり勉強してくれなければ困る」とまで叱責した。内山龍雄によれば、八木は匕首のような毒舌で有名だったという。
1934年(昭和9年)、中間子理論構想を発表、1935年(昭和10年)、「素粒子の相互作用について」を発表、中間子(現在のπ中間子)の存在を予言する。すでに日中戦争中であった日本人学者は、海外からはなかなか評価されなかったがソルベー会議に招かれ、以後、アインシュタインやオッペンハイマーらと親交を持つ。この研究が評価され、1940年(昭和15年)に学士院恩賜賞を受賞、1943年(昭和18年)には最年少で文化勲章受章。さらに、1947年(昭和22年)にセシル・パウエル等が実際にπ中間子を発見したことで1949年(昭和24年)にノーベル物理学賞を受賞した。
これはアジア人としては作家のタゴールや物理学者のチャンドラセカール・ラマンに次ぐ3人目の受賞者だったが、日本人として初めてのノーベル賞受賞であり、このニュースは敗戦・占領下で自信を失っていた日本国民に大きな力を与えた。
2000年に湯川のノーベル賞選考関連文書を調査した岡本拓司は、推薦状の大半が外国の推薦者から出されていた点などを挙げ、「ノーベル賞の歴史の中でもまれなほど、研究成果との関係が明瞭であるように思われる」と述べている。

戦後は非局所場理論・素領域理論などを提唱したが、理論的な成果には繋がらなかった。一方、マレー・ゲルマンのクォーク理論については「電荷が  とか、そんな中途半端なものが存在する訳が無い。」と否定的であった。
またその一方で、反核運動にも積極的に携わり、ラッセル=アインシュタイン宣言にマックス・ボルンらと共に共同宣言者として名前を連ねている。

ただし、戦前・戦中には荒勝文策率いる京大グループにおいて、日本の原子爆弾開発に関与したことが確認されている。
原子核内部において、陽子や中性子を互いに結合させる強い相互作用の媒介となる中間子の存在を1935年に理論的に予言した。

妻・スミと(1954年)
 
1956年(昭和31年)原子力委員長の正力松太郎の要請で原子力委員になる。
しかし湯川は、正力の原子炉を外国から購入してでも5年目までには実用的な原子力発電所を建設するという持論に対して、湯川は基礎研究を省略して原発建設に急ぐことは将来に禍根を残すことになると反発、1日で委員を辞めようとしたが森一久らになだめられ踏み止まった。しかしその後も対立は深まり、結局体調不良を理由に翌年には在任1年3か月で辞任した。

1956年(昭和31年)1月に、宮中歌会始に召人として臨み「春浅み藪かげの道おほかたは すきとほりつつ消えのこる雪」が詠んだ。1970年(昭和45年)、京都大学を退官し、京都大学名誉教授となる。晩年には生物学にも関心を抱き、特に生命現象における情報の役割に関心を抱いた。また江戸時代後期の思想家三浦梅園への傾倒を深めた。揮毫を頼まれると、しばしば『荘子』の「秋水」の最後の一句から「知魚樂」(魚ノ楽シミヲ知ル)と書した。
京都大学退官後の1975年(昭和50年)に前立腺癌を発症し手術を受ける。手術により癌の進行は抑えたが、その後は自宅で療養を続けながら学術活動を行っていた。

米ソ両国の緊張激化を受け、第4回科学者京都会議の発起人の一人となって1981年(昭和56年)6月、15年ぶりに開催を実現する。このときすでに健康状態が悪化しており、会議には車椅子姿で出席して核廃絶を訴えた。3か月後の同年9月、急性肺炎から心不全を併発し京都市左京区の自宅で死去する。満74歳。墓所は京都市東山区の知恩院にある。
広島平和公園にある若葉の像の台座には、湯川による短歌「まがつびよふたたびここにくるなかれ 平和をいのる人のみぞここは」が刻まれている。

強い力の理論・中間子

湯川秀樹(1951年)
 
4つの力(重力、電磁力、強い力、弱い力)のうちの強い力をどのように定式化すればよいか、当時問題になり、いろいろな試みがなされたが、成功しなかった。 湯川は、電子の200倍の質量を持つ中間子を、力の媒介粒子(ボーズ粒子)と仮定して、核力である強い力を導くことに成功した。さらに、強い力からフェルミの弱い力を導いた。中間子論は、弱い力、強い力、両方を含む理論として、当時は最も基本的な場の理論であるとみなされた。また、力を粒子が媒介することをも明瞭に示し、場を生み出す粒子という考えを定着させた。
ただし、電子が強い力を伝えるという考えをハイゼンベルクが、湯川以前に提示している。しかし、電子は以前から存在が知られ、理論としても失敗だったので、場を担う粒子という考えは、確立されていなかった。
ハイゼンベルクやボーアは、観察されていない素粒子で場を説明する湯川に否定的であった。ボーアは湯川に、ハイゼンベルクは朝永にこのことを告げている。
以上の理由で、湯川の、強い力を生み出す中間子論は素粒子論の扉を開いたと、当時評価された。
湯川は、強い力の中間子論でノーベル賞をもらったが、これに驚き、自身のこれ以後の仕事を、場の量子論で自ら見出した問題の解決に力を注いだ。しかし、この研究は成功しなかった。

超多時間論と非局所場-湯川の丸
 
ミンコフスキー空間上での閉局面での確率振幅を定義すると、因果律が破れると言う問題を湯川は提起し、この問題に生涯をかけた。(この問題を湯川の丸○と言う。湯川がこの問題を提起後、ディラックも同じ問題を提起している。)
(湯川の因果律の問題を空間的なものに制限し因果律を回避し、湯川の考えを生かしたのが朝永振一郎の超多時間理論である。これにより場の量子論は、相対論的に共変な形に書き換えられた。湯川は、この問題を非局所場として扱ったが、成功したとはいいがたい。)
朝永の寄与はあったが、この問題はいまだに解決されていないと超対称性を世界で最初に提起した宮沢弘成は主張している。物理学は湯川の基本問題を回避して、現象論に走ったと。
湯川以前は一定時間で確率振幅は定義されていた。

岡潔:多変数複素関数論の建設者で、圏論の基になる概念を示す。湯川や朝永は授業を聞き、非常に刺激的だったと述べる。難問は条件を付けず、一気に解かねば解けないと主張。
素粒子関係の同期、弟子
朝永振一郎:同期。互いに刺激を受け、研究面でも密接な関係があり、ライバル。業績は、超多時間論、繰り込みなど多岐にわたる。強い力(中間子)の現象論的な式を湯川に述べる。
坂田昌一:2中間子論、無限発散を防ぐC中間子、坂田モデル(クォークの原型)、2ニュートリノ。
谷川安孝:2中間子論の原案を提唱。
武谷三男:3段階論で、方法論を活発に論じる。南部陽一郎が武谷方法論に影響され、データからモデルを創るという方法を取るようになるなど、多くの影響を与えた。
内山龍雄:ゲージ理論の先駆者の一人。
湯川の因果律の破れの重要性を主張する学者
宮沢弘成:超対称性を世界で最初に提起した。湯川の因果律の破れの問題を、今の物理は放棄し、現象論に走ったと主張する。

生物物理・宇宙物理
寺本英:生物物理、数理生物学の開拓者。
林忠四郎:宇宙物理学者、林フェーズの発見。
孫弟子には、現在活躍する数多くの理論物理・物性物理・宇宙物理・天文・数理生物学者が含まれている。

湯川秀樹歌碑(京都市上京区梨木神社内、鳥居の傍らに建っている)
父方祖父:浅井篤(田辺藩儒学者)
母方祖父:小川駒橘(官吏、実業家)
父:小川琢治(地質学者・京大名誉教授)
母:小雪(和歌山県、小川駒橘の娘)
姉:香代子、妙子
兄:芳樹(冶金学者・東大教授)、貝塚茂樹(東洋史学者・京大名誉教授、文化勲章受章)
弟:環樹(中国文学者・京大名誉教授)、滋樹(ますき・第二次世界大戦で戦病死)
妻:スミ(和歌山県、医師湯川玄洋の次女)
息子:春洋(平凡社勤務を経て、近世演劇研究家、1933年4月8日 - )、高秋(講談社に在職中に心臓発作で急逝、1934年9月29日 - 1971年)
遠縁:武田國男(実業家)、ダイアナ湯川(ヴァイオリニスト)、柿澤弘治(政治家)、森喜朗(政治家、元内閣総理大臣)、みぶ真也(俳優)
年譜
1907年 - 地質学者・小川琢治と小雪の三男として東京市麻布区に生まれる。
1908年 - 一家で京都に移住。
1919年 - 京極尋常小学校卒業。
1923年 - 京都府立京都第一中学校卒業。
1926年 - 第三高等学校卒業。
1929年 - 京都帝国大学理学部物理学科卒業。同大学玉城嘉十郎研究室の副手となる。
1932年 - 湯川スミと結婚。同時に湯川家の婿養子となり、小川姓から湯川姓となる。京都帝国大学講師。
1933年 - 大阪帝国大学講師兼担。
1934年 - 中間子理論構想を発表。
1935年 - 「素粒子の相互作用について」を発表、中間子の存在を予言。
1936年 - 大阪帝国大学理学部助教授。
1937年 - ソルベー会議に招かれる。
1938年 - 理学博士(大阪帝国大学)。論文は「On the interaction of elementary particles(素粒子の相互作用に就て)」
1939年 - 京都帝国大学教授。
1940年 - 恩賜賞受賞。
1942年 - 東京帝国大学理学部教授。
1943年 - 最年少で文化勲章受章。
1946年 - 帝国学士院会員。
1948年 - プリンストン高等研究所客員教授。
1949年 - 同年7月コロンビア大学客員教授就任、同年10月ノーベル物理学賞受賞。
1950年 - コロンビア大学教授。
1953年 - 京都大学基礎物理学研究所初代所長。国際理論物理学会・東京&京都議長。
1955年 - 日本ユネスコ国内委員会委員。社団法人日本物理学会会長。
1956年 - 原子力委員会委員。
1957年 - 3月29日原子力委員辞任。在任期間は一年3ヶ月。
1958年 - 原子力委員会参与。
1970年 - 京都大学退官、京都大学名誉教授。
1981年 - 京都市左京区の自宅で死去。74歳没。
2005年 - ユネスコが湯川秀樹メダルを作成。
学術的表彰
1940年 - 恩賜賞
1941年 - 野間学術賞
1949年 - ノーベル物理学賞
1964年 - ロモノーソフ金メダル
栄誉
1943年 - 文化勲章
1963年 - ロンドン王立協会外国人会員
1967年
西ドイツ プール・ル・メリット勲章
ローマ教皇庁 科学アカデミー勲章
1977年 - 勲一等旭日大綬章
1981年 - 従二位
距離の単位[編集]
湯川の業績に因み、核力の到達距離の目安となる 1fm = 10−15m を、1 yukawa と呼ぶ案が提案されたが普及には至らなかった。フェムトメートル参照。
※資料ウィキぺデア

 

パナマ文書の行方???
いまさら「パナマ文書」である。はたして、この見出しにして、記事を読む読者がいるのだろうか、という不安がある。

というのも、この記事を探した当初、ブログメインにするかどうか迷ったからだった。

新聞記事見出しレイアウトみたいな、シビアな選択は必要としないが、自分で管理しているブログサイト5項目の、どこに入れるか、というのもその「記事」の力また世評の認知度など、考慮して入稿する必要がある。

昨日、天皇自身による「生前退位」会見のニュースが日本国中を席巻しており、その余波というか、1日経過しても余韻が残っているように思った。
というのも8月第一土曜日という日程は、家族を含めた「夏休み」休暇が広まっていて、避暑地以外は、ほとんど閑散としている。当然、ネット閲覧実績は普段の4割減で、そのことでも職場にひとがいない、ということが類推できる。
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そんな情況のなかで「パナマ文書」だから注目度からいったら、期待できない。それと世界のイベント「オリンピック」開催中だ。






***本記事の末尾で、そのわけを書いている。
今回のパナマ文書に関しては、情報元は内部告発者ではなく、ハッキングによるものだと言われているが、もしもこの情報が最初にもたらされていた『南ドイツ新聞』が単体で公表していたら、これまで同様の新聞社への圧力や記者への個人攻撃で、文書の公開が尻切れとんぼに終わっていた可能性は十分にある。
しかしながら今回はまず、ワシントンDCにある「国際調査報道ジャーナリスト連合」所属の、80カ国107の報道機関約400名の記者が協力して文書を精査した上で、情報が複数のメディアで、安全に、公開された。
漏洩された機密文書の公表を、当局や世間からの圧力・個人攻撃を避けて、いかにして安全に行うか。
その有効なモデルのひとつを、今回のパナマ文書公開は示したのである。(〆)
 
パナマ文書は、従来とはちがったカタチで公表された、という視点で記事は書かれていた。

著者作家が、そう指摘して、なるほど、とおもうがその但し書きがなければ、内部暴露とかハックとか国家間の諜報合戦だとか、そんなことは無頓着だ。

社会で起きている、この重大な事件を世間は「無頓着」に接しているということの証左であると逆説的に云えることではないだろうか。

数日前に指摘してあるが、わたしがことさら職業また、副次的にメディア界のそれにかかわっているわけでもないのに、ネットという新興媒体の恩恵で、意見を述べることができるのはあり難いことと思惟している。
その内容は政治までに及び政権与党の批判(ほとんど批判文になるという性質)をして、他からの賛同者を得ようとする。それが私に限ったことではなしに、著名な人でも大なり小なりそれはあまり変わらない。

社会の多様性というのは、そのことをいうのだろう。そして、その取り扱う話題、記事の重要性もまた人によって変質するが、まったく興味がなければ、関与もしくは場を避ける。
結果的に、そのことは選挙投票数の率パーセントとよくにていると思った。
選挙権利を行使するかしないかは、統計的にきっちり数としてあらわれ、ほぼ50パーセントを境に往ったり復たりして、状況に寄り添って変動する。それでも100ないし10の比率はありえない。その中ほどの多様性ということなんだろう。

そして世間は、100というキャパを有しながら50しか、その力を発揮しない。面倒な話に関与したくない。政治は政治家が嫌いだから投票しない、イデオロギー論戦ばかりの政治にまったく期待がもてない等、100の中の50に至るには相応の理由と、もっともらしい論理がある。そんなことより酷暑をさけて冷房完備の別天地パーラー でパチンコしてほうが楽だ、という選択論にだれも是非を告げる権利をもたない。結果として無頓着な安易な方向へと水の流れのように不可逆方向へ向かう。
(蛇足な話として芸人が都知事立候補した結果テレビ広告パトロンによる損害賠償問題が生じるというウソの噂に世間は騙される)


その間隙をぬって賢いタイプの人間が、そうした人間心理を読み解いて、その方法論を確立している。その中の一つが「パナマ文書」である。したがって後の99項目には、われわれ凡人がまったく知らない手練手管がびっしりと書き込まれ、ある場所に保管されている。

ある場所、とは人間の脳である。脳だからあらゆるタイプの思考が可能で、それは無尽蔵にある。それが有益か無益か、という区別の線引き50か100か、という決めはまったくない。かりに数値200というのがあったら人間は地球以外に住んでいるかもしれない。
その反対、マイナス300という数値は、どんな世界なんたろろうか。
(この記事、午後にはランクアップして「2010パラノイア」項目に引き上げる)

パナマ文書はなぜもみ消されなかったのか?
Exposing the Panama Papers 
gqjapan.jp2016-8-8 Tag: コラム 、 スキャンダル
国際調査報道ジャーナリスト連合が公開した、通称「パナマ文書」が世界を揺るがしている。今世紀最大級と言われるこの金融スキャンダルについて、作家で翻訳家の井上一馬は文書が公開に至った経緯に着目した。

歴史上最大の文書漏洩と言われる「パナマ文書」が、2016年4月に公表されて以来、これまで日本ではイギリス領ヴァージン諸島やバミューダ諸島など、いわゆるタックスヘイヴン(租税回避地)を使って節税(税金逃れ?)を行っている一部の資産家や企業の名前が公表されて話題になっている程度だが、世界的には、アイスランドの首相がタックスヘイヴンを使った資産隠しを疑われて辞任に追い込まれ、イギリスでは、亡父の名前が文書に記されていたキャメロン首相が、欧州連合離脱か残留かを問う、今後のイギリスの命運を決めると言っても決して過言ではない重大な国民投票を前歴にして、苦境に立たされている。

その一方で、アメリカではこれまでのところ、公表された文書の中に自国の政治家や著名人の名前がほとんど含まれていなかったことから、これは主に、親しい友人の名前が記載されていたプーチン大統領のロシアや、親族の名前があがった習近平国家主席の中国、あるいは、パキスタン、イラク、ウクライナなど、政治的な腐敗に冒された国の問題であり、アメリカにとってはむしろ、もう何年も前から問題視されている、グーグルやアマゾン、あるいはアップルといった、アメリカ生まれの巨大多国籍企業によるタックスヘイヴンを使った合法的な租税回避行為のほうがはるかに大きな問題だ、という見方が強い。

が、いずれにせよ、パナマ文書の公開後フランスの経済学者トマ・ピケティ氏ら世界の経済学者355人がタックスヘイヴンの存在を終わらせるべく出した書簡の中で表明したように、「タックスヘイヴンは一部の富裕層や多国籍企業を利し、貧しい人々の犠牲の上に不平等を拡大させている」だけであり、この文書の公表によって、今後タックスヘイヴンの問題が、世界経済が全体として取り組むべき大きな課題として改めて浮かび上がってきたことは間違いないだろう。
それほど大きなインパクトをもたらしたパナマ文書の暴露だが、この件で私がもうひとつ注目したのは、文書の公開方法だった。

パナマ文書が公表されたのとちょうど同じ頃、私はたまたま『シチズンフォー スノーデンの暴露』(第87回アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞受賞)という映画を観た。

エドワード・スノーデンは、アメリカのCIAとNSA(国家安全保障局)の元職員で、2013年6月、NSAが大手IT 企業の協力を得て、テロや犯罪への関与とは無関係にアメリカの一般国民や各国指導者の電話での会話やメールの内容など膨大な通信データを秘密裏に収集している事実を、機密文書の暴露を通じて内部告発し、世界に衝撃を与えた人物である。

この文書の暴露は主に、元々NSAの活動に対して批判的だった記者グレン・グリーンウォルドが当時在籍していたイギリスの新聞『ガーディアン』紙を通じて行われたのだが、映画『シチズンフォー スノーデンの暴露』では、2人が香港のホテルで初めて会ったところから、衝撃的な機密文書の公開が行われて世界に衝撃が走ったあと、国家権力を敵に回す緊迫した状況の中で、スノーデンが、香港の人権派弁護士やウィキリークスの創始者ジュリアン・アサンジの助けを借りてロシアに亡命するまでの過程がドキュメンタリーで記録されている。

機密文書の公開後、アメリカ政府は当然、スノーデンをスパイ容疑で告訴したが、文書の暴露が続く中、当局の圧力はひとりスノーデンのみならず、『ガーディアン』紙はもちろんのこと、記者のグリーンウォルドにまで及んだ。映画には、グリーンウォルドのパートナーが一時空港で拘束される様子も記録されている。

内部告発者やそれを公表した記者に対する当局や世間からの圧力・個人攻撃は、日本でも世界でも昔から繰り返されてきたことである(機密情報を公開するウェブサイト・ウィキリークスのジュリアン・アサンジも性的暴行容疑をかけられエクアドル大使館での幽閉状態が続いている)。それはとても一個人で受け止めきれるものではない。

今回のパナマ文書に関しては、情報元は内部告発者ではなく、ハッキングによるものだと言われているが、もしもこの情報が最初にもたらされていた『南ドイツ新聞』が単体で公表していたら、これまで同様の新聞社への圧力や記者への個人攻撃で、文書の公開が尻切れとんぼに終わっていた可能性は十分にある。

しかしながら今回はまず、ワシントンDCにある「国際調査報道ジャーナリスト連合」所属の、80カ国107の報道機関約400名の記者が協力して文書を精査した上で、情報が複数のメディアで、安全に、公開された。

漏洩された機密文書の公表を、当局や世間からの圧力・個人攻撃を避けて、いかにして安全に行うか。

その有効なモデルのひとつを、今回のパナマ文書公開は示したのである。

井上一馬
1956年生まれ。東京外国語大学フランス語学科卒業。編集者として出版社勤務を経て、1984年に作家・翻訳家として独立。ウディ・アレン、ボブ・グリーンなどアメリカ文化の翻訳紹介、英語論、映画評論、エッセイ、小説など、多彩な執筆活動を続けている。上流社会をめぐるタキのコラム集『ハイ・ライフ』の翻訳でもおなじみ。日本文藝家協会会員。
(記事引用)

同じサイト記事
http://blog.livedoor.jp/raki333-cinnamon/archives/5815640.html


脳と光の不思議を科学する 情報理工学部情報科学科
高雄元晴教授 毎日新聞 東海大学   
人間を包み、照らす光。情報理工学部情報科学科の高雄元晴教授は光と脳との関係に焦点を当て、光が人間の体に与えるさまざまな影響について研究を進めている。そして、「脳にいいプラモデル」「携帯電話依存症」「バーチャルリアリティー」へと、探求の対象は広がり続ける。【毎日新聞社デジタルメディア局 浜名晋一】
853
 ――「非イメージ形成視覚の光の受容」が研究テーマですが、具体的な内容を教えてください。

 目から入ってきた情報を脳で情報処理するに当たって、二つの経路があることが分かっています。一つが「写真に友人が写っている」「赤い夕焼け空だ」という感じで、意識される視覚。最近ではイメージ形成視覚と呼ばれています。もう一つは、目から情報が入ってきて、脳に伝わるが認識されない無意識の視覚です。こちらは非イメージ形成視覚と呼ばれています。私は、主に後者の光受容の仕組みを調べています。

 非イメージ形成視覚の代表例として、概日リズムの光同調が挙げられます。概日リズムとは、約1日のリズムを刻む体や心のリズムを指します。このリズムは主として脳の視交叉上核(しこうさじょうかく)で刻まれます。人間は朝起きて夜寝る生活をしていますが、脳で刻まれている時計というのは、多くの人の場合、24.5時間とか、24.1時間という感じで24時間より少し長くなります。例えば、昼も夜も分からないような暗い部屋にずっといて、そこで暮らすとします。朝7時に起きて、夜12時に寝るなら、本人はいつも通りに生活しているつもりでも、体のリズムを調べると、だんだんと後ろにずれてきます。1日に30分ずれている人は、24日たったら12時間ずれてしまう。このずれてしまった時間の感覚を、人間はどのようにして毎日巻き戻しているのかというと、光が大きな役割を果たしています。これを光同調と呼びます。

 人間は朝浴びる光が視交叉上核に情報を伝えるおかげで、毎朝7時なら7時にきっちり起きられます。頭の中で「朝の光が入ってきた。目を覚まさなくちゃ」と意識しなくても、自動的に無意識のうちに処理されます。

 ――光を浴びることで、ずれた脳内の時計をリセットするということですね。非イメージ形成視覚の産業への応用も考えているとか。


 米国の大学に留学していた時に、この視覚系に関わる特別な細胞が網膜にあるということを発見しました。内因性光感受性網膜神経節細胞と私たちが名付けた細胞ですが、この性質を調べることで、非イメージ形成視覚の特徴を明らかにできるということが分かり、東海大に赴任してからも、この研究を続けています。この細胞は、波長がだいたい480ナノメートルくらいの光に最も感度が高いことが研究で分かりました。この波長の色はやや薄い青色ですね。

 また、この青色1色よりも、他の色を混ぜた方が明らかに概日リズムの光同調の効果が高いということも分かってきました。光の色をブレンドすることによって、気持ちよく目覚めて、夜はしっかり寝られるような照明器具ができないかと応用研究を進めています。

 ――光と睡眠との関係で言えば、スマートフォンと不眠との関連を指摘する研究があります。先生も携帯電話依存に関する研究をされていますね。

 スマホは液晶画面のバックライトを青のLED(発光ダイオード)も用いて発光させています。この青の光が概日リズムのリセットに関係する光ということで注目されています。寝る前に強い光を浴びると、概日リズムは遅い時間にずれてリセットされることから、スマホを寝る前に操作すると、画面の強い青い光で不眠になってしまうかもしれないということが盛んに言われています。

 私が学生たちと行ったのは「携帯電話依存の心理学的研究」です。この研究は2006年に行いました。当時、スマホはあまり出回っていませんでしたが、携帯電話を手放せない学生はいました。そのような学生はみな性格に同じような特徴があるということで、研究をしたところ、面白い結果が出ました。

 携帯を手放せないのは、「孤独な性格」のためと思われがちですが、実際手放せない学生は、非常に外向的な性格の学生が多く、承認欲求が強い傾向にありました。承認欲求とは「自分を認めてほしい」という欲求のことです。そしてセルフモニタリングという特性も高いことがわかりました。セルフモニタリングはカメレオニズムともいいますが、自分がなく、周りに同調してその場その場で自分を変えてしまう性格・行動特性のことです。いわば、お調子者で空気が読めて、集団の中で自分を演じられる学生です。まとめていうと、外向的で自分のことをも認めてほしい気持ちが強く、しかも空気の読める学生ほど、携帯依存になりやすいことが分かりました。
(記事部分引用)
 

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