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北朝鮮ハッカー部隊、狙うはビットコイン-制裁強化に備え動き活発に
中村友治、Sam Kim
2017年9月12日 5:00 JST bloomberg
 北朝鮮は制裁が強化された場合に備え、ビットコインなど仮想通貨をため込もうと活発に動いている様子だ。
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 米サイバーセキュリティー会社ファイア・アイの新たな報告書によると、北朝鮮のハッカーらは韓国内の仮想通貨取引所や関連サイトへのサイバー攻撃を増やしている。ビットコイン関連ニュースを扱う英語サイトをハッキングしたほか、身代金要求型ウイルス(ランサムウエア)「ワナクライ」で全世界からビットコインを巻き上げたという。
  
  北朝鮮の最高指導者、金正恩氏は仮想通貨に対して明らかに高い関心を持っている。国家の統制を受けず、秘密が守られるという仮想通貨の特徴は、資金調達やマネーロンダリング(資金洗浄)の手段として有用だ。制裁強化と仮想通貨の利用拡大が見込まれることを考慮すると、北朝鮮の仮想通貨志向は強まる一方だと専門家らは語る。

  この報告書をまとめたファイア・アイのリサーチャー、ルーク・マクナマラ氏は「制裁を大きなばねに、この種の活動が加速しているのは間違いないとみている」と指摘。北朝鮮は仮想通貨を「外貨を稼ぐ極めて低コストのソリューション」だと考えているのだろうと分析した。

  ファイア・アイが確認したところでは、韓国では今年に入り少なくとも3つの仮想通貨取引所が攻撃され、うち5月の攻撃では実害が出た。同社は北朝鮮の関与を示す明らかな示唆はないとしているものの、現地メディアの報道によると、ソウルを拠点とする仮想通貨取引所「ヤピゾン」が盗難により3800BTC(現在のレートで約16億円相当)を失った。
  
  北朝鮮の外国メディア担当窓口はコメントの要請に応じなかった。同国外務省や国営メディアはこれまで、2014年のソニー・ピクチャーズエンタテインメントに対するハッキングを含めいかなるサイバー攻撃にも同国は関与していないと主張している。

  北朝鮮のハッカー部隊は軍事的な情報活動から金銭の窃取へと焦点を拡大させていると、韓国当局はみている。オーストラリア戦略政策研究所の国際サイバー政策センターが2016年にまとめた報告書によると、北朝鮮で情報活動から通信網の混乱まで平時のサイバー業務を担う偵察総局は金正恩氏が直接統括し、約6000人の職員を擁する。
(記事引用)

世界中から仮想通貨を奪う北朝鮮ハッカー部隊は1700人規模
2018年3月4日 2時0分 Smart FLASH 
平昌オリンピックも無事終了した。引き続き、パラリンピックが開催されるが、問題は3月18日にパラリンピックが閉幕した後である。

 なぜなら、オリンピックの開会式に出向いたペンス副大統領や閉会式に参列したイバンカの韓国での言動を見る限り、非核化に向けた北朝鮮との対話は期待できそうにないからだ。

 特に、ペンス副大統領の発言は北朝鮮への敵意をむき出しにしたものだった。曰く「金与正はゴミの怪物だ。10万人もの政治犯をゴミ扱いし、極悪な環境に置いている。平和の祭典の最もそぐわない」。

 イバンカも父親であるトランプ大統領の意向を受け、「北朝鮮への最大限の圧力を強める」と強調。ホワイトハウスは「北朝鮮と公海上で物資の密輸に携わっている」として30社近くの中国の船会社や船舶を名指しで制裁の対象に指定。

 中国政府は猛反発しているが、このトランプ発言は明らかに北朝鮮への攻撃を前提にしたものだ。

 要は、中国に仲介役を期待したが、「堪忍袋の緒が切れた」というわけだ。

 このままでは、北朝鮮がアメリカ全土を射程に収めるICBMを完成させてしまう。その前に、北朝鮮の脅威を取り除くのが「アメリカ・ファースト」を掲げて当選した自分の責任だと考えているに違いない。

 実は、これまで国際社会による経済制裁が科せられていながら、金正恩体制は巧妙に潜り抜けてきた。それどころか、サイバー攻撃を専門とする「586部隊」を編成し、2016年2月、バングラデッシュ中央銀行から9億5100万ドル強奪したのを皮切りに、ベトナム、エクアドル、フィリピンなど途上国の銀行を次々に狙っては資金を奪ってきている。

 その手法は、さままざま組織や一般企業のサイトを「踏み台」にしていくもの。確認されただけでも、ポーランド政府のサイトを始め、メキシコ、ブラジル、中国、米国など31カ国104機関が経由されている。すでに「WannaCry 」と称されるウィルスを、150カ国30万台のコンピュータに侵入させたともいわれている。

 2017年からはビットコインなど仮想通貨に狙いを定めたといわれ、最近大きなニュースとなった日本のコインチェックのNEMもターゲットにされていた。

 アメリカ財務省の調査では、この「586部隊」所属のハッカーは1700人で、支援部隊も5000人という規模を誇る。それだけではない。彼らは、国際的な犯罪組織と連携しつつ、武器、麻薬、偽札の売買でも大儲けを繰り返している。アメリカにも「アイス」と呼ばれる合成麻酔薬が密輸されている有様だ。

 もはや対話では決着のつけようがない。トランプ大統領は金正恩の斬首作戦にゴーサインを出したと思われる。開戦の火ぶたが切って落とされるのは、そう遠いことではあるまい。(国際政治経済学者・浜田和幸)

(記事引用)

第 5回 アイスの恐怖 覚醒剤・エクスタシーMDMA(06年11月)
NPO法人GINA エイズ自助グループ・エイズ孤児支援
オーストラリアはアジアの一員である、と言えば(狭い意味の)アジア人にもオーストラリア人にも抵抗を示す人は少なくないでしょう。しかし、オーストラリアは確実にアジアの一員である、と言える領域があります。

 それは、違法薬物の世界です。オーストラリアを含むアジア諸国(もちろん日本も含みます)で最も流通量が多い薬物が、大麻を除けば、覚醒剤とエクスタシー(MDMA)です。

 一方、欧米諸国では、大麻以外には、エクスタシーの存在は無視できませんが、コカインやLSDが多いのが特徴です。覚醒剤の流通量はそれほど多くないと言われています。突然死に至ることも多いコカインとヘロインの合剤である通称「スピードボール」は欧米諸国で問題になっていますが、アジア諸国ではまだそれほど流通量が多くないと言われています。(最近の東京ではアメリカ大陸からの直輸入で若者に浸透しだしているという噂もありますが・・・)

 覚醒剤はアンフェタミンとメタンフェタミンのことを指し、以前の日本では「シャブ」と呼ばれていましたが、最近ではイメージアップを図ってなのか、「スピード」「エス」などと呼ばれることが増えてきました。粉末や錠剤の他に、透明な結晶をしたものがあり、これは純度が高くアルミ箔に乗せて下から火であぶり気化させたものを吸入する摂取法がよくとられます。(この方法を「アブリ」と言います) 

 この結晶は、かたちが氷に似ていることと覚醒剤がキマれば身体が冷たくなっていく感覚があることから、ジャンキーたちには「アイス」と呼ばれています。

 9月27日のNEWS.COM.AUが、アイスがオーストラリアの若い世代に浸透してきていることを報道しています。エクスタシー(MDMA)に代わって、アイスがパーティ・ドラッグの主役になりつつあるそうです。

 国民薬物アルコール研究センター(National Drug and Alcohol Research Centre)は、オーストラリアの若者の間で、仲間と一緒にアイスを吸入する(アブる)のが流行しており、薬物シンジケートも最近は若者をターゲットにしていることを報告しました。

 また、オーストラリア違法薬物委員会(ANCD、Australian National Council on Drugs)は、シンジケートが取り扱う違法薬物をヘロインからアイスに変えてきていると発表しました。

 「我々は薬物シンジケートのマーケティング能力を過小評価している。彼らはアジア全域の若者をターゲットにしている」と、ANCDの幹部はコメントしています。

 シンジケートはアジアの工場で大量に違法薬物を製造しているようです。最近、オーストラリア連邦警察(AFP)も加わっておこなわれた国際調査で、マレーシアのある場所でシャンプーを製造しているかにみせかけた工場で、一日に60キロものアイスが製造されていることが発覚しました。60キロのアイスは、末端価格にして270万オーストラリアドル(約2億4千万円)に相当するそうです。逮捕されたのは21人で、彼らはごく簡単に入手できる化学物質を原料にこの覚醒剤を製造していたそうです。また覚醒剤以外にも8万錠のエクスタシーも押収されたようです。

 オーストラリア連邦警察のある幹部は言います。

 「これは我々が知る限り世界最大の薬物工場である。今回押収したものはアジア太平洋全地域に流通する可能性のあるもので、オーストラリアも例外ではない。そして、最近では押収量が最も多いのがアイスである」

 国民薬物アルコール研究センターの調査では、16歳から25歳の若者でアイスの吸入が流行していることが分かりました。

 ある研究者は、「若者の多くは、エクスタシーやマリファナを経験し、やがてアイスに手を出し始める」、とコメントしています。

 9月27日のNEWS.COM.AUは別の記事で違法薬物に関する二つのレポートについて報告しています。

 ANCDによる調査で、アジア太平洋諸国13カ国で最も問題になっている薬物は、覚醒剤とエクスタシー(MDMA)であることが分かりました。

 ANCDの代表者John Herron医師は、「我々は違法薬物がアジア太平洋地域の安定性を脅かしオーストラリアにも大きな影響を与える可能性を過小評価すべきでない。覚醒剤はすでにアジア太平洋諸国の若者の文化に溶け込んでいる」、とコメントしています。

 ANCDは自国以外の状況についてもレポートしています。

 「インドネシアが麻薬も含めた違法薬物の消費地のみならず中継地となっている。インドネシアのHIV陽性者の80%が違法薬物の静脈注射をする者で、タイでは毎年25,000人が新たな違法薬物のユーザーとなっている。アイスは現在のフィリピンの最もメジャーな違法薬物である」

 もうひとつのレポートは、UNODC(国連薬物犯罪オフィス)によるものです。UNODCは覚醒剤(アイスを含む)がオーストラリアの路上で出回っていることを警告しています。

 UNODCによりますと、オーストラリアでおこなわれた1999年から2000年、2004年から2005年のふたつの調査を比べると、薬物中毒が原因で入院となる者が56%も増加しています。薬物中毒者は攻撃的になり暴力をふるい救急医療の対象になることもあります。

 覚醒剤に依存している人は世界で2,500万人にものぼり、そのうち6割以上は東南アジアと東アジアに住む人たちです。

 覚醒剤の前駆体物質は容易に入手でき、精製はそれほどむつかしくありません。そして、国際間に流通させているのは若い世代であることをUNODCは指摘しています。

 これらの記事には日本に関する記載がありませんが、日本はいまや世界有数のドラッグ天国です。そして、この記事にあるように、日本でも最も流通している違法薬物は覚醒剤とエクスタシー(MDMA)です。最近は覚醒剤の北朝鮮ルートが次第に減少してきており、数年前に比べると仕入れはやや困難になってきているという情報もありますが、アイスの入手しやすさは世界一と言う人は少なくありません。そのため日本人の元ジャンキーのなかには、怖くて日本に帰れないという人もいる程です。

 アジア太平洋地域の先進国であるオーストラリアが国際捜査に加わりマレーシアの工場を摘発しているわけですから、日本もアジア全域に対する薬物撲滅政策を展開すべきではないでしょうか。それが、国内外に住む日本人を救うことになりますし、それ以前に、アジアのなかで日本が担うべき役割と責任は小さくないのですから。
(記事引用)





アメリカ シンクタンクの一覧
■セルゲイ・ミハイロヴィッチ・ブリン
ローレンス・エドワード・ラリー・ペイジ
イーロン・マスク
ビル・ゲイツ

ニコラ・テスラ

セルゲイ・ミハイロヴィッチ・ブリン(1973年8月21日 - )
Googleの共同創業者。
ソビエト連邦モスクワに住む東欧系ユダヤ人の家庭に生まれる[1]。ロシア語名はセルゲイ・ミハイロヴィッチ・ブリン(ロシア語: Сергей Михайлович Брин)。父ミハイルはソ連のゴスプラン経済研究所で働く数学者でその後米国に渡りメリーランド大学の数学教授、母エヴゲーニャはアメリカ航空宇宙局の研究員。1979年、6歳の頃に家族でアメリカ合衆国へ移住し、ロシア語と英語のバイリンガルになった。
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幼少時からコンピュータに興味を持ち始め、1990年にメリーランド大学に入学し計算機科学と数学を専攻。1993年に理学士号を取得した。卒業後、米国科学財団から特待生として認められ、スタンフォード大学にて計算機科学の修士課程に進む。スタンフォード大学ではインターネットに関心を持つようになり、検索エンジンや構造化されていないソースからの情報抽出法、莫大なテキストデータや科学データのデータマイニング手法などを研究し、学会誌にも多数の論文を発表した。1995年に計算機科学の修士号を取得。また、2003年にはスペインのIE ビジネススクールから名誉MBAを授与された。

ラリー・ペイジとはスタンフォード大学在学中に知り合った。初めは仲が良くなかったものの[7]、やがて「膨大なデータの集合から関連した情報を検索するシステムを作る」という共通する関心があることに気づき、The Anatomy of a Large-Scale Hypertextual Web Search Engine(大規模なハイパーテキスト的な Web 検索エンジンに関する解剖)と題された検索エンジンに関する論文をペイジとの共著で執筆した。スタンフォード大学の博士課程を休学し、1998年に Google 社を共同設立。この論文は後に Google の PageRank 技術に取り入れられることになった。

国際会議やビジネス・テクノロジーフォーラムにも度々招聘され、世界経済フォーラムにて講演を行った実績もある。CNBCやCNNのテレビ番組にも出演し、技術産業や検索技術の将来について意見を述べた。

2008年6月11日、スペース・アドベンチャーズ社と契約し、宇宙旅行に行くことを発表した。実施時期は未定。
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ローレンス・エドワード・“ラリー”・ペイジ( 1973年3月26日 - )は、Googleの共同創業者、前最高経営責任者(CEO)。
現在は持株会社であるアルファベット社CEO。ファミリーネームについてはページとの表記もある。
アメリカ合衆国ミシガン州ランシングに生まれる。祖父はゼネラルモーターズの工場労働者、父カール・ビクターはミシガン州立大学(Michigan State University)計算機科学・人工知能教授、母グロリアはユダヤ人で、彼女もミシガン州立大学でコンピュータプログラミングの教師をしている。兄のカール・ビクター・ペイジ・ジュニアは、メーリングリストサービスeGroupsの設立者で、後にYahoo!へ売却して財をなした。

6歳の頃からコンピュータを触り始める。ミシガン大学で計算機工学を専攻し、1995年に学士(計算機工学)号を取得した。卒業後、スタンフォード大学計算機科学の博士課程に進学し、テリー・ウィノグラードの指導の下、ウェブのリンク構造、人間とコンピュータの相互作用、検索エンジン、情報アクセスインタフェースの拡張性、個人的なデータのデータマイニング手法などを研究した。

在学中、同じくスタンフォード大学計算機科学の博士課程に在籍していたセルゲイ・ブリンと出会い、The Anatomy of a Large-Scale Hypertextual Web Search Engine(大規模なハイパーテキスト的なウェブ検索エンジンに関する解剖)と題された論文を共著で執筆した。修士号を取得した後スタンフォード大学を休学し、1998年にGoogle社を共同設立。論文はページランク技術(ペイジは、彼の姓に由来)に取り入れられることになった。従業員200人程度の規模になった2001年4月頃まで共同社長兼最高経営責任者を務め、同年7月に最高経営責任者職をエリック・シュミットに譲った。シュミット、ブリン、ペイジによる三頭体制で製品部門担当の社長を務めていたが、2011年4月4日付で最高経営責任者に復帰した。2015年10月2日、グーグルの組織再編に伴い新たに設立された持株会社・アルファベット社の最高経営責任者に就任した。グーグルCEOはサンダー・ピチャイが後任となった。
ミシガン大学工学部の国家諮問委員も務めている。2002年、世界経済フォーラムにてGlobal Leader for Tomorrow(未来のグローバルリーダー)に指名される。2003年には、スペインのIE ビジネススクールから名誉MBAを授与された[4]。2004年には全米技術アカデミーの会員に選出され、2005年からはエックスプライズ財団の理事も務めている。
2015年9月の時点で333億ドル(約4兆円)の純資産を有する。
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ニコラ・テスラ( セルビア語: Никола Тесла, セルビア語ラテン翻字: Nikola Tesla, 1856年7月10日 - 1943年1月7日)、19世紀中期から20世紀中期の電気技師、発明家である。
交流電気方式、無線操縦、蛍光灯、空中放電実験で有名なテスラコイルなど多数の発明や、「世界システム」なる全地球的送電システムなど壮大な提唱もあり、磁束密度の単位「テスラ」にその名を残している。

8つの言語に堪能で、詩作、音楽、哲学にも精通し、電流戦争ではトーマス・エジソンのライバルだった。

1856年7月9日深夜、オーストリア帝国(現在のクロアチア西部)リカ=コルバヴァ県ゴスピッチ近郊の村スミリャン(英語版) で生まれる。父母ともにセルビア人で父はセルビア正教会司祭に奉じ、兄弟は兄のデンと姉2人と妹1人がいた。兄を失った5歳の頃から頻繁に幻覚を見たとされ、「テスラ以上の神童」と呼ばれた兄を上回るため勉学に励んで特に数学で突出した才能を発揮したとされる。

1880年、グラーツ工科大学在学中に交流発電機と交流モーターの原理を考案する。1881年、同校を中退してブダペスト国営電信局に就職する。23歳でプラハ大学を卒業後にエジソン社フランス法人に勤めたとされている。

1882年、誘導モーターの開発に成功する。

1884年、渡米してエジソンのエジソン電灯会社に採用される。当時直流による電力事業を展開する社内で交流による電力事業を提案し、エジソンと対立して1年ほどで失職する。

1887年4月、独立したテスラは Tesla Electric Light Company(テスラ電灯社)を設立し、独自に交流による電力事業を推進して同年10月に交流電源の特許を受諾される。

1888年5月16日、アメリカ電子工学学会でデモンストレーションを行い、感銘したジョージ・ウェスティングハウスから研究費100万米ドルと特許使用料を提供される。テスラの特許を使用した交流発電機は、ウェスティングハウス・エレクトリック社ベンジャミン・G・ランム(英語版)の設計で、ナイアガラの滝エドワード・ディーン・アダムズ発電所(英語版)に三相交流25サイクルのものが設置され、同年に循環磁界を発見して超高周波発生器を開発するが、ウェスティングハウス社技術陣の中で孤立して1年で離れる。

1891年、100万ボルトまで出力可能な高圧変圧器を発明する。

1893年、無線トランスミッターを発明する。シカゴ万博会場内の電気供給に、電気館の電源システムをウェスティングハウス社が構築して交流の優位性を示した。これは、20台の単相500馬力発電機を2群にわけ、それぞれ回転子を90度ずらして二相交流12000馬力発電機として構成し、蒸気機関により駆動して発電した電力を変圧器で昇圧して送電後、再度変圧器で降圧して16燭光の電灯を1000個点灯するとともに誘導電動機を回したもので、ほかに回転変流機を設置して直流電源電車を走行させた。

1898年、点火プラグの米国特許を取得し、無線操縦特許を取得してニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンで無線操縦の船舶模型を実演した。

1901年、J・P・モルガンの援助により、ロングアイランドのショアハムに高さ57メートルの無線送信塔「ウォーデンクリフ・タワー」を建設開始し、1905年に完成するもモルガンとの関係悪化により資金繰りが悪化し研究を中断する[要出典]。アメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦すると、タワーは標的になるとして1917年に撤去された。

1915年、エジソンとともにノーベル物理学賞受賞候補となったという噂が流れるが共に受賞しなかった。1930年代にも受賞候補に選ばれるが受賞しなかった。

1916年、米国電気工学協会エジソン勲章の授与対象になり一度は辞退するが(後述)再考後1917年にこれを受ける。晩年は精神障害に悩まされた。

1943年1月7日、マンハッタンのニューヨーカー・ホテルで死去する。享年86歳であった。数トンの重量に及ぶとされる彼の発明品や設計図は「アメリカ軍とFBIが没収した」「ユーゴスラビアを通じてソ連の手にも渡った」と街談巷説されたが、実際はFBIの押収後に複製されて母国に返還された。原版はベオグラードのニコラ・テスラ博物館に保管され、2003年にユネスコ記憶遺産に登録された。

エジソンとの確執
詳細は「ジョージ・ウェスティングハウス」および「電流戦争」を参照
テスラがエジソン電灯に入社した当時のトーマス・エジソンは研究者と発明家としてすでに実績があり、エジソンへの憧憬や敬意から就職したとも考えられ、給与未払いなどの話題もあるが、両者の確執は「直流と交流との確執」に起因している。

エジソンは、エジソン好みの直流用に設計された工場システムをテスラの交流電源で稼働させたら、褒賞として5万ドル払うと提案した。直流の優位性や安全性に加えて交流の難しさなどを考慮した発言だったが、テスラはこれを成功させた。交流を認めたくないエジソンは褒賞を「冗談」で済ませたため、テスラは激怒して後に退社する。

後年にテスラら交流陣営とエジソンの直流陣営が紛争し、エジソンは交流の危険性を広めるためのキャンペーンとして有名な電気椅子処刑を発案するなどしたが、現在は全世界で交流送電が採用されている。

以下はエジソンとの確執をあらわすエピソードである。

1917年、生活に貧するテスラへ米国電気工学協会からエジソン勲章授与が知らされるが、「私に名誉の勲章をくださるということですが、それを上着につけてあなた方協会員の前で得意げに見せびらかせばよいということですか。あなた方は私の体を飾り立てるばかりで功績を認められそこなった私の頭とその画期的な発明には何も与えてくださらない。今日、あなた方の協会があるのは、おおかた私の頭とその産物が下地を与えたからだというのに」[要出典]と、エジソンの名が冠されたこの賞を断った。
エジソンの死後、ニューヨークタイムズのインタビューで否定的にコメントしている。
私は少し理論を利用するか計算するだけで90%削減できたであろう労力を彼が費すのを残念に思いながらほとんど見ているだけだった。彼は本での学習や数学的な知識を軽視し、自身の発明家としての直感や実践的なアメリカ人的感覚のみを信じていた。
I was almost a sorry witness of his doings, knowing that just a little theory and calculation would have saved him 90 percent of the labor. But he had a veritable contempt for book learning and mathematical knowledge, trusting himself entirely to his inventor's instinct and practical American sense.

テスラ、エジソンとの確執
「ジョージ・ウェスティングハウス」および「電流戦争」
トーマス・エジソンは研究者と発明家としてすでに実績があり、エジソンへの憧憬や敬意から就職したとも考えられ、給与未払いなどの話題もあるが、両者の確執は「直流と交流との確執」に起因している。

エジソンは、エジソン好みの直流用に設計された工場システムをテスラの交流電源で稼働させたら、褒賞として5万ドル払うと提案した。直流の優位性や安全性に加えて交流の難しさなどを考慮した発言だったが、テスラはこれを成功させた。交流を認めたくないエジソンは褒賞を「冗談」で済ませたため、テスラは激怒して後に退社する。

「ワイヤレス充電」実現へ前進――MITが実験に成功 
マサチューセッツ工科大学(MIT)は2009年6月7日、PCなどへの「ワイヤレス充電」の実現へ向けた実験的なデモに成功した と発表した。 デモでは、電源から7フィート(2メートル強)離れた60ワット電球にワイヤレスで送電、点灯することに成功したという。

ニコラ・テスラ(1856年7月10日 - 1943年1月7日)
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これは、ニコラ・テスラが発見した、(現在は、ELF(極超長波)による「シューマン共鳴」として知られている)現象を用いた、地球を媒介とする送電システム「世界システム」の縮小現代版であった。

ニコラ・テスラ( セルビア語: Никола Тесла, セルビア語ラテン翻字: Nikola Tesla, 1856年7月10日 - 1943年1月7日)は、19世紀中期から20世紀中期の電気技師、発明家である。交流電気方式、無線操縦、蛍光灯、空中放電実験で有名なテスラコイルなど多数の発明や、「世界システム」なる全地球的送電システムなど壮大な提唱もあり、磁束密度の単位「テスラ」にその名を残している。

8つの言語に堪能で、詩作、音楽、哲学にも精通し、電流戦争ではトーマス・エジソンのライバルだった。

1856年7月9日深夜、オーストリア帝国(現在のクロアチア西部)リカ=コルバヴァ県ゴスピッチ近郊の村スミリャン(英語版) で生まれる。父母ともにセルビア人で父はセルビア正教会司祭に奉じ、兄弟は兄のデンと姉2人と妹1人がいた。兄を失った5歳の頃から頻繁に幻覚を見たとされ、「テスラ以上の神童」と呼ばれた兄を上回るため勉学に励んで特に数学で突出した才能を発揮したとされる。

1880年、グラーツ工科大学在学中に交流発電機と交流モーターの原理を考案する。1881年、同校を中退してブダペスト国営電信局に就職する。23歳でプラハ大学を卒業後にエジソン社フランス法人に勤めたとされている。

1882年、誘導モーターの開発に成功する。

1884年、渡米してエジソンのエジソン電灯会社に採用される。当時直流による電力事業を展開する社内で交流による電力事業を提案し、エジソンと対立して1年ほどで失職する。

1887年4月、独立したテスラは Tesla Electric Light Company(テスラ電灯社)を設立し、独自に交流による電力事業を推進して同年10月に交流電源の特許を受諾される。

1888年5月16日、アメリカ電子工学学会でデモンストレーションを行い、感銘したジョージ・ウェスティングハウスから研究費100万米ドルと特許使用料を提供される。テスラの特許を使用した交流発電機は、ウェスティングハウス・エレクトリック社ベンジャミン・G・ランム(英語版)の設計で、ナイアガラの滝エドワード・ディーン・アダムズ発電所(英語版)に三相交流25サイクルのものが設置され、同年に循環磁界を発見して超高周波発生器を開発するが、ウェスティングハウス社技術陣の中で孤立して1年で離れる。

1891年、100万ボルトまで出力可能な高圧変圧器を発明する。

1893年、無線トランスミッターを発明する。シカゴ万博会場内の電気供給に、電気館の電源システムをウェスティングハウス社が構築して交流の優位性を示した。これは、20台の単相500馬力発電機を2群にわけ、それぞれ回転子を90度ずらして二相交流12000馬力発電機として構成し、蒸気機関により駆動して発電した電力を変圧器で昇圧して送電後、再度変圧器で降圧して16燭光の電灯を1000個点灯するとともに誘導電動機を回したもので、ほかに回転変流機を設置して直流電源電車を走行させた。

1898年、点火プラグの米国特許を取得し、無線操縦特許を取得してニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンで無線操縦の船舶模型を実演した。

1901年、J・P・モルガンの援助により、ロングアイランドのショアハムに高さ57メートルの無線送信塔「ウォーデンクリフ・タワー」を建設開始し[2]、1905年に完成するもモルガンとの関係悪化により資金繰りが悪化し研究を中断する[要出典]。アメリカ合衆国が第一次世界大戦に参戦すると、タワーは標的になるとして1917年に撤去された。

1915年、エジソンとともにノーベル物理学賞受賞候補となったという噂が流れるが共に受賞しなかった。1930年代にも受賞候補に選ばれるが受賞しなかった。

1916年、米国電気工学協会エジソン勲章の授与対象になり一度は辞退するが(後述)再考後1917年にこれを受ける。晩年は精神障害に悩まされた。

1943年1月7日、マンハッタンのニューヨーカー・ホテルで死去する。享年86歳であった。数トンの重量に及ぶとされる彼の発明品や設計図は「アメリカ軍とFBIが没収した」「ユーゴスラビアを通じてソ連の手にも渡った」と街談巷説されたが、実際はFBIの押収後に複製されて母国に返還された。原版はベオグラードのニコラ・テスラ博物館に保管され、2003年にユネスコ記憶遺産に登録された。

(資料ウイキペディア)






大杉漣 訃報 2018/2/21
名バイプレイヤー・大杉漣さんが急性心不全で死去した。
しらべい21日午前3時53分、『バイプレイヤーズ~もしも名脇役がテレ東朝ドラで無人島生活したら~』(以下、『バイプレイヤーズ』)の第3話放送直前に流れた悲報に、多くのファンがその早すぎる死を悼んだ。今回の放送分が撮影された時には、もちろん大杉は元気だった。こんなことが起きるなんて、本人はもちろん、誰も予想できなかったはずなのに、数々のセリフがシンクロしていた。

【関連記事】
5人に1人”突然死”のリスク…「隠れ心不全」見抜くサイン
投稿日: 2017年09月13日 16:00 JST 女性自身
「うちの家系は心臓が強いから大丈夫!、なんて根拠のないことを言う人に限って、心不全によって突然死するケースは多いのです」
そう話すのは、『心臓を使わない健康法』(マガジンハウス)などの著書をもち、血管の名医として知られる池谷敏郎先生。
いま「隠れ心不全」が急増していることに警鐘を鳴らす。心不全とは、心臓が血液を送り出したり収縮したりする“ポンプ”の働きが低下して、全身の臓器に必要な血液量を送ることができなくなった状態のこと。

今月、佐賀大学医学部循環器内科が心不全に関する研究結果を発表した。30〜60代の20%が軽度の心不全か、その予備軍、つまり隠れ心不全だったという。2140人を対象に、心不全を判断する指標になるホルモン「NT-proBNP」の血中量を調べた結果、心不全が疑われるホルモン量が検出された人が多く見つかった。“高齢者に多い”と思われていた心不全が、若い世代にも一定のリスクがあることがわかった。隠れ心不全については、池谷先生も注目しているというのだ。

「近年、糖尿病やその予備軍である隠れ高血糖の患者さんが増えています。糖尿病と心不全は関連性が強く、血糖値の約2カ月間の平均値を表すヘモグロビンA1Cが1%増えると、心不全のリスクが15%増加するといわれています。太り気味、メタボの人は血糖値が高い場合が多いので、要注意です」

急死の原因になる、心筋梗塞や虚血性心疾患、心筋症など急性心不全がある一方で、症状が“じわじわ”と現れる慢性的な心不全も多い。その場合、日常生活では症状がはっきりと現れないので、「太ったから」「年のせい」と見過ごされがちなのだとか。

「日本人の死亡の原因は、がんに次ぐ2位が心疾患です。心臓というのは、少々無理をしてでも頑張り続ける臓器なので、意外と気がつかない。隠れ心不全を放置すると、突然死につながります。スポーツをしたり体を動かしつづけてきた元気な人でも、ある日ポックリということは、ありえないことではないのです」

早期発見するのが何より大事。そこで、池谷先生が教えてくれた“隠れ心不全”リストを今すぐチェック!

□夜間のトイレが増えた

□ベッドに入るとせきが出る

□全身にむくみがある

□みんなと歩いていると自分だけ遅れる

□坂を上がると苦しい

□息切れしやすい

□倦怠感がある

□手足の先が冷たい

□胸が苦しい、痛いときがある

□冷や汗が出る

これらのチェックリストに1つでも思い当たることがあれば黄色信号! 
2つ以上なら“隠れ心不全”の可能性大! とくに池谷先生が初めに指摘したように、肥満やメタボと、心不全を起こしやすい人に当てはまるならなおのこと。ただし、貧血やぜんそく、腎機能が低下しているときや甲状腺系の病気、そしてたばこを吸う人なら、肺の炎症COPD(慢性閉塞性肺疾患)などが似た症状なので、混同されることも。気になるようなら迷わず検診を受けてみて。

「心不全は死亡の原因になるだけでなく、生活の質がぐっと下がってしまいます。階段を上がるのも買い物に行くのも大変。味が濃いものが食べられない、寝つきが悪くなるなど、さびしい生活になりがちなんです。そのためにも、隠れ心不全を放置しないことが大切です」

チェックリストで当てはまるものがなくても、心臓に負担をかけない体づくりが大事だと池谷先生。

「まず塩分と糖分の取りすぎに注意してください。心臓や血液など体のあちこちに負担をかけます。太りすぎにも要注意。栄養バランスを考えた適量の食事が基本です」

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Voicy ボイシー

どんな人にVoicyで喋ってもらいたいですか 
緒方:プロアマ問いません。音声メディアの世界にはボトルネックが3つあると思っています。 

「 音質に文句を言ってくるのはプロだけ」スマートスピーカー時代のボイスメディア"Voicy"の挑戦
BLOGOS編集部2018年02月20日 07:00

渋谷駅前の、とあるビルの一室。注目の音声配信アプリ『Voicy』CEOの緒方憲太郎氏にお話を伺いにやってきました。オフィスには金のバルーンアートで「VOICY」と掲げられています。 

そんな和やかな室内の雰囲気とは真逆に、緊張の面持ちのBLOGOS田野編集長(以下タノヘン)。実は今回の直撃取材の前に、タノヘンは自らのブログでVoicyに噛み付いていたのです。 

「まず音が悪い。このアプリを作ったやつラジオ舐めてるな」 

ラジオディレクターの顔ももつ田野編集長。ラジオ局のADとして社会人のスタートを切ったのですが、ADって厳しいんですよ。人の名前を間違ったくらいで腹を切れくらいの勢いで怒られます。家に帰る時間もないほど働いて、ノイズを削り、音を美しく編集してリスナーに届ける。時に殺伐とした収録であっても編集マジックで楽しげなトーク番組に変えてしまう、そういう技術を20代の楽しい盛りと引き換えに身につけました。 

そこまでの我慢が出来た者のみ、パッケージをオンエアすることができる。 

それを信じて仕事をし、ラジオや音にまつわる業界の斜陽化に心を痛めてきたタノヘン、気づけば老害全開で「聞きやすい放送というものは~」とブログで説教を垂れていました。 

そのアップから数日でVoicyのCEO緒方氏とのアポイントがとれ、タノヘン一座は渋谷のVoicy本社へお招き頂いた次第です。 

にこやかにスリッパを勧めてくださる緒方社長。一同、穏やかに着席して、対談がスタートしました。【取材・文 蓬莱藤乃】

音質に文句を言ってくるのは"プロ"だけ

BLOGOS編集部
緒方:今回、実は田野さんに会えるのも楽しみにしていました。「Voicyはラジオを舐めてる」って書かれていたので、これは面白いなと思っていたんです。 

僕自身、ベンチャー支援をしていたときに何百社も会社を見てきて、何かが盛り上がった時には、「そういうものはおかしい」というメディアが出てくることは必ずあるので、それは全然構わないと思っています。 

田野:Voicyで一番気になったのは音質です。収録時にスマホのマイクから口元が遠いからノイズ多いし声小さいし、圧縮率も高くて音が悪い。聞いていて「しんどいな」と正直思いました。 

喋り手に対してはすごく親切な設計になっていて、スマホ一台でマイクもいらず、収録した音声にBGMを後から自動で乗せて、ラジオごっこが誰でも簡単にできるというアイディアはすごいと思います。 

緒方:音質の話でいうと僕らはやりたいことの5%もまだできていないんです。Voicyはまだβ版なので、それでもプロの方に刺さるんだって逆にびっくりしています。たった4人の会社で、できる範囲のことをやって、一番ニーズがあるところで回している、という事業です。 

今は「誰と誰の番組はいいクオリティだ」という評価で構わないと考えています。例えるならば僕たちはテレビであって、音のクオリティは各放送局ごと、パーソナリティが自由にやればいいと思うんです。      

田野:家電の「テレビ」自体ってことですね、「テレビ局」ではなく。 

緒方:僕らはテレビ網、つまりVoicy網をやっているんです。あと、田野さんと実感値が大きく違うところがあります。このサービスをリリースしてから叩かれまくってきましたけど、これはいけたなと思ったのは逆に「音質」だったんです。 

田野:スマホ1台でここまでいけるか、みたいなことでしょうか? 

緒方:そうです。プロ以外で音質に文句を言ってきた人は、まだひとりもいないんです。 

田野:アハハハハハハ。 

緒方:Twitterを見ていると、「音質が良くていいね」っていう人の方が多いくらいなんです。 

田野:えー!?(驚) 

緒方:動画アプリとかで、みんなすごくうるさいところで撮ったものを見ているので、そういう人たちには「Voicyはちゃんと聞こえる、すげー」ってリアクションになるんです。 

僕らはラジオの人たちがやってきた仕事とは別のものをゼロから作っているわけで。だから音のプロたちがVoicyを「違う!」と怒っても、そもそも別なんだから「知らんがなー」と。 

実際にVoicyのお客さんにヒアリングしてみると、ほとんどの人から聞きやすいねと言われます。プロと一般の人たちとの間にはものすごい乖離があったわけです。ということは音声産業は1回リセットだなと、産業の発展に音のプロたちが足枷になっているなと気づいてしまいました。 

田野:ハハハハハ。 

緒方:僕はラジオも好きなんですよ。父がアナウンサーで、MBSヤングタウンの初代パーソナリティをやっていました。YouTuberみたいに、Voicyからテレビやラジオに出演したりする人が出てくるのをすごく楽しみにしているんです。 

またラジオ局とも積極的に連携したいと思っていて、文化放送さんにも参入していただいています。 

音質に関しては、ユーザーの耳も肥えてきて、Voicyのパーソナリティの中から、何人かが自分で音質を向上させてくる時がいずれ来ると思うんです。みんなの中で音質というものが評価の対象になってきた時に、システムをアップデートしていけばいいのかなと、今は考えています。 

「古い人ほど偉い文化」の世界は滅びる

画像 日本書紀写本
Nihonshoki_tanaka_versionBLOGOS編集部
田野:緒方さんが「音声コンテンツ」に未来を見ているところに強い興味を持ちました。ここ10年、ラジオの人と話していても明るい話を聞いたことがなかったので。 

緒方:僕もラジオの人から明るい未来の話は聞いたことないです。 

僕はビジネスモデルデザイナーとしていろんな事業を作っていくことを仕事としてきました。その中で見ている限り、衰退する産業にはルールが何個かあるんです。 

その中の一つがクラシックミュージックやラジオ、歌舞伎などで言えることで、「古い人ほど偉い」という文化になっていること。その人たちに気に入られるために作られて、評価者が上の人になっていることが、一番問題になっているのではないかと考えています。ライトなユーザーからの声を反映できない場所や若手にチャンスがない産業は時代の変化への対応力が低いです。 

ラジオってもったいないと思うんです。これだけ斜陽だと言われながらも聞く人はまだまだいて、広告費が1200億円もあって、もう少しできることがあるのではないかと。 

ラジオ業界はファンビジネスの流れが分析できていない
ラジオが圧倒的に遅れているのは、ファンビジネスの流れの分析ができていないことだと思います。 

ファンビジネスには3階層あって、1層目はおもしろい、または便利だから聞こうと思うステージ、2層目が毎回聞こうと習慣化するステージ、3層目がファン化するステージ。 

朝の帯番組をずっとやっていたら、リスナーがパーソナリティのことを好きになってお中元やお歳暮が送られてきたりする、というのは習慣化からファンのところまでジワジワしみ込んでいった人たちですよね。 

でも今のコンテンツのほとんどが、「面白い」「便利」というところだけで作り込もうとされています。それをまた聴きたい、もっと聴きたいから、それのある生活ってイケてる〜っていうところまで持っていかなきゃいけないのに、そこまで出来ていないんじゃないだろうかと。 

ラジオには20年以上続く番組があったり、ラジオ通販は現物を見ていないのに売れたり、返品率が低かったりしている中で、確実に刺さる要素はどこかにあるはずです。 
「声のブログ」は人となりを表現できる

BLOGOS編集部
田野:緒方さんが音声、特に「声」に注目したのはなぜでしょう? 

緒方:音声には画像を超える可能性があるのではないかと感じています。声の素晴らしさには要素が4つあると思うんです。 

1つ目はコミュニケーション、2つ目に情報伝達、3つ目が表現、そして4つ目が本人性、その人が出しているからこそという点。そのうちコミュニケーションと情報伝達、正確に伝えたいことは機械ができて無料になります。 

でも表現やその人だからこそという要素に関しては、人の生あたたかい声の方が、他者の心にも届いて、より価値があるのではないかと。 

僕らVoicyは「人」を届けているメディアなんです。その人の頭の中だったり、その人自体だったり、その人の生活だったり。それを届けるために声を使っている。生々しくその人の体から出てきたものに情報を載せる「声のブログ」として、文字情報よりも濃く、その人となりを表現できるんです。 

Voicyは会社全体の事業の2割
田野:Voicyのマネタイズプランはどうなっているのでしょうか。 

緒方:僕らが作っているVoicyという音声メディアの世界は、会社全体の事業の2割。メインの事業はもっと大きくて、五感のひとつ、耳に関わることは全部取っていくという方針です。 

せっかく全力で起業したので、世界を代表するプラットフォームを日本発で作りたいと考えています。 

ちょうど2年前に起業するタイミングで、生活の様々なものの中に全部インターネットが組み込まれるIoTの時代が来ることがわかっていました。 

全てにネットがつながると、それらはメディア化するんです。そこにスピーカーひとつ積めば、扉や机、あらゆるものから音声情報が出てくる。 

これからの世界は音声が中心となるはずです。そのメディアプラットフォームを全部手掛けようというのが僕らの事業。 

つまり、僕らはすべてのものに対して声という水を通す土管屋さんなんです。 

なので、Voicyのサーバーに音をあげたら、パソコンでもスマホでもスマートスピーカーでもIoTでも音響施設でも、どこからでも好きな時に取り出せて、何時にどこで誰が何を聞いているのか全部分かる。 

とすると、この人の朝のコンテンツはこれ、車に乗ったらこれ、電車に乗るとこれ、ご飯を食べている時にはこれ、という風に、生活の中にずっとメディアが流れている世界を、ストレスがない環境まで作り込んでしまおうと考えています。 

メディアは可処分時間の取り合いをしています。それは能動的な可処分時間。目で見る、何かをする能動的な時間のことです。 

その一方で受動的な可処分時間もあります。何かをしながら、何も意識しない時に得られる時間。そういう時間に合わせてその人にぴったりのものを提供するということが可能ではないかと。 

音声の世界がもう一度盛り上がるためには、発信の自由化・民衆化、そして受信する場所の多様化、最後はその人にぴったりなパーソナライズレコメンデーション。この3つが充実できた時に音声マーケットは全部ひっくり返りますね。 

企業の音声コンテンツをAIスピーカーへ
田野:音声メディアはAIスピーカーの登場で再び注目されていますが、Voicyさんもいろいろとやられているんですよね。 

緒方:Googleのスマートスピーカーに野村證券さんのコンテンツを出しています。音声化から放送するまで、企業の音声参入というところでお金を頂いて。 

生活の中に自分たちの音声コンテンツを流すということに価値を感じていただける方の導入をサポートする、というのがまずはひとつです。これからの音声産業は間違いなくブルーオーシャンです。 

野村證券さんの公式チャンネルも、今のVoicyの音声クオリティで対応できているんです。だから音声屋さんたちがいうところのクオリティじゃないところにベンチマークを作れるかは逆に勝負でした。 

ここで音声屋の人たちがOKというレベルをクライアントからも求められていたら、僕らはこの事業を続けることができませんでしたね。 

田野:野村証券さんの番組は音が綺麗ですよね。 

緒方:あれもスマホで録っているんですよ。やろうと思ったらできるんです。AIスピーカーの音声広告も将来的にやっていきたいなと考えています。 

インターネット広告が1兆円から2兆円に到達しようとしているタイミングですが、僕たちなら音声広告のパーソナライズ化も可能です。今後は音声広告がポイントとなることも増えていって、ネット広告費の10〜20%くらいが音声広告になりうるんじゃないかなと期待しています。 

その時にどういう音声広告がぴったりなのかという情報を持っている人はまだいないんです。だから僕たちは、今マネタイズしなくてもいいから、誰にどういうものが求められるのかというビッグデータを分析したいので、バラエティに富んだコンテンツが欲しいし、Voicyにはいろんな人に参加してもらいたい。 
田野:どんな人にVoicyで喋ってもらいたいですか。 

緒方:プロアマ問いません。音声メディアの世界にはボトルネックが3つあると思っています。 

まず1つは発信が難しかったこと。日本にいる1億2〜3千万人、寿司屋の大将や漁師のお父さん、誰が喋っていてもいいじゃないですか。それをVoicyではスマートフォン1台で可能にした。 

2つ目は発信するコンテンツはスタジオから、しかるべき技術者によって作られたものしかダメだっていう文化が作り上げられてきたこと。これを変えなきゃいけないと思っていたんです。だから田野さんの「ラジオ舐めてる」発言なんて超嬉しくって。 

田野:なるほど(苦笑)。 

緒方:音質とか関係なく面白いものなら聞きたい、そういう世界を作り込む。内容にこだわらずに内容の装飾にこだわる人が意識を変えないと音の世界は残っていけないだろうなと。 

プロのカメラマンが撮った写真より、カメラアプリで加工した写真が多くの人に見られる時代じゃないですか。同じように音声アプリで発信することが大衆化していけばいいなと思っています。 

ボトルネックの3つ目はパッケージにする難しさ。 

たとえ話になりますが、なぜ歌が流行ったかというと、カラオケがあったことも一つの要因だと思うんです。自分で歌ってみるとプロの上手さに気づいて本物を聞きたくなる。 

音声もみんなが発信するようになると、話すことはこんなに難しいものなんだ、こんなに「間」って大事なんだ、様々なことに気づくと思うんです。 

Voicyは発信者がとっつきやすいアプリにしてあるので、自分を発信する入り口として「まぁやってみよか」という感じで始められるのが一番いいんだろうなと。誰でも簡単に発信できます。 

世の中に新しいワクワクするものを作りたいんですよね。それだけなんです。面白い話をする人が大好きなんですよ。最近は「可愛い」が全てみたいな世界になっているでしょ?「話が面白い」もめちゃくちゃ魅力的なはずなんです。 

今は面白い話をすぐ聞きたいときは『アメトーーク』や『すべらない話』を探すくらいしかないんですよ。僕らはここに来ると面白い話が山ほどあるって場所を作りたいんです。 

ユーザーからのツイートに感動

BLOGOS編集部
そうだ、最近こんな素敵なツイートをもらったんですよ。 
 
あっきー
@akki_web
なんだろこの新しいと言われてるけど新しいとは少し違うと感じるもやもや感。声はいわゆるオタクの世界の話だったがvoicyさんがお洒落にパッケージすることで、表立って声好きを公言できる場を作った。それが著名人パワーによりさらに加速している、そんなイメージでしょうか。すごいなぁ。 #voicy

15:50 - 2018年2月7日
18
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田野:声優ファンのことですかね? 

緒方:かもしれません。そういう風に感じてもらえるのも嬉しいし、あと、もう1個、これも感動しました。 
 
かつどん
@oomori_1chooooo
ブログやTwitterを追う通勤からVoicy通勤に変えたら車窓を見るようになった。富士山初めて見えた。

8:15 - 2018年2月5日
30
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田野:確かに通勤中は画面見てますからね。 

緒方:Voicyはラジオの人たちにも一緒にやりたいなと思ってもらいたいな。僕らはやりたいことの5%しかできてないのにすぐ粗探しするから~。 

田野:音質なんて、音声編集ソフトのプラグインであっという間に直せるんですよ。その一手間をかけないことにイライラしてしまう(笑)。 

緒方:今はYouTuberが活躍していて、演者側がディレクターを雇うというモデルに変わってきていています。どんどん演者が自分で考えて主導権を握ってきています。編集者は自分がパフォームして人から評価を受けていないわりに、ディレクションをするという旧来の形は今後変わってくると思うんです。そういう人の仕事がなくなるから反対し続けるんだろうなー。 

田野:うわ(苦笑) 

緒方:田野さんみたいな人がいるから、いけないんですよ(笑)。 

そんなタノヘンのモットーは『迷ったら面白い方を選ぶ』
緒方CEOの座右の銘は『人生、迷ったら面白い方を行く』
あらそっくり。 

面白いものが好きという同じ方向を向いている同士、いつか手に手をとって同じ道を歩く日がくるかもしれません。 

プロフィール
緒方憲太郎 大阪大学基礎工学部卒業。公認会計士。2006年に新日本監査法人に入社し、その後Ernst & Young NewYork、トーマツベンチャーサポートを経てVoicy代表取締役CEO。
・Voicy
・Twitter(@ogatakentaro)

田野幸伸 BLOGOS編集長。1977年東京生まれ。明治大学政治経済学部経済学科卒業。ラジオディレクター・ニコニコ動画運営などを経て2010年に株式会社livedoor入社。2016年10月より現職。
・田野幸伸の記事一覧
・Twitter(@tanocchi)
(記事引用)

ボイシーサイト https://voicy.jp/











天孫降臨「古事記 -712年:太安万侶 -」言霊
はるか昔のお話です。何もないおぼろげな宇宙に天と地の兆しが起こりました。

天の彼方にある清らかな場所、高天原に天之御中主神、高御産巣日神、国之常立

神、豊雲野神など多くの神がお生まれになり身を隠されました。

大国主命(オホクニヌシ)より譲り受けた豊葦原国を、天照大御神(アマテラス)はかねてからのお考えの通り、ご長男の天之忍穂耳命(アメノオシホミミ)に治めさせようとなさいましたが、当の天之忍穂耳命は自分よりも若く生命力に溢れた息子の番能邇邇芸命(ホノニニギ)を推薦なさいました。天照大御神はご自身にとって孫である邇邇芸命を下界に降ろすことにお決めになりました。
さて、その邇邇芸命が天下りなさろうとした時のことです。

天下りの道が八方に分かれる岐路に、上は天界の高天原を、下は豊葦原国を、燦々と照らす見知らぬ神がいらっしゃいました。
そこで天照大御神と高木神(高御産巣日神)は、以前天岩戸で舞をなさった女神の天宇受賣命(アマノウズメ)にこう命じられました。
「貴女はか弱い女性の身ですが、対峙する神と真っ向から向き合い、勝つことが出来る神です。貴女一人でその神の元へ行き、『天照大御神の御子孫が天下りする道を塞ぐ貴方は何者か』と問うて来てください」
命を受けた天宇受賣命が、その道の岐路に向かい、尋ねます。
「こちらの道は天照大御神の御子孫の邇邇芸命が天下りなさいます。その道の岐路にお立ちになられた貴方様はどこの神であらせられますか?」
すると、
「私は国の神で、猿田毗古神(サルタビコノカミ)と申します。こちらに居りますのは、天照大御神の御子孫が天下りなさると聞きましたので、道案内を務めさせて頂きたく、参りました」
かの神はこうお答えになりました。

この後、天児屋命(アメノコヤネ)、布刀玉命(フトダマ)、天宇受賣命、伊斯許理度売命(イシコリドメ)、玉祖命(タマノオヤ)、合わせて五つの技術の神を伴って、邇邇芸命の天孫降臨は行われました。
古事記より天孫降臨
その際に、あの天岩戸から天照大御神を招き出した八尺勾玉と八咫鏡、八俣の大蛇より現れた天叢雲剣の三種の神宝、さらに天岩戸の折に活躍された思兼神(オモカネカミ)、手力男神(タヂカラヲ)、天石門別神(アメノイワトワケ)の三神を副え、天照大御神は、
「この鏡は、私の霊魂そのものとし、私に仕えるが如く、心身共に清らかにして祀りなさい。そして、思兼神は政(まつりごと)の実務に務めなさい」
と命じられました。

こうして天照大御神と高木神の命により、天孫であらせられる邇邇芸命は、高天原の岩の神座から離れ、天空に重なる幾重もの雲を押し分けて、威風堂々と天下りの道をお進みになりました。高天原と豊葦原国を結ぶ天の浮橋で荘厳な儀式を行われ、筑紫の日向(宮崎県)の高千穂の霊峰にお降りになられたのでした。

その時、天忍日命(アメノオシヒ)、天津久米命(アマツクメ)の二神は、たくさんの矢を盛った聖なる大きな靫(ゆき。矢を携帯する用の筒状の容器)を背負い、柄頭が槌状の頭椎の太刀を腰に帯びて、櫨(はぜ)の木で出来た聖なる弓を手に、狩り矢を手挟んで、邇邇芸命の先導をなさいました。
kuniumi


地上に降り立たれた邇邇芸命は、
「ここは唐国(朝鮮)に面し、笠沙の岬(鹿児島県)に真っ直ぐ通じていて、朝日が直に注がれ、夕日も照り輝く国だ。実によき地だ」
とお褒めになり、地の深い底に大きな宮柱を打ち立て、天高く千木をそびえさせ、豪壮な御殿をお造りになられました。

この天孫の邇邇芸命と知恵の神である思兼神は、伊勢神宮の内宮を祀っています。外宮には食物神の登由宇気神(トヨウケ)を祀り、櫛石窓神(クシイワマド)又は豊石窓神(トヨイワマド)とも別名を持つ天石門別神は御門の守護神となっています。力の神であります手力男神は佐那県(さなのあがた。三重県佐那郡)に鎮座されています。

因みに、邇邇芸命と共に天下りされた、天児屋命は朝廷の祭祀を担う中臣の連(むらじ)らの、布刀玉命は神事の道具を作る忌部の首(おびと)らの、天宇受賣命は神楽を奉仕する猿女の君らの、伊斯許理度売命は鏡を作る作鏡(かがみつくり)の連らの、玉祖命は玉類を作る玉の祖(おや)の連らの祖先でありました。
又、邇邇芸命の警備をなされた天忍日命は朝廷の軍事を司る大伴の連らの祖先、天津久米命は親衛隊を組織する久米の直(あたえ)らの祖先にあたります。

邇邇芸命は天宇受賣命にこう仰られました。
「貴女は、案内してくれた猿田毗古神の名前を明らかにしてくれました。貴女が猿田毗古神を送って行ってあげてください。そして、その名を貴女が譲り受けるといいでしょう」
このように神楽を奉仕する女性が『猿女の君』と呼ばれるのは、猿田毗古神の名から由来しているのでした。

猿田毘古神(サルタビコノカミ)の名を受け継いで猿女君(サルメノキミ)となられた天宇受賣命(アメノウズメ)には、このようなお話があります。

猿田毘古神が伊勢の阿耶訶(あざか)にいらっしゃって、漁りをなさった時のこと。
比良夫貝(ひらぶがい)が猿田毘古神の手を挟んで海の中へ引き入れ、猿田毘古神を溺れさせてしまったことがありました。
猿田毘古神が海底(うなそこ)に沈んでいった時の名を底どく御魂と言い、海水が逆巻き、水底から泡が立つ時の名をつぶ立つ御魂と言い、水面で泡が弾けた時の名を泡咲く御魂と言います。

天宇受賣命は猿田毘古神を送り届けて帰ってくると、直ちに鰭(ひれ)の広物、鰭の狭物を追い集めて、
「汝らは天つ神の御子にお仕えするか」
と、問い質しました。
魚達はみな口を揃え「お仕え致します」と答えましたが、海鼠(こ)だけは硬く口を閉ざしていました。

「この口や答へぬ口」
古事記より猿女

天宇受賣命は手早く紐飾りの付いた懐刀を抜き放ち、海鼠の口を抉り割いて仕舞われました。
海鼠の口が横に裂けているのには、このような謂れがあるのです。

そうして、御代ごとに島で採れた新鮮な速贄(はやにえ)を朝廷に献上する時には、猿女君等にも分け与えるようになったのでした。

※鰭の広物、鰭の狭物……大小様々な魚


名前 和術師担当
サイト運営・物語執筆好きな時代弥生時代 / 江戸時代(幕末長州藩士とか)好きな物語古事記「天の浮き橋」しっぺい太郎の猿神退治影響
ブルーノ・ムナーリ / 琵琶法師 / 吉田松陰URL
Twitter(@tonao)和術師日本の文化に心を打たれて言霊を制作。 和歌や短歌に興味津々!!職業は、DTPディレクター。WEBも少々出来ます。趣味は読書でアレックス・シアラーと司馬遼太郎を愛読。刺激を求めて神社仏閣にしばしば出向く
(記事引用)





古事記と日本書紀はどうして書かれたか
歴史 サイト~
 古事記と日本書紀。共に7世紀に天武天皇の命令によって編纂された書物であることは学校などで習っていますね。でも、なんでわざわざ2つに分ける必要があったのでしょうか?そもそも古事記と日本書紀に違いはあるのでしょうか?

画像 日本書紀
Nihonshoki_

 まず、古事記ですがこれは天皇家による支配を正当化するために国内向けに書かれています。ですから、日本人に読みやすいように漢文体を組み替えた「日本漢文体」というのが使われていますよ。そもそも、古事記以前にも歴史書として500年代に編纂された「帝記」といわれる天皇の系譜が書かれたものや「旧辞(きゅうじ)」という伝承を記した書物はあったのですが、修正に次ぐ修正で歴史書としての真実味は失われていっていました。その他の歴史書も焼けてなくなってしまったりしていましたから「正しい歴史書を後世に残さなければならない!」という理由で天武天皇は歴史書の編纂を命じたのです。

 ・・・というのは、表向きの理由。本当は、もっと天皇による支配に正当性を持たせよう。都合の悪いところは消してしまえっていうのが本来の目的!?だったのでは?と一般的にはいわれています。

 ですから、天皇の先祖はアマテラスという女神ということになっています。日本列島を生んだのはイザナキとイザナミという神。そのイザナキの左目から生まれたのがアマテラス。そして、その子孫が初代天皇の神武天皇ってことになっているんです。日本を造った神様の左目から生まれたアマテラスが天皇の先祖なのだから天皇による支配は当然ってことですね。
Nihonshoki_tanaka_version

 さて、この古事記は「帝記」「旧辞」らを参考にし天武天皇の命によって編纂され(この最初の編纂は誰だかわかっていません)稗田阿礼(ひえだのあれ)というとんでもなく記憶力のいい人物に暗記させました。この稗田阿礼という人物は男か女かもわかっていません。
 古事記の序文に「一人の舎人(とねり・役職)がおりました。その氏は稗田、名は阿礼。年は28歳。生まれつき聡明な人で、一度目に触れたものは即座に暗誦し一度聞いた話は心に留めて忘れることがありません。そこで天武天皇は阿礼に仰せ下されて、「帝皇の日継」と「先代の旧辞」を誦み習わせなさったのです。」と書かれているだけです。もしかしたら、稗田阿礼という人物は記憶力が抜群だったのですでに焼けてなくなってしまった書物なども頭に入っており、編纂に大きくかかわっていた可能性はありますね。

 その後、天武天皇が突然亡くなってしまったため、古事記の編纂は中断。およそ30年経った711年に元明天皇によって再開され、稗田阿礼に口述させた内容を太安万侶(おおのやすまろ)によって執記、編纂させたのでした。

 一方の日本書紀。こちらも天武天皇によって命じられ、川島皇子(かわしまのみこ)ら6名の皇族、6名の官人らによって681年から編纂がはじまります。古事記の編纂はすでに始まっていましたので稗田阿礼がまとめた資料をもとに編纂は進められたようです。

 古事記が全3巻であるのに対して日本書紀は30巻+系図1巻という多さ!古事記の完成が712年ですが、その頃、まだ日本書紀は完成していません。日本書紀の内容を見ると藤原氏の地位の高さが強調されている部分がありますので藤原氏をはじめとする有力者の意見などが、まぁ~うるさかったんでしょうね。完成したのは720年になります。

 天武天皇の子である舎人親王(とねりしんのう)によってまとめられ、やっと完成です。
 
  古事記 日本書紀 
発起人 天武天皇 天武天皇 
完成年 712年 720年 
巻数 全3巻 全30巻+系図1巻 
編纂者 稗田阿礼が語り、太安万侶が筆記、編纂 皇族、官人らが中心となって編纂。舎人親王により完成 
特徴 天皇家の歴史を中心として物語風に書かれている 年代を追って出来事を記す編年体 
収録時期 天地初発から推古天皇まで 天地開闢から持統天皇まで 
表記 日本漢文体 漢文体 
目的 天皇家を中心とする国家統一の正当性(国内向け) 国外に国家としての日本のアピール(国外向け) 

 以上のように書かれている内容は重複する部分があるものの古事記と日本書紀には結構な違いがあるわけですね。さらに古事記は物語風に書かれているためドラマチックに感じるところもあるのですが、日本書紀は結構淡々と語られるような感じで書かれています。

 大地が生まれ、神々が登場するくだりなどは古事記では、こと細かに書かれているのに対して日本書紀では、ダイジェスト版のような感じで駆け足紹介。また、内容としても三柱の神を古事記では性別のない独り神としているのですが、日本書紀では男神とされているなど、細かな点での相違はいくつかみられます。

 また、古事記の参考文献は「帝紀」と「旧辞」だけですが、日本書紀では豪族の墓記、政府の公的記録、個人の覚書、手記、百済の文献など多くの資料を参考として編纂されたようです。

 学校では、完成の年と編纂者、表記や目的くらいしか教わることはないと思いますが、実際に現代語訳されたものを読んでみると皆さんゲームや漫画でおなじみのイザナキ、イザナミ、アマテラス、スサノオ、ツクヨミ、クシダナ、ヤマタノオロチ、ヤマトタケルなどが登場し、物語としても面白いですよ。
(記事引用)

ウイキペディアによる「日本書紀」
『日本書紀』は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。

記紀編纂の要因
乙巳の変(いっしのへん、おっしのへん)で中大兄皇子(天智天皇)は蘇我入鹿を暗殺する。 これに憤慨した蘇我蝦夷は大邸宅に火をかけ自害した。 この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上する。 『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ、「国記」は難を逃れ中大兄皇子(天智天皇)に献上されたとあるが、共に現存しない。 献上されたことが事実であったとしても、天智天皇は白村江の戦いにて唐と新羅連合に敗北しており、記紀編纂の余裕はなかったと推測される。
既に諸家の帝紀及本辭(旧辞)には虚実が加えられ始めていた。そのために『天皇記』や焼けて欠けてしまった「国記」に代わる『古事記』や『日本書紀』の編纂が、天智天皇の弟である天武天皇の命により行われる。
まずは28歳の稗田阿礼の記憶と帝紀及本辭(旧辞)など数多くの文献を元に、『古事記』が編纂された。その後に、焼けて欠けた歴史書や朝廷の書庫以外に存在した歴史書や伝聞を元に、さらに『日本書紀』が編纂された。

なお、近年になって笹川尚紀が持統天皇の実弟である建皇子に関する記事に関する矛盾から、『日本書紀』の編纂開始は持統天皇の崩御後であり、天武天皇が川島皇子に命じて編纂された史料は『日本書紀』の原史料の1つであったとする説を出している。
なお、『続日本紀』和銅2年(714年)2月戊戌条に記された詔によって紀清人と三宅藤麻呂が「国史」の撰に加わったとする記事が存在しているが、『続日本紀』文中に登場するもう一つの「国史」登場記事である延暦9年(790年)7月辛巳条に記された「国史」が『日本書紀』を指し、かつ『続日本紀』前半部分の編纂の中心人物であった菅野真道本人に関する内容であることから、菅野真道が「国史」=『日本書紀』という認識で『続日本紀』を編纂していたと捉え、紀・三宅の両名が舎人親王の下で『日本書紀』の編纂に参加したことを示す記事であると考えられている。

『日本書紀』とする説
この説を支持する根拠は、古写本と奈良時代・平安時代初期のように成立時期に近い時代の史料がみな『日本書紀』と記していることを重視する点である。例えば、『弘仁私記』序、『釈日本紀』引用の「延喜講記」などには『日本書紀』との記述がみられる。初出例は『令集解』所引の「古記」とされる。「古記」は天平10年(738年)の成立とされる。『書紀』が参考にした中国史書は、『漢書』・『後漢書』にて見られる体裁のように、全体を「書」としその一部に「紀」を持つ体裁をとる。そこで、この説の論者は、現存する『書紀』は中国の史書における体裁をあてはめると『日本書』の「紀」にあたるとして、『日本書紀』と名づけられたと推測する。
神田喜一郎は書名を本来『日本書』であったとする。『日本書』という題名の下に小字で「紀」としるし、これが『日本書』の「紀」であることを表示したが、伝写を経る間に『日本書紀』となってしまったとする。
なお、平安時代初期には『続日本紀』と対比させる意味で、『前日本紀』と称している事例もある(『日本後紀』延暦16年2月乙巳条所引同日付詔)
(ウイキペディア)


サウジアラビア国立博物館蔵 国内展示
移牧民や遊牧民が墓や祭祀施設に立てた『人形石柱』。こうした石柱・石板などはアラビア半島各地に残っている  前3500~前2500年頃 カルヤト・アルファーウ出土 サウジアラビア国立博物館蔵

初来日! イスラーム発祥の地「サウジアラビア」の絢爛たる「至宝」
執筆者:フォーサイト編集部 2018年2月13日
アラビア半島は、古代から重要な交易路が張り巡らされ、諸文明が繁栄してきた。このアラビア半島の大部分を占めるサウジアラビア王国は、アラビア語で「サウード(家)によるアラブ(の王国)」という意味を持つ専制君主国。マッカ(メッカ)とマディーナ(メディナ)というイスラーム教の2大聖地を擁するイスラーム世界の中心的存在だ。

アラビアの道-サウジアラビア王国の至宝 / 表慶館     2018年1月23日(火) ~ 2018年3月18日(日)
  
人形石柱 カルヤト・アルカァファ出土 前3500~前2500年頃 サウジアラビア国立博物館蔵
古代より交易路が張り巡らされ、人々と諸文明が行き交ったアラビア半島。
本展では、その躍動的な歴史と文化を示すサウジアラビア王国の至宝を日本で初めて公開します。100万年以上前にさかのぼるアジア最初の石器、5000年前に砂漠に立てられた人形石柱、ヘレニズム時代やローマ時代に賑わった古代都市からの出土品、イスラームの聖地マッカ(メッカ)のカァバ神殿で17世紀に使われた扉、サウジアラビア初代国王の遺品(20世紀)など、400件以上の貴重な文化財をとおして、アラビア半島の知られざる歴史をお楽しみください。
(記事引用)






「神洗神社」の由来
かみあらい、といっても地元民でさえ知らない人が殆どで、ましてやその場所さえ知らない。
それもそうで写真を見る限りでは、古色蒼然とした祠づくりで、それらしいが、40年前に修理してきれいにした。それ以前では朽ち果てて痕跡すらなかったという。

神社本体の格式とか歴史的価値とか、それらは物理的な社家とか境内面積とは本来無関係だが、日本の神社仏閣を見る限り、「広大な敷地と見事な建築様式」とそれが一体化し評価されるようだ。

比較にはならないがエジプト、ピラミットの巨大さは、それだけで崇めたいという気持ちになる。

そうした意味からするとこの「神洗神社」の規模はコンマ数パーセント程度しかならないが、調べれば調べるほどに格式巨大さがわかってくる。如何せん、小ささゆえの存在感が、知名度を低くしている。

この度の、オリンピックサーフィン会場としての「釣ヶ崎」志田下ポイントは、そのむかし、「タマヨリ姫」御神体が打ち上げられた浜辺として伝承されている。

古来より神が拠り、そこにヒトが棲むという原始人間の物語が、この場所にはあった。
その話しを、この近代的コンテンツのパソコンで綴るという因果は、日本ならではの手法であり、それができることを誇りにおもう。

伝承説話.1

釣ヶ崎(つるがさき)、その奥に控える「御神体」、すべての神事はここからはじまった。その歴史は「延喜式神名帳」によれば2600年前にさかのぼるという。 

あかる(珠)伝説

古代の人々は海から寄せられた石に霊力を感じ、これを光り輝く神として祀っていました。

IMG_9947

九十九里浜地方に見られるこのような寄石伝説が一宮では明(あか)る玉(珠)の伝説として多く伝えられています。

 一宮に汐汲みの翁がいて、ある早朝海辺で汐を汲んでいると東風(こち)が吹いて波間に光る12個の明(あか)る玉が現れた翁が持ち帰ると夜になってピカピカ光を放つのであわてて玉前神社の神庫に納めたという。

8月12日の晩に一宮の五兵衛という男に夢のお告げがあり、次の朝弟と海に行くと、東風が吹いて光る錦の袋が流れてきた兄弟はその袋を拾い上げ持ち帰って中を見ると、袋の中に光る珠が入っていたので神社を建て、その珠を納め、風袋(ふうたい)姓を名乗ったというその珠が12個あったともいい、珠を納めた神社が玉前神社であったともいわれている。

玉前神社のご例祭で12社の神輿が釣ヶ崎の海辺に会合するのはこれら12個の珠の説によるものともいわれ、このような12個の珠が2個の説、1顆の説もあります。
※1) 玉の信仰 (玉前神社~ HP  )


おおよそ1300年前の、その神話世界が、こんにちまで伝承され、そして継承維持されていることは稀なことだ。  

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その祭りを支える石文に刻印された外氏子の名簿名



 








上総国の歴史変遷 
伝承説話.2

上総権介広常(かずさごんのすけひろつね)自著ブログ~
826年、天長3年に初めて3国の太守に任じられたのは、賀陽親王(常陸太守)、仲野親王(上総太守)、 葛井親王(上野太守)で、いずれも桓武天皇の皇子である。
※仲野親王(なかのしんのう)は、平安時代初期から前期にかけての皇族。桓武天皇の第十二皇子。宇多天皇の外祖父。官位は二品・大宰帥、贈一品・太政大臣。
上総広常(かずさ ひろつね)は平安時代末期の武将、豪族。上総権介上総常澄の八男(嫡男)。上総介広常 (かずさのすけひろつね)の呼称が広く用いられる。
房総平氏惣領家頭首であり、東国最大の勢力であった広常の加担が源頼朝挙兵の成功を決定付けたとも言われる。上総氏は上総介あるいは上総権介(かずさごんのすけ)として上総・下総二ヶ国に所領を持ち、大きな勢力を有していた。上総は親王任国であるため、介が実質的な国府の長である。

甲冑 「萌黄縅胴丸」(もえぎおどしどうまる)一宮町指定文化財 有形工芸品
かつて上総権介広常が源頼朝の東国泰平を祈願した願文をそえ、玉前神社に甲冑一式を寄進した(戦国末期の戦乱により焼失)
故事に因み、天保14年(1843)、一宮藩主加納久徴が寄進したものと伝えられる。

その縁で長い間、甲冑「萌黄縅胴丸」を保管していたのが上総国一宮玉前神社である。

『延喜式神名帳』には、以下に示す大社1座1社・小社4座4社の計5座5社が記載されている。

大社1社は、名神大社である。
埴生郡
玉前神社 (長生郡一宮町一宮) - 名神大社

長柄郡
橘神社 (現 橘樹神社、茂原市本納)

海上郡
島穴神社 (市原市島野)
姉埼神社 (市原市姉崎)

望陀郡
飫富神社 (現 飽富神社、袖ケ浦市飯富)

総社・一宮以下
総社 戸隠神社 (市原市惣社) - 鎮座地名が「惣社」であることから、総社であったと推定されるが未詳
一宮:玉前神社
二宮:橘樹神社
三宮:三之宮神社
このほか、市原市八幡の飯香岡八幡宮が「総社八幡」であった。
中世以降、飯香岡八幡宮が総社として機能した。

学問的見地で捉えた上総地方玉前神社
文化政策の基礎知識――国は文化にどう関わるのか?
垣内恵美子 / 文化政策 SYNODOS 2015.05.15 Fri
日本に文化政策はあるのか。そういう疑問をお持ちの方も多いと思う。文化は大切であるという一般論には多くの方が賛同されるだろうが、実際の範囲や価値となると人によって考え方に大きく違いがある。
 
また、文化の多くは、必ずしも市場で成り立つわけではなく、何らかの支援が必要だということになるが、一方で、自由な表現である文化活動にそもそも支援が必要なのかという疑問もある。芸術家はハングリーでなければならない、というわけだ。
 
また、支援が必要であるとしても、誰の負担で、どこまで、どのようなかたちで支援するべきか、といった様々な論点が出てくる。ここでは、日本の文化政策に関し、実際に何を目指して、どのようなことを、誰が行っているのかを簡単に紹介し、課題や方向性について述べたい。 
 
わが国における文化政策の歩み
 
公共政策とは、国や地方公共団体などの政府機関が、なんからの政策目的をもって行う行為である(もちろん、何もしないという選択肢も含まれるが)。文化政策もまた、文化を守り育て、次世代に継承していくことを目的とした公共政策であるといえる。
 
日本において、国による文化政策がもっとも強力に行われたのは、おそらく明治維新の後であろう。
当時、植民地化を避け、西洋列強諸国にキャッチアップするため、西洋文明の導入が急ピッチで進められた。文明開化と呼ばれるこの動きのなかで、西洋にルーツをもつ芸術もまた積極的に取り入れられた。現在使われている「文化」は「文明開化」に由来する造語であるとも言われている。実際、この影響がいかに大きかったかは、今日ほとんどの日本人が西洋音階を理解し、30を超えるプロフェッショナルオーケストラが日本で活動していることからもわかる。
 
一方で、開国後待ったなしで行わなければならなかったのは、固有の伝統文化の保護だった。優れた美術品の海外流出に歯止めをかけるために、守るべきものをリストアップすることから始まった文化財保護は、廃仏毀釈によって荒廃した寺院などへの支援、史跡や天然記念物の保護といった独自の展開を遂げ、現在の文化財保護法とその体制につながっていく。
 
第二次世界大戦後、日本は、平和で文化的な国家の建設をスローガンに掲げたが、実際には経済的な発展に邁進した。戦前の文化に対する国家検閲の反省もあいまって、文化に関わる政策はきわめて控えめなものであった。それでも、経済社会の大きな変化のなかで、人々の意識も大きく変わっていった。
 
モノの豊かさよりも心の豊かさを求める人々が多くなるのは1980年代以降であり、各地にミュージアムや劇場などの文化施設が地方自治体によって建設された。ハコモノ批判も根強いものの、公の施設を民間の能力も活用して運営し、住民サービスの向上や経費縮減を目指す「指定管理者制度」の導入を契機に、効率的な運営の試みが進んでいる。指定管理者制度については、現場での批判も強いが、住民サービスの視点が明確化されたことは、今後、文化施設が地域連携を進める上で重要なことであろう。
 
一方、文化財保護に関しては、戦前の仕組みを統合して、世界的にも先進的な制度を構築した(文化財保護法:1950年制定)。例えば歌や踊りなどの無形文化財を保護するために、「わざ」を体現している人をいわゆる人間国宝(保持者)とすることで、そのわざを次世代に繋げようとした。

この仕組みは、その後の無形遺産条約の成立にも大きく貢献した。また、文化財は現状変更を許さない保存が基本だが、近年では、歴史的な建物について、外観を中心に保存し、建物内での人々の生活や生業と折り合いをつけながら、文化財として保護する仕組みも出来てきた(重要伝統的建造物群保存地区など)。 
 
文化芸術振興基本法による政策対象の明確化
 
公共政策には、一般に、政策目的を達成するため、規制や助成、指導、直接給付(例えば国立の劇場やミュージアムでサービスを提供するなど)といった様々なツールが用いられるが、最強ツールは法律である。
 
従来、文化政策の分野では、著作権法や文化財保護法などの個別法があったが、とくに芸術文化活動の振興に関しては財政的な支援で対応してきた。しかしながら、例えば教育政策に教育基本法があるように、文化政策にも、目的や対象分野、国や地方公共団体の役割といったことを明らかにする基本法の必要性が指摘されていた。
 
このような基本法が成立するのは、21世紀に入ってからである(文化芸術振興基本法、2001年)。この法律は自民党から共産党まで、超党派の議員連盟が中心となって制定され、ここに至り、政策としてのかたちを整えることになった。
 
とはいえ、この基本法は、権利義務の付与といった強力な施策を盛り込むのではなく、文化振興の重要性を社会的に認知する宣言法としての性格が強い(文化庁予算は当時若干増加したが)。ただ、国が基本法をつくったことにより、地方自治体が文化振興条例をつくりやすくなり、また文化政策を住民や関係者に説明しやすくなったことは実感されている。
 
また、この基本法の特筆すべき点の一つは、従来の行政分野を踏襲したかたちではあっても、政策対象となる文化の分野を、芸術やメディア芸術、文化財、伝統芸能といった区分で例示したことで、これらの分野に限定されるわけではないが、政策対象の「文化」の大まかな範囲が明示されたことにあるといえる。 
 
文化庁(旧名称)は何をしているのか?
 
国レベルで文化政策を担う機関は、文部科学省の外局にあたる文化庁で、教育政策と一体的に実施するという体制になっている。ちなみに、例えばフランスでは文化・コミュニケーション省が中心であり、お隣の韓国では、文化財保護とスポーツ観光を一体的に所掌する機関(文化体育観光部)によるなど、それぞれの国で違いがある。
 
文化庁リンクの所掌範囲は、大きく分けて、文化財保護、芸術文化振興(宗務行政や国語の振興を含む)、インフラ整備としての著作権保護となろうが、実際の予算や行政事務のボリュームから言えば、先に述べた明治近代化の時期の動きにも連動して、大きく二つに分けられるだろう。
 
一つは日本の伝統文化の保存継承を中心とする文化財保護の分野であり、文化財指定や修復などの助成、史跡買い上げといったことが含まれる。もう一つは主として、明治期に導入された西洋芸術を含む芸術文化振興で、ときに現代舞台芸術とも言われるオペラやオーケストラ、バレエ、演劇などの公演や、ミュージアムへの助成、芸術家支援などである。
 
国立の文化施設の運営も大きな部分を占める。例えば新国立劇場は、現代舞台芸術を公演する劇場だが、歌舞伎や能、文楽といった伝統芸能を公演するのは、ここ国立劇場である。いずれも国が建設した劇場だが、それぞれ必要とされる設備や装置が異なり、同一の劇場で公演することは難しく、管理運営主体も分かれている。
 
この他、文化庁の施策のなかで特筆すべきは、文化勲章や文化功労者といったかたちで社会的にその業績を認知する顕彰制度であろう。芸術家の海外派遣などの支援とともに、人材育成の観点からも重要なものである。 
 
日本の文化予算は多いのか、少ないのか?
 
それでは、今現在、どのくらいの予算がこの文化政策のために使われているのか。文化振興を目的とする文化庁予算は、例年、約1000億円、国の一般会計予算の約0.1%程度で推移している。2014年度予算では、文化財保護の予算が4割強、国立の美術館・博物館などの文化施設関係で約3割、芸術文化の振興が約2割である。
 
単純に人口で割れば、国民一人あたり年間800円強となるが、これは少ないのだろうか。ここでよく国際比較がなされるが、国によって考え方も仕組みも随分違うため、一概に比較するのは難しい。アメリカのように民間主導で、多数のNPO法人の活動や寄付に対する税制優遇措置を中心に組み立てる国もあれば、フランスのように中央政府が大きな役割を果たし、国家予算の1%を充当するという国もある。とはいえ、日本は、その国力に比して少ないことは否めない。
 
一方、文化庁以外にも多くの省庁で、文化への支援がなされている。地方振興策の一環として総務省がこれまで多くの支援を行ってきたが、近年は、まちづくり(国土交通省)や、観光振興(観光庁)などで積極的な施策が行われており、様々な政策分野で文化の重要性が高まっていることを反映しているといえる。
 
国に加えて、地方自治体も多くの予算を文化振興に当てている。2012年時点で、約3000億円強、文化庁予算の3倍にのぼる。ただ、ピークだったのは、バブルが弾けた後の1990年代で、9000億円を超えていた。このときに比べれば3分の1になったわけだ。
 
地方自治体の文化予算は、国と異なり、文化財関連は少なく、主に芸術文化経費で、なかでも1700を超えるホールや、4000を超える博物館など、文化施設の建設維持管理である。市町村数が約1700程度であることを考えれば、全国どこに行ってもなんらかの文化施設があるわけで、文化活動のインフラは整ったと言ってもよいだろう。これらをどのように活用して、住民サービスや地域の活性化につなげていくのかが喫緊の課題である。2012年にはいわゆる劇場法リンクも成立し、劇場のあり方とともに、人材養成や地域連携に向けた方策が示されている。
 
近年の大きな変化は、国や地方自治体だけでなく、文化を支える民間の存在が大きくなったことであろう。企業・企業財団による芸術文化支援(企業メセナ)は、音楽や美術分野を中心に幅広く行われ、総支援額は約950億円と推定されている。
 
また、阪神淡路大震災を契機として成立した特定非営利活動促進法に基づくNPO法人のうち、学術、文化、芸術またはスポーツの振興を図る活動を行うものは約17000、全体の3割を超える。法人改革と合わせて、寄付がしやすい税制も導入されつつあるなか、先にも述べたアメリカの事例が示すように、寄付へのインセンティブや、文化支援が行いやすくなる制度づくりも、文化政策の重要な政策課題である。

文化の潜在的な可能性と文化政策領域の拡大
 
これまで述べた狭義の文化政策に加え、先に述べたように、近年はまちづくりや観光に関連する各種政策の重要性が高まっている。グローバリゼーションと海外への生産拠点の移動は世界的な潮流だが、とくに地方経済に与える影響は極めて大きい。人口減少、高齢化のなかで、工場誘致や公共事業だけでなく、どのように雇用を維持し、創出するのかは喫緊の課題である。
 
一つの大きな可能性は、国際的にも成長産業である観光産業である。日本の長い歴史のなかで育まれた生活文化を含む伝統文化、そして各地に残る文化財は、国際的競争力もあり、観光の大きな魅力となりうる。
 
2度目のオリンピックに向けて、文化プログラムの重要性も認識されるようになった。しかし、振り返ってみれば、高度経済成長期、初めてのオリンピックを迎えた東京では、短時間で安価に物流の改善をはかるため、重要文化財でもある日本橋の上に高速道路を架けた。このことが後に大きな論争を呼んだのは周知の通りだが、当時の資料からは、この建設に反対する人はほぼ皆無だったことがわかる。
 
いったん失われた景観を取り戻すにはさらに大きなコストがかかる。こういった事例は全国で枚挙に暇がない。文化的景観や歴史的町並みを、住民サービスとともに観光資源として活用しようという熱気を強く感じるようになった昨今だが、オリンピックの後に何を残していくのか(オリンピック・レガシー)まで考えた対応が必要だろう。
 
一方で、芸術活動への期待も大きい。金沢21世紀美術館のような現代アートの持つ誘客力やイノベーションに期待する声もある。最近では文化芸術の「創造性」を活かして産業振興や地域再生につなげようとする、「創造都市」といった概念も語られるようになった。
 
 文化創造都市と創造産業
 
素晴らしいウォーターフロント、トレンディなバーやレストラン、寛げるカフェ、そして豊かな芸術文化など、都市が提供する文化的な環境が人を惹きつけるという認識が、国際的にも高まっている。クリエイティブ・クラスと呼ばれる、個人の才能を元に経済的な豊かさをもたらす職業人(建築、芸術、ビジネス、法律など)を惹きつけることができる都市こそが発展できるといった主張もある。
 
一方で、個人の創造力に大きく依拠する産業を、成長セクターとして育成することに力を入れる事例も出てきた。英国では、広告や芸術、デザイン、ファッション、映画・映像、コンピューターサービスといった分野がこれら創造産業であるとされ、実際、創造産業が粗付加価値の5.2%を産出、総労働者数の5.6%にあたる170万人の雇用を創出したと推計されている。
 
国際的な都市間競争が激化するなか、とくに産業空洞化や経済衰退に直面する欧米諸国では、文化や芸術を含め、個人の創造性に依拠する新たな成長産業への期待は大きく、EU産業政策の主要な対象分野の一つとなり、UNESCOにおいても、創造都市ネットワークの構築も始まっている。
 
文化と創造性をめぐるこれら魅力的な考え方は、しかしながら、その定義さえ統一されておらず、客観的な検証はこれからだ。そもそも、産業構造の高度化に伴って、全産業で創造性やイノベーションの重要性が高まるなか、どの産業、職業が創造的なのかといった線引きは現実にはかなり難しい。
 
また、統計データによればやや違った様相も見えてくる。少なくとも日本では、21世紀初頭において全産業の生産額や粗付加価が微増するなか、いわゆる創造産業は縮小した。また、中核をなす動画やゲームなどのコンテンツ産業の市場規模も直近で約12兆円、成長しているとは言い難い。
 
さらに、情報系のサービスは大都市に集中しており、とりわけインターネット関連で圧倒的なシェアを占めるのは東京である。また、市場規模が大きなファッション産業はすでに製造拠点の多くが海外に移され、伝統工芸産業はといえば、ここ20年で生産額、従事者数ともに6割以上減少した。芸術家も圧倒的に都市部に集中しており、大きな経済と市場(仕事)のある所に集まっていることがわかっている。
 
文化と経済を結びつける考え方は必ずしも新しいものではなく、これまでもいろいろなかたちで試みられてきた。かつての基幹産業を代替するような新産業を育成するのは決して容易ではないものの、生活の質の向上や、地域コミュニティの一体感の醸成などといった社会的な効果は大きく評価されている。
 
文化の社会的意義とベネフィット
 
文化や芸術の中心的な価値は、市場で取引しにくい。基礎科学や研究などと同様、すぐにお金にならないどころか、長期にわたり継続した投資が必要であり、また、その価値を市場価値に変えていくためのノウハウや仕組みも必要である。しかし、ここにこそ文化政策の本来的な役割があると思う。そして、この役割は変化しているように思われる。
 
文化予算は到底十分とはいえない一方で、各種世論調査からは、多くの人々が文化を大切に思い、誇りに思っていることがうかがわれる。このギャップはなんだろうか。この素朴な疑問に応えるべく、多くの調査を行った結果わかってきたのは、まず、文化を守り育てることに対しては、多くの人々が一定程度賛同するということだ。
 
その理由は、市場ではなかなか取引できない遺贈価値やまちの魅力を高めるといったことにある。耳慣れない言葉かもしれないが、遺贈価値とは、将来世代に残したいという気持ちである。そして、この推定総額はかなり大きく、文化予算を一定程度拡充することにはコンセンサスが得られるのではないかと思われる。
 
ただ、重要な点は、この支払いにすべての人が納得するわけではないということである。つまり、社会のごく一部の人たちが文化を非常に大切に思い、多くの支援をしたいと考える一方で、大多数の人々はそれなりの支援意志の表明にとどまっている。このことが、政府の文化予算拡大を阻む一つの理由ではないだろうか。
 
実際、財政状況が逼迫すると真っ先にカットされるのが文化予算である。また、ここから導かれるのは、文化を大切に思う(大きな便益を感じる)人々から、応分の負担を得る仕組みを構築することの重要性であり、このための条件整備がこれまで以上に求められるだろう。
 
文化は、政治的争点になりにくく、言ってみれば、政党レベルではなく、議員個人レベルでの活動に終始してきた。実際、党派を超えて集まった議員による文化芸術振興議員連盟は、先述の文化芸術振興基本法や劇場法の成立にも大きく貢献している。しかし、このままでよいのだろうか。
 
文化大国として知られているフランスが、なぜ多くの国家予算を使って文化振興をしているのか、これはパリ大学の研究者から聞いた話である。
 
第二次世界大戦において、フランスでは、ナチスドイツの侵攻により傀儡政権が成立、多くの有志がレジスタンス活動を行った。そのとき、レジスタンス戦士たちは、フランスがドイツに容易に占拠された理由(の一つ)として、国民がフランスという国を自らの命をかけてまで守るべきものと思わなかったことがあると理解したそうである。この反省が戦後フランスの文化政策の底流にある考え方となった。文化は国を守るのではなく、守るに値する国をつくるものである、と。
 
今日、日本は大きな転換期に直面している。東北大地震とその後の原子力発電所の崩壊により、これまでのような大量エネルギー消費の生活を見直し、持続できる社会をどう築いていくのか、考えざるを得ない状況となった。このなかで、自然環境や歴史性を大切にし、既存の文化的ストックを活かしながら、文化的価値を新たに生み出し、心豊かな生活を送っていくことの大切さ、さらには、将来に何を残していくのか、考えてもよい時期が来たのではないだろうか。
※垣内恵美子著 (自著ブログ~部分抜粋)


2月14日 打ち合わせ前の一休み(編集 筆者) 削除

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玉前神社十二社祭に関する関連資料サイト
 京都精華大学 pdf







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