Galapagos Japas

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焼き討ちされた「下手渡藩」陣屋
幕末とうほく余話 加藤貞仁
 神谷陣屋が平藩に接収された6月19日の夕刻、平潟港に新政府軍の第二陣を乗せた二隻の汽船が到着し、翌日、全員が上陸した。
 その中に、はるばる九州からやって来た柳川(当時は柳河)藩(立花氏、10万9600石)の317人がいた。彼らは、新政府軍の一翼として戦うほかに、奥羽列藩同盟の中で孤立している支藩、下手渡(しもてど)藩(一万石)を救援する使命を帯びていた。
 
 さて、立花氏の分家である下手渡藩とは、どこにあったのだろうか。
 「それは、福島県伊達郡月舘町にあった」と言っても、たぶん、現在の福島県民の千人に一人も知らないのではないだろうか。
 文化三年(1806)に三池(福岡県)から移封を命じられてわずか三代、六十二年間しか存続せず、戊辰戦争後は、再び三池へ戻ってしまったために、関係者もほとんどいなくなり、福島県民には非常に印象が薄いのである。

 伊達郡は、福島県中通り地方(新幹線が通っている福島県の中央部)の、最も北寄りの一帯である。そのうち月舘町は、東寄りの阿武隈山地の中にあり、東側は相馬郡に接している。現在の月舘町全域が下手渡藩だったわけではなく、陣屋があった「下手渡字天平(てんだいら)」は、月舘町の南端に近く、車で五分も走れば伊達郡川俣町に入ってしまう所で、領有する村は、現在の川俣町などあちこちに散らばっていた。独立した大名ではあるが、筑後柳川藩の飛び地のようでもあった。

 しかし、幕末の藩主、立花種恭(たねゆき)は英明で、外様の小藩主にもかかわらず、幕府の若年寄となり、一時的ではあるが老中格・幕府会計総裁に任じられた。そして、旧領三池に飛び地領を得ることにも成功した。
 鳥羽・伏見の戦いの後、幕閣であった種恭は、三月に下手渡へ戻って謹慎していたが、今後は新政府側に付くべきだと考えた。そこで、自身は三池の飛び地に移り、宗家柳川藩と行動をともにすることにした。
 殿様はそれでいいが、下手渡に残った家臣たちは、苦境に立たされることになった。五月の奥羽列藩同盟成立に際しては、家老の屋山外記が藩主名代として調印した。そうしなければ、四方から攻めこまれてしまうからだ。だが、戦火が近づいても、下手渡藩は沈黙していた。藩主の意に反して、同盟軍として戦うわけにもいかなかった。
 平潟に上陸した柳川藩兵は、そういう状況下にあった下手渡救援を急いでいたのである。
 一方、列藩同盟の盟主である仙台藩は、藩主不在の下手渡藩の加盟を、最初から疑っていた。その疑惑は、まったく動こうとしない下手渡藩を見ているうちに、確信に変わって行ったに違いない。八月に入って、相馬中村藩(相馬氏、六万石)が新政府側に旗色を変え、仙台領へ攻めこんで来たことから、相馬領に隣接する下手戸藩を放置できないと、仙台藩は判断したのだろう。8月16日、200人ほどの仙台藩兵が下手渡の陣屋を襲った。
 『藩史大事典』(雄山閣)には、天保二年(1831)の下手渡藩の家臣数は、足軽も含めて二百七十四人との記録がある。戊辰戦争時は、藩主とともに三池へ居を移していた人もいただろうから、もっと少なかったと想像されるが、仙台軍に比べて極端に少なかったはずはない。
 下手渡藩士は、屋山家老を先頭にして応戦した。だが、陣屋は焼失し、城下も焼かれた。私の手元にはその史料がないが、死傷者も出たに違いない。
 救援の柳川藩兵が下手渡に到着したのは、その翌日、17日だった。タッチの差で間に合わなかったのである。
 だが、援軍を得た下手渡藩兵は、仙台軍を追い返した。その後は、新政府軍の一員として、周辺に出没する同盟軍ゲリラ隊の掃討に参加したという。

三池藩
筑後(ちくご)国三池(福岡県大牟田(おおむた)市)周辺を領有した外様(とざま)藩。柳河(やながわ)支藩。戦国期、筑前岩屋(太宰府(だざいふ)市)に居城した一万田(いちまだ)(高橋)直次(なおつぐ)は、1587年(天正15)豊臣(とよとみ)秀吉から筑後国三池郡に領知を配分された。
のち姓を立花(たちばな)と改め、1614年(慶長19)には常陸(ひたち)国筑波(つくば)郡内に5000石をあてがわれた。1621年(元和7)その子種次(たねつぐ)は5000石を加増され、旧領三池郡内の1万石をもって三池藩が成立した。
1805年(文化2)種善(たねよし)のとき、父種周(たねちか)が若年寄在職中に幕府の機密を漏らしたかどで、陸奥(むつ)国伊達(だて)郡下手渡(しもてど)(福島県伊達市)1万石に移され、三池藩は廃藩となった。
1850年(嘉永3)下手渡藩主種恭(たねゆき)は、領知替により旧領筑後郡内に5000石を得、68年(明治1)に至り戊辰(ぼしん)戦争で居所が焼けたのを機に三池に居所を移築したため、ふたたび三池藩が成立した。廃藩置県により三池県、三潴(みずま)県を経て福岡県に編入された。[長野 暹]
(記事 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)
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脳科学者の中野信子氏「モテる男性には2つのタイプがある」
2014.08.28 10:56 ザページ
人間の脳には“リミッター”があり、10%の能力しか発揮できないと言われている。スカーレット・ヨハンソン主演の映画「LUCY/ルーシー」(8月29日公開)は、主人公ルーシーがその“リミッター”を外し、さまざまな特殊能力を身につけていく姿が描かれている。では、実際にそのようなことが可能なのか、また、最新の脳科学とは? 脳科学者の中野信子先生に話を聞いた。

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中野先生といえば、『ホンマでっか!?TV』(フジテレビ系)をはじめ、さまざまなテレビ番組に出演し、“にわかに信じがたい話”を披露しているが、「テレビなどで話すことは、基本的にエビデンス(証拠)があって、現時点で支持されている仮説になります」と説明する。仮説の域に留まってはいるものの、それを証明する証拠も存在している。その研究を繰り返して、仮説を証明していく作業を研究者が行っている。

一方で、発表された研究が、常識して世間に浸透した後、覆されることもある。「1993年に、海外のある研究グループがモーツァルトを学生に聴かせると、テストの結果が良くなると発表しました。しかしこれはあとになって、間違いであることが証明されました。でも、『間違いだった』という情報は面白みに欠けますし、どなたの利益にもつながらないので、なかなか広がらないですね」。

中野先生の“専門分野”でもある恋愛脳についても、興味深い事例を披露してくれた。モテる男性には2つのタイプがあるといい、1つは、『ウソをつける人、リスクをとれる人』、つまり遊び人だという。「なぜかというと、女性は本能として子孫を残す行動をとるからです。排卵期の女性は、そういう男性を好む。男性のそういうところは、子どもにも遺伝するので、自分が産む子どもも遊び人になる可能性が高く、子孫を残す行動を取ってくれる」。

もう1つは、やはり優しい男性、だそうだ。「排卵期以外は、優しい人がモテますね。他人に親切にするところを見せられると、女性は心を惹かれてしまう。その理由は、優しい男性は、子育て行動にコミットしてくれる、と思うからです。自衛隊員とか消防士とかも、体を張って誰かを守る仕事をされている方に女性が魅力を感じるのは、そういう理由です」と、説明する。

それでは、映画で表現されていた、脳のリミッターを外して能力を高めることは可能だろうか。中野先生は「映画で表現されたものの全ては、サイエンスとしては支持できないけれど、例えば、短時間で外国語をマスターするくらいは、さほど非現実的な話ではないと思う」という。
例えば、チンパンジーとヒトのDNAは、わずかな差しかないことがわかっているが、そのわずかな差が言葉を話せるヒトと話せないチンパンジーの差。「チンパンジーも、あと少し、脳の能力を使えれば、言葉を話せるようになる可能性はあって、人間も脳の能力をあと少し使えるようになれば、特別な訓練を必要とせず、語学を習得できる可能性はある」と解説する。

また、「脳の使用できる能力を広げることは、知識を蓄積することとは違う。例えば受験勉強をして知識を増やす、ということではなく、知識を蓄積するための器を大きくするのが脳のリミッターを外す、ということになる。器が大きくなれば、知識をそれまでより簡単に蓄積することができる」と、そもそも、脳の能力を高めることは人為的には、簡単でないという。

実は「10%の能力しか発揮できていない、と言われていますが、『脳の能力の100%』がどれだけあるか、まだ解明できていない。『まあ、それくらいあるでしょう』というくらいの想定値になります」と、そのポテンシャルは現代科学をもってしても、まだまだ解明できていないところが多いようだ。
(記事引用) 

経歴 中野 信子(1975年生 - 40歳)は、日本の脳科学者(医学博士)
東京都出身。東日本国際大学特任教授、横浜市立大学客員准教授。株式会社ビッグベン所属。MENSAの会員。既婚。1998年東京大学工学部応用化学科卒業後、東京大学大学院工学系研究科修士課程、2004年東京大学大学院医学系研究科医科学専攻修士課程修了、2008年東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。博士論文「高次聴覚認知における知覚的範疇化の神経機構 fMRI・TMSによる複合的検討」で医学博士号取得。2008年から2010年まで、フランス国立研究所ニューロスピン(NeuroSpin。高磁場MRI研究センター)に博士研究員として勤務。2013年から東日本国際大学客員教授、横浜市立大学客員准教授。(検索ウィキぺデア)

 

参加しない若者、参加するシルバー、は本当か?

図表1 衆議院選挙における年代別投票率の推移

(資料)総務省ホームページ
検索ニッセイ~https://www.nissay.co.jp/enjoy/keizai/63.html

上記、参照図を見る限りでは、シルバー年代層によって選挙が決定される、という数字になっていない。

20歳代赤線は、断トツで少ないことだけは明確に示されている。統計は衆議院選挙集計になっているので、これが地方選挙になると、微妙に変化するのだろう。

昨今、選挙に関するニュースで、どこのメディアでも若者政治無関心が懸念されていて、その中での「SEALDs」展開は、良し悪しは別として選挙アピール度としては効果アリ、と判断できる。時期的に、来年夏の参議院まで、その熱が持続するかどうかだ。

カナダ総選挙で勝利した自由党党首で次期首相となる「ジャスティン・トルドー」氏は43歳の若き新首相となる。たしかに若さは魅力の一要素だが、はたして老練老獪な政治家たちを相手に、どこまで長としての威厳を確保できるかが問題だ。その点ギリシャの「チプラス」は舌先三寸で非常によくやっている。

この世界(政治)を一括りで語るには、ギリシア古典民主主義から始めないと理解できないが、そもそも、世界的な支配層の君主政治が、あまりにも長かったため、民主主体という思想がまだ根付いていないのではないか、そんな懐疑心を思うようになった。

ヨーロッパの隣国同士のイザコザから始まった普仏戦争(ドイツプロイセンとフランス)が、世界戦争の始まりとされているが、その理由が君主同士のわけアリ出来事だった。

そうした諸々と、いまだ時間的に成熟しない民主政治だから、若者の関心ごとになりえないと。
このブログでも書いたが、現役「石破地方創生大臣」の言葉で、「政治を信じている人ってほとんどいない。では逆に政治家は国民信じてますか」といった意見は、案外正しい見方だろう。

それはなぜか?

政治に感心がないのは、政治家に関心がないからだ。
政治に魅力がないのではなく、魅力的な政治家が、だれもいないからだ。
政治が何をしてくれる、ではなく政治をやってくれる政治家たち選ぶ人材がないからだ。
ツィッター、フェイスブックを駆使して政党交付金(維新の会会計 PDF)の銀行取引口座停止とか、配分比率とか、会を抹消するだとか、そのために議会制民主主義が確立されたわけではない。

1800年代末の明治維新の動乱期、魅力ある政治家は、魅力ない政治家筋によってすぐ暗殺されてしまった。 一言でいって、いま魅力ある政治家がどこにもいない。

今朝方「ファッションデザイナー山本耀司」を書いて読んで、つくづくそう思った。
(記事 山本耀司


低投票率の背景は 若者1万人アンケート
2014年3月19日(水)nhk
NPO法人代表 原田謙介さん
「『若い人が新しいアメリカを作ろうとしている』みたいな取り上げられ方が結構あって、すごく悔しさみたいなのを覚えた。
日本だって将来どうなるか分からない状況なのに、若い人が動いてない。」

原田さんが大学時代に始めたのが、大学生と政治家の交流会です。
後輩たちが引き継いで、今も続いています。

学生
「もっと身近に感じられたら、いいのかな。」

議員
「努力しているんだけど。」

原田さんは、大学卒業後、就職はせず、若者に政治参加を促そうとNPO法人を立ち上げました。
行政へ働きかけたり、若者が地域の課題を話し合う場をつくったりしています。

NPO法人代表 原田謙介さん
「若者が政治に興味を持ちだしているという流れをもっともっとつくっていければ。」

先月(2月)の東京都知事選挙では、インターネットを使った新たな試みも行いました。
ツイッターを利用して候補者への質問を集めました。
寄せられた質問は、「好きなおにぎりの具は何か」といった身近な話題から、具体的な政策を問うものまで、さまざまでした。

待機児童対策に関する質問に、当選した舛添氏は、「駅近くの保育所を拡充する」などと回答しました。
また、副知事にはどんな人をという質問には「困難に立ち向かい、やり遂げる人」などと答えました。

NPO法人代表 原田謙介さん
「こういう新しいやり方というのは、時間・場所の制約がなく、若い人が選挙に自分が関わっているとか、関わりたいという感覚を持ちやすいツールかなと。」

どうしたら若者と政治をつなぐことができるのか。
原田さんは模索を続けています。

NPO法人代表 原田謙介さん
「世の中が変わるとか若い人全員が変わるとかには、まだ至っていないので引き続き活動したい。
選挙以外の政治に関わることによって、また次の選挙に行こうとならないと。
日々の中で興味関心を持っていくというような仕組みづくりが必要かなと思う。」

投票に行かない背景は 若者1万人アンケート
大越
「私が選挙権を持つようになったのは、もう30年以上前になるんですが、当時も若い人たちの政治離れ、選挙離れというのは、やっぱり言われていたと思うんですよね。
ただ、私たちの頃は、世の中っていうのはずっとこれからも良くなっていく、豊かになっていくんじゃないかという、ある種楽観的な気分に包まれていたんですが、その後、長いこと日本は閉塞感に包まれてきて、今の若い人たちにとっては政治はもう少し切実であっていいはずです。
若い人たちの新鮮な発想が、より必要とされている時代だからこそ、政治に参加感を持ってほしい。
ずいぶん前に若者だった私は、そのように感じます。」
(記事引用)

老人の老人による老人のための政治
白岩賢太 2015年06月27日 08:05
衆院選、大阪市内の投票所で投票をする人たち(産経新聞
 老人の老人による老人のための政治。19世紀、奴隷解放宣言で知られる米大統領、リンカーンが民主政治の原則を大衆の前で訴えた演説をもじり、最近こんな言葉をよく耳にする。高齢者の意見が過剰に政治に反映される「シルバーデモクラシー」とも揶揄されるが、先の大阪都構想をめぐる住民投票の結果を受けて、このフレーズがメディアでも頻繁に使われるようになった。 

 65歳以上の高齢者が総人口に占める割合が25%となり、「超高齢化社会」の進行著しいわが国にあって、全有権者に占める高齢者の割合が高くなるのは当然だ。多数意見が政治を動かす民主主義国家であればなおのこと、高齢者を優遇する政策が政治に反映されやすくなるのも自然な流れと言えるだろう。 

 国立社会保障・人口問題研究所が昨年11月に公表した社会保障費用統計によると、2012年度の政策分野別の社会支出(OECD基準)のうち高齢者政策の割合は、全分野の中で最も高い47・6%、金額にして53兆6272億円に上る。他の先進国と比較しても群を抜いて高く、この数字だけをみればわが国の高齢者政策の優遇ぶりがうかがえる。大阪都構想の否決をめぐっても、敬老パスの廃止がクローズアップされたが、こうしたお年寄りへの優遇策を「老害」と批判する声は決して少なくない。 

 ただ、社会支出が高齢者に偏っていることと、「老害」批判をごちゃ混ぜにする議論はいささか的外れである。政治の方向性を決定するのは、あくまで有権者の意思であり、その意思を表明する場として投票という機会が与えられているからに他ならない。 

 この手の議論でいつも引っ掛かるのは、「政治に関心がない」とか「投票しても何も変わらない」といった無関心、無気力の若者による「選挙離れ」の原因をすべて政治不信に擦り付けてしまう風潮である。 

 確かに、日々政局ばかりに明け暮れる政治家の言動や、最初は「若者目線だ」と調子の良いことを言いながら、いつしか長老議員の意見に流されていく体たらくをみせられると、一票を投じる行為自体、バカバカしくなることもある。だからといって、選挙で「白紙委任」してしまえば、ますますお年寄りの政策を優遇することになることも肝に銘じるべきだろう。 

 我々は一票を投じることでしか政治を変えることができない。投票しないことは現状を受け入れたに等しい。選挙にも行かず、ただ「老害」ばかりをあげつらうのは、それこそただのわがままに過ぎない。無責任に駄々をこねるのは子供だけでいい。現状を憂い、自分の生活やこの国の未来を少しでも案じているならば、やはり選挙に行くしかない。 

 くしくもつい先日、選挙年齢が18歳以上に引き下げられる法案が成立した。これをチャンスに変えるのも変えないのも、彼ら若者たちの意欲次第である。むろん、お年寄りがもっと将来世代に配慮すべきだという意見も忘れてはならない。だが、他人任せで甘えていても結局は同じことの繰り返しだ。いま必要なのは、自分たちの意識改革しかない。 

 「せっかく選挙権を与えても…」とお年寄りたちに「バカ者」扱いされないためにも、投票できる権利を目いっぱい行使しよう。すぐにはダメでも、近い将来、君たちの選択がきっと大きなうねりとなる日が来る。 
(記事引用)
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映画「立候補」監督が問う 泡沫候補とは何か?
『iRONNA編集部』  藤岡利充(映画監督)

羽柴誠三秀吉の死去
 2015年4月11日。日本全国の選挙に何度も立候補し続けた羽柴誠三秀吉(本名:三上誠三)氏が65歳で亡くなった。
羽柴氏は青森県五所川市金木町出身。青函トンネルの土をダンプで運ぶことをきっかけに財を築いた。
自宅は日本の城を模したもの。甲冑を身につけ、ヘリコプターを飛ばすなどの派手な選挙パフォーマンスは、目立ちたがり屋で金持ちの道楽立候補、選挙の時だけ現れては消える水の泡、泡沫(ほうまつ)候補として揶揄する人もいた。一方で、人から何を言われようとも我が道を行き、自由奔放に生きていると賞賛する人もいた。本人はどう考えていたのか?
(記事冒頭引用)










 

政治を信じている人ってほとんどいない。では逆に、政治家は国民信じてますか

そういって憚らないのが現役「石破地方創生大臣」であるから、やっぱりこの日本には、信用に値しない政治家ばかりなんだ~、と諦念し、じゃなんだい、世間に風評を流布している社会人はペテン師ばかりか。

そうなると、この国はキツネとタヌキしかおらんのか、という結論に帰結する。それじゃ「アベのバカが」と言い放って、いまは静かに回顧談に浸ってるvipのセキュリティーガードは解けたか???

ま冗談はさておいてと、石破氏の元秘書をしていた人物の逸話を、このサイトで扱ったところ、意外な展開が始まって山形市長選挙(すでに決定)の報道に一役買うはめになった。その若手立候補の後援者になってたのが石破氏だったが、いずれの支持母体が異なるため、公の選挙応援はしていなかった。
その選挙は、いま最も注目を集めている維新の会の修羅戦時場となった。落選した梅津氏の応援を「維新の党柿沢未途幹事長」がしたとして、以後の死闘がくりひろげられたのである。その結末は、いつ果てるともわからない。

そんなこと、やっているのだから国民は政治家を信用しない、という結果にいたるのだろう。いまでこそ、そのような内部抗争は、ネット記事で知ることができるが、一昔前の新聞テレビ報道であったなら、都合のいいように編集されたであろうことが予想されるほど微妙で難しく、また政治の将来指針の変更まで左右する問題なのだ。

「石破地方創生大臣」国民を信じない政治家が、国民に信用されるなんぞということは考えない方がいい
BLOGOS編集部 2015年10月21日 13:11
何も「水月会」というのは怪しげな非合法集団を作ったわけではなくてですね、ただ、初めて気がついたんですけど、今、細田派から石原派から額賀派からいろんな政策集団がありますが、全てそのルーツは昭和31年まだ戻ります。 

自民党が結党されたのが昭和30年で、初めて総裁選挙が行われたのが昭和31年でそのときに石橋湛山総裁が誕生したんですね。

あの時いろんな派閥があって、大野伴睦派とか緒方竹虎派とか、なんか歴史の本でしか読んだこと無いなみたいな感じなんですけど。いまの派閥というのは全部そのときの政策集団に端を発しておりまして、まったくそういうルーツを持たないのは今度の水月会が初めてなんです。だからいろいろと…なんていったらいいのか(笑)、いろんな話題になるわけでございますが、私思うんですけど、安倍さんが再選しました。
無投票でした。
ということはみんなで責任持てって話なんです。無投票になったからには、自由民主党員、なかんずく国会議員は全員でこの政権が続く限り責任を持てという、当たり前の話しです。 

これが一つ。 

もうひとつはいかなる政権といえども、未来永劫続くことはありえない。党則は2期六年と決まっているが、未来永劫続くことはありえない。
じゃあ次どうすんのって誰も考えてないってすごく無責任なことじゃないですか。それは、自由民主党には制作集団がたくさんあるのだって、もちろん、うちのみならず清和研究会もあれば、宏池会もあれば近未来もあれば志帥会もある。
いろんな政策集団があるわけですね。で日本の国どうしますかっていうビジョン作るのは、そんなに簡単なことではない。まして今の時代はそんなに簡単なことではない。中曽根先生ところにご挨拶にいったとき「君ね、総理になれるかもって思った時から10年間ずっと政権を担ったらどうするか、どんな政策をどのように実行するかずっと考え続けてきた。」と。中曽根総理のお話でございました。 

選ぶのは自民党員の皆さん方です。党員であり国会議員です。だけど選んでいただくに足るだけの少なくとも自分が納得するだけのそういう政策を出すというのは、それは我が自由民主党の政策集団が日本国に対して果たすべき責任です。
私たちはその責任を果たしていかねばならないのであって、安倍政権を続く限り支えるということと、いつの日か来るであろう、次の政権を選ぶときに、外交どうする、安全保障どうする、社会保障どうする、農林水産どうする、そういうことを、豊かで自由で楽しく生きがいが実現できる国目指しますみたいな、そういうふわっとした話でなくて、法律どうするのか、税制どうすのか、経済運用どうするのか、国際法どうするかまで含めて示すことが責任です。政策集団が日本国に対して果たすべき責任です。私はそういうような自由民主党でありたいと思っています 

そして、「勇気と真心をもって真実を語る」ってのは、私が議員になる前に渡辺美智雄先生にお教えをいただいたことであります。真実をめっけるって決して容易なことではありません。めっけた真実はだいたい受けが悪いと決まっています。
それがを語るには勇気が要ります。そして有権者の方おひとりおひとりに、国会議員たるもの、あるいは自民党の議員たるもの、あいつの言うことだったら、という思いを持ってもらわなければ、ハードな政策なんてできるはずがない。ハードな政策をやらず、国民に政治がおもねった時に、国は必ず倒れると私は思っております。 

政治を信じている人ってほとんどいないでしょう。街中であなた信じてますかって聞いて「信じてます!」っていう人は、かなり稀有な存在だろうと私は思ったりするのでありますが、では逆に、政治家は国民信じてますか。

これ言ったってどうせわかんないよな、これ言ったってどうせ嫌われるよなこれ言ったら、これ言ったら選挙に落ちるよなって、本当のことを語らない政治家が、国民を信じているとは私は思わないし、国民を信じない政治家が国民に信用されるなんぞということは考えない方がいい、というようなことを考えている昨今であります。ありがとうございました。
(記事一部引用)

◇ ◇ ◇
作家「松本清張」の見た日本の風景1936年 
明治維新~はじまりは奇兵隊? 「2.26事件」松本清張 洞察
「山城屋和助」について、これまで調べた範囲では、山縣有朋との関係は頻繁に記述されるが、藤田伝三郎についてはまったくというか、殆ど記述されない。
この三者、年齢年代的地域的には密接に関連するが、もともと山城屋和助の存在そのものが不詳で(自称、田舎医者のセガレ)、他の二者より陰の部分が多い。
そうしたことも手伝って、山城屋和助が藤田伝三郎と接触しある種のたくらみを画策していたという痕跡もない。
また藤田伝三郎の奇兵隊在籍、という記述も二通りある。

「高杉晋作が奇兵隊を結成、身分の別なく有志の者を隊士として募集した。一般には藤田伝三郎が奇兵隊に入隊したとされている。つまり伝三郎は元奇兵隊士というのだが、残っている奇兵隊名簿を見ても伝三郎の名はない。
岩下藩属著『藤田第言行録』参照
萩に見切りをつけた伝三郎も山城屋を頼り、この奇兵隊あがりの剽悍(ひょうかん)な男から政商の手ほどきを受けたといわれてもいるが、これは憶測である。
伝三郎が山城屋と接触を持ったとしても、それは明治2(1869)年ごろの短い期間だった。その年に伝三郎は大阪に出ているからである。山城屋が陸軍省で自決するよりも3年ばかり前である。 
(記事抜粋2015/8/20 http://blog.livedoor.jp/raki333/archives/52059928.html
参考資料.「夢はるかなる: 近代日本の巨人・久原房之助」 

記事は当ブログの一部引用したものである。
「実業家・政治家」であった久原房之助について、いろいろ読んで、それを記事にしていたところ、そこに「田中 義一」の名が連なっていたので、これも激動維新(平成の維新の会とはスケールが格段にことなる)の豪華キャストとして抜くわけにはいかなかった。

◇ ◇ ◇

明治維新の「田中 義一」
田中 義一は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。勲等は勲一等。功級は功三級。爵位は男爵。 陸軍大臣、貴族院議員、内閣総理大臣、外務大臣、内務大臣、拓務大臣などを歴任した。 
生年月日: 1864年6月22日 生まれ: 山口県 萩市
死没: 1929年9月29日, 大日本帝国
政党: 立憲政友会 学歴: 陸軍大学校、 陸軍士官学校
陸軍大将・政治家・男爵。山口県生。長州藩士田中信祐の三男。幼名は音松、のち義一、素水と号する。政友会総裁・外相・拓相を経て、総理大臣となる。昭和4年(1929)歿、67才。

萩藩士・田中信祐、みよの三男として萩(現:山口県萩市)にうまれた。父は藩主の御六尺(駕籠かき)をつとめる軽輩者の下級武士だったが、武術にすぐれた人物だったという。
(経歴は同郷山縣有朋に近い)

若い頃は村役場の職員や小学校の教員を務めた後、20歳で陸軍教導団に入り、陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)を経る。
日清戦争に従軍、その後ロシアに留学した。ロシア留学時代は正教に入信し、日曜毎に知り合いのロシア人を誘って教会へ礼拝に行くなど徹底したロシア研究に専念した。
また、地元の連隊に入隊して内部からロシア軍を調査した。このため、日露戦争前は陸軍屈指のロシア通と自負していた。
長州閥の後ろ盾もあったが、軍人としては極めて有能であった。しかし、同時期ロシアに留学していた海軍の広瀬武夫と一緒に酒を飲むと強硬な開戦論を叫ぶなど、一本気で短絡的な性格であった。

日露戦争では満州軍参謀として総参謀長児玉源太郎のスタッフを務めた。戦後の1906年(明治39年)に提出した『随感雑録』が山縣有朋に評価されて、当時陸軍中佐ながら帝国国防方針の草案を作成した。

1910年(明治43年)、在郷軍人会を組織した。
1915年(大正4年)、参謀次長。原内閣、第2次山本内閣で陸軍大臣を務め、この時にマスコミの論調を陸軍にとって有利なものにしようと考えた事から、陸軍省内に新聞班を創設した。

1918年(大正7年)、田中は原内閣で陸軍大臣になったあと、男爵に叙され陸軍大将に進級するなど慶事が続いた。
その一方で、シベリア出兵での様々な意見の対立や前線のコルチャークら白軍の敗北、さらには尼港事件への対応、主導していた第二次満蒙独立運動など激務に追われていた。
さらに追い打ちをかけたのは、西原借款(英語版)問題などで原内閣が帝国議会で轟々たる非難を浴びたことからくる心労が重なったことである。1921年(大正10年)、狭心症に倒れ、6月9日に辞任して大磯での静養生活を余儀なくされた。大臣を辞めてしばらくすると原敬暗殺事件が起こったこともあり、回復してからも軍事参議官の閑職に留まるなど大事をとっていた。

軍人から政党政治家へ

将来は元帥ともいわれたが政界への転身を図り、1925年(大正14年)、高橋是清の後の政友会総裁に就任した。治安警察法により現役軍人は政治結社に加入できないため陸軍は退役している。

1924年(大正13年)の第2次護憲運動の際に立憲政友会は分裂して第1党の地位を失った。総裁であった高橋是清は辞意を表明して後任選びが始まった。だが、最有力候補であった横田千之助は分裂を惹き起こした当事者ということで辞退し、やむなく党外から総裁を迎え入れる話となった。

当初、伊東巳代治と田健治郎の名前が挙がったが、両者ともかつて内紛で政友会を追われた経緯があり、これを辞退した。次に官僚出身ながら国民の人気がある後藤新平を迎えようとしたものの、後藤はかつて関東大震災後に自分が立案した帝都復興計画を政友会の反対で潰された経緯からこれも拒否、唯一就任に応じたのが田中であった。

田中は就任の際、300万円の政治資金を持参金としたが、陸軍機密費から出たものではないかと他党から追及されている(陸軍機密費横領問題)。また、在郷軍人会を票集めに利用したとする疑惑もあった。真相は不明であるが、在郷軍人会の育ての親である田中の政友会総裁就任及び対立する憲政会(後に立憲民政党)の軍縮政策が在郷軍人の投票行動に影響したのは間違いなく、高橋前総裁時代に出されていた軍部大臣の文官化論が就任直後の田中による「鶴の一声」で否定されるなど、党の政策が軍備強化・対外強硬路線へと転換する。

折りしも田中の総裁就任直前に、唯一の潜在的競争者であった横田千之助が死去したことにより、田中を阻む人物が党内からいなくなったことも大きかった。
田中の政友会招聘を最終的に決めたのは横田であったが、星亨・西園寺公望・原敬らの側近であった横田は板垣退助の自由党以来の自由主義と伊藤博文の立憲主義を併せ持つ政友会本流の継承者であり、第2次護憲運動と大正デモクラシー・軍縮路線の有力な担い手であったからである。1926年(大正15年)1月28日、田中は勅撰貴族院議員となった。
さらに、田中の誘いで政友会に入党した人物も、それまでの政友会とは異質な人々であった。鈴木喜三郎は国粋主義者として名高い平沼騏一郎(後の大審院長・枢密院議長・首相)が寵愛する司法官僚で自由主義を敵視していた人物であり、「久原房之助」は田中自身の出身母体である陸軍長州閥と結んでいた政商であった。

やがて成立した田中内閣では、鈴木が内務大臣、同じく平沼系とされる弁護士の原嘉道が司法大臣に抜擢され、さらに鉄道大臣に小川平吉、外務政務次官に森恪(外相は田中の兼務)、内閣書記官長に鳩山一郎が任じられた。
3人とも政友会の古参であるが、小川と森は国粋主義者として知られ、鳩山は鈴木の義弟で協力者であった。2度の護憲運動や大正デモクラシーで活躍した政友会の古参幹部も閣僚には任じられたが、重要ポストからは外された。当時、青年政客として名を馳せていた肥田琢司に政治活動の協力を求め、第四代朝鮮総督の人選では肥田の推薦により山梨半造を任命した。

鈴木・原によって治安維持法が強化され、森・小川によって軍部と連携して中国への積極的な進出策が図られるなど、護憲運動などでかつて政友会が勝ち取った成果を否定する政策が採られた。
もっとも、憲政会→民政党がリベラルな人々の支持を集めていく中で、これに代わる支持基盤をより保守的な人々に求めることで新たな支持層を開拓して、その受け皿になろうとした努力の現われとも考えることも可能である。
こうした政策と第16回衆議院議員総選挙で鈴木が画策した選挙干渉によって、党勢は回復したものの、政友会はかつての自由主義政党とは離れた親軍的な保守政党に変質していくことになる。

田中の没後に起きた統帥権干犯問題における政友会と軍部の連携も、単に立憲民政党への対抗というよりも政友会の変質に伴う「親軍化・右傾化」現象の反映であった。その後も短期の犬養毅総裁を経て、鈴木喜三郎・久原房之助・中島知久平(久原と同じ軍需関連の政商)と、親軍派あるいは国粋主義派な総裁が同党の分裂・解党まで継続されることになる。
(ウィキペディア一部引用)




ペルシャ12


 


 

フロイトによる精神分析の創始
1886年、フロイトはウィーンへ帰り、シャルコーのもとで学んだ催眠を用いるヒステリーの治療法を一般開業医として実践に移した。
治療経験を重ねるうちに、治療技法にさまざまな改良を加え、最終的にたどりついたのが自由連想法であった。
当時は催眠状態の時に患者が意識していない幼少期の事柄を喋ると、ヒステリーの病状が改善した事が知られている。フロイトは自由連想法を施すことによって患者は症状を改善させる事が出来ると考え、この治療法をフロイトは後に精神分析(独: Psychoanalyse)と名づけた。
精神分析学は、人間には無意識の過程が存在し、人の行動は無意識によって左右されるという基本的な仮説に基づいている。
フロイトは、ヒステリー(現在の解離性障害や身体表現性障害)の治療に当たる中で、人は意識することが苦痛であるような欲望を無意識に抑圧することがあり、それが形を変え神経症の症状などの形で表出されると考えた。そのため、無意識領域に抑圧された葛藤などの内容を自覚し、表面化させて、本人が意識することによって、症状が解消しうるという治療仮説を立てた。

精神医学界による排斥
 
精神分析が創始されたころの精神医学においては、「精神病の原因は脳の何らかの器質的異常によるものであるが、その異常はいまだ解明されていない」という精神病内因説が優勢であった。
また、脳科学もその異常を解明できそうなところまで発達していないので、フロイトと同時代の精神科医たちは精神障害の原因究明には興味を示さず、むしろ症状を詳しく分類することに力をそそいでいた。
このような精神医学は、精神障害の根本的メカニズムを解明しようとする精神分析とは交流を持たず、しばしフロイトならびに精神分析を排斥し迫害する立場に回った。
そのため精神分析は、精神医学界から離れたところで独自の発展を遂げることになる。精神分析が精神医学と深く結びついていくのは、フロイトの死後かなり経ってから、それも第二次世界大戦後のアメリカにおいてである。
とはいえ、総じて見れば精神分析は、20世紀初頭から半ばにかけて、心理学、精神医学はもとより、人文・社会諸科学や文化・芸術に多大な影響を及ぼした。=ウキペディア

脳の科学的分析手法
 
1885年、精神分析を創始したジークムント・フロイトによって提唱される。しかしその時代背景として精神病内因説が優勢で、また脳科学もその異常を解明できそうなところまで発達していない。フロイトと同時代の精神科医たちは精神障害の原因究明には興味を示さず、むしろ症状を詳しく分類することに力を注いでいた、というのが実情のようだ。

この地球上の歴史文明は、先の石油問題も包括した紀元前の人間の歴史にすべてが要約起因している。また、最近すこしづつ判ってきたのが、それ以前より存在した古代文明だ。
とくに注目したいのがトルコの「ギョペ・クリ・テペ」遺跡で、開発工事をしていて偶然発見された遺跡で、その内容はまったく判っていない、という実にショッキングな遺跡だった。

そしてまた、この近代のITインフラについても、そうした過去の時代の遺産を知る上でも、その情報を得るには、このネット情報が有用である。

人は概念で生きている、また、生きられる、と結論するには、私のスタンスは人を説得させるのに必要な社会的肩書きとか職業は、当てはまらない。それは何かと云うと、とかく人はバックボーンが必要で、私は゛地球人である"と宣言することなく日本人として振舞っているからだ。

「日本人」、すなわち国民としての義務と権利をまっとうしていれば、平然と自分の住所で暮らしていける。あえて地球人と力説することなく、それはアメリカでもイギリスでもフランスでもオランダ、はたまた、未開の現地人もまったく同様だ。
 
そこに欧米型の民主的主義、資本的主義の結果の貨幣価値、また、ものの価値観など、全部を破壊すれば皆同等の人間という生き物だ。

そこに原始の人としての定義が必要となる。生まれたばかりの人の子を、何もせず食料を与えて生かしておくなら、それは人でなく動物で、読み書きの価値、環境規範など人為的に与えなれければ人として認められない。
その僅差として人格形成があり出生国家とか学歴だとか、人が固有の持っている他と区別できる要素を表現する必要がある。そのことがバックボーンとして作用し、座標の二元によってスタンスがはっきりする。
 フロイトは、その時代に精神分析という新しい医療分野を提唱し、その固有の存在をアピールした。
 
フロイトは自分の構築した概念「精神分析」という医学臨床的な学問を、いわば設計図を使ってビジュアル化し、判りやすく解説しようとしたが、それを始めるには130年も早かったようで時代に合わなかった。
 
今ではインターネットとパソコンという近代コンテンツを駆使すれば、130年前のフロイトのような研究成果を広く世界に公言することも出来て、その空いた時間さらに自分の研究に没頭すればいい。換言するなら、そのようなコンテンツを有効に使えばフロイトに肉薄できると思った。

以前このブログで電車の中の風景を書いたことがある。電車の中の客員ほぼ全員が手にスマートホンをもち、一心不乱に見つめている様子を描写してみた。

=たまに電車に乗って都会へ出かける。
だいたい1時間程度でその中心に着く。それは東京でもいいし大阪でも京都でもいい。その車中では、あたりを見渡すと、ほぼ全員といっていいほどケータイを操っている。
 
私の前に座った若い女性の行動をみていると、一通りの通話が終わると、別の機材を出してなにやら編集している。音楽か何かなんだろう。そんなことをしていれば1時間なんてアッというまに過ぎてしまう。寝る間もない。そんなことが日本全国で起きている。だから、おそらく車窓に流れる景色というのは殆ど記憶にないだろう。

それを極端に云うと、電車の車両に窓は必要なく、もし景色を見たいのであれば携帯端末のアプリを使ってGPS連動で、動画を流せばいい。いまリニアカーがオリンピックに間に合うように急ピッチで進行しているが、これこそ窓なしカーで、車外景色は液晶端末の小さな動画で、とっいたシーンが展開するかもしれない。

そうして都会での用を済ませ帰宅する。都心から1時間も電車で下ればほとんど田舎風景にかわる。そこに待っている里山の風景は、遠目にみれば微かなモヤがかかって美しい里の風景だが、ひとたび、そこに近寄って見ると果てしない雑草の暗闇で植林された針葉樹林は、伸び放題で倒木は放置したまま。まったく人の手が入っていない状態が何年も経過している様子がわかる。その放置林が、延々と田舎を覆いつくす。カンボジア・アンコールワット遺跡ではないが、植物の闇に飲まれて数百年という現実を再びおもい起こさせる。
その脇の舗装された道路を携帯片手に、車のカーナビを使い進路を案内してもらいながら、そうして30分も走れば自宅に到着する。

ここで云いたかったのは、電車に乗ることは単なる移動の手段であり、その途中に展開する車窓の風景は彼らにとってはまったく必要がなく、それを高度に理解すれば、手にしたスマートフォンの液晶画面に、それが動画で展開していればいいだけの話だ。極端に話しを縮めるなら、電車の中の世界は、その個人にとっては概念世界であり、車窓風景はあってもなくてもよく、見たければスマートフォンサービスのサイトにアクセスして風景を見ればいい。もちろんそれは毎月支払う料金に含まれる。

フロイトが展開した精神分析は130年経過してようやくいまの時代に評価され、その重要性は有料でも価値があると判断された。
それと同じことがいま展開していて人間の概念世界は、これといった定義、概論とか言論とか、紀元前にヨーロッパ文明が明らかにした、それらの概念は、まったく輪郭が必要でなく変幻自在に変えて必然である、という考えにいま終着していない、という概念が支配的である。


「長崎県佐世保市の高1女子生徒(15)殺人事件は逮捕された少女(16)の異様な行動」、それはまことに不幸な事件として認識する。
 そしてそのニュースは読まれて数日すると記憶の彼方に消え、再び同様な事件が起こる。
こうして社会は繰り返され、その規模が拡大すると、パレスチナとイスラエルの戦争という結果に行き着く。

電車の外に展開して走る車窓の風景、それは彼らと私にとって必要で重要な事項ではなく、それを高度に理解すれば、手にしたスマートフォンの液晶画面に凝縮できる画面という概念だ。それを一つの人間が構築して概念だと言い切ってしまうには、地球の年月はまだまだ先がある。


佐世保・高1女子殺害 “猟奇的”供述のウラに…識者が読み解く少女の心理
産経新聞 2014年07月29日15時43分
http://blog.livedoor.jp/raki333/archives/52023462.html
(当該記事を再構成した)




P813



 
 

市町村大合併のコンセプト

 最近よく耳にする「市町村合併」~。
 しかし、なぜ今「合併」なのか、よくわからない人がほとんどだろう。先ごろ、大宮・浦和・与野の3市が合併し、さいたま市になったが、大規模自治体の合併は稀であり、都市部に住む人にとっては、市町村合併は関心が低いに違いない。さらに、当事者である市町村の住民もこの合併の意味がよくわかっていないのが実情ではないだろうか。

 中には「合併すればその自治体の借金が帳消しになる」というデタラメなウワサも流されているという。いったい、自治体(市町村)の合併にどんな意味があるのか。かく言う私も調べてみるまでは五里霧中。なぜ合併なのか、どんな意味があるのか、そし市町村大合併てどんな問題があるのか、正直言って皆目見当がつかなかった。

 このコーナーでは、誰でもわかるように、自治体合併の意味と影響をまとめてみた。「市町村合併」は決して「地域」だけの問題ではなく、日本のこれからの進路を決定する重要な問題であるということが見えてくるはず。(2003・06・13)[地方自治体]一定の地域およびそこに住む住民を存立の基礎とし、その地域における行政事務を住民の自治によって行う団体。都道府県・市町村などの普通地方公共団体と、特別区、地方公共団体の財産区などの特別地方公共団体とがある。
 
 市町村合併って何?
 いくつかの市町村が一緒になって、より大きな自治体になること。「新設合併」(いわゆる対等合併)と「編入合併」(吸収合併)の2つに分けられる。
合併の沿革 明治・昭和の大合併とどう違うのか
 明治になり、江戸時代から日本に存在した自然村、いわゆる基礎自治体が統廃合されて、中央集権的な行政区域に再編統合された。その数1888年(明治21年)で7万1314。それが、1889年の市町村制の施行で約5分の1の1万5859に減少した。これがいわゆる明治の大合併。

 1945年には1万520に減ったものが、「町村合併促進法」(1953年)、「新市町村建設促進法」(1956年)を経て、1961年には約3分の1の3472になった。これがいわゆる昭和の大合併。
 その後、1965年に「合併特例法」が施行されるが、その効果はほとんどなく、市町村の数は現在までほとんど変わらないまま推移してきた。

 それぞれ、合併の目的は異なり、「明治の大合併」は行政上の目的に合った規模と、自治体としての町村の単位の隔たりをなくすために、300~500戸を村の標準単位にして行われた合併。つまり、明治以前の自然村・集落を行政単位に再編したということ。基本的に地方自治意識を国民に知らしめる意図があった。

 「昭和の大合併」の場合は敗戦後に行われた新制中学の設置管理、消防、自治体警察の創設に関連して、事務などを効率的に処理するために行われた、いわば合理化合併。500人の集落が5つ同じ地域にあったとしたら、それぞれに警察を5つ作るより、まとめて1つにしたほうが、警察・消防活動も合理的にできるということだ。

 これらは、名目上、自治の大義に則ったもので、今展開している「平成の大合併」とは理念が大きく異なる。

 明治、昭和の合併にも国家の要請による「中央集権化」の意図があったが、これに関しては後述。

 なぜ今合併なのか

 2001年4月の小泉内閣成立による、いわゆる構造改革論がその背景にある。
「医療費の本人負担率3割にアップ」など、国民の弱い部分に「痛み」を押し付けるのが「構造改革」の実体。国は国民だけでなく、地方自治体ーー中でも弱小自治体に、その「痛み」を押し付けようとする。結論から言えば、それが「市町村合併」だ。

 つまり、国と地方合わせて700兆円近い財政破綻を打開するために、国からの地方交付税を減らそうというのが狙い。

 市町村の数が減れば交付税の「出費」も少なくなる。いってみれば、親に家計をやりくりする才覚が無く、バクチに手を出したりしたあげく、借金を背負い、その責任を、子供たちに押し付け、「おまえら、明日から食事は一日ニ食だけにしろ」と言ってるようなもの。

 もちろん、子供(市町村)は親の手伝いをして、家にお金を入れているのに、親がそのカネを野放図に使っている、という構図が背景にある。いわゆる「3割自治」だ。

 これは、行政サービスの7割を提供しているのに、国民の納める税金の3割しか自治体の直接収入にならないことを指す。当然、国からの交付金、補助金がなければ、自治体の運営はできない。自治体の借金は200兆円以上の巨額にのぼっている。その原因は公共投資に伴う国からの補助金のツケがほとんど。

 悪どい高利貸しに、「カネならいくらでも貸すから、高級な家具を買え、インテリアを新しくしろ」と無駄な出費を強いられ、借金漬けになっているようなもの。立派な庁舎、競技場など、いわゆる「ハコもの」行政のツケが回ってきているといえる。

 しかし、親が子供を養育する義務があるように、国は地方自治体への交付金を勝手にストップしたり、削減することはできない。それは憲法に謳われた「地方自治の本旨」から逸脱するからだ。

 それなら、合併させて市町村の数を減らし、交付金の総額を減らそうというのが、この合併問題の「正体」であり、国がシャカリキになる一番の理由。しかし、「合併してくれ」と上から押し付けるわけにはいかない。合併は下から自発的に行われることが国にとって望ましい。で、アメとムチが登場することになる。 
(記事部分引用)

「市町村合併」 Weblio 辞書 検索
複数の市町村を合併して一つにすること
主に、財政能力や行政サービスの向上を目的として行われる。合併には、2つ以上の市町村を1つの市町村にまとめる対等合併と、ある市町村を隣接する他の市町村に吸収させる編入合併の2種類ある。
市町村合併が行われる前段階として、住民の発議による合併協議会を設置する。現在、100以上の合併構想が全国にある。

これまで上下関係にあった国と地方自治体(地方公共団体)は、1999年7月に成立した地方分権一括法により、対等・協力関係であると見直された。この地方分権一括法の中で、2004年度までの時限立法として市町村合併特例法が改正されている。例えば、通常5万人となっている市設置の人口要件を4万人に緩和したり、地方交付税交付金の交付水準を10年に延長して維持するなど、国は市町村合併を後押ししている。

市町村合併を推進する背景には、2000年4月から実施された介護保険制度などの行政事務を自治体単位で実施していくという地方分権化への流れがある。

埼玉県での3市合併構想では、政令指定都市となることを目指している。政令指定都市では、行政区の設置ができるなど都道府県並みの事務が可能となり、より広域的な行政サービスが期待されている。(2000.04.19更新)

2005年(平成17年)4月に施行された合併新法(市町村の合併の特例等に関する法律)に基づき、引き続き市町村の合併が進められた。合併新法においては、合併特例債などの財政支援措置がなくなる一方、都道府県による合併推進が盛り込まれた点に特色があるが、合併の動きは旧法下と比べて鈍いものとなっている。
2009年(平成21年)5月26日には第29次地方制度調査会が、合併新法の期限である2010年(平成22年)3月末をもって政府主導による合併推進は一区切りとするべきとの答申を決定。2010年(平成22年)4月1日に合併新法は改正され、期限はさらに10年間延長されたが、国・都道府県による合併の推進に関する規定は削除され、市制施行の条件緩和などの特例も廃止されるなど、政府主導の合併推進運動は正式に終了することとなった。
(検索ウィキぺデア)







 

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