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高橋是清と財政政策と2.26事件
日本史世界史 
『5・15事件と政党政治の衰退』の項目では、陸海軍の青年将校の義憤や国家主義的な右翼勢力によって緊迫する昭和期の政治情勢を解説しましたが、日本でそういった軍事拡張政策や政府転覆のクーデターに一定の支持が集まりだした要因として『昭和恐慌(世界恐慌)』を考えることができます。
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景気の後退が激しくなり雇用が減少して失業者が町に溢れるのと同時に、物価と労賃が連動して下落するデフレスパイラルが起こり労働者も農家も悲惨な生活状況に陥りました。

日本は欧米の帝国主義列強と比較すると、より早い段階で世界恐慌の景気低迷から抜け出すことが出来たのですが、昭和恐慌(昭和恐慌)の克服に極めて大きな役割を果たしたのが首相を経験したこともある当時の大蔵大臣・高橋是清(たかはしこれきよ,1854-1936)でした。

幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子の是清は、仙台藩の足軽高橋覚治の養子となって高橋是清となりました。
高橋是清は『アメリカ留学・留学先で騙されてカリフォルニアのブドウ園で奴隷的労働・文部省や農商務省の官僚・ペルー銀山事業の失敗・日本銀行に入行・閣僚・総理大臣』といった特異な人生のキャリアを積んだことでも知られますが、日露戦争の時には日銀副総裁として英国の公債引受を実現して戦費を調達しました。

1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌が発生した時には、田中義一内閣(1927年4月20日~1929年7月2日)で三度目の大蔵大臣を勤めて、モラトリアム(支払猶予制度)や紙幣の大量印刷によって当面の金融危機を回避しました。昭和6年(1931年)には、政友会総裁の犬養毅内閣において4度目の大蔵大臣となります。

犬養内閣では金輸出の再禁止(12月13日)をして『管理通貨制度』への移行を促しましたが、これは日本の通貨が兌換紙幣から不換紙幣へと切り替わる『金本位制度の放棄』を意味しておりイギリスに次ぐ移行の早さでした。
金本位制を放棄して管理通貨制度に移行したことで、『金の保有量』に制約されないフレキシブル(柔軟)な積極財政政策を行いやすくなり、大量の国公債発行による公共事業や軍事への投資が可能になりました。

高橋是清はケインズ政策の先駆けとも言える公共事業・軍事予算を活用した『積極財政政策』を実行して、大量の国際を日銀に引き受けさせることで財政規模を拡大しましたが、国債・通貨の大量発行によってインフレが発生してデフレスパイラルの大不況を離脱する原動力となりました。

国民経済を破綻させないレベルのマイルドなインフレを発生させることで、デフレスパイラルによる物価・労賃の下落や雇用の減少を堰き止めることができるのですが、これを『リフレーション政策・インフレターゲット』といいます。
時代を先取りするかのような高橋是清のリフレーション政策で、日本は欧米諸国よりも早く世界恐慌から離脱することができたのですが、高橋蔵相は六度目の大蔵大臣に就任した岡田啓介内閣において『2・26事件(1936年)』の被害に遭い、赤坂にある自宅の二階で陸軍青年将校に暗殺されてしまいました。

高橋是清が二・二六事件において標的にされたのは、国民生活を圧迫する高率のインフレーション(物価上昇)を抑制するために、赤字国債と国家予算を縮小しようとして(軍部の怒りを買う)『軍事費の削減』に手をつけたからだとも言われています。

アダム・スミスのような『古典的自由主義(自由放任主義)』では、政府が市場に政策介入せずに市場の競争原理に任せたほうが経済は成長すると考えますが、公共投資・公共事業のケインズ政策を先取りしたかのような高橋是清は、赤字公債発行を辞さない政府の積極的な財政支出によって景気は回復すると考えました。
経済政策として『緊縮財政』よりも『積極財政』のほうが景気回復効果が優れているという当たり前の事実に着目した財政政策ですが、このことは財政負担と歳出の小さい『小さな政府』から財政負担・歳出の大きい『大きな政府』への転換を進めました。

高橋是清が特に公共投資・公共事業として積極的に資金を投入したのは、『財閥系の大企業の基幹産業』と『対外的な軍事費の増大』であり、高橋是清が大蔵大臣を務めていた1930年代後半から急速に『歳出に占める軍事費の割合』と『歳入に占める国公債・借金の割合』が増大しました。

第二次世界大戦(太平洋戦争)の終戦が迫っていた劣勢の日本では、1943年に歳出に占める軍事費の割合が6割を越えており、歳入に占める国債の比率も7割に迫る勢いで、財政状況は赤字が累積する極めて厳しい状況になっていました。

1932年には国内産業を保護するために関税の引き上げが為され、『日満自給圏(日本と満州・朝鮮のブロック経済圏)』の構想によって日本は欧米諸国からの輸入に頼らなくても良い『重化学工業の発展』に国家の歳出を重点的に振り向けていきました。
 
日本は基幹産業を国営企業や公共事業で育成して、軍事支出と雇用を増大させる積極財政政策によって『大きな政府』への道を歩み始めますが、当時の軍部や革新官僚の多くは自由市場主義を否定して、国家が主要な産業分野を管理統制して国民の労働力を動員できるようにする『統制経済論』を支持していました。

1930年代の軽工業から重化学工業への転換が日本の不況克服の原動力となりましたが、この重化学工業の発展と需要の多くは軍拡財政・満州国への投資といった『軍需』によって支えられていたことにも留意しておく必要があるでしょう。
三井・三菱・住友といった財閥資本が、鉄鋼・造船・機械・化学といった巨額の設備投資(初期資本)がかかる重化学工業を経営することとなり、1936年の自動車製造事業法などの保護政策によって日産自動車やトヨタ自動車が軍需と結びついて躍進する契機が生まれました。

日本窒素や日本曹達、理研、日立、日産、豊田といった新興財閥系の企業も、軍部の外地開発や利権と結びつくことで急速な発展を成し遂げることになります。

日本政府は1929年の『産業合理化政策』によって企業の合併や独占的なカルテルの形成を奨励していましたが、1931年に『重要産業統制法』が成立すると、政府が重要産業と認定した分野での自由競争を抑制して独占的なカルテル・コンツェルンを保護育成しました。

政府は財閥系・政府系の大企業を保護して系列支配のカルテルやコンツェルンを巨大化させる政策を取ったので、1930年代以降には中小零細企業が大企業(財閥)の系列に『下請け企業』として組み込まれる独占支配的な経済体制が確立していきました。
重化学工業分野の工場では労働力の機械化や生産効率の向上が図られることになり、対人的な暴力・上下関係によって労務管理をする『親方―子方制度』や住み込みで過酷な労働をさせる『飯場制度・納屋制度』などは衰退していきました。

二・二六事件と昭和維新の挫折

1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて起こった陸軍皇道派の青年将校らによる『二・二六事件』は、近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊の1483名の兵士を動員した大規模なクーデター未遂事件でした。
急進的な国家主義者・北一輝(きたいっき,1883-1937)の国家改造論思想の影響を受けた皇道派の陸軍青年将校たちが、『昭和維新・尊皇討奸』のスローガンを掲げて“君側の奸”を取り除くために起こした軍事クーデターであり、『政官財の癒着・元老重臣の専横による腐敗』を正して天皇親政によって国家の王道を実現することが目的でした。

北一輝の国家改造論や右翼的な国粋思想の影響を受けていた青年将校には、安藤輝三、野中四郎、香田清貞、栗原安秀、中橋基明、丹生誠忠、磯部浅一、村中孝次らがいます。

天皇の側にいる奸臣・逆賊を誅滅することで、天皇の大御心を安んじ再び明治維新のような王政復古を果たそうとした2・26事件の青年将校たちは、高橋是清蔵相、斎藤実内相、渡辺錠太郎教育総監の暗殺を成し遂げました。

当時の首相だった岡田啓介も暗殺の標的とされていましたが、義弟の松尾伝蔵が襲撃隊の前に走り出て銃殺されたため、松尾伝蔵を岡田啓介と誤認した青年将校らによって岡田首相は何とか一命を取り留めました。
2・26事件を起こした部隊は『決起趣意書』を作成して天皇に奏請することで自らを正規軍(官軍)と認めてもらおうとしましたが、昭和天皇はクーデターに与することはなく反乱軍と認識して『即座の鎮圧』を政府・軍部に命じました。

反乱が鎮圧された後には2・26事件に参加した青年将校の多くは、国家体制を転覆させようとした『反乱罪』で死刑に処されることになり、小規模な5・15事件と比較すると極めて厳しい厳罰主義の方針が示されました。

2・26事件を引き起こした青年将校らに理論的・思想的に大きな影響を与えたとされた国家社会主義者の大物・北一輝と西田税(にしだみつぐ)も、クーデターの理論的指導者として軍隊を煽動した反乱罪の罪で死刑になりました。

シーメンス事件
5月19日軍法会議は、松本和前艦政本部長に対し三井物産からの収賄の容疑で懲役3年、追徴金40万9800円を、また沢崎寛猛大佐に対し海軍無線電信所船橋送信所設置に絡みシーメンスから収賄した容疑で懲役1年、追徴金1万1500円の判決を下した。
東京地方裁判所は7月18日山本条太郎ら全員に有罪判決を下し(控訴審では全員執行猶予)、9月3日の軍法会議では藤井光五郎に対し、ヴィッカース他数社から収賄したとして、懲役4年6ヶ月、追徴金36万8000余円の判決を下し、司法処分は完了した。

しかし、折から第一次世界大戦の勃発もあって、3名の海軍軍人を有罪としただけでこの事件は終結した。「産業界と軍部との癒着構造の根源にまで追及すべきだった」という見方と「全く無実であった山本権兵衛と斉藤実を引責辞任、予備役編入したことは有力なリーダーなくして第一次世界大戦に突入することになり、また海軍衰退の元を作り
第二次世界大戦を陸軍主導で開戦する遠因になった」という見方がある。

三井高弘(三井八郎次郎)は事件後に三井物産社長職を引責辞任した。

シーメンス社
日本における事業展開(戦前)
1861年、ドイツ外交使節が徳川将軍家へシーメンス製電信機を献上し、ここに初めてシーメンス製品が日本に持ち込まれた。
1887年にはシーメンス東京事務所が開設され、以降、シーメンス社の製品は広く日本に浸透することになる。19世紀の主な納入実績には、足尾銅山への電力輸送設備設置、九州鉄道株式会社へのモールス電信機据付、京都水利事務所など多数の発電機供給、江ノ島電気鉄道株式会社への発電機を含む電車制御機および電車設備一式の供給、小石川の陸軍砲兵工廠への発電機供給、などがある。

1901年にはシーメンス・ウント・ハルスケ日本支社が創立された。
その後も発電・通信設備を中心とした製品供給が続き、八幡製鐵所、小野田セメント、伊勢電気鉄道、古河家日光発電所、曽木電気(のちの日本窒素肥料)等へ発電設備を供給した。また、逓信省へ、電話関係機器の多量かつ連続的な供給を行なった。

軍需関係では、陸軍へ口径60センチシーメンス式探照灯、シーメンス・レントゲン装置、各種無線電信機、海軍へ無線装置・信号装置・操舵制御装置等を納入している。
1914年には海軍省の注文で千葉県船橋に80~100キロワットテレフンケン式無線電信局を建築したが、この無線電信局の納入をめぐるリベートが、「シーメンス事件」として政界を揺るがす事件に発展することになる。

第一次世界大戦中は日独が交戦状態に入ったため営業を停止したが、1920年頃から営業を再開した。1923年には古河電気工業と合弁して富士電機製造株式会社を設立、1925年には電話部門を富士電機に譲渡した。

その後も、日本全国の都市水道局へのシーメンス量水器の納入、逓信省への東京大阪間電話ケーブルに依る高周波多重式搬送電話装置の供給などが続いた。関東大震災後には、シーメンスの電話交換機が各都市の官庁、ビル・商社に多数設置された。

1929年には、大連逓信局に軽量物搬送装置を供給。以降、1936年に満州国電信電話会社がシーメンス式ベルトコンベアを採用するなど、日本、台湾、満洲の電信局・郵便局のほとんどがこの様式を採用することとなる。

1931年には八幡市水道局にシーメンス製オゾン浄水装置が納入された。1932年には日本活動写真株式会社にトーキー設備40台を納入、以降全国各地の映画館にトーキー映写装置を販売することになる。

1932年、上野帝国図書館は日本最初のシーメンス式自動書類複写機を採用した。1936年には大阪市にも採用された。
満洲事変以降、富士電機は探照燈・特殊電気機器・船舶航空器材など軍需兵器関係の製作に力を入れることになり、シーメンスから専門技師を招致するなどして、シーメンス関連企業が設計製作を行なっていたその種の装置の国産化に努めた。

1938年頃から、アルミニウム工場が日本国内、満洲、朝鮮の各地に建設・増設されたが、シーメンス社はその設備・資材供給で多忙を極めることとなった。発電設備関係では、1939年、満洲国各地、鴨緑江水電株式会社などに、相次いで大型発電設備を供給した。

1941年、ドイツとソ連が交戦状態に入り、シベリア鉄道経由での貨物輸送が不可能になった。続く日米開戦により、東京シーメンスはほとんど全部の製品を国産化することとなった。
この時期の納入実績としては、シーメンス水素電解槽の住友電気工業、日本カーバイド工業、鐘淵紡績等への供給、逓信省への大型短波放送設備の納入等がある。戦争が続く中で、資材の獲得が困難となり、戦時中は保守業務が中心となった。


常陸風土記の語り
1.財閥三井の設立「益田 孝」
成立時期の詳細については、『常陸国風土記』によれば大化の改新(645年)直後に創設されたことになるが、壬申の乱(672年)の功臣である大伴吹負が後世の常陸守に相当する「常道頭」(「常陸」ではない)に任じられたとする記事がある事から、「常陸」という呼称の成立を7世紀末期とする考えもある。
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なお、『常陸国風土記』(逸文)の信太郡の条に「白雉4年(653年)、物部河内・物部会津らが請いて、筑波・茨城の郡の700戸を分ちて信太の郡を置けり。この地はもと日高見の国なり。」とあり、令制国成立前は日高見国だったとされている。

律令制が敷かれた当初の常陸国は多珂国を編入したため、現在の茨城県の大部分(西南部を除く)と、福島県浜通りの大熊までに至る広大な国であった。
『常陸国風土記』には、「久慈郡と多珂郡の境の助川を道前(道の口)と為し、陸奥国の石城郡の苦麻の村を道後(道の尻)と為す。」という記述があり、「助川」が日立市に、「苦麻」が大熊に相当する。言い換えると、現在の福島第一原発付近が、常陸国と陸奥国の境であった。
後に陸奥国が設けられると、常陸国の北端は菊多郡まで(陸奥国との境:現在の湯本駅付近)になった。

更に718年(養老2年)に、菊多郡が新設の石城国に入れ替えられ、常陸国と石城国の境に当たる現在の平潟トンネルのすぐ近くに菊多関(後の勿来関)が建てられた。

これ以後は常陸国の範囲は変わらず、西南部を除いた茨城県に相当する範囲となった。新治郡、筑波郡、信太郡、茨城郡、行方郡、香島郡(後に鹿島郡)、那珂郡、久慈郡、多珂郡(後に多賀郡)、白壁郡(後に真壁郡)、河内郡から構成される。

平安時代の天長3年9月6日(826年10月10日)、常陸国と上総国、上野国の3国は、国守に必ず親王が補任される親王任国となり、国級は大国にランクされた。

親王任国の国守となった親王は「太守」と称し、官位は必然的に他の国守(通常は従六位下から従五位上)より高く、親王太守は正四位以上であった。

親王太守は現地へ赴任しない遙任で、例えば葛原親王や時康親王のような常陸太守が実際に任地に赴くことはないので、国司の実質的長官は常陸介であった。
律令制による国郡支配が解体された平安時代末期以降、荘園の分立や郡の分割が進んだ。近世始めに実施された太閤検地の際に、細分化された郡や荘を再編成して古代の郡の復元が図られたが、その領域は古代のものとはかなりの違いがある。
明治政府による郡区町村編制法と郡制の施行による再編を経て、第二次大戦後の現代まで続いた茨城県の郡の区分と領域は、この太閤検地で再編されたものを基礎としている。

上総下総の分立

『帝王編年記』によると、安閑天皇元年(534年)に上総国を置いたというが、これは総国を上下に分けたという意味に解され、下海上・印波・千葉の国造の領域を併せて下総国が、阿波・長狭・須恵・馬来田・伊甚・上海上・菊麻・武社の国造の領域を併せて上総国が分立した。

上総・下総という地名は、語幹の下に「前、中、後」を付けた吉備・越とは異なり、毛と同じく「上、下」を上に冠する形式をとることから6世紀中葉とみる説があり、『帝王編年記』の記述に合致し、伝承を裏付けるものである。

国造制から律令郡国制への移行は、早ければ大化元年(645年)、遅くとも大化5年(649年)以前と推測され、この間に令制国としての上総国と下総国が成立した。
和銅6年(713年)の好字二字令によって「上総国」「下総国」と表記が改められたと考えられる。これ以前は「上捄国」「下捄国」と書かれていた(詳細下記。本項では便宜上これ以前についても総の字を使った)。
養老2年(718年)上総国から、阿波国造および長狭国造の領域だった平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡の4郡を割いて安房国とした。
ここにおいて令制国としての「房総三国」が成立した。天平13年(742年)安房国を再度上総国に併合したが、天平宝字元年(757年)に再び安房国を分けた。そのまま明治維新に至る。
(記事抜粋〆)
http://blog.livedoor.jp/raki333-deciracorajp/archives/38147955.html

財閥三井の設立「益田 孝」
三井物産設立と共に同社の初代総轄(社長)就任
益田 孝(1848年11月12日 -1938年12月28日)
新潟県佐渡市相川に生まれる。幼名は徳之進。父の鷹之助は箱館奉行を務めた後、江戸に赴任。孝も江戸に出て、ヘボン塾(現・明治学院大学)に学び、麻布善福寺に置かれていたアメリカ公使館に勤務、ハリスから英語を学ぶ。文久3年(1863年)、フランスに派遣された父とともに遣欧使節団(第二回遣欧使節、または横浜鎖港談判使節団)に参加し、ヨーロッパを訪れている。ヨーロッパから帰国後は幕府陸軍に入隊。騎兵畑を歩み、慶応3年(1867年)6月15日には旗本となり、慶応4年(1868年)1月には騎兵頭並に昇進した。

日本の実業家。草創期の日本経済を動かし、三井財閥を支えた実業家である。
明治維新後世界初の総合商社・三井物産の設立に関わり、日本経済新聞の前身である中外物価新報を創刊した。茶人としても高名で鈍翁と号し、「千利休以来の大茶人」と称された。男爵。

明治維新後は横浜の貿易商館に勤務、明治5年(1872年)に井上馨の勧めで大蔵省に入り、造幣権頭となり大阪へ。明治7年(1874年)には、英語力を買われ井上が設立した先収会社では東京本店頭取(副社長)に就任。
明治9年(1876年)には中外物価新報を創刊。同年、先収会社を改組して三井物産設立と共に同社の初代総轄(社長)に就任する。

三井物産では綿糸、綿布、生糸、石炭、米など様々な物品を取扱い、明治後期には日本の貿易総額の2割ほどを占める大商社に育て上げた。
三井物産が設立されてからは、渋沢栄一と共に益田の幕府騎兵隊時代の同期生の矢野二郎(商法講習所所長)を支援したため、物産は多くの一橋大学出身者が優勢を占めた。
三井内部では、工業化路線を重視した中上川彦次郎に対して商業化路線を重視したとされている(但し、後述の三井鉱山の設立や團琢磨を重用したように工業化路線を軽視したわけではなかった)。

さらに、三井財閥総帥であった中上川の死後実権を握ると、経営方針の中で、中上川により築き上げられた三井内の慶應義塾出身者を中心とする学閥を排除することを表明し、中上川の後継者と目されていた朝吹英二を退任させ、三井財閥総帥には團琢磨を、三井銀行には早川千吉郎を充てた。

また、工部省から三池炭鉱の払下げを受け、明治22年(1889年)に「三池炭鉱社」(後の三井鉱山)を設立、團を事務長に据えた。明治33年(1900年)に台湾製糖設立。大正2年(1913年)、辞任。
玄孫は歌手の岩崎宏美の元夫で商社マンである。岩崎と離婚後、2人の息子の親権を玄孫が、養育権を岩崎が持ち、再婚後は養子にしている。

妾の「たき子」は、益田の数寄者仲間である山縣有朋の妾、「貞子」の姉。姉妹は元芸妓。

有朋の妾と益田 孝の妾
妻に、山口県湯玉の庄屋の娘・友子。友子没後、妾だった元日本橋芸妓・貞子を夫人としたが、正式には未入籍。
友子との間に7人の子を儲けたが、女児1人を除いて夭折したため、有朋には跡継ぎがなく、姉の壽子と勝津兼亮の次男・伊三郎を養子として迎える。
伊三郎は枢密顧問官・逓信大臣・徳島県知事等を務めた。有朋の姉、雪子は森山久之允に嫁す。伊三郎の子・山縣有道は宮中に仕え侍従・式部官を務めた。また有朋の娘・松子と船越光之丞の三男・有光を伊三郎の養子に迎え、山縣家分家として男爵を授爵された。
有光は陸軍大佐・第21飛行団長。有道の子・山縣有信は栃木県矢板市長を務めた。

益田孝の妾「たき子」 山縣有朋の妾「貞子」

明治美人伝 (長谷川時雨)
山県公の前夫人は公の恋妻であったが20有余年の鴛鴦えんおうの夢破れ、公は片羽鳥かたわどりとなった。
その後、現今の貞子夫人が側近そばちこう仕えるようになった。幾度か正夫人になるという噂うわさもあったが、彼女は卑下して自ら夫人とならぬのだともいうが、物堅い公爵が許さず、一門にも許さぬものがあって、そのままになっているという事である。表面はともあれ、故桂かつら侯などは正夫人なみにあつかわれたという、その余の輩ともがらにいたってはいうまでもない事であろう。すれば事実は公爵夫人貞子なのである。

貞子夫人の姉「たき子」は紳商益田孝(ますだたかし)男爵の側室である。益田氏と山県氏とは単に茶事ちゃじばかりの朋友ともではない。その関係を知っているものは、彼女たち姉妹のことを、もちつもたれつの仲であるといった。
相州板橋にある山県公の古稀庵こきあんと、となりあう益田氏の別荘とはその密接な間柄をものがたっている。

姉のたき子は痩やせて眼の大きい女である。妹の貞子は色白な謹つつましやかな人柄である。今日の時世に、維新の元勲元帥の輝きを額にかざし、官僚式に風靡し、大御所おおごしょ公の尊号さえ附けられている、大勲位公爵を夫とする貞子夫人の生立ちは、あわれにもいたましい心の疵きずがある。
彼女たち姉妹がまだ12、3のころ、彼女たちの父は、日本橋芸妓歌吉と心中をして死んだ。そういう暗い影は、どんなに無垢むくな娘心をいためたであろう。
子を捨ててまで、それもかなりに大きくなった娘たちを残して、一家の主人が心中する――近松翁の「天てんの網島あみじま」は昔の語りぐさではなく、彼女たちにはまざまざと眼に見せられた父の死方である。
明治16年の夏、山王さんのう――麹町日枝ひえ神社の大祭のおりのことであった。芸妓歌吉は、日本橋の芸妓たちと一緒に手古舞てこまいに出た、その姿をうみの男の子で、鍛冶屋かじやに奉公にやってあるのを呼んで見物させて、よそながら別れをかわした上、檜物町ひものちょうの、我家の奥蔵の三階へ、彼女たちの父親を呼んで、刃物で心中したのであった。

彼女たちは後に、芝居でする「天の網島」を見てどんな気持ちに打たれたであろうか、紙屋治兵衛かみやじへえは他人の親でなく、浄瑠璃でなく、我親そのままなのである。京橋八官町の唐物屋とうぶつや吉田吉兵衛なのである。

彼女たちの父は入婿いりむこであった。母は気強きごうな女であった。また芸妓歌吉の母親や妹も気の強い気質であった。
その間に立って、気の弱い男女は、互いに可愛い子供を残して身を亡ほろぼしたのである。其処に人世の暗いものと、心の葛藤かっとうとがなければならない。結びついて絡からまった、ついには身を殺されなければならない悲劇の要素があったに違いない。

その当時の新聞記事によると、歌吉の母親は、対手あいての男の遺子たちに向って、お前方も成長おおきくなるが、間違ってもこんな真似をしてはいけないという意味を言聞かして、涙一滴いってきこぼさなかったのは、気丈な婆さんだと書いてあった。
その折、言聞かされて頷うなずいていた少女が、たき子と貞子の姉妹で、彼女の母親は、彼女たちの父親を死に誘った、憎みと怨うらみをもたなければならないであろう妓女げいしゃに、この姉妹きょうだいをした。彼女たちは直すぐに新橋へ現れた。

複雑な心裡しんりの解剖はやめよう。ともあれ彼女たちは幸運を羸かち得たのである。情も恋もあろう若き身が、あの老侯爵に侍かしずいて30年、いたずらに青春は過ぎてしまったのである。老公爵百年の後の彼女の感慨はどんなであろう。夫を芸妓に心中されてしまった彼女の母親は、新橋に吉田家という芸妓屋を出していた。
そして後の夫は講談師伯知はくちである。夫には、日本帝国を背負っている自負の大勲位公爵を持ち、義父に講談師伯知を持った貞子の運命は、明治期においても数奇なる美女の一人といわなければなるまい。
(記事引用)

この時代(2016年)から、その時代を俯瞰した場合、まったくもって信じ難い、ということが多々ある。いまでは「妾」という言語すら使われない。多分差別用語なのだろう。今風に云うと「不倫」ということか。

それよりも、もっと不可解な人脈が、益田孝と山縣有朋の関係だ。その両者の妾が姉妹であった事は、時代背景として考えられないこともないが、三井の益田と、長州の山縣が、数寄者(すきしゃ)同志として繋がりがあったとは想像することも出来ない。なぜなら互いのバックポーンが敵対同士の仲であるからだ。
その部分を掘り下げると、もっと面白いタスクが読み取れるかもしれない。 

斉藤実 伝
1 大陸に吹きすさぶ嵐  著者北山敏和
 1929年(昭和4)秋アメリカから始った経済恐慌が、たちまち全世界に波及し、日本も不況に陥った。
 先進諸国はそれから脱出する途として、海外市場獲得の目的を立て軍備拡充の熱が昂まった半面、第一次世界大戦の反動と、財政難のために、軍備縮少が強く望まれた。
 ジュネーブ会議(斎藤実全権委員)といい、パリに於ける大国間に結ばれた不戦条約といい、英の招請で開かれたいわゆるロンドン会議というものも、すべて目的とする所は、地球上から戦争をなくす念願から出ているのだった。
 わが国はそのいずれにも加盟したのであるが、そのうちロンドン会議での結果として、日本海軍の保有艦数は、米国に対して、補助艦全体で7割、重巡洋艦は6割、潜水艦に於て米国と同量が許される、という割当てで落着したが、軍拡を希う人々は収まらなかった。
 まず軍令部が『これを呑むというのは統師権を侵犯する不屈な越権である』として怒り出し、やがて右翼が騒いだ。
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米国公使館時代(海軍大尉)

 そしてこれは政府の軟弱外交のせいだとし『財閥と組んで腐敗堕落の政治を行う議会政治そのものが悪いのだ』と政治制度の否定を明らさまに唱える者もあった。
 経済不況も政策が良くないからだと解釈して、その立場からの議会政治不信の徒も出て来た。
 当時続出した右翼のうち北一輝らの一派は、軍部という一大組織を動かすことによってしか、理想的な社会的改造成就は不可能と考え、軍部内に喰い込んで青年将校群と提携し、まず皇室中心の軍部独裁政権樹立を目論んだ。
 これは政府の大官や要人の暗殺を前提とした恐るべき陰謀であったが、事露われて未然に終ったが、軍部では極秘に処理して首謀者の処刑もなく、これら三月事件とか十月事件といわれたものもうやむやのうちに葬られてしまった。
 
 しかしこの時すでに後の二・二六事件の先例が、そっくりそのまま不発で行われていたのである。
 軍部内で以前から夢想していた軍部独裁政権欲は右翼のそそのかしもあり、陰に陽に議会否認の態度をとる軍部官僚が中堅将校以下に多くなって行った。

 満洲事変は斎藤実が第2回目の朝鮮総督をやっていた昭和6年(1931年)9月に関東軍が起したものだったが、張学良軍の敵対行為であると称してそのまま戦線を満鉄全沿線に拡げて占領してしまい、事変勃発当初から日本政府が指令した不拡大方針を全く無視して関東軍は全満洲に進撃していった。

 日本軍が大苦戦した上海事変も軍部の独走で中国国民政府は国際連盟に日本の侵略行為を提訴し、リットン調査団が現地調査に来ても軍事行動を止めず、むしろ挑戦するかの如き態度で、清朝最後の皇帝溥儀を執政とする五族協和制の満洲国を建国しやがて帝政に切りかえた。
 当然の帰結だが国際連盟を日本は脱退して、以後は道義的顧慮も制肘(せいちゅう)を受ける何物もないと、大陸侵略政策に突進して行ったのである。

2 再び朝鮮総督に就任  

 昭和3年は彼にとって、叔父の死という哀しみはあったけれど、比軟的のびやかな年であった。
 秋11月には今上陛下の即位大礼式に参列し、楽しい忙しさの中に平穏に暮れた。
 翌けて4年8月に図らずも、2度目の朝鮮総督の大命を受けた。
 陸軍大将の山梨半造のあとである。
 1度目の朝鮮総監は8年半も勤めたのであるが、それから僅か1年半での復帰は、他に適任者が得られないと共に現地朝鮮の彼を慕う民衆の声に動かされての人事であった。
 全く慈父の如く半島人はなつき、また各般の施策よろしきを得たから、数年にして半島の全貌が昔の俤(おもかげ)と異ってしまった程である。
 山梨も格別ヘマをやったのではなかったが、斎藤の物凄い人気に当てられてしまって嫌気がさしてしまったのだろう。
 しかし昭和6年5月中旬、東京に帰って私邸で入浴後に卒倒し、医師から絶対安静と言渡されたため朝鮮生活を打切ることを決心した。
 その時の病気は案外軽く済んだが、そのまま辞表を提出し故郷の水沢にも帰ったりなど暢気に静養して健康を回復した。そしてその年の秋には朝鮮に戻り、永年の交誼を謝すために知友を訪ね、思い出探い各地の山川を歩いた。

3 祖国日本の変容  

 彼が前後10ヶ年以上も、植民地朝鮮半島の整備繁栄に心魂を傾けている間に、日本国内は目ざましい躍進を逐げて、世界の1等国と自負するまでの実力を蓄積していた。
 しかしそれと共に、そのうぬぼれの孕(はら)む恐るべき危険性も増長していた。
 朝鮮に在っても彼には掌を指すように判ってはいたであろうが、帰って見て肌身に感じて、予想以上に憂うべき実体と知って驚いたであろう。
 彼が前の朝鮮総督の間(昭和2)に全権委員として務めたジュネーブ会議(結果は決裂したが)も、翌年パリで主要諸国間に、国際紛争解決の手段として戦争に訴えないという不戦条約も、2年後のロンドン会議(英の主唱で日米仏伊が招請された)も目的とする処は非戦和平の為めで、世界共通の風潮だったが日本海軍の増強に怖れを懐いてのものでもあった。
 殊に米軍艦より下まわる艦積を強いられたロンドン会議は明らかに日本を押えておく魂胆のものだった。
 軍縮は平和を願う気持からだけでなく、当時の世界は経済恐慌に見舞われていた点からも必要であったが、わが軍部は強気一点張りでありロンドン会議の結果に対しては非難が昂まった。

ジュネーブ軍縮会議途上の斎藤実夫妻

 民間の右翼もこれに同調したが、民政党の浜口雄幸内閣はそれらの反対をおさえて批准した。従来の右翼は一種の暴力団だったが、その頃から変貌して、政府や社会の動揺に乗じて国内のファッシズムの体制を固めようとする徒党的政治結社となり、たえず軍の若手将校に喰い入っていた。

 軍も右翼も政府の軟弱外交を憤慨し、昭和5年2月にはロンドン軍縮を批准した浜口首相は東京駅頭で右翼団員のため重傷を受け、やがて死んだ。
 
 北一輝などは天皇制を背景に、軍部独裁制と戦争による現状打破を主張し、一部青年将校らに強い影響を与えていた。
 いわゆる三月事件とか十月事件と称されるものは、それの実行運動(いずれも失敗に終ったが)の現れであった。
 斎藤は軍部の青年将校たちの変りように最も驚き、将来を憂えたに違いない。
 全く彼らの思い上りようは内地はもとより外地、たとえば関東軍の青年将校層などにも共通するもので、政令無視を平然とやる程にまで増長していた。
 関東軍が柳条溝の満鉄線路で起した小爆発事件をきっかけに(張学良の関東軍にする敵対行為と主張して)軍事行動を起し、無際限の拡大を示した。
 浜口の後継の若槻首相が不拡大の方針を指令しても無視して(陸軍中央部も政府を圧迫し)全満洲にわたって進撃した。
 若槻内閣は(8ヶ月で)こうした軍の圧迫に退陣して犬養毅が首相となったが、荒木陸相が代表となってファシストの圧迫は依然たるものだった。
 戦火は中国南部に拡大され、上海事変と呼ばれる激しいものとなり、長くかかってやっと収まった。
 中国は国際連盟に日本の侵略行為を提訴したので、リットン調査団が現地調査して日本の侵略行為を認め、満洲を国際管理下に置くことを求めた。
 そこで国際連盟を脱退して自主外交だとして、なおも中国侵略を進めるという軍の無理押しの方針に、政府も引きずられていった。
 満洲国を建国し溥儀(はくぎ)を執政に迎えて五族共和の宣言をしたのは、リットン調査団が満州に乗込んで調査に廻ってる最中に強行したのであった。
 軍の眼中には政府もなければ、国際連盟もないという鼻息だったのである。
 実際に満洲事変の緒戦の頃は連戦連勝という具合で、国内からも喝采の声が上ったものである。
 従ってこうした軍の推進力と支援役であった血盟団や、愛郷塾、神武会、国本社等々の狂信的な右翼団体が勢力を得て、彼らの主張と相反し、又はためらう支配者層に対して、個人的テロをどんどん実行した。

 昭和7年に前蔵相井上準之助が、その翌月には三井財閥の大番頭団琢磨が血盟団に暗殺された。
 続いて5月15日、右翼団体と常日ごろ深い関係をもっていた数人の海軍将校らのために、首相犬養毅が有名な『話せばわかる』『問答無用』のやりとりの上でピストルの引金を引き暗殺された。
 これが五・一五事件で、それまでの数多くの暗殺のうちでも有名なのは、臨終の芝居がかっているせいによろうか。
4 斎藤内閣の組閣から二・二六事件まで  

 斎藤はもともと軍人ではあるが当時の若手将校は肚に飛んでもない野心を待っているのだから、理屈や正論などの通る相手ではなく、扱い方はひと通りやふた通りのものではなかった。

 右翼という存在も軽視出来ず、政党はやむを得ず後退した形といっても尊重せねばならず、という考えから時勢の要望と観て、挙国一致体勢の内閣を組織することにした。
 後藤文夫という官僚の代表が中心で人選したのだが、後藤にそういう大事な仕事を任したのは、彼は元来右翼と関係深い男であることも、考慮に入れていたのであろう。
 斎藤の寛大さは、朝鮮に渡って最初の下僚集めの時も全部人任せでやり、自分は文句もいわずにしかもあの善政10ヶ年以上の成果を収めたのだから、何とも不可思議な測り知られない超人という外はない。
 斎藤内閣には高橋是清が政友会から蔵相として入閣した。高橋是清は首相級の貫録の人で斎藤とは古くから肝胆相照した仲でもあり、片腕的存在として内閣に重みを増した。
 斎藤内閣は9月に満洲国を承認し、日本の独占的権益及び日本軍の駐屯とを確認させる「日清議定書」に調印した。
 日本軍の中国に於ける侵攻はかなり進んでいて、一応この上げ潮と見える情勢に妥協の必要があっだろう。 中国大陸で共産党討伐に主力を注いでいた蒋介石との間に塘沽停戦協定を結び、中国に於ける日本に対するそれまでの悪感情が一旦は収まった程であった。

犬養毅内閣
s6/12/13~ 斎藤実内閣
s7/5/26~ 岡田啓介内閣
s9/7/8~
総理
外務
内務
大蔵
陸軍

海軍

司法
文部
農林
商工
逓信
鉄道
拓務
内閣書記官長
法制局長官 犬養毅
吉沢謙吉
中橋徳五郎
高橋是清
荒木貞夫

大角岑生

鈴木喜三郎
鳩山一郎
山本悌二郎
前田米蔵
三土忠造
床次竹二郎
秦 豊助
森 恪
島田俊雄 斎藤実
内田康哉
山本達雄
高橋是清
荒木貞夫
林銑十郎 
岡田啓介
大角岑生
小山松吉
鳩山一郎
後藤文夫
中島久万吉
南 弘
三土忠造
永井柳太郎
柴田善三郎
堀切善次郎 岡田啓介
広田弘毅
後藤文夫
高橋是清
林銑十郎 

大角岑生

小原 直
松田源治
山崎達之輔
町田忠治
床次竹二郎
内田信也
児玉秀雄
吉田 茂
金森徳次郎
①第2次若槻内閣がリットン調査団報告で退陣し、犬養毅内閣発足
②五・一五事件(s7/5/15)で犬養毅が総理官邸で射殺され、斎藤実内閣発足
③帝人事件で斎藤内閣は総辞職し、岡田啓介内閣発足
④二・二六事件(s11.2.26)で岡田内閣は総辞職し、広田弘毅内閣発足
⑤二・二六事件で官邸が襲われるも、秘書を首相と見間違ったため、辛くも岡田首相は助かる。

 しかし斎藤実内相、高橋是清蔵相等が射殺された。
 また鈴木貫太郎侍従長も瀕死の重傷を受ける。
 この時助かった岡田啓介、鈴木貫太郎両氏は戦争終結論者で、彼等の活躍で昭和20年8月の終戦を迎えることができた。
 しかし日本軍の進攻の勢いは依然として止まず、深入りし過ぎていた。
 財政方面に於ける高橋の施策も積極策に転じていて、軍需インフレのきざしも当然やむか得なかったが、輸出ダンピングも、従来の息の詰まるような緊縮政策に伴う不況を一掃して、明るい気分を国民にもたらし、満洲国の建設が順調堅実に進捗しているとの朗報は、日本人全体が急に大国民に生長したかのような心強を持たせた。
 しかし日本国内と広漠たる満洲国との双方に亘って軍需産業の建設を強行したので、当然貿易の収支は急激に悪化を見るに至って、最後の段階ではこの無理が斎藤内閣の命を縮めた形になってしまった。
 第一、日本の財政を傾ける程にして後援して建国した満洲国の皇帝薄儀と日本軍との間に救うべからざる溝が出来、王道楽土の建設も失敗の様相を呈し始めた。
 国内に於ては数年前から続いていた農業恐慌は益々深刻さを増して来た。
 そして三土忠造鉄相と鳩山一郎文相に疑惑が掛けられた帝人事件が起こり斎藤内閣は退陣するに至った。
 しかし斎藤内閣が歴代の内閣の中でも立派な方であったことは、帝人事件がでっちあげであったことから明らかである。
 斎藤内閣は2年4ヶ月持続したが斎藤は重臣会議で、後継者として自分の信頼する海軍大将岡田啓助を推し、全員の賛成を得て安心して退いた。
 前閣僚も多数留任したが後藤文夫は内相として残った。
 軍部は一層強く政治に関与して来て、後藤を通じて殆ど内閣を己れの思うがままの干渉と注文をつけて来るようになったという。
 或は『我等の多年の夢の実現の日近ずけり』と図に乗らせたかも知れない。
 そしてそろそろその支度というムードを醸し出していたらしい。
 当時、陸軍部内には派閥があることは世間にも知れ渡っていたが、荒木貞夫、真崎甚三郎を中心とする皇道派と、永田鉄山、東条英機らを中心とする統制派との2つに割れての勢力争いが激化していたのだ。
 期する目標は両派とも大陸主義という領土拡大の点は共通だが、手段に於ては前者はいきなり天皇の親政と軍部独裁体制による方法に対し、後者は従来の政治体制を基礎に考えて、重臣、官僚、財閥の協力の上に天皇を置く方法で、勿論実権は軍部の掌中に握って、というのである。
 2派の勢力は時に従って消長を繰返して来ていたが、満洲事変の当初は皇道派が勢いを得ていたけれど、満洲国建設期に入ると共に統制派が軍の要職を多く占めるようになった。
 この両派の確執がハツキリと世間に暴露されたのは、昭和10年8月に陸軍省内で軍務局長の永田鉄山少将が斬殺された事件である。
 白昼、警備の厳重な陸軍省の役所へ押かけてこの凶行を演じたのは、青年将校相沢中佐で彼は皇道派だった。
 自派の領袖真崎甚三郎教育総監(二・二六事件の黒幕といわれている)が突然の罷免されたは、敵派の永田局長の差し金だと考えた怨みの刃であった。
 しかし実際は斎藤内閣時代に陸相が荒木貞夫から林銑十郎に代わり、林陸相が真崎を辞めさせたのだった。
 青年将校のうちには純真な憂国心から動いてるものも勿諭少くはなかったが、軍部独裁の考えは彼等の政治運動となり、この傾向は士官学校生にまで及んでいた。
 これを軍幹部や士官学校の幹事(当時少将だった東条英機)が心配して、軍及び士官学校を粛正するため多数の将校を退役させたり放校させたため、これが却って統制派軍首脳部への反感を深める結果になっていった。
 その中には二・二六事件を実行した村中大尉や磯部主計などもいて、復讐心を燃やしクーデターの決心に油を注いだ具合となった。
 そして第一師団を満洲に移駐することになったのを『我々を要注意と睨んで北満の荒野に追っ払うのだな』と邪推したので、それらが合体して満州へ移駐の前に決行となったのが二・二六事件であるといわれる。
 彼等の社会革新の理念によれば天皇親政と軍の独裁にあるのだから、重臣も財閥も官僚も無用のもの、むしろ最大の障碍と目しているのだからマ-クした人々が、まず国家の、陛下の側近の重臣級になったのは当然の結論であった。
 不幸なる日が来た。
 昭和11年2月25日の夜半から、牡丹雪が帝都の空を蔽っていた。
 その中を、野中中尉に引率された第一師団の兵隊が戦時武装で粛々と行進した。
 近衛師団からやその他からも出て来て一師団に合流した形になり、その後別れて四方に散って行った。
 すべて周到な計画のもとに行動されたようだが、果して末端の兵隊に至るまで重臣と大官を屠る出征と知って従ったのであろうか。
 彼等の携帯した趣意書には『内外重大危意の際、元老、重臣、財閥、軍閥、官僚、政党等の国体破壊の元兇を排除し、以て大義を正し、国体を擁護開顕せんとするにあり』とあり、このビラをまきながら歩いた。
 野中の主力部隊は総理官邸を襲い、永田町、霞ヶ関及び溜池一帯を占拠し、警視庁、参謀本部、内務省陸軍省を占領した。
 しかし岡田首相でなくて秘書の松尾の従兄弟が、よく似てるので本人と見まちがえられて殺され、あとで首相が現われるという悲惨中のユーモラスな場面もあった。
 興津の西園寺公は襲撃の寸前に情報を受け避難した。
 湯河原に滞在中の牧野前内府も夜中に襲撃を受け、護衛警官の勇敢な働きで危機を脱したが、警官の殉職は痛ましかった。
 高橋蔵相は自宅で重傷を負い間もなく死亡し、教育総監で真崎の後任の渡辺錠太郎大将も自宅でやられた。゛
 侍従長鈴木貫太郎大将(終戦時の首相)は官邸で瀕死の重傷を負った。
 そしてわが斎藤実も、26日未明、四谷の自邸の2階寝室で、一味の兇弾に、倒れたのである。
 5時を少し廻った頃であった。
 天に哭し地に叫んでも哀しみ足らぬ呪われた26日未明の真相は、影と形の如く生涯の最後までかたわらを離れず、そして自らも同じ兇弾を蒙った春子夫人より外、知る人はこの世にいない。
 しかも慎み深い夫人は、思っただけでも戦慄する痛恨の追憶などを、今まで誰にも語ったことがなかった。
 従って斎藤実の伝記は既に数多く出ているが、一つとしてその日のことを伝えているものがない。
 示し得なかったからである。
 空想で書いたものもあるが、そんな作りごとは却ってこの斎藤夫妻を冒涜し、後世の史家を惑わす行為でなくて何であろう。
 筆者はこの点を恐れるので、超人斎藤実臨終の真相を努めて正確に伝えるため、幸いに生存中の夫人を訪ねお願いしたところ、外ならぬ銅像復元の記念出版という点で快くご了承を得た次第である。
 この粗雑な冊子も次の一節によって、千金に価する遺言書となり得たことを読者は了解されたい。

5 斎藤夫人からの真相聞書  

 私どもは事件の前日の昼はメキシコ大使の親任状捧呈式後の宮中の午餐会に、2人ともお召しにあずかり、陛下のお隣の席を賜りまして、恐縮しながら、ご陪食にあずかったのでございました。
 食後のお茶の席で皇后さまが私に、大変有難たいお言葉(特に内大臣に任ぜられた為のおぼしめし)を親しく賜ったのでございました。
 帰りまして斎藤にそのことを話しましたら何度も『有難いことだ』とか『恐れ多い』などと申しまして、2人で感激しながら話し合ったことでございました。(内大臣就任は2ヶ月まえから)
 その晩はまた、米国大使ヨセフ・グルーさんから、御招待を受けて大使館に参り、大変なおもてなしを頂きました上、余興として当時はまだ珍しかったト-キー(音声付映画)を見せて貰いました。

斎藤春子夫人、昭和38年

 はじめは会話がよく判りませんでしたが、段々聞きとれるようにもなり、とても面白うございました。 
 斎藤も非常に喜びまして、つい長居いたして、いつもよりも帰宅が遅くなったくらいでした。
 11時頃でしたでしょうか、帰りましても『珍しいものを見せて貰った』といってト-キーの話を繰返えして申し、今夜はほんとうに愉快だったと、上機嫌で寝床に就いたのでした。
 外は大雪がボタボタ降り出していました。寝室は2階の奥にございました。
 朝、私どもは一旦4時に眼を醒ましました。
 何か外がふだんと違って騒がしいように思いましたが、まさか自分の邸の内外が恐ろしい兵隊達に、取り捲かれはじめていようなどとは、夢にも想像しませんでした。
 斎藤も別段気にもとめぬ風で、ただいつも私の寝床の方にもぐり込んでいる猫が、その晩に限って斎藤の方に寝ていたのを見つけまして、『ミイが珍らしく俺のところに来て寝ているよ』と、さも可愛げに呟くので私ものぞいて見たりして、またふせりました。
 5時少し前、外のただならぬ音響に夢を破られ、引続いての異様な騒がしさに私はベツトから体を起しました。
 がまだ、恐ろしいものがそこまで追っているとは気がつきませんで、不審げな顔でいる斎藤に『なあに、また戸袋のうちに鳩が巣を作りでもして、戸が明かず、それで騒いででもいるんでしょう』と、私は申しましたんです。
 以前そういうことがありまして、早朝から女中や書生たちが騒いでいたことがありましたものですから――。
 でも一体、下に何が起ったというのだろうと、私は寝台から立ったのでございました。
 寝室は2階にあり、南北に連なる各12畳敷の2間で、2つとも板の間でして、前後2部屋の中仕切は4枚だての唐紙で仕切ってあり、前部屋には箪司などの調度が片寄せてありましたが、そこを通って外仕切の板戸を開けて廊下に出るようになっており、つまり板戸2枚が出入口というわけでございます。
 廊下から直ぐに下へ降りる階段が続き、階下の廊下はずつと折廻しで書生部屋が途中にあったりして、茶の間と呼んでおります建物まで続いていたのでございます。
 その辺は自宅での裏口にあたります部分で、近くに土蔵もありまして、門を入って玄関などのある表側からは遠く奥に廻った方なのです。
 常に20人ほど警視庁から派遣されている警官の溜り、守衛所も少し離れてですが、その辺にもあったのです。
 その外、邸内のあちこちに分散して、常時40人ぐらいの警備の人がいつもいたのですけれど、当日は私共だけで、200人以上の兵隊が下の各建物を厳重に取囲んで、中にいる者に銃を突き付けて動けぬように全部してしまっていたのですから、やむを得なかったのです。
 暴徒は、表から裏へ廻って、その茶の間の雨戸を軽機関銃で打ち破って、その口から中へ入り込んだのでした。
 書生部屋では銃で書生を脅して2階の寝室に斎藤のいるのを確かめ、軍靴でガタガタ廊下伝いに上って来たのでした。
 私共が目を覚ました轟音は茶の間を破る音だったのです。
 寝台は洋式の脚のあるベッドで後の部屋に東を枕に2台並べてあり、一番奥が斎藤のものです。
 東の隅に鏡台があり、私共の脚の方の壁ぎわにストーブや猫のベッドなどがありました。
 寒い朝でしたし、真綿入りの厚い寝巻の襟元をかき合せながら、立って中仕切の唐紙を開けたまま、前の部屋をまっすぐに通って出入口に近寄りましたら、外にガタガタ乱暴な靴音がしたのです。
 ヒョイと開けましたら、イキナリ眼の前に、4人の兵隊が、つつ立っているじゃあありませんか。
 若い陸軍将校ばかりで、1人は抜身のサーベルを構え、1人は軽機関銃を突き付け、残りの2人は各々ピストルをかざしていました。
 『何しにいらしたんですか!』と私の口からそういう叫びが、飛び出ていました。
 恐ろしい者たちの侵入だと突差に気が付いたので、すぐ戸を閉めようとしましたら、私を押し退けてドヤドヤ中へ踏み込み、もう機関銃を打ち始めたのです。
 打ちながら奥へ進んだような具合でした。
 私の体は押されて後向きに倒れかかりましたが、中仕切と東壁との隅に置いてあった箪笥のあたりで、一瞬間気絶してしまいました。
 その時がピストルの第1弾を背中に受けたのだったらしいです。
 夢中でしたためかその時は大して痛くも思わず、すぐ気がついて斎藤の傍へ行こうと、奥の寝台のところまで戻りました時、兵隊はもう4人ともそこにいて、下の方を向けて機銃を打ち続けているのです。
 斎藤はと見ると、寝台の上にはなく下の床上に、あおむけの姿で横たわっています。
 駈け寄って斎藤に取りすがった時は、もう完全にこと切れておりましたのです。
 恐らく入口で私が高声を発したりしてました時、何ごとかと思って彼もベッドの傍に立上ったのでしようが、その姿が開けたままの中仕切の隙を通して侵入者の眼の前に真正面から見えたもので、構えていた銃の引金をすぐ引いたのでありましよう。
 多分最初の一弾が斎藤の額を射抜き、これが致命傷だったらしゅうございました。
 斎藤はベッドの上にでも倒れようとしたものやら、かがみ加減のまま下に転ろげ落ちた恰好で、いつも東枕で寝る人が、頭を西に足を東へ伸ばして倒れていたのです。
 足の先に見下す形で4人の兵隊が死体に対してT字型の位置に、一列横体(最初にサーベルを抜いた坂井とかいう中尉、次に機関銃をかまえた者、3番目と4番目はピストルを持った兵隊が)のように立っていました。
 私が双方の真中にしゃがんでいる形でした。
 すると全く身じろぎもせぬ斎藤に、まだ油断は出来ぬというのか、それともとどめをさすというつもりか、またもや機銃を構えて打ち出すではありませんか。
 私もあまりのことに腹が立ちまして、立ち上って、その銃身を掴んで叫びました。
 『そんなことをなすってはいけないぢやあありませんか』(筆者註、”死者に鞭うつ鬼畜の所業”との最高の侮蔑を放ったつもりであったらしいが、彼女の高い教養は、この床しい表現がせい一杯のものであったらしい。)
 すると、その若者は『何が悪いんだ!』といい、射撃を止めようとしません。
 私は銃身から手を放し彼ら4人の縦列の前に、もろ手を拡げて進み寄りました。
 その前後に第2弾のピストルを、右肱に受けたのです。
 私は既に覚悟を決めてしまってましたから、血がどっとほとばしり出ましたけれど痛くも何とも感じない位でした。
 銃を掴んだりの私を猪口才な女めとでも思ったんでしようか。
 ピストルでしたから横合の者が、打ったのです。私は彼らに詰め寄って申しました。
 『打つならこの私を打って下さい!』と。
 左右に大きく拡げたその左手めがけて、また第3弾が飛び、手首のあたりから血が噴き散りました。
 が、それっきりで彼らは暗殺成功を安心したのか、間もなく乱暴な足どりで引揚げて行きました。
 こう細かに説明いたしますと大変長い時間のようですけれど、全く、チョッとの間の出来ごとで、入口で私が出会いましてから彼らの立退きますまで、ものの5分とかかっていない瞬間の出来事だったんでございます。
 全く悪夢を見たような夜明けでございました。
 あとで検屍の際数えて見ましたら、斎藤の体の中の弾だけで48とかあったそうで、最初に致命傷を受けたらしいので、一言も物を申す暇もなしにこと切れたのでございました。
 何しろ機関銃のバラバラという弾丸でございますから、そこらじゅうが弾痕だらけでして、奥の部屋の隅に置いてあった鏡のガラスも、反対側の隅のストーブの辺にも床は申すに及ばず寝室の天井にも弾丸の跡があったのですから、彼らも余程度を失っていた様に察しられるのです。
 下を向けましたのは横たわっている死体の上から浴びせたので、それが床を打ち抜いて、階下の座敷の天井まで無数の穴をあけていた程ですから、滅茶苦茶に打ったと申してよろしいんですねえ。
 鏡のガラスの弾痕で美くしい模様が浮き上っていたのが、今も思い出されますですよ。
 私の負傷の順序にも、いささか正確を欠く点のありますのは、こちらも逆上ぎみでしたし、何ぶん刹那の出来ごとでございますから、ご了承下さいませ。
 しかし機関銃と挙銃との両方をもって来て、恐らくあらかじめ受持を分担してあったようで、私の受けましたのは挙銃の方ばかりでございました。
 下はどうなっているかと女中たちの身も案じられて降りて参りましたら、兵隊はみんな引揚げましてもまだ慄えている最中でしたが、そこへ血だらけの私の姿が現れたものですから一層の騒ぎと成りました。
 私はそれまで傷の方は一向に痛みを覚えなかった位に気を張っていたのですが、そこでやっと3ヶ所が痛み出した具合でした。
 幸いにいずれも弾が体に入っていませず貫通したのでした。
 背中の傷が一番大きうございましたけれどそれは真綿入の寝巻のおかげで、真綿が弾をくるんで喰止めてあったのでした。 左腕の傷跡には、ピストルの弾丸の中にこめてある紙片、このよじれがほどける力で弾が長い巨離を飛ぶんだそうですが、私が打たれました距離が近過ぎたために、ほどけずにその紙片の方が腕の肉に残ったので、後でこれが化膿して2回も高熱を出したりして、酷い目に遭いました。
 大槻博士にやっとその小さな紙片を後日とって頂きました。
 何しろ当初は両腕ともの負傷でして三角布で両方を吊ってましたから、着物を着るのも大変でお見舞客の前に出るのにも大弱り致しました。
 その日の未明大雪の降りしきる中、自宅のまわりを大勢の兵隊が往ったり来たりするのを、ご近所では演習だろうと少しも不審に思わず眺めていらした方もあったそうですけれど、無理もございませんでしたでしよう。
 何しろ自宅を取囲みました数だけでも200名以上の兵隊だったそうで、警備の方々を40人ぐらいは邸内のあちこちに分散していっもいてくれたのですけれど、どこもかしこも兵隊に取囲まれてしまってどうにもならなかったことが後で判ったのです。
 彼等の住居も邸の門の方にあったんですが、勿論、兵隊の重囲の中ですから、どちらからもどうしようもなかったんですが、その時の心細さったらありませんでした。
 誰一人手伝いに来てくれる者がなかったんですものねえ。
 暴徒らが屋内に上り込んだ茶の間というのは2部屋の建物でして、女中たちの住居に当ててあったのでした。
 手前の部屋にも陰の部屋にも寝ていたところを、外からイキナリ銃撃されて、弾道が蒲団の表に、焼け焦げの筋を引いてあった具合でしたが、弾が真向の壁を打ち抜き、なお壁裏にある次の部屋の押入まで突き抜けてありました程で、恐ろしい偉力をもつものと驚きましたが、怪我がなかったのは幸いでした。
 寝ていた者が驚いて蒲団から首でも出していたら大変な事になったわけでした。
 4人の暴徒の名前は今も忘れず覚えております。
 坂井という中尉が頭分でやって来たのでしたが、サーベルの男がそれだったようです。
 後で考えますと残念でなりませんが、実は2日程前に内閣書記官長の柴田さんからご注意がございまして、どうもこの頃危っかしい空気が濃くなって来てる様に思えるから、内大臣官邸の方にお住いなさっては、とおっしやって下さったのでした。
 そちらの方が四谷の自宅より警備のご都合がいいというのらしかったのですが、住み慣れた四谷の方が便利でもありますし、まさかそれ程の陰謀が行なわれていようとは、私には思われませんでしたので――。
 何しろ私は至って迂潤な方ですし、世の中がそれ程険悪になってる事などはっきりどなたも教えて下さる方もなかったものですから、つい申訳ない結果をし出かしてしまったんでございます。
 でもああいう周到な計画を前々からたてて、ああいう暴力でやって来られたんでは、恐らく官邸の方へ引移っていたと致しましても、無事に済まし得ましたでしようかねえ――。
 とにかく日本の国にとって呪われた時代の始まる第一歩の不幸な朝だったと、今でも忘れようとしても忘れ得られぬ生涯の哀しい思い出でございます。

二・二六事件で機銃射撃された斎藤実元首相
(斎藤実追想録 樋口正文編 斎藤実銅像復元会刊行 昭和38年刊 p218-241)
1 大陸に吹きすさぶ嵐
2 再び朝鮮総督に就任
3 祖国日本の変容
4 組閣から二・二六事件まで
5 斎藤夫人からの真相聞書 斎藤実(まこと)経歴
安政5(1858)年 岩手県水沢に生まれる
明治10年 海軍兵学校卒、海軍軍人となり昇進
明治39~大正3年の第1次西園寺、第2次桂、第2次西園寺、第3次桂、第1次山本内閣の海軍大臣
大正8年 朝鮮総監、在任中ジュネーブ軍縮会議へ
昭和7年 総理大臣就任
昭和9年 帝人事件で内閣総辞職
昭和10年12月 右大臣
昭和11(1936)年2月 二・二六事件で自宅で銃殺される。享年78歳

右:昭和38年に故郷水沢市に斎藤実の銅像が復元された。その時に銅像復元会から刊行された”斎藤実追想録”の表紙で、写真は水沢公園に現存する銅像。

著者 北山敏和
1940年奈良県五條市生れ
1959年県立五條高校卒、1963年大阪大学工学部卒→国鉄勤務、 
鉄道車両の設計開発、外国の鉄道技術協力(JICAチリ国鉄派遣等)に従事、その間1977年井深賞受賞、1979年オーム賞受章、
1987年民営化で国鉄退職後、東急車両(工場長:土岐実光:S20東工大卒後国鉄工作局)
(記事引用)


放課後ホンネの日本史
第8章 教科書が教えない軍人伝 第69回 斎藤実
 岩手県水沢市は、日本史上に名前を残す人物を数多く輩出しています。幕末の蘭学者・高野長英、東京市長などを歴任した後藤新平、戦後、日韓国交樹立に尽力した椎名悦三郎、そして、海軍出身の政治家として活躍した斎藤実(1858~1936)がいます。

 斎藤は安政5(1857)年、藩士の家に生まれました。自ら私塾を開いていた教育熱心な父の下で斎藤は成長しました。一歳年上の後藤とは幼なじみでした。斎藤は、明治6(1873)年、海軍兵学寮(後の海軍兵学校)予科に合格し、海軍軍人としての道を歩み始めました。
 
 明治10 年、初代アメリカ公使館付武官を皮切りに、4年に及ぶ海外在勤生活を経験しました。その間、薩長藩閥政治家と交流を深め、その資質を見いだされました。

 日清戦争時に、広島におかれた大本営で、侍従武官として明治天皇にお仕えした斎藤は、大佐になって間もない明治31年に、40 歳の若さで、山本権兵衛海軍大臣の下、次官に大抜擢されました。7年以上の長期にわたり、その職を全うし、その間、日露戦争を舞台裏から支えました。

 明治39年、第1次西園寺公望内閣が成立 すると、斎藤は海相として入閣しました。今度は8年以上もの間、5つの内閣で大臣を務めました。斎藤の実力もさることながら、その人柄が、長期にわたって海軍のトップに立つことができた理由でしょう。
 
しかし、大正3(1914)年、海軍高官の汚職事件(シーメンス事件)の余波を受けて、斎藤は予備役に編入されてしまいました。

 さて、大正8年3月1日、2日後に行われる元大韓帝国皇帝高宗の国葬のために、朝鮮各地から多くの人が京城(現在のソウル)に集まっていました。このタイミングを狙って、キリスト教、天道教(東学党の流れを汲む宗教結社)などの代表者が独立宣言を発表し、これが朝鮮全域に広がって、民族主義的大暴動となりました。いわ ゆる三一運動(万歳事件)です。

 その直後の困難な時期に、朝鮮総督に就任したのが斎藤でした。
 彼は寺内正毅初代総督以来のいわゆる武断政治を文治政治に転換したのですが、この大功績は教科書には登場しません。
 斎藤は、警察制度を憲兵警察から文民警察に改め、非常に制限された範囲ではありました が、選挙で地方議会議員を選ぶ制度を創設しました。また、朝鮮教育令を改正して、第6番目の帝国大学、京城帝国大学を設立しました。これは、大阪大学、名古屋大学よりも早い設立でした。

 昭和6(1931)年に朝鮮総督を辞任した斎藤は、翌年、5.15 事件で倒れた犬養毅内閣の後を受けて、挙国一致内閣を組織しました。
 教科書は斎藤が軍人だからというだけで批判しますが、当時の国民やマスコミが政党内閣よりも、彼を大歓迎したことを無視しています。
 
 満州事変の後始末に奔走した斎藤でしたが、「帝人事件」のために辞職しました。この事件は、「斎藤降ろし」の陰謀だという説もあります。
 その後昭和8年12月に、内大臣に任命さ れた斎藤でしたが、翌年の2.26事件で反乱軍将校に殺害されました。「革新政治」を目指した青年将校にとって、国民に人気のある穏健思想の持ち主は、最も邪魔な存在だったのです。

果てしなく続くのか?スペインの「無政府」状態 
 バルセロナにて 童子丸開 童子丸開2016年2月8日
 昨年12月20日に行われたスペイン総選挙の結果は当サイト『カオス化するスペイン政局』にある。その後、当サイト『暴走するカタルーニャとスペイン:ドタバタ迷走の果てにドンデン返し』で詳しく説明したように、1月10日に独立を目指す新州政府の体制が作られた。この事態にマドリッドでは、国家分裂を防ぐために国民党と社会労働党による「左右大連合」実現に向かう以外に方向性は無いと、多くの者が考えた。しかしそこには思わぬ事態が待ち構えていた。
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《「全身麻痺」に陥ったスペイン》 小見出し一覧に戻る

 昨年12月20日の総選挙の結果を確認したい。スペイン議会下院の定数は350で過半数は175議席。2011年以来ラホイ政権を支えた国民党は123議席。社会労働党が90議席。新興勢力で左派のポデモス(同系列の諸党派を含む)は69議席、右派のシウダダノスは40議席。その他、カタルーニャ民族主義左派ERCが9議席、同右派のDILが8議席。またバスク民族主義右派のPNVが6議席、同左派のEH・Bilduが2議席、全国区で左派の統一左翼党が2議席、カナリア地方主義のCCaが1議席。

 首班指名には出席議員の過半数の支持を受ける必要がある。全員出席の下であれば単独で政権を取る政党は無い。右派の国民党とシウダダノスが連立しても163議席、また左派の社会労働党・ポデモス・統一左翼党がまとまっても161議席にしかならない。一方で、左右のカタルーニャ民族主義政党とカタルーニャ独立運動を支持するEH・Bilduが国民党・シウダダノス・社会労働党と共闘する可能性はほぼゼロに等しい。それらが少数民族独立運動に敵対しているからである。

 仮に、カタルーニャ独立阻止だけを共通項にして第1党の国民党と第2党の社会労働党が「大連合」を組み、そこにシウダダノスが加われば、圧倒的多数で国民党党首のマリアノ・ラホイが首相に再任される。そうすれば少なくともカタルーニャ独立運動に対しては強力に対処できる。しかしその場合、それ以外の多くの案件で「与党」内と閣僚同士に厳しい対立が起こるだろう。国民党とシウダダノスが支持する政策案は、他の党がこぞって反対すれば成立しない。社会労働党とポデモスが提案する政策案は、民族主義政党の賛成が無い限り、国民党とシウダダノスの反対によって廃案になる。一方で予算案などを政府内でまとめる作業は困難を極める。こうして国会と政府の運営は極めて難しくなるだろう。

 他の可能性として、国民党とシウダダノスが連合を組み(163人)、首班指名の議会で社会労働党が欠席すれば、出席議員(260人)の過半数を得ることができる。全員欠席でなくても社会労働党院の25人の欠席で十分なのだ。これは早くから社会労働党の元首相フェリペ・ゴンサレスあたりが画策していた手だ。ただしこの場合には社会労働党内で深刻な対立が起こり党の存在自体が危うくなるだろう。また、仮にこの手で無理やりに政府を成立させたとしても、やはり多くの法案の成立が困難になり国会がほとんど機能しなくなる可能性が高い。 

 こういったことから、国民党、社会労働党、シウダダノスの中に、新しい議会ですぐに解散動議を出して再選挙すべきだという声すら出てきた。しかしいくつかの世論調査によると、仮に再選挙となる場合には各党で多少の変動があっても決定的な変化は起こりそうにもない。特に2月初めに公表されたCIS(国立統計局)による世論調査 は、国民党にはほぼ変動が無く、社会労働党がやや減りポデモスがやや増えて支持率の上では第2勢力になる、シウダダノスはやや支持を落とす程度である、という予想を明らかにした。もしその通りなら、たとえ再選挙になってもいまと同じ状態が続くことになるだろう。

 もし3月後半の期限まで新政府が決まらなければ、12月20日の選挙で選ばれた議会は解散を余儀なくされ、6月の末ごろまでに再選挙がおこなわれる。すると、どう早くても7月いっぱいまでは国会も政府もほとんど機能しない。さらに、その選挙でも今と同じような状態が続くのなら、もう延々と果てしなく、国家としての動きが止まったままになる。

 このような「八方ふさがり」を絵に描いたような状態がスペインで続いている。いまのところ、ラホイ国民党が「暫定政権」として一応の政府の形をとり事務的な対応だけは続けているのだが、立法府も行政府も機能を停止させ何の政策も打ち出すことはできない。これに最も神経をとがらせているのがブリュッセルであることは言うまでもない。不安定な経済問題をはじめ、難民、中東政策、対ロシア政策などの非常に困難な問題を抱える中で、EU第5の経済規模を持つ国がいつ終わるとも知れない「全身麻痺状態」に陥っているうえに、重要な国の重要な一部がはがれ落ち分離しようとしているのだ。


《「鬼の居ぬ間」に着々と進む「カタルーニャ独立」準備》  小見出し一覧に戻る 

 1月10日にカタルーニャで独立作業を進める新州政府が誕生した。いまカタルーニャでは、「無政府」状態で身動きの取れないマドリッド中央政局を横目に見ながら、プッチダモン州知事を先頭に、法的な整備と税制などの行政面で、着々とスペインからの分離作業が進められている。こちらにしたところでもはや引き返すことが不可能なのだ。どうせもうシェンゲン条約が実質「棚上げ」状態になってEU自体が解体の方向に進路を向けつつあり、さらにユーロ圏崩壊の危機すら噂される状態になっているのである。この大混乱の状況で、「カタルーニャ独立」にとって千歳一隅のチャンスが訪れているのかもしれない。

 もちろんカタルーニャでのこのような動きに対して法務当局が盛んにけん制をかけているし、税金の問題や地方に配分される政府資金を巡る財政面でのにらみ合いも続いている。しかしいかんせん、議会と中央政府の機能がストップしている状態では強力な対抗策が打ち出せない。せいぜいカタルーニャの象徴であるFCバルセロナに対する嫌がらせを続ける程度だろう。

 もちろん法務当局独自の判断で、国家警察やグアルディアシビル(内務省所属の国内治安部隊)による、州政府幹部の一斉逮捕などの劇的な事態も起こりうる。しかしそうなれば、もう理屈も何も無く、今まで独立に反対していたカタルーニャ州民までが反マドリッドで動き始める可能性が高いだろう。スペインの中には未だフランコ独裁政権時代の強権支配の悪夢に対する強烈なアレルギーが生きているのだ。これでは本当に泥沼にはまってしまい、もはや解決の道がどこにもなくなる。

 結局は、スペインに中央政府が作られ強力な政治的能力を発揮しない限り、カタルーニャはこのまま分離の方向に突っ走るだろう。それが、良いことなのか、悪いことなのかは、別にして…。

《「左右大連合」に冷や水を浴びせる司法当局》  小見出し一覧に戻る 

 政策協定次第で出来る限り各党間の齟齬を防ぎ、ともかく国家分裂の危機回避を最優先課題にしようとする動きが、社会労働党の中で12月中から起こっていた。カタルーニャ独立とポデモスを嫌悪する元首相のフェリペ・ゴンサレスを筆頭とする党の長老たちが、国民党政権の継続を認めるように党首ペドロ・サンチェスに対して圧力をかけていたのである。ゴンサレスは、やはり元首相で国民党長老のホセ・マリア・アスナールと気脈を通じ、国家の分裂とポデモスの台頭を全力で防ごうとしているのだ。ラホイ国民党政権打倒を叫び続けたサンチェスとしてはそう簡単に「はい」とは言えないにしても、1月の初旬には《ラホイ抜き》なら「大連合」に応じてもよい そぶりを見せた。

 そして1月10日のカタルーニャ州新体制確立が「大連合」を一気に加速させるかに思えた。実際、議会で議長に任命された社会労働党のパッチ・ロペスが調停役になり、社会労働党とシウダダノスと国民党の間を取り持つ動きを始めていたのである。サンチェスはカタルーニャでの住民投票合法化とその実施を主張するポデモスとの左翼連立を拒否する姿勢を見せた。しかしその動きに水を差したのが、国民党の政治腐敗を追及する裁判所の判事局と検察庁だったのだ。

 1月11日に、元バレアレス州知事ジャウマ・マタス(国民党)とクリスチーナ王女夫妻を被告人に含むノース事件(参照当サイト記事)の裁判が開始し、スペイン史上初めて王族が被告席に座った。しかしこれは予定通りのものだから政局にはさほどの影響は無い。また1月12日には、元セゴビアの国民党議員で外交官のグスタボ・デ・アリステギと現職国民党議員ゴメス・デ・ラ・セレナによる不正な企業献金の収入と脱税の本格的な捜査が開始された。ただこれもまた昨年中に知られていたものであり、さほど大きな影響はなかった。

 続く13日に「バンキア銀行不透明カード事件(参照当サイト記事)」の裁判が開始された。TVニュースで全国一斉に報道されたその様子は、微妙な状態にある政局を揺り動かす力を持つ。そのあまりに破廉恥な内容と同時に、国民党の元幹部でアスナール政権副首相兼経済大臣、IMFの理事長まで務めたロドリゴ・ラトの惨めな姿が、再び国民の前に曝されることになったからだ。そしてもっと続く。 

 1月18日に「国民党裏帳簿事件」(参照当サイト記事 )の裁判が行われているマドリッド地方裁判所は、悪事の証拠と記録するハードディスクが破壊されたコンピューターについての18の証拠を示して、国民党による証拠隠滅の本格的な捜査を宣言した。この事件は、長年にわたる国民党の不正経理とラホイを含む大半の党幹部の違法な収入・脱税に関するもので、元国民党会計係のルイス・バルセナスがその詳細を国民党本部の2台のコンピューターに記録したと証言していたものだ。

 ラホイはすぐにそれについては何も知らないと語ったが、裁判所判事は国民党とその会計係を証拠隠滅の容疑で取り調べる決定をした。党の犯罪を一人で背負わされた形のバルセナスは、2月になって、そのコンピューターが党書記長のマリア・ドゥローレス・デ・コスペダルによって破壊された可能性を示唆した。党No.2のコスペダルはバルセナスを「嘘つきの恥知らず」と非難したが、今後もし取り調べがコスペダルに、そしてラホイにまで及ぶなら、国民党は存亡の危機に立たされるだろう。

 さらに同じ1月18日には、検察庁反腐敗委員会と全国管区裁判所の命令を受けたグアルディアシビルが、スペイン農業環境省の契約企業であるアクアメッド(Acuamed)や大手建設会社FCCの関係者など13人を逮捕し20数人を取り調べた。容疑は、国民党政権下の農業環境省からの水利施設工事受注に対する不正行為である。22日には副首相ソラヤ・サエンス・デ・サンタマリアの腹心でアクアメッドと農業省との会議を取り仕切っていた首相府次官のフェデリコ・ラモス・デ・アルマスが辞任した。彼がこの不正を知っていたことは明らかだろうが、この事件の全容は今から徐々に明らかにされるはずだ。この件に関して担当判事は、国民党の大物、ミゲル・アリアス・カニェテス前農業大臣(現EU環境担当委員)が事件当時(2014年3月)に不正受注に関与したと判断して捜査を進めている。

 このアクアメッド事件で、それらの企業がバレンシアやカタルーニャなどの地中海岸での水利事業で2億2700万ユーロ(約296億円)を公金からだまし取った と言われている。それは、こちらの当サイト記事に他の実例が書かれているが、公共事業の入札の際に低価格で請け負っておいて後から「実はこれだけかかった」と高額の請求書を送るという手口である。スペインではよくある話で、検察庁と裁判所はラホイ政権が絡む悪事を徹底的に暴きだしていく予定である。これらの一連の政治腐敗追及が、国民党との同盟関係を作ろうとしていたシウダダノスにショックを与えたことは言うまでも無い。しかしもっと大きな衝撃が起こっていたのだ。

《バレンシア国民党の「解体」と暗礁に乗り上げた「大連合構想」》  小見出し一覧に戻る 

 バレンシアはいままで、地方ボスによる好き放題の公金略奪、国民党と中央政府や官庁との太いパイプを利用する政治・経済の腐敗構造が、スペインで最も重厚に根付いていた場所である。言い出せばきりが無いのだが、当サイトから実例としてこちらの記事、こちの記事、こちらの記事にあるもので十分だろう。

 先ほどのアクアメッド事件が暴露されてほどなく、1月26日にバレンシア国民党のベテラン政治家24人が、グアルディアシビルによって一斉に逮捕された。これは検察庁反腐敗委員会の命令で行われたもので、逮捕者全員に公共事業受注の際に不正な収入を得た容疑がかけられている。検察庁は、長年「女帝」としてバレンシアに君臨し中央政界にも大きな影響力を持つリタ・バルベラーに照準を合わせているのだ。(バルベラーについては当サイトのこちらの記事を参照。)

 これは、カタルーニャでジョルディ・プジョルと長年与党として州政府を動かし続けた政党CiU(集中と統一)を崩壊に追いやった「3%事件」(参照当サイト記事)と似ている。公共事業を請け負った企業から国民党に対して請負金額の3%が「献金」として支払われるという、典型的なキックバックだ。しかし州や市町村の議員が個人的にカネを受け取っていたカタルーニャとは異なり、バレンシアでは個人の他に国民党が組織として関与していた。バレンシア国民党は架空の献金で収入を誤魔化して裏帳簿を作り、選挙などの党活動の資金をひねり出していたのである。検察庁はその闇資金ネットワークの中心にバルベラーがいるとにらんでいるのだ。

 古参の幹部を根こそぎはぎ取られた形のバレンシア国民党では、残された若手党員たちが憤懣やるかたない日々を送っている。2月2日にはバレンシア国民党の委員長であるイサベル・ボニッチらの現幹部が、同党の根本的な改造を目指して、党名を変えマドリッドの国民党本部からの独立性を高める意向を明らかにした。党の伝統的な腐敗体質のために、昨年の統一地方選挙(参照当サイト記事)でバレンシア州議会およびバレンシア市を含む大小の自治体で政権を失った若い党員たちの怒りが爆発したのだ。

 このように、国民党を巡る政治腐敗暴露の大嵐が今年に入ってスペイン中で吹き荒れている。ノース事件裁判、バンキア不透明カード事件裁判、「国民党裏帳簿事件」の証拠隠滅、アクアメッド事件、そしてバレンシア「3%事件」と「裏帳簿事件」…。もし今後も引き続いて国民党による政治経済の腐敗が明らかにされていくことになれば、おそらく国民党は今までの形での存在を許されなくなるだろう。支持者を失うことはもちろん、バレンシアで起こっているような若手党員の「反乱」が各地で起こり収拾がつかなくなる。

 このような事態に慌てふためいたのがシウダダノス党首のアルベール・リベラである。彼は国民党との連合政権を目指して、社会労働党の参加あるいは首班指名時の「協力」を期待していたのだ。しかしこの状態ではうかつに国民党との政策協定を云々できない。この党は「政治腐敗の一掃」を掲げて選挙戦を戦ったのである。

 当の国民党党首マリアノ・ラホイは、他の党の協力を得ることが不可能と見て、首班指名に名乗りを上げない態度を明らかにした。たとえ再選挙になっても、選挙までに党勢を立て直すことが可能だと考えているのだろう。というか、他に選択の余地が無いのだ。こうして、国民党、シウダダノス、社会労働党の「大連合構想」は暗礁に乗り上げてしまった。

《功を奏するか?国民党「待ち」の作戦》  小見出し一覧に戻る 

 アルベール・リベラは、社会労働党の党首ペドロ・サンチェスを首相候補にしてシウダダノスがそれと組み国民党に「協力」を求める道を探り始めた。端的には首班指名時の国民党の欠席である。もちろん曲がりなりにも第1党の国民党がそれに応じるわけも無い。ラホイの、自分から先に動き出さない「待ち」の態度には党内でも批判の声が挙がっているが、なぜかラホイは余裕しゃくしゃくに見える。

 困ったのは社会労働党の一部も同様で、表だって国民党政権への協力を語ることが不可能になった。この状況を見て、あくまで「改革派政権」を目指す党首のサンチェスは、ラホイの首班指名からの撤退を見届けたうえで、ここぞとばかりに国王の推薦を受けて自分が首班指名に応じることを公言し、シウダダノスやポデモスとの同盟工作を開始した。サンチェスは交渉をまとめてこの3党が同盟を結ぶに至るまでに1か月以上の期間を見込んでいる。

 サンチェスは国民党に対して、社会労働党を中心にする3党あるいは2党の連立に協力せよと、端的にいえば首班指名の際に欠席して「改革派政権」樹立を可能にせよと求めた。もちろん国民党がそんな要求を飲むはずもなく、ラホイは一切の協力を拒否した。駆け引きの術には一日の長がある国民党は、首班指名を避けることでサンチェスを先に動かし、社会労働党が失敗するのをじっと待っているのだ。

 社会労働党とシウダダノスでは政治腐敗と失業問題を最優先課題とする共通の目標でかろうじて一致できるかもしれない。しかし税制の改革や雇用政策の具体案、国民党によって改悪された教育法や「さるぐつわ法(当サイトこちらの記事)」の廃止、憲法改革案(社会労働党は連邦制を目指す)などの重要課題で大きな差がある。社会労働党とポデモスでは、多くの点で一致できても、国際関係や地方自治権の問題では決定的な相違がある。特に、各地方の「自己決定権」と住民投票の合法化を主張するポデモスの方針は、カタルーニャ独立の承認にもつながりかねない。これは社会労働党にとって絶対に認められないところだろう。

 ポデモス党首のパブロ・イグレシアスは、社会労働党がシウダダノスと手を切る場合にのみ交渉に応じると伝えた。シウダダノスのリベラ、ポデモスのイグレシアスとの会談を終えたサンチェスは、自分を首相候補として首班指名に臨むことが非常に困難であると認めた。しかし2月9日になってサンチェスは、労働改革や教育法改革など両党がともに受け入れやすい「最小限綱領」に絞った交渉条件を示し、合意へ向けた「手ごたえ」を感じている。ただ社会労働党内部でアンチ‐ポデモス勢力が相当に強いため、社会労働党内部を割らずにこの「改革派政府」が誕生できるかどうか、微妙なところだ。

 一方で国民党ラホイは、社会労働党がポデモスとだけは結びつかないようにカタルーニャ問題を利用してけん制し、その一方で社会労働党とシウタダノスにやんわりと「大連合」の可能性を ほのめかしている。サンチェスの首班指名が失敗すれば社会労働党内でサンチェスの責任を問う声が一気に盛り上がるだろう。その機を狙って期限ギリギリのタイミングで首班指名に臨み、シウダダノスと社会労働者党(少なくとも一部)を取り込んで一気に逆転、大臣の座をいくつか譲ってでも、ラホイ政権の延命を図ることができるかもしれない。  

《今後のシナリオは?》  小見出し一覧に戻る 

 いまのところだが、今後1~2か月の間に裁判所や検察庁がこれ以上のショッキングな政治腐敗での逮捕や取り調べを行わないのなら、国民党の「待ち」の作戦が功を奏する可能性が高いように思われる。その場合、社会労働党は一気にその政治的立場と有権者の支持を失うだろう。また政府の機能が回復され次第、独立の実現に向けて突っ走るカタルーニャ州政府との激しい攻防が繰り広げられよう。

 また現在、IBEX(スペインの株式市場)上場企業の間で、機能不全に陥っている国民党に圧力をかけて政権から手を引かせ、社会労働党とシウダダノスを中心にする政府を誕生させようとする動きが起こっているようだ。基本的に反資本主義のポデモスはともかくとして、大企業主としては、様々な伝統的しがらみを持つ国民党よりもこの二つの方が、特に新しいリベラル政党シウダダノスの方が、思い通りに操りやすいのかもしれない。どの党派も所詮はその「パトロン」の手の内にある。どのみち国会での法案審議の主導権を執るのは国民党なのだ。

 ここでカギを握るのはやはり裁判所と検察庁だろう。もし近いうちにバレンシアのリタ・バルベラーや元農業大臣のカニェテスが逮捕される、国民党No.2のコスペダルが逮捕あるいは判事の審問を受け、それにラホイまでが連なる、さらに新たな大型政治腐敗事件が告発される、等々、という事態が起こるなら…。仮定の話だが、起こる可能性はかなり高いだろう。それが首班指名の期限である3月末までにあれば、いくら待ってもラホイの政権はもはや成立不可能になる。

 それに関連するもう一つの不安定要素が国民党内部での変化である。先ほどのバレンシアの例もあるが、国民党内部で古参の幹部を切り捨てて刷新を図る動きが水面下で起こっているようだ。特に現ガリシア州知事のヌニェス・フェイホオが党改革の中心となるだろうと噂される。もし国民党が、ちょうどカタルーニャでアルトゥール・マスを引き下げたように、「腐敗の象徴」と化したラホイやコスペダルなどの現執行部を引き下げ「新しい顔」で臨むなら、サンチェスによる社会労働党中心の政権作りが失敗した後に新しい形で「大連合政権」が可能かもしれない。

 しかし、もしそういったあらゆる政権作りが失敗すれば、国家の「全身麻痺」と「分裂の危機」が延々と続き、カタルーニャ独立準備の作業だけが着々と進むことになるかもしれない。昔なら軍事クーデターが起こっただろうが、EUの機構の中でそれは不可能だ。もし軍による不穏な動きがあればブリュッセルの大規模な干渉が行われるだろう。しかし逆に、もしEU委員会にその力と決断力すら無いのなら、スペインの政情不安がEUの崩壊を開始させるだろう。

 議会と政府の機能停止状態の間に、ヨーロッパ全体の情勢に深刻な事態が訪れなければ幸いである。リーマンショック並みの経済危機、あるいは難民・テロ問題による重大な政治危機がヨーロッパを覆えば、政治的決定力を失っている国家にそれらへの対応力はあるまい。「ゾンビ国家」として(参照当サイト記事)何とか姿だけを保っているこの国が本格的に壊死・解体してしまう。それはEU全体に壊滅的な悪影響を与えるだろう。私としてはひたすらそんなことが起こらないように祈るしかない。

 当サイトのこちらの記事やこちらの記事でも書いた通りなのだが、私はこの何年間かに見られるスペインの裁判所や検察庁のような司法機関の動き、マスコミの政治報道、そしてカタルーニャ独立運動の進み具合について、胡散臭い不自然さを感じてきた。特に選挙期間や首班指名の期間に合わせて、選挙や政局の動きに直接に重大な影響を与える事件捜査と逮捕が、予め計ったように着々と実行されるのだ(参照当サイト記事)。そのようなシナリオを実現させる何らかの巨大な力があるのだろうか? もしそういったものがあるとして、一つだけ確実に言えることは、それが冷戦期のヨーロッパに合わせて作られた「78年体制(参照当サイト記事)」の廃棄を望んでいる、ということである。


《その一方で棄て置かれる国民経済と生活》 小見出し一覧に戻る

 そんなゴタゴタの一方で、実質的な国民の経済と生活は棄て置かれる。ただでさえスペインは、国内総生産の99.82%に上る約1兆680億ユーロ(約139兆円)もの公的債務を抱え、それが増えこそすれ一向に減る気配を見せないような国だ。借金によって破綻した経済の実態を新たな借金によって覆い隠す体質から脱することは、少なくとも短期・中期的には不可能だろう。これでも何とか回っているうちは良いのだが、いったんつまずいたら国民の生活は一気に地獄状態に陥る。 

 今年1月初めに公表された労働雇用省のデータによれば、2015年12月時点でスペインの失業者は前年より35万4千人減って409万人になり、また1年間に新たな53万3千の雇用が作り出された。それでもまだ失業率は20.9%であり、25歳未満の若年層失業率は46%に上っている。ただしこの失業の減少は12月のクリスマス・年末商戦によるものが大きく、1月の統計ではすでに失業が5万7千増え、企業が社会保険の支払いを行う正式な雇用の20万件以上が失われた。つまり、雇用されていても社会保険を払えない不安定な短期雇用に回される者が急増していることを意味する。

 昨年中に増えた雇用にしても、その92%が短期雇用に他ならない。スペインでは社会保険の支払いの中に年金の積み立て分が含まれており、社会保険の支払いができなければ、いまの健康保険はもとより、将来の年金額すら保証されなくなる。さらに、1年以上の長期の失業者が300万人近くにも上り失業者全体の60%を占めている。しかもその多くが45歳以上の、本来なら家族の生活を支えるべき家長なのだ。

 筆者の知っている人々の中にもそんな例が複数ある。政府からの月額400ユーロ(約5万3千円)ほどの補助金と、自分の父親や母親が受け取っている年金を少し分けてもらう、妻や子供たちが短期雇用の仕事を見つけてわずかに家計の足しにする、などで、最近再び上昇し始めた家賃を何とか払いながら、文字通り爪に火をともす生活を送っている。そんな不安定な生き方しかできない人が2011年以降急激に増えており、これで再び景気の悪化が始まればまともに生活できなくなる人が激増するだろう。

 またこれは世界的な傾向だが、貧富の差が所謂「経済危機」が始まって以来急激に拡大している。OECDの統計によれば、2007年から2014年の間にヨーロッパの中で、スペインはキプロスに次いで経済格差が激しい国だ。同じように破滅的な危機状態にあるポルトガルやアイルランドが逆に格差を縮めつつある中で、スペインは大陸ヨーロッパのどこよりも貧富の差が拡大している。Oxfamによれば、この7年の間にスペインでの格差の拡大は、ギリシャでのそれの14倍にも上る。2014年の段階で、上から10%にいる人々がスペインの富の58%を所有している。そしてその格差は年々激しくなってきている。2015年にスペインの上位200人の収入は前年比で16%も増えているのである。

 バルセロナでは貧しい地域と豊かな地域の生活の格差(参照当サイト記事)がますます広がりつつある。高級住宅街であるパドラルバス地区に住む家族の平均収入は、最も貧しい地区トゥリニタッ・ノバのそれの7.2倍である。これはもちろんその地区に住む家庭の平均だから、個々の例を見ればその格差ははるかに激しいものになる。マドリッドでも同じように住宅地区による格差が拡大しつつある。各都市で、いずれは貧民窟と高級住宅地に二分化されるのではないかと恐れざるを得ない。

 これは「経済の危機」というよりは、人間とその社会そのものが直面する危機だろう。マスコミが「温暖化」とか「ロシアの脅威」などで危機を適当に誤魔化していても、目の前で進行し自分の身に降りかかる危機を誤魔化すことはできない。私は以前に、スペインの国家的な死と「腐肉」を取り除いたうえでの「解体処分」を予告した(参照当サイト記事)。どうやらスペインにいる地域密着型の伝統的な保守政治家は取り除かれるべき「腐肉」の一部であるようだ。この1~2年でスペインとカタルーニャがどのように変化するのか、今の状態では確実なことが予想できない。しかしどうなったとしても、我々はその中で、生きることのできる限り生きていかねばならないのだ。(記事引用)

アベノミクスとリスク・オン経済
【講演レポート】教養講座「松元崇氏」講演要旨
崇城大学2015年06月29日 松元崇氏講演要旨2015年6月12日 
私は、13年前の熊本県の企画開発部長。昨年1月まで内閣府事務次官を務め、アベノミクス立ち上げの手伝いをした。
きょうは3つお話しする。①ベルリンの壁崩壊の1989年以降、世界は大きく変化した。それまでは資金不足、インフレを心配していたが、カネ余りでデフレを心配する時代になった。②リーマン・ショック後、他の国は金融緩和を行ったが、日本はやらなかった。それをやって、デフレから脱却し、景気をよくしようというのがアベノミクスの第1の矢。③企業が活動しにくくなっている現状を改め、経済を活性化して国民生活を向上させるのがアベノミクスの成長戦略の基本。
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まず、現在の経済状況を御覧いただくと、実質GDP(国内総生産)などいずれも大変に良くなっている。15年間、デフレが続いていた時代、日本の世界におけるGDPシェアは14%から8.2%に41.2%ポイントもダウンした。ヨーロッパが12.5%ポイントダウン、米国が19.6%ポイントダウンに比べて倍以上だ。Japan passing、Japan nothing、(日本経済の)空洞化といった言葉を聞かなくなったことが、アベノミクスが成功している証拠。

世界経済の変化の第一は、「南北問題」という言葉が聞かれなくなったこと。1961年にアメリカのケネディ大統領の提唱で「国連開発の10年」が始まり、1981年に「南北サミット」が開かれたが、世界の貧困人口は減らなかった。
それが1989年のベルリンの壁崩壊後、ブラジル、ロシア、インド、中国といった国々が台頭し、途上国は先進国より高い成長をはじめた。ハイテク製品まで途上国で生産されるようになった。そして、「南北問題」という言葉が聞かれなくなった。それは社会主義という成長にとっての軛(くびき)が外れ、革命の輸出のような不安定要因が取り除かれたから。最近話題のトマ・ピケティの『21世紀の資本』は格差問題についての本だが、南北問題は全く出てこない。

先進国は世界人口の15%しか占めておらず、それまで15%の人口による生産では供給不足でインフレを心配しなければならない世界だった。それが、人口の85%を占める途上国が成長しだして、そこで生産された製品が先進国に大量に流れ込み、デフレを心配しなければならなくなった。そういう中で、世界で唯一、実際にデフレに陥ったのが日本。

第二の変化は世界経済がカネ余りになったこと。かつて、GDPとほぼ同じだった世界の金融資産残高は2012年にはGDPの3.4倍。日本の金融資産残高が1700兆円でGDPの3倍以上といわれるのと同じ状況になっている。そこで登場したのがリスク・オン経済だ。かつて日銀の窓口規制というのがあった。
資金不足のときは日銀が規制を緩めると市中にカネが流れたが、今日のカネ余り状況では日銀が緩めても締めてもあまり変わりがないので規制そのものが廃止された。おカネは高い収益を求めてグローバルに流れるが、無制限ではない。リスクが高まるとカネの流れが止まり、リスクの低い安全資産の方に逆流する。リスクが低くなったと認識されるとまた流れ出す。
かつて窓口規制で行っていたことが、リスク・オン、リスク・オフというマーケットの認識で行われるようになったのがリスク・オン経済だ。ただし、そのような市場の認識はマーケットを不安定にしかねないので、各国の中央銀行はマーケットとの対話を重視しなければならなくなっている。

世界の変化の中で、日本は企業が活動しにくい国になってしまっている。リーマン・ショック後、日本だけ量的金融緩和をしなかったので、実力以上に円高が進んだ。一国だけ通貨高になるような国からは、企業が外に出て行くことになったのが空洞化。
それは、日本で仕事が失われ、付加価値も生まれなくなることを意味していた。GDPは一人ひとりが稼いだ付加価値の総額だから、付加価値が生まれなくなると日本経済は縮小する。その姿を抜本的に変えたのがアベノミクスの第一の矢だ。

ただ、それだけでは日本経済を力強く成長させていくことはできない。むかしケインズという経済学者がいて「どうしたら成長させられるか」と聞かれたのに対して「アニマル・スピリット」と答えている。企業がアニマル・スピリットを発揮しやすくするのがアベノミクスの成長戦略の柱。
今日は、そのうちの一つ、硬直的な労働慣行の見直しの話をする。コマツの坂根正弘相談役が日経新聞の『私の履歴書』に書いていた話。コマツ・アメリカのチャタヌガ工場が不況になった時、日本の慣行に従ってレイオフしなかったので地域から称賛された。ところが、その後、景気が回復したとき再度不況になったときのレイオフの心配から工場拡大に慎重になり、競争相手から大きく取り残されてしまったという。

日本企業のROE(総資産収益率)が低いといわれるが、競争力を失った分野があっても従業員を切れないので不採算部門が残るという要因が大きい。これまでは、それでやってこられたが、国際的な厳しい競争社会になった今日ではそうはいかない。
高い収益率を確保し成長を確保しようとすると、従業員を整理して柔軟な経営戦略が取れるような海外で工場を新設しなければならないということになってしまう。コマツのチャタヌガ工場の轍を踏まないためにというわけだ。そうなると、国内での雇用が伸びない。経済が伸びないと、少子化でヒトが減ってもヒト余りになりかねない。

アメリカではレイオフできるが、再雇用市場が充実していて困らない。ヨーロッパは一定のルールで解雇できるが、(失業者への)社会保障が充実しているので困らない。
日本の場合、そうはいかない。家族もろとも路頭に迷うことになる。柔軟な雇用の仕組みでうまくいっているのがスウェーデンとドイツだが、同様の仕組みにしようとすると、財政問題が登場してくる。
国民一人当たりの給付額は、日本では高齢者に238万円で非正規労働者の収入より70万円多い。夫婦二人なら476万円になり正規社員とほぼ同じだ。高齢化世代への給付は欧米では現役世代の1.2倍くらいだが、日本は3倍にもなる。
よく役所のムダを削れと言われるが、公務員の人件費はアメリカの約半分、スウェーデンの3分の1だし、公共投資もさほど大きくない。「ムダのあるうちは国民負担を求めない」と言うのは格好いいが、やるべき政策をやらない理由になってしまう。このままでは国の借金1000兆円は若い人の肩にかかってくることになる。

やるべき施策は何か。少子化対策や科学振興、イノベーションなどで潜在成長力を高めるのも大切だが、それだけで本当に日本の競争力を高めることはできない。
そういった危機意識がないことが最大の問題だ。
世界が変わってリスク・オン経済に変わってしまっているという認識を若い人に持ってもらいたい。ゆでガエルの話がある。水からぬるま湯にしていくと、ゆで上がってしまう。デフレの時代は、大多数の国民の実質所得が増える居心地の良いものだった。その延長で、危機意識のないままでは、ゆでガエル状態になってしまう。
だからといってアメリカの真似をしろというわけではない。アメリカの経営は収益の出ない部門を切り捨てたり、M&A(企業買収)で集約したりする、従業員のことをあまり考えない経営。それをそのまま日本に持ち込むことはできない。日本流のやり方を考えていく必要がある。

アニマル・スピリットは頑張って一生懸命が大事。私は、大学(注・東京大学)4年間、ボート部で漕いでいて留年した。5年目の一年間で一生懸命勉強して司法試験でトップになり、公務員試験にも受かって大蔵省に入った。「一漕入魂」が大事だ。
(文責・井芹)
(記事引用) 

島国日本、明日のかたち
--いま政治に夢がなさすぎる--
産業革命(Industrial Revolution)は、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった工場制機械工業の導入による産業の変革と、それに伴う社会構造の変革のことである。

それと同時進行で君主政治から民主主義政治に移行し、それは資本経済・政治にかわり現在にいたる。その間約100~200年という時間枠で、人の歴史でも、ほんの僅かであり地球の時間でいったら線香花火の1灯でしかない。

その1灯一粒の、原子構造を解読し、原子核を構成している電子極を操作して、核のバランスを崩壊させると宇宙規模の大爆発が起きる、ということを発見した。それを実際にリアルタイムで人間の棲む生活空間上で爆発させたことは映画の1ショットの夢物語ではなかった。

そのことを観て、知ってしまった地球に棲む世界の人間は、ギリシア時代より培ってきた基本的「民主主在」という結果の政治システムに、ほとほと飽きてしまった。資本経済・政治と相まって、全ての価値を金銭に変じて、それを持たないものは、生きられない、という現実インフラを作ってしまった。
その延長に政治がある。そして東奔西走しているその政治家は、いったい誰のために政治をしているのか、という基本を認識しようともしない。

(※)「イデオロギー」云々というと、きこえはいいが、刹那にいって自己欲得論、また所属する団体組織の帰属意識下に従順でいるか、いられるか、という動物のハーレム掟となんら変わるところがない。

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まさにそこが日本のターニングポイントであったと司馬遼太郎は指摘している。

番組の第2集武士700年の遺産では、鎌倉時代の武士に育まれた「名こそ惜しけれ」の精神という「内的要因」に注目。私利私欲は恥という考えが、近代の日本人にもどれだけ影響を与えたのかを探るべく、鎌倉(神奈川県)を中心に取材している。その武士の原型は農民武士である「坂東武士」が基本になっていると説明していた。

これは私の個人見解だが、「坂東武士」という存在位置づけをする前に、鎌倉時代以前の「朝廷貴族」特権支配層以外の土着的民族の国家的組織力が、どこにも述べられそして語られていない。
この「坂東武士」自体の性質も明らかでないし、ましてやそれらを形成していたであろう「俘囚の民」の詳細など、殆どわかっていない。


※俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったもの。このうち隷属の度合いが、 これが、俘囚長を称した安倍氏 (奥州)、俘囚主を称した出羽清原氏、俘囚上頭を称した奥州藤原氏の勢威につながった。(ウィキぺデア)

それら古代日本国家が、ある特定の時代の価値観だけに拠った「名こそ惜しけれ」で括ってしまうには性急なような気もした。

第2集武士700年の遺産をくくるに当たって司馬遼太郎は、昭和の軍事国家日本の危うさを危惧していた。日本のターニングポイントはまさにそこにあり、「統帥権」という漠然とした概念で、日本全土がそのバイアスに嵌ってしまったと司馬遼太郎は回顧している。
見方によっては、それは世界戦争に巻き込まれた日本の言分けにもとれるが、「明治維新」時代の主要要人の動向を追ってみると、すでに、このときより布石は築かれていたように思われる。とくに山縣有朋の記事録、言説など読み解くと、それがよく判る。

世界の政治はいま絶望している--
 
古典的立憲主義
立憲主義は、複雑な概念であるが、その「思想」は、人類の歴史的な経験に根差している。
国家の統治は、より上位の法に従わなければならないという「思想」の起源は、古代ギリシアに遡ることができるが、そこでは憲法に違反する統治は革命によって是正されるものと考えられていた。

古代ギリシアに始まり、古代ローマで発展をみた自然法思想は、「近代的立憲主義」の本質的要素を準備した。ローマの法学者は、公法と私法の根本的な区別を認めた。

「憲法」は多義的な概念である。広義では、国家の組織・構造に関する定めや政治権力の在り方などを定めた法規範という意味もある。
これを「固有の意味の憲法」という。
この「広義の憲法」に対応して、国家の統治を憲法に基づき規正しようとする原理を古典的立憲主義という。古典的立憲主義は、ヴェネツィア共和国やグレートブリテン及びアイルランド連合王国にみることができる。
英国法では、中世における、多様な民族による分権的多層的な身分社会を前提に、身分的社会の代表である議会と、特権的身分の最たるものである国王との緊張関係を背景として、王権を制限し、中世的権利の保障を目的とした古典的な立憲主義が成立した。

そこでは、立憲主義は、コモン・ローと呼ばれる不文の慣習に基づき権力の行使を行なわせる原理として理解され、「国王といえども神と法の下にある」というヘンリー・ブラクトンの法諺が引用されるのである。もっとも、そこでは、そもそも君主といえども主権と呼べるほどの権力を有していなかったという特殊な事情は看過されてはならない。
(資料ウィキぺデア)

明治維新を醸成させた酵母菌「徳川幕府」

江戸開城は、江戸時代末期(幕末)の慶応4年(1868年)3月から4月(旧暦)にかけて、明治新政府軍(東征大総督府)と旧幕府(徳川宗家)との間で行われた、江戸城の新政府への引渡しおよびそれに至る一連の交渉過程をさす。

江戸城明け渡しとも江戸無血開城ともいう。
徳川宗家の本拠たる江戸城が同家の抵抗なく無血裏に明け渡されたことから、同年から翌年にかけて行われた一連の戊辰戦争の中で、新政府側が大きく優勢となる画期となった象徴的な事件であり、交渉から明け渡しに至るまでの過程は小説・演劇・テレビドラマ・映画などの題材として頻繁に採用される。※以下、日付はすべて旧暦(天保暦)によるものである。

戊辰戦争勃発と慶喜追討令

慶応3年(1867年)10月大政奉還により政権を朝廷へ返上した15代将軍徳川慶喜は、新設されるであろう諸侯会議の議長として影響力を行使することを想定していたが、討幕派の公家岩倉具視や薩摩藩の大久保利通・西郷隆盛らが主導した12月初旬の王政復古の大号令とそれに続く小御所会議によって自身の辞官納地(官職・領土の返上)が決定されてしまう。
慶喜はいったん大坂城に退くが、公議政体派の山内容堂(前土佐藩主)・松平春嶽(前越前藩主)・徳川慶勝(前尾張藩主)らの工作により、小御所会議の決定は骨抜きにされ、また慶喜も諸外国の公使に対して外交権の継続を宣言するなど、次第に列侯会議派の巻き返しが顕著となってきた。 

大政奉還の少し前の慶応3年10月13日そして14日には討幕の密勅が薩摩と長州に下される。江戸薩摩邸の活動も討幕の密勅を受けて活発化して定め書きを書いて攻撃対象を決めた。
攻撃対象は「幕府を助ける商人と諸藩の浪人。志士の活動の妨げになる商人と幕府役人。唐物を扱う商人。
金蔵をもつ富商」の四種に及んだ。江戸薩摩藩邸の益満休之助・伊牟田尚平に命じ、相楽総三ら浪士を集めて攪乱工作を開始。
しかし、慶応3年10月14日、同日に大政奉還が行われ、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、討幕の密勅は事実上、取り消された。
既に大政奉還がなされて幕府は政権を朝廷に返上したために倒幕の意味はなくなり薩摩側も工作中止命令を江戸の薩摩邸に伝える。 ただそれでも江戸薩摩藩邸の攘夷派浪人は命令を無視して工作を続けていた。
江戸市中警備の任にあった庄内藩がこれに怒り、12月25日、薩摩藩および佐土原藩(薩摩支藩)邸を焼き討ちするという事件が発生した。

この報が12月28日大坂城にもたらされると、城内の強硬派が激昂。薩摩を討つべしとの主戦論が沸騰し、「討薩表」を携えた幕府軍が上京を試み、慶応4年正月3日鳥羽(京都市)で薩摩藩兵と衝突し、戦闘となった(鳥羽・伏見の戦い)。

しかし戦局は旧幕府軍が劣勢に陥り、朝廷は薩摩・長州藩兵側を官軍と認定して錦旗を与え、幕府軍は朝敵となってしまう。そのため淀藩・津藩などが旧幕府軍から離反し、慶喜は6日、軍を捨てて大坂城を脱出、軍艦開陽丸で海路江戸へ逃走した。ここに鳥羽・伏見の戦いは幕府の完敗で終幕した。

新政府は7日徳川慶喜追討令を発し、10日には慶喜・松平容保(会津藩主、元京都守護職)・松平定敬(桑名藩主、元京都所司代)を初め幕閣など27人の「朝敵」の官職を剥奪し、京都藩邸を没収するなどの処分を行った。

翌日には諸藩に対して兵を上京させるよう命じた。また21日には外国事務総督東久世通禧から諸外国の代表に対して、徳川方に武器・軍艦の供与や兵の移送、軍事顧問の派遣などの援助を行わないよう要請した。
これを受け25日諸外国は、それぞれ局外中立を宣言。事実上新政府軍は、かつて諸外国と条約を締結した政府としての徳川家と、対等の交戦団体として認識されたことになる。

旧幕府側の主戦論と恭順論 徳川慶喜

正月11日、品川に到着した慶喜は、翌12日江戸城西の丸に入り今後の対策を練った。慶喜はひとまず13日歩兵頭に駿府(現静岡市)警備、14日には土井利与(古河藩主)に神奈川(現横浜市)警備を命じ、17日には目付を箱根・碓氷の関所に配し、20日には松本藩・高崎藩に碓氷関警備を命令。

さらに親幕府派の松平春嶽・山内容堂らに書翰を送って周旋を依頼するなど、さしあたっての応急処置を施している。鳥羽・伏見敗戦にともなって新政府による徳川征伐軍の襲来が予想されるこの時点で、徳川家の取り得る方策は徹底恭順か、抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つの選択肢があった。

勘定奉行兼陸軍奉行並の小栗忠順や、軍艦頭並の榎本武揚らは主戦論を主張。小栗の作戦は、敵軍を箱根以東に誘い込んだところで、兵力的に勝る徳川海軍が駿河湾に出動して敵の退路を断ち、フランス式軍事演習で鍛えられた徳川陸軍で一挙に敵を粉砕、海軍をさらに兵庫・大阪方面に派遣して近畿を奪還するというものであったが、恭順の意思を固めつつあった慶喜の容れるところとならず、小栗は正月15日に罷免されてしまう。

19日には在江戸諸藩主を召し、恭順の意を伝えて協力を要請、翌日には静寛院宮(和宮親子内親王)にも同様の要請をしている(後述)。続く23日、恭順派を中心として配置した徳川家人事の変更が行われた。
若年寄 : 平山敬忠、川勝広運
陸軍総裁 : 勝義邦(海舟)、副総裁 : 藤沢次謙
海軍総裁 : 矢田堀鴻、副総裁 : 榎本武揚
会計総裁 : 大久保忠寛(一翁)、副総裁 : 成島柳北
外国事務総裁 : 山口直毅、副総裁 : 河津祐邦
このうち、庶政を取り仕切る会計総裁大久保一翁と、軍事を司る陸軍総裁勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官となり、恭順策を実行に移していくことになった。

この時期、フランス公使レオン・ロッシュがたびたび登城して慶喜に抗戦を提案しているが、慶喜はそれも退けている。27日、慶喜は徳川茂承(紀州藩主)らに隠居・恭順を朝廷に奏上することを告げた。

ここに至って徳川家の公式方針は恭順に確定したが、それに不満を持つ幕臣たちは独自行動をとることとなる。さらに2月9日には鳥羽・伏見の戦いの責任者を一斉に処分、翌日には同戦いによって新政府から官位を剥奪された松平容保・松平定敬・板倉勝静らの江戸城登城を禁じた。
12日、慶喜は江戸城を徳川慶頼(田安徳川家当主、元将軍後見職)・松平斉民(前津山藩主)に委任して退出し、上野寛永寺大慈院に移って、その後謹慎生活を送った。

新政府側の強硬論と寛典論

新政府側でも徳川家(特に前将軍慶喜)に対して厳しい処分を断行すべきとする強硬論と、長引く内紛や過酷な処分は国益に反するとして穏当な処分で済ませようとする寛典論の両論が存在した。
薩摩藩の西郷隆盛などは強硬論であり、大久保利通宛ての書状などで慶喜の切腹を断固求める旨を訴えていた。
大久保も同様に慶喜が謹慎したくらいで赦すのはもってのほかであると考えていた節が見られる。このように、東征軍の目的は単に江戸城の奪取のみに留まらず、徳川慶喜(およびそれに加担した松平容保・松平定敬)への処罰、および徳川家の存廃と常にセットとして語られるべき問題であった。

一方、長州藩の木戸孝允・広沢真臣らは徳川慶喜個人に対しては寛典論を想定していた。また公議政体派の山内容堂・松平春嶽・伊達宗城(前宇和島藩主)ら諸侯も、心情的にまだ慶喜への親近感もあり、慶喜の死罪および徳川家改易などの厳罰には反対していた。

熾仁親王
有栖川宮 熾仁親王(
ありすがわのみや たるひとしんのう、天保6年2月19日(1835年3月17日) - 明治28年(1895年)1月15日)

新政府はすでに東海道・東山道・北陸道の三道から江戸を攻撃すべく、正月5日には橋本実梁を東海道鎮撫総督に、同9日には岩倉具定を東山道鎮撫総督に、高倉永祜を北陸道鎮撫総督に任命して出撃させていたが、2月6日天皇親征の方針が決まると、それまでの東海道・東山道・北陸道鎮撫総督は先鋒総督兼鎮撫使に改称された。
2月9日には新政府総裁の熾仁親王が東征大総督に任命(総裁と兼任)される。先の鎮撫使はすべて大総督の指揮下に組み入れられた上、大総督には江戸城・徳川家の件のみならず東日本に関わる裁量のほぼ全権が与えられた。

大総督府参謀には正親町公董・西四辻公業(公家)が、下参謀には広沢真臣(長州)が任じられたが、寛典論の広沢は12日に辞退し、代わって14日強硬派の西郷隆盛(薩摩)と林通顕(宇和島)が補任された。
2月15日、熾仁親王以下東征軍は京都を進発して東下を開始し、3月5日に駿府に到着。翌6日には大総督府の軍議において江戸城進撃の日付が3月15日と決定されたが、同時に、慶喜の恭順の意思が確認できれば一定の条件でこれを容れる用意があることも「別秘事」として示されている。
この頃にはすでに西郷や大久保利通らの間にも、慶喜の恭順が完全であれば厳罰には及ばないとの合意ができつつあったと思われる。実際、これらの条件も前月に大久保利通が新政府に提出した意見書にほぼ添うものであった。
(資料ウィキぺデア)

榎本 武揚
榎本 武揚(1836年10月5日(天保7年8月25日) - 1908年(明治41年)10月26日)は、日本の武士(幕臣)、化学者、外交官、政治家。海軍中将、正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川(りょうせん)。榎、釜を分解した「夏木金八(郎)」という変名も用いていた。なお、武揚は「ぶよう」と故実読みでも呼ばれた。

伊能忠敬の元弟子であった幕臣・榎本武規(箱田良助)の次男として生まれる。昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学した。
帰国後、幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、いわゆる「蝦夷共和国」の総裁となった。箱館戦争で敗北し降伏、東京・辰の口の牢獄に2年半投獄された。

敵将・黒田清隆の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕えた。開拓使で北海道の資源調査を行い、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結したほか、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は、逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任、子爵となった。

また、メキシコに殖民団を送ったほか、東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科や、東京地学協会や電気学会など数多くの団体を創設した。

1836年(天保7年)、江戸下谷御徒町柳川横町(現在の東京都台東区浅草橋付近)、通称・三味線堀の組屋敷で西丸御徒目付・榎本武規の次男として生まれる。

近所に住んでいた田辺石庵に入門し儒学を学んだ後、1851年(嘉永4年)、昌平坂学問所に入学。1853年(嘉永6年)に修了するが、修了時の成績は最低の「丙」であった。

1854年(安政元年)、箱館奉行・堀利煕の従者として蝦夷地箱館(現在の北海道函館市)に赴き、蝦夷地・樺太巡視に随行。
1855年(安政2年)、昌平坂学問所に再入学する(翌年7月退学)が、同年長崎海軍伝習所の聴講生となった後、1857年(安政4年)に第2期生として入学。

海軍伝習所では、カッテンディーケやポンペらから機関学、化学などを学んだ。カッテンディーケは伝習所時代の榎本を高く評価していた。
翌1858年(安政5年)海軍伝習所を修了し、江戸の築地軍艦操練所教授となる。また、この頃、ジョン万次郎の私塾で英語を学び、後に箱館戦争をともに戦う大鳥圭介と出会う。

オランダ留学「開陽丸#発注」 開陽丸(1867年頃)

1861年(文久元年)11月、幕府はアメリカに蒸気軍艦3隻を発注するとともに、榎本・内田正雄・澤太郎左衛門・赤松則良・田口俊平・津田真道・西周をアメリカへ留学させることとした。しかし、南北戦争の拡大によりアメリカ側が断ったため、翌1862年(文久2年)3月にオランダに蒸気軍艦1隻(開陽丸)を発注することとし、留学先もオランダへ変更となった。

同年6月18日、留学生一行は咸臨丸で品川沖から出発。途中、榎本・沢・赤松・内田が麻疹に感染したため下田で療養し、8月23日長崎に到着。
9月11日、オランダ船カリップス号で長崎を出航、バタビアへ向かう。ジャワ島北方沖で暴風雨に遭い、船が座礁し無人島へ漂着するが、救出されてバタビアで客船テルナーテ号に乗り換える。
セントヘレナ島でナポレオンの寓居跡などを訪ねた後、1863年(文久3年)4月18日、オランダ・ロッテルダムに到着した。
オランダでは当時海軍大臣となっていたカッテンディーケやポンペの世話になった。榎本はハーグで下宿し、船舶運用術、砲術、蒸気機関学、化学、国際法を学んだ。

1864年(元治元年)2月から3月にかけ、赤松則良とともにシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を観戦武官として見学した。
プロイセン・オーストリア軍の戦線を見学した後、デンマークに渡り、同軍の戦線を見学した。
その後、エッセンのクルップ本社を訪れ、アルフレート・クルップと面会した。また、フランスが幕府に軍艦建造・購入を提案したことを受け、内田とパリへ赴き、フランス海軍と交渉したほか、赤松とイギリスを旅行、造船所や機械工場、鉱山などを視察した。

1866年(慶応2年)7月17日に開陽丸が竣工し、同年10月25日、榎本ら留学生は開陽丸とともにオランダ・フリシンゲン港を出発、リオデジャネイロ・アンボイナを経由して、1867年(慶応3年)3月26日、横浜港に帰着した。
5月10日に幕府に召し出され、100俵15人扶持、軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)に任ぜられる。
7月8日に軍艦頭並となり、布衣を許される。9月19日に軍艦頭となり、和泉守を名乗る。同年、オランダ留学生仲間の林研海の妹(奥医師・林洞海の長女)・たつと結婚した。

戊辰戦争 阿波沖海戦・大坂撤退

1867年末には幕府艦隊を率いて大坂湾へ移動しており、京都での軍議にも参加していた。
翌1868年(慶応4年)1月2日、大坂湾から鹿児島へ向かっていた薩摩藩の平運丸を攻撃した。薩摩藩の抗議に対し榎本は、薩摩藩邸焼き討ち以来、薩摩藩とは戦争状態にあり港湾封鎖は問題ないと主張。更に1月4日には、兵庫港から出港した薩摩藩の春日丸ほかを追撃、阿波沖海戦で勝利した。鳥羽・伏見の戦いでの旧幕府軍敗北を受けて、榎本は軍艦奉行・矢田堀景蔵ともに幕府陸軍と連絡を取った後、1月7日に大坂城へ入城した。
しかし徳川慶喜は既に6日夜に大坂城を脱出しており、7日朝、榎本不在の開陽丸に座乗した後、8日夜に江戸へ引き揚げていた。

榎本は大坂城に残された什器や刀剣などを運び出し、城内にあった18万両を富士山丸に積み、新撰組や旧幕府軍の負傷兵らとともに、12日に大阪湾を出発、15日、江戸に到着した。
1月23日、海軍副総裁に任ぜられる。榎本は徹底抗戦を主張したが、恭順姿勢の慶喜は採り上げず、海軍総裁の矢田堀も慶喜の意向に従い、榎本派が旧幕府艦隊を支配した。

旧幕府艦隊の脱走 品川沖の旧幕府艦隊

後列左から小杉雅之進、榎本道章、林董三郎、松岡磐吉、前列左から荒井郁之助、榎本武揚
同年4月11日、新政府軍は江戸開城に伴い降伏条件の一つである旧幕府艦隊の引渡を要求するが、榎本は拒否し、人見勝太郎や伊庭八郎が率いる遊撃隊を乗せ、悪天候を口実に艦隊8隻で品川沖から安房国館山に脱走した。

勝海舟の説得により4月17日に品川沖へ戻り、4隻(富士山丸・朝陽丸・翔鶴丸・観光丸)を新政府軍に引渡したが、開陽等の主力艦の温存に成功した。

榎本はなおも抵抗姿勢を示し、閏4月23日には勝に艦隊の箱館行きを相談するが反対される。5月24日に徳川宗家の駿河・遠江70万石への減封が決定。
榎本は移封完了を見届けるとしつつも、配下の軍艦で、遊撃隊や請西藩主・林忠崇に協力して館山藩の陣屋を砲撃した上、小田原方面へ向かう彼らを館山から真鶴へ輸送したほか、輪王寺宮や脱走兵を東北地方へ運ぶなど旧幕府側勢力を支援した。
7月には奥羽越列藩同盟の密使(仙台藩・横尾東作、会津藩・雑賀孫六郎、米沢藩・佐藤市之允)と会い、7月21日、列藩同盟の参謀を務めていた板倉勝静・小笠原長行宛に支援に向かう旨の書状を出した。
8月に入ると密かに脱走準備を進め、8月4日、勝に軽挙妄動を慎むよう申しわたされるが、8月15日に徳川家達が駿府に移り移封が完了すると、榎本は8月19日、抗戦派の旧幕臣とともに開陽丸、回天丸、蟠竜丸、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦からなる旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出し、奥羽越列藩同盟の支援に向かった。
この艦隊には、元若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松平太郎、彰義隊や遊撃隊の生き残り、そして、フランス軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴなど、総勢2,000余名が乗船していた。江戸脱出に際し、榎本は「檄文」と「徳川家臣大挙告文」という趣意書を勝海舟に託している。

檄文

王政日新は皇国の幸福、我輩も亦希望する所なり。然るに当今の政体、其名は公明正大なりと雖も、其実は然らず。王兵の東下するや、我が老寡君を誣ふるに朝敵の汚名を以てす。

其処置既に甚しきに、遂に其城地を没収し、其倉庫を領収し、祖先の墳墓を棄てゝ祭らしめず、旧臣の采邑は頓に官有と為し、遂に我藩士をして居宅をさへ保つ事能わざらしむ。

又甚しからずや。これ一に強藩の私意に出て、真正の王政に非ず。我輩泣いて之を帝閽に訴へんとすれば、言語梗塞して情実通ぜず。故に此地を去り長く皇国の為に一和の基業を開かんとす。それ闔国士民の綱常を維持し、数百年怠惰の弊風を一洗し、其意気を鼓舞し、皇国をして四海万国と比肩抗行せしめん事、唯此一挙に在り。

之れ我輩敢て自ら任ずる所なり。廟堂在位の君子も、水辺林下の隠士も、荀も世道人心に志ある者は、此言を聞け。

房総沖で暴風雨に襲われ艦隊は離散し、咸臨丸・美賀保丸の2隻を失うが、8月下旬頃から順次仙台に到着した。

9月2日、榎本、ブリュネ、カズヌーブは仙台城で伊達慶邦に謁見する。
翌日以降、仙台藩の軍議に参加するが、その頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、9月12日に仙台藩も降伏を決定した。
これを知った榎本と土方歳三は登城し、執政・大條孫三郎と遠藤文七郎に面会し、翻意させようとするが果たせず、出港準備を始めた。
旧幕府艦隊は、幕府が仙台藩に貸与していた太江丸、鳳凰丸を艦隊に加え、桑名藩主・松平定敬、大鳥圭介、土方歳三らと旧幕臣の伝習隊、衝鋒隊、仙台藩を脱藩した額兵隊など、計約3,000名を収容。新政府軍の仙台入城を受けて、10月9日に仙台を出航し石巻へ移動した。このとき、新政府軍・平潟口総督四条隆謌宛てに旧幕臣の救済とロシアの侵略に備えるため蝦夷地を開拓するという内容の嘆願書を提出している。
10月11日には横浜在住のアメリカ人でハワイ王国総領事であったユージン・ヴァン・リードから、ハワイへの亡命を勧められるが断っている。
その後、幕府が仙台藩に貸与したが無頼の徒に奪われ海賊行為を行っていた千秋丸を気仙沼で拿捕し、宮古湾で補給の後、蝦夷地へ向かった。

(※イデオロギーとは、観念の体系である。文脈によりその意味するところは異なり、主に以下のような意味で使用される。通常は、政治や宗教における観念を指しており、政治的意味や宗教的意味が含まれている。
世界観のような、物事に対する包括的な観念。
日常生活における、哲学的根拠。ただ日常的な文脈で用いる場合、「イデオロギー的である」という定義はある事柄への認識に対して事実を歪めるような虚偽あるいは欺瞞を含んでいるとほのめかすこともあり、マイナスの評価を含むこともある。
主に社会科学の用法として、社会に支配的な集団によって提示される観念。殊にマルクス主義においては、階級的な立場に基づいた物の見方・考え方。
イデオロギーという用語は初め、観念の起源が先天的なものか後天的なものかを中心的な問題とする学の名であった。この用法はデステュット・ド・トラシー(Destutt de Tracy)『イデオロジー原論』(1804-1815)に見られる。
彼に代表される活動家達はイデオローグ(ide'ologues)と呼ばれ、1789年のフランス大革命以降、怪しげなものとして見られていたアンシャン・レジーム時代の思想のなかで啓蒙主義的な自由主義を復興させようとし、革命期から帝政にかけてフランスリベラル学派の創始者、指導的立場となった。
当初は人間の観念に関する科学的な研究方法を指していたが、やがてその対象となる観念の体系そのものをいうようになった。
イデオロギーの定義は曖昧で、また歴史上その定義は一様でない。イデオロギーの定義には認識論を含むもの、社会学的なものがあり、互いに矛盾している。しかし、それぞれが有意義な意味を多数もっている。そのためディスクールや同一化思考などの類似概念と置き換え可能ではない。以下イデオロギーの定義の重要な意味内容について、主に認識論や社会学的成果をもとに解説する。) 
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