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原油価格下落は世界と日本にとって吉か凶か
真壁昭夫 [信州大学教授] 【第413回】 2016年1月26日
“逆オイルショック”はリスクオフを加速させ
世界経済の足を引っ張る悪循環をもたらす

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 ガソリン価格や生産コストの低下は、消費の下支えにつながるはずだが…

 原油価格が不安定な展開を続けている。1月15日には、代表的な指標であるWTI(ウエスト・テキサス・インターミディエート)原油先物価格が、約12年ぶりに1バレル当たり30ドルを下回って取引を終え、20日にはさらに26ドル台となった。

 足元では反発しているものの、2014年前半、100ドル台だったことを振り返ると、原油価格はまさに地すべりのような勢いで下落した。それは“逆オイルショック”と呼ぶべき動きだ。

 この背景には、世界的な原油需給の悪化がある。中国など新興国の景気が減速し需要が低迷しているにもかかわらず、サウジアラビアなど主要産油国は減産を見送ってきた。足元では、イランの原油輸出観測が供給圧力への懸念を追加的に高めている。

 主要需要国であった中国などの景気減速で、原油だけでなく、鉄鉱石や銅など多くの商品も下落している。まさに“資源バブル”の崩壊という表現が適切な状況だ。

 最近の原油価格の下落と不安定な株価の相関関係を見ると、これは世界経済のリスク要因の一つと考えた方がよい。これまで世界経済を牽引してきた米国でも、原油価格の下落がエネルギー関連企業の業績、財務体力への懸念を高め始めている。

 原油価格の下落は、エネルギー資源を輸入する国にはプラスに作用する。しかし、原油を売る側の産油国にとっては大きなマイナス要因だ。中東の産油国の中には、保有している投資ファンドを現金化する動きも出ている。

 それに伴い、欧米やわが国の株式市場には、中東筋からの売りが出ているようだ。株価の下落は投資家のリスク許容量を減少させ、金融市場を不安定化させる。それは投資家のリスクオフの動きを加速させ、金融市場の下落で世界経済の足を引っ張る悪循環ができる可能性が高い。

サウジの思惑とイラン制裁解除で供給過剰
中国と世界の景気減速で需要は低迷

 原油価格の下落の背景には、世界的に原油が過剰気味になっていることがある。供給サイドでは、シェールオイルブームによって米国などで産油量が大きく上昇した。それに加えて、サウジアラビアをはじめとする主要産油国が減産を見送ったことが大きく影響している。

 2014年、米国の原油生産量は、サウジアラビアを抜いて世界第1位となった。米国の生産増加は、世界の原油市場をコントロールしてきたサウジアラビアにとって、影響力の低下を危惧させたはずだ。

 かつて、サウジアラビアはOPEC(石油輸出国機構)内の減産合意に基づいて、産油量を減らし市場シェアを落としてしまった。その時の経験もあり、同国などOPEC諸国は減産を見送り、結果として原油の供給圧力が高まった。

 また、1月16日、欧米諸国がイランに対する経済制裁を解除すると発表した。すでに、イランは原油輸出量を一日当たり50万バレル増やす用意があるという。イランの追加的な供給圧力は、原油価格の下押し圧力として働く。

 一方、原油に対する需要は低迷している。基本的に、原油への需要は世界の経済状況に大きく左右される。経済状況が上向きになると、生産活動の活発化等のためにより多くのエネルギーが必要になる。経済状況が悪化すると、原油への需要も弱まりやすい。

 世界経済の下落を招いた最大の要因は中国の景気減速だ。リーマンショック後、中国政府は約4兆円(約57兆円)の景気刺激策を打ち出した。それは、リーマンショック後の景気を一時的に支えた。

 しかし、景気対策の賞味期限はほとんどが3年程度だ。中国の景気拡大は続かず、2014年以降、減速は鮮明化した。積極的な景気対策の結果、国内では鉄鋼や石炭などの過剰な生産能力が蓄積された。それが中国での不良債権への懸念を高めてきた。

 こうして中国経済の成長期待は低下し、世界的に原油など資源に対する需要が低迷した。中国経済の減速は、ブラジルなど他の新興国やオーストラリアなどの資源国の景気減速にもつながった。

原油下落は米国経済への懸念を高める
わが国にとっても大きなリスク

 原油価格は、昨年末から1月中旬までの期間だけを見ても、20%程度下落した。ただ、価格下落が顕著なのは原油だけにとどまらない。鉄鉱石や銅をはじめ、多くの天然資源や農産物の価格が下落している。こうした急落は、“資源バブル”崩壊との表現がふさわしい。

 資源価格が軒並み大きく下落すると、世界経済にも大きな影響が及ぶことは避けられない。

 インドやわが国など、エネルギー資源を輸入に頼っている国では、ガソリン価格の低下や生産コストの低下を通して消費の下支えにつながる。

 しかし、冷静に考えると、逆オイルショックのマイナス面も大きい。原油価格が下落すればエネルギー関連企業の業績、財務内容に対する懸念が高まりやすい。それは株式や社債の価格を下落させる。

 すでに米国では、シェールガス開発のブームに乗って発行された非投資適格級の社債(ジャンク債)の価格が大きく下落している。投資家のリスクオフの動きを通して、同国経済に対する懸念を高めるマイナス要因だ。

 米国景気に対する懸念が高まると、それが牽引する世界経済の先行きに黄色信号が灯ることになる。特に、米国には大手エネルギー関連企業も多く、原油価格の下落は米国株式市場の足を引っ張る要因になる。

 そのため、原油価格の下落が、世界の金融市場に急速なリスクオフの動きもたらす可能性は高い。その場合、為替市場ではドル高の巻き戻しによる円高が進むことが想定される。円安がこれまでの企業業績、株価の上昇を支えてきたことを考えると、逆オイルショックは、わが国にとっても大きなリスクになり得ると考えるべきだ。

相場の反発はあっても一時的
投機的な売りが出やすい状況

 世界経済を原油価格の動向と併せて考えると、ディスインフレ環境下での金融政策、新興国の景気に与える影響には注意が必要だ。

 原油価格の下落は物価上昇率を抑制し、世界的にディスインフレ圧力を高める。そのため、金利は上がりづらい。利上げに踏み切った米FRB(連邦準備制度理事会)も、今後、慎重な政策スタンスを示すことになるはずだ。

 昨年の年末にかけて米国の製造業の景況感が悪化し、それに加えて、12月の小売売上高がマイナスに落ち込んだ状況を考えると、同国経済の状況にも少しずつ不透明要因が目立ち始めている。今後の米国経済の展開次第では、FRBは利上げの実施に踏み切れない可能性もある。

 その場合、わが国やユーロ圏などでは追加的な金融緩和が期待されることになるだろう。政策効果への期待が、一時的に原油価格や株価を反発させるかもしれない。ただ、世界経済が抱える不透明要因を考えると、そうした状況が長く続くとは考えにくい。

 投資家にとって、一時的な相場の反発は株式などのリスク資産を売却するいいタイミングかもしれない。

 資源価格の下落の引き金となった中国では、これからゾンビ企業の淘汰など構造改革を進めようとしている。大胆な改革は失業者の増加など、社会の不満を高めやすい。政府は社会の混乱を避けたいはずで、改革は進まず今後も中国の景気はずるずると低迷する恐れがある。

 現在、中国政府は市場安定のために、株式の売却制限や為替相場への介入を実施している。今のところ市場は小康状態を取り戻しつつあるように見える。しかし、ひとたび投資家が大挙して中国の本土株や人民元を売り始めれば、政府の力で売り圧力を食い止めることには限界があるだろう。

 すでに、アジアの新興国通貨の中には、1997年の通貨危機以来の安値まで落ち込んだ通貨もある。産油国等でのドルペッグの維持など通貨制度に対する懸念も強くなっている。そうした市場の綻びを狙って、投機的な売りが出やすい状況になっている。

 下落のペースが速かっただけに、一時的に原油価格が反発することはあるかもしれない。しかし、世界的な資源に対する需給の悪化という問題は、短期間での解決が難しい。原油をはじめとする資源価格の不安定な展開は、これからも世界経済や金融市場を動揺させることになるはずだ。
(記事引用)

百姓は百姓にあらず
「第3章:近世の日本」批判18
①幕藩経済は農業だけに依存していたわけではない
 例えば、戦国時代から江戸時代は、日本が世界の銀の3分の1あまりも産出し、その銀の産出量が減ってからも、銅の産出量は世界屈指であった。
 この時代の国際交易の決済通貨は銀であり、銅は各国の国内通貨として使用されていたのだから、日本は貨幣を製造・供給できる世界でももっとも豊かな国の一つであったわけだ。
 そして日本はこの豊かな銀と銅を使って、中国や朝鮮・東南アジア・インド産の生糸・絹織物・綿織物・砂糖・染料・陶磁器などの品々を大量に輸入していたことは、すでに国際貿易の項で見た通りである。
 
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この銀や銅を産する鉱山は、幕府や有力な藩による直轄経営であり、幕府や藩は、鉱石の採掘を山師とよばれる鉱山技術者に請負わせ、その産出量に応じて税金(運上金)をとり、銀や銅の地金で納めさせていた。
 幕府の最も重要な鉱山は佐渡であったが、この佐渡の鉱山から幕府に納められる運上金は莫大な量に上っていた。
 最盛期の17世紀初頭で言えば、1622(元和8)年の佐渡からの運上額を金であらわすとおよそ20万両となる。これは幕府が一国全てを領国とした佐渡一国の百姓が納める年貢額の1万両弱に比べれば、膨大な金額になることが分かるであろう。
 そしてこの鉱山が栄えたことは、同時に幕府に多額の商品輸入税が入ったことも意味している。なぜなら鉱山が栄えたということは、その地に多くの鉱山技術者と鉱山労働者が移住し、大規模な鉱山都市が生まれたことを意味した。
 
 例えば佐渡の鉱山町相川は5万人の人口を擁し、これらは全て鉱山技術者と労働者、そして銀山役人と商人・職人であった。
 5万人というのは、通常の城下町の人口1万数千人をはるかに凌駕する数字である。また鉱山の経営には坑道の維持に必要な木材や銀の精錬に必要な炭や薪など多量の物資を必要とし、さらに鉱山町に住む人々の生活には多くの生活物資が必要であり、これらはほとんど佐渡国外から移入されていた。
 
 そしてこの移入される物資に対して幕府は、10分の1の現物税を課し、そうして得た商品を転売して、多額の利益を得ていたのだ。
 1622(元和8)年の佐渡にもたらされた商品に課せられた現物税は2万5000両にも達している。この中には、鉱山で消費される1俵10貫入りの炭の年7・8万俵の10分の1税も含まれている。そしてこれ以外には、佐渡に移入されるタバコの独占販売を許可された商人の座からの役銭年3000両など、様々な日用品の独占販売権を得た商人の座からの役銭が加わってくる。
 佐渡一国から入ってくる鉱山の運上金や輸入税そして座の役銭を合わせれば、佐渡一国の百姓が納める年貢の何十倍にもなっていたのだ。
 このような鉱山町は全国に多数存在したし、幕府が運上金や冥加金の名目で役銭を納めさせた商人の座も、江戸や大阪など、各地の大都市に数多く存在したのだから、これらから入る税の額も相当のものであったろう。
 
 19世紀初頭の文政期に、江戸で菱垣廻船積問屋仲間が結成され、そのときの冥加金は、下り酒問屋株仲間の1500両を筆頭に、63組の株仲間が合計で1万2000両を年々納めている。さらに江戸に上方から入る諸物資にも税がかけられていたはず。そしてこれは各藩でも同様であった。

 残念ながら幕府や藩の財政規模の全体像と、諸色運上金・冥加金の全体像を示す資料がないので、幕府・藩財政に占める商業税の割合を測ることができないが、都市は幕藩体制の基盤として、村と同様かそれ以上に重要な位置を占めていたのだ。
 だから町を治める町奉行のほうが、村を治める郡奉行よりも上席とされたこともうなづける。
 また百姓が納める年貢も、米だけで納められたわけではない。百姓が納める年貢には、田畑や屋敷地にかけられる本途物成(ほんとものなり)と、山林・原野・河海の用益に対して賦課された小物成(こものなり)とに分かれていた。
 そして本途物成も米納が原則ではあったが次第に金納化したし、畑での商品作物の現物納も行われていた。さらに小物成は山林・原野・河海を利用して獲られる、炭や木材、そして海産物などの商品にかけられる税であり、これは早い段階から金納であった。
 この年貢を納める百姓は、次ぎに述べるように、農民に限らず、その中には商人や職人、林業者や漁民なども含まれていたのだから、年貢そのものが農業だけに依存してわけではなく、多様な農林水産業・商工業に依拠していたのだ。そして後に見るように、農業そのものも自給的農業ではなく、中世戦国時代からすでに商品作物を生産する商業的農業であったのだから、幕府や藩が農業に依存していたと捉えることは誤りである。

②百姓は多様な職業の人を含んでいた

 さらに、江戸時代の百姓とは、村に住む人を指しているのであり、これには多用な職業の者が含まれていた。
 江戸時代は城下町が出来て、村に住んできた全ての商人や職人が都市に集められたかのような誤解がまかり通って来たが、江戸時代の村にはたくさんの商人や職人がおり、「村」とされた地域にも、交通路にそって「町」としての機能を果たしている地域も数多く含まれていた。そして村には、町だけではなく、農業を基本とした村もあれば、林業を基本とした村も、さらには漁業を基本にした村もあり、一様ではなかったのだ。

 さらに多くの村人は農林漁業以外にも商業や手工業を兼ねていたが、それは農閑期の手間仕事などだけではなく、中には専業の商人や職人も数多くいた。とくに教科書が、水呑百姓として田畑を全く持たず年貢も負担しない「貧しい」百姓であるかのように記述した人々の中には、このような専業の商人や職人がおり、中には、いくつもの藩(国)を越えた広域の範囲で商いを行っている大商人・大親方もいたのだ。
 これは考えて見れば当たり前のことである。
 城下町は、幕府の一国一城令によって、藩(国)の中に基本的には一つだけしかない。その城下町にだけ商人と職人が集住したのでは、広範囲にわたる村に住む人々の日用生活品はどのようにして供給されるのだろうか。日常生活に不可欠な塩や農機具、そして衣料品など、これらを村に住む人が自給自足していたはずはないのだ。
 中世において各地に、三斎市とか六斎市とか言って月に3回ないしは6回開かれる定期市が全国各地に広がっていた。このような市は、江戸時代を通じても各地で開かれ続け、村に住む人々もこれらの市で日用品を手に入れていたし、これらの市や城下町に向けて商品を生産していたのだ。
 江戸時代を自給自足の経済だと考えていた従来の説が間違っているのだ。

③村の自治は拡大し続けた

 また、村の自治のありかたについての記述にも、いくつもの誤りがある。

(a)村は自立した「政治組織」であり「生活共同体」であった。
 教科書の近世の村についての記述は、そこが中世の惣村の伝統を引いた自治の場であると記述していながら、その実態は幕府・藩による支配の末端組織という捉え方が今なお尾を引いている。 これは例えば五人組についての記述で、「村人は五人組に組織され、年貢や犯罪の防止の連帯責任を負った」という記述にも示されている。

 五人組は幕府や藩が組織したものではなく、村が組織したものである。これは村といっても、いくつかの集落に村が分かれて存在することから、それぞれの集落の核になる名主(みょうしゅ)百姓を中心に村人が組みをつくり、村政を担ってきたことに由来している。
 
 そして五人組が年貢に関して連帯責任を持つのは、村の自治が年貢の村請けによって成り立っているからであって、領主との間で取り決めた年貢高を村として納めるのであるから、家に分配された年貢高を払いきれない家があれば、他の裕福な家が肩代わりして年貢を納めるのは、共同体としての村の役割であったからであり、五人組が村共同体の下部機構だったから五人組で連帯責任を負ったのである。
 また、村の家が没落して田畑を耕作できなくなることは、その分の年貢負担が他の者の肩にのしかかってくるのであるから、村として各家の存続に便宜を図り、没落した家の再興を図っていくのも、村共同体としての機能であった。そしてこれは犯罪の防止という治安機能についても同様である。

 村はそれ自身として治安の権限を有していた。これは村が幕府や藩の支配の下部機構であったからではなく、村が自立した「生活共同体」であったからだ。

 村には必ず村の掟が存在する。中世の村の掟との違いは、そこに領主が決めた掟の遵守と年貢の完済が挿入されたことだけで、あとは中世の村の掟と同様な内容である。
 
 では村の掟は何を定めていたのだろうか。多くの村の掟に登場する決まりの中には、田畑荒らしの禁止と罰則規定や山林や野荒らしの禁止と罰則規程、用水の利用規定と罰則があった。
 田畑は村人の生活資材の供給地であったからそれを荒らして自分だけの利益を得ることは当然禁止された。
 そして村が所有する山林は、村人が必要とする薪や炭を生産したり、家屋を建築するための用材の生産場であり、それは日用生活のためだけではなく、山で取れるものを商品として出荷し、村の運営費用を捻出するためのものでもあった。
 そして村有の野原は、農業にとって不可欠の刈敷きという肥料を得る場であり、牛馬の飼料を得る場であった。その山林や野原から自分の必要以上のものを切りだしたり刈り出したりして自分だけの利益を追求することは、他の村人の生活を圧迫するとともに村共同体の不利益を招く。さらに用水の使用も同様であろう。
 
 要するに村は、村共同体として村人の生活を支えているのだから、その秩序を破壊する個人的な利益をはかる行為は村として指弾されるわけだ。したがってその犯した犯罪が重い場合には、村での付き合いを当分の間制限したり、村から追放したりするという村八分の処置が取られたのである。

 しかしこれは、刑事罰というより経済的な制裁であった。
 
 こうして村は、村の秩序を維持するために自前の掟を持ち、自前の自衛のための治安組織を持っていた。幕府や藩は、村の自治機能を利用したに過ぎないのだ。
 また年貢も幕府や藩が一方的に押しつけたのではなく、村との契約でなりたっていた。そしてその年貢の実際の各家の負担は村組織が行い、独自に割り振り帳面を作って割り振り、そして村として年貢を領主のもとに納めたのである。
 五人組を含め、近世の村のありかたを従来は過酷な収奪を行う幕藩制国家の支配機構として認識してきた。だから五人組や村は、年貢をしっかりとるために百姓に連帯責任を負わせるものと認識されてきた。
 しかしこれは、太平洋戦争に向かう中で、近世の五人組を範として隣組が作られ、隣組を核とした村や町が戦争遂行に人々を動員し、同調しないものを非国民として摘発する過程で生まれたイメージであった。

  近世の村は百姓の自立的な生活共同体であり、政治組織であった。だからこそ村人は共同体の利益を守ることにおいて連帯責任を負い、互いに助け合うとともに、村の掟を破って共同体の利益を私的に侵害するものには、村八分という制裁を科していたのだ。この点をしっかり教科書においても記述しておかねばならない。

(b)村役人は選挙で選ばれるようになった
 また、このような村の自治を実際に担ったのが、村役人なのであるから、村役人をどう選ぶかもまた問題であった。教科書は村役人を「名主・組頭・百姓代」と並列的に記述しているが、それぞれの役割と出現の時期は異なるし、またそれらの選定方法も時代の移り変わりに伴って変化していた。
 名主(なぬし)は近世初期には、村で最も有力な名主(みょうしゅ)百姓が世襲した。中世以来の国人領主やその親族の系譜を引くものが、その地位に着いたのだ。そして近世初頭においては村を越えた惣名主という職が置かれ、これも中世の惣村の代表の系譜を引き、有力名主百姓が世襲した。
 しかし名主は幕府や藩との折衝に携わったし、村の治安維持の元締めでもあり、個々の百姓に対する年貢負担の分配の差配の元締めでもあった。これが一つの家に世襲されることは、権力との癒着に繋がる。
 そこで登場したのが組頭であった。

 これはその名が示すように、五人組の長であり、しばしば五人組を幾つか束ねた集落単位の組の長であり、中世以来の惣村の年寄り衆の系譜を引いていた。つまり組頭は村共同体の年寄りとして名主を補佐し村政を合議によって運営してきた者たちであったが、彼らを組頭として認定することで、村政を公的にも合議体制に移すこととなったのである。そしてこれに伴って名主は、組頭の中から選ばれるようになっていく。世襲制が崩れて行ったわけだ。18世紀も中頃のことである。
 また百姓代は、新田開発によって耕地が拡大し、名主百姓の下人や百姓の次三男が独立して、一人前に耕地を持って年貢を負担する百姓の数が増えるとともに生まれた村役人であった。本来この役職は、「惣百姓代」であり、名主百姓だけではなく小前百姓も含む百姓全体の利益を図るために設けられた役職であった。
 先に見たように、村政を執行する名主は世襲制から選挙制に移行したとはいえ、それは相変わらず名主百姓という有力な百姓に限られていた。
 つまりそれ以外の小前百姓と呼ばれた村人は、実際には村政に関ることができなかったのだ。百姓代は、このような小前百姓の利益を代表して、名主・組頭を監視する役目として置かれ、百姓全体の投票で選出された役職であり、17世紀後半には登場し、享保期の18世紀前半に定着した。

  こうして村政は次第に、百姓全体の意向を反映するものに変化し、村の決定機関である寄合における意思決定も「入れ札」という投票方式による多数決となっていった。従って近世後期になると、有力百姓の間で選挙または持ちまわりで選出されていた名主も、百姓全員の入れ札で選出されるようになっていく。いわば村の自治は拡大し続けたのである。

 近世の村は、幕府や藩という武士の生活共同体からは自立した、それ自身が政治的組織であり生活共同体であった。近世の村人は彼らの意思で掟を決め、彼ら自身で代表を選び、彼ら自身で村の治安を維持して、協力して暮らしていたのだ。いわば村は「自由な」(公権力の規制からは自由な)生活の場であったのだ。

(2)幕府や藩は村人の暮らしを統制できなかった

 教科書は、村人と幕府・藩との関係について次ぎのように記述している(p133・134)。

 幕府は、安定した年貢を確保するために、田畑の売買を原則として禁じるなど、百姓の生活をさまざまに規制しようとした。
 百姓という言葉は、もともと古代律令制度の公民の伝統を引きついだもので、農民は年貢を納めることを当然の公的な義務と心得ていたが、不当に重い年貢を課せられた場合などには、一揆をおこしてその非を訴えた。幕府や大名は一揆にきびしく対処したが、訴えに応じることもしばしばあった。

 百姓を公民と位置付け、百姓と幕府・藩との関係が、単なる支配・被支配の関係ではなかったことが示されている。だがこの記述にも多くの間違いがある。
 一つは、「田畑売買永代禁止令」が存在したかのような記述をして、幕府や藩が百姓の生活を恒久的に規制してきたかのような記述をしたこと。
 
 実は幕府や藩には一貫した民政・農政方針はなく、その時々の時代に対処して様々なお触れを出したに過ぎない。幕府や藩の法令は、それが出された時の具体的な事例にそって解釈すべきなのだ。
 また二つ目には、年貢のこと。たしかに百姓は年貢負担を公的な義務として捉えてはいた。年貢を負担する事が「公民」として権利を公認されることだったからである。しかし教科書の記述はまるで年貢は幕府・藩が一方的に決めたかのような記述をしているが、実態はそうではない。
 年貢の決定も百姓との合議によっていた。従って「重い年貢」と百姓が判断した事例は、幕府や藩が百姓との合意を踏みにじって年貢を決めた場合である。だから当然これには抗議するし、百姓に理があれば、幕府や藩もこれを認めざるを得ない。このことの認識が教科書の記述には欠落している。
 さらに三つ目には、教科書は幕府や藩が百姓の一揆を一貫して禁止していたかのような記述をしているが、事実はそうではない。

 近世の各時代によって、幕府や藩の百姓の抗議に対する方針は変化しているのだ。そして百姓の抗議形態は一揆と認識された集団での強訴だけではない。
 正式な手続きを経た訴えがあり、さらには手続きを経ても訴えが無視された場合には、より上級の権力に直接訴える越訴(おっそ)もあった。
 さらに逃散(ちょうさん)という、村単位で他領に逃亡して訴える方法もあった。そして仕方なく一揆を行った場合も、これを武装蜂起と捉えてはならない。
 一揆においては武力行使は厳しく戒められており、これは集団抗議デモと言ったほうが正しいのであり、けして非合法の抗議行動ではなかったのだ。
 従って一揆に対しても、幕府や藩の対処は、個々の場合によって異なるものであった。教科書の記述は、一揆を百姓の武装蜂起として捉える、旧来の左翼に見られた人民闘争史観をまだ引きずっているのだ。

①幕府の法は恒久法ではなかった

 幕府や藩が村人の生活を規制しようとしたことはたしかである。しかしこの規制を、近代以後におけるような法制度と考えて、幕府や藩がある一つの理念・目的をもって、近世の時代を通じて一貫した方針で村人の生活を規制したと考えてはならない。
 幕府や藩の法は、それぞれの時代の出来事に対処するための時々の方針であり、それが一貫した全国的な法になった場合もあったし、その場限りで忘れ去られた場合もあった。そして幕府が出した法は、全国を対象としてはおらず、幕府の領国やしばしばその一地域を対象にしていた。これが他の大名領国に及ぼされるには老中奉書という添え書きがなされ、あて先を限って大名に送付されたのだ。
 さらに送付された幕府の法を大名が大名領国に法として広めるかどうかは、大名の判断に任されたのだ。特に国持ち大名と呼ばれる大身の大名は、幕府から自立する傾向が強かった。近世幕藩体制というのは、幕府と諸藩とが、それぞれが自立した国家として連合した形態だったことを忘れてはいけない。
 さらにもう一つ大事なことは、幕府や藩は本来は軍事機構であって、武士は村や町の政治を行ったことがなかったことだ。村や町の政治は、村や町という政治組織・生活共同体が担ってきた。従って幕府や藩には、村や町を統治するための知識も経験も不足しており、民政統治や農政などのさまざまな産業政策はなかったのだ。
 幕府や藩は、それぞれの場所でそれぞれの時代に起きた具体的な出来事に対処する個別の方針を出したに過ぎない。それが恒久法になるかどうかは、個別事例ごとに異なっていたのだ。

 以下具体的に見ておこう。

②田畑の売買は禁止されてはいなかった

 従来、幕府や藩が百姓の暮らしを規制したことの象徴として示された法令の第1に、「田畑永代売買の禁令」があった。だがこの「禁令」は罰則を伴った法としては一度も施行されたことはないし、全国的に施行されたものではなく、幕府領と限られた範囲の藩の間だけであった。この事情については、田中圭一著「日本の江戸時代」(刀水書房刊)によって見ておこう。

(a)飢饉対策として最初は出された
 田畑の永代売買を禁止する条項が幕府の定めに現われた最初は、1643(寛永20)年に幕府領佐渡に出された「御触書条々」という13条の触れにおいてであった。この触れはとても興味深いので全文紹介しておこう。

一、庄屋・惣百姓共は、これ以後身分不相応な家作をしてはいけない
一、百姓の衣類は、以前からの定めのように庄屋は妻子とも絹・紬・布木綿、百姓は 布木綿だけを着ること
一、庄屋・惣百姓とも、衣類を紫紅梅に染めないこと、このほかは何色でも勝手であるが、型なしに染めること。百姓の食べ物はつねに雑穀を用いること。米はみだりに食べないように申し聞かせよ
一、村では、うどん・切麦・そうめん・そば切・まんじゅう・豆腐は五穀の浪費であるから、商売は禁止する
一、町の中でむざと酒を飲まないこと
一、田畑の耕作は手入れをよくし、草とりにも念を入れるように。もし農作業に精を出さない不とどき者がいたら見つけて処罰すること
一、一人ものの百姓が病気になって耕作ができない場合は、五人組あるいは一村としてたがいに助け合い、田畑を耕作し、収納するように
一、庄屋・惣百姓ともに乗物(駕籠)には乗ってはならない
一、よそからきて田地もつくらず怪しい者は、村においてはならない。もし隠しおいた場合には科(とが)の軽重を糺し、宿をした者は処罰の対象とする
一、田畑の永代売買はしてはならない
一、百姓が年貢の訴訟のため村を欠落した場合は、その者の宿はしないように。もし背いた場合には処罰する
一、仏事祭礼など、身分不相応なまねはしないこと
 この触書は「申し聞かせよ」とあるとおり、直接百姓に出されたものではなく、村役人にたいして出されたもので、法令というより、村の施政に関する指導書である。またこの触書を見ると、当時の百姓の暮らしは、従来の常識に反してかなり豊かなものであることがわかり、とても興味深い。さらにこの条文は後に見る1649年に出されたという「慶安のお触書」とかなり内容がダブっており、この点も興味深い。

 それはさておき、この触書に初めて「田畑永代売買の禁止」が出されたのだが、他の条文には「処罰する」と書かれているのに、「田畑永代売買の禁止」には「処罰する」という但し書きがないことが注目される。罰則が存在しないことを示しており、これが禁令とは名ばかりの訓告にすぎないことが示されている。

 では1643年の佐渡に、このような触書が出された理由は何であろうか。
 佐渡は先に見たように、幕府屈指の金銀銅鉱山であった。そのためたくさんの山師と坑夫が島に集まり大規模な鉱山開発が行われ、山は次々と切り開かれて行った。そして5万人とも言われる人々が鉱山町に集住し、この大量消費をあてこんだ農業開発も進行し、各地で急速な新田開発が行われた。ある意味でどんどん自然は破壊されたのである。
 その中で1636(寛永13)年には大洪水が起き、1640(寛永17)年は干ばつとなり、不作となった。さらに1642(寛永19)年も凶作となり、米価は5倍にも跳ね上がった。こうして次第に佐渡は荒れていったのだ。
 そして翌1643(寛永20)年春には、未曾有の大飢饉に襲われたのだ。このような中で、「田畑永代売買禁止」を含む、先の触書が出されたのだ。つまりこれは恒久的な禁令として出たのではなく、直面する飢饉の対策として村政の指南策として指針として出されたのであった。

 近世の百姓は、米が産地間の価格差で高く売れることをよく知っていたので、普段は麦や粟を食べて米を節約し、飯米までも売り出して金に換え、さまざまな日用品を買いこんだり農業経営資材を買いこんでいた。
 
 そして米の値段の安いところからその金で米を買い、それを飯米にあてるということすらしていた。しかし不作や凶作が続けば、最初は米価が高くて大もうけしても、不作・凶作が続けば売り出す米も不足し、飯米すら、やがてどこでも米価は高くて米を購入できなくなる。
 もともと蓄えがないのだから飢饉が起きるわけである。また百姓は未来の豊作をあてにして田畑を質に入れて金貸しから金や種籾を借りて生活・農業をしていた。しかし不作・凶作が続けば、利子の支払いどころか貸し金の返金もできなくなり、やがて田畑を失うこととなったのだ。そのような危険が生まれる事を避けるためには、田畑を売るなというわけである。

(b)実際には田畑永代売買はなされていた

 しかし以後も、田畑永代売買はなされていたのだ。ただし直接永代売買をしたのではない。各地に残された田畑売買証文を見ると、形の上では田畑を10年間質に入れ、それが過ぎても金を返せないときは相手方に所有権が移るという形をとっていた。
 形は年季を限った質入れだが、実質的には永代売買になってしまう。従って形の上では、「田畑永代売買禁止」が続いていて、実際には永代売買がなされるということになっていた。

 1744(延享元)年に江戸町奉行大岡忠相がこの法令を批判して、廃止を勧告している。田畑の質入れを許しているから田畑の年季質入れは行われている。そして田畑を質に入れるような百姓はよんどころない理由でそうしたのだから、しばしば借金を返せず田畑を取られることになる。名目は違っても永代売買がなされているのだから、先の禁令は廃止すべきだというわけだ。
 しかし幕府は廃止しなかった。

(c)罰則が伴う禁令として存続する

 そして18世紀後半になると、先の禁令に罰則がついたものとして登場する。罰則は、「売り主(本人が死んだときはその子)の入牢・追放」「買い主(本人が死んだときはその子)の入牢・買い取った田畑は没収」「売買の保証をしたもの(本人が死んだときはその子)の入牢」であった。
 18世紀後半になると、こんな禁令をださないと、田畑の売買は止められなかったのだ。しかし相変わらず田畑の質入れは禁止されなかった。だから実質的に田畑の永代売買はなされ続けたのだ。
 幕府はたしかに18世紀後半になると、罰則を伴った「田畑永代売買の禁令」を出した。しかし経済活動は一編の法令で左右できるものではない。実態はこういうものだったのだ。

 では、教科書が記述する、田畑永代売買の禁止以外の「百姓の生活に対する様々な制限」とは何であろうか。
 すぐ思い浮かぶのは、1649(慶安元)年に出されたと言われる「慶安のお触書」である。そして高校日本史の教科書であれば、「分地制限令」と「田畑勝手作禁令」が出て来るだろう。

②それぞれの時期の事情に応じて出された禁令

(a)タバコ税収入を確保するためのタバコ栽培の禁令

 「田畑勝手作禁令」の代表的なものは、本田畑でのタバコの作付けの禁止令である。しかしこれは全国何処でも禁止されたものではないし、近世を通じて禁止されつづけたわけでもない。
 佐渡の名主の家に伝わる近世文書を通じて近世を分析してきた田中圭一によれば、佐渡の国で最初にタバコの作付けが禁止されたのは、1616(元和2)年のことで触書として通達された。
 そして1619(元和5)年には御制法と称して、タバコの作付けだけではなく百姓がタバコを売買することも禁止された。しかしこれは従来の歴史学者が解釈してきたような、本田畑の年貢確保が目的ではなく、巨大な鉱山町を抱える佐渡の特殊性に対応したものであったという。

 すなわち、佐渡の鉱山町には5万人とも言われる鉱山関係者が住みつき、この人々の生活や鉱山に必要な消費物資は、佐渡国外からの移入に頼っていた。
 この国外から移入される物資への現物での10分の1税が、幕府の財政に大きな位置を占めていたことは先に示したとおりである。
 このため幕府が移入されたタバコを扱う商人たちが作ったタバコ座を公認し、タバコ座から納められる運上金も、年に3000両余りに及んでいたのだ。
 
 だから先の佐渡におけるタバコ栽培の禁止令は、佐渡でタバコが栽培されると国外から移入されるタバコの量が減り、幕府に入る運上金や10分の1税が減ってしまうことを恐れてのことだったのである。
 まさに幕府は、タバコ税が欲しいために佐渡でのタバコ栽培を禁止したのだ。しかし佐渡でのタバコ栽培はなくならない。
 当然である。タバコが高い値で売れる限り、百姓がタバコを栽培するのは当然である。そして本田畑でタバコを作付けしてもそれで年貢が減るわけではなかった。これは次ぎの項で詳しく説明するが、近世の年貢の高は、収穫の2分の1ではなく、実質的には10~20%であったのだ。
 タバコ栽培禁令がなんの目的で出されたのかは、禁令が出された時期や禁令が施行された地域の事情によって個々に判断しなければいけない。

(b)百姓の必要で生まれた「分地制限令」
 また分地制限令は1673(寛文13)年に幕府が出したものが最も初期のものだとされているが、これもその典拠がはっきりしないようだ。

 田中圭一(漫画家)によれば、17世紀後半から18世紀前半にかけて、各地の村落における村の掟で、「分地制限」を定めたものが散見されるそうである。
 そしてその背景は、耕地の開発が進んだために用水が不足し、そのために村の家が分家を出して耕地を分割すれば家数が増えて用水が不足するので、家数を制限しなければならなくなったからだという。
 つまり「分地制限」は領主の必要から生まれたのではなく、百姓の村を維持する必要から生まれたというのだ。この百姓の要請を受けて領主が出したのが「分地制限令」ではないかという。

③「慶安のお触書」は慶安には出されていなかった

 さらに「慶安のお触書」である。これは1649(慶安元)年に出されたと言われるが、近年の研究によって、慶安時代には法令としては出されてはおらず、これが法令として出された最初は17世紀後半にある藩で出されたもので、しかもこれも罰則の伴った法令ではなくて、飢饉に備えた村政運営の指針として出されたことが明かとなっている。実はこのような事情があって、「つくる会」教科書では、「慶安のお触書」のことが全く触れられなかったのだ。
 ではどのようなことなのか。山本英二著「慶安の触書は出されたのか」(山川出版社刊)によって見て置こう。

(a)村の道徳・農業指南書としての「慶安のお触書」
 後世に「慶安のお触書」として流布したものは、17世紀のなかばに、甲州(山梨県)から信州(長野県)にかけて流布していた地域的教諭書「百姓身持之事」がその源流であった。この教諭書は全部で31ヶ条からなり、後に「慶安のお触書」として流布したものとは多少内容が異なっていた。
 たとえば、「慶安のお触書」の第5条で百姓は「朝早起きして・・・」と農作業の心得を説いたものがあるが、もとの「百姓身持之事」では、第11・12条に、「下男や下女を抱える百姓たちにたいして、自分が何もせずに指図していたのでは、下人たちがしっかり仕事をするわけがない。
 自分も朝早起きしてまず下人を草刈につかわし、帰ってきたら一緒に作業場に出てそこで指図をせよ」という形で指示をしていた。つまりこの「百姓身持之事」という教諭書は、下人などを数多くもつ家父長的大家族経営をする上層農民を対象とする農業指南書だったのだ。そして甲州や信州の上層農民の間に手習いの教本として流布していたという。
 ただし山本は、「百姓身持之事」の源流を探ることはしていない。しかし先に示した、1643(寛永20)年に佐渡の国に出された触書の内容もまた、後世「慶安のお触書」として流布したものや「百姓身持之事」と極めて良く似た条項を持っている。
 そしてこの触書は、このころ深刻な飢饉に見まわれていた佐渡の地の百姓に対して、農業指南書として幕府から出されていたものだ。ということは、山本が甲州・信州の地域的教諭書として紹介した「百姓身持之事」の源流となる農業指南書が、すでに寛永や慶安の頃、当時の飢饉に際して幕府領が多かった関東甲信越に対して出されていたということを意味してはいないだろうか。

(b)藩法として普及した「慶安のお触書」

 この農業指南書としての「百姓身持之事」が、藩法として最初に成文化され流布されたのが、甲斐の国の甲府藩であった。1697(元禄10)年のことである。当時の藩主は徳川綱豊。後に徳川宗家を継いで、6代将軍家宣となった人物である。

 1697(元禄10)年、甲府藩では「百姓身持之覚書」という触書が作られ、藩内の名主に配布された。これは32ヶ条で、のちの「慶安のお触書」として流布したものと全く同じ内容のものであった。
 そしてこれは名主が交代するときに、年番の名主の家に百姓たちに読み聞かせるものとして配布されていた。まさにこれも農業指南書として配布されたのだ。
 ただしさきの「百姓身持之事」とは異なり、対象を下人を多く持っている家父長的大家族経営の上層農民から一般農民に変えて、時代と甲州と言う土地柄にあう内容に書き改められていた。こうして17世紀の最末期になって後の「慶安のお触書」は、甲府藩法として定められたのだ。

(c)18世紀末~19世紀中の危機の時代に普及した「慶安のお触書」

 この甲府藩の藩法が全国的に流布するのは、18世紀後半以後のことである。
 1758(宝暦8)年、下野の国(栃木県)の黒羽藩において「百姓身持教訓」が出版配布された。これは全部で18ヶ条からなり、内容の多くは先の「百姓身持之事」から取られている。
 この藩では相次ぐ飢饉に対して、家老鈴木武助正長を中心にして郷村の建て直しや産業の振興、そして飢饉に備えての年貢米の一時保管所としての郷蔵の設置などを進め、1783(天明3)年の大凶作にも一人の餓死者も出さなかった。家老の鈴木は、農村を復興するための心得をやさしく書いた木版画などを村々に配って、農業の心得を指南してもいたからだ。

 「百姓身持教訓」はこのような農政の展開の中で印刷配布され、名主が毎月百姓たちに読み聞かすべき農業指南書として出版されたのである。そしてこの指南書は、関東地方の諸藩だけではなく全国に広まり、黒羽藩の農政は、時の老中松平定信にも影響を与えた。
 そして18世紀後半から19世紀中頃における飢饉の連続などによる農村の荒廃の中で、農村復興のための農政が各藩で展開される中、1830(文政13)年に美濃の国(岐阜県)岩村藩が「慶安御触書」を木版で出版した。これはかつて17世紀末に甲府藩で出版された「百姓身持之事」を引き写して木版で印刷し、村々の名主に配布され、百姓に読み聞かせるよう指示された。
 
 この出版を契機にして、「慶安御触書」は全国各地の大名・旗本・幕府代官などが受容し、各地で木版印刷されて配布された。時はまさに天保の大飢饉の最中であった。各地で百姓一揆が頻発し、幕府や藩の悪政を糾弾する小百姓の群れは村の名主たち村役人を突き上げ、村役人を始めとして各藩の役人や代官は、秩序維持に苦心惨憺することとなる。
 この「慶安触書」が全国的に広がった時期はちょうど、「義民伝説」が作られて流布された時期と重なる。つまり村名主などは昔から百姓の苦難を見過ごすことができず、強訴を押し留めて代表越訴を起こし、生命を賭して村を守ったという伝説が流布された時期であった。
 「慶安御触書」はまさに冒頭において、名主たちに対して、村人の模範となって救済者たれと説くものであり、百姓全体に対して、飢饉に際して飢え死にしないための、日頃からの農業の心得と村内での助け合いを説くものであった。
 飢饉は天災ではなく、そして百姓たちが農業を怠って来たからではなく、農政の不備や全国的な商品流通を藩が分立している体制が阻害していることから生じた、人為的災害であったことを押し隠すかのように。
 
 こうして「慶安御触書」は、体制的危機が生じた19世紀中頃に、それも大規模な飢饉が襲って農村が疲弊した東日本の幕府領や小藩に流布したのだ。
 
 では、17世紀末に甲府藩で「百姓身持之覚書」と題された農業指南書が、18世紀中頃に「慶安御触書」と名付けられて出版されたのはいかなる事情があったのか。これについてはまだ確証がないが、山本英二は次ぎのように推論している。

 この「慶安御触書」を岩村藩が出版した当時の藩主の補佐役についていたのが、幕府学問所総裁林衡(たいら)、号して述斎であった。彼は岩村藩主の庶子であり、林大学頭の養子となった人物で、老中松平定信のブレーンとして幕政の復興や朱子学の復興に努めた人物であった。
 そして林家の開祖・林羅山が念願の知行取りとなったのが1651(慶安4)年。慶安年中である。さらに慶安という年号は、民衆にとっても由井正雪の乱を扱った「慶安太平記」として流布し、大きな時代の変わり目として認識されていた。このような背景の下で、幕府は、そして林家は以前から民百姓を思う仁政を敷いてきたと言いたいがために、林述斎が「百姓身持之事」を「慶安御触書」と解題して出版し、後にこれが1649(慶安2)年に出された幕府法であると誤認される元を作ったのではないかと。
 
 「慶安のお触書」とされたものは、17世紀末に百姓への農業指南書として甲府藩で策定されたものを、19世紀中頃に「慶安御触書」と解題して配布流布されたものだったのだ。「慶安お触書」は1649(慶安2)年に出された幕府法ではなかったし、百姓の生活を規制する禁令でもなかったのだ。

(d)近世江戸の百姓の暮らしを知る貴重な資料

 だが、「慶安のお触書」はなかったとして教科書から削除する「つくる会」教科書の姿勢は正しいのだろうか。
 正しくないと思う。なぜならばこのお触書は、読んで見ればわかることだが、江戸時代の百姓の暮らしを知る貴重な資料だからだ。
 まず「慶安のお触書」の全文を掲載しておこう。全部で32ヶ条で構成されている。
(記事一部引用) 

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明治維新 吉田松陰の実像

高橋亀吉『日本近代経済形成史』上・中・下 1967-68 東洋経済新報社 
<<作成日時 : 2010/05/07 11:30>>
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yamamotoyoshihiko
973頁までにも及ぶ大冊である本書の総目次によれば、以下の通りである。

「第1部 封建体制と経済停滞」で、第1編徳川封建体制の基本的仕組みと経済発達の抑圧・停滞・衰微、第2編徳川中期以降の経済停滞・窮乏(以上では全部で9章からなる章別構成を省略)、
「第二部」近代経済の摂取・育成(上)第1章明治維新と資本主義革命、第2章維新と封建制度の一掃的撤廃、第3章経済近代化の推進と過渡的摩擦並びに半植民地的外圧、
第4章明治政
府の近代経済の育成発達施策、第5章わが経済の近代的発達と人的基盤の開発と育成、第2部近代経済の接種・育成第6章明治初期(明治1ー18年)の生産の増大-その性格と歴史的位置、第7章明治初期の農鉱業の生産増大・発達とその特性、第8章明治初期の鉱業の地位とその発達内容及び近代工業の発達段階、第9章明治初期の資本形成と資金源、第10章明治初期の蓄積力の増大と蓄積の集大、第11章明治初期の資本形成の進展と大型資本の形成
 
要するに幕藩体制の荒廃の上に、近代化を迎えた明治国家の経済育成と民間企業形成を描こうとするものである。見られるとおり、幕藩体制崩壊の経済的モメントを探り、その上に近代経済社会の形成を明治1-18年に限定してあらゆる経済的側面の角度から叙述しようとしたものである。
 
高橋のこの著書は、まず第1巻で、日本近代経済の形成を考えて、その前提としての江戸時代の大坂、江戸の経済関係、貨幣経済について論じることから始めている。
第一に貨幣経済の発達と幕府・藩対商人の経済的支配権の相剋、第二に幕藩の米穀経済との相剋、第三に貨幣経済の発達と各藩割拠制の相剋が指摘される。
また江戸幕府が戦国時代と同等の武士団を抱え、徴税額も変化なき負担を農民にかけていたこと、貨幣経済に敵対的対応に終始したことも、経済発達に制限を加えたことが問題だったと指摘する。
こうした評価は1960年代までの研究水準ではやむを得なかったろう。
その後の研究史をみると、幕藩体制の評価は相当に変わってきていると判断すべきであろう。すなわち第一には幕藩体制が中央集権的統一国家の前提となる条件整備であったこと、官僚制の形成に繋がっていることである。

第二には、欧米列強との関係でも統一政権としての質を持ち得ていたことが、植民地的支配を脱すること、あるいは植民地化を阻止し得た点にも注目されるべきであろう。
これらの状況認識を本書出版当時の高橋に求めるのはやや厳しいだろう。また商品経済発達による華美、格式による装束、習慣の不変が武家社会を貧困にさせたこと、幕府による大名への参勤交代、河川改修など経費支出強要なども指摘する。

さらに問題なのは、高橋によれば、幕藩体制が実は各藩に、窮乏化を強いるシステムであったこと、仮に藩の経済が発展すれば、幕府は種々の財政負担の要請を出して、各藩に余り熱心に生産力の拡大を図ることに消極的にさせ、従って商品的流通に対して後ろ向きにさせたことがあると言う。

さて本書では、幕藩体制の貧困化を解明するために、身分制保持が結局優秀人材を喪っても支配者であり続けるという封建社会の構造、また米作にのみ依拠する年貢体制、及び俸禄の米による支払形式、そして幕藩体制初期に開墾奨励に走りすぎたことから、自然保護体制の危機と自然災害の将来など。その後この奨励方針の危機を認識した幕府による生産力抑圧のシステムの形成。これらの問題指摘が行われている。

江戸時代の商人資本が、大名貸しを通じて、封建搾取者の収奪者としての存在であったために、決して新時代を切り開く存在ではなかった。
三井、鴻池がその代表。いわば封建搾取者に寄生的存在だった。ブルジョア的発展とは異質と評価される。封建制から資本主義、近代化にとって、封建制の下での、農村社会の余剰の形成、法が的利潤の形成を通じた商品的農業の発展、ブルジョア的富の蓄積による農民層のブルジョア分解などが重要である。布かし高橋の指摘によれば、そうした余剰生産の可能性は生まれるべくもない。

さて今ひとつの幕藩体制の経済貧困化の要因に幕末の金銀比価問題がある。欧米の金銀比価は金1:銀16前後であるのに対して、日本では1:4程度である。しかも安政の開国で、金銀は同種同量交換と定められたことから、外商が仮に銀16を持ち込み、これを金4と交換する。この金を海外に持ち出すとすれば、急速に金流出を招き、幕末の貨幣混乱とインフレーションを引き起こす。

さて本書第1巻はほとんど、封建制の江戸時代が、生産力発展に対して抑圧的もしくは抑制的であったことの事情説明に費やされていると見られる。しかしとはいえ、その最終に当たる第9章では、逆に実は江戸時代の生産の在り方が実は大いなる明治期以降の資本主義経済化にとってのプラスの遺産であることを打ち出している。
そのいくつかを上げるとすれば、中央集権的に展開した江戸幕府の下での江戸城を中心とした巨大都市を支え、また経済面での重要な主柱となる大坂が商業都市として大いに発展したこと、そこから商業手形、為替などなど日本的経済活動で近代化に当たっても活用される先駆的技術、和算に示される数値計算能力、幕藩体制が抑制的な経済集中を行ったことから豊富な自然資源の残存、豊富な農村労働力の残存、また日本の地理的位置の有利などを上げている。ある意味で、幕府の政治が、経済発展に対して抑圧的であったが故に、明治期に発展要素を残存させていたとも言えるというのが第1巻の結論でもあろう。

第2巻は幕藩体制から明治期の近代化のプロセスを問題にすることからはじめている。
高橋の論点の一つは、日本の近代化が西欧諸国に比して短期的に行われ、かつ徹底性を持ったと言うことであろう。
その含意は西欧のインパクトに対して、幕藩支配勢力が要するに旧弊に拘り、かつ無能であっても相続制が重視されたたために優秀な人材の登用がなく、これにたいして変革の方向性が、実は下士層であれ、優秀人材を登用した藩政改革に成功したところから新リーダーを発掘していったこと、統一権力の中枢に天皇という古来の伝統的権威が活用可能であって、この点では西欧の近代化の統一権力形成とは異なることなどが指摘されたことである。

またこの部分での重要な指摘は、秩禄処分の士族に圧倒的に不利な措置であること、特に幕藩体制時代の年貢徴収方式による石高が地位によっては十分の一、また三分の一にまで落とされたことが指摘される。これを通じて士族の支配的地位の崩壊が可能となったことである。さらに地租改正が、地主優位、小作不利と地主の金納租税支払後の有利な経済的利益の獲得を可能としたこと、そのことが高橋流の表現では地主の資本家的地位の構築に繋がったとされる。幕藩体制の下での中央集権的封建制度が、人材、技術の集中性を可能としていて、そのことが実に明治国家体制の下での西欧先進技術の学びを単なる模倣から、応用、順応化を可能にしたと見ている。
もしも模倣レベルであれば、初期殖産興業の誤りを是正できなかったはずだと認識されている。高橋は封建制度の下で存在した種々の経済的政治的実態が、近代化に当たっても広く継承されたが、そのことは前近代的封建的要素が近代化に阻止的要因となったとは見ずに、むしろ近代化の大きな積極的要素と捉えている。
伝統的権威としての天皇を担ぐことによって新支配勢力は、旧支配勢力に対してもその優秀な人材を活用するという寛大さを可能にしたのもその一端であるとする。
しかし時を経るにつれてこの天皇的権威を傘に着て、一部支配勢力が天皇制への絶対忠誠を国民に強要するという傾向を生み出したことも否定しがたいという。

士族の精神的支柱であった武士道精神をも高橋は、その主君に仕える忠誠心を国家、企業、社会への奉仕精神への転回を見ることで、近代化の源泉の一つと重視するだけではなく、高度成長期の社会発展の源泉でもあると見ており、その意味でも、幕藩体制の精神は確実に近代化以降に引き継がれたのである。

高橋のこうした前近代の積極的継承側面の評価はまだ続く。長子相続制度、財産継承の非分割などは実は後発資本主義の日本にとって幼弱な資本蓄積を助け、さらには一族郎党の一家主義的継承が実は企業社会に安定的な賃金体系としての長期雇用制度と年功制度を定着させ、社会的安定装置の十分ではなかった明治・大正期の日本の国家体制の不充分さを種々の企業による安定装置の設置を可能にしたというのである。 

以上の議論から演繹するならば、日本の時代変革期、天皇という古代権威を介して、封建派と近代派が対立する構造は決定的革命的に転回せずに、近代はその変革に当たって多くを封建派から受け継ぐ内容を持つがために、柔軟な変革を可能にしたとさえ言えることになろう。
 
またこの第2巻で展開されているもう一つの特色は、維新変革期に新経済制度導入の尖兵を務めたのは、決して前期的承認資本であったのではなく、実は士族層であったこと、それも彼らが幕藩体制の下での知的集団であったことに起因するとしていることである。

通例は日本の近代化にあって、これら旧武家団の役割が結果として前近代性を色濃くした日本の近代であるとの認識が歴史学界では通例であったが、高橋はむしろ彼らこそ幕末の国際環境の下で危機感をしっかりと感じていたことから、攘夷派イデオロギーを脱ぎ捨てて、欧米列強への対峙と日本の自立に最も過敏に意識した集団であって、そこから主観的方向付けとして近代化を志向したと言うよりも、むしろ事実上の近代化への足取りを辿るほかなかったと見た。
まさに高橋が強調して止まないのは、維新国家の時代、知的エリートとして旧武士団が役割を果たし、かつ初期殖産興業の西欧模倣を乗り越えて一目散にその適応と日本的技術改革に取り組む能力を彼ら知的エリートが持ち得たこと、まさにそこに中国や韓国の封建国家の時代との相異ではなかったかという点である。
武士階級の起業が国家的意識を持つから、旧来の商工業者の私的利益追求型からではなく、工場払い下げでの安価な払い下げは当時、民間での引き受けの困難からみてやむなしという風に論じる。
こうした積極論は経済史学界では常識と言うよりも違和感が示されたのは、当時の状況から見ても納得すべきことであろう。

富国強兵精神の外国文化の摂取、伝統的な子弟教育意識は旧武士団の能力に適合的であった。
さてこの武士道の精神が、高橋によれば、国家運営への強い関心を引き起こし、しかも富国強兵、産業立国意識を形成し、自らの営利活動をも単なる私益追求型ではなく、公益追求をバックボーンとしてことなどを上げて、日本近代経済の形成に多大の意義を与え続けたこと、西洋の文物に学ぶ際にも、自らを国家利益、公益実現への役割分担と認識していたとしている。
高等教育機関の形成後にもそれに進学した者、また国立銀行の創出にもその圧倒的多数が旧士族の子弟であったことを指摘している。
これらの指摘から興味深い論点が登場する。要するに旧士族、すなわち旧支配秩序の支え手が新興産業や官界に大きく登場するということから、旧弊に囚われ、近代的よりも封建的意識の支配を容易にするとの認識が長期にわたって存在してきた。

しかし現実は主君に仕えた旧士族たちは、実に見事にその主君を天皇に置き換えることが可能であった。とすれば旧士族の子弟が官界、産業界の指導層になったと言うことから直ちに半封建的であると評価することは困難であろうということである。
 
以上が本書第二巻を支える高橋の議論であった。工場払い下げが、資産家有利、あるいは藩閥優位との評価があるが、確かにその側面はあるにせよ、当時の状況からは不可避であったばかりか、その後の発展に照らして適切とさえ言うべきであろうと高橋は評価する。
一方では日本の零細農耕は高い地租、高い小作料にあると認定しつつ、他方で農業生産力の向上要因は鎖国の解放、封建制度の撤廃にあるとした。
しかしこうした認識は当たっているようではあるが、矛盾もしている。
お雇い外国人に依存せず、日本人自らの能力で外国の技術の日本化を図る。また日本工法を制定して、外資による経営、支配を排除した。鉄道建設も当初は新橋横浜間をイギリス資本に依存したが、その後は排除。確かに建設に時間を要するとは言え、日本産業の自立には賢明な方策であったと評価できる。また外国技術に依存した場合、コストが高くつくが、豊富で低廉、良質な労働力に依存することが可能であった。

では第三巻の内容点検を行うことにしよう。単に欧米に模倣し、日本の稲作農法に反した粗放技術や労賃の安価な労働と競う欧米工業の模倣は失敗し、在来産業技術を前提に前進的発展を遂げる手法が成功したという。

第三巻はいよいよこれまでの幕藩体制期の経済社会、すなわち近代化を前にした日本の社会経済が、十分に近代を育てる孵卵器としての役割を果たしたことを前提に、近代化を現実化していった明治初期の20年ほどの期間に焦点を当てて、農業、工業、商業、そしてこれらを支える人材と人材育成など教育面にまで目配りして、あらゆる経済分野に目を据えての分析を行おうとする。

むろんこれまでの内容と多くの重複を感じさせる一方で、実はその前提を逐一確認しつつ議論を進めるという著者のある意味での着実な追跡の手法を表現しているとも思われる。鉱山経営に関しては明治13年の工場払い下げ概則制定にも拘わらず、17年に政府が払い下げを決意するまで引き延ばされ、しかもそれは、さらに民間経営人が育ったと確信をもつまで、繰り延べられたのが実情だったという。

さらに注目すべきは、政府所有鉱山払い下げが実は低廉、低利の長期支払いだけではなく、大学出の技術者を大量に引き受けた利点があったことだと高橋は言う。従来の歴史的評価では、この工場払い下げ政策を受け取った集団が有利に、実施されたというある意味で正しい評価を繰り返してきた。

これに対して高橋は、歴史の状況から見て、実は適切、適正な阪大という評価も可能だろうというのである。この点高橋は本書で一貫した手法と思われる、現実に即しての、また歴史の当該時点での可能な措置としての肯定的評価を行おうとしてきたと思われる。
この観点は、政府の種々の動揺的に見える通貨政策評価についても一貫している。前進主義的、あるいは漸進主義的評価の視点と言っても良いのかも知れない。

この巻では明治初期の生産増大と貨幣制度の展開、金融機関の制度化などで多くが費やされているが、基本的に生産力の増加がこの時期の生産増大をもたらしたものではなく、幕藩体制の束縛からの解放、海外要因の変化などその多くは外部的要素によって規定されていると見ている。
また貨幣制度、金融制度、株式制度などは、初期に導入されるが、当然のことながら試行錯誤を生み出した。為替会社にせよ、金本位制度導入を目論んだ新貨条例は施行とほどなく現実の圧力で銀本位制度への転換を余儀なくされたし、金融の疎通を図るために実施された国立銀行条例も当初は成功したとはいいがいた。
結局は明治15年の日本銀行条例の制定を待ってはじめて全国的統一通貨制度が確立した。とはいえこれらの試みと試行錯誤を通じて、日本は近代化瓶制度や金融制度を学んだことが評価される。株式制度もまた同様であったという。
 
【概括的把握】
 
さて本書は以上に述べたような諸論点を包含した、大変概括的な日本近代経済形成史を確かに表現していることは言うまでもない。
そこでここでは本書の紹介を兼ねたこの文章で、高橋のいくつもの論点を論じきるのはもはや無理であろうが、とは言え、高橋が論じた諸論点を、私なりに把握できたことを説明してまとめに変えておきたい。

1.幕藩体制は基本的に経済の近代化への足枷となる抑圧体制であったこと、何よりも諸藩経済体制がいかにも小さな規模であって、しかも藩を越える全国的な統一的市場の形成にはほど遠いものであった。
とはいえその下で、展開した大坂及び江戸の蔵本を中核とした都市市場の形成によって、様々の市場流通の必要から金融証券などの技法が全世界的にも模範的なまでの成果を達成してきていた。また支配階級である武家集団から、当時の知的エリートを形成し、これが近代化の人的支柱となったことがポジティブに上げられている。

2.明治維新変革が、知的エリートである旧武家集団から、様々の知識人と資本主義的企業家を育てたこと、市場の全国的統一性の形成によって爆発的な経済活動の条件を生み出したこと、ただしこれらのモメントを意味あるものにしたのは、幕末開港を契機とした事実は大きく、もしもこの契機がなければ、果たして近代化がうまく形成できたか否か疑わしい。

とはいえ幕藩体制の下での自然資源独占、幕府直轄の鉱山資源の存在の下で、石炭、銅鉱の存在などは近代化に当たっての物的資源として機能した事実は大きいこと、また外資の進出については当初は新橋横浜間の鉄道建設でイギリス資本に依存しつつも、鉱山経営を含めてこれに消極的、否定的に対応し、そのことが一面で資金不足による立ち上がりの低迷を呼び起こしたとは言え、外資による日本国内市場当への壟断を防ぎ、経済の自立性を確保する上で重要であったことが指摘される。

3.租税及び財政面での問題、殖産興業政策としては、当初は地租が結果的には幕藩体制期の貢租と同等水準であったとは言え、これが現物から金納化されたためにインフレーション等の物価変動を通じて負担軽減に繋がったことが農村資金の資本活用に繋がったこと、国営による近代化投資の資金源となったこと、特に不平等条約の下では、関税収入を資金源と出来なかった状況からこれもやむを得なかったことであった。
また初期殖産興業政策が基本的には外国の模倣であったとは言え、これが日本の実情に対応できるような応用化への道を切り開いていったこと、また株式会社形態の導入もいち早く取り組まれたこと、国立銀行条例の実施に見られるようなアメリカの銀行制度の導入を通じて、通貨制度の形成を通じて市場経済形成に貢献していったこと、そしてその功罪を踏まえて横浜正金銀行や日本銀行が設立されたことなどが積極的な意義を生み出したことが指摘される。とはいえここでは実は横浜正金銀行についてはあまり指摘されず、国内金融に貢献した日銀中心であるのは惜しまれる。

4.産業面では、綿糸工業では在来綿糸工業がその技術改良を通じた発展を遂げていったこと、その外に外来産業の直接的導入による発展、鉱山業では幕藩体制以来の技術の応用が基本で、明治中期に至って、外来技術の適用が行われていったことなど、何れにしてもこうした応用や適用に対応できる知的訓練が幕藩体制以来、形成されてきたことが重要だという。

5.以上述べてきたことは、既に彼の指摘の紹介でも見たように、歴史的評価の視点をあくまでポジティブに展開しようとしていることが特徴であろう。私もある意味で経済発展史を捉える場合に、まず積極的な側面の把握を行って、後にその否定的側面を捉え、その上で次代への展開の方向性を見ることが必要であろうと思ってきた1人である。
その限りでは高橋のポジティブな評価には賛同すべきことが多い。とはいえ重視すべきことはその上で、次代への課題を見抜く力であって、その点では高橋の観点はいくつもの問題を抱えていると思われる。
むろん高橋が論じたこの時期までの経済史は開くが幕藩体制経済の否定的評価の次代であったことから、高橋もそれに影響を受けて、幕藩体制には辛口評価が特徴的であって、これに比較して近代の評価が積極的に傾きがちになっているのではないかということ危惧する。また近代社会の課題となった労使関係や市民社会の課題については皆目して気がないのも時代評価を甘くさせる結果になっているのではなかろうか?
(記事引用)


高橋 亀吉(たかはし かめきち、古い文書では「髙橋龜吉」とも、1891年(明治24年)1月27日(戸籍上では1894年(明治27年)9月23日) - 1977年(昭和52年)2月10日)は、経済評論家・経済史研究者。石橋湛山と並ぶ、日本の民間エコノミストの草分け的存在である。新平価解禁派。文化功労者。

山口県徳山村(現・周南市)に、船大工の長男として生まれる。家業の衰退から高等小学校卒業後に大阪の袋物問屋に丁稚奉公へ出るが、1年で辞めて朝鮮へ渡航。日本人居留民相手の営業や販売、貿易実務・電信局の請負などに従事した。
やがて本格的に商売の勉強を志し、早稲田大学の講義録で旧制中学の内容をマスター。講義録を履修した校外生として優秀な成績を修めた後に、高等予科から早大商科に進み1916年(大正5年)に卒業。恩師の伊藤重次郎から大学に残ることを薦められたが、商科長の田中穂積の同意を得られず断念。
久原鉱業(現在のJXエネルギー)へ入社し調査業務に従事するもののサラリーマンの生活には馴染めず、伊藤に再び相談してみたところ先輩の石橋湛山が主幹を務めていた東洋経済新報社を紹介され1918年(大正7年)2月19日に入社した。当初、旧平価解禁説だった湛山を購買力平価説で説得したのもニコライ・ブハーリンの『過渡的経済論』と並んでグスタフ・カッセルの『世界の貨幣問題』に影響を受けた亀吉である。

入社直後に欧米視察を経て『前衛』『マルクス主義』『社会主義研究』で資本主義研究を執筆。のちに『東洋経済新報』の「財界要報」欄を担当。処女作の『経済学の実際知識』が好評を得、『東洋経済新報』編集長(1924年(大正13年)4月 - 1926年(大正15年)6月)や取締役を経て、1926年退社。
フリーとして活動を始めて、1932年(昭和7年)10月に高橋経済研究所を創立すると『高橋財界月報』を刊行して経済評論において先鞭をつける。
評論活動の傍ら、
1927年(昭和2年) 全日本農民組合同盟会長
1928年(昭和3年) 日本労農党顧問
1937年(昭和12年) 台湾総督府殖産局嘱託、6月第1次近衛内閣下で企画院参与(勅任官)就任。
1938年(昭和13年) 企画院専門委員
1941年(昭和16年) 大政翼賛会政策局参与
1942年(昭和17年) 国策研究会常任理事調査局長、陸軍省事務嘱託
等の公職を歴任する。
経済政策の議論でも活躍して、金解禁では勝田貞次・堀江帰一らと、日本帝国主義の分析では野呂栄太郎・猪俣津南雄らとそれぞれ論争をする。石橋湛山、小汀利得、山崎靖純ら「新平価解禁四人組」の一人として、リフレーション政策を積極的に唱導した。

1928年の第一回普通選挙では日本農民党の公認で山梨県から立候補するも落選する。昭和研究会に参加して、企画院参与としてアジア・太平洋戦争下の政府の経済政策にも参画する。
敗戦後には公職追放を受けるも、資本・人員不足を理由に高橋経済研究所を解体して、新たに日本経済研究所の創設にも関わり、通商産業省顧問、産業計画会議委員(議長・松永安左ヱ門)等を歴任する。
1956年(昭和31年) - 1973年(昭和48年)迄は拓殖大学教授も務めている。
1958年(昭和33年)に、拓殖大から経済学博士号を授与される。博士論文は「大正・昭和財界変動史」 1974年(昭和49年)に、文化功労者に選ばれる。主著には、『日本近代経済形成史』『私の実践経済学』等がある。
(記事引用ウィキぺデア)

スペインTVE フランスF2 台頭する「ポデモス」イグレシアス党首
2015年3月9日(月)NHKオンライン
「スペインのポデモス党は、去年(2014年)1月に結成されたばかりで、反緊縮策を掲げる急進的な左派政党として知られています。
党の名前であるこの『ポデモス』とは、『私たちはできる』という意味です。財政緊縮策に真っ向から反対して、インターネットを駆使した選挙運動で知名度を一気に上げました。
結党からわずか4か月後の去年5月には、ヨーロッパ議会の選挙で初めて5議席を獲得し、脚光を浴びました。

また、各種世論調査の平均値では、去年11月にトップの与党・国民党の支持率に追いつき、その後も二大政党に割り込む形で激しく争っています。
党員の数もみるみるうちに増えて、今では35万人を超える規模になっています。
反緊縮策を掲げて今年(2015年)1月にギリシャで誕生したチプラス政権への支持を表明していまして、スペインでも年内に実施される予定の総選挙で、同じく反緊縮派のポデモス党がどれだけ得票を伸ばすのか、注目されています。」

高野
「スペインで今、勢力を増している急進左派の『ポデモス党』。フランスF2やスペインTVEは次のように伝えています。」
 
マドリードの広場で「ポデモス」支持者集会

広場が大勢の人々で埋まっています。連帯を呼び掛ける声が響いています。ヨーロッパの緊縮政策に反対する、急進左派「ポデモス」の呼びかけに集まった人々です。

男性
「今日は大勢集まっています。
変化を求めているのです。」

男性
「ギリシャに歩調を合わせて、ドイツのメルケル首相に対立する側につくべきです。」

ちらほらとギリシャの国旗もはためきます。ギリシャでの急進左派の勝利が、ヨーロッパの政策を変えたい人々を鼓舞します。そしてスペインの希望を象徴するのがこの人、イグ

レシアス党首、36歳です。
若々しいルックスに、ラフないでたち。
しかし演説は攻撃的です。

ポデモス党 イグレシアス党首

「アテネからヨーロッパ大陸へ。

2015年は、民主的な変化の風が吹いています。
ヨーロッパの急進左派全体が、活気を取りもどすような勢いです。社会学研究所の世論調査では、今、選挙をしたとすれば、国民党が27.3%の得票率で再び勝利するという予想になりましたが、ポデモスは23.9%で、1.7ポイントの差をつけて社会労働党の座を奪いました。
統一左翼と進歩民主連盟は4位と5位を維持。
カタルーニャ市民党は、カタルーニャ同盟とカタルーニャ左翼共和党などに勝ち、6位です。

世論調査ではポデモスが2度目の一番人気で、19.3%を獲得しています。

国民の関心事には変化はありません。
失業が最大の懸念事項で、このひと月で4ポイント増えました。
汚職と経済への見方は少し改善しています。

新党「ポデモス」 躍進の背景
高野
「スペインでは4人に1人がいまだに失業している状態で、25歳以下の若者層については50%以上の失業率が続いています。

ポデモス党の党首、パブロ・イグレシアス氏は、36歳という若さでスペインの名門、マドリード・コンプルテンセ大学で政治学の教授を務めていた知識人です。
また、テレビの討論番組の司会者としても知られており、その知的なキャラクターが特に若者の間で人気を集めているようです。

今月(3月)後半には、全国で州議会選挙が実施されるスペイン。
選挙戦が本格化する中で、党の創設者の1人が不正資金を受け取っていたのではないかという問題が浮上し、ポデモス党は連日、各党から厳しい突き上げを受けています。
結成からわずか1年というポデモス党が、なぜここまで注目を集める存在になったのか。
その背景について、静岡県立大学准教授の松森奈津子(まつもり・なつこ)さんにうかがいました。」
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話:静岡県立大学 松森奈津子准教授
「EUに対してもっと自立した政策を取り、市民の声が反映される『本当の民主主義』を作ろう、われわれにはできると、力強く訴える若々しい新鮮な政党が現れました。
外見こそラフだけれども、礼儀正しく理路整然と討論し、クリーンなイメージ。
2011年5月にマドリードで起きた大規模な抗議運動に端を発しています。

この市民運動は、主要なポストを独占してきた二大政党制や、癒着してきた銀行などと決別し、市民の手に政治を戻そうという主張に基づくもの。
その後、スペイン各地で何度も起こる抗議運動の基になりました。
ポデモス党はこの流れの中、2014年1月に30人の知識人による署名で結成されました。
選挙を控えたこの時期に不正疑惑を攻撃されるのは、ポデモス党だけでなく、与党国民党も裏帳簿問題などで追及されています。
通常この時期であれば、二大政党間でお互いに汚職問題などをたたきあい、その他の政党が口を挟むといった状況ですが、今回は二大政党やその他の諸政党が一致してポデモス党を攻撃しています。
政権与党だけでなく、諸政党にとって脅威になっているということだと思います。
もしポデモス党が絶対多数の単独政権に就くことになれば、民主化後のスペイン政治を大きく転換する政策を打ち出し、国内の社会構造とEUをはじめとする外交関係において、大きな変化が生じる可能性があります。
なれ合いになってしまっている既存の政治文化を打ち破ろうとする点で、ポデモス党に潜在的な意義を認めることができるかもしれません。
実際の政権運用という点では、政治家として経験の浅い党員たちが自分たちの理想を現実にうまくすり合わせていけるのか、疑問が残ります。」

高野
「反緊縮派が力をつければ、財政再建への道に暗雲がたちこめることにもなりかねません。
スペインでその存在感を増しているポデモス党の動向は、今後のヨーロッパ経済の行方を占う上でも重要なカギとなりそうです。」
(記事引用) 

いま世界が注目するポデモスの代表者
:対談記事翻訳 BCN童子丸 ホームページ
《ギリシャからスペインへ》 パブロ・イグレシアスが語る 
 2015年7月5日は世界の歴史に永遠に残るだろう。欧州の弱小国ギリシャの国民が、恐竜のようなIMF・欧州中銀・EUの「トロイカ」による“ファイナンシャル・テロ”に対して、圧倒的な“OXI!(No!)”を叩きつけたのだ。
 感動的なまでの圧勝だった。これでギリシャはユーロ圏とEUから出ていくのだろうか。私はそうは思わないし、そうなってはならない。変わらなければならないのはギリシャではなく、欧州なのだ。

 いまスペインのラホイ国民党政府は声も出せないでいる。イベリア半島のノーテンキ男マリアノ・ラホイは6月30日に「(ギリシャに対するトロイカの融資案)賛成が勝てば、それはすばらしいことで、他の新しい政権と交渉できるだろう」と、ギリシャのシリザ政権が消えて無くなることを前提にするような軽率な発言でひんしゅくを買っていたのだ。そしてトロイカの勝利とギリシャ国民の敗北への確信(熱望)を高言してきた立場が丸つぶれにされたうえに、いままで目の前にありながら見ようともしなかった「地獄絵」に気づき、慌てふためいて閣僚と額を寄せ合っている。惨めな姿だ。時すでに遅し。

 その「地獄絵」とは、「支援」の名目で直接・間接にギリシャに出資してきた 総額260億ユーロ(約3兆5千億円)が戻ってくるのかどうかという問題もあるが、それ以上に、いや必然的にそれに伴って発生する「ギリシャの次はスペイン」という危機の連鎖である。この国には経済危機が間髪を置かず政治危機に転化するための舞台装置が、今までに十分に形作られているのだ。一つにはマドリッド政府に愛想を尽かすカタルーニャやバスク(ナバラ州を含む)の分離独立運動の激化があるのだが、何よりもスペイン政府が恐れているものは、ギリシャのシリザと同じ方向性を持つポデモスの存在だろう。

 巨人ゴリアテに立ち向かうダビデのようにギリシャの英雄となった青年チプラスは、早くからポデモスの党首パブロ・イグレシアスと意気投合している。国民投票の結果を見定めて後の交渉を有利にするためにさっさと辞任したギリシャの財務大臣ヤニス・ヴァロウファキスは投票前日の 7月4日に「ギリシャを取り扱っているものは“テロリズム”という名前を持っている」と述べ、またベネズエラのマドゥーロ大統領も国民投票の結果を知って「IMFのファイナンシャル・テロリズムに対する偉大な勝利」とギリシャ国民を称えた。一方でパブロ・イグレシアスはすでに6月27日に「トロイカはギリシャに対してファイナンシャル・テロリズムの作戦を立ちあげている」と警告していたのである。

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写真:イグレシアスは2015年1月22日にアテネを訪問しチプラスとともに演壇に立った。】
  
 そのイグレシアスはギリシャ国民投票での“OXI!(No!)”の勝利を確信してすぐに「今日、ギリシャで民主主義が勝利した」と語って、自らのツイッターの写真をチプラスと一緒に写したものに取り換えた。彼の胸の中ではすでに「ギリシャの次はスペイン」の計画が立てられている。それは決して「皮算用」でも「絵に描いた餅」でもない。ギリシャで起こり、スペインで進行中であり、いずれ欧州全土を揺り動かす巨大な「地下変動」、人々が、目の前の「利益・不利益」を振りかざした嘘と脅迫の正体を見抜いて巨大な権力に対して自ら立ち向かう、本物の民主主義の芽生えに対する確信である。(スペインの権力者どもはこれを「ポピュリズム」と呼んで非難しているが。)

 なお、外部サイトでギリシャ情勢に関して正当な見方をしている記事として、田中ニュース:「 ふんばるギリシャ」、マスコミに載らない海外記事:「 ギリシャはいかにして "エコノミック・ヒットマン"の犠牲となったか 」、「他のNATO加盟諸国を待ち受けるギリシャ危機」をお勧めする。また、スペインもその同じ“ファイナンシャル・テロ”によって国土と人々の生活と人心を悲惨なまでに破壊されてきたのだが、これは当サイトのシリーズ:「『スペイン経済危機』の正体」を参照のこと。さらにスペイン国内の“テロ実行犯”どもについては「スペイン:崩壊する主権国家」。

《パブロ・イグレシアスへのインタビュー記事の和訳》 

 ところで、スペインのポデモスとその党首イグレシアスについては、日本でも少しずつ知られ始めただろうが、その生の声を知る人は少ないだろう。そこで、先日(2015年6月24日)にスペインの新聞(インターネット版)であるプブリコ(Público:スペイン語)およびクリティック(Crític:カタルーニャ語)に掲載されたインタビュー記事を和訳(仮訳)してお目にかけることにしたい。翻訳の原本はプブリコ紙の次のスペイン語記事を用いた。
http://www.publico.es/politica/pablo-iglesias-queden-bandera-roja.html
Pablo Iglesias: "Que se queden con la bandera roja y nos dejen en paz. Yo quiero ganar"

(パブロ・イグレシアス:“赤旗を保持して我々のことは放っておいてくれればいい。私は勝利したいのだ。”)

 ポデモスとイグレシアスについての一般的な情報はこちらのWikipedia日本語版およびこちらのWikipedia日本語版で知ることができる。しかしその登場の背景については当サイト「幻想のパティオ(スペインの庭)」にある多数の記事の情報を参照してほしい。直接にポデモスについて書いているのは『ポデモスの台頭と新たな政治潮流』である。 

 ただし、この翻訳記事に書かれている内容は、スペインの現代史と現在のスペイン社会と政治状況について詳しく知らない人にとっては全く理解できないことが多いだろう。段落ごとにできる限り詳しい訳注を施しておいたのだが、それでもスペインの社会に生きてその空気を吸っている人でなければ理解は非常に難しいかもしれない。しかしそれでも、この翻訳を通して、少しでもポデモスとイグレシアス、そして現在のスペインについて知る人が増えるなら、翻訳作業の意義があったのかもしれない。 

 なお、この記事の中で数多く登場するIU(統一左翼党:Izquierda Unida)について最初に説明しておきたい。これは旧スペイン共産党を軸に作られた左翼政党で、フランコ独裁が終了した後、30年間以上も少数政党として一定程度の勢力を保ち続けてきたが、いま、ポデモスの台頭によってその存在意義が問われている。イグレシアスはIUに対して非常に厳しい態度を取っているのだが、その理由についてはこのインタビュー記事の中で十分に説明されているだろう。

 また、このインタビュー記事の後ろに訳者からの「翻訳後記 」を掲げ、和訳への補足としておきたいので、ぜひお読みいただきたい。

2015年7月8日 バルセロナにて 童子丸開

********

パブロ・イグレシアス:“赤旗を保持して我々のことは放っておいてくれればいい。私は勝利したいのだ。”
プブリコ  2015年6月24日

 ポデモスの総書記パブロ・イグレシアス(マドリッド、1978年生)は本日、「変革の道程」と呼ばれる全国行脚のカタルーニャでの日程を開始する。その道程はカディス で始まり、バルセロナがその第2の滞在地である。去る13日にその2都市でポデモスに支持される市長が就任した。ホセ・マリア・ゴンサレス通称キチ、そしてアダ・クラウである。
 カディスはスペイン南部アンダルシア州にある港町(参照:Wikipedia日本語版)
 
キチ(Kichi)の通称で親しまれるホセ・マリア・ゴンサレス(José María González )は、2015年5月24日に行われたスペイン統一地方選挙で、20年続いた国民党市長に代わって、ポデモスを中心に作られた会派の代表として市政を握った。39歳。 
 アダ・クラウ(Ada Colau )は、やはり2015年の統一地方選挙の結果として、バルセロナの新市長となった。当サイトより こちらを参照せよ。

 そのポデモスの指導者は、マドリッドの本部にある事務所でプブリコおよびクリティックの記者の訪問を受ける。いくつかの「スパルタ式」の場所 に装飾やシンボルが全く存在しないことが目を引く。ロゴも無いしポスターも無い。「ここは仕事の場所なんです。仕事は朝早くから始めて夜遅くに終わるんですよ」とイグレシアスは強調する。このインタビューは、カタルーニャ語とカスティージャ語(スペイン語)で同時に公表されるが、取り急ぎの質問よりも政治思想により重点を置くつもりである。
 この「スパルタ式」は、おそらく簡素で飾り気のない厳しい雰囲気を持った場所、とでもいうことなのだろう。

《問》その「変革の道程」とは何ですか? 何のためのものですか?

 それは総選挙に向けたプロセスの第一歩ですが、それが我々単独でできるものではないことは分かっています。ポデモスは総選挙で候補者を出すために作られた機関なのですが、しかし市民社会の代表者たちと出会う必要があり、非常に特別な人々とのある種の関係と接触の中で作業を続けなければなりません。我々は自分たちが大勢の人々の機関として振る舞うことを理解しなければならないし、私は単に一つの党の候補者ではなく大勢の人々の代表者とならねばならないのです。

 同時にまた機が熟すのに対応します。

 我々ポデモスの最も優れた点は入口を開くことです。入口を開き人々が入ります。

 我々は、攻撃を受け続けた1年を経て、多くのことを学んできました。メディアとの関係で、私はいつでもNBAの試合を例にとります。そこでは、新米の選手たちが顔に肘打ちを喰らい審判はそれを見ようとしません。我々はそのような多くのことに苦しんできたし、おまけに我々は新米でした。たくさんのまずいことや失敗をやらかしました。そしてこの変革の道程は、人々とのそして様々なメディアと何らかの形で関係を作っていくことを計画しています。それが、我々が心底何であるのかを表に出してくれればと思います。

 私は自治州と地方自治体の選挙 について十分なイメージを感じ取っています。州議会や市町村議会で我々の議員が持っている姿です。それは非常に力強いものに思えます。
 2015年5月24日に行われたスペイン統一地方選挙については、当サイトのこちらとこちらを参照のこと。

《問》総選挙の前におそらくカタルーニャの選挙があるでしょうが、それは、カタルーニャとスペインの関係に変化をもたらす住民投票実施の合法化が不可能であることを受けて、9月27日に「国民投票」として告示されるものです。プデムがそのような動きに参加するやり方について、ポデモスは疑惑の空気に包まれています。パブロ・イグレシアスさんとしては、ICV、EUiA や憲法制定プロセスといっしょに「アオラ・カタルーニャ」あるいは「カタルーニャ・エン・コムー」を 形作るための、交渉や対話のプロセスを、どのように見ていますか? 「すばらしい」とおっしゃるのですが、それらの諸党との連立の形の中であらゆる立候補の提案をはっきりと拒否していますね。それを、特に力を入れて強調を強めながら行っています。
 カタルーニャ州議会選挙は統一地方選とは別に今年の9月27日に予定されている。前回の選挙は3年前(2012年)11月に行われたが、今年は1年前倒しにして行われるものだ。
 昨年、カタルーニャ独立の可否を問う住民投票に対する違憲判決が出た後(参照:当サイト)、11月9日に、カタルーニャ州政府の主催ではなく州民による自発的な投票という形で「住民投票」が実施された。その際に学校などの公的機関を用い公営の報道機関で広報したことで、マス州知事ら3人が起訴されている。なおその「住民投票」では投票者の圧倒的多数が「独立賛成」だったが、投票率は40%にも満たなかったため、いずれにせよ独立に向けての力にはなり得なかった。
 スペイン語のpodemosは「我々はできる」という意味だが、カタルーニャ語ではpodem(発音は「プデム」)という。
[9] ICV(Iniciativa per Catalunya Verds)はカタルーニャにある左翼系の環境政党で、ドイツなどの「緑の党」にあたるもの。 
 EUiA(Esquerra Unida i Alternativa)は全国政党IU(統一左翼党:Izquierda Unida)の系統だが、カタルーニャではICVと統一会派を作っている。 
 憲法制定プロセス(Procés Constituent )はカタルーニャに新たに作られた政党。当サイトの こちらとこちらを参照のこと。
 5月の 統一地方選挙で、マドリッドの国民党市政を終わらせた政治会派が「アオラ・マドリッド(Ahora Madrid)」、またバルセロナで市政を握ったのは「バルセロナ・エン・コムー(Barcelona en Comú)」であり、ともにポデモスとそれに近い市民組織によって作られている。詳しくは当サイトの こちらとこちらを参照のこと。ここでは、それらの名にちなんでこのように言っている。

 バルセロナ・エン・コムーは勝利ではありませんでした。そこにEUiA、ICVなどの諸党がいたからです。しかし勝利でした。アダ・クラウがいましたし、新しい事柄が何らかの形で反映されたからです。欧州議会選挙でのポデモスの登場には多くの見所がありました。バルセロナ・エン・コムーやアオラ・マドリッドの成功のカギはそこです。内部にどんな政党があるのかなど見るべきではありません。

 アオラ・マドリッドについて言えばIUはいませんでした。それは候補者を別に立てていました。我々は、我々が自分たちのロゴタイプと名前を重要視しているにもかかわらず、カタルーニャでは支持を積み上げているように思います。カタルーニャのプデムが多くの空白地域を持っている ことは分かっています。でも、どんな事柄についても対話を成り立たせることは確かに意義があると思いますが、左翼政党の連合の形をとらないようにしなければなりません。それは私がそれに思想的な問題点を持っているからではありません。すばらしいと思えるのですが、それでは勝つことはできません。
 プデムは、バルセロナなどの大都市部ではかなりの支持を受けているが、地方の小都市や郡部ではほとんど力を持っていない。これは明らかにカタルーニャ独立に対する態度によるものだろう。

 左翼に対する明らかな盲目的信仰があります。お前が計画しているのは左翼のそれだろうと言われます。確かに、そう。確かに、我々が語ることの全ては左翼が歓迎することです。しかし、この国を変えるためには、我々の計画を左翼が好むだけでは十分ではありません。左翼的な言葉や左翼的な諸シンボルに彩られる自己証明では不十分です。その論点や提案で自らを明らかにする社会的多数派が不可欠です。その社会的多数派の中では発言する多くの部分があるでしょう。左翼であることは私にとって自己証明にはなりません。そしてそのことが、ある意味で今年になって我々が示してきたことなのです。我々は、左翼が非常に好んだような提案を示してきましたが、ある異なる論点と異なった形で、勝つことができ、また権力に挑むことができました。そしてそれには、過去に左翼がやってきたようなものとは逆の事柄が含まれています。

 最後に、あるジャーナリストについての例をあげます。左翼の男なのですが、ある記事で、スペインでは人々は変化ではなく取り替えを好むと書いていましたが、それは嘘です。人々はシウタダノスを好む、と。ポデモスよ、お前たちは自分で自分に平手打ちを食わせるだろう、なぜならお前たちは自分たち自身に投票しようと考えているからだ、と。実際に彼が言いたかったことは、スペイン人たちはポデモスよりもシウタダノスを好んでいる、ということです。それは統一地方選挙の前に語られました。そして同時に彼は統一左翼党について語っていましたし、私もそう思います。もちろんですがそのことはある人々のことを明らかするものです。彼らはこの国を見下しています。
 シウタダノス( Ciudadanos)は急激に全国に勢力を伸ばしている右派政党だが、当サイトのこちらを参照のこと。

《問》そしてそんなふうに、イグレシアスさんは旧来の左翼を代表すると見なす人たちに直接に立ち向かうわけです。 
ここからの2段落に書かれているイグレシアスの言葉は、インタビューアーに対するものではなく、「旧来の左翼」特にIU(統一左翼党)の幹部に対する批判の言葉を想定したものと思われる。

 あんたたちは自分たちの国と国民を恥ずかしく思っている。人々は愚かでありくだらぬテレビを見て、とか何とか、そして自分たちは教養がありそんなふうな敗北の文化に対して怒り狂うことを喜ぶ。典型的な左翼主義者は悲しげで退屈で苦々しさに包まれ…、根っからの悲観主義。何も変えることはできない、ここでは人々は愚かでありシウタダノスに投票するが、でも自分はむしろ支持率5%であることやら自分の赤旗やら、なんたらかんたらを、より好む…。ご立派なことだ。でも私のことは放っておいてくれ。我々はそんなふうにしたいとは思わない。我々は勝ちたいのだ。他のことに気を使ってくれ。

 我々がやることや提案することに対してそんなに気を使わないようにしてくれ。あんたの存在論的な悲観主義の中で生き続けてくれ。赤い星やら何やらでいっぱいのソースを煮詰めてくれ。でも近寄らないでほしい。あんた達は特にこの国の中で何も変わらないことの責任者だからだ。私は、25年間も何一つ為す能力を持たなかった政治的な燃えカスは望まない。統一左翼党の政治指導者たちを望まない。そして、私はかつて彼らのために働いたのだが、我々に近寄るにしても彼らはこの国の政治状況を読むことができない。あんた方の組織にとどまってくれ。選挙に出馬したらいい。でも我々のことは放っておいてくれ。もう何年もの間、何が起こってきたのかを理解しそれに適した指導をする能力が無かったのだから。あんた方の場所にとどまってくれればよい。インターナショナルを歌うことはできるし、あなた方の赤い星を持つこともできるし…、私はそれを邪魔しようとは思わない。もっと言えば、そうすることがあるかもしれない。私にとってそれはまた嬉しいことでも楽しいことでもあるからだ。でも、私はそれで政治をしたいとは思わない。我々が他の物事をするがままにさせてくれ。

《問》ただ、カタルーニャとプデムの推薦候補についての話に戻るのですが、候補者はアルバノ・ダンテ[16]でなければなりませんか?
 アルバノ・ダンテ(Albano Dante)はジャーナリストでプデム党員。9月27日のカタルーニャ州議会選挙でプデムの候補者名簿の筆頭。

 私はアルバノを推します。タレザ・フルカダス は適切な候補者ではないと思います。しかしこれは私の意見であり、私はそれには介入しない方が良いと思います。どの候補者でなければならないのかを私がカタルーニャ人たちに言うでしょうか。彼らが選ぶほうがずっと良いでしょう。
 タレザ・フルカダス(Teresa Forcades)はカトリックの尼僧で、薬学博士、巨大製薬企業による薬害などを追及してきた市民活動家。注釈にある 憲法制定プロセスの代表者となっている。

《問》以前の時期のICV-EUiAの候補者たちもありえますか。ジュアン・アレラのような。
 ジュアン・アレラ( Joan Herrera)は注釈にあるICVの代表者。

 あるいはジュアン・ジュゼップ・ヌエッか。彼は非常に経験豊富で多くのものをもたらすことができると思います。彼らとは知り合いで、その二人はとても知的でとても貴重です。経験を伴う計画を計算に入れることは根本的なことであり、それを過小評価することはできませんが、もし行政の責任を持つのならそれでは全く足りないと思います。バルセロナ・エン・コムーでは、私はイニシアティーバ(Iniciativa)の人たちが具体的に自分たちの経験に基づいて、非常に多くのものをもたらしていると確信しています。しかし本当のことを言えば、彼らも認めていたと思うのですが、彼らは、アレラもヌエッも、政治的には老いた狼であるがゆえに、きっとこのような時代に彼らの持っていた役割では、推薦候補のイメージを作り上げる顔としての中心的な人物になるようなものではありませんでした。もしあなたが、あるリストに載せる人々にパブロ・イグレシアスが拒否権を発動すると言うのなら…。ほとんどありえません。私は政治面で人々を当てにしますが、同時に、その人々がどこにいるのかを示さなければならないでしょう。もしヌエッが統一左翼党の命令に沿って働いているなら、合意の余地はありません。それを理解してもらわねばならないのです。もしEUiAがIUのカタルーニャ支部であり、ガルソンの政治的計画に基づく連盟として行動しているならば、我々と合意することはありえません。それがイニシアティーバを通してカタルーニャの政治を推し進めるうちは合意できます。
 ジュアン・ジュゼップ・ヌエッ( Joan Josep Nuet)は注釈 にあるEUiAの代表者。ICVとの統一会派ではジュアン・アレラが筆頭候補。
 アルベルト・ガルソン(Alberto Garzón)は統一左翼党(IU)を代表する若手の論客で、パブロ・イグレシアスの論敵でもある。


《問》しかしそれらのカタルーニャの勢力は知性を保ってきました。アダ・クラウをその頂点に据えるべきだと知っていたのですね。

 私は何年も前からヌエッと語り合っています。もしIUの指導部にヌエッのような人々がいたのなら、IUの中で別の歴史が起こっていたことでしょう。彼は知的であり物事を理解する人物だと思います。まさにそうだからこそ、彼自身を頂点に据えることをせずに、むしろ補助としての役割を果たそうとしたのだと、私は確信しています。

 彼が言いたいのは自分が候補者リストに無いということではなく、イメージが違うのです。その経験豊富さから人々に取り囲まれることを好む人はそのように言いますが、作用することと効果的であることは別物だと思います。

《問》あなたは以前に、憲法制定へのプロセスが78年体制の唯一の代替物だと言いました。それは、憲法制定への単独のプロセスですか? あるいは複数のプロセスですか? カタルーニャでのプロセスはスペインでのそれに従属するものですか? あるいはバルセロナ・エン・コムーについてあなたが言いたいような一点集中のものですか?

 どれもいっしょです。その意は憲法制定のプロセスです。

《問》複数のプロセスで?

 ええ。問題は1人が考えるということではなく、政治的に行なうことができるかどうかです。

 もし誰かが私に、カタルーニャの一方的な独立の宣言はありえますか、と尋ねたなら…。

 答えは、いいえです。

 ダビッド・フェルナンデスもキム・アルファットもそれは信じていません。もし私がキム・アルファットに、人々が投票するという理由で一方的な宣言を通してのカタルーニャの独立が可能なのかどうか、と尋ねるなら…、ところで人々はどこで投票する?カタルーニャの中で?それともカタルーニャ語圏諸地域で? カタルーニャ語圏諸地域で投票するというのなら…。
 ダビッド・フェルナンデス(David Fernàndez)はカタルーニャ独立主義左翼政党CUPの代表者。
 キム・アルファット(Joaquim Arrufat)は同じくCUPの有力党員。

《問》仮定の話ですが、あなたが国家の首相でカタルーニャ州議会にやってくる、そして一方的な独立宣言が採択される。あなたは何を言いますか?

 法的に可能性が無いと言います。それは私が気に入らないからではなく、30年以上も前にカタルーニャ民族主義者たちがスペイン人たちと制定の交渉をした憲法がそれを許さないからで、だから私は彼らにこう言います。為すべきことは憲法制定へのプロセスだと。スペイン国家の憲法のことか? もちろんそうです。そうして彼らに提案します。カタルーニャ語圏の地域全体で同時に住民投票をやろうよ、と。彼らは言うでしょう。そんな、とんでもない、と。

 我々は市民社会の力を信じています。

 私は自己決定権を支持しますが、それは全国家的なレベルでの憲法制定へのプロセスの枠組みの中で特記できるのみだと思います。その中に領土的な問題が盛り込まれ、カタルーニャにスペインから離れてほしくないと言う人でも、それはカタルーニャ人たちが自ら決める権利を持っているのだと理解できます。他の道は可能ではありませんし、政府の首相の意思にかかるものでもありません。もし彼らが私に、もしあなたが政府の首相になれば我々の独立を考慮しますかと尋ねるなら…。将来可能なカタルーニャ国家に法制度があるのと同じく、この国家には法制度が存在します。

《問》その憲法制定へのプロセスは現憲法の改正と同じものですか?

 いいえ。憲法の改正は憲法制定へのプロセスではありません。

 憲法制定へのプロセスは、ある新しい憲法の草稿を決めることのできる社会的なレベルの幅広い議論を含みます。そういった枠組みの中で、そういったプロセスの中で、領土的な問題も、議論として取り上げうるあらゆる選択肢とともに、組み込まれなければなりません。

 あなたが言うようなコンベルジェンシアの人たちが他の形でやりたがっていることはまた別なのです。
 コンベルジェンシア( Convergència)はカタルーニャの民族主義右派政党。現在の党首はアルトゥール・マスだが、長期間ジョルディ・プジョルに率いられてきた。 また当サイトのこちらを参照のこと。


《問》ヘラルド・ピサレージョ があるとき、カタルーニャでの主権主義プロセスの敗北は同時に国家全体の運動にとっての敗北だと説明したのですが、あなたはこれに同意しますか?
 ヘラルド・ピサレージョ(Gerardo Pisarello)はアルゼンチン生まれの法学者で左翼運動の活動家。現在はバルセロナ大学の法学教授。

 分かりません。それが何のことを言っているのか分からないのです。

《問》カタルーニャ民族が自己決定権を行使できないのならそれはスペインの民主主義にとって悪いことだ、という意味だと思いますが。

 私は、あらゆることについて投票できるのは良いことだと思います。さらに、カタルーニャ主権主義のプロセスが肯定的な政治討論の余地を開いてきたと思います。それは他のテーマに対する議論を開いたものにしており、スペインの中でカタルーニャの意見が知らされるようならすばらしいことです。

 同時にまた、その等式 の中に新しい要素を入れることができるなら良いのだがと思います。つまり、もし我々が総選挙に勝てばカタルーニャ人の大部分が出ていきたいとは思わなくなるだろうということです。
 この「等式」は先ほどの『カタルーニャでの主権主義プロセスの敗北 = スペイン国民の運動全体の敗北』のこと。

《問》あなたは、もしポデモスが勝つのなら主権主義プロセスは下火になると信じるのですか? 人々は家に戻り共和国旗は棄てられると…。

 主権主義のプロセスは分かれて別方向に行ってしまうことだけを意味するのではありません。自己決定権は留まる決定を下すためのものでもありえます。

 カタルーニャに独立主義者はいつでもいるでしょうが、先ほどの等式を混乱させてきたのが国民党だと思います。スペインの右翼は独立主義者たちが産み出してきたものだからです 。我々は多元主義的な国家観を持っていますが、実際にはそうなっていません。私はそのことのために、カタルーニャ人の大多数が出て行きたいと思わなくなるようにするために、働きたいと思っています。
 スペインでは、右派(国民党、シウタダノスなど)による国民の囲い込みのために、カタルーニャ独立の動きに対する警戒と反発が利用されてきた。実際に国民党の中では、首相のラホイが今年11月29日に予定している総選挙の日程を、9月27日に行われるカタルーニャ州議会選挙と同じ日にぶつけようとする動きがある。そのねらいは、分離独立主義者への反感を利用して国民の意識を右派の方に囲い込み、それによって同時に、ポデモスなどの左派の攻勢を食い止めようということである。


《問》以前にスペインの政権を執る候補者として立ちあがったパブロ・イグレシアスのイメージは、バジェカスの青年でした。労働者街の、高く掲げる拳と左翼の大学教師の言論と…。あなたが政治に目覚めたのはその場でだったのですか?
バジェカス(Vallecas)はマドリッド市の東南部にある典型的な労働者街。

 私は家庭で政治を学びました。政治に目覚めたこととその結果について語るのは簡単ではありません。私の祖父や曾祖父などと同時に見なければなりません。私の母方の祖父は内戦での敗者たちの父親で、彼らの一部は非常に将来有望な者たちでした。私の父方の祖父は内戦中はインダレシオ・プリエトの部下でした。死刑判決を受けたのですが、最終的に30年の懲役に減刑されました。
 
スペイン内戦のこと(参照:Wikipedia日本語版)。また、当サイトにあるこちらの記事も参照のこと。
 インダレシオ・プリエト( Indalecio Prieto:1883-1962)はスペインの社会主義者で内戦前の第二次共和政で閣僚も務めた。(参照:Wikipedia日本語版)

 5年を過ごした後にですが、非常に困難な情勢のために出獄できた多くの共和主義者の一人となりました。私の母方も同様でした。私はいつも祖母や伯母から、内戦後にバレンシアで銃殺された兄弟についての話を聞きました。
そして両親は地下組織のメンバーでした。父はJCML、母はPCM に所属していました。父は19歳のときに反フランコ宣伝を配布した罪で約2ヵ月間刑務所にいました。私は小さな子供だったのですが、1986年にソリアで行われた反NATOデモに行ったことをはっきりと覚えています。私の両親はその町に住んでいたのですが、演劇界のグループを組織しており、反NATOの闘いに参加しました。その後に統一左翼党を創設しました。私の父はその86年の地方選挙でソリア市議会の候補者であり、私はなんだかんだで家の外に出ていました。
 JCMLについての資料が見つからないのだが、おそらくマドリッドの共産主義者青年部の地下組織と思われる。
 PCMはマドリッド共産党のこと。
 ソリア( Soria)はカスティーリャ・イ・レオン州東部にある小都市。 
 スペインはフランコ独裁政権終了後の1982年5月にNATOに加入したが、スペイン国内で、右派と左派ではそれぞれ理由が異なってはいたものの、反対は強かった。1982年12月に政権を握った社会労働党のフェリペ・ゴンサレスは、以前からNATO反対の急先鋒だったが、政権を取って以降はその態度を急変させ、ECC(現在のEU)加盟と引き換えに容認の姿勢に傾いた。そして1986年3月に行われた国民投票で(投票率59.4%)賛成多数(52.5%)を得てNATO加盟を継続することが決定された。なお、このときに反対派が多数を占めた地域はカタルーニャとバスク、ナバラ(バスク人居住地域)、およびカナリア諸島の、少数民族・周辺地域だった。

 12歳のときに私は、バクーニンやドゥルッティの肖像画とかそんなもので表を飾った紙入れを持って学校に通い、大学進学過程の2年目で、括弧つきですが「共産主義」に親近感を覚えて、学校の友人の何人かと連れだって共産主義青年同盟に所属しました。そこに7~8年いたのですが、学生運動に参加し、学校や教育メディアと同時に法学部の中でも活動しました。イタリアとの交換留学のコースのためにイタリアに行ったのですが、そのことが私を大きく変えました。
 ミハイル・バクーニン(Mikhail Bakunin)はロシアの無政府主義思想家で、欧州の左翼運動に大きな影響を与えた。(参照: Wikipedia日本語版)
 ブエナベントゥーラ・ドゥルッティ(Buenaventura Durruti)はスペインの革命的アナーキストで、内戦開始直後に死亡した。

《問》ボローニャ大学で一緒にいたのが、まさしく、カタルーニャのプデムの指導者ジェンマ・ウバサール[36]だった…。
 ジェンマ・ウバサール(Gemma Ubasart)はジロナ大学の教授でカタルーニャのプデム(ポデモス)書記長。

 そう。赤い都市ボローニャで…。我々が来たときに、かつてのPCIは、いまはPDSになっていますが、市政を失っていました。そして我々はイタリアの自治制度に興味を持つスペイン人学生のグループでした。そこの自主管理社会センター での経験は印象深いものでした。私がボローニャから戻ったときに、マドリッドで世界抵抗運動の創設に参加しました。ジェンマもバルセロナとカタルーニャで全く同じようにしました。
我々はプラハでの活動でも一緒で、ツッティ・ビアンキにも参加しましたが、そこで我々二人は白い服で写真に写っています。そして、ジェンマ・ウバサールはあるインタビューに登場しました。何年も昔のことですが白いつなぎ服にくるまれた姿はとても美人でした。いや今でもそうですけどね…。その時期にマドリッドのある社会センター…、研究所ですが、共産主義青年同盟が出て行った後、そこでアダ・クラウやジャウマ・アセンスと知り合ったことを思いだします。
またそこで出会った者達の一部はいま市会議員となっているのですが、かつていろんな場所を訪れたときの仲間だった者たちもその中にいて、驚くことがあります。またその時期に、ロックグループのエチョス・コントラ・エル・デロコで歌っていたナチョ・ムルギに出会い、統一地方選挙の前にもまた合ったのですが、やはりいまは市会議員です。またその何年か後になって、ギジェ・サパタもその社会センターの研究所に行っていました。彼は後にパティオ・マラビージャスに行き着くのですが、たまたまそこで出会い、後にそちらでも合って、今に至っています。
 
 PCIはイタリア共産党(1921~1991年)。
 イタリア共産党は1921年に解散して社会民主主義政党になるが、1998年以後はPDS(左翼民主主義党)となった。
 自主管理社会センター(los Centros Sociales Ocupados、英:Self-managed social centers)は、主にイタリアで1980年代に既成の権威に反感を持つ若い世代によって作られた、使用されていない施設や建物などを占領して様々な活動を行う半合法的な運動。スペインでもマドリッドやバルセロナなどの大都市を中心に多く見られる。 

世界抵抗運動(el Movimiento de Resistencia Global:MRG)は欧州各国に存在する反グローバリゼーション運動のネットワーク。2000年9月にチェコのプラハで行われたIMFと世界銀行の会議に対する反対運動をきっかけに作られた。パブロ・イグレシアス、ジェンマ・ウバサールや現バルセロナ市長のアダ・クラウなどが参加している。当然だが、欧州版TTPであるTTIPや、日本ではあまり知られていないTISA(Trade in Services Agreement)などの反対運動の中心にもなっている。
ツッティ・ビアンキ(los Tutti Bianchi)は、欧米で盛んな、こちらやこちらの写真のように白いつなぎ服を着て行う社会的な抵抗運動。 
 ジャウマ・アセンス(Jaume Asens)はバルセロナ市政を担うバルセロナ・アン・コムーの広報官、弁護士。
 
 ナチョ・ムルギ(Nacho Murgui)はマドリッド市議員で、市政を担うアオラ・マドリッドで第2副市長を務める。 
 ギジェ・サパタ(Guille Zapata)はマドリッド市議員。アオラ・マドリッドのカルミナ市政が作られた当初、文化担当委員長に着任したが、3年前のツイッターでの友人との対話で、ホロコーストやETAのテロについて冗談めかしとも受け取れる表現を使っていたことを指摘されて、新市制に反感を持つ勢力やマスコミからの激しい攻撃を受けた。文化担当委員長は辞任したが議員は続けている。またETAのテロ犠牲者団体から告訴されたが、マドリッド検察庁は起訴に至らないとして告訴を棄却した。 
パティオ・マラビージャス(Patio Maravillas)はマドリッドにある廃校になった学校を占領して作られた自主管理社会センター。そこに集まる人々の中から、現マドリッド市政を担うアオラ・マドリッドの中核となる集団ガネモス(Ganemos:我々は勝利するの意味)が現れた。

《問》そして後にあなたは、カヨ・ララが主導者となる時期を含めてですが、統一左翼党に入っています。そこでどんな役を果たすのですか?
 カヨ・ララ( Cayo Lara)はスペインの国会議員。スペイン共産党を経て現在はIU(統一左翼党)のコーディネーター(事実上の党首)を務めている。

 私が統一左翼党の中で活動したことは一度もありません。ごく若いときにUJC(共産主義青年同盟)で活動しました。私は2000年に青年同盟での活動を止め、そして2011年の夏に、マノロ・モネレオのようなIUの一部の人たちと親交を結びました。その人々に対しては私は知性面での父親たちの一人として認識しています。また、マルガ・フェレーについては、我々の一部がラテンアメリカでの顧問として働いたことがあるのを知っていました。彼らは我々に一緒に働くように提案しました。IUの選挙対策コーディネーターのラモン・ルケは私に、一つのグループを作るように提案したのですが、私にとって、グループを作るにあたって信頼できその中で有能な唯一の人物がイニゴ・エレホンだったのです。2011年の総選挙の際に、選挙戦のために2ヵ月の間我々は契約をしました。そしてカヨ・ララのために通信連絡の役割を担いました。
 マノロ・モネレオ( Manolo Monereo)は統一左翼党のイデオローグの一人で、ポデモスとも良好な関係を結んでいる。
 マルガ・フェレー(Marga Ferré)は統一左翼党の代表的な党員の一人で、やはりIUの中でポデモスのシンパとなっている。 
イニゴ・エレホン(Íñigo Errejón)はポデモスのNo.2で、31歳の若さだがパブロ・イグレシアスの右腕となっている人物。昨年から今年にかけて、社会労働党から、務めていたマラガ大学の仕事を行わずに給与を受け取っていたという激しい非難を受けて、マラガ大学との契約を打ち切られた。

《問》彼のために論説を書いていたのですか?

 いいえ。カヨはそんな働きはしていませんでしたし、彼は論説を読んでいませんでした。サインと書類とを扱う仕事をしていたのです。彼のために論説を作る作業と物事について誰かに連絡することとは別です。そのうえに彼は何かのメモを使っていました。我々に対してはわずかのことしかしませんでした。彼は感じ取っていたのでしょう。IUとの関係は、私としては親近感を持っていたにもかかわらず、賃仕事としてのものでした。私が常に投票し親近感を持ち共産主義青年同盟の中で活動してきたほどに熱意を傾けた政治組織ではあるのですが、私が活動したいと思うような場所ではなかったのです。

《問》あなたは自分の過去に満足していますか?

 もちろんです。

《問》不安をかきたてられませんか? というのは、いくつかの情報メディアがこぶしを突き上げるかつての共産主義者のイメージを探し求めているからです。

 それは決して私が隠そうと試みたようなことではなく、むしろ非常に一貫した軌跡なのです。大きな違いなどありません。分析するなら、我々をポデモスにするものは政治的な経験の結果であり、それには先ほどのようなものも含まれますが、単に不安を感じさせないだけではなく、我々の歩み、ここまで来たこと、我々が推し進めているものの伝統に、誇りを感じます。理論面で私の発言は何なのか、文化面や情緒面での発言を含めて、明らかに理解するためには、私が書いているものを読むだけで十分です。はっきりしています。

《問》たとえば?

 ええ、理論的な言葉でいえば、ちょっと気取ったように聞こえるかもしれませんが、私はマルクス主義者を自認しています。つまり、ポデモスの理論的な想定の背後とコミュニケーションの上には、グラムシの極めて独自の解釈があります。文化的なそして情緒面での言葉の中で、私は、左翼主義者、左翼出身者が持つ古典的な形態に対して返答しています。
アントニオ・グラムシ(参照:Wikipedia日本語版、他の資料)。第二次大戦前のイタリアの共産主義者。イグレシアスが「極めて独自の解釈」とはヘゲモニー論の解釈についてのもの。既成左翼政党関係者からは「グラムシ理論の曲解」「イグレシアスはレーニンでもグラムシでもなく、単なるチャベス(元ベネズエラ大統領)だ」という批判を受けている。

《問》何年も前にあなたは、典型的な紋切り型の大学教授を笑いものにするためにある逸話を語りましたね。それは、彼がシルビオ・ロドリゲスやイスマエル・セラノ[51]の歌を聴き、ネルダやガレアノやベネッティらの若い女の子と関係を結ぼうと試みるといった…。
シルビオ・ロドリゲスとイスマエル・セラノはともにスペインのシンガー・ソングライターで、左翼的(反体制的)な人々に人気がある。

 反省したいと思います。我々は自分自身を笑う能力を持たねばなりません。左翼を笑い物にするのは非常に難しいことで、我々は左翼から来るのではない言い方で、左翼を散々笑い物にしているように思います。左翼でなければ理解できない種類の冗談があります。我慢ならない左翼の教授とは何か? 格子縞のシャツを着て、あごひげを生やしているタイプだが、その若い女性を関係を持ちたいと願って、彼女をシルビオ・ロドリゲスに押し付けておいてその胸を触ろうとする…。
この冗談が持つ意味を知るためには左翼にいなければなりません。はっきり言えば、我々ポデモスではときどき、核になる創始者と後にやってきた人々との間で問題が起こります。我々がたどり着いている場について彼らがあまりにも多くのことを知らなければならないためこういう冗談が理解されないことがあるからです。
ここで彼が取り上げる「冗談」は、「左翼でなければ」というより、長期間スペインの左翼活動の内部にいた者でないと全く理解できない。

《問》ポデモスとは何ですか? 

ハコボ・リベロがある本の中で編集したインタビューの中で、あなたはポデモスが政党ではないと繰り返しました。プブリコ紙のディレクターとのインタビューで、あなたは、ポデモスは法的な正当性に基づいた政党であると言いました。モネデロは1年前に我々にこう言いました。ポデモスの本質は理論化に基づくものだと語りました。では、ポデモスとは何でしょうか?
ハコボ・リベロ( Jacobo Rivero)は スペインの作家でジャーナリスト。ポデモスとパブロ・イグレシアスに関連する著作をいくつか作っている。
フアン・カルロス・モネデロ(Juan Carlos Monedero)。2015年4月までポデモスのNo.3だったが、中南米、特にベネズエラとの関係がポデモスに対するネガティブ・キャンペーンに利用され、4月30日に党を離れることになった。

 ポデモスはビスタ・アレグレ集会の後で政党になりました。それまでは我々は政党ではなく、政党としての機構も構造も持っていませんでした。ビスタ・アレグレで、間違いなく我々は政党に、非常に特殊な政党になりました。他の政党とは異なる特徴を持っていますが、市民社会の他の部分に開かれている小学校の課程のような明らかな特徴や、指導的組織の選挙といったあらゆることがあります。決定的に重要な特徴は、我々が勝利するためのものだということです。それは、我々が普通の政党に変質してしまわないための、また、有効に働く頑強な組織化された仕組みに見るべき効率性と、組織化され効率良いと同時に市民が主人公となることや大衆的な単位を保証するために役立つようや仕組みを持つ手段とを、両立させるための特徴です。
 ビスタ・アレグレ(Vista Alegre)はマドリッドにある公会堂。2014年10月にポデモスはここで市民集会の形で党大会を開いた。

《問》ポデモスはすでに、公的な物事を運営するために十分なスタッフの組織を持っていると思いますか?

 我々がその点について全く不十分であると知ることは非常に重要です。私は、ポデモスの政府が単独政権になることを望みません。市民社会について考えれば、もっとよく準備のできている諸党の政府を望みます。法務大臣がポデモス指導部の者であるようなことは、たぶん考えられないと思います。
法務大臣は判事がなるべきでしょう。きっと、住宅担当大臣ならPAHの活動家でしょうし、厚生大臣はおそらく医療切り捨て反対運動の活動家がなるべきです。より政治性を持った人物が務めるべき他の大臣の席があるでしょう。しかし我々としては、市民社会が中心的役割を持たねばならないと言うときに、我々が市民社会の代表だと信じるでしょう。我々が計画する非常に開かれた候補者リストを作る方法論を用いての闘いは、自分たちを手段と見なすことで首尾一貫していなければなりません。変革の道程における作業は、ひょっとするとポデモスの一員であることを望まないが非常に熟練した集団に加わってもらうことを視野に入れておかねばならないのです。

《問》選挙戦の間にあなたが語ったことの中で、国民党と社会労働党について話す際に、しばしばあなたはコカコーラとペプシコーラの間にある違いという比喩を使っていました。シウタダノス(Ciudadanos)がそこに割り込んできて後に、その論調に頼ることは少し難しくなったように感じられます。いま我々がいる政治的な時期で、ポデモスはシウタダノスと一緒の政府に同意することは不可能で、また、当然ですが、国民党とはどんな意味ででも協定を結ばないでしょう。もちろん社会労働党とはすでに合意を結んでいますね。
 統一地方選の後に、スペイン各地の自治体で国民党による政権を倒すために、ポデモス(および親ポデモスの政治集団)は社会労働者党と協定を結んだ。多くの場合に社会労働党の筆頭候補が自治体の長になっている。(参照:当サイト)

 そのとおりです。実際には我々が彼らに譲歩してもらっています。あなたたちは憲法改正の取り決めの合意で頭が一杯になっていると我々が言ったのですが、その時期に我々は国民党と社会労働党が非常に似ていると警告し続けていました。さらに、譲歩したこと、つまりポデモスと合意を結んだことを非常に気にするペドロ・サンチェスは、スペイン国旗で身をくるみ、あたかもパットン将軍ででもあるかのように現われて、おいおい!俺は実際にはシウタダノスや国民党とたいして違わないのだぞ、と言うのです。
彼が日曜日に語ったのは、我々との合意を結んだことが決して同じ席に着くことを意味しない、ということです。それは、どうすれば代替の住宅政策無しに住宅の強制撤去を終わらせるのかということとか、明白に政治腐敗反対の方向で再生できる方法とか、そして、市民を救済する計画について話さねばならないなどの話をすること意味しています。社会労働党が譲歩しなければならないときには、ある形で我々の主張や政策についての提案を取り入れなければなりません。
その政策は我々のものですから、実際にコカコーラとペプシコーラの議論が生きているということは、協定の締結に引き続いて「私がシウタダノスや国民党とはあまりにも異なっていることを分かっているのかい?」と問うことによってはっきりします。自制していると言うために巨大な旗を作り、国民党やシウタダノスが奪い合う穏健な有権者の票が入ったその同じ袋を巡る争いをしたいということです。政治は権力と関連付けて理解するべきものだと我々は思っています。以前にあるインタビューでこんな質問がありました。スペインは、協定を結ぶという文化が無いのに、協定のための準備ができているだろうか、と。協定というものは文化とは何の関係もありません。協定は必要性との関連で見るべきものです。カタルーニャでみなさんたちは、自分らがすぐに協定を作りたがる性格を持っていると主張し続けていますが、協定の問題点は性格と関係づけられるべきものではありません。必要性との関連を見るべきです。集中と統一はカタルーニャのブルジョアが持つ協定好きな性格のために手を結んできたのではありません。一緒に進むことがより有利だからであり、いま分かれて進もうとしているのですが、結果は予測できないものになるでしょう。
 ペドロ・サンチェス( Pedro Sánchez)は スペイン社会労働党書記長(党首)。
(参照:Wikipedia日本語版)
 6月21日に、ペドロ・サンチェスは総選挙に向けての社会労働党の集会で、背後の壁いっぱいに広がるスペイン国旗の映像の前で演説した。これは「極左過激派と手を組んでいる」という右派からの非難に対する返答であった。仮に、日本の昭和の時代に日本社会党の党首が演説会場の背景の壁いっぱいに広がる日章旗を背負って演説したならどうか…、というようなもので、右も左も、スペイン中が奇妙な違和感に包まれた。
 アンダルシアの社会労働党は数多くの政治腐敗(参照:当サイト)に包まれており、2015年の統一地方選で過半数を満たさなかった社会労働党は右派政党シウタダノスと連合して州政権を維持したが、その際に「政治腐敗で告訴された幹部を取り除くこと」を約束させられた。
 集中と統一(Convergència i Unió)は、 30年以上にわたってカタルーニャで大きな勢力を持っていた「集中と統一(Convergència i Unió)」は、独立問題をめぐって対立し、2015年7月に「カタルーニャ民主集中」と「カタルーニャ民主統一(キリスト教民主主義)」に分裂した。

 だから私は、取り上げられた議論は…。私にとって左翼や右翼の役割の違いなど、それらが憲法を改正しているときや緊縮財政の手段を適用しているとき、欧州で我々が反対しているものに対して一緒になって投票しているときには、重要ではありません。もしあなた方が合意を取り付けるのなら、それが我々とならもうどうなるのかお分かりです。そして我々と合意を取り付けるたびに、コカコーラとペプシたちは言うことでしょう。おいおい!お前たちは過激派と協定を結んでいるのだ 、と。我々には何の矛盾もありません。
2015年の統一地方選挙後に、スペインの多くの主要自治体で、社会労働党がポデモスやその系統の政治党派と協定を結んで国民党から政権を奪ったが、その際に国民党などの右派勢力は「極左過激派と手をつないでいる」と社会労働党を激しく非難した。「極左過激派」を忌み嫌うアンダルシアの社会労働党はシウタダノスと協定を結んで州政権を維持した。

《問》統一左翼党についてですが、スペイン総選挙に向けてある協定を結ぶ余地はありますか?

 ありえません。ゼロです。最後まで。別の党名を添えるなどできません。

 こういうことです。その理由を説明しましょう。善意を持つ人々、左翼系の人々は言います。あなた方は左翼の中でいつもケンカをする、どうして一緒になれないのか、そうすれば右翼に勝つことはもっと簡単だろうに、と。そのように言う人たちはみな最高の善意でそう言っているのです。心からそう言います。考えてくれ、私が…、ガルソンと一緒に進んでくれ、と。しかし、そのことは総選挙で勝利するためには何の役にもたちません。左翼戦線、人民戦線は、多くの人々に一夜の夢を見させてくれるかもしれません。

つまり、ああ、1936年2月のように、もう一度いっしょに…、と。これは左翼の一部の人々が持つある種の夢想にとってすばらしいものでしょうが、しかし選挙にとっては何の役も果たしません。無意味でしょう…。それは右翼が、国民党が、そして社会労働党が、望んでいるようなことでしょう。社会労働党は大喜びで、自分の敵はポデモスと統一左翼党の合体したものだと言うでしょう…。すばらしい。マスコミは、その見地に立って、そのようなことへの疑問を止めようとしないでしょう。エル・パイスとエル・ムンドは、我々が統一左翼党と一体化して人民連合を形作ることを非常に心配しています。それは実にセンセーショナルなことです。
 1936年の2月に行われたスペイン(第2共和政)総選挙の結果、左翼政党が糾合して人民戦線内閣が作られた。
 エル・パイス(El País)とエル・ムンド(El Mundo)はスペインを代表する日刊紙。一般的には、エル・パイスが中道左派系、エルムンドが中道右派系と見なされている。
 人民連合( la Unidad Popular)はいくつかの国で作られているが、最も有名なのはかつてチリでアジェンデ政権を支えたもの。

 昔からの左翼主義者たちや左翼の友人たちは、いつも我々にこう言って注意してくれます。君たちの統一左翼党に対する態度は間違っている、なぜ彼らと一緒にならないのか…。しかし、あらゆる点から見て、機能することが明らかになっていると思えるのは、人々の連合です。党の連合ではないのです。
上からやってくる合意ではありません。エリートの中の合意ではありません。政党間の同盟は、選挙にとって役に立たないと我々は考えています。その逆にあるのが、多くの場からやってくる全ての人々に我々が手を差し伸ばすことです。私は、統一左翼党からやってくる人たちが我々の計画に協力して働くことを歓迎します。ポデモスの幹部の一部は過去に統一左翼党の中で活動した経験を持っています。しかし、我々に対して提案されていることは、振り返ってみるならば…、我々がすべてを下手にやったと言いながら1年間を過ごした後でのものです。アルベルト・ガルソンがこの1年間で言ってきたのは、ポデモスは間違いをしでかしたということです。どうしてあなた方は何もかも間違ってきたような者達と一緒に選挙戦を望んでいるのか? 統一地方選でまずい結果になったから…。ということはつまり、あなたたちが抱えている問題を我々に投影してない、というわけだ。

 我々がやってきたことの全ては、左翼たちの全員の側から激しい非難を受けています。左翼系のすべての新聞を含みます。チラシの面も議論も、全て悪かった…、と。その結果、新しい場所を勝ち取ることになりました。我々は総選挙に顔を向けた道程表をデザインしています。そしてその道程表に沿って進みます。他のことをデザインした人たちは、首尾一貫してくれればいい。その人らに言わせれば、たいして意味を持っていないのは提案することで、いまや選挙で我々が為さねばならないことは私にとって非常に悪い…、と。そして我々に対して次のように提案する…、君たちは君たちの名前を諦め、我々は我々の名前を諦めて、左翼の共同戦線を持つのだ…、と。我々が、左や右の軸はこの国にある物事を変えるための鍵にはならないと、能動的にも受動的にも語ってきたというのに、そういうふうに提案をします。我々が異なる政治的な計画を持つ以上は、異なる政治的選択肢を我々は公表することでしょう。

《問》他の分析について。後から振り返ってみてですが、いま勢いづいている政党と協定を結ぶ可能性についてどう思いますか? より伝統的な左翼の政党でもなく、ERC やアノバやコンプロミスやビルドゥといった、その周辺部にある政党とです。それらの政党はすべて、良い結果を手にすることができる、また国民党を破滅させるための助けとなりうると予想されているものですが…。
 
 ERC(Esquerra Republicana de Catalunya)はカタルーニャの民族主義左派政党。 
アノバ(Anova)はスペイン北西部ガリシア州の民族主義左派政党。
 コンプロミス(Compromís)はバレンシアで統一左翼を中心に左翼系の団体によって作られた政治会派。2015年の統一地方選の結果、バレンシア州とバレンシア市の政権から国民党を追い出す中心的な力となった。
 ビルドゥ(Bildu)は、スペイン北東部にあるバスク人地域で勢力を伸ばしている民族左派政党。テロ組織ETAとは非暴力の点で一線を画しているが、親和性は強い。バスク州の各都市でで第2~第3の勢力となっているが、2015年の統一地方選ではナバラ州で第1党となった。

 選挙のシナリオについて語るなら、基本的に二つの可能性があると思います。我々が社会労働党を上回って第1党または第2党になる場合があります。我々が社会労働党を超えない場合もあります。それらは重要なシナリオです。より主権主義的で左翼的なポデモスは決して過半数を得ることはありません。その選挙のシナリオは政権のシナリオではないのです。政権のシナリオは、首班指名で我々が社会労働党に投票しなければならなくなるかどうか、ということです。それは我々にとって非常に苦しいものになり、選挙後のシナリオは私にとっていま抱えているのと同様に政治的責任を伴うつらいものになるでしょう。社会労働党が政権を国民党に引き渡すようなことになるのか、それとも首班指名で我々に投票することになるか。そういったことが根本的なシナリオだと思います。

 私はあなた方が出している具体的な疑問を尊重しますが、私としてはそれらの要素のある部分で一致点を見つけたいと思います。我々は全国的な政治勢力です。そこで、ポデモスのロゴと名称をスペイン中の投票所で投票用紙に掲げるという我々にとって譲れない地点から出発していますが、総選挙でカタルーニャの中では「プデム」の名称で筋を作りその筋道の後に別のものが現われるかもしれないという可能性を確かに認めます。それは他の政治勢力と同時に市民社会中の集団とも共同できるものです。それは悪いことだと思いません。同じことはバレンシア州で、コンプロミスと行うことができます。ガリシアでもマレア勢力やAGEなどの部分とできるでしょう。
もし彼らが興味を持てばですが、もし彼らに関心が無く、自分独自の選挙対策を発表するとか独立した全国的な集団の創設の望むのなら、それは全く正当なことです。ビルドゥとはあり得ません。彼らの異なった動機のためです。ビルドゥはポジティブな道を、正常化し暴力を拒否する道を歩んでいますが、それは我々が他の勢力に対するのと等しいレベルの共感を与えるためのものであり、それには非常に時間がかかると思います。そのために条件が与えられることはありません。
 マレア勢力( las mareas)とは ガリシア州でポデモスが軸となって生まれたいくつかの政党で、2015年の統一地方選挙でいくつかの主要都市の市政を握る勢力になった。
 Alternativa Galega de Esquerda:ガリシアの左翼政党。統一左翼党と共闘している。

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《翻訳後記》 

 1939年のフランシスコ・フランコによる軍事独裁の開始から1976年のフランコの死を経て78年の親憲法制定まで、40年間続いた苛酷な独裁政治は、スペインの大地と人間の心を殺すことができなかった。奪われ破壊されたカタルーニャやバスク、ガリシアの言語と文化は、中央政府に押し付けられた表面的な様々の舗装と装飾とは裏腹に、その地下で延々と生き続けた。同時に、スペイン共産党と社会労働党による左翼活動もまた「地下水脈」を形作って常に新鮮な水を流し続けた。

 78年以降、スペイン社会労働党執行部は米欧支配層による帝国主義政策の下僕と化し、長期間にわたって自分たちを下から支えてきた大地と人間を見失ってしまった。かつてのフランコ独裁主義の舗装と装飾が欧米化したマスコミと「中道(左・右)」の支配的な論調によるそれに取って代わられただけであり、その新しい舗装と装飾がスペイン社会の表面を上から覆い尽くした。しかし、騙され搾り取られながらも、大地と人間は生き続け、「地下水脈」は流れ続けている。

 大地とそこに生きる人間は国と社会にとって生命の源である。ポデモスという変革を求める新しい党派は決して「新しいもの」ではない。親から子へ、子から孫へと、延々と受け継がれる自由と変革を求める命とエネルギーの一端が表面化しただけである。このパブロ・イグレシアスとの対談記事から最も強く感じるのはこの点だ。しかも、その「地下水脈」はスペインだけではなく、イタリア、フランス、ドイツ、そしてギリシャと、欧州中にそのネットワークを作っている。その点を理解できない人にとっては、パブロ・イグレシアスとアレックス・チプラスの握手がたまたま現われた「似た者同士」、ポピュリストのご都合主義に映るのかもしれない。

 また2011年の「15M(キンセ・デ・エメ)運動(参照:当サイトより)」とポデモスの関係にしても多くの人々が様々に言う。ポデモスは15Mから現われたものなのか、それとも無関係に作られたのか…。しかし、《国と社会にとっての生命の源である大地と人間》という視点から眺めるなら、はっきり言ってそんなことはどうでもよい議論である。生命の最後の一滴まで搾り取ろうとするIMFとその手先ども、“ファイナンシャル・テロリズム”と国内の“テロ実行犯”どもの正体を見切り、それに「No!」を叩きつける膨大な人間の塊が、様々な形を取って、社会を上から覆い隠す虚構の舗装や装飾を突き破って現われてくる。その一つが15Mでありポデモスなのだ。

 このパブロ・イグレシアスの対談記事で、伝統的な左翼政党、特にイグレシアスが最も近い立場を取ってきた統一左翼党(旧スペイン共産党)に対する異常なまでの厳しい態度に驚く人がいるかもしれない。しかし彼は、国と社会にとって最も大切な、自由と変革を求める命とエネルギーの源から遠ざかり、国と社会に変革をもたらすことのない「残りかす」として組織の維持に汲々とする党派に、断固として三行半を叩きつける。そして、旧来の左翼主義者たちが夢にまで見る「左翼連合戦線」を打ち棄てる。次のイグレシアスの言葉が、最も的確にその考えを示しているだろう。彼にとって大切なものは「右」でも「左」でもない。「下」である。

 「しかし、あらゆる点から見て、機能することが明らかになっていると思えるのは、人々の連合です。党の連合ではないのです。上からやってくる合意ではありません。エリートの中の合意ではありません。政党間の同盟は、選挙にとって役に立たないと我々は考えています。」

 しかし彼はカタルーニャの左翼政党ICVやEUiAとは共闘できると考えており、実際にこの「変革の道程」で立ち寄ったバルセロナで、6月26日に、ICVのジュアン・アレラ党首や幹部と語り合い、9月27日のカタルーニャ州議会選挙での統一会派結成で合意を結んだ。またポデモスNo.2のイニゴ・エレホンは7月3日にバルセロナで、ICV‐EUiAとともに、「憲法制定プロセス」の代表タレザ・フルカダスと会い、同様に一つにまとまる道を付けた。この合意が遅れたのは、フルカダスが「パレスチナ支援船団」に参加していたために、パブロ・イグレシアスと会うことができなかったためだ。しかしこうして、カタルーニャの中で、民族独立派、独立反対派、そしてプデム(カタルーニャのポデモス)を中心とする全面改革派の3種類の勢力が争うことになるだろう。

 対談の中でもイグレシアスは、カタルーニャだけではなく、ガリシアやバレンシアにある左翼系の政党との協力を固めていく予定を持っているのだが、こういった異民族地域で左翼政党は常に、大地とそこに住む人間からわき上がる自由と変革を求めるエネルギーに直面し、マドリッドの党中央とはまた違った要素を持たざるを得ないのだろう。ただ、彼も言うように、テロ集団ETAの影を引きずるバスクではこれは難しいかもしれない。もう少し時間が必要だろう。

 2015年の総選挙は、注釈で書いたとおり、9月26日に前倒しされるかもしれない。何とかしてポデモスの攻勢をしのぎ「スペインのギリシャ化」を防ぎたい与党国民党の中にその意見が強く、そうなれば社会労働党もそれに同調するだろう。今のところラホイ首相は、「選挙に向けた大盤振る舞い」を盛り込んだ来年度予算案を示してから、11月28日に行いたい意向を持っているが、ギリシャ情勢のいかんによって、どうなるか予想はつかない。

 しかしいずれにせよ、スペインと欧州はこれから数年間、大きな嵐の中に放り込まれるだろう。また折を見てはその様子を私のサイトを使ってご報告する予定である。

【以上】

http://bcndoujimaru.web.fc2.com/bcndoujimaru_menue.html
バルセロナ在住の童子丸開です。
私は2008年以来、「どうじまるHP」の場で、911事件、対テロ戦争、フクシマ原発事故、スペインの「経済危機」などに関する記録と記述を通して、現在という時代の虚構に迫って参りました。
そして2012年10月下旬に、私の二つ目のウエッブサイト「BCN童子丸」を開設することとなりました。その理由と経過につきましてご説明させていただきます。

2012年9月末ごろから、サーバーとの接続が不調になり新規作成の記事をアップロードできなくなりました。さらにはインターネットから自分の作ったサイトを見ることすら不可能になったのです。サーバー管理者に問い合わせても全く問題ないとの返事を得るだけで、どうにもなりませんでした。

実は以前にも似たようなことが起こりました。2004年3月11日に起こったマドリッド列車爆破事件(マドリッド311事件)について、当時私がよく投稿していた阿修羅サイトに、「いまだ山勘のレベルだが」と断った上で、「これはCNI(スペイン中央情報局)の仕業でCIAかMI6の関与が考えられる」と書いて投稿したとたんに、バルセロナのPCから阿修羅サイトに接続できなくなりました。
日本の人に問い合わせると、日本では問題なく接続できるとのこと。同時に、私のメールボックスに差出人不明の英語で書かれたメールが連日のように送られてきました。おそらくウイルス付きだったのでしょう。
そのときには4~5日して接続が回復されたのですが、今回の場合にはいつまでたっても回復せず、別のサーバーを使って新しいウエッブサイトを開設する決心をせざるをえなくなった、というしだいです。

スペインについての情報をまとめた『幻想のパティオ』は、書きかけでアップロードできなかったものがありますので、こちらの新しいサイトでそのままの形で引き継ぎます。同様に911事件についての『コンセンサス9・11』も、まだ作りかけのサイトですので、こちらで引き継ぐようにします。また新しく書き上げる記事はこの新サイトだけで取り上げ、911事件の客観的・物理的事実の記録集を作る予定にしています。
いずれにしても、サイトの形を整えるには、かなりの時間を必要とします。出来るところからぼちぼち手を着けていくつもりですので、どうか我慢してお付き合いください。

記事引用 〆

新政党「ポデモス」党首 パブロ・イグレシアス(教授)
ヨーロッパの顔ともいうべきイギリス、その街の風景をテレビで流していた。

汚い!!!

それに尽きる。いまイギリスはEU離脱を本気で考えている。

ヨーロッパの慢性的疲弊した経済に、すべての老若男女が現政治にサジを投げてしまった。

ドキュメンタリー番組で映すインタビューの受け答え。マイクは年金生活者と思われる、ごく一般的な庶民に向けていた。いま政治に望むことはなんですか?

しばらく沈黙が続き、「政治? やつらは我々に何をしてくれたというんだ。もう、うんざりだ、明日のメシが食えない、じゃあな・・・」。

このやりとり、時間を置いて別の場所(アメリカ、ハーレム)で、まったく同じ返答が訊かれたことに驚いた。

それがナニを云い表わしているかいえば、政治不信ではない。「政治不在」の国家が蔓延しているという民主主義崩壊の叫び声である。それが世界規模で進行している。

そして舞台はスペイン。そのスペインにキラ星のごとく躍進してきたのがポデモスの党首パブロ・イグレシアス氏だった。

それまで氏は政治の世界では無縁の存在で大学で教鞭をとっていた。だから、大学の生徒が、いかに大変な情況におかれているかを、よく熟知していた。
 
大学入学には高額学費が必要で、しかも卒業しても職がないという現実。国民の生活保障は削減に次ぐ削減で日常生活もままならないという。

そうした経済閉塞、生活困窮、教育貧困の窮地を救うべく立ち上がったのがマドリード・コンプルテンセ大学で政治学教授のパブロ・イグレシアスだった。

スペインでの街頭インタビュー。老人いわく、「だれにも投票しない。これまで政治は何一つ私に手助けしをなかった」。
 
ギリシャのチプラス、と並び、そして「フランスのピケティ」をシンクタンクとして抱き込んだパブロ・イグレシアスが突如として、ヨーロッパ保守的政治に挑戦状をたたきつけた。

しかし、氏の存在は世界的水準でみると、ほとんどマイノリティーに近い。そのはずで、氏の経歴がそれを物語っている。

イグレシアスは自身を左翼の位置に置いており、かつてはスペイン共産党(PCE)の党員であり、また反グローバリゼーション運動に参加していた。

2014年1月には、数か月後の欧州議会議員選挙参加を見据えたポデモス運動の主体者のひとりとなり、4月3日の公開予備選挙でポデモスの選挙名簿筆頭に選ばれた。

ポデモスは欧州議会議員選挙で5議席を獲得して、国民党(PP)、社会労働党(PSOE)、イスキエルダ・プルラル(IP、「多様な左翼」)に次ぐ第4党となり、イグレシアス自身も欧州議会議員に当選した。ポデモスは欧州議会で欧州統一左派・北方緑の左派同盟(GUE/NGL)に所属し、6月25日、イグレシアスはGUE/NGLから欧州議会の議長に推薦された。はい、私の国の市民が主権と社会的権利を回復するためにそれ(政権)を変えるまで、(活動しつづけることを)誓います。— 欧州議会議員就任後

祖父のマヌエル・イグレシアスはフランコ体制下のスペインで死刑宣告を受けたが、彼に対する告発の不正が証明されたため、死刑は執行されなかった。

母親のルイサ・トゥリオンはスペイン労働者委員会(CC.OO.)の顧問弁護士、父親のハビエル・イグレシアスは元歴史学教授で労働監督官である。

イグレシアスによれば、父親はマルクス・レーニン主義・反フランコ主義の過激革命組織FRAP(英語版)のメンバーだった。イグレシアスの名前は、社会労働党(PSOE)を創設した社会主義者のパブロ・イグレシアス (1850年生の政治家)に由来している。

そうした経歴と生立ちを持つ。氏に対するぞんざいな圧迫があるとすれば、その血統所以に帰属するのだろう。しかしスペインの若者は イグレシアスを必要とした。

その国がイギリスでもフランスでもアメリカでもない「スペイン」というラテン歴史を誇るくにから発祥していることがカリスマ的である。

イグレシアス氏の今後の動向を注視したい。スペイン国のたんなる下院員に留まることなく、世界を牽引するべくカリスマの雄として、絶大な期待を抱かせるに充分な資質がある。 

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スペインで躍進する若者政党・ポデモスはなぜ幅広い支持を集めているのか?
Platnews 2016年01月15日 17:42
昨年12月に行われたスペイン総選挙で躍進した政党・ポデモスが注目を集めている。

ポデモスは2014年1月にできたばかりの新しい政党で、同年5月の欧州議会選挙でスペイン第4の政党に、支持率は一時与党を抜いてトップに立ち、昨年末の総選挙では定数350議席のうち69議席を獲得し、第3党にまでなっている。

市民運動の流れで出てきた「ポデモス」

では、なぜこの新政党が支持を集めているのだろうか。

まずリーマン・ショック後のスペインは、徐々に改善してはいるが、若者の失業率が約50%と危機的な状況で(全体では約25%)、2011年5月には「Occupy Wall Street」を模倣した大規模な抗議運動が起こり、緊縮政策や格差に対する不満をぶつけた。

しかしデモだけでは選挙結果に影響を与えることはできず、与党は単独過半数に。こうした中で、2014年1月に30人の知識人によってポデモスが結党された。

ポデモスとは、スペイン語で「我々にはできる」という意味で、政策決定の段階から市民に参加してもらう従来の政治手法とは異なる形を実現しようとしている。メンバーも大半が30代で、若者政党という側面もある。

こうしてみると、一見日本の学生団体SEALDsと似ている印象を抱くが、実際は異なる。

「極左」から中道左派へ
 
ポデモスの党首パブロ・イグレシアス氏は、1978年生まれの37歳で、マドリード・コンプルテンセ大学の政治学教授、他の主要メンバーも大学教授や学者などで構成されている。残念ながらSEALDsをはじめとする日本の市民運動には「知性」を感じないが、ポデモスは「知性」を持ったメンバーが中心に存在する。

確かに結党当初こそ、グローバル化や市場主義を強く批判し、政策も自由貿易からの離脱、生活に最低限必要な資金提供(ベーシックインカム)、利益を出している企業が労働者を解雇するのを禁止、公的債務支払いに関する市民の監督権といった典型的な左派ポピュリストの政策が多かったが、徐々に現実的な路線に、中道左派寄りへと変化してきている。
                                                                  
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最初の非現実的な政策案は、今から思えば戦略の一部であったように思える。
つまり、現政権に最も不満を抱えている若者、低賃金層からの支持を集めるためである(スペイン国民の最大の関心事は失業、汚職、経済だ)。
ポデモスは政治資金をクラウドファンディングで集め、誰もが参加できる集会を開き、そこで出た意見をマニフェスト(プログラム)に反映させている。そして結党後すぐに行われた2014年5月の欧州議会選挙ではスペイン第4の政党に選ばれた。

まずはマニフェストに一般市民からの意見を取り入れることで期待を集め、また国民が汚職に大きな関心があることから、イグレシアス氏は長髪、白いシャツにジーパンという古い政治家(と彼が批判する)とは一線を画した爽やかな印象をつくっている。
学者らしい難しい表現や左翼らしい政治的専門用語を使ったりもしない。デイヴィッド・ハーヴェイやサルバドーレ・アジェンデなどマルクス主義思想家の影響を受けていると過去のインタビューの中で答えてはいるが、大衆に対しイデオロギー色を打ち出すことはない。
また、現実的に実施する上では財源の問題は出てくるが、新興勢力としては他党を批判しても注目を集めることはできず、「どういう変化をもたらすのか」を明確に打ち出すことが重要だ。ポデモスは「希望を胸に投票したのはいつでしたか?」という選挙スローガンを掲げている。

そして、以前と変わっていないものもあるが、今は下記のようなマニフェストを掲げている。

貧困レベルにある家庭に対し600ユーロ(約7.6万円)を支給
富裕層への増税
再生エネルギーなどを使って低炭素社会の実現
緊縮政策を止め、医療、教育への支出削減を止める
定年退職年齢を(67歳から)65歳に戻す
非正規雇用を減らし、最低賃金を保障。解雇に関する法律も変える
公共投資を増やす
男女平等の実現、幼稚園の無料化、週35時間労働
一部銀行の国有化、金融規制
抵当権の再設定

欧州議会選挙時に物議を醸した全家庭へのベーシックインカム、公的債務支払いに関する市民の監督権は撤回している。経験不足による実行力への不安から一時ほどの支持率はないが、それでも1980年代はじめ以降勢力を保ってきた国民党と社会労働党の二大政党を脅かしている。今後より幅広い支持層を確保するために、中道寄りにシフトしており、ポデモスの指導部は「極左」という呼び方はやめてほしいとよく言っている。
ポデモスが支持した市長もバルセロナとカディスに2人誕生している。昨年末の総選挙時には約39万人の党員が存在し、スペインで2番目に多い。

従来とは異なる政治手法
 
ポデモスはギリシャの急進左派連合と緊縮政策反対という点では共通している(た)が、新しさという意味では大きく異なる。既に述べた通り、政治資金はクラウドファンディングで集め、シルクロス(スペイン語でサークルの意味)という地域単位での集会を開いている。

既にシルクロスはスペイン全体で1000個近く存在する。またどこからでも参加できるようオンライン上でもシルクロス同様に討論を行っている。このシルクロスはベネズエラのウゴ・チャベス大統領が行った「ボリバルサークル」を模倣したものかもしれない。
もちろん、facebookやyoutubeも積極的に活用し、支持者にアプローチしている。元々人気のあったTVにも出演し、イグレシアス氏はカリスマとして存在感を発揮している。今後は、議席を確保した政党として運営面が大きく問われることになるが、新しい政治手法を発展させられるのか引き続き注目していきたい。
(記事引用) 

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http://blog.livedoor.jp/raki333/preview/edit/43cdd4ab3078922b97817e7dd7424915
 

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