今なぜビジネスで「歴史」を学ぶことが必要なのか?
川本裕子・早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授
川本裕子 【第10回】 2016年1月15日 ダイヤモンド社
今、なぜ歴史を学ぶことがブームになっているのか
ビジネスの大きな教訓は「歴史」から学べることも多い
最近、「歴史を学ぶ」ことがブームのように見受けられます。背景の1つには、中近東情勢の不安定化や欧州への難民流入など、歴史を知らないとなかなか理解が難しい問題が増えていることもあるでしょう。
今年最初に飛び込んできたニュースはサウジアラビアとイランの断交でしたが、多くの人は「なぜ?」とびっくりしたはずです。イスラム教のスンニ派とシーア派はどうやって分かれたのか、そもそもどんな違いがあるのか、どの国ではどの派が多数派、優位なのか――。こうした基礎知識は、そう簡単に身に着くものではありません。
「サイクス・ピコ協定」「オスマン帝国の版図」などが話題になると、随分専門的に聞こえますが、高校の世界史の教科書には必ず出てきます。「今年は歴史を学ぶ」を年頭決意にして、「○時間で学ぶ世界史」のような本を読むよりも、どっしり腰を据えて生涯の精進の課題にした方が良いような気がします。本来は、歴史の知識がないと、国際関係や国の制度などを理解するのはほとんど不可能です。特にビジネスに携る人々にとって、歴史は必修科目です。
まずは高校の教科書をしっかり読み直して、関心のあるテーマごとに専門的な関係書に進んで行く方が、結局は身に着くのではないでしょうか。ここ数年、欧米の歴史学界では、第一次世界大戦から100年が経ったことを受けて、第一次大戦に至った歴史や社会の変容などについて、様々な新しい研究が発表されているようです。今の国際情勢が当時に類似する点が多いということから関心が高まっているのでしょう。たとえば、そうしたテーマについて色々と歴史を勉強するのもいいのかもしれません。
「賢者は歴史に学ぶ」 欧米の資本市場は重要なテーマ
私が大学院で教える欧米の資本市場についても、歴史は非常に重要なテーマです。歴史を知らなければ、なぜそのような制度になっているのか、どうした問題が起こり得るのかをうまく理解できません。同時に、歴史を知ることによって学生たちは豊かな発想で今後へと考察を広げられます。まさにビスマルクの「愚者は経験に学ぶ、賢者は歴史に学ぶ」です。
たとえば、学生の皆さんに、19世紀の半ばの英国で外国および植民地政府証券などに分散投資する世界最初の投資信託「フォーリン・アンド・コロニアル・ガバメント・トラスト」が誕生したことを伝えると、彼らは瞬時に彼我の市場の厚みと蓄積の違いを理解できます。こうした事例は、現代日本における「貯蓄から投資へ」を考えるのにも大いに参考になります。
銀行の起源は両替所 戦費調達と共に発展した金融市場
少し金融の歴史を紐解いてみましょう。14世紀にイタリアのフェレンツェで貿易商を営んでいたメディチ家などは、各地域の通貨を交換する両替業に乗り出し、お金を預かり、代金を支払うサービスなどを手がけました。こうした取引が銀行の起源と言われています。ちなみに銀行を意味する「バンク」は、両替所に置かれていた長い机に由来するようです。
金融資本市場の発展を語る上で、戦争は忘れてはならない要因です。証券の起源は、中世後期のイタリア都市国家での国債の発行でしたが、次第に国債取引市場が形成されていきました。絶対主義王朝の下、国家対立が激化し、戦費調達は巨大化し、国債の発行は一層活発化しました。一説には、最初に長期国債を発行したのはフランス国王といわれています。しかし、国王の私的債務か国家債務かの区別があいまいで、デフォルトを宣言することも多々あったようです。
正式の最初の国債は、イギリスがフランスとの戦費調達のために17世紀末に発行したものを指すべきかもしれません。「戦争と国債」「国家の過大債務とデフォルト」の関係はずっと続いています。証券取引所の設立は1611年のオランダ・アムステルダムに遡ります。
世界最初の株式会社は、1602年設立のオランダ・東インド会社とされています。これらを契機に、株式会社が他の国にも広がり、新しい事業を興す時に便利なツールになっていきました。デリバティブの一種であるオプション取引が生まれるなど、証券取引所の開設とともに金融技術も進化していきます。当時の金融資本市場の中心地だったオランダは、史上初のバブルとなるチューリップ・バブルに見舞われ、その後次第に勢力を低下させました。バブルの歴史も長いということです。
オランダ、英国、米国へ 世界「金融覇権」の盛衰
オランダに代わって頭角を表わしたのが英国です。新ジョナサンというロンドンシティのコーヒーショップのドアに株式取引所という表札がつけられ、正式な会員組織による取引所が誕生しました。ロンドン証券取引所が正式に発足したのは、その後の1802年です。
ロンドン証券取引所は、債券や株式の取引の場として、英国の戦費調達や、産業革命によって急成長した鉄道や運河、鉱山事業を支えました。ロスチャイルドやベアリングといった主に大口顧客を相手にするマーチャントバンクの活躍により、英国は当時の金融資本市場の中心地として君臨しました。
英国で始まった産業革命は1830年頃に米国へ伝わり、工業化を加速させました。これによって発展した製鉄や石炭などの産業は、より多額の資金を必要とし、CB(転換社債)やCP(コマーシャルペーパー)、ワラント債という新たな金融商品が生まれる原動力になりました。
ところが、1914年に戦端が開かれた第一次世界大戦により、英国は多額の戦争債務と財政赤字という重荷を背負います。逆に、戦争による特需に沸いた米国は、英国に代わって金融資本市場のリーダーになりました。基軸通貨もポンドからドルに代わります。
一方、専門性を重視するあまり、ロンドンの金融市場「シティ」は次第に閉鎖的になり、1970年代のサッチャー改革を迎えるまで、長期間、緩やかな衰退を続けます。
国家経営と不可分だった 米国金融の歴史
さて、第一次大戦以来今日に至るまで、一世紀以上世界金融のリーダーであり続ける米国の歴史を見れば、連邦政府の成立自体が金融問題そのものだったことがわかります。18世紀末、アメリカ13諸州は英国から独立を勝ち取ったものの、中央政府は事実上存在せず、膨らんだ戦時債務の返済にめどが立ちませんでした。米国の信用は下落し、債券価格は大きく元本割れする状態でした。
こうした国家的な危機を迎え、独立戦争の総司令官だったワシントン(初代大統領)と、その片腕ハミルトン(初代財務長官)が中心となって、実効ある「連邦政府」をつくり、米国の信用を確立し、兵士に対する年金などの戦時債務を弁済しようとしたのが、1788年に発効した合衆国憲法の背景です。
各州の債務は連邦政府に移管され、連邦政府は独自の税収として確立された関税収入を債務返済に充てました。この歴史を振り返るならば、連邦政府がなく、独自の財源もない現在のEUでユーロ問題の解決が容易でないことも実感できるというものでしょう。
米国はアンシャンレジューム(古い体制)から逃れた人たちが建国したお国柄です。権力の集中を忌み嫌う政治的伝統があり、チェック・アンド・バランスの仕組みへの志向が根強く存在します。サブプライムローンという複雑かつ不完全な金融商品のチェックに不備があったのは、そのような事情で金融監督制度が分散化していた弊害が指摘されました。
これを受け、世界金融危機後、監督機能に漏れがないようにし、また金融機関の破綻処理法の整備、店頭デリバティブ規制の強化などを定めたドッド・フランク法(金融規制改革法)が整備されることとなりましたが、規制が厳しくなりすぎることで経済の活性化が阻害されないか、という懸念も生じています。
イノベーションに向けて 日本の金融の歴史から何を学ぶか
金融資本市場の発達の中で、日本はどうだったのでしょう。日本は世界に先駆け、1730年に大阪の堂島で米の先物取引を始めたことは、世界の金融史上でも特筆すべきことだと思います。
しかし、鎖国のため、欧米に比べて日本の金融が出遅れたのも事実です。明治時代にバンクを「銀行」と訳したのは、銀が当時東アジアで共通の交換手段として通用していたためのようです。ちなみに「行」はお店の意味です。維新後の1870年に、ようやくロンドン市場でポンド建ての日本国債が初めて取引されました。ただし、当時の利率などは発展途上国の中でもあまりいいものではありませんでした。
日本に取引所が生まれたのは1878年です。条例が制定され、東京と大阪に初の株式取引所が誕生しました。鉄道会社や海運会社、紡績会社などが相次いで上場を果たしますが、1906年に鉄道国有法が制定され、ほとんどの鉄道株は国に収用されます。渋沢栄一を始め、国有化には反対の意見も多かったようですが、結果として民営の鉄道株は消滅してしまいました。
こうして見てくると、日本の金融市場の発達の遅さも、単に経済発展の後進性と言うことでは片づけられないものがあります。制度設計、特に規制の在り様によるところが大きいからです。同調的な投資行動が多く、米国市場の後追いになるとはよく指摘されますが、内外の金融の歴史に学べば、日本発の金融イノベーションも生まれるかもしれません。
(記事引用)
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