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今なぜビジネスで「歴史」を学ぶことが必要なのか?
川本裕子・早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授
川本裕子 【第10回】 2016年1月15日 ダイヤモンド社
今、なぜ歴史を学ぶことがブームになっているのか
ビジネスの大きな教訓は「歴史」から学べることも多い
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 最近、「歴史を学ぶ」ことがブームのように見受けられます。背景の1つには、中近東情勢の不安定化や欧州への難民流入など、歴史を知らないとなかなか理解が難しい問題が増えていることもあるでしょう。

 今年最初に飛び込んできたニュースはサウジアラビアとイランの断交でしたが、多くの人は「なぜ?」とびっくりしたはずです。イスラム教のスンニ派とシーア派はどうやって分かれたのか、そもそもどんな違いがあるのか、どの国ではどの派が多数派、優位なのか――。こうした基礎知識は、そう簡単に身に着くものではありません。

 「サイクス・ピコ協定」「オスマン帝国の版図」などが話題になると、随分専門的に聞こえますが、高校の世界史の教科書には必ず出てきます。「今年は歴史を学ぶ」を年頭決意にして、「○時間で学ぶ世界史」のような本を読むよりも、どっしり腰を据えて生涯の精進の課題にした方が良いような気がします。本来は、歴史の知識がないと、国際関係や国の制度などを理解するのはほとんど不可能です。特にビジネスに携る人々にとって、歴史は必修科目です。

 まずは高校の教科書をしっかり読み直して、関心のあるテーマごとに専門的な関係書に進んで行く方が、結局は身に着くのではないでしょうか。ここ数年、欧米の歴史学界では、第一次世界大戦から100年が経ったことを受けて、第一次大戦に至った歴史や社会の変容などについて、様々な新しい研究が発表されているようです。今の国際情勢が当時に類似する点が多いということから関心が高まっているのでしょう。たとえば、そうしたテーマについて色々と歴史を勉強するのもいいのかもしれません。

「賢者は歴史に学ぶ」 欧米の資本市場は重要なテーマ

 私が大学院で教える欧米の資本市場についても、歴史は非常に重要なテーマです。歴史を知らなければ、なぜそのような制度になっているのか、どうした問題が起こり得るのかをうまく理解できません。同時に、歴史を知ることによって学生たちは豊かな発想で今後へと考察を広げられます。まさにビスマルクの「愚者は経験に学ぶ、賢者は歴史に学ぶ」です。

 たとえば、学生の皆さんに、19世紀の半ばの英国で外国および植民地政府証券などに分散投資する世界最初の投資信託「フォーリン・アンド・コロニアル・ガバメント・トラスト」が誕生したことを伝えると、彼らは瞬時に彼我の市場の厚みと蓄積の違いを理解できます。こうした事例は、現代日本における「貯蓄から投資へ」を考えるのにも大いに参考になります。

銀行の起源は両替所 戦費調達と共に発展した金融市場

 少し金融の歴史を紐解いてみましょう。14世紀にイタリアのフェレンツェで貿易商を営んでいたメディチ家などは、各地域の通貨を交換する両替業に乗り出し、お金を預かり、代金を支払うサービスなどを手がけました。こうした取引が銀行の起源と言われています。ちなみに銀行を意味する「バンク」は、両替所に置かれていた長い机に由来するようです。

 金融資本市場の発展を語る上で、戦争は忘れてはならない要因です。証券の起源は、中世後期のイタリア都市国家での国債の発行でしたが、次第に国債取引市場が形成されていきました。絶対主義王朝の下、国家対立が激化し、戦費調達は巨大化し、国債の発行は一層活発化しました。一説には、最初に長期国債を発行したのはフランス国王といわれています。しかし、国王の私的債務か国家債務かの区別があいまいで、デフォルトを宣言することも多々あったようです。

 正式の最初の国債は、イギリスがフランスとの戦費調達のために17世紀末に発行したものを指すべきかもしれません。「戦争と国債」「国家の過大債務とデフォルト」の関係はずっと続いています。証券取引所の設立は1611年のオランダ・アムステルダムに遡ります。

 世界最初の株式会社は、1602年設立のオランダ・東インド会社とされています。これらを契機に、株式会社が他の国にも広がり、新しい事業を興す時に便利なツールになっていきました。デリバティブの一種であるオプション取引が生まれるなど、証券取引所の開設とともに金融技術も進化していきます。当時の金融資本市場の中心地だったオランダは、史上初のバブルとなるチューリップ・バブルに見舞われ、その後次第に勢力を低下させました。バブルの歴史も長いということです。

オランダ、英国、米国へ 世界「金融覇権」の盛衰

 オランダに代わって頭角を表わしたのが英国です。新ジョナサンというロンドンシティのコーヒーショップのドアに株式取引所という表札がつけられ、正式な会員組織による取引所が誕生しました。ロンドン証券取引所が正式に発足したのは、その後の1802年です。

 ロンドン証券取引所は、債券や株式の取引の場として、英国の戦費調達や、産業革命によって急成長した鉄道や運河、鉱山事業を支えました。ロスチャイルドやベアリングといった主に大口顧客を相手にするマーチャントバンクの活躍により、英国は当時の金融資本市場の中心地として君臨しました。

 英国で始まった産業革命は1830年頃に米国へ伝わり、工業化を加速させました。これによって発展した製鉄や石炭などの産業は、より多額の資金を必要とし、CB(転換社債)やCP(コマーシャルペーパー)、ワラント債という新たな金融商品が生まれる原動力になりました。

 ところが、1914年に戦端が開かれた第一次世界大戦により、英国は多額の戦争債務と財政赤字という重荷を背負います。逆に、戦争による特需に沸いた米国は、英国に代わって金融資本市場のリーダーになりました。基軸通貨もポンドからドルに代わります。

 一方、専門性を重視するあまり、ロンドンの金融市場「シティ」は次第に閉鎖的になり、1970年代のサッチャー改革を迎えるまで、長期間、緩やかな衰退を続けます。

国家経営と不可分だった 米国金融の歴史

 さて、第一次大戦以来今日に至るまで、一世紀以上世界金融のリーダーであり続ける米国の歴史を見れば、連邦政府の成立自体が金融問題そのものだったことがわかります。18世紀末、アメリカ13諸州は英国から独立を勝ち取ったものの、中央政府は事実上存在せず、膨らんだ戦時債務の返済にめどが立ちませんでした。米国の信用は下落し、債券価格は大きく元本割れする状態でした。

 こうした国家的な危機を迎え、独立戦争の総司令官だったワシントン(初代大統領)と、その片腕ハミルトン(初代財務長官)が中心となって、実効ある「連邦政府」をつくり、米国の信用を確立し、兵士に対する年金などの戦時債務を弁済しようとしたのが、1788年に発効した合衆国憲法の背景です。

 各州の債務は連邦政府に移管され、連邦政府は独自の税収として確立された関税収入を債務返済に充てました。この歴史を振り返るならば、連邦政府がなく、独自の財源もない現在のEUでユーロ問題の解決が容易でないことも実感できるというものでしょう。

米国はアンシャンレジューム(古い体制)から逃れた人たちが建国したお国柄です。権力の集中を忌み嫌う政治的伝統があり、チェック・アンド・バランスの仕組みへの志向が根強く存在します。サブプライムローンという複雑かつ不完全な金融商品のチェックに不備があったのは、そのような事情で金融監督制度が分散化していた弊害が指摘されました。

 これを受け、世界金融危機後、監督機能に漏れがないようにし、また金融機関の破綻処理法の整備、店頭デリバティブ規制の強化などを定めたドッド・フランク法(金融規制改革法)が整備されることとなりましたが、規制が厳しくなりすぎることで経済の活性化が阻害されないか、という懸念も生じています。

イノベーションに向けて 日本の金融の歴史から何を学ぶか

 金融資本市場の発達の中で、日本はどうだったのでしょう。日本は世界に先駆け、1730年に大阪の堂島で米の先物取引を始めたことは、世界の金融史上でも特筆すべきことだと思います。

 しかし、鎖国のため、欧米に比べて日本の金融が出遅れたのも事実です。明治時代にバンクを「銀行」と訳したのは、銀が当時東アジアで共通の交換手段として通用していたためのようです。ちなみに「行」はお店の意味です。維新後の1870年に、ようやくロンドン市場でポンド建ての日本国債が初めて取引されました。ただし、当時の利率などは発展途上国の中でもあまりいいものではありませんでした。

 日本に取引所が生まれたのは1878年です。条例が制定され、東京と大阪に初の株式取引所が誕生しました。鉄道会社や海運会社、紡績会社などが相次いで上場を果たしますが、1906年に鉄道国有法が制定され、ほとんどの鉄道株は国に収用されます。渋沢栄一を始め、国有化には反対の意見も多かったようですが、結果として民営の鉄道株は消滅してしまいました。

 こうして見てくると、日本の金融市場の発達の遅さも、単に経済発展の後進性と言うことでは片づけられないものがあります。制度設計、特に規制の在り様によるところが大きいからです。同調的な投資行動が多く、米国市場の後追いになるとはよく指摘されますが、内外の金融の歴史に学べば、日本発の金融イノベーションも生まれるかもしれません。
(記事引用) 

発酵する「先っちょ」の社交不安障害マスク?
とても、proudプラウドな私~
本文の前に、私のメインブログ(他に4)に次の記事「社交不安障害マスク?」という現代病とも云うべき瑣末だが、ちょっとばかり見過ごせない社会現象臨床心理学的病理を、面白可笑しく書いてみた。その冒頭部分。 

題名「マスク依存症・社交不安障・害醜形恐怖症」
最近マスク姿の通勤客が多いと感じたが、実はそうした問題が人間の間に蔓延していたとは、ついぞ思わなかった。
通勤客としたが、無理やりそれに限定した訳ではないが、やはり比率としては電車の中の「スマホ一体型」として区分するには、統計的にそうなってしまう。
マスクして顔を隠して、それに依存する、というのはなんとなく気持ち的にわかるが、社交不安障や害醜形恐怖症となると、それはれっきとした「やまい」なのだろうか。
(2016年01月13日 05:36 blog.livedoor


その次の項目では--、 
「清志郎いないのが悔しい」坂本龍一、音楽と政治語る
2015年12月14日11時32朝日新聞
映画「母と暮せば」の音楽で、がん闘病から本格復帰を果たした坂本龍一

アメリカのアカデミー賞の前哨戦とされるゴールデングローブ賞の作曲賞にイタリアのエンニオ・モリコーネさんが選ばれ、ノミネートされていた音楽家、坂本龍一さんの3度目の受賞はなりませんでした。

科学と哲学の交差点。「発酵」を定義する 「発酵」とは何なのか?
HIRAKU OGURA|小倉ヒラク発酵デザイナー 2015.9.30  WED
近年、注目を集め続ける「発酵」。農業、医療、バイオエネルギーから環境浄化まで、さまざまな応用が期待される一方、未だ謎の多い「発酵」という存在そのものの魅力が多くの人の心を惹き付けている。新たな世界の姿を構想する。

そして最後の【お悩み】 先っちょだけでいいからお願い! されちゃったんですけど、この場合の「先っちょ」ってどこまでなんでしょう? 断ってしまったので未だに謎です。(まおまお 20代 女性) 「先っちょ」は永遠の謎。

これってホントそう。わかんないんですよね〜。わたくしもこれまでの人生で幾度となく「先っちょだけでいいからお願い」されました報告を伺ってはきたものの、その口説き(なの???、これで口説くってことでいいの???)で陥落したおともだちが未だかつていないので、謎のままなんですぅ。

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という、一見まったく脈絡のない題材を二つの別ページに載せた。 

坂本龍一のゴールデングローブ賞作曲賞落選については、映画「母と暮せば」の筋書きからして、被爆日本の記録映画であり、その戦争惨状は、いまの中東を彷彿とさせるし、それに賞を与えることは、やはり躊躇するだろう。

さらに次の「マスク依存症・社交不安障・害醜形恐怖症」では、最近マスク姿の通勤客が多いと感じたが、実はそうした問題が人間の間に蔓延していたとは、ついぞ思わなかった。通勤客としたが、無理やりそれに限定した訳ではないが、やはり比率としては電車の中の「スマホ一体型」として区分する。

があって、エピローグで 藤島佑雪さんの、最後の口説き文句「先っちょだけでいいから」をいわくありげ的に添えた。

この 「先っちょだけ~」の殺し文句が、他の3つの要素全部を包含しているんではないかと、感じたからである。

これは大問題であり、ひょっとすると日本人のアイデンティティーに関る問題だ。(なにバカいっているんだか、そうやって幇間ほうかん、タイコもちしてる場合でないなどと?)

正月七草もあけて、つかの間の三連休も消化して、いよいよ日常が開始した。ここ数年、正月の間も、このブログを書いているので、大型連休になると、きまって閲覧が落ちる。

それと田舎でも外を歩いていると、車の往来が激減する。それはカレンダー赤印休日と連動し、並行的に官庁街休日とリンクしている。それから類推すると、このブログを読んでいる客層は官庁系職と推定しているが統計調査したこともないので、まったく違っているかもしれない。

したがって朝からエロ話題は、提供したくないと思っていたが、この「先っちょだけ~」のフレーズが、とにかく日本的だし、ニホン人的な表現と信条、そしてさらにそこから、その云った本人の家庭の暮らしインフラまで垣間見える、表現として明言だと強調したい。

昨今、幼子の折檻虐待死が数をまして増えているが、そうしたことも、このフレーズに含まれているのではないかと、マゾヒテックな社会的心理に危惧している。

最後の、注目を集め続ける「発酵」。農業、医療、バイオエネルギーから環境浄化まで、さまざまな応用が期待。

その酵母の話題。酒の元、麹菌と酵母という微生物の共同作業「発酵」によって酒は造られる。その醗酵促進するには酵母が米本体に食い込み進入する生物学的メカニズムは、まさに本能的であり、その先端は「先っちょ」から入るのである。

最後の口説き文句「先っちょだけでいいから」の効用は——現役銀座ホステスが答える、ちょっとHなお悩み相談室【127】
Author: 藤島佑雪
ちょっと情けない口説き文句だが、この「先っちょ」とは、どこまでを指すのか? 現役銀座ホステスは、このセリフの効用に着目する。

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文: 藤島佑雪
本コーナー『ちょっと言ってみ?』は私、銀座でホステスを務めております藤島佑雪が読者の皆様よりお悩み相談を受け付け、私なりにお答えするというコーナーです。ウェブ上ではありますが、クラブでお客様とお話しするように、皆様とやりとりさせていただければ、と思っております。

深刻なお悩みはもちろんのこと、誰にも聞くに聞けない小さなお悩み、そして、男性ならではのムフフ!なお悩み、自由にぶつけてみてください。ほの暗い照明の下、お酒が入ったつもりで、どうぞ。

 【お悩み】

先っちょだけでいいからお願い! されちゃったんですけど、この場合の「先っちょ」ってどこまでなんでしょう? 断ってしまったので未だに謎です。

(まおまお 20代 女性)

「先っちょ」は永遠の謎。

これってホントそう。わかんないんですよね〜。わたくしもこれまでの人生で幾度となく「先っちょだけでいいからお願い」されました報告を伺ってはきたものの、その口説き(なの???、これで口説くってことでいいの???)で陥落したおともだちが未だかつていないので、謎のままなんですぅ。

ただ、それなりに普遍的な謎ではあるのでちょいちょい議題に上げて話し合ってきてはおります。

A:先っちょだけ入れていったいどうするつもりなのかしら?

B:いや〜そもそもどのへんまでのことを言ってるわけ??

A:そもそも、ちょっと押したら全部入っちゃいそうじゃない??

B:先っちょだけで止まれるって、相当な精神力と技術力が必要かもね。

A:でもさ、まったく見向きもされない男が「先っちょだけ」って言ってくるのはまだわかるのよ。でも、多少はいいと思うからキスまで許したのに、そこで「先っちょ」とか言われちゃうとね〜。

B:その男、戦い放棄しちゃってるよね〜。

A:そうなの! 「先っちょだけでいいから」なんて言われてOKする女がいると思うのかしらっ。

B:言われた瞬間、萎えるよね〜。

A:うんうん。ヤル気なくす〜。

てな感じで、先っちょがどこからどこまでを指すかはわからずとも、そのフレーズを口走った瞬間、すべての可能性がなくなることだけは確かなんですよね。明らかな戦略ミス。いい軍師をつけてください。
なので、永遠の謎でいいんです、「先っちょ」なんてものは。

藤島佑雪 ふじしま ゆうせつ
銀座の老舗で働くホステス。『GQ JAPAN』にてSEXコラム『黒ぉ~い革の手帳』を連載するなど、雑誌やウェブなどで原稿も執筆している。
藤島佑雪 (@ginzanoyousetsu) | Twitter https://twitter.com/ginzanoyousetsu

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発酵は「人間だけの世界観」を越えた新しい関係性をぼくたちに見せてくれる
HIRAKU OGURA|小倉ヒラク発酵デザイナー 2015.9.30  WED
近年、注目を集め続ける「発酵」。農業、医療、バイオエネルギーから環境浄化まで、さまざまな応用が期待される一方、未だ謎の多い「発酵」という存在そのものの魅力が多くの人の心を惹き付けている。アートディレクターとしての仕事の傍らで発酵を学び、現在は自身を「発酵デザイナー」と称して活躍する小倉ヒラクは、発酵から生まれる新たな世界の姿を構想する。

科学と哲学の交差点。「発酵」を定義する

「発酵」とは何なのか?

これを説明するには、ちょっと回り道ですが地球の物質循環の話から始める必要があります。地球上では日々膨大な生物が生まれていますが、なぜこの惑星は生物の死骸で埋まってしまわないのでしょうか?

その大きな理由として、「微生物」という分解者の存在があります。

微生物は生物の体を構成する有機物を細かく分解し、水や土や大気に還元していく。そして、その水や土からまた生き物が生まれてくる。「細かな分子が集まって生命となる」、「集まった分子が分解され還元される」というダイナミズムがこの地球の生命サイクルであり、その鍵を握るのが「微生物」なのです。

このように、地球上の大半の物質は微生物によって分解されていくわけなのですが、ここでいう「分解」とは一体何を指すのでしょうか。それは、「大きな分子構造を細かく組み替え、小さな物質にしていく」ということです。たとえば1万円札を1,000円札にしたり硬貨にしたりするような、いわば「両替え機能」のような役割だと思ってください。

「発酵」は客観的な「現象」ではなく、あくまで人間主観の「概念」なのです。
さあ、ここで「発酵」の説明をできる準備が整いました。大きなお金を小さくして、使いやすくしてくれるのが「発酵」です。逆に、両替したはずのお金が、いつの間にかニセ札や不良債権になってしまうのが「腐敗」です。

地球上にいる無数の微生物たちが、分子を組み替えて様々な物質を生産しています。そのなかで、時たま「人間にとても役に立つ物質」を生産してくれるヤツらがいるのです。これが「発酵菌」です。と、同時に「人間に害をもたらす物質」を生産するヤツらもいて、これが「腐敗菌」や「病原菌」と呼ばれるものです。

「発酵」とは、地球上で発生する微生物の還元作用のなかから、人間に役に立つものだけをピックアップして応用する技術であり、文化です。

「発酵」は客観的な「現象」ではなく、あくまで人間主観の「概念」なのです。唯物論ではなく、唯心論。わたしの役に立つから、わたしはそれを発酵と呼ぶ。そういう意味で、発酵は生命工学という「サイエンス」であると同時に、人間という存在をめぐる「フィロソフィー」でもあるのです。

微生物と人間の取引。「発酵」を分解する

さあ、それではさらに奥へと進みましょう。

発酵食品の代表格、ヨーグルトの発酵作用を解説します。

ヨーグルトの化学式。
一番左の「グルコース」とは、牛乳に含まれる糖のこと。これに乳酸菌というバクテリアが取りついたときにできるのが、真ん中の「乳酸」という、弱酸性の酸っぱくて爽やかな酸と、ATP(アデノシン三リン酸)と呼ばれるもの。このATPは「乳酸菌が子孫を残すための元気の源」になっています。

「サイエンス」としてはここで解説終了なのですが、この発酵の道筋を「フィロソフィー」として読み解いてみましょう。乳酸菌というバクテリアの視点からすると、この「乳酸」というのは「ゴミ」であり、代わりにATPが「欲しいもの」となります。乳酸菌たちが活動して、子孫を増やしていく元気を得るために、グルコースというご飯を食べて、乳酸という排泄物を出すわけです。

地球の物質循環という「巨大なマーケット」のなかで、人間と乳酸菌が「取引」をするわけです。
さて今度は人間の視点。乳酸菌にとってゴミである乳酸は、人間にとってはおいしいものなんです。微生物にとっての「ゴミ」が、人間にとっては「宝物」になる。

これが「発酵」の要諦です。地球の物質循環という「巨大なマーケット」のなかで、人間と乳酸菌が「取引」をするわけです。人間は乳酸菌のために牛乳のプールを用意する。乳酸菌はそこで乳酸を生産する。その結果が「ヨーグルト」という発酵食品として結実する。

この市場のなかでは、人間以外の生き物もいっぱい取引をしているわけですが、とにかく人間が関与しているもののみを、ぼくたちは「発酵」と呼んでいるのです。

ミクロの錬金術。「発酵」を応用する

現在、地球上では約120個の原子が確認されています。そのうち生物圏のなかで安定して存在しているのが約30個。さらにぼくたちの日常生活で頻繁に登場する原子の数はさらに少ない。つまり、生命の循環は限られた数の原子が無限のヴァリエーションで結合したり、分解したりして成り立っていると言えます。

ぼくたちがご飯を食べたり、走ってカロリーを燃焼したり、ヤカンでお湯を沸かしたり、タービンを回してエネルギーをつくったりしているのは、つまりこの「原子の組み合わせ」をあれこれいじくっているということ。

この原子の組み換えにおいて、「発酵」は無限の可能性を秘めています。

ここで未来に実現しそうなテクノロジーをいくつか挙げておきましょう。

(1)農業イノヴェイション

食料生産において、いま世界は大きな矛盾を抱えています。農薬を使った慣行農法では土壌が荒廃して持続可能性に問題がある。一方、有機農法では安定した生産ができず、結局先進国の富裕層にしか食料が行きわたらない。そんなジレンマも、微生物の力が解決してくれそうです。

いまぼくの手元には『農家が教える微生物パワー』〈農文協〉という本があります。ここには、農家のおじちゃん・おばちゃんたちが乳酸菌や酵母、納豆など身近にある発酵菌をフル活用した結果、土壌改良や作物の病害予防、生産量の安定などを図るものすごい量のトライアルが掲載されていて、この人たちを海の外に解き放ったら、世界中の食料生産の問題を解決してしまうのではないかとさえ思います。

大量の作物を収穫すると、土壌の栄養素が枯れて連作障害が起きてしまうのですが、土中に菌を繁殖させたり、水を張ることで微生物や小動物を呼び、土壌の栄養素を豊かにすることができます。

これらを分解して考えてみると、土の中から出ていった窒素(N)や炭素(C)をいかに呼び戻すかというトライアルを「発酵」によって行う、ということが農業における鍵になりそうです。

(2)エネルギーイノヴェイション

発酵博士の第一人者、小泉武夫先生の『菌が地球を救う』〈宝島新書〉のなかには、藻類の微生物を使うことで、水素(H)を分離させて車などの動力をつくることができる可能性が提唱されています。

つまり、ガスや放射性物質を燃やしてタービンを回すのではなく、微生物の分解作用によってエネルギー元素を取り出す、という発想です。無限に湧いて出てくる生物を資源とするため枯渇の心配がなく、かつ大量の二酸化炭素や放射能も出ないため環境負荷も少ないという、一石何鳥にもなるアクロバット。エネルギー業界のエグゼクティヴの皆さまには是非その可能性を検討してもらいたいところです。ちなみにエクゼクティヴの皆さまが嗜むシャンパンの炭酸も、酵母菌の排出するオナラ=二酸化炭素(CO2)でできています。

欲しいものを排出してくれるような環境をつくれば、微生物がトランスフォームしてくれるのです。
(3)医療イノヴェイション

最近はオシャレ女子のあいだで「菌活」なるものが注目されています。これは発酵食品を体内に取り込むことで、腸内の消化・免疫作用をコントロールしようというトライアルです。人間の腸内には何兆匹という微生物が住んでいるのですが、食習慣の改善によって、この腸内の微生物の働きを「発酵」という有用な方向にもっていこうとするもの。

現代人の不安のタネ、ガンや免疫疾患に由来する病気にも「発酵」が力を発揮します。発酵菌は自らを繁殖させるために酵素を出してほかの菌をやっつけます。その作用を応用して、病気をもたらすウイルスなどから身を守ることができるのです。

人間の生体活動の防衛線となる「消化」と「免疫」を、微生物の力によって強化していくという試みは、すでに微生物学のトレンドになりつつあります。

参考:『麹(ものと人間の文化史)』一島英治〈法政大学出版局〉
なぜこのような多様なイノヴェイョンが可能になるのでしょうか。それは、微生物が「無限」かつ「変幻自在」だからなのです。

この地球上には膨大な種類の微生物がいます。摂氏100℃以上の灼熱地帯にも、南極や北極のような極寒地帯にも、火山口のなかにもタフなヤツらがいます。そこで、考えられないような物質をエサにして、考えられないような分解作用を起こしている。しかも、そいつらは環境が変わると代謝活動を変化させる。

これはつまり、どんな物質でも微生物によって取り出せる、ということ。地球上のどこかに、人間の欲しいものを排出してくれる奇特な菌がいるはずなのです。あるいは、欲しいものを排出してくれるような環境をつくれば、微生物がトランスフォームしてくれるのです。

人間観の拡張。「発酵」を哲学する

さてここで、発酵デザイナーはひとつの問いを提出します。「発酵」とは、人間の世界観を根底から変える概念なのではないのだろうか、と。

ぼくの体内には、宇宙にある銀河ほどの数の小さな生命が宿っています。そしてぼくがぼくという個体として生きていくためには、体内、あるいは体外の無数の微生物たちの力を借りる必要があり、さらに、今後人類が未来にサヴァイヴしていくためには、知恵と技術を結集させて、微生物たちとの取引を発展させていく必要もあるでしょう。

その時、人間が何かを問う哲学は微生物抜きには考えられなくなり、経済学や環境工学や医学もまた微生物の存在によってアップデートされる。見えない生命が、人間という世界観のなかにインストールされるのです。

現状では、「発酵」は実学的なテクノロジーとして機能していますが、その概念が広く普及していった先には、思想的なインスピレーションをさまざまな領域にもたらしていくことでしょう。少なくとも、ぼくの周りではすでにそれは起き始めています。

発酵は「サイエンス」であり「フィロソフィー」である。発酵は「人間だけの世界観」を越えた新しい関係性をぼくたちに見せてくれる。その先に待っているのは、たくさんの不思議に満ちた豊穣な世界なのです。
(記事引用) 

Wi-Fiの100倍速いという「Li-Fi」とは?
wired 2016.1.8 FRI
Wi-Fiよりも100倍以上速いLi-Fiは、光を用いてデータを送信する。数年前に発明され、現在エストニアで実験が行われている最中だ。

数年前から話題になっているが、可視光を利用するLi-Fiは、Wi-Fiより100倍以上速い通信で、いま、エストニアのタリンのいくつかのオフィスで実験が行われている。
Li-Fiは、400〜800テラヘルツの可視光を利用してバイナリコードを通じてメッセージを送信し、1秒で1.5GBの映画を18本ダウンロードすることができる。エディンバラ大学のハラルド・ハースが2011年にこれを発明した。そして現在、この実験は、大いに期待を抱かせるものとなっている。

関連記事:Li-Fiのポテンシャルは?(動画も)

「わたしたちに必要なのは、マイクロチップをありとあらゆる照明器具の中に挿入することだけでしょう。そしてこのことにより、2つの機能を組み合わせることができるでしょう。照明とワイヤレス・データ通信です」と、ハースは『Science Alert』に語った。
潜在的には、Li-Fiはより多くの理由によって、転換点となるかもしれない。まず何より、セキュリティの観点で。というのも、データのやり取りが行われる光のスペクトルの外では混線を起こさないからだ。
さらに、エネルギー節約と、使い勝手の観点からもだ。Wi-Fiが許可されない環境(病院や飛行機)において、干渉の問題に対処することができるだろう。
「電波は弱く、コストがかかり、使えるスペクトルが限られています」と、ハースはTEDカンファレンスで語った。「わたしたちの持っている140億(以上)の電灯が、ワイヤレス通信の送受信機にもなれば、どんなことが起こるでしょうか?」


ネットを使わず「LED照明の点滅」で動画を配信するテクノロジー
2015.10.4 SUN

光の点滅で通信を行う「Li-Fi」技術を使って、ネットに接続せずに動画をノートパソコンにストリーミングするデモが行われた。研究チームは2、3年以内にこの技術の商用化を目指している。
ネットを使わず「LED照明の点滅」で動画を配信するテクノロジー(動画あり)
光の点滅で通信を行う「Li-Fi」技術を使って、ネットに接続せずに動画をノートパソコンにストリーミングするデモが行われた。研究チームは2、3年以内にこの技術の商用化を目指している。
Q: ネットに接続していないノートパソコンで映画をストリーミング再生するには、どうすればよいのだろうか。
A: 映画のデータを、標準的なLEDランプで送信可能な光パルスに変換する。(中略)家庭用のソーラーパネルでその信号を受信し、動画に戻してやればよい。
エディンバラ大学の教授が、本人いわく史上初の「Light-Enabled Wi-Fi」(Li-Fi)の公開デモンストレーションを行い、LEDランプのみを使用して、無線で動画をストリーミングする様子を披露した。
ロンドンにある英国王立科学研究所のファラデー講堂(マイケル・ファラデーが電磁気のデモンストレーションを初めて行った場所だ)で、LEDベースのブロードバンドのデモを行ったのは、エディンバラ大学工学部教授のハラルド・ハースだ。ハース氏によれば、Li-Fiは近いうちにWi-Fiに代わる有力な選択肢になるという。
ハース氏は、標準的なLEDランプで動画を光の点滅に変えて送信し、家庭用のソーラーパネルでその点滅する光を受信するという方法で、ネットにつなげられていないノートパソコンのディスプレイに、流れる雲の映像を映し出した。
ハース氏によれば、この光の信号は「1秒間に最大50MBの速度で送信」することが可能で(この速度は、ほとんどの家庭にあるブロードバンド回線を上回る)、現在インターネットを使えない地域にインターネット接続環境を提供できるようになるという。ハース氏は「2、3年のうちにこのシステムを商品化したいと考えている」と、Li-Fi技術のデモを行った「TED Salon」の聴衆の前で語った。
参考記事:アノニマスが開発。インターネットなしでデータ通信を行える無線「AirChat」
UK版『WIRED』は、ハース教授の取り組みを特集した記事を2012年2月に公開しているが、その記事には次のような説明がある。「(ハース教授の発見は)可視光通信(VLC)と呼ばれる光技術のサブセットがベースとなっている。VLCは人間の知覚を利用するもので、人の目では認識できない速さで発光ダイオードのスイッチを入れたり切ったりできるため、光源が点灯し続けているように見える。このオンとオフのすばやい切り替えが、バイナリ・コードを使用したデータの送信を可能にするのだ。つまり、LEDのスイッチがオンのときは『1』、スイッチがオフのときは『0』になる」
ハース氏は、自身のチームの研究を商用化するために、pureLiFiという名前の会社を共同で設立し、CSO(最高科学責任者)を務めている(日本語版記事)。
pureLiFi社は、2015年1月に150万ポンド(約3億円)の資金を調達したことを発表しており、その評価額は1,400万ポンド(約21億円)だとされている。資金を提供したのは、London & Scottish Investment Partners社、Scottish Investment Bank社、およびOld College Capital社だ。

※以下は、2011年のTEDでハース教授が行ったLi-Fiのデモ。日本語字幕付き動画は
こちら


新渡戸稲造の『武士道』について、林田明大の「夢酔独言」
 このブログは、一人の作家兼陽明学研究家として日々その体得に努めるプロセスを言葉にすることで、「良知」、ルドルフ・シュタイナーいうところの「高次の人間(内なる本性)」の自覚を深めようとするものである。
 あるいは、言葉にする、言い換えれば排泄することで、それらへのこだわりを無くすことを目指しているといってもいいかもしれない。
林田明大 2011年06月27日
●世界的名著『武士道』の現代語訳に問題あり!
■岬龍一郎・訳『武士道』は、残念ながら問題おおありであった

 このところ、ちょっと気になっていたのが新渡戸稲造の『武士道』である。
 これまでは、事あるごとに、奈良本辰也訳・解説の『武士道』(三笠書房)をずっと手にしてきたのだが、やはり訳がかたいのは気になっていたので、ためしに岬龍一郎・訳『武士道』(PHP文庫)を入手して、ざっとだが、目を通させていただいたのである。
 陽明学に関する個所に関してだが、気になる表現が目にとまった。
 そこで、『武士道』は、もともと英語で書かれたものなので、原文に当たろうと思い、英語版を入手して読んでみたのである。
 結果、岬龍一郎・訳『武士道』は、残念ながら問題おおありであった。
 ちょっと期待していただけに、落胆は大きかった(苦笑)。
 岬龍一郎・訳『武士道』の32ページ冒頭には、こうある。
「武士道は、知識を重んじるものではない。重んずるものは行動である」
 そこは、「武士道は、そのような種類のたんなる知識を軽んじた」
 という訳でなければならないはずなのだ。
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 また、岬龍一郎・訳『武士道』の32ページのほぼ真ん中に「武士道におけるあらゆる知識は、人生における具体的な日々の行動と合致しなければならないものと考えられた。このソクラテス的教義は、中国の思想家・王陽明が最大の擁護者となり、彼は知識と行動とを一致させるという意味の〈知行合一〉なる言葉を生み出した」 

 とあるが、そこは、英文を読んでみると、「それゆえに、知識は、人生における実地への応用そのものであると理解された。このようなソクラテス的な教義の最大の説明者は、〔東洋においては〕飽きることなく、知と行は同一物であると〔いう意味の「知行合一」を〕唱えた中国の哲学者・王陽明である」と訳されなければならないはずなのだ。
 何が問題なのかといえば、岬龍一郎氏は、「知行合一」を「知識と行動とを一致させる」という意味に理解していることにある。

 それも、英語の原文は、
「To know and to act are one and the same.」
 とあり、つまり
「知と行は同一物である」
 とは書いてあるのだが、
「知識と行動とを一致させる」
 とは書いていないのだ。
 「知行合一」は、「言行一致」を意味しているのではない、と、これまで私も口を酸っぱくして言い続けて長いのだが、今後も、まだ同じことを言い続けなければならないようである(苦笑)。
 「知行合一」の真の理解に関しては、拙著を一読下されたし。

 
 以下、参考までに、上記個所を含む部分を訳させて頂いた。
 文中にハクスレーとあるが、これまた悲しいことに、今回、私が英文を参照させていただいた須知徳平・訳『武士道』(講談社インターナショナル)では、イギリスの文学者オルダス・ハクスリーと間違えているのである。

「孔子孟子の書物は、〔学問に志す〕青少年の第一の教科書であり、また、大人たちが議論し合う場合の最高の権威となるものであった。
 しかしながら、この二聖人が著わした古典を読み、その言葉を知っているだけの者は、世間から高い敬意は払われず、
〈論語読みの論語知らず〉
 ということわざがあるくらいで、そのような者はかえってあざけられた。
 典型的な一人の武士(西郷南洲)は、
〈文学の物知りは、書物の虫である〉
 と言い、またある人(江戸時代の学者・三浦梅園)は、
〈学問は臭い菜のようなものである。よくよくその臭みを洗い落さなければ食べることはできない。少し書物を読めば、少し臭くなり、よけい読めば、よけい臭くなる。困ったものである〉
 と言った。
 その意味するところは、知識がもし、それを学ぶ者の心に同化せず、その者の品性に表れることがないならば、本当の知識とはいえない、ということである。だから、たんに知識だけの人間は、それ専門の機械と同じだと思われた。知性は、道徳的な感情の下位におかれた。人間も宇宙も、霊的であり道徳的であると考えられた。
 それゆえに、
〈宇宙の運行と道徳とは関係がない〉
 と断言した〔イギリスの生物学者トマス・ヘンリー・〕ハクスレーを、武士道は認めることができなかったのである。
 武士道は、そのような種類のたんなる知識を軽んじた。知識は、目的ではなく、智恵を獲得するための手段である、とした。したがって、その域に到達できない者は、他人の求めに応じて、詩歌や格言を提供するだけの便利な機械にすぎないとされた。
 それゆえに、知識は、人生における実地への応用そのものであると理解された。このようなソクラテス的な教義の最大の説明者は、〔東洋においては〕飽きることなく、知と行は同一物であると〔いう意味の「知行合一」を〕唱えた中国の哲学者・王陽明である。
 
 ここで余談にはいることをお許しいただきたいのは、人格高潔な武士の中で、王陽明の教えから深い感化をうけた者は少なくないからである。
 西洋の読者は、王陽明の著書のなかに『新訳聖書』とよく似ている言葉の数々を、容易に見いだすことであろう。
 それぞれに固有な用語の相違にもかかわらず、
〈まず神の国と神の義を求めよ。そうすればすべてこれらのものは、汝らに加えられるであろう〉
 という言葉は、王陽明の書の中のどのページにも見ることができる思想である」(「第二章 武士道の淵源」)

陽明学(ようめいがく)は、中国の明代に、王陽明がおこした儒教の一派で、孟子の性善説の系譜に連なる。陽明学という呼び名は日本で明治以降広まったもので、それ以前は王学といっていた。また漢唐の訓詁学や清の考証学との違いを鮮明にするときは、宋明理学と呼び、同じ理学でも朱子学と区別する際には心学あるいは明学、陸王学ともいう。英語圏では朱子学とともに‘Neo-Confucianism’(新儒学)に分類される。形骸化した朱子学の批判から出発し、時代に適応した実践倫理を説いた。心即理・知行合一・致良知の説を主要な思想とする。
(記事引用)

恒例年末神保・宮台トークライブ・社会を回していくために今、必要なこと
2015年は日本の歴史上、どのような意味を持つことになるのだろうか。
 この年、マル激でも安保法制をはじめ、多くの問題を取り上げてきた。中には答えが簡単に見つからない難しい問題もあったが、大抵の問題は時間をかけて解き明かせば、なぜそのような問題が起きているのかや、どこに問題があり、何をすれば問題の解決が可能になるのかを理解することが可能なものが多かった。

 しかし、その一方で、すべての問題に共通したより大きな問題があることも、わかってきた。問題の所在やその原因、そして処方箋はわかっても、実際にそれを実現するための「経路」が一向に見えてこないのだ。

 今年最後となるマル激では、年末恒例となった新宿ロフト・プラスワンで行われたライブイベントの中で、この「経路」問題を考えた。

 第二次大戦後の世界は、戦争の荒廃から立ち直るためには政府が積極的な役割を果たさざるを得ない状況にあったため、財政面でも産業政策面でも政府主導による経済政策が実施され、それが西側諸国に目覚ましい経済発展をもたらした。戦争で国土が焼野原と化した日本も見事な復興を果たした。その過程で西側の先進国には「分厚い中間層」と呼ばれる、豊かな中流市民社会が形成された。

 「分厚い中間層」の存在は、民主主義が機能する上でも大きな役割を果たした。基本的な衣食住が満たされ、将来の不安からも解放された中間層は、民主主義を機能させることに熱心だった。民主主義こそが、自分たちの豊かさの原動力になっていることを知っていたからだ。

 しかし、それは長い人類の歴史の中では、特殊な時代でもあった。特殊な時代はいつまでも続かない。1970年代に入り、肥大化した政府を財政的に支えることが次第に困難になる中、1980年に米英で始まったレーガン・サッチャー政権による新自由主義が世界を覆うようになる。新自由主義への政策転換は財政出動を抑えた小さな政府と規制緩和、そして市場原理の導入が主眼だった。

 これまで分厚い中間層を守る役割を果たしてきた政府の公共支出や数々の規制が撤廃され、市場原理が導入された結果、一握りの富裕層が登場する中で、中間層の多くが貧困層へと転落した。社会は少数の富裕層と多数の貧困層に分断され、分厚く豊かな中間層は過去のものとなった。

 戦後の民主主義が機能する上での原動力だった分厚い中間層が失われた今、これまでと同じようなやり方でやっていたのでは、民主主義を機能させることは難しい。しかし、われわれの多くはなかなかそれに気づくことができなかった。

 アダム・スミスは、市場経済における神の見えざる手は、人々が道徳心による同感力を備えている場合に限って有効に機能すると説いた。これは裏を返せば人々が基本的な倫理観を取り戻さない限り、市場は正常に機能しないことを指摘していると解される。市場原理が機能するためには前提条件がある。それが未整備のままいたずらに市場原理が導入されれば、弊害が大きくなる。市場原理を導入する以上、前提条件が未整備なのであれば、人為的に整備されなければならない。

 民主主義においてもそれが有効に機能するためには前提条件がある。戦後の時代は、たまたま労せずしてその条件が整っていたため、人々は専ら民主主義を実践することに力を傾注することが許された。しかし、その前提条件が崩れた今、単に民主主義を要求するだけでは不十分だ。その前提条件の整備に力を注ぎ、そのための政策を求めていかなければならない。

 近年、顕著になってきた報道に対する政府の介入も、わかりやすい事例と言えるだろう。戦後、報道機関は労せずして言論の自由、報道の自由を享受することができた。日本国憲法とそれを支える分厚い中間層が、報道の自由は何があっても守らなければならないものと考えていたからだ。メディアにとってはその前提条件が自然に整っていた特殊な、そして恵まれた時代だった。

 ところが報道機関の多くはその「恵まれた時代」の上に胡坐をかくようになり、結果的に政治や経済権力との間の緊張感を失い、権力と癒着することを何とも思わなくなってしまった。大手報道機関のみに与えられた記者クラブや再販価格維持制度、クロスオーナーシップなどの特権は、メディア企業に空前の経済的繁栄をもたらしたが、それがここにきてメディアにとってのアキレス腱になっている。民主主義の防波堤の役割を果たしてきた中間層が解体され、権力が報道に対する牙をむき出しにしてきた時、当の報道機関側にそれを跳ね返すだけの抵抗力も気概も備わっていなかったことを、われわれは今、日夜目の当たりにしているのではないか。

 報道の自由が正常に機能するためには、平時からその備えをしておかなければならない。平時に政府とべったりの関係になっておいて、いざ政府が言論介入してきた時に慌てて文句を言っても、リバイアサンの力を跳ね返せるはずがない。これまで自動的にその防波堤になっていた分厚い中間層はもはや存在しないのだ。

 では、期せずしてこれまで分厚い中間層が果たしてきた民主主義の前提条件の整備機能を、今後われわれはどう代替していけばいいのか。どうすれば民主主義が本来の機能を回復し、問題を解決するための「経路」を見つけることができるようになるのか。恒例となった年末マル激ライブでは、民主主義を実現するための前提をいかに回復させるかについて、神保哲生と宮台真司が議論した。
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みんなまとめて、面倒みよう – Je m'occupe de tout en bloc
内田樹の研究室 内田樹 2016年01月05日 16:56
今は移行期です。地殻変動的な移行期の混乱の中にある。グローバル資本主義はもう限界に来ています。右肩上がりの成長はもう無理です。収奪できる植民地も第三世界ももうないからです。投資すべき先がない。だから、自国民を収奪の対象とするようになった。貧者から吸い上げたものを富裕層に付け替え、あたかも成長しているかのような幻想を見せているだけです。

若い人の賃金は下がる一方で、法人税を下げ、株の配当が増やしている。ぼくのまわりでも、株をやっている人とやっていない人では、安倍政権に対する評価が正反対です。株をやっている人からすれば、本来なら社会福祉や教育や医療に使うべき税金を株の配当金に充ててもらっているわけですから、こんなありがたい政権はない。

左右を問わずメディアは「経済成長せねばならない」ということを前提にしています。大量生産・大量流通・大量廃棄のサイクルを高速度で回すことで経済成長するのが良いことだと素朴に信じている。でも、ぼくはそれは違うと思う。21世紀の日本は人口減という「成長がありえない経済史的段階」に達しています。その状況において、なお成長の幻想を見せようとしたら、今の政権がしているように、国民の過半を窮乏化させ、国民資源を使い果たすしか手がない。
今はいったんブレーキを踏むべきときです。成長なき世界でどうやって生き延びてゆくのか、人口が減り、超高齢化する日本にどういう国家戦略があり得るのか、それを衆知を集めて考えるべきときです。

世界各地でいま左翼のバックラッシュ(揺れ戻し)が起きています。米国大統領選で民主党の指名争いでは、社会主義者を名乗るバーニー・サンダースがヒラリー・クリントンを急追しています。英国では左派のジェレミー・コービンが労働党党首になり、民間企業の再国有化や学費の無償化を提言している。カナダではリベラルのジャスティン・トルドーが成長よりも国民の宥和を重んじる国家ヴィジョンを提示しました。いずれも、どうやって成長させるかより、限りある資源をどう国民に公正に分配していくかを優先的な政治課題にしている。社会的な関心が「成長」から「フェアな分配」に移りつつあるということを映し出しています。

昨年夏の国会前デモでぼくが見たのは、国会内では「システムを今すぐ根本から変えなければ大変なことになる」と叫びたてるおじさんたちが暴走し、国会外では若者たちが雨に濡れながら「憲法を守れ、立憲デモクラシーを守れ」とそれをたしなめているという不思議な構図でした。これは日本政治史上初めてのものです。
かつての過激派学生たちは社会の根本的改革を望み、いまの若者たちは足を止めて熟慮することを求めている。それは裏返しから見れば、「後先考えずに、目先の変化を求める」という大人たちのみぶりそのものが惰性化し、体制化し、化石化しているということです。若者たちは「暴走」が常態化した体制に対して「熟慮」を対抗させるというかたちで「変化」を求めているのです。

変化そのものは生物の自然です。変化しない生物はいない。でも、今の社会に取り憑いている「グローバル資本主義環境に最適化するためにすべてを犠牲にしなければならない」というのはイデオロギーです。その固定観念がすでに社会の健全な発展を阻害している。「所与の環境に適応しなければならない」という焦燥が、結果的に人間の生きる力を損ない、生物として弱いものにしてしまう。そういうこともあるのです。まさに、今がそうなのです。政権の「暴走」は環境的与件に促されて自然に起きている「変化」ではなく、硬直したイデオロギーに駆動されたある種の「病」です。
安保法制に反対した市民たちは「あなたがたのしていることは変化ではなく、暴走である。イデオロギーに凝り固まった脳内が生み出した幻想である。等身大の判断に戻れ、生身に還れ」ということを言おうとしていたのだと思います。

民主主義というのは実は危険な仕組みです。一時的な激情に駆られて暴走しやすい。現に、20世紀の独裁政権の多くは、ドイツでもイタリアでもフランスでも、民主的な手続きを経て合法的に成立しました。だから、一時的な大衆的熱狂で議席を占有した政党が国の根幹に関わる制度や原理を簡単に変えることができないように、憲法があり、三権分立があり、両院制があり、内閣法制局があり、メディアによる監視があった。けれども、小泉政権以来、そうした行政府の暴走を阻止するための「ブレーキ」に当たる装置がひとつずつ解除されている。

いまの議会の機能不全には明らかにメディアも加担しました。衆院と参院が『ねじれ』ているのは両院制の本義からすればむしろ望ましい事態なのに、それでは法律がスピーディに決まらないから、両院の政党比率は揃った方いいという主張が社説にまで掲げられた。けれども、もし衆院で決まったことがただちに参院でも通過するのが『効率的』だというのなら、そもそも参院は要らないということになる。そして、その理屈でゆけば、長い時間かけて国会で審議しても最後には与党が強行採決するなら、野党がいるだけ非効率だということになる。それなら野党は要らない。いや、法律は行政府が起案するのだから、そもそも国会審議自体が時間の無駄なのだということになる。「ねじれ国会」を悪とみなすのなら、独裁制までは論理的には一本道なんです。

でも、歴史には必ず補正力が働きます。ある方向に極端に針が振れたあとは、逆方向に補正の力が働き、歴史はジグザグに進む。いまは針が極端に行き過ぎた後の補正段階に入っている。世界的なスケールでの「左翼のバックラッシュ」も、日本に見られた「暴走する老人とそれを制止する若者たち」という逆説的な構図もその徴候だとぼくは見ています。
(記事引用)
 

「Galapagos Japas」(ガラパゴス ジャパス)「という視点に立ち己を問う
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いま政治でも経済世界でも「民主主義」の根本原理を再度認識する必要に迫られている。「民主主義」の根源はギリシアにあり、紀元前の哲学思想を明治維新より、たかだか150年という時間で、それを学び取るという方が無理である。

クールジャパンと称して日本的なものを海外にnhkテレビでアピールしている。その殆どは「歌舞伎」に代表されるように江戸時代以前より継承されている伝統芸能や、それらを底辺で支えている技術集団職人世界の芸であったりする。
今日、我々の生活様式は明治維新以来、アジア様式から西洋式に転化した。下手をすると頭脳の中身まで西洋(ギリシア)文明に支配されてしまったのかも知れない。

昨年、東京上野の国立博物館で古代エジプト展を見た。古代エジプトについては、テレビで詳細に放送するので、改めて現地までいって(エジプトでなく上野)観ることもないが、秘蔵品(埋蔵)などの金細工など目の当たりにすると、そのミクロ的装飾技法を観察すると驚きを越して唖然とするばかり。なにしろ電子顕微鏡を見て細工しているのではないか、というほど小さな超絶技巧を凝らしている。とてもそれが5000年前のものだと思うことが難しい。
そうした観点で、現代工芸美術を較べてみると、それを凌駕しているかと問えば、けっしてそんなことはない。よもやコンピーターは創造していないにしても、それらに匹敵する。
よく云われることだが、細かい工芸品など西洋人よりもむしろ日本人の方が上だ、というのは完全に誤りで、現代社会で流通しているすべての生活用品は、西洋発祥の物が殆どで、その完成度も高い。日本人は、そうした物理的なメカニズムを観察する能力に長け、原本以上のものを作って今日の経済国家を作り上げた。それを卑下的表現で云えば猿真似ということになる。

したがって猿真似の熟思度が高いほど、もの作りが旨いことになる。それが今日の中国だった。

「Galapagos Japas」(ガラパゴス ジャパス)」という視点に立ち己を問う

では、抜かれてしまった猿は、同じ遺伝子の親戚、親子、伯父叔母という血縁内にあるのか、という観点また視点で、これまでそんなことが論じられたことがあるだろうか、という問題提起をここに掲げてみたい。その端緒がガラパゴス、ジャパスという造語で形容した例題としてのテーゼである。

生物学的に化石化した文化を揶揄表現したガラパゴス。その定理の定規で日本のスケールを測ってみれば紛れもない化石化現象を起こしている。で、いながら150年の明治維新を通過して見事に西洋化していた。すべては猿真似によって得た果実だった。
しばらく前、東南アジアの途上国は、その日本の果実が黄金の光を放っていると羨望の眼差しで見ていた。その黄金の光は、いつの間にか大国中国に転送されていた。

その光源基まで中国に渡ってしまったのだろうか。その13.57億人 (2013年)の全人口が等しくリテラシー教育をうけ、識字という知恵を持っていたとするなら、それは可能だか、古来より多種多民族と言語の国は、それを統一するために何千年にわたって戦争を繰り返してきた。それを考えれば13億民が等しく同じ言語で統一されていると考えるには無理がある。 

その前に日本の特異性、その定義を決めておこう。

その研究史的視点~

近代西洋社会が日本の文明社会に初めて接したのは、江戸時代の長い鎖国が終わり、19世紀末に日本が開国して後である。
そして明治維新後の日本社会の急激な近代化によって、この日本の文明社会への関心が高まった。
最初期の欧米の日本研究は、他の東洋社会への関心と同類のエキゾチシズムやオリエンタリズムに彩られたものであった。
しかし開国後に来訪した西洋の旅行者や観察者が記した多くの見聞録にて、日本の社会構造と西洋のそれに似通った点があることが報告されたり、また日本が軍事大国として台頭してくると、日本を西洋と類似したものとして捉える傾向が強まった。

このような欧米の日本への関心は、高度に近代的な成功を収めたにもかかわらず、一方で日本独自な伝統社会を維持していると考えられていることにも支えられている。
もっとも、どの特質が日本独自な伝統に属するのか、また日本社会での影響の程度は、またその特質が他の社会と共通性がないのかについては、様々な見解がある。さらに方法論では、日本の組織や制度の分析に基づく構造的な把握を重視する観点と、日本人の行動様式や文化の傾向から論じる文化人類学的な観点に大きく分かれる。

前者の研究ではマックス・ヴェーバーの官僚制論などが援用され、当初は日本社会の特質を比較的小規模に見る傾向があったが、徐々に後者の手法も取り入れて、今日では日本に独自の制度構造を見る視点が一般的である。研究の動向からいえば、日本の制度的現実は日本の文化様式とある程度関係性を持っているという見解が主流である。したがって最近の研究は、多かれ少なかれこの2つの相異なる観点双方を考慮しておこなわれている。

近代化の成功と文化構造の二面性

日本の近代化が驚異的な速度で成し遂げられたことはほぼ定着した見解である。1905年の日露戦争勝利によって、アジアでいち早く列強の仲間入りを果たした。
日本の社会はこの時点で体系的な近代法典を備え、官僚制による国土の中央集権的な支配と階層秩序を完了していた。一方でこの近代国家の中心は天皇という伝統的な権威で、国民統合の役割も担っていた。

日本の近代国家のイデオロギーは近代的で復古的という二面性を持っていた。近代の天皇制は伝統社会を変容して成立したものであったが、それは古代の天皇制の復活(王政復古)と標榜された。
またそのイデオロギーは一方で、実用主義と理想主義という二面性も持っていた。
実用面では西洋の近代文明を積極的に受け入れるべきことを奨励したにもかかわらず、理想面では西洋の物質主義を離れた道徳観が鼓吹された(和魂洋才)。後者の理想主義は徐々に復古主義的傾向を強め、日本独自の国民性という集団的意識に結びつき、「国体」概念となった。第二次世界大戦後においても、神話的な外見を失いつつこのような集団的意識の基本構造は維持されている。
ただしそれは日本の国民すべてに積極的に支持されているわけではないといわれているにもかかわらず神社への初詣などは活発で、イデオロギーと宗教的な二面性を持ちつつも非常に穏やかな存在となっている。

さまざまな日本文明の把握

主に近現代を射程に捉えた比較文明論の把握以外にも、日本の文明社会をさまざまな視点から捉えるものがある。

文明を主要な対象とする学問分野としては、比較文明論(比較文化論)や文明史(文化史)が知られる。文明史の分野で日本の文明社会を論じた人物としてはヤスパースやトインビーが知られる。
ヤスパースは日本を軸文明の周辺にある非軸文明と定義したが、そのような周辺社会である日本が近代化に成功した点に注目した。トインビーは地域的文化圏を、独立文明と衛星文明からなる中心-周辺関係で捉えようとし、日本を中国文明の衛星文明として位置づけた。
フィリプ・バグビーは九大文明と判断し、中国と日本、東方正教会と西欧を分類するなら11になるとしている。
マシュー・メルコは資料を検討した上で、むりなく意見が一致する所では日本、中国、インド、イスラム、西欧と分類している

ハンティントンの文明衝突論

サミュエル・P・ハンティントンは1998年に文明同士の衝突を考察した『文明の衝突』を著し、その中で世界を8つの文明に分け、日本を単一の文明圏とみなした。
ハンティントンは日本文明が100年ないし400年ごろに中華文明から派生して成立した独自の文明であるとしている。
ただし、これは冷戦終結後の世界の推移を予想したフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』への反論であり、文明を論じたものではなく政治書に近い。

トッドによる家族構造の分類

人口統計と家族構造に基づく分析を行っているエマニュエル・トッドは、日本の家族構造(長男が親の家を継ぐという直系家族制)およびそれによる影響が非常にヨーロッパ的(特にドイツやスウェーデン)であると指摘、日本特殊論を否定している。なお、トッドはハンティントンの分類が、宗教や人種という概念から影響を受けすぎていると指摘している。

保守主義言論の動向

歴史教科書問題や歴史認識問題に関連して、自由主義史観を標榜する新しい教科書をつくる会など保守言論の側から提唱されている、やや民族主義・優性主義的な日本文明論がある。
日本の文明社会を(例えば縄文時代に起点を置くなど)一般に考えられているよりも古く伝統的で独自なものであると述べ、その美風や他の文化に対する独自性を強調するものである。

中西輝政

この観点での代表的著作は中西輝政の『国民の文明史』である。中西はアルフレッド・ヴェーバーの文化社会学的アプローチに依拠しつつ、日本に独自の文明過程を想定する。
日本社会には無変動的で安定した文明過程と突発的で瞬発的な文明過程の2種類が存在し、それが歴史上に交互に繰り返されることで、独自の社会を築いてきたという。この文明過程を中西は縄文時代から存在するものであるとし、日本の伝統文化の構造が非常に古く伝統的であることを強調している。また「日本文明」における天皇の役割を重視し、日本の文明社会に必要不可欠なものであったと述べている。

「縄文」文明論

最近進んだ縄文時代の三内丸山遺跡の調査成果を踏まえて、縄文時代を「縄文文明」と呼称し、世界四大文明などの古代文明に匹敵する高度な古代文明社会として位置づけようとする論がある。
この縄文文明論を大きく取り上げるマスコミがあり、また同様の観点を提示する論が相次ぐ一方、それに対する批判も根強く、三内丸山遺跡の意義を巡っては多角的な論争が繰り広げられている。
(ウィキぺデア資料引用) 

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中西輝政~
日本社会には無変動的で安定した文明過程と突発的で瞬発的な文明過程の2種類が存在し、それが歴史上に交互に繰り返されることで、独自の社会を築いてきたという。

この文明過程を中西は縄文時代から存在するものであるとし、日本の伝統文化の構造が非常に古く伝統的であることを強調している。
また「日本文明」における天皇の役割を重視し日本の文明社会に必要不可欠なものであったと述べている。
(中西 輝政"なかにしてるまさ、1947年6月18日 -"は、日本の歴史学者、国際政治学者。京都大学名誉教授。大阪観光大学特任教授。専門は国際政治史、文明史。保守系の論壇や政治活動でも知られる。NPO法人まほろば教育事業団会長。
中西輝政 -https://ja.wikipedia.org/wiki/  Wikipedia)

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