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シャープ・JDI液晶統合「新・日の丸液晶」に勝機はあるか(上)
2015年12月28日 ダイヤモンド
統合へ動き出したシャープの液晶事業と、日の丸液晶のジャパンディスプレイ。利害関係者の思惑が複雑に絡み、「消去法」での選択にも見える今回の統合は、日本の液晶産業に何をもたらすか。(「週刊ダイヤモンド」編集部 中村正毅) 
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「簡単に意思決定できる状態ではない。もう少し時間がかかる」

 2015年12月22日、経営再建中のシャープの支援を巡って、官民ファンド、産業革新機構の志賀俊之会長は、集まった報道陣に対してそう語り、支援方針の決定に向けて、当面は議論が続くとの見通しを示した。

 志賀会長が硬い表情で「複雑な案件」とも語ったその裏側で、一体何が話し合われたのか。

 外部の有識者を集めた産業革新委員会の議論と、シャープを資金繰りの面で支援する銀行側の動向を探ると、ある事実がくっきりと見えてくる。

 「設備の重複については、どう認識しているのか」

 関係者によると、革新委員会の席上、ある委員から革新機構側の幹部に対して、そうした問いかけがあったという。

 問いかけの意味するところは、シャープの液晶事業と中小型液晶を手掛けるジャパンディスプレイ(JDI)を統合させた場合、両社で14ある液晶工場を、機構としてどう整理をつける腹積もりなのかということだ。

 つまり、支援策についてはJDIとの統合を大前提にして話が進んでおり、すでに統合後に過剰になる生産設備にまで踏み込んで、議論をしていることになる。

では、なぜ官民ファンドの革新機構がシャープを支援する必要があるのか。理由は大きく分けて、二つある。

一つは、革新機構がJDIの35.58%の株式を保有する筆頭株主であること。14年3月に同社が上場するまでは、84.23%の保有株があり経営を差配してきた。

 そのため、シャープの事業が海外勢の手に渡り、強大なライバル企業が誕生することは、投資先のJDIが今後不利になり、投資回収がさらに遠のくことを意味するわけだ。

 当事者のJDIも、本間充会長が「シャープとの統合は拒まない」と繰り返し公言している。本間氏と、革新機構の執行役員でJDIの社外取締役も務める谷山浩一郎氏は、週1回必ず昼食を共にするなかで、シャープ支援について議論をしており、連携は十分だ。

 もう一つの理由は、経済産業省の意向だ。革新機構を所管する経産省は、日本の液晶産業の競争力強化を目指して、ソニー、東芝、日立製作所の液晶部門を統合し、12年のJDI発足を主導した経緯がある。

 その当時は、シャープの液晶事業も合流させようと、革新機構の首脳を2度もシャープの亀山工場に派遣し、頭を下げさせた。

 にもかかわらず、経営が悪化した今になって、シャープの支援はしないという判断は、JDIの存在意義すら否定し、経産省として競争力強化をうたってきた政策の一貫性を問われかねないわけだ。

最大の焦点は
担保付き借金の扱い方

 一方で、シャープの生殺与奪を握るみずほ、三菱東京UFJの2行はどういう立ち位置なのか。

 資金の出し手として、外資系ファンドや台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業が名乗りを上げ、シャープ液晶事業の争奪戦のように見えるが、海外勢がいかに高い金額を提示しようとも、銀行側が革新機構の支援案と天秤にかけることは、実際のところあり得ない。

 銀行首脳は語る。「われわれはかねて、変動の大きい液晶事業はシャープ本体からディタッチ(分離)すべきという考えだ」「その後は日本の銀行として、国内の(液晶)産業の成長、競争力を一番に考えて動いている」。

 換言すれば、支援に向けた視点も思いも、経産省・革新機構とすでに共有できているということだ。

何より2行は、シャープの液晶を構成するさまざまな部品・設備メーカーとも取引がある。計4000億円以上の貸出金回収を優先するあまり、海外勢への事業売却によって、部品調達網の見直しといったリスクがそうした取引先に及んでは、元も子もない。

 だからこそ、15年初頭から経産省幹部や議員たちと頻繁に接触し、革新機構を通じた支援の根回しを必死に続けてきたわけだ。

 そうして、シャープ液晶事業とJDIの統合による新・日の丸液晶の誕生は、消去法を繰り返す中で既定路線となった。

 残るのは、統合に向けた手続き論だけだ。中でも最大の焦点となるのが、シャープ本体から分離する液晶事業にひも付く借金だ。

 15年9月末時点で6385億円ある短期借入金のうち、71%に当たる4521億円に、液晶工場を中心にした担保が付いているだけに、分離は一筋縄ではいかない。

 今はその扱いについて「債権放棄」「債務の株式化(DES)」「資本性借入金への振り替え(DDS)」など、さまざまな方策を革新機構、銀行側がそれぞれ練っており、ときにメディアに情報を流して瀬踏みをするなど、綱引きをしている真っ最中だ。

 「これ以上、リスクをずるずると引きずるような支援策は、はっきり言って難しい」

 銀行首脳は、分離する液晶事業に借金の一部を移すことや、過少資本を補うためのDESに難色を示すが、旗色は決して良くない。

 なぜなら、15年5月に銀行主導で練り上げたシャープの中期経営計画が、半年もたたず頓挫したからだ。

 同年6月に、2000億円を投じてシャープ本体のDESに応じたものの、その後のさらなる経営悪化を踏まえると、銀行として一段のリスクを取らずして、革新機構から出資だけを引き出そうとするのは、機構側にすれば虫が良過ぎる話だ。

 銀行は経産省、革新機構からどこまでの支援を引き出せるか。東芝の赤字転落をきっかけに、シャープの家電事業再編まで引き合いに出し、支援の枠組みを広げようとする銀行と、一層のリスクテイクを迫る革新機構。

 両者が苛烈な神経戦を繰り広げる間にも、シャープの体力は日を追うごとに落ちていっている。

後編『シャープ・JDI液晶統合「新・日の丸液晶」に勝機はあるか(下)』
液晶事業再編に立ちはだかる供給過剰と過小資本の障壁
 
「今後の経営リスクを考えれば、4.5世代以下の工場は思い切った整理が必要だ」

 シャープの液晶事業に長年携わってきたOBの一人は、同業のジャパンディスプレイ(JDI)との統合を見据えた上で、そう話す。

 2016年以降、中国の京東方科技集団(BOE)や台湾の群創光電(イノラックス)、友達光電(AUO)など海外勢が、スマートフォン用など高精細(低温ポリシリコン、LTPS)の液晶を製造する、第6世代の工場を相次いで立ち上げるからだ。

 液晶が世界的に供給過剰に陥る懸念が強まる中で、ガラス基板サイズが小さく、競争力が劣る4.5世代以下の工場は、減損処理などのリスクが今後は一層高まる。

 両社の液晶工場を見渡すと、4.5世代以下は計8拠点。簿価を合計すると、1000億円以上にもなる。

 中には、両社とも成長戦略の柱としている自動車用の液晶パネルを手掛ける工場があり、品質面における「(自動車)メーカーからの認証手続きを考えると、すぐに整理するのは難しい」(同OB)。ただ、それでも一部は段階的に閉鎖・売却に向けて動かざるを得ないだろう。

 そのとき必要になるのは、減損などのショックを吸収できる、分厚い自己資本だ。

 JDIと、シャープから分離する液晶事業の自己資本の合計額は、推計で4000億円弱。ピーク時に1.2兆円を超えていたシャープ本体の自己資本が、主に液晶事業による損失によって、15年3月に400億円台にまで激減したことを踏まえれば、決して十分とはいえない水準だ。

 仮に1000億円規模で産業革新機構の出資があったとしても、そこに3000億円前後とされる液晶事業にひも付く借金が、“置き土産”のようにセットで付いてきた場合は、なおさら心もとない。

 革新機構が債務の株式化(DES)など、銀行に一段のリスクテイクを足元で求めている背景には、そうした要因もある。

 今後もし、交渉の過程で革新機構と銀行双方の腰が引け、中途半端な支援策で手打ちとなった場合、競争力のない既存工場の大半は温存され、新たな日の丸液晶連合の経営は、早晩行き詰まるだろう。

シャープとJDI技術融合の先に垣間見えるもの

 今回の統合は、革新機構を後ろ盾にして、好調なJDIが不調の続くシャープの液晶事業をのみ込むような印象を与えるが、実態はやや異なる。

 JDIでさえ、構造改革の途上にあるのだ。15年3月期の最終損益は、在庫評価損や工場の閉鎖による減損などが響き、122億円の赤字。直近の15年4~9月期も、3億円の最終赤字だった。

 実は、JDIには米アップルから工場の設備投資用に受け取った、ドル建ての債務がある。その一部は超円高時代の債務のため、為替相場が大きく変動すると、場合によっては返済時に数十億円単位の差損が出る財務構造になってしまっているのだ。

 iPhoneをはじめ、スマホ用液晶の事業そのものは好調だが、そうした過去の“負の遺産”が利益を打ち消し、内部になかなか蓄積されない歯がゆい状況にある。

 さらに言えば、JDIの15年の事業拡大は、アップルと中国・華為技術(ファーウェイ)向けがけん引しているが、その構図には、強い既視感すら覚える。シャープも14年秋までは、アップルと中国・北京小米科技(シャオミ)向けが好調だったのだ。

 本間充氏が会長に就任する以前、シャープの液晶事業との統合について、「スマホ向けに、G8の工場なんて必要ない」との声がJDIの社内で大勢を占めていた。G8とは最先端の第8世代の生産設備のことで、シャープの亀山第二工場に導入されているもの。改革途上のJDIにあって、過剰設備はリスクともなり得る。

 一方、シャープは予断を許さない状況になってきた。

 約400人──。関係者によると、15年に募集した3500人の希望退職者とは別に、見切りをつけたかのように、シャープを去っていった人数だという。

 液晶事業からも、優秀な技術者が相次いで抜け出す状況にあって、とうとう経営陣の間にも人心の乱れが目立つようになってきた。

 シャープの髙橋興三社長は今や、親密だった大西徹夫副社長とは目も合わせず、事務的な話を淡々とするだけ。旧三和銀行から送り込まれた役員は、旧富士銀行から来た役員の決裁権限を勝手に奪い、社内での影響力拡大にいそしむなど、足並みが乱れ切ったその様子は、病魔が巣食う企業の末期症状にも見える。

 これまで、シャープは酸化物半導体の「IGZO」による液晶の低消費電力化と中型パネルの高精細化に、JDIは「LTPS」でタッチパネル内蔵液晶のインセル技術に磨きをかけるなど、際立った技術力で存在感を示してきた。

 そして次世代ディスプレイの有機ELは、IGZOとLTPSの技術融合により、スマホ市場をさらに開拓する余地があるとされる。それだけに、新・日の丸液晶連合への期待は大きい。16年3月までに決まる針路の先にあるのは、勝機かそれとも沈滞か。
(記事引用)



3882016年丙申(ひのえさる)の厄払い?
12月28日、すでに海外脱出組は飛行機で空の上を飛んでいることだろう。

今年はフランステロ事件も絡んで、海外は割合と控えているとおもったら、あんまり関係ないようで成田空港は賑っている。

秋口にバス路線開設の試験運転乗車を無料でやっていたので載ってみた。出発が成田空港バスターミナルになっていたので、そこまで電車で行った。

朝の10時ころに成田空港に到着したが、さすがに人の動きが多くて国際的だなと感じたのは当然のことだろう。



女子祈祷、お守り、掃除に洗濯etc. 経験した厄払い多数
《厄年》気にする30代女性○割も2015.12.28 RR25
年末年始は神社やお寺に行く機会が増えるもの。そこで目にするのが「厄年一覧表」。女性の場合は数え年にして33歳が大厄、37歳が本厄とされており、前厄や後厄も入れると、30代のうち6年間も“厄年イヤー”になる計算です。科学的な根拠はないといわれるものの、身体の変化が起こりやすい年齢とされていたり、文字通り「ツイいない」ことが多かったりという話も聞きます。ぶっちゃけ、みんなどれくらい気にしているものなのでしょう? 30代の女性会社員200人にズバリアンケート!

〈厄年、気にしている?〉
・(どちらかといえば)気にする派 59.5%
・(どちらかといえば)気にしない派 40.5%

厄年イヤーを経験した人も多いためか、気にしている人が6割近くに。では、実際、どんなことがあったの…? 厄年イヤーに悲惨な目にあった本人や知人のエピソードを聞いたところ、痛々しい話が続々登場…。

「前厄の年、熱中症で救急車。本厄の年、ぎっくり腰で救急車。後厄の年、意識不明で救急車」(35歳)
「前厄の歳の夏、当時勤めていた会社が倒産により失業、翌月に当時の彼氏に一方的に振られた。年末になって新しい女性がいたことが判明」(34歳)
「友人が厄年の3年間で2人に婚約破棄された」(35歳)
「駅で財布を落とし警察に行ったらカバンが無くなった」(33歳)
「自分が自動車と衝突し、1週間入院した」(36歳)
「車をぶつけたり、違反切符を切られたり、車関係で色々あったようです」(31歳)
「母方のおじいさんが厄年の時、父がくも膜下出血になった時、妹二人も立て続けに骨折した。親戚中でケガが相次いでいて、厄払いしてもらった所、急にみんな回復し始めてびっくりしました」(39歳)

怪我に病気、結婚難まで…。厄年にあたる本人だけでなく、周囲まで影響したケースもみられるとは聞き捨てなりません。それでは、どんな対策をとっているのでしょうか? やったことがある厄払い・厄落としを聞いてみました。

〈やったことがある厄払い・厄落としTOP7〉
(10の選択肢からあてはまるものすべて選択。協力/アイリサーチ)
1位 神社で祈祷をしてもらう 49.0%
2位 厄除けのお守りを身につける 24.0%
3位 お札を家に飾る 11.0%
4位 寺院で祈祷をしてもらう 7.0%
5位 玄関など家を綺麗にする 6.0%
6位 厄除けになるアイテム(七色のマフラーなど)を身につける 4.0%
7位 洋服など普段使うものを洗う/新調する 2.5%

※番外 厄払い、厄落としは何もしていない 34.5%
神社や寺院での祈祷という、いわばプロに任せる人が多数。また、自宅を掃除したり、洋服を洗ったりと、身近なことを厄払いととらえている人もいるようです。

民俗学において厄払いは、「厄」を汚れや不浄を表す「ケガレ」と捉え、洗い清める古来の儀礼として伝わってきたものだとされています。それが、地域それぞれの風習とあわさって、地方によっては厄除けや厄祝いや厄流しなどと多様化していったようです。現代では、風水などともミックスされ、目にするものや身のまわりのものを洗ったり、新調したりすることも厄払い・厄落としとして捉えられるようになったのでしょう。

前述の厄年に悲惨な目に遭った人のなかには、厄払いをした途端に収まったという声もちらほら。プロに任せたり、自ら環境を整えたりと、やり方は様々ですが、身構えすぎず自分なりに注意を払うことが、賢い厄払い方法なのかも。
(田中 薫)

2016年、干支えと丙申(ひのえさる)年

参考教えてgooより

古事記 巫女蛭子より  
上記古事記の話ですが、イザナギとイザナミの最初の子供はヒルコですが、最後の子供はカグツチという神でした。炎の神であるカグツチを産んだことで大火傷をしてイザナミは死んでしまいます。怒ったイザナギはすぐにカグツチを斬り殺し、死者の国(根の国)まで、妻を迎えに行きます。しかし、その頃、イザナミは死者の食事を口にしてしまったため、身体が腐り死者の国の住人になっていました。イザナミは迎えに来た夫に決して自分を見るなと約束を交わし、一緒に出口に向かいます。しかしイザナギは妻から発せられる腐臭が気になって彼女の姿を見てしまう。変わり果てた妻の姿に驚き、彼女から逃げ出したイザナギに、激怒したイザナミは「お前の国の人間を一日に千人呪い殺してやるぞ」と脅し、イザナギは「ならば私は1日に1500人の人間を生み出そう」と答えます。これにより、二人は離婚し、人間には死が生まれたそうです。また根の国から逃げ帰ったイザナギが穢れを洗い流すと、アマテラス、ツクヨミ、スサノオの三貴子が生まれたと言われています。

※筆者より
アラサー女子30の厄払い
いろいろ諸説読んでも見ても判らないという30女子の方へ
そこで他言無用説を条件に享受しましょう。
なおツィッター フェースブックなど使ってメル友送信してしまうと神通力は即時消滅するので要注意!!!

1.あさ起きたら布団の中で3分まってから起きる
2.洗面朝食事はいつものように。(すでに休みになった人は、予定していた用件は来年3日を含めて全部キャンセル)
3.車での移動は極力控える。電車で代用。電車がない場所は、代替運転にする。
4.すでに方位、お水取り日程にある人は、出かける前に人と会話をしてからにする。
黙って出かけないように。
5.家の庭でカラスが鳴くとか、いつもと違う雲が出るとか、それは自然界現象として、人間には作用しないので無視する。それでも気になる場合は、半分程度にしておく。
6.固定電話が鳴ったら相手の番号確認すること。知らない番号だったら絶対出てはダメ。

その他、細かく分けると沢山あるので、それらを全部チェックしていると余計に悩みが多くなるので、適当な配分は自分でキチンとすること。
(※それでも片付かなければコメントを)

親王任国(しんのうにんごく) 
常陸国、上総国、上野国の3国を指し、親王が国守に任じられた国及びその制度を指す。
親王任国の守である親王は太守という。親王太守の官位は、必然的に他の国守より高く、通常は従五位上から従六位下であるのに対して親王任国の太守は正四位下とされた。
天長3年9月6日(826年10月10日)、清原夏野の奏上に基づき制定された。当初は淳和天皇の治世だけに限定して始められたが、結局この制度はその後も存続し、平安時代を通じて定着することとなった。以降、これら3国の国司筆頭官である国守には必ず親王が補任されるようになった。

親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため、親王任国での実務上の最高位は次官の国介(すけ)であった。平安中期になり受領国司が登場した際も、親王任国については介が受領の地位に就き、他国の国守と同列に扱われた。
時代が下り、後醍醐天皇の建武の新政期には、一時期陸奥国も親王任国とされ、義良親王が陸奥太守として実際に陸奥国へ赴任した。

名目としての親王任国はその後も継続した。戦国時代の織田信長が「上総介」を僭称し、江戸時代に入っても将軍徳川家康子息の松平忠輝は「上総介」に任官され、また本多正純、吉良義央、小栗忠順が「上野介」に任官されたのも、名目のみとは言え「上総守」「上野守」の官職が親王にしか許されなかった慣例を守っていたからである。
大宰帥(だざいのそち) 
なお大宰府の長官である「大宰帥」についても、大同元年(806年)の伊予親王(桓武天皇皇子)を初例として、慣習により親王が任命された。
こうした親王帥を「帥宮(そちのみや)」と呼ぶ。補任の目的は皇室財政の緊縮にあったため、当然親王帥は在京のままで府務を行わず、実際の長官には臣下から次官の大宰権帥・大弐(任官者が納言クラスなら権帥、参議や散三位クラスなら大弐)を派遣するものとされた。

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親王任国 概要
天長3年9月6日(826年10月10日)、清原夏野の奏上に基づき制定された(『類聚三代格』:親王任国太政官符)。

桓武天皇は非常に多くの皇子・皇女を残し、続く平城天皇及び嵯峨天皇も多くの皇子・皇女に恵まれたが、このため天長3年当時、多数ある親王家を維持する財源と親王に充てるべき官職が不足していた。

清原夏野はこうした課題に加えて、当時親王が八省卿を兼務する慣例が成立していたことに問題があることを指摘して、こうした問題を解決するため、親王任国の制度を奏上した。
当初は淳和天皇の治世だけに限定して始められたが、結局この制度はその後も存続し、平安時代を通じて定着することとなった。

親王任国に充てられたのは、常陸国、上総国、上野国の3国である。いずれも大国だった。
これら3国の国司筆頭官である国守には、必ず親王が補任されるようになった。親王任国の国守となった親王は「太守」と称した。親王太守の官位は、必然的に他の国守より高く、通常は従五位上から従六位下であるのに対して親王任国の太守は正四位下とされた。

天長3年(826年)に初めて3国の太守に任じられたのは、賀陽親王(常陸太守)、仲野親王(上総太守)、 葛井親王(上野太守)で、いずれも桓武天皇の皇子であった。

親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため、親王任国での実務上の最高位は次官の国介(すけ)であった。平安中期になり受領国司が登場した際も、親王任国については介が受領の地位に就き、他国の国守と同列に扱われた。なお、親王任国においては、太守の俸禄は太守の収入に、その他の料物については無品親王(官職に就けない内親王含む)に与えられたと考えられているが、詳細は不明である。

承平天慶の乱において平将門が新皇として関東八ヶ国の国司を任命した際も、常陸と上総の国司は「常陸介」「上総介」を任命している。叛乱勢力であり親王任国の慣習を守る必要は無いのだが、伝統として定着していたのであろう。しかし何故か上野だけは「上野守」を任命しており、これは将門が上野国には特別な意味を見出していなかったからだと言われている。

時代が下り、後醍醐天皇の建武の新政期には、一時期陸奥国も親王任国とされ、義良親王が陸奥太守として実際に陸奥国へ赴任した。

名目としての親王任国はその後も継続した。戦国時代の織田信長が「上総介」を僭称し、江戸時代に入っても、将軍徳川家康子息の松平忠輝は「上総介」に任官し、また本多正純、吉良義央、小栗忠順が「上野介」に任官したのも、名目のみとは言え「上総守」「上野守」の官職が親王にしか許されなかった慣例を守っていたからである。

^ 親王は後宮において大切に育てられたために世情に通じていないこと、加えて省の職員に不祥事があった場合に上司にあたる八省卿の親王が連座する危険性があることを指摘した。

^ なお、中納言である良峯安世も、天長初年より、国司制度の改革を唱える意見書を度々出しており(『類聚三代格』)、清原夏野の提案も良峯安世の改革論との関連が考えられている。また、親王任国制のモデルは、参議による国司兼官制に求められると見られている。

^ この3国が選定された理由について不明であるが、時野谷滋は常陸については、同国が田積(田の面積)4万町を誇り(『和名類聚抄』)、なおかつ正税・公廨稲がそれぞれ50万束(『延喜式』)と大国中で屈指の国であったこと、この天長3年に常陸守甘南備高直が前任者との交替の際の失態が明らかにされて更迭された(『続日本後紀』承和3年4月18日条)結果、常陸守が空席であった事を指摘して、同国選定の背景としている。

^ なお、四品親王の場合、弾正尹に任じられる場合には「守」、太守に任じられる場合には「行」と記されている(『三代実録』)。

^ 当初は「上総守」を名乗っていたが、すぐのちに「介」に改めたため、「親王任国制度を知らなかったため勘違いし、のち訂正した」とする説がある。

「清原 夏野」(きよはら の なつの、延暦元年(782年) - 承和4年10月7日(837年11月12日))は、平安時代初期の貴族、政治家。舎人親王の孫である小倉王の五男。初名は繁野王、のち臣籍降下し清原真人姓を賜与された。官位は従二位・右大臣、贈正二位。平安京右京の双岡(ならびがおか)に山荘を営んだことから双岡大臣、ほかに比大臣・北岡大臣・野路大臣とも号した。
親王任国(しんのうにんごく)は、親王が国守に任じられた国及びその制度を指す。常陸国、上総国、上野国の3国。親王任国の守である親王は太守という。
gooウィキぺデア

 

吉田松陰の実像?
幕末の思想4
日本を守る サイト 2012年08月07日 
吉田松陰は単なるテロリストに過ぎない!!

幕末の思想家と言えば、まずあげられるのが吉田松陰です。吉田松陰と言えば維新の志士を多数輩出した松下村塾の主宰者にして、維新の精神的支柱となった偉大な思想家、教育者であり、正義を貫き「安政の大獄」の犠牲となった悲劇の主人公。これが、私どもが学校教育、即ち公教育によって教え込まれた吉田松陰であるが、実態は全く違っていたようです。
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画像 Appare | 世界遺産松下村塾が評価される本当の理由。
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山口県萩市に現存する松下村塾



今日は、そんな吉田松陰の実態に迫っていこうと思います!
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■吉田松陰、その人を見る
「・・・政府はこうして早くも欧米の圧力からの民族独立という課題を、隣邦朝鮮・中国への侵略とむすびつけた。欧米には『信義』をたてるという名で従属しながら、朝鮮・中国の侵略をめざすというのは、幕末に長州藩士の指導者吉田松陰が説いたことである。
アメリカおよびロシアとの和親条約が結ばれた後の1855年、松陰が獄中から、『同士一致の意見』として兄に送った『獄是帳』に曰く、『魯(ロシア)墨(アメリカ)講和一定、我より是を破り信を夷狄に失うべからず。ただ章程を厳にし信義を厚うし、其間を以て国力を養い、取り易き朝鮮満州支那を切り随え、交易にて魯墨に失う所は、また土地にて鮮満に償うべし』と。木戸らは先師の教えに何と忠実であったことだろう。・・・」(井上清著-日本の歴史(中)より引用)

「松陰の思想の基本がどこにあったか?」
松陰は幼少時から、神国思想・尊皇思想を父からたたきこまれていた・・・
一般の多くの有識者にとって、神国思想は一般的であった。それが 松陰の中ではより以上に抽出・濃縮されてほとんどその思考によって「がんじがらめに」なっていたのである。その彼が、外国を知り、その脅威を肌で感じたその刹那に 皇国の危機を感じたのである。その危機意識が 松陰に『対外的膨張主義』を考え出させるに至る。

松陰が理想とする皇国は、天皇統治のもと対外膨張をすることで光輝を得る。ここには、軍事力による侵略主義の性格がある。この露骨な軍事力による海外雄飛は、ペリーの軍事的圧迫による開国要求と同じである。(高橋文博著 「吉田松陰」より引用)

これは、読めばわかるように 明治以降の政府の方針そのものではないか?松陰の父親から受けた教育のせいもあるが その思考は上に述べたように アメリカやイギリスなどの欧米諸国と同様 植民地政策を取りながら欧米の干渉を排除するのが、その方針だったのは明らかである。これが、明治政府の基本方針となった。明治政府のその方向性が誤っていたとしたら それは松陰の思考のゆがみによるものであろう。

次に、松陰の平等思想について述べてみよう。よく、松陰は「平等の思想を持っていた」という点で有名である。しかし、その平等な思想の中身を考えてみよう。

松下村塾において門弟の身分の上下を問わなかった点において確かに松陰は他の多くの武士とは違っていたであろう。しかし、その発想・武士としての考え方は 他の武士達と変わらない。
彼もまた幕府を廃し世の中を天皇を中心とした国に作り変えようとする場合に頼んだのはやはり武士であった。平等であろうとしながらも武士階級とその他の『農工商』の違いを念頭においており決して彼らと手を繋ごうという気持ちは無かった。(但し、これは松陰のみでなく他の多くの武士もそうであったが。)武士である自分達の特権階級にしがみついてしまい、そこから抜けられなかった。以下の文章を見てみよう。

「・・・だが、現実から遊離した自己の絶対化は、閉塞した状況を打開できない絶望と表裏する。松陰の次の言葉にはそうした様相が現れている。

『只今の勢にては諸侯は勿論捌けず、公卿も捌け難し、草莽に止まるべし。併し草莽も亦力なし。天下を跋渉して百姓一揆にても起こりたる所へ付け込み奇策あるべきか。・・・・』」(高橋文博著 「吉田松陰」より引用)

この文章に示されたように 松陰は 民衆を利用できるなら利用しても良いと考えているようである。しかし、民衆と手を取って戦おうとするような気持ちは見られない。あくまで 民衆とは違う自分達の武士としての立場から抜け出られないでいる。ここら辺が 松陰の限界と言えるかもしれない。そして、この師に教えられた 伊藤博文や山形有朋らが この限界を感じる事も知ることもできず ただ弾圧するしかなかったのも 当然だったろう。

■吉田松陰というウソ

私どもの世代が受け、現在も脈々と続いている「官軍教育」の中で、「吉田松陰」という存在はその代表的な偽りである。今も信じられている吉田松陰像とは、大ウソであると断じていい。
維新の志士を多数輩出した松下村塾の主宰者にして、維新の精神的支柱となった偉大な思想家、教育者であり、正義を貫き「安政の大獄」の犠牲となった悲劇の主人公。
これが、私どもが学校教育、即ち公教育によって教え込まれた吉田松陰である。

実像は全く違う。
一言で言えば、松陰とは単なる、乱暴者の多い長州人の過激派若造の一人に過ぎない。今で言えば、センスの悪い地方都市の悪ガキといったところで、何度注意しても暴走族を止めないのでしょっ引かれただけの男である。
ただ、仲間うちではほんの少し知恵のまわるところがあって、リーダーを気取っていた。とはいえ、思想家、教育者などとはほど遠く、それは明治が成立してから山縣有朋などがでっち上げた虚像である。長州藩自体がこの男にはほとほと手を焼き、遂には士分を剥奪している。つまり、武士の資格がないとみられたはみ出し者であった。
松陰と言えば、誰でも「松下村塾」を開いて維新の「志士」たちを育成した指導者、と答えるだろう。松陰と松下村塾という言葉は一体となっており、松陰=松下村塾と刷り込まれている。実は、松下村塾とは、陽明学者ともみられる玉木文之進の私塾である。

安政2(1855)年、またも実家預かりの身となったままで叔父であり師でもある玉木文之進の「松下村塾」の看板を掲げ、久坂玄瑞や前原一誠たちと交わる。これは、僅か3年で閉じられるが、世に言う吉田松陰=松下村塾という維新のシンボルとも言える言葉は、この時期のことを指している。
公教育では、久坂、前原以外に、木戸孝允や高杉晋作、品川弥二郎、伊藤博文、山縣有朋等が門下生として教えを受け、維新の英傑を輩出したことになっているが、このことが大いに史実と異なる。

木戸は明らかに門下生でも塾生でもなく、高杉も“門下生”と言うより“ダチ”と言った方が近い。そもそも、松陰の松下村塾とは、師が何かを講義して教育するという場ではなく、同志が集まって談論風発、「尊王攘夷」論で大いに盛り上がるという場であったようだ。そういう仲間のリーダー格が松陰であり、いろいろな縁で山縣有朋のようなどこにも教えを受ける場のない境遇の者も集まるようになり、後輩も生まれてきたということのようである。(尤も松陰は、山縣のことを殆ど知らない)

安政5(1858)年、日米修好通商条約が締結されると、松陰は老中;間部詮勝の暗殺を計画、藩は再び松陰を捕縛、投獄した。
安政6(1859)年、幕府は松陰の江戸への送致を命令、松陰は伝馬町の獄舎にて斬首刑。満29歳(享年30歳)であった。
松陰は、大老;井伊直弼の暗殺も主張していた。また、幕府転覆を堂々と主張し、藩に対して大砲を始めとする武器の支給を願い出たりしている。とにかく、暗殺、暗殺と喚く。これがまた、久坂や前原といった松陰同様の“跳ね上がり”には受けたようだ。
長州藩が、杉家の杉梅太郎(松陰の兄に当たる)に警告を出している。
『妄動してやまざれば投獄あるのみ』
藩や門下生と言われる者たちの一族にしてみれば、松陰の言動は文字通り「妄動」であり、このことは時の政治情勢から客観視しても変わらない。久坂の一族などは、何とか久坂を松陰から離そうと苦労したことが分かっている。(久坂の妻は、松陰の妹である)

安政の大獄の名で大老;井伊が松陰に目をつけ、彼を処刑したことになっているが、当時の松陰は世間に溢れ出した尊攘派の中の特に荒っぽい一人に過ぎず、井伊は松陰という男のことなど知らない。井伊は、松陰の処刑について長州藩に意向を聞いている。長州藩の回答が、松陰の行動を「暴発」とし、「斬首やむなし」というものであった。
当時の幕閣にしても、諸大名にしても、松陰処刑を殊更の事件とも何ともみていない。不逞の輩が一人処刑されただけである。

こういう松陰を「師」であると崇めだしたのは、維新が成立してしばらく経ってからのことである。
拾い上げたのは、日本軍閥の祖、長州閥の元凶、山縣有朋である。

中間(ちゅうげん)という足軽以下の出自をもつ山縣は、自然と累進するに従い、拠り所が欲しくなったのだろう。また、それが必要と感じたに違いない。権力欲の強い男は、己を引き上げるためにこういうことをやる。自分に自信のない権力者ほど、その傾向が強い。これによって、吉田松陰=松下村塾は一気に陽の当たる場所へ躍り出た。あとは、雪だるまが坂道を転がるようなもので、気がつけば松陰は「神様」になっていたのである。

高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠等が、松陰の「遺志」を継いだ“跳ね上がり”であったことを整理して述べれば、松陰の実像はもっと理解し易くなる筈である。
百歩譲って、松陰が何らかの思想をもっていたとしても、それは将来に向けて何の展望もない、虚妄と呼ぶに近いもので、ひたすら倒幕の機会を窺っていた長州藩そのものにとっても松陰は単なる厄介者に過ぎなかった。

例えば、松陰の外交思想というものは余り語られないが、実に稚拙なものであった。北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、満州、台湾、フィリピンを領有するべきだというのである。これを実行するのが、彼の言う「大和魂」なのである。一体、松陰はどういう国学を勉強したのか。 
 
■「維新」の“真犯人”;水戸藩の狂気(其の六 水戸の公家かぶれと司馬史観の罪)
司馬遼太郎氏はこれについては大変な罪を犯している。司馬氏は、すべての暗殺を否定すると断言する、その同じ舌で「ただ、桜田門外ノ変だけは「歴史を進展させた」珍しい例外」であると断じ、このテロを高く評価するのだ。
驚くべき稚拙な詭弁だと言わざるを得ない。「歴史を進展させた」という一言で、司馬氏がどういうスタンスで幕末史を語っているかが明白に顕れている。
司馬氏には、人物で言えば三つの過ちがある。坂本龍馬(司馬氏は「竜馬」という表記で逃げ道を作っている)、吉田松陰、勝海舟の三人を高く評価した点である。既に述べたことであるから繰り返さないが、司馬史観というものがあってその核に「桜田門外ノ変」とこの三人の存在があるとすれば、司馬史観とは大いなる罪を犯していると言わざるを得ない。そして、それは創作された虚構に過ぎない。 

【結論】
・このように、吉田松陰とは実は単なるテロリストに過ぎないということがわかります。
体制を批判し、悪い奴を排除すれば世の中は変わるという短絡思考の元に、幾多の暗殺計画を企てる「跳ね上がり者」です。

・明治政府を作り上げたのは薩摩と長州です。明治政府を正当化するために長州を正当化し、さらに長州を正当化するために吉田松陰を偉人として山縣有朋らが神話を広げていったという構造です。

・そして、戦後にこの神話を広げていったのが司馬遼太郎です。 「明治は偉い、幕府はダメ」「戦後は素晴らしい、戦前はダメ」という思想に立脚して書かれているのが司馬遼太郎の文章です。この偏った思想の背景を、次回の記事でまとめていきますので、楽しみにしていてください!!
・吉田松陰の思想についても、その実態を分析します。尊王攘夷運動⇒倒幕運動を主導したのは身分序列の上位にいた下級武士たちです。庶民(農民・町人)はそれを傍観していました。

そして、幕末の下級武士たちが尊皇攘夷に収束していったのは、前稿(「幕末の思想1 下級武士が西洋思想に収束したのはなぜか?」)と同じ理由です。

下級武士が明治維新を遂行した必然性
【1】都市(市場)の住人となった下級武士は共同体と社会的役割を喪失した遊民と化しており、自我私権欠乏が潜在していた。
【2】喪失した社会的役割の代償として施された理想主義的教育の結果、武士たちは現実の圧力から乖離した観念思考に傾斜していった。
【3】さらに下級武士は年々貧しくなる一方で、立身出世の可能性もないために幕藩体制に対する不満と反体制(反秩序)意識が強くなっていった。「封建制は親の敵なり」と言った福沢諭吉がその代表である。
元々は幕藩体制の維持と社会の秩序化を目指した水戸学が、正反対の倒幕と秩序破壊の尊皇攘夷運動へと変質していったのも、それを担った下級武士が、共同体と社会的役割を喪失し、自我・私権の主体となり、反体制・反秩序意識を強く孕んでいたからです。

「日本を守るのに右も左もない」 より引用

つまり下級武士の反体制、反秩序意識の急先鋒が吉田松陰である。ここから生まれてくる『否定意識』から暗殺を次々と計画したということです。
そして否定意識であるが故に、思想そのものに中味がない。尊皇攘夷を主張したかと思えば開国を主張したりと筋も全く通っていない。
これが吉田松陰という人物の実態です!!
(記事引用)

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関連記事 

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南シナ海と人工島建設と国際法 - 髙井晉
一般社団法人日本戦略研究フォーラム2015年12月20日 08:12
http://blogos.com/article/150815/
はじめに
2015年度版防衛白書(2015年7月)は、「海洋をめぐる動向」の項目の中で、中華人民共和国(以下、中国)が南沙諸島の岩礁で急速かつ大規模の埋め立て活動を強行するほか、滑走路や港湾を含むインフラ整備を推進しており、国際社会は、これらに対し懸念を示していると指摘した。また同白書は、中国の人工島建設を批判して、既存の国際法秩序とは相容れない独自の主張に基づき、力を背景とした現状変更の試みなど高圧的ともいえる対応を継続させ、自らの一方的な主張を実現しようとする姿勢を貫いていると分析した。これ対して中国外交部の陸慷報道官は、南シナ海の南沙諸島での埋め立ては完全に中国の主権の範囲内のことで、非難されることではないと反発していると報道された。 

これに先立つ7月7日、米国のオバマ大統領とベトナムのグエン・フー・チョン共産党書記長は初めての首脳会談を行い、中国の海洋進出を懸念する共同声明を発表した。ベトナム戦争(1965~1975年)終結から40年、国交正常化後20年の節目に、「昨日の敵は今日の友」として南シナ海における海洋安全保障の協力関係を表明したのであった。会談後チョン書記長は、国際法に従わず、状況をさらに複雑化している最近の活動に対して懸念を共有したと述べた。

南シナ海における中国の海洋進出は、世界共通の関心事でもあり、地域の安全保障と国際法の観点から様々な問題を惹起している。中国が進めている南シナ海の南沙群島の7つの礁(reef)における急速な人工島建設は、西沙群島及び中沙群島に及ぶ広大な三沙市の建設と相俟って、中国による南シナ海とその上空をコントロールするための準備段階であると囁かれている。 

南沙群島に対する中国の礁の埋立てによる人工島建設は、国際秩序違反であり即時中止すべきであると議論されているが、本小論は、中国が自国の海と主張する「中国の海(Chinese Waters)」および南沙群島で急速に進めている人工島について、国際法上どのように評価されるのかを検討している。 

1 中国の海洋進出と南シナ海

(1)中国の国家目標と戦略
中国は、共産党一党独裁の国家であり、中国共産党の将来は、偉大な中華民族の復興と海洋強国の建設の成否にかかっていると言えよう。中国政府は、公共・文化外交を推進し海外の中国の合法的利益を確保するかたわら、軍事的には近海防御(接近阻止(A2)/領域拒否(AD))戦略を推進し、四戦(法律戦・世論戦・心理戦・地図戦)でこれの強化を図っている。 

また、経済戦略として改革開放路線の堅持と深化を進めるとともに、収入の格差是正への取り組みとして2020年までに国内総生産(GDP)を10年比で2倍を達成するとしている。そしてこれらを支えるものとして、急速な経済成長を支える資源・エネルギーの安定的供給、(陸上・海洋)資源供給源と海洋通商路の安定的利用の確保が必要であり、「一帯一路」経済戦略構想(2013年)とシルクロード基金の設立、およびこれらと表裏一体をなすアジアインフラ投資銀行(AIIB)の設立(2015年)により、アジア・中東経済を中国のコントロールの下に一体化を図ろうとしている。 

これら中国の国家戦略を推進するための外交・安全保障戦略として、国家主権、安全保障、発展利益のために外部圧力に屈しないこと、海洋資源開発能力を高め海洋権益を断固守ること、人民解放軍(PLA)の機械化情報化を建設すること、海洋、宇宙、サイバー空間の利用を重視すること、平時から海警力と軍事力を積極的に活用すること、海軍力を強化して太平洋の分割と潜水艦発射ミサイル(SLBM)基地を建設することなどが挙げられている。 

南シナ海には、漁業資源の他に石油、天然ガス、希少金属等の豊富な資源の存在が見込まれ、これらはベトナムやフィリピンが主張する排他的経済水域(EEZ)の中に偏在していると言われている。また、南シナ海は、東西の海上輸送ルートの要衝であり、経済大国となった中国にとって、海外からの資源の海上輸送ルート確保は、経済発展を支える上で不可欠のものと考えて不思議はない。南シナ海問題の背景には、これら資源の独占と海上輸送ルートの安定的利用と確保を狙った中国の強い意図があると言えよう。 

南シナ海の原油輸送路
出典:http://www.eia.gov/todayinenergy/detail.cfm?id=10671



一帯一路の経済戦略構想
出典:http://insight.amcham-shanghai.org/wp-content/uploads/OBOR1.png



(2)南シナ海の9断線と管轄権の主張
南シナ海は、中華民国(以下、台湾)、中国、フィリピン、ベトナム、マレーシア、ブルネイ、インドネシアに囲まれた海域で、西沙群島(Paracel Island)、南沙群島(Spratly Island)、中沙群島、東沙群島(Pratas Islands)が点在している。これらの群島のうち南沙群島と西沙群島は、日本がフランスと領有権をめぐる外交交渉の最中の1939年に領有宣言を行い、島嶼名を付して台湾県高雄市の行政区画に編入し、リン鉱石等の開発が行なわれていた。しかし日本が第2次世界大戦に敗れた後、南シナ海は沿岸国間の紛争の場となった。 

日本は、第2次世界大戦の講和条約である対日平和条約(1952年4月28日発効)の第2条(f)項で、それまで日本領だった新南群島(現在は南沙群島)と西沙群島に対する「すべての権利、権原及び請求権を放棄」した。台湾は、同条約発効前の1946年に南沙群島の太平島を軍事占領し、日本が領有権を放棄した南沙群島、西沙群島を含む南シナ海全域をカバーする11断線を引き、これに含まれる島嶼の領有権を主張し、フィリピンも同年に11断線内の中沙群島のスカボロー(黄岩)礁などの領有権を主張した。 

中国は、1953年に台湾の11断線に重なるように、そしてベトナムとの境界協定合意の後、トンキン湾内の2断線を削除した9断線を引き、南シナ海と同断線内の全ての島嶼や礁の領有を宣言した。これ以降今日に至るまで、南シナ海の島嶼や礁は、台湾、中国、ベトナム、マレーシア、フィリピン諸国間で領有権の対立が続いている。これら諸国は、自国領と主張する島嶼や礁を起点にそれぞれEEZを主張している。 

日本は、対日平和条約第2条(b)項で台湾および膨湖諸島に対する全ての権利・権原・領有権を放棄しているが、第2条(f)項で放棄した南沙群島と西沙群島は、台湾と別個に放棄しているので、台湾と法的地位が同じではない。したがって日本が南沙群島と西沙群島を放棄したことと、それが自動的に台湾の領域になったこととは別個の問題である。その後中国は、9点線で囲んだ南シナ海を「中国の海」と主張し、2010年には台湾、チベット、ウイグルと同レベルにある核心的利益と位置づけ、これを確保するためには武力の行使をも辞さないことを表明している。 
 (記事一部引用)

SILK Road シルクロード
シルクロード(絹の道、英語:Silk Road、ドイツ語:Seidenstraße)は、中国と地中海世界の間の歴史的な交易路を指す呼称である。絹が中国側の最も重要な交易品であったことから名付けられた。そのごく一部が「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」としてユネスコの世界遺産に登録されている。
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「シルクロード」という名称は、19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが、その著書『China(支那)』(1巻、1877年)においてザイデンシュトラーセン(ドイツ語:Seidenstraßen;「絹の道」の複数形)として使用したのが最初であるが、リヒトホーフェンは古来中国で「西域」と呼ばれていた東トルキスタン(現在の中国新疆ウイグル自治区)を東西に横断する交易路、いわゆる「オアシスの道(オアシスロード)」を経由するルートを指してシルクロードと呼んだのである。

リヒトホーフェンの弟子で、1900年に楼蘭の遺跡を発見したスウェーデンの地理学者ヘディンが、自らの中央アジア旅行記の書名の一つとして用い、これが1938年に『The Silk Road』の題名で英訳されて広く知られるようになった。

シルクロードの中国側起点は長安(陝西省西安市)、欧州側起点はシリアのアンティオキアとする説があるが、中国側は洛陽、欧州側はローマと見る説などもある。
日本がシルクロードの東端だったとするような考え方もあり、特定の国家や組織が経営していたわけではないのであるから、そもそもどこが起点などと明確に定められる性質のものではない。
現在の日本でこの言葉が使われるときは、特にローマ帝国と秦・漢帝国、あるいは大唐帝国の時代の東西交易が念頭に置かれることが多いが、広くは近代(大航海時代)以前のユーラシア世界の全域にわたって行われた国際交易を指し、南北の交易路や海上の交易路をも含める。つまり、北方の「草原の道(ステップロード)」から南方の「海の道(シーロード)」までを含めて「シルクロード」と呼ばれるようになっているわけである。

赤い帯がステップ地帯
 
「草原の道」
中国から北上して、モンゴルやカザフスタンの草原(ステップ地帯)を通り、アラル海やカスピ海の北側から黒海に至る、最も古いとみなされている交易路。この地に住むスキタイや匈奴、突厥といった多くの遊牧民(騎馬民族)が、東西の文化交流の役割をも担った。
現在の中国国鉄集二線は部分的にほぼこの道に沿っている。

「オアシスの道」
東トルキスタンを横切って東西を結ぶ隊商路「オアシスの道」が、リヒトホーフェンが名付けたところの「シルクロード」である。長安を発って、今日の蘭州市のあたりで黄河を渡り、河西回廊を経て敦煌に至る。ここから先の主要な路線は次の3本である。西トルキスタン(現在のウズベキスタン、トルクメニスタンなどを含む地域)以西は多数の路線に分岐している。このルート上に住んでいたソグド人が、シルクロード交易を支配していたといわれている。東トルキスタンの興亡史については、「西域」「楼蘭」「ホータン王国」「中国の歴史」などを参照のこと。

西域南道
敦煌からホータン、ヤルカンドなどタクラマカン砂漠南縁のオアシスを辿ってパミール高原に達するルートで、漠南路とも呼ばれる。オアシスの道の中では最も古く、紀元前2世紀頃の前漢の時代には確立していたとされる。このルートは、敦煌を出てからロプノールの北側を通り、楼蘭を経由して砂漠の南縁に下る方法と、当初からロプノールの南側、アルチン山脈の北麓に沿って進む方法とがあったが、4世紀頃にロプノールが干上がって楼蘭が衰退すると、水の補給などができなくなり、前者のルートは往来が困難になった。距離的には最短であるにもかかわらず、極めて危険で過酷なルートであるが、7世紀に玄奘三蔵はインドからの帰途このルートを通っており、楼蘭の廃墟に立ち寄ったと『大唐西域記』に記されているので、前者のルートも全く通行できない状態ではなかったものとみられる。

13世紀に元の都を訪れたマルコ・ポーロは、カシュガルから後者のルートを辿って敦煌に達したとされている。
現在のG315国道は部分的にほぼこの道に沿って建設されており、カシュガルからホータンまでは、2011年に喀和線が開通している。

天山南路(西域北道)
敦煌からコルラ、クチャを経て、天山山脈の南麓に沿ってカシュガルからパミール高原に至るルートで、漠北路ともいう。西域南道とほぼ同じ頃までさかのぼり、最も重要な隊商路として使用されていた。このルートは、楼蘭を経由してコルラに出る方法と、敦煌または少し手前の安西からいったん北上し、ハミから西進してトルファンを通り、コルラに出る方法とがあったが、楼蘭が衰退して水が得られなくなると、前者は通行が困難になった。
現在トルファンとカシュガルを結んでいる南疆線は、概ね後者のルートに沿って敷設されており、1971年に工事が始まり、1999年に開通した。G314国道も部分的にほぼこの道に沿っている。

天山北路
敦煌または少し手前の安西から北上し、ハミまたはトルファンで天山南路と分かれてウルムチを通り、天山山脈の北麓沿いにイリ川流域を経てサマルカンドに至るルートで、紀元後に開かれたといわれる。砂漠を行く上記ふたつのルートに比べれば、水や食料の調達が容易であり、平均標高5000mとされるパミール高原を越える必要もない。
現在のG312国道や蘭新線、北疆線は部分的にほぼこの道に沿っている。

「海の道」

青色が海上ルート
中国の南から海に乗り出し、東シナ海、南シナ海、インド洋を経てインドへ、さらにアラビア半島へと至る海路は「海のシルクロード」とも呼ばれる。

すでにプトレマイオス朝の時代からエジプトは紅海の港からインドと通商を行っており、エジプトを征服した古代ローマ(共和政ローマ、ローマ帝国)はこの貿易路も継承して、南インドのサータヴァーハナ朝との交易のために港湾都市アリカメドゥ(英語版)(現ポンディシェリ近郊のポドゥケー遺跡)などいくつかの商業拠点を築き(『エリュトゥラー海案内記』も参照)、絹を求めて中国にまで達したことは中国の史書にも記されている。

古代には、マラッカ海峡は水深が浅い上、岩礁が多くて座礁しやすいためあまり使われず、マレー半島のクラ地峡を横断するルートが多かった。
このルートでセイロン(獅子国)やインド、ペルシアの商人も中国に赴いたのである。しかし、陸のシルクロードが諸国の戦争でしばしば中断を余儀なくされたのと同様、海のシルクロードも荒天や海賊の出没、各国の制海権の争奪などによって撹乱され、必ずしも安定した交易路とはいえなかった。

7世紀以降はペルシアの交通路を継承したイスラム商人(アラブ人、ペルシア人等の西アジア出身のイスラム教徒商人)が絹を求めて大挙中国を訪れ、広州などに居留地を築く。中国のイスラム教徒居留地は、唐末に広州大虐殺(英語版)や黄巣の乱によって大打撃を受け、一時後退した。

宋代になると再び中国各地(泉州市、福州市など)に進出し、元代まで続いた。元のクビライ・ハーンは東シナ海、南シナ海からジャワ海、インド洋を結ぶこの貿易路で制海権を握るために日本(元寇)や東南アジアに遠征軍を次々とおくった。
明は朝貢貿易しか認めない海禁政策を取り、鄭和艦隊で知られるように、海上交易路を海賊から保護した。鄭和はアフリカのマリンディまで航海している。

その後インド洋は、オスマン帝国・マムルーク朝・ヴェネツィア共和国が制海権を握っていたが、16世紀に喜望峰経由でポルトガルが進出し、1509年のディーウ沖海戦で敗れたため、イスラム商人の交易ルートは衰えた。

1622年、イングランド王国・サファヴィー朝ペルシア連合軍が勝利した(ホルムズ占領(英語版))のを皮切りに、1650年にはヤアーリバ朝(現オマーン)がインド洋の制海権を握り、ポルトガルとスペインの商人が追放された。また中近世以降は、中国から大量の陶磁器が交易商品となったので「陶磁の道」とも称された。

19世紀に、1809年ペルシャ湾戦役の結果、イギリスが制海権を握った。
中華人民共和国は真珠の首飾り戦略から制海権を握ることを目指しているとされ、この貿易路を一帯一路の一部をなす「21世紀海上シルクロード」と呼称し、東シナ海ガス田問題や南シナ海では南沙諸島埋め立て問題などを引き起こしている。

シルクロードと日本
 
日本には、奈良の正倉院に中国製やペルシア製の宝物が数多く残っており、天平時代に遣唐使に随行してペルシア人の李密翳(り・みつえい)が日本に来朝したことに関する記録なども残されている。
当時の日本は唐代の東西交通路の東端に連なっていたと認識されており、摂津国の住吉津(現在の大阪市住吉区)は「シルクロードの日本の玄関」、飛鳥京や平城京は「シルクロードの東の終着点」と呼ぶことがある。なお、ユーラシア交易と直接的な関係はないが、幕末から明治にかけて、日本の主要な輸出品であった絹を横浜港に運ぶ交易路が存在し、その集積地があった八王子から横浜にかけての道が「絹の道」や「シルクロード」と呼ばれることもある。

シルクロードに関しては近年の日本における学校教育でも取り上げられていたが、歴史やヘディンの著書などに関心を持つ一部の人たち以外には、さほど興味を引く存在ではなかった。
しかし、中華人民共和国との文化交流が進む過程でNHKが1980年に放送した『NHK特集 シルクロード-絲綢之路-』によって、喜多郎のノスタルジックなテーマ音楽とともに、一躍シルクロードの名が広く知れ渡ることとなった。

日本ではシルクロードという語は独特のエキゾチシズムやノスタルジアと結びついており、西安や新疆、ウズベキスタン、イラン、トルコなどへの海外旅行情報やツアーの広告には必ずと言っていいほど「シルクロード」という言葉が記されている。中央アジアといえばシルクロード、シルクロードといえば中央アジアという連想は根強い。
(資料ウィキぺデア) 

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