Galapagos Japas

国際政治と日本の古代政治変遷歴史 明治維新など特に集中して書いている

雨月物語

名著 雨月物語
1953年製作の日本映画。監督溝口健二。「浅茅が宿」と「蛇性の婬」の2編を川口松太郎と依田義賢が脚色した。出演は京マチ子、水戸光子、田中絹代、森雅之、小沢栄など。舞台は近江国と京に設定されている。ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞した。また、スタッフも文部省芸術選奨を、そしてエディンバラ映画祭においてデヴィッド・O・セルズニック賞を受賞した。


『雨月物語』という題は、どこからきたのだろうか。秋成自身の序文には、書下すと「雨は霽れ月朦朧の夜、窓下に編成し、以て梓氏に畀ふ。題して雨月物語と云ふ」という一文があり、雨がやんで月がおぼろに見える夜に編成したため、ということが書いてある。物語中、怪異が現れる場面の前触れとして、雨や月のある情景が積極的に用いられていることにも注意したい。

一方、これを表向きの理由、作者の韜晦であるとして、別の説も出されている。山口剛は、西行がワキとして登場する謡曲の『雨月』がもとになっている、という説を提唱したが、これは長島弘明が「白峯」との内容面での関係性が薄いとして否定している。また重友毅は、『雨月物語』にもところどころで採用されている『剪灯新話』「牡丹灯記」にある一節「天陰リ雨湿(うるほ)スノ夜、月落チ参(さん)横タハルノ晨(あした)」から来てるのではないか、と唱えている。高田衛は、秋成はこの両者に親しんでいただろうことから、このどちらか一方と考えなくてもよい、という考えを示している。


「雨月物語」は上田秋成によって江戸時代後期に著わされた読本(よみほん)作品。
序は、『雨月物語』の序文の全文である。ここには、上田秋成の『雨月物語』にかける意気込み、創作経緯が書かれている。この文中で秋成は、『源氏物語』を書いた紫式部と『水滸伝』を書いた羅貫中を例に挙げ、2人が現実と見紛うばかりの傑作を書いたばかりにひどい目にあったという伝説をあげている(紫式部が一旦地獄に堕ちた、というのは、治承年間、平康頼によって書かれた『宝物集』や延応以降の、藤原信実によって書かれたとされる『今物語』により、羅貫中の子孫3代が唖になった、というのは、明代、田汝成編の『西湖遊覧志余』や『続文献通考』によっている)。そして、どう見ても杜撰な、荒唐無稽な作品である『雨月物語』を書いた自分は、そんなひどい目に遭うわけがない、と謙遜している、ように見える。しかし考えてみれば、そもそもくだらない作品を書いた、と自分で思っているなら、当時でもすばらしい作品であると考えられていた『源氏物語』や『水滸伝』と自分の作品を比べるわけはあるまい。


仏法僧」は、時を江戸時代に設定している。伊勢国の拝志夢然という人が隠居した後、末子の作之治と旅に出た。色々見て廻ったあと、夏、高野山へと向った。着くのが遅くなり、到着が夜になってしまった。で泊まろうと思ったけれど寺の掟により叶わず、霊廟の前の灯籠堂で、念仏を唱えて夜を明かすことに決めた。静かな中過ごしていると、外から「仏法仏法(ぶつぱんぶつぱん)」と仏法僧の鳴き声が聞こえてきた。珍しいものを聞いたと興を催し、夢然は一句詠んだ。「鳥の音も秘密の山の茂みかな」

もう一回鳴かないものか、と耳をそばだてていると、別のものが聞こえてきた。誰かがこちらへ来るようである。驚いて隠れようとしたが二人はやって来た武士に見つかってしまい、慌てて下に降りてうずくまった。多くの足音とともに、烏帽子直衣の貴人がやってきた。そして、楽しそうに宴会をはじめた。そのうち、貴人は連歌師の里村紹巴の名を呼び、話をさせた。話は、『風雅和歌集』にある弘法大師の「わすれても汲やしつらん旅人の高野の奥の玉川の水」[27]という歌の解釈に移っていった。紹巴の話が一通り終った頃、また仏法僧が鳴いた。これに、貴人は、紹巴にひとつ歌を詠め、と命じる。紹巴は、段下の夢然にさきほどの句を披露しろ、といった。夢然が正体を聞くと、貴人が豊臣秀次とその家臣の霊であることが分かった。夢然がようよう紙に書いたのを差出すと、山本主殿がこれを詠みあげた。「鳥の音も秘密の山の茂みかな」。秀次の評価は、なかなか良いよう。小姓の山田三十郎がこれに付け句した。「芥子たき明すみじか夜の牀」。紹巴や秀次はこれに、良く作った、と褒め、座は一段と盛り上がった。

家臣のひとり、淡路(雀部淡路守)が急に騒ぎ出し、修羅の時が近づいていることを知らせた。すると、今まで穏やかだった場が殺気立つようになり、皆の顔色も変ってきている。秀次は、段下の、部外者のふたりも修羅の世界に連れていけ、と配下に命じ、これを逆に諌められ、そのうち皆の姿は消えていった。親子は、恐ろしい心地がして、気絶してしまった。朝が来て、二人は起き、急いで山を下った。後に夢然が瑞泉寺にある秀次の悪逆塚の横を通ったとき、昼なのにものすごいものを感じた、とひとに語ったのを、ここにそのまま書いた、という末尾で物語を締めている。

吉備津の釜 
「吉備津の釜」冒頭の妬婦論は、『五雑俎』(五雑組とも)巻八による。吉備国賀夜郡庭妹(現在の岡山市北区 (岡山市)庭瀬)に、井沢正太夫というひとがいた。この息子の正太郎というのは、色欲の強い男で、父が止めるのも聞かず、遊び歩いていた。そこで、嫁を迎えて身持ちを固めさせようと、吉備津神社の神主、香央造酒の娘と縁組がまとめられた。幸を祈るために、御釜祓いをすることとなった。これは、釜のお湯が沸きあがるときに、牛が吼えるような音が出たら吉、音が出なかったときは凶、となっていた。はたして、全くなんの音もでなかったので、この婚姻は凶と判断された。このことを香央が自分の妻に伝えると、先方も娘も心待ちにしているのに、この様な不吉なことを公表すれば、どうなるかわからない、ふたりが結婚するのは変えられない、と言い、そのまま縁組は進められた。
この嫁に来た磯良というのは、大変できた女で、家に良く仕え、非の打ち所がなかった。正太郎も磯良のことをよく思っていた。しかし、いつのころからか、外に袖という遊女の愛人をつくり、これとなじみになって、家に帰らなくなった。井沢の父は、全く行動を改めない正太郎を一室に閉じ込めた。磯良は厚く正太郎を世話したが、逆に正太郎は磯良を騙し、金を奪って逐電してしまった。磯良はこのあまりの仕打ちに病気で寝込むようになり、日に日に衰えていった。
一方、袖と駆け落ちした正太郎は、袖の親戚の彦六の厄介となり、彦六の隣の家で仲睦まじく生活した。しかし、袖の様子がおかしい。物の怪にでも憑かれたように、狂おしげだ。これはもしや、磯良の呪い……、と思っているうちに、看病の甲斐なく七日後、袖は死んでしまった。正太郎は悲しみつつも、菩提を弔った。それから正太郎は、夕方に墓参りする生活が続いた。
ある日、いつものように墓にいくと、女がいた。聞くと、仕える家の主人が死に、伏せてしまった奥方の代りに日参しているのだという。美人であるという奥方に興味を持った正太郎は、女に付いていき、奥方と悲しみを分かち合おうと訪問することとなった。小さな茅葺の家のなか、屏風の向うに、その奥方はいた。正太郎がお悔やみのあいさつをすると、屏風から現れたのは、まさしく磯良だった。血の気のないその姿も恐ろしく、正太郎は気絶してしまった。
気づくとそこは、三昧堂だった。慌てて家に帰って彦六に話すと、陰陽師を紹介された。陰陽師は正太郎の体に篆籀を書いて埋め尽くし、今から四十二日間物忌みをし、死にたくなければ必ず一歩も外に出ては行けない、ということを言った。その夜、言われた通り物忌みをしていたところ、女の声がして、「あなにくや。こゝにたふとき符文を設つるよ」と言った。彦六と壁越しにその恐ろしさを語るなどした。そして続く声の恐ろしさを感じながら、やっと四十二日目を迎えた。やがて夜が明けたのを見、彦六は、正太郎を壁越しに呼び寄せると、「あなや」と正太郎の叫び声がする。慌てて外に出てみると、外はまだ真っ暗で、正太郎の家には壁に大きな血のあとが流れており、軒に髻がかかっているのみ。正太郎の行方は分らずじまいだった。このことを伝えられると、井沢も香央も悲しんだ。まこと、陰陽師も、釜の御祓いも、正しい結果を示したものである。
(資料ウイキペディア)



(♪ MDB425)










 

東京ディズニーランド

ディズニーランドを日本に呼んだ男たち
 東京ディズニーリゾートの雑学 20150511舞浜新聞
今では年間3,000万人近くの人々が訪れる東京ディズニーリゾート。言わずと知れた、日本一の入園者数を誇るテーマパークです。
実はこの東京ディズニーリゾート誕生の陰に、情熱を持った男たちがいたことをご存知でしょうか。今回の記事では夢と魔法の王国の建設に尽力した、男たちの物語をご紹介します。

浦安は「のどかな漁村」だった 
東京ディズニーリゾートがある浦安市は、元々はのどかな漁村でした。今の舞浜地区も、昔は遠浅の海が広がっていたのです。山本周五郎の『青べか物語』では、漁村の頃の浦安が描かれています。
青べか物語 (新潮文庫)
作者: 山本周五郎 出版社/メーカー: 新潮社
発売日: 1963/08/12
 
海苔の養殖が盛んに行われていた浦安。しかし、高度経済成長期に、周辺の工場からの排水によって海は汚れていきました。

ちょうどその頃、三井不動産と京成電鉄を中心にして、浦安沖を埋め立てる計画が持ち上がります。三井不動産は住宅地の開発・分譲、京成電鉄は東陽町から浦安を経由して、千葉寺までを結ぶ湾岸新線を建設して、新たな運賃収入を稼ぐことを考えていました。
そんな浦安沖の埋め立て事業の会社として作られたのが「オリエンタルランド」でした。社名の由来は、埋め立て地に建設する遊園地の名称からでした。

ディズニーランドに出会った男 
当時のオリエンタルランドは名ばかりの会社でしたので、当時京成電鉄の社長を務めていた川崎千春が、オリエンタルランドの社長も兼務していました。
実はこの川崎こそ、「日本にディズニーランドを持って来よう」と考えた人物でした。
1958年1月、京成バラ園で販売するバラを買い付けるために、川崎はアメリカへと出かけました。そのときにカリフォルニア・アナハイムにあるディズニーランドに出会い、強い感銘を受けたのです。

「こんな素晴らしいものを、ぜひ日本の子どもたちにも見せたい」
 
そう考えた川崎は、なんとかして日本にディズニーランドが誘致できないか、模索を始めます。まだ浦安沖を埋め立てる前から、川崎は浦安にディズニーランドを造りたいと考えていました。
最大の壁は「漁民たち」 
浦安沖の埋め立て事業で一番の障害だったのが、漁民たちの漁業権放棄交渉でした。ただでさえ気性が荒い漁民たちの交渉を、誰に任せればよいのか。当時、三井不動産の社長を務めていた江戸英雄は悩みます。
そんなとき、白羽の矢が立ったのが、当時住宅会社の常務を務めていた高橋政知でした。
高橋は、東京銀行銀座支店と伊東屋の土地交換交渉のため、三井不動産で業務部長を務めていた江戸と出会います。
出会ってすぐに江戸は交渉を快諾。そんな潔さにほれ込んだ高橋は、江戸と酒を酌み交わす仲になります。そこで江戸は、高橋の酒豪ぶりを知ることになるのです。
高橋の父もかなりの酒豪として有名で、高橋は父から酒の手ほどきを受けていました。
江戸は高橋の酒の強さを買って、彼なら漁民交渉にうってつけだと直感します。江戸から交渉役を懇願された高橋は、しぶしぶ、その役を引き受けることに。浦安の町に高橋が乗り込んだのは、1961年夏のことでした。

高級料亭で豪遊三昧 
高橋は連日、都内の高級料亭で漁民たちを招いて大宴会を催しました。当時の大卒男子の初任給が月1万5千円ほどの時代に、1か月で70~80万円ほども飲み代に使うほどでした。漁民たちは上からではなく、自分たちをもてなしてくれる高橋にほれ込んでいきました。
川崎は高橋が持ってくる飲み代の領収書に、黙ってサインをしていきました。川崎も江戸と同様に、漁民たちをまとめ上げられるのは高橋しかいない、と考えていました。
一升瓶を持って、漁民たちの家を一軒一軒回る高橋。浦安沖を埋め立てて、ここに東洋一の遊園地を造る。だから漁業権の放棄をしてくれ。高橋は粘り強く交渉に当たります。
当初は3年かかるとみられていた交渉を、高橋はわずか半年でまとめ上げます。

後ろ盾を失う高橋 
1964年にオリエンタルランドは浦安沖の埋め立て工事に着手。1970年に最後の舞浜地区の工事が完了しました。いよいよディズニーランド誘致に向けて動こうとしていた矢先、1973年、日本をオイルショックが襲います。
当時上野に建設したばかりの京成デパートの売り上げも伸び悩み、川崎は京成電鉄に融資していた銀行団から、本業の鉄道業に専念するよう指示を受けます。結果的に、川崎はオリエンタルランドの社長を辞めざるをえませんでした。

また時を同じくして、江戸も三井不動産の社長職から降りることになります。ほぼ同時に支えを失った高橋は、川崎や江戸の思いを受け継ぐために、部下とともにディズニーランド誘致へと奔走することとなります。

ディズニーとの交渉と三井不動産 
オイルショックによる不景気のために「ディズニーランドは儲からない」と考えた三井不動産は、事業の縮小もやむをえないと考えていました。三井にとっては、東京から近い浦安の土地を住宅地として分譲するほうが、儲けが大きいと考えていたからです。

一方の高橋は1,700人以上の漁民に同意してもらい、海を埋め立てたという思いがありました。そんな漁民たちのためにも、何としてでもディズニーランドを浦安に持ってくる。そう強く考えていました。

権利関係に厳しいディズニーとの交渉は、並大抵のものではありませんでした。特にディズニーにとっては、当時フロリダ・オーランドで建設を進めていた「エプコット」が最優先であり、東京に資金を振り向ける余裕はありませんでした。

ウォルト・ディズニーの置き土産とも言うべき「エプコット計画」東京ディズニーランド開園から半年前の1982年10月に開園している。
ディズニーはオリエンタルランドに対して、ライセンス契約によるフランチャイズのパーク運営、出資はしない、建設費は出さない、さらには長期にわたるロイヤリティーの支払いなど、かなり無茶な要求をしてきました。
これを受けて、三井不動産はついに、ディズニーとの交渉の打ち切りを決断。しかし、高橋はそんな親会社の三井の命令を無視して、独断でディズニーとの契約を結んでしまいます。
ディズニーとオリエンタルランドとの間で基本契約を取り交わしたのは、1979年4月30日のことでした。そのときの写真には、握手を交わす高橋とカードン・ウォーカー社長(当時)の間にミッキーマウスの姿が写っています。

いよいよ東京ディズニーランドが誕生へ 
ディズニーとの粘り強い交渉の末、東京ディズニーランドの建設工事は1980年12月に着工しました。当初1,000億円を予定していた総事業費は、みるみるうちに膨れ上がり、1,800億円にも上っていきました。しかし高橋は、顔色一つ変えることなく、現場のスタッフたちに檄を飛ばしました。
「いくら金がかかってもいい。『本物』を造ってくれ。造る以上はロサンゼルスやフロリダのものに勝るものでなくてはいけない」
 1983年3月、建設工事は無事に終了し、竣工式が執り行われました。そして4月15日、小雨の降る中、東京ディズニーランドの「グランドオープニングセレモニー」が開催されました。高らかに開園宣言をする高橋。当時69歳でした。
開園当日はあいにくの雨。そのため、セレモニーはワールドバザール内で行われた。
川崎がアメリカでディズニーランドに出会ってから、25年もの歳月が経っていました。当時オリエンタルランドの相談役に就いていた川崎は、感激のあまり涙ぐんでいました。

酒とディズニーランド 
その後、高橋は東京ディズニーランドに次ぐ第2のパーク「東京ディズニーシー」をはじめとして、東京ディズニーリゾートの誕生に尽力します。しかし、確実に高橋の体は弱っていきました。

建設中の東京ディズニーシー
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1999年の年末には、建設中の現場を見て回っていたのですが、その後急速に体調が悪化。2000年1月31日、高橋は静かに息を引き取りました。酒とディズニーランドの86年間の生涯でした。
生前、高橋は周囲にこう語っていたと言います。
「ディズニーシーができたら、俺が一番乗りで酒を飲むんだ」
 酒豪の高橋らしいエピソードですね。高橋の88回目の誕生日となるはずだった2001年9月4日、かつて海が広がっていた場所に、世界で唯一の海をテーマにしたディズニーパーク「東京ディズニーシー」が開園しました。

ディズニーランドを日本に呼んだ男たち
川崎がもし、アナハイムのディズニーランドを訪れていなかったら…。もし江戸が高橋を、浦安の漁民たちとの交渉役にしなかったら…。もし高橋がディズニーとの交渉を断念していたら…。舞浜には今とは全く違った風景が広がっていたかもしれません。
1993年4月15日、開園10周年を記念して東京ディズニーランドの「アイスクリームコーン」のショーウインドウに「Office OF LEGENDARY CREATIONS」が掲げられました。日本語に訳すと「伝統的想像のオフィス」、創立者の名前には「MASATOMO TAKAHASHI」。隣には「夢を追い求め、実現した人」と記されています。
実は生前、高橋はアイスクリームをなめながら、よくパークを散策していました。そんな彼の姿から、ディズニーが後世に残る偉業をたたえるために、このショーウインドウを送ったのです。ディズニーパークに日本人の名前が刻まれるのは、これが初めてでした。
ショーウインドウはアイスクリームコーンからトイキングダム、そして現在はタウンセンター・ファッションの2階に場所が移されています。

参考文献
日本経済新聞『私の履歴書』高橋政知(朝刊・1999年7月1日~7月31日)
ディズニーランドという聖地
ディズニーリゾートの経済学

海を超える想像力―東京ディズニーリゾート誕生の物語
東京ディズニーランドをつくった男たち
東京ディズニーリゾート暗黒の軌跡
参考リンク
オリエンタルランド50周年史 | オリエンタルランドグループ
D23.com - Masatomo Takahashi - Administration, Disney Legends
幻の京成新線計画
©Disney(記事引用)

東京ディズニーランド 関連記事
東京ディズニーランドが客数減少で苦戦中という勘違い。そして「本当の課題」は? - 多田稔 (中小企業診断士)





「ハローキティ」が世界を覆う?

「これも“かわいい”なの!?」
ぐでたまで日本のかわいい文化の深淵を知る海外
NewSphere 2017年04月15日 11:00
 海外では日本の「かわいい文化」が依然として注目を集めている。「ハローキティ」のグッズを身につけて街を歩く女子は、もはや日本だけでなく世界中で見られる風景となっている。この現象を社会学・人類学的な観点から分析する研究者まで存在するほどだ。
 最近、海外ニュースメディアでは、かわいい文化における新現象とされているキモかわ、あるいはゆるかわのキャラクターが関心を集めている。とりわけサンリオのキャラクター、「ぐでたま」と「かわいい」という概念の変化の関係に焦点が当てられているようだ。一体なぜ人生に疲れているこの卵が愛されているのだろうか?

◆かわいい文化が日本経済を支えている?


画像ハローキティ(クーグル検索より引用) 
ダウンロード 70年代にはじまったといわれているかわいい文化は、従来丸くて可愛らしいキャラクターから成り立っていた。キティちゃんやその友だちはもちろん、くまもんをはじめ、ゆるキャラの人気が日本においてかわいい文化がどれだけ広まっているかを如実に語っている。
 ガーディアン紙で指摘されているように、かわいい文化は依然として日本経済においても大きな役割を果している。つまり、かわいさを通じて消費者の興味を惹くことができている。人間は本来、小さくてか弱い、険悪ではない物に対して自然と「かわいい」と感じる性質がある。消費者にとって手頃な値段ではない物でもかわいい雰囲気を漂わせていればより手に取りやすくなるというのだ。とはいえ、市場が飽和状態になっているなかでかわいさを通じて消費者の関心を呼び起こすのは容易なことではない。そのため、「キモかわ」や「ゆるかわ」という新たな概念が作られたのだ。
 では、次々登場している新しいキャラクターのなかでなぜぐでたまが海外で注目を集めているのだろうか?
◆「人生ニガい」ぐでたまの声に思わず共感
 Web誌『クオーツ』は、ぐでたまが動物ではなく単なる卵である点が独特で、海外において関心を集めている理由だと指摘する。また、ハローキティをはじめ、従来かわいい文化を象徴してきたキャラクターと違って、ポジティブな側面だけを持っているわけではないアンチヒーローであることも人気の理由の一つだとしている。
 Web誌『Vox』は、人々がぐでたまに惹かれる理由はその見た目だけではなく、キャラクターの個性にあると述べる。つまり、現在不穏な社会変動に生きている人々は、「人生ニガい…」と悩んでいるぐでたまに対して共感を覚えるのだ。疲れているぐでたま、眠たいぐでたま、何もしたくないぐでたまの気持ちは、万国共通、誰でも理解して共有できる気持ちだといえよう。
◆ぐでたまが作った新たな「かわいい文化」
 ぐでたま現象がアメリカと日本のそれぞれのかわいい文化の相違点について考えさせるきっかけを作った、とVox誌は指摘する。アメリカをはじめ、欧米ではかわいいの概念が非常に単純だ。キャラクターの描き方からも理解できるように、善玉と悪玉がデザインによってはっきりと分けられており、かわいいキャラクターは善良さや優しさだけを象徴しているのだ。
 一方、日本では善玉と悪玉の間のグレーゾーンが存在する。キモかわやゆるかわの概念は、日本におけるかわいい文化が白黒ではなく非常に複雑であること、また常に変化していることを如実に語っているのだ。
◆見た目を超越した「かわいい」の概念
 LINEスタンプや動画など、ぐでたまが日常生活のあらゆるところに姿を現している。それらを友だちに共有する行為が、人生に疲れているぐでたまへの共感を表し、自分も人生に対して同じ気持ちを抱いていることを表現することになっている。ぐでたまがかわいさの概念だけではなく、かわいさに対する人々の反応をも変えたといえるのではないだろうか。
「かわいい」とは、もはや見た目を超越した概念となっている。ぐでたまをはじめ、新しいかわいい文化のキャラクターたちは我々の心を癒し、恐怖や挫折を乗り越える力を与えてくれるのだ。 
(グアリーニ・レティツィア) 
南イタリア出身で、2011年から日本に滞在。ナポリ東洋大学院で日本文化を勉強してから日本の大学院に入学。現在、博士後期課程で日本現代文学とジェンダーを研究しながら、Webライターとして海外旅行、異文化、難民などについて執筆。
(記事引用)

マネタイズで潤うPPAP
町村泰貴 2016年12月23日 15:24 
ネット上の動画や画像を無断で転用することは、引用の要件を満たさない限り著作権侵害。
引用の要件は難しいことではないが、基本的に二次的著作となるような翻案では引用にはならない。
ところが、著作権者がマネタイズにより収益を期待して公開している場合は、複製・公衆送信はもちろん、翻案すら許容される。インターネット時代に見合った著作権のあり方だ。
そんな収益モデルと方向性を如実に示したのがPPAPのピコ太郎である。下記の記事がそれを分かりやすく伝えている。
ピコ太郎 関連動画で潤う
これによれば、YouTubeが画像にコンテンツIDをつけて、この画像を無断で転載したり改変してアップロードしたりした画像を特定し、その画像に広告を付けて、広告収入は元の著作権者に入るという仕組みがとられている。

これで無断で著作物を利用されていた著作権者たちは、それを差し止めるのではなく、むしろ推奨する方向にインセンティブが働くというわけである。

こうなると、ネット上の動画を二次的著作物に仕立てて新たな価値を付与してアップすることが「悪いこと」から「良いこと」に180度転換し、ネットの特にCGM的表現がより豊かになることであろう。
(記事引用)
 
Media:有罪推定のメディア
2017/04/17 matimura.cocolog
またも繰り返される有罪決め付け報道である。
【千葉女児殺害】繰り返される有罪推定報道
詳しい内容は上記リンク先の記事を読んで欲しいが、この場合、結果的に逮捕された男性が真犯人かどうか、また裁判で有罪判決が確定するかどうかは関係がない。

もちろん、犯罪が行われ、その犯人であると名指しして断定することは、捜査機関や裁判所だけができることではない。私人でも、告発や告訴をする場合は犯人と決めつけている。
また使用者が従業員の刑事犯罪を理由に懲戒処分を下す場合だって、裁判所の有罪判決確定は要件ではない。
しかしマスメディアが警察発表を鵜呑みにして、時として熱狂的に犯人決めつけ報道をする場合は、読者の義憤感情に訴えかけて、営業的な利益を追求しているものである。
そしてその結果は、世間の人たちが報道を信じて被疑者を犯人と信じ込み、そうした刷り込みを受けた人の中から裁判員が選ばれるのである。いや、裁判員だけではなく、裁判官は決して認めないが、その影響は裁判官にも及ぶというべきである。
後に冤罪が判明することは、確率的には多くない。今回の被疑者が有罪と決め付けられないのと同様に傍観者には無実と決めつける材料もない。単純に確率的には、逮捕されれば有罪の可能性が高いことは否定しにくい。
しかし、それでも、過去の有罪決め付け報道が結果的に間違っていたという事例の被疑者に与えたダメージを思い起こすべきだ。
有罪決め付け報道は、結果的に有罪であった場合でも、その報道が正義の実現に寄与することはほとんどないのに対して、結果的に無罪であった場合には、その報道による被害は甚大なものがある。
いや、結果的に有罪だったとしても、被疑者の家族に対する不当な攻撃を自らも行ない、また世間の矛先も向けさせるという事態をもたらすのであるから、百害あって一利なしである。
ただし、疑惑の相手が権力者である場合、公人である場合、あるいは私人と閣議決定されても公的に活動し公的に影響力を発揮している人である場合には、遠慮はいらないのだが。そういう場合にこそメディアの真相究明機能に期待が集まるのだが、現実には、被疑者が一般私人の場合に、つまり弱い立場の人に限って、犯罪決め付け報道に走るきらいがある。
ともあれ、マスメディアは冷静さを失わず、また商売に走ることなく、淡々と事実を明らかにして欲しいものである。
(記事引用)










(♪ リボカクサン)
050324
















 





画像 氷の回廊 (厳冬のチベット、河が凍って、にわかバイパスとなる)

そろそろ、日本も春を越えて一気に初夏になりそうな季節柄・・・










 

ザ・マスターズ

「マスターズ」宴の後の「祝杯」「苦杯」「悔杯」
 新潮社フォーサイト- 舩越園子 2017年04月12日 16:32
 マスターズ19回目、メジャー74大会目にして、ついに勝利を掴んだセルジオ・ガルシア(スペイン)がグリーン・ジャケットを羽織る恒例の儀式に臨んでいたちょうどそのころ、今年から新装されたプレス・ビルディングでは、プレーオフのうえ苦杯をなめたジャスティン・ローズ(英国)の敗北会見が行なわれていた。

 今年は本当にいろんなことが起こったマスターズだった。開幕前の練習日は雷雨に見舞われてコースが何度もクローズ。予選2日間は寒波と強風に襲われ、世界のトッププレーヤーたちの戦いは我慢比べの様相を呈した。

 優勝候補の筆頭に挙げられていた世界ランキング1位のダスティン・ジョンソンは、開幕前日に宿舎として借りていたコース近郊の民家の階段で転落。腰と左ひじの痛みと腫れは事故から初日のティオフまでの23時間では治らず、練習場から1番ティに向かう途上、「棄権」という苦渋の決断を自ら下した。

 ジョンソン不在の4日間、選手たちはさまざまなドラマを繰り広げたが、最後に優勝を競い合ったのは37歳のガルシアと36歳のローズ。首位に並んで72ホール目を迎えた2人は、そのままプレーオフ1ホール目の18番へ進み、5メートルのバーディーパットを沈めたガルシアの勝利で幕を閉じた。

「もはやセルジオは“メジャー優勝無きベストプレーヤー”ではなくなった。彼は勝者に値する」

 頷きながらそう言ったローズは、サンデーアフタヌーンの優勝争いを静かな口調で振り返り始めた。

勝利のカギ
「観ていた人々が一番ドキドキしたのは、15番、16番だろうね」

 ガルシアが8番アイアンでピン5メートルにぴたりと付け、イーグルパットを沈めた15番で2人は首位に並んだ。そして16番。ローズは3メートルのバーディーパットを沈め、再び単独首位へ抜け出してガッツポーズ。確かに、この2ホールには興奮させられた。

 だが、優勝会見で勝利のカギを尋ねられたガルシアは、こう答えた。

「13番のパーが大きかった」
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 アーメンコーナー(最大の難所と言われ、選手はみな祈るしかないという意味の別称)の13番(パー5)。ガルシアのドライバーショットは「いい当たりだったが、3ヤードだけ左に出て」、木に当たり、ブッシュの中へ。あの瞬間、ガルシアの敗北を予感した人は多かっただろう。

 だが、ガルシアは諦めなかった。「ここから、なんとかパーで上がろう」。ドロップ後の3打目でフェアウエイに出し、4打目をピン1メートルに付けて、パーを拾った。

 その姿は、予選ラウンドを戦っていたときからガルシアが口にしていたフレーズをそのまま地で行くようなプレーぶりだった。

「最近の僕は、悪いことが起こっても、悪い流れを良い方向へ変えていく努力をしている」

 何が起こっても、生きていれば、どうにかなる。生き残ってさえいれば、チャンスはある。そう信じながら、13番のブッシュの横で、慌てふためくことなく、むしろ穏やかな表情でボールをドロップしていたガルシアの姿は、妙にカッコ良かった。

笑顔で勝つ
 
 慌てないこと。穏やかであり続けること。楽しもうとすること。笑顔を讃えること。それが、今年のマスターズで優勝争いを演じた2人と他選手たちとを分けた最大の違いだったと私は思う。

 そう言ってしまうと、「笑顔なんかで勝てるわけがない」「穏やかな気持ちで戦い抜けるはずがない」「勝敗を分けるものは技術だ」と反論したくもなるだろう。

 確かに、勝敗を分ける決定打というものはある。ガルシアとローズの勝敗を分けた決定打は、プレーオフ1ホール目のティショット。ガルシアは堂々とフェアウエイを捉えたが、ローズは右の林に打ち込み、ボールはキックして木の下のパインストロー(松の枯れ葉)の上へ。「あのホールで右はノーチャンス」。ローズ自身もあの1打を敗因に挙げた。

 しかし、その決定打に至る前に、ガルシアとローズの2人だけが優勝争いに生き残れたのは、なぜか。その理由は、彼らの技術が他選手たちのそれを上回っていたというより、彼らの胸の中が他選手たちより安定し、余裕を抱き、最もポジティブであり続けられたからではないだろうか。

 ガルシアは「悪い流れを良い方向へ変えていく」と心に誓い、それを実践し続けた。ローズは「僕は終始、冷静に穏やかにセルジオのプレーを眺め、自分自身をコントロールできていた」。

 そして、ローズのこの言葉に一番頷かされた。

「戦いを楽しもうという意欲がなければ、勝つための準備は決してできない」

 そう、「笑顔で勝つ」とは、そういうこと。湧き出る意欲が笑顔を輝かせ、ゴルフを輝かせる。今週、ガルシアもローズも明るい表情を見せ続けていたことは、2人が優勝争いを演じることの示唆だった。

試合があればクラブを握る
 日本の期待を一身に浴びながら、しかし不調を抱えたまま今年のマスターズに臨んだ松山英樹は、ガルシアやローズのような笑顔を一度も見せることなく、終始、険しい表情でオーガスタから去っていった。

 パットの不調は最後まで改善されなかったが、ショットは3日目ごろから上向き始め、最終日には、この日のベストスコアとなった「67」をマークして28位タイから11位タイへ浮上。来年の出場権をしっかり確保したその巻き返しぶりには、世界4位で臨んだ松山の技術の高さ、底力の強さが溢れていた。

 しかし、マスターズで勝つことを夢みてきた松山にとっては、優勝以外は「悔しい」結果に過ぎないと彼は言った。

 そして、自分の最高潮をマスターズウィークに合わせることができず、不本意な形でマスターズを迎えたときも、終えたときも「(クラブは)試合があれば握る」という心境だと彼は言った。

 寝ても覚めてもクラブを握りたい、戦いたい、優勝を狙いたい――そんなふうに心の奥底から湧き出すものがオーガスタの松山の中に存在しなかったこと。笑顔をまったく見せられなかったこと。

 それは、ローズが言った通り、「楽しもうという意欲がなければ、勝つための準備は決してできない」ということだったのではないだろうか。

 まだマスターズ6度目の25歳に、百戦錬磨で37歳のガルシアや36歳のローズのような穏やかな心持ちを望むことは酷ではある。だが、ときにメジャー優勝は、とりわけマスターズ優勝は、求めすぎると離れていく陽炎のようなものであることを実感する日は松山にもいつか来るだろうとも思う。

 そんな実感が伴えば、30歳代のベテランの域に入ることを待たずして、松山にも穏やかな笑顔が見られるようになり、彼のグリーン・ジャケットは、きっとその先にある。

メジャーわずか1勝?
「もはやセルジオは“メジャー優勝無きベストプレーヤー”ではなくなった」

 敗北会見でそう言ったローズが静かな笑顔を讃えたまま去っていった数十分後。表彰式を終え、グリーン・ジャケットを羽織ったガルシアの優勝会見が始まった。

「ようやく僕は“メジャー優勝無きベストプレーヤー”ではなくなった」

 そんな冗談交じりの言葉で喜びを表わしたガルシアだが、実を言えば、そう呼ばれていたことは、さほど嫌ではなかったそうだ。

「確かに、これまでの僕にはメジャー優勝が無かったけど、少なくともベストプレーヤーだと常に認めてもらっていたということだから、それはそれでナイスだよね」

 会見場は穏やかな笑いに包まれた。

今だからこそ、そんなジョークも口にできるようになったが、メジャー優勝だけをガツガツと渇望した若かりし日々は、もちろんあったとガルシアは言った。

「勝てない勝てないと言われることは平気だったけど、勝利を逃した過去の場面が肝心なときに頭に浮かんでくることが嫌だった」。

 マスターズを制し、ついにメジャー優勝を挙げたこの日のことは「僕の生涯の宝になる」と、まるで老齢の選手のような言い回しをした直後。

「でも、これからは僕は“メジャーでわずか1勝しか挙げていないベストプレーヤー”と呼ばれるのかな」

 壇上のガルシアも世界のメディアも、みんなが穏やかな笑顔をたたえた素敵なサンデーイブニングだった。
(記事引用)



 
 

「東芝」赤字1兆100億円の衝撃

「東芝」赤字1兆100億円の衝撃・・・
といわれても困ってしまう。何に困るかって、桁の多さ、それを隠し続けた会長社長役(以下監査役付等)の隠蔽体質と、それを知っていたであろう永田町上層級官僚の一蓮托生的体質など、切るにきれぬ、消すにけせない江戸幕府的な官僚機構が、これを隠蔽しそして作り続けた、と邪推している。

個人的にこの世界の人間でない素人の私が云うことだから、信頼に値する、というわけにはいかないが、それでも薩長・徳川「明治維新」を短期間集中的に勉強した。
そしてそれ以降の「新日本」形成にかかわった現在の「財閥」「大企業」といわれる経済界と、戦前戦後処理の軍の陰部と復興に拘わった、それら企業が、「豊洲」問題にみられるように、今日の新事業に思わぬインパクトを与えてしまうような「瑕疵」が地下に埋蔵され、それが死者怨霊がよみがえる様な毒薬物が採掘されるという歴史がひよっこり顔をだす。

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東芝の、その巨額損失と、それがどうリンクするのか、という疑問を抱くことだろうが、正当な遺伝子継承の嫡出子に対して、何らかの理由により「わが子ではない」と否定したところで科学的遺伝子解析をすれば、たちどころにそれは判明する。

それと同様に、東芝の1兆100億円の損出が判明した事実は、昨晩と昨日の話し合いで判ったはなしではなく、江戸時代の「田中 久重」よりスタートしていた、と私は推察する。
※田中 久重 寛政11年9月18日(1799年10月16日) - 明治14年(1881年)1月11日)は、江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれた。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者。田中製作所の設立
寛政11年9月18日(1799年10月16日)、筑後国久留米(現・福岡県久留米市)の鼈甲細工師・田中弥右衛門の長男として生まれた。幼名は儀右衛門。幼い頃から才能を発揮し、五穀神社(久留米市通外町)の祭礼では当時流行していたからくり人形の新しい仕掛けを次々と考案して大評判となり、「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになる。20代に入ると九州各地や大阪・京都・江戸でも興行を行い、各地にその名を知られるようになる。彼の作で現存するからくり人形として有名なものに「弓曳童子」と「文字書き人形」があり、からくり人形の最高傑作といわれている。
(ウイキペディア)

あまり立ち入った話しだから怪訝に思うだろうが、経験談として「東芝」の季節労働に1年間仕事をした経験から発言している。内容はともかくとして、「なるほどそれが土壌か」という思い当たる節はいたるところに散見していた。

また、ちまた世間で囁かれている、大きすぎて潰せない、国家的危機を招く、雇用問題で経済界に与える影響が大きすぎる等々、官僚が云いそうな言い訳が、そこかしこに表出している。

単純に考えて~、単純でなくてもだが、1兆100億円という巨額は、ある1国の国家予算に匹敵するし、(日本の国家予算決定一般会計予算過去最大95兆8823億円)その紙幣をダンプに積載して豊洲勝鬨橋梁を走ったら橋が崩落しそうな重量になる。

それを潰さないようにするには国家予算の中から、引当金項目計上して、それに当てがう、だろう。(あくまで推測でありそんな算段はいまのところどこにもない)

もちろんそれは政治問題化し、与野党攻防議題になるだろうが、国民はどうかというと、これまでの事例からして国に追随してきた。東芝社員(その配下の関連企業多数)の多さからして、否とはいえない事情もある。

そんな諸々を勘案してもなお、東芝役員の「株式総会」でみせた「苦渋の顔」は明日にでも「切腹」しそうな面持ちだが、そこは日本人的表裏使い分けのうまさで、福島「東電」侘び行脚で立証済みである。

これは今日的ニュースである。が、ここに掲示しても明日には忘れ去られる運命だ。それが報道の宿命。

しばらくこの問題を追って日本の企業体質を探ってみたい。昔(40年前)だったら新聞メディアがそれをしていた。いま、まったくやらない。やる以前に新聞が読まれないからだ。

じゃその穴埋めはネットがしているか、と問えば、「烏合の衆」「玉石混交まったくなし」の砂利ばかりで、好き勝手、自分の利益オンリー意見のオンパレードで、読むに値する記事もない。

そうやって「健全」メディアが完成している。よからぬ思想は、そうして排除されるからだ。

※参考にした人物「吉本 隆明」(1924年(大正13年)11月25日 - 2012年(平成24年)3月16日)は、日本の詩人、評論家。東京工業大学電気化学科卒業。学位は学士。東京工業大学世界文明センター特任教授(講義はビデオ出演のみ)。

東芝の経営危機 東芝 企業合併や買収(M&A)
shima 2017 03 30 ・ビジネスニュース
東芝の転落にみる買収ブームの危険性 M&A経営の落とし穴
2017年3月30日 17時0分 まぐまぐニュース!
ジャーナリストの「嶌信彦」氏が買収ブームに警鐘を鳴らした
手っ取り早いM&Aに資金を注ぎ失敗した企業の例は枚挙に暇がないと指摘
努力を強みとしていた農耕民族のDNAを忘れているとした

赤字1兆100億円の衝撃。死に体「東芝」はどこで踏み外したか

東芝は3月29日、巨額の損失を抱え同社の経営を悪化させていた子会社の原子力メーカー・ウエスチングハウス(WH)がアメリカの破産法適用の申請を行った影響で、今年度の決算の最終赤字が1兆100億円になる可能性があると発表しました。我が国を代表する大企業は、どこで道を誤ったのでしょうか。無料メルマガ『ジャーナリスト嶌信彦「時代を読む」』の著者・嶌さんは、東芝の栄光から転落までを振り返るとともに、日本における「買収ブーム」の危険性についても言及しています。

東芝の凋落に何を学ぶか M&A経営の落とし穴
 
東芝の凋落は、産業界だけでなく世間一般にも大きな衝撃を与えている。折り紙つきの超優良企業とみられていても、経営判断のミスからあっという間に転落してしまう事実をまざまざと見せつけたからだ。

東芝といえば、テレビや半導体、重電機、軍事・防衛関連、鉄道車両など家電から重電に至る総合電機メーカーとして、日本を代表する超優良巨大企業だった。1930年代から冷蔵庫、洗濯機、掃除機などの国産化製品を次々と生産、その後も電子レンジ、炊飯器など白物家電など日本人の家庭生活、ライフスタイルを変革する製品を作り、日本の生活文化をリードしてきた企業だった。

その東芝が2015年に明らかになった粉飾決算をきっかけに、一挙に転落への道をたどっている。わずか2年前のことながら、当初は白物家電事業の一部の売却で収拾するとみられていたが、東芝事業の両輪を支える半導体事業、原子力事業にまで及ぶ深刻な経営問題にまで発展してしまったのだ。

発端は2015年決算から
 
不祥事が発覚したのは2015年の決算からだった。決算発表の延期と配当の見送りを決め、第三者委員会が調査報告書を提出したところ、会社で「チャレンジ」と称して架空の売り上げや利益水増しの粉飾が明るみに出た。このため田中久雄社長や前社長の佐々木則夫副会長、さらにその前の西田厚聰元社長ら直近の3社長と経営陣9人が引責辞任し、東芝株は東証によって特設注意市場銘柄に指定されてしまった。まさに、あれよあれよという間に名門東芝は傷だらけの企業になってしまったのである。

2016年になると7,191億円の営業赤字と4,832億円の最終赤字を出すに至り、資金繰りまで苦しくなって3月までに白物家電、医薬品事業、映像事業などを次々に売却、従業員約1万人のリストラにまで及ぶこととなる。

WH買収で底なし沼へ
 
だが、本当に深刻な事態はその後にやってくる。2006年、西田社長時代に約6,000億円とも言われる金額で買収したアメリカ原子力メーカー・ウエスチングハウス(WH)でも、巨額の赤字を抱えていることが分かってきたからだ。WHの買収によって東芝は原子力事業を半導体と並ぶ将来の経営の柱とすることを公言し、世界から30基以上の原発の受注を取れると見込んでいた。

しかし、アメリカの原子力発電所建設の過程でWH関連子会社の工期が遅れ、その遅れによって生ずる損失は東芝が責任を負う契約となっていたため、7,000億円を超す赤字が見込まれることになってしまったのだ。

好調半導体分野も道連れに
 
その結果、債務超過のおそれも出てきたため、世界で2位のシェアを誇り年間1,100億円の利益を生み出す稼ぎ頭であった半導体部門の分社化と、株の放出に手をつけざるを得なくなってきたのである。こうして、東芝の今後の事業の核となる原子力分野と半導体部門はズタズタになってしまった。将来の成長分野とみた2分野。特に半導体部門の分社化、株売却は苦渋の決断だったようだが、債務超過を防ぎ、とにかく資金繰りを確保するにはやむを得ない処理方針だったようだ。

しかし、当面の資金繰り確保が出来たとしても今後の成長の柱を失ってしまえば、再生・再建の足がかりをどこにつかむか。その将来も厳しいものになると予想される。

日本は農耕民族型のDNAでは?
 
現在の日本は、どの業界も買収ブームである。バブル時代やその後にため込んだ内部留保は国内の消費不況から設備投資に向けることができず、結局売り上げ、利益を増やすには海外企業の買収に向かわざるをえない企業が目立つ。日本はもともと、農耕民族でコツコツと田畑を耕し、良い作物を作る工夫に知恵を絞り、努力を重ねてきたことを強みとしていた。それなのに本来のDNAを忘れ、手っ取り早いM&Aに資金を注ぎこみ失敗している企業の例は枚挙に暇がない。グローバル化、IT化、M&A時代の開発と企業成長のあり方をじっくり考えてみる時期かもしれない。

(TSR情報 2017年3月28日)

参考情報
なお、東芝は3月29日、米原子力子会社ウェスチングハウス(WH)など2社の連邦破産法11条の適用申請を受け、綱川社長が記者会見を行なった。これによって2017年3月期にWHグループは東芝の連結から外れる。

主な内容は以下の通り(日経新聞速報より抜粋)
WHなどの2社の負債総額は計98億ドル(約1兆900億円)。これによって東芝の2017年3月期の連結最終損益が最大で1兆100億円の赤字(従来予想は3,900億円の赤字)となる可能性を発表。赤字額は09年3月期に日立製作所が記録した7,873億円を上回り、国内製造業としては過去最大となる見通し。これにより東芝の債務超過額は17年3月末で6,200億円となる可能性も明らかとなった(これまでの債超超過額見通しは1,500億円)。
image by: Flickr
『ジャーナリスト嶌信彦「時代を読む」』
著者/嶌信彦(記事一覧/メルマガ)
ジャーナリスト嶌信彦が政治、経済などの時流の話題や取材日記をコラムとして発信。会長を務めるNPO法人日本ウズベキスタン協会やウズベキスタンの話題もお届けします。
出典元:まぐまぐニュース!
(記事引用)

東芝「WH破産申請」で露呈した再生計画のウソ
2017年3月29日 22時0分文春オンライン
 一通のメールが届いた。
【東芝】記者会見のご案内
 3月29日(水)17:45~18:30 受付開始 16:45
 30分で来い、というわけだ。
 
 16時50分に会見場(東芝本社)に到着。すでに会場は、報道陣で埋め尽くされていた。前方から10列目までの席には大手メディアの名刺が敷き詰められている。「花見の席取り」である。新人がいち早く会場に駆けつけ、名刺を置く。先輩記者たちは直前に悠然と現れ、最前列にどっかと陣取る。組織力のないフリーランスの悲哀を感じる場面である。
30分前の召集にもかかわらず超満員の会見場 c大西康之
 机の上にはすでにニュースリリースが配られている。
「当社海外連結子会社ウェスチングハウス社等の再生手続の申立について」
 東芝の原発子会社ウエスチングハウス(WH)が、米連邦破産法第11条(通称チャプター11)の適用をニューヨーク州連邦破産裁判所に申請したのだ。事実上の倒産である。
 WHのチャプター11申請は日本のメディアで既定路線になっており、一部の新聞は「現地時間の28日に申請」と書いた。このため28日の夜、東芝担当記者たちは東芝からのメールを待っていた。だが待てど暮らせどメールはこない。
 夜があけた。まだ米国は28日だ。担当記者たちは早朝からメールを待ち続けた。
 それでも、やはり来ない。 
 前述の通り、メールが来たのは29日の午後16時。申請は24時間受け付けられるため、手続き上は問題ないが、ニューヨーク州も日付は29日になっていた。東芝、WHのドタバタぶりがわかる。
「WHを連結から外した」というレトリック
 まず断っておきたいのは、現時点で東芝はチャプター11の適用を申請しただけであり、裁判所に再生計画が認められたわけではないということだ。
 東芝が3月中のチャプター11申請にこだわったのは、今期中にWHを連結対象から外し「これ以上損失は拡大しない」と金融機関にアピールしたかったからだろう。しかし米国の裁判所はそんなことは知ったことではない。申請を受理するかしないかは、今後の裁判所の判断にかかっている。WHが提出する再生計画を裁判所が認めなければ、話は振り出しに戻る。あたかも既にWHを連結から外したかのような東芝のアピールは、紳士的とは言えない。
製造業過去最悪の赤字額
 記者会見の出席者は綱川智社長、平田政善専務、畠澤守原発担当常務の3人。
淡々と話す綱川智社長 c大西康之
 綱川社長は淡々とした表情でこう説明した。
「WHに対する親会社保証などを求められた場合、東芝の2017年3月期の最終損益は1兆100億円の赤字になる」
 そうなれば、09年に日立製作所が発表した赤字額7873億円を抜き、製造業として過去最悪の赤字となる。
「WH買収から10年余。東芝はどこで間違えたのか」と問われると、綱川社長は寂しそうな顔で言った。
「私にはわかりません」
 原発事業の暴走が引き起こした巨額損失の穴埋めに、自分が育てたメディカル事業を売却せざるを得たかった綱川氏の本音だろう。
「インペア」の予兆
空を見つめる平田政善専務 c大西康之
 このタイミングでWHのチャプター11申請に踏み切ったことについて「金融機関から圧力があったのでは」と聞かれると、平田CFOの血相が変わった。
「絶対にありません」
 しかし平田氏の言葉を簡単に信じるわけにはいかない。粉飾決算騒動の最中に、東芝テックから呼び戻され、2015年9月にCFOに就任した平田氏は、この場所(東芝本社39階会議室)で、何度も嘘をついているからだ。

 2015年11月、平田氏はここで、こう言い切った。

「原子力発電関連などの社会インフラは当然、黒字にならないとおかしい。電力向けは送変電・配電のシステムなどの受注が増加している。ウエスチングハウスも減損の兆候はありません」

 1年半前に健全だった会社で、何が起きるといきなり倒産するのか。予兆は何年も前からあった。

「インペア、あるらしいぞ」

 東芝の原子力事業部門でそう囁かれ始めたのは2009年。「インペア」は「impairment(減損)」を指す。東芝がWHを買収したのは2006年のこと。3年後にはすでに社内で減損を意識していた。

 それから8年の長きに渡り、東芝は外部の目を欺き続ける。

 2012年3月末にはWHのCEO(最高経営責任者)に内定していたジム・ファーランドが突然、退職する。ファーランドは直前の3月まで、約1ヶ月かけて「次期CEOです」と、米国の電力会社で挨拶回りをしていただけに、業界にショックが走った。

「WHの内情はそれほどひどいのか」

 ファーランドの退職は「一身上の都合」とされ、会長の志賀重範が急遽CEOを兼務することになった。

 半年後の2012年9月、ダニエル・ロデリックがWHのCEOに就任する。ロデリックはゼネラル・エレクトリック(GE)で長く原発事業に携わった男で、業界では「やり手」と言われた。

「やり手」と期待されていたWHロデリックCEO cgetty

 東芝はWHを買収した後、志賀ら数名の役員を送り込んでWHの立て直しと一体化を進めようとした。だが「自分たちは世界で最初の商用原発を動かした会社だ」というプライドに凝り固まったWHは、東芝を格下に見て言うことを聞かない。

 おそらく買収から6年以上、東芝はWHの実態を把握できていなかった。

「これでようやくまともになるかも」

 東芝社内に安堵の空気が流れた。しかし“ミイラ取り”のロデリック氏は、自らがミイラになってしまう。CEOに就任してしばらく経って、メディアに露出し始めたロデリック氏は「WHは米国、中国だけでなく、インドでもトルコでも順調に受注を獲得している」と言い始める。
「嘘つけ」
 事情を知る東芝社員たちは落胆した。「やり手」と期待されたロデリック氏も、実のところは原発事業からフェードアウトを始めたGEの「窓際族」であり、原発にしがみついて生きていくしかない男だった。
スポンサーありきの「再生計画」
「海外原発事業のリスクは遮断した」

 綱川、平田、畠澤の3氏は1時間半の記者会見でそう繰り返した。

 だが真に受けることはできない。

 裁判所に駆け込むだけで、10年余の失敗のツケを払いきれるとは思えない。世界各国で建設中の原発を放り出し「あとは知りません」という無責任が通るほど世界は甘くないはずだ。

「もしスポンサーが見つからなかったら再生計画はどうなるのか」

 記者会見の終盤で本質を突く質問が出た。

「今回、減損対象になった米国で建設中の原発以外の事業は順調なので(スポンサーの登場は)十分、見込みがあると考えています」

 そう答えた畠澤氏の顔は「燃料とメンテナンス事業は堅調で、減損の兆候はありません」と1年半ものあいだ言い続けた平田氏の顔に重なって見えた。二人とも、サラリーマンの役目に徹する「能面」のような顔をしていた。
(大西 康之) 文春オンライン


「科学よりも風評」「安全より安心」な日本人の感情論が科学を停滞させる
2017年3月30日 7時0分 文春オンライン やまもといちろう
 自分の得意分野でニュースがあるとテレビや新聞雑誌の取材を受けたり、情報番組に呼ばれたり、月に2度ほど朝の番組でコメンテーターをやったりする私ですが、一番困るのは「得意でない話を振られたとき、自分でもクソみたいなコメントを言わざるを得なくなる現象」というものがあります。
とりわけ、どこかに台風が来た、地震が起きた、殺人事件があった、大変な交通事故だ、いろんな問題が起きたとき、MCの大御所から「どう思いますか」とか振られるわけですよ。もうね、ただただ「お大事に」としか言えなくなるわけです。面白いことを言おうとすれば不謹慎だし、何も語れなければ置物扱いされてしまいます。洪水が起きて家の前の道が濁流になっている映像を必死になって伝えているレポーターを見て「うわ、住人も仕事で現地行くディレクターさんもレポーターも大変だな」と思うけど、意見を求められる私に洪水の知識などあるはずもない。でも、メディアというのはそういう仕事がそれなりの割合を占めているのです。
(部分引用)



 

日本赤十字社のしごと

日本赤十字社 ご支援方法 寄付する(個人・法人)
活動を支援する 海外の緊急救援・復興支援国内の災害義援金
あなたの寄付は、災害が発生したとき、ただちに現地へと医療救護班や救援物資などを届けるために活用されます。赤十字のさまざまな活動を即座に、継続的に行うためには、皆さまからの寄付が必要です。ご協力をお願いいたします。
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画像 有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を受ける佐野常民  

日本赤十字社は、日本における赤十字社。1952年(昭和27年)に制定された日本赤十字社法昭和27年8月14日法律第305号によって設立された認可法人。社員と呼ばれる個人及び法人参加者の結合による社団法人類似組織である。略称は「日赤」(にっせき)。フランス語: Société de la Croix-Rouge du Japon、スペイン語: Sociedad de la Cruz Roja Japonesaである。
名誉総裁は皇后(現在は皇后美智子)。名誉副総裁には、代議員会の議決に基づき、各皇族が就任している。代表者である社長は近衞忠煇(旧公爵近衛家当主。夫人は、三笠宮崇仁親王第一女子である近衛やす子)。

日本赤十字社は全国に92の赤十字病院、79の血液センターを運営し、赤十字病院は第3次医療機関に指定され救急医療の最後の砦を担っている。血液事業は日本で唯一献血を原料とする製剤を製造する。
またセンター、病院、支部などには常備救護班(医師1名・看護師長1名・看護師2名・庶務(事務)担当の職員である主事2名の計6名で1個班が構成される)を複数個保有し、地震・台風などの災害時や旅客機墜落・公共交通機関の大事故など、消防で対応し切れない大人数の負傷者発生の際には救援活動を行っている。

赤十字のマークは、赤十字の標章及び名称等の使用の制限に関する法律により、日本赤十字社以外が使う事が禁じられている。もっとも、学校法人日本赤十字学園は「日本赤十字社以外の者」ではあるが、学章に赤十字のマークを入れている。
日本赤十字社章(赤十字竹桐鳳凰章)
種類 日本赤十字社法に基づく認可法人
(社団法人類似組織)
略称 日赤、赤十字 本社所在地
〒105-8521
東京都港区芝大門一丁目1番3号
設立 1877年(明治10年)5月1日
法人番号 6010405002452
事業内容 日本赤十字社法に基づく病院施設等の運営
災害救援活動 等
従業員数 66,129名
※2015(平成27)年4月16日現在
代表者 社長:近衞忠煇  近衛忠煇 このえ-ただてる
1939- 平成時代の日本赤十字社社長。
※昭和14年5月8日生まれ。細川護貞の次男,元首相細川護煕(もりひろ)の弟。近衛文麿の外孫。学習院大卒業後ロンドン大に留学し,1964年日本赤十字社に入社。1965年近衛家の養子。

法的地位
日本赤十字社法(以下、社法という)では、「日本赤十字社は、赤十字に関する諸条約及び赤十字国際会議において決議された諸原則の精神にのっとり、赤十字の理想とする人道的任務を達成することを目的とする(第1条)」とされ、また第2条は特に「国際性」の見出しのもと、「日本赤十字社は、赤十字に関する国際機関及び各国赤十字社と協調を保ち、国際赤十字事業の発展に協力し、世界の平和と人類の福祉に貢献するように努めなければならない。」と認可法人としては異例の定めを置いている。
日本赤十字社では社法第7条により、日本赤十字社定款を定めることとされ、同社の事業は定款の定める経営・業務・資産などの規定に基づき運営されている。日本赤十字社の基本精神は人道・公平・中立・独立・奉仕・単一・世界性である。

戦前の日本赤十字社は陸軍省、海軍省管轄の社団法人、戦後は厚生省管轄を経て現在は厚生労働省管轄の認可法人であり、伝統的に皇室の援助が厚く、皇后を名誉総裁とし皇太子ほかの皇族を名誉副総裁とする。
本社は東京都港区芝大門一丁目に所在し、全47都道府県に支部が設置されている。ほとんどの支部では知事が支部長に就任し、副支部長・事務局長などの役員も行政関係者(市町村長や現・元都道府県部長/局長)が多くを占めている。2010年(平成22年)3月末現在、個人社員1065万人、法人社員15万法人を数える。
 
法律上の位置付けとしては、日本赤十字社法に基づく認可法人で、災害対策基本法及び国民保護法上の指定公共機関に位置づけられており、災害時や有事に備え、防災基本計画及び国民保護業務計画の策定と閣議の承認を経ることが義務付けられているほか、災害時・有事はそれらの計画に基づいて国民の救済において国に協力することが定められている。
日本赤十字社発祥地(千代田区)
有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を受ける佐野常民
日本赤十字社の絵葉書(1900年)
日本赤十字創立75年記念切手

日本赤十字社の前身は西南戦争時の1877年(明治10年)に大給恒(おぎゅう ゆずる)と元老院議官で後に伯爵となった佐野常民(さの つねたみ)らが熊本洋学校(くまもと ようがっこう)に設立した博愛社(はくあいしゃ)である。大給と佐野は、戦争の悲惨な状況が拡大していることに鑑みて、陸軍省に、敵味方の区別なく救護を行う赤十字の精神を発現する博愛社として、救護班を派遣することを願い出た。
しかし、陸軍卿代行の西郷従道は、内戦は国家間戦争とは異なり、逆賊=犯罪者の救護は赤十字の救護とは言えないのではないかと、その精神に理解を示せず、設立を許可しなかった。そこで、佐野らは元老院議長で征討総督の有栖川宮熾仁親王に直接、設立と救護班の派遣を願い出る。逆徒であるが天皇の臣民である敵方をも救護するその博愛の精神を熾仁親王は嘉し、中央に諮る事なく設立を認可した。ただ敵味方ともに助けるというその思想が一般兵士にまでは理解されず、双方から攻撃もしくは妨害などを受け死者が出たと言われている。

「熊本洋学校教師館ジェーンズ邸」を参照

昭憲皇太后
博愛社は国際赤十字の精神を発現する団体として創設され、赤十字として認知されるよう活動していたが、1886年(明治19年)ジュネーヴ条約に調印した政府の方針により、翌1887年(明治20年)に日本赤十字社と改称し、特別社員および名誉社員制度を新設した。当時西欧の王室、皇室は赤十字活動に熱心であり、近代化を目指す日本でも昭憲皇太后(明治天皇皇后)が積極的に活動に参加し、正式紋章「赤十字竹桐鳳凰章」は昭憲皇太后の宝冠のデザインを模倣して制作され、また皇太后の示唆により後に制定された。華族や地方名望家が指導的立場に就いた。
1888年(明治21年)6月、支部設置を決定した他、有功章、社員章を制定した。 全国に赤十字運動への理解と普及を目指す最中、1888年(明治21年)7月、福島県磐梯山が、巨大な水蒸気爆発により山体崩壊を招き、大災害を引き起こした。 このため、当時国際紛争解決にむけた人道組織であった赤十字を、自然災害にも活用すべく政府に願い出た。赤十字として国際的にも例がない戦時以外の活動であったが、政府は了としたため、すぐさま救護班を現地に派遣、救援活動を行った。
日清戦争(1894年(明治27年) - 1895年(明治28年))時には、初めて国際紛争の医療救護班を戦地に送り出した。
日清戦争時、帝国陸軍近衛師団軍楽隊楽手でもあった加藤義清が出征する友人を見送りに駅に行った際、同じく大陸の戦地に向けて出発しようとしている日本赤十字社従軍看護婦達の凛々しい姿に強い感銘を受け、一夜で作詞したといわれている軍歌『婦人従軍歌』がある(従軍看護婦を唄った歌曲は世界的にも珍しく、同時に明治日本軍歌を代表する曲の一つに数えられている)。

1901年には勅令により日本赤十字社条例が設置され、日本の陸軍大臣・海軍大臣の指定する範囲内において陸海軍の戦時衛生勤務を幇助することができるようになった。
日露戦争(1904年(明治37年) - 1905年(明治38年))が起こると、日本赤十字社は旅順など満洲で投降したロシア人捕虜の人道的な待遇に尽力した。第一次世界大戦でも中国山東省の青島で捕虜となったドイツ人も日赤の援助により人道的な待遇を受けた。
また、第一次世界大戦(1914年(大正3年) - 1918年(大正7年))時には、連合国のフランス、イギリス、ロシアからの要請に応え、三カ国に救護班を派遣した。1934年(昭和9年)、第15回赤十字国際会議が東京で開催されている。
軍部の勢力が拡大するにつれ、日本赤十字社による戦争捕虜への援助が難しくなった。日中戦争(支那事変)(1938年(昭和13年) - 1945年(昭和20年))では宣戦布告なしの「事変」であったため、両軍はジュネーヴ条約を適用しなかった。
太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発すると、赤十字救護班は積極的に戦地に赴き、多くの殉職者を出すこととなった。
一方、日本軍が東南アジア方面で数十万人にのぼる欧米人(軍人、民間人を問わず)を収容所に収容したが、国際赤十字委員会や日本赤十字社が積極的な救護活動をしなかったとして連合国側のメディアから非難があった。
太平洋戦争終結後、捕虜とともに民間人として現地に抑留された救護班は、収容された日本人に対する救護をおこなった。
敗戦直前の原爆被害者に対して、国際赤十字委員会と日本赤十字社は積極的に救護を行い、現在でも、日本赤十字社は広島と長崎に原爆症患者を救護する病院を経営している。
また、占領下の日本では、衛生状態が深刻な状態にあり、赤十字では駅などに救護所を設けて、病院内外での救護活動を活発に行った。
(資料ウイキペディア)





 
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