Galapagos Japas

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平成バブルから30年後の世界(2018年)
2016年から2017年にかけて劇的なグラフ曲線変化がみられた。結婚適齢期世代が、結婚しないという「婚姻届」の大幅ダウンが数字にあらわれている。
その落差が余りにも激しく、その理由は一体なにか、という観点から、様々な要素を検証していたところ、30年前の昭和から平成に時代がシフトする瀬戸際で、大規模な経済活動が行われていた。世に云う「バブル経済」だった。

その後遺症ともいうべき現象が30年後の時代に決定的な数字としてあらわれるとは夢にも思わなかった。その夢物語が突如として終焉した1987年。

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<当時、ドル高による貿易赤字に悩むアメリカ合衆国はG5諸国と協調介入する旨の共同声明を発表した。これにより急激な円高が進行。1ドル240円前後だった為替相場が1年後に1ドル150円台まで急伸した。日本と西ドイツがアメリカのドル安政策の標的にされた。
このショックを和らげるため日本政府は、内需主導型の経済成長を促すため公共投資拡大などの積極財政をとり、また一方で日銀は段階的に公定歩合を引き下げ、(最終的には2.5%)、長期的に金融緩和を続けた。この結果、長期景気拡大をもたらした一方で、株式・土地などへの投機を許しバブル発生を引き起こしたとされている。
中曽根内閣は貿易摩擦解消のため、国内需要の拡大を国際公約し(前川リポート)、これまでの緊縮財政から一転させた。5回の利下げの実施後の1988年度補正予算で当時の大蔵大臣であった宮沢喜一は公共事業拡大に踏み切った。また、急激な円高によるデフレ圧力にもかかわらず日銀は当初、公定歩合を引き下げずに据え置くとともに、むしろ無担保コールレートを6%弱から一挙に8%台へと上昇させるという「高目放置」路線を採った。そのため、一時的に非常な引き締め環境となり、その後数年のインフレ率の低下を招いた。一方、翌年以降は緩和へと転じ公定歩合を2.5%まで引き下げ、その後も低金利を続けたが、この金融緩和政策は当時国際公約と捉えられており、これが継続されるとの期待が強固であった。
インフレ率の低下と低金利政策維持への期待によって名目金利は大きく低下し、このことが貨幣錯覚を伴って土地や株式への投資を活発化させた。日銀の金融政策は、卸売物価・消費者物価を基準に考えるという伝統的な考え方が支配的であったため、日銀は地価は土地対策で対処すべきという立場であった。
それ以外に1986年初めに原油価格が急落し、交易条件が改善した。このことによる交易利得は、1987年5月の緊急経済対策とほぼ同規模となる大きなものとなり、景気を刺激したとされている。経済学者の田中秀臣は「原油価格の下落などの要因を、日本経済の潜在能力が向上したと誤って過大評価してしまい、日本はバブル時代へと突入していった」と指摘している。
就職
有効求人倍率は、1991年に1.40倍を記録。リクルートの調査では、同年の大卒最高値は2.86倍になった。この時代に大量に採用された社員を指してバブル就職世代とも言われる。>
(記事部分抜粋)

当時の世界情勢  
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1980年代に入ってからの世界的な(物価の)ディスインフレーションの中で、資産価格(株式)は上昇しやすい状況になっていた。

1945年2月のヤルタ会談以降の冷戦体制下で、日本を含む西側諸国と対立していたソビエト連邦は、アフガニスタン侵攻による疲弊の影響で、改革派のミハイル・ゴルバチョフが登場する。>

ではその「バブル経済」とはなにかを検証した。資料はウイキペディアによる。

平成バブル
バブル景気( bubble boom)は、景気動向指数(CI)上は、1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までの51か月間に、日本で起こった資産価格の上昇と好景気、およびそれに付随して起こった社会現象とされる。情勢自体はバブル経済と同一であり、平成景気(へいせいけいき)や平成バブル(とも呼ばれる。日本国政府の公式見解では数値上、第11循環という呼称で、指標を示している。

ただし、多くの人が好景気の雰囲気を感じ始めたのはブラックマンデーをすぎた1988年頃からであり、政府見解では、1992年2月までこの好景気の雰囲気は維持されていたと考えられている。

また、アメリカの2003年以後の住宅と金融を中心にした資産価格の高騰、景気拡大期を米国バブルなどと呼称する。ここでは、かつて日本で起きた事象について説明する。

日本では、1986年12月-1991年2月までの株式や不動産を中心にした資産の過度な高騰、経済拡大期間を指すことが主である。目安となる指標も多く存在し、景気動向指数(CI・DI等)、土地価格(公示価格・調査価格の6大都市、地方、平均値等)、株価、GDP(総GDP伸び率等)、消費者物価、民間消費支出等どれを基準にするかということと、政府見解により諸説は左右される。

1980年代後半には、テレビ等のマスメディアの必要以上に毎日繰り返された不動産価値の宣伝により、地価は異常な伸びを見せる。当時の東京都の山手線内側の土地価格でアメリカ全土が買えるという算出結果となるほど日本の土地価格は高騰し、日経平均株価は1989年(平成元年)12月29日の大納会には、史上最高値38,957円44銭を付けるなどし、資産価格のバブル化が起こっていた。このことを指して「バブル経済」と呼ばれる。

バブル経済とは、総じて結果論として語られることが多く、その過剰な拡大期間の中では単に「好景気」といわれる。
バブル景気による過剰な経済拡大期があり、その後にはその反動としてバブル崩壊による大幅な資産価格下落や金融収縮などが起こり経済問題が多数噴出することとなる。結果として過去のその経済状況を否定的意味あいでバブルなどと呼称する。

日本の景気動向指数でみる、景気循環における第11循環の拡大期に当たる。指標の取り方にもよるが、おおむね、1986年12月から1991年2月までの4年3か月(51か月)間を指すのが通説である(昭和天皇が吐血した1988年9月19日から翌年2月24日の大喪の礼頃まで自粛ムードあり)。これは、2002年2月から2008年2月まで73か月続いた長景気(通称:いざなみ景気、かげろう景気など)や1965年11月 - 1970年7月の4年9か月の57か月続いたいざなぎ景気に次いで第二次大戦後3番目に長い好況期間となる。

バブル以前の1985年、プラザ合意直後の日本は円高不況と称された深刻な不況であり、輸出産業が大打撃を受け、東京や大阪などの町工場には倒産が続出していた。当時の日本のGDPに占める製造業比率は高く(現在は18%程度)、円高が輸出産業、ひいては日本経済に与えたダメージは現在と比較にならないほど大きく、製造業の日本国外への流出もこの時期に本格化した。円高不況という文字がメディアから消え、多くの一般の人がいわゆるバブル景気の雰囲気を感じていたのは1988年頃から1991年2月のバブル崩壊以降少し後までの数年である。

日本のバブル崩壊による深刻な経済問題が表面化するまでには数年の時間を要し、当初は一時的な景気後退として楽観論が大勢を占めていた。1992年には政治的に宮沢喜一などが公的資金投入による早期の不良債権処理を言及しているが、官庁、マスコミ、経済団体、金融機関などからの強い反対に遭い実行に至らなかった。バブル崩壊と同時に1973年より続いてきた安定成長期は終焉を迎え、その後20年以上にわたる長期不況(失われた20年)などの引き金となった。

名称(通称)の由来
実体経済から乖離して資産価格が一時的に大幅に高騰し、その後急速に資産価格の下落が起こる様子が中身のない泡が膨れて弾ける様子に似て見えることからこのように呼称する。もともと「バブル」は「泡」を意味する語なので、泡沫景気(ほうまつけいき)と呼ばれることもある。1990年代初期からは、「平成景気」と呼ばれた。

1980年代後半、「バブル」という言葉は一般に認知されていなかった。「バブル景気」という語は1987年に命名されたとされる。基になった「バブル」という語自体は1700年代のSouth Sea Bubble(南海泡沫事件)を語源とし、1990年にはすでに「バブル経済」という言葉が流行語大賞の流行語部門銀賞を「受賞者:該当者なし」(だれが最初に使い、はやらせたのか分からないため)で受賞している。しかし、この語が広く一般に、実感を伴って認知されたのはバブル経済が崩壊したあとである。また、その景気後退期または後退期末期、景気が上昇に転じるまでの期間を「バブル崩壊」(平成不況)などという。

野口悠紀雄は1987年11月に「バブルで膨らんだ地価」という論文を『週刊東洋経済・近代経済学シリーズ』に掲載しており、「私の知る限り、この時期の地価高騰を「バブル」という言葉で規定したのは、これが最初である」と述べている。

1985年1月1日から1988年1月1日までの円とドルの為替レートの推移。点線はプラザ合意のあった日(1985年9月22日)を示す。プラザ合意後、急激に円高が進行している。
政府・日本銀行の金融・財政政策による景気刺激策がバブルの主因とされている。
安定成長とバブル期を分けたのは1985年9月のプラザ合意である。その後のルーブル合意まで100円以上の急速な円高が進行する。ミルトン・フリードマンは「日本の『バブル経済』は、1987年のルーブル合意がもたらしたものである」と指摘している。

バブル以前の1985年のプラザ合意直後の日本は円高不況と称された深刻な不況であり、輸出産業が大打撃を受け、東京や大阪などの町工場には倒産が続出していた。当時の日本のGDPに占める製造業比率は高く、円高が輸出産業、ひいては日本経済に与えたダメージは現在と比較にならないほど大きく、製造業の日本国外への流出もこの時期に本格化した。円高不況という文字がメディアから消え、多くの一般の人がいわゆるバブル景気の雰囲気を感じていたのは1988年頃から1991年2月のバブル崩壊以降少し後までの数年である。

当時、ドル高による貿易赤字に悩むアメリカ合衆国はG5諸国と協調介入する旨の共同声明を発表した。これにより急激な円高が進行。1ドル240円前後だった為替相場が1年後に1ドル150円台まで急伸した。
日本と西ドイツがアメリカのドル安政策の標的にされた。このショックを和らげるため日本政府は、内需主導型の経済成長を促すため公共投資拡大などの積極財政をとり、また一方で日銀は段階的に公定歩合を引き下げ、(最終的には2.5%)、長期的に金融緩和を続けた。この結果、長期景気拡大をもたらした一方で、株式・土地などへの投機を許しバブル発生を引き起こしたとされている。

中曽根内閣は貿易摩擦解消のため、国内需要の拡大を国際公約し(前川リポート)、これまでの緊縮財政から一転させた。5回の利下げの実施後の1988年度補正予算で当時の大蔵大臣であった宮沢喜一は公共事業拡大に踏み切った。

また、急激な円高によるデフレ圧力にもかかわらず日銀は当初、公定歩合を引き下げずに据え置くとともに、むしろ無担保コールレートを6%弱から一挙に8%台へと上昇させるという「高目放置」路線を採った。そのため、一時的に非常な引き締め環境となり、その後数年のインフレ率の低下を招いた。一方、翌年以降は緩和へと転じ公定歩合を2.5%まで引き下げ、その後も低金利を続けたが、この金融緩和政策は当時国際公約と捉えられており、これが継続されるとの期待が強固であった。

インフレ率の低下と低金利政策維持への期待によって名目金利は大きく低下し、このことが貨幣錯覚を伴って土地や株式への投資を活発化させた。日銀の金融政策は、卸売物価・消費者物価を基準に考えるという伝統的な考え方が支配的であったため、日銀は地価は土地対策で対処すべきという立場であった。

それ以外に1986年初めに原油価格が急落し、交易条件が改善した。このことによる交易利得は、1987年5月の緊急経済対策とほぼ同規模となる大きなものとなり、景気を刺激したとされている。経済学者の田中秀臣は「原油価格の下落などの要因を、日本経済の潜在能力が向上したと誤って過大評価してしまい、日本はバブル時代へと突入していった」と指摘している。

「日本銀行調査月報」(1992年9月)は、バブルの原因について「土地担保価値の拡大」を挙げ「多くの金融機関が業務拡大を目指したことにより、M2+CDの伸び率を高めた」と述べている。

1985年5月に国土庁は「首都改造計画」を公表し、「東京のオフィスは2000年までに合計5000ヘクタール、超高層ビルで250棟分必要となる」と指摘した(当時のオフィス供給量は年間130ヘクタール)。国土庁のレポートの意図は「地価高騰の抑止」であったが、その意図とは逆に不動産会社・ゼネコンは「オフィス供給は国策となった。都心の用地を確保せよ」と一斉に飛びつき、やがて「地上げ屋」を生んだ。国土庁のレポートはバブル醸成の一因となった。

ベンジャミン・フルフォードは、和佐隆弘(元日経新聞論説委員)の言葉を借りて、1963年当時の自治省が地価の大幅な値上がりに対して、固定資産税の課税上昇率を抑えたために、土地が「最も有利な投資対象」となってしまったことを日本の土地神話ないしバブルの遠因として挙げている。

展開
日経平均株価(月末値)。1989年12月29日の東証大納会で日経平均株価が史上最高値の38,957円44銭(同日終値38,915円87銭)を記録、1990年1月4日の大発会から株価の大幅下落が始まる。
1985-1990年度の5年間で日本の金融機関の資金量は90%拡大し、貸出先の開拓に追われていた。

1980年代後半、エクイティファイナンス(新株発行にともなう増資)の隆盛は大企業の銀行離れを加速させ、銀行は行き場のない資金をだぶつかせていた。プラザ合意以降、金利低下に拍車が掛かった。金利自由化の影響により、銀行は従来のやり方では利ざやが稼げなくなっていた。1987年末には都銀の収益を支えていた製造業向けの貸出が初めて2割を割った。

企業は設備投資を積極的に行っていたが、その資金は銀行の長期融資に依存せず、エクイティファイナンスでまかなっていたため、金融機関の融資は不動産に向かった。日本では投機熱が加速、特に株と土地への投機が盛んになった。なかでも「土地は必ず値上がりする」「土地の値段は決して下がらない」といういわゆる土地神話に支えられ、転売目的の売買が増加した。
地価は高騰し、数字の上では東京23区の地価でアメリカ全土を購入できるといわれるほどとなり、銀行はその土地を担保に貸し付けを拡大した。1985年3月末から1993年3月末にかけて、全国銀行の貸出は251兆円から482兆円へと増加している。
資産価格高騰は資産保有者に含み益をもたらし、心理的に財布のひもを緩める資産効果によって消費が刺激され、景気の過熱感を高める効果もあった。また、1986年から日本企業の欧米企業に対するM&Aが進められた。企業収益の向上と共に個人所得も増加し、消費需要が上昇する乗数効果を生んだ。

日本の1人あたりの国民所得はアメリカを追い抜いた。

1986年2月にNTTが上場し、株価は2カ月で売り出し価格の3倍にあたる318万円の高値をつけ、企業・個人が財テクに入り込んでいくきっかけとなった。「財テク」(=財務テクノロジー)に代表される企業の余剰資金運用を日本経済新聞等のマスコミが喧伝し、「特金ファンド」(特定金銭信託ファンド)で法人の株式投資を活発化させ、個人投資家の株式投資を誘発した。主要全国紙はこの頃、株式欄を拡大させ、金融雑誌や金融商品評論家、不動産取引評論家等が出現して個人の金融取引を煽った。
三大都市圏における地価は1986年から上昇し、1987年には東京都の商業地で対前年比で約80%となった。

1987年に入ると現象は経済全体に波及し、土地に対する需要が高い限り決してこの景気は終わらないという楽観論が蔓延した。特に株式は1987年10月に起こった米国ブラックマンデーによる世界同時株安の影響を世界で最初に脱出し、高値を更新したことから日本株に対する信任が生じた。その後、投機が投機を呼ぶ連鎖反応が起こり、「岩戸景気」「神武景気」に続く景気の呼び名を公募する記事が、雑誌を賑していた。

1988年秋に来日したアラン・グリーンスパンFRB議長は、日本銀行にて「日本の株価は高過ぎるのではないか」と述べていた。
1989年(平成元年)4月1日、消費税(税率3%)が導入された。このとき、便乗値上げが起きた。

すでに地価や株価は収益還元法などで合理的に説明できる価格を超えて高騰しており、日本経済はいつ破裂してもおかしくないバブル経済に突入していた。そもそも日本の人口増加率が低下し、2007年から2008年には人口が減少に転じると予想されたことから、土地の需要がこのまま持続・増加するはずが無いとの指摘もあったが、政府の「世界の中心都市としての東京は今後も発展を続け、オフィス需要は拡大しつつあり、これに対して供給はまだまだ不足している」とする見解をはじめとする強硬な反論が幅を利かせていた。

一部の経済学者は地価を考慮すると家賃は安すぎると主張し、容積率の規制緩和を主張した。
もともと、地価が上昇した場合はその上で操業している賃貸の工場やビルの収益率が低下するため、土地を売却し債券などを購入することが合理的になる。この結果、高騰した土地の上で経営が成り立つ産業だけが立地することになり、やがて価格は均衡する。
しかし、日本においては土地資産などの計上が簿価で行われていたため、名目的に収益率は変わらずに土地を持ち続けることが正当化された。
加えて、簿価と時価の差額が含み益をもたらし、担保価値の上昇という形で資金を導入して経営を拡大する方向に動いた。損失を出してもいざとなれば含み益を用いて解消できるとして経営の多角化を進めたりハイリスクな事業を展開する、放漫な経営で損失が出ても重大に受け止めないなどの例もあった。このような動きの中で、日本企業は収益率を高めるのではなく総資産を増加させることを第一義的な目標とするようになった。

経済への影響
1986年頃から日経平均は急上昇し始め、1989年大納会ザラ場で38957円の最高値を記録、株価上昇は1985年9月の12598円と比較すると約3倍となり、上昇率で約200%の上昇であった。バブル期の日本株のPER(株価収益率)は、80倍以上となっていた。バブルが弾ける直前の日本株のPERは、100-200倍であった。株価に遅れて地価も1985年と比較して、1990年には約400%の上昇となった。

1986-1990年までの5年間で、日本国内の非金融法人企業は年平均142兆円のペース、家計は年平均約25兆円のペースで金融負債を増やした。バブル絶頂期の1990年の非金融法人企業の純負債は636兆円であった(2008年12月末には非金融法人企業の純負債は322.9兆円となっている)。

1986-1989年に発生したキャピタル・ゲインは、資産価格の上昇により1452兆円に及んだ。1989年に家計が得た土地・株式のキャピタル・ゲインは260兆円となっている。

バブル景気では、中小企業の売上経常利益率は大企業を上回っていた。

経済学者の松原聡は「バブル景気で日本がインフレにならなかったのは、円高の影響で安い輸入品が多く日本に入ってきたからである」と指摘している。

地価高騰
内閣府の国民経済計算によると日本の土地資産は、バブル末期の1990年末をピークに、約2456兆円となったと推定されている。日本全体の土地の価格総額は、1990年末時点で1985年末の2.4倍となった。バブルピーク時、日本全体の地価の合計は、アメリカ全体の地価の合計の4倍となった。

東京圏では1987年と1988年の住宅地の価格はそれぞれ22%、69%上昇し、商業地の価格はそれぞれ48%、61%上昇した。大阪圏では1989年と1990年の住宅地の価格はそれぞれ33%、56%上昇し、商業地の価格は1988-1990年で30-40%上昇した。

第二次世界大戦後、1990年代初めにバブルが崩壊するまで、地価は永遠に上がり続けるという「土地神話」が信じられていた。戦後一貫してオイルショックの一時期を除き、バブル崩壊まで地価は下がらなかった。それに追随したのが当時のテレビを含むマスコミであり、土地神話による地価の高騰が永遠に続くものであるかのような宣伝を繰り返していた。

1970年代後半から優良製造業向けの融資案件が伸び悩み、銀行が不動産業や小売業、住宅への融資へ傾斜していた。1980年代初め、東京の国際都市への期待が高まり、外資系金融機関なども増加し、オフィスが大量に不足すると予想された。1980年代半ば以降、銀行は土地神話を信じ土地担保融資を拡大した。1980年代の日本は様々な規制等により土地の供給が極端に少なく、人口が増え続けるという見方が強かったため土地バブルが発生した。

1985年、日本開発銀行は「東京は世界の金融センターになる」とレポートで指摘した。

中曽根税制改革により法人税が42%から30%へ、所得税最高税率が70%から40%に引き下げられるとともに物品税も撤廃され、可処分所得はその分増大して土地や株式の購入に向かったため、土地価格や株価が高騰した。

中曽根内閣による大都市圏内の土地容量(容積率)の規制緩和、東京湾横断道路(東京湾アクアライン)建設プロジェクトの推進、当時の鈴木俊一 (東京都知事)による「第二次東京都長期計画」による東京臨海副都心構想の具体化による東京発の不動産取引が活発化した。

大蔵省、日本銀行、東京証券取引所を結ぶ三角地帯は「ゴールデン・トライアングル」と呼ばれていた。

1986年の都心の地価の上昇は7割に達しており、全国的には地価が落ち着いている中で「異常値」を示していた。大都市等の優良な土地の高騰にとどまらず、収益の見込めない北海道や沖縄などの遠隔地の土地もリゾート開発を名目に相当の値段で取引された。こうして得た土地を担保に、巨額の融資が行われた。インカム・ゲイン(土地の有効活用による収益)ではなくキャピタル・ゲイン(将来地価が上昇することで得られるだろうと見込まれる値上がり益)を目的とすることが多かった。

1986年秋に売り出された東京新宿区の再開発住宅「西戸山タワーホームズ」はマンションブームに火をつけた。1987年4月に売り出された東京江東区のマンション「スカイシティ南砂」は259戸の分譲に対し、38500人が応募した。また、リクルート社の銀座日軽金ビル購入の不動産取引成功が大々的に報道され、その後の不動産取引が活発化した。

また、地価の上昇局面でも、国鉄清算事業団の未利用地販売に際しては「地価の高騰を煽る」として売却が凍結されて、逆に土地の飢餓感が煽られて地価の上昇を招いた。

土地を担保として融資を行うに際しては、通常は評価額の70%を目安に融資を行うが、将来の土地の値上がりを見越して過大に貸し付けることも珍しくなかった。破綻した北海道拓殖銀行では120%を融資した事例もある。単一の物件に複数の担保をつけることも行われた。背景には、金融機関の貸出競争が激化する中、潤沢な資金をとにかく運用する、貸付に回す、という金融機関の姿勢もあった。この融資の一部は後の地価下落(担保価値が低下)によって不良債権となった。

道路用地の取得価格も高騰し、新東名高速道路などの建設に要する資金の増大を招いて、日本道路公団の経営圧迫の一因ともなった。高価な土地が障害となって、地方公共団体の公共事業が進められなくなる事態も生じた。

地価の上昇によって住宅取得が困難となり国民からは政府に対する非難が高まったことが、不動産融資の総量規制に繋がり急速な地価の下落を招いたという批判がある。こうした地価に関する政策的な失敗は、マスコミや国民の感情的な批判に政府が冷静に対応できなかったという問題と見ることができる[誰?]。

地上げ
潤沢な資金を背景に大都市の再開発の動きが活発になった。都心の優良地区には、地権が細分化された上に借地借家が多数混在し、権利関係が複雑に絡んでいるケースがあった。日本においては、借地借家法によって借主の権利が保護されていたため、土地をまとめて大規模開発をするプロジェクトは必然的に推進が困難となった。そのため、大都市周辺の土地取得のため、大手不動産会社を代表したり、依頼を受けた地上げ屋(主に暴力団員)の強引な手口による「地上げ」が行われるようになり、社会問題となった。

銀行は「地上げ」に巻き込まれるのを嫌い、リスクの高い物件に自ら直接融資をせず系列ノンバンクに融資させようとした。

しかし、計画を完遂できないままにプロジェクトが中止されるケースも多数生じ、バブル崩壊後には往々虫食い状態の利用しにくい空き地が残されることとなった。これらの空き地は「バブルの爪あと」などとも呼ばれる。

住宅高騰
高級マンションの代名詞的存在とされていた広尾ガーデンヒルズ
1980年代後半のバブル期に政府は「年収の5倍で住宅を」というスローガンを掲げていた。

地価上昇は、地価の高い都心の戸建て住宅や高級マンションだけでなく、都市近郊にさえ適当な戸建住宅を取得することを困難にした。日本のような戸建主義的な都市構造において、いずれは戸建住宅を取得することが人生の夢・目標の一つであるとされ、それを動機として貯金に励むことも行われていた。しかし過度の地価上昇を見て、これ以上値上がりする前に一刻も早く住宅を取得するべきだと考える人も増え、その行動は、また、地価上昇に拍車をかけた。東京圏のマンション価格は、サラリーマンの平均年収の8.9倍に達した。あまりにも住宅が高騰して、平均的な収入では最早購入するのが不可能な域に達すると、二世代ローンも登場した。本人の資力で支払きれないところを、その子の資力をもって補うものである。

地価・住宅高騰と共に相続税も無視できない額に増えた。サラリーマンのマイホームの夢が遠のく一方で、相続税の負担が急激に重くなっていた[58]。特に、長年のローンを組んで余裕が無い状況で相続が発生すると、支払うべき相続税を用意することができずに困窮することもある。これに対応するために、親類縁者の若者を養子にして一人当たりの相続額を下げて相続税を節約する手法が採られたり、変額保険を利用する節税手法が利用された。
しかし、バブル崩壊後は資産運用の計画が狂い、窮地に追い込まれる契約者もあった。

住宅すごろく
地価上昇を前提とした住宅取得のモデルも提示された。若いうちに小さいながらもマンションを取得し、それを下取りに出して順次条件の良いマンションに買い換えれば、最終的には望む戸建ての住宅を手に入れられるとされ、「住宅すごろく」とも言われた。単に貯蓄をしていては住宅高騰に決して追いつけないが、マンションを資産として購入しておけば価格上昇が見込めて有利である、と説かれた。しかし、バブル崩壊後は物件を見極める目も厳しくなり、単にマンションであることでは資産価値を認められなくなった。事実上資産価値の無くなった都市近郊のマンションに対する多額の支払いが残り、負債を抱えて身動きが取れないケースもある。

他方、あまりにも高騰した住宅の取得を早々に諦め、『あきらめリッチ』と呼ばれ、収入を貯蓄することなく、高級車など耐久消費財の購入や海外旅行に充てる刹那的な動きもあった。これは、さらなる消費の過熱と貯蓄率の低下に繋がった。

地価高騰を見て賃貸住宅の家賃も高騰し、結局都心から離れた土地へ移転を迫られ、通勤時間が長くなるという状況も生まれた。これら地価高騰と住宅問題は当時の日本政府の懸念事項であり、後の地価抑制政策に繋がり、信用構造を圧迫することになった。

バブル三業種
バブル期に特に借金を増やしたのは非製造業であった[60]。建設業、不動産業、ノンバンクはバブル三業種と呼ばれ、借金がそのほかの業種と比べて大きく増えた業種であった。

国鉄清算事業団
国鉄清算事業団は、旧国鉄から引き継いだ未利用地を販売して負債削減を図った。その中でも31ヘクタールの「汐留駅跡地」は、東京都心にある汐留の『まとまった優良地』として、都市再開発の注目を集めた。しかしバブル景気で地価が高騰していた時代においては、かかる土地の売却が地価高騰を一層あおりかねないとの懸念が政府内部の他、経済界やメディア、国民諸階層にも了解があり、汐留駅跡地の売却を地価高騰時にしなかったことについて、その当時には全く問題のないこととされていた。

その結果、地価が暴落した後に売却に掛かり、その他の土地も国鉄清算事業団の解散を控えて全て処分する必要があることから、バブル崩壊後の地価下落とも相俟って投げ売り同然で処分せざるをえなかった。結局、事業団全体ではかえって負債を増やした状態で解散した。

最終的に、国鉄清算事業団はその役目を終え、1998年(平成10年)10月に解散した。
日本国有鉄道(現JR)のほかに日本電信電話公社(現NTT)、日本専売公社(現JT)、日本航空等の公共企業体・特殊法人が民営化され、社会全体の企業活力が増した。

リゾート地開発
バブル期に建設・不動産・ホテル業界は、リゾート地やゴルフ場を次々と開発した。

1987年に総合保養地域整備法、通称「リゾート法」が制定され、都市から離れた地域においても、大企業を誘致してリゾート施設を開発する動きが活発となった。特に北海道ではスキー場などのリゾート事業が急激に拡大した。これにより、それまで見向きもされなかった土地が相当な価格で取引されるなど、土地価格の上昇に拍車を掛けた。

またゴルフ場の会員権の価格は高騰し、それとともに次々に豪華な設備を持ったゴルフ場の開発が全国で進められた。なお、当時のゴルフ場のテレビCMでは、バブル景気崩壊後なら「○○自動車道○○インターから車で○分」などとするところを「東京ヘリポートから○○分」などと案内するほどであった。

世界への投資
アメリカの不況や貿易摩擦の解消のために輸出規制が掛かり、企業は日本国内市場の開拓に目を向けざるを得なかった。金融市場の国際化の流れから海外金融機関の新規参入が相次ぎ、金融取引が活発化した。

潤沢な資金を得た企業が、日本国外の不動産や企業を買収した。著名なところでは三菱地所によるロックフェラー・センター買収(2200億円)、ソニーによるコロムビア映画買収をはじめとする事例で、日本国外の不動産、リゾート、企業への投資・買収が行われた。また、企業に留まらず、土地を担保に大金を借り入れた中小企業オーナーや個人、マイホーム資金を貯蓄していた個人の中からも、日本国外の不動産に投資を行う者が出てきた。

一方で象徴的ビルや企業が日本企業の手に渡ったことにつき、アメリカの心を金で買い取ったとする非難(所謂ジャパン・バッシング)が浴びせられた。また、日本国外の不動産への投資は現地の地価の高騰を招くとともに資産税を上昇させ、正常な取引を害し地元経済を混乱させたものとの非難が浴びせられた。

就職
有効求人倍率は、1991年に1.40倍を記録。リクルートの調査では、同年の大卒最高値は2.86倍になった。この時代に大量に採用された社員を指してバブル就職世代とも言われる。

当時の世界情勢
1980年代に入ってからの世界的な(物価の)ディスインフレーションの中で、資産価格(株式)は上昇しやすい状況になっていた。

1945年2月のヤルタ会談以降の冷戦体制下で、日本を含む西側諸国と対立していたソビエト連邦は、アフガニスタン侵攻による疲弊の影響で、改革派のミハイル・ゴルバチョフが登場する。

一方でアメリカ合衆国は、このころ1980年代半ばのユーフォリアを経て迷走気味になりつつあった。住宅金融に破綻の兆しが出て、信用問題に発展しつつあった。経常収支が均衡に向かう中で国内経済は低迷し、失業増大や記録的財政赤字に繋がりつつあった。

こうした世界情勢の中で、政治的に安定している上に空前の好景気で、投資先として非常に大きな魅力を持つことになった日本は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(エズラ・ヴォーゲル著の同タイトルの書籍より「世界の頂点にいるも同然の日本」の意)の呼び声とともに、アメリカにおいても「日本社会に学べ」「日本に負けるな」という声が出るほど好景気を謳歌していた。

三菱地所がニューヨークの象徴的な建物であるロックフェラーセンターを買収して日本脅威論が噴出したのもこの頃である。また東南アジア諸国からも「日本の成功を見習うべし」との声が上がった。

バブル景気の時期は、ソビエト連邦の「ペレストロイカ」とほぼ同じ時期である。バブル景気とペレストロイカの真っ只中にあった1989年には、ベルリンの壁崩壊に代表される東欧民主化革命が起こり、44年間続いてきた冷戦が終結した。

問題
バブル期にバブルになっているという問題があまり意識されなかったことについて、翁邦雄は「土地神話によるところが大きい」と指摘している。

1980年半ばに始まった地価高騰は、やがて土地を持つ者と持たざる者の不公平感を生んだ。バブル景気による地価高騰・株価上昇を背景とした土地・住宅・株式の値上りによって、資産・資産取引によって生じる所得格差が拡大したとされている。

資産を用いた経済活動によって生み出される収益(インカムゲイン)ではなく、資産そのものの値上がりにより利益を得ようとする手法(キャピタル・ゲイン)は、資産価格が高騰するほど困難になる。やがて資産価格が高い水準で均衡すると、その時点で資産を保有していた者はもはや値上がり益を得られない。

そして、高値均衡を維持できず、価格が下落に転じると、それまでの歴代の所有者がそれぞれ利益を得たのに対して、最終的な資産保有者はその分の損をまとめて被ることになる。このように、資産価格の上昇を維持することが困難になるにつれ、資産取引は次第に「ババ抜き」の様相を見せ、ますます資産価格の維持が困難となる。

「不平等の拡大は、バブルのための資産格差・産業間賃金格差が原因である」との議論について、経済学者の大竹文雄は 「(不平等の拡大を)資産格差に要因を求めるのは無理がある。バブル崩壊で資産格差は縮小傾向にあるからである。産業間賃金格差については、バブル時代に金融業の賃金が上昇したことで格差は拡大したが、最近(2000年)は金融業の賃金が逆に低がり、格差は縮小している」と指摘している。

景気後退
絶頂期の1989年頃には投資が活発となり、「平成景気」「ヒミコ景気」「高原景気」と呼ばれるこれまで類を見ない空前の超好景気となったが、実体経済の成長では到底説明できないほどの資産価格上昇を伴うバブル経済であったため、やがて縮小することとなる。

株や土地などの資産は下落し、一転して大きなキャピタルロスを抱える個人や企業が増え、キャピタル・ゲインを当てにして過大な投資をしていた企業や投機家が多大な損失を抱える事態となった。当時の日本は資産価格上昇により、土地や株式などの収益率(値上がり益を除く)が著しく低下していたため、金融緩和の終了で持続可能性を喪失した。

なお1973年12月より17年3か月間続いてきた安定成長期はこのバブル崩壊で終焉を迎えた。

※参考ニュース(セブンイレブン)
「山本憲司氏は、19歳で家業の酒屋を継ぐも将来の展望が持てず、アメリカ生まれのコンビニエンスストアへ商売替えを決意
1974年5月15日、東京・江東区豊洲に日本初のコンビニをオープン。以来43年、現場から生まれた「より売れる」商品やサービスを提案し、セブン-イレブンの発展の一翼を担ってきた。」

「バブル崩壊」バブルと経済政策
バブル景気が膨張を続けてしまい、また、バブル崩壊からの脱却に長期間を要した原因については、政府・日本銀行(日銀)による経済政策の一環として実行した金融引き締め策の失敗が指摘されている。

まず、バブルの発生については先に述べた通り、1985年のプラザ合意による急速な円高に伴うデフレ圧力と金融緩和の長期化予想によって名目金利が大きく低下し、それが貨幣錯覚を通じて土地や株への投資を刺激したこと、また貿易摩擦解消のため国内需要の拡大を国際公約し公共事業の拡大および減税策が採られたこと、が原因とされている。政府は、数次にわたり経済対策を策定し、1987年5月には6兆円を上回る財政措置を伴う「緊急経済対策」をしたが、景気は1986年11月を底に既に回復していたため、景気を刺激し過ぎたという批判がある。

第二に、バブルの膨張を抑止できなかった理由として、金融緩和を続け過ぎたことが指摘されている。公定歩合は1987年2月に2.5%に引き下げられ、その後1989年5月までこの水準を維持した。実は1987年9月には日銀の理事たちは利上げに踏み切る方針を確認していたが、10月19日のブラックマンデーによる世界的な株価の下落があり、利上げが見送られた。1986年11月に日本の景気は底入れが確認されていたが、ブラックマンデーによるドル暴落を阻止するため、対米協調から低金利政策を1989年5月までの2年3カ月の長期に渡って継続した。

金融緩和が続けられた国内の要因としては、第一に、政府が財政再建のために赤字国債からの脱却を目指しており、金融政策による景気刺激を求める政治的な圧力があったことがある。第二には、大幅な経常収支の黒字を背景とした円高圧力があったことから、金融緩和によって円高を回避しようという政府・与党などからの圧力があったことが指摘できる。急激な円高に苦しむ輸出企業の体力を強化するためにも金融政策は緩和的であるべきという認識もあった。この反省から、1997年に日銀法は改正されて、日本銀行の独立性が高められた。

元日銀行員でバブル期には同行総務局調査役などを務めた経済学者の翁邦雄は「資産価格の上昇は、金融政策運営において警戒信号として十分に活用されなかった」と指摘している。

しかしバブル膨張は金融政策のみによるものではない。政府は、国際化によって東京のオフィス需要が急拡大して、オフィスが不足するという試算を発表してバブル期の不動産投資をさらに過熱させた。財政面でも、国の公共投資は抑制されたが、好景気によって税収が増加した地方自治体では地方単独事業の増加が見られ、これも景気を刺激することになった[要出典]。地方単独事業の増加には、国の財政赤字を抑制するために地方単独事業の増加を歓迎していたという背景もある。

経済学者の飯田泰之は「日銀の低金利だけでバブルを生み出したとは説明できない。バブルは、将来の東京の経済的位置づけを、過剰に評価し過ぎたことによって生み出された」と指摘している。

2000年6月1日、日銀理事の増渕稔は大阪大学で講演し「過去に金融緩和された時期はいくらでもあるが、その度にバブルが発生したわけではない」と述べており「金融緩和がバブルの主犯」という見方に反論する一方で「1988年から1989年にかけての対応に問題があったと言えるかもしれない」「利上げが遅れ、低金利が永続するといった期待を生み、バブルを膨らませた可能性はある」と述べている。

元大蔵官僚でバブル期には大臣官房審議官(銀行局)などを務めた西村吉正は「民間活力・規制緩和・自由化が結果的に金融活動を異常に活性化させた原因かもしれない」と指摘している。西村は「護送船団方式がよくなかったし、市場原理がもっと浸透する金融システムにしておくべきであった」「バブル崩壊の初期段階までは、日本の間接金融・メインバンクシステムは、日本経済全体の保険として機能するという意識があった」と指摘している。

元大蔵・財務官僚でバブル期には大蔵省証券局業務課課長補佐を務めた経済学者の高橋洋一は「日本では株式・土地の取引規制に抜け穴があったため、バブルが発生し、銀行融資が助長された」と指摘している。

(資料平成バブルウイキペディア)


世界同時株安でリーマンショックは再来するか
熊野英生:2018.2.7 ダイヤモンドオンライン












2016年の出生数、初の100万人割れ 出産適齢期の人口減 
日経新聞2017/6/2 14:58

 厚生労働省が2日発表した人口動態統計によると、2016年に生まれた子どもの数(出生数)は97万6979人となり、1899年に統計をとり始めて以来はじめて100万人を割り込んだ。出産適齢期にあたる女性の人口が減り、少子化に歯止めがかからない。少子化が招く人手不足は経済成長の足かせになる。現役世代で支える年金や介護の社会保障制度も危うくする。


 人口統計を取り始めたのは日清戦争と日露戦争の間にあたる1899年。この年の出生数は138万6981人だった。出生数のピークは1949年の269万6638人。団塊の世代が生まれた第1次ベビーブームの時期にあたる。16年の出生数はこの年に比べると3分の1近くにまで減ったことになる。

 16年の出生数は前年比では2万8698人減で、05年に4万8191人減となって以来の大きな減少幅となった。厚労省は「出産適齢期の女性の数が減っているため、生まれる子どもの数が減っている」とみている。

 16年は1人の女性が生涯に産む子どもの数(合計特殊出生率)が1.44となり、前年を0.01ポイント下回った。前年を下回ったのは2年ぶり。出生率は05年の1.26を底に上がってきたが、14年以降は1年ごとに低下と上昇を繰り返している。

 16年の出生率は幅広い年代で低下した。これまでは上昇傾向にあった30~34歳の出生率が11年ぶりに低下している。20歳代の出生率が低迷を続ける中、30歳以上の世代の出生率回復が全体の底上げにつながっていただけに、このままでは少子化に拍車がかかる可能性もある。

 政府の調査では、カップルが希望する子供の数にあたる「希望出生率」は1.8となっている。安倍晋三政権は合計特殊出生率を希望通りの1.8に引き上げることを目標にしているが、足元の実績は遠く及ばない。

 都道府県別に見た出生率は最高が沖縄県の1.95、最低は東京都の1.24だった。女性が第1子を産む年齢は30.7歳で、過去最高だった前年と同じだった。

 16年の婚姻件数は前年より1万4633組少ない62万523組で、戦後最少。初婚年齢の平均は男性が31.1歳、女性が29.4歳でともに前年と同じだった。初婚年齢が上がる「晩婚化」のペースは和らいでいるが、結婚をしない「生涯未婚」を選ぶ人も増えている。離婚件数は9410組減の21万6805組だった。

 高齢化の進展により、年間の死亡数は130万人台に乗った。前年比1万7321人増の130万7765人。出生数と死亡数の差はマイナス33万786人。10年連続の自然減となった。
(記事引用)

結婚願望ある若者男子、ついに4割以下に…結婚しても「披露宴なし」が当たり前に
文=編集部 Business Journal 
 少子高齢化の進行、格差社会の拡大、女性の社会進出の増加といった社会状況を背景に、婚姻件数が減り続けている。厚生労働省の「人口動態統計月報年計(概数)の概況」によると、2015年の婚姻数は63万5096組で、前年の64万3749組より8653組減少した。

 婚姻件数は1972年の109万9984件がピーク。団塊世代が適齢期を迎えた時期だ。12年からは3年連続で減少し、ピーク時の58%の水準になっている。

 婚姻件数の減少と共に顕著なのが、初婚年齢の高齢化だ。95年の平均初婚年齢は男性が28.5歳、女性が26.3歳だった。それが15年には男性31.1歳、女性29.4歳と晩婚化が進んでいる。

 婚姻件数がピーク時の6割以下にまで落ち込み、初婚年齢がどんどん遅くなる。そこに待機児童問題、子供の貧困、奨学金問題などが加わる。このままでは負の連鎖に歯止めがかからない。

若者の結婚願望が大幅に低下
 若者の結婚に対する意識はどう変わったのか。明治安田生活福祉研究所が16年3月に行った「20~40代の恋愛と結婚」というアンケート調査(3595人対象)によると、「結婚したい」と考える20代、30代が大幅に減少したことが浮かび上がった。

 結婚願望がある人(「できるだけ早くしたい」「いずれしたい」の合計)は、20代男性が38.7%で3年前の67.1%から28.4ポイントの大幅減少となった。20代女性も59.0%で同82.2%から23.2ポイント低下した。30代は男性が40.3%で12.6ポイントのダウン、女性は45.7%で14.6ポイント下がった。

 半面、「結婚したいとは思わない」が20代男性で20.3%、30代男性で24.7%と、3年前に比べそれぞれ9.1ポイント、7.9ポイント上昇。20代女性は17.0%、30代女性は24.3%で同じく10.4ポイント、9.5ポイント増えた。ちなみに40代女性では29%が「結婚したいとは思わない」と回答、結婚願望派の35%に迫る勢いだ。30代、40代の未婚女性の間では、結婚よりもキャリアアップ、おひとりさま(独身)志向が強まっているのだろうか。

 20代、30代が「独身でいる理由」は何なのか。男性は「家族を養うほどの収入がない」が27.2%でトップ。次が「経済的に自由がきく」で16.2%だった。4人に1人が収入を原因に挙げている。女性は「結婚したいと思える相手がいない」が27.2%でトップ。このほか「精神的に自由でいられる」「仕事に打ち込みたい」などの回答が目につく。男性は経済力を気にし、女性は生き方を重んじているということか。

縮小するブライダル市場をインバウンド婚が活性化

 若者の結婚願望が低下し、婚姻件数も減少した。当然、ブライダル市場も縮小傾向が続いている。矢野経済研究所が15年12月から16年2月に行ったブライダル市場に関する調査では、15年のブライダル関連市場規模は2兆5480億円で前年比99.3%だった。挙式披露宴、披露パーティ市場、ジュエリー、新婚旅行など関連市場の縮小が大きな要因だという。

「婚姻件数の減少が続く時代状況のなかで、結婚式のあり方も大きく様変わりしています。バブル期のような派手な披露宴は影を潜め、最近は少人数婚や、婚姻届を出して披露宴は行わない“ナシ婚”が増えています。ある調査では、結婚して披露宴を挙げたカップルは6割弱だったというデータもあります。ブライダル産業にとっては頭の痛い状況です」(サービス関連企業を取材しているジャーナリスト)

 そうしたなかで、注目されているのが「インバウンド婚」だ。爆買いでおなじみとなったように、アジア人観光客などのインバウンド(訪日旅行客)は近年、急増している。そのインバウンドをターゲットにし、日本国内で結婚式を挙げてもらおうという動きが活発化している。

 その先端を行くのは、沖縄の「リゾート婚」だ。沖縄県観光振興課の発表によると、15年の「沖縄リゾートウエディング」の実施組数は対前年比17.5%(2017件)増の1万4175と過去最高を記録した。このうち海外組は、対前年比29.9%(336組)増の1458組となった。

 リゾート婚には、チャペルで行うチャペルウエディングのほか、美ら海を背景に撮影を行うフォトウエディングやビーチウエディング、琉装ウエディングなども含まれている。琉装ウエディングとは、琉球王朝時代の正装・伝統衣装を着た挙式のことだ。1999年はわずか200組だったから、実に70倍以上に激増したことになる。

 沖縄県の積極的なプロモーション活動により、国内外で認知度が上がったことが成功の要因だ。海外勢は香港と台湾のカップルが全体の約88%。ブライダル関連企業では英語や中国語対応ができるスタッフを揃えるなど、受け入れ態勢を強化している。

「こうしたインバウンド婚は京都や北海道などでも広がっていて、旅行関連業界も新たなニーズの掘り起こしに力を入れています。京都では神社仏閣関係者団体が参加する『和婚受入協議会』が設立され、婚礼衣装で有名社寺をめぐる撮影プランの予約を受け付けています。北海道では雪景色を背景にしたフォトウエディングとハネムーンをセットにした商品などが人気となっています。国内市場が冷え込むなかで、海外客をターゲットにしたインバウンド婚ビジネスはますます盛んになるでしょう」(同)

 円高が進み、爆買いが一巡したなかで、インバウンド婚がブライダル業界や旅行業界の救世主となるのか。国内の若者たちの結婚観が冷めていく一方という状況のなかで、関連業界は新たなビジネス需要の掘り起こしに懸命だ。
(文=編集部) Business Journal
(記事引用)

日本の婚姻率・離婚率・初婚年齢の推移をグラフ化してみる(最新)
厚生労働省は2017年12月22日、平成29年(2017年)の人口動態統計の年間推計について発表した。
それによると2017年における日本国内の婚姻件数は60万7000件となり、婚姻率は0.49%(推計値)となることが分かった。これは前年2016年の値0.50%(確定値)から0.01%ポイント減の値となる。今回はこの婚姻率の推移をはじめ、日本の結婚関連のデータについて、最新の値を含めグラフ化を行い、状況の変化の精査を行うことにする(【発表リリース:平成29年(2017)人口動態統計の年間推計】)。

婚姻率・離婚率共に今世紀は漸減中
20151104f07
まずは婚姻率と離婚率。こちらは素直に「人口動態統計の年間推計」のリリースから取得できる。現時点の最新データは上記にある通り2017年分。推計値だが、一応数として盛り込まれている。ここなどから1899年以降の婚姻率・離婚率を抽出し、%に換算した上でグラフ化したのが次の図。現在婚姻している割合では無く、「該当年において一定人口に対し婚姻”した”値」であることに注意。例えばある年の値が「0.10%」なら、その年は人口1000人につき1人が結婚した計算となる(なお2016年以前の値は、推定値の後に発表された確定値を反映している)。
戦前は大よそ0.8%前後で行き来している。何度か上昇と下落の動きがあるが、確証・因果関係の説明はできないものの、大よそ大きな戦争の直前に上昇し、戦中は下落する動きを示していることから(日露戦争、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争が該当する)、国民の間にも戦争の機運を肌身で感じて事前に婚姻する意志が高まるのかもしれない。

1947年に記録した最大値となる1.20%に至る大きな婚姻率の伸びは(実のところは1944-1946年は戦中・戦後の混乱による資料不備で値は非公開であり、1947年分は戦後初の公開値なのだが)、太平洋戦争終結直後に生じた結婚ブームによるもの。この高婚姻率がいわゆる「団塊の世代」を生み出し、この世代が結婚することで1970年前後の第二次結婚・ベビーブームの源となっている(1970年前後の婚姻率の高まりがそれに該当)。

しかしそれから20年後の1990年前後に再びの形で、第三次結婚・ベビーブームは起きていない。多少の上乗せ傾向が見られる程度(1990年-2001年あたりまで、やや底上げされているのが該当)。価値観の変化や結婚時期の分散などが起きたためで、1950年代・1970年代のような盛り上がりは確認できない。以後、婚姻率は高齢化や晩婚化、価値観の変化などとともに減少傾向にある。

一方離婚率は1960年代までは減少をしていたものの、その後少しずつ上昇。2002年には戦後最高値の0.23%をつけている。それ以降は婚姻率そのものが減少しているため(今件の値は人口に対する割合であり、婚姻者に対する割合では無いことに注意)、婚姻率同様に離婚率も減少傾向にある。直近数年間は0.20%を切り、さらに漸減する動きを示している。

初婚年齢は上がる一方

続いて初婚年数推移。こちらは「人口動態統計の年間推計」の発表リリースでは確認できず、さらに調べたところ、報道資料としては5年単位で「人口形態統計」の「特殊報告」(出生に関する統計)で行われているのが分かった。最新のデータは【人口動態統計特殊報告:結果の概要内、平成22年度「出生に関する統計」の概況】。

しかしこれでは少々体裁が悪いので、【統計局のデータベースe-Stat】で「初婚」をキーワードにして検索。そこから「人口動態調査」「確定数」「婚姻」「9-12 [上巻] 都道府県別にみた年次別平均婚姻年齢(各届出年に結婚生活に入り届け出たもの)」の順に掘り下げる形で選択し、「(1)初婚の夫」と「(2)初婚の妻」を選ぶ。これを元に取得可能な2016年までの全国平均における男女別(つまり夫と妻)平均初婚年齢をグラフ化した。
(記事引用)














三宅さんは自民に行けば?高城剛が「爆弾発言」
【高城×三宅対談2】mag2.com2017.12.23 414 by 芳村篤志

三宅洋平は右派?自民党に転向すべき

高城:今、難民は、イタリアが止めてるんだけどね。ヨーロッパでは難民の問題すごく起きてるけど、なんで、あんなに難民を入れちゃったのかっというと、バチカンが「入れろ」って言うから入れたわけ。それでグチャグチャになっちゃった。
だから、イタリア政府がバチカンに話をつけて「もうやめましょう」っていうことで、入れるのやめたんです。

で、アフリカ大陸から欧州に近い所にリビアとチュニジアがあって、その沖合にランペデューザって小さい島があるんだけど、そこはイタリアなんです。僕、そこに行ってきて見たんだけど、アフリカから船がバンバン来るんだよ。で、上陸しちゃったら、もうEUに入っちゃうことになるの。
だから、そこに船を出させないためには、彼らをリビアのビーチで止めるしかない。だからイタリアが中心になって、ドイツからも金を集めて、こっそりビーチに収容所を造ったんですよ。
そこは「アウシュビッツ・オン・ザ・ビーチ」って言われてて、それはもう最悪なわけ。それをヨーロッパ人は見て見ぬふりしてるんです。そういうことが実際起きてるわけだけど、どこも報道しないよね。

三宅:そのイタリアといえば、今「五つ星運動」が勢いありますよね。

高城:あれはファシズムだね、新しい形の。

三宅:そうですかね。ポピュリズムとは言われてるけど。

高城:いや、ファシズム。完全に党首であるベッペ・グリッロの新ファシスト党。そもそもイタリア人ってファシズムが好きで、国営放送のRAIが、いまも数カ月おきに昔のファシズムの映像をガンガン流してるくらい。
だから、誰かスゴい人が出てきたら、みんながそれに付いてくっていう、そういうことをずっとこの2000年ぐらいやってきたわけ。

三宅:家父長制度みたいなのが強いって感じですか。

高城:ていうか、スゴい人が1人出てくれば、その人について行く。だから、ベッペ・グリッロが新しいそういう人物じゃないかと言われていて、五つ星運動と言えば聞こえはいいけど、結局はベッペ・グリッロのファシズムなんですよ。
インターネットでは、環境だとか何とかだって都合のいいこと言ってるけど、実際のところ政治能力はないし。


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ただ五つ星運動で唯一いいのは、議員を2期しかやっちゃいけないところなんです。2期務めたらリタイアしなきゃいけない。だから、ベッペ・グリッロは政治家にはならない。
ずっとコントロールしていたいから。だから、老人たちの政党と、新しいファシズムっていわれてる五つ星運動と、割と左側の勢力の3つ。
これが、イタリアの現状。で、左側の拠点がボローニャ。もともとオリーブの木も全部ボローニャからなんだけど、そこが今後新しい力を出せるかどうかで、イタリアは変わる。

三宅:今、イタリアは民主党政権で中道左派ですよね。ボローニャっていうのは……。

高城:完全に左というか、赤。通称「赤のボローニャ」。先月、ボローニャ市長にお目にかかって、直接歴史と現状をお聞きしましたが、何百年も左が強い地域。だから「オリーブの木」も生まれたし、新しい左側の運動は全部あそこから。
だからボローニャを見れば、イタリアの将来がどうなるのかが分かる。

三宅:実は今度、その五つ星運動の三役をやってるリカルド議員が来るんで、会うんですよ。俺自身、五つ星運動の直接民主制度はいいなと思ってて、「これは今の日本では案外いけるな」って。

俺としては、日本でも住民投票がもっと増えてもいいと思うんです。
例えば、自分の住んでいる町に産廃施設が入るかどうかは、住民に決定する権利があるべきなんだろうけど、今の日本では行政と業者で決めちゃう。
だから、日本でも年に1回ぐらい重大な決定事項が住民投票で決められるようになれば、住民たちも毎年その話で持ちきりになって、意識も上がっていくし、知識も増えていくんじゃないかって。

高城:インターネットで投票するのはすごくいいんだけど、五つ星運動に関しては、基本的に党員しか投票しちゃダメなんですよ。
それに党員でトップになっても、ベッペ・グリッロがダメって言ったら、それでダメになっちゃうんですよ。おかしいよね。

三宅:俺ね、そこのリサーチが全然まだ足んなくて。ただ、ひとつ疑問だったのは、今の五つ星運動の党首で31歳の……ディ・マイオでしたっけ。
俺、党首って投票だと思ってたんですよ、決めるのは。党の方針に関しても、全部ネット投票で決めてると。でも、その党首はベッペ・グリッロが直接指名なんですよね。

高城:そう。だから、ベッペ・グリッロのファシズムなんだって。

三宅:うーん、そうなんだ。

高城:完全にそう。だから、ちょっと裏でいろんな所と取引してる。例えばマフィアとか。

三宅:確かに、南部の貧しいほうの支持を取り付けてますよね。

高城:そう。マフィアがまとめたから、南部の票を取ってる。

三宅:貧しい人好みなことを言ってますよね。

高城:だから、ディ・マイオもナポリで教会に行ってパフォーマンスをする。
先月イタリアにいた時にニュースで見たんだけど、教会で彫像かなにかにキスしたら、なんか血の色になって奇跡が起きたみたいなこと言ってたけど。
イタリア人が好きそうな話で、まやかしだよね。……まぁイタリアだけでなく、ヨーロッパ中がどんどんファシズムに傾いてる。ポーランドのカチンスキー政権なんか、ファシズムとかけて、「カチズム」と言われている。
景気が悪いとそうなるよね。フランスも国民戦線はダメになっちゃったけど、リノベーションして新しい国民戦線をつくると思うけどね。

三宅:でも結局、基本はみんなEU懐疑派で、地域主義。

高城:そうだね、分断に向かうのがトレンドだからね。

三宅:俺の考えてるのも、結構そうなんだよね。グローバリズムは、なんかちょっと面白くないなあ。

高城:いまのグローバリズムは、世界ルールがないからね。だから、問題を理解したら、結果的に右に寄って行く。「世界はさておき、ここの中で、俺らだけでまとめていこう」っていう発想になるから。顔が見える仲間意識が高まる。

三宅:あぁ、だから俺、左派のつもりで左派の中にいたのに、すげえイジメられたんだな。「あいつは右派だ」って(笑)。

高城:そうなんだ。ていうか、君、右じゃん!

三宅:自民党のやってきたことには、おおむね納得いってないんですよ。
ただ、難しかろうなって思うところもある。対米従属で、何とか、だましだまし国益をって考えてきて、「言えねえことも山ほどあるよ、国民には」っていうのも分かるし、それに対して「おまえら、隠し事しただろう」って批判するのは、「それは国を守るためやんか」とも思うんです。
ただ、自民党に対する評価は、俺は総じてあんまり高くない。特に原子力政策に関しては。だから「脱原発」って主張するんですが、そうなると左派寄りの立場になるんですよね。

高城:米国と原発の二軸で考えると、そうなるね。

三宅:ところが、俺自身はそれほどリベラルってわけでもないんです。日本のオールド左翼の世界では。だから俺がリベラルだと思ってリベラルの側から言ってるつもりでいると、同じ側の人たちに「おまえはあっちの回し者だ」とか言われてたりもする。

高城:どうみても、右な感じするけどね。

三宅:そうなんですかね。それに農業のこととかを語ると、どうしても大地だとか国の話になるじゃないですか。日本人の心っていうか人間のスピリチュアリティーとか。そういうのって結構右側の人とも意見が共通する話だから、それで安倍昭恵さんが「会いたい」って言ってきたりすると。……そもそも、うちの家系も自民党の家系だし。

高城:こうやって話を聞く限りでも右だよね。極右ではないけど。

三宅:中道右派?

高城:……のほうがうまくいくと思うけど。今日から転向したら?(笑)

三宅:よく言われます。「なんで自民党、入んないの」って。

高城:そうだよ。どこかで入ったら?

三宅:無理っす。「巨人・ヤンキース・自民党」だけはダメなんです。

高城:いや、そのうち自民党は割れるから、そのときに入ればいいよ。だって、今あそこは実質的に清和会だから、自民党じゃなくて。オリンピック以降に割れるから、絶対。

三宅:うちのおふくろの実家って、橋本龍太郎が戦時中に疎開してたんですよ。
だから龍太郎さんとか、子どもの頃からなんか親近感があって。かといって、彼の政策をくまなく知ってるわけじゃないですけど、なんかその頃の自民党の雰囲気って、今とは違ったなっていうのは思うし。
……とは言ってもそんなに僕、国家主義ではないんですよ。ただ故郷というか、邦人としての国はすごく大事にしたい。その風土であったりとか……。

高城:なるほど、完全に保守だよね(笑)。

三宅:そう考えると、今の自民党のほうがはるかに保守じゃないっすよね。

高城:今の自民党は世界的に見れば極右だからね。今の日本は2つしかない、不明瞭な左と極右。これしかないのが問題で。第三の道も権威的ではない新しい選択もない。

三宅:それは、もう本当に問題ですよね。

高城:で、「これは問題になるから、ちょっと真ん中に戻そう」ってことで、本当はオリンピックが終わったら、小池総理になるはずだったんでしょ。
で、小池総理の後は、そのまま小泉進次郎に引き継ぐ予定だった。そこで、核武装。
でも、それが失敗しちゃったから、もう一回グチャグチャになるんじゃない? だから、自民党は割れるよ、2020年前後を機に。

三宅:オリンピックまでに?

高城:だって、経済が持たないから。今日も日本の金融機関の人と話したんだけど、「もう危険だ」って彼ら自身が言ってるもんね。かなりマズいんじゃないの、やっぱり。素人じゃないじゃん、あの人たち。
「このまま金融緩和とマイナス金利を続けるのは危険だ」って、ハッキリ言ってんだよ。

三宅:デフォルトしちゃうってこと?

高城:いや、デフォルトまではいきなりいかない。

三宅:じゃあ、余計に厄介ですね。デフォルトしてくれたほうが、まだ分かりやすい。

高城:そうそう。でもデトロイトを見ても、デフォルトするまでに25年かかってるから、そう簡単にはいかない。

三宅:アルゼンチンとかも、一度デフォルトしたじゃないですか。

高城:2000年の12月1日に、突然ね。その後の一週間に大統領が5人変わった。

三宅:それで、インフラや社会サービスが何も機能しない状況になって、向こうの人は停電も自分で直すし、家もクルマも自分で直すのが常識になったんですよね。
その後、アルゼンチンは奇跡的に復活したけど、いまだに家庭の医学じゃないけど、そのときの何でも辞典みたいのが各家庭にあるらしくて、男でも女でも配電盤とかバンバン開けていじるっていう、そんな風土が出来上がったらしくて。

で、俺としては、日本も一回デフォルトしたほうがいいんじゃないかと思ってて。
そうすれば分かりやすくなると思うけどね。真綿で締められてる今の日本がそうだけど、なんか「アベノミクス、どうなの」とか言いながら、どこかで安心してるような。でも、外から見たらヤバいでしょっていう、こういう「なにも気付かない感じ」が、俺はすごく嫌なんですよね。

高城:デトロイトも同じ状況で、真綿で首を絞められたような状態が25年も続いたわけですよ。

三宅:それはツラい。

高城:デトロイトの自動車産業と成長のピークが1960年代。で、デフォルトしたの2010年代だから、もう80年代あたりから地獄の25年間があったわけだよね。でも、日本もそうなる。今はまだ本格的には始まってないけど。

三宅:……そうなると、音楽だけはかっこ良くなりますよね。

高城:社会に大きな問題が起きれば、あたらしい表現が出て来るからね。

三宅:悪い音楽がいっぱい出てきて……(笑)。

高城:デトロイトテクノもそうだし、80年代にニューヨークの市財政が大変だったときにストリートアートが出て、ハウス・ミュージックが勃興して、ヒップホップが始まったっていうのも、やっぱり不景気のなかから、あたらしい表現が出てくるっていうのが、いつの時代もあるからね。
ピカソのゲルニカからイギリス病から生まれたブリティッシュロックも。

三宅:俺も田舎にいるときより、都会に出て来てぶつふつと不満に満ちてる時のほうが、曲のアイデアが湧くからなぁ。

高城:そういう混沌とした時代背景のほうがエネルギーが出てくるから。だから今後、ヨーロッパから続々と新しい音楽が出てくるかもしれない。
ヨーロッパは今ほんと景気が悪いからね。リーマン・ショック後にミニマル……あれって音楽をできる限りソリッドにしていった現代の新しいフォークソングのようなものだと思うんだけど、あれが流行りだしたのは、まさにそういう時代の表現だと思うんだけどね。

……と、これから面白くなりそうなお二人の対談ですが、公開できる内容はここまで。
今月(2017年12月)に、高城さん、三宅さんどちらかお一人の有料メルマガにご登録いただいた方には、今回の対談の全文を読むことができます。お二人のメルマガとも、初月無料で読むことができますので、この機会にぜひご登録して見てはいかがでしょうか。それではみなさま、メリークリスマス&良いお年を!

高城未来研究所「Future Report」著者/高城剛(作家/クリエーター)1964年生まれ。現在、コミュニケーション戦略と次世代テクノロジーを専門に、創造産業全般にわたって活躍。毎週2通に渡るメルマガは、注目ガジェットや海外移住のヒント、マクロビの始め方や読者の質問に懇切丁寧に答えるQ&Aコーナーなど「今知りたいこと」を網羅する。
(記事引用)









日本経済が労働者不足でむしろ「黄金時代」を迎える理由
2018.1.26ダイヤモンド塚崎公義:久留米大学商学部教授
年が明けて以降も景気は確実に回復・拡大
 景気は着実に回復・拡大を続けている。1月の月例経済報告は「景気は、緩やかに回復している」として基調判断を前月から引き上げているし、政府経済見通しも「消費や設備投資など民需を中心とした景気回復が見込まれる」としている。

 新年を迎え、民間の各社が公表した経済見通しも、総じて明るいものが多かった。人々の気分も明るいようで、初売りも好調であったと伝えられている。

 こうした状況を反映して、雇用情勢も絶好調である。失業率は、これ以上、下がるのは難しいとい思われる水準にまで低下しており、有効求人倍率はバブル期を上回り、高度成長期に迫る水準となっている。

 しかし、雇用情勢の絶好調は、単に景気好調によるものではなく、底流にある「長期的な少子高齢化による労働力不足が、景気回復で表面化したもの」と捉えるべきだ。そして、この少子高齢化による労働力不足こそが、本稿の主題である日本経済の「黄金時代到来」を招くものなのだ。
バブル崩壊後の長期不振の主因は
日本人の勤勉と倹約
 日本人は、勤勉で倹約家である。高度成長期の日本人は、懸命に働いて大量に物を作り、倹約に努めて少量の消費で我慢したから、企業が工場建設のための資材を調達することができたし、人々が貯蓄に励んで銀行に預金したから、企業は銀行から設備投資資金を借りることができたのだ。

 しかし、高度成長が終わりバブルが崩壊、企業が設備投資をする必要がなくなると、こうした勤勉と倹約が日本経済の弱点となった。人々が勤勉に働いて大量の物を作っても、倹約して少量しか買わなければ、作られたものは売れ残る。そこで、売れ残ったものを輸出すると、輸出企業が持ち帰ったドルを売るのでドル安円高になり、輸出は無限には増やせない。

 そこで企業は生産を減らし、雇用を減らした結果、失業が増えた。そうした失業者を雇ったのが政府の公共投資であり、そのための費用が莫大な財政赤字となったのである。

 みんなが「正しいこと」をすると、全員がひどい目に遭う場合がある。「合成の誤謬」と言われるものだ。

 例えば、劇場火災の際、各自が非常口に向かって走るのは「正しい」が、全員が非常口に集中することで皆が逃げられなくなってしまう。銀行の経営破綻の噂を聞いて預金引き出しに走るのは正しい行為だが、全員がそうしてしまうと本当に銀行が破産し、預金者全員が大変な目に遭ってしまう。同様に、人々が豊かになろうとして勤勉に働き、倹約に努めると、場合によっては皆が貧しくなってしまうのである。
少子高齢化による労働力不足で
バブル崩壊後の諸問題が解決へ
 少子高齢化によって、労働力となる若者が減り、引退する高齢者が増えると、労働力不足となる。その結果、バブル崩壊後の長期不振時代の最大の問題であった失業問題が、自然に解決してしまったのだ。高齢により引退する労働者が、「自発的かつ永遠に」失業を引き受けてくれたからである。

 失業者が減ったことにより、今まで就業をあきらめていた高齢者や、子育て中の女性なども仕事が見つかるようになった。また、いわゆる「ワーキングプア」と呼ばれる人たちの生活も、マシになった。ワーキングプアとは、正社員になれずに非正規労働者として生計を立てている人たち。非正規労働は、従来、学生や主婦の小遣い稼ぎ的な要素が強かったから、気楽である一方で不安定であり、しかも時給が安い。したがって、それで生計を立てるのは容易ではなかった。

 しかし、労働力不足によって非正規労働者の時給も上昇しつつあり、雇用も安定してきた。現在の職場が雇ってくれなくても、すぐに次の仕事が見つかる。失業者やワーキングプアといった、恵まれない人々の状況が改善するのは素晴らしいことだ。

 一方で、労働力不足により、ブラック企業も存続が難しくなりつつある。「辞めたら失業者だよ」という、経営者の脅しによって辞めることを思い留まっていた人たちが、辞めても次の仕事がすぐ見つかるようになったからだ。これもまた、素晴らしいことだ。

 日本企業は、生産性が低いと言われる。生産性の測り方にも問題があるとは思うが、その話は別として、生産性が上昇していないことは間違いない。その一因は、ゼロ成長によって企業が新規の設備投資をしていないため、最新の生産技術が生産現場で使われていないからだ。
「省力化投資」も活発化し
日本企業の生産性が向上
 もう一つの原因は、日本企業に「省力化投資」のインセンティブが小さかったことだ。例えば、安い労働力が容易に入手できるなら、飲食店は自動食器洗い機を買わず、学生アルバイトに皿を洗わせるだろう。だが、労働力不足になると、飲食店が自動食器洗い機を買うようになる。そうした流れが加速すれば、単に労働力を機械に置き換えるのみならず、最新の皿洗い技術が広く使われるようになる。

 日本企業がこうした省力化投資に不熱心だったこともあり、日本経済には「少額の投資で大幅に労働生産性を高める余地」は大きい。今のような状況が続けば、そうした投資が今後一斉に行われるはずで、そうなれば日本経済の生産性は大幅に向上するだろう。

 このように、労働力が増えなくても労働生産性が上がれば、経済成長は十分に可能だ。少子高齢化による労働力不足で日本経済の成長は見込めない、と言われているが、そうとは限らないのである。

 また、財務省が必死に財政再建を目指しているのに、財政赤字がなかなか減らない一因は、増税が難しいからだ。政治的に不人気なこともあるが、増税をすると景気が悪化してしまうことが大きい。景気は、税収という"金の卵"を産む鶏なので、景気が悪化すれば増税が逆効果となってしまいかねない。

 しかし、労働力不足が本格化し、増税をしても失業が増えない時代になれば、「気楽に」増税できるようになる。もしかすると、労働力不足による賃金上昇がインフレを招き、「増税によって景気を悪化させ、労働力不足を緩和してインフレを防がなければ」という時代がくるかもしれない。そうなれば、増税は財政再建と、インフレ対策の一石二鳥となり、気楽にかつ頻繁に行われることだろう。

労働力不足と言わず
「仕事潤沢」と呼ぶべき
 労働力不足という言葉は、ネガティブな言葉である。しかし、これまで見てきたとおり、恵まれない失業者やワーキングプアやブラック企業社員に大いに恩恵があり、日本経済の生産性を向上させ、財政再建にも貢献する素晴らしいものなのだ。

 そういう意味で、ポジティブな言葉に変えれば、与える印象は大きく変わると思う。筆者はキャッチコピーを考えるのが苦手なので、とりあえず「仕事潤沢」と呼んでおこう。

 仕事潤沢により、バブル崩壊後の日本経済の深刻な問題が一気に改善することを考えると、今後当面の日本経済は、「黄金時代」と呼んでいいのではないだろうか。

 そうした中、労働力不足だから外国人労働者を活用しようといった話が経済界などから聞こえてくるが、「経済界の利益は日本の利益ではない」ということを明確にすべきだ。

 外国から大量の労働力が導入されれば、日本人の失業者やワーキングプアが増え、ブラック企業が生き延び、日本経済の生産性は向上せず、失業対策の財政出動で財政赤字は拡大するからだ。デフレ不況が再燃すれば、企業経営者だって困るはずだ。

 そうした事態を招かないためにも、「労働力不足」を「仕事潤沢」と呼び換えて、これは望ましいことなのだと印象づける必要がある。日本経済の黄金時代を、日本人自身の誤った選択で壊してしまわないために。

(久留米大学商学部教授 塚崎公義)


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第17室・焼き物2(六古窯)
ZZ-1.古瀬戸双耳小壷(鎌倉時代)
 koseto原始灰釉陶器(日本初の高火度施釉陶器)を生み出した猿投窯(さなげよう)は、既に奈良時代末期から仏具の水瓶や浄瓶を模した製品や、ミニチュアの祭祀具などを製作していた。その後猿投は12世紀には東山窯の名で呼ばれる無釉粗製の量産型の窯に墮してゆく。平安の初期には灰釉を刷毛塗りして丁寧に作っていた碗や皿も、降灰の自然釉に任せる無釉・重ね焼きの山茶碗の量産に走った訳である。そんな中で高級施釉陶器の再興を計った「再興猿投窯」こそ瀬戸焼なのである。これは鎌倉期のミニチュアの祭祀具である。







ZZ-8.古丹波自然釉四耳壺(桃山期)
kotanba4 耳も四つとも無事に殘っている、無傷の古丹波である。私の丹波への偏愛というか、寧ろコンプレックスに近い感情の、これが終着点です。新門前でゲット。



http://www1.odn.ne.jp/j-kingdom/4425.html













東京新聞望月記者「政権の矛盾のしわ寄せを受けるのは官僚」
2017.12.24 07:00 ポストセブン
東京地検特捜部は2017年12月上旬、スパコン開発会社「ペジーコンピューティング」創業社長の齊藤元章容疑者(49才)を逮捕した。2013年度に国の助成金4億3000万円を騙し取った詐欺容疑。齊藤容疑者は関連会社で総額100億円超の公的資金を受けていたと報じられた。このペジー事件の問題点について、東京新聞の望月衣塑子記者(42才)が読み解く。

 * * *
1802_mochizuki_isoko 官僚たちがペジー事件に関心を寄せる理由も、まさに「政治の関与があるのか」というところです。今、官僚の間には、安倍官邸への鬱屈がマグマのように沸々と溜まっているように思います。

 森友学園問題では、国有地が超格安で籠池夫妻側に払い下げられた経緯が、録音テープの公開などで徐々に明らかになっています。誰がどう見ても異例で異常なことなのに、安倍官邸としては「問題ナシ」の一点張り。その矛盾のしわ寄せを受けるのは、実は優秀な官僚たちなんです。

 官僚にとってこの時期は本来、予算作りなど国民生活にとって大切な仕事が山積しています。しかし、今は官邸の指示で放ったらかし。閣僚らが国会で「問題ナシ」と話すための答弁書作りを昼夜やらされているそうです。しかも、どう考えてもかなり苦しい言い訳を考えなければいけない。

 森友、加計問題では、政治家が責任を取らない代わりに、現場の官僚たちが異動させられたり、閑職に追いやられたり、詰め腹を切らされているそうです。まるでトカゲの尻尾切りです。

 加計問題を告発した前川喜平前文科次官は官邸との対決の矢面に立ちましたが、その他大勢の匿名の官僚たちが、「自分たちは安倍政権のためじゃなく、国民のために仕事をしているのに」と不満を溜め込んでいるんです。

 安倍政権は近年まれに見る長期政権なので、出世のために「安倍官邸のご意向に忠誠を誓う」というごく一部の官僚もいて、彼らは霞が関で絶大な権力を振るっています。そうした「官邸派官僚」の存在も、それ以外の大多数の官僚の不満を生んでいます。

ペジー事件の捜査を進めているのは東京地検特捜部の検事たちです。検事とは、まさしく官僚です。政権への不満を溜めてきた霞が関全体の“意思”が検察を突き動かし、ペジー事件に繋がっているように思えてなりません。

 ネットメディアの興隆で、既存のマスメディアの存在感は薄れ、世間からの信頼も揺らいでいます。安倍政権の取材をする中で、マスメディアの課題も見えてきました。

 たとえば、昨今の女性政治家の不祥事報道には、違和感を覚えます。山尾志桜里議員の不倫疑惑にしても、蓮舫議員の二重国籍問題にしても、稲田朋美議員の防衛省日報問題にしても、男性記者は明らかに言葉の強い厳しい質問を執拗に繰り返していました。その一方で、スキャンダルを起こした男性議員には寛容です。取材現場にいると、その落差を痛切に感じます。

 モリカケ問題はスキャンダルよりはるかに重要な国家レベルの問題です。官邸会見でも、どちらかというと、少数の女性記者が厳しい質問を投げかけ、男性の方が菅官房長官のご機嫌を“忖度”しがちです。女性議員の不祥事を執拗に追及する男性記者の半分でもいいので、官邸会見にきて同じ熱量で質問を飛ばすべきだと思います。

 詩織さんへの性的暴行問題では、逮捕状が出たのが記者クラブ所属の記者だったから、手心が加えられたという話もあります。本当にそうであれば、記者クラブは権力と一体なのかと思われても仕方ない。

 たった1人でも官邸会見で質問をし続けることで、そんな状況に一石を投じたいと思っています。

※女性セブン2018年1月4・11日号
(記事引用)



トランプ大統領を生み出したのはフェイスブックか? それともメディアか?
 2016年11月15日 01時59分 JST 平 和博 朝日新聞記者 デジタルウオッチャ(ハフィントンポスト)
ドナルド・トランプ大統領は、フェイスブック上で流布していた陰謀論などのデマニュースが生み出したのか?

今回の米大統領選では、ソーシャルメディア、中でもフェイスブックの果たした役割が様々に検証されている。

メディアとしての影響力を持ちながら、責任を果たしていない―。

フェイスブックはこの大統領選を通じて、その批判にさらされてきた。
特に注目を集めているのは、トランプ陣営にとって追い風となる、数々のデマニュースを拡散する舞台となっていた点だ。
だが、CEOのマーク・ザッカーバーグさんは、その責任を認める気はないようだ。それらの指摘に対して「バカげた考えだ」と批判を展開している。
その一方で、トランプ大統領誕生をめぐる、既存メディアの責任も問われている。

●フェイスブックの存在感

ネット調査会社「ニュースホイップ」によると、米大統領選の投開票までの直前1週間で、もっともエンゲージメント(「いいね」、共有、コメント)の多かったフェイスブックページは、トランプ氏の公式ページで、1240万件。

以下、フォックスニュース(950万件)、クリントン氏公式(700万件)だった。

前回2012年の大統領選当時、フェイスブックの月間アクティブユーザー数は10億人。それが今年9月末には17億9000万人だ。

フェイスブックの存在感は格段に大きくなっている。

米国の総人口3億2000万人のうち、2億人以上がフェイスブックのユーザーだ。

しかもピュー研究所の調査では、米国の成人の44%はフェイスブックを通じてニュースに接しているという。

フェイスブックは、世界最大のメディアとなった。だが、その存在感に見合う責任を果たしているか。それがこの数カ月、フェイスブックをめぐる批判の論点だった。

※参照:フェイスブックがベトナム戦争の報道写真"ナパーム弾の少女"を次々削除...そして批判受け撤回

※参照:編集者を解雇したフェイスブック、アルゴリズムがデマをピックアップする

トランプ氏当選は、この議論に新たな事例を加えた。

デマニュースが、フェイスブックを舞台に拡散し、それがトランプ氏への追い風となったのではないか、との批判だ。

●デマニュースの拡散

ニューヨーク・マガジンのマックス・リードさんは投開票の翌日、「ドナルド・トランプ氏はフェイスブックによって勝利した」との記事を掲載した。

フェイスブックがトランプ氏に勝利をもたらした最も明白なやり方は、デマ、あるいは偽のニュースの問題に対処できなかった(あるいはそれを拒否した)ことだ。偽ニュースはフェイスブック固有の問題ではない。ただ、膨大なユーザー、そして、共有への熱気、同じようなニュースを次から次へと見せていくニュースフィードのアリゴリズムなど、その配信のメカニズムが、フェイスブックをこの金のあふれる市場を支える唯一のサイトに仕立てたのだ。そこでは、怪しげなメディアがフェイスブックからトラフィックを抜き取り、人々を広告で飾り立てたサイトに呼び込む。そのために、真実とは縁もゆかりもない改竄、誤報、誇張、あるいはそのすべてを盛り込んだ記事を使うのだ。
フェイスブックを舞台に、デマニュースを量産する政治メディアが増大しているという問題はすでに8月、ニューヨーク・タイムズ・マガジンでジョン・ハーマンさんが指摘していた。

9月には、ガーディアンのアラン・ユハスさんが主だったデマニュースをまとめて検証している。

その多くはトランプ氏支持(クリントン氏・オバマ政権中傷)の内容だった。

ファクトチェックの専門家でバズフィード・カナダの創設者、クレイグ・シルバーマンさんの調査では、デマニュースは、事実のニュースよりも、広く、早く拡散し、フェイスブックでより多くのエンゲージメントを獲得することががわかっている。

2016-11-15-14
「ローマ法王が世界に衝撃、大統領選でドナルド・トランプ氏を支持、声明を発表」

これは今年7月に出回ったデマニュースだが、フェイスブック上での共有数は10万件近く。一方、このニュースをデマだとした検証サイト「スノープス」の記事の共有数は7万件程度だった。

この他にも、投開票日の3日前、"デンバー・ガーディアン"という実態のないニュースサイトが「クリントン氏流出メール担当のFBI捜査官、無理心中」のデマニュースを流した。

これには56万8000件のフェイスブックでの共有があったが、これがデマであることを指摘したスノープスの記事の共有は9400件にとどまっている。

●目的は広告収入

これらのデマニュースは、トランプ支持派として知られるネット上の活動グループ「オルタナ右翼」による、政治的な動機に基づくものも多いと見られる。

だがそれだけではないことも、わかっている。

マケドニアの10代の少年たちが、広告料収入獲得の目的で、大量のトランプ支持のデマニュースサイトを配信していることが、ガーディアンのダン・タイナンさんや、バズフィードのシルバーマンさんらの調査で明らかになった。

タイナンさんの調べでは、このようなドメインは判明しただけでも140にのぼるという。

コンテンツを"トランプ支持"の内容にしているのは、その方がトラフィックがかせげて金になるから、だという。

シルバーマンさんはこう述べている。

これらのサイトを運営している若者たちは、トラフィックを生み出す最善の方法は、政治ニュースをフェイスブック上で拡散させること、そしてフェイスブック上で共有を生み出す最善の方法は、トランプ支持者に迎合したセンセーショナルで、しばしばデマのコンテンツを配信することだ、ということを学んだのだという。
●メディアからの批判

大統領選の結果を受けて、改めてフェイスブックのデマニュース問題を追及する声は高まっている。

ニーマン・ジャーナリズムラボ所長のジョシュア・ベントンさんは、17億9000万人というユーザーを擁するフェイスブックが、デマに真剣に取り組む必要がある、と指摘する。

我々の民主主義は多くの問題を抱えている。しかし、フェイスブックが、そのユーザーたちが共有し、受け入れるニュースの真実性に取り組むこと、しかも本気で取り組むこと以上に、インパクトのある対策はあまりない。
フォーチュンのマシュー・イングラムさんもこう指摘する。

フェイスブックのような巨大メディアなら(そのレッテルを避けたがっているとしても)、その責任にしっかり向き合う義務がある。あるいはカーテンの裏にアルゴリズムを隠しておくだけじゃなく、協力を求める必要も。
英ガーディアン出身でコロンビア大学デジタルジャーナリズムセンター所長、エミリー・ベルさんも批判的だ。

フェイスブックは、真実よりも感覚が重視される環境を作り出す手助けをしてしまった。今度は、そのフェイスブック自体への社会の認識がもたらす結果に、同社は取り組む必要がある。
だが、フェイスブックに選挙結果への責任あり、とする見方には、否定的な意見もある。

ノースカロライナ大学チェペルヒル校准教授、ダニエル・クライスさんは、デマニュースの動きは、決してフェイスブックの登場が生み出したものではなく、戦後の保守派の系譜に位置づけられるものだ、と述べる。

インターネットが"事実の終焉(ポストファクト)""真実の終焉(ポストトゥルース)"時代をもたらしたのではないし、陰謀論や白人ナショナリズム、保守アイデンティティ、その敵役、さらにはジャーナリズムから科学にいたるまで、知識を生み出す組織への不信感を生み出したわけでもない。それを生み出しのは、第2次世界大戦後の保守派の運動であり、共和党であり、トークラジオショーからフォックスニュースにいたるメディアだ。ソーシャルメディアを取り込むことで、反移民感情、保守派アイデンティティ、ポピュリスト的レトリック、経済不安といった、2016年の大統領選の特徴をより可視化した、ということはあったかもしれないが、ソーシャルメディアがそれらを生み出したわけではない。
ニューヨーク大学教授のジェイ・ローゼンさんも、懐疑的な立場だ。
(記事引用)





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