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内田樹が語る貧困問題――貧困解決には「持ちだし覚悟」の中間共同体が必要だ ~「人口減少社会」を内田樹と考える#2~文春オンライン2018年05月02日 11:00
人口減少問題は、社会の貧困や格差を加速化させるのだろうか。思想家・内田樹氏は「持ち出し覚悟で、リターンなし」のマインドから立ち上がる相互支援の共同体こそが解決の鍵になるという。共同保育から合同墓まで、内田氏のまわりで実際に行われている相互扶助の実践から「人口減少社会」への処方箋を示すインタビュー第2弾。

前回「内田樹が語る高齢者問題」より続く

◆◆◆

分配がフェアであれば、貧困にも耐えられる
――内閣府の発表によると、日本の子どもの相対的貧困率はOECD加盟国34か国中10番目に高く、別の調査では、高齢者単独世帯における男性の相対的貧困率が29.3%、女性は44.6パーセントにも及びます。人口減少は貧困をより深刻化させるのでしょうか。
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内田 経済が右肩下がりになる中でこうした数字を聞くと、たしかに悲観的な気持ちになるのかも知れません。でも、経済指標の数値と人の幸不幸というのは完全な相関関係にあるわけじゃありません。問題は「分配方法」なんです。分配がフェアであれば、貧困にも耐えられる。分配がアンフェアだと、わずかな格差でも気に病むし、それによって傷つけられもする。そういうものです。

 僕たちの子どもの頃の日本の貧しさは、いまの若い世代には想像もつかないと思います。僕が小学校に入った年の夏休み前の校長先生の訓示は「いくらお腹が減っても、買い食い、拾い食いをしてはいけません」でしたからね(笑)。僕が子どもの頃、何か欲しいものがあって「買ってよ」というとほぼシステマティックに親に拒絶されました。「うちは貧乏だから」というのが母親の決まり文句でした。

「どうしてうちは貧乏なの?」と訊くと、ぴしゃりと「戦争に負けたから」で話が終わった。そう言われたら、それ以上ごねようがない。それでも何とかなっていた。それは1950年代の日本人の貧しさは、関川夏央さんが言うところの「共和的な貧しさ」だったからです。乏しい資源を地域共同体で均等に分かち合い、助け合って生きてくという心遣いがありました。

――『ALWAYS 三丁目の夕日』のような世界ですね(笑)。

共同体は簡単に成立し、簡単に消滅する
内田 僕が育ったのは東京の大田区の多摩川沿いの工場街です。僕の住んでいた町にはもともと地域共同体らしきものはなかった。川岸に軍需工場がたくさんあったので、その下請け孫請けの町工場がひしめき、そこで働く人たちが集住していたエリアです。空襲で工場はあらかた焼けてしまった。その廃墟に雑草が生い茂り、遠目に見ると野原のように見えるんだけれど、近くに行って見ると、焼け焦げた鉄骨や崩れたコンクリートの土台や、ガラス片が飛び散っていた。

そんなところにまともな地域共同体なんかあるはずがない。戦後、日本各地から仕事を求めて上京してきた人たちが、そこに安普請の家を建てて、肩寄せ合うように暮らしていた。だから、隣人たちと言っても、出身地が全員違います。方言も食文化も生活文化も違う。そういう隣人たちが、貧しいもの同士、互いに食べものを融通したり、質屋通いの仕方を教えあったり、子どもを預けたり、預かったりして、暮らしていた。

 でも、1964年の東京オリンピックの頃から、地域からそんな「共和的な貧しさ」が失われてゆきました。貧富の差が出てきたからです。ほんとうにあっという間に親しみに満ちた地域共同体が崩れていった。そのスピードには子どもながら驚きました。まず小金を手にした家がブロック塀を建てるんです(笑)。

他の家よりも早くテレビや電気冷蔵庫が入ったのだけれど、近隣からの嫉妬のまなざしを防ぐために、塀を立てて扉を閉ざした。別にたいした格差じゃないんですよ。いずれ、どの家にもテレビも電気冷蔵庫も入ったわけですから。でも、電化製品の導入のわずかな遅速だけで、そこに生じたわずかな嫉妬心の兆しだけで、地域社会の相互扶助的なマインドは簡単に無くなってしまった。共同体というのはずいぶん簡単に崩れるものだなということをその時に痛感しました。

 でも、それが残した教訓は悲観的なものだけではありません。なるほど、共同体というのはけっこう簡単に成立し、けっこう簡単に消滅するのだということを子どもの時に学んだ。僕はこの経験から「出自も違う、職種も違う、学歴も違うという見知らぬ人たちでも、肩寄せ合って生きなければならないという事情があれば、ちゃんとそれなりの共同体を形成できる」ということを学びました。ものごとはダークサイドもあれば、サニーサイドもある。

 これから先、日本はゆるやかに定常経済に移行してゆくと僕は予測していますけれど、もう一度人々が「共和的な貧しさ」のうちに置かれるようになれば、相互扶助的な共同体はまた必ず再生すると思います。現に、僕が主宰する凱風館まわりでは、すでに数百人規模の相互支援共同体ができています。

凱風館まわりの共同体がうまく回っている理由とは
――どのような相互支援が行われているのですか。

内田 凱風館の活動は武道の稽古と寺子屋ゼミがメインですけれど、スピンオフで寄席をやったり、聖地巡礼したり、餅つき大会をやったり、BBQやったり、海の家をやったり、スキー旅行に行ったり、いろいろな「部活」を展開しています。それが楽しいので、そういう楽しい活動にフルエントリーしようとする門人たちが次々と凱風館の周りに部屋を借りて住み出した。

そしたら、いつの間にか地域共同体ができてしまった。門人たちは出身も性別も年齢も職業もばらばらですけれど、とりあえず全員が凱風館という道場共同体に属している。条件はそれだけです。僕の子ども時代の町内共同体とそれほど変わりません。

 相互扶助がうまく行っているように見えるのは育児ですね。子育てをお互いに支援している。子どもたちを集めて、共同保育をやりたいといってきた夫婦がいたので、僕が少し資金を出して、近くに三階建ての一軒家を借りて、「海運堂」という多目的スペースを立ち上げました。そこに4人家族が暮らしつつ、自宅をさまざまな活動のために開放している。そこで共同育児やこども食堂、子どもたちが粘土で陶器を作る教室や、着付け教室や囲碁教室を開いています。最近になって「憲法カフェ」という活動も始めました。いろいろなゲストを呼んできて、主婦たちが集まって憲法の勉強をしています。

 小さい子をもつ母親たちが集まって育児を共同的にやるというのは、ほんとうに良質な実践だと思います。子育てが終わった主婦たちも、今度は自分たちの手が空いたからと言って、そういう場に参加して、若い母親たちをサポートしてくれる。若い門人たちも、そういうところに行くと赤ちゃんと遊ぶことができるし、おしめ替えたりする手伝いもできる。

――それはすごくいい体験ですね。

若い人たちが赤ちゃんと接する機会がない
内田 今の若い女性って、子どもの頃に育児経験がない人が多いでしょう。ですから、生まれて初めて抱いた赤ちゃんが自分の子だったというようなことさえある。赤ちゃんがどういうものかぜんぜん知らないで、いきなり育児を始めるというのは大変ですよ。

うちの門人に小児科の先生もいるんですけれど、生後2カ月の検診の時にすでに乳児は身体が歪み出し、母親は赤ちゃんの抱き方が分からず、腱鞘炎になっているというようなケースが珍しくないそうです。でも、それは母親たちの責任じゃないんですよ。今の日本では、若い人たちが身近に赤ちゃんを見て、抱いたりあやしたりする機会そのものがなくなっているからです。

 凱風館まわりには、幸い子どもがたくさんいます。育児を共同的にできるという環境があるから、子どもを作ることに対するハードルは低い。凱風館は稽古もゼミも「子連れオッケー」ですから、乳飲み子を連れて稽古にくるお母さんたちもいます。そういう赤ちゃんたちは文字通り凱風館の畳をなめて育っているんです(笑)。

子どもを育てるのは共同体の仕事
――いま核家族の家庭で、育児ノイローゼとかも多いですよね。共同保育のコミュニティが身近にあったらずいぶんと気が楽になると思います。

内田 基本的に育児は個人でできるものじゃないし、すべきでもないと思います。子どもを育てるのは共同体の仕事です。次世代を支える子どもたちを育てるのは集団全体の義務です。当たり前のことですよ。子育ては親だけに責任があるわけじゃない。その子どもをメンバーに迎え入れることになる集団全体が育児の責任を分かち合うべきなんです。

そういう認識があまりに欠けていると思う。電車でベビーカーが乗ってくると舌打ちする人とか、ベビーカーを蹴る人までいるそうですけれど、本当に共同体とは何かということが全く分かっていないと思う。そういうことをするから子どもの数が減るんじゃないですか。

「少子化は困ったことだ」と言っている人たちは山のようにいますけれど、そういう有識者たちの中で、「だから、とりあえず町中で妊婦や子連れの人を見たら、最大限の気遣いをしましょう」というような具体的提言をしている人を見たことがない。子どもが出来たら報奨金を配れとか、保育園を増やせとか税金の使い方についてはあれこれ提言していますけれど、たしかにそういうことも大事ですけれど、まず自分自身が身近にいる若い夫婦や小さな子どもたちのために何ができるのか、そこから考えるべきじゃないんですか。

「少子化を何とかせねばならない」というなら、集団で子育てを支援する仕組みを自分の周りに手作りするくらいのことをしても罰は当たらないと思いますよ。妊婦や子育て中の母親に対して冷たい社会になったのは、単に想像力が欠けているからだと思います。自分が育児をしたことがないから、わからないんですよ。少子化のペースを少しでも緩和したいと思うなら、まず地域共同体の再構築と育児支援から始めればいい。

「墓の心配を解決する」構想とは
――凱風館まわりで、この先の超高齢化社会のヒントになりそうなものはありますか。

内田 凱風館で計画している中で、僕が今一番関心を持っているのは「合同墓」構想です。数年前に独身の女性門人から、「墓のことが心配だ」という話を聞いたんです。自分は今家の墓を守っているけれど、自分が死んだ後、誰が両親や自分の墓を管理してくれるのか。それを考え出すと不安になるという。その話を聞いた時に、「じゃあ、お墓を作ろう」と(笑)。

凱風館門人なら誰でも入れる合同墓を作ることにしました。如来寺の釈徹宗先生に相談したら「実はうちも、お墓の守り手がいない人たちのために合同墓を建てようという話をしていたんです。ご一緒にやりましょう」と二つ返事で引き受けて頂いた。如来寺の近くの土地にお墓を建てて、ご住職に永代供養をして頂くというプランです。凱風館を設計した建築家の光嶋裕介くんには合同墓のデザインを依頼しました。

 人間が死期を考えるようになった時に気になるのは、自分が死んだ後にも人々は自分のことを思い出してくれるだろうか、供養の一つもしてくれるだろうか……ということだと思うんです。合同墓なら、結婚していない人も、子どもがいない人も、自分のお葬式のことも年忌のことももう心配しなくていい。年に一度、凱風館門人一同でぞろぞろと如来寺に出かけて法要を営むことになるから。法事の席で、そのつど、そのお墓に入っている人たちについて「この人はこれこれこんな人だったんだよ。この人たちのおかげでわれわれは凱風館道場で今も稽古ができているんだよ」と話してあげられる。道場が続く限り、供養できる。

――それはすごい仕組みですね。

相互扶助共同体とは弱者ベースで制度設計をするもの
内田 子育て支援と合同墓ですから、文字通り「ゆりかごから墓場まで」(笑)。凱風館では結婚式も2組やりました。釈先生に司式をしてもらって、仏前結婚式。結婚式もできるし、子育てもできるし、結婚式もできるし、墓も用意した。認知症になった時は「むつみ庵」という釈先生が(大阪府)池田でやっているグループホームがあるので、その時はお願いしますと予約してあります。

 人間は、始めと終わりが一番生き物として弱い時期なわけです。赤ちゃんの時と、老人になった時。その時についての備えをするのが相互支援の仕組みだと思うんです。それ以外でも、「共同体に属していてよかった」と思うのは、病気になった時とか、失業した時とか、要するに弱っている時ですよね。

相互扶助共同体というのは、そのためのものなんですよ。弱者ベースで制度設計をする。共同体は強者が集まって、効率よく何か価値ある仕事をするためのものじゃないんです。孤立した弱い人でも、ここにいれば穏やかな気持ちで生きていける。そういう仕組みしか共同体にならない。

 門人たちの中からも、これから失業する人とか、病気になる人とか、介護を必要とする人も出てくると思います。その人たちをどう集団的に支えてゆくか、それはそのつど手立てを考えるしかない。そういう仕組みはこれからみんなで知恵を出し合って、手作りするつもりです。

ネットワークのあるなしで格差が広がる
――先生は以前から「貨幣を介さない経済のなかで生きるネットワークを持っている人と、そうでない人は、貧困社会においてすごく差が出てくる」とおっしゃっていました。

内田 相互扶助的なネットワークに繋がってる人と孤立している人の生活の質の差はこれから大きく出てくると思います。確かに、家事でも育児でも介護でも、すべてのサービスは市場で商品として売り買いされている。だから、お金さえあれば、どんなサービスでも手に入れることができます。でも、そういうサービスを市場で買うとなると、かなり高額なんですよね。たとえば幼児を数時間預かってもらうサービスを市場で買おうとすると少なからぬ出費になる。

でも、子育てのネットワークに繋がっていれば、「今日はうちが見るから明日はあなたが預かって……」というようなことができる。ベビー服やベビーカーだってどんどん使い回せる。孤立した人は生きるために必要なものをすべて貨幣で調達するしかないけれど、相互支援ネットワークに属していれば、多くの場合にお金を出さなくても良質のサービスや商品を手に入れることができる。

 それに、どんなネットワークにも、それなりに手元に余裕のある人は必ずいるものです。そういう人がお金を出せばいい。凱風館のような設備をきちんと管理運営するには確かにそれなりの費用が要りますけれど、それはここでは僕が負担する。他の人には負担を求めない。手元に不要不急のお金があるなら、どんどん有効利用した方がいいんです。僕自身は別に欲しいものなんか特にないし。スピンオフの「部活」でみんなとスキーに行ったり、旅をしたり、温泉に入ったりしていれば、それだけで僕はほぼ満足なんです。

生きるために必要なものは「買うしかない」という思い込み
 昔は、立志伝中の人物というのがいたじゃないですか。故郷の村を出て、東京に行ってそれなりに功成り名遂げた人たちは必ず故郷の村に「錦を飾る」ということをした。故郷の村に橋を架けたり、学校を建てたりした。

それほどの資産家でなくても、前途有為の貧しい青年を「書生」として引き取り、学問をさせて世に送り出した。若い娘は「行儀見習い」として家で家事や作法を仕込んで、家から嫁がせた。そのくらいの弱者支援は、昭和30年代ぐらいまでは「自分はそこそこ暮らし向きのいい方だ」と思えた人は誰だってやっていたんです。

 お金がないなら、お金がなくても気分よく暮らせるシステムを作ればいい。あらゆるサービスを金で買うという仕組みに慣れ過ぎた人たちは、「とにかく金が要る」ということを言いますけれど、ほとんどの問題は金さえあれば解決するという信憑にいつまでもしがみついているのはあまりに芸がないですよ。実際には、金でなんとかなる問題のほとんどは共同体に属していればなんとかなるんです。

 生きるために必要なものはすべて市場で貨幣で買うしかないというのは間違った思い込みです。生きるためにほんとうに必要なものは、本来無償で手に入る仕組みでなければならないはずなんです。必要最低限の衣食住も、防災も防犯も公衆衛生も教育も医療も育児も介護も、そういう行政サービスは「税金を払っていない人間には利用させない」というようなことはないでしょう。人が生きてゆく上で必要不可欠のものは「金を出せば手に入るが、金がない人間には与えられない」ということであってはならないんです。

行政が地縁ネットワークをうまく作れない理由
――ここでお尋ねしたいのが、行政が主導して地域の地縁ネットワーク的なものを作ろうとしても苦戦する例が多いように思います。この点についてはどう思われますか。

内田 行政がやるとどうしても共同体の目的が「目に見える利便性の提供」ということに限定されてしまいます。行政が関与する場合、それなりの予算を投じた以上、外形的・数値的に表示できる「成果」を示さないといけない。予算を使った事業は、橋を作るでも、トンネルを掘るでも、かたちあるものがそこに残りますよね。

でも、相互支援の共同体を通じて弱者を支援し、その生活の質を保持するという事業は、数値的に「これが成果です」とお示しできるものが可視化できない。育児とか介護とか医療とか教育とか、そういう弱者支援事業は、長期にわたるし、その成果を単年度ごとに数値的に示すということができない。

例えば、教育の成果は「市民的成熟の達成」ですから、予算を投じてから結果が目に見えるまでほんとうは30年も50年もかかります。でも、そんな長いタイムスパンでしか成果を計測できない事業には税金を投じることを嫌がる人が多い。必ず「税金を投じる以上、目に見える成果を出せ。そうでないと議会に説明できない。納税者に申し開きが立たない」と言ってくる。それはわかるんです。

だから、行政から金を引き出すのがうまい人というのがいますけれど、そういう人は「これが税金を投じたことの眼に見える成果です」と言って、もっともらしい数値的なデータをどこからかひねり出してきて、役人を説得する技術に長けているんです。それはそれでたいせつなことだし、すばらしい才能だと思うけれど、僕はそういう面倒なことはできないんです。

 相互支援の中間共同体を立ち上げるというのは、基本的には行政の支援を当てにするのではなくて、私人が身銭を切って、自分で手作りする事業だと僕は思っています。「持ち出し」なんです。そうじゃなければできません。「これだけの価値あるものを自分は提供したのだから、それと等価のものを返して欲しい」というような消費者マインドでは無理なんです。贈与なんです。

――「持ち出し」覚悟の私人から共同体は立ち上がるというのは、目からウロコの視点です。

「公共の解体」を止めるためにできること
内田 メンバーが認知症になったり、失業したり、変な宗教に凝ったりという時にこそ、支援が必要なわけで、これこれこういう条件を満たした人であればこれこれのサービスを受けられますといった「等価交換」的な市場モデルでは共同体を立ち上げることはできません。パブリック・ドメインを作り出すのは実は政府や自治体のような「パブリック」ではなく、「私人」であるというのが僕の経験的確信です。

ロックやホッブズが説いた近代市民社会の成立と原理は一緒なんです。私利の追求を抑制し、私有財産の一部を差し出すことで、はじめてそこに「みんなで使えるもの」が生まれる。私人たちが持ち寄った「持ち出し」の総和から「公共」が立ち上がる。はじめから「公的なもの」が自存するわけではありません。公的なものは私人が作り出すのです。

 いまはそういう常識が逆転して、市民たちはどうやって「公的なもの」から私権・私物を取り出すことができるかを競っています。総理大臣自身が公共財と私有物の区別がつかなくなっている例を見ても、それは明らかです。政府が国民に対しては「私権を抑制しろ、私有財産を差し出せ」とうるさく命令している。

逆ですよ。国民が自発的に私権を抑制し、私有財産を贈与するときに、そこに公共が立ち上がる。私人の贈与によって成立した公共が、まるで自分が世界を創り出したかのような大きな顔をしている。公人に「公僕」という意識がまったくなくなりましたけれど、それが「公共の解体」ということなんです。この事態を根本的に批判するためには、「市民とはこういうものだ」ということを身を以て実践してみせるしかない。そういう人たちが一人でも多く登場してくれることを期待しています。

「内田樹が語る雇用問題」に続く
http://bunshun.jp/articles/-/7167


(記事引用)





南北首脳会談 金正恩委員長の仕草を臨床心理士が分析
「本音は別のところにある」
はてなブックマーク 4月30日(月)17時0分 AbemaTIMES 
 27日に行われた南北首脳会談で、歴史的な対面を果たした北朝鮮の金正恩委員長と韓国の文在寅大統領。韓国大統領府担当者は29日、「南北首脳会談で、金委員長は北部の核実験場の閉鎖を5月中に実行し、透明性を確保するため韓国とアメリカの専門化やメディアを近いうちに北朝鮮に招待する意向を明らかにした」とコメント。米朝首脳会談が行われる前の5月中にも、豊渓里(プンゲリ)の核実験場を閉鎖させることを明らかにした。

 さらに、夕食会前での歓談で金委員長が「控え室に時計が2つ掛かっていた。これを見ると非常に胸が痛かったので、北と南の時間から統一しよう」と発言したとし、北朝鮮が3年前に採用したソウルより30分遅い“平壌時間”を韓国側に合わせるという。

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南北首脳会談ではこうした“融和ムード”が終始演出されたが、不可解なのは板門店宣言で目標に掲げられた「朝鮮半島の完全な非核化」が宣言文の最後に書かれ、具体策もなかったこと。金委員長は共同会見の場でも「非核化」に一言も触れなかった。また、文大統領の北朝鮮訪問が話題に上った際には、インフラ整備が進まない苦しい経済事情を暗に認めつつ、2007年の南北首脳会談で合意した経済協力が滞ってきたことを持ち出し、韓国をけん制する場面もあった。

 はたして、金委員長は本当に核を放棄するつもりなのか、融和ムードを演出した狙いとは。『けやきヒルズ』(AbemaTV)では、会談中の仕草から読み取れる金委員長の心理状態について明星大学准教授で臨床心理士の藤井靖氏に見解を聞いた。

 藤井氏がまず注目したのは、軍事境界線上で握手を交わした際の金委員長の目線。文大統領と目線が合わなかったり下を向いたりしていたが、「緊張もあるだろうし、周りのカメラを意識していて、首脳会談に慣れていないということがあると思う。机を挟んで向かい合っている時もあまり目線がはっきりしていない。覚えてきたことを喋る、記憶を呼びだしている仕草に見える」と見解を述べる。

 続けて、会談全体を通じて口の開け方が小さい「笑い方」が通常公表される写真とは異なると指摘。「ミサイル発射時の写真は前歯の間を見せて笑っていることの方が多い。(今回)口をあまり開けないで笑うというのは、ひとつには本音を見せたくない、警戒感を示しているということがある。また、平壌冷麺についてジョークを話す時も話すよりも前に笑っていて、話が面白い→笑うという順序とは逆。これは話の意図が伝わっているか、受け止めてくれているかという金委員長の不安感の表れだと思うし、この場を和ませようという彼なりの迎合の仕方にも見えた」と述べた。

 また、3つ目として「身体の動き」に言及。共同宣言の際、金委員長に体を左右に揺らす動きが見られたが、藤井氏は「頻繁に姿勢を変える人は、自分が言っていることや見せている姿とは別のことを内心では抱えている場合がある」と説明し、「(宣言文で)読み上げていることと内心が一致していないひとつの“非言語的な行動”の表れではないか。本音は別のところにあるということが会談の随所に見えて、南北首脳会談をひとつのセレモニーというか戦略として使っていた」と推測した。

 なお、日本時間29日にアメリカ・ミシシッピ州で演説を行ったトランプ大統領は、「我々は3〜4週間後に重要な(米朝首脳)会談を控えている」と米朝首脳会談を5月中に行うことを示唆している。

(AbemaTV/『けやきヒルズ』より)











過度の期待はしないほうがいいと思いつつ
僅かなかすかな望み、というのがあり、人間はむしろ、こちらに賭けてしまう場合がある。

その失敗例は枚挙に暇ないが、アメリカの北対策にしろ日本のコンビニ競争にしろ不確かな情報が先行して、実態が不明になってしまうことがよくある。

コンビニに限って云えば、それホントといいたくなるケースがある。業者入り乱れて、という現況、生き残りが大変なことは素人目でもわかる。

<コンビニの売り場面積は平均30坪ほどで、スーパーの10分の1にも満たない。さらにスーパーは安売りセールを連発するのに、コンビニは定価商売だから、誰だってスーパーに行くのではないか>

セブン-イレブン最年少取締役、ファミリーマート商品本部長を歴任した本多利範氏が分析。

実際現場を熟知している当人がいうのだから説得性があって疑う余地はない。
でも競馬勝負でガチガチ本命であっても勝率100はありえないので、万に一つのリスクはだでも想定する。それがない、という言い分がこれに拠る箇所か。

<生花店だから花だけを売っている、というのは考えればおかしな話です。花を買いに来る人は、自然や美、癒やしを求めてくる人が多いはずです。ならば花を売っている店の片隅に、花の画集や写真集、フラワーアレンジメントの書籍を置いてもいいだろうし、それらを眺めながらコーヒーを飲めるカフェを併設していてもいいはずです。花と一緒に贈り物にできる雑貨を置くのでもいいし、ラッピング講座などのワークショップを開くのもいい。アイデアは無限に湧いてくるはず>
(〆)

そりゃそうだ、という論法だ。その実、閉店する各社系店舗(ブランド名無関係)が頻発しているのはなぜなんだろうと、これも素人が考えそうな理由だ。

たぶんこれも一口には云えない理由だろうけれども、しかし理由もないのにバタバタと閉店する意味はなんだろうか。
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花屋はさておいて、最近ブランドコーヒーが店頭を覆っている。だとしても飽和すれば客は、そそくさと離れていく。

ヒントとして100均の大盛況に秘密が隠されている。ブランド無視、安い、高品質、だったら誰でも買う。
まさか100円の車は売らないし、客だって100円の車は買わない。当然走らないと判っているからだ。そこに常識の中の人の概念を程よく刺激する。
そしてなによりブランド無視、というのは自らそれを「ブランド」にした、その信用力ではなかろうか。

とここまで書いたとしてもコンビニ隆盛飽和の解決問題に答えていない。

引用記事は「スーパー隣のコンビニが全然潰れない理由」としているが、いまスーパーが潰れないという根拠が明かされない。ではスパーが健在ならコンビニはコバンザメのように共存するか、という話しでもない。それはわからない、に尽きる。

このところ33年前の経済バブル崩壊による景気低迷説を説いているが、それと連動してものごとが動いている。

私はもとも小売業をしていた。丁度バブルがこれから作られるといった時代だった。田中角栄による列島改造論が世に流布し、字の如し、列島改造がブルトーザーによって怒涛のごとく改造された。連動した「リゾート法」によって無価値な土地が一夜にして値千金の値がつき、にわか不動産屋があちこちに乱立し、それでも全部が生き残って「土地神話」を確固たるものにした。いまのコンビニ乱立と近似している。
そのコンビニ乱立によって私の「業」は廃業に追いやられた。それを是認したのが法律で「大店法売り場面積改正」によって地元商店街はものの見事に壊滅しギンザ通りは「シッャター通り」に名称変更を余儀なくされた。
その変わり様はレコード→CD→MP3→ストリーミング→動画、の極端な変態仕様とまったく変わらない。
いまどき経済隆盛はamazon商法だが、明日の未来保障はだれも担保しない。

すこし遅れて、ゴルフ場建設ラッシュがはじまった。田畑成金者にとってこれほど旨い話はない。前人未到の田舎里山を買いあさり、これも金ピカ御殿乱造に加担した。

世はバブルに向かって一斉に走り出した。もうどうにもやめられないとまらない状態で、世の中全部が億万長寿になれると歓喜し、角栄さまさまだった。
わざわざ渡米までしてアメリカ「ロックフェラービル」を買収して有頂天になっていた。(まったく田舎モンのすることだって!)
※1989年10月、三菱地所がロックフェラーセンターを約2,200億円で買収した。これはバブル景気期の成金的な「ジャパンマネー」による海外資産買いあさりの象徴的な例であり、アメリカ国民とニューヨーク市民の大きな反感を買い、ジャパン・バッシングの火に油を注いだ。 しかし、後に不動産不況(バブル崩壊)で莫大な赤字を出すことになり、1995年5月に連邦倒産法第11章を申請し、運営会社は破産。三菱地所が買収した14棟のうち12棟は売却された。
(ウイキペディア)

そして業を煮やしたアメリカが奥の院から起き上がってきた。ことは簡単に決済された。
1985年9月22日、プラザ合意によって先進5か国 (G5) 蔵相・中央銀行総裁会議により発表された。為替レート安定化に関する合意の通称として呼ばれ、その名は会議の会場となったアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市の「プラザホテル」にちなむ。

傀儡政権とは云いたくはないが、昔からアメリカがクシャミをすると3日後に日本が風邪を引く、といわれた揶揄形容は、そのことをよく表現していた。それは今でも有効だ。

この先の世界経済予測、
「最終的な結果については様子を見るつもりだ。良いことが起きるかもしれないし、あるいは多くの時間がすべて無駄になるかもしれない」と話した。

とのトランプ談話を分析すれば成功50、不成功50の比率で僅か1グラムが左右に触れただけで天地が決まる。
それはまったく恐ろしい話しだ。そのスイッチを握るのは私でもなく貴方でもなくアメリカ共和党党首トランプ大統領である。

米朝会談に向け「順調」、過度の期待は禁物=トランプ大統領

ロイター    2018年04月25日 08:07
米国は北朝鮮に対し「最大限の圧力」をかけ続けるとの姿勢を強調。また「同国の完全な非核化を望む」との発言の真意を問われ「北朝鮮自身が自国の核を除去するという意味だ。私が単純に事を起こして勝利宣言するのはたやすいことだが、そんなことはしたくない」と語った。
さらに「最終的な結果については様子を見るつもりだ。良いことが起きるかもしれないし、あるいは多くの時間がすべて無駄になるかもしれない」と話した。
(記事部分引用)

スーパー隣のコンビニが全然潰れない理由
プレジデントオンライン 2018年4月24日 9時15分
どうしてスーパーの横に立地するコンビニは潰れないのだろうか。コンビニの売り場面積は平均30坪ほどで、スーパーの10分の1にも満たない。さらにスーパーは安売りセールを連発するのに、コンビニは定価商売だから、誰だってスーパーに行くのではないか……。セブン-イレブン最年少取締役、ファミリーマート商品本部長を歴任した本多利範氏は、その謎こそが「コンビニの強さの秘密だ」という――。
※本稿は、本多利範『売れる化』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

■品揃えも、価格も、負けているのに……
先日、ある人からこのような質問をされました。

「うちの近所のコンビニの真横に、大きなスーパーが新しくできたんです。品揃えが多くて商品も安くて、これはあのコンビニは潰れるなと思っていたら、潰れないんですよ。以前と同じようにコンビニにもお客さんが入っていて、それでいて新しいスーパーも繁盛しているんです。これはどうしてなんでしょう」

実はこのような質問は、これまでも何度も受けてきました。たしかにこのような疑問を抱くのも理解できます。

コンビニとスーパーでは重なる品物が多いのも事実ですから。例えば牛乳やジュース、パン、お菓子、日用品、弁当、サンドイッチ、酒類など、同じカテゴリーの商品で、しかも同じメーカーの商品もたくさんあります。

しかもスーパーのほうが品数は豊富で、たいていの場合は価格も安く設定されています。ナショナルブランド(NB)商品も、大量のロットで仕入れるスーパーでは比較的低価格で提供することができますし、独自のプライベートブランド(PB)商品で安価なシリーズを展開しているところもあります。

しかし、それでもコンビニとスーパーは共存できます。それはなぜでしょうか?

スーパーとコンビニの共存を不思議に感じる人は、おそらく、「品揃えが豊富、商品が安い=客が喜ぶ」という発想にとらわれているからでしょう。

たしかにそのコンセプトで店づくりをして成功しているブランドもたくさんあります。

多くのスーパーやディスカウントショップなどは、商品の豊富さや価格の安さで勝負をかけて成功していますし、衣服のユニクロやH&M、インテリア用品のニトリなども基本的に同様のコンセプトと言えるでしょう。

高級服や高級インテリア用品だけでない選択肢を用意することで、喜んでいる消費者はたくさんいます。ただ、いつでもどこでも、商品の豊富さと安さを消費者は求めているのかというと、それは少し違います。商品の豊富さや安さに代わる価値を提供することで、十分それらに対抗できる商売をすることは可能なのです。

■実はスーパーとコンビニで迷う人はいない
どうしてスーパーとコンビニが共存できるのか。

答えは、両者に対して人々が求める役割が異なるからです。

人は買い物に行こうとして、「今日はスーパーに行こうか、それともコンビニに行こうか」とは迷いません。おそらく最初から「今日はスーパーに行く」「コンビニに行く」と決めているはずなのです。

例えば、ある人がいて、夕食にみそ汁と魚、野菜料理を食べたいと思ったとします。もしその人が料理好きで、自分で調理したいと思えば、スーパーに行き、野菜コーナーで野菜を選び、鮮魚コーナーで魚を買い、レジに向かうでしょう。

けれども、もしその人が仕事で疲れていたり、時間がなかったりした場合はどうでしょう。一から調理をする時間も気力もない。そういう日はコンビニでサバの味噌煮やきんぴら、サラダなどを買って、自宅で盛り付けるかもしれません。

同様に、朝寝坊して朝食を食べる時間がなければ、前日にスーパーで買ったパンとハム、レタスで朝食をつくるのではなく、近所のコンビニでサンドイッチとコーヒーを買うでしょう。

■コンビニはタクシーに似ている
弁当をつくる時間がなければ、コンビニでさまざまな弁当を選べます。

そう、コンビニは時間のない人のために、自分たちでそれをつくる手間をかけさせず、すでに完成した品々を提供する役割を果たしているのです。

そう考えてみると、コンビニはタクシーと似ているのかもしれません。

自分の足で歩けば目的地にたどり着くことはわかっていても人はタクシーを使います。疲れていて荷物がいっぱいだ、雨が降っている、待ち合わせに遅れそうだ、などとさまざまな理由で人はタクシーを利用します。

タクシーに乗れば当然料金も発生しますが、それでも支払った金額に相当する利便性を重視するからこそ、私たちはタクシーを利用するのです。

素材を多く扱うスーパーに比べ、コンビニは弁当や惣菜、中華まんやチキンなど、調理済みフードのカテゴリーに特に力を入れています。それは時間の足りない現代人に、気軽においしいものを食べていただきたいからです。「家庭のキッチン」として利用していただくことが、コンビニの一つの存在意義と言えるでしょう。

■「タイム・コンビニエンス」という価値
時間の節約という意味では、食べ物だけに限りません。

例えば家のトイレットペーパーや洗剤が切れていれば、駅前のドラッグストアまで行かなくても、家の近所のコンビニで買うことができます。銀行に行く時間がない人は、コンビニのATMで用を済ませられます。役所が開いている時間に行けなければ、公的書類をコンビニで受け取ることもできます。自宅で宅配便を受け取れない人には、コンビニが代理で荷物を受け取っておくし、急遽証明写真などが必要な場合は、複合機で写真をプリントアウトすることもできるのです。

その用を済ますことに本来かかる時間や手間を、コンビニが代わりに提供することで、空いた時間を人々はほかのことに使うことができます。

それが、コンビニが提供している一つの価値、「タイム・コンビニエンス」なのです。

コンビニが近所に一軒ある。それはつまり、食料品店、弁当店、コーヒーショップ、酒店、たばこ店、日用品店、文具店、書店、銀行、郵便局、宅配会社、役所、写真店が、そこに存在しているのと同じことなのです。

わずか平均30坪足らずの小さな店で、このすべてを賄うことができる店など、世界広しといえども日本のコンビニ以外には存在しないでしょう。

■自分の商売の定義を厳密にするな
さきほど、商売をしたいならまずコンセプトを明確にしろというお話をしました。

私たちコンビニにとって言えば、コンセプトの一つは「時間の節約」であり、その観点から見れば、フードもドリンクも、デザートもATMも宅配便も郵便も、すべて一つのコンセプトの上に並ぶわけです。

私は常々「コンビニだからやる」「コンビニだからできない」という発想を捨てろと話しています。

自分たちは「○○」を売る商売だからと、自分たちを厳密に定義づけてしまうと、その枠からはみ出ることはすべて削除してしまう発想になります。

例えば、生花店だから花だけを売っている、というのは考えればおかしな話です。花を買いに来る人は、自然や美、癒やしを求めてくる人が多いはずです。ならば花を売っている店の片隅に、花の画集や写真集、フラワーアレンジメントの書籍を置いてもいいだろうし、それらを眺めながらコーヒーを飲めるカフェを併設していてもいいはずです。花と一緒に贈り物にできる雑貨を置くのでもいいし、ラッピング講座などのワークショップを開くのもいい。アイデアは無限に湧いてくるはずです。

コンセプトが明確になれば、新たなサービスや新たな商品開発のアイデアも出てくるのではないでしょうか。「自分たちは○○屋だから」という枠を出ることで、まだあるニーズを掘り起こすことは十分可能なのです。

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本多 利範 (ほんだ・としのり)
本多コンサルティング代表
1949年生まれ。大和証券を経て、1977年セブン-イレブン・ジャパン入社。同社の最年少取締役に就任。後に渡韓し、ロッテグループ専務として韓国セブン-イレブンの再建に従事。帰国後、スギ薬局専務、ラオックス社長、エーエム・ピーエム・ジャパン社長を経て、2010年よりファミリーマート常務。2015年より取締役専務執行役員・商品本部長として、おにぎりや弁当など多くの商品の全面改革に取り組む。

2018年、株式会社本多コンサルティングを設立。著書に『おにぎりの本多さん とってもおいしい「市場創造」物語』(プレジデント社)がある。
----------(本多コンサルティング代表 本多 利範 写真=iStock.com)

(記事引用)

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画像.1 近代美術館工芸館(文化財)

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画像.2 オーストラリア観光客と通訳  美術館外通路


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画像.3 美術館前の芝生で遊ぶ外人家族
    (むかしだったら芝生に絶対入れなかった)




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画像.4 オーストラリア観光客通訳者に撮ってもらった記念写真IMG_02681



























タカタ製エアバッグの理不尽な余波、車検パニックは誰の責任か
● 当分、車に乗ることができない? タカタ製エアバッグの意外な余波
 タカタ製エアバッグ不祥事の意外な余波が、今ごろ起きることになった。国土交通省は、タカタ製の欠陥エアバッグを搭載しているリコール対象車両のうち、年式が古いものを中心に約94万台の車検を未改修のままでは通さないことを決定した。

 タカタ製エアバッグのリコールは国内最大規模で、範囲はトヨタ、日産、ホンダなど大半の自動車メーカーに及び、届け出台数は過去最多の1981万台。わが国の乗用車保有台数が約6000万台だから、リコール対象はおおよそ3台に1台であった。

 それでもすでに1700万台超の車については改修が終わり、残る246万台のうち、年式が古い94万台を5月以降このままでは車検に通さないと、国土交通省が決めたというのが今回のニュースである。

 このことで、一部の車の所有者に「車検パニック」が起きることが予想されている。おおむね次のような事態だ。

 中古車の持ち主が5月に入って、整備工場などに車検を依頼する。すると、そこで自分の車がリコールの対象になっていて、このままでは車検に通らないと知らされる。

 本来であれば、無償回収修理が行なわれるリコールだが、古い車種の対応部品がメーカー欠品で手に入らない。だから最悪の場合、オーナーが「当分の間、車に乗ることができない」と突然知らされることになる。車がないと通勤ができない環境の持ち主であれば、生活が成り立たずパニックに陥る可能性もあるというわけだ。

 そもそも、メーカー系のディーラーや中古車販売会社から車を購入した人たち、つまりメーカーから連絡が届く人たちは、その大半がすでに改修を終えている。これが「1700万人が対応済み」という数字の意味だ。

 逆に言えば、今回の車検にひっかかるであろう、まだ修理に応じていない車のオーナーは、(メーカー系列ではない)独立系の中古車屋さんで古い年式の車を購入したり、個人間売買で中古車を購入したり、ないしは引っ越して販売当初のディーラーがその行方を把握できていなかったりする人たち、ということになる。
 前回の車検もガソリンスタンドや近所の整備会社に頼んだという場合は、自動車の持ち主本人も、場合によっては車検を通したサービスマンも、そのリスクに気づいていないわけだ。そして車検パニックに直面するのは、最終的に情報弱者という構図になる。これがこの問題の深刻なところだ。

 思えば家電製品でも、似た構図の問題は起きてきた。老朽化すると一酸化炭素中毒を引き起こしたり、発火したりする恐れがあることがわかった暖房器具などが、全面回収となった事例がある。それでも100%の回収は無理である。

 そして、そのリコール問題も世間が忘れた頃になって、老人たちが住むグループホームが火災事故を起こす。原因がその暖房器具であり、そんなものがまだ残っていたということを、事件が起きて関係者が初めて気づくことになる。

● タカタ、国交省、オーナー… 「車検パニック」は誰の責任か

 自動車の場合は、車検というルールがあるがゆえに、こうした不幸を事前に防ぐことができる可能性がある一方で、強制的に車検で発見された未修理車が、一時的に使えなくなる危惧はある。ではいったいこの問題、誰の責任なのだろうか。

 そう、大問題を提起しておいて申し訳ないのだが、今回、もし車検パニックが起きるとすれば、それは残念ながら「自己責任」ということになる。それで仕事に出勤できなくなる、買い物に行けなくなり不便な状況になる、病院に通えなくなり病状が悪化する、といった状況になっても、それは自己責任だ。

 メーカーは販売した自動車に対して、製品面での責任を持つ。しかしその責任は、あくまで製品の不具合を無償で回収して修理するところまでだ。結果的に起きる二次的な経済損失まで負担するような責任はない。

 エアバッグをつくったタカタには本来、大いに責任があるのだが、すでに戦後最大と言われる倒産劇を起こしたことから、関係者にこれ以上の法的責任を問うことは難しい。

 また国の責任は、安全が保証できる車だけを街中で走らせることにある。むしろ今回のように強権を発動しながら強制的に未修理の車を炙り出すことで、中古車市場の安全が保証できるようになることはいいことだ。全ての車が車検を通過するにはそれでも2年かかるが、中古車を買うとロシアンルーレットのように不具合を持つ車が混ざっていて、消費者がそれを知らずに買っているという今のような状況は、いずれ消える。
 部品が手に入らない車のオーナーのための車検時の救済措置は、本当は考えたほうがいいのだが、むしろ国土交通省がこれまで踏み込まなかった、4月以前に車検を通してしまった車の安全性についての方が、その責任が問われるはずだ。

 とはいえ、日本を代表する大手自動車メーカーの、誰もが知っている有名車種の車を購入したにもかかわらず、それが車検に通らない上に自己責任を問われるという事態は、一般消費者にとってどのように割り切るべき問題なのだろうか。

● 「喫煙の是非」と似ている 車に乗ることの社会的責任

 この一件は、「自動車は便利だが、それを使うには社会責任が伴う」ということを、世の中が再認識するための教訓ではないかと私は思っている。

 経済学の逸話にこんな話がある。たばこをなくすべきかどうかという議論のときに使われる話だ。禁煙論者に対して、経済学者が次のような質問をするとしよう。

 「ある商品が存在する。この商品は使っている本人にとってはいいのだが、統計的に見れば、実は本人の寿命を短くしている。それだけでなく、家族の寿命や見ず知らずの人の寿命にもマイナスの影響を与えている。そういった商品は禁止すべきか?」

 たいていの禁煙論者は、この経済学者の質問に「即座に禁止すべきだ」と答えるだろう。そこで経済学者は「実はこの商品は自動車なのだが、それでも禁止すべきか?」と念のために確認する。それがこの話のオチになる。

 欠陥車が2000万台近く売られてしまったというのも不幸な話だが、その87%まで改修が済んでいることは、関係者の努力の成果とも言える。一方、まだ残っている246万台については、オーナーは万一の事故の際、本人だけではなく家族や知人などの周囲を巻き込む可能性がある。

 こうした状況を考えれば、今回の問題で起きる損失に対して責任を持つのは本人であると、言わざるを得ないのではないか。「割り切れない」と感じる人もいるかもしれないが、車の使用には社会責任が伴うのだから――。

(百年コンサルティング代表 鈴木貴博)
(記事引用)

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タカタ、高田社長退任 創業家からの社名も消滅
2018年4月12日13時14分 朝日新聞
 欠陥エアバッグ問題で経営破綻(はたん)し、民事再生手続き中の自動車部品大手タカタは12日、高田重久会長兼社長が退任し、後任の社長に野村洋一郎取締役が就いたと発表した。11日付。中国資本傘下の米自動車部品メーカー、キー・セイフティー・システムズ(KSS)への事業譲渡が完了したことに伴う。

特集:タカタ製エアバッグ問題
 野村氏は民事再生手続きの完了をめざす。

 本業の自動車部品を手がける会社は分離し、社名をジョイソン・セイフティ・システムズに変更。本社も東京から米ミシガン州に移した。創業家の名前を冠した社名は実質的に消滅することになる。

 KSSとは、リコールの原因となったエアバッグ部品を除くほぼすべての事業を15億8800万ドル(約1700億円)で売却することで合意していた。

(記事引用)












「人工知能の "考え方" は我々とは異なる」アラン・チューリング
最終更新日:2017年6月2日 編集:Yu Goto
1.機械は(人間的な)思考をするか? 
アンドエーアイ株式会社(and AI. Inc.) - 人工知能のwebメディア
アラン・チューリングは論文「COMPUTING MACHINERY AND INTELLIGENCE」の冒頭で「機械は(人間的な)思考をするか?」という普遍的な”問い”を掲げた上で、「”問い”の視点を変えてみよう」と提案しました。

何故、視点を変えようと提案したのか。

それは、チューリングは「人間には扱えて」「機械には扱えない」概念があると考えていたからです。
(停止性問題)

つまり「人間を完全に再現する事は不可能」である事が確定している以上、それ以上論じても仕方が無いという訳です。

ですので建設的な議題として、「考え方(プロセス)は考慮せず」、「結果(出力)の正しさに着眼すべき」であると展開しています。

これが後ほどご紹介するチューリング・テストです。 

2.コンピュータの父と呼ばれているアラン・チューリング 

チューリングマシンによってコンピュータの原型は作られた
コンピュータの父と呼ばれているイギリス人の天才数学者「アラン・チューリング」。

彼がいなければ、今日あるコンピュータの存在はなかったともいわれています。

コンピュータ概念を初めて理論化し、第二次世界大戦中にドイツ軍の暗号“エニグマの解読”をし、
対独戦争を勝利に導いた立役者としての功績が広く知られています。

今日のマイクロソフトやアップルより前に、コンピュータの原型を作った人物のひとりであり、
そのコンピュータは彼の名前から「チューリングマシン」と呼ばれています。

 コンピュータ発想の起点
『脳は神経線維でできていて、人間の心はそれらがネットワークで結びついて生まれている』。

チューリングは幼少の頃に見た科学解説本にあったこの一節に心惹かれ、
コンピュータへ関心を持つきっかけとなりました。

やがてケンブリッジ大学在学時、
1936年に出した「計算可能な数について」という論文の手法のモデルが、
「チューリングマシン」と呼ばれるようになったのです。

3.不可能と言われていたエニグマの解読に成功
 
エニグマの暗号の難攻不落さ
エニグマというのは、1918年にドイツで発明されてナチスに採用された暗号装置。

解読が難解とあって、敵国の暗号解読者たちにとっては戦争より高い壁だったのかもしれません。
それだけに、ナチスは絶対の自信の上にエニグマの暗号で機密文書を送受信していました。

難攻不落といわれたエニグマの暗号でしたが、
イギリス人の天才数学者「アラン・チューリング」によって、
連合軍はエニグマの解読に成功していたのです。

最大の弱点は、「1日の送信量が大量なこと」で、
パターンのサンプルを多く敵側に与えてしまうことにありました。

チューリングボンベの仕組み
エニグマ暗号の鍵は、159,000,000,000,000,000,000通り。
この天文学的な数字の中から、たった1つの正解を探すのは、時間的に無理でしょう。

 そこで登場したのが数学的解決。
ひとつずつ探す総当たりではなく、探索空間をある程度区切って探すことで、
「高速な計算機械により、探索時間も短縮する」というのが、
チューリングをリーダーとする暗号解読チームのとった方法でした。

その高速な計算機械を指すのが「チューリングボンベ」というもので、
電気式のアナログ探索装置と呼ばれています。
これにより、気の遠くなる可能性の中から「正解」をほんの15分ほどで見つることが可能になり、
エニグマ暗号の解読は成功したのです。

チューリングのすごさ
 
チューリングのすごさは、「科学」と「政治」の両分野で偉業を成し遂げたことにあり、
一つは「チューリングマシン」でデジタルコンピュータの基礎理論に貢献したこと、
二つめは第二次世界大戦で、ドイツ軍の“エニグマ暗号を解読”したことで、
イギリスの勝利に貢献したことでしょう。

その功績をたたえ、世界の歴史に残るような革新的な業績に与えられる賞として、
コンピュータ科学界のノーベル賞といわれているのが、
このアラン・チューリングの名にちなんだ「チューリング賞」になります。
 
4.チューリング・テスト
 
チューリングテスト
 
1950年、アラン・チューリングは、「機械が考えることができるのか」の試験方法を考え出しました。
それが「チューリングテスト」と呼ばれるもので、例えばこういうことになります。

2台のディスプレイの前にそれぞれテストを受ける人がいるとします。
1台のディスプレイには人が回答を、もう1台はコンピュータが回答するようになっていますが、
テストを受ける人にはどちらがどちらかさえわかっていません。
テストを受ける人はあらゆる分野からの質問をし、
どちらが人間、コンピュータなのかを探っていきます。
そのとき、コンピュータがわざと計算に時間をかけるようにしたり、
間違えたりして、人間らしい振る舞いをしたとします。

そうすると、テストを受ける人が2台のディスプレイにおいて、
どちらが人間か、コンピュータかの区別がつかない場合、
このコンピュータに知能があるという結論を導き出すものです。
しかし、チューリングテストの論文というのは、そもそもチューリングテストという言葉はなく、
人工知能の判定にチューリングテストを提案したこともなく、
デジタルコンピュータが思考できることを示しているだけだと指摘する学者もいるようです。

 5.現在に残る功績
 
チューリング賞
 
1966年、計算機科学分野の国際学会「ACM」が創設した賞で、
「コンピュータ科学のノーベル賞」ともいわれるチューリング賞。
長年のスポンサーはグーグルとインテルが務め、
2014年からグーグルが単独となり、賞金額も4倍の100万ドルとなっています。
映画「イミテーションゲーム」
イギリスの俳優、ベネディクト・カンバーバッチ主演で、
イギリスの天才数学者、アラン・チューリングの人生を描いている映画「イミテーションゲーム」。
第2次世界大戦時、ナチスドイツ軍が使用した、
難関不落といわれた“エニグマ暗号”の解読に成功し、
連合国軍であるイギリスに勝利をもたらした功績と、
数学者として、コンピュータ概念を初めて理論化した功績と、数奇な人生を描いた映画です。

100名の最も偉大な英国人
「100名の最も偉大な英国人」とは、2002年、BBC(英国放送協会)が放送したテレビ番組です。

イギリス国内の投票で歴史上最も偉大な英国人を選出するもの。

アラン・チューリングは21位に入っています。
41歳の若さで迎えた死は謎で、検死では青酸中毒による自殺とされたものの、
他殺説や事故説もあり、未だに解明はされていません。

画像 天才数学者アラン・チューリングが世界ではじめてコンピューターで演奏 ...
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天才数学者アラン・チューリングが世界ではじめてコンピューターで演奏した音楽が現代に甦る。
(記事引用)

『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』(The Imitation Game)は、2014年の歴史ドラマ映画。アンドリュー・ホッジス(英語版)による伝記『Alan Turing: The Enigma』を基にグレアム・ムーア(英語版)が脚本を執筆し、モルテン・ティルドゥムが監督、ベネディクト・カンバーバッチが主演を務めた。映画は第二次世界大戦中にエニグマ暗号の解読に取り組み、のちに同性間性行為のかどで訴追を受けたイギリスの暗号解読者アラン・チューリングを描く。

ムーアの脚本はハリウッドの優れた製作予定のない脚本を挙げる『ブラック・リスト(英語版)』2011年版の1位を飾り、映画は2014年2月、ワインスタイン・カンパニーによりヨーロピアン・フィルム・マーケットで支払われた米配給権購入額としては最高となる700万ドルで購入された。映画は2014年11月14日にイギリスで、11月28日にアメリカで、2015年3月13日に日本で公開された。

本作は批評的にも興行的にも成功を収めた。ナショナル・ボード・オブ・レビューおよびアメリカン・フィルム・インスティチュートの年間トップ10に入選し、第87回アカデミー賞では作品賞、監督賞(ティルドゥム)、主演男優賞(カンバーバッチ)、助演女優賞(キーラ・ナイトレイ)を含めた8部門で候補に上がり、ムーアに脚色賞をもたらした。第72回ゴールデングローブ賞では5部門、第21回全米映画俳優組合賞では3部門、第68回英国アカデミー賞では9部門にノミネートされた。また本作の製作関係者はチューリングの功績を広く知らしめたことでLGBT権利の推進団体ヒューマン・ライツ・キャンペーン(英語版)によって表彰された。1400万ドルの予算に対し、映画の興行収入は2015年3月までに2億850万ドルに上り、2014年のインディペンデント映画としては最高の売り上げを収めている。

ストーリー
1951年、数学者アラン・チューリング(ベネディクト・カンバーバッチ)の家が空き巣に入られ、ノック刑事ら2人の警官が捜査に当たる。取り調べを受けたチューリングは、ブレッチリー・パークで働いていた頃を回顧する。

1927年、寄宿学校で不遇の日々を送っていた若きチューリング(アレックス・ローサー(英語版))は、友人クリストファー・モーコム(ジャック・バノン)に触発され、暗号の世界にのめりこんでいく。チューリングは同性ながらモーコムに恋心を抱くが、告白しようとした矢先にモーコムは結核で死んでしまう。

イギリスがドイツに宣戦布告した1939年、チューリングはブレッチリー・パークを訪れ、海軍中佐アラステア・デニストン(英語版)(チャールズ・ダンス)の指揮の下、ヒュー・アレグザンダー(マシュー・グッド)、ジョン・ケアンクロス(英語版)(アレン・リーチ)、ピーター・ヒルトン(マシュー・ビアード(英語版))、キース・ファーマン、チャールズ・リチャーズとともに、ナチスの暗号機エニグマの解読に挑むチームを結成する。

同僚を見下すチューリングは協調性を欠き、ひとり暗号解読装置の設計に没頭する。デニストンが装置の組立資金拠出を拒否すると、チューリングはウィンストン・チャーチル首相に直訴の手紙を送る。チャーチルは拠出を許可し、チューリングをチームの責任者に任命する。チューリングは実力の劣るファーマンとリチャーズをチームから解任し、新聞に難解なクロスワードパズルを載せて後任を探す。ケンブリッジ大学の卒業生ジョーン・クラーク(キーラ・ナイトレイ)はチューリングのテストに合格するが、男性と同じ職場で働くことを両親に反対される。チューリングは彼女が通信傍受係の女性職員と同じ場所で働けるよう手配し、彼女に解読装置の計画を教える。

チューリングに興味を持ったジョーンは、プロジェクトを成功させるため、チューリングと同僚の関係を取り持ち、チームを結束させることに成功する。彼らの協力により、「クリストファー」と名付けられたチューリングの装置は完成したものの、ドイツ軍が暗号のパターンを毎日変えるため解読が追いつかない。デニストンは期限切れを理由に装置の破棄とチューリングの解雇を命じるが、チューリングの同僚たちは総辞職をちらつかせてこれを阻止する。クラークが両親の意向に従って職場を去ろうとすると、「独身じゃなくなればいい」と思いついたチューリングは彼女に求婚し、彼女もこれを承諾する。しかし、同性愛者であるチューリングは、自分の性的指向と現実との乖離に思い悩む。それに気づいていたケアンクロスは、彼にその事を隠し続けるよう忠告する。

最後のチャンスとして提示された1ヶ月の刻限が迫る中、チューリングは通信の傍受内容にまつわる女性職員の会話を耳にし、あることに気づく。通信内容に特定の言葉が含まれると分かっていれば、装置がそれを復号するようにプログラムすれば良いのだ。毎朝6時に発せられる最初の通信の常套句であった「天気」「ハイル・ヒトラー」という3つの単語を拾うよう調整を施すと、装置は即座に暗号の解読に成功。同僚たちは歓喜し、さっそくドイツ軍の作戦を阻止させようとするが、チューリングに「解読された通信に逐一反応してしまっては、エニグマが破られたとドイツ軍に知られてしまう」と指摘され、無念さを感じながらも思い留まるのだった。

MI6の協力を得つつ、チームが軍部に流すべき情報を選別する中、チューリングはふとした偶然から、ケアンクロスがソ連のスパイであることを知る。それに対してケアンクロスは、英ソはナチス打倒という共通の目標を持った仲間だと主張し、身分を明かせば仕返しにチューリングの同性愛を暴露すると脅迫する。MI6の諜報員スチュアート・ミンギス(マーク・ストロング)がチューリングにクラークの身の危険を仄めかした際、チューリングはケアンクロスがスパイであることを告げるのだが、ミンギスは既にこれを知っており、ドイツ軍との戦いを有利に進めさせるべくケアンクロスをチームに配属しソ連へ情報を流すよう仕向けていたのだと明かした。チューリングはクラークを危険から遠ざけるため、彼女に同性愛を打ち明けて婚約破棄を言い渡し、ブレッチリー・パークを去るよう促す。終戦後、ミンギスは職員たちに暗号解読の仕事にまつわる一切を破棄するよう命令し、仕事内容を口外したり再び互いに会ったりする事を禁じた。

そして1950年代、空き巣犯の仲間に懇ろだった男娼がいた事から、淫らな行為を犯したとしてチューリングに有罪判決が下り、服役か化学的去勢の選択を迫られた彼は、仕事を続けるために後者を選んだ。チューリングの家を訪れたクラークは、彼の心身の衰えを目の当たりにする。彼女はチューリングを励ますために、チームの成果が戦争終結を早めて多くの命を救ったことを思い出させ、かつてモーコムがチューリングに、チューリングが彼女に言った台詞を語りかけた。――「誰も予想しなかった人物が誰も想像しなかった偉業を成し遂げる事だってある」と。

宣伝
英国政府によるチューリングの恩赦が発表された2013年12月24日、映画の製作者はbombe(英語版)の傍に立つカンバーバッチ演じるチューリングを捉えた最初の公式写真を公開した[17]。続いてチューリングの命日に近い2014年6月の初旬には、キーラ・ナイトレイ、マシュー・グッド、マシュー・ビアード(英語版)、アレン・リーチのキャラクターを初めて写した2枚の写真が『エンターテインメント・ウィークリー』誌で公開された[18]。チューリングの102回目の誕生日に当たる6月23日には、演技中のマーク・ストロングとチャールズ・ダンスを収めた2枚の写真が『エンパイア』誌で公開された[19]。

映画の予告編は2014年7月に公開され、9月には映画の原作に当たるアンドリュー・ホッジスの伝記『Alan Turing: The Enigma』の映画公開に合わせた版がプリンストン大学出版局とヴィンテージ・ブックス(英語版)から出版された。

2014年11月8日、ワインスタイン・カンパニーはデジタル・スカイ・テクノロジーの創業者ユーリ・ミルナーとFacebookのCEOマーク・ザッカーバーグとともに試写会を開いた。試写会はカリフォルニア州ロスアルトスヒルズ(英語版)で行われ、FacebookのCOOシェリル・サンドバーグ、LinkedInのリード・ギャレット・ホフマン、Googleの共同創業者セルゲイ・ブリン、Airbnbのネイサン・ブレチャジック、Theranosの創業者エリザベス・ホームズらが会場に現れ、ティルドゥム、ムーア、ナイトレイも出席した。

2014年11月10日から1年間開催予定のブレッチリー・パークの映画を記念した展示では、映画のために再現されたやbombeのほか、映画で使用された衣装や小道具が公開されている。

チューリングならびに映画への支援と賛同を表明しているYahoo!のCEOマリッサ・メイヤー (左) と第22代合衆国国防長官ロバート・ゲーツ (右)。 チューリングならびに映画への支援と賛同を表明しているYahoo!のCEOマリッサ・メイヤー (左) と第22代合衆国国防長官ロバート・ゲーツ (右)。
チューリングならびに映画への支援と賛同を表明しているYahoo!のCEOマリッサ・メイヤー (左) と第22代合衆国国防長官ロバート・ゲーツ (右)。
映画の公式ウェブサイト theimitationgamemovie.com ではチューリングが考えたクロスワードパズルを解くことによって特別なコンテンツにアクセスすることが可能となっている。映画のニューヨーク・プレミアのスポンサーでもあったGoogleは2014年11月23日、参加者が暗号解読を競うコンテストを公開した。

アメリカでの映画公開直前の2014年11月27日、『ニューヨーク・タイムズ』は1942年にブレッチリー・パークへの求人のために掲載された『デイリー・テレグラフ』のクロスワードパズルを再掲した。パズルを解いた応募者は1組2名のロンドンおよびベッチリー・パーク旅行への抽選に参加できるというものだった[25]。

ワインスタイン・カンパニーは2015年1月2日からチューリングの業績に因んで技術、軍事、学術、性的少数者を代表する人々の推薦コメントを掲載する紙面およびネット上のキャンペーンを開始した。コメントを寄せた中にはYahoo!のCEOマリッサ・メイヤー、NetflixのCEOリード・ヘイスティングス(英語版)、Googleの会長エリック・シュミット、TwitterのCEOディック・コストロ(英語版)、PayPalの共同創業者マックス・レヴチン、YouTubeのCEOスーザン・ウォジツキ、ウィキペディアのジミー・ウェールズや、ヒューマン・ライツ・キャンペーン(英語版)の会長チャド・グリフィン、GLAADのCEOサラ・ケイト・エリス(英語版)といったLGBTの活動家、そして第22代合衆国国防長官ロバート・ゲーツといった軍事界の人物がいる。

社会活動
「アラン・チューリングは、すべての人間がそうであるように、与えられて当然の愛を求めたがためだけに、彼を犯罪者呼ばわりした社会によって、訴追されたばかりか、ほぼ間違いなく人生を早く終えるよう促された。60年後、同じ政府が彼を恩赦する、「赦す」といった。これは嘆かわしいと私は思う。なぜなら、赦しを可能にしたのはチューリングではなく政府の行為であり、他の4万9000人の訴追された男性たちも同じ処遇を受けて当然だからだ」
—カンバーバッチ、英国の同性間性行為に関する法律によって有罪とされたゲイ

男性たちの恩赦に賛同して
2015年1月、LGBTQの権利を推進するスティーヴン・フライはハーヴェイ・ワインスタイン、チューリングの大姪レイチェル・バーンズ、そしてカンバーバッチとともに、チューリングを化学的去勢へと導いた法律によって有罪とされた4万9000人のゲイ男性たちの恩赦を求める活動を開始した。『ガーディアン』に掲載された公開書簡では、英国政府および王室、とりわけ女王エリザベス2世とケンブリッジ公夫妻に活動への賛同が求められた。

フライは、「チューリングを苦めたのと同じ法によって5万から7万もの男性たちが投獄され、化学的に去勢され、人生を破壊されたり自殺を図ったりしたとき、アラン・チューリングは天才だったからというだけで恩赦されてよいのか。彼が恩赦されるべきなら、その名前を生涯毀損され、しかしまだ家族のいるすべての男性たちも恩赦されるべきではないかという普遍的な感情がある。それは多くの脅迫と不幸と苦痛を可能にした、汚く、悪しき、忌むべき法律だった。さらに忌むべき、しかし同類の法に苦しんだオスカー・ワイルドがそうであったように、チューリングは彼の時代において象徴的な存在である」と述べた。ヒューマン・ライツ・キャンペーン(英語版)のチャド・グリフィンも「イングランドでは4万9000人以上のゲイ男性やゲイ女性が同じ法律によって訴追された。チューリングは女王エリザベス2世によって2013年に恩赦された。彼以外はされていない。この映画を称えよ。この男を称えよ。そして、他の4万9000人の正義を成し遂げるための運動を称えよ」と、活動への賛同を示した。活動家ピーター・タッチェル(英語版)や『アティテュード(英語版)』誌など、ゲイコミュニティの有名人たちがこの運動への支援を表明した。

2015年2月にはマット・デイモン、マイケル・ダグラス、ジェシカ・アルバ、ブライアン・クランストン、アナ・ウィンターらも反同性愛法の被害者たちの恩赦を求める Pardon49k.org の請願に同意した。

第二次世界大戦の間、ブレッチリー・パークにあるイギリスの暗号解読センターの政府暗号学校で、ドイツの暗号を解読するいくつかの手法を考案し、英国の海上補給線を脅かすドイツ海軍のUボートの暗号通信を解読する部門 (Hut 8) の責任者となった。ドイツが使用していた、エニグマ暗号機を利用した通信の暗文を解読する(その通信における暗号機の設定を見つける)ための機械 bombe を開発した。

戦後は、イギリス国立物理学研究所 (NPL) に勤務し、プログラム内蔵式コンピュータの初期の設計のひとつACE (Automatic Computing Engine) に携わった(ただし、チューリング自身は、その完成を見ずに異動している)。1947年、マンチェスター大学に移ると、初期のコンピュータ Manchester Mark I のソフトウェア開発に従事し、数理生物学に興味を持つようになる。形態形成の化学的基礎についての論文を書き[8]、1960年代に初めて観察されたベロウソフ・ジャボチンスキー反応のような発振する化学反応の存在を予言した。

1952年、同性愛の罪(風俗壊乱罪)で警察に逮捕され、保護観察の身となり、ホルモン療法を受ける。1954年に41歳で死去。検死によると、青酸中毒による自殺と断定されたが、母親や一部の友人は事故だと信じていた。

2009年9月10日、インターネットでのキャンペーンに続いて、首相のゴードン・ブラウンが、戦後のイギリス政府によるチューリングへの扱いについて、公式に謝罪した。

6歳でセント・マイケルズ学校に入学した。担任教師に続き、校長もすぐに彼の才能に気づく。1926年、14歳でシャーボーン学校に入学。登校初日がゼネラル・ストライキ予定日と重なったため、前日から100kmの距離を一人で自転車で行くことにして、途中で宿をとって登校。このできごとは地元紙に掲載された。

シャーボーンは有名なパブリックスクールであり、その校風は古典を重視するものだったが、チューリングは、主に数学と科学に才能を発揮した。そのため、同校の校長は、アランの両親に「ふたつの学校の間で落ちこぼれないことを望みます。パブリックスクールに留まるなら、教養を身に付けねばなりません。単に科学者になるのなら、パブリックスクールに通うのは、時間の無駄です」という手紙を書いた。

しかし、このようなことがあっても、アランは、学問に対する驚くべき能力を示し、初等微分積分学も習っていない1927年に、もっと難しい問題を解いていた。1928年、アルベルト・アインシュタインの書いた文章に触れ、16歳でその内容を理解しただけでなく、そこには明記されていなかったニュートン力学について、アインシュタインの疑問を外挿したという。

親友のクリストファー・モルコムに恋をしたが、シャーボーンの最終学期中、感染牛のミルクを小さいころに飲んでいたため牛結核症を患って、モルコムは死去した(1930年2月13日)。このことがきっかけとなり、チューリングは、無神論者になった。また、脳の働きなどの現象についても、唯物論的に解釈するようになったが、心のどこかで死後の生を信じていたという。

大学時代と計算可能性についての研究

キングス・カレッジの計算機室はTuringと名づけられている
数学や科学ほど古典をまじめに学ばなかったことが原因で、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの奨学金を受けられなかったため、第二希望であったケンブリッジ大学キングス・カレッジへ進学した。1931年から1934年まで学生として学び、数学で優秀な成績を修めて卒業した。1935年に、中心極限定理を証明した論文が認められ、キングス・カレッジのフェロー(特別研究員)に選ばれた。ただし、中心極限定理は1922年にJ・W・リンデベルグ(英語版)が証明済みだったが、チューリングはその業績を知らなかった。

1928年、ドイツの数学者ダフィット・ヒルベルトは、「決定問題」への注目を呼びかけた。チューリングは、重要な論文 "On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem"(「計算可能数、ならびにそのヒルベルトの決定問題への応用」、1936年5月28日提出、11月12日配布)で、この問題の解決に重要な役割を果たした。

この論文の重要な点を、現代の数学および数学基礎論およびコンピュータ科学の視点からまとめると次のようになる。(1)「チューリングマシン」という計算モデルを提示し、19世紀以前の数学では数理論理の視点からすると自然言語で記述されるなど曖昧な点があったアルゴリズムを形式的に表現する手法(のひとつ)を確立し、「何らかのチューリングマシンで計算可能な関数を計算可能関数とする」という計算可能性理論における重要なテーゼであるチャーチ=チューリングのテーゼを示した(チャーチの業績とは独立であり、チューリングのほうがよりわかりやすく直感的であった。人によってはチューリング=チャーチのテーゼ、の順とすることもある)。(2)どんなチューリングマシンの動作をも、現代の言葉で言えば「エミュレート」できる、「万能チューリングマシン」が可能であることを証明し、その構成法を示した。(注意: この(1)と(2)が表現していることを曖昧に理解しないように注意すること。「テーゼ」は証明ではない(証明できるような性質のものではない)。しばしば、万能チューリングマシンによりあらゆる計算が可能であることを証明した、というような誤解が見受けられる。)(3)「万能チューリングマシン」の概念を利用して、停止性問題を否定的に証明した(これはゲーデルの不完全性定理と同等の結果とも言えるものである。詳細は停止性問題の記事を参照)。

1936年9月から1938年7月にかけて、プリンストン高等研究所においてアロンゾ・チャーチ(前述の「チャーチ=チューリングのテーゼ」のチャーチである)に師事した。1938年、プリンストンで博士号を得た。博士論文では、数の広がり(正の整数→負数→無理数→虚数)とその公理体系の進化に関して、それらすべてを包含する「順序数」という概念の体系を整理しようとした。その中で、チューリング還元の概念を提案している。純粋数学とは別に暗号理論もここで学び、電気機械式乗算器も試作している。また、この時期、ジョン・フォン・ノイマンも同じくプリンストンにおり、二人は親交があったと言われている。ノイマンは、チューリングにアメリカに残ることを勧めたという。

1939年にケンブリッジに戻ると、ウィトゲンシュタインとの講義に参加した[31]。そこでは、ウィトゲンシュタイン「数学は絶対的真実を発見するのではなく、発明している」という立場を取ったのに対して、チューリングは形式主義を擁護する立場を取った。

暗号解読

ブレッチリー・パーク内にあるこの建物で、チューリングは、1939年から1940年まで働き、その後 Hut 8 に移った。
第二次世界大戦中、チューリングは、ブレッチリー・パークでドイツの暗号を解読する仕事をしていた。歴史家で自らも戦時中に暗号解読に従事していたエイザ・ブリッグズ(英語版)は次のように述べている。

類まれな才能が必要で、ブレッチリーで天才が必要とされていた。チューリングは、まさにその天才だった。

第二次世界大戦に先立つ1938年9月から、イギリスにおける暗号解読組織である政府暗号学校 (GCCS) でパートタイムで働き始める。そこで、ディリー・ノックス(英語版)と共にエニグマの解読に当たった。その少し前の1939年7月、ポーランドの暗号局 (en) とイギリスおよびフランスの関係者がワルシャワで会合し、ポーランドが解明したエニグマのローター回路についての情報を得ていた。チューリングとノックスは、その情報を元に、問題にアプローチしようとしていた[35]。ポーランドの解読法は不安定なもので、ドイツ側がいつでも変更可能だった。実際1940年5月に変更されている。チューリングの方法はもっと汎用的でクリブ式暗号解読全般に使えるもので、最初の bombe の機能仕様に盛り込まれていた。

1939年9月4日、イギリスがドイツに宣戦布告した翌日、GCCSの戦時中の基地となっていたブレッチリー・パークに出頭した。bombe の仕様は戦時中の暗号解読でチューリングが成し遂げた5つの成果のうち最初の1つである。他には、ドイツ海軍が使っていたインジケーター手続きの推測、Banburismus と名付けた bombe の効率を上げる統計的手法の開発、Turingery と名付けた Lorenz SZ 40/42 (Tunny) のホイール群のカム設定を明らかにする手続きの開発、そして終戦間近に開発した音声信号スクランブラー Delilah である。

ブレッチリー・パークでは変人で通っていた。同僚は彼を 'Prof' と呼び、 エニグマに関する論文は 'The Prof's Book' と呼ばれていた。同僚の暗号解読者ジャック・グッド(英語版)はチューリングについて次のように述べている。

6月の第1週には毎年花粉症に悩まされるので、彼は花粉を吸わないようガスマスクをして自転車でオフィスに通っていた。自転車は故障していて、定期的にチェーンが外れていた。それを修理してもらう代わりに、ペダルをこいだ回数を数えて、危なくなると一旦降りてチェーンを調整していた。もうひとつの変人ぶりとして、マグカップが盗まれるのを防ぐために、それをラジエータパイプに鎖で繋いでいた。
ブレッチリーで働いていたころ、ロンドンで重要な会議に出席しなければならないとき、長距離走が得意だったチューリングは、約 64km を走ったという。タイムは、世界レベルのマラソン記録に匹敵していたという。

1945年、戦時中の功績によりOBEを授与されたが、その後1970年代までその業績は秘密にされ、近しい友人すらそのことを知らなかった。その功績の大きさにもかかわらず、暗号という重要な機密事項を扱う仕事柄ゆえに、ブレッチレイ・パークから一歩外に出れば、チューリングの仕事を知る者は誰一人いなかった。それは、家族すら例外ではなく、母親に一度だけ「軍関係の研究をしている」と話した際には、政府の仕事に携わっていながら身なりに気を払わない息子に対し、母はかえって落胆するばかりであったという。戦後もブレッチリー・パークに関係する事柄は引き続き機密とされ、チューリングが同性愛者として罰せられてからは、その功績を知らない世間から、公然と辱めを受けることとなる(後述)。

チューリングとウェルチマンの bombe

ポーランドの bomba kryptologiczna よりも効率的にエニグマの暗号を解読する電気機械式の装置の仕様を生み出し、ポーランドの bomba にちなんで bombe と名付けた。数学者ゴードン・ウェルチマン(英語版)の示唆によって改良した bombe は、エニグマの暗号解読の主要な自動化ツールとなった。

ジャック・グッドは次のように述べている。

チューリングの最も重要な貢献は、私が思うに暗号解読機 bombe の設計だ。彼はあなたも使えるアイデアを持っていた。要するに、やや不合理な訓練されていない耳でも聞き分けられる論理的理論で、すべてを推論できる。

bombe はエニグマの暗号文で使われたと考えられる正しい設定(ローターの順序、ローターの設定、プラグボードの設定など)を、適当なクリブ(平文に存在が推定される単語やフレーズ)を使って探索する。ローターの考えられる設定(組み合わせのオーダーは 1019、4ローターのUボート版では 1022)ごとに、bombe はクリブに基づいた一連の推論を電気的に行う。bombe は矛盾が生じるとそれを検出し、その設定を除外し、次の設定を調べる。ほとんどの設定は矛盾を生じるので除外でき、詳細に調べるべき少数の設定だけが残る。最初の bombe は1940年3月18日に実装された。終戦のころには200台以上の bombe が使われていた。

Hut 8 と海軍のエニグマ

チューリングは「他の誰もそれに取り組まず、自分ならやれるかもしれない」と思い、ドイツ海軍のエニグマの解読というさらに難しい問題に取り組むことを決めた。1939年12月、海軍のエニグマのインジケーターシステムの基本部分を解明。海軍以外が使っているインジケーターシステムよりも複雑だった。そしてある夜、Banburismus のアイデアを思いつく。これは逐次的かつ統計的な技法で(後にエイブラハム・ウォールドは sequential analysis と呼んだ)、海軍版エニグマの暗号解読を助けるものだった。「私はそれが現場でうまく機能するか確信を持てず、何日かかけて具体化してやっと確信した」 このために彼は証拠を重み付けするための測度を考案し、それを Ban と呼んだ。Banburismus はエニグマの特定のローターの並びを除外することができ、bombe の設定をテストする時間を大幅に減らすことに寄与した。

1941年、チューリングは、 Hut 8 の同僚で数学者・暗号解読者のジョーン・クラークに結婚を申し込んだが、婚約期間は短かった。同性愛者であることをフィアンセに告白しても、彼女は動じなかったといわれているが、チューリングのほうがこのまま結婚はできないと別れることを決心した。

1942年11月には、暗号に関する情報交換の一環として、アメリカを訪れた[50]。そこでは、ワシントンでアメリカ海軍の暗号解読者に海軍版エニグマと bombe の構造について伝授し、英米間の盗聴不可能な音声通信手段としてベル研究所で当時開発中だった秘話装置SIGSALYの情報提供を受け暗号化方式の安全性についての評価作業を行った。ベル研究所では同じようにSIGSALYの評価を行っていたシャノンにも会っている。1943年3月、ブレッチリー・パークに戻る。この間に Hut 8 の責任者がヒュー・アレグザンダーに変わり、チューリング自身は部門の日常業務の運営に興味を持たなくなっていたため、ブレッチリー・パークの暗号解読コンサルタントのような立場となった。

アレグザンダーは、次のように書いている。

チューリングの仕事が Hut 8 の成功の最大の要因であることは誰もがわかっていた。当初、暗号解読者としては、彼だけがこの問題に取り組む価値があると考え、彼1人ではないものの Hut における理論的成果の最大の功績者であり、彼に次いでウェルチマンとキーンが bombe の発明に貢献した。全員が不可欠だったというのは難しいが、Hut 8 で誰が一番不可欠だったかといえば、それはチューリングだ。経験と日常がすべてを簡単なように見せるので、先駆者の業績は忘れられがちだが、Hut 8 の多くの者がチューリングの功績の大きさが外の世界に完全に伝わることは決してないだろうと感じていた。

Turingery
1942年、チューリングは Turingery(冗談で Turingismus とも)と名付けた技法を考案[53]。ドイツが新たに開発した暗号生成ローターつきのテレタイプ端末で生成されるローレンツ暗号を解読するための技法である。この暗号機械をブレッチリー・パークでは Tunny と呼んでいた。Turingery は Tunny のホイール群のカム設定を解明する手続きである。彼は Tunny のチームにトミー・フラワーズを紹介し、フラワーズがマックス・ニューマンの指導下で世界初のプログラム可能な電子式デジタル計算機 Colossus を構築することになった。Colossus は当時としては極めて高性能で、総当り的な統計的暗号解読技法を適用しても十分な性能を発揮した。なお、チューリングがColossusの設計に重要な役割を果たしたと間違って主張している文献などがある。Turingery と Banburismus の統計的暗号解読法は間違いなくローレンツ暗号の解読技術に影響を与えているが、チューリング自身がColossus開発に直接関与した事実はない。

秘話装置 Delilah
アメリカのベル研究所で提供を受けたSIGSALYの情報を元に、よりシンプルな形で電話の音声信号を電子的に暗号化するというアイデアを追求し、戦時中の後半はハンスロープ・パークにあるイギリス情報局秘密情報部のラジオセキュリティサービス(後のHMGCC)で働いた。そこで彼は技術者ドナルド・ベイリーの助けを得て、電子工学への造詣を深める。2人は携帯型の秘話装置 Delilah を設計・構築[59]。Delilah は様々な応用が意図されていたが、長距離の無線通信ができず、いずれにしても完成したのは終戦間近で遅すぎた。それでも役人の前でウィンストン・チャーチルの演説を暗号化してさらにそれを元に戻すデモンストレーションを行ったが、実際には使われなかった。

初期のコンピュータに関する仕事とチューリングテスト
1945年から1947年まで、チューリングはロンドンのリッチモンドに住み[61]、イギリス国立物理学研究所 (NPL) にてACE (Automatic Computing Engine) の設計を行う。1946年2月の論文では、プログラム内蔵式コンピュータの英国初の完全なデザインを発表している。フォン・ノイマンの First Draft of a Report on the EDVAC はチューリングの論文より先に存在したが、チューリングの論文の方が詳細であり、NPL数学部門の責任者だった John R. Womersley は「チューリング博士の独自のアイデアがいくつか含まれていた」と記している[63]。ACEは実現可能な設計だったが、ブレッチリー・パークで軍事機密に関わる仕事をしていたことが原因でプロジェクトは遅々として進まず、1947年、サバティカル休暇でケンブリッジに戻る。彼がケンブリッジにいる間にACEを縮小した Pilot ACE が作られた。1950年5月10日に初めてプログラムの実行を達成している。

1948年、マンチェスター大学数学科の助教授に招かれる。1949年、マンチェスター大学のコンピュータ研究室に移り、そこで初期のコンピュータ Manchester Mark I におけるソフトウェア開発に従事。この時期はより概念的な仕事にも取り組み、Computing Machinery and Intelligence(「計算する機械と知性」、1950年10月、「Mind」誌)という論文では人工知能の問題を提起、今日チューリングテストとして知られている実験を提案している。すなわち、機械を「知的」と呼ぶ際の基準を提案したもので、人間の質問者が機械と会話をして人間か機械か判別できない場合に、その機械が「思考」していると言えるというものである[64]。その中で、最初から大人の精神をプログラムによって構築するよりも、子どもの精神をプログラムして教育によって育てていくのがよいと示唆している。

1948年、当時まだ存在していなかったコンピュータチェスのプログラムを書き始める。1952年、当時のコンピュータは性能が低くそのプログラム実行には適さなかったため、自分でコンピュータをシミュレートしてチェスの試合を行ったが、一手打つのに30分かかったという。その対戦の棋譜が残っている[65]。同僚との対戦ではプログラムが負けているが、別の同僚の奥さんにはプログラムが勝利している。

チューリングテストは独特の挑発的特徴があり、人工知能に関する議論で半世紀にわたってよく引き合いにだされ続けた。

1948年にはLU分解も考案しており、今でも方程式行列の解法として使われている。

形態形成と数理生物学に関する仕事
1952年から、亡くなる1954年まで数理生物学、特に形態形成について研究を行う。"The Chemical Basis of Morphogenesis"(形態形成の化学的基礎)と題する論文を1952年に発表、形態形成について仮説を提唱した。この分野での関心は、フィボナッチの葉序研究、すなわち植物の葉のつき方に現れるフィボナッチ数の存在である。これに反応拡散方程式を用いたが、これは形態形成の分野で現在よく使われる手法である。その後の論文は 1992年の Collected Works of A.M. Turing の出版まで未発表だった。近年再評価が著しい仕事である[69]。

同性愛の告発
Anthony Cave Brown の著書 "C": The Secret Life of Sir Stewart Menzies, Spymaster to Winston Churchill には次のような記述がある。

ミンギスは、チューリングをブレッチリーで雇用した直後から彼が長年の積極的な同性愛者だと知っていた。しかし、ブレッチリーの同僚にちょっかいを出すこともなく、ミンギスの部下の中では唯一「不可欠」と呼べる男だったので、そのまま雇っていた… 1944年初め、ブレッチリーに程近い大きな工業都市ルートンの公立図書館で男子生徒が性暴力を受けるという事件があり、チューリングが犯人ではないかと疑われた。全く記録には残っていないが、秩序と風紀を保つには彼を排除するしかないという決定がなされた。しかし、それも彼が素晴らしい仕事を完了してからのことである。

1952年1月、チューリングはマンチェスターの映画館のそばでアーノルド・マレーと出会う。ランチデートの後、週末を一緒に過ごそうとマレーを自宅に招いたが、マレーはその誘いを断わっている。次の月曜日、2人は再びマンチェスターで会い、今度はチューリングの自宅を訪問している。数週間後、マレーは再びチューリング宅を訪れ、一夜を共にしたとみられている。

間もなく自宅に泥棒が入り、事件を警察に報告したが、捜査の過程で、泥棒の手引きをした19歳の青年(マレー)と同性愛関係にあったことが警察の知るところとなった。同性愛は当時のイギリスでは違法であり、2人とも逮捕された。

チューリングは有罪となり、入獄か化学的去勢を条件とした保護観察かの選択を与えられ、入獄を避けるため、同性愛の性向を矯正するために、性欲を抑えると当時考えられていた女性ホルモン注射の投与を受け入れた。

結果としてセキュリティ・クリアランスを剥奪され、GCHQで暗号コンサルタントを続けることができなくなった。当時、ケンブリッジ・ファイヴの最初の2名ガイ・バージェスとドナルド・マクリーンがKGBのスパイだと露見した事件があり、スパイについて大衆の不安が増大し、ソ連のエージェントが同性愛者を罠にかけるという噂があった。スパイ活動で告発されたわけではないが、ブレッチリー・パークで働いていた全員と同様、戦時下の業績について論じることは禁止された。

1954年6月8日、家政婦がチューリングが自宅で死んでいるのを発見した。検死の結果、死亡したのは前日で、青酸中毒による死であることが判明。ベッドの脇には齧りかけのリンゴが落ちていた。リンゴに青酸化合物が塗ってあったかの分析はなされなかったが、部屋には青酸の瓶が多数あった。死因審問で自殺と断定され、1954年6月12日に火葬された。
母は、実験用化学物質を不注意に扱ったために起こった事故であると主張している[80]。あるいは、母に事故だと思わせるようにして自殺したという説もある[81]。同僚によれば、映画『白雪姫』を見た直後の彼が「魔法の秘薬にリンゴを浸けよう、永遠なる眠りがしみこむように」と言っていたのを耳にしており、白雪姫のワンシーンを真似てこのような死に方をしたのだという。

再評価

ウィルムズローのチューリング宅にあるブルー・プラーク
チューリングの死後まもなく(戦時中の業績が機密扱いだったころ)、王立協会が伝記を出版しており、以下のように記されている。

3つの多様な数学的主題について、戦前に3つの特筆すべき論文を書いており、この重要な時期(戦時のこと)に何らかの大きな問題にとりかかっていたら重大な業績を残していただろうということがわかる。外務省での業績により、OBEが授与された。

国立物理学研究所の同僚で、後にチューリング賞を受賞したジェイムス・H・ウィルキンソンも、受賞講演で、外務省時代に別の環境にチューリングがいたなら、もっとも生産的な時期たりえた可能性が大きい、としている。しかし、問題やパズルといったものであれば種類を問わず大好きであったから、外務省での仕事にも興味をもって取り組んだであろうし、電子工学について知識を獲得したのもその時であった、と指摘している。

1966年から、コンピュータ科学者らによる国際的学会のACMは、同学会の守備範囲であるコンピュータ科学を中心とした分野の最高の賞として、チューリング賞を授与している。物理や化学といったようなかなり広い分野の最高の賞、という位置づけにあるものとして、コンピュータ科学分野におけるノーベル賞に相当するものと一般に扱われている。

1974年夏、ブレッチリー・パークの活動について書かれた「ウルトラ・シークレット」出版[86]、チューリングらの功績について世間の知るところとなる。

1986年、ヒュー・ホワイトモアの戯曲「ブレイキング・ザ・コード」でチューリングが描かれた。1986年11月からロンドンのウェストエンドで公開され、1987年11月15日から1988年4月10日までブロードウェイで興行。1996年にはBBCでテレビドラマ化されている。いずれもチューリング役はデレク・ジャコビ。ブロードウェイでの公演はトニー賞3部門にノミネートされている。

1998年6月23日、86回目の誕生日に、伝記作者にして数学者のアンドリュー・ホッジスは公式の英国遺産としてブルー・プラーク(記念銘板)をチューリングの生まれた病院であったロンドンのウォーリントン・クレセントにあるコロネードホテルに掲げた。2004年6月7日には、死去50周年を記念して、ウィルムズロウ・ホリーミードの家にも記念のプラークが設置された。

1999年、タイム誌の「タイム100: 20世紀の最も影響力のある100人」で、コンピューター創造に果たした役割からチューリングを選んでいる。1999年のニール・スティーブンスンの小説『クリプトノミコン』にはチューリングが登場している。2000年3月13日、セントビンセント・グレナディーンにて20世紀の偉人を集めた切手セットが発行された。その中にチューリングの肖像が描かれた切手もあり、「1937: アラン・チューリングのデジタルコンピュータ理論」と記されている。2002年、BBCが行った「偉大な英国人」投票で第21位にランクインした。

晩年に働いていたマンチェスターでは、様々な方法でその栄誉を称えている。1994年、マンチェスターの環状道路が "Alan Turing Way" と名付けられている。またこの道路には Alan Turing Bridge という橋もある。2001年6月23日(誕生日)には、マンチェスター大学に隣接するサックビル・パークにベンチに座っている形の銅像が設置された。

この銅像はリンゴを持っている。リンゴは古来「禁じられた愛」の象徴であり、アイザック・ニュートンの万有引力の法則も思い起こさせるし、チューリングの死の状況も思い起こさせる。また、ブロンズ製のベンチにはレリーフで 'Alan Mathison Turing 1912–1954' と書かれていて、その下には 'Founder of Computer Science' をエニグマで暗号化した文字列が書かれている。台座には「計算機科学の父、数学者、論理学者、戦時中の暗号解読者、偏見の犠牲者」と記されている。バートランド・ラッセルの言葉も引用されていて「正しく見た数学は、真実だけでなく最高の美 - 彫刻のように冷たく厳しい美も有している」とある。台座の下には彫刻家が所有していた古いアムストラッド製パソコンが「あらゆる現代のコンピュータのゴッドファーザー」への捧げ物として埋められている。

没後50年を記念して、2004年10月28日には、幼少時に住んでいた町にあるサリー大のキャンパス内に銅像が置かれる。

プリンストン大学の発行する Princeton Alumni Weekly では、チューリングをジェームズ・マディソンに次ぐ偉大な卒業生だとしている。

2007年6月19日、ブレッチリー・パークに1.5トンの等身大の石像が立てられた。ウェールズの粘板岩を多数使用したもので、億万長者の Sidney Frank が彫刻家 Stephen Kettle に制作を依頼したものである。

2011年2月、チューリングの第二次世界大戦中の論文がオークションで買い取られ、ブレッチリー・パークに戻された。

2014年、人気俳優ベネディクト・カンバーバッチがチューリングを演じる映画『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』が公開された。

政府による謝罪
2009年8月、ジョン・グラハム=カミングがイギリス政府に対して、アラン・チューリングを同性愛で告発したことへ謝罪するよう請願活動をはじめた。これに対して数千の署名が集まった。

イギリス首相のゴードン・ブラウンはこの請願を認め、2009年9月10日に政府として正式な謝罪を表明し、当時のチューリングの扱いを「呆れたもの (appalling)」と表現して、次のように声明を発表した。

数千の人々がアラン・チューリングのための正義と彼がぞっとする扱われ方をしたという認識を求めて集まった。チューリングは当時の法律に則って扱われ、時計の針は戻すことはできないが、彼に対する処置はまったく不当であり、深い遺憾の意を表す機会を得たことを我々全てが満足に思っている… イギリス政府とアランのおかげで自由に生活している全ての人々を代表し、『すまない、あなたは賞賛に値する』と言えることを非常に誇りに思う。
2011年12月、William Jones はイギリス政府に対してアラン・チューリングの罪を免罪(名誉回復)してほしい[99]という電子請願を申請した。

この請願には21,000以上の署名が集まったが、法務大臣はチューリングが有罪宣告されたことは遺憾だが、当時の法律に則った正当な行為であったとしてこれを拒否した。

その後、2012年に英国貴族院に正式な恩赦の法案が提出され、2013年12月24日にエリザベス2世女王の名をもって正式に恩赦[103]が発効した。キャメロン首相は、彼の業績をたたえる声明を発表した。

各大学における顕彰

マンチェスター大学のアラン・チューリング・ビルディング
生涯と業績に関する催しが英国論理学会議と英国数学史学会主催で2004年6月5日にマンチェスター大学で行われた。

エディンバラ大学情報学科には 'Turing Room' と呼ばれる部屋があり、エドゥアルド・パオロッツィ作の胸像がある。
サリー大学の主広場には銅像がある。
Istanbul Bilgi University では計算理論の会議が毎年開催されており、その期間を "Turing Days" と呼んでいる。
マンチェスター大学、オープン大学、オックスフォード・ブルックス大学、オーフス大学(デンマークオーフス)には、それぞれチューリングの名を冠した建物がある。
オレゴン大学計算機科学科の建物のそばにはチューリングの胸像がある。
スイス連邦工科大学ローザンヌ校にはチューリングの名を冠した道路と広場(Chemin de Alan Turing と Place de Alan Turing)がある。
生誕100周年
詳細は「en: Alan Turing Year」を参照

デ・ラ・サール大学(マニラ)において開催されたAlan Turing Yearカンファレンスの壇上に立つデイヴィッド・チャーマーズ(2012年3月27日)
生誕100年を記念して、Turing Centenary Advisory Committee (TCAC) は2012年を Alan Turing Yearとし、一年を通して世界各地でチューリングの生涯およびその功績を称えるイベントを行った。TCACには、マンチェスター大学、ケンブリッジ大学、ブレッチリー・パークなどの関係者が協力しており、数学者のS・バリー・クーパー(英語版)が議長を務め、甥のジョン・ダーモット・チューリングが名誉会長を務めている。

2012年6月23日には、Google Doodle(Googleトップページのロゴ)がチューリングマシンを模したデザインに変更された。アルゴリズムを設定するミニゲームが遊べるようになっていた。

ブレッチリー・パーク・トラストは、Winning Moves社と共同で、モノポリーのアラン・チューリング版を発表した。このモノポリーのマスとカードは、メイダヴェールにある出生の地からブレッチリー・パークのHut 8に勤務するまでのアラン・チューリングの生涯をたどるような内容に改訂されている[109]。また、このゲームには、チューリングを指導していたマックス・ニューマンの息子であるウィリアム・ニューマンが手書きで作成したモノポリーの原型のレプリカも同梱されている。この原型となったゲームを、1950年代にチューリングもプレイしていた。

フィリピンでは、デ・ラ・サール大学の哲学科が、2012年3月27日から28日にかけて、チューリングの生誕100周年を記念し、哲学、人工知能および認知科学に関する国際会議であるTuring 2012を開催した。インドでは、マドゥライにおいて、6,000人の学生が出席する記念式典が行われた。

英国での記念イベント
ACMが6月にマンチェスターにおいて3日間のカンファレンスと、サンフランシスコにおいて2日間のカンファレンスをそれぞれ開催した。またケンブリッジでは、キングス・カレッジおよびケンブリッジ大学においてそれぞれチューリングの誕生日パーティとチューリング生誕100周年記念カンファレンスが開催された。ケンブリッジ大学でのものは、Computability in Europeにより開催された。

ロンドンのサイエンス・ミュージアムは、2012年6月から2013年7月にかけて、チューリングの生涯とその功績に特化した無料の展示を行った。2012年2月には、ロイヤルメールが「Britons of Distinction」シリーズの一環として、チューリングの切手を発行した。2012年ロンドンオリンピックの聖火リレーは、チューリングの100回目の誕生日である2012年6月23日に、サックヴィル・ガーデンズにあるチューリングの像の前で引き継がれた。

2012年6月22日、マンチェスター市議会は、Lesbian and Gay Foundationと共同で、Alan Turing Memorial Awardを創設し、マンチェスターにおいてホモフォビアに立ち向かうことに顕著な貢献のあった個人・団体を表彰することとした。

オックスフォード大学では、チューリングの生誕100周年を記念して、コンピュータサイエンスと哲学の新しい科目が開設された。

これ以前にも、2004年6月5日にマンチェスター大学において、British Logic ColloquiumおよびBritish Society for the History of Mathematicsの主催で行われた、チューリングの生涯とその功績を称えるイベントを含め、さまざまなイベントが行われている。
(資料ウイキペディア)










カジノで106億円熔かして服役、大王製紙前会長のオーナー経営者論
井川意高・大王製紙前会長
外国人投資家が日本のオーナー企業に熱視線を送っている。『週刊ダイヤモンド』4月14日号の第1特集「オーナー社長 最強烈伝」では、トップが指導力を発揮しやすいオーナー企業を完全解剖した。
一方で、オーナーは強い権限を持つが故に不正に走ることもある。カジノにのめり込み、ファミリー企業から総額106億円を借りて有罪判決を受けた大王製紙前会長の井川意高氏に転落の背景を語ってもらった。(聞き手/「週刊ダイヤモンド」編集部・千本木啓文、同編集部委嘱記者・村井令二)

いずれカジノで勝って
返せると考えていた
──カジノの資金をファミリー企業から借りるほどギャンブルにはまってしまったのはなぜですか。
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 ギャンブルが好きだったからです。学生時代から友人とマージャンしたり、パチンコをやったりしていましたから、嫌いじゃなかったんです。

──オーナー社長としてのプレッシャーもあったのでしょうか。

 私がそういうタイプに見えますか(笑)。会社法違反(特別背任)の容疑で東京地検特捜部に逮捕され、東京拘置所に入ったとき、担当の弁護士に「『(拘置所の生活が)面白い』と言っている人間は初めて見た」と驚かれたくらい、神経は太い方なんです。

──著書『熔ける』によれば、「過半の株式を持っている会社から、一時的にカネを融通したって問題はなかろう」と考えていたようですが、なぜこうした認識に至ったのでしょう。

 良くないとは思っていました。でもカジノに返すお金が手元になかった。外部と金の貸し借りでトラブルになるわけにはいかないということで一線を越えてしまいました。

 しかし、これはギャンブルで借金をつくった人間の心理なのですが、いずれカジノで勝って返せると考えていました。

オーナーの会社私物化と
サラリーマン社長の不正、どっちが悪いか
──事件発生後、オーナー社長への風当たりの強さは感じましたか。

 それは日本特有の嫉妬でしょう。

「あの人は苦労人だから性格が良い」と言われる人もいれば、「苦労しているから性格が悪い人」もいる。育ちのいいお嬢様だから使用人に優しく接する人もいれば、その逆もあります。結局、オーナーの性格次第なのです。

 トップに居座って業績低迷を招いているサラリーマン社長だって少なくない。オーナーが会社を私物化するのと、株を持っていない人が私物化するのとではどっちが悪いのでしょう。

──確かに、東芝、日産など、サラリーマン社長の会社でも不正は起こっていますね。

 そうですし、株主を無視したことをしているサラリーマン社長が多い。

 そもそも、オーナー企業から始まっていない会社はどれくらいあるのでしょうか。オーナーが悪いというなら起業は無理です。

 共産主義じゃないので自分の子や親戚に株式を譲るのは悪いことではありません。二代目、三代目で私みたいなのが悪いことをしてしまったら批判されて当然ですが、オーナー企業そのものが悪いというのは日本社会の悪い癖だと思います。

──三代目の井川さんは子供のころから家業を継ぐことを意識されていたそうですね。就職してから、オーナー企業の強みをいかすためにどんなことを心掛けましたか。

 自分にもプライドがあったので他の社員連中には仕事では負けないぞという気持ちでした。誰よりいい知恵を出して誰より成果を出そうと思っていたし、実際にそうだったつもりです。

 オーナー企業の強みにリーダーシップを発揮しやすいというのがありますが、一例としてティッシュやオムツといった家庭紙部門トップ時代に行った改革があります。

 部門トップに就いた当時、家庭紙は売上高500億円で100億円近い赤字があった。これを立て直そうと一所懸命やりました。失敗したら業界から「やっぱりボンボンだったな」と言われてしまいますしね。

 しかし、就任後、百何十億の赤字を出してしまった。当時は本社の廊下の端っこを歩いていました。でも、3年目でやっと分かってきたんです。

 当時、大王製紙は良いものを安く大量に作ればいいという発想でした。それが製紙業界の体質だったし、大王製紙の中興の祖と呼ばれた父の高雄ですらそうだった。

 家庭紙を立て直すには、なぜフェラーリは日本の高級車の3倍で売れるのかを、私だけでなく社員が理解しなければならないと考えました。儲からないのを他部署のせいにする体質も改める必要がありました。

 凝り固まった社員の意識を変えるために2年間、毎週土日に泊まり込みの研修をやってマーケティングやマネジメントを叩き込みました。社員はローテーションだったから数ヵ月に一度でしたが、私は毎週土日休みなくこれを続けた。

 研修ではなぜ上手くいかないのかを社員に発表させ、机を叩きながら“吊し上げ”ました。いまだったらブラックと言われそうなやり方です。

ファミリーの株式評価額が上昇
服役後、仕事もせずやっていける理由
──それはオーナーだからできたと。

 当時の役職は専務取締役家庭紙事業部長ですが、30歳そこそこの若造でした。サラリーマンだったらできっこないです。

 私が家庭紙を離れるとき、当初500億円だった売上は倍増。経常利益で80億円を計上し、赤字を解消しました。5年間で利益を160億円ほど引き上げたわけです。

 今だから話しますが、事件後の対応でもオーナーとサラリーマン社長(である大王製紙現社長の佐光正義氏)の責任感の違いは大きかった。

 私の借金を返すためにどう資金を捻出しようかとなったとき、ファミリーが持っていた大王製紙関連の株式を売ることになりました。

 実は、その売値が佐光氏のおかげで2.5倍以上の440億円になったのです。

 当初はファミリーが大王製紙の経営者として残っていたので非上場株は純資産価額方式で評価する必要があった。しかし、問題を起こした私が顧問から外されただけでなく、父や弟も大王製紙から排除されたので、ファミリーの株式売却は当事者間の取引から第三者との取引になり、税務上の制約が外れて評価額が跳ね上がったのです。

 おかげで服役後、こうして仕事もせずやっていける。皮肉なものです。

 一方で、この440億円のディールは社員や株主のためになったのでしょうか。ファミリーを排除して佐光氏は権力を安泰にした。しかし、そのために大王製紙に約300億円(純資産価額方式による評価額と実際の売値の差額)を余計に使わせているのです。

 これはサラリーマン社長の悪いところと言えます。会社のリスクは自分のリスクじゃないわけです。

──オーナー社長としての幅を広げるためにどんなことをしていましたか。オーナー社長同士の付き合いも多かったようですが。

 父に連れられて大学生のころから銀座で飲んでいました。名だたるオーナー社長に可愛がってもらいましたよ。まさに銀座は夜の社交界でした。

 価値観や話題が合うので、やはり創業家出身の社長に親近感を持ちます。正直、相手がサラリーマン社長なら「ああサラリーマンか」と思っていました。オーナーと同じような遊び方もできませんしね。上場会社の社長より、むしろ地方のオーナー社長の方が使える額が多いようです。

オーナー社長が陥りやすい罠
人事に偏りが出る傾向も

──オーナー社長が陥りやすい罠とは何でしょうか。

 まずは、私のように会社を私物化してしまうことですね。

 それと人事に偏りが出る傾向がある。父を見ていて反面教師にしていたのは、そこまで悪くないと私からは見える人でも、すぱっと切ってしまうことです。

 こいつはできると思って引き上げるのですが、少しでも駄目なところがあったら左遷してしまう。

 例えば本社の財務部長をいきなりゴルフ場の支配人にしたことがありました。それなら最初から登用するなよと。社員にも家族があるんですから。

 父は好き嫌いで人事はしませんでしたが、ちょっとしたことで上げたり、落としたりとエレベータみたいな人事をしていました。

──井川家とそれ以外の間の不公平感はどうでしたか。

 それはないです。最終的に大王製紙本体に残っていたのは父と叔父、私、弟の4人だけでしたから。

 逆に言うと、4人だけだったから、佐光氏に足元をすくわれてしまった。父は絶対権力者でしたが、役員会を掌握しなければ力を発揮できないことを分かっていませんでした。父が会長を退任した後も影響力を持てたのは私と弟が役員だったからです。

──非創業家の経営者との対立も、オーナーが直面しやすいリスクです。

 佐光氏の判断次第では、そもそも私の借金は事件にならずに済んでいたことを指摘しておきます。

 私の借金は有価証券報告書にも記載されていて、決して隠していたわけではありません。契約では2011年9月末に返すことになっていた。

 ただ、返済のための現金がなかったので関係会社の株式で代物弁済しようとしていました。債権者である関係会社7社の取締役会で、それを認める決議をする予定だったのです。

 ところが、7社は「現金で返してくれ」と言って代物弁済を拒否した。それは、本社の指示に基づくものだったと関係会社の一部幹部が裁判で証言しています。

 本社を仕切っていた佐光氏は、(井川家が保有する)大王製紙関連の株式をのどから手が出るほど欲しかったはずです。最終的に440億円で全部引き取ったわけですから。

 佐光氏が代物弁済を認めていれば、借金を返せていた。返済されていれば事件にする必要はないと、東京地検特捜部の検事も言っていました。

──時が経つにつれて大王製紙に関係する親族が増えたことも問題でしたか。

 だと思いますね。父の兄弟は、自分が経営する関連会社と大王製紙の役員を兼ねていて、今なら利益相反で問題になるような状況でした。

 大王製紙の副社長をやりながら、大王製紙の営業部長を呼び付けて、自分が経営する関連会社の代理店にもっと安く卸せと言っているんだからひどい話です。

 父がおじたちを大王製紙本体から追い出したのは大王製紙だけの利益を考えて経営する体制をつくるためでした。おじたちとは、それで仲が悪くなってしまったわけですが。

「大王」という名は
「王子」を超えるという意志
──カジノ問題で大王製紙株式が売却されることになったのは業界再編のきっかけに成り得ましたが、結果的には各社とも展望を描きにくい状況のまま停滞しているようです。

 正直、私と弟は事件が起きる前から大王製紙からいつエグジットするかを考えていました。

 先を見通したらそうなりますよ。斜陽産業で国際競争力もなくなり、しかも当時業界3位の会社です。素材産業で生き残るのは業界2位まででしょう。エグジットしたほうが、社員も株主もハッピーだろうと考えていました。

 実は、私の借金返済に当たって、国内最大手の王子製紙に井川家の大王製紙関連株を譲渡して、合併してもいいと思っていました。

「大王」という名は、「王子」を超えるという意志を表しています。でも、これは明治の人の青雲の志というやつで、いまはそんな時代じゃない。

 私は王子製紙の篠田和久さん(当時社長、15年に死去)は大好きだった。レストランなどに招待し合う仲でした。

 事件になった後、一審が終わる前に借金を返せば量刑も違うので、まずインドネシアの製紙会社APPグループとファミリーの持ち分の売却交渉をした。しかし、折り合えなかったので篠田さんのところへ行きました。王子製紙なら大王製紙の社員に冷や飯を食わせることはないと思っていたのです。

 私も父も経営者としては王子製紙に強い敵対心を燃やしていた。けれど、バカ息子が問題を起こして、大王製紙の社員、株主、業界でのポジションを真剣に考えて、王子製紙と統合するのがいいと12年の年頭に断腸の思いで決断したのです。

 でも篠田さんからは「株式を引き受けるのはやぶさかじゃないが、敵対的な取引は避けたい。大王製紙の役員の了解がないと難しい」と言われてしまった。

 篠田さんは北越製紙(現北越紀州製紙)の敵対的TOB(株式公開買い付け)で失敗した経験があるのでトラウマがあったのだと思います。

 そのうちに情報が漏れたのでしょう。佐光氏が王子製紙による株式取得に強く反対したそうです。王子製紙と統合すれば佐光氏は自分の居場所がなくなるからでしょう。

 サラリーマン社長は最終的に自分の保身を考えがちです。

 オーナーはかまどの下の灰まで自分のものという意識があって、ぎりぎりまで自分の会社を存続させようとしますが、いざ決断を迫られたら、会社のためになる道を選ぶものです。資産があるので自分が辞めても生計は立ちますから。

 ところが、俊高をはじめとした私のおじたちは王子製紙との統合に反対する佐光氏に同調しました。おじたちは大王製紙の関連会社の仕事で所得を得ています。王子製紙と統合すれば不利益を被ると思ったのでしょう。かつて大王製紙本体の経営から兄弟を排除した父への複雑な思いもあったと思います。

──王子製紙との交渉が成立せず、結局、北越紀州製紙に株式が渡りました。しかし、大王製紙の現経営陣は北越紀州製紙と対立しています。

 北越紀州製紙社長の岸本晢夫氏は国内首位の王子製紙、2位の日本製紙に対抗できる第三極の形成を提唱していました。

 私としては、本当は王子製紙との統合が望ましかったのですが、プランBとして「第三極論」を選択したわけです。

 佐光氏が北越紀州製紙ともめているのは、叔父の俊高が他のおじたちを焚き付けて、「アンチ高雄」でまとめているからです(俊高氏本人は大王製紙への自身の影響力を否定している)。

 父は3%超の大王製紙株式を持っています。(大王製紙との統合を目指す)北越紀州製紙が保有する株式を合わせた持ち株比率は25%超ですが、それで大王製紙と北越紀州製紙を統合させようとしても足りませんよね……。

私は創業者タイプじゃない
今後は社会貢献を手伝いたい
──エグジットしたかったのなら、大王製紙会長時代に井川さんが道筋をつけていれば混乱を避けられたのではないですか。

 それはタイミング的に無理でした。父は大王製紙が順調で、自分の目が黒いうちは独立独歩でやってほしいと思っていた。

 自分を正当化するわけじゃないですが、従来の枠組みから脱するのは難しいものです。会長時代に私が「王子製紙といっしょになる」と言ったら、大半の人間が拒否反応を示したでしょう。

──刑期はいつ満了でしたか。

 昨年10月でした。

──今後、新たなビジネスを始めようという気持ちはありますか。

 私は大王製紙に入って仕事が楽しかったことは一度もないんです。「俺は何でこんなことしているんだろう」と砂を噛むような思いでやっていた。

 工場は24時間365日動いていて、マシンが少し止まっただけで大きな損失を出す装置産業です。派手さは一切ない。私のやりたい仕事ではありませんでした。

 いまはファミリーに残った外食の企業を見ています。これは私がやりたかったBtoCの仕事ですから楽しいのですが、命を懸けてやろうとは思っていません。

 かといって新しい事業を立ち上げようという気持ちもない。私自身、創業者タイプじゃないことは分かっています。あるものを改善することはできるけど、全く新規のことはできない。

 図らずもこういうことになったので、社会貢献を手伝いたいと思っています。初めての著書の印税は全て障害児専門の保育園とDVを受けた女性や子供の避難所に寄付しました。

「私もお金を出すけれど、皆さんも出してください」と慈善事業のためなら頭を下げにどこへでも行きます。私の人脈や知識を活用してもらえればいいなと思っています。

カジノに預けてるのを
取り返さないといけない
──カジノからは足を洗うのですか。

 カジノはね、預けてるのを取り返さないといけないですね(笑)。

 1月に知人を連れて行って来ました。わいわいやりながら海外のカジノを体験するツアーのようなものです。

 私は持っていったお金をスってしまった。また預けちゃった(笑)。

──今後、本気で勝負しに行くこともあると。

 将来的にはあるのではないでしょうか。

 でも、持って行ったお金をすったら終わりです。昔のように負けたときにカジノがお金を貸してくれませんから。パチンコや競馬やるのといっしょですよ。カジノで地獄を見るのは、負けたときに現地でお金を借りるからなのです。

 カジノを含む統合型リゾート施設(IR)実施法案の議論が進んでいますが、官僚も議員もカジノで遊んだことのない人が議論しているのは問題です。

 カジノ狂いになった人間からすれば、数千円の入場料はどうかと思います。カジノに足を踏み入れた時点で入場料分の負けが発生しているわけですから、それを取り返そうと熱くなってしまう。

 時間制限を設ける案も、「終了間際に最後の大博打だ!」などと言って勝負してしまうかもしれない。むしろ犠牲者を増やすのではないでしょうか。

 回数を規制するのはぎりぎり効果があるかもしれませんが、入場料と時間規制はあさっての方向だと言わざるを得ません。

 ちなみに、日本にカジノができても私は行きません。日本ではディーラーも日本人だから。客のことが分かってしまうじゃないですか。日本人のハイローラー(大金を賭ける大口顧客)は国内のカジノを避けると見ています。

井川意高いがわ・もとたか/1964年、京都府生まれ。東大法卒、87年に大王製紙入社。同社会長当時に、カジノの資金を子会社から借りていた事実が発覚。会社法違反(特別背任)の容疑で東京地検特捜部に逮捕される。13年に懲役4年の実刑判決を受け服役。17年10月に刑期満了。近著に堀江貴文氏との共著、『東大から刑務所へ』(幻冬舎)がある  

(記事引用)

■【引喩失義】いんゆしつぎ
【喩(ユ)を引きて義を失す】と訓読みされまして、自分に都合のよい譬(たと)え話を持ち出して、正しいことを言わない、しないことを表した四字熟語です。
【引喩】は、喩えを引くことです。
【失義】は、道理を踏み外すことです。

諸葛孔明(ショカツコウメイ)が、魏(ギ)の国へ遠征をする際(A.D.227年)に、主君の劉禅(リュウゼン: 劉備の息子)に奉(たてまつ)った上奏文(出師表:スイシのヒョウ)に【引喩失義】がでています。

  臣亮言。
  臣・亮(リョウ)言わく
     家臣である、亮が申し上げます。

  先帝創業未半、而中道崩殂。
  先帝、業を創(はじ)めて未だ半ばならずして、中道にして崩殂す
  
  先帝は、国を作り始められて、その事業の半分も行えないままに途中でお隠れになり

  今天下三分、益州疲敝、此誠危急存亡之秋也。
  今 天下は三分され、益州(エキシュウ)は疲弊し、此れ誠の危急存亡の秋(とき)なり。
     今 天下は三つに分かれ、この益州(えきしゅう)は疲れ果ててしまい、
     これは誠にに危急存亡の時なのであります。

  然侍衛之臣、不懈于內、忠志之士、忘身于外者、
  然るに侍衛(ジエイ)の臣は内に懈(おこた)らず、忠志(ちゅうし)の士は身を外に忘るるは、
     しかるに陛下(劉禅)の護衛をしている兵士たちが怠ることなく、
忠実なる役人たちが、外部の務めをこなしているのは、

  蓋追先帝之殊遇、欲報之于陛下也。
  蓋し先帝の殊遇(シュグウ)を追うて、之を陛下に報いんと欲すればなり。
     つまりは先帝に特別の礼でもてなされたことを思い慕って、その御恩を陛下に報いようと
     思っているからであります。

  不宜妄自菲薄、引喻失義、以塞忠諫之路也。
  妄りに菲薄(ヒハク)に自(よ)りて、喩えを引きて義を失うて、以て忠諫(チュウカン)の路(みち)を
  塞(ふさ)ぐべからざるなり。
     みだりに、家臣たちへの遠慮により、また自分に都合のよい譬(たと)え話を持ち出して、
     正しいことを言わないことにより、家臣たちが真心を持って陛下を諫める道をふさがない
     ようにしていただきたいのです。

八重樫一 監修福島テレビ

※井川意高氏の引喩失義とは
こういうタイプの列伝は世に多いが、これも例外ではない。創業者企業の後継相続問題に話しは尽きないが、夫婦喧嘩同様、そんなもの見たくも訊きたくもない、というのが本音だ。リアル実話として、私の経験談話の若いころ使えていた創業会社が50年の時を経て消滅した。もう一つの勤めていた他の老舗フランス菓子会社も同じく倒産直前で更生法によって生き返ったという話しをテレビでみた。それは実質的に創業者一掃による建て直しであり消滅と同じだ。

と云うようにほとんどのケースが創業跡目が存続しないという事例が物語る。
この井川意高氏の場合も、同様に会社から完全に離縁された。会社の規模からして組織は存続するだろうが、そのポストの去就ということなのだろう。

「引喩失義」だから本人の思い違いから、そのポストを捨てた、と解釈してもいいし、「私がそういうタイプに見えますか」、の一言がそれに尽きる。

誰だって第三者的外見判断と、自分の性格のギャップはあるだろうし、ましてや世襲環境で育てられ「大人虚の世界」を知っている人間は社会に多くはいない。
誰もが羨望の眼差しで見る中、本人は「冗談じゃないさ」と内心おもっているに違いない。

同一線上の親の七光りで、黒澤久雄、寺尾聡らが思い浮かんだが、父親に対する異常な反抗抵抗心と、完全に打ちのめされたコンプレックスは常に付き纏う。そのほとんどが、そこから抜け出せないで終わってしまう。
だからそれを世間では「いいとこのボンボン」で何をやっても許される単なる「バカ」としかみない。
だから会社を私物化してカジノ大賭博でスッテンテンになっても、命はあった。普通ここまでだと命はない。

履歴の「東大法卒」も、そうした アバンギャルドになるための必須条件なのだろう。
今世間で話題の森友騒動に狩り出された永田町高級官僚と紙一重のタイトロープだが、いずれに転んでも左右は断崖絶壁千尋の谷。

せっかくだからドキュメントでも上梓したらどうか、と思うくらい話題満載だ。この本が売れないCDも売れない時代の世相に乾坤一擲の一撃を食らわすだけのポテンシャルはたっぷり持ってる。ただ、そうしたタイプはシャイな性格で、人の云われたことは絶対しないという節操のないのが致命傷的キズだ。

世のためと思えば、それくらいはできるはずだ、もしこれを読んでいたとしたら。

アヴァンギャルド「
井川意高」氏 様

 当ブログ責任者 豊田七生~









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