Galapagos Japas

国際政治と日本の古代政治変遷歴史 明治維新など特に集中して書いている

近衞 秀麿

音楽家「近衞 秀麿」
近衞 秀麿(1898年11月18日 - 1973年6月2日)は、日本の指揮者・作曲家。元子爵。正三位勲三等。元貴族院議員。異母兄に近衞文麿(政治家・元内閣総理大臣)、実弟に近衞直麿(雅楽研究者)、水谷川忠麿(春日大社宮司)がいる。
220px-Anefo_911-7365_Repetitie_Tokyos日本のオーケストラにとってパイオニア的存在であり、「おやかた」という愛称で親しまれていた。評価がされない時期もあったが、2006年には初めて近衞に関するまとまった本が出版されるなど、再評価の動きも徐々に出てきている。
東京帝国大学文学部中退。
1898年11月18日、公爵近衞篤麿の次男として東京市麹町区(現:千代田区)に生まれる。近衞家は五摂家筆頭の家柄で、また皇室内で雅楽を統括する家柄でもあった。
音楽は文麿の影響で興味を持つようになった。学習院時代に犬養健らと親しくなり、1913年頃には東京音楽学校の分教場、次いで上野の本校によく遊びに出かけていたと言われている[誰によって?]。一時期飛行機に熱中した時期もあったが、やがて本格的に音楽の道を志すようになり、飛行機断ちの証としてヴァイオリンを正式に勉強することを許された。
1915年からは、牛山充の紹介で、ドイツでの作曲留学から帰国したばかりの山田耕筰に作曲を学ぶようになった。一方で東京音楽学校にあった交響曲を片っ端から写譜するなどオーケストラへの興味を強めていった。
1920年、瀬戸口藤吉が主宰していたアマチュアオーケストラを瀬戸口の代演で指揮し、指揮者デビューを果たしたが首尾よくは行かなかったようである。学習院初等科、中等科、高等科を経て、東京帝国大学文学部に入学するが中退した。
1923年、秀麿はヨーロッパに渡り、ベルリンで指揮をエーリヒ・クライバーらに、作曲をマックス・フォン・シリングス(フルトヴェングラーの師)ゲオルク・シューマンに学び、パリで作曲をダンディらに師事する。
ヨーロッパ滞在中の1924年1月18日に、かつて山田がそうしたように秀麿も自腹でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を雇い、ヨーロッパでの指揮者デビューを果たした。また、ドイツのインフレと著しいマルク安にも助けられて、おびただしい数のオーケストラ用の楽譜を買い込み、同年9月に帰国。
1925年には山田耕筰と協力し、日本交響楽協会を設立。定期演奏会や、ハルビン在住の楽士を加えた「日露交歓交響管弦楽大演奏会」も成功させた。
「常設オーケストラの設立」という山田の夢を直接的にかなえる役割を果たした秀麿であったが、マネージャーの原善一郎が不明朗経理を糾弾された際、秀麿は原の味方にまわった。当時山田は体調を崩しており、秀麿と原が山田の代わりに会計に携わっていたが、その際に5,400円(当時)もの謎の使途不明金が出て、原がそれを山田に尋ねたところ逆に不明朗経理を糾弾され、さらに解任を言い渡された。
この問題に関しては、後に関東軍の情報担当にもなった策士の原が金銭を罠にして山田を釣ったという説があるが、山田が儲けの半分を独占し、残り半分を楽員全員で山分けすることに不満の楽員を秀麿と原が自派に引き入れて分裂に至らしめた、という説もあって本当のところは不明である。
秀麿支持派は44名に達し、この集団を以って「新交響楽団」と名乗り、秀麿が常任指揮者となり、放送が開始されたばかりのJOAKと契約することになった。その後、新響は日本交響楽団を経て、1951年にNHK交響楽団(N響)となった。

マーラーの交響曲第4番の世界初録音の様子(日本パーロフォンスタジオ、1930年3月)。指揮:近衛秀麿、演奏:新交響楽団。写真左に久邇宮朝融王および朝融王妃知子女王が着席している。
1927年2月20日に、新響は初めての定期演奏会を秀麿の指揮で開いた。以後約10年もの間近衞は新響とともに、日本に交響楽を根付かせる運動に奔走すこととなる。演奏会ではベートーヴェンやモーツァルトなどの古典派音楽に加え、マーラーや当時における現代音楽などをレパートリーとして演奏している。また、1930年にはマーラーの交響曲第4番を世界初録音している。
1930年秋からヨーロッパに単身演奏旅行に出かけた秀麿はフルトヴェングラーやブルーノ・ワルター、クライバーらが指揮するベルリン・フィルやライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などの演奏を聴き、日本と海外のレベルがあまり縮まっていないことを痛感したという。折りしも、国内でも「新響はさほどレベルアップしていない」という評価が多く占めたこともあり、帰国後、秀麿は大鉈を奮って人員刷新に取り組むことになった。
楽員サイドと「革新実行委員会」を作り、どの楽員をリストラすべきか検討したが難航した。そこで、手っ取り早く塵を払うべく、原の提案で、待遇改善をしつこく訴えたり原の行動に不満をぶちまけた楽員をリストラすることになり、結果17名(23名説もある)の楽員をリストラした。解雇された楽員は新響や原を一度は告訴するも、やがて音楽評論家堀内敬三が面倒をみることになり、堀内が愛用していたタイプライターの名前にちなんで「コロナ・オーケストラ」と名乗った。後年、「東京放送管弦楽団」と改称し、幾度のメンバー変遷などを経て現在もNHKで活動をしている。この一連のリストラ騒動を「コロナ事件」という。この一件の後、新響は新楽員を入れたが、その際秀麿の提案で4名の女性楽員を入れた。これが、学校付属のものなどを除けば、日本のオーケストラに女性が入った嚆矢である。
「コロナ事件」を経て、再び新響の活動も順調になったはずであったが、1935年7月13日、楽員一同が原の不明朗経理を糾弾し、同時に新響を法律上の組合組織に改組する旨宣言した。楽員サイドは宣言文にさりげなく秀麿の名前を入れたが、秀麿自身は寝耳に水の話であった。JOAKは秀麿と原の味方をし、評論家は二分、音楽ファンは楽員サイドを応援した。評論家は挙って音楽雑誌で論陣を張り、この問題を取り上げた。
秀麿は7月18日、新響を解消して新オーケストラを結成する宣言を出したものの、今回は楽員サイドがまったくついてこず、結局秀麿は新響を退団。原も追放された。一方で新響もJOAKとの契約を一時解消され、8月13日には日比谷公園野外音楽堂で無指揮者演奏会を開き、8月末には契約も復活したが、秀麿の退陣で常任指揮者が不在となり、定期演奏会に出演する指揮者が度々変わった。この状態は1936年秋のヨーゼフ・ローゼンシュトック着任まで続くこととなる。

フリーの立場となった秀麿は中央交響楽団を短期間指揮したのち、1936年に新響と一応の和解を果たす。一時的に上海交響楽団などで活動した後、同年、首相広田弘毅によって音楽使節に任命され、再び海外に向かう。この件はレオポルド・ストコフスキーから秀麿に客演の要請があり、その流れで実現した話である。まずアメリカに向かい、ストコフスキーのほかユージン・オーマンディやアルトゥーロ・トスカニーニと面会、1936年11月にはヨーロッパへ移りBBC交響楽団やドレスデン、リガの歌劇場などに客演する。
1937年に入るとアメリカを経て一時帰国。日本とアメリカの幾度かの往復の後ヨーロッパに移動した。1938年に一時帰国し改めて親善大使に任ぜられたのち、再びアメリカ・ヨーロッパに向かった。NBC交響楽団の指揮者陣に加わったが、アメリカの対日感情悪化で話が流れ、即座にヨーロッパに移動。ヨーロッパでは有名無名問わず各国でおびただしい数のオーケストラを指揮した。第二次世界大戦勃発後も親交のあったユダヤ人を匿うなどをしたためドイツでの活動が1943年以降制限されたものの、華やかな演奏活動を繰り広げた。

1956年
帰国した秀麿は、40代半ばにしてすでに日本の指揮者界の長老格となっていた。1946年からは、上田仁とともに東宝の肝いりで創設された東宝交響楽団(東響)の常任指揮者となる。東響では、上田が現代ものを、秀麿が古典派やロマン派の作品を指揮するよう役割が決められていた。
1948年より日本芸術院会員となった秀麿は、1949年、知り合いの楽員を集め、学校での音楽教室を主眼とする「エオリアン・クラブ」を結成した。1950年、東宝が東宝争議を経て東響を縁切りするにあたり、秀麿は東響を半ば追放同然のように去った。
エオリアン・クラブでの活動に本腰を置くようになった秀麿は、1952年、このクラブを発展させ、第一生命の後援を受け、近衞管弦楽団(近響)に改組する。アルバイト奏者として近響に短期間在籍したことのある岩城宏之によれば、秀麿邸はオーケストラがすっぽり入れるほど大きかったという。第一生命や、当時第一生命が主要株主であったラジオ東京の支援も大きく効いたが、第一生命が当局の指示により、のちに近響のスポンサーを降りた。
その後、秀麿は、当時日本フィルハーモニー交響楽団(日本フィル)の専属オーケストラ化を計画していた文化放送に対し、近響を日本フィルの中核にするよう申し入れるが、文化放送社長水野成夫の横槍もあり、結局秀麿だけが除け者にされる結果に終わった。 晩年には日本フィルとの関係も好転し、1969年から70年の音源と映像には現在でも接することが出来る。
次に秀麿は、近響の演奏会をCBC(中部日本放送)ともども支援してきたABC(朝日放送)に契約を持ちかけ、近響は1956年、ABC交響楽団(ABC響)に改組する。しかしながらABC響の活動は順調とは言えず、待遇面で不満を持ったヴォルフガング・シュタフォンハーゲンら主だった楽員が別のオーケストラ「インペリアル・フィルハーモニー」を結成したりもし、ABC響崩壊の危機の原因にもなった。
そういった中、1960年秋にはABC響のヨーロッパ演奏旅行が挙行され、秀麿も指揮者として渡欧することとなった。同時期には、かつて自分がトップに君臨していたN響も世界一周旅行を計画しており、秀麿はN響が若手メインで構成されていたことを危惧し「あれが日本のトップ団体と思われては困る」という趣旨の発言をするなど余裕すら見せていたが、ABC響の演奏旅行はプロモーターに逃げられたり、そのために資金が底をつき楽員の一部がローマで立ち往生し(大使館のあっせんでオリンピック選手村跡地の施設に宿泊)、年を越して帰国するなど、大成功のN響とは裏腹に無残な結果となった。演奏評そのものは高く、秀麿もヨーロッパの旧友と再会するなど良い事もそれなりにあったが、一連のゴタゴタ騒ぎはABC響の息の根を止めるには十分であった。
なおABC響の名義は受け継ぐ者があり、1960年代半ばまでバレエ公演などに使用されていた。
ABC響の消滅以後、秀麿は再びフリーの指揮者になり、読売日本交響楽団や大阪フィルハーモニー交響楽団、さらに京都大学交響楽団などプロ・アマ問わず多くのオーケストラを指揮した。1967年にはN響の第484回、第485回定期演奏会に出演。翌1968年にはN響とともに「明治100年記念式典」に出席した。この年の7月には民社党から参議院議員選挙に立候補(京都地方区)したが落選(次点)している。息子の秀健の証言によると「僕は断固反対したんですよ。だけど親父は、公認料が欲しかったんです」という。なお、この時期に読売日本交響楽団を指揮したベートーヴェン、シューベルト、スメタナ、ドヴォルザークなどの作品を録音しており、現在CD化されている。
また、これに先立つ1966年には音楽学校設立に関する手形詐欺事件に巻き込まれ、金融業者から手形をだまし取られた上に京都地裁に訴えられ、1966年9月30日、京都地裁で6000万円の損害賠償を命じられた上、1967年には大阪地検特捜部から1000万円の手形詐欺容疑で任意出頭を求められ、最終的に800万円の負債を清算するため東京赤坂の自宅を手放すことを余儀なくされるなど苦難の連続でもあった。1969年には創設されたばかりの日本フルトヴェングラー協会から会長就任を懇願され、引き受け講演も行っている。この講演は、協会盤CDとして聞くことができる。
晩年の演奏活動としては、1970年に初来日したオーボエ奏者ハインツ・ホリガーの伴奏(日本フィル)を行なっており、ミヨーのオーボエ協奏曲はこの時が日本初演であった。
1973年6月2日、前日から世田谷区野毛の新居で就寝中に脳内出血を起こし急死した。秀麿が電話に出たら突然ヤクザのような男から「ばかやろう」とどなりつけられ、そのショックで死んだとのうわさもささやかれた。
オーケストラの運営は、自腹でインフラ整備をしたにもかかわらず困難と失敗の連続であったが、亡くなる直前まで指揮活動や後進の指導にあたり、晩年の不遇な事項を別にすれば、「おやかた」の愛称にふさわしい活動を繰り広げた。
秀麿の没後に行なわれた追悼演奏会では、前年に分裂した「日本フィル」と「新日本フィル(新日本フィルハーモニー交響楽団)」双方の楽員が、立場を超えて共に演奏した最初の機会であり、これも秀麿の人徳あっての出来事として記憶されている。
秀麿のオーケストラ運営
新響・近響→ABC響
戦前期の新響にせよ戦後の近響(近衞管弦楽団)→ABC響にせよ、秀麿が精魂こめて作り上げたオーケストラはすべて秀麿の手元には残らなかった。
日本交響楽協会分裂・「コロナ事件」・「新響改組事件」には策士・原善一郎が常に絡んでいたし、近響→ABC響では待遇問題や経済的な理由が常につきまとっていた。もっとも、「コロナ事件」で大鉈を振るったことに関しては、理由に違いはあれどアルトゥール・ロジンスキがニューヨーク・フィルハーモニックで行った大リストラに類似性を見出すことは出来る(もっとも、ロジンスキのニューヨーク時代はこの大リストラの祟り?のせいか短かった)。
己の理想と現実とのギャップに悩まされたのがオーケストラ運営の障害になったのは明らかだが、それ以上に周囲の人間にあまり恵まれなかった面もある。原に関しては朝比奈隆を見出した実績もあるのだが、戦後期の日本フィルを巡るやりとりやABC響でのゴタゴタではあまりにも秀麿に人の運がなかったか、秀麿の人柄を見透かしたかのように秀麿の元から人が離れていった。
秀麿の人柄を「貴族的な冷たさを持っていたがゆえに人がついていかなかった」と指摘する人もいる一方、晩年期に詐欺事件に巻き込まれた例などをみるに「人が良すぎ、策士や少々如何わしいプロモーターなどに気軽に乗っかってしまい、結果的に大火傷を負う結果となった」と見る人もいる。このように、秀麿の日本でのオーケストラ運営に関しては様々な見方があるが、秀麿の内弟子であった福永陽一郎は秀麿のオーケストラ運営を次のように語っている。
「近衞秀麿は終生、オーケストラとの関係を不首尾に終わらせている。本来の指揮者としての力量を承認しないものは一人もいなかったが、その対オーケストラの思考の方向は、いつもオーケストラ自体の首肯し難いほうへ進んだ」「天皇家よりも由緒の明確な千年の貴族というものの悲喜劇を、首相だった長兄の文麿公ともども体現した人だったといえる」(福永陽一郎「演奏ひとすじの道」『CONDUCTOR』CONDUCTOR編集部/山崎「秀麿蕩尽録」所収)
1944年4月に「オルケストル・グラーフ・コノエ」をパリで組織している。秀麿の回想によれば、ヨーロッパ各国の仕事がなくなった楽員やユダヤ系の楽員などをかき集め、主にフランドルを巡演して回ったオーケストラであるが、同年6月のノルマンディー上陸作戦前後に巡演先で解散した。このオーケストラには後にソリストや教授として有名になる人物も在籍していたようだが、「ドイツ寄り」の過去が明らかになるのを恐れ、その事実を伏せているようである。『音楽家近衞秀麿の遺産』によれば、ピエール・ピエルロやジャック・ランスロが在籍していたとある。
(資料ウイキペディア)


 

サウジアラビア政府サルマーン国王来日

サウジアラビア政府サルマーン国王来日(2017/3/12)
中東調査会公開日:2016/04/26
 4月25日、サウジアラビア政府は、サルマーン国王主宰による閣議を開き、経済開発評議会(ムハンマド・サルマーン副皇太子が議長)が作成した2030年までの経済改革計画「ビジョン2030」を承認した。同日、ムハンマド・サルマーン副皇太子が同計画について記者会見で発表した他、『Al-Arabiya』放送においてインタビューに答え、石油依存型経済から脱却し、投資収益に基づく国家を建設していくことを強調した。発表された同計画における目標は以下の表のとおりである。また、これらの目標を達成するための手段として、国営石油会社サウジアラムコの5%未満の新規株式公開(IPO)、民営化による透明性の向上と汚職抑制、軍事産業の育成による国内調達の軍装備品支出の割合を50%まで拡大、外国人による長期的な労働・滞在を可能するグリーンカード制度の5年以内の導入などがあわせて発表された。
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サウジアラビアの経済改革案については、今年に入ってからムハンマド・サルマーン副皇太子が欧米メディアとのインタビューにおいていくつかの案を明らかにしており、今回の発表の新規性は乏しい。しかし、改革の最大の目玉となっているサウジアラムコの新規株式公開(IPO)については、企業の資産価値は試算で2兆ドル以上あるとされており、その規模の大きさゆえに世界的な注目を集めていた。『Al-Arabiya』とのインタビューにおいて、同副皇太子は、例えアラムコの1%のIPOであったとしても史上最大のIPOになると豪語し、これを昨年6月に外国人投資家へも開放したサウジの株式市場で公開することで(詳細は「サウジアラビア:株式市場の外国人投資家への開放」『中東かわら版』No.40(2015年6月16日)を参照)、市場規模を倍化させ、更なる資金流入が起きることを狙っていると述べた。
 「ビジョン2030」では、「活気ある社会」、「盛況な経済」、「野心的な国家」という3つの柱が立てられ、それぞれにおいて達成目標が具体的な数値で示された。全体に貫かれている方針は、石油依存型経済から脱却し、投資や観光、製造業、物流など経済の多角化を目指すことであり、民間企業(特に中小企業)の役割を拡大させることで新たな雇用を創出し、国民の生活水準を向上させることにある。これらの目標は、長らくサウジ国内でも議論されていた課題であったが、その改革は遅々として進まなかった。今回、具体的な数値目標とともに2030年という時間的な達成期限が設けられたことは、改革に向けたサウジ政府の本気度として捉えることが出来よう。
 他方、こうした目標が達成されなければ、それは政府への批判に結びつくことになり、改革の旗振り役となっているムハンマド・サルマーン副皇太子への打撃にもなる。特に、観光部門の拡大や女性の権利拡大を巡っては、国内の保守派と対立することが予想される。同副皇太子は禁止されている女性の車の運転を認める方針であると報じられているが、4月10日、サウジの大ムフティーであるアブドゥルアジーズ・アール=シャイフは、女性の車の運転について女性を危険に晒すものとして明確に反対する立場を表明した。4月22日付の『Bloomberg』でのインタビューにおいて、同副皇太子は、本件について宗教機構との間に問題は発生していないと述べているが、両者の立場が異なることは明らかである。こうした反対勢力をいかに懐柔し、改革を現実のものにしていくかが、今後サウジ政府に問われることになるだろう。
(村上研究員)

築地の基準価超え「ヒ素」

築地市場の敷地内から基準超ヒ素…13年調査
2017年3月7日 15時4分読売新聞
 東京・築地市場(中央区)の敷地の南端から、環境基準の2・4倍となるヒ素などの有害物質が検出されていたことが、読売新聞の情報公開請求に対する都の開示資料でわかった。

 同市場敷地内の土壌調査結果が判明するのは初めて。

 土壌調査は、市場跡地を通る環状2号線の整備に向け、2013年5~6月に行われたが、結果は公表されていなかった。

 ヒ素は環境基準(1リットル当たり0・01ミリ・グラム)の2・4倍にあたる0・024ミリ・グラム、フッ化物は環境基準(1リットル当たり0・8ミリ・グラム)の1・6倍に当たる1・3ミリ・グラムが検出された。
(記事引用)

小池知事に踊らされる都議会 百条委設置も中身ナシの不安
 2017年2月23日 日刊ゲンダイ 
 百条委の委員長がこの調子で、審議は成り立つのか。そもそも、桜井都議は豊洲問題に「精通」しているわけじゃないし、本気で調査する姿勢を見せているのは共産党ぐらいだ。

「百条委設置が選挙向けの“ポーズ”だとすれば、中身のないものになる可能性があります。与野党問わず、どの会派も本気で調査するべきです」(都政に詳しいジャーナリストの鈴木哲夫氏)

 小池知事は百条委設置について「審議を見守る」と高みの見物を決め込んでいる。都議は皆、小池知事の手のひらの上で踊らされているようで、せっかく設置が決まった百条委が意味ナシ――に終わらないか心配だ。

追及の場を用意しただけで満足されては困る。都議会が22日の本会議で、豊洲市場問題を調査する「百条委員会」の設置を全会一致で可決した。百条委では出席する証人はウソをつけば偽証罪に問われる。これで石原慎太郎元都知事も万事休すかと思ったら、そうではない。

 本会議で百条委の設置が決まると、都議は「よしっ!」と声を上げ、威勢よく起立。設置に賛意を示していた。ところが、慎太郎氏を含めて、いつ、誰に何を追及するのか――といった中身については全くの“白紙”状態なのだ。

■慎太郎氏の呼び出しも未定

 百条委の委員長に就いた桜井浩之・自民党都議は、本会議終了後、今後の方針について「何も決まってない」と苦笑いし、報道陣から、慎太郎氏について問われると「誰を呼ぶかについてもこれから」とボソボソしていた。それもそのはずで、当選2期の桜井都議のホームページを見ると、桜井氏本人と慎太郎氏がガッチリ握手を交わしている写真が今も掲載されている。

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「小池百合子新知事の五輪選手村」跡地開発に壁高し
住居5650戸 建設費2倍/需給インパクト懸念
オリパラSelect 2016/8/2 日経産業新聞
 元防衛相の小池百合子氏(64)が東京都知事に選ばれた。3代連続で東京都知事が任期途中で辞職する異例の事態を経ての登板だ。最大の案件は2020年の東京五輪・パラリンピック。小池氏と対立関係にある有力都議の裏には不動産業界が控える。その不動産業界と共同で小池氏が越えなければならないのが選手村跡地開発問題だ。

 1万7000ベッドを用意して欲しい――。東京都都市整備局が提示した選手村の建設要件だ。日本は五輪開催に合わせ、約200カ国から集まってくる選手やコーチなどのために選手村を用意する必要がある。そのマネジメントを担うのは東京都だ。

 都は三井不動産など民間主導で選手村を立ち上げる計画だが問題は跡地開発だ。構想では選手村を建設した民間デベロッパーに再開発させ、新築マンションとして分譲(一部は賃貸)することを認める方針で「かなりの人気物件になる可能性が高い」(みずほ証券の石沢卓志・上級研究員)。

■東京・晴海の超一等地にドーム3個分

 確かに選手村の建設予定地は中央区晴海と超一等地。広さにして13万3900平方メートル。東京ドーム約3個分の広大な敷地を東京都が整備、129億6千万円でデベロッパーに譲り渡す。近隣の地価を考えれば、通常の「取引なら1平方メートルあたり60万円以上」(同)の土地を6分の1以下で売却するわけだから破格の安値だ。

 こうなれば「どんなデベロッパーでも手を出したくなる」と考えるのは早計だ。なぜか。

 理由は建設費だ。都が提示した1万7000ベッドを収容するには、21棟、住宅の戸数にして約4000戸強を建設する必要がある。その建設費はデベロッパーが負担しなければならない。

 選手村は五輪開催の半年前までに完成させて都に引き渡し、五輪後に戻してもらう約束。これをそのまま新築として分譲するのは難しい。アスリートたちの宿泊施設として1カ月程度、使っただけでも中古物件になる。「最低でも新築物件の7~8割の価格にまで値崩れする」(マンション調査会社のトータルブレインの久光龍彦社長)

 しかも、パラリンピックでも使用するため「4台の車いすが入る大型エレベーターを設置する計画」(清水建設の宮本洋一会長)。日常生活で使うには管理が大変でコストがかかり過ぎる。スケルトン(構造)を残し建て替えざるを得ない。

 東京都は余った敷地に2棟の超高層ビルを建設することを認めている。これにより選手村の4000戸強のほかに1500戸強のマンションを確保できる。約5650戸(推計69万平方メートル)を分譲することが可能になる。ただ、少なくても選手村として使用する4000戸強の部分については建て替え分を含め約2倍の建築費が必要になる。

 都の計画では1000戸程度は賃貸に回すことになっているが、仮にすべて分譲したとしてもデベロッパーの採算は怪しい。大手総合建設会社(ゼネコン)によると、高層マンションの建設費は現在、1坪(3.3平方メートル)あたり100万円。4000戸分に2倍の建築費がかかるとすると3570億円だ。

 マンション1戸あたり7000万円ですべて分譲できたとしても、売上高は3955億円にしかならず、土地代や販売費・一般管理費、支払利息を加味すると利益はほとんど出ない。

 もちろんこれは机上の計算。マンション市況が今よりも回復すれば分譲価格を引き上げることもできる。現段階で赤字プロジェクトと断定することはできない。

 ただ、五輪開催に向けて建設が活発になることが予想される。「建築費はさらに上昇する」(前田建設工業の岐部一誠常務執行役員)との見方が支配的だ。採算悪化がはっきりした段階で、デベロッパーがプロジェクトから降りるか、都が赤字を補填するのか、こじれる可能性もある。

■水素ステーション建設・維持コストも足かせに

 問題はこれにとどまらない。都は舛添要一前知事時代に選手村跡地を水素を燃料の中心に置くモデルタウンにすることを約束している。選手村跡地のすぐそばに水素ステーションを建設し、そこから得られる熱や電気を5650戸のマンションで有効活用する方法も検討せざるを得ない。

 住民の「足」にも水素を使う。晴海にある選手村は最寄りの地下鉄の駅まで徒歩15分程度。都は利便性の悪さを補うため京成バス(千葉県市川市)などと新会社を設立、燃料電池車(FCV)のバスを運行する。都心と臨海部を結ぶバス高速輸送システム(BRT)も整備する予定。水素ステーションの整備やパイプラインの敷設などにもお金がかかり費用負担をどうするかなどの問題も今後、浮上してくる。

 さらに決定的なのは、選手村跡地に建設する5650戸がマンションの需給を大きく緩和させてしまうことだ。東京都のプロジェクトが「民業」を大きく圧迫してしまう懸念がある。

 不動産経済研究所(東京・新宿)によれば、15年に供給されたマンション戸数は東京23区で約1万9000戸。その約30%に相当するマンションが東京・晴海の選手村跡地から放出される。

 顧客の中心部志向は高まる一方で郊外のマンションは振るわない。銀座からタクシーで15分の場所でマンションが出てくるなら需要は落ち込む。五輪開催前に選手村の跡地利用にどう道筋を付けるか。東京都がさじ加減を間違えると、デベロッパーは壊滅的な打撃を受けかねない。(前野雅弥、山根昭)[日経産業新聞2016年8月2日付]
(記事引用) 






映画 音楽家・坂本龍一

坂本龍一が「全てをさらけ出した」 ドキュメンタリー映画、11月に公開決定ローリングストーン日本版 2017年02月27日 13:30
音楽家・坂本龍一を追った、映画『RYUICHI SAKAMOTO DOCUMENTARY PROJECT(仮題)』が、今年11月に公開される。
震災・中咽頭ガン・アカデミー賞作品の映画音楽制作など、2012年から5年間に渡る本人への密着取材により制作された長編ドキュメンタリー。

世界で活躍する音楽家、坂本龍一を追ったドキュメンタリー映画『RYUICHI SAKAMOTO DOCUMENTARY PROJECT(仮題)』が今年11月に公開される。本作は、2012年から5年に渡る本人への密着取材と、幼少からの膨大なアーカイブ素材により構成されている。

3.11以後、宮城県名取市で被災ピアノと出会ったという坂本。自然の猛威によって水に溺れたピアノの音を聞き「痛々しくてその鍵盤に触れるのも辛かった」と語る坂本は、今はその壊れたピアノの音色がとても心地良く感じると語っている。時と共にその被災ピアノの「自然の調律」の音は、サンプリングを通じて坂本の作曲プロセスの一部になり、新たな表現へと生まれ変わっていく。そして過去の坂本龍一の音への探求の描写が、積み重なるコラージュのように、現在の坂本の作曲プロセスと見事に交差していく。

どこか脆い幻想のようなバブルの時代。坂本はYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の一員として、日本のエレクトロニクスやテクノロジーを象徴するポップアイコンとなり、「戦場のメリークリスマス」、「ラストエンペラー」に出演、その映画音楽をも手がけ、「戦場〜」では英アカデミー賞、「ラスト〜」では米アカデミー賞をそれぞれ受賞。2001年9月11日、ニューヨークの自宅近くで起きた米同時多発テロによる圧倒的な暴力、それが生み出す世界の不均衡と非対称を感じつつ、人間の暴力性の生物学的なルーツを追い求め、音楽の原点をも探したという。

2014年7月には中咽頭ガン罹患を公表。1年近くに及ぶ闘病生活を経て、山田洋次監督作『母と暮せば』、第88回アカデミー賞で3部門の受賞に輝いたアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督作『レヴェナント:蘇えりし者』の音楽を同時期に手がけ復帰した。2017年3月には、8年ぶりとなるオリジナル・アルバム(タイトル未定)がリリースされる。カメラは、楽曲制作の現場に密着し、そのアルバム制作の様子の一部始終を捉えており、坂本龍一の最終楽章の始まりがスクリーン上で奏でられる。
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坂本龍一は、本作に関して「2012年にNO NUKES 2012を撮影できないか?とスティーブン・ノムラ・シブルという映画制作者から連絡が入った。それ以来、官邸前のデモや、東北ユースオーケストラとのコンサート、そしてガンがわかって映画制作のスケジュールに大きな変更が余儀なくされても、僕の側にはいつもカメラがあった。スティーブンは僕に何を見たんだろう?プライベートスタジオも、自宅のピアノ室も、全てさらけ出した。こんな映画に坂本の私生活を覗くという以上の意味はあるんだろうか?果たして映画として「見れる」作品となっているんだろうか?-いま、僕は完成が待ち遠しい。」と、コメントを寄せている。

本作の監督を務めるのは、『ロスト・イン・トランスレーション』の共同プロデューサーを務め、エリック・クラプトンのドキュメンタリーなど、世界的に活躍するスティーブン・ノムラ・シブル。「震災後、坂本龍一さんの音楽表現がどのように変わるのか、新たにどのような曲を書かれるのか、もしそこまで密着可能であれば、何かカタルシスが生じるのではないかとの思いが、この映画を作り始めるきっかけでした。ご病気の事もあり、本格的な作曲プロセスの記録を始めたのは撮影開始から4年後の事、長い撮影期間となりましたが、映画を通じて、映像と共に音楽や音の魅力を表現できればと、今も願っております。是非皆さまに劇場で音楽的カタルシスを体験して頂きたく思います。」と語っている。

震災から3年を経た2014年3月11日には、自ら防護服を着用し福島第一原発を囲む特別警戒区を訪れ、無人の地と化した集落の残像の音に触れたという坂本。テクノロジーに頼る現代人の営みが、自然環境を蝕み、人間の生き場所をも奪ってしまうことへの悲しみが、彼自身の作曲プロセスの根底あるのだという。大病を経て、過去の旅路を振り返りながら、新たな楽曲が誕生するまでを追った本作。坂本龍一という音楽家の生き様がここにある。

『RYUICHI SAKAMOTO DOCUMENTARY PROJECT(仮題)』
監督/プロデューサー:スティーブン・ノムラ・シブル
出演:坂本龍一
配給:KADOKAWA
公開:2017年11月、角川シネマ有楽町ほか全国公開

Text by Kanako Mori(RSJ)

(記事引用)




 

春樹のライバル「ディラン」

ノーベル賞作家が語る、村上春樹落選の背景 ディラン授賞をめぐるクッツェー氏の洞察 - 藤原章生
WEDGE Infinity  2016年10月23日 08:47
 先日、東京・上野の居酒屋で酎ハイを飲んでいたら、「今年のノーベル文学賞にボブ・ディラン氏」とのニュースが入った。
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 私は、実に狭い範囲の個人的な事情から少しホッとした。というのも、その前の週、新聞の長文記事で、作家の村上春樹が受賞する可能性は低いと書いていたからだ。それは村上作品の評価というより、審査に当たるスウェーデンアカデミーのローカル性や高齢がたたり、「まだ難しい段階」という現地の声を紹介したものだった。

 ボブ・ディランと聞いた瞬間、あ、なるほど、とは思ったが特別な感慨はなかった。外国語で私が最も聞き込んできた歌手だが、その彼が文学賞を受賞したことに「ふーん」という反応しか出てこなかった。「やったー」などとはもちろん思わない。せいぜい、「へえ」というつぶやきで、私は何事もなかったかのように別の話題に戻っていった。

 でも、考えてみれば、そういう態度がボブ・ディラン的というのか、私も彼の歌やそこからかもし出される、ややひねくれた物の見方、態度に大なり小なり、影響を受けてきたのかも知れない、と後になって感じた。

 そもそも、ノーベル賞をはじめ何かを権威づけること、づけられることに背を向けるという姿勢(それでもしっかりもらうのだが)が、ディラン的世界の持ち味なのだ。

 案の定、ディランは授賞決定のニュースが出てからこの方、「感激です。光栄です」とも「ありがとうございます」ともコメントを出しておらず、「ふん」といった態度を貫いている。


J・M・クッツェー。『恥辱』(ハヤカワepi文庫)、『マイケル・K』(岩波文庫)でブッカー賞を受賞

 ディランについては次回のこの欄で書くとして、本題はノーベル賞作家のJ・M・クッツェー氏だ。

 もしかしたらディラン氏の受賞を彼は予測していたのではないか、ということだ。というのも、授賞決定の10日ほど前、クッツェー氏とメールでやりとりした際、今から思えばそれを匂わせるようなことを語っていたからだ。

 南アフリカ出身のクッツェー氏とは私がヨハネスブルクに滞在していた1995年から2001年にかけ何度かお目にかかっている。当時ケープタウン大学に勤めていた氏のファンだった私は、毎日新聞に月1度の割合でコラムを書いてほしいと頼みに行ったのが縁だ。彼が文学賞を取ったのは、私がアフリカを去った後のことだが、以後も決して偉ぶらず、こちらがメールを送ると、頭の良い人特有の、わずかな言葉で実に的確に応えてくれる。

 今回のやりとりはこうだった。

 ――過去のノーベル賞受賞作家に比べると、村上春樹氏の作品は「軽い」と語るスウェーデンの批評家がいます。こうした見方についてどう思われますか。

 クッツェー氏は一通りプライベートなあいさつを書いた後、こう続けた。

 「恥ずかしながら、村上春樹についての質問には答えることができません。なぜなら、彼を読んでいないからです」

 ニューヨーク・タイムズのブックレビューに書評を書いている彼が読んでいない。そして、彼を含む歴代の受賞者には候補を推薦する権利があることを思うと、残念な答えであった。そこで、私はもう少し一般的な質問をした。

 (1)スウェーデンアカデミーが選考する際の彼らの趣味についてうかがいたい。

 以前、私が南アフリカに暮らしていた頃、ノーベル賞作家のナディン・ゴーディマ氏が当時読んでいたサルマン・ラシュディとジョゼ・サラマゴ(ノーベル文学賞受賞者)がいいと薦めてくれました。その時彼女は私に「今、どんな小説を読んでるの?」と聞いてきたので、実際そのとき読んでいたジョン・アーヴィングの名を挙げました。すると、彼女は「アーヴィング? 彼があなたのお気に入りなの?」と半ばあきれるような、軽蔑するような口ぶりでした。この時の彼女の表情こそまさに「アカデミーの趣味」を象徴していると私は思ったのですが、いわゆるエンターテイメントの匂いやイメージのある作品をスウェーデンアカデミーは評価しないのでしょうか。

 (2)ノーベル賞のローカル性について。

 あなたが03年にノーベル賞を受賞した直後、私の勤める新聞に書いてくれた受賞報告のエッセーで、あなたは賞の創設者ノーベルの国際主義という理想とスウェーデンの知識人らによる評価、管理というローカル性の矛盾に触れていました。

 ノーベル文学賞は国際的というより、国内的な賞だと、まだお考えになっていますか。

 こんな長い質問を送ったのは、彼が新聞のためにエッセーを書いていたころ、私は最初の読者として常にこんなやりとりをしていたからだ。拙いながらも、こちらの意見を率直に言えば、必ずまじめに答えてくれる人だったからだ。

 すると、本の催しでイタリアに出張していた氏から、1日置いてこんな返事があった。

 「(1)ノーベル文学賞はその歴史を見ると、作家たちが現代よりも重んじられていた時代に創設されたものです。トルストイを見ると、彼は1910年に亡くなった時、世界でまあ最も有名な人物と言われていました。作家はその時代の思想(thought)に大きな衝撃(impact)を与えうると、アルフレッド・ノーベルは信じていました。スウェーデンアカデミーは今も、この精神にのっとって賞を与えると私は思っています。

 (2)ノーベル賞の創設間もない頃、文学賞は不釣り合いなほど、スカンジナビア半島の作家にばかり与えられる傾向がありました。でも今は、賞の性質として特段どこかの国をひいきするようなことはなく、正当に国際的な賞だと見なされ得ると私は考えています」

 二つ目の答えは、私の質問に問題があったのかもしれないが、返答から感じたのは、彼が受賞直後のように「科学、文学の分野で特段目立った人物を出していない北欧の人々による選考」という、当時のような皮肉めいた気持ちをすでに抱いていないということであった。少なくとも表面的には。

 なぜ皮肉が消えたのかについては別の機会に考えるとして、わかりやすく、また面白いのは第一の答の方だ。そこにはキーワードが二つある。

 「世界でまあ最も有名」と「時代の思想への大きな衝撃」だ。

読んでいないクッツェー氏には村上作品が「大きな衝撃」をもたらしたかどうかを判断する術はないが、彼は村上氏についてというより一般論を語ったにすぎない。

 それでも、短い一般論にさまざまな含み、裏の意味、時に皮肉が込められているのがクッツェー氏の文章である。それを前提に考えれば、私には次のようなニュアンスが込められているように思えた。

 トルストイを例に20世紀初頭の賞の理念を語っているが、裏を返せば現代はそうでもないということ。

 かつての作家たちは人々の間で今よりもはるかに重んじられ、大事にされ、世界中の人がその名を知るほど有名で、彼の作品が時代に大きな影響を与えた。だが、今、そんな作家がどこいるのだろうか、と。

 さらに深読みすれば、メディアの発達のお陰で、人々は小説や詩などいわゆる文学だけでなく、他のジャンルからも大いなる影響を受け得る時代になった、とも語っている。

 そう考えると、ボブ・ディランへの授賞は、この時のクッツェー氏の読み通りの結果と言えなくもない。

 世界の誰もが知るほどの「まあ有名人」で、時代の思想に大きな影響を与えた人物という条件に、ディラン以上に合致する人が、いま候補に挙がっている世界中の作家たちの中に果たしているだろうか。いや、いない。それ以前に、いわゆる出版という形で売られる小説や詩が、上に挙げた条件を満たし得るだろうか。

 さりげない表現の中に、人間の近未来のあり方をはじめ深い洞察が込められているのがクッツェー氏の魅力だが、氏はなんとなくディランへの授賞を、ディランに限らず、文学というジャンル以外で活躍する人への授賞を、読んでいたのではないだろうか。

 もちろん、そんなことを問い掛けても、「いや、私は内部の人間ではないので、授賞の詳細を知り得る機会はありません」などと答えるだろうが、いずれにしても、私は彼の洞察、表現力にまたも感服せざるを得なかった。

 当のディランの魅力については、次回、書かせていただければと思う。
(一部敬称略)

(記事引用) 







 

記録のカメラ暗号化

映像作家たちは求めている、ニコンやキヤノンが「暗号化カメラ」を実現することを
2017.02.24 FRI 18:00 wired.jp/ 

PHOTO: GETTYIMAGES
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報道写真家やドキュメンタリー監督が撮影した、極秘動画や証拠写真。これらはカメラを奪われれば為すすべもなく消され、撮影者も危険にさらされる。これを懸念したNPOが、映像作家や写真家150人の署名と共に、カメラに暗号化機能を搭載するよう要請する書簡をメーカー各社に送った。

TEXT BY ANDY GREENBERG

2013年の夏、ドキュメンタリー映画監督ローラ・ポイトラスは、香港にあるホテルの一室で撮影をしていた。カメラのファインダーの向こう側にいたのは、当時まだ正体が明かされていなかったNSAの告発者、エドワード・スノーデンだった。

関連記事:E・スノーデン、ある理想主義者の幻滅、スノーデンの「裏切り」にあった米スパイの長

彼女はセキュリティに注意を払っていた。撮影した映像は暗号化したハードディスクドライヴに定期的に移し、撮影後はカメラに入っていたSDカードを壊すほどの徹底ぶりだった。しかし、レンズ越しにスノーデンを見ていると、彼女は秘密警察官がカメラを奪いにドアを突き破ってくるかもしれないという恐怖におそわれた。カメラの中のメモリーカードは、危険なことに暗号化されておらず、まだ世界が知らない告発者の未編集映像でいっぱいだったのだ。

「現場で撮影をしている段階では、当局にカメラを取り上げられてしまえば、映像は丸腰状態になってしまいます」と、ポイトラスは言う。「だから、どうしても暗号化が必要なのです」(撮影された極秘映像は、第87回アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞した映画『シチズンフォー スノーデンの暴露』のワンシーンとなった)。

ポイトラスが世界最重要指名手配者のひとりを撮影していたときに抱えていた危険は、現代機器のセキュリティにおける盲点でもある。ほとんどのスマートフォンは、はじめから内部ストレージが暗号化された状態で売られているし、パソコンのファイル暗号化ソフトは無料かつ信頼できるものだ。しかしカメラは、たとえそれが報道写真家やドキュメンタリー監督が機密を要する写真や映像を撮るために使うものであっても、内容を暗号化し保存する機能がついていないのだ。

ポイトラスと150人のドキュメンタリー製作者たちは、NPO「Freedom of the Press Foundation」の公開書簡に署名し、カメラメーカーであるキヤノン、ニコン、オリンパス、ソニー、富士フイルム、コダックそしてリコーに送った。ポイトラスとスノーデンの両者が理事会に名を連ねるこのNPOは、市場に出回るカメラには一切搭載されていないといってもいい暗号化機能をカメラに追加するように訴えた。泥棒、警察、国境警察官などいかなる人物も、作者の手から機器を奪い取り、映像を見ることができなくなるようにだ(筆者の妻である映画監督、マリカ・ゾウハリ=ウォロールも署名している)。

「わたしたちは世界の最も危険な場所で仕事をし、正義の名のもとに悪事を暴こうとしています。映像作家や報道写真家は、独裁政権や犯罪者によって映像や写真を押収されることが多いのです」と、4人のアカデミー賞受賞者と14人の候補者が署名した書簡には書かれている。「カメラの中身は暗号化されていないし、暗号化することもできないので、一度カメラを奪われてしまえば映像を守る術がありません。これはわたしたち自身とわたしたちが集めた情報、そして仕事を危機にさらすことを意味するのです」

スノーデン、iPhone付属キットをデザインする(1)

時に暗号化は命をも救う

署名に参加した映像作家たちは、暗号化が必要だと感じるような脅しや警察権力からの圧力を、その身をもって体験している。

ポイトラスはスノーデンを撮影する前からすでに、何度も入国審査で拘束されたことがあるし、イラク戦争中に映像制作をしたためにブラックリストに載り、カメラとパソコンを取り上げられたこともある。

また、映像作家のアンドリュー・べレンズは、2008年に携帯電話のSIMカードを飲み込むことで、ニジェール・デルタ紛争記録の協力者をナイジェリア警察に特定されるのを防いだ。

2012年、バッシャール・アル=アサドの独裁政権に3週間拘束されたシリアの映画監督オルワ・ニーラビーアは、暗号化されたハードディスクドライヴが自分の「命を救った」と話した。同時期に、別のフィルムメイカーが暗号化されていないノートパソコンをシリア警察に押収されたときは、11人が国を追われたという。「紛争地域にいるときには、暗号化という長い作業を行う労力も集中力もないのです」

報道写真家の立場は映像作家以上に弱い。ジャーナリスト保護委員会の活動ディレクター、コートニー・ラッシュによると、報道写真家がカメラやその他のデヴァイスを押収される例はあまりにも多く、「実際にこれらの事件の数を把握することはできない」という。

WhatsAppやアップルといったテック企業でさえも、米国の警察を戸惑わせるのに十分なデフォルト暗号化を行ってきたが、カメラメーカーは、おそらく技術面かコスト面、もしくはその両方の問題があるためにまだ暗号化を行っていない。キヤノン製品用のアドオン「Magic Lantern」のようなサードパーティーソフトをつくっているメーカーは、アフターマーケットの暗号化機能をカメラに付ける試みを行っている。しかし、コードは未試験に近い状態であり、平均的なユーザーが理解できる範囲を超えるほど複雑な、カメラのファームウェアの変換プロセスが必要となる。

つまり、カメラメーカーは初めから製品に暗号化機能を搭載する必要があるということだ、とFreedom of the Press Foundationの専務理事であるトレヴァー・ティムは言う。「あらゆるテック企業が情報保護の方向に向かっているのであれば、カメラメーカーもそれに続くべきです」と彼は言う。

消費者を守る責任

『WIRED』US版は、すべてのカメラメーカーに対して書簡についての問い合わせをしたが、ほとんどの会社から返事がきていない。

ニコンは声明で「進化する市場のニーズに常に耳を傾けており、写真家からのフィードバックを大切にしています。ユーザーのニーズに最も合う製品機能を求めて努力し続けます」と述べた。また、オリンパスの広報担当者は「わが社はこの問題をさらに詳しく調査し、十分な情報を得た上で決定します」と述べた。コダックの広報担当者によると、同社はフィルムの販売に焦点を置いており、「コダック」というブランド名で販売されているヴィデオカメラは、一般消費者向けのものであって「映画撮影や制作向けにつくられたものではありません」とのことだ。

Freedom of the Press Foundationは、メーカーに宛てた書簡のなかで、どのような暗号機能を搭載してほしいかは具体的に述べていない。しかし、ティムが『WIRED』に提案したのは、撮影した動画や写真をそのまま簡単に暗号化できるオプトイン機能だ。暗号化されたファイルは、それを取り込んだカメラやパソコンにユーザーがパスワードを入れたときのみ解読できるようになっているべきだという。

この機能の実現は簡単ではないだろうと、暗号と電子情報の科学捜査官であり、セミプロの写真家であるジョナサン・ジジアルスキーは言う。大容量のファイルをSDカードに高速で書きこむ高解像度のカメラでは特にだ。

カメラの速度を落とさずに暗号機能を組み込むためには、新しいソフトウェアだけでなく、ファイルを最大効率で暗号化できる新しいマイクロプロセッサーや、カメラメーカーにはおそらくまだいないであろうセキュリティーエンジニアが必要になる。ジジアルスキーいわく、このプロセスは「実現可能」ではあるものの、金がかかる可能性があると言う。「ニコンやキヤノンがコンピューター会社のようにこの問題に取り掛かるとは期待できません。これは一大事業なのです。そして最初の疑問は、どうやってそのコストを払うのか? ということになるでしょう」

一方で、Freedom of the Press Foundationのティムは、暗号化機能付きのカメラを最初に販売する会社は「競争上の大きな優位性」をもつだろう、と述べる。ポイトラスもそれに同意する。「もし同じ品質のカメラで暗号化機能がついたものが存在するなら、迷わずそっちを買うわ」

カメラメーカーは、ほかのテック企業と同じく、利益を超えて消費者を守る責任があるとティムは言う。とりわけ、危険な政権や強力な政府の下でデヴァイスを使っている人たちをだ。

「これは簡単に解決する問題ではありません。それでも、解決することは可能だと思います」と、ティムは言う。「これらのカメラメーカーは、年間何十億ドルもの利益を上げているのです。腐敗を白日の下に晒そうと努力している人々や、世界をもっとよい場所にしようとしている、もっとも大切な消費者を守る余力が、彼らにはあるはずです」

(記事引用)





 
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