「ベラルーシ」アレクサンドル・ルカシェンコ大統領の独裁

ノーベル文学賞にボブ・ディラン氏 2016年10月13日 NHK NEWSWEB
ことしのノーベル文学賞に、アメリカのシンガーソングライターのボブ・ディラン氏が選ばれました。スウェーデンのストックホルムにある選考委員会は、日本時間の13日午後8時すぎ、ことしのノーベル文学賞の受賞者にアメリカの歌の伝統に新たな詩的表現を生み出したとして、アメリカのシンガーソングライター、ボブ・ディラン氏を選んだと発表しました。 引用〆

いまもっとも新しいニュースと、この「ベラルーシ」の今は、 まったく別世界で展開している現事実だが、ほとんどリンクすることがない。

アメリカのシンガーソングライターの「ボブ・ディラン」については、私が10代のころより聴いていた音楽であり、当時「反戦歌」の代名詞として、最右翼的存在でありカリスマ性があった。


この時代の音楽の世界では「ビートルズ」旋風が世界を席巻していた時代であり、その強大な流行の影に埋もれてしまった感はあるが、それでも知る人ぞ知るの存在だった。
この年代にもし「ビートルズ」がいなかったら、「ボブ・ディラン」のノーベル賞受賞は、20年早まっていた、と思うくらいディランの足跡は確かなものがあった。

とかく「音楽」の世界では、ビートルズに代表されるように、まず売れるというセールスが一つの判定基準になり、どんなにいい歌でも、売れなければ価値がない、という一つの妄信的な価値観があった。

「ボブ・ディラン」も当然、そのカテゴリー内に入るわけだが、デビュー当時(1962年)より、世間また社会に対して「受けセールス」をただの一度も見せたことがない。俗説的にいえば媚びてない、ということだ。

この世界中「金オンリー」の中で世間に媚びずに、ひたすら自分の歌を60年間歌い続けるというのは、2000年来の西洋歴史の中でも、数人しかいないと思われるほど希少であり、また、その存在に気付かなかった世界を構成している社会人口バイアスも、視点の節穴が巨大であり、戦争にあけくれ金に翻弄され、政治という権威にしがみつき、妄想に生きている人々に贈った、それは強烈なメッセージである。

その「ボブ・ディラン」に対しての評価と判定基準を記述した。

スウェーデン・アカデミーのダニウス事務局長はボブディランのノーベル文学賞について次のように説明している。
「選考は予想外に思えるかもしれないが、過去にもホメーロス(紀元前8世紀の古代ギリシャ詩人)やサッポー(紀元前7世紀末の古代ギリシャの詩人)がなど音楽や演劇のなかに詩的テキストを書いていた偉大な人々がいた。これはボブディラン氏の場合も同じで我々は今日に至るまでホメーロスやサッポーを読みそこからわたし達は影響を受けている。
我々はボブディランを読めるし、読まないといけないと思う。」と語っている。そして「偉大なアメリカの歌の伝統の中で新たな詩的表現を創造してきた」事が今回ボブディランをノーベル文学賞に選んだ理由である。

201
5年に受賞したのはベラルーシの女性作家、スヴェトラーナ・アレクサンドロヴナ・アレクシエーヴィッチさん(1948~)。父はベラルーシ人、母はウクライナ人。独裁政権の圧力や言論統制を避けるため、2000年にベラルーシを脱出し、西ヨーロッパを転々とした。受賞理由は「我々の時代における苦難と勇気の記念碑と言える多声的な叙述に対して」。
作品『チェルノブイリの祈り』はベラルーシでは出版できなかった。

その対極に人間有史以来の独裁政治(君主政治)という人間の「性」がある。その象徴的存在としてドイツ、ヒットラーがいるが、このベラルーシ国の「ルカシェンコ」もまた、時代の申し子であり民主社会の憎まれっ子である。

その直接現場を「テレビカメラ」で追ったドキュメントが 「ベラルーシ自由劇場の闘い」だった。

番組内容は一口にいってしまえば、「反対勢力闘争」になってしまうが、世界的政治の傾向として「大国アメリカ」価値基準となっているいま、かつていわれた「独裁政治」は根絶されたかに見えたが、現実世界は、そう簡単にかわるものではなかった。
ただし、「ベラルーシ」は残された唯一の独裁国という形容表現で語っていたことは、東欧圏においてほかには存在しない、という観点にたつ。 

我々平和国家(とくに日本では)に暮す人間にとって、その彼らの生活をテレビを見ながら想像することはたやすいことだが、それが実際身に起きたらどうだろうか。

国内政治に対するうっぷんはいくらでもあって、今回の豊洲問題に限ったことではなく「金権政治腐敗政治」と揶揄するものの、合法政治の野党であっても、馴れ合い構造の政治体系で、真の意味で民主とは何か、と考えると、まったく答えが探し出せない。

翻って、そのベラルーシ国情を酌量してみれば、われわれの思想的呪縛から較べたら、雲泥の差があり、精神肉体の両極を弾圧されるという実態を実際に味わっているか、いないかの違いがある。

いま世界中でインターネットによる政権変革が進んでいるが、それらは結果的に成功したとは言い難い。そこに使われている「文明の利器」ネット端末を駆使して、既存政治を崩壊される力は実証されたが、その後の建設には遠く及んでいない。

子供のころ、ちゃんと動いていた「目覚まし時計」のカラクリを覗いてみようと、ばらばらに分解してみたものの、その手順記憶もすっかり忘れ、残ったのは散乱した部品だけだった。そんなことが、いま世界中に進行してる。かつてそれは強権独裁というスタイルで統治していたという歴史があった。

しかし時計をバラバラにする手間と速度があまりにも速いために、分解した本人も、壊れた時計も、さらにそれを可能にしたタブレット端末を提供している組織も国も、それは本来の使い方ではない、と知らん顔をしたところで、身にかかる火の粉は、天からバラバラ降り注いでくる。
そんな情況であることを誰も知らないか、また知っていても、知らん振りをして悪夢を忘却しようとしているのか、はなはだ疑問がある。

BS世界のドキュメンタリー「ベラルーシ自由劇場の闘い」
ベラルーシ自由劇団は、元ジャーナリストや元国立劇場所属の俳優たちが作った小劇団。20年以上も続くルカシェンコ大統領の独裁政権下で、自由と解放を求めて活動してきた。しかし、2010年の大統領選挙で対立候補を応援したことが原因で政府に目をつけられ、身の危険にさらされたメンバーは亡命を余儀なくされるが、国外から「表現の自由」を訴え続ける。(2015年国際エミー賞受賞)
ベラルーシ大統領選 「欧州最後の独裁者」ルカシェンコ氏が5選

11日、ベラルーシ・ミンスクで息子と一緒に大統領選の投票をするルカシェンコ氏(右)(AP=共同)産経ニュース
 旧ソ連ベラルーシで、任期満了に伴う大統領選が11日に行われ、中央選挙管理委員会は12日、現職アレクサンドル・ルカシェンコ大統領(61)が83・49%を得票し連続5選を決めたと発表した。投票率は86・75%。

 「欧州最後の独裁者」とも呼ばれるルカシェンコ氏の強権統治は1994年から続き、5年の任期を全うすれば四半世紀を超える。他に3人が立候補したが、実質的な対抗馬はいなかった。選挙から事実上排除された野党は投票棄権を呼び掛けていた。

 ロシアとの結び付きが強いベラルーシはロシア経済不振の影響の直撃を受けている。ルカシェンコ氏はロシアのウクライナ介入に批判的な見解を示し、ベラルーシでの人権侵害を批判してきた欧州連合(EU)との関係改善を意識して8月に政治犯を釈放した。EU側もルカシェンコ氏らの入国禁止の制裁緩和を検討しているもようだ。(共同)
(記事部分引用)

ソ連時代のベラルーシは白ロシア・ソビエト社会主義共和国
ベラルーシは日本の約半分の国土で900万人が暮らす。隣国のリトアニアとは歴史的な関わりが深く、過去にはポーランドとリトアニアの支配下に置かれた。

そして、ソビエト連邦の支配が始まる。その時のベラルーシの名前は白ロシア・ソビエト社会主義共和国。なぜ白かというと、方角を色で表す習慣から西を指す白、キリスト教化された地域を白いと呼んでいたことなどが由来だ。

ちなみにベラルーシ語でベラは白という意味、ルーシはルーシ人という意味を指す。ルーシ人は以前このベラルーシ辺りに住んでいた民族の名前だ。

また、ソ連時代にチェルノブイリで起きた原発事故の被害を一番受けたのは、このベラルーシだ。チェルノブイリはウクライナにあるが、風が南から北に吹いていたので一番被害を受けた。

ソ連崩壊によりベラルーシは独立を果たし独裁国家となる

1991年にソ連より独立を果たしベラルーシとなった。このときに大統領になったのがアレクサンドル・ルカシェンコだ。

アレクサンドル・ルカシェンコ大統領による独裁国家の始まり

バルト三国が親欧米だったのに対して、ベラルーシは親ロシアの政策を打つ。地理的にバルト三国とベラルーシは近いものの、外交面では対極になったのだ。

ベラルーシの街中には今でもレーニン像が建てられている、ソ連はとっくに崩壊しているにも関わらずだ。ルカシェンコ大統領は、今のベラルーシが白ロシアソビエト社会主義共和国から相続されたものだと強く思っているのだ。

ベラルーシはアレクサンドル・ルカシェンコ大統領の独裁国家なので、独裁者の意見が全て反映される。これが独裁国家の怖いところだ。なんとルカシェンコはヒトラーを真似てナチスの答礼をしたことがあるし、本人の髭はどこかヒトラーを想起させる。

果たしてヨーロッパ最後の独裁国家はいつまで存続できるのだろうか。


アレクサンドル・ルカシェンコ大統領
1954年8月30日 - )は、ベラルーシの政治家で大統領(1994年 - )。また、ベラルーシ・ロシア連合国家の初代最高国家評議会議長(2000年 - )でもある。欧米からは「ヨーロッパ最後の独裁者」と呼ばれる。

2015年4月2日には、国家財政の体力強化のため、半年間無職で納税しなかった人間に約360万ベラルーシ・ルーブル(約3万円)の罰金の支払いと、支払い命令に従わなかった場合は拘束され、強制的に社会奉仕活動をさせられるという、旧東ドイツを彷彿とさせる政策の大統領令に署名した。ただ、高齢者や障害者、学生などは対象外である。

2015年8月の中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典に出席し、天安門広場を行進するベラルーシ軍を閲兵した。
2016年9月の下院選では野党への締め付けを緩め、20年ぶりに政権に批判的な野党系候補が2人当選した。欧米への配慮によるものとされる。
ヨシフ・スターリンと手を結んでポーランド領だったブレストをベラルーシ領にしたアドルフ・ヒトラーを「彼のおかげで(ドイツは)残骸から立ち直った」と賞賛し、「ユダヤ人は、ボブルイスク(ベラルーシ国内の一都市)を豚小屋に変えた」など、反ユダヤ的発言をしている(ベラルーシには約7万人ほどのユダヤ系住民がいる)。そして、「ドイツの歴史はベラルーシの歴史のコピーだ」と発言している。

17世紀にロシア帝国の支配下に入るとベロルシア(ロシア語:ビラルースィヤ)と名付けられ、日本語でもこれを訳した白ロシアの名で長らく定着していた(この場合の「ロシア」は「ロシア」のことではなく「ルーシ」の意味)。ソ連崩壊直後の1991年9月15日に正式な国号をベラルーシ語を尊重した「ベラルーシ」に定め、各言語でもこの語を用いるように要請している。

国名の由来
 P1080929-680x510
ベラルーシ共和国()、通称ベラルーシは、東ヨーロッパに位置する共和制国家。東にロシア、南にウクライナ、西にポーランド、北西にリトアニア、ラトビアと国境を接する、世界最北の内陸国である。首都はミンスク。ソビエト連邦から独立した。国際連合にはウクライナと共に、ソ連時代からソ連とは別枠で加盟していた。
ベラルーシの人々は13世紀から16世紀にかけてモンゴルの支配を受けた(タタールのくびき)。その際、モンゴル人が中国から学んだ文化である「方角を色で呼ぶ方法(五行思想)」をルーシに持ち込んだため、赤ルーシ(南部ルーシすなわち現在のウクライナ西部)、白ルーシ(西部ルーシすなわち現在のベラルーシ)、黒ルーシ(北部ルーシすなわち現在のモスクワ周辺)という名称が生まれ、そのうちの白ルーシ(ベラルーシ)が国名として残った。
(資料ウィキぺデア)