ロッキード事件俯瞰図 2013/01/1719.29
「追放解除組の松村謙三・堤康次郎・三好英之らと民政旧友会を結成、その後、国民民主党との合流により新党を画策し、民政旧友会の大麻・松村・堤らは追放解除後、国民民主党に復帰していた旧民政党出身の宮沢胤勇や野田武夫らを加えて新政クラブを結成した」。

それは昭和27年(
1952年2月8日の話しである。もちろん「ロッキード事件」との関連性については時間的にはクロスしない。

そこに特筆すべきは「
堤康次郎」の名があったことだ。知る人とぞ知る「西武グループ」の創始者であることは周知の事実。

つい最近まで「明治維新」武勇者を調べていた。端緒は「藤田伝三郎」であったが、その血統に「久原房之介」という「明治維新」より輩出の政治家兼実業家がいた。これもまた現日本のトップ企業「日産コンツェルン」の創始者である。 

その流れからして、「堤康次郎」は、日本の立身出世物語、その最後の一人として上げられる。

堤 康次郎(つつみ やすじろう、1889年(明治22年)3月7日 - 1964年(昭和39年)4月26日)は、日本の実業家もしくは財界人で、滋賀県選出の衆議院議員として政治家でもあった。西武グループ(旧コクド及び旧セゾングループ)の創業者。第44代衆議院議長。滋賀県大津市名誉市民。滋賀県平民。
正三位勲一等。「ピストル堤」の異名を持つ。五島慶太は東急対西武戦争(箱根山戦争・伊豆戦争)でライバルとも言われた。 (資料ウィキぺデア)

滋賀県愛知郡八木荘村大字下八木(のち・秦荘町、現・愛荘町)に農業兼麻仲買商・堤猶次郎、みをの長男として生まれた。5歳で父を腸チフスで失い、母が実家に戻されたことから、康次郎は妹・ふさとともに祖父・清左衛門、祖母・キリの手で育てられる。

1902年(明治35年)に八木荘小学校高等科を卒業し彦根中学校への入学手続をしたものの、祖父が「せっかくここまで育ててきたのに、彦根のような繁華なところへやって悪い人間になられたら大変だ」と心配したことから進学を断念して農業に従事する。1903年(明治36年)6月に祖母が死去すると、祖父とともに彦根へ出て米相場を張ったり肥料商を手掛けるも何れも失敗。翌年には八木荘に戻って、耕地整理と土地改良に精を出すことになる。

早稲田大学へ

早稲田大学政経学部政治学科在学中の堤康次郎
1906年(明治39年)に京都の海軍予備学校へ入学し、翌年に予備校を卒業すると郡役所の雇員となる。同年に祖父が死去し、「堤の家の再興は、金を儲けよというのではない。金儲けもよいが、それより名誉ある堤家にしてくれ」と遺言を遺した。

1909年(明治42年)故郷の田地を担保に入れて5000円の金を工面して上京、早稲田大学政治経済学部政治学科に入学した。
早大では弁論部と柔道部に属するも、授業はあまり顔を出さずに試験の時に通学するだけで副業やアルバイトに熱中していた。

また政治活動にも熱中し、中橋徳五郎の応援演説に大阪まで出張ったこともある。このように、大学時代に経済活動、政治活動において経験を積んだ。
1913年(大正2年)3月に早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業(政治学士号を取得)すると、大隈重信が主宰し主筆に永井柳太郎を据えた政治評論雑誌『新日本』(1911年発刊)に社長として経営に携わった。

首相桂太郎による立憲同志会の結成計画に永井らも参加すると、これを追って創立委員に名を連ね、桂を介して後藤新平を、更に財界の大物だった藤田謙一を紹介される。だが名士とお近づきになるのとは裏腹に『新日本』を含めて康次郎の事業は何れも巧くいかず、不調を挽回しようと手を出した真珠の養殖も失敗。
失敗の連続だった当時を「毎日血尿が出る思いだった」と本人は振り返っている。結局、最後の望みを不動産事業に託し、『感謝と奉仕』を生活信条とする。

実業家として
 
康次郎が最初に不動産事業に着手したのは、沓掛村一帯(現在の中軽井沢駅周辺)の別荘地開発だった。
1915年(大正4年)夏頃に早大の学生服姿で沓掛村に出向き、村長に「別荘地をつくりたいからできるだけ大きな土地が欲しい」と村有地の購入を打診した。
隣の軽井沢が欧米の宣教師達の別荘地として発展していくのに危機感を抱いていたとは言え村民の議論は2年越で続き、1917年(大正6年)12月の区民総会での了承を経て60万坪(後の再測量では80余万坪)を30,000円(現在の数億円)で売却し、50軒の別荘を分譲することを条件として契約が成立した。

だがこの時点で康次郎は手許資金が不足していて、当時の妻であった川崎文の実家などから買収金を工面しても足りず、佐久の銀行から1万5千円借りて不足分は新聞紙を10円札の大きさに切って上下に本物の札を重ねて「見せ金」とした。沓掛一帯の分譲を行う会社として藤田謙一を社長に招聘し千ヶ滝遊園地株式会社を設立(資本金25万円)。
沓掛の土地を一軒500円で簡易別荘として分譲販売を始め、その収益を基に1919年(大正8年)箱根の強羅に10万坪の土地を買収した。
翌1920年(大正9年)には千ヶ滝遊園地を清算(計画倒産説あり)し、同じく藤田を社長として箱根土地株式会社(後のコクド、現在は消滅)を設立。
更に湯の花沢10万坪を13万5千円で買収したり、1923年(大正12年)には駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)の経営権を掌握していった。関東大震災後には都内皇族・華族の大邸宅を買収し、目白文化村など住宅地として分譲した。

政界進出後も事業欲は衰えを見せず、大泉学園や国立・小平学園都市開発に着手し、東京商科大学の誘致に成功すると共にアクセス鉄道として多摩湖鉄道を開通。
大泉学園開発では沿線を走る武蔵野鉄道との関わりが出来、1940年(昭和15年)には大株主の浅野財閥からの株式を買収して多摩湖鉄道をこれに合併させた。
太平洋戦争中は武蔵野鉄道に加え(旧)西武鉄道の経営に参画すると共に、都内の糞尿処理対策や流木対策として糞尿運搬や木工業、更には合成ゴム・化学肥料製造、果ては銀行業(高田農商銀行)にまで事業の手を広げた。
東京大空襲の最中でも、自宅地下壕に電話線を何本も引いて不動産の購入交渉を行い、戦災で地主が不在となったところを片っ端から自らの名義としたとも言われている。

戦後は皇籍剥奪や華族の特権廃止・財産税などの負担で困窮した旧宮家や華族が都心部に所有していた邸宅地を買い取り、華族やその関係者をグループで雇用して生活を保障するとともに、邸宅地を活用してプリンスホテルを開業した。
堤康次郎が開発した国立は高級住宅街として、軽井沢や箱根などは日本の代表的なリゾート地として発展し、現在も人気を集めている。

政治家として

箱根土地の経営に関与している頃から、康次郎は永井柳太郎の選挙参謀となるなど政治にも関わっていたが、1924年(大正13年)の総選挙に滋賀5区(当時)から衆議院議員に立候補する。
旧彦根藩士で家老職を務めた家柄である堀部久太郎が対立候補だったが、当時としては先進的な土地改革を公約するなどして大差で初当選を果たした。
以後、途中の断続を経て衆議院議員には計13回当選。当選後は立憲民政党に所属し、1932年(昭和7年)6月斎藤実内閣で拓務政務次官に就任した。
翼賛選挙で推薦議員であったばかりか西武農業鉄道の首脳として国策に関与するなどしたことで公職追放を受けるものの、追放解除後の昭和26年(1951年)に民政党時代の同僚議員だった大麻唯男・松村謙三らの「民政旧友会」へ参加。民政旧友会は「新政クラブ」を経て、翌1952年(昭和27年)に改進党の結党に参加した。

1953年5月18日、衆議院議長に就任(上。下は副議長の原彪)
1952年(昭和27年)の総選挙で国政に復帰し、1953年(昭和28年)5月に全野党に推される形で衆議院議長に就任( - 1954年12月)、議長秘書官は山本廣治と堤清二が務めた。議長の認証式には当時内縁関係にあった青山操(清二の母)を伴ったことで大きく批判され、しかも議長就任後は改進党とは距離を置き山下春江らと新党同志会を結成、保守合同を目指した。

大津市の米軍キャンプ地返還や膳所刑務所移転等、今日の大津市の基盤づくりに大きく貢献したため、1957年(昭和32年)に大津市初の名誉市民の称号を受賞した。

康次郎は、1963年(昭和38年)の総選挙で13回目の当選を果たすが、この時地元後援会の堤会から選挙違反で180名余が逮捕、後に150名余が有罪となる。

1964年(昭和39年)4月24日内縁関係にあった石塚恒子(義明の母)を連れて熱海に向うため、13時15分発の準急「いでゆ号」に乗ろうと国鉄東京駅の地下道を急いでいた途中で昏倒し緊急入院。4月26日に心筋梗塞で死去。
本葬は自民党葬として豊島園でとり行われ、約3500人が参列。東京オリンピックのために建設を計画した東京プリンスホテルの完成を見ることはできなかった。堤の没後、選挙地盤は山下元利が引き継いだ。

HHH HHH HHH

2013年正月の閑話休題・譚 (引用記事より)
ひまな一時(ひととき)に、この話題はもってこいのワンセクションだった。長い間ノドに小骨が掛かったような、靴の中の足がかゆくて掻いても掻いても釈然としない隔靴掻痒としたおもい。政治も経済も混沌としたカオスに包囲され、閉塞とした闇の中で一人悶々と膝を掻く。

それにしても読売の記事の中に「立花隆」のたの字も出てこないのが、よく判らない。良いにつけ悪いにつけ、ロッキード事件と立花隆の「田中角栄研究」は対の言論説であり、どちらを落としても成立しない、と恣意するのだが。

※立花氏は非常に謙虚でした。「たしかに、『文芸春秋』11月号の〈田中角栄研究〉の与えたインパクトは大きかった。しかし、そのインパクトの大きさは、その論文のプロパーではなかった。背中に荷物を目いっぱいに積んでようやく立っているロバの背に、ワラをもう一本乗せただけで、ロバがひっくりかえることがある。私はただ、最後の一本のワラを乗せる栄誉になっただけにすぎない。」P.4

「阿修羅」サイトより一部抜粋 ↑ http://www.asyura2.com/10/senkyo97/msg/653.html

「ロッキード事件」はすでに歴史の風化した昭和の残滓として残っているだけで、その事件さえ風聞でしか知らないという世代が台頭している。戦争の惨状と同じくこれも語り継がなければアッと言う間に忘却の彼方へと霞んでしまう。
とくにその思いを強くしたのは、そこに関った現役政治家が健在である時代に、そのことの真相を是非とも語って戴きたいと思案するし、また、自叙伝でもいいからその琴線部分を語ってもらいと切望する。

抜粋記事~
ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があったと報告する公文書が米国で見つかった。

裏金を受け取った政府高官の名が表に出ると「自民党が選挙で完敗し、日米安全保障の枠組みが壊される恐れがある」という理由。
三木武夫首相(当時)は事件の真相解明を言明していたが、裏では早期の幕引きを図る動きがあったことになる。
中曽根事務所は「ノーコメント」としている。この文書は76年2月20日にジェームズ・ホジソン駐日米大使(当時)から国務省に届いた公電の写し。
米国立公文書館の分館であるフォード大統領図書館に保管され、2008年8月に秘密指定が解除された。ロッキード事件は76年2月4日に米議会で暴露されたが、ロ社の裏金が渡った日本政府高官の名前は伏せられた。

与野党いずれも政府に真相解明を要求。三木首相は2月18日、「高官名を含むあらゆる資料の提供」を米政府に要請すると決めた。
文書によると、中曽根氏はその日の晩、米国大使館の関係者に接触し、自民党幹事長としてのメッセージを米政府に伝えるよう依頼した。
中曽根氏は三木首相の方針を「苦しい政策」と評し、「もし高官名リストが現時点で公表されると、日本の政治は大変な混乱に投げ込まれる」「できるだけ公表を遅らせるのが最良」と言ったとされる(10年2月12日付『朝日新聞』)。 

ロッキード事件をめぐり「I HOPE IT WILL HUSH UP(MOMIKESU)THE MATTER」(この問題をもみ消すことを希望する)」との要請が記載された米政府の公文書=米ミシガン州のフォード大統領図書館(10年2月12日付『朝日新聞』) 
※「ロッキード事件 日本を震撼(しんかん)させた200日」 サイト
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田中角栄の顧問 
大麻 唯男(おおあさ ただお、1889年(明治22年)7月7日 – 1957年(昭和32年)2月20日)。
日本の内務官僚、政治家。敗戦後は大日本政治会を母体とした政党・日本進歩党の結成に尽力する。大麻は町田忠治を党首に据えるため、自分が顧問を務めていた土建会社の若手経営者に政治資金の献金を懇願した。
それが田中角栄である。しかし間もなく公職追放となる。公職追放解除後、同じく戦前民政党に属していた追放解除組の松村謙三・堤康次郎・三好英之らと民政旧友会を結成、その後国民民主党との合流により新党を画策し、民政旧友会の大麻・松村・堤らは追放解除後国民民主党に復帰していた旧民政党出身の宮沢胤勇や野田武夫らを加えて新政クラブを結成した。 
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第36回 平成25年1月12日讀賣新聞 第2部
戦後転換期(1965年~79年)
「ロッキード事件 (下)」
ロッキード事件で、東京地検特捜部は1976(昭和51)年7月、前首相・田中角栄を逮捕した。真相解明に政治生命をかけた首相・三木武夫に対し、自民党内では「三木為ろし」の旋風が吹き荒れた。田中は裁判で無罪を主張する一方、党内最大派閥を率いて「田中支配」といわれる体制を築いていく。(文中敬称略)

■今日は忘れられない日
1976(昭和51)年7月27日午前7時27分、東京地検の玄関前に地検の車斌滑り込んだ。容疑者逮捕に備え、待機していた報道陣がカメラを向ける中、松田昇検事が降車した。
続いて降り立ったのは田中角栄だった。

前首相の出頭に、報道陣は虚を突かれ、しんと静まりかえった。
「白い時間だった」と、松田は振り返る。田中は一、二歩進んで「ヨッ」と片手を挙げた。一斉にシャッター音が鳴り始めた。
2月に発覚したロッキード事件捜査は大詰めを迎えていた。

特捜部は6月22日、丸紅前尊務の大久保利春を議院証言法違反(偽証)容疑で逮捕。
7月に入ると、丸紅前専務の伊藤宏(偽証容疑)、全日空杜長の若狭得治(偽証、外国為替及ぴ外国貿易管理法違反容疑)、丸紅前会長の槍山広(外為法違反容疑)を逮捕した。マスコミは「次は政府高官か」と、観測記事を書き立てていた。

ときの法相、稲葉修は逮捕の前日、地元の新潟県村上市の自宅にいた。法務省刑事局長から電話が入り「明朝逮捕」を知る。三木首相には逮捕の日の朝、「検察が田中邸に向かっているころ、私が伝えた」と、後に語っている。

松田は、田申逮捕の当日午前6時半、事務官3人と、東京・目自の田中邸に入った。
「東京地検の松田です。ちょっと先生にお話があって参りました」。

応対した書生に名刺を差し出すと、応接室に通された。

しばらくして背広姿の田中が現れた。

「君が松田君かね。きょうはやけに早いね」。

そう語ると、田申は玄関に向かった。

田中の逮捕容疑は、法定手続きをとらずに、丸紅からロッキード社の資金5億円を受け取った外為法違反。東京地検で逮捕状が執行された。

田中は、自民党離党届と、田中派退会届を書いた。地検から東京拘置所に向かう車中で、田中が松田に言った。

「きょうの日は、オレは忘れられない日だ。松田君、君も忘れないでくれ」。

この日、地検特捜部は、榎本敏夫・元首相秘書官も外為法違反容疑で逮捕し、田中邸、砂防会館の田中事務所など5か所を捜索した。
8月、橋本登美三郎・元運輪相や佐藤孝行・元運輸政務次官が、受託収賄容疑で逮捕された。

1977年1月21日、地検特捜部は小佐野賢治・国際興業社主を偽証で起訴し、捜査は事実上、終了した。ロッキード事件は法廷へと舞台を移す。

「三木おろし」の一大旋風
ロッキード事件の真相究明に対する三木の執念は凄まじかった。その前のめりの姿勢に、自民党内の不満は高まった。とくに自らの裁定で三木を政権の座に就けた党副総裁・椎名悦三郎は、「三木ははしゃぎすぎだ。いつから検事総長になったのか」と苛立ちを深めていた。

1976(昭和51)年5月初め、椎名は、田中、福田赴夫副総理、大平正芳蔵相と個別に会談し、三木の早期退陣で一致した。
13日付の読売新聞の特報で、これが明るみに出ると、三木は「真相解明に全力を挙げることが私に課せられた使命だ」と激しく反発した。
反三木陣営は、三木が政権維持のために事件を利用しているとみていた。

だが世論は「三木おろし」を「ロッキード隠し」と見て非難した。7月27日、田中が逮捕されると、沈静化していた三木おろしの動きが再び噴き出した。田中派の"三木憎し、の感情はもちろん、田中が逮捕された以上は、ロッキード隠しとの批判を恐れることはなくなっていた。

挙党協の結成
田中が保釈されて2日後の8月19日、反三木勢力は、挙党体制確立協議会(挙党協)を結成、田中、福田、大平、椎名、船田中、水田三喜男各派などの議員が結集した。
24日には党所属議員の3分の2を超える271人が出席して両院議員総会を強行し、三木退陣へ圧力を強めた。
福田、大平ら挙党協の閣僚15人も会合を開き、一致して行動することを確認した。
三木を支えていたのは、三木、中曽根両派と少数の無派閥議員だけだった。しかし、三木はここから驚くべき粘り腰をみせる。三木は退陣要求を突っぱねる一方で臨時国会を召集して自らの手で衆院解散を行うことを企図する。

衆院議員の任期切れは12月に迫っていた。
三木は8月24日、25日、両日、福田、大平と会談、国会召集に協力を求めたが、2人とも早期召集に反対の考えを示した。
そこで三木が「あなた方は私に代われと言うが、私が辞めた後、とっちがやるのか」と問いただすと、福田と大平は「まだ決めていない」と答えるしかなかった。会談は不調に終わり、臨時国会召集は宙に浮いた。

だが赤字国債発行法案などの処理のため、国会はどのみち開かねばならなかった。
(以下省略)

抜粋 元記事当サイト