イギリスのオックスフォードシャーの田舎の古い教会で録音
「マデリン・ペルー」
:2016年08月12日 11:52 tower 
デビュー20年を迎えたヴォーカリスト/ソングライターのマデリン・ペルーのimpulse!移籍第一弾。"21世紀のビリー・ホリデイ"と称されたマデリン・ペルー、オリジナル・アルバムとしては2013年リリースの『ブルー・ルーム』以来3年ぶり。

本作は、この2年間一緒にツアーしているエレクトリック・ギターのジョン・ヘリントンとアップライト・ベースのバラク・モリとのトリオでファンク、ブルース、ジャズを繰り広げる意欲作!

「音楽は私たちにとってスピリチュアルな生活。だから、音楽は私にとって讃美歌であり、とても個人的で内省的なものなの。」ということで今回取り組んでいる曲は、ゴスペル・シンガーのシスター・ロゼッタ・サープ、リントン・クゥエシ・ジョンソンのナンバー、さらにトム・ウェイツ、タウンズ・ヴァン・ザント、アラン・トゥーサンの曲、19世紀のコンポーザーのスティーブン・フォスター、そしてアフリカン・アメリカン・スピリチュアルなトラディショナル曲で締めている。

そもそもの始まりは、イギリスのオックスフォードシャーの田舎の古い教会でのコンサート。世界的に有名なフレンチ・シェフ、レイモンド・ブランがグレイト・ミルトンにある古いマナー・ハウスを購入し、そこをベルモンドル・マノワール・オ・キャトル・セゾンという名でイベントや食事を楽しむことのできるホテルに改装、そのイベントの一環でディナーの前に近くの12世紀のノーマン・スタイルの教会でのコンサートが行われ、そこに昨年マデリンのトリオが招待されたのだ。

「サウンド・チェックで私はランディ・ニューマンの曲『ギルティ』を歌ったら、木の壁によって自分の声にうまい具合にリヴァ―ブがかかり、とてもいい感じのサウンドだったの。ライヴ・エンジニアのダグ・ドーソンが絶対にここで録音すべきだと言ってくれたわ。」マデリンは数か月たってからその教会を3日間押さえ、1日目はサウンドチェック、2日目には町の人を招待しライヴ・レコーディング、さらに3日目もさらに追加録音ができるようにした。とてもオーガニックなトリオでジャズのセンスをルーツ・ミュージックに取り入れることに成功した注目作品。
(記事引用)


アジザ・ムスタファ・ザデ
生誕 1969年12月19日(46歳)
出身地 アゼルバイジャンの旗 アゼルバイジャン バクー
ジャズ
担当楽器 ピアノ 活動期間 1988年 -
アジザ・ムスタファ・ザデ(Aziza Mustafa Zadeh, アゼルバイジャン語: Əzizə Mustafazadə; 1969年12月19日 - ) は、ジャズ界のプリンセス、またはジャジーザ (Jazziza) という愛称で知られるアゼルバイジャン出身の歌手、ピアニスト、作曲家である。彼女の音楽は、ジャズとムガム(アゼルバイジャンの伝統的な即興演奏様式)を融合させたものであり、クラシックやアヴァンギャルドからも影響を受けている。
評論家にはキース・ジャレットからの影響も指摘されている。現在、母でありマネージャーでもあるエリザ・ムスタファ・ザデとマインツに居住している。余暇の過ごし方としては、絵を描くことと眠ることがお気に入りであり、菜食主義者である。なんらかの宗教を信仰しているわけではないが神の存在を信じている。1991年からの世界中でのアルバム総売上枚数は1500万枚に上る。

アジザは音楽家の両親である、父ヴァギフ・ムスタファ・ザデと母エリザの間に生まれた。
父のヴァギフはピアニストであり作曲家、ムガームとジャズを融合させたスタイルを創始したことで名を残している。現在は娘であるアジザがそのスタイルを継承している。母のエリザはグルジア出身で、西洋クラシックの教育を受けた歌手である。
両親が娘の音楽に対する鋭敏な感性を知ることになったのは生後8ヶ月のことであった。母から聞いた当時の様子を、アジザは次のように語る:
ある時、父が”シュール”というムガームのモードでピアノの即興演奏をしました。”シュール”は深い悲しみを呼び起こすとされています。父が演奏している時に私は泣き始めたので皆んな何が起こったのかと思ったようです。私が泣た理由について母が気づいたことは、私の感情と音楽が連動しているのではないか、ということでした。
「ヴァギフ、お願い、スケールを変えてみて。”ラスト”を弾いてみて」と母が言うので、父はその通りにしました。”ラスト”の響きは喜びや楽観性を表します。思ったとおり、私はまだ涙を流し続けているというのに踊るような仕草を始めました。それを見て母がこう言ったのです。「あの子の様子を見て!”シュール”にまた戻ってみて!」父が言われたとおりに”シュール”を弾き始めた時、私は前より大きな声で泣き始めました。そんな様子だったようでえす。そして”ラスト”に戻るとまた踊り始めたそうです
アジザはアートの中でも踊りと絵画と歌に魅入られているという。父のステージに3歳でデビューを果たした時には即興で歌を披露した。早くから西洋クラシック・ピアノを学び始め、バッハやショパンといった作曲家に特に強く惹かれていた。即興演奏における才能の開花も遅くはなかった。
1979年12月16日、アジザが10歳になる誕生日の3日前、父がタシケントで心臓発作により死亡した。(彼女の家庭に特別な出来事があった日を見ると奇妙な関連がある。ヴァギフは16日に死亡し18日に埋葬された。母のエリザは12月17日生まれである。
アジザが言うには「16、17、18、19という日には喜びと悲しみが交錯していて生と死という相容れない要素が隣り合っている」ということである) 母のエリザは、アジザがこのショッキングな出来事を克服するために、彼女自身の歌手としてのキャリアを断ち娘の音楽の才能を育てることに専念した。
1988年18歳の時、アジザのムガームに影響を受けたスタイルが功を奏し、ワシントンで開催されたセロニアス・モンク国際ジャズピアノコンクールにて第3位に輝いた。 母と共にドイツへ移住したのもこの頃である。
アジザはデビューアルバムのAziza Mustafa Zadehを1991年にリリースした。セカンドアルバムであるAlwaysは、ドイツの名誉ある音楽アワードであるPhono Academy Prizeと、ソニーのEcho Prizeを勝ち取った。 以来、ジャズや伝統音楽の著名人たちと多くの国々で演奏を重ねつつアルバムをリリースしている。

バクー・ジャズ・フェスティバル 2007
2007年6月、故郷アゼルバイジャンのオペラ・バレエ劇場でバクー・ジャズ・フェスティバルに出演した。フェスティバル最終日の野外グリーンシアターではヘッドライナーを務めた。 その時の演奏で、彼女自身のエコーを用いてハーモニーを奏でた「Shamans」という曲でのパフォーマンスが評論家を含め極めて高く評価された。

アジザの5枚目のアルバム名「Jazziza」は、彼女が子供の時に父が付けたニックネームから取られた。彼女の曲の多くは父へと捧げられている。
彼女の異母姉に、ララ・ムスタファ・ザデという名のピアニストがいる。
(ウィキぺデア)