歴史の中の多様な「性」(1)
ニューズウィーク日本版 / 2015年11月30日 20時0分
 論壇誌「アステイオン」(公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会編、CCCメディアハウス)83号は、「マルティプル・ジャパン――多様化する『日本』」特集。同特集から、自身トランスジェンダーであり、性社会・文化史研究者である三橋順子氏による論文「歴史の中の多様な『性』」を5回に分けて転載する。

はじめに――「日本社会の伝統」って何?

 今年(2015年)の四月、東京都渋谷区が同性パートナーに「証明書」を発行することを条例で定めた。七月には世田谷区も区長の判断で、パートナーであることを宣誓した書類に区が押印し受領証書を交付する形で同性パートナーを公認することが明らかになった。いずれも実際の交付はまだ行われていないが、順調にいけば年内には自治体(国ではない)が公認した同性パートナーが日本でも誕生するだろう。

 こうした同性パートナーを公認していく動きについては、ツイッターなどのSNSでは賛成や祝福の意見が多いものの、一部には反対の動きもみられる。その理由として、単純なホモフォビア(Homophobia:同性愛嫌悪)を除けば、①少子化が加速する、②日本社会の伝統にそぐわない、の二パターンに整理できるように思う。

 ①については、同性パートナーが公認されようが否認されようが、先天的要素が強い同性愛者の数には変わりはなく、また同性愛者は性愛の対象が異性に向いていないので、一般的な形で子を作ることが少ないことにも変わりはない。そもそも同性愛者は全人口の二―三%しかいないので、少子化の加速にはほとんど影響しない。
 それを心配するなら、九七―九八%いるはずの異性愛者の出生率を少しでも上げる方策を考えた方がずっと有効性が高い。むしろ、同性パートナーシップを公認すれば、レズビアン(女性同性愛者)カップルが第三者の精子を使って妊娠・出産することが増えて、出生率の向上にわずかながらも寄与するかもしれない。

 ということで、①の反対理由は簡単に論破できるのだが、②はどうだろうか。ここで問題になるのは「日本社会の伝統」とは、いったい何なのか? ということだ。

 私は、2013年に「性と愛のはざま─近代的ジェンダー・セクシュアリティ観を疑う─ 」という論文を『岩波講座 日本の思想 第5巻 身と心』に執筆した。内容をごく大雑把に要約すると、私たちが「常識」としてもっているジェンダー・セクシュアリティ観は近代(明治期以降)に形成されたもので、前近代(江戸時代以前)のジェンダー・セクシュアリティ観はそれとはかなり大きく異なるのではないか、という話だ。

2.どう異なるかは、また後で述べるとして、前近代と近代の間にジェンダー・セクシュアリティ観の大きな変容があったとするならば、「日本社会の伝統」とは、そのどちらを指すのか? ということになる。前近代のそれをイメージするのか、近代以降のことなのかで、「伝統」の内実は大きく異なってくる。

 この論考では、ジェンダー・セクシュアリティにおける「日本社会の伝統」とは何か? ということを意識しつつ、歴史の中に多様な「性」の形を探ってみたい。

同性「夫婦」は存在した?

 ここに一枚の錦絵新聞がある(『東京日々新聞』錦絵版、明治7年10月3日・813号)(図1)。錦絵新聞とは明治時代初期の数年間に発行された絵入り一枚刷りの新聞のことで、絵は江戸時代以来の木版多色刷りの浮世絵(錦絵)で、それに絵解き的な文章が添えられている。新聞といってはいるが、画像で読者を引き付けるという点で、メディアとしては、むしろ現代の写真週刊誌に近いかもしれない。さっそく見てみよう。

図1:『東京日々新聞』813号 明治7年(1874)10月3日号(錦絵版)

 時は「ご維新」の政治的混乱もようやく一段落した1874年(明治7)、所は香川県三木郡保元(やすもと)村(現在地不詳、カモフラージュされているのかも)の塗師(ぬし)早蔵の家の居間。緋色の長襦袢を繕う妻のかたわらで、胡座(あぐら)をかいてあくびをする夫、白猫がのんびりと首をかき、一日の労働を終えた夕べ、夫婦のくつろいだ一時が感じられる。しかし、何かが違う。本来なら丸髷に結われているはずの妻の髪がばっさり切られてザンギリ頭になっている。いったい何が起こったのだろうか?

 明治新政府は1871年(明治4)四月に戸籍法を発布し、翌年には全国一律の戸籍作成に着手する。いわゆる壬申戸籍である。三木郡役所でも早蔵を戸主として新たな戸籍を作成することになり、妻お乙(おと)の出生地である香川郡東上(ひがしかみ)村(現・香川県高松市)に問い合わせたところ、お乙が1850年(嘉永3)に同村のある夫婦の間に生まれた乙吉という男性であることが露見してしまった。

 男性を妻として戸籍を作るわけにはいかない。早蔵の家を管轄する戸長は「乙は元来男子なり。何ぞ人家の婦と成ることを得んや(乙はもともと男性である。どうして一家の主婦となることができようか)」と二人を説諭し、丸髷に結っていたお乙の長い髪を切ってザンギリの男頭にし、早蔵とお乙との結婚は無効にされてしまった。

3.男児に生まれながら女児として育てられ「娘」として成人したお乙は、早蔵から求婚されたとき、自分が女子ではないことをカミングアウトし、早蔵はお乙が男子であることを承知の上で婚礼をあげ、三年間、平穏に暮らしていた。だましたわけでも、だまされたわけでもなく、周囲の人も事実を知ってか知らずか、二人を夫婦として受け入れていたと思われる。

 つまり、この錦絵新聞は、明治最初期に実質的な同性婚が日本に存在していたことを示している。同時に、男性と女装男子の平穏な夫婦生活、早蔵・お乙の小さな幸せを破壊したのが戸籍という近代的な制度だったこともわかる。

 全国一律の戸籍制度は、国家が個別的な人身把握を徹底化し、それに基づいて婚姻・家制度を確立し、徴税・徴兵など近代国家システムを遂行する上で不可欠のものだった。厳格な近代戸籍制度の元では、男児として生まれながら女子として生きる女装男子や、男と女装男子の夫婦が存在できる余地はなくなってしまったのだ(三橋順子『女装と日本人』講談社現代新書、2008年)。

 逆に言えば、江戸時代には、そうした余地があったということである。平安時代の前期(9世紀)に律令制に基づく戸籍制度が崩壊して以来、日本では国家が婚姻を厳格に把握するシステムは存在せず、慣習法に基づく事実婚に近い形が長らく行われてきた。

 江戸時代の人身把握は、町・村ごとに町年寄・名主や庄屋が作成し管理する宗門人別改帳によって行われていた。ある男女が祝言(しゆうげん)をあげた場合、妻の名と年齢、そして檀徒として属する寺院名などが、宗門人別改帳の夫の脇に書き加えられる。しかし、実際にはかなりルーズで、名は記されず「女房」とだけ記される場合もあり、出生地の檀那寺への確認も必ずしもされなかった。そうした緩いシステムが、お乙のような「あいまいな性」の人の存在を許していた。

 この錦絵が実際の姿を描いたものなら、お乙が男性であることが露見し、早蔵との夫婦関係が認められなくなった後も、二人はいっしょに住み続けたことになる。私としてはせめてそうであってほしいと思う。

 近代戸籍制度が確立されたことで、法的には同性婚は不可能になった。ということは、同性パートナーの公認を否定する意見②の「日本社会の伝統」とは、近代以降のことを指すことになる。しかし、前近代(律令国家の成立から数えても)1200年余の形を否定して、近代150年足らずの形を「日本社会の伝統」とする思考法は、歴史研究者である私には納得できない。

4.さて、法的には不可能になっても、近代以降も事実婚的な同性「夫婦」は存在していたようだ。

 たとえば、私が子供の頃(1960年代)、小学校の女性教員2人がいっしょに暮している家があった。1人の先生はいつもズボン姿の短髪で、かなりおじさんぽかった。もう一人は私の学校の先生で普通に女性の先生だったが、その先生と同僚だったことがある母の話では女子師範学校の先輩・後輩で、ずっといっしょに暮しているとのことだった。当時は、そんな言葉は知らなかったが、今にして思うと、女性同性愛(レズビアン)のカップルだったのではないかと思う。きっと、同じような事例は各地にあったのではないだろうか。

 あるいは、1967年に撮影された男性と女装男性の結婚式の写真がある(図2)。「花嫁」は文金高島田に角隠しを掛けた打掛姿で、ちゃんとした結婚式場で撮影されたものだろう。モーニング姿の新郎はホテル経営者で、それなりに社会的地位のあった人と聞いている(杉浦郁子・三橋順子「美島弥生のライフヒストリー」、『戦後日
本女装・同性愛研究』中央大学出版部、2006年)。

図2:男性と女装男性の結婚式(1967年)

 また、私自身、1999年3月に男性と女装男性の結婚式・披露宴に出席したことがある。場所は、大阪城の近くの「太閤園」という一流の結婚式場で、式場側も普通の男女の結婚式ではないことは察していたと思うが、何のトラブルもなかった。

 その少し前の1998年11月には、川崎市の若宮八幡宮・金山神社で、男性同性愛(ゲイ)のカップルが同神社の中村博彦宮司(当時)の執行のもと、神前結婚式を挙げている(『日刊スポーツ』1999年1月21日付)。

 2013年三月、女性同士のカップルが「東京ディズニーランド」で結婚式を挙げたことを、マスメディアはウェディング・ドレス姿の二人の写真に「ミッキーも祝福」というキャッチ・コピーを添えて大きく報じた。

 しかし、実は、それ以前にも、日本では同性挙式は行われていたし、事実婚的な同性婚も少ないながら存在していた。そういう事実を知っている者としては、今さら何を騒いでいるのだ、という気もする。

 では、なぜ、日本では同性挙式が可能だったのだろうか。それは、日本の婚姻が、欧米キリスト教社会のような神との契約ではなかったからだ。
 日本の神社で神前結婚式が行われるようになるのは明治時代後期以降のこと。1901年(明治34)東京の神宮奉賛会(現・東京大神宮)が「神前結婚式」の様式を定め模擬結婚式を開催したのが最初で、儀礼は、皇室の婚儀やキリスト教会での式を参照・模倣したものだった。それ以前には、神社の神前で結婚の誓約をするという発想はなく、天照大神も八幡大神も人々の結婚に関わることはなかった。
 結婚は共同体の人々の前で、慣習的な儀礼によって成立するもので、祖先神や屋敷神、あるいは共同体の神に挨拶する程度のことはあっても、神に誓約するものではなかった。

5.これに対して、欧米の教会で行われる結婚式は、当人同士の誓約であるだけでなく、そこに神(キリスト)が立ち合い、誓約に介入する。結婚は神との契約という性格をもち、だからカトリックでは神との約束を破ることになる離婚は認められなかった。

 そして、キリスト教の結婚式では、神の教えを記した聖書(旧約・新約)は必需である。その「旧約聖書」には「女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべき事をしたので、必ず殺されなければならない」(「レビ記」第20章13節)と、男性同性愛への厳しい禁忌が明記されているのだから、同性結婚式ができるはずはなかった。

 それに対して、日本の伝統宗教(神道・仏教)には、同性愛的なものを否定し拒絶する規範がない。

 古典に詳しい方からは、『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条に見える「阿豆那比(あずない)の罪」はどうなのだ? という指摘があるかもしれない。小竹祝(しののはふり)と天野祝(あまののはふり)は仲の良い友人だったが、小竹祝が病で死んでしまい、悲しんだ天野祝は「別のところに葬られたくない」と、小竹祝の骸の上に倒れて死んでしまう。願い通り二人を合葬したところ、昼なのに夜のような暗さが続いた。そこで、皇后が古老に問うたところ「阿豆那比の罪です」と言うので、墓を開いて二人の骸を別々に改葬したところ、光が復したという話だ。

 たしかに「阿豆那比の罪」を男色の禁忌とする解釈は、江戸時代後期の国学者・歌人岡部東平(1794‐1856)が「阿豆那比考」(1842年)で唱えて以来、受け継がれ、現在でもその説をとる研究者はいる。
 しかし、『書紀』の原文には「(阿豆那比の罪とは)何のことか?」という皇后の問いに対して、古老が「二社の祝を合葬したことでしょう」とはっきり答えているので「阿豆那比の罪」を男色の罪と解釈する余地はなく、通説通り、異なる共同体の祭祀を担う祝(神官)を合葬することの禁忌と見るべきである(難波美緒「『阿豆那比の罪』に関する一考察」『早稲田大学大学院文学研究科紀要(第4分冊)』59号、2014四年)。「阿豆那比の罪」を男色の禁忌とする説には、近・現代の同性愛嫌悪が投影されているように思う。

 ところで、尾張名古屋の熱田神宮といえば、ヤマトタケル愛用の草薙剣を御神体とする全国でも有数の著名な神社だ。その熱田の神が「長恨歌」で有名な唐の玄宗皇帝の寵妃楊貴妃だという話がある。『長恨歌并琵琶引私』という室町時代の写本には「玄宗ノ日本ヲ攻テ取ラントスル処ニ、熱田明神ノ美女ト成リテ、玄宗ノ心ヲ迷スト云」とあり、熱田の神が美女楊貴妃となって、玄宗皇帝の心を蕩とろかし、日本侵略の意図を挫折させたということになっている。

6.また「大国の 美人尾州に 跡を垂れ」という川柳があるように、江戸時代には旅案内などにも記された、かなり知られた話で、熱田神宮境内には「楊貴妃の墓」と称する石塔があって、ちょっとした名所になっていた。もちろん、現代の熱田神宮は、この話を荒唐無稽なものとしていっさい認めていない。墓石の一部と伝えられる岩(石材)が、境内の清水社の背後の水場に残っているだけだ。

 熱田の神が楊貴妃という女性になるという発想は、熱田神宮と深い縁をもつヤマトタケルの「熊襲(クマソ) 征伐」における女装譚が発想のベースになっているように思うが、神道において、女身転換や女装は禁忌ではなかったことがわかる。「女身に転換したのなら男色ではないだろう」と言われると、ちょっと困ってしまうが。

 話がだいぶ散らかってしまったので、まとめておこう。

1a 日本の伝統宗教(神道・仏教)には、男色や異性装を禁じる宗教規範がない。
1b 故に、ジェンダー・セクシュアリティの枠組みが緩い社会で、男色や「あいまいな性」の人が存在できる社会だった。
2a 欧米キリスト教社会では、宗教規範として、異性装、同性愛は厳しく禁じられていた。
2b 故に、ジェンダー・セクシュアリティの在り様は、厳格な男女二元制、異性愛絶対主義だった。
3a 日本でジェンダー・セクシュアリティの枠組み(社会制度)が男女二元制、異性愛絶対主義の方向で強化されていくのは、明治時代以降である。
3b それでも、実際には同性挙式や事実上の同性婚が行われていた。

 普通に「日本社会の伝統」といえば、私は1a・1bを指すと思う。ところが、なぜか「日本社会の伝統」を強調する人たちは、1a・1bを無視して、2a・2b的な形を「伝統」として支持する。しかし、それは「キリスト教社会の伝統」であって、日本社会では、たかだか120‐150年ほどの「歴史」しかない形態だ。明らかに捻じれているし、「伝統」を無視している。ということで冒頭の②も論破できた。

 ところで、日本社会のこうしたジェンダー・セクシュアリティの枠組みが緩い「伝統」を、現在、同性パートナーシップや同性婚の実現を積極的に推進している人たちは、ほとんど知らないか、あえて無視する。同性パートナーシップや同性婚の実現は、欧米の進歩的な人権思想に裏付けられた最先端のカッコイイ社会現象でなければならないからだ。そして、そうした単純な欧米追従的な発想と姿勢が、保守層の反発を余計に招いていることに気づかない。そもそも自分たちの先輩たちが困難な時代環境の中で苦労して築いてきた文化をリスペクトしない人たちが、世の中の多くの人の共感を得られるだろうか。私には疑問だ。

どちらも、歴史を顧みないという点で、まったく困ったものである。

[執筆者] 三橋順子(性社会・文化史研究者)
1955年生まれ。専門はジェンダー/セクシュアリティの歴史。中央大学文学部講師、お茶の水女子大学講師などを歴任。現在、明治大学、都留文科大学、東京経済大学、関東学院大学、群馬大学医学部、早稲田大学理工学院などの非常勤講師を務める。著書に『女装と日本人』(講談社)、編著に『性欲の研究 東京のエロ地理編』(平凡社)など。

※当記事は「アステイオン83」からの転載記事です。


歴史の中の多様な「性」(2)
ニューズウィーク日本版 / 2015年12月1日 17時26分
論壇誌「アステイオン」(公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会編、CCCメディアハウス)83号は、「マルティプル・ジャパン――多様化する『日本』」特集。同特集から、自身トランスジェンダーであり、性社会・文化史研究者である三橋順子氏による論文「歴史の中の多様な『性』」を5回に分けて転載する。
※第1回:歴史の中の多様な「性」(1) はこちら

1.「男色大国」としての日本

 皆さんは「白袴隊(びやつこたい)」をご存じだろうか? 戊辰の年(1868年)の会津戦争で華と散った会津藩の少年部隊「白虎隊」ではなく、明治30年前後の東京で美少年とその親たちを震撼させた不良男色学生集団だ。正岡子規の句に「遣羽根(おいばねや) 邪魔して通る 白袴隊」(1899年)とあるように、正月の晴れ着姿で羽根つきをする少女たちに目もくれず美少年を追い掛け回す連中で、仲間の目印として白い袴をはいたことから、その名がある(古川誠「白袴隊」『性的なことば』講談社現代新書、2010年)。

 子規の句が詠まれた1899年(明治32)3月、海軍予備学校の生徒で白袴隊員である二人の青年が、学校から帰宅途中の少年三人に声をかけ、その内の一人を口説いたが断られた。すると、青年たちは少年を力ずくで路地に連れ込み強姦しようとしたが、残り二人の少年が騒いだので未遂に終わるという事件が起こった。現場は東京の麹町区山元町(現・千代田区麹町)で、発生時刻は午後二時ごろ。白昼、皇居の半蔵門に程近い住宅地で強鶏姦(強制的な肛門性交)を企てるとは、なんとも大胆、傍若無人な行動である。

 当時の新聞には、こうした事件がしばしば掲載されている。発生場所は学校が数多く立地していた麹町区(現・千代田区の大部分)や牛込区(現・新宿区東部)の神楽坂周辺が多く、まさに美少年にとっての危険地帯だった。当時の地名で麹町区永楽町、現在では丸の内のオフィス街や東京駅になっているあたりの原っぱも、男色学生にとっては格好の「狩場」だった(古川誠「原と坂─明治の東京、美少年のための安全地図─ 」『性欲の研究 東京のエロ地理編』平凡社、2015五年)。

 少女をもつ親が外出した娘の帰りを心配することは昔も今も変わりがないが、当時は少年をもつ親も息子が襲われて犯されないか心配しなければならなかった。それだけ、明治の日本は、とくに学生の間で男色が大流行していたのだ。

 こうした学生の男色文化は、14歳から20歳までの少年・青年で組織される「兵児二才(へこにせ)」制と呼ばれる薩摩藩特有の教育訓練システムに顕著な年長の少年が年少の少年を犯す男色文化が、旧薩摩藩出身の学生によって東京に持ち込まれたとする説が当時から根強い。好ましい年下の少年を「ニセさん」とか「ヨカチゴ」と薩摩言葉で呼ぶのがその証拠だとされた(谷崎潤一郎「幼少時代」1957年)。こうした習俗は、学校教育の普及とともに、軍人の養成学校や全国の(旧制)中学・高校に広がっていった。
(記事引用)

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