Galapagos Japas

Galapagos Japas Galapagos Japas Galapagos Japas

2015年11月

アップル、マイクロソフト、そして新しい旅立ち
15 年ありがとう!–No.325 microsoft  第325回(2013年9月24日掲載)
■最終回にもビッグな新発表
マイクロソフト社の公式 Web サイトで、15 年弱の長きに渡って続けさせてもらった連載、Apple's Eye も、325 回目となる今回が最終回となる。
これだけの長期連載は筆者としても初めてだが、その最終回はなんとも劇的なタイミングと重なった。

iPhone 5c と iPhone 5s の発売日──アップル社の iPhone の 2013 年モデルの発売日だ。

今回の iPhone の発表は、これまでのアップルのやり方との決別を意味する、ある意味 iPhone の歴史の中でもっとも重要な発表になるかも知れない。
これまでアップル社は 1 年をかけて毎年全身全霊で作った 1 機種だけを発表し続けてきたが、今年はもう少し頑張って、なんと 2 種類の新モデルを出してきたのだ。
 
iPhone 5s が 3 つ、iPhone 5c が 5 つの、計 2 モデル、8 バリエーションがラインアップされた。

純正のケースを装着。組み合わせてデュオトーンが楽しめる
 
iPhone は、元々技術にはそれほど興味がなく、カメラ撮影や LINE などのソーシャル メディアを楽しむためのおシャレなスマートフォンとしてカジュアルに楽しんでいる層と、毎年追加される Siri や Bluetooth Low Energy などの次のトレンドを生み出す新技術を心待ちにしている層のどちらからも支持されていた。

アップルは毎年、両者の絶妙なバランス ポイントを模索して製品にしてきたが、今年はその両者を分割し、それぞれのサイドに思いっきり振った新製品を出してきたのだ。
iPhone 5c は、気軽さを感じさせるプラスチック ボディで 5 色のバリエーションを用意したモデルだ。本体色が穴から透けて見える 6 色の純正ケースも用意したことで、色の組み合わせを楽しめることも大きな魅力。

性能的には昨年発表の iPhone 5 とほぼ同じだが、自分撮りカメラの FaceTime HD の画質がよくなり、バッテリ寿命が伸びたのに加え、標準 OS が iOS 7 になったので、OS の真新しさでも楽しめる部分が多い (ただし、iPhone 4、4s、5 でも、OS をアップグレードすれば同等の恩恵が受けられる)。

価格も大幅に下がりカジュアルな端末に思える iPhone 5c だが、アップルは決して手を抜くことはしない。

iPhone 5c。ボタンのホールまでも緻密な工作が施されている

プラスチック ボディとは言っても、内側にはアンテナの機能も備えた補強フレームが使われていたり、ボリューム ボタンなどの穴は、成形の型で用意するのではなく、できあがったプラスチック ボディに精密なドリルでわざわざ穴を開けるという、普通の会社ならおよそやらないような手間をかけて精巧さや気密性を実現している。

一方の iPhone 5s は、大きさや形は昨年モデルの iPhone 5 とほぼ同じながら、スマートフォンでは初めてとなる 64 ビットのプロセッサの A7、そしてコンセプトそのものが初となるモーションプロセッサーの M7 を搭載した、かなり未来志向の製品に仕上がっている。

A7 プロセッサの恩恵が受けられるのは、しばらくの間は全体的なパフォーマンス アップ (最大 2 倍程度) や霧、煙なども含めたリアルな3Dコンピューターグラフィックが中心だが、今後、例えば音声認識や画像認識の分野で大きな進化を始めるキッカケになるかも知れない。ちなみに iPhone 5s 単体ですぐに恩恵を受けられるメリットとしてはカメラのオートフォーカスが早くなったことも、64 ビット化の恩恵の 1 つのようだ。

一方、まだまだ未知数ながら大きなポテンシャルを秘めていそうなのが M7 プロセッサだ。これは今、ユーザーが歩いているのか、走っているのか、自転車に乗っているのか、それ以外の高速移動の乗り物に乗っているのか……といったことを GPS、加速度センサー、ジャイロ センサー、コンパスなどから得られる情報から統合的に判断するプロセッサで、これによってゆっくり移動しているときは GPS で位置確認する頻度を減らしてバッテリを節約したり、車や電車などで高速移動中は、自動的に公衆無線 LAN への接続を抑制してバッテリと接続の途切れを減らすようにする、といったことも行われている。
iOS 7 標準搭載のマップも早速 M7 プロセッサに対応しており、車で移動しているか歩いているかを認識した上で適切なナビを行ってくれる。


iPhone 5s のひとつの目玉である指紋認証技術
Touch ID
これら 2 つの技術が真価を発揮するのはもう少し先かも知れないが、iPhone 5s には、すぐに恩恵を受けられる特徴もいくつかある。操作そのものは極めて簡単ながらスマートフォンを外で使う際の安全性を大幅に高めてくれる Touch ID 指紋認証技術だ。

スマートフォンを使っていると職場や電車の中でも、たびたびロック解除やアプリ購入時のパスコードを入力する場面になるが、Touch ID を使えば指を置くだけで本人と認められ、ロックの解除や曲、アプリ、電子書籍の購入が出来てしまう画期的な技術なのだ。

iPhone 5c のデスクトップ。
新 OS の iOS 7 は、デザインすべてを見直した、フラットでクリーンなデザインに刷新された

さらに iPhone 5s では、同じ 800 万画素ながらレンズをさらに明るいものにし、CMOS センサーの画素 1 つ 1 つを従来より 15% も大きなものに変えて光を吸収しやすくし、暗いところでの写真をかなりきれいにしておきながら、フラッシュにも世界初の発明で 2 色のフラッシュの光量をソフトウェアで瞬時に調整して自然な色合いで撮れるようにした True Tone フラッシュ機能を用意。他にも 120 フレーム/秒で撮影し、4 分の 1 のスローモーション再生ができる動画機能など、買ってすぐ人に自慢できる楽しみも満載されている。

新 iPhone のハードのニュースと並んで、新しい iOS も発表された。こちらもプロセッサの A7、M7 に番号を合わせるように iPhone の 7 年目を支える OS ということで iOS 7 と名付けられているが、これはこれまでの iOS を一度忘れ、新時代の iOS をゼロから構築するような心意気で作られた OS だ。

2007 年に登場した初代 iPhone から変わることがなかったホーム画面の電話やメッセージ、Safari などのアイコン デザインが一新され、まったく違う見た目になっている。

壁紙は、自身のボディ カラーに合わせた設定し、カラー コーディネートしてくれる
 
同 OS のデザインを手掛けたのは、iPhone や iPad、そして Mac の工業デザインも手掛けているジョナサン・アイブ上級副社長率いるアップル社のデザイン チームだ。
アップル社の製品はこれまでハードとソフトの融合が大きな強みとなっていたが、これをハードとソフトの技術だけでなく、ハードとソフトのデザインにおいてもやろうというのが新しいアップルの姿勢だ。
それを体現するように 5 色展開の新しい iPhone 5c では、本体の色に合わせた 5 色の壁紙が用意されており、初期化をしても iPhone 自体が自分の色を識別して、適切な壁紙を設定してくれる (もちろん、ボディ カラーに関係ない好きな壁紙を設定することも可能だ)。

間もなく公開予定の映画「スティーブ・ジョブズ」でもそんなシーンがあるが、ジョブズが 1997 年のアップル社に対して懐疑的だった時、この会社にまだ希望があると思わせたのはジョナサン・アイブの存在だ。

これまでのアップルはスティーブ・ジョブズの圧倒的存在感が CEO を中心にして動く企業というイメージを強く作ってしまったため、ティム・クック CEO がその代わりとしての期待や役回りを担っていた。

しかし iOS 7、そして新しい 2 つの iPhone からは、ティム・クックとジョナサン・アイブの 2 人をリーダーとしたスティーブ・ジョブズ後の新しいアップルの顔が見えてくる。

■マイクロソフト社にも大きな変化

Office を標準搭載する Surface Pro。
タブレット PC の新しいカタチか。
世代が変わるのはアップルだけではない。長い間マイクロソフト社の CEO を務め、その情熱的な語り口で多くのファンを作っていた共同創業者で CEO のスティーブ・バルマー氏も来年には引退をほのめかしている。

アップル社がパソコンの会社から携帯電話の会社へと大きな転身を果たしたように、マイクロソフト社もソフトの会社からソフトとハードのインテグレーションの会社に変貌しつつある。

数年前からキーボードやマウスといったパソコン周辺ハードも、かなり質の高いものを出してきたが、Windows 8 と Windows RT の時代になって自社製のタブレット PC、Surface シリーズも出してきた。こちらも OS に込められたソフトの狙いを美しいハードに融合した製品だ。

最近では Surface 2 の登場も噂されているマイクロソフト社だが、何も同社が進めているハードとソフトの融合はパソコンだけではない。

すでにパソコン以前からゲーム機の Xbox ではまさにこれをやってきていたし、今年後半から来年にかけてはスマートフォンの Windows Phone でこの融合が起きそうだ。同社は、少し前まで世界最大だった電話会社、ノキアと密接な関係を築いて Windows Phone を開発してきたが、ついにはそのノキア社を買収して自社内でスマートフォン OS とハードの融合を始めようとしているようだ。

■次の 15 年へ

パソコン革命は 1971 年、インテル社が日本のビジコン社との共同開発で「4004」という CPU を開発したところに端を発し、1970 年代の末にアップル社がハードウェア ビジネスを、マイクロソフト社がソフトウェア ビジネスを形にしたあたりから加速を始める。

その後、インターネットの大波がやってきても、パソコン並みの性能をポケットに収められるスマートフォンの時代がやってきても、スマートフォン時代の新しいパーソナルコンピューターとしてタブレットの人気に火がつこうとも、IT 業界の主要プレイヤーはアップルとマイクロソフト以外に 1〜2 社加わったくらいで、それほど大きな変化はない。

だが、2010 年代に入り、40 年近く IT 業界の中心にいた 2 つの企業も大きな節目を迎えようとしている。

こちらの連載、Apple's Eye が掲載されているコーナーも、そもそもはスティーブ・ジョブズがアップルに戻ってきて最初に行った重大発表「マイクロソフト社との大規模提携」の中から誕生したものであり、両者がともに次のステージにあがろうとしている段階で、いつまでもこれまでのやり方で続けているのは不自然だろう。

幸いにも「iMac でこれからパソコンを始めようとする人達へ」の出だしで連載を始めた 1999 年 5 月には、まだアップル社の先行きに不安を持つ人も多く、情報が得られる Web サイトも限られていたが、今では iPhone のアプリ紹介サイト、Apple Store の情報に限定したサイト、女子限定サイトなど、かなり多彩なアップル情報サイトが揃っている。

それに加えて Twitter や Facebook でも日々、アップルやマイクロソフト社の動向についての最新ニュースが流れてくる。ついに NTT ドコモも加わり 3 キャリアから提供される新 iPhone で、これからアップル製品に触り始める人も大勢いるだろう。
おそらく、いずれはこれから iPhone、iPad や Mac でマイクロソフトの製品を使う人の方が、これまでの Microsoft Office for mac のユーザー数を追い抜くかも知れない。
だが、そんな人には今後もマイクロソフト社やアップル、そして Mac Fan や MacPeople といった専門誌がより詳しい情報提供をしてくれるはずだ。

だから、この連載は一度、ここで幕を閉じようと思う。

これまで長い間、本連載を応援し、感想や誤字脱字を Twitter や Facebook、メールなどで教えてくださった方々には、この場を借りて感謝の辞を述べたい。

そして連載を始めるきっかけを作ってくれたマイクロソフト社の鶴淵忠成さんや元アスキーの簗尚志さん、最も長い間この連載を見守ってくれた元マイクロソフト社の仲尾毅さんと編集者の藤沢幸斎さん、そして仲尾さんが去った後、この連載の延命に尽力してくださった大勢の方々。ありがとうございます。

この連載をきっかけに Twitter を始めてつながった人々や、この連載がキッカケでアップル製品やマイクロソフト製品に親しみを覚えたと言ってくれた人達からも大勢声をかけていただいた。

15年近くも記事を書いていると、過去の記事を振り返って色々な思い出が蘇ってくるが、みなさんと素敵な一時代を共有できたことを幸せに思います。

みなさんにとって、次の 15 年も素敵でエキサイティングなものでありますように。

さようなら。また、どこか別の場所で!

The Proposal From Mactopia
林 信行 Nobuyuki Hayashi
林 信行 e-mail 
IT ジャーナリスト & コンサルタント。アップル社の製品やビジネス、カルチャーを'90年から取材。Blog やソーシャルネットワーク、インターネットビジネス、携帯電話関連の記事を、経済誌や新聞、パソコン雑誌に執筆。日本だけでなく英米、フランス、韓国、ドイツなど海外媒体にも記事を提供。企業やビジネスセミナーでの講演、コンサルティングも行っている。最近の著書は「 iPad ショック」 (日経BP社刊) 、「 iPhone とツイッターは、なぜ成功したのか?」 (アスペクト刊) 、「アップル vs グーグル」 (ソフトバンク刊、共著) などがある。ブログ「nobi.com(twitter)」も更新中。nobi.comtwitter)」
(記事引用)

下記ロゴは本文とはリンクしない(オリジナル・ロゴ)

coooll242_edited-1






迷走するアメリカのシリア政策
Platnews Daily Brief Platnews 2015年11月08日 14:39
前代未聞の難民に揺れるヨーロッパとは大西洋を挟んでいるアメリカは、シリア難民問題はまるで他人ごとのようである。オバマ大統領は1万人の難民を受け入れると表明したが、ドイツに押し寄せた難民40万人からすれば雀の涙でしかない。むしろアメリカはISISが中東でこれ以上勢力を拡大することの方を深刻に受け止めている。だが、アメリカのシリア政策は基本的には不介入であり、反政府勢力への軍事支援に留まっている。

ロシアはシリア内のISISへの空爆を開始して本格的な介入を始めている。ロシアのシリア政策はアサド政権の支援とテロリストを許さずそのため力の行使も厭わないという強い姿勢で一貫している。

それに対してアメリカのシリア政策は迷走している。10月には5億ドルをつぎ込んだ「新シリア軍」創設のプログラムを無駄だと中止し、新たにシリア内のクルド人やアラブ人武装勢力に軍事支援をすると決定した。だが支援した武器がその後誰の手に渡るのかなどの追跡もなく実効性には疑問が残る。その後オバマ大統領は特殊部隊の派兵を決定したが、そこには明確な戦略が見えてこない。国内ではイラクやアフガニスタン戦争のように泥沼に入り込むのではないかと懸念する声が高く、また任期が迫ってきているオバマ大統領に長期的な介入を始める意志はないように思える。そのため場当たり的な政策の繰り返しに陥っているのではないだろうか。

増える難民に悲鳴を上げるヨーロッパ諸国とアメリカではシリア問題にかなりの温度差がある。ヨーロッパにとって難民は「いまそこにある危機」である。ヨーロッパが迷走するアメリカにシリア問題への現実的な解決を迫ったとしても不思議ではない。

シリア和平会議が10月30日ウイーンで開催され、アメリカ、ロシアはもちろん、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、EU代表、トルコ、サウジアラビア、エジプトを始めとするスンニ派諸国に加えてシーア派の雄イランが参加してシリアの内戦終結に向けての協議が行われた。

アメリカとロシアの根本的な対立はアサド大統領の進退である。アサド大統領の退陣を求めるアメリカと、留任を求めるロシアが妥協しないため政治的な解決はこれまで困難だった。さらにシリアをスンニ派政権にしたいトルコやサウジアラビアなどの湾岸諸国とシーア派政権を維持したいイランの思惑が対立し政治的な決着は不可能そのものだった。
だが、増える難民、勢力を拡大しつつあるISISの脅威と任期が迫ってきたケリー長官の焦りからかアメリカが妥協の余地を見せ始めた。今回の和平会議でも議題はシリアの政治的安定と難民問題に絞られていて、アサド大統領の進退問題は封印された。

アメリカの妥協の姿勢はすでに9月28日の米露会談で露わになった。この席でオバマ大統領は、アメリカとサウジアラビアやトルコらの湾岸諸国、ヨーロッパはアサド大統領の期限付き留任を認めることで合意したと申し出た。プーチン大統領もアサド大統領の期限付き留任を容認する姿勢を見せ始め、現実的な妥協点がようやく見え始めたのである。

2016年には大統領選挙が行われる。2期を務めたオバマ大統領には次がない。アメリカの政治は大統領が交代すると外交政策がまったく異なる方向へ転換することが少なくない。次期大統領が民主党であれ共和党であれ、オバマ大統領とケリー長官が築いてきた外交の積み重ねが一瞬にして崩壊し、シリア内戦終結が遠のく可能性もある。

大統領選挙において民主党の最有力候補であるヒラリー・クリントンはリベラル・ホークである。人道主義のためなら武力行使も厭わないという筋金入りの人権派であるクリントンが大統領となった場合、化学兵器を使用したとの疑惑があるシリアのアサド大統領に穏健な態度で臨むことはないだろう。また、国務長官時代にはシリア反政府グループを支援することに積極的だったことからも、シリアに関しては妥協のない強硬な路線を取る可能性は小さくない。

翻って共和党から大統領が選出された場合、それが誰であれ現在のようにロシアやイランとの話合いや妥協路線を取ることはないと思われる。共和党はそもそもロシアやイランには強硬路線を敷く。

だからこそケリー長官は、強い信頼関係があるロシアのラブロフ外相とタッグを組むことのできる今のうちにシリア問題を解決させたいとの強い思いがあるのではないだろうか。ケリー長官の渾身の外交交渉がシリア内戦解決の期待を高める。

一方でロシアのエジプト発の旅客機が墜落するという悲劇が11月に入ると起きたが、アメリカは当初からテロの可能性を示唆していた。ロシアがシリア内で空爆を実施していることへの報復だとISが犯行声明を出したが、疑問視されていた。しかしイギリスがテロを示唆したことから、今ではテロではないかとの見方が強まっている。プーチン大統領は情報機関の助言を受けてロシア国民にエジプトへの渡航を禁じると発表したため、ますますテロの可能性が高まっている。

アメリカが懸念しているのは、このようなアメリカ国民を狙ったテロである。だからこそオバマ大統領は本気でシリア内戦への介入を避けてきた。だが特殊部隊を派遣し和平会議に参加して介入を深めれば、否応なしにテロの標的となる。また国際社会の中でシリアへの関与を求める圧力が高まっている。

先週、1つの小さな死亡記事が載った。
イラク人のアフマド・チャラビがイギリスで死亡したというものだ。チャラビは、フセインが大量破壊兵器を所有しているとの情報を当時のブッシュ政権に提供しブッシュ政権がイラク戦争へと突入する根拠を作った張本人である。チャラビはイラクの政治家であり、フセイン時代には海外に亡命して不遇をかこった政治家であった。彼はポール・ウフフォウイッツ国防副長官、チェイニー副大統領らのネオコンと親交があり、ネオコンと共にイラク戦争へとアメリカを巻きこんだその人である。

アメリカのイラク戦争によってフセインが取り除かれ、イラクにはシーア派政権が誕生した。その後イラクではシーア派とスンニ派の熾烈な宗派抗争が勃発し、多くのスンニ派が冷遇された。彼らの中にはシリアへと逃れた者も少なくない。彼らは10年あまりにわたってシリアに潜伏して巻き返しの機会を待っていた。それがアラブの春によるシリア民主化運動の盛り上がりに乗じて動き始めたのである。そしてやがてその動きがISISとなって勢力を拡大し現在に至るのである。

歴史に「もし・・」は禁句であろう。だが、もしチャラビがイラク戦争を煽らずブッシュ政権が戦争を始めなければ今のISはなかったかもしれない。もし、ネオコンが政権内で影響力を持っていなかったら、戦争は始まらなかったかもしれない。ISISの問題はアメリカを映す鏡なのである。

ヨーロッパもまた、ISISという鏡によって映し出されているのである。アラブの春による民主化運動をヨーロッパ諸国は歓迎し支援した。チュニジア、エジプト、イエメンでも国民によって政権は転覆した。だがリビアでは「民主化」という理想の名の下に空爆による介入をした。その後のリビアはいまだに内戦状態に近い。

シリアもまた、「民主化支援」という理想の名の下にヨーロッパは反政府勢力に支援を行った。その結果4年を超える内戦が続きISISという過激な組織が勢力を伸ばした。そしてロシアの空爆が開始され民族の大移動ともいえる難民がヨーロッパに押し寄せている。人道主義を掲げるヨーロッパは難民を受け入れるしかなく、その想定外の多さにどの国も疲れ果てている。

ドイツではメルケル首相が難民の受け入れを表明したためさらに難民が増え続けており、ドイツへの道を辿る難民たちが通過する国々は困惑し混乱している。人道主義、民主化運動という理想と現実のギャップを突きつけられてヨーロッパは今、揺さぶられているのである。

川上高司(かわかみ・たかし) 拓殖大学海外事情研究所所長・教授。専門は安全保障、米国政治、日米関係。著書に、『無極化時代の日米同盟』(ミネルヴァ書房)、『アメリカ世界を読む』(創成社)など。
(記事引用)
 アフマド・チャラビ。イラク国民会議(INC)を率いるシーア派のイラク人政治家だ。イラク戦争前には、在外イラク人亡命者を組織して反サダム・フセイン運動を展開し、はじめは米中央情報局(CIA)に雇われ、次に国務省から金を貰い、最後には国防総省をスポンサーにつけて米国をイラク戦争に駆り立てた男。

 ブッシュ前政権のネオコンに寵愛され、「イラク大量破壊兵器」情報や「サダム・フセインとアルカイダの関係」を示唆するイカサマ情報を米国に提供し、米国のイラク侵攻に一役買ったあの人物である。

 チャラビは、戦後のイラクにおいて、サダム・フセイン体制を支えたバース党員を徹底的に公職から追放することを狙った「非バース党化政策」を強引に推進し、事実上イスラム教スンニ派を政治プロセスから排除することで、シーア派・スンニ派の宗派抗争に火をつけ、戦後イラクを泥沼の内戦に陥れた張本人の1人である。

 あの悪名高い「戦争詐欺師」が、再びイラクをテロと殺人の恐怖に満ちた宗派闘争の混乱へと陥れようとしているのか・・・。

イラク安定化の鍵を握るスンニ派の政治参加

 イラクは現在、3月7日に予定されている国民議会選挙を前にして、激しい選挙戦の真っ只中にある。イラクの憲法によれば国民議会の定数は325議席で任期は4年。全議席の3分の2以上の賛成で「大統領」を選出し、新大統領は最大会派が推薦する人物を「首相」に任命し組閣を要請することになっている。つまり、この国民議会選挙により、次の大統領や首相、そして新政権の顔ぶれが決まり、今後のイラクの方向性が決定づけられることになる。

 それだけに、各勢力はこの選挙に向けて激しい選挙戦を繰り広げており、文字通り血生臭い権力闘争に発展している。

 イラクでは、2003年にフセイン政権が倒されるまで、少数派であるスンニ派が支配的地位にあり、アラブ社会主義を掲げるバース党による一党支配体制が敷かれていた。この間クルド人や多数派を占めるイスラム教シーア派は徹底的に弾圧され、圧政下に置かれた。ところが米軍によるフセイン政権の打倒後、シーア派とクルド人が中心となる新政権が誕生し、バース党に同調するものが公職に就くことは法律で禁じられるようになった。

 しかし、「一体誰がバース党員なのか」についての明確な定義は存在せず、実際にはかつて支配的な地位にあった少数派のスンニ派を排斥する際の根拠として、「バース党とのつながり」が政治的に乱用されてきたという経緯がある。

 フセイン政権崩壊直後には、「非バース党化政策」が導入され、旧バース党による権力構造が解体され、同党の指導者たちが権力の座から取り除かれたのだが、実際にはチャラビのようなシーア派の一部が、スンニ派に対する報復の意味を込めてこの政策を悪用・乱用したため、各省庁の中堅職員から小学校の教師まで含め、数百万人のスンニ派が一夜にして職を奪われることになった。

関連資料 ウィキぺデア


フェースブックの新機能に波紋
個人情報利用に対し強まる米議会の圧力
Bloomberg Businessweek 2010年5月27日(木)日経ビジネス
Douglas MacMillan (Bloomberg Businessweekスタッフライター、ニューヨーク)
米国時間2010年5月13日更新 「Facebook's Washington Problem」
 創業から6年、交流サイト事業で躍進を続ける米SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)最大手フェースブックは、数億人の会員が互いに交流できる画期的なサービスを提供し、好評を博している。だが同時に、同社は一貫して、会員の個人情報を保護するより活用する姿勢を示してきた。

 現在、フェースブックのプライバシー保護に関する問題が、米議会で新たな論争の火種になっている。5月12日、チャールズ・シューマー上院議員(民主党、ニューヨーク州)の議員秘書が、フェースブックの広報・政策対応担当責任者エリオット・シュレージ氏と米ワシントンで会談。同社のプライバシー保護をめぐる問題について話し合った。事情筋によれば、シューマー議員はこの問題を取り上げる議会公聴会の開催について、同僚議員と協議中だという。

 マーク・ベギッチ上院議員(民主党、アラスカ州)も、フェースブックが新たに導入した会員データ収集機能について懸念を表明。フェースブックのこうした行動は、問題行為を意に介さない同社の傲慢さの表れだと述べた。

 フェースブックは、会員が自分で記入したり、交流相手に送信したりした情報を基に、その会員向けの飲食店ガイドや楽曲リストを自動生成する新機能を導入。4月27日、ベギッチ、シューマー両議員は、アル・フランケン上院議員(民主党、ミネソタ州)とマイケル・ベネット上院議員(民主党、コロラド州)との連名で、フェースブック創業者のマーク・ザッカーバーグCEO(最高経営責任者)に書簡を送り、商業価値のある会員の個人情報を必ずしも本人の同意を得ず、外部の提携ウェブサイトや販促活動を展開する事業者に提供しているとして批判した。

 ベギッチ議員の議員秘書とフェースブック関係者は5月初めにワシントンで協議したが、同議員によれば、今のところ改善は見られないという。同議員は、フェースブックが善処しないことから、「議会は行動を起こし、この問題の重大性を同社に認識させる必要がある」と主張する。

 2004年に創業したフェースブックは、消費者の嗜好情報について、世界有数の豊富なデータを蓄積している。会員が登録・更新した情報や製品に関する意見、交友関係、趣味など、世界中に4億人以上いるフェースブック会員が交流サイトに書き込んだデータは、販促活動を展開する企業やウェブで情報発信する企業にとって魅力ある情報だ。業界アナリストらによれば、新たに導入したデータ収集機能により、フェースブックは広告収入の拡大が見込めるという(株式を上場していない同社は、業績を公開していない)。

 独自の交流サイト事業を展開する米ソフトウエア最大手マイクロソフト(MSFT)のリサーチャー、ダナ・ボイド氏は、「会員に嗜好情報の開示を促すことで、フェースブックには利益獲得の機会が生まれる。今、会員たちはこの事実に気づきつつある」と語る。

 今年5月14日の誕生日で26歳のザッカーバーグCEOは、米ハーバード大学在学時に創業したフェースブックの交流サイト事業について、理想主義的な理念を掲げている。同CEOは今年1月、米サンフランシスコで開催された業界イベントで、「会員は様々な情報をよりオープンに、より多くの人と安心して共有できるようになった」と語った。

 ザッカーバーグCEOはオープンな情報交換の場を標榜するが、これを別の角度から見れば、会員に個人の情報開示を過剰に奨励しているとも言える。一部議員が現在取り上げている問題だけでなく、個人情報保護にあまり熱心ではないフェースブックの行動は、ここ数年、何度も物議を醸してきた。
(記事一部引用)
 
関連記事
http://blogos.com/article/145905/

1-133
 

エシュロン(Echelon)の実態 
「資料ウィキぺデア」
エシュロン(Echelon)は、アメリカ合衆国を中心に構築された軍事目的の通信傍受(シギント)システム。
同国の国家安全保障局(NSA)主体で運営されていると欧州連合などが指摘している一方、アメリカ合衆国連邦政府自身が認めたことはない。

フランス語で「(梯子の)段」を意味する語・échelonに由来する。エドワード・スノーデンの告発により、PRISMで有線データ通信さえも盗聴されていることが明らかになった。収集・分析・分類・蓄積・提供の各機能によって構成されていると考えられている。
nase
エシュロンはほとんどの情報を電子情報の形で入手しており、その多くが敵や仮想敵の放つ電波の傍受によって行われている。1分間に300万の通信を傍受できる史上最強の盗聴機関といわれている。
電波には軍事無線、固定電話、携帯電話、ファクス、電子メール、データ通信などが含まれており、同盟国にある米軍電波通信基地や大使館・領事館、スパイ衛星、電子偵察機、電子情報収集艦、潜水艦を使って敵性国家や敵性団体から漏れる電波を傍受したり、時には直接通信線を盗聴することで多量の情報を収集していると言われている。

現代においては、データ通信の大部分は、光ファイバーを利用した有線通信によって行われており、傍受することは極めて困難である。
それでも例えば、20世紀末までは海底ケーブルの中継器に傍受装置を取り付けることで光ファイバでも盗聴が可能であったが、1997年以降からは電気アンプから光学的に増幅するアンプに変わったために不可能になった(ところが2013年には、エドワード・スノーデンの告発により、PRISMで有線データ通信さえも盗聴されていることが明らかになった)。

電気通信事業者の協力を得てデータ収集を行っている可能性も指摘されている。電子フロンティア財団は、NSAがサンフランシスコのSBCコミュニケーションズ(現AT&T)施設(Room 641A)に傍受装置を設置してインターネット基幹網から大量のデータを収集・分析していたとし、アメリカ合衆国政府およびAT&Tに対し訴訟をおこしている(アメリカの連邦法はNSAやCIAが国内で盗聴はもちろんのこと、一切の諜報活動を為すことを禁じている。これは活動即ち、政府が主権者たる国民を敵視している事を意味するからである)。
この情報収集活動には、米国のみならずエシュロンに加盟している各国もアンテナ施設の設置を認めるなど、さまざまな形で協力していると言われている。

分析
 
ここから先のほとんどの作業が、NSAの施設内で行われると考えられている。収集された生のデータは膨大であり、それらを短時間で中身を分析して保存すべき情報と破棄すべきものとに分けなければならない。
コンピューターの発達によって、エシュロンの分析作業も高度に自動化されたが、同時に敵性国家・団体も高度な暗号化が容易に使用できるため、生データの暗号解読からはじめなければならないようになっている。暗号解読が済めば、中身に「爆弾」などのテロ行為を連想させる、あらかじめ登録された単語が含まれていないかが自動認識されて、無害と判断された情報は破棄される。

暗号解読と内容の重要度の自動認識が済めば、次は人間とおそらくコンピューターによる情報の分類作業が行われる。この時点でさらに内容が吟味され不要な情報が破棄される。おそらく、内容によって重要度がランク付けされ、いくつかのキーワードによる索引が与えられる。

分類された情報がいよいよデータベースに登録される。インターネットがデータベースで無いとすれば、エシュロンは世界最大規模のデータベースとする意見が多数であると考えられる。

高度に暗号化されたネットワークを通じて、世界中のエシュロン・ターミナルからエシュロン・データベースにアクセスできる。提供される情報内容は閲覧者の保安レベルや国別・部署別にカテゴリー化されていて、例えば米国の不利益となる可能性がある情報は、他国の閲覧者には提供されないなどの重層的なセキュリティが施されていると考えられている。

2007年末時点で参加している国は、アメリカ合衆国、英国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドであり、英米同盟(UKUSA、ウークサ。United Kingdom & United States of America)とも呼ばれるアングロサクソン諸国とされる。UKUSAは、1948年にアメリカとイギリスとの間でUKUSA協定が結ばれたことに始まり、カナダ・オーストラリア・ニュージーランドは2次メンバーとして後に参加した。米国以外はイギリス連邦国家である。

ギリシア、スペイン、ドイツ、日本など、いくつかの同盟国にも、参加は認めないものの傍受局を置いているとされる。これらの国と独自情報を提供する協力国を含めて「サードパーティー」と呼ばれ、エシュロンの閲覧は許可されないものの、UKUSAの国益に反しない限りにおいてエシュロンで得られた情報の提供が行われることがある。

日本には、青森県の三沢飛行場近くの姉沼通信所に傍受施設(通称「ゾウの檻」)が存在し、1,000人単位のNSA要員が詰めていると言われる他、東京都心のいくつかのUKUSA同盟国の公館内(駐日アメリカ合衆国大使館等)にも傍受施設が存在し、分担して傍受活動を行っているとされている。

1844年にモールス信号による電信通信が実用化され、それ以降、世界各地で電信網が整備されていった。1872年に、大英帝国がインドや香港などの植民地との電信による通信業務を行なう国有企業「イースタン・テレグラフ社」(以降、イ社と略記する)(現・ケーブル・アンド・ワイヤレス社)を設立した。イ社は、19世紀末には全世界の国際通信網の1/3を保有するまでになった。

21世紀の現在では、個人や私企業が行なう通信の盗聴・傍受にはさまざまな規制があるが、当時はこういった障壁はなく、英国政府はほぼ自由にイ社の通信情報を取得していたと考えられる。イ社の通信システムは、エシュロンと直接の関係はないが、国家による通信傍受のための大規模なシステムとして、エシュロンの手本になったと考えられる。イースタン・テレグラフ社の通信システムは、英国にとってエシュロンと同等の役割を担っていたシステムとして語られる。

40号室
1914年に第一次世界大戦が始まると、英国海軍省は省内に直ちに「40号室」(Room 40)と呼ばれる暗号解読専門部署を開設し、軍民の語学の専門家などが集められた。これがエシュロンの直接の先祖といえる。マタ・ハリの逮捕、ツィンメルマン電報事件など、多数の秘密通信解読での活躍で、情報戦争の有用性を示した。

MI8
第一次世界大戦に参戦した米国は、自国の暗号戦での脆弱性を認識して「MI8」(陸軍諜報部第8課)をワシントンに開設した。

米国国務省から転出し、初代課長となったハーバート・O・ヤードリー(当時27歳)は、若いながら暗号解読のエキスパートだった。しかし、当時の米国は暗号解読技術の後進国だったので、フランスの情報解読機関「シャンブル・ノワール」(Chambre noir、黒い部屋)と、英国陸軍省情報局、英国海軍省情報部(40号室)を廻って、これらの進んだ技術を吸収した。

ドイツの暗号を解読していたMI8は、第一次世界大戦の終結と共に閉鎖が検討され、結局、暗号作成などの一部の業務が国務省と陸軍省の機密費で存続した。1917年にはニューヨークに移動し、後に「ブラック・チェンバー 」(Black Chamber、黒い部屋)として知られる場所が誕生した。年間予算は10万ドル程で、人数も10人前後であった。

GCCS
 
英国海軍省40号室も、第一次世界大戦の終結によって、一時閉鎖された。しかし、すぐに陸軍の暗号解読班と統合して、軍隊から転出するという改組によって復活し、新たな名前として「政府暗号学校」(Government Code and Cipher School, GCCS) が与えられた。

学校と名乗っていたが、実体はそれまでと変わらず、通信傍受と暗号解読に関する情報機関であった。年間予算は22,000ポンド程で、人数も70人前後であった。

GCCSの発足後、英国政府は英国国内の全ての電信会社に電文の写しの提出を命令した。英国でも営業していた米国の通信会社ウエスタンユニオンはこれに強く抗議した。
米国議会上院委員会の公聴会でのウエスタンユニオン社社長の発言によって、米国の電信通信が英国で傍受され続けていたことが判明した。

米国政府は、友好国である英国が大戦中から継続的に情報を収集していたことに危機感をもち、これ以降、暗号能力の強化に努力を注ぐことになる。MI8(英国軍情報部第8課)のブラック・チェンバーとともに、陸軍通信隊のウィリアム・F・フリードマンという暗号の天才も才能を開花させ、米国の暗号能力はこの後、飛躍的に向上する。

ヤードリーが率いるMI8による米国の暗号解読能力は、1921年のワシントン海軍軍縮会議で発揮された。後にネーバル・ホリデー(海軍休日)として知られる軍縮を決める会議において、日本の交渉使節団の本国との暗号通信を傍受・解読し、日本側に不利な条件で条約が締結された。

1941年12月8日未明(日本時間)に始まった真珠湾攻撃の事前情報においても、11月末から日本の太平洋艦隊が無線封止を行い、攻撃態勢に入ったことが予見されていた。
また、英国は千島列島から出撃する日本の通信を11月25日に傍受解読していたとされており、米国を友軍としていた英国が米国に知らせなかったとは考え難い。

これ以前の1940年11月の段階で、米英の暗号解読を担う部署間の協力体制は完了しており、対独暗号解読機と対日暗号解読機を相互に交換していた[6]。GCCS内に米国陸軍情報部員の立入りが認められ、米国の参戦後は協力して働くまでになった。
第二次世界大戦における米英の暗号解読能力は、戦局を左右するほど強化され、有効に活用された。

エシュロンの誕生
 
1943年5月17日に「英米通信傍受協定」(ブルサ協定)が結ばれ、この時にエシュロン・システムが誕生したといえる。1948年には、米、英、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド間の秘密協定としてUKUSA協定が結ばれ、通信傍受の協力体勢が作られた。

1949年には統合参謀本部安全保障局が作られ、1952年には国家安全保障局(NSA)に改編された。この頃から、エシュロン・システムは拡大を始め、2008年の現在に至る[2]。

関与したとされる事件
 
エシュロンの情報収集活動に関連があると推定されている事件を示す。ただし両事件とも、エシュロンの関与を実証する証拠はない。これらはいずれも、NSAの情報収集要員が米海軍や米空軍の部隊に同乗していたとされ、NSA自身は独自の艦艇や航空機を保有してはいない。

プエブロ号事件
 
1968年に起きた、米国の情報収集艦が国境侵犯を理由に北朝鮮軍に拿捕されたプエブロ号事件では、乗員1名が死亡し、残る乗員82名が11ヶ月間も拘束されたのち、米国の「謝罪」によって乗員のみ送還されるという米国にとって屈辱的な結果となった。

海南島事件
 
2001年4月に海南島付近の南シナ海上空(公海上)で発生した米国と中国の軍用機が空中衝突した事件では、海南島に不時着した米国海軍所属の電子偵察機EP-3EにはNSAの複数要員が乗り込んでいたとされ、エシュロンに関わる情報収集の一環であったとする噂がある。

欧州議会による報告書
 
2001年7月、欧州議会の「エシュロン通信傍受システムに関する特別委員会」は「世界的な私的、または商業通信の傍受システムの存在(エシュロン傍受システム)」という最終報告書を発表した。

この報告書では、「UKUSAによる全世界的な傍受システムが存在することは疑いない」と断定し、また「重要な点は、軍事通信だけでなく私的、あるいは商業通信の傍受を目的としていることである」としている。 ただし、傍受システムの限界として、どれだけ大規模なリソースと能力を用いてもすべての通信の徹底的で詳細なモニタリングは、実際にはその膨大な通信量から不可能であるとも指摘している。
同報告書によれば、エシュロンの傍受基地とみられる施設は以下の地域に存する。

※括弧があるものは、確証はないが傍受に参加していると推定される基地。 括弧のないものは、同報告書によってエシュロン傍受基地と確定された。

イギリス:メンウィスヒル、(モーウェンストー)
ドイツ:バドアイブリング
キプロス
トルコ
香港(1994年廃止)
日本:青森県三沢飛行場
オーストラリア:ジェラルトン、パインギャップ、(ショールベイ)
ニュージーランド:ワイハバイ
(グアム)
アメリカ合衆国:ヤキマ、パクリーフィールド、シュガーグローブ、(NSA本庁)、(メディナアネックス)、(フォートゴードン)、(ハワイ)
カナダ:(レイトリム)
プエルトリコ:サパセナカ

エシュロンとメールシステムの危険性

エシュロンは辞書を持ち、この辞書に登録された文字列を含むメールを盗聴している。 この辞書にメールアドレスが登録された場合、このメールアドレスに対する全てのメールが盗聴されている。
盗聴されたメールには登録済みのメールアドレスだけでなく未登録のメールアドレスが含まれている。 この未登録のメールアドレスをエシュロンの辞書に登録することができる。

このようにしてエシュロンは、人知れずに盗聴範囲を拡大している。 エシュロンの辞書に登録済みのメールアドレスにメールを送受信するだけでエシュロンに盗聴される。 エシュロンは、エシュロンが盗聴しているメールアドレスの送受信先メールアドレスを記憶している。
エシュロンが盗聴しているメールアドレスを変更しても、記録されている送受信先のメールアドレスを盗聴し、変更後のメールアドレスで記録されている送受信先のメールアドレスにメールを送受信することで、再びエシュロンに盗聴される。一度に全てのメールアドレスを変更することは現実的ではなく、エシュロンの盗聴から逃げ出すことはできない。 以上が、エシュロンとメールシステムの危険性である。

日本とエシュロン

三沢基地 姉沼通信所(1990年代、米空軍撮影)
奥に見える大きな輪状のアンテナ施設は通称「ゾウの檻」と呼ばれていたが、既に使用が中止され撤去が予定されている。北緯40度43分14.3秒 東経141度19分21.7秒

ジャーナリストの池上彰によれば、日本にもエシュロン傍受施設は存在し、青森県の三沢基地に置かれている。また朝日新聞も2001年に、日本を含むアジア・オセアニア地域に置かれた傍受基地の存在を報道している。

日本政府、日本企業も監視の対象とされており、無線、短波無線、携帯電話、インターネット回線など、ありとあらゆる日本国内の通信が常に傍受され、データはニュージーランドの通信所に送られてエシュロンに蓄積されているという。日本に関する情報収集の対象は主に経済分野であり、経済活動をアメリカ政財界に更に有利にするための、トップの意思決定についての情報収集を重点的に行っているとされる。

なお、公式には青森県三沢基地姉沼通信所付近にあるレドームは、三沢基地が真冬の降雪や台風・爆弾低気圧の暴風などの悪天候が頻発しやすい場所であり、これらの悪天候からレーダーや通信機器を守るために設置されているものである。

複数のレドームが立ち並んでいる理由は、一重にレーダーといっても大型の航空機探知用のレーダーにも複数の種類がある上、地上発射方式のミサイルの誘導を行うための小型レーダーを、ミサイルを誘導するだけ揃えなくてはならないのが理由である。

1980年代から90年代初頭における、アメリカ政府の度重なるダンピング提訴や、日本企業とアメリカ企業との間の受注合戦や訴訟合戦において、アメリカの国益を守るために、三沢飛行場、ワシントン州、ニュージーランド、オーストラリア、香港(現在は撤去)のエシュロンをフル稼働させた可能性があり、それが日本の企業活動に大きな損害を与えたとされる。

その一方、施設を提供している見返りとして、日本政府の求めに応じて、エシュロンから得られた情報が提供されたと推定される例がいくつかある。
北朝鮮の最高指導者金正日の長男金正男が成田空港で摘発された事件がそれであり、事前に日本に対して通報があったとされる。また、日本赤軍最高幹部であった重信房子が極秘裏に日本に帰国して潜伏しているという情報も、エシュロンによって情報が得られ、日本政府に通報されたと噂されている。

2004年、『週刊ポスト』が、日米首脳会談で小泉純一郎内閣総理大臣が、日本のエシュロンへの参加を打診、アメリカ政府が、イラク戦争での多国籍軍参加の見返りに、エシュロン参加を許可したと報道したが、その真偽は謎のままである。このように、エシュロンが高い機密性を持つために、多くの事象は疑いがありつつも確証まで至らないのが現状である。
なお、綴りの上からも英語の実際の発音からも「エシェロン」の方がカタカナ表記としては近いが、日本語としては「エシュロン」が定着している。これは、原語であるフランス語の発音に近い。

この記事に雑多な内容を羅列した節があります。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。(2015年9月)
2000年1月下旬にエシュロン・システムが全面的に72時間システム・ダウンし、修復作業に150万米ドルがかけられた。
EP-3電子戦機とのデータリンクによって、航空機からの情報収集も可能と言われている。
アメリカの世界戦略の中で、敵味方無関係に情報を収集している行為については、特に非アングロサクソンのヨーロッパ諸国で反発が強く、フランスはエシュロンに対抗する全世界規模の傍受通信網「フレンシュロン」を構築しているとされる。当然、アメリカ政府はエシュロンの存在を認めていない。
また、ロシアも旧ソ連時代の1977年から、GRUとFAPSI(連邦通信情報局)により「敵データ統合記録システム(SOUD)」と呼ばれる同種の傍受網を構築していると言われている。
日本・アメリカの貿易交渉中(1995)に日本政府の官僚の会話を盗撮してたらしい。エシュロンで収集した情報を熱くなった交渉に利用された。

関係機関
英米同盟5ヶ国のSIGINT機関。
アメリカ - アメリカ国家安全保障局(NSA)
イギリス - 政府通信本部(GCHQ)
カナダ - カナダ通信安全保障局(CSEC)
オーストラリア - 参謀本部国防信号局(DSD)
ニュージーランド - 政府通信保安局(GCSB)
(記事引用ウィキぺデア) 

1970年昭和45年三島由紀夫事件
1970年は大阪万博が開催された年であった。日本が世界に向けて、飛び立とうとする時代である。
そのような時代背景の中で、この事件は起きた。世間は、その意図を何も理解しない、出来ない状態で、その解釈に苦しんだ。それから45年経って、いまだに理解できない。
天才作家のたわごと、華族願望の国粋主義者などと風評は芳しくなかった。
Mishima_Yukio_1970
(※華族とは、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家に由来する華族を公家華族、江戸時代の藩主に由来する華族を大名華族(諸侯華族)、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別 ウィキぺデア)

三島由紀夫事件 没後45年 現代へのメッセージ
2015.11.23 06:00 産経ニュース 
昭和45年11月25日、秋晴れに包まれた陸上自衛隊市ケ谷駐屯地。
 「自衛隊にとって建軍の本義とは何だ。日本を守ること。日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることである」

 バルコニーからこぶしをかざして声を振り絞る三島由紀夫=当時(45)。だが、自衛隊員の罵声と上空を舞う報道各社のヘリコプターの爆音に、その声はかき消される。

 「お前ら聞けぇ。静かにせい。男一匹が命を賭けて諸君に訴えているんだぞ。今、日本人がだ、自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は武士だろう。武士ならばだ、自分を否定する憲法を、どうして守るんだ」

 「諸君の中に1人でも俺と一緒に起つやつはいないのか」

 三島の右後ろには、「七生報国」の鉢巻きをした楯の会学生長の森田必勝=同(25)=がすさまじい形相で仁王立ちしている。

 「一人もいないんだな。それでも武士かぁ。憲法改正のために立ち上がらないと見極めがついた。これで、俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ」

この間、わずか10分。演説を断念して最後に「天皇陛下万歳」を三唱、総監室に戻った三島は「こうするより仕方なかったんだ」と漏らすと、森田と割腹自決した。

 楯の会の元会員はこう推測する。「バルコニーに立った三島先生と森田さんは、その場で自衛隊員に狙撃されることを覚悟、否、それを望んでいたかもしれない。決起は森田さんの意向が強かったと思う。森田さんは情熱的な人で、森田さんがいなければ決起していないだろう。森田さんがもちかけたとも考えられる」

■  ■

 三島がその森田と初めて会ったのは、43年3月の陸上自衛隊富士学校滝ケ原駐屯地での体験入隊だ。当時、早稲田大2年生で、民族派学生組織「日本学生同盟」(日学同)に所属していた森田は、スキーで右足を骨折していたにもかかわらず、1週間遅れで参加した。
 骨折した足をかばいながら訓練を続ける姿に三島はまず、感激したという。 三島は後日、離隊の際、涙を流す学生の姿に「戦後初めて『男の涙を見た』」と述べているが、森田も涙を流した一人だ。体験入隊に参加した1期生の篠原裕(68)は「離隊の時、森田さんが、『ちくしょう、なんでこんなに涙が出るんだ』と泣きじゃくっていたのを覚えている」と振り返る。

 森田と日学同時代に同志だった評論家、宮崎正弘は著書「楯の会以後」の中で、体験入隊が終わった直後、森田が宮崎の目の前で「先生のためには、いつでも自分は命を捨てます」と礼状を書き、速達で送ったと述べている。三島も感激したのだろう。宮崎はその後、「どんな美辞麗句を並べたお礼よりも、この一言に参った」と三島から言われたと、森田が話していたと記している。

 三島は民族派学生による論争ジャーナルに寄稿した「青年について」で、「覚悟のない私に覚悟を固めさせ、勇気のない私に勇気を与えるものがあれば、それは多分、私に対する青年の側からの教育の力であろう」と述べている。森田は三島が言う「青年」の一人だった。森田と三島が同志として結束が強まるのに時間はかからなかった。

■  ■

 三島がいずれ何かをするのでは、と感じていた5期生の村田春樹(64)は、45年6月1日、森田に会い、「腹を切る勇気がない」と退会を申し出ている。村田によると、森田は「俺だっていざとなったら小便ちびって逃げるかもしれない。人間なんていざとなったら弱いもんだ。だから、君ももうちょっと会にいてみろ」と答えたという。村田は森田の言葉に脱会を撤回したが、この時点で既に決起と森田の自決は決まっていた。村田は「あのとき、森田さんは『村田よ、安心してもう少し会にいてみろ。お前の代わりに俺が行くから』と言いたかったのではないかと思う」と振り返った。
作家の三島由紀夫が政治的色合いの濃い評論や随筆を書き始めたのは「英霊の声」を「文藝」に発表した昭和41年6月ごろからだ。

 二・二六事件の決起将校と特攻隊員の霊が盲目の少年の口を借りて、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし」を呪文のように繰り返し、二・二六事件での天皇の対応と、終戦後の人間宣言に疑問を投げかけている。

 ところが、三島は事件の際には「天皇陛下万歳」を叫んで自決した。一見すると、その言動に矛盾を感じるが、三島は43年4月、文芸評論家の秋山駿との対談で、「危険な言説を吐いたら、これから責任をとらなければならないでしょう。(中略)なにか自分にも責任がとれるような気がしたのです。だからあんなことを書いたのです。そういう見極めがつかなければあんなもの書けないですね」などと吐露している。

 事件後、三島文学に興味を持ったという篠原裕はこう話す。「陛下には他の人が抱けない強い思いを寄せていた先生が、なぜ『人間となりたまいし』とまで言わなければならなかったのか。なぜ天皇陛下万歳と言って腹を切らなければならなかったのか。 
 先生の天皇に対する思いは一貫しているのです。だが、言ってはいけないことを言ったから責任はとりますと。英霊の声を書いた時点から死んで責任を取るという覚悟はできていたと思う」
「英霊の声」の発表後、学生との交流を持ち、祖国防衛隊構想実現に向けて行動を開始した三島は43年7月、中央公論に発表した「文化防衛論」で、天皇は日本人の歴史的連続性、文化的統一性、民族的同一性の象徴であるとし、政治概念によって天皇が利用されることを防ぐためにも、「天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくことが急務なのであり、又、そのほかに確実な防止策はない」と指摘している。

 三島は「論争ジャーナル」に寄稿した「青年について」で、学生との出会いについて、「はじめて妙な虫が動いてきた。青年の内面に感動することなどありえようのない私が、いつのまにか感動していたのである」と述べている。学生が三島と出会い、具体的な目標を持ったように、三島も学生と出会い、「行動」に向けて舵を切り始めたのだろう。

 政治的発言を活発化させる三島は、祖国防衛隊に代わる楯の会を結成した。

 ある元会員は言う。「先生の純粋さとわれわれの思いが融合した。先生の人生はわれわれと会って、現実の世界へと全てが変わったのではないか。われわれに会っていなければ一作家で終わっていたかもしれない」

 三島は季刊雑誌「批評」に連載された「太陽と鉄」の中で「すでに謎はなく、謎は死だけにあった」と心の内を明かし、事件の1週間前の文芸評論家、古林尚との対談では「軍医の誤診で兵隊から即日帰郷でかえされてきて、そのときに遺書を書きました。天皇陛下バンザイというその遺書の主旨は、いつまでもぼくの内部に生きているんです。(中略)ぼくは、あれから逃げられない」と述べ、「戦後は余生」とまで言い切っている。さらに「いまにわかりますよ。ぼくは、いまの時点であなたにはっきり言っておきます。いまに見ていてください。ぼくがどういうことをやるか」と事件を示唆する発言をしている。

 作家として、思想家としての言動は並行して進む。

 憲法を改正して自衛隊を国軍とする道を模索する三島らは、44年10月21日の国際反戦デーに、自衛隊が治安出動し楯の会はその手助けをして、自衛隊を国軍と認定するよう憲法を改正させる計画を立てる。だが、警察力が反対勢力を鎮圧、自衛隊の治安出動が発動されなかったため、三島と森田必勝は「自衛隊は期待できない。われわれだけで実行しなければならないだろう」(検察側冒頭陳述)と、独自の決起に向けて計画を練り始める。
 三島はバルコニーから演説する際にまいた檄文で、戦後民主主義体制の欺瞞をもっとも象徴しているものとして自衛隊を挙げ、国防という国家の基本にかかわる権利を戦後政治体制が曖昧にしてきたため、文化や伝統まで崩壊し、民族の歴史的基盤まで変化している、と危機感を訴えている。

 篠原はこう述懐する。「自分の人生についての葛藤、『英霊の声』に対する責任、憲法問題に自衛隊問題…。決起の理由はたくさんあるが、先生は背後にある近代合理主義に抗議するため、日本文化そのものに警鐘を促すために、刃を突きつけ、腹を切った。先生は文学者の世界ではなく、行動という目に見える形で託したのが楯の会だったと思う」=敬称略

 (編集委員 宮本雅史)
 遺書、檄文、命令書の全文と証言集は、インターネット「産経ニュース」の特集「三島由紀夫事件」に掲載しています。

関連記事
三島由紀夫 割腹自殺の全容 ナビまとめ
http://matome.naver.jp/odai/2140801138370564001


左翼新聞の凋落 フランス リベラシオンの経営危機(26.11.3) おゆみ野四季の道
 NHKのドキュメンタリーWAVEを見ていたらフランスの左翼系新聞リベラシオンが経営の危機の陥っているという報道をしていた。
リベラシオンとは実に懐かしい名前だ。当時と言っても今から40年も前のことになるが、世界的な学生運動が燃え盛っていた時代にサルトルと言ったフランスの知識人が結集して創刊した新聞だ。

 当時サルトルといえば世界最高の知者の一人と言われ、実存主義の旗手といわれていた。実存主義と言われても私には本当は何のことかさっぱり分からなかったが、彼の書いた「存在と無」を懸命に読んだものだ。
「あのリベラシオンが経営の危機に陥っているのか・・・・・・」感無量だ。
130d
注)実存主義とは社会主義に対するアンチテーゼとして生み出された思想で、社会主義が個人より社会を重視するのに対し、実存主義は個人こそが重要だと説いた。

 最盛時は30万部の発行部数を誇っていたが今は10万部を下回っており、累積赤字も10億円になろうとしているという。
最近経営者が代わってパリの不動産王が筆頭株主になったが、この株主の目的は新聞にはなく、リベラシオンが持っているパリの一等地の建物にあり、そこをレストランとカフェに改造し、記者や印刷労働者を大量に馘首して人手がほとんどかからないWEB新聞にすることらしかった。

注)WEB新聞にすれば多くの記者はいらないし、もちろん印刷関連や配送関連の労働者は一切いらなくなる。私はこのブログをたった一人で書いて(大げさに言えば)全世界に配信しているからWEBが如何に人手を必要としないか分かるだろう。

 現在世界中で新聞のあり方が問われている。簡単に言えば新聞の購読者数が加速度的に減少しているのだが、それはメディアのあり方と報道独占の崩壊という二つの要因からなっている。

 いまや新聞は一世代前の報道様式になって、多くの若者は紙ではなくWEBで情報を検索している。
私のような老人はそれでも紙の媒体に愛着を持っているが、私の子供などは新聞を全くよまずもっぱらインターネットで必要な情報を入手している。

 何しろ新聞報道はスピードと言った点でテレビとWEBに全く歯がたたない。特に災害報道の地震・台風・竜巻等に関する速報性が必要な情報がそうで、東日本大震災の時私はテレビにくぎ付けになっていたが、新聞の報道内容はすべてテレビで確認してしまった内容だった。
新聞が最も最新の情報を届ける媒体でなくなって久しい(新たに聞くのではなく二番煎じになってしまったので新聞といえなくなった)。

 また報道内容についても当たり障りのない誰でも納得できるような内容になっているが、これでは情報としては役に立たない。私は中国や朝鮮半島に関する情報はWEB情報を見ているが、その道の専門家が無料で情報発信をしてくれているのでそれをトレースしている。
こうした情報の方が新聞やテレビの解説よりもより内容が充実しており情報としての価値が高い。
従来は「新聞が記載しているのだから」というのが価値評価の中心だったが、今ではA氏の情報だから確かだという時代に変わっている。
新聞が情報を独占していた時代はとうに過ぎたのだ。

 こうしてメディア媒体が紙からインターネットに移ったこと、新聞が情報を独占していた時代が終わったことで新聞の相対的な位置が低下したが、リベラシオンはさらに左翼の時代が終わったことも経営危機に拍車をかけている。
左翼が時代の中心だったのは20世紀までで、ソビエトロシアの実験が大失敗に終わって左翼の賞味期限が切れてしまった。
今ではリベラルという言葉とダイナソーという言葉が同義語になっている。

 リベラシオンは現在苦悩の最中にあるが、20世紀を代表したメディアがその役割を終えて臨終を迎えているに過ぎない。
時代の波に取り残されたリベラルの鎮魂曲が奏でられている。

注)日本でも朝日新聞が凋落しているが基本的にはリベラシオンと同じ構図といえる。
(記事引用)

画像引用
http://blogos.com/article/145956/
記事 田中龍作2015年11月22日 02:38【パリ発】「ネットメディア検閲」 アベ政権が必ず真似てくる より

関連記事
http://blog.livedoor.jp/raki333/archives/52067661.html

↑このページのトップヘ