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2015年11月

さらに「The Beatles」 .2

著作権法 「外国作品の著作隣接権の保護期間
―ザ・ビートルズのレコード『ラヴ・ミー・ドゥ』は切れているのか?」
弁護士 永井幸輔(骨董通り法律事務所 for the Arts)
1. はじめに
インターネットが日常に存在し、音楽や映像、書籍をデジタル環境で入手し鑑賞するのが普通になった今日、著作物という情報のコピー&ペーストを司る権利「著作権」は随分身近な言葉になりました。しかし、著作権法が定めるもう一方の重要な権利「著作隣接権」については、権利の内容がかなり複雑であることもあって、まだまだよく知られていないのではないでしょうか。 
これは、著作権・著作隣接権の「保護期間」についても同様です。著作権の保護期間については、現状の著作権者の死後50年にとどめるのか、70年に延長するのかという、いわゆる「保護期間延長問題」がここ数年でさかんに議論されていることもあり(著作権保護期間の延長問題を考えるフォーラムやTPPの知的財産権と協議の透明化を考えるフォーラム)、人々の話題に上ることも少なくありません。他方、「著作隣接権」の保護期間については、筆者が知る限り、これまで大きな話題になったことは少ないように感じます。

そこで、今回は著作隣接権の保護期間をテーマにお話をしてみたいと思います。その中でも、ターゲットを絞って、1970年に現行法にリニューアルされる前の著作権法である旧著作権法における、「外国作品」の著作隣接権の保護期間を! ...興味が一気に引いて行く音が聞こえますが、このある種「マイナー」な論点についてコラムを書くのには、2つの理由があります。 
1つは、旧法下における外国作品の著作隣接権の保護期間は、法律上非常に複雑な規定になっており理解が困難であるにも関わらず、これを解説したテキストがほとんど見当たらないこと。そして、もう1つは、ご存知、音楽史上最も著名なアーティストの1つザ・ビートルズの1枚目のシングル、「ラヴ・ミー・ドゥ」が発売された1962年10月5日から、今年(2013年)で50年が経過し、その著作隣接権の保護期間が満了している可能性があるからです。 
条文の構造の検討が必要な部分も多く、いささか退屈な旅になるかも知れませんが、どうぞお付き合いいただければと思います。

2. 現行法における著作隣接権の保護期間

旧法を検討する前に、まずは現行法の著作隣接権の保護期間から確認しましょう。 
そもそも、著作隣接権って何?という疑問については、例えばこちらのコラムをご覧ください。ここでは簡単に、著作物の伝達について重要な役割を担うプレーヤー(実演家、レコード製作者など)に認められる、その実演やレコードの複製などを禁止できる権利、としておきましょう。例えば、実演家は、自分の実演を勝手に録音してCDをプレスしようとした第三者にそれを止めるよう請求することができますし、既に録音された音源(レコード)の製作者は、そのレコードを勝手にコピーして販売しようとする第三者に止めるよう請求することができます。

それでは、著作隣接権の保護期間は、現行法では一体どのように定められているのでしょうか。著作権法の条文には、次のように規定されています(現行法101条)。外国の実演家・レコード製作者の権利についても、基本的には同様です(現行法7条5号以下。本来はここに1996年改正法による保護の遡及復活という問題があるのですが、詳細は省きます)。

権利の種類 開始時 満了時
実演家の権利 実演時 実演の翌年から50年
レコード製作者の権利 音の最初の固定時 発行の翌年から50年
(不発行の場合は、音の最初の固定時から50年)


3. 旧法における著作隣接権の保護期間

(1) 旧法における著作隣接権の保護期間の原則

しかし、「ラヴ・ミー・ドゥ」などが発行された1962年は、現行以前の旧著作権法の時代です。それでは、旧法における著作隣接権の保護期間はどうだったでしょうか。 
実は、旧法では、「著作隣接権」という権利は存在しません。著作隣接権は、我が国では現行法になって初めて定められたもので、旧法時代には、実演家の権利は「演奏歌唱」として、レコード製作者の権利は「録音物」として、「著作権」の一部として保護されていました。 
そこで、旧法時代における実演家・レコード製作者の権利がどのくらいの期間保護されていたかですが、原則として「著作者の死後30年間(団体名義の場合は実演または発行時から30年間)」保護されていました。しかし、旧法が現行法に変わり、実演家やレコード製作者の著作権が「著作隣接権」として生まれ変わった後、その時点で保護されていた既存の実演やレコードについては、現行法の保護期間(実演または発行時から50年間)と、旧法の保護期間(「著作者」の死後30年間)のうち、長い方を期間とするという経過措置が置かれたのです(現行法原始附則15条2項)。

権利の種類 原則 例外
実演家の権利 実演の翌年から50年 著作者の死後30年の方が
長い場合には、その期間
レコード製作者の権利 発行の翌年から50年
(不発行の場合は、音の最初の固定時から50年) 著作者の死後30年の方が
長い場合には、その期間

ここで、ザ・ビートルズの「ラヴ・ミー・ドゥ」の場合を考えてみましょう。 
現行法では、実演家の権利は実演の翌年から50年間、レコード製作者の権利は発行の翌年から50年間継続することになります。
とすると、1962年10月5日に発売された「ラヴ・ミー・ドゥ」の著作隣接権は、その翌年から50年間保護され、2012年12月31日をもって保護期間が終了したことになりそうです(※1)。 
これに対し、旧法では、まずレコード製作者の権利については、「ラヴ・ミー・ドゥ」がレコード会社の名義で発行されているとすると、その保護期間は発行時から30年です(旧法6条)。したがって、両者を比べてより長期である現行法の50年が保護期間となり、上記のとおり現時点では保護期間が終了していることになるでしょう。他方、実演家の権利については、ザ・ビートルズのメンバーうち「最終に死亡したる者」の死後30年間継続することになります(旧法3条2項)。したがって、ポール・マッカートニーとリンゴ・スターの両氏が健在である現時点では、旧法下の実演家の権利は存続していることになるように思われます(※2)。

(2) 旧法下の「外国作品」の著作隣接権の保護期間

しかし、旧法下の実演家・レコード製作者の権利を巡る旅はまだ続きます。 
旧法下では外国作品の著作権は、日本で初めて発行された著作物を除き、条約に保護の規定がない限り、そもそも保護されませんでした(旧法28条)。そのため、もしも当時条約で保護されていなかったならば、旧法からの経過措置は無関係となり、旧法下の実演・レコードについて上記※2の検討は不要で、上記※1の検討だけをすれば良いことになります(※3)。そこで、現行法が施行された1971年当時、日本が加盟していた①万国著作権条約、又は②ベルヌ条約(ローマ改正条約。以下同じ)で、外国作品の実演家・レコード製作者の著作権が果たして保護されていたのかが、問題になって来ます。

まず、①万国著作権条約は、「著作物」の例示の中に演奏歌唱や録音の著作物を含めていません(万国著作権条約1条)。また、仮に含まれるとしても、万国著作権条約は、ベルヌ条約加盟国の著作物には一律適用されません(万国著作権条約17条附属宣言(c))。そのため、いずれについても、ベルヌ加盟国だった日英関係については、万国著作権条約はここでは関係が薄そうです。 
それでは、②ベルヌ条約はどうでしょうか。ベルヌ条約には、いわゆる「内国民待遇」と呼ばれる規定があります(ベルヌ条約4条1項)。本件に即していうと、「外国の著作者は、日本において日本の法律が内国民に与えている権利等を享有することができる」というものです。この点、実演家・レコード製作者の権利は、前述のとおり、旧法では「著作権」として保護されていました。したがって、旧法下の外国の実演やレコードは、ベルヌ条約によって、日本においても日本作品と同様の保護を受けていたように思えます。そうすると、やはり上記※2に戻って、「ラヴ・ミー・ドゥ」の実演家の権利は未だ存続していることになるのでしょうか。

しかし、ここでさらに疑問が生まれます。ベルヌ条約では著作物として列挙されていない演奏歌唱・レコードについても、日本では「著作物」扱いを受けていたという事情をもって、ベルヌ条約上の著作物として日本で保護されていたと考えるべきなのでしょうか。保護されていなかったなら、※3→※1と戻って、旧法下のレコードばかりか実演もすべて切れていることになりそうです。これについて、明確な文献・解説は見当たりません。しかし、私見ではありますが、次のような理由から、現行法施行当時、ベルヌ条約では外国の実演・レコードの保護は求められていなかったと考えます。

理由①:ベルヌ条約における「著作物」には、演奏歌唱・レコードは含まれないと考えるのが最も自然なこと 
ベルヌ条約は「著作物」に関して規定を置いていますが、その意味については定義していません。しかし、ベルヌ条約の「著作物」の例示の中に演奏歌唱や録音の著作物がないこと、実演家やレコード製作者の権利については並行して協議・締結された?ローマ条約やレコード保護条約などの条約で別途保護していることから、ベルヌ条約がいう「著作物」には、演奏歌唱・レコード製作によるものを含まないと考える方がより自然に思えます。

理由②:現行法制定当時、条約による著作隣接権の保護がなかったと考えられること 
1970年に制定された現行法には、当時日本がローマ条約に未加入だったこともあり、外国作品の実演家・レコード製作者の権利の保護は規定されていませんでした。その後、外国作品のレコード製作者の権利は、1978年加入のレコード保護条約に基づいて、同年の現行法改正時に初めて規定され(現行法8条3号以下)、外国作品の実演家の権利は、1989年加入のローマ条約に基づいて、同年の現行法改正時に初めて規定されています(現行法7条5号以下)。 
このように、現行法制定時にあえて外国の実演家・レコード製作者の権利の保護を規定せず、その後著作隣接権保護に関する条約が締結されて初めて規定するに至ったことからは、旧法時に外国の演奏歌唱・録音物の著作権は日本で保護されていなかったと考えると整合しやすいところです。

以上、現行法制定当時、ベルヌ条約で外国作品の実演家・レコード製作者の権利が保護されていなかったとすると、外国の実演・レコードは、日本で初めて発行された作品以外は保護されないことになります。その場合には、「ラヴ・ミー・ドゥ」が初めて発行されたのはイギリスであるため、実演家・レコード製作者の権利は旧法下の日本では保護されず、したがって、上記※1により「ラヴ・ミー・ドゥ」の著作隣接権の保護期間は2012年12月31日で満了していることになりそうです。

(3) 著作隣接権の保護期間が満了したら「ラヴ・ミー・ドゥ」は自由に使えるのか?

それでは、仮にこうした理解が正しく実演家・レコード製作者の権利の保護期間が満了していた場合、「ラヴ・ミー・ドゥ」は誰でも自由に利用できるのでしょうか。 
まず、音源(著作隣接権)の保護期間が満了したとはいえ、「ラヴ・ミー・ドゥ」の曲の著作権はまだ存続しているため、著作権者に無断で利用するという訳には行きません。しかし、「ラヴ・ミー・ドゥ」を含むザ・ビートルズの楽曲の多くは、現在日本音楽著作権協会(JASRAC)により管理されているため、JASRACに所定の手続で利用を申請し、規定の利用料を支払うことで、基本的には誰でも「ラヴ・ミー・ドゥ」のレコード音源を利用することが可能になります(広告利用その他難しい処理が必要な場合もあるので要注意)。これまでは、レコード音源を利用するためには、JASRACだけでなく、レコード会社などの許諾を受ける必要があり、別途利用料を支払ったり、利用を拒否されたりする可能性がありましたが、著作隣接権の保護期間が満了した場合、この部分の処理は不要でレコード音源を使用することができようになるでしょう。 
例えば、「ラヴ・ミー・ドゥ」を含んだコンピレーション・アルバムを製作して販売したり、国内向けの音楽配信に自由にしたり、といった事態が想定できます。

4. おわりに

1962年にデビュー、アルバム第1作である「プリーズ・プリーズ・ミー」が全英アルバムチャートで連続1位を30週にわたって獲得し、その後発売したアルバム11作のうち10作が1位を獲得...といった説明は不要でしょう。世界で最も著名で先鋭的な音楽を発表し続けたザ・ビートルズ。そのザ・ビートルズのレコード音源の権利保護が既に終わっている(=パブリックドメインになっている)としたら、なかなかインパクトのある話です。また、仮にこう理解できるならば、「ラヴ・ミー・ドゥ」以外にも、今後著作隣接権の保護期間が満了する60年代の音源は続々誕生することになりそうです。今後の議論の集積が待たれるところですね。 
以上、著作隣接権やその保護期間は、権利の内容が複雑で、また私たちの生活にどのように関わるのか今ひとつ分かりにくいかと思いますが、実は作品の流通や広がりにとても大きな影響を与えています。このコラムを機に、少しでも興味を持っていただけたら望外の幸せです。

※本コラムの執筆に際して、多くの文献と共に、横浜国立大学の川瀬真先生に有益なご示唆をいただきました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。なお、言うまでもなく、本コラムの文責はすべて筆者にあります。
以上
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※本サイト上の文章は、すべて一般的な情報提供のために掲載するものであり、法的若しくは専門的なアドバイスを目的とするものではありません。

ロッキード事件俯瞰図.2

ロッキード事件俯瞰図 2013/01/1719.29
「追放解除組の松村謙三・堤康次郎・三好英之らと民政旧友会を結成、その後、国民民主党との合流により新党を画策し、民政旧友会の大麻・松村・堤らは追放解除後、国民民主党に復帰していた旧民政党出身の宮沢胤勇や野田武夫らを加えて新政クラブを結成した」。

それは昭和27年(
1952年2月8日の話しである。もちろん「ロッキード事件」との関連性については時間的にはクロスしない。

そこに特筆すべきは「
堤康次郎」の名があったことだ。知る人とぞ知る「西武グループ」の創始者であることは周知の事実。

つい最近まで「明治維新」武勇者を調べていた。端緒は「藤田伝三郎」であったが、その血統に「久原房之介」という「明治維新」より輩出の政治家兼実業家がいた。これもまた現日本のトップ企業「日産コンツェルン」の創始者である。 

その流れからして、「堤康次郎」は、日本の立身出世物語、その最後の一人として上げられる。

堤 康次郎(つつみ やすじろう、1889年(明治22年)3月7日 - 1964年(昭和39年)4月26日)は、日本の実業家もしくは財界人で、滋賀県選出の衆議院議員として政治家でもあった。西武グループ(旧コクド及び旧セゾングループ)の創業者。第44代衆議院議長。滋賀県大津市名誉市民。滋賀県平民。
正三位勲一等。「ピストル堤」の異名を持つ。五島慶太は東急対西武戦争(箱根山戦争・伊豆戦争)でライバルとも言われた。 (資料ウィキぺデア)

滋賀県愛知郡八木荘村大字下八木(のち・秦荘町、現・愛荘町)に農業兼麻仲買商・堤猶次郎、みをの長男として生まれた。5歳で父を腸チフスで失い、母が実家に戻されたことから、康次郎は妹・ふさとともに祖父・清左衛門、祖母・キリの手で育てられる。

1902年(明治35年)に八木荘小学校高等科を卒業し彦根中学校への入学手続をしたものの、祖父が「せっかくここまで育ててきたのに、彦根のような繁華なところへやって悪い人間になられたら大変だ」と心配したことから進学を断念して農業に従事する。1903年(明治36年)6月に祖母が死去すると、祖父とともに彦根へ出て米相場を張ったり肥料商を手掛けるも何れも失敗。翌年には八木荘に戻って、耕地整理と土地改良に精を出すことになる。

早稲田大学へ

早稲田大学政経学部政治学科在学中の堤康次郎
1906年(明治39年)に京都の海軍予備学校へ入学し、翌年に予備校を卒業すると郡役所の雇員となる。同年に祖父が死去し、「堤の家の再興は、金を儲けよというのではない。金儲けもよいが、それより名誉ある堤家にしてくれ」と遺言を遺した。

1909年(明治42年)故郷の田地を担保に入れて5000円の金を工面して上京、早稲田大学政治経済学部政治学科に入学した。
早大では弁論部と柔道部に属するも、授業はあまり顔を出さずに試験の時に通学するだけで副業やアルバイトに熱中していた。

また政治活動にも熱中し、中橋徳五郎の応援演説に大阪まで出張ったこともある。このように、大学時代に経済活動、政治活動において経験を積んだ。
1913年(大正2年)3月に早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業(政治学士号を取得)すると、大隈重信が主宰し主筆に永井柳太郎を据えた政治評論雑誌『新日本』(1911年発刊)に社長として経営に携わった。

首相桂太郎による立憲同志会の結成計画に永井らも参加すると、これを追って創立委員に名を連ね、桂を介して後藤新平を、更に財界の大物だった藤田謙一を紹介される。だが名士とお近づきになるのとは裏腹に『新日本』を含めて康次郎の事業は何れも巧くいかず、不調を挽回しようと手を出した真珠の養殖も失敗。
失敗の連続だった当時を「毎日血尿が出る思いだった」と本人は振り返っている。結局、最後の望みを不動産事業に託し、『感謝と奉仕』を生活信条とする。

実業家として
 
康次郎が最初に不動産事業に着手したのは、沓掛村一帯(現在の中軽井沢駅周辺)の別荘地開発だった。
1915年(大正4年)夏頃に早大の学生服姿で沓掛村に出向き、村長に「別荘地をつくりたいからできるだけ大きな土地が欲しい」と村有地の購入を打診した。
隣の軽井沢が欧米の宣教師達の別荘地として発展していくのに危機感を抱いていたとは言え村民の議論は2年越で続き、1917年(大正6年)12月の区民総会での了承を経て60万坪(後の再測量では80余万坪)を30,000円(現在の数億円)で売却し、50軒の別荘を分譲することを条件として契約が成立した。

だがこの時点で康次郎は手許資金が不足していて、当時の妻であった川崎文の実家などから買収金を工面しても足りず、佐久の銀行から1万5千円借りて不足分は新聞紙を10円札の大きさに切って上下に本物の札を重ねて「見せ金」とした。沓掛一帯の分譲を行う会社として藤田謙一を社長に招聘し千ヶ滝遊園地株式会社を設立(資本金25万円)。
沓掛の土地を一軒500円で簡易別荘として分譲販売を始め、その収益を基に1919年(大正8年)箱根の強羅に10万坪の土地を買収した。
翌1920年(大正9年)には千ヶ滝遊園地を清算(計画倒産説あり)し、同じく藤田を社長として箱根土地株式会社(後のコクド、現在は消滅)を設立。
更に湯の花沢10万坪を13万5千円で買収したり、1923年(大正12年)には駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)の経営権を掌握していった。関東大震災後には都内皇族・華族の大邸宅を買収し、目白文化村など住宅地として分譲した。

政界進出後も事業欲は衰えを見せず、大泉学園や国立・小平学園都市開発に着手し、東京商科大学の誘致に成功すると共にアクセス鉄道として多摩湖鉄道を開通。
大泉学園開発では沿線を走る武蔵野鉄道との関わりが出来、1940年(昭和15年)には大株主の浅野財閥からの株式を買収して多摩湖鉄道をこれに合併させた。
太平洋戦争中は武蔵野鉄道に加え(旧)西武鉄道の経営に参画すると共に、都内の糞尿処理対策や流木対策として糞尿運搬や木工業、更には合成ゴム・化学肥料製造、果ては銀行業(高田農商銀行)にまで事業の手を広げた。
東京大空襲の最中でも、自宅地下壕に電話線を何本も引いて不動産の購入交渉を行い、戦災で地主が不在となったところを片っ端から自らの名義としたとも言われている。

戦後は皇籍剥奪や華族の特権廃止・財産税などの負担で困窮した旧宮家や華族が都心部に所有していた邸宅地を買い取り、華族やその関係者をグループで雇用して生活を保障するとともに、邸宅地を活用してプリンスホテルを開業した。
堤康次郎が開発した国立は高級住宅街として、軽井沢や箱根などは日本の代表的なリゾート地として発展し、現在も人気を集めている。

政治家として

箱根土地の経営に関与している頃から、康次郎は永井柳太郎の選挙参謀となるなど政治にも関わっていたが、1924年(大正13年)の総選挙に滋賀5区(当時)から衆議院議員に立候補する。
旧彦根藩士で家老職を務めた家柄である堀部久太郎が対立候補だったが、当時としては先進的な土地改革を公約するなどして大差で初当選を果たした。
以後、途中の断続を経て衆議院議員には計13回当選。当選後は立憲民政党に所属し、1932年(昭和7年)6月斎藤実内閣で拓務政務次官に就任した。
翼賛選挙で推薦議員であったばかりか西武農業鉄道の首脳として国策に関与するなどしたことで公職追放を受けるものの、追放解除後の昭和26年(1951年)に民政党時代の同僚議員だった大麻唯男・松村謙三らの「民政旧友会」へ参加。民政旧友会は「新政クラブ」を経て、翌1952年(昭和27年)に改進党の結党に参加した。

1953年5月18日、衆議院議長に就任(上。下は副議長の原彪)
1952年(昭和27年)の総選挙で国政に復帰し、1953年(昭和28年)5月に全野党に推される形で衆議院議長に就任( - 1954年12月)、議長秘書官は山本廣治と堤清二が務めた。議長の認証式には当時内縁関係にあった青山操(清二の母)を伴ったことで大きく批判され、しかも議長就任後は改進党とは距離を置き山下春江らと新党同志会を結成、保守合同を目指した。

大津市の米軍キャンプ地返還や膳所刑務所移転等、今日の大津市の基盤づくりに大きく貢献したため、1957年(昭和32年)に大津市初の名誉市民の称号を受賞した。

康次郎は、1963年(昭和38年)の総選挙で13回目の当選を果たすが、この時地元後援会の堤会から選挙違反で180名余が逮捕、後に150名余が有罪となる。

1964年(昭和39年)4月24日内縁関係にあった石塚恒子(義明の母)を連れて熱海に向うため、13時15分発の準急「いでゆ号」に乗ろうと国鉄東京駅の地下道を急いでいた途中で昏倒し緊急入院。4月26日に心筋梗塞で死去。
本葬は自民党葬として豊島園でとり行われ、約3500人が参列。東京オリンピックのために建設を計画した東京プリンスホテルの完成を見ることはできなかった。堤の没後、選挙地盤は山下元利が引き継いだ。

HHH HHH HHH

2013年正月の閑話休題・譚 (引用記事より)
ひまな一時(ひととき)に、この話題はもってこいのワンセクションだった。長い間ノドに小骨が掛かったような、靴の中の足がかゆくて掻いても掻いても釈然としない隔靴掻痒としたおもい。政治も経済も混沌としたカオスに包囲され、閉塞とした闇の中で一人悶々と膝を掻く。

それにしても読売の記事の中に「立花隆」のたの字も出てこないのが、よく判らない。良いにつけ悪いにつけ、ロッキード事件と立花隆の「田中角栄研究」は対の言論説であり、どちらを落としても成立しない、と恣意するのだが。

※立花氏は非常に謙虚でした。「たしかに、『文芸春秋』11月号の〈田中角栄研究〉の与えたインパクトは大きかった。しかし、そのインパクトの大きさは、その論文のプロパーではなかった。背中に荷物を目いっぱいに積んでようやく立っているロバの背に、ワラをもう一本乗せただけで、ロバがひっくりかえることがある。私はただ、最後の一本のワラを乗せる栄誉になっただけにすぎない。」P.4

「阿修羅」サイトより一部抜粋 ↑ http://www.asyura2.com/10/senkyo97/msg/653.html

「ロッキード事件」はすでに歴史の風化した昭和の残滓として残っているだけで、その事件さえ風聞でしか知らないという世代が台頭している。戦争の惨状と同じくこれも語り継がなければアッと言う間に忘却の彼方へと霞んでしまう。
とくにその思いを強くしたのは、そこに関った現役政治家が健在である時代に、そのことの真相を是非とも語って戴きたいと思案するし、また、自叙伝でもいいからその琴線部分を語ってもらいと切望する。

抜粋記事~
ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があったと報告する公文書が米国で見つかった。

裏金を受け取った政府高官の名が表に出ると「自民党が選挙で完敗し、日米安全保障の枠組みが壊される恐れがある」という理由。
三木武夫首相(当時)は事件の真相解明を言明していたが、裏では早期の幕引きを図る動きがあったことになる。
中曽根事務所は「ノーコメント」としている。この文書は76年2月20日にジェームズ・ホジソン駐日米大使(当時)から国務省に届いた公電の写し。
米国立公文書館の分館であるフォード大統領図書館に保管され、2008年8月に秘密指定が解除された。ロッキード事件は76年2月4日に米議会で暴露されたが、ロ社の裏金が渡った日本政府高官の名前は伏せられた。

与野党いずれも政府に真相解明を要求。三木首相は2月18日、「高官名を含むあらゆる資料の提供」を米政府に要請すると決めた。
文書によると、中曽根氏はその日の晩、米国大使館の関係者に接触し、自民党幹事長としてのメッセージを米政府に伝えるよう依頼した。
中曽根氏は三木首相の方針を「苦しい政策」と評し、「もし高官名リストが現時点で公表されると、日本の政治は大変な混乱に投げ込まれる」「できるだけ公表を遅らせるのが最良」と言ったとされる(10年2月12日付『朝日新聞』)。 

ロッキード事件をめぐり「I HOPE IT WILL HUSH UP(MOMIKESU)THE MATTER」(この問題をもみ消すことを希望する)」との要請が記載された米政府の公文書=米ミシガン州のフォード大統領図書館(10年2月12日付『朝日新聞』) 
※「ロッキード事件 日本を震撼(しんかん)させた200日」 サイト
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田中角栄の顧問 
大麻 唯男(おおあさ ただお、1889年(明治22年)7月7日 – 1957年(昭和32年)2月20日)。
日本の内務官僚、政治家。敗戦後は大日本政治会を母体とした政党・日本進歩党の結成に尽力する。大麻は町田忠治を党首に据えるため、自分が顧問を務めていた土建会社の若手経営者に政治資金の献金を懇願した。
それが田中角栄である。しかし間もなく公職追放となる。公職追放解除後、同じく戦前民政党に属していた追放解除組の松村謙三・堤康次郎・三好英之らと民政旧友会を結成、その後国民民主党との合流により新党を画策し、民政旧友会の大麻・松村・堤らは追放解除後国民民主党に復帰していた旧民政党出身の宮沢胤勇や野田武夫らを加えて新政クラブを結成した。 
ウィキペディア 

第36回 平成25年1月12日讀賣新聞 第2部
戦後転換期(1965年~79年)
「ロッキード事件 (下)」
ロッキード事件で、東京地検特捜部は1976(昭和51)年7月、前首相・田中角栄を逮捕した。真相解明に政治生命をかけた首相・三木武夫に対し、自民党内では「三木為ろし」の旋風が吹き荒れた。田中は裁判で無罪を主張する一方、党内最大派閥を率いて「田中支配」といわれる体制を築いていく。(文中敬称略)

■今日は忘れられない日
1976(昭和51)年7月27日午前7時27分、東京地検の玄関前に地検の車斌滑り込んだ。容疑者逮捕に備え、待機していた報道陣がカメラを向ける中、松田昇検事が降車した。
続いて降り立ったのは田中角栄だった。

前首相の出頭に、報道陣は虚を突かれ、しんと静まりかえった。
「白い時間だった」と、松田は振り返る。田中は一、二歩進んで「ヨッ」と片手を挙げた。一斉にシャッター音が鳴り始めた。
2月に発覚したロッキード事件捜査は大詰めを迎えていた。

特捜部は6月22日、丸紅前尊務の大久保利春を議院証言法違反(偽証)容疑で逮捕。
7月に入ると、丸紅前専務の伊藤宏(偽証容疑)、全日空杜長の若狭得治(偽証、外国為替及ぴ外国貿易管理法違反容疑)、丸紅前会長の槍山広(外為法違反容疑)を逮捕した。マスコミは「次は政府高官か」と、観測記事を書き立てていた。

ときの法相、稲葉修は逮捕の前日、地元の新潟県村上市の自宅にいた。法務省刑事局長から電話が入り「明朝逮捕」を知る。三木首相には逮捕の日の朝、「検察が田中邸に向かっているころ、私が伝えた」と、後に語っている。

松田は、田申逮捕の当日午前6時半、事務官3人と、東京・目自の田中邸に入った。
「東京地検の松田です。ちょっと先生にお話があって参りました」。

応対した書生に名刺を差し出すと、応接室に通された。

しばらくして背広姿の田中が現れた。

「君が松田君かね。きょうはやけに早いね」。

そう語ると、田申は玄関に向かった。

田中の逮捕容疑は、法定手続きをとらずに、丸紅からロッキード社の資金5億円を受け取った外為法違反。東京地検で逮捕状が執行された。

田中は、自民党離党届と、田中派退会届を書いた。地検から東京拘置所に向かう車中で、田中が松田に言った。

「きょうの日は、オレは忘れられない日だ。松田君、君も忘れないでくれ」。

この日、地検特捜部は、榎本敏夫・元首相秘書官も外為法違反容疑で逮捕し、田中邸、砂防会館の田中事務所など5か所を捜索した。
8月、橋本登美三郎・元運輪相や佐藤孝行・元運輸政務次官が、受託収賄容疑で逮捕された。

1977年1月21日、地検特捜部は小佐野賢治・国際興業社主を偽証で起訴し、捜査は事実上、終了した。ロッキード事件は法廷へと舞台を移す。

「三木おろし」の一大旋風
ロッキード事件の真相究明に対する三木の執念は凄まじかった。その前のめりの姿勢に、自民党内の不満は高まった。とくに自らの裁定で三木を政権の座に就けた党副総裁・椎名悦三郎は、「三木ははしゃぎすぎだ。いつから検事総長になったのか」と苛立ちを深めていた。

1976(昭和51)年5月初め、椎名は、田中、福田赴夫副総理、大平正芳蔵相と個別に会談し、三木の早期退陣で一致した。
13日付の読売新聞の特報で、これが明るみに出ると、三木は「真相解明に全力を挙げることが私に課せられた使命だ」と激しく反発した。
反三木陣営は、三木が政権維持のために事件を利用しているとみていた。

だが世論は「三木おろし」を「ロッキード隠し」と見て非難した。7月27日、田中が逮捕されると、沈静化していた三木おろしの動きが再び噴き出した。田中派の"三木憎し、の感情はもちろん、田中が逮捕された以上は、ロッキード隠しとの批判を恐れることはなくなっていた。

挙党協の結成
田中が保釈されて2日後の8月19日、反三木勢力は、挙党体制確立協議会(挙党協)を結成、田中、福田、大平、椎名、船田中、水田三喜男各派などの議員が結集した。
24日には党所属議員の3分の2を超える271人が出席して両院議員総会を強行し、三木退陣へ圧力を強めた。
福田、大平ら挙党協の閣僚15人も会合を開き、一致して行動することを確認した。
三木を支えていたのは、三木、中曽根両派と少数の無派閥議員だけだった。しかし、三木はここから驚くべき粘り腰をみせる。三木は退陣要求を突っぱねる一方で臨時国会を召集して自らの手で衆院解散を行うことを企図する。

衆院議員の任期切れは12月に迫っていた。
三木は8月24日、25日、両日、福田、大平と会談、国会召集に協力を求めたが、2人とも早期召集に反対の考えを示した。
そこで三木が「あなた方は私に代われと言うが、私が辞めた後、とっちがやるのか」と問いただすと、福田と大平は「まだ決めていない」と答えるしかなかった。会談は不調に終わり、臨時国会召集は宙に浮いた。

だが赤字国債発行法案などの処理のため、国会はどのみち開かねばならなかった。
(以下省略)

抜粋 元記事当サイト



東芝粉飾決算事件の株主被害回復を目的とする弁護団~

弁護団って誰なんだe???

粉飾決算の被害の総額 < 4237億6020万円 >だって、高い安いの問題じゃないでしょう。
不正は不正であって、法律違反なんだから罰するのが資本主義経済というものである。

vwだって、此の先会社が存続できるかどうかも判らない。ダメなものはダメ、どこが許され
るべき弁明の余地があるというの。弁護団の皆様。

<<< >>>

私たちは,2015年に発生した東芝の粉飾決算事件の株主被害回復を目的とする弁護団です。

質問 東芝は自主的に損害賠償をしないのですか?

回答
 
結論からいえば,東芝は自主的には損害賠償をしないと思います。

私たち弁護団は,東芝は,自主的に粉飾決算による被害について損害賠償をするべきだと考えています。 

東芝さえ,自主的に損害賠償してくれれば,被害を受けた方は,
財産的な損害を回復できます。 

弁護団としても,株主の方が早期に十分に損害を回復するなら,
こんなに嬉しいことはありません。 

なにも大変な苦労をして裁判をする必要はありません。 

また,東芝が自主的に全ての株主に損害賠償をしてくれれば,
粉飾被害の裁判に参加した株主と参加しなかった株主との間で,
賠償してもらえるかどうかという点で差が発生することもありません。 

弁護団としては,その方が嬉しいのです。 

しかしながら,残念ながら,東芝が一般の株主の方に対して,
自主的に粉飾について損害賠償をする可能性は,ゼロに近いと思っています。

というのは,東芝が全ての株主の方に対して自主的に損害賠償をした場合,
その負担額は,とてつもない金額になるからです。 

ためしに,計算してみましょうか? 

まず,東芝が損害賠償するべき金額を,ここでは,
一株あたり100円と考えてみましょう。 

これは,5月8日から,7月20日までの値下がり分に,おおむね一致する金額です。 (それからさらに下がっていますが,一応,ここでは7月20日までの分で計算してみます。) 

東芝の発行済み株式総数は42億3760万2千株です(会社四季報より)。
全部の株主のうち,誰が損倍賠償を請求できる条件をクリアしているかはわかりませんが,ここでは,全株主が条件をクリアしているものとして扱います。 

そうしますと,粉飾決算の被害の総額は, 
一株あたりの賠償金額100円 
×発行済み株式総数金42億3760万2千株 
=4237億6020万円 
と推定されます。 

一方,東芝株の時価総額は,1兆7369億円です。 

ですから,もしも,東芝が粉飾決算による損害を株主全員に平等に賠償するのであれば,最大で,時価総額の25%程度を賠償しないといけなくなる可能性があります。

いかに東芝が巨大企業だといっても,さすがに4000億円を現金で自主的に支払ったら,会社は経営できなくなるでしょう。

かといって, 
「じゃあ,一部の株主にだけ自主的に支払って,ことをおさめよう」 
と思っても,一部の株にだけ支払う,ということが,そもそも問題となります。

一部の株主にだけ粉飾の被害を賠償すると, 株主に対する利益供与 となって,今度は,会社法違反の違法行為となる可能性が出てくるのです。 

ですから,東芝が粉飾の被害を,自主的に支払うという場合には,
平等に支払わざるをえません。 

ですので,東芝は, 
「損害賠償を自主的に支払うならば全株主に4000億円を支払わないといけない」 
「しかし4000億円を全部支払ったら,経営ができない」 
という,ジレンマにおちいります。 

じゃあ,どうするか,ということなのですが,通常,こういう場合,
経営者は 「裁判で負けたら支払います」 という対応をすることが多いです。 

というのは,裁判で負けて,裁判所に「裁判で勝った株主に支払え」という支払命令を受けて,その命令にしたがって支払うのであれば,
誰の責任にもならないのです。

国家権力によって強制された支払ですから。

逆に,裁判所に命令されたことを実行しないのは,日本国内では許されない行為です。

裁判を起こしたのが,一部の株主であっても,裁判所の命令にしたがったのであれば,株主への利益供与にもならないし,金融商品取引法上の「損失補てん」という違法行為にもならないのです。 

でも,「そうは言っても,株主が全員,粉飾被害について裁判をすれば,やはり4000億円を支払わないといけないことになるのでは?」 
と思われるかもしれません。 

しかし,ここが重要なことなのですが, 裁判を起こす株主は,結局,
ごく少数なのです。 

まず,東芝の従業員持ち株会は裁判をしません。

また,東芝の取引先の会社は裁判をしません。 

個人株主は,どうでしょうか。

個人株主のうち,インターネットなどを見ないので,そもそも東芝に対して損害賠償ができる,ということを知らない方, 

損害賠償請求ができる,ということを知ったけども,面倒なのでしない方, 
その数が非常に多いと思います。

東芝の株主のうち,いわゆる個人株主の持ち株は,30パーセントくらいです(東芝の公式発表による)ので被害総額4200億円のうち,1200億円が個人株主の被害の総額となります。 

もし,個人株主全員が裁判を起こすと,1200億円となり,かなりのインパクトです。 

しかし,残念ながら,実際に裁判を起こす方は,多く見積もっても全体の5パーセントから10パーセント程度と思います。

被害総額で考えると,60億円から120億円ということになるでしょうか。 

それくらいの金額だと,東芝としては,わりと簡単に支払えてしまうのです。 

では,そのまま,時間がたつとどうなるか? 

損害賠償請求権というものは,3年の消滅時効があります。 

ですので,3年間のあいだに裁判を起こさないと,時効で権利が消滅してしまうのです。 

そうすると,東芝は,「裁判をおこなった,ごく一部の株主」対してだけ支払をする,ということで,3年間だけ我慢すれば,その残りの1千億円以上の支払をしなくてすむわけです。 

東芝が粉飾被害に対して自主的に支払をしない,という背景事情を説明すれば,
こういうことになります。

残念なことですが,東芝にとってみれば,そうすることで,粉飾被害による支払金額を少なくすることができる,ということになるのです。

東芝から相談を受けた法律事務所の弁護士であれば,そういうアドバイスをすることになるでしょう。
(記事全文引用)

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「下手渡藩」陣屋 三池藩 2015/11/7

焼き討ちされた「下手渡藩」陣屋
幕末とうほく余話 加藤貞仁
 神谷陣屋が平藩に接収された6月19日の夕刻、平潟港に新政府軍の第二陣を乗せた二隻の汽船が到着し、翌日、全員が上陸した。
 その中に、はるばる九州からやって来た柳川(当時は柳河)藩(立花氏、10万9600石)の317人がいた。彼らは、新政府軍の一翼として戦うほかに、奥羽列藩同盟の中で孤立している支藩、下手渡(しもてど)藩(一万石)を救援する使命を帯びていた。
 
 さて、立花氏の分家である下手渡藩とは、どこにあったのだろうか。
 「それは、福島県伊達郡月舘町にあった」と言っても、たぶん、現在の福島県民の千人に一人も知らないのではないだろうか。
 文化三年(1806)に三池(福岡県)から移封を命じられてわずか三代、六十二年間しか存続せず、戊辰戦争後は、再び三池へ戻ってしまったために、関係者もほとんどいなくなり、福島県民には非常に印象が薄いのである。

 伊達郡は、福島県中通り地方(新幹線が通っている福島県の中央部)の、最も北寄りの一帯である。そのうち月舘町は、東寄りの阿武隈山地の中にあり、東側は相馬郡に接している。現在の月舘町全域が下手渡藩だったわけではなく、陣屋があった「下手渡字天平(てんだいら)」は、月舘町の南端に近く、車で五分も走れば伊達郡川俣町に入ってしまう所で、領有する村は、現在の川俣町などあちこちに散らばっていた。独立した大名ではあるが、筑後柳川藩の飛び地のようでもあった。

 しかし、幕末の藩主、立花種恭(たねゆき)は英明で、外様の小藩主にもかかわらず、幕府の若年寄となり、一時的ではあるが老中格・幕府会計総裁に任じられた。そして、旧領三池に飛び地領を得ることにも成功した。
 鳥羽・伏見の戦いの後、幕閣であった種恭は、三月に下手渡へ戻って謹慎していたが、今後は新政府側に付くべきだと考えた。そこで、自身は三池の飛び地に移り、宗家柳川藩と行動をともにすることにした。
 殿様はそれでいいが、下手渡に残った家臣たちは、苦境に立たされることになった。五月の奥羽列藩同盟成立に際しては、家老の屋山外記が藩主名代として調印した。そうしなければ、四方から攻めこまれてしまうからだ。だが、戦火が近づいても、下手渡藩は沈黙していた。藩主の意に反して、同盟軍として戦うわけにもいかなかった。
 平潟に上陸した柳川藩兵は、そういう状況下にあった下手渡救援を急いでいたのである。
 一方、列藩同盟の盟主である仙台藩は、藩主不在の下手渡藩の加盟を、最初から疑っていた。その疑惑は、まったく動こうとしない下手渡藩を見ているうちに、確信に変わって行ったに違いない。八月に入って、相馬中村藩(相馬氏、六万石)が新政府側に旗色を変え、仙台領へ攻めこんで来たことから、相馬領に隣接する下手戸藩を放置できないと、仙台藩は判断したのだろう。8月16日、200人ほどの仙台藩兵が下手渡の陣屋を襲った。
 『藩史大事典』(雄山閣)には、天保二年(1831)の下手渡藩の家臣数は、足軽も含めて二百七十四人との記録がある。戊辰戦争時は、藩主とともに三池へ居を移していた人もいただろうから、もっと少なかったと想像されるが、仙台軍に比べて極端に少なかったはずはない。
 下手渡藩士は、屋山家老を先頭にして応戦した。だが、陣屋は焼失し、城下も焼かれた。私の手元にはその史料がないが、死傷者も出たに違いない。
 救援の柳川藩兵が下手渡に到着したのは、その翌日、17日だった。タッチの差で間に合わなかったのである。
 だが、援軍を得た下手渡藩兵は、仙台軍を追い返した。その後は、新政府軍の一員として、周辺に出没する同盟軍ゲリラ隊の掃討に参加したという。

三池藩
筑後(ちくご)国三池(福岡県大牟田(おおむた)市)周辺を領有した外様(とざま)藩。柳河(やながわ)支藩。戦国期、筑前岩屋(太宰府(だざいふ)市)に居城した一万田(いちまだ)(高橋)直次(なおつぐ)は、1587年(天正15)豊臣(とよとみ)秀吉から筑後国三池郡に領知を配分された。
のち姓を立花(たちばな)と改め、1614年(慶長19)には常陸(ひたち)国筑波(つくば)郡内に5000石をあてがわれた。1621年(元和7)その子種次(たねつぐ)は5000石を加増され、旧領三池郡内の1万石をもって三池藩が成立した。
1805年(文化2)種善(たねよし)のとき、父種周(たねちか)が若年寄在職中に幕府の機密を漏らしたかどで、陸奥(むつ)国伊達(だて)郡下手渡(しもてど)(福島県伊達市)1万石に移され、三池藩は廃藩となった。
1850年(嘉永3)下手渡藩主種恭(たねゆき)は、領知替により旧領筑後郡内に5000石を得、68年(明治1)に至り戊辰(ぼしん)戦争で居所が焼けたのを機に三池に居所を移築したため、ふたたび三池藩が成立した。廃藩置県により三池県、三潴(みずま)県を経て福岡県に編入された。[長野 暹]
(記事 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)
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チンパンジーとヒトのDNAの差異

脳科学者の中野信子氏「モテる男性には2つのタイプがある」
2014.08.28 10:56 ザページ
人間の脳には“リミッター”があり、10%の能力しか発揮できないと言われている。スカーレット・ヨハンソン主演の映画「LUCY/ルーシー」(8月29日公開)は、主人公ルーシーがその“リミッター”を外し、さまざまな特殊能力を身につけていく姿が描かれている。では、実際にそのようなことが可能なのか、また、最新の脳科学とは? 脳科学者の中野信子先生に話を聞いた。

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中野先生といえば、『ホンマでっか!?TV』(フジテレビ系)をはじめ、さまざまなテレビ番組に出演し、“にわかに信じがたい話”を披露しているが、「テレビなどで話すことは、基本的にエビデンス(証拠)があって、現時点で支持されている仮説になります」と説明する。仮説の域に留まってはいるものの、それを証明する証拠も存在している。その研究を繰り返して、仮説を証明していく作業を研究者が行っている。

一方で、発表された研究が、常識して世間に浸透した後、覆されることもある。「1993年に、海外のある研究グループがモーツァルトを学生に聴かせると、テストの結果が良くなると発表しました。しかしこれはあとになって、間違いであることが証明されました。でも、『間違いだった』という情報は面白みに欠けますし、どなたの利益にもつながらないので、なかなか広がらないですね」。

中野先生の“専門分野”でもある恋愛脳についても、興味深い事例を披露してくれた。モテる男性には2つのタイプがあるといい、1つは、『ウソをつける人、リスクをとれる人』、つまり遊び人だという。「なぜかというと、女性は本能として子孫を残す行動をとるからです。排卵期の女性は、そういう男性を好む。男性のそういうところは、子どもにも遺伝するので、自分が産む子どもも遊び人になる可能性が高く、子孫を残す行動を取ってくれる」。

もう1つは、やはり優しい男性、だそうだ。「排卵期以外は、優しい人がモテますね。他人に親切にするところを見せられると、女性は心を惹かれてしまう。その理由は、優しい男性は、子育て行動にコミットしてくれる、と思うからです。自衛隊員とか消防士とかも、体を張って誰かを守る仕事をされている方に女性が魅力を感じるのは、そういう理由です」と、説明する。

それでは、映画で表現されていた、脳のリミッターを外して能力を高めることは可能だろうか。中野先生は「映画で表現されたものの全ては、サイエンスとしては支持できないけれど、例えば、短時間で外国語をマスターするくらいは、さほど非現実的な話ではないと思う」という。
例えば、チンパンジーとヒトのDNAは、わずかな差しかないことがわかっているが、そのわずかな差が言葉を話せるヒトと話せないチンパンジーの差。「チンパンジーも、あと少し、脳の能力を使えれば、言葉を話せるようになる可能性はあって、人間も脳の能力をあと少し使えるようになれば、特別な訓練を必要とせず、語学を習得できる可能性はある」と解説する。

また、「脳の使用できる能力を広げることは、知識を蓄積することとは違う。例えば受験勉強をして知識を増やす、ということではなく、知識を蓄積するための器を大きくするのが脳のリミッターを外す、ということになる。器が大きくなれば、知識をそれまでより簡単に蓄積することができる」と、そもそも、脳の能力を高めることは人為的には、簡単でないという。

実は「10%の能力しか発揮できていない、と言われていますが、『脳の能力の100%』がどれだけあるか、まだ解明できていない。『まあ、それくらいあるでしょう』というくらいの想定値になります」と、そのポテンシャルは現代科学をもってしても、まだまだ解明できていないところが多いようだ。
(記事引用) 

経歴 中野 信子(1975年生 - 40歳)は、日本の脳科学者(医学博士)
東京都出身。東日本国際大学特任教授、横浜市立大学客員准教授。株式会社ビッグベン所属。MENSAの会員。既婚。1998年東京大学工学部応用化学科卒業後、東京大学大学院工学系研究科修士課程、2004年東京大学大学院医学系研究科医科学専攻修士課程修了、2008年東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。博士論文「高次聴覚認知における知覚的範疇化の神経機構 fMRI・TMSによる複合的検討」で医学博士号取得。2008年から2010年まで、フランス国立研究所ニューロスピン(NeuroSpin。高磁場MRI研究センター)に博士研究員として勤務。2013年から東日本国際大学客員教授、横浜市立大学客員准教授。(検索ウィキぺデア)

 

魅力ない政治?

参加しない若者、参加するシルバー、は本当か?

図表1 衆議院選挙における年代別投票率の推移

(資料)総務省ホームページ
検索ニッセイ~https://www.nissay.co.jp/enjoy/keizai/63.html

上記、参照図を見る限りでは、シルバー年代層によって選挙が決定される、という数字になっていない。

20歳代赤線は、断トツで少ないことだけは明確に示されている。統計は衆議院選挙集計になっているので、これが地方選挙になると、微妙に変化するのだろう。

昨今、選挙に関するニュースで、どこのメディアでも若者政治無関心が懸念されていて、その中での「SEALDs」展開は、良し悪しは別として選挙アピール度としては効果アリ、と判断できる。時期的に、来年夏の参議院まで、その熱が持続するかどうかだ。

カナダ総選挙で勝利した自由党党首で次期首相となる「ジャスティン・トルドー」氏は43歳の若き新首相となる。たしかに若さは魅力の一要素だが、はたして老練老獪な政治家たちを相手に、どこまで長としての威厳を確保できるかが問題だ。その点ギリシャの「チプラス」は舌先三寸で非常によくやっている。

この世界(政治)を一括りで語るには、ギリシア古典民主主義から始めないと理解できないが、そもそも、世界的な支配層の君主政治が、あまりにも長かったため、民主主体という思想がまだ根付いていないのではないか、そんな懐疑心を思うようになった。

ヨーロッパの隣国同士のイザコザから始まった普仏戦争(ドイツプロイセンとフランス)が、世界戦争の始まりとされているが、その理由が君主同士のわけアリ出来事だった。

そうした諸々と、いまだ時間的に成熟しない民主政治だから、若者の関心ごとになりえないと。
このブログでも書いたが、現役「石破地方創生大臣」の言葉で、「政治を信じている人ってほとんどいない。では逆に政治家は国民信じてますか」といった意見は、案外正しい見方だろう。

それはなぜか?

政治に感心がないのは、政治家に関心がないからだ。
政治に魅力がないのではなく、魅力的な政治家が、だれもいないからだ。
政治が何をしてくれる、ではなく政治をやってくれる政治家たち選ぶ人材がないからだ。
ツィッター、フェイスブックを駆使して政党交付金(維新の会会計 PDF)の銀行取引口座停止とか、配分比率とか、会を抹消するだとか、そのために議会制民主主義が確立されたわけではない。

1800年代末の明治維新の動乱期、魅力ある政治家は、魅力ない政治家筋によってすぐ暗殺されてしまった。 一言でいって、いま魅力ある政治家がどこにもいない。

今朝方「ファッションデザイナー山本耀司」を書いて読んで、つくづくそう思った。
(記事 山本耀司


低投票率の背景は 若者1万人アンケート
2014年3月19日(水)nhk
NPO法人代表 原田謙介さん
「『若い人が新しいアメリカを作ろうとしている』みたいな取り上げられ方が結構あって、すごく悔しさみたいなのを覚えた。
日本だって将来どうなるか分からない状況なのに、若い人が動いてない。」

原田さんが大学時代に始めたのが、大学生と政治家の交流会です。
後輩たちが引き継いで、今も続いています。

学生
「もっと身近に感じられたら、いいのかな。」

議員
「努力しているんだけど。」

原田さんは、大学卒業後、就職はせず、若者に政治参加を促そうとNPO法人を立ち上げました。
行政へ働きかけたり、若者が地域の課題を話し合う場をつくったりしています。

NPO法人代表 原田謙介さん
「若者が政治に興味を持ちだしているという流れをもっともっとつくっていければ。」

先月(2月)の東京都知事選挙では、インターネットを使った新たな試みも行いました。
ツイッターを利用して候補者への質問を集めました。
寄せられた質問は、「好きなおにぎりの具は何か」といった身近な話題から、具体的な政策を問うものまで、さまざまでした。

待機児童対策に関する質問に、当選した舛添氏は、「駅近くの保育所を拡充する」などと回答しました。
また、副知事にはどんな人をという質問には「困難に立ち向かい、やり遂げる人」などと答えました。

NPO法人代表 原田謙介さん
「こういう新しいやり方というのは、時間・場所の制約がなく、若い人が選挙に自分が関わっているとか、関わりたいという感覚を持ちやすいツールかなと。」

どうしたら若者と政治をつなぐことができるのか。
原田さんは模索を続けています。

NPO法人代表 原田謙介さん
「世の中が変わるとか若い人全員が変わるとかには、まだ至っていないので引き続き活動したい。
選挙以外の政治に関わることによって、また次の選挙に行こうとならないと。
日々の中で興味関心を持っていくというような仕組みづくりが必要かなと思う。」

投票に行かない背景は 若者1万人アンケート
大越
「私が選挙権を持つようになったのは、もう30年以上前になるんですが、当時も若い人たちの政治離れ、選挙離れというのは、やっぱり言われていたと思うんですよね。
ただ、私たちの頃は、世の中っていうのはずっとこれからも良くなっていく、豊かになっていくんじゃないかという、ある種楽観的な気分に包まれていたんですが、その後、長いこと日本は閉塞感に包まれてきて、今の若い人たちにとっては政治はもう少し切実であっていいはずです。
若い人たちの新鮮な発想が、より必要とされている時代だからこそ、政治に参加感を持ってほしい。
ずいぶん前に若者だった私は、そのように感じます。」
(記事引用)

老人の老人による老人のための政治
白岩賢太 2015年06月27日 08:05
衆院選、大阪市内の投票所で投票をする人たち(産経新聞
 老人の老人による老人のための政治。19世紀、奴隷解放宣言で知られる米大統領、リンカーンが民主政治の原則を大衆の前で訴えた演説をもじり、最近こんな言葉をよく耳にする。高齢者の意見が過剰に政治に反映される「シルバーデモクラシー」とも揶揄されるが、先の大阪都構想をめぐる住民投票の結果を受けて、このフレーズがメディアでも頻繁に使われるようになった。 

 65歳以上の高齢者が総人口に占める割合が25%となり、「超高齢化社会」の進行著しいわが国にあって、全有権者に占める高齢者の割合が高くなるのは当然だ。多数意見が政治を動かす民主主義国家であればなおのこと、高齢者を優遇する政策が政治に反映されやすくなるのも自然な流れと言えるだろう。 

 国立社会保障・人口問題研究所が昨年11月に公表した社会保障費用統計によると、2012年度の政策分野別の社会支出(OECD基準)のうち高齢者政策の割合は、全分野の中で最も高い47・6%、金額にして53兆6272億円に上る。他の先進国と比較しても群を抜いて高く、この数字だけをみればわが国の高齢者政策の優遇ぶりがうかがえる。大阪都構想の否決をめぐっても、敬老パスの廃止がクローズアップされたが、こうしたお年寄りへの優遇策を「老害」と批判する声は決して少なくない。 

 ただ、社会支出が高齢者に偏っていることと、「老害」批判をごちゃ混ぜにする議論はいささか的外れである。政治の方向性を決定するのは、あくまで有権者の意思であり、その意思を表明する場として投票という機会が与えられているからに他ならない。 

 この手の議論でいつも引っ掛かるのは、「政治に関心がない」とか「投票しても何も変わらない」といった無関心、無気力の若者による「選挙離れ」の原因をすべて政治不信に擦り付けてしまう風潮である。 

 確かに、日々政局ばかりに明け暮れる政治家の言動や、最初は「若者目線だ」と調子の良いことを言いながら、いつしか長老議員の意見に流されていく体たらくをみせられると、一票を投じる行為自体、バカバカしくなることもある。だからといって、選挙で「白紙委任」してしまえば、ますますお年寄りの政策を優遇することになることも肝に銘じるべきだろう。 

 我々は一票を投じることでしか政治を変えることができない。投票しないことは現状を受け入れたに等しい。選挙にも行かず、ただ「老害」ばかりをあげつらうのは、それこそただのわがままに過ぎない。無責任に駄々をこねるのは子供だけでいい。現状を憂い、自分の生活やこの国の未来を少しでも案じているならば、やはり選挙に行くしかない。 

 くしくもつい先日、選挙年齢が18歳以上に引き下げられる法案が成立した。これをチャンスに変えるのも変えないのも、彼ら若者たちの意欲次第である。むろん、お年寄りがもっと将来世代に配慮すべきだという意見も忘れてはならない。だが、他人任せで甘えていても結局は同じことの繰り返しだ。いま必要なのは、自分たちの意識改革しかない。 

 「せっかく選挙権を与えても…」とお年寄りたちに「バカ者」扱いされないためにも、投票できる権利を目いっぱい行使しよう。すぐにはダメでも、近い将来、君たちの選択がきっと大きなうねりとなる日が来る。 
(記事引用)
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映画「立候補」監督が問う 泡沫候補とは何か?
『iRONNA編集部』  藤岡利充(映画監督)

羽柴誠三秀吉の死去
 2015年4月11日。日本全国の選挙に何度も立候補し続けた羽柴誠三秀吉(本名:三上誠三)氏が65歳で亡くなった。
羽柴氏は青森県五所川市金木町出身。青函トンネルの土をダンプで運ぶことをきっかけに財を築いた。
自宅は日本の城を模したもの。甲冑を身につけ、ヘリコプターを飛ばすなどの派手な選挙パフォーマンスは、目立ちたがり屋で金持ちの道楽立候補、選挙の時だけ現れては消える水の泡、泡沫(ほうまつ)候補として揶揄する人もいた。一方で、人から何を言われようとも我が道を行き、自由奔放に生きていると賞賛する人もいた。本人はどう考えていたのか?
(記事冒頭引用)










 
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