Galapagos Japas

国際政治と日本の古代政治変遷歴史 明治維新など特に集中して書いている

2015年11月

誰が信じるに足る、人か???

政治を信じている人ってほとんどいない。では逆に、政治家は国民信じてますか

そういって憚らないのが現役「石破地方創生大臣」であるから、やっぱりこの日本には、信用に値しない政治家ばかりなんだ~、と諦念し、じゃなんだい、世間に風評を流布している社会人はペテン師ばかりか。

そうなると、この国はキツネとタヌキしかおらんのか、という結論に帰結する。それじゃ「アベのバカが」と言い放って、いまは静かに回顧談に浸ってるvipのセキュリティーガードは解けたか???

ま冗談はさておいてと、石破氏の元秘書をしていた人物の逸話を、このサイトで扱ったところ、意外な展開が始まって山形市長選挙(すでに決定)の報道に一役買うはめになった。その若手立候補の後援者になってたのが石破氏だったが、いずれの支持母体が異なるため、公の選挙応援はしていなかった。
その選挙は、いま最も注目を集めている維新の会の修羅戦時場となった。落選した梅津氏の応援を「維新の党柿沢未途幹事長」がしたとして、以後の死闘がくりひろげられたのである。その結末は、いつ果てるともわからない。

そんなこと、やっているのだから国民は政治家を信用しない、という結果にいたるのだろう。いまでこそ、そのような内部抗争は、ネット記事で知ることができるが、一昔前の新聞テレビ報道であったなら、都合のいいように編集されたであろうことが予想されるほど微妙で難しく、また政治の将来指針の変更まで左右する問題なのだ。

「石破地方創生大臣」国民を信じない政治家が、国民に信用されるなんぞということは考えない方がいい
BLOGOS編集部 2015年10月21日 13:11
何も「水月会」というのは怪しげな非合法集団を作ったわけではなくてですね、ただ、初めて気がついたんですけど、今、細田派から石原派から額賀派からいろんな政策集団がありますが、全てそのルーツは昭和31年まだ戻ります。 

自民党が結党されたのが昭和30年で、初めて総裁選挙が行われたのが昭和31年でそのときに石橋湛山総裁が誕生したんですね。

あの時いろんな派閥があって、大野伴睦派とか緒方竹虎派とか、なんか歴史の本でしか読んだこと無いなみたいな感じなんですけど。いまの派閥というのは全部そのときの政策集団に端を発しておりまして、まったくそういうルーツを持たないのは今度の水月会が初めてなんです。だからいろいろと…なんていったらいいのか(笑)、いろんな話題になるわけでございますが、私思うんですけど、安倍さんが再選しました。
無投票でした。
ということはみんなで責任持てって話なんです。無投票になったからには、自由民主党員、なかんずく国会議員は全員でこの政権が続く限り責任を持てという、当たり前の話しです。 

これが一つ。 

もうひとつはいかなる政権といえども、未来永劫続くことはありえない。党則は2期六年と決まっているが、未来永劫続くことはありえない。
じゃあ次どうすんのって誰も考えてないってすごく無責任なことじゃないですか。それは、自由民主党には制作集団がたくさんあるのだって、もちろん、うちのみならず清和研究会もあれば、宏池会もあれば近未来もあれば志帥会もある。
いろんな政策集団があるわけですね。で日本の国どうしますかっていうビジョン作るのは、そんなに簡単なことではない。まして今の時代はそんなに簡単なことではない。中曽根先生ところにご挨拶にいったとき「君ね、総理になれるかもって思った時から10年間ずっと政権を担ったらどうするか、どんな政策をどのように実行するかずっと考え続けてきた。」と。中曽根総理のお話でございました。 

選ぶのは自民党員の皆さん方です。党員であり国会議員です。だけど選んでいただくに足るだけの少なくとも自分が納得するだけのそういう政策を出すというのは、それは我が自由民主党の政策集団が日本国に対して果たすべき責任です。
私たちはその責任を果たしていかねばならないのであって、安倍政権を続く限り支えるということと、いつの日か来るであろう、次の政権を選ぶときに、外交どうする、安全保障どうする、社会保障どうする、農林水産どうする、そういうことを、豊かで自由で楽しく生きがいが実現できる国目指しますみたいな、そういうふわっとした話でなくて、法律どうするのか、税制どうすのか、経済運用どうするのか、国際法どうするかまで含めて示すことが責任です。政策集団が日本国に対して果たすべき責任です。私はそういうような自由民主党でありたいと思っています 

そして、「勇気と真心をもって真実を語る」ってのは、私が議員になる前に渡辺美智雄先生にお教えをいただいたことであります。真実をめっけるって決して容易なことではありません。めっけた真実はだいたい受けが悪いと決まっています。
それがを語るには勇気が要ります。そして有権者の方おひとりおひとりに、国会議員たるもの、あるいは自民党の議員たるもの、あいつの言うことだったら、という思いを持ってもらわなければ、ハードな政策なんてできるはずがない。ハードな政策をやらず、国民に政治がおもねった時に、国は必ず倒れると私は思っております。 

政治を信じている人ってほとんどいないでしょう。街中であなた信じてますかって聞いて「信じてます!」っていう人は、かなり稀有な存在だろうと私は思ったりするのでありますが、では逆に、政治家は国民信じてますか。

これ言ったってどうせわかんないよな、これ言ったってどうせ嫌われるよなこれ言ったら、これ言ったら選挙に落ちるよなって、本当のことを語らない政治家が、国民を信じているとは私は思わないし、国民を信じない政治家が国民に信用されるなんぞということは考えない方がいい、というようなことを考えている昨今であります。ありがとうございました。
(記事一部引用)

◇ ◇ ◇
作家「松本清張」の見た日本の風景1936年 
明治維新~はじまりは奇兵隊? 「2.26事件」松本清張 洞察
「山城屋和助」について、これまで調べた範囲では、山縣有朋との関係は頻繁に記述されるが、藤田伝三郎についてはまったくというか、殆ど記述されない。
この三者、年齢年代的地域的には密接に関連するが、もともと山城屋和助の存在そのものが不詳で(自称、田舎医者のセガレ)、他の二者より陰の部分が多い。
そうしたことも手伝って、山城屋和助が藤田伝三郎と接触しある種のたくらみを画策していたという痕跡もない。
また藤田伝三郎の奇兵隊在籍、という記述も二通りある。

「高杉晋作が奇兵隊を結成、身分の別なく有志の者を隊士として募集した。一般には藤田伝三郎が奇兵隊に入隊したとされている。つまり伝三郎は元奇兵隊士というのだが、残っている奇兵隊名簿を見ても伝三郎の名はない。
岩下藩属著『藤田第言行録』参照
萩に見切りをつけた伝三郎も山城屋を頼り、この奇兵隊あがりの剽悍(ひょうかん)な男から政商の手ほどきを受けたといわれてもいるが、これは憶測である。
伝三郎が山城屋と接触を持ったとしても、それは明治2(1869)年ごろの短い期間だった。その年に伝三郎は大阪に出ているからである。山城屋が陸軍省で自決するよりも3年ばかり前である。 
(記事抜粋2015/8/20 http://blog.livedoor.jp/raki333/archives/52059928.html
参考資料.「夢はるかなる: 近代日本の巨人・久原房之助」 

記事は当ブログの一部引用したものである。
「実業家・政治家」であった久原房之助について、いろいろ読んで、それを記事にしていたところ、そこに「田中 義一」の名が連なっていたので、これも激動維新(平成の維新の会とはスケールが格段にことなる)の豪華キャストとして抜くわけにはいかなかった。

◇ ◇ ◇

明治維新の「田中 義一」
田中 義一は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。勲等は勲一等。功級は功三級。爵位は男爵。 陸軍大臣、貴族院議員、内閣総理大臣、外務大臣、内務大臣、拓務大臣などを歴任した。 
生年月日: 1864年6月22日 生まれ: 山口県 萩市
死没: 1929年9月29日, 大日本帝国
政党: 立憲政友会 学歴: 陸軍大学校、 陸軍士官学校
陸軍大将・政治家・男爵。山口県生。長州藩士田中信祐の三男。幼名は音松、のち義一、素水と号する。政友会総裁・外相・拓相を経て、総理大臣となる。昭和4年(1929)歿、67才。

萩藩士・田中信祐、みよの三男として萩(現:山口県萩市)にうまれた。父は藩主の御六尺(駕籠かき)をつとめる軽輩者の下級武士だったが、武術にすぐれた人物だったという。
(経歴は同郷山縣有朋に近い)

若い頃は村役場の職員や小学校の教員を務めた後、20歳で陸軍教導団に入り、陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)を経る。
日清戦争に従軍、その後ロシアに留学した。ロシア留学時代は正教に入信し、日曜毎に知り合いのロシア人を誘って教会へ礼拝に行くなど徹底したロシア研究に専念した。
また、地元の連隊に入隊して内部からロシア軍を調査した。このため、日露戦争前は陸軍屈指のロシア通と自負していた。
長州閥の後ろ盾もあったが、軍人としては極めて有能であった。しかし、同時期ロシアに留学していた海軍の広瀬武夫と一緒に酒を飲むと強硬な開戦論を叫ぶなど、一本気で短絡的な性格であった。

日露戦争では満州軍参謀として総参謀長児玉源太郎のスタッフを務めた。戦後の1906年(明治39年)に提出した『随感雑録』が山縣有朋に評価されて、当時陸軍中佐ながら帝国国防方針の草案を作成した。

1910年(明治43年)、在郷軍人会を組織した。
1915年(大正4年)、参謀次長。原内閣、第2次山本内閣で陸軍大臣を務め、この時にマスコミの論調を陸軍にとって有利なものにしようと考えた事から、陸軍省内に新聞班を創設した。

1918年(大正7年)、田中は原内閣で陸軍大臣になったあと、男爵に叙され陸軍大将に進級するなど慶事が続いた。
その一方で、シベリア出兵での様々な意見の対立や前線のコルチャークら白軍の敗北、さらには尼港事件への対応、主導していた第二次満蒙独立運動など激務に追われていた。
さらに追い打ちをかけたのは、西原借款(英語版)問題などで原内閣が帝国議会で轟々たる非難を浴びたことからくる心労が重なったことである。1921年(大正10年)、狭心症に倒れ、6月9日に辞任して大磯での静養生活を余儀なくされた。大臣を辞めてしばらくすると原敬暗殺事件が起こったこともあり、回復してからも軍事参議官の閑職に留まるなど大事をとっていた。

軍人から政党政治家へ

将来は元帥ともいわれたが政界への転身を図り、1925年(大正14年)、高橋是清の後の政友会総裁に就任した。治安警察法により現役軍人は政治結社に加入できないため陸軍は退役している。

1924年(大正13年)の第2次護憲運動の際に立憲政友会は分裂して第1党の地位を失った。総裁であった高橋是清は辞意を表明して後任選びが始まった。だが、最有力候補であった横田千之助は分裂を惹き起こした当事者ということで辞退し、やむなく党外から総裁を迎え入れる話となった。

当初、伊東巳代治と田健治郎の名前が挙がったが、両者ともかつて内紛で政友会を追われた経緯があり、これを辞退した。次に官僚出身ながら国民の人気がある後藤新平を迎えようとしたものの、後藤はかつて関東大震災後に自分が立案した帝都復興計画を政友会の反対で潰された経緯からこれも拒否、唯一就任に応じたのが田中であった。

田中は就任の際、300万円の政治資金を持参金としたが、陸軍機密費から出たものではないかと他党から追及されている(陸軍機密費横領問題)。また、在郷軍人会を票集めに利用したとする疑惑もあった。真相は不明であるが、在郷軍人会の育ての親である田中の政友会総裁就任及び対立する憲政会(後に立憲民政党)の軍縮政策が在郷軍人の投票行動に影響したのは間違いなく、高橋前総裁時代に出されていた軍部大臣の文官化論が就任直後の田中による「鶴の一声」で否定されるなど、党の政策が軍備強化・対外強硬路線へと転換する。

折りしも田中の総裁就任直前に、唯一の潜在的競争者であった横田千之助が死去したことにより、田中を阻む人物が党内からいなくなったことも大きかった。
田中の政友会招聘を最終的に決めたのは横田であったが、星亨・西園寺公望・原敬らの側近であった横田は板垣退助の自由党以来の自由主義と伊藤博文の立憲主義を併せ持つ政友会本流の継承者であり、第2次護憲運動と大正デモクラシー・軍縮路線の有力な担い手であったからである。1926年(大正15年)1月28日、田中は勅撰貴族院議員となった。
さらに、田中の誘いで政友会に入党した人物も、それまでの政友会とは異質な人々であった。鈴木喜三郎は国粋主義者として名高い平沼騏一郎(後の大審院長・枢密院議長・首相)が寵愛する司法官僚で自由主義を敵視していた人物であり、「久原房之助」は田中自身の出身母体である陸軍長州閥と結んでいた政商であった。

やがて成立した田中内閣では、鈴木が内務大臣、同じく平沼系とされる弁護士の原嘉道が司法大臣に抜擢され、さらに鉄道大臣に小川平吉、外務政務次官に森恪(外相は田中の兼務)、内閣書記官長に鳩山一郎が任じられた。
3人とも政友会の古参であるが、小川と森は国粋主義者として知られ、鳩山は鈴木の義弟で協力者であった。2度の護憲運動や大正デモクラシーで活躍した政友会の古参幹部も閣僚には任じられたが、重要ポストからは外された。当時、青年政客として名を馳せていた肥田琢司に政治活動の協力を求め、第四代朝鮮総督の人選では肥田の推薦により山梨半造を任命した。

鈴木・原によって治安維持法が強化され、森・小川によって軍部と連携して中国への積極的な進出策が図られるなど、護憲運動などでかつて政友会が勝ち取った成果を否定する政策が採られた。
もっとも、憲政会→民政党がリベラルな人々の支持を集めていく中で、これに代わる支持基盤をより保守的な人々に求めることで新たな支持層を開拓して、その受け皿になろうとした努力の現われとも考えることも可能である。
こうした政策と第16回衆議院議員総選挙で鈴木が画策した選挙干渉によって、党勢は回復したものの、政友会はかつての自由主義政党とは離れた親軍的な保守政党に変質していくことになる。

田中の没後に起きた統帥権干犯問題における政友会と軍部の連携も、単に立憲民政党への対抗というよりも政友会の変質に伴う「親軍化・右傾化」現象の反映であった。その後も短期の犬養毅総裁を経て、鈴木喜三郎・久原房之助・中島知久平(久原と同じ軍需関連の政商)と、親軍派あるいは国粋主義派な総裁が同党の分裂・解党まで継続されることになる。
(ウィキペディア一部引用)




ペルシャ12


 


 

フロイトより現代考察考

フロイトによる精神分析の創始
1886年、フロイトはウィーンへ帰り、シャルコーのもとで学んだ催眠を用いるヒステリーの治療法を一般開業医として実践に移した。
治療経験を重ねるうちに、治療技法にさまざまな改良を加え、最終的にたどりついたのが自由連想法であった。
当時は催眠状態の時に患者が意識していない幼少期の事柄を喋ると、ヒステリーの病状が改善した事が知られている。フロイトは自由連想法を施すことによって患者は症状を改善させる事が出来ると考え、この治療法をフロイトは後に精神分析(独: Psychoanalyse)と名づけた。
精神分析学は、人間には無意識の過程が存在し、人の行動は無意識によって左右されるという基本的な仮説に基づいている。
フロイトは、ヒステリー(現在の解離性障害や身体表現性障害)の治療に当たる中で、人は意識することが苦痛であるような欲望を無意識に抑圧することがあり、それが形を変え神経症の症状などの形で表出されると考えた。そのため、無意識領域に抑圧された葛藤などの内容を自覚し、表面化させて、本人が意識することによって、症状が解消しうるという治療仮説を立てた。

精神医学界による排斥
 
精神分析が創始されたころの精神医学においては、「精神病の原因は脳の何らかの器質的異常によるものであるが、その異常はいまだ解明されていない」という精神病内因説が優勢であった。
また、脳科学もその異常を解明できそうなところまで発達していないので、フロイトと同時代の精神科医たちは精神障害の原因究明には興味を示さず、むしろ症状を詳しく分類することに力をそそいでいた。
このような精神医学は、精神障害の根本的メカニズムを解明しようとする精神分析とは交流を持たず、しばしフロイトならびに精神分析を排斥し迫害する立場に回った。
そのため精神分析は、精神医学界から離れたところで独自の発展を遂げることになる。精神分析が精神医学と深く結びついていくのは、フロイトの死後かなり経ってから、それも第二次世界大戦後のアメリカにおいてである。
とはいえ、総じて見れば精神分析は、20世紀初頭から半ばにかけて、心理学、精神医学はもとより、人文・社会諸科学や文化・芸術に多大な影響を及ぼした。=ウキペディア

脳の科学的分析手法
 
1885年、精神分析を創始したジークムント・フロイトによって提唱される。しかしその時代背景として精神病内因説が優勢で、また脳科学もその異常を解明できそうなところまで発達していない。フロイトと同時代の精神科医たちは精神障害の原因究明には興味を示さず、むしろ症状を詳しく分類することに力を注いでいた、というのが実情のようだ。

この地球上の歴史文明は、先の石油問題も包括した紀元前の人間の歴史にすべてが要約起因している。また、最近すこしづつ判ってきたのが、それ以前より存在した古代文明だ。
とくに注目したいのがトルコの「ギョペ・クリ・テペ」遺跡で、開発工事をしていて偶然発見された遺跡で、その内容はまったく判っていない、という実にショッキングな遺跡だった。

そしてまた、この近代のITインフラについても、そうした過去の時代の遺産を知る上でも、その情報を得るには、このネット情報が有用である。

人は概念で生きている、また、生きられる、と結論するには、私のスタンスは人を説得させるのに必要な社会的肩書きとか職業は、当てはまらない。それは何かと云うと、とかく人はバックボーンが必要で、私は゛地球人である"と宣言することなく日本人として振舞っているからだ。

「日本人」、すなわち国民としての義務と権利をまっとうしていれば、平然と自分の住所で暮らしていける。あえて地球人と力説することなく、それはアメリカでもイギリスでもフランスでもオランダ、はたまた、未開の現地人もまったく同様だ。
 
そこに欧米型の民主的主義、資本的主義の結果の貨幣価値、また、ものの価値観など、全部を破壊すれば皆同等の人間という生き物だ。

そこに原始の人としての定義が必要となる。生まれたばかりの人の子を、何もせず食料を与えて生かしておくなら、それは人でなく動物で、読み書きの価値、環境規範など人為的に与えなれければ人として認められない。
その僅差として人格形成があり出生国家とか学歴だとか、人が固有の持っている他と区別できる要素を表現する必要がある。そのことがバックボーンとして作用し、座標の二元によってスタンスがはっきりする。
 フロイトは、その時代に精神分析という新しい医療分野を提唱し、その固有の存在をアピールした。
 
フロイトは自分の構築した概念「精神分析」という医学臨床的な学問を、いわば設計図を使ってビジュアル化し、判りやすく解説しようとしたが、それを始めるには130年も早かったようで時代に合わなかった。
 
今ではインターネットとパソコンという近代コンテンツを駆使すれば、130年前のフロイトのような研究成果を広く世界に公言することも出来て、その空いた時間さらに自分の研究に没頭すればいい。換言するなら、そのようなコンテンツを有効に使えばフロイトに肉薄できると思った。

以前このブログで電車の中の風景を書いたことがある。電車の中の客員ほぼ全員が手にスマートホンをもち、一心不乱に見つめている様子を描写してみた。

=たまに電車に乗って都会へ出かける。
だいたい1時間程度でその中心に着く。それは東京でもいいし大阪でも京都でもいい。その車中では、あたりを見渡すと、ほぼ全員といっていいほどケータイを操っている。
 
私の前に座った若い女性の行動をみていると、一通りの通話が終わると、別の機材を出してなにやら編集している。音楽か何かなんだろう。そんなことをしていれば1時間なんてアッというまに過ぎてしまう。寝る間もない。そんなことが日本全国で起きている。だから、おそらく車窓に流れる景色というのは殆ど記憶にないだろう。

それを極端に云うと、電車の車両に窓は必要なく、もし景色を見たいのであれば携帯端末のアプリを使ってGPS連動で、動画を流せばいい。いまリニアカーがオリンピックに間に合うように急ピッチで進行しているが、これこそ窓なしカーで、車外景色は液晶端末の小さな動画で、とっいたシーンが展開するかもしれない。

そうして都会での用を済ませ帰宅する。都心から1時間も電車で下ればほとんど田舎風景にかわる。そこに待っている里山の風景は、遠目にみれば微かなモヤがかかって美しい里の風景だが、ひとたび、そこに近寄って見ると果てしない雑草の暗闇で植林された針葉樹林は、伸び放題で倒木は放置したまま。まったく人の手が入っていない状態が何年も経過している様子がわかる。その放置林が、延々と田舎を覆いつくす。カンボジア・アンコールワット遺跡ではないが、植物の闇に飲まれて数百年という現実を再びおもい起こさせる。
その脇の舗装された道路を携帯片手に、車のカーナビを使い進路を案内してもらいながら、そうして30分も走れば自宅に到着する。

ここで云いたかったのは、電車に乗ることは単なる移動の手段であり、その途中に展開する車窓の風景は彼らにとってはまったく必要がなく、それを高度に理解すれば、手にしたスマートフォンの液晶画面に、それが動画で展開していればいいだけの話だ。極端に話しを縮めるなら、電車の中の世界は、その個人にとっては概念世界であり、車窓風景はあってもなくてもよく、見たければスマートフォンサービスのサイトにアクセスして風景を見ればいい。もちろんそれは毎月支払う料金に含まれる。

フロイトが展開した精神分析は130年経過してようやくいまの時代に評価され、その重要性は有料でも価値があると判断された。
それと同じことがいま展開していて人間の概念世界は、これといった定義、概論とか言論とか、紀元前にヨーロッパ文明が明らかにした、それらの概念は、まったく輪郭が必要でなく変幻自在に変えて必然である、という考えにいま終着していない、という概念が支配的である。


「長崎県佐世保市の高1女子生徒(15)殺人事件は逮捕された少女(16)の異様な行動」、それはまことに不幸な事件として認識する。
 そしてそのニュースは読まれて数日すると記憶の彼方に消え、再び同様な事件が起こる。
こうして社会は繰り返され、その規模が拡大すると、パレスチナとイスラエルの戦争という結果に行き着く。

電車の外に展開して走る車窓の風景、それは彼らと私にとって必要で重要な事項ではなく、それを高度に理解すれば、手にしたスマートフォンの液晶画面に凝縮できる画面という概念だ。それを一つの人間が構築して概念だと言い切ってしまうには、地球の年月はまだまだ先がある。


佐世保・高1女子殺害 “猟奇的”供述のウラに…識者が読み解く少女の心理
産経新聞 2014年07月29日15時43分
http://blog.livedoor.jp/raki333/archives/52023462.html
(当該記事を再構成した)




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