Galapagos Japas

国際政治と日本の古代政治変遷歴史 明治維新など特に集中して書いている

2015年12月

Joey Alexander ピアノ 12歳

 ピアノ 12歳 Joey Alexander
【神童】10歳の天才ジャズ・ピアニストJoey Alexander君が披露 ...
gori.me › 話題のネタ › 衝撃動画(Vine・YouTube)
2014/01/31 - 演奏だけを聴いたら間違いなく3、40代のイケてるスーツに身をまとったダンディな男性ピアニストを思い浮かべるはず。だが、実際に演奏しているのはJoey Alexander君。その年齢、なんと10歳。ピアノを弾き始めてたったの4年。

若き天才 
Joey Alexander が ...
 

トリオ 


ファルチアーニ

海外からのドキュメンタリーテレビ
NHKで放送された「BS世界のドキュメンタリー」。
この番組を見ながら、いつも感じているが、どうして日本国内のテレビ会社は、これと同等の番組が作れないのだろうか。
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もっともスポンサーあっての企業だから、それは無理としても、それを延々とやっていると欺瞞大国となって、いずれ腐敗国家天国になりさがり、いずれ隣国の見本が示しているように、そのなれのはてだ。
いゃ~既に片足がフリーズしているではないか。クールクールとはしゃいでる間に、白物電気は剥奪され、次世代端末の主導権は既に放棄している。
なんとか手を打たなければ、と杞憂するが、すでにそのタイミングは2周半遅れだ。


『顧客情報を盗んだ男』(ドキュメンタリー)
NHK-BS1 「BS世界のドキュメンタリー」
顧客情報を盗んだ男 〜スイス銀行 情報流出の波紋〜
(2015年・独Gebruder Beetz Filmproduktion/西Polar Star Films)
NHK-BS1 BS世界のドキュメンタリー
狡猾な利己主義者はさまざまな手段で金儲けする

 スイスの銀行が顧客の秘密情報を守るということは有名で、そのためにいかがわしい出所の金もスイスの銀行口座を通ることで、その出自がわからなくなる。おかげで、怪しい資金が大量にスイスに集まるということが起こっている。
 もちろんこれは、政治的に永世中立を守るというスイスの理念によって実現した政策ではあるが、現時点では、他国の企業や人間が脱税のために利用しているという実態がある。他の国の政府から情報開示を求められても銀行側が頑なに拒否してきたということも、このような状況を助長した。外国にとっては限りなく怪しいが手を出せない存在、それがスイスの大手銀行だった。
 ところが2008年、世界第4位の銀行、HSBCスイス支店で、個人データが流出した。システム管理を担当していたファルチアーニという男が、自分の利益のために大量のデータを持ち出したのだが、これがフランス政府、スペイン政府に渡って、スイスの口座が脱税に利用されていた実態が明らかになった。ただし各国には、不当に取得された証拠は証拠として採用できないという法があったため、実際に脱税された金額を回収するまでにはなかなか至っていない。とは言っても、これで脱税の温床としてのスイスの銀行口座の実態が明らかになったため、これをきっかけとして各国のスイスに対する圧力は強くなり、これまでのように完全秘密主義が貫けなくなるのではないかというのがこのドキュメンタリーの主旨。
 このファルチアーニという男だが、国際手配されていたため、フランスからスペインに入国した際に逮捕されたが、司法取引で結局釈放され、その後EU議員選挙に立候補したりした(結局落選)。元々、盗み出した顧客情報を利用して、事業をするつもりだったらしく(実際に始めたがうまくいかず)、少なくともスイスの銀行の秘密主義を暴いてやるというような純粋な動機ではなかったようである。そのため見ていてなんだか腑に落ちない部分もままあるが、狡猾な利己主義者が儲かる巧妙なシステムというものが、こういうところ(スイスの銀行)にもあるという現実はよくわかる。タックスヘイブンの問題同様、まだまだ問題は山積みのようだ。
(検索サイト 竹林軒出張所 引用)

HSBCのスイス銀行部門、1.5万人分の顧客情報流出で公式に謝罪
2010年 3月 12日  13:10 JST
【チューリッヒ】英金融大手HSBCホールディングス(0005.HK,NYSE:HBC,HSBA.LN)のスイスのプライベートバンク部門は11日、元社員が1万5000人分の顧客情報を盗んだ件で、顧客に対する公式謝罪声明を発表した。これは、顧客情報へのアクセス権を有していた元社員、ファーブ・ファルシアーニ容疑者の犯行とみられる。

HSBCスイス部門のアレクサンダー・ゼラー最高経営責任者(CEO)は記者団に対し、「われわれはこの状況を非常に遺憾に感じており、プライバシーが脅かされている顧客に心から謝罪する」と語った。

盗難に遭ったデータには、2006年10月以前にスイスのHSBCで開設された口座も含まれている。HSBCは昨年12月、盗難によって影響を受ける可能性があるのは10口座に満たないと発表していたものの、実際にはそれよりもはるかに多い1万1500口座が盗難対象になっていたことが明らかになった。これは同行スイス部門の総口座数の約15%に相当する。

盗まれたデータのコピーは先週、スイスの捜査官から同行に返却されたという。

スイス政府はフランスに対し、スイスはデータが不法に入手されたことを理由に脱税者の追跡を支援する意向はないと伝えている。財務報道官が11日、これを確認した。

スイス当局の捜査協力がなかったとしても、盗難データによる打撃は甚大だ。不安にかられた顧客はプライベートバンクの担当者や税金専門の弁護士の元を訪れ、スイスの銀行などの秘密口座に預けている資金の出所を明らかにするべきかを相談する公算が大きい。

今回の情報漏えいは、HSBCスイス部門の顧客10万人の約15%に影響をもたらすとみられる。他のプライベートバンクと同じく、富裕層の顧客情報を慎重に取り扱うことで発展してきたHSBCにとって、これは大きな信用失墜を意味する。同行のスイス銀行部門は顧客に今回の不祥事を謝罪する手紙を送付しているものの、2009年の資金流出額は41億スイスフランにのぼるなど顧客離れが深刻化している。

スイスの捜査当局はHSBCに対し、フランスは同行の盗難データを他国の関係者に渡さなかったと証言した。

HSBCのデータ盗難事件は、スイスの銀行の守秘義務をめぐる議論が白熱しているさなかに発生した。スイス政府は昨年、銀行の守秘義務を緩和し、経済協力開発機構(OECD)が定めた基準に従って情報開示に応じることで合意した。ドイツでも同様のケースが起きている。あるスイスの銀行の顧客情報を含むCDが盗難に遭い、これがドイツの税務当局関係者に売られたことから、両国の緊張が高まる事態にまで発展した。ドイツも他国と同じく、国民による脱税行為の取り締まりに熱心な姿勢を示している。

HSBCのロンドン市場での11日終値は前日比1.16%安の697.90ペンス、ダウ・ジョーンズStoxx欧州600指数の銀行株指数は同0.7%安の218.16ペンスだった。

顧客情報を盗んだ男 ~スイス銀行 情報流出の波紋~
BS世界のドキュメンタリー 顧客情報を盗んだ男
録画してあった番組ですが、こちらがめちゃ面白かった。世界第4位の銀行である、スイスのHSBC銀行のスイス支店から大量の顧客情報を盗み出したファルチアーニ。

そこ顧客情報には、大物政治家や大企業のオーナーの名前があって、あきらかに巨額脱税したものとしか考えられない。その情報が欧州の各国政府に渡ってからの対応が興味深い。もともと脱税には厳しい対応をとる政府、ギリシャのようになるべく臭いものには蓋という政府など様々。

しかし総じて体質が古い、欧州の政府に各国の税務担当者はほぞをかむ思いで、それらを眺めていたであろうことは容易に想像がつきます。
で、世界一の正義感の塊で、癇癪持ちでもあるアメリカがスイスの銀行に対し、脱税に加担するオマエラの免許取り消しだ!とやってくれたので大きくことが動き出した。
私も記憶にあるのですが、へぇ~、ついにスイスの開かずの扉をアメリカこじ開けた。と思いましたもんね。

その騒動の裏には、こんな動きがあったのです。これ以降OECD加盟諸国で銀行のデーターを共有する仕組みを機能させることも決まりました。そして少なくともタックスヘイブンという言葉が公に広く知られるようになって、それとともにそれらを利用した脱税や租税回避について、やりにくくなったのは間違いない。
このドキュメンタリーを見て、思い出したのが、つい最近見た映画 黄金のアデーレ 名画の帰還 という映画。
アメリカに亡命した、ユダヤ人でもあるもとオーストリア人マリア。そのマリアが、自分のものであるグスタフ・クリムト作黄金のアデーレをオーストリア政府を訴えて取り戻すという物語。
正義が実現され、スカッとしたカタルシスを感じながらもいかにもアメリカ的な価値観だよなと思いました。
オーストリアの人たちは、どんな気持ちでこの映画を見るのだろうかと。欧州の古い因習に立てついて、意見をねじ込める国というのはいまのところアメリカしか存在しない。
これがいいことなのか悪いことなのか。世界の税収アップに貢献したことは間違いないのでしょうが。

※タックス・ヘイヴン(Tax haven)とは、一定の課税が著しく軽減、ないしは完全に免除される国や地域のことである。 租税回避地(そぜいかいひち)とも呼ばれる。 2007年版タックス・ヘイヴン指定地域 "Stop Tax Haven Abuse Act", US Congress.
タックス・ヘイヴン - Wikipedia

「私たちには知る権利がある」ー独立したジャーナリズムと内部告発
飛幡祐規 パリの窓から・第25回
第25回・2013年7月19日掲載

7月14日の革命記念日(日本でなぜか「パリ祭」と呼ばれる)も過ぎて、フランスは長い夏のヴァカンスシーズンに入ったが、このところ「知る権利」について重大な出来事がいくつかあったので、記しておきたい。
 3年前の2010年7月にこのコラムでとりあげたが、インターネット新聞の「メディアパルト Mediapart」は、ロレアル社創業者の娘ベタンクール夫人(当時フランス第3の富豪、現在第1位)をめぐる脱税や不正政治献金の疑惑を報道するために、夫人の使用人によって秘密裏に録音されたテープを公表した。(「カネと権力」http://www.labornetjp.org/Column/20100727pari) 

 ベタンクール夫人側と彼女の会話相手の資産管理人(当時)ド・メストルは、この報道を「プライバシー侵害」として訴えたが、過去2度の判決では録音内容の「公益性」が認められ、却下されていた。メディアパルトは21時間にわたる録音テープのうち私的な内容の部分は避けて、脱税や政治家との結びつきなど公益性のある情報の抜粋1時間のみを報道したからだ。ところが今年7月4日のヴェルサイユ控訴院(高等裁判所)の判決で、録音テープの内容を公表したメディアパルトと週刊誌ル・ポワンが「プライバシー侵害」で有罪となり、録音内容を載せた記事すべてを削除しなければ厖大な罰金が課されることになった。

 これはなんとも不条理な判決である。というのも、録音によってタックス・ヘイヴンへの脱税を暴露されたベタンクール夫人は、スイスの口座にあった資産をフランスに戻したのだ。また、現在90歳の夫人は、当時すでに(娘が主張していたように)自発的な判断のできる健康状態になかったと判定され、資産管理人ド・メストルや弁護士、お気に入りの写真家など側近の一部は、財産横領など詐欺の疑いで起訴された。
 メディアパルトはある意味、夫人の弱みにつけこんで私腹を肥やそうとした人々からベタンクール家の財産を守ることと、国家財政の擁護に貢献したわけだ。メディアパルトがスクープした録音内容をもとに警察や司法の取り調べが進み、ヴルト元予算大臣はこの件以外にも汚職疑惑が露呈して起訴された。コラム「カネと権力」の中で述べたように、前サルコジ政権下では司法への露骨な圧力が強まっていたため、司法の独立を求める署名運動も行われた。
 そうした批判が報道された結果、ベタンクール事件は問題視されたクロワ検事の属するナンテール裁判所からボルドーの裁判所へと「移籍」され、予審判事3人が任命された。予審判事は今年の春、サルコジ前大統領の取り調べも行っている。メディアパルトなどいくつかのメディアはしたがって、民主主義における「反権力」の役割を担っているといえるだろう。

 3年前の記事を今になって削除させるこの判決の不条理さは、インターネット・メディアへの適用についてとりわけ顕著である。判決には詳しい指示がないため、削除すべき内容が当時の記事だけなのか、それに言及したすべての記事・ブログ、さらに読者のコメントまでも含むのか、インターネット媒体の「判例」がないので、わからない(1回の違法で24時間につき罰金10 000ユーロという判決を、記事数約800、ブログ約2000、何万ものコメントに適用させると、月に7億ユーロ以上もの罰金となる)。
 資本金400万ユーロ弱の小さな媒体メディアパルトにとっては、存続不可能になる法外な(しかし司法が定めた!)罰金額だ。パリの法廷(第一審と控訴院)とは正反対の判決を下したヴェルサイユ控訴院の判事3人は、市民の「知る権利」を代弁するジャーナリズムがよほど嫌いで、厳しい判決で口を封じようとしたのだろうかと、勘ぐりたくなる。判決後すぐメディアパルトが「検閲された!」(写真)と報じたゆえんである。

 ところが、これまた不条理なことに、判決は訴えられたメディアパルトとル・ポワン誌についてだけだから、他のすべてのメディアは同じ内容を掲載できるのである。それに、判決はフランス国内でしか適用できない。そこで、この件についてのメディアパルトの報道すべてを自分たちが替わって掲載すると、インターネット媒体の「リュー89(Rue89)」や「アレ・シュル・イマージュ」、リベラシオン紙などいくつもの国内メディア、さらに外国のメディアも名乗りを上げた。
 そして、たちまちインターネット利用者によってP2P共有ファイルがつくられ、「立ち寄った市民たち」というグループがそれを自主的に編集し、「ベタンクール事件」の記事、録音、ビデオ、写真のファイルは無数の人々によって世界じゅうでダウンロードされ、共有・拡散された。データの流布の自由を主張する"Datalove"という市民運動などがイニシアチヴをとったという。インターネット上では検閲は不可能などころか、隠そうとすればするほど、情報は飛躍的に拡散されるのだ。

 さて、3年前に司法の独立を求める署名運動が起きたように、今回も「私たちには知る権利がある」という署名が始まった。市民には公衆の益に関わるすべての情報を知る権利があるから、不当に隠されていた違法行為や不正を公表するのは、正当な行為である。したがって、公益性のある事実を一般に知らせたジャーナリストの調査やその情報源、警告を発する人々(内部告発者)を擁護しなければならない、という趣旨だ。7月11日、「国境な記者団」と共に記者会見して始まったこの署名は、1週間で39 000人を超えた(7月18日現在)。
http://blogs.mediapart.fr/blog/la-redaction-de-mediapart/110713/lappel-nous-avons-le-droit-de-savoir-deja-39000-signataires

 メディアパルトの公益性への貢献は、ベタンクール夫人事件にかぎらない。前回触れたカユザック予算大臣補佐の脱税疑惑も、昨年12月初めにメディアパルトが録音テープをネット上で公表してスクープした。その後、司法警察と予審判事による取り調べが始まり、カユザックは脱税を認めて辞職した。また、企業家ベルナール・タピとクレディ・リヨネ銀行間の「民間調停」詐欺疑惑についても、資料をもとにスクープ記事を発表している。2008年の民間調停時に批判が起きたこの「タピ事件」では最近になって、調停を行った元判事(元ヴェルサイユ控訴院の裁判長!)や当時の財務省官房長だったステファン・リシャール(現フランス・テレコム=オランジュ社長!)などが「組織的詐欺」の疑いでつぎつぎと起訴されている。

 詳しくは割愛するが、疑惑が証明されればこの事件は、不当な高額の公金(=税金)が個人に横領されることを、国の中枢部(大統領府、財務省)が故意に計画・実践した組織犯罪、フランス国家の大スキャンダルの一つになるだろう。
 このほかにもメディアパルトは、サルコジ政権時に大統領府の官房長と内務大臣を勤めたクロード・ゲアンをはじめ、サルコジの側近や元大臣何人かに関わるいくつもの事件、サルコジがリビアのカダフィ大佐から大統領選用に政治献金を受けた疑惑など、真実が証明されたら国家的スキャンダルになるであろう調査をつぎつぎと公表している。サルコジ政権下で遅滞したり、もみ消されたりしていたそれらの疑惑はこのところ、一斉に明るみに出てきた。
 司法への圧力がなくなった点だけは、オランド政権になって改善されたといえる。カユザック事件についてはしかし、大統領と政府の対応に問題があった(嘘がみぬけなかったのはなぜか、司法の調査結果を待たずとも辞職を求めるべきではなかったのか?)と批判されたため、議員によって調査委員会がつくられ、国会で現在も聴取が行われている。

 民主主義が機能するためには三権分立と、市民や独立組織による諸機関の監視、反権力としての独立したジャーナリズムが必要不可欠だが、このところにわかに注目されているのが「内部告発」の必要性だ。というのもタックス・ヘイヴンへの脱税問題に関しては、スイスの銀行で働いた人たちの内部告発によってようやく、銀行とファイナンス専門家による組織犯罪の実体が明るみに出始めたからだ。ラ・クロワ紙のジャーナリスト、アントワーヌ・ペイヨンによれば、フランスだけで現在、約5900億ユーロの資産がタックス・ヘイヴンに逃れているという。

 2008年にHBCSジュネーヴ支社の脱税者リストをコピーしてフランス国税庁に通報したエルヴェ・ファルチアーニは、昨年6月末にスペインで逮捕され、投獄された。スイスから「銀行の秘密漏泄」の罪で捜索願いが出されたからだ。しかしスペイン当局は、ファルチアーニがスペイン人を含む脱税者リストを提供して各国の脱税抑止に貢献したとして、6ヶ月後に釈放し、スイスへの引き渡しを拒んだ。フランスはカユザックの失脚後ようやく、本気でファルチアーニの情報と証言を活用する気になったようだ(オランド政権になった後も、スイスの銀行を使って脱税したカユザックが予算大臣として脱税と闘う役割についていたため、脱税抑止の措置は進まなかったのである!)。フランスでの身の安全を保証されたファルチアーニは、今年の6月から7月初めにかけて国民議会や上院の調査委員会、予審判事のもとで証言を行った。

 もうひとり、スイスの銀行で富豪の財テクを専門にしていたピエール・コンダマン=ジェルビエも今年になって、脱税のメカニズムについて、国会の調査委員会や判事のもとで証言を重ねた。内部の事情を知る人たちは、銀行やファイナンスの専門家がいかに巧みに法律や規制を回避・迂回して脱税を発展・拡張させたかを語る。しかし、コンダマン=ジェルビエは7月初めにスイスで、「銀行の秘密漏泄」罪で逮捕された。フランスの国会では今、脱税や汚職を防ぐための新たな立法が議論されている。そこで国会・元老院の議員20人(国民運動連合UMPと国民戦線を除くすべての党)は連名で7月17日、「内部告発者」の保護を保証する法律を早急につくるよう、首相に求めた。マフィアの「改悛者」を保護するのと同様、金融界の絶大な力に対抗して脱税と闘うには、内部告発者の協力がなければ不可能だからだ。

 独立したジャーナリズムと内部告発。市民の知る権利にとってこの二つがいかに重要であるかは、福島原発事故以降、日本でも顕著に示されたのではないだろうか。
2013年7月17日  飛幡祐規(たかはたゆうき)
(記事引用)


オバマ氏、小澤征爾さんを称賛 日本人初のケネディ賞

オバマ氏、小澤征爾さんを称賛 日本人初のケネディ賞
共同通信 / 2015年12月7日 8時47分
バラク・オバマ  小澤征爾  指揮者  音楽  アメリカ
ダウンロード
 6日、米ホワイトハウスでのレセプションに出席した小澤征爾さん(ロイター=共同)
 【ワシントン共同】オバマ米大統領夫妻は6日、ワシントンの文化施設ケネディ・センターが優れた芸術家らに贈る同センター名誉賞を日本人で初めて受賞した指揮者の小澤征爾さん(80)らをホワイトハウスに招き、「私たちの人生を豊かにしてくれた」と述べて功績をたたえた。

 

同センターは6日夜、小澤さんら受賞者を称賛する祝賀行事を開いた。会場に到着した小澤さんは共同通信の取材に対し「素晴らしい。名誉なことだ。(今まで仕事をしてきたオーケストラのメンバーたちと)一緒に受けたと思っている」と笑顔で語った。
(記事引用)

エボラ出血熱 バランス

日常に埋め込まれたエボラ出血熱――流行地ギニアに生きる人びとのリアリティ
- 中川千草 / 社会学 1/2SYNODOS2015年11月05日 06:00
シリーズ「等身大のアフリカ/最前線のアフリカ」では、マスメディアが伝えてこなかったアフリカ、とくに等身大の日常生活や最前線の現地情報を気鋭の研究者、 熟練のフィールドワーカーがお伝えします。今月は「最前線のアフリカ」です。
はじめに
家族が死に行く姿を目にし、アフリカはいま悲しみに満ちている/病に伏した仲間に触れてはいけない/亡くなった家族や友達にも触れてはいけない/すべての人が危険にさらされている/若き者も年老いた者も、家族のために立ち上がろう/エボラ・・・それは見えない敵/エボラ・・・医者を信じよう

これは、2013年12月からはじまった西アフリカでのエボラ出血熱(Ebola Virus Disease、以下EVD)の流行を受け、翌年10月にリリースされたキャンペーンソング「Africa Stop Ebola」の冒頭である。この歌詞、特に最後の「医者を信じよう」の部分を見て、どのような感想を持つだろうか。「そんな基本的なところから訴えなければならないの?」と驚くだろうか。
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だが、前半のやや感傷的な雰囲気を一蹴するかのようなインパクトを持つこの一言こそが、この歌の主旨だ。歌は、「もし具合が悪くなったら、医者たちが助けてくれる/医者はエボラを食い止める「希望の星」である/あなたたちを助けてくれることを保証する/だから、医者を信じよう」とつづく。

Tiken Jah Fakoly(コートジボワール)やSalif Keita(マリ)、Mory Kanté(ギニア)など、アフリカを代表する歌手が集まり、医療サービスへの信頼の重要性とEVD克服への希望を、フランス語やそれぞれの母語で歌い上げている。

プロデューサーの発表によれば、非公式のリリース直後に25万のコピーが出回ったという。しかし、流行地では、この歌の存在を知らないという人が少なくない。この歌を届けたいはずの相手に届いていない可能性がある。

2015年7月末、このキャンペーソングに携わったアーティストたちが主導した音楽イベントがギニアの首都コナクリで催された(中川, 2015)。それは、EVD撲滅をテーマにしたオリジナル曲のコンクールの決勝戦を兼ねていた。だが、会場へ足を運んだわたしの友人のギニア人たちは、「招待状がなければ入れない」と言われて入場できなかった。

わたしはその翌月、セネガルの首都ダカールのホテルで偶然、このコンサートの模様が特集されたテレビ番組を目にした。最後まで映らなかった客席には、誰が集まっていたのだろうか。EVDにかかわるできごとのはずなのに、現地の人びとの姿が見えてこない。

本稿では、今回のEVD流行の経緯を概説するとともに、一般的な報道からはこぼれておちてしまう、流行地ギニアに生きる人びとの反応と、そこから見えてくるEVDをめぐるリアリティの一片の提示を試みる(注)。

(注)本稿は、2008年から現在までギニアの人びと(国外に移住している者を含む)を対象としたフィールドワークで得られたデータに基づいている。

流行の規模と国際社会の反応
EVDの発生は1995年から2年ごとに確認されてきたが、1回の流行における最大感染者数は、2000年のウガンダでの425人だった。他方、今回の流行における感染者は2015年10月14日現在28,454人、死者は1万人を越え、史上最悪の事態となっている(WHO, 2015)。加えて、100万人以上が暮らす都市部での感染確認や流行期間の長期化は、過去に例を見ない。西アフリカでの発生もはじめてのことである。

2014年8月8日、WHOは「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態(PHEIC)(注)」を宣言した。同時期、EVDの流行が国家の安全保障に対する脅威になると、各国政府から非常事態宣言が出された。ただし、各国政府の態度は一枚岩ではない。特にギニア政府は当初、他の二国と異なり、国境の閉鎖や軍の動員については難色を示し、人びとの動きを封じ込めることは逆効果だという見解を示していた。

(注)PHEIC、Public Health Emergency of International Concern:2015年10月1日に国際保健規約緊急委員会第7回会議が開催され、西アフリカにおけるEVDの流行が引き続きPHEICに該当すると結論付けた。

こうした動きに従って、日本の外務省も感染症危険情報を発出し、渡航計画者には不要不急の渡航の延期を、在留邦人には早期の退避の検討をそれぞれ勧告した(注)。その翌月には、同流行を国際の平和と安全に対する脅威と認定する国連安全保障理事会決議2177が採択され、国連エボラ緊急対応ミッション(UNMEER)が設置された。安保理が保健関連の緊急会合を開き、決議を採択したのははじめてのことだった。こうして、世界的な緊急課題としてEVDは認知された。

(注)2015年10月14日、感染症特有の注意事項として付記してきた在留邦人への退避の検討を促す文言が削除された。

ただし、2014年3月にギニア保健省が同国内でのEVD発生をWHOに報告した時点では、国際社会は事態を重くとらえていなかった。経済的影響を懸念したギニア政府による過小報告を批判する声もあるが、過去のケースと同様にアフリカでの局所的かつ一時的なものだと軽視した国際社会の責任も大きい。こうして対応が遅れるなか、EVDは地域をまたぎ国境を越え、生活のための移動を重ねる人びとを介して広がっていった。

わたしたちとEVD
遠く離れたアフリカでのできごとのリアリティがいよいよ日本(人)に突きつけられたのは、日本国内での疑い例が報じられたときだろう。それは、冒頭のキャンペーソングがリリースされた2014年10月のことである。

このとき、たとえばインターネット上には「エボラ!やばくない?」「うちに近いんだけど!」「日本も終わりだー」など、EVDの特徴を十分理解しているとは言いがたいコメントが溢れかえった。以後、日本国内ではこれまでに8つの疑い例が報告され、その度に出されるニュース速報が世間を騒がせた。過剰な報道とは裏腹に、結果はいずれも陰性だった。

こうしたことが8回繰り返されるうちに、世間の反応は、EVDに対する不安や恐怖よりも、「またか」「どうせ違うでしょ」という呆れや無視が優勢になっていった。日本では現在も、流行地域に21日以内に渡航した者の帰国・入国後の健康監視がつづけられているが、流行のピークが過ぎ、日本国内でのEVD関連の報道がすっかり減ったいま、EVDは再びわたしたちとは無縁のものとなりつつある。

見えにくさ、伝わりにくさのリアリティ
リベリアは、2014年8月から10月における感染者の急増とその後の急減を経験した(WHO, 2015)。ホットスポットは、人里離れた土地ではなく、総人口の約四分の一が暮らす、情報と人間の中心地である首都モンロビアだった。

治安部隊による地域の封鎖や外出禁止令などの強制的で暴力的な措置がとられると、住民たちは激しく抵抗し、それに対して更なる圧力がかけられた。道路に横たわり死にゆく人、家族の死を嘆く声などが町を覆った。あいさつ時の握手やハグは危険行為として認識され、それまでの習慣は一新されたという。こうした辛い経験と引き換えに、感染者の急減と2015年5月に一度目の終息宣言にたどり着いた。

他方、ギニアの感染者数の推移は、リベリアのようなはっきりとしたピークを示さず、横ばいがつづいている。人びとの習慣を一変させてしまうような鬼気迫る場面の経験は、リベリアに比べると少ない。首都コナクリに暮らす人びとからは、「またEVDの話か!それはもう飽きた!」と失笑されたこともあった。それはとても素直な反応だ。なぜなら、「身近なところに感染者がいない」からだ。

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図1 ギニア・シエラレオネ・リベリアの感染者の推移(WHOの記事より転載)

泥棒やケンカなどの噂は瞬く間に広がるのに対し、病気に関する情報は日頃から伏せられがちだ。万が一、感染者が身近に出たとしても、周囲からの批判や差別を想像すれば、死因を口にすることなどできるはずがない。

コナクリの貧困地域の一つで、人と家がひしめきあっているM地区では、通りに出れば必ず知り合いに会う。このM地区ではこれまでに少なくとも10人を越える感染者が出ている。直近の感染ルート源となった患者が出たR地区では、すでに千人規模が監視の対象となった。しかし、これらの地区では、住民が感染者を特定することは容易ではない。

カバクドゥという有名なコメディアンが出演するドラマのひとつに、息子をHIVで亡くした家族が、その死因を村の人に隠し叱責されるというエピソードがある。HIVを恥とし、周囲からの非難に怯えるがゆえについた嘘がストーリーの軸となる。カバクドゥは、「それはよくない!お前もあいつも、ドアも窓も椅子も全部がHIVになるぞ!」と怒鳴り散らす。このセリフが笑いを誘うという点はなかなか理解しづらいが、周囲の反応を危惧して物事を隠そうとするという態度や感覚は、わたしたち日本人にも通じるものだ。かれらに限ったものではない。

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写真1 風景化した啓発キャンペーン(コナクリN地区, 2015年1月Saran Moly Condé氏撮影)

ギニア保健省やWHO、支援団体が啓発活動に注いだ努力は計り知れない。その一つに、携帯電話のSMSを利用した方法がある。

しかし、SMSは主に中高生などの識字率の高い若い世代のあいだで使われるコミュニケーションツールであり、「元気?」などと数単語だけのやりとりが一般的で、重要な情報伝達に使われるものではない。

そもそも「携帯会社からのプロモーションメッセージが多いから、メッセージをいちいちチェックしていない」という人も多い。指の色が変わるほど強く押さなければ反応しないニセiPhone、粉々、真っ黒、虹色の液晶画面のままのガラケー。かれらにとって携帯電話の文字情報はオプションにすぎず、音声通話や音楽再生機能が重要なのだ。

更新されつづける信頼関係
既存のコミュニティリーダーを頼った啓発活動に寄せられる期待は大きい。チーフなどの絶対的な存在を有するコミュニティでは、トップダウンの情報提供は効果的かもしれない。しかし、ギニアの場合、コミュニティ構造は単純ではなく、都市部のように複数のエスクニックグループが混住する地域となれば、さらに複雑さを増す。

トップダウン構造があったとしても、組織化されているのはそのトップ部分に限られ、一般の人びとはややこしく流動的な信頼関係によって構成されている。地縁、血縁、職縁を保ちつつも、日々より有利なコネクションを手繰り寄せていかなければ、生きていくことはできない。

一つの屋根の下に暮らしていたとしても、隣で寝ていたとしても、同じ石鹸を使っていたとしても、情報交換という意味でのコミュニケーションをあまりとらないということもしばしば見られる。

「かかりつけ医」のバリエーションが豊富であることは、想像できるだろうか。「病気や伝統的な薬による治療に詳しい人」の存在は、現地では一様一定ではない。その症状のみならず、症状が出た年齢や季節によって、頼る人は異なる。その基準は、同居/別居、親族/非親族、付き合いの長さなどから生まれるものというより、むしろ、それぞれの「暫定的な身近さ」が鍵となる。

たとえば、成人するまでは近親者内の目上の人(主に叔母や祖母)を頼る。生家を出た後も、近親者を頼ることもあれば、そのときにつきあいの深い友人を伝手にし薬を処方してくれる人を探すこともある。しかし、その友人とのつきあいが何らかの理由で断たれれば、また別の頼れる人を見つける。

写真2 身近な頼れる人が用意する信頼できる薬(コナクリE市場, 2014年2月筆者撮影)
写真2 身近な頼れる人が用意する信頼できる薬(コナクリE市場, 2014年2月筆者撮影)

道で知り合った気の合う人との会話から薬の情報を得ることもあるし、市場の一角に構えられた薬の材料を専門に扱う人のところに自ら赴き、相談しながら材料を揃えることもある。病院や診療所での診察や、薬局にあるフランス製の薬の購入を好むこともある。家の近くの商店、あるいは症状が出ているときに偶然目にした路上販売者から、中国やインドのものと思われる薬らしきものを1錠だけ買うということもある。

頼りたい相手が雨季になると冠水してしまう道路の近くにいるならば、乾季に限った「かかりつけ」となる。症状がひどく呪いが疑われた場合は、duléと呼ばれる呪医を呼び出し、儀礼を伴った治療をおこなうこともある。家族にも誰にも告げず、自分の判断で国をまたいで伝統的な治療を受けに行くこともある。

こうした入り組んでいて変化もしやすい人間関係の渦にある人びとに対して、「医者を信じよう」と訴えることの心もとなさを、アフリカ出身の歌手たちは忘れてしまったのだろうか。

プレ・エボラの視点
英医学雑誌『ザ・ランセット』(The Lancet)が2015年8月3日、WHO主導による新規EVDワクチンの臨床試験(医療従事者を中心に7651人が接種)の中間結果として、そのワクチンの有効性と安全性を発表した。このワクチンには、EVD終息へと向かう大きな一歩としての期待が寄せられている。

WHOの取り組みも第3フェーズへと入り、その目的も、感染防止をメインとしたものから、ワクチンを用いたコントロールや回復者へのケアなどへと移行している。また最近の報道では、EVDからの回復者の後遺症や差別問題、EVDがもたらした現地医療サービスへの影響などの扱いが中心となっている。

たとえば、マラリアやコレラといった死をもたらす可能性のある疾患がEVDの陰に潜んでしまっているという指摘(Khaddaj, S. and Forget, C., 2015)や、身体的な後遺症と同様に食欲不振などを伴う精神衛生上の負の影響についての報告などがある(Rettener, 2015)。

いまや、国際社会の関心は「ポスト・エボラ」へとシフトしている。しかし、ギニアのEVD流行はまだ終息していない。ポスト・エボラというEVDの流行から現地のできごとをとらえるのか、あるいは、現地の日常生活からEVDをとらえるのかによって、物事の見え方は異なる。

たとえば、2015年9月末、流行終息を祝うコンサートがギニアで開かれたことが報じられた。「エボラ流行終息へ秒読み、ギニアで一足早く「祝賀コンサート」」というニュースタイトルから、わたしたちは何を感じるだろうか。危機感がなく楽観的な人びとの姿に眉をひそめるだろうか。それとも、終息してよかったと安堵するのだろうか。

このコンサートは、EVDと同等あるいはそれ以上に、選挙という社会的イベントとの結びつきが強く、EVD撲滅や有名な歌手のステージを強調することによって集客をねらったものだったと言われている。開催を知っていたけれど行けなかった人にその理由をたずねると、野外コンサートの危険さや入場料をあげる。EVDというテーマを恐れたわけではない。

そのほかの例として、「エボラ、エボラ」と手を叩きながら踊りはしゃぐ子どもたちがいて、それを怒鳴りつける大人がいたとする。叱る理由は、EVDを話題に出すことではなく、電話しているそばで騒がしくすることにある。

EVD関連の報道のなかでは、EVDを前提とした社会や生活が描写される。他方、現場では日常を淡々と生きるなかの一片としてEVDは存在する。EVDと別のトピックが結びつきフォーカスされることはあるが、ギニアに暮らす人びとにとって、EVDは特別視するものではなく、日常に埋め込まれた不幸や不運の一つに過ぎない(中川 2015)。こうした現地社会の文脈を十分に把握することは、医療支援活動にも不可欠である。

ただし、問題が生じた後にはじめられた考察には、現地の論理を活動の疎外要因と位置づけてしまう危うさがある。そのうえ、EVDの流行という社会的危機に対して流行地の人びとが選んだ付き合い方、つまり、よりよい暮らしを営むために紡ぎだす日常の尊さとリアリティは、わたしたちに伝わりにくくなる。

ギニア政府が当初、他の国と足並みを揃えた国境封鎖や軍の介入を拒否したことは、EVDの封じ込めという点から考えれば、正しい判断だったかどうかはわからない。よって、この方針には賛否両論ある。しかし、強制的な措置は大きな混乱を呼ぶ可能性が非常に高く、効果的ではないと判断した所以は、現地のことを熟知していたからにほかならない。後に起こった啓発活動へのコミュニティ単位での激しい反発(道の封鎖や投石などによる意思表示)がそれを物語っている。

今後も当分のあいだ、流行地に対する地道な情報発信は間違いなく求められるだろう。それは、気が遠くなるような作業である。模索され試みられてきたさまざまな手段の「取りこぼし」への気づきはその一歩となる。また、日常生活におけるEVDの位置づけに迫ることは、現地の人びとのみに責任を負わせるような分析と、そこから生まれる対策の脆さや乱暴さを知る契機となる。

ポスト・エボラへと関心が向かういま、流行後の時間と空間にEVDの議論を閉じ込めることを避け、流行前からつづく日常のなかでEVDを問い直すこと、つまり「プレ・エボラ」の視点が、わたしたちに求められているのではないだろうか。
(記事引用)

歴史の中の多様な「性」(1)

歴史の中の多様な「性」(1)
ニューズウィーク日本版 / 2015年11月30日 20時0分
 論壇誌「アステイオン」(公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会編、CCCメディアハウス)83号は、「マルティプル・ジャパン――多様化する『日本』」特集。同特集から、自身トランスジェンダーであり、性社会・文化史研究者である三橋順子氏による論文「歴史の中の多様な『性』」を5回に分けて転載する。

はじめに――「日本社会の伝統」って何?

 今年(2015年)の四月、東京都渋谷区が同性パートナーに「証明書」を発行することを条例で定めた。七月には世田谷区も区長の判断で、パートナーであることを宣誓した書類に区が押印し受領証書を交付する形で同性パートナーを公認することが明らかになった。いずれも実際の交付はまだ行われていないが、順調にいけば年内には自治体(国ではない)が公認した同性パートナーが日本でも誕生するだろう。

 こうした同性パートナーを公認していく動きについては、ツイッターなどのSNSでは賛成や祝福の意見が多いものの、一部には反対の動きもみられる。その理由として、単純なホモフォビア(Homophobia:同性愛嫌悪)を除けば、①少子化が加速する、②日本社会の伝統にそぐわない、の二パターンに整理できるように思う。

 ①については、同性パートナーが公認されようが否認されようが、先天的要素が強い同性愛者の数には変わりはなく、また同性愛者は性愛の対象が異性に向いていないので、一般的な形で子を作ることが少ないことにも変わりはない。そもそも同性愛者は全人口の二―三%しかいないので、少子化の加速にはほとんど影響しない。
 それを心配するなら、九七―九八%いるはずの異性愛者の出生率を少しでも上げる方策を考えた方がずっと有効性が高い。むしろ、同性パートナーシップを公認すれば、レズビアン(女性同性愛者)カップルが第三者の精子を使って妊娠・出産することが増えて、出生率の向上にわずかながらも寄与するかもしれない。

 ということで、①の反対理由は簡単に論破できるのだが、②はどうだろうか。ここで問題になるのは「日本社会の伝統」とは、いったい何なのか? ということだ。

 私は、2013年に「性と愛のはざま─近代的ジェンダー・セクシュアリティ観を疑う─ 」という論文を『岩波講座 日本の思想 第5巻 身と心』に執筆した。内容をごく大雑把に要約すると、私たちが「常識」としてもっているジェンダー・セクシュアリティ観は近代(明治期以降)に形成されたもので、前近代(江戸時代以前)のジェンダー・セクシュアリティ観はそれとはかなり大きく異なるのではないか、という話だ。

2.どう異なるかは、また後で述べるとして、前近代と近代の間にジェンダー・セクシュアリティ観の大きな変容があったとするならば、「日本社会の伝統」とは、そのどちらを指すのか? ということになる。前近代のそれをイメージするのか、近代以降のことなのかで、「伝統」の内実は大きく異なってくる。

 この論考では、ジェンダー・セクシュアリティにおける「日本社会の伝統」とは何か? ということを意識しつつ、歴史の中に多様な「性」の形を探ってみたい。

同性「夫婦」は存在した?

 ここに一枚の錦絵新聞がある(『東京日々新聞』錦絵版、明治7年10月3日・813号)(図1)。錦絵新聞とは明治時代初期の数年間に発行された絵入り一枚刷りの新聞のことで、絵は江戸時代以来の木版多色刷りの浮世絵(錦絵)で、それに絵解き的な文章が添えられている。新聞といってはいるが、画像で読者を引き付けるという点で、メディアとしては、むしろ現代の写真週刊誌に近いかもしれない。さっそく見てみよう。

図1:『東京日々新聞』813号 明治7年(1874)10月3日号(錦絵版)

 時は「ご維新」の政治的混乱もようやく一段落した1874年(明治7)、所は香川県三木郡保元(やすもと)村(現在地不詳、カモフラージュされているのかも)の塗師(ぬし)早蔵の家の居間。緋色の長襦袢を繕う妻のかたわらで、胡座(あぐら)をかいてあくびをする夫、白猫がのんびりと首をかき、一日の労働を終えた夕べ、夫婦のくつろいだ一時が感じられる。しかし、何かが違う。本来なら丸髷に結われているはずの妻の髪がばっさり切られてザンギリ頭になっている。いったい何が起こったのだろうか?

 明治新政府は1871年(明治4)四月に戸籍法を発布し、翌年には全国一律の戸籍作成に着手する。いわゆる壬申戸籍である。三木郡役所でも早蔵を戸主として新たな戸籍を作成することになり、妻お乙(おと)の出生地である香川郡東上(ひがしかみ)村(現・香川県高松市)に問い合わせたところ、お乙が1850年(嘉永3)に同村のある夫婦の間に生まれた乙吉という男性であることが露見してしまった。

 男性を妻として戸籍を作るわけにはいかない。早蔵の家を管轄する戸長は「乙は元来男子なり。何ぞ人家の婦と成ることを得んや(乙はもともと男性である。どうして一家の主婦となることができようか)」と二人を説諭し、丸髷に結っていたお乙の長い髪を切ってザンギリの男頭にし、早蔵とお乙との結婚は無効にされてしまった。

3.男児に生まれながら女児として育てられ「娘」として成人したお乙は、早蔵から求婚されたとき、自分が女子ではないことをカミングアウトし、早蔵はお乙が男子であることを承知の上で婚礼をあげ、三年間、平穏に暮らしていた。だましたわけでも、だまされたわけでもなく、周囲の人も事実を知ってか知らずか、二人を夫婦として受け入れていたと思われる。

 つまり、この錦絵新聞は、明治最初期に実質的な同性婚が日本に存在していたことを示している。同時に、男性と女装男子の平穏な夫婦生活、早蔵・お乙の小さな幸せを破壊したのが戸籍という近代的な制度だったこともわかる。

 全国一律の戸籍制度は、国家が個別的な人身把握を徹底化し、それに基づいて婚姻・家制度を確立し、徴税・徴兵など近代国家システムを遂行する上で不可欠のものだった。厳格な近代戸籍制度の元では、男児として生まれながら女子として生きる女装男子や、男と女装男子の夫婦が存在できる余地はなくなってしまったのだ(三橋順子『女装と日本人』講談社現代新書、2008年)。

 逆に言えば、江戸時代には、そうした余地があったということである。平安時代の前期(9世紀)に律令制に基づく戸籍制度が崩壊して以来、日本では国家が婚姻を厳格に把握するシステムは存在せず、慣習法に基づく事実婚に近い形が長らく行われてきた。

 江戸時代の人身把握は、町・村ごとに町年寄・名主や庄屋が作成し管理する宗門人別改帳によって行われていた。ある男女が祝言(しゆうげん)をあげた場合、妻の名と年齢、そして檀徒として属する寺院名などが、宗門人別改帳の夫の脇に書き加えられる。しかし、実際にはかなりルーズで、名は記されず「女房」とだけ記される場合もあり、出生地の檀那寺への確認も必ずしもされなかった。そうした緩いシステムが、お乙のような「あいまいな性」の人の存在を許していた。

 この錦絵が実際の姿を描いたものなら、お乙が男性であることが露見し、早蔵との夫婦関係が認められなくなった後も、二人はいっしょに住み続けたことになる。私としてはせめてそうであってほしいと思う。

 近代戸籍制度が確立されたことで、法的には同性婚は不可能になった。ということは、同性パートナーの公認を否定する意見②の「日本社会の伝統」とは、近代以降のことを指すことになる。しかし、前近代(律令国家の成立から数えても)1200年余の形を否定して、近代150年足らずの形を「日本社会の伝統」とする思考法は、歴史研究者である私には納得できない。

4.さて、法的には不可能になっても、近代以降も事実婚的な同性「夫婦」は存在していたようだ。

 たとえば、私が子供の頃(1960年代)、小学校の女性教員2人がいっしょに暮している家があった。1人の先生はいつもズボン姿の短髪で、かなりおじさんぽかった。もう一人は私の学校の先生で普通に女性の先生だったが、その先生と同僚だったことがある母の話では女子師範学校の先輩・後輩で、ずっといっしょに暮しているとのことだった。当時は、そんな言葉は知らなかったが、今にして思うと、女性同性愛(レズビアン)のカップルだったのではないかと思う。きっと、同じような事例は各地にあったのではないだろうか。

 あるいは、1967年に撮影された男性と女装男性の結婚式の写真がある(図2)。「花嫁」は文金高島田に角隠しを掛けた打掛姿で、ちゃんとした結婚式場で撮影されたものだろう。モーニング姿の新郎はホテル経営者で、それなりに社会的地位のあった人と聞いている(杉浦郁子・三橋順子「美島弥生のライフヒストリー」、『戦後日
本女装・同性愛研究』中央大学出版部、2006年)。

図2:男性と女装男性の結婚式(1967年)

 また、私自身、1999年3月に男性と女装男性の結婚式・披露宴に出席したことがある。場所は、大阪城の近くの「太閤園」という一流の結婚式場で、式場側も普通の男女の結婚式ではないことは察していたと思うが、何のトラブルもなかった。

 その少し前の1998年11月には、川崎市の若宮八幡宮・金山神社で、男性同性愛(ゲイ)のカップルが同神社の中村博彦宮司(当時)の執行のもと、神前結婚式を挙げている(『日刊スポーツ』1999年1月21日付)。

 2013年三月、女性同士のカップルが「東京ディズニーランド」で結婚式を挙げたことを、マスメディアはウェディング・ドレス姿の二人の写真に「ミッキーも祝福」というキャッチ・コピーを添えて大きく報じた。

 しかし、実は、それ以前にも、日本では同性挙式は行われていたし、事実婚的な同性婚も少ないながら存在していた。そういう事実を知っている者としては、今さら何を騒いでいるのだ、という気もする。

 では、なぜ、日本では同性挙式が可能だったのだろうか。それは、日本の婚姻が、欧米キリスト教社会のような神との契約ではなかったからだ。
 日本の神社で神前結婚式が行われるようになるのは明治時代後期以降のこと。1901年(明治34)東京の神宮奉賛会(現・東京大神宮)が「神前結婚式」の様式を定め模擬結婚式を開催したのが最初で、儀礼は、皇室の婚儀やキリスト教会での式を参照・模倣したものだった。それ以前には、神社の神前で結婚の誓約をするという発想はなく、天照大神も八幡大神も人々の結婚に関わることはなかった。
 結婚は共同体の人々の前で、慣習的な儀礼によって成立するもので、祖先神や屋敷神、あるいは共同体の神に挨拶する程度のことはあっても、神に誓約するものではなかった。

5.これに対して、欧米の教会で行われる結婚式は、当人同士の誓約であるだけでなく、そこに神(キリスト)が立ち合い、誓約に介入する。結婚は神との契約という性格をもち、だからカトリックでは神との約束を破ることになる離婚は認められなかった。

 そして、キリスト教の結婚式では、神の教えを記した聖書(旧約・新約)は必需である。その「旧約聖書」には「女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべき事をしたので、必ず殺されなければならない」(「レビ記」第20章13節)と、男性同性愛への厳しい禁忌が明記されているのだから、同性結婚式ができるはずはなかった。

 それに対して、日本の伝統宗教(神道・仏教)には、同性愛的なものを否定し拒絶する規範がない。

 古典に詳しい方からは、『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条に見える「阿豆那比(あずない)の罪」はどうなのだ? という指摘があるかもしれない。小竹祝(しののはふり)と天野祝(あまののはふり)は仲の良い友人だったが、小竹祝が病で死んでしまい、悲しんだ天野祝は「別のところに葬られたくない」と、小竹祝の骸の上に倒れて死んでしまう。願い通り二人を合葬したところ、昼なのに夜のような暗さが続いた。そこで、皇后が古老に問うたところ「阿豆那比の罪です」と言うので、墓を開いて二人の骸を別々に改葬したところ、光が復したという話だ。

 たしかに「阿豆那比の罪」を男色の禁忌とする解釈は、江戸時代後期の国学者・歌人岡部東平(1794‐1856)が「阿豆那比考」(1842年)で唱えて以来、受け継がれ、現在でもその説をとる研究者はいる。
 しかし、『書紀』の原文には「(阿豆那比の罪とは)何のことか?」という皇后の問いに対して、古老が「二社の祝を合葬したことでしょう」とはっきり答えているので「阿豆那比の罪」を男色の罪と解釈する余地はなく、通説通り、異なる共同体の祭祀を担う祝(神官)を合葬することの禁忌と見るべきである(難波美緒「『阿豆那比の罪』に関する一考察」『早稲田大学大学院文学研究科紀要(第4分冊)』59号、2014四年)。「阿豆那比の罪」を男色の禁忌とする説には、近・現代の同性愛嫌悪が投影されているように思う。

 ところで、尾張名古屋の熱田神宮といえば、ヤマトタケル愛用の草薙剣を御神体とする全国でも有数の著名な神社だ。その熱田の神が「長恨歌」で有名な唐の玄宗皇帝の寵妃楊貴妃だという話がある。『長恨歌并琵琶引私』という室町時代の写本には「玄宗ノ日本ヲ攻テ取ラントスル処ニ、熱田明神ノ美女ト成リテ、玄宗ノ心ヲ迷スト云」とあり、熱田の神が美女楊貴妃となって、玄宗皇帝の心を蕩とろかし、日本侵略の意図を挫折させたということになっている。

6.また「大国の 美人尾州に 跡を垂れ」という川柳があるように、江戸時代には旅案内などにも記された、かなり知られた話で、熱田神宮境内には「楊貴妃の墓」と称する石塔があって、ちょっとした名所になっていた。もちろん、現代の熱田神宮は、この話を荒唐無稽なものとしていっさい認めていない。墓石の一部と伝えられる岩(石材)が、境内の清水社の背後の水場に残っているだけだ。

 熱田の神が楊貴妃という女性になるという発想は、熱田神宮と深い縁をもつヤマトタケルの「熊襲(クマソ) 征伐」における女装譚が発想のベースになっているように思うが、神道において、女身転換や女装は禁忌ではなかったことがわかる。「女身に転換したのなら男色ではないだろう」と言われると、ちょっと困ってしまうが。

 話がだいぶ散らかってしまったので、まとめておこう。

1a 日本の伝統宗教(神道・仏教)には、男色や異性装を禁じる宗教規範がない。
1b 故に、ジェンダー・セクシュアリティの枠組みが緩い社会で、男色や「あいまいな性」の人が存在できる社会だった。
2a 欧米キリスト教社会では、宗教規範として、異性装、同性愛は厳しく禁じられていた。
2b 故に、ジェンダー・セクシュアリティの在り様は、厳格な男女二元制、異性愛絶対主義だった。
3a 日本でジェンダー・セクシュアリティの枠組み(社会制度)が男女二元制、異性愛絶対主義の方向で強化されていくのは、明治時代以降である。
3b それでも、実際には同性挙式や事実上の同性婚が行われていた。

 普通に「日本社会の伝統」といえば、私は1a・1bを指すと思う。ところが、なぜか「日本社会の伝統」を強調する人たちは、1a・1bを無視して、2a・2b的な形を「伝統」として支持する。しかし、それは「キリスト教社会の伝統」であって、日本社会では、たかだか120‐150年ほどの「歴史」しかない形態だ。明らかに捻じれているし、「伝統」を無視している。ということで冒頭の②も論破できた。

 ところで、日本社会のこうしたジェンダー・セクシュアリティの枠組みが緩い「伝統」を、現在、同性パートナーシップや同性婚の実現を積極的に推進している人たちは、ほとんど知らないか、あえて無視する。同性パートナーシップや同性婚の実現は、欧米の進歩的な人権思想に裏付けられた最先端のカッコイイ社会現象でなければならないからだ。そして、そうした単純な欧米追従的な発想と姿勢が、保守層の反発を余計に招いていることに気づかない。そもそも自分たちの先輩たちが困難な時代環境の中で苦労して築いてきた文化をリスペクトしない人たちが、世の中の多くの人の共感を得られるだろうか。私には疑問だ。

どちらも、歴史を顧みないという点で、まったく困ったものである。

[執筆者] 三橋順子(性社会・文化史研究者)
1955年生まれ。専門はジェンダー/セクシュアリティの歴史。中央大学文学部講師、お茶の水女子大学講師などを歴任。現在、明治大学、都留文科大学、東京経済大学、関東学院大学、群馬大学医学部、早稲田大学理工学院などの非常勤講師を務める。著書に『女装と日本人』(講談社)、編著に『性欲の研究 東京のエロ地理編』(平凡社)など。

※当記事は「アステイオン83」からの転載記事です。


歴史の中の多様な「性」(2)
ニューズウィーク日本版 / 2015年12月1日 17時26分
論壇誌「アステイオン」(公益財団法人サントリー文化財団・アステイオン編集委員会編、CCCメディアハウス)83号は、「マルティプル・ジャパン――多様化する『日本』」特集。同特集から、自身トランスジェンダーであり、性社会・文化史研究者である三橋順子氏による論文「歴史の中の多様な『性』」を5回に分けて転載する。
※第1回:歴史の中の多様な「性」(1) はこちら

1.「男色大国」としての日本

 皆さんは「白袴隊(びやつこたい)」をご存じだろうか? 戊辰の年(1868年)の会津戦争で華と散った会津藩の少年部隊「白虎隊」ではなく、明治30年前後の東京で美少年とその親たちを震撼させた不良男色学生集団だ。正岡子規の句に「遣羽根(おいばねや) 邪魔して通る 白袴隊」(1899年)とあるように、正月の晴れ着姿で羽根つきをする少女たちに目もくれず美少年を追い掛け回す連中で、仲間の目印として白い袴をはいたことから、その名がある(古川誠「白袴隊」『性的なことば』講談社現代新書、2010年)。

 子規の句が詠まれた1899年(明治32)3月、海軍予備学校の生徒で白袴隊員である二人の青年が、学校から帰宅途中の少年三人に声をかけ、その内の一人を口説いたが断られた。すると、青年たちは少年を力ずくで路地に連れ込み強姦しようとしたが、残り二人の少年が騒いだので未遂に終わるという事件が起こった。現場は東京の麹町区山元町(現・千代田区麹町)で、発生時刻は午後二時ごろ。白昼、皇居の半蔵門に程近い住宅地で強鶏姦(強制的な肛門性交)を企てるとは、なんとも大胆、傍若無人な行動である。

 当時の新聞には、こうした事件がしばしば掲載されている。発生場所は学校が数多く立地していた麹町区(現・千代田区の大部分)や牛込区(現・新宿区東部)の神楽坂周辺が多く、まさに美少年にとっての危険地帯だった。当時の地名で麹町区永楽町、現在では丸の内のオフィス街や東京駅になっているあたりの原っぱも、男色学生にとっては格好の「狩場」だった(古川誠「原と坂─明治の東京、美少年のための安全地図─ 」『性欲の研究 東京のエロ地理編』平凡社、2015五年)。

 少女をもつ親が外出した娘の帰りを心配することは昔も今も変わりがないが、当時は少年をもつ親も息子が襲われて犯されないか心配しなければならなかった。それだけ、明治の日本は、とくに学生の間で男色が大流行していたのだ。

 こうした学生の男色文化は、14歳から20歳までの少年・青年で組織される「兵児二才(へこにせ)」制と呼ばれる薩摩藩特有の教育訓練システムに顕著な年長の少年が年少の少年を犯す男色文化が、旧薩摩藩出身の学生によって東京に持ち込まれたとする説が当時から根強い。好ましい年下の少年を「ニセさん」とか「ヨカチゴ」と薩摩言葉で呼ぶのがその証拠だとされた(谷崎潤一郎「幼少時代」1957年)。こうした習俗は、学校教育の普及とともに、軍人の養成学校や全国の(旧制)中学・高校に広がっていった。
(記事引用)

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