Galapagos Japas

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2016年02月

人口激減8000万人日本消滅3200年
道風朗詠(どうふうろうえい)徒然草第88段
原文 或者、小野道風の書ける和漢朗詠集とて持ちたりけるを、ある人「御相伝、浮ける事には侍らじなれども四条大納言撰ばれたものを、道風書かん事、時代や違ひ侍らん。覚束なくこそ」と言ひければ、「さ候へばこそ、世にあり難き物には侍りけれ」とて、いよいよ秘蔵しけり。 

訳 ある者が、小野道風が書いた和漢朗詠集だとして秘蔵していました。これを見て、ある人が「ご先祖からの言い伝えは根拠のあることかもしれませんが、和漢朗詠集は四条大納言(藤原公任)が撰集されたものですが、藤原公任が生まれた966年には小野道風は死んでおりますよ。
時代が合いませんよ。その点が、どうも不審で」と言いますと、「それでございますからこそ、世にも希な珍しい物なんですよ」といって、いよいよ大事に秘蔵しました。

小野道風(とうふう)は藤原佐理、藤原行成とともに三蹟(さんせき)とよばれる、平安中期の能書家で、道風の書は後に「野跡(やせき)」とよばれて尊重されたものだそうです。
ボクらでも展覧会で、三体白氏詩巻とか秋萩帖(あきはぎちょう)とかで、見る機会がありますが、まあ、書の素人でも立派な書だと感じますねぇ。
ところが、小野道風は966年には死んでいるんですね。           
和漢朗詠集は藤原公任(きんとう)の撰。中身は昔から愛唱されてきた漢詩文の秀句588首、和歌216首の計804首を集めたもの。
           
死んだ後で撰集された和漢朗詠集を小野道風が書けるわけがないと言うのが、この段の滑稽の骨子になっています。秘蔵されていたのが和漢朗詠「集」で、一つの歌ではないのですから、これはハッキリ贋作でしょうねぇ。
この段の滑稽のアイディアは江戸落語にもなりましたから有名ですねぇ。 www.kcc.zaq.ne.jp)      
(記事引用)

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データを見れば人口減少の深刻さは自明
なぜ人口を増やす政策を総動員しないのか
出口治明 [ライフネット生命保険(株)代表取締役会長兼CEO]
【第36回】 2012年2月7日 ダイヤアモンド
国立社会保障・人口問題研究所は、1月30日、日本の将来人口推計の結果概要を公表した。
この推計は、5年毎に行われているもので、将来の出生推移・死亡推移について、それぞれ中位・高位・低位の3仮定を設け、それらの組み合わせにより9通りの推計を行っている。以下では、出生中位・死亡中位のケースを基準として、論じることとする。

生産年齢人口がほぼ半減する社会はサステイナブルか

 まず、最初に結果概要を見ておこう。わが国の将来の総人口は、2048年に1億人を割り込み、2060年には8674万人になる。これは2010年に比べて32%の減少であるが、もし出生率が中位ではなく、低位で推移すれば(1.35%→1.12%)、7997万人(38%減少)と8000万人を割り込んでしまう。

 次に、経済に最も大きな影響を与える生産年齢人口(15~64歳)の推移を見ると、第2次世界大戦後、一貫して増加を続けてきたわが国の生産年齢人口は、1995年にピークをつけ(8726万人)、その後緩やかに低下を続けてきたが(2010年で8173万人と、この15年間で6%減少)、2027年には7000万人、2051年には5000万人を割り込み、2060年には4418万人(対2010年比46%減少)となる。

 ちなみに出生低位推計では、50年後(2060年)の生産年齢人口は3971万人(51%減少)と、4000万人を割り込んでしまう。要するに、わが国の生産年齢人口は、この50年でほぼ半減してしまうのだ。このような社会が果たしてサステイナブル(持続可能)だろうか。大いに疑問なしとしない。働く人が半分になるということは生産性の上昇がなければ、GDPが半分になるということだ。それでこの国がもつと考える方がむしろおかしいのではないか。

 従属人口指数を見ると、問題点はさらにクリアになる。生産年齢人口に対する年少人口と老年人口の相対的な大きさを比較し、生産年齢人口の扶養負担の程度を大まかに表わすための指標として、従属人口指数がよく用いられるが、老年従属人口指数(生産年齢人口100に対する老年人口の比)を見ると、2010年の36.1(働き手2.8人で高齢者1人を扶養。いわゆる騎馬戦型)が、2022年には50.2(同2人で1人を扶養)まで上昇し、2060年には78.4(同1.3人で1人を扶養。いわゆる肩車型)に達するものと見込まれる。

 なお、出生低位推計では、同1.1人で1人を扶養することとなり、ほぼ完全な肩車型社会になる。人類の5000年の歴史の中で、1人が1人を支える社会が存立し得た事例は寡聞にして知らない。

フランスを真似して出生率を上げよ

 ところで、以上の推計結果は2006年の前回推計とそれほど大差がある訳ではない。その理由は、出生率仮定(長期の合計特殊出生率)を、中位仮定で前回の1.26から1.35に嵩上げしたからである。これは、ここ数年の出生率の微増結果を織り込んだためであるが、その主因は団塊ジュニア世代が40歳前後にさしかかり、出生を急いだ一時的な現象にすぎないという見方も根強い。そうであれば、今回の中位推計自体が楽観的に過ぎるとの指摘が一部にあることも十分頷けよう。

 しかし、大切なことは将来人口推計の精度を議論することではあるまい。将来人口推計はわが国の政策立案の土台となるべきものである。そうであれば、今回の推計結果を見て、これからのわが国にとって、どういう政策が必要かを真剣に議論することこそが望まれているのである。

 メディアの論調を概観すると、少子高齢化の傾向は大きくは変わらないとして、肩車型の社会保障制度の構築を急ぐべきだとするものが多数を占めているように見受けられる。本当にそうだろうか。もちろん、最悪のケースを想定して事に臨むのは、政治であれ経営であれ、重要なことには違いない。

 しかし、今回の推計を虚心坦懐に眺めれば、普通の人は、人口を増やす政策を総動員して対処しなければ、わが国は大変なことになると思うのではないか。それが正常な反応だと思われる。

 そして、先進国の中には、現に政策を総動員して人口を増加させる基盤となる出生率を上昇させた国が幾つもあるのである。たとえば、フランスや英国、スウェーデンでは、この10年間で見ても明らかに出生率が上向いており、フランスではボトムの1.66%(1994年)から、わずか10~15年で出生率が2%前後にまで上昇した。2006年が2.00%、2007年が1.98%、2008年が2.00%、2009年が1.99%と高位安定状態が続いている(内閣府「子ども・子育て白書2011年版」による)。

 では、なぜフランスで出生率が上昇したのか。それは、シラク3原則と呼ばれている基本方針(1.子どもを持つことによって新たな経済的負担が生じないようにする  2.無料の保育所を完備する  3.〈育児休暇から〉3年後に女性が職場復帰するときは、その3年間、ずっと勤務していたものとみなし、企業は受け入れなくてはいけない)をしっかりと樹立し、出産・子育てと就労に関して幅広い選択肢ができるような環境整備、すなわち「両立支援」を強める方向で政策が進められたからである。婚外子を差別しないPACS(民事連帯契約)もこの政策パッケージの中に含まれる。

 内閣府や厚生労働省のホームページを見ると、フランスの両立支援に関わる政策の研究・分析はすでに必要十分になされていることが窺える。だとすれば、戦後のわが国がアメリカの真似をして、世界第2の経済大国を築き上げたように、これからのわが国はフランスの真似をして、出生率の上昇を図ればそれでいいではないか。是非ともメディアは、この問題を取り上げてもらいたい。

 人口を増やす政策を総動員することこそが、社会保障・税一体改革と並ぶわが国の喫緊の政策課題であることは疑いを入れないところであると考える。

若年世代の所得を増やす工夫を

 ところで、人口を増やす政策は、フランスの例にも見られるように、10~15年といった息の長い取り組みを必要とする。少子化対策や人口を増やす政策については、何度もこのコラムで取り上げてきたが(「若い人が子どもを生まないのは国の責任。駅に24時間営業の保育所を!)」や「経済を成長させるためには、どうしたらいいか」など)、忘れてはならない問題は、若い世代の所得を嵩上げすることの重要性である。

 フローの所得は、景気が回復してGDPが増加しない限り、なかなか嵩上げすることは難しいが、ストックについてはこの限りではない。わが国の個人金融資産は2011年9月末で1471兆円あるが(日本銀行 資金循環統計)、その6割以上は60歳を過ぎた定年世代が保有していると言われている。そして、それを裏づけるデータもある。金融広報中央委員会が2010年に行った調査(2人以上世帯調査)によると、世帯主の年齢別の金融資産保有額(金融資産を保有していない世帯を含む)は、

    20歳代        342万円(485万円)
    30歳代        537万円(723万円)
    40歳代        743万円(1013万円)
    50歳代        1068万円(1441万円)
    60歳代        1539万円(1974万円)
    70歳代以上    1707万円(2144万円)

 となっている。なお、( )内は金融資産を保有している世帯平均である。このような現状と、人生で一番お金がかかるのは子育てであることを考え併せると、子育てをほぼ終えたと考えられる60歳以上の世代が、これから子育てを行う若い世代へ資金援助を行うのが最も自然であり、かつ好ましい政策でもあると考えられる。

 しかし、現実には年間110万円を超えると贈与税が課せられる。また、平均寿命が80歳という現状では、相続者も50歳~60歳代となり、若い世代への所得移転はなかなか進まないということになる。そうであれば、1つの極論ではあるが、相続税率を100%として、若い世代(例えば20代・30代)に対する贈与税率を0%にすれば、高齢者から子や孫の世代への所得移転がスムーズに運べるのではないか。

 以上、述べてきたように、わが国はおよそ考えられるすべてのアイデアを総動員して人口を増やす政策を実行しなければならない。それが今回の将来人口推計の示唆するところではないか。

 蛇足ではあるが、筆者は決して「産めよ増やせよ」を奨励している訳ではない。フランスがそうであるように、子どもを産む・産まないは100%女性が決めることであり、百歩譲ってもカップルが決めることであると考えている。国が介入すべき事柄ではまったくない。そうした前提の上に立って、産みたい時にいつでも子どもが産める社会が理想だと考え、国の政策はそういった環境を全力で創り上げることに注がれるべきだと主張したいのである。
(文中意見に係る部分はすべて筆者の個人的見解である。)
(記事引用)

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100年後の世界と日本100年後の世界と日本2013/11
(2013 Vol.4) 理事長 中谷 巌 三菱UFJリサーチ
今回の『季刊政策・経営研究』では、三菱UFJリサーチ&コンサルティング社内で開催している勉強会、「巌流塾」での研究会の模様を特集している。

「巌流塾」は4年前から開講されているが、その目的はシンクタンクにおける研究員やコンサルタントの基礎的教養を高め、彼らに正しい歴史観や大局観を身につけることができるような機会を提供することにある。このため、本塾で取り上げるテーマは経営戦略等のスキル系のものではなく、歴史や哲学、文明論等、リベラルアーツ系が中心である。
現在、「巌流塾」が取り上げている研究テーマは「100年後の日本」である。
なぜ「100年後」を考えるのか。そんな先のことは誰にも分からないし、多くの人にとっては関心のないことかも知れない。

データを揃えて実証的に未来を予想するというのであれば、せいぜい5年先くらいまでが妥当なタイムスパンだろう。
いや、ことによっては1年先のことでも正確な予測など不可能と言ってよく、ましてや5年先を予想するなどはかなり大胆な前提を置かざるを得ないというのが正直なところだろう。それにもかかわらず、「巌流塾」が100年先のことを考えてみようというのにはそれなりの理由がある。

たしかに100年先のことなど正確に予測しようがない。どのような突発的なことが起こるかも知れないし、そもそも地球自体の行く末さえもおぼつかない。
しかし、100年先に思いを馳せ、なんらかの予測めいたことを試みようとすれば、どうしても長期にわたる歴史的な視点が必要になる。すなわち、これまでの何百年にもわたる人類の歩んできた歴史を振り返ることなく、100年先を考えることなど、とてもできないと言うことである。つまり、100年先を予測するためには、人類の歩んできた長い文明史をひもとかざるを得ないと言うことであり、それこそ、「巌流塾」が「100年後の日本」を当面の研究テーマとしている本当の(教育的)理由なのである。

先に、実証的なデータを駆使しても、5年先の予測すら難しいと述べたが、筆者の知る限り、できる限り実証的なデータを使いながら最も長期の予測を試みているいるのは、ヨルゲン・ランダース『2052~今後40年のグローバル予測』(日経BP社、2012年、野中香方子訳)である。

彼は次の40年の世界の行方を左右すると思われる5つの問題を取り上げている。それは「資本主義の行方」「経済成長」「民主主義」「世代間の平等」そして、「地球の気候と人間との関係」である。

ランダースによると、今後40年間を展望した場合、気候変動や富の分配の不平等という深刻な課題に人類は直面し続けるが、人類がこれらの問題に十分迅速に対応する能力はない。
アメリカは相変わらず、新自由主義的な形でより高い経済発展を目指そうとし、中国をはじめとするアジアの国々は先進国並みの生活水準を求め続けるだろう。その結果、地球温暖化はさらに進み、嵐、竜巻、干ばつ、洪水、熱波、そして頻度と激しさを増す豪雨は日常茶飯事となるだろう。富や所得の分配の不平等はさらに加速し、世界的な規模で平等を求める暴動・革命騒ぎが起こる可能性もある。

ランダースの予測の中でやや明るい部分を挙げるとすれば、地球人口が現在の70億人から2040年頃には80億人になるが、それがピークであり、それ以降は減り始めるという予測だ。これは地球人口がやがて100億人の大台を突破し、それがさらに深刻な地球環境問題を引き起こすという一般に広く出回っている予測よりはかなり楽観的な予測と言えるだろう。
このような人口のピークアウトが比較的低い水準で、しかもかなり早くやってくるという予測の根拠は、世界の都会化とそれにともなうテレビの普及により、人々のライフスタイルが変わり、出生率が急速に低下するためである。
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現に世界の出生率は急速に低下を始めている(40年前の世界全体の平均出生率は4.5であったが、現在は2.5に低下している)から、この予測はかなりの信憑性を持っていると思われる。この予測が正しく、2040年頃から地球人口がかなりの速度で減り始めるとすれば、地球環境問題や気候変動の問題もやがて収束していくことになる。しかし、ランダースはそれほど楽観はしていない。人類が現在展開している大規模な経済活動は2040年までに地球の自然を修復不可能なまでに搾取し尽くしている可能性があり、人類が本当の意味で気候変動の脅威に直面するのは21世紀の後半になるだろうという。

ちなみに、日本の人口減少の予測にははるかに厳しいものがある。400年前(紀元1600年の徳川幕府成立の頃)の日本の人口は1,200万人程度であったらしい。
それが400年かかって今では1億2,700万にまで増加した。しかし、日本の人口はこれから急激に減り始める。国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば、これから50年先には日本の人口は8,400万人程度、100年先にはその半分の4,200万人程度にまで減るという。

さらに大胆にこの予測を引き延ばせば、150年先には400年前と同じ、1,200万人にまで日本の人口が減ってしまう可能性すらある。

本当にこれだけの急激な人口減少が起こるかどうかは分からない。しかし、今起こっている日本の出生率低下を前提にするかぎり、このような急激な人口減少は必ず起こるのである。日本の将来を考えるうえで、日本の長期人口減少問題を無視することは許されない。

「巌流塾」の目標は、ランダースの40年先までの予測を踏まえ、さらにその先を考えてみようという点にある。そのためには、「資本主義の将来」「持続可能な経済成長の可能性」「民主主義の進化」「インターネットがもたらすもの」「日本の長期人口減少と家族の崩壊」等、多岐にわたるテーマを取り上げる必要があるし、ランダースよりももっと長期にわたる歴史的視点が要求されるだろう。

本号に収められているのは、そのような研究へ向けた最初の取り組みとして、平成25年5月~7月に外部講師を招いて開催された6回にわたる「巌流塾」の討議の模様である。以下、本特集に収録した講師とテーマ、参考文献を紹介しておく。
(1)長谷部恭男「憲法とは何か~日本の将来を見据えた日本国憲法のあるべき姿について~」
(参考図書:長谷部恭男著『憲法とは何か』岩波新書)
(2)東浩紀「インターネットは世界をどう変えていくか」
(参考図書:東浩紀著『一般意志2.0~ルソー、フロイト、グーグル』講談社)
(3)山田昌弘「家族の将来~人口減少時代の家族とは~」
(参考図書:山田昌弘著『ここがおかしい日本の社会保障』文春文庫)
(4)佐伯啓思「危機へ向かう現代文明」
(参考図書:佐伯啓思『日本という「価値」』エヌティティ出版、『経済学の犯罪』講談社)
(5)林直樹、齊藤晋「『農村社会の衰退』と『撤退の農村計画』~力の温存という考え方~」
(参考図書:林直樹ほか『撤退の農村計画』学芸出版社)
(6)安田喜憲「人類と自然との共存に向けて~日本人が果たすべき役割とは~」
(参考図書:安田喜憲著『蛇と十字架』人文書院)

いずれにしても、「100年後の世界と日本」を展望するためには、少なくともコロンブスのアメリカ大陸発見以降の世界史を振り返り、西洋が主導してきた資本主義的経済発展の功罪を見極めるという知的作業がどうしても必要になるだろう。もとより、ここに収められている議論は「100年後の世界と日本」を見据えた議論には必ずしもなっていないが、そのための第一歩として位置づけられるものであり、一般読者の方々にも大いに参考になるものであると確信する。
(記事引用) 

少子化で韓国は2750年、日本は3200年に消滅する?
2014年08月24日 16:24本山勝寛
先日、朝鮮日報(日本語版)の記事"少子化:「韓国は2750年に消滅」"という記事がネット上で話題になっていた。

現在の少子化問題が解決しなければ、韓国の人口は2750年にゼロになる恐れがあるとの見通しが発表された。(中略)
 現在、韓国の人口は5043万人だが、合計特殊出生率が1.19人のままなら、2056年に4000万人になり、2100年には2000万人へと半減すると予想されている。これは、日本が統治していた1930年(2100万人)とほぼ同じ数だ。2200年には300万人まで人口が急減、2256年には100万人になり、その後は500年かけて徐々に消滅していくと予測されている。
実際には出生率は人口の過密状態によって変動するであろうから、人口の「消滅」時期を推測すること自体にはさほど意味はないのだが、それでも低い出生率が長期間にわたって続けば、かなりの人口減が進むことをイメージするのにはよい一つの指標ともいえるかもしれない。

2750年という700年後のことは定かではないが、少なくとも2100年に人口が半減すること、そして、2200年には10分の1以下になることは、現実味のある予測である。

これは日本とて例外でない。内閣府によると、現在の出生率のまま推移すると100年後、2110年の日本の人口は4286万人、つまり現在の3分の1近くまで落ち込む。高齢化率は41.3%、2012年現在の24.1%から大幅に上昇する。これが日本の最もあり得る100年後の未来だ。

さらに長期でみると、2200年には人口1千万人以下と、現在の10分の1以下に縮小、そして3200年には消滅するという推計もある。人口減少が加速度的に進むという点では、上記韓国の推計とさほど大きな差はない。

人口減少は大きな問題ではないという方も多いようだが、問題の本質は高齢化率が極端に高まることで、年金医療など社会保障システムが破綻し、国の経済が成立しなくなることだ。少子化をこのまま放っておけば、子どもや孫たちにそのような日本を残すことになるのである。近年は辛うじて出生率が上昇トレンドにあるが、この動きをさらに強化できるようあらゆる政策を動員すべきだ。

地方消滅-人口減少の影響で消える市町村-896自治体一覧
市区町村(自治体)の消滅可能性を日本創成会議で伝えた増田寛也氏の示した地方消滅データは人口減少を考えるうえで貴重な情報でした。
増田レポートには批判もありましたが、人口減少は地方衰退に直接つながることから、抑制・改善するための地域活性化や地方創生に反映されています。
これから地方消滅の要約とあわせて人口減少と極点社会の影響について紹介していきます。
身近で行われている地域活性化や地方創生の効果も考えながら読んでもらえると、自分の住んでいる地域の将来を想像できるようになると思います。
また地方衰退を抑制・改善する効果のある対策がわかるようになるため、ぜひ自分の住んでいる地域のことを考えながら読んでもらえたらと思います。
では人口減少の影響と原因および課題(対策)についての解説から紹介していきます。

人口減少と極点社会について

はじめに日本の人口減少問題について紹介します。

人口減少 
図表
人口減少・日本の人口の推移
 
このように日本は人口減少が予測されており、人口減少にともない、日本は極点社会になることが危惧されています。

極点社会とは
極点社会という言葉を聞いたことのない人もいると思います。極点社会については次の通りですが、この記事を書いている現在、決まった定義はないようです。

極点社会とは
高齢者が減少、若年女性が流出することで存亡の危機に陥る地方。その一方で大都市ばかりに人が集中し、最終的には国全体が縮小していくいびつな「極点社会」。

極点社会について
・極点社会~新たな人口減少クライシス~クローズアップ現代
極点社会になると都市部に人口が集中するようになります。次は人口減少の影響と原因についてみていきます。

人口減少の影響と原因

人口減少の影響と原因は、市区町村(自治体)の消滅可能性および極点社会からわかります。日本創成会議が次の発表をおこなっています。
2040年、896市町村が消滅!? 若年女性流出で、日本創成会議が試算発表
 2040(平成52)年に若年女性の流出により全国の896市区町村が「消滅」の危機に直面する-。有識者らでつくる政策発信組織「日本創成会議」の人口減少問題検討分科会(座長・増田寛也元総務相)が8日、こんな試算結果を発表した。分科会は地域崩壊や自治体運営が行き詰まる懸念があるとして、東京一極集中の是正や魅力ある地方の拠点都市づくりなどを提言した。

 分科会は、国立社会保障・人口問題研究所が昨年3月にまとめた将来推計人口のデータを基に、最近の都市間の人口移動の状況を加味して40年の20~30代の女性の数を試算。その結果、10年と比較して若年女性が半分以下に減る自治体「消滅可能性都市」は全国の49・8%に当たる896市区町村に上った。このうち523市町村は40年に人口が1万人を切る。

 消滅可能性都市は、北海道や東北地方の山間部などに集中している。ただ、大阪市の西成区(減少率55・3%)や大正区(同54・3%)、東京都豊島区(同50・8%)のように大都市部にも分布している。

 都道府県別でみると、消滅可能性都市の割合が最も高かったのは96・0%の秋田県。次いで87・5%の青森県、84・2%の島根県、81・8%の岩手県の割合が高く、東北地方に目立っていた。和歌山県(76・7%)、徳島県(70・8%)、鹿児島県(69・8%)など、近畿以西にも割合の高い県が集中していた。

 増田氏は8日、都内で記者会見し、試算結果について「若者が首都圏に集中するのは日本特有の現象だ。人口減少社会は避けられないが、『急減社会』は回避しなければならない」と述べ、早期の対策を取るよう政府に求めた。

出典:2040年、896市町村が消滅!? 
若年女性流出で、日本創成会議が試算発表-2014.5.8 産経
このように人口減少問題の影響は市区町村(自治体)の消滅や極点社会にまで発展するおそれがあります。

原因は、日本全体の人口が減少する少子高齢化問題によるものですが、極点社会は人が地方から都市部に吸い上げられて一極集中するためでした。

人口減少問題により消滅する可能性のある市区町村(自治体)については、次の課題と対策で紹介します。

消滅可能性896市区町村(自治体)一覧

消滅する可能性のある896市区町村(自治体)は“全国市区町村別「20~39歳女性」の将来推計人口”に掲載されています。下記のリンクより閲覧してください。

・一覧表:全国市区町村別「20~39歳女性」の将来推計人口
・マップ:全国市区町村別「20~39歳女性」の将来推計人口(地図化)

“市区町村(自治体)消滅”について、誤解を招かないように補足します。市区町村(自治体)消滅は、消えてなくなるという意味の消滅ではありません。現在の機能を維持できなくなるという意味なので誤解のないようにしてください。

自治体が機能を維持できなくなる状態は、ひいては財政破綻を意味しますので、次の記事を読んでください。

▶ 財政破綻どうなる?あなたの住む市町村,自治体は大丈夫?

人口減少は、私たちの生活にも大きな影響を与えることがわかります。日本創成会議は人口減少問題について、次の提言をおこなっています。

人口減少問題の課題と対策
市区町村の消滅可能性を報告した日本創成会議は、基本姿勢と戦略の提言で課題と対策をあげています。
<基本姿勢>
【「不都合な真実」を正確かつ冷静に認識する】
日本の人口減少は「待ったなし」の状態にある。人口問題は、ややもすれば極端な楽観論と悲観論が横行しがちである。この問題を根拠なき「楽観論」で対応するのは危険である。一方、「もはや打つ手がない」というような「悲観論」に立っても益にはならない。困難ではあるが、解決する道は残されている。要は、眼前に迫っている「不都合な真実」とも言うべき事態を、国民が正確かつ冷静に認識することからすべては始まる。

人口減少問題は、病気に例えれば「慢性疾患」のようなものである。対策とは日本の人口構造そのものを変えていくことであり、効果が出てくるまでには長い時間を要する。しかし、早く取り組めば取り組むほど効果はあがる。事態への対応を先延ばししないことこそが基本姿勢として求められる。

【基本は「若者や女性が活躍できる社会」を作ることである】
○若者が自らの希望に基づき結婚し、子どもを産み、育てることができるような社会をつくること。それが人口減少の流れをストップさせる基本方策である。また、男性が働き方を変え、育児に主体的に参画する一方で、女性が能力を活かして社会で活躍できるようにすることである。人口減少を克服する道は、今まさに安倍政権が官民あげて取り組んでいる政策と同一線上にあるものである。

Ⅰ.戦略の基本方針
日本が直面している深刻な人口減少をストップさせ、地方を元気にしていくためには、以下の「基本方針」に基づき、総合的な戦略を推進する必要がある。

(1)人口減少の深刻な状況について国民の基本認識の共有を図る。
多くの国民は人口減少の深刻さを十分に認識していない。有効な対策を検討し、果断に実施するためには、「人口減少社会」の実像と「今後の対応」のあり方に関し国民の基本認識の共有を図る必要がある。このため、人口減少の現状と将来の姿を身近な地域のレベルまで示すなど、国民に早急に情報提供する必要がある。また、この問題を国民に分かりやすく伝え、活発な議論や取組を実現するために、各界の人材を『ストップ少子化・アンバサダー(仮称)』に指名し、その活動を支援するようなことも有用である。

(2)長期的かつ総合的な視点から、有効な政策を迅速に実施する。
人口減少に関わる課題は、長期的な視点から考える必要がある。また、社会経済全般に関わることから、子育て支援だけでなく、産業・雇用、国土形成、住宅、地方制度など総合的な取組が不可欠である。
このため、内閣に「総合戦略本部」を設置し、将来の人口減少を踏まえた「長期ビジョン」と総合戦略を策定する必要がある。
また、地域においても「地域戦略協議会」を設置し、「地域版長期ビジョン」と総合戦略を策定することが重要である。

(3)第一の基本目標を「国民の『希望出生率』の実現」に置き、国民の希望阻害要因の除去に取組む。
結婚・出産は個人の自由が最優先されるべき事柄である。それを前提とした上で、戦略の第一の基本目標を「国民の希望が叶った場合の出生率(希望出生率)を実現すること」に置く。この基本目標の実現のため、結婚をし、子どもを産み育てたい人の希望を阻害する要因(希望阻害要因)の除去に取り組む。

(4)上記の実現のため、若者が結婚し、子どもを産み育てやすい環境づくりのため、全ての政策を集中する。企業の協力は重要な要素。
「20 歳代~30 歳代前半に結婚・出産・子育てしやすい環境づくり」と「第2子や第3子以上の出産・子育てがしやすい環境づくり」のため、全ての政策や取組を集中し、制度・慣行の改革に取り組むべきである。
この点で、企業は就労している若者(男女)の結婚・出産・子育てに大きな影響を与えている。少子化問題において、企業が重要な役割を担うことを踏まえ、積極的な協力を得ることが重要である。

(5)女性だけでなく、男性の問題として取り組む。
結婚・出産・子育ては女性や母親だけの問題ではない。むしろ男性の意識や姿勢が大きな影響を与えており、男性が自らの問題として取り組むべき課題が多い。特に男性の「働き方」を大きく変え、子どもを共に育てる観点から、男性が育児や家事に主体的に参画することが重要である。

(6)新たな費用は、「高齢者世代から次世代への支援」の方針の下、高齢者政策の見直し等によって対応する。
新たな政策実施で必要とされる費用は、祖父母にによる孫の世代への支援をはじめ、高齢者世代から次世代への支援を推進する方針の下で、これまで高齢者に偏りがちであった税制や社会保障制度など高齢者政策の見直し等によって対応すべきである。
人口減少の下で多額の債務を抱えることとなる将来世代に負担のツケ回しはすべきではない。

(7)第二の基本目標を「地方から大都市へ若者が流出する『人の流れ』を変えること」に置き、『東京一極集中』に歯止めをかける。
日本は若年層を中心に地方から大都市への「地域間移動」が激しく、地方の人口減少の最大要因は若年層の流出にある。このままでは多くの地域が消滅するおそれが高い。人口過密の大都市では、住居や子育て環境等から出生率が低いのが一般的であり、少子化対策の視点からも地方から大都市への「人の流れ」を変える必要がある。
特に東京圏は、このまま推移すれば、今後も相当規模の若者が流入することが見込まれ、2020 年の東京五輪は東京圏への流入を更に強める可能性がある。これ以上の『東京一極集中』は、少子化対策の観点からも歯止めをかける必要がある。また、このことは、首都直下地震対策にも有効である。

(8)「選択と集中」の考え方の下で、地域の多様な取組を支援する。
地域によって人口をめぐる状況は大きく異なるため、地域が実情を踏まえた多様な取組を行うことが重要である。その上で、似たような小粒の対策を「総花的」に行わず、「選択と集中」の考え方を徹底し、人口減少に即して最も有効な対象に、投資と施策を集中すべきである。

(9)生産年齢人口は減少するので、女性や高齢者、海外人材が活躍できる社会づくりに強力に取り組む。
少なくともここ数十年は生産年齢人口の減少は避けられないことから、女性や高齢者、海外の人材がより一層活躍できる社会づくりに強力に取り組む。

(10)海外からの受け入れは、「高度人材」を中心に進める。
海外からの大規模移民は、人口減少対策として現実的な政策とはなり得ない。国際化・生産性の向上の視点から、海外からの「高度人材」の受け入れを中心に取り組むべきである。

『日本の人口減少は「待ったなし」の状態にある』と述べられていましたが、地方に住む多くの人が実感しているのではないでしょうか。日本創生会議の提言については、次の動画もご覧ください。

人口減少問題研究会
http://leader.jp-unite.com/chihousuitai/
地方衰退の原因と政策-日本の挑戦するまちと消えゆくまち
平成の大合併一覧によると、平成11年にあった3,232市町村が平成26年に1,718市町村となっています。

平成の大合併で、実に1,514市町村が統合または廃止となったのですが、これだけのまちが日本から消滅した事実でもあります。

統合または廃止された市町村のみなさんは、それぞれに故郷への思い入れもあるかと思いますが、多くのまちが合併した本当の理由を知っていますか?

地方衰退の原因と政策、日本の挑戦するまちと消えゆくまちについて紹介していきます。お住まいの地域のことを考えながら読んでもらえると、地方衰退について深く考える機会になると思います。

地方衰退と地方創生からみていきましょう。
地方衰退と地方創生(地域活性化)

地方衰退とは、地方の勢いや活力が衰え弱まることです。

地方衰退は、地域から人が減り、地方経済が衰退し、仕事が減り、まちが衰退する地域経済の悪循環が続くことで起きます。地方(地域)の勢いや活力を取り戻すために地方創生(地域活性化)がおこなわれています。

「地方衰退は自業自得(地方衰退の責任は100%地方にある)」とも言われ、まちの住民が真剣に取り組まなければ、地域を活性化するのは難しい面もあります。全国一律で同じ施策をおこなうのではなく、地域に合った活性化が求められています。

地方が衰退する原因について少し詳しくみていきます。

地方衰退の原因

地方衰退の原因は人口減少問題ですが、人口減少問題が進行すると地域の税収が減り、地方は財政破綻を起こすこともあります。

人口減少問題と財政破綻については以下を読んでください。

▶ 人口減少問題:地方消滅-人口減少の影響で消える市町村-896自治体一覧

 ▶ 財政破綻:財政破綻どうなる?あなたの住む市町村,自治体は大丈夫?

地方衰退と地方創生(地域活性化)が深く関係していることがわかります。冒頭で出てきた平成の大合併も深い関係があるので、次は平成の大合併を紹介します。

平成の大合併
平成の大合併は、人口減少・少子高齢化等の社会経済情勢の変化や地方分権の担い手となる基礎自治体にふさわしい行財政基盤の確立を目的としておこなわれきました。
7 4 .5%の市町村が合併した理由
市町村が合併した理由は「財政状況」(下図)となっており、全国7 4 .5%の市町村に財政の問題があったことがわかります。
「平成の合併」について-市町村が合併した理由

市町村合併資料集-総務省
平成の大合併は、国が地方にお金を補助することで、財政の安定(行財政基盤の確立)を図る政策でした。

平成の大合併と地方衰退も深い関係にあったことがわかります。

平成の大合併でおこなわれた行政改革

平成の大合併でおこなわれていた市町村は下記のよう行政改革をおこないました。

▶ 平成の大合併 夢はいずこへ

合併をせずに行政改革をおこなった根本良一前町長の話を紹介します。

▶ 福島県矢祭町長 根本良一さん Q地方自治、どうあるべきですか?

紹介した記事の中で、矢祭町の行政改革を行った根本良一前町長は次のように答えています。
「住民のため、郷土のためだけを考えていれば何ら問題ない。すべての判断基準をそこへもっていけばいい。」

今、この矢祭町がどうなっているのか知りたい方は以下のリンクより閲覧してください。
▶ 現在の矢祭町(町の財政一覧)

福島県矢祭町は公務員削減や議員を日当制にするなどの行政改革を平成の大合併の時におこないました。記事を書いている現在も改革を続けながら矢祭町は存続しています。

現在おこなわれている人口減少問題を解決するための政策について紹介します。

人口減少問題を解決するための政策

先に紹介した記事(人口減少問題:地方消滅-人口減少の影響で消える市町村-896自治体一覧)より、人口減少問題での課題は、一極集中を緩和することにありました。

人口減少問題を解決する対策は、地方を活性化して人口流動をゆるやかにすることで極点社会を防止することになります。

政策は地方創生のまち・ひと・しごと創生本部で政策会議が行われており、次の原則となっています。

まち・ひと・しごと創生に関する政策を検討するに当たっての原則
まち・ひと・しごとの創生に向けては、人々が安心して生活を営み、子供を産み育てられる社会環境を作り出すことによって、活力にあふれた地方の創生を目指すことが急務の課題である。
このため、地方において、「しごと」が「ひと」を呼び、「ひと」が「しごと」を呼び込む「好循環」を確立することで、地方への新たな人の流れを生み出すとともに、その「好循環」を支える「まち」に活力を取り戻すことに取り組むこととしている。
この観点から、今後の検討にあたっては、以下の原則に即した政策を整備するよう徹底をはかる。

(1) 自立性(自立を支援する施策)
地方・地域・企業・個人の自立に資するものであること。この中で、外部人材の活用や人づくりにつながる施策を優先課題とする。

(2) 将来性(夢を持つ前向きな施策)
地方が主体となり行う、夢を持つ前向きな取り組みに対する支援に重点をおくこと。

(3) 地域性(地域の実情等を踏まえた施策)
国の施策の「縦割り」を排除し、客観的なデータにより各地域の実情や将来性を十分に踏まえた、持続可能な施策を支援するものであること。

(4) 直接性(直接の支援効果のある施策)
ひと・しごとの移転・創出を図り、これを支えるまちづくりを直接的に支援するものであること

(5) 結果重視(結果を追求する施策)
プロセスよりも結果を重視する支援であること。このため、目指すべき成果が具体的に想定され、検証等がなされるものであること。

出典:まち・ひと・しごと創生に関する政策を検討するに当たっての原則-首相官邸
この原則に基づき、まち・ひと・しごと創生法案ができており、次の概要となっています。

まち・ひと・しごと創生法案の概要

概要から地方創生には、全閣僚の参加、都道府県・市町村の参加することがわかります。地域おこし(地域活性化・地域振興・地域づくりなど)を中心として、その他の対策とあわせ包括的に支援するようになっていくと思われます。

▶ 地方創生の最新情報

地方創生とは、いわゆる地域活性化ですが、挑戦している地域の事例を紹介します。

地域活性化に挑戦するまち

地域活性化に挑戦しているまちの事例として海士町の動画と資料をご覧ください。

▶ 地域資源を活用したまちづくり(島根県海士町)

海士町が挑戦するためにおこなった財政改革が地域活性化に勢いをつけています。

地域活性化のポイント

海士町がおこなった財政改革は、平成の大合併で矢祭町の行政改革を行った根本良一前町長の改革と類似点がありました。無駄な支出を削減することで、地域の改革に必要な財源を確保していました。

中小企業庁が掲載してた財務基盤強化のポイントの「自己資本を充実すること」と「その源泉となる利益を生み出すこと」を行った改革と言えます。

財政改革とワンセットにして地域活性化に取り組んだほうが、効果的なことがわかります。

地域活性化のポイントは、財政改革により源泉を確保し、利益を生み出すことで、自己資本を充実していくサイクルをつくることにあります。

地方衰退で消えゆくまち

地域活性化に挑戦するまちの事例から、衰退していくまちでも活性化できることがわかりました。しかし日本には活性化できない地域もあります。

廃村になる地域です。人口減少によって地域から人がいなくなり、最後は廃村に至ります。平成元年に廃村となった村の動画をご覧ください。

▶ 廃村に関する動画

地方衰退は、廃村という形で、私たちのまちを消し去っていきます。廃村になるような地域は、どうやっても活性化できません。

先ほどみた動画のように、記録を残すことで、人々の記憶の中に生きていく道を模索するなどの対策が必要になります。

▶ 地方衰退論文
▶ 地方衰退資料
▶ 地方衰退図書1 ▶ 地方衰退図書2
▶ その他レポート等
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まとめ

地方衰退の原因は人口減少でしたが、政策として地方創生(地域活性化)をおこなっていることがわかりました。

平成の大合併における合併の理由から、全国7 4 .5%の市町村に財政の問題があったことががあったことがわかりました。

平成の大合併の結果から、国から地方に金銭的な支援をしても効果がないこともわかりました。

矢祭町では行政改革による補助金に頼らないまちづくりがおこなわれていました。

地域活性化に取り組んでいる海士町も財政改革をおこない、同時に起業支援など政策を行うことで、島外からの人を増やし、仕事を創出していました。

矢祭町と海士町の事例から、財政改革が地域活性化に効果があることもわかりました。

廃村になる地域の場合は、活性化できないため、記録を残すことで人々の記憶の中に生きていく道を模索するなどが考えられました。

地方衰退を改善する地域活性化は、財政改革による財源確保と、それぞれの地域に合った施策を行っていくことが大事でした。
(記事引用)

高橋是清と財政政策と2.26事件
日本史世界史 
『5・15事件と政党政治の衰退』の項目では、陸海軍の青年将校の義憤や国家主義的な右翼勢力によって緊迫する昭和期の政治情勢を解説しましたが、日本でそういった軍事拡張政策や政府転覆のクーデターに一定の支持が集まりだした要因として『昭和恐慌(世界恐慌)』を考えることができます。
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景気の後退が激しくなり雇用が減少して失業者が町に溢れるのと同時に、物価と労賃が連動して下落するデフレスパイラルが起こり労働者も農家も悲惨な生活状況に陥りました。

日本は欧米の帝国主義列強と比較すると、より早い段階で世界恐慌の景気低迷から抜け出すことが出来たのですが、昭和恐慌(昭和恐慌)の克服に極めて大きな役割を果たしたのが首相を経験したこともある当時の大蔵大臣・高橋是清(たかはしこれきよ,1854-1936)でした。

幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子の是清は、仙台藩の足軽高橋覚治の養子となって高橋是清となりました。
高橋是清は『アメリカ留学・留学先で騙されてカリフォルニアのブドウ園で奴隷的労働・文部省や農商務省の官僚・ペルー銀山事業の失敗・日本銀行に入行・閣僚・総理大臣』といった特異な人生のキャリアを積んだことでも知られますが、日露戦争の時には日銀副総裁として英国の公債引受を実現して戦費を調達しました。

1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌が発生した時には、田中義一内閣(1927年4月20日~1929年7月2日)で三度目の大蔵大臣を勤めて、モラトリアム(支払猶予制度)や紙幣の大量印刷によって当面の金融危機を回避しました。昭和6年(1931年)には、政友会総裁の犬養毅内閣において4度目の大蔵大臣となります。

犬養内閣では金輸出の再禁止(12月13日)をして『管理通貨制度』への移行を促しましたが、これは日本の通貨が兌換紙幣から不換紙幣へと切り替わる『金本位制度の放棄』を意味しておりイギリスに次ぐ移行の早さでした。
金本位制を放棄して管理通貨制度に移行したことで、『金の保有量』に制約されないフレキシブル(柔軟)な積極財政政策を行いやすくなり、大量の国公債発行による公共事業や軍事への投資が可能になりました。

高橋是清はケインズ政策の先駆けとも言える公共事業・軍事予算を活用した『積極財政政策』を実行して、大量の国際を日銀に引き受けさせることで財政規模を拡大しましたが、国債・通貨の大量発行によってインフレが発生してデフレスパイラルの大不況を離脱する原動力となりました。

国民経済を破綻させないレベルのマイルドなインフレを発生させることで、デフレスパイラルによる物価・労賃の下落や雇用の減少を堰き止めることができるのですが、これを『リフレーション政策・インフレターゲット』といいます。
時代を先取りするかのような高橋是清のリフレーション政策で、日本は欧米諸国よりも早く世界恐慌から離脱することができたのですが、高橋蔵相は六度目の大蔵大臣に就任した岡田啓介内閣において『2・26事件(1936年)』の被害に遭い、赤坂にある自宅の二階で陸軍青年将校に暗殺されてしまいました。

高橋是清が二・二六事件において標的にされたのは、国民生活を圧迫する高率のインフレーション(物価上昇)を抑制するために、赤字国債と国家予算を縮小しようとして(軍部の怒りを買う)『軍事費の削減』に手をつけたからだとも言われています。

アダム・スミスのような『古典的自由主義(自由放任主義)』では、政府が市場に政策介入せずに市場の競争原理に任せたほうが経済は成長すると考えますが、公共投資・公共事業のケインズ政策を先取りしたかのような高橋是清は、赤字公債発行を辞さない政府の積極的な財政支出によって景気は回復すると考えました。
経済政策として『緊縮財政』よりも『積極財政』のほうが景気回復効果が優れているという当たり前の事実に着目した財政政策ですが、このことは財政負担と歳出の小さい『小さな政府』から財政負担・歳出の大きい『大きな政府』への転換を進めました。

高橋是清が特に公共投資・公共事業として積極的に資金を投入したのは、『財閥系の大企業の基幹産業』と『対外的な軍事費の増大』であり、高橋是清が大蔵大臣を務めていた1930年代後半から急速に『歳出に占める軍事費の割合』と『歳入に占める国公債・借金の割合』が増大しました。

第二次世界大戦(太平洋戦争)の終戦が迫っていた劣勢の日本では、1943年に歳出に占める軍事費の割合が6割を越えており、歳入に占める国債の比率も7割に迫る勢いで、財政状況は赤字が累積する極めて厳しい状況になっていました。

1932年には国内産業を保護するために関税の引き上げが為され、『日満自給圏(日本と満州・朝鮮のブロック経済圏)』の構想によって日本は欧米諸国からの輸入に頼らなくても良い『重化学工業の発展』に国家の歳出を重点的に振り向けていきました。
 
日本は基幹産業を国営企業や公共事業で育成して、軍事支出と雇用を増大させる積極財政政策によって『大きな政府』への道を歩み始めますが、当時の軍部や革新官僚の多くは自由市場主義を否定して、国家が主要な産業分野を管理統制して国民の労働力を動員できるようにする『統制経済論』を支持していました。

1930年代の軽工業から重化学工業への転換が日本の不況克服の原動力となりましたが、この重化学工業の発展と需要の多くは軍拡財政・満州国への投資といった『軍需』によって支えられていたことにも留意しておく必要があるでしょう。
三井・三菱・住友といった財閥資本が、鉄鋼・造船・機械・化学といった巨額の設備投資(初期資本)がかかる重化学工業を経営することとなり、1936年の自動車製造事業法などの保護政策によって日産自動車やトヨタ自動車が軍需と結びついて躍進する契機が生まれました。

日本窒素や日本曹達、理研、日立、日産、豊田といった新興財閥系の企業も、軍部の外地開発や利権と結びつくことで急速な発展を成し遂げることになります。

日本政府は1929年の『産業合理化政策』によって企業の合併や独占的なカルテルの形成を奨励していましたが、1931年に『重要産業統制法』が成立すると、政府が重要産業と認定した分野での自由競争を抑制して独占的なカルテル・コンツェルンを保護育成しました。

政府は財閥系・政府系の大企業を保護して系列支配のカルテルやコンツェルンを巨大化させる政策を取ったので、1930年代以降には中小零細企業が大企業(財閥)の系列に『下請け企業』として組み込まれる独占支配的な経済体制が確立していきました。
重化学工業分野の工場では労働力の機械化や生産効率の向上が図られることになり、対人的な暴力・上下関係によって労務管理をする『親方―子方制度』や住み込みで過酷な労働をさせる『飯場制度・納屋制度』などは衰退していきました。

二・二六事件と昭和維新の挫折

1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて起こった陸軍皇道派の青年将校らによる『二・二六事件』は、近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊の1483名の兵士を動員した大規模なクーデター未遂事件でした。
急進的な国家主義者・北一輝(きたいっき,1883-1937)の国家改造論思想の影響を受けた皇道派の陸軍青年将校たちが、『昭和維新・尊皇討奸』のスローガンを掲げて“君側の奸”を取り除くために起こした軍事クーデターであり、『政官財の癒着・元老重臣の専横による腐敗』を正して天皇親政によって国家の王道を実現することが目的でした。

北一輝の国家改造論や右翼的な国粋思想の影響を受けていた青年将校には、安藤輝三、野中四郎、香田清貞、栗原安秀、中橋基明、丹生誠忠、磯部浅一、村中孝次らがいます。

天皇の側にいる奸臣・逆賊を誅滅することで、天皇の大御心を安んじ再び明治維新のような王政復古を果たそうとした2・26事件の青年将校たちは、高橋是清蔵相、斎藤実内相、渡辺錠太郎教育総監の暗殺を成し遂げました。

当時の首相だった岡田啓介も暗殺の標的とされていましたが、義弟の松尾伝蔵が襲撃隊の前に走り出て銃殺されたため、松尾伝蔵を岡田啓介と誤認した青年将校らによって岡田首相は何とか一命を取り留めました。
2・26事件を起こした部隊は『決起趣意書』を作成して天皇に奏請することで自らを正規軍(官軍)と認めてもらおうとしましたが、昭和天皇はクーデターに与することはなく反乱軍と認識して『即座の鎮圧』を政府・軍部に命じました。

反乱が鎮圧された後には2・26事件に参加した青年将校の多くは、国家体制を転覆させようとした『反乱罪』で死刑に処されることになり、小規模な5・15事件と比較すると極めて厳しい厳罰主義の方針が示されました。

2・26事件を引き起こした青年将校らに理論的・思想的に大きな影響を与えたとされた国家社会主義者の大物・北一輝と西田税(にしだみつぐ)も、クーデターの理論的指導者として軍隊を煽動した反乱罪の罪で死刑になりました。

シーメンス事件
5月19日軍法会議は、松本和前艦政本部長に対し三井物産からの収賄の容疑で懲役3年、追徴金40万9800円を、また沢崎寛猛大佐に対し海軍無線電信所船橋送信所設置に絡みシーメンスから収賄した容疑で懲役1年、追徴金1万1500円の判決を下した。
東京地方裁判所は7月18日山本条太郎ら全員に有罪判決を下し(控訴審では全員執行猶予)、9月3日の軍法会議では藤井光五郎に対し、ヴィッカース他数社から収賄したとして、懲役4年6ヶ月、追徴金36万8000余円の判決を下し、司法処分は完了した。

しかし、折から第一次世界大戦の勃発もあって、3名の海軍軍人を有罪としただけでこの事件は終結した。「産業界と軍部との癒着構造の根源にまで追及すべきだった」という見方と「全く無実であった山本権兵衛と斉藤実を引責辞任、予備役編入したことは有力なリーダーなくして第一次世界大戦に突入することになり、また海軍衰退の元を作り
第二次世界大戦を陸軍主導で開戦する遠因になった」という見方がある。

三井高弘(三井八郎次郎)は事件後に三井物産社長職を引責辞任した。

シーメンス社
日本における事業展開(戦前)
1861年、ドイツ外交使節が徳川将軍家へシーメンス製電信機を献上し、ここに初めてシーメンス製品が日本に持ち込まれた。
1887年にはシーメンス東京事務所が開設され、以降、シーメンス社の製品は広く日本に浸透することになる。19世紀の主な納入実績には、足尾銅山への電力輸送設備設置、九州鉄道株式会社へのモールス電信機据付、京都水利事務所など多数の発電機供給、江ノ島電気鉄道株式会社への発電機を含む電車制御機および電車設備一式の供給、小石川の陸軍砲兵工廠への発電機供給、などがある。

1901年にはシーメンス・ウント・ハルスケ日本支社が創立された。
その後も発電・通信設備を中心とした製品供給が続き、八幡製鐵所、小野田セメント、伊勢電気鉄道、古河家日光発電所、曽木電気(のちの日本窒素肥料)等へ発電設備を供給した。また、逓信省へ、電話関係機器の多量かつ連続的な供給を行なった。

軍需関係では、陸軍へ口径60センチシーメンス式探照灯、シーメンス・レントゲン装置、各種無線電信機、海軍へ無線装置・信号装置・操舵制御装置等を納入している。
1914年には海軍省の注文で千葉県船橋に80~100キロワットテレフンケン式無線電信局を建築したが、この無線電信局の納入をめぐるリベートが、「シーメンス事件」として政界を揺るがす事件に発展することになる。

第一次世界大戦中は日独が交戦状態に入ったため営業を停止したが、1920年頃から営業を再開した。1923年には古河電気工業と合弁して富士電機製造株式会社を設立、1925年には電話部門を富士電機に譲渡した。

その後も、日本全国の都市水道局へのシーメンス量水器の納入、逓信省への東京大阪間電話ケーブルに依る高周波多重式搬送電話装置の供給などが続いた。関東大震災後には、シーメンスの電話交換機が各都市の官庁、ビル・商社に多数設置された。

1929年には、大連逓信局に軽量物搬送装置を供給。以降、1936年に満州国電信電話会社がシーメンス式ベルトコンベアを採用するなど、日本、台湾、満洲の電信局・郵便局のほとんどがこの様式を採用することとなる。

1931年には八幡市水道局にシーメンス製オゾン浄水装置が納入された。1932年には日本活動写真株式会社にトーキー設備40台を納入、以降全国各地の映画館にトーキー映写装置を販売することになる。

1932年、上野帝国図書館は日本最初のシーメンス式自動書類複写機を採用した。1936年には大阪市にも採用された。
満洲事変以降、富士電機は探照燈・特殊電気機器・船舶航空器材など軍需兵器関係の製作に力を入れることになり、シーメンスから専門技師を招致するなどして、シーメンス関連企業が設計製作を行なっていたその種の装置の国産化に努めた。

1938年頃から、アルミニウム工場が日本国内、満洲、朝鮮の各地に建設・増設されたが、シーメンス社はその設備・資材供給で多忙を極めることとなった。発電設備関係では、1939年、満洲国各地、鴨緑江水電株式会社などに、相次いで大型発電設備を供給した。

1941年、ドイツとソ連が交戦状態に入り、シベリア鉄道経由での貨物輸送が不可能になった。続く日米開戦により、東京シーメンスはほとんど全部の製品を国産化することとなった。
この時期の納入実績としては、シーメンス水素電解槽の住友電気工業、日本カーバイド工業、鐘淵紡績等への供給、逓信省への大型短波放送設備の納入等がある。戦争が続く中で、資材の獲得が困難となり、戦時中は保守業務が中心となった。


常陸風土記の語り
1.財閥三井の設立「益田 孝」
成立時期の詳細については、『常陸国風土記』によれば大化の改新(645年)直後に創設されたことになるが、壬申の乱(672年)の功臣である大伴吹負が後世の常陸守に相当する「常道頭」(「常陸」ではない)に任じられたとする記事がある事から、「常陸」という呼称の成立を7世紀末期とする考えもある。
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なお、『常陸国風土記』(逸文)の信太郡の条に「白雉4年(653年)、物部河内・物部会津らが請いて、筑波・茨城の郡の700戸を分ちて信太の郡を置けり。この地はもと日高見の国なり。」とあり、令制国成立前は日高見国だったとされている。

律令制が敷かれた当初の常陸国は多珂国を編入したため、現在の茨城県の大部分(西南部を除く)と、福島県浜通りの大熊までに至る広大な国であった。
『常陸国風土記』には、「久慈郡と多珂郡の境の助川を道前(道の口)と為し、陸奥国の石城郡の苦麻の村を道後(道の尻)と為す。」という記述があり、「助川」が日立市に、「苦麻」が大熊に相当する。言い換えると、現在の福島第一原発付近が、常陸国と陸奥国の境であった。
後に陸奥国が設けられると、常陸国の北端は菊多郡まで(陸奥国との境:現在の湯本駅付近)になった。

更に718年(養老2年)に、菊多郡が新設の石城国に入れ替えられ、常陸国と石城国の境に当たる現在の平潟トンネルのすぐ近くに菊多関(後の勿来関)が建てられた。

これ以後は常陸国の範囲は変わらず、西南部を除いた茨城県に相当する範囲となった。新治郡、筑波郡、信太郡、茨城郡、行方郡、香島郡(後に鹿島郡)、那珂郡、久慈郡、多珂郡(後に多賀郡)、白壁郡(後に真壁郡)、河内郡から構成される。

平安時代の天長3年9月6日(826年10月10日)、常陸国と上総国、上野国の3国は、国守に必ず親王が補任される親王任国となり、国級は大国にランクされた。

親王任国の国守となった親王は「太守」と称し、官位は必然的に他の国守(通常は従六位下から従五位上)より高く、親王太守は正四位以上であった。

親王太守は現地へ赴任しない遙任で、例えば葛原親王や時康親王のような常陸太守が実際に任地に赴くことはないので、国司の実質的長官は常陸介であった。
律令制による国郡支配が解体された平安時代末期以降、荘園の分立や郡の分割が進んだ。近世始めに実施された太閤検地の際に、細分化された郡や荘を再編成して古代の郡の復元が図られたが、その領域は古代のものとはかなりの違いがある。
明治政府による郡区町村編制法と郡制の施行による再編を経て、第二次大戦後の現代まで続いた茨城県の郡の区分と領域は、この太閤検地で再編されたものを基礎としている。

上総下総の分立

『帝王編年記』によると、安閑天皇元年(534年)に上総国を置いたというが、これは総国を上下に分けたという意味に解され、下海上・印波・千葉の国造の領域を併せて下総国が、阿波・長狭・須恵・馬来田・伊甚・上海上・菊麻・武社の国造の領域を併せて上総国が分立した。

上総・下総という地名は、語幹の下に「前、中、後」を付けた吉備・越とは異なり、毛と同じく「上、下」を上に冠する形式をとることから6世紀中葉とみる説があり、『帝王編年記』の記述に合致し、伝承を裏付けるものである。

国造制から律令郡国制への移行は、早ければ大化元年(645年)、遅くとも大化5年(649年)以前と推測され、この間に令制国としての上総国と下総国が成立した。
和銅6年(713年)の好字二字令によって「上総国」「下総国」と表記が改められたと考えられる。これ以前は「上捄国」「下捄国」と書かれていた(詳細下記。本項では便宜上これ以前についても総の字を使った)。
養老2年(718年)上総国から、阿波国造および長狭国造の領域だった平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡の4郡を割いて安房国とした。
ここにおいて令制国としての「房総三国」が成立した。天平13年(742年)安房国を再度上総国に併合したが、天平宝字元年(757年)に再び安房国を分けた。そのまま明治維新に至る。
(記事抜粋〆)
http://blog.livedoor.jp/raki333-deciracorajp/archives/38147955.html

財閥三井の設立「益田 孝」
三井物産設立と共に同社の初代総轄(社長)就任
益田 孝(1848年11月12日 -1938年12月28日)
新潟県佐渡市相川に生まれる。幼名は徳之進。父の鷹之助は箱館奉行を務めた後、江戸に赴任。孝も江戸に出て、ヘボン塾(現・明治学院大学)に学び、麻布善福寺に置かれていたアメリカ公使館に勤務、ハリスから英語を学ぶ。文久3年(1863年)、フランスに派遣された父とともに遣欧使節団(第二回遣欧使節、または横浜鎖港談判使節団)に参加し、ヨーロッパを訪れている。ヨーロッパから帰国後は幕府陸軍に入隊。騎兵畑を歩み、慶応3年(1867年)6月15日には旗本となり、慶応4年(1868年)1月には騎兵頭並に昇進した。

日本の実業家。草創期の日本経済を動かし、三井財閥を支えた実業家である。
明治維新後世界初の総合商社・三井物産の設立に関わり、日本経済新聞の前身である中外物価新報を創刊した。茶人としても高名で鈍翁と号し、「千利休以来の大茶人」と称された。男爵。

明治維新後は横浜の貿易商館に勤務、明治5年(1872年)に井上馨の勧めで大蔵省に入り、造幣権頭となり大阪へ。明治7年(1874年)には、英語力を買われ井上が設立した先収会社では東京本店頭取(副社長)に就任。
明治9年(1876年)には中外物価新報を創刊。同年、先収会社を改組して三井物産設立と共に同社の初代総轄(社長)に就任する。

三井物産では綿糸、綿布、生糸、石炭、米など様々な物品を取扱い、明治後期には日本の貿易総額の2割ほどを占める大商社に育て上げた。
三井物産が設立されてからは、渋沢栄一と共に益田の幕府騎兵隊時代の同期生の矢野二郎(商法講習所所長)を支援したため、物産は多くの一橋大学出身者が優勢を占めた。
三井内部では、工業化路線を重視した中上川彦次郎に対して商業化路線を重視したとされている(但し、後述の三井鉱山の設立や團琢磨を重用したように工業化路線を軽視したわけではなかった)。

さらに、三井財閥総帥であった中上川の死後実権を握ると、経営方針の中で、中上川により築き上げられた三井内の慶應義塾出身者を中心とする学閥を排除することを表明し、中上川の後継者と目されていた朝吹英二を退任させ、三井財閥総帥には團琢磨を、三井銀行には早川千吉郎を充てた。

また、工部省から三池炭鉱の払下げを受け、明治22年(1889年)に「三池炭鉱社」(後の三井鉱山)を設立、團を事務長に据えた。明治33年(1900年)に台湾製糖設立。大正2年(1913年)、辞任。
玄孫は歌手の岩崎宏美の元夫で商社マンである。岩崎と離婚後、2人の息子の親権を玄孫が、養育権を岩崎が持ち、再婚後は養子にしている。

妾の「たき子」は、益田の数寄者仲間である山縣有朋の妾、「貞子」の姉。姉妹は元芸妓。

有朋の妾と益田 孝の妾
妻に、山口県湯玉の庄屋の娘・友子。友子没後、妾だった元日本橋芸妓・貞子を夫人としたが、正式には未入籍。
友子との間に7人の子を儲けたが、女児1人を除いて夭折したため、有朋には跡継ぎがなく、姉の壽子と勝津兼亮の次男・伊三郎を養子として迎える。
伊三郎は枢密顧問官・逓信大臣・徳島県知事等を務めた。有朋の姉、雪子は森山久之允に嫁す。伊三郎の子・山縣有道は宮中に仕え侍従・式部官を務めた。また有朋の娘・松子と船越光之丞の三男・有光を伊三郎の養子に迎え、山縣家分家として男爵を授爵された。
有光は陸軍大佐・第21飛行団長。有道の子・山縣有信は栃木県矢板市長を務めた。

益田孝の妾「たき子」 山縣有朋の妾「貞子」

明治美人伝 (長谷川時雨)
山県公の前夫人は公の恋妻であったが20有余年の鴛鴦えんおうの夢破れ、公は片羽鳥かたわどりとなった。
その後、現今の貞子夫人が側近そばちこう仕えるようになった。幾度か正夫人になるという噂うわさもあったが、彼女は卑下して自ら夫人とならぬのだともいうが、物堅い公爵が許さず、一門にも許さぬものがあって、そのままになっているという事である。表面はともあれ、故桂かつら侯などは正夫人なみにあつかわれたという、その余の輩ともがらにいたってはいうまでもない事であろう。すれば事実は公爵夫人貞子なのである。

貞子夫人の姉「たき子」は紳商益田孝(ますだたかし)男爵の側室である。益田氏と山県氏とは単に茶事ちゃじばかりの朋友ともではない。その関係を知っているものは、彼女たち姉妹のことを、もちつもたれつの仲であるといった。
相州板橋にある山県公の古稀庵こきあんと、となりあう益田氏の別荘とはその密接な間柄をものがたっている。

姉のたき子は痩やせて眼の大きい女である。妹の貞子は色白な謹つつましやかな人柄である。今日の時世に、維新の元勲元帥の輝きを額にかざし、官僚式に風靡し、大御所おおごしょ公の尊号さえ附けられている、大勲位公爵を夫とする貞子夫人の生立ちは、あわれにもいたましい心の疵きずがある。
彼女たち姉妹がまだ12、3のころ、彼女たちの父は、日本橋芸妓歌吉と心中をして死んだ。そういう暗い影は、どんなに無垢むくな娘心をいためたであろう。
子を捨ててまで、それもかなりに大きくなった娘たちを残して、一家の主人が心中する――近松翁の「天てんの網島あみじま」は昔の語りぐさではなく、彼女たちにはまざまざと眼に見せられた父の死方である。
明治16年の夏、山王さんのう――麹町日枝ひえ神社の大祭のおりのことであった。芸妓歌吉は、日本橋の芸妓たちと一緒に手古舞てこまいに出た、その姿をうみの男の子で、鍛冶屋かじやに奉公にやってあるのを呼んで見物させて、よそながら別れをかわした上、檜物町ひものちょうの、我家の奥蔵の三階へ、彼女たちの父親を呼んで、刃物で心中したのであった。

彼女たちは後に、芝居でする「天の網島」を見てどんな気持ちに打たれたであろうか、紙屋治兵衛かみやじへえは他人の親でなく、浄瑠璃でなく、我親そのままなのである。京橋八官町の唐物屋とうぶつや吉田吉兵衛なのである。

彼女たちの父は入婿いりむこであった。母は気強きごうな女であった。また芸妓歌吉の母親や妹も気の強い気質であった。
その間に立って、気の弱い男女は、互いに可愛い子供を残して身を亡ほろぼしたのである。其処に人世の暗いものと、心の葛藤かっとうとがなければならない。結びついて絡からまった、ついには身を殺されなければならない悲劇の要素があったに違いない。

その当時の新聞記事によると、歌吉の母親は、対手あいての男の遺子たちに向って、お前方も成長おおきくなるが、間違ってもこんな真似をしてはいけないという意味を言聞かして、涙一滴いってきこぼさなかったのは、気丈な婆さんだと書いてあった。
その折、言聞かされて頷うなずいていた少女が、たき子と貞子の姉妹で、彼女の母親は、彼女たちの父親を死に誘った、憎みと怨うらみをもたなければならないであろう妓女げいしゃに、この姉妹きょうだいをした。彼女たちは直すぐに新橋へ現れた。

複雑な心裡しんりの解剖はやめよう。ともあれ彼女たちは幸運を羸かち得たのである。情も恋もあろう若き身が、あの老侯爵に侍かしずいて30年、いたずらに青春は過ぎてしまったのである。老公爵百年の後の彼女の感慨はどんなであろう。夫を芸妓に心中されてしまった彼女の母親は、新橋に吉田家という芸妓屋を出していた。
そして後の夫は講談師伯知はくちである。夫には、日本帝国を背負っている自負の大勲位公爵を持ち、義父に講談師伯知を持った貞子の運命は、明治期においても数奇なる美女の一人といわなければなるまい。
(記事引用)

この時代(2016年)から、その時代を俯瞰した場合、まったくもって信じ難い、ということが多々ある。いまでは「妾」という言語すら使われない。多分差別用語なのだろう。今風に云うと「不倫」ということか。

それよりも、もっと不可解な人脈が、益田孝と山縣有朋の関係だ。その両者の妾が姉妹であった事は、時代背景として考えられないこともないが、三井の益田と、長州の山縣が、数寄者(すきしゃ)同志として繋がりがあったとは想像することも出来ない。なぜなら互いのバックポーンが敵対同士の仲であるからだ。
その部分を掘り下げると、もっと面白いタスクが読み取れるかもしれない。 

斉藤実 伝
1 大陸に吹きすさぶ嵐  著者北山敏和
 1929年(昭和4)秋アメリカから始った経済恐慌が、たちまち全世界に波及し、日本も不況に陥った。
 先進諸国はそれから脱出する途として、海外市場獲得の目的を立て軍備拡充の熱が昂まった半面、第一次世界大戦の反動と、財政難のために、軍備縮少が強く望まれた。
 ジュネーブ会議(斎藤実全権委員)といい、パリに於ける大国間に結ばれた不戦条約といい、英の招請で開かれたいわゆるロンドン会議というものも、すべて目的とする所は、地球上から戦争をなくす念願から出ているのだった。
 わが国はそのいずれにも加盟したのであるが、そのうちロンドン会議での結果として、日本海軍の保有艦数は、米国に対して、補助艦全体で7割、重巡洋艦は6割、潜水艦に於て米国と同量が許される、という割当てで落着したが、軍拡を希う人々は収まらなかった。
 まず軍令部が『これを呑むというのは統師権を侵犯する不屈な越権である』として怒り出し、やがて右翼が騒いだ。
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米国公使館時代(海軍大尉)

 そしてこれは政府の軟弱外交のせいだとし『財閥と組んで腐敗堕落の政治を行う議会政治そのものが悪いのだ』と政治制度の否定を明らさまに唱える者もあった。
 経済不況も政策が良くないからだと解釈して、その立場からの議会政治不信の徒も出て来た。
 当時続出した右翼のうち北一輝らの一派は、軍部という一大組織を動かすことによってしか、理想的な社会的改造成就は不可能と考え、軍部内に喰い込んで青年将校群と提携し、まず皇室中心の軍部独裁政権樹立を目論んだ。
 これは政府の大官や要人の暗殺を前提とした恐るべき陰謀であったが、事露われて未然に終ったが、軍部では極秘に処理して首謀者の処刑もなく、これら三月事件とか十月事件といわれたものもうやむやのうちに葬られてしまった。
 
 しかしこの時すでに後の二・二六事件の先例が、そっくりそのまま不発で行われていたのである。
 軍部内で以前から夢想していた軍部独裁政権欲は右翼のそそのかしもあり、陰に陽に議会否認の態度をとる軍部官僚が中堅将校以下に多くなって行った。

 満洲事変は斎藤実が第2回目の朝鮮総督をやっていた昭和6年(1931年)9月に関東軍が起したものだったが、張学良軍の敵対行為であると称してそのまま戦線を満鉄全沿線に拡げて占領してしまい、事変勃発当初から日本政府が指令した不拡大方針を全く無視して関東軍は全満洲に進撃していった。

 日本軍が大苦戦した上海事変も軍部の独走で中国国民政府は国際連盟に日本の侵略行為を提訴し、リットン調査団が現地調査に来ても軍事行動を止めず、むしろ挑戦するかの如き態度で、清朝最後の皇帝溥儀を執政とする五族協和制の満洲国を建国しやがて帝政に切りかえた。
 当然の帰結だが国際連盟を日本は脱退して、以後は道義的顧慮も制肘(せいちゅう)を受ける何物もないと、大陸侵略政策に突進して行ったのである。

2 再び朝鮮総督に就任  

 昭和3年は彼にとって、叔父の死という哀しみはあったけれど、比軟的のびやかな年であった。
 秋11月には今上陛下の即位大礼式に参列し、楽しい忙しさの中に平穏に暮れた。
 翌けて4年8月に図らずも、2度目の朝鮮総督の大命を受けた。
 陸軍大将の山梨半造のあとである。
 1度目の朝鮮総監は8年半も勤めたのであるが、それから僅か1年半での復帰は、他に適任者が得られないと共に現地朝鮮の彼を慕う民衆の声に動かされての人事であった。
 全く慈父の如く半島人はなつき、また各般の施策よろしきを得たから、数年にして半島の全貌が昔の俤(おもかげ)と異ってしまった程である。
 山梨も格別ヘマをやったのではなかったが、斎藤の物凄い人気に当てられてしまって嫌気がさしてしまったのだろう。
 しかし昭和6年5月中旬、東京に帰って私邸で入浴後に卒倒し、医師から絶対安静と言渡されたため朝鮮生活を打切ることを決心した。
 その時の病気は案外軽く済んだが、そのまま辞表を提出し故郷の水沢にも帰ったりなど暢気に静養して健康を回復した。そしてその年の秋には朝鮮に戻り、永年の交誼を謝すために知友を訪ね、思い出探い各地の山川を歩いた。

3 祖国日本の変容  

 彼が前後10ヶ年以上も、植民地朝鮮半島の整備繁栄に心魂を傾けている間に、日本国内は目ざましい躍進を逐げて、世界の1等国と自負するまでの実力を蓄積していた。
 しかしそれと共に、そのうぬぼれの孕(はら)む恐るべき危険性も増長していた。
 朝鮮に在っても彼には掌を指すように判ってはいたであろうが、帰って見て肌身に感じて、予想以上に憂うべき実体と知って驚いたであろう。
 彼が前の朝鮮総督の間(昭和2)に全権委員として務めたジュネーブ会議(結果は決裂したが)も、翌年パリで主要諸国間に、国際紛争解決の手段として戦争に訴えないという不戦条約も、2年後のロンドン会議(英の主唱で日米仏伊が招請された)も目的とする処は非戦和平の為めで、世界共通の風潮だったが日本海軍の増強に怖れを懐いてのものでもあった。
 殊に米軍艦より下まわる艦積を強いられたロンドン会議は明らかに日本を押えておく魂胆のものだった。
 軍縮は平和を願う気持からだけでなく、当時の世界は経済恐慌に見舞われていた点からも必要であったが、わが軍部は強気一点張りでありロンドン会議の結果に対しては非難が昂まった。

ジュネーブ軍縮会議途上の斎藤実夫妻

 民間の右翼もこれに同調したが、民政党の浜口雄幸内閣はそれらの反対をおさえて批准した。従来の右翼は一種の暴力団だったが、その頃から変貌して、政府や社会の動揺に乗じて国内のファッシズムの体制を固めようとする徒党的政治結社となり、たえず軍の若手将校に喰い入っていた。

 軍も右翼も政府の軟弱外交を憤慨し、昭和5年2月にはロンドン軍縮を批准した浜口首相は東京駅頭で右翼団員のため重傷を受け、やがて死んだ。
 
 北一輝などは天皇制を背景に、軍部独裁制と戦争による現状打破を主張し、一部青年将校らに強い影響を与えていた。
 いわゆる三月事件とか十月事件と称されるものは、それの実行運動(いずれも失敗に終ったが)の現れであった。
 斎藤は軍部の青年将校たちの変りように最も驚き、将来を憂えたに違いない。
 全く彼らの思い上りようは内地はもとより外地、たとえば関東軍の青年将校層などにも共通するもので、政令無視を平然とやる程にまで増長していた。
 関東軍が柳条溝の満鉄線路で起した小爆発事件をきっかけに(張学良の関東軍にする敵対行為と主張して)軍事行動を起し、無際限の拡大を示した。
 浜口の後継の若槻首相が不拡大の方針を指令しても無視して(陸軍中央部も政府を圧迫し)全満洲にわたって進撃した。
 若槻内閣は(8ヶ月で)こうした軍の圧迫に退陣して犬養毅が首相となったが、荒木陸相が代表となってファシストの圧迫は依然たるものだった。
 戦火は中国南部に拡大され、上海事変と呼ばれる激しいものとなり、長くかかってやっと収まった。
 中国は国際連盟に日本の侵略行為を提訴したので、リットン調査団が現地調査して日本の侵略行為を認め、満洲を国際管理下に置くことを求めた。
 そこで国際連盟を脱退して自主外交だとして、なおも中国侵略を進めるという軍の無理押しの方針に、政府も引きずられていった。
 満洲国を建国し溥儀(はくぎ)を執政に迎えて五族共和の宣言をしたのは、リットン調査団が満州に乗込んで調査に廻ってる最中に強行したのであった。
 軍の眼中には政府もなければ、国際連盟もないという鼻息だったのである。
 実際に満洲事変の緒戦の頃は連戦連勝という具合で、国内からも喝采の声が上ったものである。
 従ってこうした軍の推進力と支援役であった血盟団や、愛郷塾、神武会、国本社等々の狂信的な右翼団体が勢力を得て、彼らの主張と相反し、又はためらう支配者層に対して、個人的テロをどんどん実行した。

 昭和7年に前蔵相井上準之助が、その翌月には三井財閥の大番頭団琢磨が血盟団に暗殺された。
 続いて5月15日、右翼団体と常日ごろ深い関係をもっていた数人の海軍将校らのために、首相犬養毅が有名な『話せばわかる』『問答無用』のやりとりの上でピストルの引金を引き暗殺された。
 これが五・一五事件で、それまでの数多くの暗殺のうちでも有名なのは、臨終の芝居がかっているせいによろうか。
4 斎藤内閣の組閣から二・二六事件まで  

 斎藤はもともと軍人ではあるが当時の若手将校は肚に飛んでもない野心を待っているのだから、理屈や正論などの通る相手ではなく、扱い方はひと通りやふた通りのものではなかった。

 右翼という存在も軽視出来ず、政党はやむを得ず後退した形といっても尊重せねばならず、という考えから時勢の要望と観て、挙国一致体勢の内閣を組織することにした。
 後藤文夫という官僚の代表が中心で人選したのだが、後藤にそういう大事な仕事を任したのは、彼は元来右翼と関係深い男であることも、考慮に入れていたのであろう。
 斎藤の寛大さは、朝鮮に渡って最初の下僚集めの時も全部人任せでやり、自分は文句もいわずにしかもあの善政10ヶ年以上の成果を収めたのだから、何とも不可思議な測り知られない超人という外はない。
 斎藤内閣には高橋是清が政友会から蔵相として入閣した。高橋是清は首相級の貫録の人で斎藤とは古くから肝胆相照した仲でもあり、片腕的存在として内閣に重みを増した。
 斎藤内閣は9月に満洲国を承認し、日本の独占的権益及び日本軍の駐屯とを確認させる「日清議定書」に調印した。
 日本軍の中国に於ける侵攻はかなり進んでいて、一応この上げ潮と見える情勢に妥協の必要があっだろう。 中国大陸で共産党討伐に主力を注いでいた蒋介石との間に塘沽停戦協定を結び、中国に於ける日本に対するそれまでの悪感情が一旦は収まった程であった。

犬養毅内閣
s6/12/13~ 斎藤実内閣
s7/5/26~ 岡田啓介内閣
s9/7/8~
総理
外務
内務
大蔵
陸軍

海軍

司法
文部
農林
商工
逓信
鉄道
拓務
内閣書記官長
法制局長官 犬養毅
吉沢謙吉
中橋徳五郎
高橋是清
荒木貞夫

大角岑生

鈴木喜三郎
鳩山一郎
山本悌二郎
前田米蔵
三土忠造
床次竹二郎
秦 豊助
森 恪
島田俊雄 斎藤実
内田康哉
山本達雄
高橋是清
荒木貞夫
林銑十郎 
岡田啓介
大角岑生
小山松吉
鳩山一郎
後藤文夫
中島久万吉
南 弘
三土忠造
永井柳太郎
柴田善三郎
堀切善次郎 岡田啓介
広田弘毅
後藤文夫
高橋是清
林銑十郎 

大角岑生

小原 直
松田源治
山崎達之輔
町田忠治
床次竹二郎
内田信也
児玉秀雄
吉田 茂
金森徳次郎
①第2次若槻内閣がリットン調査団報告で退陣し、犬養毅内閣発足
②五・一五事件(s7/5/15)で犬養毅が総理官邸で射殺され、斎藤実内閣発足
③帝人事件で斎藤内閣は総辞職し、岡田啓介内閣発足
④二・二六事件(s11.2.26)で岡田内閣は総辞職し、広田弘毅内閣発足
⑤二・二六事件で官邸が襲われるも、秘書を首相と見間違ったため、辛くも岡田首相は助かる。

 しかし斎藤実内相、高橋是清蔵相等が射殺された。
 また鈴木貫太郎侍従長も瀕死の重傷を受ける。
 この時助かった岡田啓介、鈴木貫太郎両氏は戦争終結論者で、彼等の活躍で昭和20年8月の終戦を迎えることができた。
 しかし日本軍の進攻の勢いは依然として止まず、深入りし過ぎていた。
 財政方面に於ける高橋の施策も積極策に転じていて、軍需インフレのきざしも当然やむか得なかったが、輸出ダンピングも、従来の息の詰まるような緊縮政策に伴う不況を一掃して、明るい気分を国民にもたらし、満洲国の建設が順調堅実に進捗しているとの朗報は、日本人全体が急に大国民に生長したかのような心強を持たせた。
 しかし日本国内と広漠たる満洲国との双方に亘って軍需産業の建設を強行したので、当然貿易の収支は急激に悪化を見るに至って、最後の段階ではこの無理が斎藤内閣の命を縮めた形になってしまった。
 第一、日本の財政を傾ける程にして後援して建国した満洲国の皇帝薄儀と日本軍との間に救うべからざる溝が出来、王道楽土の建設も失敗の様相を呈し始めた。
 国内に於ては数年前から続いていた農業恐慌は益々深刻さを増して来た。
 そして三土忠造鉄相と鳩山一郎文相に疑惑が掛けられた帝人事件が起こり斎藤内閣は退陣するに至った。
 しかし斎藤内閣が歴代の内閣の中でも立派な方であったことは、帝人事件がでっちあげであったことから明らかである。
 斎藤内閣は2年4ヶ月持続したが斎藤は重臣会議で、後継者として自分の信頼する海軍大将岡田啓助を推し、全員の賛成を得て安心して退いた。
 前閣僚も多数留任したが後藤文夫は内相として残った。
 軍部は一層強く政治に関与して来て、後藤を通じて殆ど内閣を己れの思うがままの干渉と注文をつけて来るようになったという。
 或は『我等の多年の夢の実現の日近ずけり』と図に乗らせたかも知れない。
 そしてそろそろその支度というムードを醸し出していたらしい。
 当時、陸軍部内には派閥があることは世間にも知れ渡っていたが、荒木貞夫、真崎甚三郎を中心とする皇道派と、永田鉄山、東条英機らを中心とする統制派との2つに割れての勢力争いが激化していたのだ。
 期する目標は両派とも大陸主義という領土拡大の点は共通だが、手段に於ては前者はいきなり天皇の親政と軍部独裁体制による方法に対し、後者は従来の政治体制を基礎に考えて、重臣、官僚、財閥の協力の上に天皇を置く方法で、勿論実権は軍部の掌中に握って、というのである。
 2派の勢力は時に従って消長を繰返して来ていたが、満洲事変の当初は皇道派が勢いを得ていたけれど、満洲国建設期に入ると共に統制派が軍の要職を多く占めるようになった。
 この両派の確執がハツキリと世間に暴露されたのは、昭和10年8月に陸軍省内で軍務局長の永田鉄山少将が斬殺された事件である。
 白昼、警備の厳重な陸軍省の役所へ押かけてこの凶行を演じたのは、青年将校相沢中佐で彼は皇道派だった。
 自派の領袖真崎甚三郎教育総監(二・二六事件の黒幕といわれている)が突然の罷免されたは、敵派の永田局長の差し金だと考えた怨みの刃であった。
 しかし実際は斎藤内閣時代に陸相が荒木貞夫から林銑十郎に代わり、林陸相が真崎を辞めさせたのだった。
 青年将校のうちには純真な憂国心から動いてるものも勿諭少くはなかったが、軍部独裁の考えは彼等の政治運動となり、この傾向は士官学校生にまで及んでいた。
 これを軍幹部や士官学校の幹事(当時少将だった東条英機)が心配して、軍及び士官学校を粛正するため多数の将校を退役させたり放校させたため、これが却って統制派軍首脳部への反感を深める結果になっていった。
 その中には二・二六事件を実行した村中大尉や磯部主計などもいて、復讐心を燃やしクーデターの決心に油を注いだ具合となった。
 そして第一師団を満洲に移駐することになったのを『我々を要注意と睨んで北満の荒野に追っ払うのだな』と邪推したので、それらが合体して満州へ移駐の前に決行となったのが二・二六事件であるといわれる。
 彼等の社会革新の理念によれば天皇親政と軍の独裁にあるのだから、重臣も財閥も官僚も無用のもの、むしろ最大の障碍と目しているのだからマ-クした人々が、まず国家の、陛下の側近の重臣級になったのは当然の結論であった。
 不幸なる日が来た。
 昭和11年2月25日の夜半から、牡丹雪が帝都の空を蔽っていた。
 その中を、野中中尉に引率された第一師団の兵隊が戦時武装で粛々と行進した。
 近衛師団からやその他からも出て来て一師団に合流した形になり、その後別れて四方に散って行った。
 すべて周到な計画のもとに行動されたようだが、果して末端の兵隊に至るまで重臣と大官を屠る出征と知って従ったのであろうか。
 彼等の携帯した趣意書には『内外重大危意の際、元老、重臣、財閥、軍閥、官僚、政党等の国体破壊の元兇を排除し、以て大義を正し、国体を擁護開顕せんとするにあり』とあり、このビラをまきながら歩いた。
 野中の主力部隊は総理官邸を襲い、永田町、霞ヶ関及び溜池一帯を占拠し、警視庁、参謀本部、内務省陸軍省を占領した。
 しかし岡田首相でなくて秘書の松尾の従兄弟が、よく似てるので本人と見まちがえられて殺され、あとで首相が現われるという悲惨中のユーモラスな場面もあった。
 興津の西園寺公は襲撃の寸前に情報を受け避難した。
 湯河原に滞在中の牧野前内府も夜中に襲撃を受け、護衛警官の勇敢な働きで危機を脱したが、警官の殉職は痛ましかった。
 高橋蔵相は自宅で重傷を負い間もなく死亡し、教育総監で真崎の後任の渡辺錠太郎大将も自宅でやられた。゛
 侍従長鈴木貫太郎大将(終戦時の首相)は官邸で瀕死の重傷を負った。
 そしてわが斎藤実も、26日未明、四谷の自邸の2階寝室で、一味の兇弾に、倒れたのである。
 5時を少し廻った頃であった。
 天に哭し地に叫んでも哀しみ足らぬ呪われた26日未明の真相は、影と形の如く生涯の最後までかたわらを離れず、そして自らも同じ兇弾を蒙った春子夫人より外、知る人はこの世にいない。
 しかも慎み深い夫人は、思っただけでも戦慄する痛恨の追憶などを、今まで誰にも語ったことがなかった。
 従って斎藤実の伝記は既に数多く出ているが、一つとしてその日のことを伝えているものがない。
 示し得なかったからである。
 空想で書いたものもあるが、そんな作りごとは却ってこの斎藤夫妻を冒涜し、後世の史家を惑わす行為でなくて何であろう。
 筆者はこの点を恐れるので、超人斎藤実臨終の真相を努めて正確に伝えるため、幸いに生存中の夫人を訪ねお願いしたところ、外ならぬ銅像復元の記念出版という点で快くご了承を得た次第である。
 この粗雑な冊子も次の一節によって、千金に価する遺言書となり得たことを読者は了解されたい。

5 斎藤夫人からの真相聞書  

 私どもは事件の前日の昼はメキシコ大使の親任状捧呈式後の宮中の午餐会に、2人ともお召しにあずかり、陛下のお隣の席を賜りまして、恐縮しながら、ご陪食にあずかったのでございました。
 食後のお茶の席で皇后さまが私に、大変有難たいお言葉(特に内大臣に任ぜられた為のおぼしめし)を親しく賜ったのでございました。
 帰りまして斎藤にそのことを話しましたら何度も『有難いことだ』とか『恐れ多い』などと申しまして、2人で感激しながら話し合ったことでございました。(内大臣就任は2ヶ月まえから)
 その晩はまた、米国大使ヨセフ・グルーさんから、御招待を受けて大使館に参り、大変なおもてなしを頂きました上、余興として当時はまだ珍しかったト-キー(音声付映画)を見せて貰いました。

斎藤春子夫人、昭和38年

 はじめは会話がよく判りませんでしたが、段々聞きとれるようにもなり、とても面白うございました。 
 斎藤も非常に喜びまして、つい長居いたして、いつもよりも帰宅が遅くなったくらいでした。
 11時頃でしたでしょうか、帰りましても『珍しいものを見せて貰った』といってト-キーの話を繰返えして申し、今夜はほんとうに愉快だったと、上機嫌で寝床に就いたのでした。
 外は大雪がボタボタ降り出していました。寝室は2階の奥にございました。
 朝、私どもは一旦4時に眼を醒ましました。
 何か外がふだんと違って騒がしいように思いましたが、まさか自分の邸の内外が恐ろしい兵隊達に、取り捲かれはじめていようなどとは、夢にも想像しませんでした。
 斎藤も別段気にもとめぬ風で、ただいつも私の寝床の方にもぐり込んでいる猫が、その晩に限って斎藤の方に寝ていたのを見つけまして、『ミイが珍らしく俺のところに来て寝ているよ』と、さも可愛げに呟くので私ものぞいて見たりして、またふせりました。
 5時少し前、外のただならぬ音響に夢を破られ、引続いての異様な騒がしさに私はベツトから体を起しました。
 がまだ、恐ろしいものがそこまで追っているとは気がつきませんで、不審げな顔でいる斎藤に『なあに、また戸袋のうちに鳩が巣を作りでもして、戸が明かず、それで騒いででもいるんでしょう』と、私は申しましたんです。
 以前そういうことがありまして、早朝から女中や書生たちが騒いでいたことがありましたものですから――。
 でも一体、下に何が起ったというのだろうと、私は寝台から立ったのでございました。
 寝室は2階にあり、南北に連なる各12畳敷の2間で、2つとも板の間でして、前後2部屋の中仕切は4枚だての唐紙で仕切ってあり、前部屋には箪司などの調度が片寄せてありましたが、そこを通って外仕切の板戸を開けて廊下に出るようになっており、つまり板戸2枚が出入口というわけでございます。
 廊下から直ぐに下へ降りる階段が続き、階下の廊下はずつと折廻しで書生部屋が途中にあったりして、茶の間と呼んでおります建物まで続いていたのでございます。
 その辺は自宅での裏口にあたります部分で、近くに土蔵もありまして、門を入って玄関などのある表側からは遠く奥に廻った方なのです。
 常に20人ほど警視庁から派遣されている警官の溜り、守衛所も少し離れてですが、その辺にもあったのです。
 その外、邸内のあちこちに分散して、常時40人ぐらいの警備の人がいつもいたのですけれど、当日は私共だけで、200人以上の兵隊が下の各建物を厳重に取囲んで、中にいる者に銃を突き付けて動けぬように全部してしまっていたのですから、やむを得なかったのです。
 暴徒は、表から裏へ廻って、その茶の間の雨戸を軽機関銃で打ち破って、その口から中へ入り込んだのでした。
 書生部屋では銃で書生を脅して2階の寝室に斎藤のいるのを確かめ、軍靴でガタガタ廊下伝いに上って来たのでした。
 私共が目を覚ました轟音は茶の間を破る音だったのです。
 寝台は洋式の脚のあるベッドで後の部屋に東を枕に2台並べてあり、一番奥が斎藤のものです。
 東の隅に鏡台があり、私共の脚の方の壁ぎわにストーブや猫のベッドなどがありました。
 寒い朝でしたし、真綿入りの厚い寝巻の襟元をかき合せながら、立って中仕切の唐紙を開けたまま、前の部屋をまっすぐに通って出入口に近寄りましたら、外にガタガタ乱暴な靴音がしたのです。
 ヒョイと開けましたら、イキナリ眼の前に、4人の兵隊が、つつ立っているじゃあありませんか。
 若い陸軍将校ばかりで、1人は抜身のサーベルを構え、1人は軽機関銃を突き付け、残りの2人は各々ピストルをかざしていました。
 『何しにいらしたんですか!』と私の口からそういう叫びが、飛び出ていました。
 恐ろしい者たちの侵入だと突差に気が付いたので、すぐ戸を閉めようとしましたら、私を押し退けてドヤドヤ中へ踏み込み、もう機関銃を打ち始めたのです。
 打ちながら奥へ進んだような具合でした。
 私の体は押されて後向きに倒れかかりましたが、中仕切と東壁との隅に置いてあった箪笥のあたりで、一瞬間気絶してしまいました。
 その時がピストルの第1弾を背中に受けたのだったらしいです。
 夢中でしたためかその時は大して痛くも思わず、すぐ気がついて斎藤の傍へ行こうと、奥の寝台のところまで戻りました時、兵隊はもう4人ともそこにいて、下の方を向けて機銃を打ち続けているのです。
 斎藤はと見ると、寝台の上にはなく下の床上に、あおむけの姿で横たわっています。
 駈け寄って斎藤に取りすがった時は、もう完全にこと切れておりましたのです。
 恐らく入口で私が高声を発したりしてました時、何ごとかと思って彼もベッドの傍に立上ったのでしようが、その姿が開けたままの中仕切の隙を通して侵入者の眼の前に真正面から見えたもので、構えていた銃の引金をすぐ引いたのでありましよう。
 多分最初の一弾が斎藤の額を射抜き、これが致命傷だったらしゅうございました。
 斎藤はベッドの上にでも倒れようとしたものやら、かがみ加減のまま下に転ろげ落ちた恰好で、いつも東枕で寝る人が、頭を西に足を東へ伸ばして倒れていたのです。
 足の先に見下す形で4人の兵隊が死体に対してT字型の位置に、一列横体(最初にサーベルを抜いた坂井とかいう中尉、次に機関銃をかまえた者、3番目と4番目はピストルを持った兵隊が)のように立っていました。
 私が双方の真中にしゃがんでいる形でした。
 すると全く身じろぎもせぬ斎藤に、まだ油断は出来ぬというのか、それともとどめをさすというつもりか、またもや機銃を構えて打ち出すではありませんか。
 私もあまりのことに腹が立ちまして、立ち上って、その銃身を掴んで叫びました。
 『そんなことをなすってはいけないぢやあありませんか』(筆者註、”死者に鞭うつ鬼畜の所業”との最高の侮蔑を放ったつもりであったらしいが、彼女の高い教養は、この床しい表現がせい一杯のものであったらしい。)
 すると、その若者は『何が悪いんだ!』といい、射撃を止めようとしません。
 私は銃身から手を放し彼ら4人の縦列の前に、もろ手を拡げて進み寄りました。
 その前後に第2弾のピストルを、右肱に受けたのです。
 私は既に覚悟を決めてしまってましたから、血がどっとほとばしり出ましたけれど痛くも何とも感じない位でした。
 銃を掴んだりの私を猪口才な女めとでも思ったんでしようか。
 ピストルでしたから横合の者が、打ったのです。私は彼らに詰め寄って申しました。
 『打つならこの私を打って下さい!』と。
 左右に大きく拡げたその左手めがけて、また第3弾が飛び、手首のあたりから血が噴き散りました。
 が、それっきりで彼らは暗殺成功を安心したのか、間もなく乱暴な足どりで引揚げて行きました。
 こう細かに説明いたしますと大変長い時間のようですけれど、全く、チョッとの間の出来ごとで、入口で私が出会いましてから彼らの立退きますまで、ものの5分とかかっていない瞬間の出来事だったんでございます。
 全く悪夢を見たような夜明けでございました。
 あとで検屍の際数えて見ましたら、斎藤の体の中の弾だけで48とかあったそうで、最初に致命傷を受けたらしいので、一言も物を申す暇もなしにこと切れたのでございました。
 何しろ機関銃のバラバラという弾丸でございますから、そこらじゅうが弾痕だらけでして、奥の部屋の隅に置いてあった鏡のガラスも、反対側の隅のストーブの辺にも床は申すに及ばず寝室の天井にも弾丸の跡があったのですから、彼らも余程度を失っていた様に察しられるのです。
 下を向けましたのは横たわっている死体の上から浴びせたので、それが床を打ち抜いて、階下の座敷の天井まで無数の穴をあけていた程ですから、滅茶苦茶に打ったと申してよろしいんですねえ。
 鏡のガラスの弾痕で美くしい模様が浮き上っていたのが、今も思い出されますですよ。
 私の負傷の順序にも、いささか正確を欠く点のありますのは、こちらも逆上ぎみでしたし、何ぶん刹那の出来ごとでございますから、ご了承下さいませ。
 しかし機関銃と挙銃との両方をもって来て、恐らくあらかじめ受持を分担してあったようで、私の受けましたのは挙銃の方ばかりでございました。
 下はどうなっているかと女中たちの身も案じられて降りて参りましたら、兵隊はみんな引揚げましてもまだ慄えている最中でしたが、そこへ血だらけの私の姿が現れたものですから一層の騒ぎと成りました。
 私はそれまで傷の方は一向に痛みを覚えなかった位に気を張っていたのですが、そこでやっと3ヶ所が痛み出した具合でした。
 幸いにいずれも弾が体に入っていませず貫通したのでした。
 背中の傷が一番大きうございましたけれどそれは真綿入の寝巻のおかげで、真綿が弾をくるんで喰止めてあったのでした。 左腕の傷跡には、ピストルの弾丸の中にこめてある紙片、このよじれがほどける力で弾が長い巨離を飛ぶんだそうですが、私が打たれました距離が近過ぎたために、ほどけずにその紙片の方が腕の肉に残ったので、後でこれが化膿して2回も高熱を出したりして、酷い目に遭いました。
 大槻博士にやっとその小さな紙片を後日とって頂きました。
 何しろ当初は両腕ともの負傷でして三角布で両方を吊ってましたから、着物を着るのも大変でお見舞客の前に出るのにも大弱り致しました。
 その日の未明大雪の降りしきる中、自宅のまわりを大勢の兵隊が往ったり来たりするのを、ご近所では演習だろうと少しも不審に思わず眺めていらした方もあったそうですけれど、無理もございませんでしたでしよう。
 何しろ自宅を取囲みました数だけでも200名以上の兵隊だったそうで、警備の方々を40人ぐらいは邸内のあちこちに分散していっもいてくれたのですけれど、どこもかしこも兵隊に取囲まれてしまってどうにもならなかったことが後で判ったのです。
 彼等の住居も邸の門の方にあったんですが、勿論、兵隊の重囲の中ですから、どちらからもどうしようもなかったんですが、その時の心細さったらありませんでした。
 誰一人手伝いに来てくれる者がなかったんですものねえ。
 暴徒らが屋内に上り込んだ茶の間というのは2部屋の建物でして、女中たちの住居に当ててあったのでした。
 手前の部屋にも陰の部屋にも寝ていたところを、外からイキナリ銃撃されて、弾道が蒲団の表に、焼け焦げの筋を引いてあった具合でしたが、弾が真向の壁を打ち抜き、なお壁裏にある次の部屋の押入まで突き抜けてありました程で、恐ろしい偉力をもつものと驚きましたが、怪我がなかったのは幸いでした。
 寝ていた者が驚いて蒲団から首でも出していたら大変な事になったわけでした。
 4人の暴徒の名前は今も忘れず覚えております。
 坂井という中尉が頭分でやって来たのでしたが、サーベルの男がそれだったようです。
 後で考えますと残念でなりませんが、実は2日程前に内閣書記官長の柴田さんからご注意がございまして、どうもこの頃危っかしい空気が濃くなって来てる様に思えるから、内大臣官邸の方にお住いなさっては、とおっしやって下さったのでした。
 そちらの方が四谷の自宅より警備のご都合がいいというのらしかったのですが、住み慣れた四谷の方が便利でもありますし、まさかそれ程の陰謀が行なわれていようとは、私には思われませんでしたので――。
 何しろ私は至って迂潤な方ですし、世の中がそれ程険悪になってる事などはっきりどなたも教えて下さる方もなかったものですから、つい申訳ない結果をし出かしてしまったんでございます。
 でもああいう周到な計画を前々からたてて、ああいう暴力でやって来られたんでは、恐らく官邸の方へ引移っていたと致しましても、無事に済まし得ましたでしようかねえ――。
 とにかく日本の国にとって呪われた時代の始まる第一歩の不幸な朝だったと、今でも忘れようとしても忘れ得られぬ生涯の哀しい思い出でございます。

二・二六事件で機銃射撃された斎藤実元首相
(斎藤実追想録 樋口正文編 斎藤実銅像復元会刊行 昭和38年刊 p218-241)
1 大陸に吹きすさぶ嵐
2 再び朝鮮総督に就任
3 祖国日本の変容
4 組閣から二・二六事件まで
5 斎藤夫人からの真相聞書 斎藤実(まこと)経歴
安政5(1858)年 岩手県水沢に生まれる
明治10年 海軍兵学校卒、海軍軍人となり昇進
明治39~大正3年の第1次西園寺、第2次桂、第2次西園寺、第3次桂、第1次山本内閣の海軍大臣
大正8年 朝鮮総監、在任中ジュネーブ軍縮会議へ
昭和7年 総理大臣就任
昭和9年 帝人事件で内閣総辞職
昭和10年12月 右大臣
昭和11(1936)年2月 二・二六事件で自宅で銃殺される。享年78歳

右:昭和38年に故郷水沢市に斎藤実の銅像が復元された。その時に銅像復元会から刊行された”斎藤実追想録”の表紙で、写真は水沢公園に現存する銅像。

著者 北山敏和
1940年奈良県五條市生れ
1959年県立五條高校卒、1963年大阪大学工学部卒→国鉄勤務、 
鉄道車両の設計開発、外国の鉄道技術協力(JICAチリ国鉄派遣等)に従事、その間1977年井深賞受賞、1979年オーム賞受章、
1987年民営化で国鉄退職後、東急車両(工場長:土岐実光:S20東工大卒後国鉄工作局)
(記事引用)


放課後ホンネの日本史
第8章 教科書が教えない軍人伝 第69回 斎藤実
 岩手県水沢市は、日本史上に名前を残す人物を数多く輩出しています。幕末の蘭学者・高野長英、東京市長などを歴任した後藤新平、戦後、日韓国交樹立に尽力した椎名悦三郎、そして、海軍出身の政治家として活躍した斎藤実(1858~1936)がいます。

 斎藤は安政5(1857)年、藩士の家に生まれました。自ら私塾を開いていた教育熱心な父の下で斎藤は成長しました。一歳年上の後藤とは幼なじみでした。斎藤は、明治6(1873)年、海軍兵学寮(後の海軍兵学校)予科に合格し、海軍軍人としての道を歩み始めました。
 
 明治10 年、初代アメリカ公使館付武官を皮切りに、4年に及ぶ海外在勤生活を経験しました。その間、薩長藩閥政治家と交流を深め、その資質を見いだされました。

 日清戦争時に、広島におかれた大本営で、侍従武官として明治天皇にお仕えした斎藤は、大佐になって間もない明治31年に、40 歳の若さで、山本権兵衛海軍大臣の下、次官に大抜擢されました。7年以上の長期にわたり、その職を全うし、その間、日露戦争を舞台裏から支えました。

 明治39年、第1次西園寺公望内閣が成立 すると、斎藤は海相として入閣しました。今度は8年以上もの間、5つの内閣で大臣を務めました。斎藤の実力もさることながら、その人柄が、長期にわたって海軍のトップに立つことができた理由でしょう。
 
しかし、大正3(1914)年、海軍高官の汚職事件(シーメンス事件)の余波を受けて、斎藤は予備役に編入されてしまいました。

 さて、大正8年3月1日、2日後に行われる元大韓帝国皇帝高宗の国葬のために、朝鮮各地から多くの人が京城(現在のソウル)に集まっていました。このタイミングを狙って、キリスト教、天道教(東学党の流れを汲む宗教結社)などの代表者が独立宣言を発表し、これが朝鮮全域に広がって、民族主義的大暴動となりました。いわ ゆる三一運動(万歳事件)です。

 その直後の困難な時期に、朝鮮総督に就任したのが斎藤でした。
 彼は寺内正毅初代総督以来のいわゆる武断政治を文治政治に転換したのですが、この大功績は教科書には登場しません。
 斎藤は、警察制度を憲兵警察から文民警察に改め、非常に制限された範囲ではありました が、選挙で地方議会議員を選ぶ制度を創設しました。また、朝鮮教育令を改正して、第6番目の帝国大学、京城帝国大学を設立しました。これは、大阪大学、名古屋大学よりも早い設立でした。

 昭和6(1931)年に朝鮮総督を辞任した斎藤は、翌年、5.15 事件で倒れた犬養毅内閣の後を受けて、挙国一致内閣を組織しました。
 教科書は斎藤が軍人だからというだけで批判しますが、当時の国民やマスコミが政党内閣よりも、彼を大歓迎したことを無視しています。
 
 満州事変の後始末に奔走した斎藤でしたが、「帝人事件」のために辞職しました。この事件は、「斎藤降ろし」の陰謀だという説もあります。
 その後昭和8年12月に、内大臣に任命さ れた斎藤でしたが、翌年の2.26事件で反乱軍将校に殺害されました。「革新政治」を目指した青年将校にとって、国民に人気のある穏健思想の持ち主は、最も邪魔な存在だったのです。

果てしなく続くのか?スペインの「無政府」状態 
 バルセロナにて 童子丸開 童子丸開2016年2月8日
 昨年12月20日に行われたスペイン総選挙の結果は当サイト『カオス化するスペイン政局』にある。その後、当サイト『暴走するカタルーニャとスペイン:ドタバタ迷走の果てにドンデン返し』で詳しく説明したように、1月10日に独立を目指す新州政府の体制が作られた。この事態にマドリッドでは、国家分裂を防ぐために国民党と社会労働党による「左右大連合」実現に向かう以外に方向性は無いと、多くの者が考えた。しかしそこには思わぬ事態が待ち構えていた。
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 昨年12月20日の総選挙の結果を確認したい。スペイン議会下院の定数は350で過半数は175議席。2011年以来ラホイ政権を支えた国民党は123議席。社会労働党が90議席。新興勢力で左派のポデモス(同系列の諸党派を含む)は69議席、右派のシウダダノスは40議席。その他、カタルーニャ民族主義左派ERCが9議席、同右派のDILが8議席。またバスク民族主義右派のPNVが6議席、同左派のEH・Bilduが2議席、全国区で左派の統一左翼党が2議席、カナリア地方主義のCCaが1議席。

 首班指名には出席議員の過半数の支持を受ける必要がある。全員出席の下であれば単独で政権を取る政党は無い。右派の国民党とシウダダノスが連立しても163議席、また左派の社会労働党・ポデモス・統一左翼党がまとまっても161議席にしかならない。一方で、左右のカタルーニャ民族主義政党とカタルーニャ独立運動を支持するEH・Bilduが国民党・シウダダノス・社会労働党と共闘する可能性はほぼゼロに等しい。それらが少数民族独立運動に敵対しているからである。

 仮に、カタルーニャ独立阻止だけを共通項にして第1党の国民党と第2党の社会労働党が「大連合」を組み、そこにシウダダノスが加われば、圧倒的多数で国民党党首のマリアノ・ラホイが首相に再任される。そうすれば少なくともカタルーニャ独立運動に対しては強力に対処できる。しかしその場合、それ以外の多くの案件で「与党」内と閣僚同士に厳しい対立が起こるだろう。国民党とシウダダノスが支持する政策案は、他の党がこぞって反対すれば成立しない。社会労働党とポデモスが提案する政策案は、民族主義政党の賛成が無い限り、国民党とシウダダノスの反対によって廃案になる。一方で予算案などを政府内でまとめる作業は困難を極める。こうして国会と政府の運営は極めて難しくなるだろう。

 他の可能性として、国民党とシウダダノスが連合を組み(163人)、首班指名の議会で社会労働党が欠席すれば、出席議員(260人)の過半数を得ることができる。全員欠席でなくても社会労働党院の25人の欠席で十分なのだ。これは早くから社会労働党の元首相フェリペ・ゴンサレスあたりが画策していた手だ。ただしこの場合には社会労働党内で深刻な対立が起こり党の存在自体が危うくなるだろう。また、仮にこの手で無理やりに政府を成立させたとしても、やはり多くの法案の成立が困難になり国会がほとんど機能しなくなる可能性が高い。 

 こういったことから、国民党、社会労働党、シウダダノスの中に、新しい議会ですぐに解散動議を出して再選挙すべきだという声すら出てきた。しかしいくつかの世論調査によると、仮に再選挙となる場合には各党で多少の変動があっても決定的な変化は起こりそうにもない。特に2月初めに公表されたCIS(国立統計局)による世論調査 は、国民党にはほぼ変動が無く、社会労働党がやや減りポデモスがやや増えて支持率の上では第2勢力になる、シウダダノスはやや支持を落とす程度である、という予想を明らかにした。もしその通りなら、たとえ再選挙になってもいまと同じ状態が続くことになるだろう。

 もし3月後半の期限まで新政府が決まらなければ、12月20日の選挙で選ばれた議会は解散を余儀なくされ、6月の末ごろまでに再選挙がおこなわれる。すると、どう早くても7月いっぱいまでは国会も政府もほとんど機能しない。さらに、その選挙でも今と同じような状態が続くのなら、もう延々と果てしなく、国家としての動きが止まったままになる。

 このような「八方ふさがり」を絵に描いたような状態がスペインで続いている。いまのところ、ラホイ国民党が「暫定政権」として一応の政府の形をとり事務的な対応だけは続けているのだが、立法府も行政府も機能を停止させ何の政策も打ち出すことはできない。これに最も神経をとがらせているのがブリュッセルであることは言うまでもない。不安定な経済問題をはじめ、難民、中東政策、対ロシア政策などの非常に困難な問題を抱える中で、EU第5の経済規模を持つ国がいつ終わるとも知れない「全身麻痺状態」に陥っているうえに、重要な国の重要な一部がはがれ落ち分離しようとしているのだ。


《「鬼の居ぬ間」に着々と進む「カタルーニャ独立」準備》  小見出し一覧に戻る 

 1月10日にカタルーニャで独立作業を進める新州政府が誕生した。いまカタルーニャでは、「無政府」状態で身動きの取れないマドリッド中央政局を横目に見ながら、プッチダモン州知事を先頭に、法的な整備と税制などの行政面で、着々とスペインからの分離作業が進められている。こちらにしたところでもはや引き返すことが不可能なのだ。どうせもうシェンゲン条約が実質「棚上げ」状態になってEU自体が解体の方向に進路を向けつつあり、さらにユーロ圏崩壊の危機すら噂される状態になっているのである。この大混乱の状況で、「カタルーニャ独立」にとって千歳一隅のチャンスが訪れているのかもしれない。

 もちろんカタルーニャでのこのような動きに対して法務当局が盛んにけん制をかけているし、税金の問題や地方に配分される政府資金を巡る財政面でのにらみ合いも続いている。しかしいかんせん、議会と中央政府の機能がストップしている状態では強力な対抗策が打ち出せない。せいぜいカタルーニャの象徴であるFCバルセロナに対する嫌がらせを続ける程度だろう。

 もちろん法務当局独自の判断で、国家警察やグアルディアシビル(内務省所属の国内治安部隊)による、州政府幹部の一斉逮捕などの劇的な事態も起こりうる。しかしそうなれば、もう理屈も何も無く、今まで独立に反対していたカタルーニャ州民までが反マドリッドで動き始める可能性が高いだろう。スペインの中には未だフランコ独裁政権時代の強権支配の悪夢に対する強烈なアレルギーが生きているのだ。これでは本当に泥沼にはまってしまい、もはや解決の道がどこにもなくなる。

 結局は、スペインに中央政府が作られ強力な政治的能力を発揮しない限り、カタルーニャはこのまま分離の方向に突っ走るだろう。それが、良いことなのか、悪いことなのかは、別にして…。

《「左右大連合」に冷や水を浴びせる司法当局》  小見出し一覧に戻る 

 政策協定次第で出来る限り各党間の齟齬を防ぎ、ともかく国家分裂の危機回避を最優先課題にしようとする動きが、社会労働党の中で12月中から起こっていた。カタルーニャ独立とポデモスを嫌悪する元首相のフェリペ・ゴンサレスを筆頭とする党の長老たちが、国民党政権の継続を認めるように党首ペドロ・サンチェスに対して圧力をかけていたのである。ゴンサレスは、やはり元首相で国民党長老のホセ・マリア・アスナールと気脈を通じ、国家の分裂とポデモスの台頭を全力で防ごうとしているのだ。ラホイ国民党政権打倒を叫び続けたサンチェスとしてはそう簡単に「はい」とは言えないにしても、1月の初旬には《ラホイ抜き》なら「大連合」に応じてもよい そぶりを見せた。

 そして1月10日のカタルーニャ州新体制確立が「大連合」を一気に加速させるかに思えた。実際、議会で議長に任命された社会労働党のパッチ・ロペスが調停役になり、社会労働党とシウダダノスと国民党の間を取り持つ動きを始めていたのである。サンチェスはカタルーニャでの住民投票合法化とその実施を主張するポデモスとの左翼連立を拒否する姿勢を見せた。しかしその動きに水を差したのが、国民党の政治腐敗を追及する裁判所の判事局と検察庁だったのだ。

 1月11日に、元バレアレス州知事ジャウマ・マタス(国民党)とクリスチーナ王女夫妻を被告人に含むノース事件(参照当サイト記事)の裁判が開始し、スペイン史上初めて王族が被告席に座った。しかしこれは予定通りのものだから政局にはさほどの影響は無い。また1月12日には、元セゴビアの国民党議員で外交官のグスタボ・デ・アリステギと現職国民党議員ゴメス・デ・ラ・セレナによる不正な企業献金の収入と脱税の本格的な捜査が開始された。ただこれもまた昨年中に知られていたものであり、さほど大きな影響はなかった。

 続く13日に「バンキア銀行不透明カード事件(参照当サイト記事)」の裁判が開始された。TVニュースで全国一斉に報道されたその様子は、微妙な状態にある政局を揺り動かす力を持つ。そのあまりに破廉恥な内容と同時に、国民党の元幹部でアスナール政権副首相兼経済大臣、IMFの理事長まで務めたロドリゴ・ラトの惨めな姿が、再び国民の前に曝されることになったからだ。そしてもっと続く。 

 1月18日に「国民党裏帳簿事件」(参照当サイト記事 )の裁判が行われているマドリッド地方裁判所は、悪事の証拠と記録するハードディスクが破壊されたコンピューターについての18の証拠を示して、国民党による証拠隠滅の本格的な捜査を宣言した。この事件は、長年にわたる国民党の不正経理とラホイを含む大半の党幹部の違法な収入・脱税に関するもので、元国民党会計係のルイス・バルセナスがその詳細を国民党本部の2台のコンピューターに記録したと証言していたものだ。

 ラホイはすぐにそれについては何も知らないと語ったが、裁判所判事は国民党とその会計係を証拠隠滅の容疑で取り調べる決定をした。党の犯罪を一人で背負わされた形のバルセナスは、2月になって、そのコンピューターが党書記長のマリア・ドゥローレス・デ・コスペダルによって破壊された可能性を示唆した。党No.2のコスペダルはバルセナスを「嘘つきの恥知らず」と非難したが、今後もし取り調べがコスペダルに、そしてラホイにまで及ぶなら、国民党は存亡の危機に立たされるだろう。

 さらに同じ1月18日には、検察庁反腐敗委員会と全国管区裁判所の命令を受けたグアルディアシビルが、スペイン農業環境省の契約企業であるアクアメッド(Acuamed)や大手建設会社FCCの関係者など13人を逮捕し20数人を取り調べた。容疑は、国民党政権下の農業環境省からの水利施設工事受注に対する不正行為である。22日には副首相ソラヤ・サエンス・デ・サンタマリアの腹心でアクアメッドと農業省との会議を取り仕切っていた首相府次官のフェデリコ・ラモス・デ・アルマスが辞任した。彼がこの不正を知っていたことは明らかだろうが、この事件の全容は今から徐々に明らかにされるはずだ。この件に関して担当判事は、国民党の大物、ミゲル・アリアス・カニェテス前農業大臣(現EU環境担当委員)が事件当時(2014年3月)に不正受注に関与したと判断して捜査を進めている。

 このアクアメッド事件で、それらの企業がバレンシアやカタルーニャなどの地中海岸での水利事業で2億2700万ユーロ(約296億円)を公金からだまし取った と言われている。それは、こちらの当サイト記事に他の実例が書かれているが、公共事業の入札の際に低価格で請け負っておいて後から「実はこれだけかかった」と高額の請求書を送るという手口である。スペインではよくある話で、検察庁と裁判所はラホイ政権が絡む悪事を徹底的に暴きだしていく予定である。これらの一連の政治腐敗追及が、国民党との同盟関係を作ろうとしていたシウダダノスにショックを与えたことは言うまでも無い。しかしもっと大きな衝撃が起こっていたのだ。

《バレンシア国民党の「解体」と暗礁に乗り上げた「大連合構想」》  小見出し一覧に戻る 

 バレンシアはいままで、地方ボスによる好き放題の公金略奪、国民党と中央政府や官庁との太いパイプを利用する政治・経済の腐敗構造が、スペインで最も重厚に根付いていた場所である。言い出せばきりが無いのだが、当サイトから実例としてこちらの記事、こちの記事、こちらの記事にあるもので十分だろう。

 先ほどのアクアメッド事件が暴露されてほどなく、1月26日にバレンシア国民党のベテラン政治家24人が、グアルディアシビルによって一斉に逮捕された。これは検察庁反腐敗委員会の命令で行われたもので、逮捕者全員に公共事業受注の際に不正な収入を得た容疑がかけられている。検察庁は、長年「女帝」としてバレンシアに君臨し中央政界にも大きな影響力を持つリタ・バルベラーに照準を合わせているのだ。(バルベラーについては当サイトのこちらの記事を参照。)

 これは、カタルーニャでジョルディ・プジョルと長年与党として州政府を動かし続けた政党CiU(集中と統一)を崩壊に追いやった「3%事件」(参照当サイト記事)と似ている。公共事業を請け負った企業から国民党に対して請負金額の3%が「献金」として支払われるという、典型的なキックバックだ。しかし州や市町村の議員が個人的にカネを受け取っていたカタルーニャとは異なり、バレンシアでは個人の他に国民党が組織として関与していた。バレンシア国民党は架空の献金で収入を誤魔化して裏帳簿を作り、選挙などの党活動の資金をひねり出していたのである。検察庁はその闇資金ネットワークの中心にバルベラーがいるとにらんでいるのだ。

 古参の幹部を根こそぎはぎ取られた形のバレンシア国民党では、残された若手党員たちが憤懣やるかたない日々を送っている。2月2日にはバレンシア国民党の委員長であるイサベル・ボニッチらの現幹部が、同党の根本的な改造を目指して、党名を変えマドリッドの国民党本部からの独立性を高める意向を明らかにした。党の伝統的な腐敗体質のために、昨年の統一地方選挙(参照当サイト記事)でバレンシア州議会およびバレンシア市を含む大小の自治体で政権を失った若い党員たちの怒りが爆発したのだ。

 このように、国民党を巡る政治腐敗暴露の大嵐が今年に入ってスペイン中で吹き荒れている。ノース事件裁判、バンキア不透明カード事件裁判、「国民党裏帳簿事件」の証拠隠滅、アクアメッド事件、そしてバレンシア「3%事件」と「裏帳簿事件」…。もし今後も引き続いて国民党による政治経済の腐敗が明らかにされていくことになれば、おそらく国民党は今までの形での存在を許されなくなるだろう。支持者を失うことはもちろん、バレンシアで起こっているような若手党員の「反乱」が各地で起こり収拾がつかなくなる。

 このような事態に慌てふためいたのがシウダダノス党首のアルベール・リベラである。彼は国民党との連合政権を目指して、社会労働党の参加あるいは首班指名時の「協力」を期待していたのだ。しかしこの状態ではうかつに国民党との政策協定を云々できない。この党は「政治腐敗の一掃」を掲げて選挙戦を戦ったのである。

 当の国民党党首マリアノ・ラホイは、他の党の協力を得ることが不可能と見て、首班指名に名乗りを上げない態度を明らかにした。たとえ再選挙になっても、選挙までに党勢を立て直すことが可能だと考えているのだろう。というか、他に選択の余地が無いのだ。こうして、国民党、シウダダノス、社会労働党の「大連合構想」は暗礁に乗り上げてしまった。

《功を奏するか?国民党「待ち」の作戦》  小見出し一覧に戻る 

 アルベール・リベラは、社会労働党の党首ペドロ・サンチェスを首相候補にしてシウダダノスがそれと組み国民党に「協力」を求める道を探り始めた。端的には首班指名時の国民党の欠席である。もちろん曲がりなりにも第1党の国民党がそれに応じるわけも無い。ラホイの、自分から先に動き出さない「待ち」の態度には党内でも批判の声が挙がっているが、なぜかラホイは余裕しゃくしゃくに見える。

 困ったのは社会労働党の一部も同様で、表だって国民党政権への協力を語ることが不可能になった。この状況を見て、あくまで「改革派政権」を目指す党首のサンチェスは、ラホイの首班指名からの撤退を見届けたうえで、ここぞとばかりに国王の推薦を受けて自分が首班指名に応じることを公言し、シウダダノスやポデモスとの同盟工作を開始した。サンチェスは交渉をまとめてこの3党が同盟を結ぶに至るまでに1か月以上の期間を見込んでいる。

 サンチェスは国民党に対して、社会労働党を中心にする3党あるいは2党の連立に協力せよと、端的にいえば首班指名の際に欠席して「改革派政権」樹立を可能にせよと求めた。もちろん国民党がそんな要求を飲むはずもなく、ラホイは一切の協力を拒否した。駆け引きの術には一日の長がある国民党は、首班指名を避けることでサンチェスを先に動かし、社会労働党が失敗するのをじっと待っているのだ。

 社会労働党とシウダダノスでは政治腐敗と失業問題を最優先課題とする共通の目標でかろうじて一致できるかもしれない。しかし税制の改革や雇用政策の具体案、国民党によって改悪された教育法や「さるぐつわ法(当サイトこちらの記事)」の廃止、憲法改革案(社会労働党は連邦制を目指す)などの重要課題で大きな差がある。社会労働党とポデモスでは、多くの点で一致できても、国際関係や地方自治権の問題では決定的な相違がある。特に、各地方の「自己決定権」と住民投票の合法化を主張するポデモスの方針は、カタルーニャ独立の承認にもつながりかねない。これは社会労働党にとって絶対に認められないところだろう。

 ポデモス党首のパブロ・イグレシアスは、社会労働党がシウダダノスと手を切る場合にのみ交渉に応じると伝えた。シウダダノスのリベラ、ポデモスのイグレシアスとの会談を終えたサンチェスは、自分を首相候補として首班指名に臨むことが非常に困難であると認めた。しかし2月9日になってサンチェスは、労働改革や教育法改革など両党がともに受け入れやすい「最小限綱領」に絞った交渉条件を示し、合意へ向けた「手ごたえ」を感じている。ただ社会労働党内部でアンチ‐ポデモス勢力が相当に強いため、社会労働党内部を割らずにこの「改革派政府」が誕生できるかどうか、微妙なところだ。

 一方で国民党ラホイは、社会労働党がポデモスとだけは結びつかないようにカタルーニャ問題を利用してけん制し、その一方で社会労働党とシウタダノスにやんわりと「大連合」の可能性を ほのめかしている。サンチェスの首班指名が失敗すれば社会労働党内でサンチェスの責任を問う声が一気に盛り上がるだろう。その機を狙って期限ギリギリのタイミングで首班指名に臨み、シウダダノスと社会労働者党(少なくとも一部)を取り込んで一気に逆転、大臣の座をいくつか譲ってでも、ラホイ政権の延命を図ることができるかもしれない。  

《今後のシナリオは?》  小見出し一覧に戻る 

 いまのところだが、今後1~2か月の間に裁判所や検察庁がこれ以上のショッキングな政治腐敗での逮捕や取り調べを行わないのなら、国民党の「待ち」の作戦が功を奏する可能性が高いように思われる。その場合、社会労働党は一気にその政治的立場と有権者の支持を失うだろう。また政府の機能が回復され次第、独立の実現に向けて突っ走るカタルーニャ州政府との激しい攻防が繰り広げられよう。

 また現在、IBEX(スペインの株式市場)上場企業の間で、機能不全に陥っている国民党に圧力をかけて政権から手を引かせ、社会労働党とシウダダノスを中心にする政府を誕生させようとする動きが起こっているようだ。基本的に反資本主義のポデモスはともかくとして、大企業主としては、様々な伝統的しがらみを持つ国民党よりもこの二つの方が、特に新しいリベラル政党シウダダノスの方が、思い通りに操りやすいのかもしれない。どの党派も所詮はその「パトロン」の手の内にある。どのみち国会での法案審議の主導権を執るのは国民党なのだ。

 ここでカギを握るのはやはり裁判所と検察庁だろう。もし近いうちにバレンシアのリタ・バルベラーや元農業大臣のカニェテスが逮捕される、国民党No.2のコスペダルが逮捕あるいは判事の審問を受け、それにラホイまでが連なる、さらに新たな大型政治腐敗事件が告発される、等々、という事態が起こるなら…。仮定の話だが、起こる可能性はかなり高いだろう。それが首班指名の期限である3月末までにあれば、いくら待ってもラホイの政権はもはや成立不可能になる。

 それに関連するもう一つの不安定要素が国民党内部での変化である。先ほどのバレンシアの例もあるが、国民党内部で古参の幹部を切り捨てて刷新を図る動きが水面下で起こっているようだ。特に現ガリシア州知事のヌニェス・フェイホオが党改革の中心となるだろうと噂される。もし国民党が、ちょうどカタルーニャでアルトゥール・マスを引き下げたように、「腐敗の象徴」と化したラホイやコスペダルなどの現執行部を引き下げ「新しい顔」で臨むなら、サンチェスによる社会労働党中心の政権作りが失敗した後に新しい形で「大連合政権」が可能かもしれない。

 しかし、もしそういったあらゆる政権作りが失敗すれば、国家の「全身麻痺」と「分裂の危機」が延々と続き、カタルーニャ独立準備の作業だけが着々と進むことになるかもしれない。昔なら軍事クーデターが起こっただろうが、EUの機構の中でそれは不可能だ。もし軍による不穏な動きがあればブリュッセルの大規模な干渉が行われるだろう。しかし逆に、もしEU委員会にその力と決断力すら無いのなら、スペインの政情不安がEUの崩壊を開始させるだろう。

 議会と政府の機能停止状態の間に、ヨーロッパ全体の情勢に深刻な事態が訪れなければ幸いである。リーマンショック並みの経済危機、あるいは難民・テロ問題による重大な政治危機がヨーロッパを覆えば、政治的決定力を失っている国家にそれらへの対応力はあるまい。「ゾンビ国家」として(参照当サイト記事)何とか姿だけを保っているこの国が本格的に壊死・解体してしまう。それはEU全体に壊滅的な悪影響を与えるだろう。私としてはひたすらそんなことが起こらないように祈るしかない。

 当サイトのこちらの記事やこちらの記事でも書いた通りなのだが、私はこの何年間かに見られるスペインの裁判所や検察庁のような司法機関の動き、マスコミの政治報道、そしてカタルーニャ独立運動の進み具合について、胡散臭い不自然さを感じてきた。特に選挙期間や首班指名の期間に合わせて、選挙や政局の動きに直接に重大な影響を与える事件捜査と逮捕が、予め計ったように着々と実行されるのだ(参照当サイト記事)。そのようなシナリオを実現させる何らかの巨大な力があるのだろうか? もしそういったものがあるとして、一つだけ確実に言えることは、それが冷戦期のヨーロッパに合わせて作られた「78年体制(参照当サイト記事)」の廃棄を望んでいる、ということである。


《その一方で棄て置かれる国民経済と生活》 小見出し一覧に戻る

 そんなゴタゴタの一方で、実質的な国民の経済と生活は棄て置かれる。ただでさえスペインは、国内総生産の99.82%に上る約1兆680億ユーロ(約139兆円)もの公的債務を抱え、それが増えこそすれ一向に減る気配を見せないような国だ。借金によって破綻した経済の実態を新たな借金によって覆い隠す体質から脱することは、少なくとも短期・中期的には不可能だろう。これでも何とか回っているうちは良いのだが、いったんつまずいたら国民の生活は一気に地獄状態に陥る。 

 今年1月初めに公表された労働雇用省のデータによれば、2015年12月時点でスペインの失業者は前年より35万4千人減って409万人になり、また1年間に新たな53万3千の雇用が作り出された。それでもまだ失業率は20.9%であり、25歳未満の若年層失業率は46%に上っている。ただしこの失業の減少は12月のクリスマス・年末商戦によるものが大きく、1月の統計ではすでに失業が5万7千増え、企業が社会保険の支払いを行う正式な雇用の20万件以上が失われた。つまり、雇用されていても社会保険を払えない不安定な短期雇用に回される者が急増していることを意味する。

 昨年中に増えた雇用にしても、その92%が短期雇用に他ならない。スペインでは社会保険の支払いの中に年金の積み立て分が含まれており、社会保険の支払いができなければ、いまの健康保険はもとより、将来の年金額すら保証されなくなる。さらに、1年以上の長期の失業者が300万人近くにも上り失業者全体の60%を占めている。しかもその多くが45歳以上の、本来なら家族の生活を支えるべき家長なのだ。

 筆者の知っている人々の中にもそんな例が複数ある。政府からの月額400ユーロ(約5万3千円)ほどの補助金と、自分の父親や母親が受け取っている年金を少し分けてもらう、妻や子供たちが短期雇用の仕事を見つけてわずかに家計の足しにする、などで、最近再び上昇し始めた家賃を何とか払いながら、文字通り爪に火をともす生活を送っている。そんな不安定な生き方しかできない人が2011年以降急激に増えており、これで再び景気の悪化が始まればまともに生活できなくなる人が激増するだろう。

 またこれは世界的な傾向だが、貧富の差が所謂「経済危機」が始まって以来急激に拡大している。OECDの統計によれば、2007年から2014年の間にヨーロッパの中で、スペインはキプロスに次いで経済格差が激しい国だ。同じように破滅的な危機状態にあるポルトガルやアイルランドが逆に格差を縮めつつある中で、スペインは大陸ヨーロッパのどこよりも貧富の差が拡大している。Oxfamによれば、この7年の間にスペインでの格差の拡大は、ギリシャでのそれの14倍にも上る。2014年の段階で、上から10%にいる人々がスペインの富の58%を所有している。そしてその格差は年々激しくなってきている。2015年にスペインの上位200人の収入は前年比で16%も増えているのである。

 バルセロナでは貧しい地域と豊かな地域の生活の格差(参照当サイト記事)がますます広がりつつある。高級住宅街であるパドラルバス地区に住む家族の平均収入は、最も貧しい地区トゥリニタッ・ノバのそれの7.2倍である。これはもちろんその地区に住む家庭の平均だから、個々の例を見ればその格差ははるかに激しいものになる。マドリッドでも同じように住宅地区による格差が拡大しつつある。各都市で、いずれは貧民窟と高級住宅地に二分化されるのではないかと恐れざるを得ない。

 これは「経済の危機」というよりは、人間とその社会そのものが直面する危機だろう。マスコミが「温暖化」とか「ロシアの脅威」などで危機を適当に誤魔化していても、目の前で進行し自分の身に降りかかる危機を誤魔化すことはできない。私は以前に、スペインの国家的な死と「腐肉」を取り除いたうえでの「解体処分」を予告した(参照当サイト記事)。どうやらスペインにいる地域密着型の伝統的な保守政治家は取り除かれるべき「腐肉」の一部であるようだ。この1~2年でスペインとカタルーニャがどのように変化するのか、今の状態では確実なことが予想できない。しかしどうなったとしても、我々はその中で、生きることのできる限り生きていかねばならないのだ。(記事引用)

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