Galapagos Japas

国際政治と日本の古代政治変遷歴史 明治維新など特に集中して書いている

2016年02月

アベノミクスとリスク・オン経済

アベノミクスとリスク・オン経済
【講演レポート】教養講座「松元崇氏」講演要旨
崇城大学2015年06月29日 松元崇氏講演要旨2015年6月12日 
私は、13年前の熊本県の企画開発部長。昨年1月まで内閣府事務次官を務め、アベノミクス立ち上げの手伝いをした。
きょうは3つお話しする。①ベルリンの壁崩壊の1989年以降、世界は大きく変化した。それまでは資金不足、インフレを心配していたが、カネ余りでデフレを心配する時代になった。②リーマン・ショック後、他の国は金融緩和を行ったが、日本はやらなかった。それをやって、デフレから脱却し、景気をよくしようというのがアベノミクスの第1の矢。③企業が活動しにくくなっている現状を改め、経済を活性化して国民生活を向上させるのがアベノミクスの成長戦略の基本。
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まず、現在の経済状況を御覧いただくと、実質GDP(国内総生産)などいずれも大変に良くなっている。15年間、デフレが続いていた時代、日本の世界におけるGDPシェアは14%から8.2%に41.2%ポイントもダウンした。ヨーロッパが12.5%ポイントダウン、米国が19.6%ポイントダウンに比べて倍以上だ。Japan passing、Japan nothing、(日本経済の)空洞化といった言葉を聞かなくなったことが、アベノミクスが成功している証拠。

世界経済の変化の第一は、「南北問題」という言葉が聞かれなくなったこと。1961年にアメリカのケネディ大統領の提唱で「国連開発の10年」が始まり、1981年に「南北サミット」が開かれたが、世界の貧困人口は減らなかった。
それが1989年のベルリンの壁崩壊後、ブラジル、ロシア、インド、中国といった国々が台頭し、途上国は先進国より高い成長をはじめた。ハイテク製品まで途上国で生産されるようになった。そして、「南北問題」という言葉が聞かれなくなった。それは社会主義という成長にとっての軛(くびき)が外れ、革命の輸出のような不安定要因が取り除かれたから。最近話題のトマ・ピケティの『21世紀の資本』は格差問題についての本だが、南北問題は全く出てこない。

先進国は世界人口の15%しか占めておらず、それまで15%の人口による生産では供給不足でインフレを心配しなければならない世界だった。それが、人口の85%を占める途上国が成長しだして、そこで生産された製品が先進国に大量に流れ込み、デフレを心配しなければならなくなった。そういう中で、世界で唯一、実際にデフレに陥ったのが日本。

第二の変化は世界経済がカネ余りになったこと。かつて、GDPとほぼ同じだった世界の金融資産残高は2012年にはGDPの3.4倍。日本の金融資産残高が1700兆円でGDPの3倍以上といわれるのと同じ状況になっている。そこで登場したのがリスク・オン経済だ。かつて日銀の窓口規制というのがあった。
資金不足のときは日銀が規制を緩めると市中にカネが流れたが、今日のカネ余り状況では日銀が緩めても締めてもあまり変わりがないので規制そのものが廃止された。おカネは高い収益を求めてグローバルに流れるが、無制限ではない。リスクが高まるとカネの流れが止まり、リスクの低い安全資産の方に逆流する。リスクが低くなったと認識されるとまた流れ出す。
かつて窓口規制で行っていたことが、リスク・オン、リスク・オフというマーケットの認識で行われるようになったのがリスク・オン経済だ。ただし、そのような市場の認識はマーケットを不安定にしかねないので、各国の中央銀行はマーケットとの対話を重視しなければならなくなっている。

世界の変化の中で、日本は企業が活動しにくい国になってしまっている。リーマン・ショック後、日本だけ量的金融緩和をしなかったので、実力以上に円高が進んだ。一国だけ通貨高になるような国からは、企業が外に出て行くことになったのが空洞化。
それは、日本で仕事が失われ、付加価値も生まれなくなることを意味していた。GDPは一人ひとりが稼いだ付加価値の総額だから、付加価値が生まれなくなると日本経済は縮小する。その姿を抜本的に変えたのがアベノミクスの第一の矢だ。

ただ、それだけでは日本経済を力強く成長させていくことはできない。むかしケインズという経済学者がいて「どうしたら成長させられるか」と聞かれたのに対して「アニマル・スピリット」と答えている。企業がアニマル・スピリットを発揮しやすくするのがアベノミクスの成長戦略の柱。
今日は、そのうちの一つ、硬直的な労働慣行の見直しの話をする。コマツの坂根正弘相談役が日経新聞の『私の履歴書』に書いていた話。コマツ・アメリカのチャタヌガ工場が不況になった時、日本の慣行に従ってレイオフしなかったので地域から称賛された。ところが、その後、景気が回復したとき再度不況になったときのレイオフの心配から工場拡大に慎重になり、競争相手から大きく取り残されてしまったという。

日本企業のROE(総資産収益率)が低いといわれるが、競争力を失った分野があっても従業員を切れないので不採算部門が残るという要因が大きい。これまでは、それでやってこられたが、国際的な厳しい競争社会になった今日ではそうはいかない。
高い収益率を確保し成長を確保しようとすると、従業員を整理して柔軟な経営戦略が取れるような海外で工場を新設しなければならないということになってしまう。コマツのチャタヌガ工場の轍を踏まないためにというわけだ。そうなると、国内での雇用が伸びない。経済が伸びないと、少子化でヒトが減ってもヒト余りになりかねない。

アメリカではレイオフできるが、再雇用市場が充実していて困らない。ヨーロッパは一定のルールで解雇できるが、(失業者への)社会保障が充実しているので困らない。
日本の場合、そうはいかない。家族もろとも路頭に迷うことになる。柔軟な雇用の仕組みでうまくいっているのがスウェーデンとドイツだが、同様の仕組みにしようとすると、財政問題が登場してくる。
国民一人当たりの給付額は、日本では高齢者に238万円で非正規労働者の収入より70万円多い。夫婦二人なら476万円になり正規社員とほぼ同じだ。高齢化世代への給付は欧米では現役世代の1.2倍くらいだが、日本は3倍にもなる。
よく役所のムダを削れと言われるが、公務員の人件費はアメリカの約半分、スウェーデンの3分の1だし、公共投資もさほど大きくない。「ムダのあるうちは国民負担を求めない」と言うのは格好いいが、やるべき政策をやらない理由になってしまう。このままでは国の借金1000兆円は若い人の肩にかかってくることになる。

やるべき施策は何か。少子化対策や科学振興、イノベーションなどで潜在成長力を高めるのも大切だが、それだけで本当に日本の競争力を高めることはできない。
そういった危機意識がないことが最大の問題だ。
世界が変わってリスク・オン経済に変わってしまっているという認識を若い人に持ってもらいたい。ゆでガエルの話がある。水からぬるま湯にしていくと、ゆで上がってしまう。デフレの時代は、大多数の国民の実質所得が増える居心地の良いものだった。その延長で、危機意識のないままでは、ゆでガエル状態になってしまう。
だからといってアメリカの真似をしろというわけではない。アメリカの経営は収益の出ない部門を切り捨てたり、M&A(企業買収)で集約したりする、従業員のことをあまり考えない経営。それをそのまま日本に持ち込むことはできない。日本流のやり方を考えていく必要がある。

アニマル・スピリットは頑張って一生懸命が大事。私は、大学(注・東京大学)4年間、ボート部で漕いでいて留年した。5年目の一年間で一生懸命勉強して司法試験でトップになり、公務員試験にも受かって大蔵省に入った。「一漕入魂」が大事だ。
(文責・井芹)
(記事引用) 

島国ニッポンの「司馬遼太郎」(続)

島国日本、明日のかたち
--いま政治に夢がなさすぎる--
産業革命(Industrial Revolution)は、18世紀半ばから19世紀にかけて起こった工場制機械工業の導入による産業の変革と、それに伴う社会構造の変革のことである。

それと同時進行で君主政治から民主主義政治に移行し、それは資本経済・政治にかわり現在にいたる。その間約100~200年という時間枠で、人の歴史でも、ほんの僅かであり地球の時間でいったら線香花火の1灯でしかない。

その1灯一粒の、原子構造を解読し、原子核を構成している電子極を操作して、核のバランスを崩壊させると宇宙規模の大爆発が起きる、ということを発見した。それを実際にリアルタイムで人間の棲む生活空間上で爆発させたことは映画の1ショットの夢物語ではなかった。

そのことを観て、知ってしまった地球に棲む世界の人間は、ギリシア時代より培ってきた基本的「民主主在」という結果の政治システムに、ほとほと飽きてしまった。資本経済・政治と相まって、全ての価値を金銭に変じて、それを持たないものは、生きられない、という現実インフラを作ってしまった。
その延長に政治がある。そして東奔西走しているその政治家は、いったい誰のために政治をしているのか、という基本を認識しようともしない。

(※)「イデオロギー」云々というと、きこえはいいが、刹那にいって自己欲得論、また所属する団体組織の帰属意識下に従順でいるか、いられるか、という動物のハーレム掟となんら変わるところがない。

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まさにそこが日本のターニングポイントであったと司馬遼太郎は指摘している。

番組の第2集武士700年の遺産では、鎌倉時代の武士に育まれた「名こそ惜しけれ」の精神という「内的要因」に注目。私利私欲は恥という考えが、近代の日本人にもどれだけ影響を与えたのかを探るべく、鎌倉(神奈川県)を中心に取材している。その武士の原型は農民武士である「坂東武士」が基本になっていると説明していた。

これは私の個人見解だが、「坂東武士」という存在位置づけをする前に、鎌倉時代以前の「朝廷貴族」特権支配層以外の土着的民族の国家的組織力が、どこにも述べられそして語られていない。
この「坂東武士」自体の性質も明らかでないし、ましてやそれらを形成していたであろう「俘囚の民」の詳細など、殆どわかっていない。


※俘囚(ふしゅう)とは、陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったもの。このうち隷属の度合いが、 これが、俘囚長を称した安倍氏 (奥州)、俘囚主を称した出羽清原氏、俘囚上頭を称した奥州藤原氏の勢威につながった。(ウィキぺデア)

それら古代日本国家が、ある特定の時代の価値観だけに拠った「名こそ惜しけれ」で括ってしまうには性急なような気もした。

第2集武士700年の遺産をくくるに当たって司馬遼太郎は、昭和の軍事国家日本の危うさを危惧していた。日本のターニングポイントはまさにそこにあり、「統帥権」という漠然とした概念で、日本全土がそのバイアスに嵌ってしまったと司馬遼太郎は回顧している。
見方によっては、それは世界戦争に巻き込まれた日本の言分けにもとれるが、「明治維新」時代の主要要人の動向を追ってみると、すでに、このときより布石は築かれていたように思われる。とくに山縣有朋の記事録、言説など読み解くと、それがよく判る。

世界の政治はいま絶望している--
 
古典的立憲主義
立憲主義は、複雑な概念であるが、その「思想」は、人類の歴史的な経験に根差している。
国家の統治は、より上位の法に従わなければならないという「思想」の起源は、古代ギリシアに遡ることができるが、そこでは憲法に違反する統治は革命によって是正されるものと考えられていた。

古代ギリシアに始まり、古代ローマで発展をみた自然法思想は、「近代的立憲主義」の本質的要素を準備した。ローマの法学者は、公法と私法の根本的な区別を認めた。

「憲法」は多義的な概念である。広義では、国家の組織・構造に関する定めや政治権力の在り方などを定めた法規範という意味もある。
これを「固有の意味の憲法」という。
この「広義の憲法」に対応して、国家の統治を憲法に基づき規正しようとする原理を古典的立憲主義という。古典的立憲主義は、ヴェネツィア共和国やグレートブリテン及びアイルランド連合王国にみることができる。
英国法では、中世における、多様な民族による分権的多層的な身分社会を前提に、身分的社会の代表である議会と、特権的身分の最たるものである国王との緊張関係を背景として、王権を制限し、中世的権利の保障を目的とした古典的な立憲主義が成立した。

そこでは、立憲主義は、コモン・ローと呼ばれる不文の慣習に基づき権力の行使を行なわせる原理として理解され、「国王といえども神と法の下にある」というヘンリー・ブラクトンの法諺が引用されるのである。もっとも、そこでは、そもそも君主といえども主権と呼べるほどの権力を有していなかったという特殊な事情は看過されてはならない。
(資料ウィキぺデア)

明治維新を醸成させた酵母菌「徳川幕府」

江戸開城は、江戸時代末期(幕末)の慶応4年(1868年)3月から4月(旧暦)にかけて、明治新政府軍(東征大総督府)と旧幕府(徳川宗家)との間で行われた、江戸城の新政府への引渡しおよびそれに至る一連の交渉過程をさす。

江戸城明け渡しとも江戸無血開城ともいう。
徳川宗家の本拠たる江戸城が同家の抵抗なく無血裏に明け渡されたことから、同年から翌年にかけて行われた一連の戊辰戦争の中で、新政府側が大きく優勢となる画期となった象徴的な事件であり、交渉から明け渡しに至るまでの過程は小説・演劇・テレビドラマ・映画などの題材として頻繁に採用される。※以下、日付はすべて旧暦(天保暦)によるものである。

戊辰戦争勃発と慶喜追討令

慶応3年(1867年)10月大政奉還により政権を朝廷へ返上した15代将軍徳川慶喜は、新設されるであろう諸侯会議の議長として影響力を行使することを想定していたが、討幕派の公家岩倉具視や薩摩藩の大久保利通・西郷隆盛らが主導した12月初旬の王政復古の大号令とそれに続く小御所会議によって自身の辞官納地(官職・領土の返上)が決定されてしまう。
慶喜はいったん大坂城に退くが、公議政体派の山内容堂(前土佐藩主)・松平春嶽(前越前藩主)・徳川慶勝(前尾張藩主)らの工作により、小御所会議の決定は骨抜きにされ、また慶喜も諸外国の公使に対して外交権の継続を宣言するなど、次第に列侯会議派の巻き返しが顕著となってきた。 

大政奉還の少し前の慶応3年10月13日そして14日には討幕の密勅が薩摩と長州に下される。江戸薩摩邸の活動も討幕の密勅を受けて活発化して定め書きを書いて攻撃対象を決めた。
攻撃対象は「幕府を助ける商人と諸藩の浪人。志士の活動の妨げになる商人と幕府役人。唐物を扱う商人。
金蔵をもつ富商」の四種に及んだ。江戸薩摩藩邸の益満休之助・伊牟田尚平に命じ、相楽総三ら浪士を集めて攪乱工作を開始。
しかし、慶応3年10月14日、同日に大政奉還が行われ、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、討幕の密勅は事実上、取り消された。
既に大政奉還がなされて幕府は政権を朝廷に返上したために倒幕の意味はなくなり薩摩側も工作中止命令を江戸の薩摩邸に伝える。 ただそれでも江戸薩摩藩邸の攘夷派浪人は命令を無視して工作を続けていた。
江戸市中警備の任にあった庄内藩がこれに怒り、12月25日、薩摩藩および佐土原藩(薩摩支藩)邸を焼き討ちするという事件が発生した。

この報が12月28日大坂城にもたらされると、城内の強硬派が激昂。薩摩を討つべしとの主戦論が沸騰し、「討薩表」を携えた幕府軍が上京を試み、慶応4年正月3日鳥羽(京都市)で薩摩藩兵と衝突し、戦闘となった(鳥羽・伏見の戦い)。

しかし戦局は旧幕府軍が劣勢に陥り、朝廷は薩摩・長州藩兵側を官軍と認定して錦旗を与え、幕府軍は朝敵となってしまう。そのため淀藩・津藩などが旧幕府軍から離反し、慶喜は6日、軍を捨てて大坂城を脱出、軍艦開陽丸で海路江戸へ逃走した。ここに鳥羽・伏見の戦いは幕府の完敗で終幕した。

新政府は7日徳川慶喜追討令を発し、10日には慶喜・松平容保(会津藩主、元京都守護職)・松平定敬(桑名藩主、元京都所司代)を初め幕閣など27人の「朝敵」の官職を剥奪し、京都藩邸を没収するなどの処分を行った。

翌日には諸藩に対して兵を上京させるよう命じた。また21日には外国事務総督東久世通禧から諸外国の代表に対して、徳川方に武器・軍艦の供与や兵の移送、軍事顧問の派遣などの援助を行わないよう要請した。
これを受け25日諸外国は、それぞれ局外中立を宣言。事実上新政府軍は、かつて諸外国と条約を締結した政府としての徳川家と、対等の交戦団体として認識されたことになる。

旧幕府側の主戦論と恭順論 徳川慶喜

正月11日、品川に到着した慶喜は、翌12日江戸城西の丸に入り今後の対策を練った。慶喜はひとまず13日歩兵頭に駿府(現静岡市)警備、14日には土井利与(古河藩主)に神奈川(現横浜市)警備を命じ、17日には目付を箱根・碓氷の関所に配し、20日には松本藩・高崎藩に碓氷関警備を命令。

さらに親幕府派の松平春嶽・山内容堂らに書翰を送って周旋を依頼するなど、さしあたっての応急処置を施している。鳥羽・伏見敗戦にともなって新政府による徳川征伐軍の襲来が予想されるこの時点で、徳川家の取り得る方策は徹底恭順か、抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つの選択肢があった。

勘定奉行兼陸軍奉行並の小栗忠順や、軍艦頭並の榎本武揚らは主戦論を主張。小栗の作戦は、敵軍を箱根以東に誘い込んだところで、兵力的に勝る徳川海軍が駿河湾に出動して敵の退路を断ち、フランス式軍事演習で鍛えられた徳川陸軍で一挙に敵を粉砕、海軍をさらに兵庫・大阪方面に派遣して近畿を奪還するというものであったが、恭順の意思を固めつつあった慶喜の容れるところとならず、小栗は正月15日に罷免されてしまう。

19日には在江戸諸藩主を召し、恭順の意を伝えて協力を要請、翌日には静寛院宮(和宮親子内親王)にも同様の要請をしている(後述)。続く23日、恭順派を中心として配置した徳川家人事の変更が行われた。
若年寄 : 平山敬忠、川勝広運
陸軍総裁 : 勝義邦(海舟)、副総裁 : 藤沢次謙
海軍総裁 : 矢田堀鴻、副総裁 : 榎本武揚
会計総裁 : 大久保忠寛(一翁)、副総裁 : 成島柳北
外国事務総裁 : 山口直毅、副総裁 : 河津祐邦
このうち、庶政を取り仕切る会計総裁大久保一翁と、軍事を司る陸軍総裁勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官となり、恭順策を実行に移していくことになった。

この時期、フランス公使レオン・ロッシュがたびたび登城して慶喜に抗戦を提案しているが、慶喜はそれも退けている。27日、慶喜は徳川茂承(紀州藩主)らに隠居・恭順を朝廷に奏上することを告げた。

ここに至って徳川家の公式方針は恭順に確定したが、それに不満を持つ幕臣たちは独自行動をとることとなる。さらに2月9日には鳥羽・伏見の戦いの責任者を一斉に処分、翌日には同戦いによって新政府から官位を剥奪された松平容保・松平定敬・板倉勝静らの江戸城登城を禁じた。
12日、慶喜は江戸城を徳川慶頼(田安徳川家当主、元将軍後見職)・松平斉民(前津山藩主)に委任して退出し、上野寛永寺大慈院に移って、その後謹慎生活を送った。

新政府側の強硬論と寛典論

新政府側でも徳川家(特に前将軍慶喜)に対して厳しい処分を断行すべきとする強硬論と、長引く内紛や過酷な処分は国益に反するとして穏当な処分で済ませようとする寛典論の両論が存在した。
薩摩藩の西郷隆盛などは強硬論であり、大久保利通宛ての書状などで慶喜の切腹を断固求める旨を訴えていた。
大久保も同様に慶喜が謹慎したくらいで赦すのはもってのほかであると考えていた節が見られる。このように、東征軍の目的は単に江戸城の奪取のみに留まらず、徳川慶喜(およびそれに加担した松平容保・松平定敬)への処罰、および徳川家の存廃と常にセットとして語られるべき問題であった。

一方、長州藩の木戸孝允・広沢真臣らは徳川慶喜個人に対しては寛典論を想定していた。また公議政体派の山内容堂・松平春嶽・伊達宗城(前宇和島藩主)ら諸侯も、心情的にまだ慶喜への親近感もあり、慶喜の死罪および徳川家改易などの厳罰には反対していた。

熾仁親王
有栖川宮 熾仁親王(
ありすがわのみや たるひとしんのう、天保6年2月19日(1835年3月17日) - 明治28年(1895年)1月15日)

新政府はすでに東海道・東山道・北陸道の三道から江戸を攻撃すべく、正月5日には橋本実梁を東海道鎮撫総督に、同9日には岩倉具定を東山道鎮撫総督に、高倉永祜を北陸道鎮撫総督に任命して出撃させていたが、2月6日天皇親征の方針が決まると、それまでの東海道・東山道・北陸道鎮撫総督は先鋒総督兼鎮撫使に改称された。
2月9日には新政府総裁の熾仁親王が東征大総督に任命(総裁と兼任)される。先の鎮撫使はすべて大総督の指揮下に組み入れられた上、大総督には江戸城・徳川家の件のみならず東日本に関わる裁量のほぼ全権が与えられた。

大総督府参謀には正親町公董・西四辻公業(公家)が、下参謀には広沢真臣(長州)が任じられたが、寛典論の広沢は12日に辞退し、代わって14日強硬派の西郷隆盛(薩摩)と林通顕(宇和島)が補任された。
2月15日、熾仁親王以下東征軍は京都を進発して東下を開始し、3月5日に駿府に到着。翌6日には大総督府の軍議において江戸城進撃の日付が3月15日と決定されたが、同時に、慶喜の恭順の意思が確認できれば一定の条件でこれを容れる用意があることも「別秘事」として示されている。
この頃にはすでに西郷や大久保利通らの間にも、慶喜の恭順が完全であれば厳罰には及ばないとの合意ができつつあったと思われる。実際、これらの条件も前月に大久保利通が新政府に提出した意見書にほぼ添うものであった。
(資料ウィキぺデア)

榎本 武揚
榎本 武揚(1836年10月5日(天保7年8月25日) - 1908年(明治41年)10月26日)は、日本の武士(幕臣)、化学者、外交官、政治家。海軍中将、正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川(りょうせん)。榎、釜を分解した「夏木金八(郎)」という変名も用いていた。なお、武揚は「ぶよう」と故実読みでも呼ばれた。

伊能忠敬の元弟子であった幕臣・榎本武規(箱田良助)の次男として生まれる。昌平坂学問所、長崎海軍伝習所で学んだ後、幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学した。
帰国後、幕府海軍の指揮官となり、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領、いわゆる「蝦夷共和国」の総裁となった。箱館戦争で敗北し降伏、東京・辰の口の牢獄に2年半投獄された。

敵将・黒田清隆の尽力により助命され、釈放後、明治政府に仕えた。開拓使で北海道の資源調査を行い、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結したほか、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は、逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任、子爵となった。

また、メキシコに殖民団を送ったほか、東京農業大学の前身である徳川育英会育英黌農業科や、東京地学協会や電気学会など数多くの団体を創設した。

1836年(天保7年)、江戸下谷御徒町柳川横町(現在の東京都台東区浅草橋付近)、通称・三味線堀の組屋敷で西丸御徒目付・榎本武規の次男として生まれる。

近所に住んでいた田辺石庵に入門し儒学を学んだ後、1851年(嘉永4年)、昌平坂学問所に入学。1853年(嘉永6年)に修了するが、修了時の成績は最低の「丙」であった。

1854年(安政元年)、箱館奉行・堀利煕の従者として蝦夷地箱館(現在の北海道函館市)に赴き、蝦夷地・樺太巡視に随行。
1855年(安政2年)、昌平坂学問所に再入学する(翌年7月退学)が、同年長崎海軍伝習所の聴講生となった後、1857年(安政4年)に第2期生として入学。

海軍伝習所では、カッテンディーケやポンペらから機関学、化学などを学んだ。カッテンディーケは伝習所時代の榎本を高く評価していた。
翌1858年(安政5年)海軍伝習所を修了し、江戸の築地軍艦操練所教授となる。また、この頃、ジョン万次郎の私塾で英語を学び、後に箱館戦争をともに戦う大鳥圭介と出会う。

オランダ留学「開陽丸#発注」 開陽丸(1867年頃)

1861年(文久元年)11月、幕府はアメリカに蒸気軍艦3隻を発注するとともに、榎本・内田正雄・澤太郎左衛門・赤松則良・田口俊平・津田真道・西周をアメリカへ留学させることとした。しかし、南北戦争の拡大によりアメリカ側が断ったため、翌1862年(文久2年)3月にオランダに蒸気軍艦1隻(開陽丸)を発注することとし、留学先もオランダへ変更となった。

同年6月18日、留学生一行は咸臨丸で品川沖から出発。途中、榎本・沢・赤松・内田が麻疹に感染したため下田で療養し、8月23日長崎に到着。
9月11日、オランダ船カリップス号で長崎を出航、バタビアへ向かう。ジャワ島北方沖で暴風雨に遭い、船が座礁し無人島へ漂着するが、救出されてバタビアで客船テルナーテ号に乗り換える。
セントヘレナ島でナポレオンの寓居跡などを訪ねた後、1863年(文久3年)4月18日、オランダ・ロッテルダムに到着した。
オランダでは当時海軍大臣となっていたカッテンディーケやポンペの世話になった。榎本はハーグで下宿し、船舶運用術、砲術、蒸気機関学、化学、国際法を学んだ。

1864年(元治元年)2月から3月にかけ、赤松則良とともにシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を観戦武官として見学した。
プロイセン・オーストリア軍の戦線を見学した後、デンマークに渡り、同軍の戦線を見学した。
その後、エッセンのクルップ本社を訪れ、アルフレート・クルップと面会した。また、フランスが幕府に軍艦建造・購入を提案したことを受け、内田とパリへ赴き、フランス海軍と交渉したほか、赤松とイギリスを旅行、造船所や機械工場、鉱山などを視察した。

1866年(慶応2年)7月17日に開陽丸が竣工し、同年10月25日、榎本ら留学生は開陽丸とともにオランダ・フリシンゲン港を出発、リオデジャネイロ・アンボイナを経由して、1867年(慶応3年)3月26日、横浜港に帰着した。
5月10日に幕府に召し出され、100俵15人扶持、軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)に任ぜられる。
7月8日に軍艦頭並となり、布衣を許される。9月19日に軍艦頭となり、和泉守を名乗る。同年、オランダ留学生仲間の林研海の妹(奥医師・林洞海の長女)・たつと結婚した。

戊辰戦争 阿波沖海戦・大坂撤退

1867年末には幕府艦隊を率いて大坂湾へ移動しており、京都での軍議にも参加していた。
翌1868年(慶応4年)1月2日、大坂湾から鹿児島へ向かっていた薩摩藩の平運丸を攻撃した。薩摩藩の抗議に対し榎本は、薩摩藩邸焼き討ち以来、薩摩藩とは戦争状態にあり港湾封鎖は問題ないと主張。更に1月4日には、兵庫港から出港した薩摩藩の春日丸ほかを追撃、阿波沖海戦で勝利した。鳥羽・伏見の戦いでの旧幕府軍敗北を受けて、榎本は軍艦奉行・矢田堀景蔵ともに幕府陸軍と連絡を取った後、1月7日に大坂城へ入城した。
しかし徳川慶喜は既に6日夜に大坂城を脱出しており、7日朝、榎本不在の開陽丸に座乗した後、8日夜に江戸へ引き揚げていた。

榎本は大坂城に残された什器や刀剣などを運び出し、城内にあった18万両を富士山丸に積み、新撰組や旧幕府軍の負傷兵らとともに、12日に大阪湾を出発、15日、江戸に到着した。
1月23日、海軍副総裁に任ぜられる。榎本は徹底抗戦を主張したが、恭順姿勢の慶喜は採り上げず、海軍総裁の矢田堀も慶喜の意向に従い、榎本派が旧幕府艦隊を支配した。

旧幕府艦隊の脱走 品川沖の旧幕府艦隊

後列左から小杉雅之進、榎本道章、林董三郎、松岡磐吉、前列左から荒井郁之助、榎本武揚
同年4月11日、新政府軍は江戸開城に伴い降伏条件の一つである旧幕府艦隊の引渡を要求するが、榎本は拒否し、人見勝太郎や伊庭八郎が率いる遊撃隊を乗せ、悪天候を口実に艦隊8隻で品川沖から安房国館山に脱走した。

勝海舟の説得により4月17日に品川沖へ戻り、4隻(富士山丸・朝陽丸・翔鶴丸・観光丸)を新政府軍に引渡したが、開陽等の主力艦の温存に成功した。

榎本はなおも抵抗姿勢を示し、閏4月23日には勝に艦隊の箱館行きを相談するが反対される。5月24日に徳川宗家の駿河・遠江70万石への減封が決定。
榎本は移封完了を見届けるとしつつも、配下の軍艦で、遊撃隊や請西藩主・林忠崇に協力して館山藩の陣屋を砲撃した上、小田原方面へ向かう彼らを館山から真鶴へ輸送したほか、輪王寺宮や脱走兵を東北地方へ運ぶなど旧幕府側勢力を支援した。
7月には奥羽越列藩同盟の密使(仙台藩・横尾東作、会津藩・雑賀孫六郎、米沢藩・佐藤市之允)と会い、7月21日、列藩同盟の参謀を務めていた板倉勝静・小笠原長行宛に支援に向かう旨の書状を出した。
8月に入ると密かに脱走準備を進め、8月4日、勝に軽挙妄動を慎むよう申しわたされるが、8月15日に徳川家達が駿府に移り移封が完了すると、榎本は8月19日、抗戦派の旧幕臣とともに開陽丸、回天丸、蟠竜丸、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8艦からなる旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出し、奥羽越列藩同盟の支援に向かった。
この艦隊には、元若年寄・永井尚志、陸軍奉行並・松平太郎、彰義隊や遊撃隊の生き残り、そして、フランス軍事顧問団の一員だったジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴなど、総勢2,000余名が乗船していた。江戸脱出に際し、榎本は「檄文」と「徳川家臣大挙告文」という趣意書を勝海舟に託している。

檄文

王政日新は皇国の幸福、我輩も亦希望する所なり。然るに当今の政体、其名は公明正大なりと雖も、其実は然らず。王兵の東下するや、我が老寡君を誣ふるに朝敵の汚名を以てす。

其処置既に甚しきに、遂に其城地を没収し、其倉庫を領収し、祖先の墳墓を棄てゝ祭らしめず、旧臣の采邑は頓に官有と為し、遂に我藩士をして居宅をさへ保つ事能わざらしむ。

又甚しからずや。これ一に強藩の私意に出て、真正の王政に非ず。我輩泣いて之を帝閽に訴へんとすれば、言語梗塞して情実通ぜず。故に此地を去り長く皇国の為に一和の基業を開かんとす。それ闔国士民の綱常を維持し、数百年怠惰の弊風を一洗し、其意気を鼓舞し、皇国をして四海万国と比肩抗行せしめん事、唯此一挙に在り。

之れ我輩敢て自ら任ずる所なり。廟堂在位の君子も、水辺林下の隠士も、荀も世道人心に志ある者は、此言を聞け。

房総沖で暴風雨に襲われ艦隊は離散し、咸臨丸・美賀保丸の2隻を失うが、8月下旬頃から順次仙台に到着した。

9月2日、榎本、ブリュネ、カズヌーブは仙台城で伊達慶邦に謁見する。
翌日以降、仙台藩の軍議に参加するが、その頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、9月12日に仙台藩も降伏を決定した。
これを知った榎本と土方歳三は登城し、執政・大條孫三郎と遠藤文七郎に面会し、翻意させようとするが果たせず、出港準備を始めた。
旧幕府艦隊は、幕府が仙台藩に貸与していた太江丸、鳳凰丸を艦隊に加え、桑名藩主・松平定敬、大鳥圭介、土方歳三らと旧幕臣の伝習隊、衝鋒隊、仙台藩を脱藩した額兵隊など、計約3,000名を収容。新政府軍の仙台入城を受けて、10月9日に仙台を出航し石巻へ移動した。このとき、新政府軍・平潟口総督四条隆謌宛てに旧幕臣の救済とロシアの侵略に備えるため蝦夷地を開拓するという内容の嘆願書を提出している。
10月11日には横浜在住のアメリカ人でハワイ王国総領事であったユージン・ヴァン・リードから、ハワイへの亡命を勧められるが断っている。
その後、幕府が仙台藩に貸与したが無頼の徒に奪われ海賊行為を行っていた千秋丸を気仙沼で拿捕し、宮古湾で補給の後、蝦夷地へ向かった。

(※イデオロギーとは、観念の体系である。文脈によりその意味するところは異なり、主に以下のような意味で使用される。通常は、政治や宗教における観念を指しており、政治的意味や宗教的意味が含まれている。
世界観のような、物事に対する包括的な観念。
日常生活における、哲学的根拠。ただ日常的な文脈で用いる場合、「イデオロギー的である」という定義はある事柄への認識に対して事実を歪めるような虚偽あるいは欺瞞を含んでいるとほのめかすこともあり、マイナスの評価を含むこともある。
主に社会科学の用法として、社会に支配的な集団によって提示される観念。殊にマルクス主義においては、階級的な立場に基づいた物の見方・考え方。
イデオロギーという用語は初め、観念の起源が先天的なものか後天的なものかを中心的な問題とする学の名であった。この用法はデステュット・ド・トラシー(Destutt de Tracy)『イデオロジー原論』(1804-1815)に見られる。
彼に代表される活動家達はイデオローグ(ide'ologues)と呼ばれ、1789年のフランス大革命以降、怪しげなものとして見られていたアンシャン・レジーム時代の思想のなかで啓蒙主義的な自由主義を復興させようとし、革命期から帝政にかけてフランスリベラル学派の創始者、指導的立場となった。
当初は人間の観念に関する科学的な研究方法を指していたが、やがてその対象となる観念の体系そのものをいうようになった。
イデオロギーの定義は曖昧で、また歴史上その定義は一様でない。イデオロギーの定義には認識論を含むもの、社会学的なものがあり、互いに矛盾している。しかし、それぞれが有意義な意味を多数もっている。そのためディスクールや同一化思考などの類似概念と置き換え可能ではない。以下イデオロギーの定義の重要な意味内容について、主に認識論や社会学的成果をもとに解説する。) 
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「東芝決算」を左右する「原発」

債務超過寸前「東芝決算」を左右する「原発」「医療機器」「会計事務所」 - 磯山友幸

 巨額の粉飾決算の後遺症に揺れる東芝が2月4日、四半期決算の発表で、2016年3月期の最終赤字額を7100億円に下方修正した。もちろん同社としては過去最悪の赤字。自己資本(株主資本)はわずか1500億円まで減少する見通しで、債務超過目前の崖っぷちに立たされる。株価も急落、35年ぶりの安値圏で推移している。

 電力・社会インフラ部門などで市況の悪化による減損処理を実施したことや、半導体事業での在庫の評価減などが主因としている。だが、要は過去からの甘い資産評価などによって一気に損失処理を迫られているのだ。記者会見した室町正志社長は、「来年度からのV字回復を図るため、今年度にウミを出し切る」と強調したが、懸案の米原子力子会社、ウエスチングハウス(WH)の「のれん代」約3440億円は減損の必要がないとして手つかずのまま残されている。

 中国を中心に世界経済の減速が鮮明になる中で、事業環境は一段と厳しさを増している。そんな中で東芝は本当に「ウミを出し切る」ことができるのかどうか、まだ予断を許さない。

「虎の子」の売却

 東芝が昨年9月に発表した決算修正では、2014年3月期までにかさ上げしていた利益は2781億円にのぼった。これに2015年3月期の最終損益378億円を加えると、ざっと3000億円の赤字。今期の見通しが7100億円の赤字ということは、昨年4月の不正発覚以降、1兆円以上の損失が表面化したことになる。

 実は、昨年4月に東芝の不正会計問題が表面化した後、首相に近い政治家の間で1つの噂が流れていた。

「東芝の含み損は1兆円らしい」「債務超過にはならないが、そのギリギリの線」――。

 そんな会話が交わされていたのである。こうやって決算が出てきてみると、その噂があながち的外れでなかったことが徐々に明らかになってきた。

 室町社長は「ウミを出し切る」と言うが、そんな言葉とは裏腹に、現状では逆の動きになっている。債務超過を回避するための“決算作り”に血眼になっているのである。もちろん「作る」といっても不正を働くという意味ではない。債務超過にしないためなら何でもやる、という姿勢に徹しているのだ。

 そんな典型例が、医療機器メーカーである東芝メディカルシステムズの売却。将来の成長性が高いと社内外で見られてきた東芝の「虎の子」だった。まさか将来のメシの種を売ることはないだろうという世間の見方を裏切り、昨年末の段階で売却方針を決めた。執行部からは、今年3月までに売却の基本合意を完了するよう指令が飛んでいた。もちろん、3月期決算に間に合わせるためである。

 東芝メディカルの売却では、1月末にすでに1次入札が行われた。米投資ファンドのコールバーグ・クラビズ・ロバーツ(KKR)や富士フイルム、コニカミノルタ、キヤノン、ソニーなどの名前が挙がっている。売却益は4000億円以上になると見られている。

WH「減損処理」の可能性

 虎の子の売却益が数千億円だとしても、東芝は安泰ではない。というのも、懸案のWHの減損問題がくすぶっているからだ。今回発表した四半期決算では減損は必要ないという判断だったが、本決算でそれが認められるかはまだ分からない。

 東芝がWHを買収したのは2006年のこと。当時噂されていた価格の2倍以上に当たる約5400億円で買収した。東芝はWHの資産価値を約2000億円と算定、買収額との差額約3400億円を「のれん代」として資産計上した。

 ところが、買収後の2011年の東日本大震災で東京電力福島第1原子力発電所の事故が起きる。世界で脱原発の動きが強まるなど原発を巡る事業環境が一気に悪化したため、のれん代の消却が焦点になる。

 その際、米会計事務所がWHに対して「のれん」の価値を約1600億円分引き下げ、決算で損失として処理するよう指導した。米国子会社では減損を実施していたことが昨年明らかになったのである。東芝はこれまで、原子力事業全体としては順調だとして、連結決算では一切減損を行ってこなかったが、この「隠ぺい」が明らかになったことで、一気にWHの減損問題が焦点になっている。

 一方で東芝は、決算書を監査してきた新日本監査法人を今期限りで交代させることを決めている。東芝の粉飾決算を見抜けなかった新日本は、昨年末に金融庁から一部業務停止命令や課徴金の支払いを含む行政処分を受けた。新日本にとっては予想外に厳しい処分で、「不正を働いた東芝より厳しいぐらいだ」(新日本の会計士)という不満が渦巻いている。

 1月末で退任した英公一理事長の後任である辻幸一氏は職人肌の会計士といわれ、「東芝の最後の決算にかなり厳しい注文を付ける」(新日本の関係者)とみられている。監査は、来年度から業界4位のPwCあらた監査法人に移管されることが決まっており、仮に新日本がWHの減損処理を見送ったものを、来年あらたが処理を求めた場合、「新日本にとっては恥の上塗りになる」(同)というのだ。

 それだけに新日本が最後の最後にWHの減損処理を求める可能性は十分に残っている。東芝とすれば、東芝メディカルの売却益を早期に立てることで、WHの減損処理をしても債務超過に陥らない状態にしたかったのではとみられている。

厳しさ増す金融機関の「注文」

 なぜ、東芝はそこまで債務超過の回避に必死なのか。融資を受けている金融機関に求められているからに他ならない。金融機関からすれば、東芝が仮に債務超過に陥れば、東芝向けの貸し出しは「要注意先債権」として償却しなければならなくなる。東芝向けの貸し出しは巨額なだけに、金融機関自身の決算への影響も大きい。

 リーマンショックがあった2008年ごろから、三井住友銀行などメガバンクの東芝向け貸し付けには「財務制限条項」が付けられてきた。詳細は不明だが、赤字に転落したり債務超過になれば、「期限の利益」を失い、一括して全額返済しなければならなくなる。そうなれば、もちろん東芝は潰れ、金融機関も一気に損失を被ることになる。

 東芝の内情を知っている金融機関は、東芝との間で直接交渉を行い、財務制限条項に抵触した後も、融資を続けているのではないかとみられている。逆に言えば、それだけ金融機関の「注文」は厳しさを増しているのだ。もちろん、2008年以降、東芝の内情を知っていた金融機関が東芝向けの債権放棄などを迫られることになれば、金融機関自身が株主から訴訟を起こされかねないからだ。

 今期の決算で「ウミを出し切り」、来年度以降の復活プロセスを示すことで、投資家などから新規の出資を仰ぎ、資本増強する。そのためには売れるモノは売ってバランスシートを形の上で綺麗にしておくことが求められていたわけだ。

 本来なら、将来の収益源である東芝メディカルの売却は「愚策」のはずだが、もはやそんな甘い事は言っていられないのである。

コンセンサスのない原発政策

 政府関係者は、「もはや東芝は解体プロセス。最後には原発と防衛関連ぐらいしか残らない」という声も漏れる。ただ、だからと言って、東芝が破綻するというわけではなさそうだ。原発が残れば、間違いなく政府は東芝を潰せなくなる。

 原発の新設を国内で再開するのは難しいとしても、老朽化した原子炉を解体する廃炉作業は今後本格化する。日本にとって原発技術は不可欠なため、東芝を救済する大義名分が出てくる。そうした大義名分の下で、産業革新機構など政府系ファンドの資金が導入される、というのである。

 安倍晋三内閣は「安全が確認された原発から再稼働させる」としているものの、将来に向けた原発政策は事実上「封印」したままだ。閣議決定したエネルギー基本計画では、原子力を「重要なベースロード電源」と位置づけたものの、老朽原発の稼働期間延長や廃炉、更新(リプレイス)、新増設などについては議論していない。国民を二分する議論になることを避け、なし崩し的に再稼働を進めているだけだ。そんな中で、東芝の原発技術を今後どうしていくのか。現状では政府に何らコンセンサスはない。

 今期末の決算を乗り切ろうとする東芝幹部の必死さをみていると、「チャレンジ」によって数字合わせに邁進した過去の姿を見ている錯覚に陥る。巨額粉飾決算のツケはあまりにも重い。

執筆者プロフィール
磯山友幸磯山友幸
1962年生れ。早稲田大学政治経済学部卒。87年日本経済新聞社に入社し、大阪証券部、東京証券部、「日経ビジネス」などで記者。その後、チューリヒ支局長、フランクフルト支局長、東京証券部次長、「日経ビジネス」副編集長、編集委員などを務める。現在はフリーの経済ジャーナリスト。著書に『国際会計基準戦争 完結編』、『ブランド王国スイスの秘密』(以上、日経BP社)、共著に『株主の反乱』(日本経済新聞社)、編著書に『ビジネス弁護士大全』(日経BP社)などがある。
(全記事引用) 

※筆者コメント
「室町社長はウミを出し切る、と言うが、そんな言葉とは裏腹に、現状では逆の動きになっている。債務超過を回避するための“決算作り”に血眼になっているのである。もちろん、作る、といっても不正を働くという意味ではない。債務超過にしないためなら何でもやる、という姿勢に徹しているのだ。」

やつぱり、そうした態度は信用できない。「東芝」という日本ブランドが倒産するはずが無い、と日本人の全員が思っている。また、そうなっては困るだろう。だから官官一部民の銀行が、手を貸す、そんな経緯のこれまでの企業救済「シナリオ」が読めるが~。

 

東京ガールズコレクション創業者・大浜史太郎氏

<東京ガールズコレクション創業者・大浜史太郎氏インタビュー>
「デザインなんて全部パクリ」スタイリングこそ日本ブランディング
mediagong(メディアゴン)
2016年02月08日 07:30
藤本貴之[東洋大学 准教授・博士(学術)/メディア学者]

2020年の東京オリンピックを控え、海外への日本PRがあらゆる場面で盛んだ。地方自治体はもとより、サブカルチャーやITは言うまでもなく、ファッションからエンターテイメントにあらゆる領域に至っている。

訪日外国人観光客が急増する一方で、今、日本のブランディングやデザインは揺れている。昨年はオリンピックのエンブレム問題や新国立競技場の建設問題で白紙撤回するなど世界中に日本の体たらくぶりを見せて失笑された。

本稿ではジャパンブランディンの第一人者で、毎回3万人を動員するファッションイベント「東京ガールズコレクション」(以下、TGC)の仕掛人/初代実行委員長として活躍したブランディングディレクター・大浜史太郎さんに、日本をブランディングするための「デザイン」について語ってもらった。[聞き手:藤本貴之(東洋大・准教授)]

***(以下、インタビュー)***

[大浜史太郎氏(以下、大浜)]佐野氏による「五輪エンブレム問題」。あれは単に「産地の偽装問題」。佐野氏が自分のデザインを「これは○○さんからインスピレーションを得ました」とか「○○年代へのオマージュです」的に、正直にぶっちゃけて説明でもしてれば誰も非難しなかった(笑)。昔は、パリコレのデザイナーだって視点によっては、みーんなパクリ放題だった。米国系アートやウォーホルもそうです。日本やアジアのものもけっこう欧米にパクられてますよ。ただ互いにリソースがバレなかっただけ(笑)。

[藤本貴之(以下、藤本)]それはあらゆる「デザイン」に言えることですよね。

[大浜]そもそも、日本のストリートファッション界には多くの皆さんがイメージするデザイナーなんて存在しません。一部のモード系のデザイナーは怒るかもしれませんが、多くの日本のファッションブランドはデザイナーというより、ブランドを統括するディレクターやスタイリストさんたちが「こんなイメージで」という形ですすめていく「スタイリング提案型」が実情です。
TGCに参加するストリートブランドも、ほとんどが「スタイリング提案型ブランド」みたいなもの。でも、それが現代では新しい価値を創造している。

[藤本]タレントさんや人気モデルがディレクションしたブランドも多いですしね。

[大浜]一般的に、ファッションディレクターやバイヤーと呼ばれる人たちがLAやパリやNYへ行って買い付けしてきた洋服を、「少しアレンジして」オリジナルと言って提案するのも一般的です。

[藤本]もちろん、それが悪いわけではないですよね。デザインの定義、あり方としては、それが現在の技法であり、手法なわけですから。

[大浜]アパレルなんて歴史的に見ても、パクリしかないわけで(笑)

[藤本]今はインターネットでアイデアの着想元が検索で容易にバレてしまう時代。デザインのあり方も大きく変容している。そもそも「デザインとは何か?」を日本全体で再定義した方が良い時代に突入していますね。

[大浜]僕は、基本的にデザインには3つの定義があると思っています。1つめは、「シンボル(象徴や伝達型アイコン)」としてのデザイン、2つめは「スタイリングやコーディネート」としてのデザイン、そして3つめが「アート」としてのデザインです。そして、クリエイターなら誰もがアートに憧れます。出来栄えがどうであれ、「私のデザインはすべて価値があるのだ」っていう領域は、発注主の意図や目的など無視しても成立するからです。

[藤本]おっしゃることは理解できますが、僕はデザインとアートはまったく別モノであるという定義をしています。アートとデザインの混同こそ、デザイナーの大いなる「勘違い」だと。もちろん、アーティストがデザインをすることはあると思います。しかし、その逆はない。そもそも「発注主の意図や目的など無視したデザイン」は成立しませんから。

[大浜]アートとデザインの議論はさておき(笑)、日本は歴史的に加工貿易が得意で経済発展してきた背景があります。だから、オリジナルの発想やデザインより、そもそも海外にあるものを持ってきてスタイリングやコーディネートする方が得意なはずです。

[藤本]平賀源内みたいなパターンですね(笑)

[大浜]であるならば、アートのような「オリジナルデザイン」の発信はこの際はある程度は切り捨てて、「我々のデザインの再定義はこれです! 日本はスタイリング強国です!!」って言いきって勝負したほうが、むしろ一瞬で世界をリードできるし、日本のブランディングになる。東京の街を見渡してください。こんなに建築デザインが多様で節操のない都市もないですよ(笑)。この日本を無秩序で退廃的と呼ぶのか、いや伝統と先進性が共存している・・・と呼ぶのか。事実、日本はこの土壌ゆえに日本人の建築家は世界でもトップレベルになりました。不思議と日本の「和や美」は独特に「スタイリング」されて調和のとれた都市として海外からは見られ始めています。一方、国内のファッション業界は少し遅れていますが。

[藤本]「オリジナルの不在」は日本に限った話ではなく、今日のクリエイティブとされる産業全般に言える問題ですよね。

[大浜]その通りです。世界に目を向けると海外のラグジュアリーブランドだって、実は高級な「お茶漬け」みたいなものなんです。グッチだ、シャネルだっ・・・と言っても、統括するクリエイティブディレクターがこないだまでライバルだったブランドから転職してくるとかも多いので、どうしても実体的には「梅茶漬けとシャケ茶漬けの違い」くらいしか出せない。商品ラインによっては風味や匂いの違いくらいなものです。

[藤本]ラグジュアリーブランドは「高級なお茶漬け」ですか(笑)

[大浜]事実、ファッションって言いながら、誰もがどうにかして一生懸命「アート化しよう」と必死なのは大量の在庫を抱えている怖さがブランド業界全体にあるからです。ファッションを「アート化」すれば、古くなっても限定モノみたいにしていつまでも付加価値を維持できる。

[藤本]そもそも、アート化しよう!という部分に、大きな負荷がかかっているわけですよね。そういうことは、僕から見れば「不可能だ」と思うわけです。

[大浜]でも、その絶大な憧れのイメージがフランスやイタリア全体のブランディングの底上げになっている事実がある。今更、日本のすべてのデザインを京風や和風にはできないので、むしろ逆手にとってスタイリング大国に徹するべきだと思います。

***(以上、インタビュー)***

東京ガールズコレクションを牽引した大浜史太郎氏。現在は、海外にも拠点持ち様々なプロジェクトを進めているだけに、日本の現状を見る目は冷静だ。「スタイリング強国、ニッポン」という発想から何が出てくるのか? 今後の大浜氏の動向に注目したい。
(記事引用)

“お金がすべて”という価値観を僕たちは変えていきたい」

“お金がすべて”という価値観を僕たちは変えていきたい──前澤友作(スタートトゥデイ代表取締役 CEO)
http://gqjapan.jp/more/business/20120611/maezawayusaku
30代の若きCEOがひきいる株式会社スタートトゥデイ。日本最大級のファッション専門通販サイト「ZOZOTOWN」の商品取扱高は対前年比43%増。最近では初の提供番組「美少女ヌードル」がスタートし、話題を呼んでいる。好業績を牽引する経営者が語る、これからの日本のための資本主義とは。

聞き手:いなもあきこ 写真:山下亮一
前澤友作(スタートトゥデイ代表取締役 CEO)
「“お金がすべて”という価値観を僕たちは変えていきたい」 

1990年代、極めて入手困難なTシャツを買うため、朝から裏原宿の行列に並んだ青年が、今では世界にたった77台、日本にはまだ1台しかないというアストン・マーティンOne-77のハンドルを握る。腕にはリシャール・ミル、こちらも38本限定生産のプロゴルファー、バッバ・ワトソンの名を冠した限定モデルだ。いわば21世紀版、輝かしき“成り上がり”人生。

「中途半端が嫌いなんです。車も時計もアートも、ホンモノに投資したい。逆にいうと大量生産、大量消費という違和感に対する僕なりのアンチテーゼだったりします」。

日本最大級のファッション専門通販サイト「ZOZOTOWN」を運営する、スタートトゥデイ代表の前澤友作さん。ブランド数1800超、会員数467万人、年間商品取扱高818億円。ビジネスを驚異的サイズにまで発展させた起業家が考える、資本主義の最前線とは。

楽しんでいる人から出るアイディアは利益を生み出す

対前年比43%の増収。急成長の要因は?

「人は夢中になれることを仕事にできれば一所懸命やるし、夢を持てる。楽しんでいる人から出るアイディアとかサービスって、やっぱり楽しいんですよ。たとえば最近提供を始めた、最新ファッションを着こなした美少女が人気ラーメンを紹介するという、斬新な組み合わせのテレビ番組とか。面白そうな動きには、多くのお客様や取引先ブランドの方々が興味を持って近づいてきてくださる。だからスタッフが楽しく働けて、それによってみんなの人生が豊かになるような環境を用意することが、利益を出すための一番の近道だと断言できます」

「さらに今期から、1日6時間労働を導入しました。短期集中型で“やるときはやる”というサムライみたいな働き方。余暇を活用して、スタッフが新たな楽しさを見つけてくれればいい」

オンラインアパレル通販はどう動きますか?

「ファッション関連小売市場は現在、15兆円程度の規模です。うち5%弱、つまり7000億円程度がEコマース(EC)経由です。欧米ではEC経由率が10%超という国もあるくらいなので、日本でもまだまだ伸びるという実感があります」

「中長期的には年間商品取扱高5000億円を目指したい。それを達成するためにいま力を入れているのが先行受注。コレクションや展示会と同じように、ブランドの新作をいち早くお客様に公開し、予約販売するシステムです。ブランド側は生産すべき量の目安が事前に分かるため過剰生産リスクを減らせますし、お客様は欲しいものを必ず手に入れられる。双方にとって幸せですよね」

今春、アマゾンもファッションに力を入れ始めました。市場の新しい動きに脅威を感じることは?

「いえ、まったく。むしろ盛り上げてくださってありがとう、とお礼を言いたいくらいです。将来、アマゾンさんでも楽天さんでもZOZOTOWNでも、扱うブランドも商品も値段もサービスレベルもすべて同じで差異がない、という時代が来るかもしれません。でも、そうなったときにお客様に選ばれるのはどこかと問われれば、僕らだと確信しています」

「まず僕らはファッションを愛しています。そしてファッション専門サイトとしてこれまで培ってきたお客様との信頼関係がありますし、常にファッション好きのお客様の視点に立ち、服の写真を撮ったり、サイズを測ったり、限定商品を開発したり、すべてのサービスがファッションを愛する我々スタッフから生まれたものです。消費者が購入場所を選ぶ際、最終ジャッジの決め手にするのは、本当に必要なサービスを本気で届けたいという、売り手側の思いや歴史です。そこには絶対の自信があります」

資本主義のフロンティアはどこに?

「日本ですね。日本人の多くは、行き過ぎた金融資本主義を警戒しているように僕は感じるんです。アメリカ式のマッチョな資本主義やヨーロッパ経済の崩壊をみていて、“何か違うな”と。震災によって、それを再認識した感もあります。欧米のマネばかりしていないで、日本は自分たちのアイデンティティを打ち出し、独自の資本主義の道を進むべきです。それが実現したときの将来性を含め、日本が最前線だと思います」

「そのために必要なのは、お金の民主化ですね。民間から選ばれた代表者が集まる政府が、お金の量を調整する権利を持つという意味です。ここ何年もデフレが続いているにもかかわらず、現状では政府が日銀に新札発行を強制的に求められないため、お金の価値が上昇している。お金の民主化なしにデフレは収束できないと思います」
いい人に投資することが資本主義を乗り切るための解

今年2月、東証一部に上場しました。その真の目的も「資本主義市場を変えることにある」そうですね。

「だから悲しいかな、今のこの社会を変革していくためには、それなりの資本力が必要だと感じることが多々あります。そのためにも企業としての経済的な成功は変革のための第一歩ともいえます。それとはまた矛盾してしまうんですが、いまの世の中に蔓延する“お金がすべて”という価値観自体も変えたいと思っているんです」

「もちろん“お金がすべて”なんてみんながみんな思っていないのは分かるんですが、結局お金のために本当の幸せや楽しむという価値を犠牲にしている人もたくさんいる。上場すると投資尺度として株価収益率や株主資本利益率なんかがまず見られちゃうんですが、本来のところ業績ってスタッフがいかに楽しくやりがいを持って笑顔で働いているかと連動してくるんです。そういう意味でも、お金より大切な“楽しむ”ということにとことんこだわることが、今後の資本主義を乗り切るための解だということを、身をもって証明したいですね」

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Aston martin one-77 News - Autoblog 日本版
jp.autoblog.com628×395画像で検索 【レポート】アストンマーティン「One-77」がついに残り1台に!
前澤友作CEOの愛車はコレ!
世界77台限定のアストン・マーティンOne-77
007の愛車として知られるアストン・マーティンが2009年に限定77台で発売した、ハンド・メイドのスーパーカー。フロントに潜む7.3リッターV12は最高出力760psを発揮、カーボン・モノコックの軽量ボディを220mph(355km/h!)に到達させる。すべて受注生産。定価120万ポンド(約1億6000万円!)。並みの国産車が100台買えます。
デザインコンシャスな社内はホワイトとブラックが基調

腕には、リシャール・ミル「キャリバーRM038 バッバ・ワトソン」モデル(4735.5万円)。
 
1975年、千葉県生まれ。高校卒業後、音楽活動の傍ら輸入CD・レコードのカタログ通信販売を開始。98年にカタログ通販サイトへ発展させ、有限会社スタートトゥデイを設立。2000年、通販をオンライン化し、スタートトゥデイを株式会社化。10月にアパレル界に進出し、オンラインセレクトショップ『EPROZE』、04年『ZOZOTOWN』をスタート。07年12月、東証マザーズ、12年2月東証一部上場を果たす。

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自己ブランディングをしないと、重要な意見も伝わらない──前澤友作(スタートトゥデイCEO)【作家、野地秩嘉の一行のことば】
前澤友作。日本最大のファッション通販サイトZOZOTOWNを運営するスタートトゥデイの創業者で社長だ。高校を卒業した後、インディーズバンドのドラマーとなる。アルバムのプロデューサーは椎名林檎と東京事変で活動している亀田誠治だった。


運営するスタートトゥデイの創業者で社長だ。高校を卒業した後、インディーズバンドのドラマーとなる。アルバムのプロデューサーは椎名林檎と東京事変で活動している亀田誠治だった。

経営者にとって取材は仕事のひとつである

企業のトップでインタヴュアーに難癖をつける人がいる。「キミ、その質問は他の人がしたよ」「もっと的を射た質問ができないもんかね」……。

私の場合は「愛人は何人いますか」といった突拍子もないことを尋ねることにしているので、トップたちから怒られたり、言葉を返された経験はない。しかし、何人かの取材者に聞いてみると、インタヴュー時にイライラする人は少なくないようだ。

確かに、尊大な態度の記者は多いし、不勉強なジャーナリストもいるだろう。だが、企業のトップやビジネスマンにとって、取材対応は仕事だ。目の前の記者を一喝しても、いい結果は得られない。「取材を受ける」という意味を考えてみるべきだろう。

まず、メディアの人間が取材に来る場合、それぞれが談合して質問項目を決めているわけではないから、たいていは同じ内容の質問になる。そして、取材に慣れている社長、発信力のある社長は5度も6度も同じ質問をされても、ちゃんと、視聴者や読者を想定して、違う答えを返す。つまり、取材に答えるとは、同じ質問に対して、どれだけバリエーションをつけて答えることができるかなのである。

要は、社長たる者、勉強不足のジャーナリストを叱るよりも、テレビカメラや新聞、雑誌の背後にいる大衆に向かって話をするべきなのだ。目の前の人間にとらわれてしまうのが発信力のない経営者、ビジネスマンの特徴と言える。

その点、取材に対して上手な受け答えをしているように見えるのが前澤友作だ。「初めて取材を受けたのはまだバンドをやっているころでした」

前澤は日本最大のファッション通販サイトZOZOTOWNを運営するスタートトゥデイの創業者で社長だ。取材の意味をよくわかっているし、発信力を備えている。

「パンク雑誌の『ドール』からインタヴューを受けたのが最初で、以来、私の取材に対するスタンスは変わっていません。取材はひとつの仕事です。プロフェッショナルにやりたい。質問をくださる記者の方、撮影してくださるカメラマンの方が面白いと感じてくれることを言いたい。

そして、内容が読者に伝わることを意識して話します。うちの会社のことを何も知らずにくる記者もいますし、上っ面だけを聞いていく人もいます。それでも、私はちゃんとやると決めたので、なるべく興味をもってもらえる話をします」

こうした受け答えを聞いていると、前澤友作は35歳と若いのに、「大人だなあ」と感心してしまう。

ミュージシャンからEコマースサイトの寵児へ
(記事引用)

ZMP、谷口恒社長の作るロボット

「ロボットタクシー」で話題のベンチャーZMP、谷口恒社長の思いとは
dot.asahi.com(更新 2015/7/27 16:00) 
今、自動車の自動運転システムの開発によって、世界から注目を集めるベンチャー企業がある。ロボット専業企業の株式会社ZMP(ゼットエムピー=東京都文京区)は「Robot of everything」をミッションに掲げ、自社のロボット技術をさまざまな産業に活かしている。日本では珍しい“ロボットベンチャー”の同社。その始まりから未来への可能性までを創業者で代表取締役社長の谷口恒氏に聞いた。

15年前からロボット開発、自動運転カーにつなげる

 ロボットが身近な存在へとなりつつあるなか、15年も前から開発に尽力してきたZMP。同社が開発を進める自動運転カー「RoboCar(ロボカー)」が熱い注目を集めている。

「自動運転技術とは、A地点からB地点まで自動で運転する技術のこと。まず最初に、障害物や標識などの道路状況をスキャニングする測量用の車を人が運転し、地図データを作ります。そのデータを自動運転システムに送信し、地図データと実際の道を照合しながら走行するのが一般的な自動運転カーの原理です。最近話題になっているグーグルやメルセデス・ベンツの“ドライバーレス(無人運転)カー”も、同じような技術の研究を進めているようです」と谷口社長は語る。

 見えない線路を頼りに道を走る自動運転カー。この技術を開発するきっかけとなったのは、2007年に同社が開発した“自律移動”する音楽ロボ「miuro(ミューロ)」だ。

 このmiuroは、一度リモコンでロボットを操作し、道のりを記録。時間を設定すれば、毎日同時刻に音楽を流してくれる。まさに、自動運転カーの元となる製品だった。

音楽ロボの技術が切り開いた自動運転への道

 その2年後には、乗用車の1/10サイズのミニカーに自律移動技術を載せた「RoboCar1/10」の自動運転に成功。次に1人乗り自動車に搭載して販売した。「12年にはトヨタの乗用車プリウスをベースにした『RoboCarHV』を売り出しています」。

 開発以来、自律移動はZMPのコア技術となり、さまざまなロボットに搭載されている。

「車以外でも、鉱山や農機メーカー、人手不足の物流業界など、自社の自動運転技術によって多くの仕事をラクにしたい、という思いがあります」。

技術者から営業職、そして起業家へと転身

 もともと車好きだったという谷口社長。学生時代には、アルバイトで貯めたお金で2台のスポーツカーを購入して乗りこなしていたという。
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「僕が大学生の頃は『いい車に乗ってるとモテる』という法則らしきものがあったんです(笑)。それから車が好きになって、卒業後には自動車の開発メーカーに就職しました」。

 当初はエンジニアとして、ABS(アンチロックブレーキシステム)の開発をしていたが、その後技術系の商社に転職。「世界のハイテク機器を日本に持ってきて研究所やエンジニアに売る用途開拓や、技術営業職として7年働きました」。
 谷口社長が商社で腕を磨いていた90年代後半、インターネットの可能性が、少しずつ世間に認められ始めた時期でもあった。

「ネットの登場で、将来は物流ではなくコンテンツの流通が必要になると感じた。ただ、社内でそれを言ってみても、みんなポカーンとしてたんですよね」。

 ネットが広く知られていなかった90年代。既存企業で新しいネット事業を始めるのは至難の業だった。そこで同社長は、後輩を誘って1998年に写真や音楽などのコンテンツをネット上で販売する企業を立ち上げた。今では当たり前ともいえる事業だが、18年前には最新鋭のサービスだった。「ロボットもそうですが、なんでも最先端が好きなんですよね」と、笑う。

「米国を追いかけるのはもう嫌だ!」

 しかし、順調に業績が伸びてきた矢先に“ネットバブル”が崩壊。手堅い経営をしていたため、痛手にはならなかったが、これを機にネットビジネス以外にも目を向け始めたという。

「ネット事業は、アメリカのビジネスモデルを追いかけているものばかり。ネットバブルが崩壊したと同時に『アメリカを追いかけるのはもう嫌だ!』なんて思っていた頃、ロボットに出会ったんですよ」。

 知り合いのエンジニアが文科省のヒト型ロボット研究所に転職。そこを見学したことが、谷口社長とロボットの運命の出会いとなる。

「その頃、文科省が研究した技術を民間に渡して産業化するテクノロジー・トランスファー(技術移転)が流行していました。そのとき、ロボットならアメリカと競争する必要もないし、技術もある。日本が世界に発信できる産業だ!と感じて文科省に申請したのがロボット開発の始まり。勝算があったわけじゃない」。

 その後、科学技術振興機構(JST)からヒト型ロボットの技術移転を受け、2001年にZMPを立ち上げた。

 同年には、二足歩行やダンスを得意とするロボット「PINO(ピノ)」を発表。イベントやテレビコマーシャルにひっぱりだことなる。

「当時、ヒト型ロボットを扱っていたのはホンダさんとSONYさんとうちだけ。ほとんど競争はありませんでした。今の『自動運転カー』もうちしかやってない事業。競争がない市場を開拓することが多いんですよね」。

自動運転タクシーはすでに名古屋で実験中

 同社が今進めるのは自動運転機能を搭載したタクシーが街を走る「ロボットタクシー」事業だ。先日、サービス実現に向けてネットサービス大手のディー・エヌ・エー(DeNA)と合弁会社を設立したばかり。

「ロボットタクシーはスマホアプリで目的地を選んで無人のタクシーを呼び出し、目的地まで自動運転で連れて行ってくれる仕組み。実は、昨年から名古屋の市街地では自動運転タクシーの実験が始まっています。法律の問題があるので今は運転手が乗っていますが、これから3年は安全性や利用者の反応など、さまざまなデータを集めて国に自動運転カー使用の許可を申請する予定です。2020年の東京オリンピックには、街を走る無人タクシーに乗れるかもしれません」。

 法整備の前に実験を始める――、誰よりも早く先手を打つ姿勢こそ、ZMPの強みだ。

「自動運転カーや無人タクシーが実用化されれば、バスやタクシーが減少している地方で大活躍するはず。交通の不便さが理由で“田舎”には住めない人が増えています。困っている人たちがすごく喜んでくれることが、ロボットタクシーを開発するモチベーションにつながっています」。

 ロボットタクシーが“未来”を乗せて私たちを迎えにくる日が待ち遠しい。

大貫 未来 株式会社清談社
2011年から東京IT新聞のインタビューコーナー「IT×新ビジネス 創造人」に携わる。書籍から雑誌まで幅広く担当する編集者・ライター。
(記事引用)

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