Galapagos Japas

国際政治と日本の古代政治変遷歴史 明治維新など特に集中して書いている

2016年03月

日本最大規模の銀行=三井銀行設立

日本最大銀行三井銀行誕生 
趣味の経済学 http://www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/sinwa-3.html
( 2006年5月22日 TANAKA1942b )
江戸時代における信用機構は、両替商を中心として高度な発達を見せていたが、幕末維新期の動乱と変革によって、その多くが崩壊したため、明治政府は改めて欧米の銀行制度を導入し、信用機構の再構築につとめたとされてきた。
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確かに1868年(明治元年)の銀目廃止措置を契機に大阪の両替商の多くが倒産したが、両替商による金融が全面的に崩壊したわけではない。
とくに幕末の横浜開港以降の貿易品の流通を金融的に支えてきたシステムは、外国商人の内地侵入を阻止し、日本商人の資本蓄積を可能にした点で、重大な意義をもっていた。
明治政府は、1871年の廃藩置県によって全国の租税を集中管理しなければならなくなったが、中央銀行はもとより民間銀行もなかった当時、頼りにしたのが三井・小野・島田のいわゆる為替方御三家の信用ネットワークであった。 しかし、小野・島田両組は、1874年(明治7年)の官金抵当増額令によって破綻を余儀なくされ、三井組だけが存続し、76年には当時日本最大規模の三井銀行を設立する。
 
<三井両替店の創業>
店前売りや切り売りをはじめとして、越後屋の商法は本町の呉服屋たちから見れば、横紙破りのものばかりであった。
そのために同業者から取引を停止されたり、「無法の商ひ」をすると訴えられたり、店員の引き抜きを策されるなど、さまざまの妨害を受けながらも、 三井の新店は着々と業績を伸ばしていった。
そして、たまたま、開店後10年目の天和2年(1682)12月28日の大火に、本町の町並みは一夜にして灰尽に帰したのである。

「三井高利」は、この機会に店舗を隣町の両替屋街である駿河町に移して、翌天和3年5月に、有名な「現金安売掛売なし」の看板を掲げて、はなばなしく開店した。 
店の位置はちょうど現在の三越本店のあるところである。当行の前身である三井両替店が創業したのは、まさにこの時であった。それは西暦1683年、今年、昭和31年から数えて実に273年の昔である。 店は表口3間1尺6寸、奥行8間、呉服店の西隣であった。やはり現在の三越のビルの一部にふくまれるた位置である。(中略)  このようにして三井両替店は、越後屋のための補助的な機関として、ここに発足した。そして、これこそが当行の起源であった。 

(『三井銀行八十年史』から) 
<三井銀行の創立> 
江戸時代に巨大な富を築き上げた大商人の中には、幕末維新の激動にあたって昔日の面影を失う者も少なくなかった。そのなかにあって、三井が威信政府の為替方として活躍し得たのは、大商人の中で朝廷方に加担する態度を最初に鮮明にした功績によると言われる。
しかし、その三井にしても江戸時代には幕府御用をつとめ、成長してきたことは前述のとおりであり、文久3年(1863)年11月ごろまでは幕府方との連携を強化にて、経営危機を乗り切ろうとする気運の強かった。
一方、京都の大元方は勤皇派の情報収集につとめ、大坂両替店は慶応元年(1865)薩摩藩のため、琉球通宝の引替御用を新に引き受けた。いわば三井は、幕府・朝廷双方の動きを慎重に見守っていたのである。 三井が最終的決断を迫られたのは、慶応3年(1867)12月の王制復古の発令、維新政府成立のときであった。

すなわち、新政府が最初に直面した緊急問題は財政問題であって、ただちに大蔵省の前身となる金穀出納所を設置して、三井三郎助(高喜=たかよし)・小野善助・島田八郎左衛門にその御用達を命じたのに対し、三井は率先してこれを受諾したのである。
ついで慶応4年正月、三井三郎助は出納所為替御用達となり、2月には金穀出納所の改称にともない会計事務局御為替方に任命された。

そしれ、これと同時に御為替方三井組を称するようになった。(中略)  維新以来、三井は為替方として政府の金融事務を担当、あるいは為替会社の総頭取の地位につき、着実に近代的銀行業者としての体験を重ねたが、さらに明治4年(1871)6月、政府の新貨鋳造事業の一翼を担うことになった。地金回収と新旧貨幣交換の御用を命ぜられたのがそれである。

政府は、幕末以来の極度に混乱した貨幣制度を整理統一するために、明治2年7月慈雨閉局を設ける一方、大蔵少輔(しょうゆう)伊藤博文の献策に基づいて金本位制を決定し、4年5月「新貨条例」を発布、鋳造すべき新貨幣の品位・量目・種類を定めた。
(中略)
第一国立銀行が設立された後も、三井組は単独で銀行設立の準備を進めた。明治8年(1875)3月、三井組を三井バンクと改称し、部内に対し三井バンクをもって全三井の中枢とする旨を通達した。ここにおいて、宝永7年(1710)以来の大元方の役割は否定され、三井バンク大元締役場がこれを引き継いだのである。(中略)  明治8年7月、三井八郎右衛門(高福)らを発起人とし、三井組総取締三野村利左衛門の名をもって、銀行設立願書を東京府知事あてに提出した。 

この三井銀行創立願書に対して、政府はどのような態度をとったか。国立銀行条例は、国立銀行以外に「銀行」と称する異を禁止していた。
したがって、三井銀行の創立出願についても当然この点が問題になった。 しかし国立銀行の設立は、政府の予期に反して第1・第2・第4・第5の4行にとどまり、しかもこれらの国立銀行も内外の経済環境の変化により、明治7年ごろから兌換銀行券を発行しても、ただちに正貨に兌換されるありさまであった。 

このような情勢のなかにあって、大蔵省は明治8年3月31日、ようやく東京府に対し条件付認可の指令を与えた。三井組の修正に対し、政府は明治9年5月23日付をもって許可の指令を与え、ついで6月30日、三井組大元方代表の三井三郎助(高喜)と三井銀行代表の今井友五郎との間に事務引継ぎが行われ、翌明治9年7月1日を期して三井銀行は開業した。 

(『三井銀行100年のあゆみ』から) 
<三井銀行の貸出金と預金額> 単位千円 
年月末 貸出金 預金額10.12 7,607 7,62311.12 5,796 6,41612.12 4,220 5,23413.12 4,283 5,34214.12 5,124 6,15715.12 8,291 14,34416. 6 8,076 14,78817. 6 7,382 10,59024. 6 17,974 16,39026.12 10,938 16,77530.12 20,406 25,06434.12 18,469 29,04838.12 35,232 49,38842. 6 64,872 78,319  

これによってみると、明治10年代における当行の貸出金額は、官金取扱制度の改正による資金量の減退に伴って、停滞状態を続けていたことが知られる。
特に10年代の初期には、創立当初に比して相当の減少傾向を示し、その後次第に回復したあとが認められる。
明治26年12月期の合名会社としての当行最初の決算において、1,090万円であった貸出金は、その後、日清・日露の両戦争を経た明治42年6月には6,400万円巨額にまで累増を見たのである。
 これは、もっぱら当時の日本経済の急速な発展に負うところであって、預金の場合と同じく、同業者間に一般に見られた現象である、 試みに同期間における主要な同業者の貸出金の動勢をみても、その増加はいずれも顕著なものがあり、当行の増加は必ずしも特異な現象ではない。
特に増加率の点では住友・安田両銀行の進出が著しく、金額では第一銀行が当行とほとんど肩を並べるに至っている。
  
<安田銀行の創業者=安田善次郎> 
当行の創業者安田善次郎は富山の出身である。安田家は江戸中期の宝永2年(1705)に備後国福山から越中国婦負(ねい)郡安田村に移り、農業を営んだ。 
この地は現在の富山市の中心部から約5キロメートルを隔てた婦負郡婦中(ふちゅう)町安田である。
元文2年(1737)に一家の三男楠三郎が、富山藩の城下婦負郡富山の新町という場所に分家し、「安田屋」という屋号を用いて商業に従事した。 楠三郎から4代のちの善悦は、新町から婦負郡富山の鍋屋小路に居を移し、ここで天保9年(1838)10月9日に善次郎(幼名岩次郎)が誕生した。
そのころの一家は半農半商の生活を営んでいた。(中略)  善次郎は16歳のときに、郷里から江戸への出奔を企てた。当時、富山から神通川をさかのぼり飛騨に入り、飛騨から野麦峠越えなどの方法で信州に至る交通路があった。

この第1回目の出奔では、飛騨の山中で一夜の宿を借りた家の主人から無断で家出をした点を諄々と諭され、両親の元に引き返した。しかし都会に出たいという善次郎の気持ちは強く、18歳のときに再び江戸を目指し、いったんは江戸に到着したが父の依頼で追ってきた叔父に引き戻されてしまった。 

父は富山藩士の地位を善次郎に継がせたかったのである。  善次郎がようやく父の許しを得て江戸に出たのは安政5年(1858)、19歳のときであった。
安政5年といえば、ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航してから5年後であり、日米修好通商条約が調印され、次いで他の列強諸国とも同様の条約が結ばれて、日本の鎖国政策が完全に終わりを告げた年であった。これから10年のちに、日本は明治維新を迎えることになる。 

奉公時代 江戸に出た善次郎は、江戸の地理人情を飲み込む必要があると考え、江戸中の至る所にあった玩具屋に卸売する玩具問屋に奉公人として2年あまり住み込み、さらに海苔屋兼両替屋に3年勤めた。

海苔屋兼両替屋では、金銀鑑定眼を身につけ、両替業務の手代に昇進した。このころ、鰹節屋に勤めていた大倉喜八郎(のちの大倉財閥の創始者)と知り合っている。 
江戸に出て5年余の奉公ののち、善次郎は元治元年(1864)に25両の資本で独立し、人形町通り乗物町(現在の中央区日本橋掘留町)に家を借りて、銭両替と海苔、鰹節、砂糖の小売を営むことにした。

間口2間、奥行5間余りの家で、安田屋と称した。善次郎はこのとき25歳であった。銭両替は一般に日用品の小売業を兼営したが、これは小売りによるたまり銭を金銀貨の両替に用いることができるという利点があったからである。 

のちに江戸町奉行所から東京府に引き継がれた『諸問屋名前帳』によると、善次郎が元治元年3月18日、三組両替の組合員の権利を取得したと記されている。

また、立会所単位の組合組織のなかでは、善次郎は両替町組に加入していたと『富の礎』で述べている。善次郎は得意先(商家や武家)を巡回して、金銀貨と銭貨を交換して手数料を得、また同業者との銭貨の売買によって差益を得た。
「江戸では湯屋の客が随分朝早くから来る、だから客の来ない暇に湯屋を回り、小銭を集めるとすれば、殆ど夜の明けぬ暗い間にせねばならなかった。ところが善次郎は根気よくこれを続けた」(保善社内伝記編纂所『安田善次郎全伝』昭和2年刊)。
やがて善次郎は早朝から両国、浅草、芝の両替屋仲間を巡回し、交換の用に応ずるようになった。
「仲間の方でも至極これを便利とし、私を歓迎するので、段々利益を得た」(『富の礎』)と述べている。 安田屋開業の翌年、慶応元年(1865)には、善次郎は仲間から両替町組の肝煎(きもいり=幹事)に選ばれていた。
元治元年3月に開店したとき、店員は1名であったが、1ヶ月後に2名となり、11月に善次郎は結婚した。店は繁盛して、年末までの9ヶ月間に68両の純益を挙げたといわれる。 

幕末の商機=安田商店の発足 安田屋開業から3年目の慶応2年(1866)4月に、善次郎はかねて目をつけていた小舟町3丁目(のち昭和7年9月の町丁名整理により1丁目となる)に家を買って、店を移転した。 土蔵付きの家で、店は間口2間半、奥行3間半、広さ約9坪(30平方メートル)という規模であった。

当時の地図を見ると、すぐ前の、てりふり町の通りは商店街であったばかりでなく、荒布(あらめ)橋を渡ると魚河岸、その先は日本橋であり、また荒布橋の下を流れる西掘留川の岸には米屋が多く、商用の人たちがてりふり町を往来して、賑やかな通りであった。 

為替方と官金預金 明治政府が、為替会社や国立銀行制度の導入をはかっている間、善次郎は着々と安田商店の基礎を築いていった。最大の課題は資金源である預金の増加であった。
 安田商店の預金高は、慶応3年末、8口、1,751両から3年後の明治3年末に11口、2万1,659両となり、さらに3年後の6年末には31口、6万710円(4年の新貨条例で1両は1円となった)に増加した。
明治初期の金融機関は官庁などの為替方としての役割を果たした。為替方というのは「国庫ニ収納スル金銭ノ鑑定収入逓送若クハ支出ノ事務ヲ掌ルモノ」(『明治財政史』第4巻)である。
為替方の指定を受けた金融機関には、結果として多額の官金預金が滞留した。 

新政府ができたころの、当初の会計事務所の為替方には、三井組、小野組、島田組といった歴史のある本両替屋が任命された。
為替会社や国立銀行制度の導入にあたり、官金出納取扱いの特典が与えられた。 国庫金を総括する大蔵省の官金出納は6年7月、第1国立銀行の開業とともに同行に委託された。
大蔵省以外の各省、各府県は、それまで随意に民間の商会または豪商に現金収支事務を委ねてきたが、このときから為替方の任命には大蔵省の許可を要し、かつ第1国立銀行の契約に準じ契約を締結することが必要になった。

次いで同年12月、経費出納方法が定められ、省については常額経費の年額を12に分割し、毎月初めに大蔵省から交付するという方法がとられ、府県については申請によって半年分を交付することとした。これらの資金は民間の為替方を通じて受払いが行われた。
官金の取扱いには、預金高の3分の1に相当する担保(公債証書または不動産)を要したが、7年10月、規則が厳重になり、預金高の全額に担保を要することになった。

この結果、有力な為替方であった小野組、島田の両組は、増し担保の提供が不可能となったため、同年12月までに相次いで廃業に至った。
8年1月、大蔵省は小野、島田両組に為替方を命じていた府県に対し、第1国立銀行に委託先を帰ることを令示した。一方、大蔵省事態の官金出納については、9年3月から第1国立銀行の取扱いを廃し、大蔵省出納局が自ら管掌することになった。

このように官金取扱いの厳正化がはかられている時期に、善次郎は司法省為替方(7年10月)、東京裁判所為替方(翌8年8月)、栃木県為替方(同12月)に相次いで指名された。 

為替業務の開始 江戸時代には、物資の集散地であった大坂を中心として為替業務が著しい発達を遂げた。大坂と江戸との間では、①諸藩が自国の物資を大坂で売り捌いた代金、あるいは大坂で金策した資金を江戸の藩邸に送金する。
 
②江戸の商人が大坂から積送された商品代金を大坂に送金する、といった目的の為替のほか、③幕府の御用金を江戸に送金する公金為替が行われた。

公金為替も一般為替も、その取扱いは本両替屋が主で、銭両替屋には「為替といふものは僅かしかなかった」(『富の礎』)。しかし明治維新前後の動乱期を経て、大坂、江戸双方の両替商に盛衰があり、従来、為替を取り仕切ってきた組織が崩れたために、為替業務の分野でも善次郎の実力が発揮されるようになった。安田商店が初めて隔地間の為替業務を手がけたのは、明治8年となっている。 

第三国立銀行の開業 当初の国立銀行制度について事態の経過を見守っていた善次郎は、国立銀行条例の改正で金禄公債を資本に銀行券が発行でき、しかも銀行券の金貨との兌換が免ぜられるという新制度の利点に着目、改正条例が布告される前日の9年7月31日に、主な出資者となる人たちと出願の手筈を決め、8月2日にいち早く国立銀行創立願を提出した。 
認可は明治9年9月6日付で下りたが、東京国立銀行という名称は許可されなかったので、改めて第三国立銀行を願い出て9月14日に決定をみた。国立銀行はすべて願書受付の番号を名称としており、第三の名称は、5年に大阪の鴻池家に許可済であったが、都合によって設立が中止されていた。

善次郎は安田家の祖先が三善姓を名乗っていたという来歴から、三の数次に特別の愛着をもっていたといわれる。
第三国立銀行は明治9年12月5日、安田商店と道路をはさんだ向かい側、西掘留川沿いに開業した。当初の建物は善次郎所有の土蔵を改造したものであった。 

国立銀行設立指導 明治10年以降国立銀行が各地に誕生したが、地方における国立銀行設立当事者の大多数は銀行についての知識がなく、事情に精通する国立銀行設立経験者に意見や助言を求める向きが多かった。したがって、第三国立銀行設立の体験を積んだ善次郎に対し、設立指導を請う国立銀行が後を絶たなかった。 

安田商店の近代化 善次郎は第三国立銀行頭取に就任することによって名実ともに銀行家としての第1歩を踏み出した。

しかし、第三国立銀行への出資金は、安田商店が蓄積した資金の中から投下されたものであり、安田商店が母体であつ点に変わりはない。

善次郎は第三国立銀行を設立する一方で、安田商店の近代化に取り組んだ。
善次郎が第三国立銀行を設立した明治10年には、国立銀行の数は20行となり、このうち京浜地区に本店または支店のある銀行は10行で、9年7月に開業した私立三井銀行を加えると敬11行が営業していた。 

同一区域内に多数の銀行が開設されるにつれ、同業者間の強調と親睦が必要となり、指導的立場にあった第一国立銀行頭取渋沢栄一は、銀行業者の団体組織の結成を提唱した。
 このとき善次郎(第三国立銀行頭取)は、原善三郎(第二国立銀行頭取)、三野村利助(三井銀行副長、副頭取にあたる)と供にただちに賛意を表明、その他の同業者も全員が賛同して、10年7月、京浜地区銀行家の団体として択善会が発足した。 

合本安田銀行の設立 明治12年4月に設立願を出した共立銀行(同年6月認可、資本金15万円、開業後間もなく閉店)を発端として、13年6月までに共立銀行を含めて24行の私立銀行が設立を認可され、以後私立銀行の設立が急増した。
こうした私立銀行設立の気運が高まるなかで、明治12年11月11日、善次郎は安田商店を改組することとし、「合本安田銀行設立願」を東京府知事に提出した。

合本安田銀行の設立認可は、明治12年12月」26日、東京府知事から認可が下りた。私立銀行としては三井銀行から数えて5番目であった。

設立資本金については安田商店から引き継いだ資本金15万円、積立金1万円に善次郎の拠出4万円を加えて20万円とした。頭取には善次郎の養子、安田卯之吉(明治14年善四郎と改名)が就任、善次郎は監事に就いた。善次郎は当時第三国立銀行頭取の地位にあり、国立銀行条例の精神に基づいて、私立銀行との兼務を避けたものと考えられる。
                  
<合本安田銀行の誕生> 
明治13年1月1日、合本安田銀行は輝かしく開業の門出を迎えた。開業時の大略を述べると、まず本店を日本橋小舟町3丁目10番地の旧安田商店店舗に定め栃木、宇都宮の2店を安田商店から継承して銀行の支店とし、資本金は20万円、株主は安田一族のみであった。 

株主公正からみれば、安田銀行は安田一族の私利追求銀行として設立された観があるが、善次郎の真の意図は、あくまでも大衆一般の商業銀行を目的とし、安田商店の精神を新しい視野に立って刷新し、 社会的銀行としての使命を全うすることを念願としたものだった。

つまり、運用利益をもって安田一門将来の資本充実に備えたのであって、このことは、株主全員が無限責任者として全責任を負い、利益をうるの余地を与えざる態勢とし、 また純益の40%を社内留保とし、50%の株主配当も現実には分配せず、銀行の別段預金として内部資本の蓄積に努めたことによっても知られる。

役員は選挙の結果、頭取に安田卯之吉(明治14年善四郎と改名)、監事に善次郎、取締役には安田忠兵衛が就任し、使用人は支配人、手代、見習役(注、当時はこれらも役員と称した)の3段階に分け、旧安田商店店員31名全員がそのまま銀行に移行した。

善次郎があえて頭取に就任しなかった理由は、当時第三国立銀行頭取として同行の業務執行責任者であり、「国立銀行条例」成規により他銀行との兼職禁止を規制されていたからであった。 後年(注、明治20年7月)保善社規則制定の際に、保善社総長は安田銀行頭取を兼職し得ない条項を規定し、安田銀行の事務については、すべて頭取の責任に委せ、監事の地位にとどまったのも、その延長なのであった。
 
<銀行設立への助走──並合業から始まった住友銀行>
住友銀行が設立されたのは明治28年(1895)だが、その発端はそれより20年ほど前の住友家が並合業(なみあいぎょう)を始めた明治6年か7年にまでさかのぼることができる。
両替屋が行う町人貸しには、信用のみの「素貸(すがし)」と担保をとる「並合(なみあい)」があった。明治2年に江戸出店を閉鎖して金融から完全に手を引いていた住友家は、この「並合」をひとつの業として金融を再開した。  

明治6年に住友家は富島に出店を設置した。この出店はやがて住友の門点となるところだ。富島は現在の大阪市西区川口にあたり安治川に面した水運の要地だ。

そこには多くの雑穀問屋や回船問屋が集まり長州藩の蔵屋敷もあった。 また税関と税務署と外交をかねた機能をもつ役所である運上所も設置されていた。

富島の住友家には、別子銅山および神戸支店送りの貨物を藏置きするための土蔵があったが、それはごく一部が利用されるにとどまっていた。 
富島の問屋たちはこれに目をつけ、その空いた土蔵の利用を申し出て商品を寄託するとともに、そこに寄託した商品を担保に金融を求めるようになった。

本店にはかつて江戸詰で両替商の任にあたっていた香村(こむら)分之助が在籍していたので、商人の申し出にこたえて商品担保金融へ進出するのは容易だった。こうして始めた並合業の主任に香村があたった。これが住友銀行の発端である。 

当時大阪では、維新後衰退していた大阪経済を復興させるため、同業者が団結して大阪商法会議所をつくり、そこで同業者組合設置運動が行われていた。
ところが「並合業」という独立した業種はもちろんそれに類似のものもなく、並合業はしかたなく質屋商仲間組合に編入されることになった。

当時の法令では、この業務をいとなむのに質屋ろしての許可が必要だった。そのため住友家はやむなく質屋商営業の鑑札を受けたが、「並合業」は小口の庶民金融を行ういわゆる質屋とは大きく異なり、おもに問屋を相手にした大口の商業金融だった。

明治8年の記録の中に、米並合と炭並合の前年度未回収金の繰り越しがあるので、7年には並合取引が若干行われていたことははっきりしている。 

このことから富島に出店を出した6年にもおそらく並合業は行われていたものと考えられる。8年の記録に「3月6日 米並合、東嶋孝兵衛 2000円」、「4月7日 中国米1882俵並合、井上治郎兵衛・那須長蔵 4450円」などの記録が見られる。

そのあと並合業務は次第に増えて、13年末には融資残高が4万9075円となり、ほかの勘定と区別されて記録されるようになった。翌14年末には11万6879円と1年間で2倍以上に増加している。(中略) 

明治18年末の銀行の規模を見ると、国立銀行139行の1行あたり平均貸出額が46万7000円であったかた、住友の並合業はその4分の3に相当した。
個別に見ても、三井など一部を除けば当時の銀行は零細なものが多かったので、住友の並合は当時の中堅クラスの銀行に比肩する規模にまでなっており、これが全額自己資金によることを考えると、住友の並合は相当規模の金融業務を行っていたことになる。

住友家は願書どおり明治28年11月1日、資本金百万円を用意するとともに住友本店にあった貸付債権115万7247円余を移管して、銀行業務を個人経営として開始した。資本金と貸付債権との差額は住友本店が別段預金として預けた。 
 
<三菱各事業の独立─三菱合資会社からの独立>
第1次大戦中におけるわが国経済の興隆に呼応して、三菱合資会社各事業の発展は目覚ましいものがあり、そのため前述の通り合資会社は漸次組織を分化して各事業に独立性を付与しつつあった。

そして遂に一大英断に出て、各事業を合資会社から分離して、独立の会社となし、あわせて外部資本導入の道をひらくこととなった。
すなわち先ず大正6年10月造船部門および朝鮮兼二浦の製鉄業を夫々三菱造船株式会社、三菱製鉄株式会社とし、続いて7年4月鉱山、炭鉱部門および営業部門を夫々三菱鉱業株式会社、三菱商事株式会社として独立させた。

他方合資会社自体も7年5月資本金1,500万円から3,000万円に増加し、従来の総合事業会社から有価証券および不動産の保有、運用を主とする持株会社に転向を開始した。
斯くて銀行部門も三菱合資会社から独立することに決定し、翌8年8月株式会社三菱銀行の創立をみた。 これに就いてはこのような合資会社の全事業独立の方針の他に、次ぎのような、当時の銀行界と合資会社首脳が抱いて居た銀行事業の積極的拡充の意図とを見逃すことができない。

当時一般に銀行の規模は各種企業の勃興、拡張に即応して漸次拡大し、増資、合同並びに改組が盛んに行われた。 

即ち銀行拡張計画資本は6年以降大幅に増加して大正8年には6億4,000万円となり、また銀行合同も盛んに行われ、合同参加銀行は8年には104行に達し、且つこれ等増資、合同の結果として、1行当たり資本金も倍増した。

また銀行業にあっても他の事業におけると同様従来の合資、合名組織を株式会社に変更するもの多く、新に設立する場合は原則として株式会社を採用する傾向がみられた。このような情勢の下にあって三菱合資会社首脳部は銀行部の画期的な拡充を意図した。 

銀行部は明治28年創設以来その業績著しく躍進し、大正8年6月末には預金2億2,800万円、貸出金1億9,500万円、所有有価証券2,000万円となり繰越金も実に1,459万余円に達した。 

然るに資本金は発足当時の100万円に変化なく、店舗数は第1次大戦中の増設店舗を併せても僅かに本店他9店に過ぎず、従って大戦の経過と共に現れた三菱関係諸事業並びに一般諸事業の膨張発展に対応し、且つ将来の発展を図るためにはその資本金を大幅に増加し、一層広く一般の信用を獲得する必要があった。

而して資本金の増加は銀行部が独立せず合資会社の1部門としてでも可能であり、寧ろこれが銀行部の発展を期する所以であるとする意見もあったが、銀行業の国民経済に占める役割が増大し、その公共的使命が加重されたことに鑑み、個人的色彩の強い合資会社の1部門として利業することはもはや一般の信用を得る上に適当でないと判断され、 茲に大正6年以来三菱各事業に就いて実施されてきた分離独立の方針に従い大正8年8月株式会社三菱銀行の創立となるに至ったのである。
(記事引用)
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パブロ・イグレシアス

パブロ・イグレシアス・トゥリオン
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(Pablo Iglesias Turrión, 1978年10月17日 - )、スペイン・マドリード出身の政治家。2014年からポデモス党首。

政治家になる前は著作家、マドリード・コンプルテンセ大学の政治学教授、テレビの政治討論番組司会者として活動していた。2014年5月にポデモスから欧州議会議員選挙に当選して欧州議会議員となり、11月にポデモス党首に就任した。現在でもテレビ番組「ラ・トゥエルカ」と「フォルト・アパチェ」の司会を務めており、また頻繁に政治討論番組に出演している。

学術活動
1978年にマドリードで生まれた。2001年にコンプルテンセ大学で法学の学位を取得し、2004年には政治学の学位を優等で取得した。
2008年にはポストナショナル・コレクティブ・アクションという主題で政治学の博士号(PhD)を取得し、政治学のMAS(英語版)と教員免許を傑出した成績で取得した。2010年にはマドリードのカルロス3世大学で、映画の政治的分析という主題で人文科学の修士号を取得し、スイスのEGS(英語版)では政治理論、映画、精神分析を学び、2011年に情報科学の修士号を取得した。その後はコンプルテンセ大学で政治学の主任教授を務め、2014年9月には同大学の名誉教授となった。

イスパンTV(英語版)の政治討論番組「Fort Apache」(アパッチ要塞)とプブリコTV(英語版)の「La Tuerka」で司会を務め、コン・マノ・イスキエルダ(左手とともに)という制作会社で放送ディレクターを務めた。2002年以降には、学術雑誌に30本以上の論考を発表している。

イグレシアスは自身を左翼の位置に置いており、かつてはスペイン共産党(PCE)の党員であり、また反グローバリゼーション運動に参加していた。
2014年1月には、数か月後の欧州議会議員選挙参加を見据えたポデモス運動の主体者のひとりとなり、4月3日の公開予備選挙でポデモスの選挙名簿筆頭に選ばれた。ポデモスは欧州議会議員選挙で5議席を獲得して、国民党(PP)、社会労働党(PSOE)、イスキエルダ・プルラル(IP、「多様な左翼」)に次ぐ第4党となり、イグレシアス自身も欧州議会議員に当選した。ポデモスは欧州議会で欧州統一左派・北方緑の左派同盟(GUE/NGL)に所属し、6月25日、イグレシアスはGUE/NGLから欧州議会の議長に推薦された。
はい、私の国の市民が主権と社会的権利を回復するためにそれ(政権)を変えるまで、(活動しつづけることを)誓います

— 欧州議会議員就任後

スペインにおける2014年のBing検索ランキングでは、大流行を見せたエボラ出血熱、黒字化を果たした国有銀行のバンキアに次いで、イグレシアスが第3位にランクインした。

イグレシアスはプブリコ、Kaosenlared、ディアゴナル、レベリオンなどのメディアに記事を寄稿している。2013年10月にはメディア活動による社会変革の功績が称えられ、カルロス3世大学のジャーナリズム・視聴覚情報学科からエンフォカドス賞を授与された。同じ賞をイグナシオ・エスコラールとジョルディ・エボレも受賞している。

2003年、「テレK」(Tele K)によるテレビ番組「ラ・トゥエルカ」の司会に就任した。2012年11月、テレビ番組「ラ・セクスタ・コルムナ」のコーナー「ラホイの1年」にアナリストとして出演し、2011年に与党の座に就いた国民党のマリアーノ・ラホイ政権の1年を分析した。

2013年5月、イグレシアスは「インテレコノミア」(Intereconomía Televisión)が放送するテレビ番組「El Gato al Agua」にゲストとして招かれ、2012年9月25日にマドリードで起こったデモ「Rodea el Congreso」について発言した。
これ以後には他のメディアからも出演依頼を受けるようになり、「エル・ガト・アル・アグア」、「エル・カスカベル・アル・ガト」(13 TV)、「ラ・セクスタ・ノチェ」(ラ・セクスタ)、「ラス・マニャーナス・デ・クアトロ」(クアトロ)、「24h ノチェ」(24時間ch)などの討論番組で人気のゲストとなった。

祖父のマヌエル・イグレシアスはフランコ体制下のスペインで死刑宣告を受けたが、彼に対する告発の不正が証明されたため、死刑は執行されなかった。
母親のルイサ・トゥリオンはスペイン労働者委員会(CC.OO.)の顧問弁護士、父親のハビエル・イグレシアスは元歴史学教授で労働監督官である。
イグレシアスによれば、父親はマルクス・レーニン主義・反フランコ主義の過激革命組織FRAP(英語版)のメンバーだった。イグレシアスの名前は、社会労働党(PSOE)を創設した社会主義者のパブロ・イグレシアス (1850年生の政治家)に由来している。
(資料ウィキぺデア)


スペイン パブロ・イグレシアス党首PSOE及びIUとの連立を提案

pressdigitaljapan
ヨーロッパプレスによると、22日、新興勢力で急進左派のポデモス党パブロ・イグレシアス幹事長が、最大野党のスペイン社会労働党(PSOE)に連立政権の樹立を持ちかけたことが分かった。

22日朝、フェリペ国王に謁見したパブロ・イグレシアス幹事長は記者会見を開き、スペイン社会労働党(PSOE)のペドロ・サンチェス党首に対し、首相の座を渡し、イグレシアス幹事長は自ら副首相になることを条件に連立を提案した。

また、会見の中で、カタルーニャ州地方政党でポデモス党派のバルセロナ・エン・コム党が「多民族国家省」(Ministerio de la Plurinacionalidad)を受け持つことを提案。
テレビやラジオなどのメディア、防衛、経済等の国家としての「基本的な」機能を担い、カタルーニャ州の独立を助ける可能性がある。

また、左翼連合(IU)のアルベルト・ガルソン党首は、「前進するためにポデモス党の提案を受け入れる。」と、記者会見後に自身の公式ツイッターで発言。

また、PSOEのペドロ・サンチェス党首は今までポデモス党とお互い理解することは無いとしていた意見を撤回、「ポデモス党とPSOEに投票した市民らは、我々(ポデモス党とPSOE)が理解できないということを理解できないだろう。」と、軟化。

この後、ラホイ暫定首相がフェリペ国王に謁見、その後国王は首相候補を発表する予定。
(記事引用)


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中近東文化センター発掘収蔵品一覧

中近東文化センター
http://www.meccj.or.jp/museum/collection.php

中近東文化センター収蔵品の一部名品

ほとんど
「前1千年紀後半」と記載されている

ということは約3000年前の品々、でありこれらが「骨董」の部類に入るなどと思えない

あえて私のお気に入り、「
羊像頭部 伝イラン前1千年紀後半」である(センターに行くと本物と対面できる)

3000年前の羊のやさしい顔、まぎれもなくメスだ!!!

 
羊像頭部 伝イラン 前1千年紀後半(大きさ約24cm)

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牛形像土器 イラン 前1千年紀前半
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カット装飾椀 イラン 6世紀 サーサーン朝
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多彩釉人物文蓋付方形 イラン 前2千年紀末頃
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馴鹿形金具 前7~6世紀
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 ウシ イラン 前2千年紀末
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ラスター彩獣文鉢 イラン 10世紀
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ショーン・マクアードル川上氏

ショーン・マクアードル川上氏
この一連の騒ぎの本人ショーンkこと、「ショーン・マクアードル川上」氏は犯罪者なのか、容疑者なのか、また誰が被害者で、その被害者は警察に届けて、警察は捜査を開始したのか、そこで検察は、これが事件性ありとみて準備しているのか。

報道しているメディアは、そのことをきっちり明確にして、情緒的判断によってこれをうやむやに始末するようなことがあってはならない。

ショーンK発掘の日テレに「片棒担ぎ」の猛批判!
一方で熱烈オファーかける某局とは?
2016年3月20日 12時45分 サイゾーウーマン 
全出演番組の降板が決定し、一瞬にして“レギュラーゼロ”となってしまった“ショーンK”ことショーン・マクアードル川上氏。各メディアとも、学歴詐称ほか、生い立ちや整形疑惑にまで切り込む状況だが、一部テレビ局に「経歴詐称の片棒を担いだ」と批判が出ているようだ。
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 ショーンがレギュラー出演していた『とくダネ!』(フジテレビ系)と『報道ステーション』(テレビ朝日系)では、それぞれ番組冒頭でメインMCの小倉智昭、古舘伊知郎から、降板の報告と謝罪が行われた。

「ショーンの出演番組がなかった日本テレビとTBSは、盛んに批判を繰り広げています。しかし、ウソで塗り固められたショーンの経歴については、『そもそもの発端は日テレ』という声も出ているんです」(テレビ局関係者)

 年商数十億円、国際派経営コンサルタント、イケメンクオーターといった華々しい素顔が初めてメディアで伝えられたのは、2009年5月放送の『魔女たちの22時』(日本テレビ系)だったという。

「番組に出演したショーンは『年商30億円の社長』などと紹介され、貧乏な学生時代からアルバイトに励み、自ら資金を貯めてアメリカの大学に留学、経営コンサルティング会社に就職後に独立したというVTRが流されました。また、銀行、メーカー、通信会社など一流企業に向けて経営アドバイスを行っており、世界6カ国7都市にオフィスを構えているとのこと。騒動をスクープした『週刊文春』(文藝春秋)の取材に、ショーンは『魔女たちの22時』の内容について『それはダメだと思います。(中略)テレビってこういうものかと。否定すべきだったと思います』などとコメントしていますが、本人の言葉を信じるのであれば、現在のショーンを生み出してしまったのは、ほかならぬ日テレということになります」(テレビ局関係者)

 こうして、一瞬のうちに全てのレギュラーを失ったショーンは、所属事務所社長に対して「4月からどうやって生きていけばいいですかね」と話していたというが、そんなショーンの起用に前向きの姿勢を見せるのは、『5時に夢中!』や『バラいろダンディ』を放送するTOKYO MXの大川貴史プロデューサーだ。

「今後、どうやって食べていくか次第ですが、本人がOKであればこちらとしてはぜひ。経歴には問題があったかもしれないが、人柄や能力はまったく問題視していない」(大川プロデューサー)

 とはいえ、海外でのコンサル活動が事実であるのならば、「コメンテーターは廃業して経営コンサルタントに戻ればいいような気もしますが……」(芸能記者)との声も。各メディアのさまざまな思惑がうごめくショーン騒動は、どこまで波紋を広げていくのだろうか?
(記事引用)


理研、動物の体細胞を万能細胞(スタップ細胞)

理研など、動物の体細胞を万能細胞(多能性細胞)へと初期化する新手法を開発
マイナビニュースデイビー日高 [2014/01/30]
理化学研究所(理研)は1月29日、米ハーバード大学との共同研究により、動物の体細胞における分化の記憶を消去し、万能細胞(多能性細胞)へと初期化する原理を新たに発見し、それをもとに核移植や遺伝子導入などの従来の初期化法とは異なる「細胞外刺激による細胞ストレス」によって、短期間に効率よく万能細胞を試験管内で作成する方法が開発されたと発表した。
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成果は、理研 発生・再生科学総合研究センター 細胞リプログラミング研究ユニットの小保方晴子 研究ユニットリーダー、同・研究センターの若山照彦元チームリーダー(現・山梨大学教授)、ハーバード大のチャールズ・バカンティ教授らの国際共同研究チームによるもの。研究の詳細な内容は、日本時間1月30日付けで英科学誌「Nature」に掲載された。

ヒトを含めたほ乳類動物の体は、血液細胞、筋肉細胞、神経細胞など多数多様な種類の体細胞(生殖細胞を除く)で構成されている。しかし、発生を遡ると、受精卵にたどり着く。受精卵が分裂して多種多様な種類の細胞に変化していき、体細胞の種類ごとにそれぞれ個性付けされることを「分化」という。

体細胞はいったん分化を完了すると、その細胞の種類の記憶=「分化状態」は固定される(画像1)。例えば、生体の心臓から細胞を取り出してシャーレの中で培養しても心筋細胞は心筋細胞ままで、分化状態が保持されるという具合だ。つまり、細胞は自分が何の細胞であるかという記憶を保持しているのである。従って、分化した体細胞が別の種類の細胞へ変化する「分化転換」や、分化を逆転させて受精卵に近い「未分化状態」に逆戻りしたりする「初期化」は通常は起こらないとされている。

動物の体細胞で初期化を引き起こすには、未受精卵への核移植を行うクローン技術や、未分化性を促進するタンパク質「転写因子」を作らせる遺伝子を細胞へ導入するiPS細胞技術など、細胞核の人為的な操作が必要になる(画像2)。

一方、植物では、分化状態の固定は必ずしも非可逆的ではないことが知られている。分化したニンジンの細胞をバラバラにして成長因子を加えると、カルスという未分化な細胞の塊を自然と作り、それらは茎や根などを含めたニンジンのすべての構造を作る能力を獲得する。

しかし、細胞外環境(細胞が置かれている環境)を変えるだけで未分化な細胞へ初期化することは、動物では起きないと一般に信じられてきた(画像2)。そこで研究チームは今回、この通説に反して「特別な環境下では動物細胞でも自発的な初期化が起こりうる」という仮説を立て、その検証に挑んだのである。

 
画像1(左):多能性細胞と体細胞。画像2(右):細胞の分化状態の初期化に関する従来の考え方
 
研究チームはまずマウスのリンパ球を用いて、細胞外環境を変えることによる細胞の初期化を行う際の影響の解析を行った。リンパ球にさまざまな化学物質の刺激や物理的な刺激を加えて、多能性細胞に特異的な遺伝子である「Oct4」の発現が誘導されるかを詳細に検討した。Oct4遺伝子は、ES細胞などの多能性細胞の未分化性を決定する転写因子であり、多能性のマーカータンパク質を作る遺伝子だ。Sox2、Klf4、L-Mycと共に「山中因子」と呼ばれる、iPS細胞の樹立にも必須の因子の1つだ。なお、解析の効率を上げるため、Oct4遺伝子の発現がオンになると緑色蛍光タンパク質「GFP」が発現して蛍光を発するように遺伝子操作したマウス(Oct4::GFPマウス)のリンパ球を使用した。

こうした検討過程で、研究チームは酸性の溶液で細胞を刺激することが有効なことを発見。分化したリンパ球のみを分離した上、30分間ほどpH5.7の酸性溶液に入れて培養(刺激)してから、多能性細胞の維持・増殖に必要な増殖因子である「LIF」を含む培養液で培養したところ、2日以内に初期化が始まり、多能性マーカー(Oct4::GFP)の発現が認められた。7日目に多数のOct4陽性の細胞が出現し、それらの細胞は、細胞塊を形成した(画像3)。

 
画像3。体細胞刺激による体細胞から多能性細胞への初期化
 
「酸性溶液処理」で多くの細胞が死滅し、7日目に生き残っていた細胞は当初の約5分の1に減ったが、生存細胞の内、3分の1から2分の1がOct4陽性であることがわかったのである。ES細胞やiPS細胞などはサイズの小さい細胞だが、酸性溶液処理により生み出されたOct4陽性細胞はこれらの細胞よりさらに小さく、数十個が集合して凝集塊を作る性質を持っていることが判明した。

次に行われた詳細な検討は、Oct4陽性細胞が、分化したリンパ球が初期化されたことで生じたのか、それともサンプルに含まれていた極めて未分化な細胞が酸処理によって選択されたのかについてである。まず、Oct4陽性細胞の形成過程が「ライブイメージング法」(細胞などが生きた状態でリアルタイムに顕微鏡で観察する技術)によって解析され、すると酸性溶液処理を受けたリンパ球は2日後からOct4を発現し始め(画像3)、反対に当初発現していたリンパ球の分化マーカーの「CD45」が発現しなくなった。またこの時リンパ球は縮んで、直径5マイクロメートル前後の特徴的な小型の細胞に変化したのである。

次に、リンパ球の特性を活かして、遺伝子解析によりOct4陽性細胞を生み出した「元の細胞」の検証が行われた。リンパ球の内、T細胞は1度分化すると「T細胞受容体遺伝子」に特徴的な組み替えが起こる。これを検出することで、細胞がT細胞に分化したことがあるかどうかがわかるというわけだ。この解析から、Oct4陽性細胞は、分化したT細胞から酸性溶液処理により生み出されたことが判明したのである。

これらのことから、酸性溶液処理により出現したOct4陽性細胞は、一度T細胞に分化した細胞が「初期化」された結果生じたものであることがわかった。これらのOct4陽性細胞は、Oct4以外にも多能性細胞に特有の多くの遺伝子マーカー(Sox2、SSEA1、Nanogなど)を発現していたのである(画像3)。また、DNAのメチル化状態もリンパ球型ではなく、多能性細胞に特有の型に変化していることが確認された。

産生されたOct4陽性細胞の検査が行われたところ、多様な体細胞に分化する能力も持っていることが判明。分化培養やマウス生体への皮下移植により、神経細胞などの外胚葉、筋肉細胞などの中胚葉、腸管上皮などの内胚葉の組織に分化することが確認された(画像4)。

さらに、「マウス胚盤胞(着床前胚)」に注入した後にマウスの仮親の子宮に戻されたところ、全身に注入細胞が寄与された「キメラマウス」を作成でき、そのマウスからはOct4陽性細胞由来の遺伝子を持つ次世代の子どもが生まれた(画像5)。

これらの結果は、酸性溶液処理によってリンパ球から産生されたOct4陽性細胞が、生殖細胞を含む体のすべての細胞に分化する能力を持っていることを明確に示しているという。研究チームは、このような細胞外刺激による体細胞からの多能性細胞への初期化現象を「刺激惹起性多能性獲得(Stimulus-Triggered Acquisition of Pluripotency:STAP)」、生じた多能性細胞を「STAP細胞」と名付けた。

 
画像4(左):STAP細胞は多能性(3胚葉組織への分化能)を持つ。STAP細胞は、試験管内の分化系(上図、胚葉体形成法など)でも、マウスの皮下移植による奇形腫形成法でも、外胚葉、中胚葉、内胚葉組織への分化が確認された。画像5(右):STAP細胞はキメラ形成能を有する。STAP細胞は、胚盤胞(着床前胚)に移植することで、キメラマウスの多様な組織の細胞を生み出し、さらに生殖細胞形成にも寄与する。胎盤のみ形成し、胎仔を形成できない宿主の胚盤胞を用いた場合、注入されたSTAP細胞のみから胎仔全体を形成することも示された
 
続いて検討されたのが、この現象がリンパ球という特別な細胞だけで起きるのか、あるいは幅広い種類の細胞でも起きるのかについてだ。脳、皮膚、骨格筋、脂肪組織、骨髄、肺、肝臓、心筋などの組織の細胞をリンパ球と同様に酸性溶液で処理したところ、程度の差はあれ、いずれの組織の細胞からもOct4陽性のSTAP細胞が産生されることがわかったのである。

また、酸性溶液処理以外の強い刺激でもSTAPによる初期化が起こるかについての検討も実施された。その結果、細胞に強いせん断力を加える物理的な刺激(細いガラス管の中に細胞を多数回通すなど)や細胞膜に穴を開ける「ストレプトリシンO」という細胞毒素で処理する化学的な刺激など、強くしすぎると細胞を死滅させてしまうような刺激を少しだけ弱めて細胞に加えることで、STAPによる初期化を引き起こすことができることがわかったのである。

STAP細胞は胚盤胞に注入することで、効率よくキメラマウスの体細胞へと分化する仕組みを持つ。この研究過程で、STAP細胞はマウスの胎児の組織になるだけではなく、その胎児を保護し栄養を供給する胎盤や卵黄膜などの胚外組織にも分化していることが発見された(画像6)。

STAP細胞を増殖因子「FGF」を加えて数日間培養することで、胎盤への分化能がさらに強くなることも判明。一方、ES細胞やiPS細胞などの多能性幹細胞は、胚盤胞に注入してもキメラマウスの組織には分化しても、胎盤などの胚外組織にはほとんど分化しないことが知られている。このことは、STAP細胞が体細胞から初期化される際に、単にES細胞のような多能性細胞(胎児組織の形成能だけを有する)に脱分化するだけではなく、胎盤も形成できるさらに未分化な細胞になったことを示唆するという。

 
画像6。STAP細胞は胎仔のみならず胎盤の形成能も有する
 
STAP細胞はこのように細胞外からの刺激だけで初期化された未分化細胞で、幅広い細胞への分化能を有している。一方で、ES細胞やiPS細胞などの多能性幹細胞とは異なり、試験管の中では、細胞分裂をして増殖することがほとんど起きない細胞で、大量に調製することが難しい面があるというわけだ。

研究チームは、理研によって開発された「副腎皮質刺激ホルモン」を含む多能性細胞用の特殊な培養液を用いることでSTAP細胞の増殖を促し、STAP細胞からES細胞と同様の高い増殖性(自己複製能)を有する細胞株を得る方法も確立した(画像7)。この細胞株は、増殖能以外の点でもES細胞に近い性質を有しており、キメラマウスの形成能などの多能性を示す一方、胎盤組織への分化能は失っていることが確認されている。

今回の研究で、細胞外からの刺激だけで体細胞を未分化な細胞へと初期化させるSTAPが発見された(画像8)。これは、これまでの細胞分化や動物発生に関する常識を覆すものだ。STAP現象の発見は、細胞の分化制御に関するまったく新しい原理の存在を明らかにするものであり、幅広い生物学・医学において、細胞分化の概念を大きく変革させることが考えられるという。

分化した体細胞は、これまで、運命付けされた分化状態が固定され、初期化することは自然には起き得ないと考えられてきた。しかし、STAPの発見は、体細胞の中に「分化した動物の体細胞にも、運命付けされた分化状態の記憶を消去して多能性や胎盤形成能を有する未分化状態に回帰させるメカニズムが存在すること」、また「外部刺激による強い細胞ストレス下でそのスイッチが入ること」を明らかにし、細胞の初期化に関する新しい概念を生み出したというわけだ。

 
画像7(左):増殖性の高い幹細胞(STAP幹細胞)の樹立。ATCH(副腎皮質刺激ホルモン)を含む培養液で数日間培養することで、増殖能の高い幹細胞(STAP幹細胞)へ転換される。画像8(右):研究成果のまとめと今後の展望。今回発見されたSTAPによる初期化は、まったく従来は想定していなかった現象である。その原理の解明は、幹細胞や再生医学のみならず幅広い医学生物学研究に変革をもたらすことが期待される。さらに、ヒト細胞への技術展開も今後の課題
 
また、今回の研究成果は、多様な幹細胞技術の開発に繋がることが期待される。それは単に遺伝子導入なしに多能性幹細胞が作成できるということに留まらない。STAPはまったく新しい原理に基づくものであり、例えば、iPS細胞の樹立とは違い、STAPによる初期化は非常に迅速に起こる。iPS細胞では多能性細胞のコロニーの形成に2~3週間を要するが、STAPの場合、2日以内にOct4が発現し、3日目には複数の多能性マーカーが発現していることが確認済みだ。また、効率も非常に高く、生存細胞の3分の1~2分の1程度がSTAP細胞に変化している。

一方で、こうした効率の高さは、STAP細胞技術の一面を表しているにすぎない。研究チームは、STAPという新原理のさらなる解明を通して、これまでに存在しなかった画期的な細胞の操作技術の開発を目指すという。それは、「細胞の分化状態の記憶を自在に消去したり、書き換えたりする」ことを可能にする次世代の細胞操作技術であり、再生医学以外にも老化やがん、免疫などの幅広い研究に画期的な方法論を提供する(画像8)。

さらに、今回の発見で明らかになった体細胞自身の持つ内在的な初期化メカニズムの存在は、試験管内のみならず、生体内でも細胞の若返りや分化の初期化などの転換ができる可能性をも示唆するという。理研の研究チームでは、STAP細胞技術のヒト細胞への適用を検討すると共に、STAPによる初期化メカニズムの原理解明を目指し、強力に研究を推進していくとしている。
(記事引用)

 

いまも昔も「読み書き算盤」リンクtwitter.Facebook.

今も昔も「読み書き算盤」twitter.Facebook.com/版

 定義としてそう明分化している。さて、このことを理解しなければならない。パソコンによるインターネットを通じて、Facebook・twitterの発信はできるが、それをリアルなアクションとして行動を起こせない人、という定義なのだろうか。

 しかし、それはただ単に「机上の空論」という「たとえ」、にしかおもえないが、それとは違うのだろうか。即座に表現すれば「オタク」発信というアバウトな見方と区分けできるが。

 きのう、「今も昔も読み書き算盤」という記事を書いたばかりで、それだけでは何か足りないと考えあぐねていた。
 文字を考案し、それを記録し記憶し、情報を分かち合い、内容の価値を数人で共有して実践すると社会ができあがり、それが大きくなると国という組織になる。

 文字文明は印刷技術と同じく、そのテクノロジーは人間を人間として、他の動物と分けた最初の技術であると断言してもいい。

 紀元前の古代中国の遺跡から膨大な量の文字痕が発掘されている。中でも「殷」時代の遺物は他の祭祀道具も含めて大量に発掘され、それを現代時間の意識で捉えても、価値は計り知れない。また骨董的価値も高く全品が国宝級である。

 古代中国に限らず古代文字は各国遺跡から発掘されている。最近の例ではトルコで発見された古い時代の遺跡「ギョペクリ・テペ」遺跡として注目されているが、あまりにも古くてその研究が始まったばかりだ。

 石の造形物の技術からして高度な文明と類推されるが、いまのところ文字らしきものは発見されていない。年代的にはこれまでの考古学の枠の外、というイメージがあり、文字を文字として認識する我々現代人の分析知識が、それに追いついていないのかも知れない。その意味では上記指摘した、「オタク」と同じジャンルに我々も区分けされる。

 パソコンの最大の特徴は膨大な量の情報ストック、それらを計算しアートし、広告し、商業し、場合によっては戦略構想のシュミレーションもし、ケースによっては、居ながらにして地球の裏側からミサイル、ステルスを発射し人を殺傷する。多元的に表現すると、いまではパソコンで出来ないことがない、と言い切ってもいい。ただし「初音ミク」ではないが結婚して妊娠はできない。あとのことはなんでもできる、万能だ!!!。

 文字は人間世界を飛躍的に発展させた。さらに今日のデジタルインフラである「IT」という歴史的にも稀な技術を確立し、それがまだ発展途上にあるということが脅威である。
 
 そのことをよくよく考えてみれば、文字情報が持っている力というのは、代数的に現物がそこになくても概念としてイメージできることである。そのことはアインシュタインも数学概念の中で云っていたことだった。

 さらに、それを掘り下げていくと、文字媒体は人間の記憶能力を補うものとして、多大に貢献している。
 それはパラドックスとして人間の脳内の「記憶素子」というドットは、コンピューターほど多くなく、端的にいってみればすく忘れてしまうということである。ものごとを記憶していない、という不備を補う道具として発展したデジタル機器と換言できる。

 この記事のタイトルとして算盤(そろばん)と書いたが、いまどき実際にその道具は使わない。使うのは980円で売っている電卓だ。消費税を計算するのに紙に書いて計算すると間違う。だから電卓が重宝する。その方法論を飛躍させると、近い将来人間は脳内に電卓チップを内臓させることになる。その具体例はすでにメガネで始まっており通販業者棚の仕分け作業でメガネディスプレーによって注文品を選り分けることが行われている。
 世界中の道路ではクーグルマップ探査アンテナが、一部始終を記録し、それをパソコン内で展開し、これまた地球の裏側奥地のブラジル民家の垣根越しの情報を机上のパソコン数秒で閲覧できる。
 
 それは正しいことなのか、欲しい知識なのか、Facebook・twitterの付和雷同発信ともとれる素性のわからない「デジタル文字」をやみくもに信じて「革命」をおこし、そのあとであれは間違っていた、といっも死んでしまった人は再び生き返ることはない。
(自著記事引用)

 さらに、ここに書き加えてみよう。冒頭記事を引用すると「非識字者とは自分の名前は書けるしFacebookで近況をアップロードできる。社会の中で能動的に活動するため自身の目的を達成するため、自身の知識や能力を発展させるために文章を理解し評価し利用し関与していく能力をもたない人、のことである。」とある。


 かなり高度な解釈にとれるが、早い話が、東大の試験になんなく合格して、卒業もしたが社会の構造、仕組みが理解できなくてノイローゼになった、ということか。そんなことを大雑把に分析してみれば、学校の教える教材の隅から隅まで丸暗記して答案はかけるが、そのユークリッド図形を使ってグランドに立つ樹の高さを実際に測れない。だから試験問題の、根源的問いがわからない、ということになる。

例題として次の記事を引用した。

日本はこれからどこへ行くのか
内田樹2016年03月13日 16:01http://blogos.com/article/166390/
あと15年ほどで朝日新聞の発行部数はゼロになる勘定である。どの新聞も、購読者の高齢化と、若者たちの新聞離れと、新聞自身のメディアとしての機能劣化によって「ゼロまで」のカウントダウンに入っている。
日本のように数百万部の全国紙がいくつも存在するというような国は他にはない。『ル・モンド』は30万部、『ザ・ガーディアン』は25万部、『ニューヨークタイムズ』で100万部である。知識人が読む新聞というのは、どこの国でもその程度の部数なのである。

それが欧米諸国における文化資本の偏在と階層格差の再生産をもたらした。それに対して、日本には知識人向けのクオリティーペーパーというものが存在しない。

その代わりに、世界に類例を見ない知的中産階級のための全国紙が存在する。それがかつては「一億総中流」社会の実現を可能にした。一億読者が産経新聞から赤旗までの「どこか」に自分と共感できる社説を見出すことができ、それを「自分の意見」として述べることができた時代があった。結論が異なるにせよ、そこで言及される出来事や、頻用される名詞や、理非の吟味のロジックには一定の汎通性があった。

この均質的な知的環境が戦後日本社会の文化的平等の実現に多いに資するものだったことについて、すべての新聞人はその歴史的貢献を誇る権利があると私は思う。
(記事引用)

正鵠の指摘だ。
15年も待たなくていい。もっと早くやってくる。それでも新聞社は潰れないと私は、おもう。他のテレビだとか広告インフラとが、それ以外で多彩な人脈とか。

たぶん今のネットが行き詰る。潜在能力キャパは充分持っているが、それは一握りの組織が寡占的(たとえばクーグル・フェイスブック、ツィッターなどアメリカ国の利益優先に、それ以外の民が愛想をつかす)支配の離脱を宣言する。そしてもともとあったメディアのテレビが、ネットと「交配」して新種が誕生する。またそうしないと「テレビ会社員」の居所がない。

つぎの内田樹氏の新聞の「質」についての指摘だが、それを「知的中産階級のための全国紙」と切り抜いているが、日本の新聞が特段に、それを狙ってパブリックにしたとは思えない。戦時中は、戦争行為を煽動しプロパガンダしているのだから、それは本来の意味の民主的メディアとは相容れない。

それを「知的中産階級」と括るなら、総国家的帝国主義になってしまい、1936年、2.26事件の詳細をみて判るように、一部煽動者として投獄処刑された者たちの「生い立ち」を読んでみると、個人思想ではなく大きな歴史枠組みから派生した思想家、としてみることができる。すなわち列強大国の綱引きの狭間から生まれた、国粋思想であり、そこに左右は存在しない。

しかし、このサイトでも取り上げているAI人工知能の脅威とか、アメリカ大統領選挙方法論(ネット戦略)など勘案すると、まったく差がついてるな、と認めざるをえない。

そのためにも「日本テレビメディア」は、各派閥学閥を綺麗さっぱり取り払って、世界メディア席巻を目指す叡智組織を作って、明日にでも発足させるべきだ。

これまでのように、あちらと、こちらの折り合いがよろしくない、なんて「東電」や「東芝」、さらに民主と他党のごたごたを観るまでもなく、そんな醜聞はもう見飽きた。

自分たちは、それやってて気持ちよくなっているが、それを見せられている国民の気持ちを少しでも理解しようとしたのかを問いたい。

まさに「漁夫の利」で、シギと貝が喧嘩している間に、通りすがりの漁夫にヒョイとかっさわれる情景が目蓋に浮かぶ。

もっともっと深い現実が進行していて、その拾うべきはずの「漁夫」が、世界的人口減少傾向で、いなくなってしまうという、未来バーチャルが待っている。

それでも皆様、自分の既得を必死に守るというのですか???

        フェースブック
Gil C/Shutterstock.com

今も昔も「読み書き算盤」"twitter.Facebook.com/"版
2014.5.11 SUN wired.jp 

新たな「非識字者」が増えている:Facebookを読めても、現実は理解できない人たち

「非識字者」とは、読み書きのできない人だけを指すのではない。読み書きはできるけれど、新聞記事の内容を理解できないなど、満足に使いこなすことのできない「機能的非識字」が存在する。

TEXT BY VANESSA NIRI

TRANSLATION BY TAKESHI OTOSHI

WIRED NEWS (ITALIA)

「非識字者」とは、言うなれば「名前の代わりに『X』で署名をする人」のことを指す言葉だった。しかし、いまやその定義では足りない。

非識字者とは、自分の名前は書けるし、Facebookで近況をアップロードできるけれど、「社会の中で能動的に活動するため、自身の目的を達成するため、自身の知識や能力を発展させるために、文章を理解し、評価し、利用し、関与していく能力をもたない人」のことでもある。

最近のOECD(経済協力開発機構)のPIAAC(国際成人力調査)の結果が教えてくれたことだが、2つの異なる非識字が存在するのだ。後者は「機能的非識字」とよばれ、イタリアにおいては10人のうちほぼ3人がこれにあたる。そしてこれは、ヨーロッパで最も高い数字だ。

もうひとつの非識字、「機能的非識字」
機能的非識字者は自分で文字を書けるのだから、一見、自立しているように思える。しかし彼らは、例えば保険の約款を理解できない。新聞に掲載されている記事の意味も分からないし、文章の要点をつかんだり、感動したりすることができない。図表を読み取ることができない。したがって、自分が生きている社会の構造を解釈し、把握することができない。

このような分析能力では、複雑さを忌避するのみならず、複雑な出来事(経済危機、戦争、国内もしくは国際政治、金融取引のスプレッド)を前にしても基本的な理解すら得ることができない。

したがって、機能的非識字者は、自身の直接的経験と比較することによってのみ、世界を解釈する(例:経済危機は自身の購買力の減少でしかない。ウクライナにおける紛争は、ガスの料金が増加して初めて問題となる。税金のカットは(それが公的サーヴィスのカットにつながるとしても)正しい)。そして、長期的な結果を考慮に入れた分析を練り上げる能力をもたない。

ガス代が上がる前に、ウクライナで起きていることを考える

1974年にシンガーソングライター、セルジョ・エンドリーゴは、作家ジャンニ・ロダーリから着想を得て、レコードに次のような啓発的な口上を刻んだ。

※「ナポレオン・ボナパルトは1769年8月15日アジャクシオで生まれた。1784年10月22日にブリエンヌの陸軍幼年学校を去って陸軍士官学校の生徒となった。1785年9月に少尉になった。1793年に将軍になり、1799年に第一執政になり、1804年に皇帝になった。1805年にイタリア王になった。そして、この日付を全て覚えていない者は、落第するだろう!」
 しかし、1974年以降、物事は全般的に悪化した。

教育が、できること

学校組織は定着度テスト(ヨーロッパの能力評価のための手段)のみに気を取られ、教育のもつべき視野を、授業計画のチェックと学年末試験へと変えてしまった。しかし、定着度テストに寄りかかった学校の外に取り残されるのは何だろうか?(その上、こうしたテストにおいて、イタリア人は優れた成績を収めているわけではないのは皮肉なものだ)。

取り残されるのは、まさに、興味深い本を選ぶ能力、読書に没頭する能力、新聞を購入する選択、経済的・政治的提案をその(非常に大きな)総体において評価する能力のような、ひとりの人間を機能的非識字者ではなく能動的な市民にする能力だ。

OECDの警告に答えるために、この国は、能力の概念そのものを転倒させなければならない。イタリアに根強く残る教条主義的な教育が生むのは、生徒の声を「拒絶」する学校であり、教育しているように見えて実際は何も教育しない学校だ。能力を育て上げ、評価する教育は、「受容」して、世界を理解するための道具を教える学校へと結実する。

機能的非識字者はナポレオン・ボナパルトが1769年8月15日にアジャクシオで生まれて、1805年にイタリア王になったことを暗記することはできるだろう。しかし、そうはいっても暮らしている社会の複雑さを受け入れて分析するための道具は持たないだろう。

彼らもまた、私たちの学校からしばしば落第していく若者たちと同様に──日付を暗記することすらもできない若者たちだ──、ガス料金が値上げされてようやくウクライナの紛争を問題と思う、あの大勢の人々の一部となる危険がある。

           sagi


http://wired.jp/2014/05/11/literacy-on-facebook/

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