確かに1868年(明治元年)の銀目廃止措置を契機に大阪の両替商の多くが倒産したが、両替商による金融が全面的に崩壊したわけではない。
そのために同業者から取引を停止されたり、「無法の商ひ」をすると訴えられたり、店員の引き抜きを策されるなど、さまざまの妨害を受けながらも、 三井の新店は着々と業績を伸ばしていった。
「三井高利」は、この機会に店舗を隣町の両替屋街である駿河町に移して、翌天和3年5月に、有名な「現金安売掛売なし」の看板を掲げて、はなばなしく開店した。
そしれ、これと同時に御為替方三井組を称するようになった。(中略) 維新以来、三井は為替方として政府の金融事務を担当、あるいは為替会社の総頭取の地位につき、着実に近代的銀行業者としての体験を重ねたが、さらに明治4年(1871)6月、政府の新貨鋳造事業の一翼を担うことになった。地金回収と新旧貨幣交換の御用を命ぜられたのがそれである。
第一国立銀行が設立された後も、三井組は単独で銀行設立の準備を進めた。明治8年(1875)3月、三井組を三井バンクと改称し、部内に対し三井バンクをもって全三井の中枢とする旨を通達した。ここにおいて、宝永7年(1710)以来の大元方の役割は否定され、三井バンク大元締役場がこれを引き継いだのである。(中略) 明治8年7月、三井八郎右衛門(高福)らを発起人とし、三井組総取締三野村利左衛門の名をもって、銀行設立願書を東京府知事あてに提出した。
このような情勢のなかにあって、大蔵省は明治8年3月31日、ようやく東京府に対し条件付認可の指令を与えた。三井組の修正に対し、政府は明治9年5月23日付をもって許可の指令を与え、ついで6月30日、三井組大元方代表の三井三郎助(高喜)と三井銀行代表の今井友五郎との間に事務引継ぎが行われ、翌明治9年7月1日を期して三井銀行は開業した。
これによってみると、明治10年代における当行の貸出金額は、官金取扱制度の改正による資金量の減退に伴って、停滞状態を続けていたことが知られる。
明治26年12月期の合名会社としての当行最初の決算において、1,090万円であった貸出金は、その後、日清・日露の両戦争を経た明治42年6月には6,400万円巨額にまで累増を見たのである。
元文2年(1737)に一家の三男楠三郎が、富山藩の城下婦負郡富山の新町という場所に分家し、「安田屋」という屋号を用いて商業に従事した。 楠三郎から4代のちの善悦は、新町から婦負郡富山の鍋屋小路に居を移し、ここで天保9年(1838)10月9日に善次郎(幼名岩次郎)が誕生した。
この第1回目の出奔では、飛騨の山中で一夜の宿を借りた家の主人から無断で家出をした点を諄々と諭され、両親の元に引き返した。しかし都会に出たいという善次郎の気持ちは強く、18歳のときに再び江戸を目指し、いったんは江戸に到着したが父の依頼で追ってきた叔父に引き戻されてしまった。
父は富山藩士の地位を善次郎に継がせたかったのである。 善次郎がようやく父の許しを得て江戸に出たのは安政5年(1858)、19歳のときであった。
海苔屋兼両替屋では、金銀鑑定眼を身につけ、両替業務の手代に昇進した。このころ、鰹節屋に勤めていた大倉喜八郎(のちの大倉財閥の創始者)と知り合っている。
間口2間、奥行5間余りの家で、安田屋と称した。善次郎はこのとき25歳であった。銭両替は一般に日用品の小売業を兼営したが、これは小売りによるたまり銭を金銀貨の両替に用いることができるという利点があったからである。
のちに江戸町奉行所から東京府に引き継がれた『諸問屋名前帳』によると、善次郎が元治元年3月18日、三組両替の組合員の権利を取得したと記されている。
また、立会所単位の組合組織のなかでは、善次郎は両替町組に加入していたと『富の礎』で述べている。善次郎は得意先(商家や武家)を巡回して、金銀貨と銭貨を交換して手数料を得、また同業者との銭貨の売買によって差益を得た。
やがて善次郎は早朝から両国、浅草、芝の両替屋仲間を巡回し、交換の用に応ずるようになった。
当時の地図を見ると、すぐ前の、てりふり町の通りは商店街であったばかりでなく、荒布(あらめ)橋を渡ると魚河岸、その先は日本橋であり、また荒布橋の下を流れる西掘留川の岸には米屋が多く、商用の人たちがてりふり町を往来して、賑やかな通りであった。
次いで同年12月、経費出納方法が定められ、省については常額経費の年額を12に分割し、毎月初めに大蔵省から交付するという方法がとられ、府県については申請によって半年分を交付することとした。これらの資金は民間の為替方を通じて受払いが行われた。
この結果、有力な為替方であった小野組、島田の両組は、増し担保の提供が不可能となったため、同年12月までに相次いで廃業に至った。
このように官金取扱いの厳正化がはかられている時期に、善次郎は司法省為替方(7年10月)、東京裁判所為替方(翌8年8月)、栃木県為替方(同12月)に相次いで指名された。
②江戸の商人が大坂から積送された商品代金を大坂に送金する、といった目的の為替のほか、③幕府の御用金を江戸に送金する公金為替が行われた。
公金為替も一般為替も、その取扱いは本両替屋が主で、銭両替屋には「為替といふものは僅かしかなかった」(『富の礎』)。しかし明治維新前後の動乱期を経て、大坂、江戸双方の両替商に盛衰があり、従来、為替を取り仕切ってきた組織が崩れたために、為替業務の分野でも善次郎の実力が発揮されるようになった。安田商店が初めて隔地間の為替業務を手がけたのは、明治8年となっている。
善次郎は安田家の祖先が三善姓を名乗っていたという来歴から、三の数次に特別の愛着をもっていたといわれる。
しかし、第三国立銀行への出資金は、安田商店が蓄積した資金の中から投下されたものであり、安田商店が母体であつ点に変わりはない。
善次郎は第三国立銀行を設立する一方で、安田商店の近代化に取り組んだ。
同一区域内に多数の銀行が開設されるにつれ、同業者間の強調と親睦が必要となり、指導的立場にあった第一国立銀行頭取渋沢栄一は、銀行業者の団体組織の結成を提唱した。
設立資本金については安田商店から引き継いだ資本金15万円、積立金1万円に善次郎の拠出4万円を加えて20万円とした。頭取には善次郎の養子、安田卯之吉(明治14年善四郎と改名)が就任、善次郎は監事に就いた。善次郎は当時第三国立銀行頭取の地位にあり、国立銀行条例の精神に基づいて、私立銀行との兼務を避けたものと考えられる。
株主公正からみれば、安田銀行は安田一族の私利追求銀行として設立された観があるが、善次郎の真の意図は、あくまでも大衆一般の商業銀行を目的とし、安田商店の精神を新しい視野に立って刷新し、 社会的銀行としての使命を全うすることを念願としたものだった。
役員は選挙の結果、頭取に安田卯之吉(明治14年善四郎と改名)、監事に善次郎、取締役には安田忠兵衛が就任し、使用人は支配人、手代、見習役(注、当時はこれらも役員と称した)の3段階に分け、旧安田商店店員31名全員がそのまま銀行に移行した。
善次郎があえて頭取に就任しなかった理由は、当時第三国立銀行頭取として同行の業務執行責任者であり、「国立銀行条例」成規により他銀行との兼職禁止を規制されていたからであった。 後年(注、明治20年7月)保善社規則制定の際に、保善社総長は安田銀行頭取を兼職し得ない条項を規定し、安田銀行の事務については、すべて頭取の責任に委せ、監事の地位にとどまったのも、その延長なのであった。
そこには多くの雑穀問屋や回船問屋が集まり長州藩の蔵屋敷もあった。 また税関と税務署と外交をかねた機能をもつ役所である運上所も設置されていた。
富島の住友家には、別子銅山および神戸支店送りの貨物を藏置きするための土蔵があったが、それはごく一部が利用されるにとどまっていた。
本店にはかつて江戸詰で両替商の任にあたっていた香村(こむら)分之助が在籍していたので、商人の申し出にこたえて商品担保金融へ進出するのは容易だった。こうして始めた並合業の主任に香村があたった。これが住友銀行の発端である。
当時の法令では、この業務をいとなむのに質屋ろしての許可が必要だった。そのため住友家はやむなく質屋商営業の鑑札を受けたが、「並合業」は小口の庶民金融を行ういわゆる質屋とは大きく異なり、おもに問屋を相手にした大口の商業金融だった。
このことから富島に出店を出した6年にもおそらく並合業は行われていたものと考えられる。8年の記録に「3月6日 米並合、東嶋孝兵衛 2000円」、「4月7日 中国米1882俵並合、井上治郎兵衛・那須長蔵 4450円」などの記録が見られる。
そのあと並合業務は次第に増えて、13年末には融資残高が4万9075円となり、ほかの勘定と区別されて記録されるようになった。翌14年末には11万6879円と1年間で2倍以上に増加している。(中略)
明治18年末の銀行の規模を見ると、国立銀行139行の1行あたり平均貸出額が46万7000円であったかた、住友の並合業はその4分の3に相当した。
住友家は願書どおり明治28年11月1日、資本金百万円を用意するとともに住友本店にあった貸付債権115万7247円余を移管して、銀行業務を個人経営として開始した。資本金と貸付債権との差額は住友本店が別段預金として預けた。
そして遂に一大英断に出て、各事業を合資会社から分離して、独立の会社となし、あわせて外部資本導入の道をひらくこととなった。
他方合資会社自体も7年5月資本金1,500万円から3,000万円に増加し、従来の総合事業会社から有価証券および不動産の保有、運用を主とする持株会社に転向を開始した。
即ち銀行拡張計画資本は6年以降大幅に増加して大正8年には6億4,000万円となり、また銀行合同も盛んに行われ、合同参加銀行は8年には104行に達し、且つこれ等増資、合同の結果として、1行当たり資本金も倍増した。
また銀行業にあっても他の事業におけると同様従来の合資、合名組織を株式会社に変更するもの多く、新に設立する場合は原則として株式会社を採用する傾向がみられた。このような情勢の下にあって三菱合資会社首脳部は銀行部の画期的な拡充を意図した。
銀行部は明治28年創設以来その業績著しく躍進し、大正8年6月末には預金2億2,800万円、貸出金1億9,500万円、所有有価証券2,000万円となり繰越金も実に1,459万余円に達した。
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