Galapagos Japas

国際政治と日本の古代政治変遷歴史 明治維新など特に集中して書いている

2016年03月

AlphaGo×DeepMind"2

DeepMind"2 VS AlphaGo
「AlphaGo」ソフト AIが「ブロック崩し」をする様子 
DeepMind(ディープマインド)が開発

はやくも囲碁ロボット同士の戦いがはじまった。
賞金は前回賞金100万ドル夜景(約1億1300万円)を大幅に上回る200万ドル!!!

アルファ碁は、米グーグル傘下のAI開発ベンチャー「ディープマインド」(英国)が製作。勝ち越し決定でアルファ碁側には、賞金100万ドル(約1億1300万円)が贈られる。

「ついにAIが囲碁で人間を負かした。あと10年はかかるといわれていたその偉業を成し遂げたのは、グーグルが4億ドルで買収したロンドンのAIスタートアップ・DeepMindだ。彼らの軌跡を振り返ってみよう。
そして彼らは、3月には公の場で、AlphaGoが世界最高峰の棋士のひとり、イ・セドルと対局することを宣言。冒頭に記した通り、AlphaGoが勝利を収めたのである。
果たしてこの勝利は何を意味するのだろうか? 囲碁という複雑なゲームにおいて、AIが人間を超える次元でふるまったという事実は、“対立”、あるいは“戦略が求められるもの”すべてにおけるAIの可能性を示している(「これには戦争やビジネス、金融取引も含まれる」とディープラーニング研究を行うスタートアップSkymind創業者のクリス・ニコルソンは言う)。」
2016.3.12 SAT http://wired.jp/2016/03/12/deepmind/ より引用


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はやくも囲碁ロボット同士の戦いがはじまった。
賞金は前回賞金100万ドル(約1億1300万円)を大幅に上回る200万ドル!!!


そんな 荒唐無稽な はなしを、つくってみた。

ひま、だな~。

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ひまだから、ひま潰しにネットを、ただ漫然とスクロールしていたら、こんな記事があったので、おもしろそー、とクリックしてみたら、おもしろそーとおもったわけではなかった。




賞金1億円という、真贋のはっきりしない素性のしれないスポンサーが不可解で、はなしばっかりで、実際そんなの出さないんだ、とおもったりして、ひまだなー、と思っている御仁には旗本退屈男じゃないかと「
早乙女主水之介」がいったとかいわなかった、だとか。

きのうこのサイトで書いた震災関連記事で「
東日本大震災からの復興のために、この5年間で約26兆円の国の予算が使われています」という金の単位を書いたので、それから較べたら1億円は、数パーセントしかにならいので、大した金額じゃないとおもった。

それを参照してみるとこんな記事だった。
【囲碁AI対決】 韓国人プロ棋士、人工知能ソフトに3タテの屈辱「こんな圧迫感初めて…」 グーグル傘下開発に負け越し
「アルファ碁」と3回目の対戦をする韓国人プロ棋士の李セドル九段=12日、ソウル(ロイター)
 【ソウル=名村隆寛】人工知能(AI)囲碁ソフト「アルファ碁」と、世界トップ級の韓国人プロ棋士、李世●(石の下に乙、イ・セドル)九段による5回戦の第3局が12日、ソウル市内のホテルで行われ、アルファ碁が第1、2局に続いて勝利。3連勝で勝ち越しを決めた。

 この日の対局で李九段は序盤から攻勢をかけたが、アルファ碁の堅い守りを突破できず、176手で黒番の李九段が投了した。李九段は対局後、「こんなに圧迫感と負担を感じたことはない」と心境を語った。李九段は、9日の第1局では186手で、10日の第2局では211手で投了した。残り2局は勝敗数に関係なく、13、15日に行われる。アルファ碁は、米グーグル傘下のAI開発ベンチャー「ディープマインド」(英国)が製作。勝ち越し決定でアルファ碁側には、賞金100万ドル(約1億1300万円)が贈られる。李九段は今月、日本の七大タイトル独占に挑戦している井山裕太碁聖に勝利した棋士。
(記事引用)

で、人間が負け越したらさ、やっぱり相手はロボット同士の対決なんだよな。って、二者ロボット同志対戦の囲碁棋院選って誰が見るの???

競輪が夜、夜中に、観客が誰もいないリンク上を極大照明の中、走っているの知ってる。客が誰もいないんだから、キャーキャーガーガー騒がない。まったくサイレントな競輪場で、選手が必至に走るって。
それ、地球の話じゃないよね。火星でもないし、やっぱ月か。
月で競輪だから、「かぐや姫」がたまにネット動画で観戦するんだろうな、あとウサギとか、ワニとか。

ワニって ? 。

ワニって八尋鰐(やひろわに)のワニで神話やおとぎ話しにあるじゃん。

それ、大国主(おおくにぬし)だろ。
※大国主(おおくにぬし)、『古事記』『日本書紀』に登場する日本神話の神である。国津神の代表的な神。天孫降臨で天津神に国土を献上したことから「国譲りの神」とも呼ばれる。出雲大社の祭神。

なになに、かぐや姫がユーチューブ見てたら、ウサギとカメ? じゃない。八尋鰐(やひろわに)に食われそうになったのを見ていて、猿と蟹を引き連れてそれを征伐にいった。合作さ。

途中、川があって渡れないので「孫」にメールして「キントン」1台、手配してもらってさ。そしたらグーグルロゴ入りのタクシーが配車されてね、それがボディーがボコボコで、あんなりみっともないので、別の車頼んだのさ。

川でしょ ?

「キントン」搭乗掲載車なんだから問題ないでしょ。アクサにも入っているし。

ま、そんなこんなで、ひとまず川は、渡ったとさ、ほいサッサ。

続き? ? ?

ひま、だからね~

?! 

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昼飯、ラーメンだった。ひま 、だからね~

やめてくんない、そのひまだってやつ!  で、川渡ったの?

そうそう今日、日曜だったよね。そのわりに車が少ない。やっぱ雨だし。予報がね。

最近、天気予報が大袈裟で誇大誇張だと思わない。明日は冷えます雪模様です。厳重に注意してください。ってパラパラしか降らないとかさ、大雨で外出は控えてください。で雨なんか降らなくて反対に晴れたりしてさ。だったら昔、履いてた下駄を放り投げて、天気予報した方が確かだったかな。

おまえ、バカじゃん。いまどき下駄が上向きで晴れ、下向きで雨なんて、だれもやってやしないじゃん。だいだいがさ、下駄ってどこ売ってるんだ。商店街の下駄屋は全部潰れて、1軒も残っていやしないぜ。おいらの仲間で昔、それやってて大借金して返せなくて銀行に催促されて首くくって自殺。別のは灯油かぶってさ、いや惨めだからいわないけどさ。そんな時代でね、昭和を引き摺ってる人間って、昔の「坂東武士」の残党みたいなもんで、「藩」に忠誠を尽くすのが玉条だから、それ選んで男の生き様みたいな、これが日本人だ、よく見とけ。三島由紀夫みたいなこと、やってしまうのさ。

1.三島事件
1970年(昭和45年)11月25日に、日本の作家・三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。
 
三島と同じ団体「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件(たてのかいじけん)とも呼ばれる。
この事件は日本社会に大きな衝撃をもたらしただけではなく、海外でも、国際的な名声を持つ作家の起こした異常な行動に一様に驚きを示した。

総監を訪問し拘束

舞台となった市ヶ谷駐屯地。現在は、渦中となった東部方面総監部は朝霞へ移駐している。
1970年(昭和45年)11月25日の午前10時58分頃、三島由紀夫(45歳)は楯の会のメンバー森田必勝(25歳)、小賀正義(22歳)、小川正洋(22歳)、古賀浩靖(23歳)の4名と共に、東京都新宿区市谷本村町1番地(現・市谷本村町5-1)の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地正門(四谷門)を通過し、東部方面総監部二階の総監室正面玄関に到着。出迎えの沢本泰治3等陸佐に導かれ正面階段を昇った後、総監部業務室長の原勇1等陸佐(50歳)に案内され総監室に通された。
この訪問は21日に予約済で、業務室の中尾良一3等陸曹が警衛所に、「11時頃、三島由紀夫先生が車で到着しますのでフリーパスにしてください」と内線連絡していたため、門番の鈴木偣2等陸曹が助手席の三島と敬礼し合っただけで通過となった。

応接セットにいざなわれ、腰かけるように勧められた三島は、総監・益田兼利陸将(57歳)に、例会で表彰する「優秀な隊員」として森田ら4名を直立させたまま一人一人名前を呼んで紹介し、4名を同伴してきた理由を、「実は、今日このものたちを連れてきたのは、11月の体験入隊の際、山で負傷したものを犠牲的に下まで背負って降りてくれたので、今日は市ヶ谷会館の例会で表彰しようと思い、一目総監にお目にかけたいと考えて連れて参りました。今日は例会があるので正装で参りました」と説明した。

ソファで益田総監と三島が向かい合って談話中、話題が三島持参の日本刀・“関孫六”に関してのものになった。総監が、「本物ですか」「そのような軍刀をさげて警察に咎められませんか」と尋ねたのに対して三島は、「この軍刀は、関の孫六を軍刀づくりに直したものです。鑑定書をごらんになりますか」と言って、「関兼元」と記された鑑定書を見せた。
三島は刀を抜いて見せ、油を拭うためのハンカチを「小賀、ハンカチ」と言って同人に要求したが、その言葉はあらかじめ決めてあった行動開始の合図であった。
しかし総監が、「ちり紙ではどうかな」と言いながら執務机の方に向かうという予想外の動きをしたため、目的を見失った小賀は仕方なくそのまま三島に近づいて日本手拭を渡した。手ごろな紙を見つけられなかった総監はソファの方に戻り、刀を見るため三島の横に座った。
三島は日本手拭で刀身を拭いてから、刀を総監に手渡した。刃文を見た総監は、「いい刀ですね、やはり三本杉ですね」とうなずき、これを三島に返して元の席に戻った。この時、11時5分頃であった。三島は刀を再び拭き、使った手拭を傍らに来ていた小賀に渡し、目線で指示しながら鍔鳴りを「パチン」と響かせて刀を鞘に納めた。

それを合図に、席に戻るふりをしていた小賀はすばやく総監の後ろにまわり、持っていた手拭で総監の口をふさぎ、つづいて小川、古賀が細引やロープで総監を椅子に縛りつけて拘束した。古賀から別の日本手拭を渡された小賀が総監にさるぐつわを噛ませ、「さるぐつわは呼吸が止まるようにはしません」と断わり、短刀をつきつけた。
総監は、レンジャー訓練か何かで皆が「こんなに強くなりました」と笑い話にするのかと思い、「三島さん、冗談はやめなさい」と言うが、三島は刀を抜いたまま総監を真剣な顔つきで睨んでいたので、総監は只事ではないことに気づいた。その間、森田は総監室正面入口と、幕僚長室および幕僚副長室に通ずる出入口の3箇所(全て観音開きドア)に、机や椅子、植木鉢などでバリケードを構築した。
(資料ウィキぺデア)
 
2.坂東武士の活躍  関東農政局
 
 荘園が拡大していくにつれ、領主は開墾した土地を自ら守るために、自衛団を形成していきました。これが武士の起こりだといわれており、その発生は全国的にほぼ同時期ともいわれています。とりわけ関東の武士「坂東武士」は武士の本場として各地で様々な武功を残しました。
 坂東武士が全国の武士団と比べて強大な力を持つこととなった要因は、都からの距離が遠く、その支配が及ばなかったこと、さらには、都とつながりを持っていても大きな恩恵は得られなかったことが関係していると考えられます。
 朝廷と奥州、蝦夷(今の東北)の間でしばしば起こった争いに、兵士として参加した坂東武士は、合戦の中で自然と鍛えられていったのでしょう。坂東武士のその後の活躍は目を見張るものがありました。前九年の役(1051~1062)、後三年の役(1083~1087)、頼朝の奥州征討(1189)、承久の乱(1221)六波羅探題攻め(1333)と、歴史の節目とも言える大きな戦には、坂東武士の活躍がありました。そして、後に、「坂東武者1人は、よその武者8人に匹敵する」「武士の本場は坂東(関東)」と言われるほどになります。
 こうした勇猛な武士が生まれたのは、渡良瀬川が育んだ豊かで広大な土壌と、渡良瀬川の水の恵みがあったからこそといえるのではないでしょうか。

3.武蔵七党 ウィキぺデア
武蔵七党(むさししちとう)は、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称である。

平安時代
 
武蔵国は台地が広がり牧畜に好都合で、関東に多かった帰化人が馬飼部として牧畜に携わったことから、多くの牧が設けられていた。その管理者の中から、多くの中小武士団が生まれた。
武蔵国の中小武士団は、朝廷や軍事貴族、それらと結びつく秩父氏の河越氏や畠山氏など在地の有力武士に動員を掛けられた。保元の乱や平治の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)では、多くの坂東武者が活躍し、生産条件の良好な典型的な条里地域を根拠地としている。
各党は婚姻による血族で、社会的・軍事的集団として機能していたといわれる。各領地も離れており、具体的にどの程度の結束力であったかまでは不明である。

鎌倉時代
 
武蔵武士は御家人として鎌倉幕府を支えた。武蔵武士は、伝統的な豪族層が支配する北関東と異なり、幕府に従順だった。『吾妻鏡』に記載されている武蔵武士は182氏にも及ぶ。『六条八幡宮造営注文』でも、469人中84人と圧倒的に多い。また日本全国に拡大移住していった。承久の乱・宝治合戦など勲功の恩賞(新補地頭職)や蒙古襲来(元寇)の警備のため、各氏族の一部は武蔵国にある本領を離れて奥羽や西国、九州に土着した。惣領家と庶子家の何れが移住するかは、各氏族によって異なった。

南北朝時代以降

南北朝時代には武蔵に残った武蔵七党系の中小武士団が結束して、国人一揆を結成した。『太平記』では、平一揆や白旗一揆が有名である。
その後、武蔵平一揆の乱で河越氏は没落。国人達は武州南一揆や北一揆などを作り、関東管領上杉氏や後北条氏の下で戦った。

武蔵七党とされる諸党 横山党 

武蔵国多摩郡横山庄(現在の東京都八王子市付近に当たる)を中心に、大里郡(現埼玉県北部の熊谷市や深谷市とその周辺地域)および比企郡から橘樹郡(現在の神奈川県川崎市の市域に相当)にかけての武蔵国、さらには相模国高座郡(神奈川県の相模川左岸流域一帯)にまで勢力があった武士団。
武蔵七党系図筆頭である。(一族は横山氏を中心に海老名氏、愛甲氏、大串氏、小俣氏、成田氏、本間氏など。先祖は小野篁。その多くは和田合戦で滅亡するが一部の武士は存続する。 本間氏などは佐渡の地頭として繁栄した。

■武士の誕生 ティータイム

武士とは軍人ではありません。軍人とは国軍の一員としてあくまで国家(皇帝)に忠誠をつくす、いわば公務員ですが武士は自分の主君に忠誠をつくす、主君側から見れば私兵なのです。律令制の国家では、人や土地はすべて皇帝(天皇)の所有物になります。そこには国軍はあっても私兵と言うものは存在しません。そして武士とは世界に類を見ない日本独特のものなのです。

武士は生まれざるを得ない理由で生まれ、力をつけた彼らは最後には貴族政治を打倒し、自分達の政権(鎌倉幕府)を立てることになります。

なぜ武士は生まれたか

それには当時の政治環境、政治体制を説明しなくてはなりません。
ここの部分は非常に複雑ですし、平安時代のことはその後の源平や戦国時代と違って本も少ないので一般的に知られているものではありません。
おまけに中学・高校の教科書ではごく簡単に記述されているだけなのでわかりにくい方も多いと思います。ですから話すとやたら長くなりますが、なるべく簡単に書くことにします。
で、武士が生まれた理由ですが、まずその責任(?)の一つは桓武天皇にあります。

常備軍の廃止 

桓武天皇はそれまで存在していた軍隊(国軍)を廃止し、解散してしまいました。時期はおそらく東北地方の争乱が終わった後(802年)のことでしょう。
めったにない戦争にそなえて常時軍隊を所有するなど不経済というわけです。しかし軍事力はある意味では警察力です。ちょっとした犯罪なら当時の警察力(検非違使)でもなんとか解決できますが、大規模な犯罪(盗賊集団など)にはまったく無力でした。
京都でもそうでしたから、地方ではなおさらのことです。当時最大の産業は言うまでもなく農業です。農業に土地はなくてはならないもので、当時の農民の土地への思いは現代人の想像を絶するほどでした。
一所懸命(いっしょうけんめい。一つの土地に命を懸ける)とか、タワケ者(田分者。土地を分ける者は愚か者)と言う言葉はこの時代に生まれたのです。

軍隊がなくて警察力が弱体なので農民は大規模な盗賊集団から生命・財産を守るため、あるいは他の土地の人達との争い(水争いとか)にそなえて自ら武装せざるを得ないことになりました。これが武士のはじまりです。武士とは、もともと武装農民だったのです。余談ながら映画「七人の侍」である農民が『俺たちは百姓だ。土地は耕せても、戦うことはできない』というシーンがありますが、これは実際にはありえないことです。

平安時代以降戦国時代末期まで、兵士(下級兵士)とは招集された農民だったのです。その農民が武装解除されて、農業に専念するようになったのは豊臣秀吉の刀狩以降です。ドラマや小説に登場する足軽とは、農繁期には農業に専念する農民と考えても差し支えありません。もちろん大将級の指揮官は専業武士です。

そんなわけで武士の発生は全国的にほぼ同時だったのですが、とりわけ武士の本場とされたのは関東(当時は坂東)でした。当時朝廷の勢力は奥州にまで及んでいましたが、蝦夷と朝廷との間で争乱は大小しばしば起こりました。そんな時朝廷から鎮圧を命ぜられた将軍はなにぶん国軍がないのですから、主に関東で志願兵を募って行ったのです。また関東にあっても土地をめぐる争いや、家督相続をめぐる争いは日常的なものでした。

このように戦いの中で自然と関東の人達は戦士として鍛えられて行き、ついには坂東武者1人は上方(関西)武者8人に匹敵する、などと言われるようになったのです。当時の荒々しい環境の下、坂東武者はたとえ親子兄弟であっても強い敵と戦い、これを倒すことを最高の名誉と考えました。都の貴族から見れば信じがたいような人種で、彼等貴族達が坂東武者を『東夷(あずまえびす)』と恐れ、さげすんだのも無理もないことでした。太平記によれば、後醍醐天皇に今後の方策を質問された楠木正成は、坂東武者は勇はあっても智がありません、と答えたとか。
確かにそうかもしれませんね(笑)~
(記事引用)
1
おいらの仲間、それやってて大借金して返せなくて銀行に催促されて首くくって自殺。別のは灯油かぶってさ、いや惨めだからいわないけどさ。そんな時代でね、昭和を引き摺ってる人間って、昔の「坂東武士」の残党みたいなもんで、「藩」に忠誠を尽くすのが玉条だから、それ選んで男の生き様みたいな、これが日本人だ、よく見とけ。三島由紀夫みたいなこと、やってしまうのさ。

今頃、「地方創生」したっておそいって。
アメリカのトランプや、AIが囲碁で人間を負かした。その偉業を成し遂げたのは、グーグルが4億ドルで買収したロンドンのAIスタートアップ・DeepMindだ。そんなのにどうやって太刀打ちするんだって。今時、黒船来襲だっていったってそんなの知らないとシカトしてだな木っ端微塵さ。ぺりーさんの羊、羊~♪

それメリーさんだろ。下手なダジャレ、やめとけ!!!

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 動画 https://wired.jp/2016/03/09/googles-go-victory/
                                                      
    






メディアの模索

アメリカ新聞業界で進行している実験〜ネットニュースをデータ化して読者を取り戻す試み
BLOGOS編集部 2016年03月11日 09:11
奥村 信幸(武蔵大学教授/元テレビ朝日記者・ディレクター)
 ニュースビジネスの斜陽化を食い止めるためどうしたらいいかという議論がなされて久しい。特に新聞では、紙面から離れていった読者をインターネットのプラットフォーム上でいかに取り戻すかが大きな課題となっている。しかし、ごく一部の例外を除いてその試みは難航し、世界的に試行錯誤が続いている。 

 そのような閉塞状況を抜け出す有力なヒントになりそうなレポートが2月下旬にアメリカで出された。執筆したのは、トム・ローゼンスティール、大学のジャーナリズムの授業では必ずと言っていいほど教科書として取り上げられる「ジャーナリズムの原則 The Elements of Journalism」の著者のひとりでベテランのジャーナリストだ。過去12年余にわたってニュースの偏りをデータ化して是正を提言する「すぐれたジャーナリズムのためのプロジェクト Project for Excellence in Journalism (2013年10月よりピューリサーチセンターのジャーナリズムプロジェクト「Pew Research Center’s Journalism Project」)」を率いてきたジャーナリズム分析のビッグネームだ。彼は現在、アメリカ新聞協会(Newspaper Association of America)傘下の研究・研修機関アメリカン・プレス・インスティテュート(American Press Institute)の理事長として、2年がかりでウェブのプラットフォームを効果的に使って読者を取り戻す実験プロジェクトに取り組んでいる。本稿では、筆者が行ったインタビューも含め、その試みのエッセンスをお伝えする。 

(彼のレポートはワシントンのブルッキングス研究所のウェブサイトで閲覧できる。http://www.brookings.edu/~/media/research/files/papers/2016/02/19-media-analytics-rosenstiel/solving-journalisms-hidden-problem.pdf) 

■ネットの指標はニュース評価に役立たない
 新聞ビジネスの現状は日米とも同じような課題に直面している。さまざまなサイトにニュースを提供し、パソコンだけでなくスマホやタブレットなど多様な形でニュースを消費してもらうよう仕掛けている。そのようにして提供されたニュース、あるいは自社のニュースサイトを評価するにあたって、ネットで一般的に使われている指標をそのまま使っても、ニュースサイトを正確に評価したことにはならないと、ローゼンスティールは警告する。その間違った評価は、安易なコストカットにつながり、伝えなければならないニュースがあっても、そのメディアは社会的な使命を果たせなくなる結果を招きかねない。 

 例えば、「ユニークビジター」という指標は、一人のユーザーがスマホとパソコンなど別のデバイスを使って閲覧すると2人分としてカウントされてしまう。「コンテンツ(記事)のページの滞在時間」は、もう少し読者の関心を反映しているかもしれないが、パソコンを開いたままにして食事に行ってしまうようなユーザーも結構いてアテにならない…。 

 もしある人が通勤途中にスマホでそのニュースをちらりと読んで、「大事なニュースだからちゃんと読んでおこう」と仕事場で改めてパソコンを開いたのなら、それは「読むべきニュース」として認識されたとして、別の物差しで評価されなければならないということだ。あるいは、「ひどいニュースだ」とフェースブックでシェアして文句のコメントをしたものは、また別の評価を下す必要がある。「ページビューでは、そのコンテンツが何回見られたかはわかるが、なぜ、それが見られたか(読者が記事を読んだ動機)については何の情報もわからない」とローゼンスティールは語る。これまでの新聞社は、そのような心許ないデータを使って、上司が部下に「ほら、あんな記事をもう一本頼む」というような指示を平気で出してきた。しかし「あんな記事」とはどんな記事なのか、誰もわかっていないのだ。 

 新聞社には長年の経験があり、良く読まれる記事は「何となく」わかっている。しかしスーパーボウルの記事やセレブの醜聞が、より多くの読者を集めても、それは戦略には結びつかない。必要なのは、政治記事にありがたみを感じ熟読してくれる人を20パーセント増やすことなのだ。

■新聞自身のためらいを克服する
 長年、新聞の評価は発行部数(販売部数)に依存してきた。総合デパートとしてニュースを盛りだくさんにパッケージしたものに価値があるという前提でビジネスをしてきた。読者が心待ちにしているのはどんな記事か、あるいは力を入れて特集を組んだが、実は関心を呼ばなかったものは何かなど、コンテンツのひとつひとつについて読者の反応を測り、それらを評価して改善に結びつけるような経営努力は、あまりしてこなかった。しかし今後は「なぜ、その記事が読まれたか(読まれなかったか)」を知らなければならなくなった。その環境変化は従来の記者たちには脅威で、当初、新聞社は非常に警戒していたという。 

 また、インターネットのコンテンツ消費分析のデータに新聞業界が関心を持ち始めた約10年前には、データの数値が不当に低く、新聞業界の関係者が大きなショックを受けたことも、新聞がネットコンテンツ分析に踏み切るのが遅れた一因ではないかとローゼンスティールは述べている。 

 しかし、現在ネット業界で流通しているデータを、少し加工したり、あるいは別のデータと合わせて集計したりすると、ニュースが誰に、どのように評価されたのかが見えてくる。例えばバズフィードは記事の評価基準として「ソーシャル・リフト」(読者がその記事をソーシャルネットワークなどで、どれだけシェアしたか)を用いている。ローゼンスティールは、このようなニュースにとって有用な新しい指標を作り出すことが必要だとして、全米のローカル紙を説得して、実験に加わってもらった。このレポートは全米55の地方紙が、2年間、総計約40万本の記事を分析して得られた中間報告である。 

■新聞社の意図と読者の反応をリンク
 ローゼンスティールらのチームが目指しているのは、新聞社の責任者が「編集判断」をするための根拠になり得るデータだ。読者が記事を読むために一定の時間を割こうとする強い意思を持つ動機はどこから生まれるのか、正確に把握することだ。それはフェースブックやバズフィードが依拠しているデータとは、少し次元の違うものだという。 

 2年間の実験の結果、決め手となる要素は、いくつか判明したようだ。また、何を取材し、どんなニュースを発信していけばいいのかという方向性も少しずつ明らかになってきた。 

 ローゼンスティールは、最初のステップは、ひとつひとつのニュースが、どのようなジャーナリズム上の目的を果たし、どのような特徴で作られているのかをニュースの発信側が把握することだと述べている。それがどのような記事なのか把握するポイントは、デジタル時代のずっと前から認識されていたものだ。テーマは何か、取材にどのくらいの労力をかけたか、読者にどんな価値をもたらすのか、読んでもらえる仕掛けを施しているか、などの要素だ。これらは厳密にデータ化できるような形で使われてはこなかったが、その記事の性格を表す要素として数値化を試みるということだ。 

 データ化の方法は「企業秘密」の部分もあり、すべてが明らかにはなっていないが、彼らがやろうとしていることはレポート中の説明で理解できる。 

 まず記事を文章の長さや目的などの観点からタグ付けをしていく。その記事が「ブリーフ」と呼ばれる要約を目的にしたものか、テレビやラジオのストレートニュースのような事実関係だけを述べたものか、ボリュームのある特集記事か、さらに取材の労力をかけた数回に分けた連載や、重大な事実を明らかにする「暴露記事」なのか、というような分類をしていく。 

 あるいは、読者にどんな情報を伝えるものかという、目的を中心とした分類も行う。問題を解説して理解を深めるものなのか、あるいは進行中の出来事について、その日に起きたことを記録するものか、伝染病の予防とか、行政手続きの申込み方法など何か問題の解決方法を伝えるものか、あるいは「ウォッチドッグ watchdog(権力の監視)」と呼ばれる、政府や政治家などの不正や不都合な事実の隠蔽などを明らかにするものなどがある。 

 記事が書かれた動機による分類もなされる。発生した事件や事故を速報的に伝えたものか、あらかじめ予定されたイベントの取材か、あるいは新聞社が何らかの問題提起をしようと書いた特集記事かと言うようなものだ。他にも表現の方法として、伝統的な記事の文体か、もっとくだけた文章か、あるいは記述ではない要素である写真や動画などで伝えられているか、とか、ソーシャルメディアを使ったプロモーションをどれだけ行っているかなどのポイントもチェックされる。 

■記事の特徴と読者の反応の相関関係
 ローゼンスティールのチームは、すべての記事が、おおまかに9つのタイプに分類できることを発見した。そして協力してくれた55の新聞社は、この分類の根拠になりそうなタグをいろいろ試し、記事のタイプを決定し、記事改革の有力な決め手になり得るかどうか、検証している最中のようだ。また、一部の新聞社は読者だけでなく、購読していない人たちに電子メールなどでアンケートを試み、記事に対する評価や感想ではなく、日常の関心事や事件や政治的な動きについて考えていることなどを聞き、記事に対する読者の反応との相関関係を探っているようだ。 

 記事のタグ付けは、原則的に、それぞれの新聞でページ担当の編集責任者が、その紙面が出た1日後に行うことになっている。紙面を冷静に見渡すことで、複数の記事の比較から正確なタグ付けができるからである。 

 そうして分類した記事に、読者がどのように反応したか、彼らは「エンゲージメント指数」という独自に開発した数値を使って分析している。実際に何のデータが盛り込まれているのかは明らかになっていないが、少なくとも10以上のネットユーザーの行動についての数値がブレンドされているもようだ。基本的には、ページビューに関するデータの成分が35パーセント、記事のページに滞在した時間のデータをユーザーのタイプ別にポイント化したものが40パーセント、ソーシャルメディアでシェアしたり、掲示板に投稿したりするような行動に関するデータ25%の合計である。 

■データから取材や表現を改革
 実験に参加した新聞社はデータをあれこれ試すだけでなく、記事のトピックや切り口などを変えながら読者の反応を探り、読者の反応が良いものに、取材や編集のリソースを振り向け、反応が悪いものを縮小していくという作業を並行して行っている。しかし、その改革の方向性を誤らないために、ローゼンスティールは次の2点に注意するべきだと述べている。 

 ひとつは、新聞社の使命は関心が高いトピックだけを記事に取り上げるものではないと理解することである。記事を改革する究極的な目的は、政治や経済などの記事量を減らしたり、掲載を止めたりしてページビューをアップさせることではなく、政治ニュースに関しての読者の関心を20パーセント増加させることなのである。 

 もうひとつは、何かの取材を充実させるということは、必ずしも長い記事を出すとか、記事発行の頻度を上げたりすることではないことを認識することである。むしろ、記事の内容を裏付けるしっかりとしたデータを取ったり、単に事実関係を記録するのではなく、それが社会的にどのような意味をもつのか解説を施したりすることだ。ニュースを豊かにものにするために、データ集めや解説者探しなど、取材に適正なリソースを割いているかどうかという編集責任者の判断も必要になる。 

■手間ひまかけたニュースは支持される
 これまで説明してきた実験によって、次第に明らかになってきたポイントをいくつか説明しよう。日本ではあまり一般的ではないが、ニュースのクオリティを表すコンセプトに「エンタープライズ」というものがある。筆者は「ニュースにかける手間ひま」と訳している。検証のために、ひとつでも多くの情報源にあたるとか、文章の推敲に時間をかけたり、図表や写真、動画などを使ったりして、わかりやすいニュースを目指すとか、会社として、能力のある記者を、そのテーマの担当に配置するというような努力である。そのような記事は「エンゲージメント指数」が5割以上増すという結果が出ている。ページビューは8割上増加、読者がさまざまな形でシェアをするポイントは10割以上増加している。 

 しかし、問題なのは、新聞社でタグ付けを行った結果、すべての記事のうちエンタープライズを施したとしたものは、わずか1パーセントに過ぎなかったという事実である。エンタープライズにはコストがかかる。ごく一部の特集記事のためにリソースを割けない、苦しい台所事情が垣間見える。 

 ウェブのニュースにエンタープライズを施した記事を増やすために、ローゼンスティールは従来の紙面の記事の作り方をウェブ用に改めるよう提言する。伝統的な新聞記事では、記者はあらゆる情報をひとつの記事に詰め込み、膨らませようとしてきた。しかし、ウェブに対応した新しいエンタープライズとは、事実関係を速報する記事、解説や分析、その他のサイドストーリーなどを別個に、しかし連続してウェブにアップしていくような発想の転換、枠組みの改革が必要になる。 

 今や新聞社のウェブサイトも、大部分のユーザーはトップページからは訪れない。ソーシャルメディアを使って「サイドドア」から流入してくる。モバイルのニュースでは、すでにホームページというものが実質的に意味をなしていない。そのようなメディア環境に対応するためには、更新頻度を高め、新聞総体として読者の知的興味を引く戦略が求められる。 

 エンタープライズと似たような記事の作り方として、この実験では「イニシアチブ記事」という記事も分類し、効果を分析してい る。発生した事件や出来事を記事にするのではなく、新聞社が独自の問題意識で調査報道を進めていくようなニュースの作り方だ。こちらも、全体のわずか5パーセントしかないが、読者のエンゲージメント指数は3割もアップしている。 

■「ウェブだから短く」は間違い
 世間一般で信じられている「ネットの記事は短く、すぐ読み終わるように」「モバイル向けはさらに短く」は全くの間違いであることが、この実験で判明した。英語で1200語を越える、新聞の常識でも「長文」に分類される記事は、何と23パーセントもエンゲージメントがアップしている。シェアは45パーセントも増えている。 

 また、もうひとつの通説に、記事には意見が表明されていなければならないというものがあるが、これもすべての記事には当てはまらないという結果が出ている。政治や事件については、読者は事実関係を的確に伝えることを期待するが、スポーツや料理、ライフスタイルなどの分野では読者はむしろ書き手独自の分析や感想を求めていることもわかった。 

■写真や動画は武器になる
 記事に写真が添えられると、読者のエンゲージメントは約2割アップ、写真が2枚以上あると4割を越える。この傾向は特に政治ニュースで顕著だ。写真があると75パーセントもアップする。スポーツの記事でも43パーセント増加する。 

 しかし、これはすべての記事には当てはまらない。アメリカの新聞の日曜版には、定番のように家庭欄のトップを飾るカラーの料理の写真とレシピなどが掲載されているが、ウェブではこのような写真には何の効果も上がらないという結果が出ている。 

 エンタープライズやイニシアチブのような記事の効果は、扱うネタによって、さらに大きくなる。例えば全体の記事の中で2番目に多く分類された、政治や地方自治に関係する記事では、何かの出来事に反応して出された記事より、その新聞社が仕掛けたイニシアチブ記事の方が、読者のエンゲージメントが5割以上アップする。エンタープライズを施したものも46パーセント、権力の監視(ウォッチドッグ)的な記事も25パーセント増える。写真を加えれば、さらに効果はアップするということになる。 

 事件や事故は速報性が命のように思われているが、警察署で行われるブリーフのメモのような簡潔な記事をいくら早く出しても、エンゲージメントは、通常の事件事故を報じた記事より4割近く減少してしまう。反対に犯罪が発生する背景などを、新聞社がイニシアチブ記事で分析を試みると、54パーセントもアップする。単に事件や事故の発生を伝えるものでも、分析や解説が添えられた記事の方が、33パーセントも高くなる。 

■将来の新聞は専門店化へ
 このようなネット記事の改革は、ビジネスが衰退して記者の数が減少する中、生き残りをかけて行わなければならないものだ。ローゼンスティールは記事のスタイルについての常識を改めると同時に、経営陣が会社のブランド改革を進めなければならないと主張する。すでに、「たくさんのニュースを少しずつ」という総合デパート的展開では、読者のエンゲージメントは得られないことがわかってきたからだ。むしろ、いくつかの得意分野を売りにした「ブランド」を確立することが必要になってくる。彼らが行っているタグ付けと読者の反応を結びつける分析は、それぞれの新聞社が、どの分野の記事で勝負出来るのかを見極めるのに効果的な方法なのである。 

 フロリダ州の新聞社は、得意分野のひとつとして環境問題で勝負しようとしていた。2014年にこの実験に加わり、最初の4カ月と、その1年後の4カ月を比較したところ、環境問題を扱った記事のページビューが121パーセントもアップした。もうひとつの重点分野とした経済ニュースも73パーセントも読者が増えた。 
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 この実験はまだ続いており、決定的な結論を出すにはまだ時期尚早であろう。しかし、ニュース発信のプラットフォームがネットに移動していく中、これまで新聞社が蓄積してきた財産である取材力や情報整理能力を的確に生かせば、読者は戻ってきてくれるかもしれない。読者に「カネを払ってでも記事を読みたい」と思わせることが出来るほどに信頼が回復すれば、コンテンツ有料化などの可能性も見えてくるかもしれないのだ。(おわり) 

奥村信幸(おくむら のぶゆき)武蔵大学社会学部教授。
上智大学大学院外国語学研究科国際関係論専攻博士前期課程修了(国際関係学修士)。1989年、テレビ朝日入社(報道局「ニュースステーション」・政治部記者・編成部などに勤務)。米ジョンズホプキンス大学国際関係高等大学院(SAIS)ライシャワーセンター客員研究員、立命館大学産業社会学部教授、米国ジョージワシントン大学アジア研究のためのシグールセンター客員研究員などを経て現職。 
(記事引用)

 

イラク特措法 (平成15年8月1日 4年間の時限立法)

イラク特措法
4年間の時限立法として2003年7月26日未明に成立
2009年7月、延長期限切れで失効

イラク大量破壊兵器を叩け
2003年、米ブッシュ(子)大統領がイラク攻撃に踏み切り、米軍主体の「有志連合」軍がイラクに侵攻、サダム=フセイン政権を倒した。しかしイラク情勢はその後も宗教対立などが続き、安定していない。

2003年3月、アメリカ合衆国G.W.ブッシュ(子)政権が、イラクが大量破壊兵器を保持しているとして空爆および地上軍によって侵攻し、そのサダム=フセイン政権を倒壊させた戦争。
アメリカ合衆国は国連安保理決議に基づかず、「テロとの戦争」の一環として、イギリスなどの「有志同盟」による軍事行動として実行した。5月には戦闘が終了、後にフセイン大統領を拘束し、新たなイラン政府も成立したが、その後もイラン情勢は安定せずにテロ活動がやまず、アメリカ軍・イギリス軍などが依然として駐留を続け、問題は長期化している。 → 冷戦後のアメリカの外交政策

開戦の経緯
2001年9月の9・11同時多発テロ以降、テロとの戦争を宣言、アフガニスタンを攻撃してタリバン政権を倒したアメリカ合衆国のブッシュ政権は、さらに2002年1月にイラク・イラン・北朝鮮を「悪の枢軸」と名指しし、世界平和に対する脅威と人権抑圧を続けているとして非難した。
特にイラクは1991年の湾岸戦争後、フセイン政権は経済制裁を受けながら核開発疑惑に対する国連の査察を拒否しているとして、査察受け入れを強く要求した。一方のイラクのサダム=フセイン大統領は、湾岸戦争後国内の反対勢力を厳しく弾圧し、ますます独裁権力を強めていた。

大量破壊兵器の開発を口実に 2002年7月、ブッシュ大統領は「イラクは排除されなければならない」と宣言、核査察の拒否が国連決議違反にあたることをその理由とし、パウエル国務長官が盛んに国連の場でイラクを糾弾した。
11月8日「国連決議1441号」が採択され、「1週間以内の査察を受け入れと30日以内にすべての大量破壊兵器に関する情報を開示」など、厳しい条件がイラクに提示された。
サダム=フセイン大統領はしぶしぶ査察受け入れを表明、査察団を受け入れたが、2003年1月の中間報告は「大量破壊兵器」の確証は得られなかった。

しかしアメリカは疑惑を払拭できないとして武力行使を決意、イギリスは同調したがフランス、ロシア、中国などは査察継続を主張して国連安保理は意見が一致しなかった。
しかし、ブッシュ大統領はイラクにおける人権抑圧とアルカーイダなどテロ組織との関係が強いことなどを理由として先制攻撃論を掲げ、3月19日にフセイン大統領とその一族の国外退去を求め、それが実現しなければ軍事行動を行うという最終通告を行い、フセインが応じなかったため翌日、空爆を開始した。
(記事引用)

いまから13年前のイラク戦争は、様々な問題を現代社会まで引き摺り続けている。その当事の日本は、さきに挙げた「イラク特措法」を施行するにあたり、与野党国民を巻き込んだ一大論戦を展開して、派兵することに決めた。

そのことの判断を展開する話題ではない。世界が、武力でこうする、と決めたとき、日本は法律のタガをどこまで緩めらるか、という試験的な試みでそれは可能だった。結果的にはアメリカ戦略に、引き込まれた、という後味の悪い始末を残してしまったが。

前項で挙げた、「東日本大震災」に関連して、大規模復興工事にかかる巨額費用。それよりずっと規模の大きい国家戦争に使った国家予算。
「日露戦争開戦前年の1903年(明治36年)の一般会計歳入は2.6億円であり、いかに巨額の資金調達であったかが分かる。この公債は、第一次世界大戦の後まで残ることとなった。国の一般・特別会計によると日露戦争の戦費総額は18億2629万円とされる。」

当事の高橋是清が東奔西走して工面した巨額軍資金は、結果的に有効に使われたかどうかは誰も判らない。1936年2月26日の朝、青年将校集団の襲撃にあい機関砲で撃たれて即死した。いまでも歴史上の逸話として語り継がれる事件は、それだけの秘話がいっぱい詰め込まれていたのだろう。見方によっては、掻痒のある邪魔な人物と認識され、その結果の青年将校たちに暗殺された、と物語りに書かれている。

ばかな戦争、巨額資金をドブに捨てたなど、それらすべては結果論になるが、やはり情報不足の無策が引き起こした不始末と思えてならない。

そうした、ときどきの千変万化は、一発勝負のケースが多く、ましてや人の命の数千倍の金が絡むと、「人智知らざる」領域に入ったとして伝上にお願いしたくなるのだろう。実際は、そこに誰もいないのだが~。
 
この国家的大規模活動資金を、もっともっと有効に使うとしたら、どんなことができるのか、とふと、思った。一企業の金儲け、人工知能(AI)開発ベンチャー企業「アルファ碁」ゲームが稼ぎ出す金額と、それがもし同額だとしたら、100年後の人類のために、復興国家予算に投入した方がずっと価値がある、と先ほど書いたばかりだが、この国が、この日本が今できることは何か、という提起。
と考えるに到ったのは、3.11の大震災復興もさることながら、13年前の遠くはなれたシルクロードの基点、それが瓦礫の山と化し、そこから3000年も長きにわたって棲んでいた住民が祖国を捨てて、難民化し他の近隣諸国へ徒歩で移動するという国際的問題は、やはり、なにか、どこかがおかしい。

そうした状況下比較的、安閑と暮している日本は、平和ボケと自虐論が横行するほど、緩んでいるように見えるが、そこに到達するまでには幾多の高い障壁を何度も越えてきている。そのことをもっとよく知る必要がある。

前述した日露戦争もそうだし、それ以降の世界大戦も経験して多くの辛酸を味わっている。このまま、世界がある方向に進むならネズミの行軍よろしく全員ひとり残らず千尋の谷へ自ら落下する運命にある。

そのバイアスに嵌まっているというぞ、という喚起のサイン振りをしている人間が、いまいるだろうか。
そんなことを、大真面目に考えているが明日になると天気の具合で雨だとか雪だとか、晴れて暑くなるだとか、それに振り回されて、すっかり忘れている。気がついてみれば、黄昏時は、つい目の前にやってきている。

いったいオレはいつ生きていたんだと。

※(平山郁夫氏が今、蘇ってわれわれに諭すとしたらどんなことを教授するだろうか。シルクロードの路普請(みちぶしん)を精魂こめてしなさい、それが明日の道標を知ることだ。例えばそれが難民救済であり、5000年来の古都が瓦礫化しているのを寡黙して見ているだけでは自分の存在を知ることにはならない、などと老子、荘子のような言葉をいただけるのだろうか。いや、それは無理だ、伝上空間には誰もいないのだから)

イラク特措法
「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」
日本国政府国章(準)
通称・略称 イラク特措法
法令番号 平成15年8月1日法律第137号
効力 失効 種類 外事法、防衛法
主な内容 イラクでの人道復興支援活動の実施など
関連法令 PKO法、自衛隊法、テロ特措法など
条文リンク 総務省法令データ提供システム
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イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法(平成15年8月1日法律第137号)とは、イラク戦争後のイラクの非戦闘地域で、積極的に人道復興支援活動・安全確保支援活動を行うことを目的とする日本の法律である。特別措置法。

4年間の時限立法として2003年7月26日未明に成立した。2007年7月の期限切れを2年延長することを2007年3月30日の閣議で決定した。イラク特措法とも呼ばれる。

2009年7月、延長期限切れで失効。

この法律は、イラク特別事態(国際連合安全保障理事会決議第六百七十八号、第六百八十七号及び第千四百四十一号並びにこれらに関連する同理事会決議に基づき国際連合加盟国によりイラクに対して行われた武力行使並びにこれに引き続く事態をいう。以下同じ。)を受けて、国家の速やかな再建を図るためにイラクにおいて行われている国民生活の安定と向上、民主的な手段による統治組織の設立等に向けたイラクの国民による自主的な努力を支援し、及び促進しようとする国際社会の取組に関し、我が国がこれに主体的かつ積極的に寄与するため、国際連合安全保障理事会決議第千四百八十三号を踏まえ、人道復興支援活動及び安全確保支援活動を行うこととし、もってイラクの国家の再建を通じて我が国を含む国際社会の平和及び安全の確保に資することを目的とする(1条)。

適用上の問題点

この法律を巡る国会審議では「戦闘地域」とそれ以外とをいかに分けるかが問題となったが、そもそも「戦闘行為」が「国際的な武力紛争」と定義されている点も問題であると指摘される(詳しい定義は非戦闘地域の項目を参照)。

政府は国際的な武力紛争は「国あるいは国に準ずるもの」間の武力行使であると答弁した(2003年7月4日衆議院特別委)。また、首相(当時)の小泉純一郎は「自衛隊がいるところが非戦闘地域」「どこが戦闘地域かなど私に分かるわけがない」という答弁を行った(逆に考えれば自衛隊がいない・いられない地域は戦闘地域である)。

今後、「戦闘ではない」として、この法律の解釈、運用が自衛隊が内戦の“戦場”へ派遣される前例となると指摘する声がある(現に“ソマリア沿岸の海賊対策”を口実に、2011年、自衛隊初の在外基地がジブチに作られた)。2007年10月に民主党は、自衛隊イラク派遣を終了させることを目的として「イラク復興支援特別措置法廃止法案」を参議院で提出している。

また、名古屋高等裁判所青山邦夫裁判長は2008年4月17日、他の同種の訴訟と同じく、自衛隊イラク派遣についての違憲の確認と派遣の差し止め、損害賠償を求めた原告の訴えに原告全面敗訴の判決を下した。

ただし、傍論として、原告の複数の訴え共通の事実認定を当裁判所の判断として、航空自衛隊部隊が多国籍軍兵士をバグダットに輸送している事に鑑み、“戦闘地域での活動”とし、「他国による武力行使と一体化した行動で、自らも武力の行使を行ったとの評価を受けざるを得ず、武力行使を禁じたイラク特措法に違反し、日本国憲法第9条に違反する活動を含んでいる」とする問題点を指摘した。

自衛隊イラク派遣は、イラク戦争初期の2003年(平成15年)12月から2009年(平成21年)2月まで行なわれていた、日本の自衛隊のイラクへの派遣行為の総称である。その目的は、イラクの国家再建を支援するためとされている。

◆「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」
(イラク特措法)に基づくもので、活動の柱は人道復興支援活動と安全確保支援活動である。活動は「非戦闘地域」に限定されていたが、自衛隊創設以来初めて、戦闘地域ではないかとの論議のある地区に陸上部隊を派遣した。
陸上自衛隊は「人道復興支援」のため、比較的治安が安定しているとされたイラク南部の都市サマーワの宿営地を中心に活動し、2006年(平成18年)7月に撤収した。航空自衛隊は陸自の撤収後も輸送活動を継続していたが、2008年(平成20年)12月に輸送活動を終了した。

陸上自衛隊 
約550人(基本計画で600人以下と制約)
海上自衛隊 約330人  航空自衛隊 約200人  派遣機材航空機 - C-130H(輸送機)
イラク派遣仕様のC-130H  イラク派遣仕様と同じ日の丸と国名の表記が施された96式装輪装甲車(陸上自衛隊広報センター)
艦艇 - 輸送艦「おおすみ」、護衛艦「むらさめ」 : (基本計画上艦艇2隻以内および護衛艦2隻以内)
車両 - 浄水セット、野外手術システム、ドーザ、掩体掘削機、グレーダ、グレードローラ、トラッククレーン、各種施設機材、軽装甲機動車、96式装輪装甲車、高機動車など200両以内
携行火器 - 9mm自動拳銃、9mm機関けん銃、89式5.56mm小銃、64式7.62mm小銃、5.56mm機関銃MINIMI 、84mm無反動砲、110mm個人携帯対戦車弾
個人装備 - 防弾チョッキ2型、88式鉄帽、個人用暗視装置 JGVS-V8、防暑服4型、防暑靴4型など
宿営地  ムサンナー県サマーワ郊外(北緯31度16分・東経45度13分)、広さ約350ha
海上自衛隊
陸上自衛隊の派遣時に、車両約70両などの部隊輸送を艦艇で行った。(平成16年2月20日~4月8日)
航空自衛隊
空自は主にC-130輸送機による輸送活動が任務。拠点はクウェートのアリ・アルサレム空軍基地に置かれ、イラク南部ナシリヤ近郊のタリル飛行場との間を往復していたが、陸上自衛隊のイラク撤収に伴い多国籍軍・国連のための輸送活動が強化され、危険性が高く避けられてきたバグダッド国際空港やイラク北部のアルビルへも活動を広げている。国連の人員・物資輸送は平成18年(2006年)6月20日の計画変更により任務となった。
人道復興支援活動
日本の人道復興支援関連物資や陸上自衛隊が使用する物資・隊員などを輸送。
安全確保支援活動
イラクの治安回復活動に関連した多国籍軍の物資・兵員などを輸送。
兵員輸送と武器・弾薬の取り扱い
武器・弾薬の輸送は行わないとしており(平成15年12月9日小泉首相記者会見)、実施要項の中でも同様に定められているが、兵員輸送などの際に兵士らが通常携行する小銃などの武器・弾薬は人員輸送の一環として輸送している(平成16年8月2日小泉首相答弁)。
輸送活動の実績(平成16年3月3日~平成20年12月12日)
輸送回数:821回(ここでいう回数とは輸送を行った日数)
輸送物資量:673トン
派遣部隊の交代
陸上自衛隊
イラク復興業務支援隊
派遣期間は各期約6ヶ月。隊長は1等陸佐をもって充てられていた。
(条文 ウィキぺデア引用)



日露戦争

日露戦争(にちろせんそう)
wikipedia(1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。
両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。
講和の結果、ロシア領の南樺太は日本領となり樺太庁が設置され、ロシアの租借地があった関東州については日本が租借権を得て、関東都督府が設置された。
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日本の旗大日本帝国
ロシア帝国の南下政策による脅威を防ぎ、朝鮮半島を独占することで、日本帝国の安全保障[9]を堅持することを主目的とした。 『露国ニ対スル宣戦ノ詔勅』でも、大韓帝国の保全が脅かされたことが日本の安全保障上の脅威となったことを戦争動機にあげている。
ロシアの旗ロシア帝国
満洲および関東州の租借権・鉄道敷設権等の利権の確保。満州還付条約不履行の維持(満州に軍を駐留)。朝鮮半島での利権拡大における日本の抵抗の排除。直接的には日本側からの攻撃と宣戦布告を戦争理由とした。

観戦武官
日露双方に多数の観戦武官が派遣され日本にはイギリス、アメリカ合衆国、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、スペイン、イタリア、スイス、スウェーデン=ノルウェー連合、ブラジル、チリ、アルゼンチン、オスマン帝国の13ヶ国から70人以上の武官が派遣されていた。日英同盟を結んだイギリスからの派遣が最多の33人となっている。観戦武官が持ち帰った日露戦争の戦訓は、第一次世界大戦の各国で活かされることになる。
イギリス:エイルマー・ホールデン(英語版)
アメリカ:アーサー・マッカーサー・ジュニア、副官として息子のダグラス・マッカーサーを連れていた。

戦争の性格
 
日露戦争は20世紀初の近代総力戦の要素を含んでおり、また二国間のみならず帝国主義(宗主国)各国の外交関係が関与したグローバルな規模をもっていた。このことから、横手慎二は日露戦争は第0次世界大戦 (World War Zero) であったとしている。

朝鮮半島をめぐる日露対立

大韓帝国は冊封体制から離脱したものの、満洲を勢力下においたロシアが朝鮮半島に持つ利権を手がかりに南下政策を取りつつあった。ロシアは高宗を通じ売り払われた鍾城・慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を取得し朝鮮半島での影響力を増したが、ロシアの進める南下政策に危機感(1861年(文久元年)にロシア軍艦対馬占領事件があったため)を持っていた日本がこれらを買い戻し回復させた。
当初、日本は外交努力で衝突を避けようとしたが、ロシアは強大な軍事力を背景に日本への圧力を増していった。
1904年(明治37年)2月23日、開戦前に「局外中立宣言」をした大韓帝国における軍事行動を可能にするために日韓議定書を締結し、開戦後8月には第一次日韓協約を締結、大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をすることとした。大韓帝国内でも李氏朝鮮による旧体制が維持されている状況では独自改革が難しいと判断した進歩会は日韓合邦を目指そうと鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。
一方、高宗や両班などの旧李朝支配者層は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していった。戦争中に密使が日本軍艦により海上にて発見され、大韓帝国は条約違反を犯すという失敗に終わる。

日英同盟
ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、露土戦争などの勝利によってバルカン半島における大きな地歩を獲得した。
ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功した。これによりロシアはバルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになった。

近代国家の建設を急ぐ日本では、ロシアに対する安全保障上の理由から、朝鮮半島を自国の勢力下におく必要があるとの意見が大勢を占めていた。
朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還された。
世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出たが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力はなく、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めた。ところがロシアは露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年(明治31年)に租借し、旅順に太平洋艦隊の基地を造るなど、満州への進出を押し進めていった。

1900年(明治33年)にロシアは清で発生した義和団の乱(義和団事変、義和団事件)の混乱収拾のため満洲へ侵攻し、全土を占領下に置いた。
ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束した。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図った。
ボーア戦争を終了させるのに戦費を調達したため国力が低下してアジアに大きな国力を注げない状況であったイギリスは、ロシアの南下が自国の権益と衝突すると危機感を募らせ、1902年(明治35年)に長年墨守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切った(日英同盟)。
日本政府内では小村寿太郎、桂太郎、山縣有朋らの対露主戦派と、伊藤博文、井上馨ら戦争回避派との論争が続き、民間においても日露開戦を唱えた戸水寛人ら七博士の意見書(七博士建白事件)や、万朝報紙上での幸徳秋水の非戦論といった議論が発生していた。
1903年(明治36年)4月21日に京都にあった山縣の別荘・無鄰菴で伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰庵会議」が行われた。桂は、「満洲問題に対しては、我に於て露國の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること」、「此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる可からず」という対露交渉方針について伊藤と山縣の同意を得た。

桂は後にこの会談で日露開戦の覚悟が定まったと書いているが、実際の記録類ではむしろ伊藤の慎重論が優勢であったようで、後の日露交渉に反映されることになる。
日本が2国以上と戦う時は、イギリスの参戦を義務付ける条約となっていたことから、露清密約による清国の参戦は阻止された。

開戦時の戦力比較 (露・日:歩兵66万対13万、騎兵13万対1万、砲撃支援部隊16万対1万5千、工兵と後方支援部隊4万4千対1万5千、予備部隊400万対46万)

1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。
しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さなかった。
さらにニコライ2世やアレクセイ・クロパトキン陸軍大臣も主戦論に同調した。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何も無かった。
ロシアの重臣の中でもセルゲイ・ヴィッテ財務大臣は、戦争によって負けることはないにせよロシアが疲弊することを恐れ戦争回避論を展開したが、この当時何の実権もなかった大臣会議議長(後の十月詔書で首相相当になるポスト)に左遷された。
ロシアは日本側への返答として、朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁ずるという提案を行った。

日本側では、この提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断した。
またシベリア鉄道が全線開通するとヨーロッパに配備されているロシア軍の極東方面への派遣が容易となるので、その前の対露開戦へと国論が傾いた。
そして1904年2月6日、日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。同日、駐露公使栗野慎一郎は、ラムスドルフ外相に国交断絶を通知した。

南アジアおよび清に権益を持つイギリスは、日英同盟に基づき日本への軍事、経済的支援を行った。露仏同盟を結びロシアへ資本を投下していたフランスと、ヴィルヘルム2世とニコライ2世とが縁戚関係にあるドイツは心情的にはロシア側であったが具体的な支援は行っていない。
なお、イギリスとフランスは開戦直後の1904年4月8日に英仏協商を結んでいる。

戦争遂行には膨大な物資の輸入が不可欠であり、日本銀行副総裁高橋是清は日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で外貨調達に非常に苦心した。当時、政府の戦費見積もりは4億5千万円であった。日清戦争の経験で戦費の3分の1が海外に流失したので、今回は1億5千万円の外貨調達が必要であった。

この時点で日銀の保有正貨は5千2百万円であり、約1億円を外貨で調達しなければならなかった。外国公債の募集には担保として関税収入を当てることとし、発行額1億円、期間10年据え置きで最長45年、金利5%以下との条件で、高橋是清(外債発行団主席)は桂総理・曾禰蔵相から委任状と命令書を受け取った。

開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、初回に計画された1000万ポンドの外債発行もまったく引き受け手が現れない状況であった。これは、当時の世界中の投資家が、日本が敗北して資金が回収できないと判断したためである。とくにフランス系の投資家はロシアとの同盟(露仏同盟)の手前もあり当初は非常に冷淡であった。またドイツ系の銀行団も慎重であった。

是清は4月にイギリスで、額面100ポンドに対して発行価格を93.5ポンドまで値下げし、日本の関税収入を抵当とする好条件で、イギリスの銀行家たちと1ヶ月以上交渉の末、ようやくロンドンでの500万ポンドの外債発行の成算を得た。
イギリスのデーヴィッド・キャメロン首相の高祖父は、当時の香港上海銀行ロンドン支店長であり、高橋が戦費調達のため、イギリスを訪れた際には、この支店長から助力を得たというエピソードがある[16]。またロンドンに滞在中であり、帝政ロシアを敵視するドイツ系のアメリカユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの知遇を得、ニューヨークの金融街として残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得した。

第1回は1904年5月2日に仮調印にこぎつけた。結果当初の調達金利を上回る6%での調達(割引発行なので実質金利は7年償還で約7%)となったが、応募状況はロンドンが大盛況で募集額の約26倍、ニューヨークで3倍となり大成功の発行となった。
1904年5月に鴨緑江会戦でロシアを圧倒して日本が勝利すると国際市場で日本外債は安定し、第2回の1904年11月の6.0%(償還7年で実質約7.4%)を底として、1905年3月の第3回ではドイツ系の銀行団も参加し、4.5%での借り換え調達に成功した。
この3月および続く7月の募集でパンミュア・ゴードンが引受に参加している。11月の第5回には公開市場で募集、利率を4%に下げ、無担保で消化できた。
このときから是清はロスチャイルドへ根回しをしていた。好条件はベアリング家の貢献もあった。
 
終戦後、1907年の第6回ではN・M・ロスチャイルド&サンズとロチルド・フレールも参加している。後者は1910年新たに4億5000万フラン貸したが、1951年9月末で4億3432万8700フランが未償還であった。

結局日本は1904年から1907年にかけ合計6次の外債発行により、借り換え調達を含め総額1億3000万ポンド(約13億円弱)の外貨公債を発行した。
この内最初の4回、8200万ポンドの起債が実質的な戦費調達資金であり、あとの2回は好条件への切り替え発行であった。しかし、切り替えのために鉄道国有法を制定する必要があった。なお日露戦争開戦前年の1903年(明治36年)の一般会計歳入は2.6億円であり、いかに巨額の資金調達であったかが分かる。この公債は、第一次世界大戦の後まで残ることとなった。
国の一般・特別会計によると日露戦争の戦費総額は18億2629万円とされる。

遼陽会戦でロシア軍の使用した観測気球の気嚢
日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)に始まった。
この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが大きな戦果はなかった。同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が日本海軍の第2艦隊瓜生戦隊の護衛を受けながら朝鮮の仁川に上陸した。
瓜生戦隊は翌2月9日、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ(仁川沖海戦)。
2月10日には日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた。2月23日には日本と大韓帝国の間で日本軍の補給線の確保を目的とした日韓議定書が締結される。

ロシア旅順艦隊は増援を頼みとし日本の連合艦隊との正面決戦を避けて旅順港に待機した。連合艦隊は2月から5月にかけて、旅順港の出入り口に古い船舶を沈めて封鎖しようとしたが、失敗に終わった(旅順港閉塞作戦)。
4月13日、連合艦隊の敷設した機雷が旅順艦隊の戦艦ペトロパヴロフスクを撃沈、旅順艦隊司令長官マカロフ中将を戦死させるという戦果を上げたが(後任はヴィリゲリム・ヴィトゲフト少将)、5月15日には逆に日本海軍の戦艦「八島」と「初瀬」がロシアの機雷によって撃沈される。一方で、ウラジオストクに配備されていたロシアのウラジオストク巡洋艦隊は、積極的に出撃して通商破壊戦を展開する。
これに対し日本海軍は第三艦隊に代わり上村彦之丞中将率いる第二艦隊の大部分を引き抜いてこれに当たらせたが捕捉できず、ウラジオストク艦隊は4月25日に日本軍の輸送艦金州丸を撃沈している。この時捕虜となった日本海軍の少佐は、戦後免官となった。
(以下割愛ウィキぺデア)


当時の世界は、いわゆる「帝国主義の時代」でした。軍隊や経済の力で他国や異文明を破壊し、植民地支配することが、ごく当たり前のように行われていたのです。力こそが正義、力こそが全てでした。力の無いものは、その生存を許されず、強者の草刈場にされてしまうのです。 

最も残酷に帝国主義を推進したのは、もちろん、白色人種のヨーロッパです。彼らは、キリスト教、なかんずくプロテスタントの偏狭な世界観に縛られ、ヨーロッパ文明(=キリスト教文明)以外の文化や種族を軽侮していました。彼らの触手は、主として異教徒である有色人種たちに襲い掛かったのです。 
前述のように、有色人種の完全な主権国家は、20世紀の初頭では4国しかありませんでした。 
その中で最大勢力であったトルコ帝国は、その領土のほとんどをロシアとイギリスに奪い取られ、断末魔の危機に喘いでいました。 
日本やタイやエチオピアが独立を保ちえたのは、これらの国が、たまたま白人勢力間の均衡の中間点にあったという幸運に恵まれたからです。例えば日本は、イギリスとフランスが頭上で睨みあって互いに牽制しあってくれたお陰で、その隙間をついて近代化を推進できたのです。
 
その日本は、19世紀終盤に至るまで、260年もの長きにわたって鎖国をしていました。これは、帝国主義の魔手から国富を守る措置でした。しかし、アメリカやロシアが強大な武力を背景にして開国を迫ると、もはや安住していられる時代は終わりを告げたのです。 
こうして、なかば無理やり開国させられた日本は、究極の選択を迫られました。

・白人の植民地になるのか。 
・黄色人種初の帝国主義国家に生まれ変わるのか。 

日本の選択は、後者でした。 
徳川幕府に取って代わった明治政府は、猛烈な「富国強兵政策」を展開し、従来の「封建的な農村国家」を、一気に「帝国主義的近代工業国家」に改造したのです。その過程で起きた戦争が、日清戦争と日露戦争です。この2つの戦争の最も重要な焦点は、「朝鮮半島の帰属問題」でした。 

朝鮮半島は、言うまでもなく日本に地理的に最も近い陸地であって、その国家戦略に及ぼす重要性は計り知れないものがありました。19世紀末の時点で、ここを領有していたのは、「韓王国」でした。しかしこの国は、軍事力も経済力も前近代的な水準のままで、いつ外国の植民地になっても仕方がない状況に置かれていました。そんな朝鮮が、それまで独立を保っていられたのは、中国(清帝国)の属国になっていたからです。
 
その中国は、19世紀末の段階で、白人勢力に多くの領土を侵食され、もはや半植民地と成り下がっていました。今や朝鮮は、自分ひとりで帝国主義勢力と戦わなければなりません。 
日本は、当初は、朝鮮に技術援助を行い、日本と同様の帝国主義国家に生まれ変わってもらおうと考えました。そして、共に手を携えて白人勢力に立ち向かおうとしたのです。しかし、この国では保守的な勢力が強く、改革などほとんど望めない状態でした。このままでは、朝鮮半島は、フランスかロシアかドイツの植民地になってしまうでしょう。そうなったら、日本は完全に白人勢力に包囲されてしまいます。 
これは、当時の日本人にとって、たいへんな恐怖でした。ちょっとでも隙を見せたら、日本本土まで、たちまち乗っ取られてしまうでしょうから。 
日本は、打って出ます。すなわち、朝鮮半島を勢力下に置き、ここを橋頭堡にして白人勢力の進出を防ぎとめようとしたのです。これが、いわゆる「日帝50年支配」の幕開けでした。 
(5)イギリスの事情 
帝国主義の時代は、生き馬の眼を抜くような激しい闘争の時代でした。帝国主義諸国は、互いに複雑な同盟や協定を幾重にも結び、既得権益を守りつつ、新たなチャンスを野獣のように狙っていたのです。
 
この中でも、最大の既得権益の保持者は、太陽の沈まない帝国イギリスでした。そのイギリスは、当然ながら、新進気鋭のライバルであるドイツやロシアの動向に神経を尖らせていました。ドイツやロシアは、いわば帝国主義の後発組です。彼らが勢力を伸ばそうとすると、必然的にイギリスの既得権益が脅かされるのです。
 
イギリスとドイツは、アフリカや中近東で激しい鍔迫り合いを繰り広げました。この対立が、やがて第一次大戦への扉を開くのです。 
その隙をついて、ロシアが中国への触手を伸ばしていきました。このとき、半植民地であった中国に最も巨大な利権を持っていたのがイギリスだったのです。イギリスは、大いに焦りました。しかし、東アジアに大軍を派遣する余裕はありませんから、彼は有力なパートナーを求めていました。そのパートナーに、ロシアを食い止めてもらおうと考えたのです。 
東アジアのパートナー、それは、新興の大日本帝国以外に有りませんでした。こうして、「日英同盟」が結ばれます(1902年)。
 
(6)アメリカの事情 
アメリカは、日露戦争に影響を及ぼした大国の一つです。このころは、ようやく南北戦争という内乱を乗り越えたばかり。いわば、帝国主義の後発組でした。 
20世紀初頭の帝国主義競争を俯瞰すると、先頭を走るイギリスとフランスを、一馬身差でドイツとロシアが追い、さらにその後を日本とアメリカが追いかけているという状況だったのです。 
イギリスは、真後ろにいて目障りなロシアを蹴り落とすため、遥かに後方にいて当面の脅威にならない日本を利用しようとしました。
そしてアメリカは、この状況の中で漁夫の利を得、一気に上位に踊り出ようとしたのです。すなわち、日本とイギリスの両方に恩を売ることで、ロシア撤退後の中国市場への進出を企んだのです。 
この日露戦争の結果、ロシアは遥か後方に脱落し、やがて共産主義革命という形で、この帝国主義レースを降りてしまいました。 
ロシアに取って代わった日本は、併走するドイツと手を組んで、今度はイギリスとフランスの覇権に挑戦します。これを迎え撃った英仏は、アメリカの力を借りて日独を返り討ちにするものの、自らも疲れ切って後方に脱落。これが、第二次大戦ですね。 
結局、20世紀の覇権競争は、ライバルたちを振り落としてトップに飛び出したアメリカの一人勝ちに終わったというわけです。 
そういう視点で歴史を見ると、日露戦争に果たしたアメリカの役割は、たいへんに興味深いものがあるのです。
 
アメリカは、日本とイギリスに対して、ロシアとの戦争になったら支援を惜しまない旨を約束しました。また、頃合を見て和平を斡旋することも約束したのです。 
アメリカの視線は、じっと戦後の中国市場に注がれていました。 
こうして日本は、イギリスとアメリカの「対ロシア覇権闘争」の道具として使われたのです。
(記事引用)

社会貢献型投資ソーシャル・インパクト・ボンド

社会貢献型投資 期待の金融商品

「ソーシャル・インパクト・ボンド(SIB)」2013/11/01 |/SRI投資

 ソーシャル・インパクト・ボンド(Social Impact Bond、社会的インパクト債権)。

イギリス発のソーシャルセクターへ向けた新たな資金調達の仕組みで一旦投資家からNPOなどの活動資金を調達した後、NPOなどによる社会問題の解決の成果に応じて政府が投資家に配当を支払うモデルのことです。

 

僕は詳細がまだ掴めていないのですが、ソーシャルインパクト・リサーチの熊沢さんがかなり研究されていらっしゃったので、今度講義を聞きにいこうと思いますがその前に、大枠の確認を。

 

ソーシャルインパクトボンド(SIB)とは

 

ソーシャルインパクトボンド(SIB)とは社会的問題を解決していくための活動に対して投資する政府と民間との契約。政府は成果に対して支払いを行い、当初は民間からの資金を使って活動する。成果をあげることで削減される費用から投資家へのリターンを支払うため、公共セクターとしては税負担を増やさずに革新的な公共サービスを提供できる。

(ソーシャルインパクトボンドカンファレンスに参加しました)

ふむ。要はソーシャルセクターへの寄付ではなく、リターンを加味した投資ってことなんでしょうかね。もちろん、何でもこのSIBが適用できるわけでもないようです。

 

「数値化」できない社会現象は評価できないので、投資として成り立ちませんよね。成果を測定できてこそ、投資の対象になりうると。細かい部分を見れば、金融商品であり、債券や株式に近い特性もある。

 

で、アメリカではゴールドマンサックスなどもSIBに取り組んでいるようですが、他の投資と比べて“大きく儲ける”ことはできなさそうな感じです。

 

現在、ソーシャルインパクトボンド(SIB)は英国を超えて、米国オバマ政権においても1億ドルの予算化がされています。また、韓国においてもSIB発行が準備されています。SIBはソーシャルセクターや公共セクター向けの新たな資金調達手段として世界的な広がりをみせています。G8においても、英国がSIBの導入を先進国共通の政策課題として打ち出すことになっています。しかし残念ながら日本においてはSIBの認知度が低く、全く議論がなされていません。(ソーシャルインパクトボンド カンファレンス)

 

世界は結構動いているんですね、なるほど。オバマ氏は元々ソーシャルセクターとの接点というか、貢献は強いですしね。日本(個人・法人問わず)も投資対象として見る人が増えるといいですね。

 

でも金融素人から見ると、NPOとしては、クラウドファンディングで大砲を打つか、寄付系ウェブサービスで小銭収集をするかのほうが、楽な気がするんですけどね。どうなのでしょうか。

 

企業や政府からしたら、助成してリターンはほとんどない状態より、投資としてリターンがあったほうが良いでしょうけど。

 

ソーシャル・インパクト・ボンドの課題

 

事業実施主体にとっては、目にみえる結果が求められる一方、長期にわたる運転資金を事前に確保できるというメリットがある。マイクロファイナンスやクラウドファンディングと同様、社会貢献型金融に位置づけられる。ボンドという名前がついているが、民間から資金を集める形態は債券だけでなく、出資、融資、寄付の形態をとることもある。

 

(ソーシャル・インパクト・ボンドの課題)

もちろん、始まったばかりのもので課題は山積み。公共ファイナンスの新たな手法として期待されるますが、リスク軽減を図る仕組み、事業実施主体の信頼性確保、事業成果の評価手法の確立、投資の税務上の取扱いなど課題は多いみたいです。

 

SIBの課題としては、「リスク、実施主体の信頼性、評価」の三つが考えられる。まず、SIBを投資商品としてみた場合、事業が成功しなければ償還ゼロではリスクが大きすぎる。ピーターバラの場合、投資家は、最悪の場合には「寄付」を覚悟できる慈善団体だった。また、ゴールドマン・サックスがニューヨーク市で組成したSIBでは、ブルームバーグ市長の個人基金「ブルームバーグ・フィランソロピー」から720万ドルの保証がされ、最大損失は240万ドルに限定されている。

(ソーシャル・インパクト・ボンドの課題)


逆に言えば、このあたりの課題を解決する手法が見つけられれば、かなり有望なスキームとも言えるのかもしれませんね。

いかがでしたでしょうか。


「儲かるCSR」の一翼を担うであろうSIBなので、今後も継続的に情報を集めていきたいと思います。金融系は詳しくないので、勉強必須な僕ですが…。

詳しい方がいらっしゃいましたら、逆に教えていただきたいです!! コメント欄ないけど。


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(記事引用)


官民連携のインパクト投資である。
インパクト投資家から調達した資金を基に、行政サービスを民間のNPOや社会的事業者に委託し、事業が成果を挙げた場合にのみ削減された行政コストに基づいて投資家に報酬が支払われる。民間資金によって社会的コストを削減する事業が実施できれば、行政コストも削減されるうえ、インパクト投資家がリターンを受けることができるという仕組みであり、事前に設定された目標が達成されない場合、投資家への支払いは発生しない。対象とする社会課題の性質、施策を行う事業者、目標の設定、評価機関、そしてそれらを管理する中間支援組織のいずれもが重要な要素となる。


例 日本国外

2010年に大幅な公費削減や業務見直しを迫られたイギリスで始まった制度。現在はイギリスを中心に世界9か国で30以上の案件が実施中である。


日本でのソーシャルインパクトボンドの第1号として、日本財団によって2015年4月より横須賀市で特別養子縁組の推進支援を行なうパイロット事業が始まった。

日本で初めての試みということもあり、中間支援組織は日本財団が務めている。

また、第2号として、同じく日本財団が中間支援組織となり、日本公文教育研究会がサービス事業者となった経済産業省委託の実証事業が、福岡市や松本市をはじめとした複数の自治体で実施されることが発表されている。

同年7月22日には、第3弾のパイロット事業として日本財団と尼崎市の協働によってソーシャルインパクトボンドによる若者就労支援事業が実施されることが発表された。

2015年12月21日放送のNHKニュース番組「おはよう日本」に取り上げられた。

(資料ウィキぺデア)
 

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日本財団 社会的投資推進室

「インパクト投資」は教育や福祉などの社会的な課題の解決を図ると共に、経済的な利益を追求する投資行動です。


英国では、逼迫する財政のもとで、貧困層支援などの社会福祉事業をいかに効率的かつ効果的に実施するか、という問いへの答えとして政府が積極的にインパクト投資を推進しています。

日本においても複雑化する社会課題への対応や財政改革は喫緊の課題であり、インパクト投資の手法を活用した、より効果が高く効率の良い公共サービスが期待されます。


日本のインパクト投資例


日本では「インパクト投資」という言葉が使われるようになったのは比較的最近ですが、90年代以降市民出資による市民バンク(NPOバンク)の活動や、オンラインのインパクト投資プラットフォーム、ミュージックセキュリティーズ、寄付金を基にNPOへのハンズオン支援を行うソーシャルベンチャー・パートナーズ東京、途上国の社会的企業への投融資を行うARUN合同会社などが活躍してきました。


また、2011年の東日本大震災を機に、三菱商事復興支援財団や東北共益投資基金のような被災地の復興支援に特化した基金を始め複数のインパクト投資の取組が生まれました。例えば社会的企業に対して中長期的支援を行う日本ベンチャー・フィランソロピー基金、途上国における社会的企業への投資を行うベネッセ・ソーシャル・インベストメント・ファシリティーズ、アフリカにおける社会貢献型ベンチャー育成を目的とする豊田通商アフリカファンドなどがあります。


休眠預金との関係性


休眠預金とは、長い間引き出しや預け入れなどの取引がない"眠っている"銀行預金のことです。最後の取引日や定期預金の最後の満期日から、銀行では10年、ゆうちょ銀行では5年以上経ったもののうち、預金者本人と連絡のつかないものを指します。

日本全体で休眠口座の総計金額は毎年800億円以上と言われており、30-40%が返金されます。いつでも払い戻しができますが、それにかかる手間と費用のために取引が行われない口座が生まれ、休眠口座となっています。現在は銀行の収入として計上されています。

韓国や英国では、休眠口座を見つけやすくするシステムを構築し、払い戻しを簡略化しています。また、持ち主の分からなくなったお金を、社会の未来への投資として活用しようという考えのもと、ファンド(基金)を通じてその残金を社会に還元しています。

韓国の休眠口座基金では、高齢者への無料看護事業、低所得者層の子ども達への教育事業、社会起業へのサポート事業などを行っています。英国の休眠口座基金ビッグ・ソサエティ・キャピタルでは、教育、雇用、社会起業の3つのテーマに力を入れ、「インパクト投資」の手法を用いてこれらの事業に投資しています。

日本でも2014年に休眠預金活用推進議連が発足し、社会課題解決の為の活用に期待が高まっています。


ソーシャルインパクトボンド(SIB)の紹介


ソーシャルインパクトボンドは官民連携のインパクト投資の手法です。行政、社会的投資家、NPO等非営利組織、評価機関が連携して、社会的成果に基づく質の高い行政サービス提供を実現することを目的としています。

行政サービスを複数年にわたり民間のNPOや社会的企業に委託し、その事業費をインパクト投資家から調達します。事業が実際に成果を上げた場合に、削減された行政コストを原資に投資家に対して償還を行う仕組みです。

これまでに英国、アメリカ、オーストラリア等で導入実績があり、日本でも導入が検討されています。英国では、軽犯罪の受刑者を対象にした再犯防止の取り組みからスタートしており、受刑中に心理ケア等の支援を継続的に行うことで再犯率を大幅に下げることに成功しています。
(記事引用)

アラビアンナイト 物語

アラビアンナイト
本来の夜数と物語数 ダイアモンドの谷のシンドバッド
古い漫画本の表紙を飾った千夜一夜物語
アラビアンナイトは、9世紀ごろに原型ができてから、多くの人の手によるさまざまな発展段階を経た。
原型が作られたイスラム世界でも多様な版が存在し、やがて東方諸国、ヨーロッパに紹介されていくにつれ数多くのバリエーションが生まれたことが、この物語の大きな特徴である。
アラビアンナイトの原形はそれほど長大な物語ではなかった。その理由は、現存するいろいろな版を比較すると、収録されている話も順序もかなり違うが、最初の二百数十夜くらいはほぼ共通しているからである。
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ガラン写本ではその夜数は282夜(物語の数は40話)、マフディーによる校訂版では271夜(物語の数は35話)に過ぎない。
しかし、「千一夜」という題名のゆえに、本来は1001夜の「完本」があるはずだとガラン自身も信じていた。

このことから、ヨーロッパでの「残りの物語」探しが盛んになり、それに応じて中東でその後に多くの物語が無秩序に付加されて、ついに19世紀には現在の1001夜分を含む形で出版されるに至った。

現存する写本としては最古のものとされるガラン写本に収録されていたのは、東洋文庫版でいうと、第1巻、第2巻、そして第3巻冒頭の「ヌールッ・ディーン・アリーとアニースッ・ジャリースの物語」、第6巻の「アリー・ビン・バッカールとシャムス・ウン・ナハールとの物語」、それに続く「カマル・ウッ・ザマーンの物語」冒頭部分、第15巻の「ホラサーンのシャフルマーン王の物語(ジュナールの物語)」くらいであり、残りはすべてガラン写本以外の資料を典拠としている。現在のアラビアンナイト物語集は、成立当時の姿の何倍にも膨らんでいる。

結局のところ、アラビアンナイトは「これ」という底本がない古典であり、底本がないゆえにどんどん新しい物語が加えられ、さらにヨーロッパと中東という二つの文明の間を行ったり来たりするうちに変形が進んだ物語といえる。偽写本の捏造もしばしば行われた。

しかしオリジナルがないゆえに、どれが正しくどれが誤りといった判断をするのは困難である。いつ、どの話が加えられたのかという判断も難しく、また、いつの段階までに収録された話を正式のアラビアンナイトと呼ぶのか、といった定義のようなものがあるわけではない。

サーサーン朝時代に中世ペルシア語であるパフラヴィー語で記された「ハザール・アフサーナ(ペルシア語版)」(هزارافسانه‎, Hazār-Afsāna‎)が、イスラームのアッバース朝時代に翻訳されたものとされる。現存する最古のアラビア語写本は、9世紀の『千夜物語』(アルフ・ライラ)である。

もっとも初期の物語の1つは船乗りシンドバードの物語で10世紀以前のものであり、これに対してもっとも後期の物語はカマールと達者なハリマの物語、マアルフの物語(蜂蜜入りの乱れ髪菓子と靴直しの禍いをまきちらす女房との物語)は16世紀のものらしい。そして大多数の物語はこの二群の中間、すなわち10世紀から16世紀の間のものと推定されている。
アレクサンドル・ウラール(Alexandre Ular)はそれぞれの物語を銃器の使用有無やぶどう酒・蒸留酒・コーヒーの出現有無、たった1回だけ煙草が登場すること、多くの病気が登場するにもかかわらず梅毒が登場しないことなどから千夜一夜物語の下限を15世紀から16世紀と結論している。

以上を総合すると、おそらくは9世紀もしくは10世紀のバグダードで原型がつくられ、徐々に物語がつけ足されてゆき、15世紀ごろのカイロで最終的なかたちにまとめられたのではないかと思われる。ただし、9世紀頃に出現した「アルフ・ライラ」の原写本はみつかっておらず、初期の物語群がどのような経緯で現在のようなかたちになってきたかについては、いまだに不明確なままである。

ヨーロッパでは、18世紀初頭にフランスのアントワーヌ・ガランが「発見」し、シリア系写本を使ってフランス語訳を行い、広く紹介した。以来、さまざまな翻訳と翻案が積み重ねられ、アラブ文芸の枠に留まらない大きな文学ジャンルと言えるほどの作品となっている。
エマニュエル・ジョルジュ・コスカン(Emmanuel Cosquin)(1909)は、全体の枠となる物語を分析し、次の3つの説話が原型になっているとした。

原典
妻の裏切りに絶望したある男が、他の高貴な人物が自分と同様に不幸であったことを知って、心の悩みから免れる話
超人的存在でも女の裏切りはふせぎ得なかったという話
説話の名人がその妙技をもって自分やその父の危機を脱する話
である。
このような構成には、他にも『屍鬼二十五話』、『ヒトーパデーシャ(英語版)』、『パンチャタントラ』などインドの説話集(サンスクリット文学(英語版))が知られており、インド起源の説話がまずペルシアに伝わって風土化し、のちにアラブ人に伝わって成立したとする。
また、成立後も様々な作家によって新たに挿話が付け加えられ、原典であっても複数のテキストが存在する。

日本では1875年に英語版からの翻訳が行われ、以来英語・フランス語などのさまざまなバージョンからの重訳が行われた。また、有名な説話は児童文学に翻案され親しまれている。
アラビア語(カルカッタ第二版)からの翻訳には、前嶋信次・池田修による『アラビアン・ナイト』がある。
この他の日本語訳に、マルドリュス版(仏語)からの『完訳 千一夜物語』(岩波文庫)、バートン版(英語)からの『バートン版 千夜一夜物語』などがある。

カイセリ(Kayseri)はトルコ中央部の都市。カイセリ県の県都。人口は約54万人。トルコで4番目に高い山であるエルジェス山(3,916m)を近くに臨む。
古くは、カッパドキア王国の首都としてマザカ(Mazaka)と呼ばれた。カイセリの名は、ローマ帝国時代にティベリウス帝(紀元後14年-37年)が「皇帝の街」を意味するカエサレア(Caesarea)と名づけたことに由来する。6世紀にユスティニアヌス1世が築かせ、幾度かの改修を経た城砦が市内に残る。中部アナトリアの商業の中心都市として栄えた。牛肉を塩漬けにした保存食パストゥルマ(英:パストラミ)が有名。

内陸性で冬の寒さは非常に厳しく、しばしば−20度以下を記録する。また、冬季の積雪も多い。
(資料ウィキぺデア)

トルコのカイセリに伝わる写本
アラビア語の写本(手書きの本)には、ガラン写本(シリア写本、15世紀半ば)、トルコ写本(16世紀)、エジプト系写本などが知られているのですが、内容はそれぞれ異なっています。1704年. トルコのカイセリに伝わる写本で、16世紀に作られたとされています。

中世イスラム世界で形成されたアラビア語の説話集。サーサーン朝時代に中世ペルシア語であるパフラヴィー語で記された『ハザール・アフサーナ』(千物語)が、イスラームのアッバース朝時代に翻訳されたものとされています。
現存する最古のアラビア語写本は、9世紀の『千夜物語』(アルフ・ライラ)です。いくつかの発展段階を経て、19世紀に現在の1001夜分を含む形で出版されました。エマニュエル・ジョルジュ・コスカンは、全体の枠となる物語を分析し、3つの説話が原型になっているとしています。
1.妻の裏切りに絶望した男が、のちに悩みから逃れる話。
2.超人的存在でも妻の裏切りは防げなかった話。
3.説話の名人が自分や父の危機を脱する話
以上です。
このような構成には、他にも『屍鬼二十五話』、『ヒトーパデーシャ』、『パンチャタントラ』などインドの説話集が知られており、インド起源の説話がまずペルシアに伝わって風土化し、のちにアラブ人に伝わって成立したと考えられています。また、成立後も様々な作家によって新たに挿話が付け加えられ、原典であっても複数のテキストが存在しています。
ヨーロッパでは、18世紀初頭にフランスのアントワーヌ・ガランが「発見」し、シリア系写本を使ってフランス語訳を行い、広く紹介しました。
以来、さまざまな翻訳と翻案が積み重ねられ、アラブ文芸の枠に留まらない大きな文学ジャンルと言えるほどの作品となっています。日本では1875年に英語版からの翻訳が行われ、以来英語・フランス語などのさまざまなバージョンからの重訳が行われてきています。
また、有名な説話は児童文学に翻案され親しまれています。アラビア語(カルカッタ第二版)からの翻訳には、前嶋信次・池田修による『アラビアン・ナイト』があります。

2010年4月21日、エジプトの弁護士団体「制限なき弁護士団」が「公序良俗に反する」として出版者の逮捕と同書の押収を当局に要求、作家や人権団体などの反発が起こりました。同説話には性的表現も含まれるため、「反イスラム的」として標的にされたと言われています。
(記事引用)

アラビアンコム

http://alwateniyah.com/category/abn-03/
 













KAYSERI Dog
・・・自分の娘には、一流私立大学までやって留学させ、英語とスペイン語がぺらぺら喋る才媛に仕立て上げた。
彼氏は当然アメリカ人で、その交友は世界中に居て、とくに中東ドバイとかドーハの若者と交流があるときく。またシリコンバレーのベンチャー友達も知っているらしい。

いまアメリカに住んでいて、たまに日本に帰ってきて、東京にいるカタール人の友がバーレーンでジュエリー店を出すのに、その原石買い付けするので日本に滞在している。
お茶を飲みながらそんな話をしている。どうしてに「日本」なのか、と訊こうとしたが、説明されても理解できないとおもって、しないことにした。

兎に角、容姿端麗、眉目秀麗、自分でいうのもなんだが、そこいらを歩いていると皆が振り向くほどのモデル仕様である。ま、 「滝川クリステル」には及ばないが、姉妹だ、という大ホラ吹いても誰も疑わない。

ある晩、その連中が家に集まって日本食パーティーをするんだといって5.6人集まった。全員男だった。その全員が国籍も違っていた。

いつもだったら母親、即ち私の妻がほとんど料理して出していたが、その日はどうしたのか、妻に用事があって東京に出かけていた。友人が焼き物個展をするので、その挨拶だといっていた。だからしばらくの時間つなぎに、娘(蛭子)に料理を手伝わせた。

私は味噌汁のダシを取るのにカチカチの削り節を手間隙かけて削りだし、籐籠一杯にためて、支度をまった。
ま、こんなことは云いたくないのだが、その削り節は使われたことがない。いつもそうして用意しているが、妻が始めると、棚上に載っている「鰹だし」ビンの顆粒2サジをバラバラっと放り込んで終わる。その手際のよさに付け入る隙もなく、またそこであーだこーだと、夫婦間バトルをはじめると、離婚届書類の引き出しが脳裏をかすめるので、それ以上はしない。そんなわけで味噌汁ダシは、カップ2サジのダシで終わっている。

それで、「サバ味噌煮」が食いたいと、ドバイ男が、意味不明なことを云っていたので、蛭子、娘が買ってあったサバ1本をキッチンで洗うと、そのままアルミ鍋に放り込んだ。・・・


 
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