Galapagos Japas

国際政治と日本の古代政治変遷歴史 明治維新など特に集中して書いている

2016年06月

レールガン

レールガン 
レールガン (Railgun) とは、物体を電磁誘導(ローレンツ力)により加速して撃ち出す装置である。なお、電磁気を使う投射様式全般の呼称としては、電磁投射砲(でんじとうしゃほう)やEML (ElectroMagnetic Launcher) 、電磁加速砲などがある。

原理的には古くから知られていることもあり、サイエンス・フィクション関連やゲームなどの作品に幅広く登場しているが、それらの作品では主に兵器として扱われていることが多い(→レールガンの登場するサイエンスフィクション一覧)。
なお、レールという言葉が含まれているが、いわゆる鉄道や列車砲とは無関係である。

この装置は、電位差のある二本の電気伝導体製のレールの間に、電流を通す電気伝導体を弾体として挟み、この弾体上の電流とレールの電流に発生する磁場の相互作用によって、弾体を加速して発射するものである。

弾体を加速し発射する力は、アンペールの法則でわかるように、主にレールと移動をつづける弾体(電気伝導体)の接点付近に生じる。また、直線導体による弱い磁場であるから、非常に大きな電流を流し続ける必要があり、さらに十分な発射速度を得るためには、加速に十分な距離を取る必要がある。

一方、弾体を含め電気回路を形成するためには、レールに弾体(ないしそれに取り付けられた電気伝導体)の一部が接触している必要があり、この箇所に摩擦および移動に際しての摩擦熱が発生する。さらに摩擦が起きる電気接点において、わずかな電気抵抗でも生じれば、投入される大電流のために大きなジュール熱が発生し、この電気伝導体等の一部が蒸発・プラズマ化する問題もある。弾体とレールの接点が蒸発して接点が取れなくなれば、電気回路としての装置に電流は流れず、弾体は発射装置内に取り残される。
なお、流体としての性質を持つプラズマにも電気伝導体としてローレンツ力が働くが、このプラズマが飛散してしまえば、やはり弾丸は取り残される。
レールガンの速度表皮効果_1このため、後述するように、電気伝導体としてのプラズマを逃がさないようにする工夫も見られ、プラズマを電気伝導体として扱うものでは、弾体自体は必ずしも電気伝導体である必要はなく、この弾体の進行方向から見て後方に薄い金属箔を貼り付ける様式もある。
このように実用化には問題が多いと考えられ、これらの装置は2012年現在においては、概念的な架空のものとしてや、実験段階のものや試験段階のものなど、実用化は進んでいないが、後述するように様々な利用も想定されている。 実用化の一つとして、2016年に米軍が、電磁加速砲を洋上実験する計画が明らかになっている。

レールガンの原理的な基本構造は、2本のレールと電源からなる。これに伝導体製の弾丸を挟み込んで直流の電力を入力し、還流させて電気回路を形成する。この場合、弾体には電流が流れる必要性から砲身であるレール電極に物理的に接触している必要があるが、電流さえ流れれば伝導体はプラズマでも構わない。
なお、プラズマが弾体を押すためには、流体としての性質を持つプラズマが弾体を追い越さないための密封性を必要とし、このため弾体の通り道を残してレール間の隙間を塞いである(砲身として筒状をしている)が、このレールの隙間を塞いだ構造物は非伝導体(絶縁体)である。

弾体を砲身であるレールの間のみで加速するためには相応の電流を必要とするが、この電力供給が必要に見合えば、その形式は問われない。ただし、化学電池程度では、レールガンを動作させるのに見合うだけの電力を短時間で供給することには見合わず、それらで発生させた電力をキャパシターなど起電力を持たない蓄電装置に蓄えるなど工夫を必要とする。

以上がレールガンの構造における基本形態だが、実際に開発・利用されているレールガンでは、プラズマ化に伴う膨張力(→圧力)や熱などに耐えられなければならず、またプラズマ化に伴う膨張圧も弾体の加速に利用する場合は、尾栓に相当する部品を必要とし、これは非伝導体である必要がある。なお、単純にプラズマ膨張圧のみを弾体加速に用いる形式は、サーマルガンと呼ばれる別形態の装置である。

利点と実現性
 
レールガンが打ち出す弾体の最大速度は、理論上はレールが長く加速が長時間維持できればあげることができるが,ローレンツ力と各種の摩擦や損失がつりあう速度が最大速度となる。 したがって、発射速度は入力した電流の量に正比例しない。摩擦や損失が無視できる間は、加速度は電流の大きさに比例する。

速度表皮効果(後述)によって投入エネルギーの多くがジュール熱として奪われ、不必要なプラズマの発生によるエネルギー・ロスが発生するために、ある程度以上の高速度運動では入力エネルギーに対する加速の効果に上限が生じる。 また、速度表皮効果による上限以前に、短時間に大電流を供給する電源が必要である他、加速する距離やレールの摩擦・電気抵抗・耐熱限界などの物理的・技術的制約がある。
しかしながら、火薬を使用する火器では、燃焼による化学エネルギーの多くが熱の形で失われ、弾体の投射エネルギーに使われるのは少しであり、また弾体の発射速度は発生・過熱膨張されるガスの膨張速度を超えられず、最新の爆薬を使ってもせいぜい2km/s程度であるのと比べれば、現在ある技術や材料で作られた実験段階のレールガンでも充分な電流さえ入力されれば遥かに大きい発射速度が実現できている。

速度表皮効果

レールガンの速度表皮効果
投射体が高速移動すると磁界変化が間に合わず、電流路が狭い範囲に押し込められる。

1.ローレンツ力を受けて投射体が加速される
2.速度表皮効果によって電流の流れる範囲が狭くなり、やがてジュール熱によって「溶解」「プラズマ化」する
3.発生したプラズマが新たな電流の流れを作って投射体への加速が行なわれなくなる

電流が変化する場合には、同時に誘導された磁力も変化する。この磁力の変化がはじめの電流の変化を打ち消す方向に働く。これが自己インダクタンスと呼ばれる抵抗である。普通は電気回路は空間に対して固定されていたり、移動する場合でもそれほど高速ではないが、レールガンでは投射体の高速移動によって電流路とそれを取り巻く磁界が高速で空間を移動する。
一度発生した磁界はその中心に電流路を保持しようと働くため、移動する投射体に対しては電流路を後方に限定し、レール上の電流路は砲の先の抵抗値が上昇する。これは交流電流による表皮効果と同じように働き、移動が充分に高速であれば、まず過大な抵抗によるジュール熱によって伝導体の後端から溶解をはじめ、さらに高速であればプラズマ化してしまい、通常の砲のように密閉されていなければ、新たな電流路となったプラズマはローレンツ力と速度表皮効果の両方を受けて複雑な挙動をしながら、結局加速に関与しないで散逸する。
この効果によって、ある実験ではいくら電流を増やしても7km/sで頭打ちになった。00m/sでの銅レールの「表皮厚」は1mmであった。
速度表皮効果をコントロールする技術が開発されれば、レールガンの高性能化は容易であると考えられている。

初速
1960年代には、550メガジュールを入力した長さ5mのレールガンで、オーストラリア国立大学に所属するリチャード・マーシャルらのグループが3gの弾丸を5.9km/s ( = 5,900m/s) で射出する事に成功した。なお21世紀初頭では、最大速度8km/s程度の物が開発されている。また、参考までに火薬を使う火器の弾丸の初速に関して述べると、拳銃では230 - 680m/s、ライフル銃では750 - 1,800m/s程度、戦車砲では120mm/L52の仏GIAT製滑腔砲にAPFSDSであるOFL120F1タングステン徹甲弾では1,790m/sである。また火薬と水素を使ったライトガスガンでは6 - 7km/sである。

混同され易い他の投射方式

リニアモーター
電磁誘導によって物体を加速する装置。電磁石そのものを弾体の推進装置とする。

コイルガン
コイル(ソレノイド)の中に弾を通過させる方法を利用したもの。構造上の問題からレールガンの様な高初速が得がたいという欠点と、消費電力が低いという利点がある。

サーマルガン
電磁誘導ではなく入力された電流のジュール熱にて弾体後方の導体をプラズマへ相変化させ、これに伴う急激な体積の増加を利用するもの。瞬間的なプラズマ化に伴う爆発を利用するため、比較的低いエネルギー量でも一定速度未満であれば高い初速が得易い代わりに、プラズマ膨張速度を超えた初速を得ることはできない。

想定される用途
現在、レールガンは様々な分野での利用を期待されている。比較的知られている分野では以下が挙げられる。

マスドライバー等の宇宙への輸送装置
 
高速移動物体の衝突時に発生するエネルギーを研究するための設備
 
スペースデブリ(宇宙ゴミ)衝突を想定した宇宙開発における新素材や新構造の研究・開発

被破壊実験等の物理学的な実験

軍事兵器
宇宙兵器(隕石衝突を回避するための防衛技術も想定されている)
この他、入力する電流の量により、発射速度を自由にコントロールできる事から、タイミングを計りやすい事もあり、レーザー核融合炉への燃料ペレット投入に対する利用が期待されている。

兵器としての実用化

Naval Surface Warfare Center Dahlgren Divisionでの試射(2008年1月)
アメリカ海軍はズムウォルト級ミサイル駆逐艦で採用が決定したAGS (Advanced Gun System) と呼ばれるロケットアシスト砲の次の段階として、レールガンの技術開発に着手していることが2007年の米ネイビーリーグ(技術展示会)で発表された。
米国海軍研究局 (Office of Naval Research, ONR) でもこの事実は確認された 。
ズムウォルト級駆逐艦の特色として統合電力システム (IPS) を採用しており、大型ガスタービンエンジンで電力を発電、これを船の電気系統はなおのこと推進器などの動力として使う計画であるが、これを更に進めてレールガンにもこの電力を供給し発射しようという計画である。同艦では2基のガスタービン発電機により、最大80メガワットの電力を発生させる。この電力は全速航行時には70MWまでもが推進に使われるが、常時最大戦速を出す訳ではないので、速度を落としている際に余る電力が利用されると考えられており、15~30MW程度をレールガン発射に回せれば、毎分6 - 12発の連続射撃が可能だという。
計画では揚陸作戦支援に重量15kgの砲弾を初速2.5km/sで発射、高度152kmまで打ち上げて370km以上先の攻撃目標に終速1.7km/s(マッハ5)で着弾させる、このためには砲口での砲弾運動エネルギーは64MJ(メガジュール・入力する電力ではなく、砲弾のもつ運動エネルギーである)を必要としている。

同計画では2020 - 2025年頃を目処に実用機を艦船に搭載することを目標として、BAEシステムズ社とジェネラル・アトミックス社が32MJ砲の試作に入っており、2006年10月の時点で口径90mm・2.4kg砲弾を砲口での砲弾運動エネルギー800キロジュール(0.8MJ・初速830m/s)で発射に成功、2007年1月には3.2kg砲弾で初速2146m/s 砲弾運動エネルギー7.4MJを、2008年1月の試射では3.35kg砲弾で初速2520m/s 砲弾運動エネルギー10.64MJを記録している。
2010年12月10日には、約10.4kgの砲弾を音速の約8倍(約2.7km/s)、砲弾の運動エネルギーは約33MJでの発射に成功した。これは、目標である15kgの砲弾の2.5km/sに極めて近づきつつある結果である。

2014年4月7日、アメリカ海軍は、2016年会計年度中にレールガンの試作機を最新鋭の高速輸送艦ミリノケット(USNS Millinocket(JHSV-3))に据え付け、洋上での実証試験に入ると発表した[10]。日本では、防衛省の平成27年度概算要求にて、「艦載電磁加速砲の基礎技術に関する研究」を記載している。

発射速度は入力された電流に正比例する事は先に述べた通りだが、原理自体は古くから知られており、1844年にはこれに基づいた兵器利用の実用化構想もあった程で、世界各国の軍部が事ある毎に研究してきた歴史がある。第一次/第二次世界大戦当時にもドイツや日本で兵器化への研究が行われていた。

しかし弾体が砲身に接触している事から生じる摩擦の問題を解決できなかったり、実際に発射できるだけの電流を生み出す電源が無いといった理由から、当時の技術ではこの問題を解消できずに研究は放棄され、実用化に到らなかった(高射砲一門だけのために、専用発電所が二つ必要という試算さえあった)。
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960年代に、前出のリチャード・マーシャルらのグループが単極発電機(英語版)の発生させる電流を用いて、従来火器よりも遥かに速い速度で弾丸を射出する事に成功、次第にその威力が現実的な物として考えられるようになり、1980年代にはアメリカ合衆国のスター・ウォーズ計画(SDI計画)により、多額の研究資金を得て、大きく発展した。

特に宇宙空間では空気抵抗が無いために、高速で運動する物体の破壊力(運動エネルギー)は発射から命中までの間、ほぼ無期限に保存される事、また電源として大気越しではない太陽光が利用できる事から、レーザーと並んで宇宙兵器の有力候補に挙げられている。
だが今日では、SDI計画自体が国際情勢の変化に合わせて計画縮小され、実用性においては実績のある既存の火薬を燃焼させて発射する兵器と比較し、巨大な電源装置を必要とする等の点で問題の多い上に、実績も無いレールガンの兵器化研究は進んでいない。
その一方で、1990年代頃から技術開発や研究方面での利用も進み、様々な分野で開発・利用されている。

日本では宇宙科学研究所で、デブリ衝突などの模擬実験用に研究と同時に実用に供されていた。

なおレールガン開発の歴史は、レールガン本体の改良よりも、むしろ電源開発の歴史と述べた方が適切とされており、SDI計画においても、単極発電機の小型化が最重要課題とされていた。今日各方面で利用されているレールガンにおいては、フライホイールに(運動エネルギーの形で)蓄電された物やコンデンサに蓄電した物が利用されるなどしている。

司馬遼太郎と三島由紀夫

司馬遼太郎と三島由紀夫
「国民作家」の戦争体験 - 福嶋亮大(文芸批評家・中国文学者)
文藝春秋 SPECIAL 2015秋2015年09月16日 07:00

従軍した司馬と戦場に行けなかった三島。対照的な体験は二人の文学にどのような影響を与えたのか? 

 戦後日本の文学者として、司馬遼太郎(1923年生)と三島由紀夫(1925年生)は双璧の存在である。司馬は今なお根強い崇拝の対象であり(日本人にとっての「国民作家」は結局、村上春樹ではなく司馬遼太郎だろう)、三島は古典主義とロマン主義のせめぎあうその小説群に留まらず、戦後日本批判とパフォーマンス的な自殺によって、言論の参照点であり続けている。 

 もっとも、この両者を関連づけるのは一筋縄ではいかない。1970年の三島の割腹自殺について、司馬が「さんたんたる死」「異常死」と形容し、あくまで「政治」ではなく、芥川や太宰の自殺のような「文学」の出来事として回収しようとしたことは、よく知られている(「異常な三島事件に接して」)。司馬なりの礼節が尽くされているものの、彼にとって晩年の三島は理解不能の人物にすぎなかっただろうし、ましてその死に深い政治的含意を認めようとするのはたんにナンセンスであった。 

 だが、両者に同時代性がないわけではない。例えば、三島が自殺の直前「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」という有名な予言を残してすぐ、司馬が1971年以降『街道をゆく』によって日本の国土を輪郭づけたことは、明らかに共振するところがある。その対照的な生き様にもかかわらず、彼らは、日本のアイデンティティが自明でなくなっていく時代を共有していた。 

 私は戦後日本のあり方を了解するにあたって、この両者の比較は有益だと考えている。このテーマについてはすでに松本健一『三島由紀夫と司馬遼太郎』(新潮社)等の著作があるが、本エッセイでは主に司馬を中心として私なりの見解を簡単に示したい。とりわけ「戦争」と「国家」がここでの主眼となる。 

写生と虚構
 今日の私たちは、戦時中の日本は「軍国主義」であったと教えられている。しかし、司馬の考えでは、当時の日本はそれ以前の段階、すなわち軍国主義もまともに遂行できない不出来な国家であった。司馬の『歴史と視点』(1974年)所収の警抜なエッセイ「大正生れの『故老』」によれば「〔第二次大戦の頃の日本陸軍の装備は〕満州の馬賊を追っかけているのが似合いで、よくいわれる「軍国主義国家」などといったような内容のものではなかった。このことは昭和十四年のノモンハンでの対ソ戦の完敗によって骨身に沁みてわかったはずであるのにその惨烈な敗北を国民にも相棒の海軍にも知らせなかった」。 

 司馬によれば、こうした「集団的政治発狂者」による国家的な「愚行」を象徴するのが、合理的な軽便性を欠き、装甲も薄っぺらな九七式中戦車(通称チハ車)であった。戦場の司馬は、まさにこの見掛け倒しの「憂鬱な乗り物」であるところのチハ車に乗らされる。昭和期の行政官僚や陸軍が現実離れした「形而上的ポーズ」に支配され、正常な自己認識を失った結果として、兵士の命を脅かす時代遅れでポンコツの戦車ができてしまう ―、戦争は善か悪かという問い以前に、司馬にとってはまずこの日本軍の奇怪な行動様式こそが最大級の批判に値するものであった。 

 もっとも、ここで司馬は、下品な恨みつらみにならないように言葉を選んでいる。正岡子規を敬愛していた司馬は、国家の愚かさを高みから裁断するのではなく、自分自身をも客体視する「写生文」の手法を巧みに用いている。むろん、チハ車が徹甲弾にやられて「自分が挽肉になるという想像は愉快なものではなかった」にしても、この深刻な想像を描くとき、司馬の筆致は独特のユーモアを醸し出す(「挽肉のことを書こうとしているのではない。/機械のことを書くつもりだった」)。それはちょうど、死後の自分のありさまを落語のように描いた子規の写生文とどこか通じるものがある。 

 要するに、司馬は戦場に何のロマンも幻想も認めていない。彼にとって、戦場とはただ、軍国主義すらグズグズにする日本の愚かさが支配する空間にすぎない。彼の写生文は、一兵卒である自分自身も含めて、すべてを等価なモノのように扱う。そして、この非熱狂的な文章技術によって、馬鹿げた戦争の描写には奇妙な「おかしさ」が宿り得るだろう。 

img_0 (2) それに対して、三島由紀夫は戦場から疎外された人間である。入隊検査で誤診されて即日帰郷を命ぜられたことが、後々まで彼の感情的負債になったことは、よく知られている。戦場で死ぬはずであった自分が戦後も生き延びて、なぜか時代の寵児になってしまったという不発感は、そのまま戦後日本のちぐはぐな状況― 敗戦とともに滅亡するはずが、なぜかのうのうと生き延びて経済的繁栄を謳歌している―とぴたりと重なりあう。戦後日本社会も自分自身も死に損ないの漫画的存在だというところに、三島の立脚点がある。天皇主義を掲げて「文化防衛」を唱えたことも、所詮は三島一流の虚構、すなわちお笑いにすぎない……。 

 こうした「戦場からの疎外」は、三島の小説にも反映される。例えば、日露戦争から戦後社会までを舞台とした畢生の大作『豊饒の海』の第三部『暁の寺』で、真珠湾攻撃の開始の報を聞いた主人公は、すぐさまインドの輪廻哲学に思いを馳せ、東京大空襲の廃墟を見渡した際には、そこに自らの「輪廻転生の研究」を投影する。それは戦場をファンタジーに変えることであった。三島はすでに戦時中の作品「中世」において、応仁の乱で廃墟化した日本に高貴な美男子の霊を降ろそうとする権力者を描いたが、『暁の寺』においてもなお、戦争のまっただ中にあえて仏教的な世界像を書き込んでいた。三島は戦争(戦場)を写生する気がまったくなかった。

 司馬が「写生」を旨とした作家であったとすれば、三島は「虚構」に取り憑かれた作家である。戦場においてあらゆる甘い幻想を打ち砕かれた作家と、戦場に行きそびれてヴァーチャルな幻想を再生産し続けた作家  ―、この両者はまさに日本の戦後文化の両極を指し示している。 

思想不信と破壊願望
 
 ところで、司馬や三島が活躍する傍らで、戦後の日本社会で哲学の地位が失墜したことは注目に値する。京都学派を筆頭に、戦前の有力な哲学者たちが司馬の言う「国家的愚行」に加担した以上、戦後日本が知に対する不信感を抱え込んだとしても不思議ではない。 

 この点で、司馬はまさに「戦後日本的」な言論人の典型であった。彼にとって、抽象的な知や思想はまるで信用に値しなかった。例えば、彼は1969年の梅棹忠夫との対談で、日本史における「思想」は「アルコール」のようなものにすぎず、今後の日本人はその酩酊から覚め、世界に先駆けて「無思想時代」に入るとまで述べていた(『日本人を考える』)。さらに、戦争に関しても、反戦・非戦を声高に叫ぶよりも「日本は地理的に対外戦争などできる国ではない」という「小学生なみの地理的常識」から始めたほうがよいと提言する。思想を「白昼のオバケ」と見なした司馬は、日本の歴史と地理をしておのずと真理を語らしめようとした。 

 こうした態度は、司馬の独特の文体とも共鳴している。彼の小説やエッセイは、いかめしい論考のスタイルではなく、むしろ気取らない談話のスタイルで書かれた。そこでは日本語が自由に呼吸しているが、そのぶん作家の気分次第の「脱線」に流れるところも多く、文学作品としての緻密さを欠いている。しかし、歴史を私的かつ公共的な口語体で書くというこの発明こそが、司馬を「国民作家」の地位に引き上げたのは明らかである。 

 それに対して、三島は「知的なもの」に対しては屈折した態度を示した。むろん、彼ほど圧倒的な知性と教養を備えた日本人作家は他にいないが、にもかかわらず、彼ほどインテリを軽蔑してみせた作家もいない。彼がこれ見よがしにボディ ビルをやり、悪趣味な邸宅に住んだことは、その現れである。さらに、先輩の谷崎潤一郎が自己の素質を見誤らず、インテリぶらずにとことん変態(!)であり続けたことに、三島は賛辞を惜しまなかった(『作家論』)。漱石や鷗外を例外として、偉大な教養人であることと優れた小説家であることは両立しがたい―、その事実を三島は重く受け止めていた。 

 このように、司馬も三島も思想への不信という点では共通している。ただし、戦後社会についての評価は大きく異なっていた。司馬は『街道をゆく』で国土を辿り直す一方、列島改造計画によって日本の土地状況が致命的に混乱させられたことを憂えていた(驚くべきことに、彼は土地を公有化すべきだとすら主張した)。しかし、虚構の作家である三島は、司馬ほど日本の国土への愛着はない。彼の小説は特定の土地に拘束されない。先述したように、初期の「中世」から晩年の『豊饒の海』に到るまで、日本国はヴァーチャルな幻想の「依代」であり、それ以上でも以下でもなかった。 

 三島は戦後社会の寵児であったにもかかわらず、戦後の空虚さには耐えられないというポーズを幾度も示していた。戦後社会の醜さは土地の公有化などによってどうこうなるものではなく、ただ金閣寺のように焼き払うべき対象であった。これと似たような発想は、三島だけではなく、例えば小松左京(1931年生)の『日本アパッチ族』や『日本沈没』にも認められる。小松にとっても、戦後社会の繁栄は偽りであり、だからこそそれをハチャメチャなSFのなかで滅亡させなければならなかった。小松は日本全体をヴァーチャルな戦場に変えてみせたのだ。 

 戦場を知らない作家たちのこの破壊願望は、戦場で「挽肉」にされかかった司馬には到底共有できないものであっただろう(その願望は、日本を自滅させた戦前の「国家的愚行」とどこが違うというのか?)。三島や小松のタナトスは今日のサブカルチャーにまで受け継がれているが、司馬の写生文はまさにこのサブカルチャー化する破壊願望に暗に抵抗していたと言えるだろう(ちなみに、この点で、終末世界を描いたアニメーション作家の宮崎駿が、司馬を敬愛していたのは興味深いことである)。 

国家からの遁走
 
 もっとも、戦後社会への対処の違いはあったとしても、この両者の国家観については意外に似通っているところもある。彼らの仕事はともに、近代の国民国家や産業社会という「現実」を認めつつ、そこから遁走する契機を含んでいた。 

 一般的には、司馬は明治国家の擁護者と見なされている。すなわち、愚かな戦争に突入した昭和前期の日本を批判するために、明治のナショナリズムを「美化」したと考えられている。しかし、この通説は間違いではないが、正確でもない。司馬自身はこう述べていた。「近代国家というのは、じつに国家が重い。庶民のながい生き死にの歴史からいえば明治というのは国家というとほうもない怪物の出現時代であり、その怪物に出くわした以上はもはや逃げようはなかった」(「大正生れの『故老』」)。 

 逆に、戦後はこの「重い国家」から解放された時代である。1969年のエッセイ「日本史から見た国家」(『歴史の世界から』所収)によれば「現代日本は軽い国家です。これを正視しなければいかなる議論もカラブリだと思います。たとえば、権力といっても権力ではない。自民党だって、握っているのはせいぜい利権というべきものといえるほどのものであって、権力ではない」。明治以降の「重い国家」が日本史上の「怪物」であったとすれば、戦後の「軽い国家」はむしろ日本史における平常状態である ―、少なくとも、司馬はそのように見立てている。 

 この「軽い国家」への欲望は、今の日本社会でも消えていない。国家は道徳に干渉するよりは、最適化された行政サービスに勤しんでくれればよいというタイプの議論は、むしろ今日のグローバル化のなかで活気づいている。ただ、司馬の「軽い国家」論はたんに経済合理性から来ているわけでもない。大阪外国語学校在学中にモンゴル語を学び、晩年にはモンゴルを舞台にして佳品『草原の記』を残した司馬は、国家の歴史が蒸発した世界への憧れをずっと抱いていた。そこには、国家という拘束を忘れたいという欲望が認められる。 

 司馬が近代国家以前のものへの憧憬を抱いていたとすれば、三島もまた、近代国家へのアンチテーゼを導入していた。それは彼の名高い天皇論と直結する。彼は福田恆存との対談でこう無遠慮に述べていた。「天皇といふのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムといふものの、一番反極のところにあるべきだ。さういふ意味で、天皇が尊いんだから、天皇が自由を縛られてもしかたがない。その根元にあるのは、とにかく『お祭』だ、といふことです。天皇がなすべきことは、お祭、お祭、お祭、お祭、―それだけだ。これがぼくの天皇論の概略です」(「文武両道と死の哲学」)。 

 三島は反近代的・反エゴイズム的な「お祭」を担う「美的天皇制」に対して「忠義を尽くす」と言う。このことは彼の小説とも関連する。先述したように、三島の晩年の『豊饒の海』にはインドの輪廻思想がファンタジーとして導入され、そのラストシーンは空虚な庭の描写で締めくくられていた。国家の重荷を取り去り、国民のエゴイズムを追放し、祭祀や輪廻という無時間的なものに忠誠を誓うこと ―、この三島の態度は司馬のモンゴル憧憬と決して別物ではない。彼らはともに、明治から戦中にかけての「重い国家」を日本史のイレギュラーな現象として見ていた。 

 日本の「国民作家」として遇されてきた二人の作家が、ともに近代の国民国家からの遁走を内包していることは、きわめて興味深い問題である。と同時に、私たちはそこに巨大な矛盾をも認めるだろう。しかし、その亀裂から目を背けては「昭和」の精神をつかむことはできない。 

 もとより、巨大な戦争をあいだに挟む昭和は、国民規模の変身=転向の時代であり、誰もが混乱を回避できなかった時代である。そのとき、文学はたんなるエンターテインメントではなく、その社会的・心理的混乱を引き受けるための容器として作り替えられた。さまざまな矛盾を内包した司馬と三島が、まさにこの意味での「昭和の文学者」であったことを、私たちは戦後70年の今、改めて思い出してよいだろう。 

■プロフィール
ふくしま りょうた 1981年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。現在、立教大学助教。著書に『神話が考える』『復興文化論』がある。 

革命は3つの段階で成就すると説く「司馬史観」
PRESIDENT Online2016年04月16日 18:00
司馬遼太郎が教える「日本人とは一体何者か?」
ジャーナリスト 岡村繁雄=文

革命は3つの段階で成就すると説く「司馬史観」
「この国のかたち」――、この言葉から、司馬遼太郎を連想する人も多いに違いない。数多くの歴史小説や随筆を書いたが、その根底にはいつも日本人を見つめる視線があった。では読者は、そんな司馬作品とどう向かい合えばいいのか。本書は、司馬遼太郎の元編集担当者で戦史研究家でもある森史朗氏が、代表作といわれる小説をどの順番で読んでいけば理解が深まるかを指南している。
まず1冊目は、新選組の土方歳三を描いた『燃えよ剣』である。意外に感じる人もいるだろうが、実は、司馬本人がベストワンとして「『燃えよ剣』だと思います」と語っているのだ。それまで、土方といえば、映画などでも冷酷な悪役として扱われていた。しかし、司馬の筆は颯爽とし、人情味もある土方を生み出した。森氏は「この点にこそ、作家司馬遼太郎らしさがある」という。いってみれば、まったく新しい解釈で司馬ならではの人物像を創り上げるのだ。

そのことは、2冊目の『竜馬がゆく』、4冊目の『世に棲む日日』にも当てはまる。坂本竜馬にしても、吉田松陰にしても、司馬は彼らに重要な使命を与えている。ここに、彼が維新や革命は3つの段階を経て成就すると説く“司馬史観”がある。まず、思想家が警鐘を鳴らし、次いで革命家が奔走する。彼らの大半は早逝するが、生き残った実務家が新体制を仕上げるというのだ。いうまでもなく、思想家は松陰であり、革命家は竜馬だ。そして5冊目の『翔ぶが如く』に登場する大久保利通が実務家といっていい。土方も、ある種の革命児かもしれない。

驕りが「日本人を調子狂いにさせた」
このように順番に読んでいくと、歴史作家が次第に歴史家へと変貌していくことが感じられると森氏は書く。そして、その白眉となる作品こそ6冊目の『坂の上の雲』だ。ここには、伊予松山生まれの2人の軍人が登場する。日露戦争の立て役者となった秋山好古、真之兄弟である。兄は、ロシアのコサック騎兵の進撃を食い止め、弟は、日本海にバルチック艦隊を撃破した。

司馬は2人の強さの背景に武士特有の合理主義を挙げる。彼らは、徹底したリアリストで、現実を正確に把握し、未来への情熱、高い精神性を持っていた。だから、自国を過大評価せず、戦争であれば、その落とし所も十二分に心得ていたとする。同じように、日露戦争に伴うポーツマス会議における小村寿太郎もそうだ。これ以上の戦争継続は困難という状況下、水際立った交渉で和平を成立させている。

しかしながら、この薄氷を踏むような勝利が、日本の曲がり角になってしまう。森氏によれば、司馬は日露戦争後から1945年(昭和20年)の40年間を“異胎の時代”と名づけている。簡単にいってしまえば、大国・ロシアに勝ったという驕りである。司馬は「日本国と日本人を調子狂いにさせた」書いている。それが後の国策としての韓国の併合であり、五族協和を掲げた満州国建設という過ちにほかならない。

そのことが、司馬がなぜノモンハン戦の執筆を断念したかということにつながる。結論からいえば、帝国陸海軍が肥大していくにもかかわらず、秋山兄弟のように良質な日本人が育たなかったからだ。彼らのように、司馬が小説の主人公に据えたくなるような逸材がいなければ、小説化しようという意欲は湧かない。だから司馬は、冒頭の随筆や『街道をゆく』のような歴史紀行に舵を切ったのである。
(記事引用)


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