初代神 神武天皇
神武天皇即位紀元または神武紀元は、『日本書紀』の記述をもとに設定された日本の紀年法である。
古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位は、日本書紀に辛酉の年とあり、紀元前660年1月1日 (旧暦) と比定されている(比定の詳細は注および後述)、この即位年を明治に入り神武天皇即位紀元の元年と制定した。
神武天皇即位紀元または神武紀元は、『日本書紀』の記述をもとに設定された日本の紀年法である。
古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位は、日本書紀に辛酉の年とあり、紀元前660年1月1日 (旧暦) と比定されている(比定の詳細は注および後述)、この即位年を明治に入り神武天皇即位紀元の元年と制定した。
異称は、皇紀(こうき)、即位紀元、皇暦(すめらこよみ、こうれき)、神武暦(じんむれき)、日紀(にっき等。
なお、古事記や日本書紀のその神話的な内容や考古学上の確証がないことから、現在の歴史学では、神武天皇(古事記では137歳、日本書紀では127歳まで生存とある)が実在した人物と認めていない。またその内容・筋書きをそのまま史実であるとは考えられていない。
西暦2016年(本年)は、神武天皇即位紀元2676年に当たる。
神武天皇即位紀元は、キリスト紀元(西暦)に換算して紀元前660年とされている。明治5年(1872年)の太陽暦導入と同時に、神武天皇即位を紀元とすると定められた。暦の販売権をもつ弘暦者が改暦に伴い作成した『明治六年太陽暦』の表紙には「神武天皇即位紀元2533年」が使用されている。
日本の紀元を神武天皇の即位に求めること自体は、古代の『日本書紀』編纂以来、一般的な認識であった。ただし、それが何年前か定量的に求められたのは江戸期であり、制定は明治期である。
二次世界大戦前の日本では、単に「紀元」というと即位紀元(皇紀)を指していた。条約などの対外的な公文書には元号と共に使用されていた。ただし、戸籍など地方公共団体に出す公文書や政府の国内向け公文書では、皇紀ではなく元号のみが用いられており、皇紀が多用されるようになるのは昭和になってからである。他に第二次世界大戦前において神武天皇即位紀元が一貫して用いられていた例には国定歴史教科書がある。
第二次世界大戦後になると、単に「紀元」というと西暦を指す事も多い。現在では皇紀を見る機会はほとんどなく、政府の公文書でも用いられていないが、日本における閏年の算定方法は、神武天皇即位紀元を基に定めた「閏年ニ関スル件」(明治31年5月11日勅令第90号)が根拠となっている。
その他、一部の日本史や日本文学などのアマチュア愛好家、神道関係者、全日本居合道連盟などが使用している。
CIA(アメリカ中央情報局)のウェブサイトにある『ザ・ワールド・ファクトブック』(The World Factbook)のうち、「独立」(Independence)の項目では、日本国憲法の施行日1947年5月3日(3 May 1947)と、大日本帝国憲法の施行日1890年11月29日(29 November 1890)が独立日として記されているが、同時に、神武天皇に基づく紀元前660年(660 B.C.)が伝承的日付(traditional date)として併記されている。
神武天皇は古代の人物であるが、歴史学的には3世紀に即位したとされる応神天皇以前の初期の天皇の実在性は不明確である。古墳の出現年代などから考古学上はヤマト王権の成立は3世紀前後であるとされており、神武天皇が紀元前660年に即位したことが事実であるという一致した見解は成立していない。
なお、日本政府は質問主意書に対する答弁書で『「辛酉年春正月庚辰朔」は、暦学上、紀元前六百六十年二月十一日に当たる』としている。
考古学的には、紀元前660年は伝統的な土器様式などに基づく編年によれば縄文時代晩期、2003年以降に国立歴史民俗博物館の研究グループなどが提示している放射性炭素年代測定に基づく編年によれば弥生時代前期にあたる。
明治5年11月9日(1872年12月9日)に布告された「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(改暦ノ布告、明治5年太政官布告第337号)に関連して、明治5年11月15日(1872年12月15日)に布告された「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付11月25日御祭典」(明治5年太政官布告第342号)で制定された。
今般太陽暦御頒行 神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被爲告候爲メ来ル廿五日御祭典被執行候事
但當日服者参朝可憚事
— 「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典」(明治5年太政官布告第342号)
「今般太陽暦ご頒行、神武天皇ご即位を以て紀元と定められ候につき、その旨を告げさせられ候ため、来たる25日ご祭典執り行われ候こと」つまり「このたび(天皇陛下が)太陽暦を頒布されるについて、神武天皇が即位された年を元年とすると定められたので、その旨を告知されるため、来たる25日に記念式典を執り行われることになった(ので参内する資格のある者はすべて出席すること)。
ただし25日が喪中となるものは参内を遠慮すること」というもので、文面からもわかるように具体的な数字は全く無く、単に神武天皇即位を紀元とするとのみ述べている(紀元前660年への同定自体は『日本長暦』により江戸時代になされている)。布告の本来の主旨は、天皇も列席して開かれる改暦を記念する式典への出席を命じる通知であった。
公文書で明治6年=神武天皇即位紀元2533年とする明確な表現があるのは、外務省外交史料館が所有する、明治5年(1872年)11月に外務省から各国公使・領事へ通知した史料の文書に存在する。
「閏年ニ関スル件」について
「改暦ノ布告」では、年については4年毎に閏年があることしか述べておらず、維新後の混乱の中たった1箇月の猶予期間で実施された日本の新しい暦は、本来のグレゴリオ暦ならば存在するべきである、閏年の100年と400年の規則を欠いていた。明治31年(1898年)5月11日の「閏年ニ関スル件」(明治31年5月11日勅令第90号)により正しく閏年を置くように補正を追加した。この勅令は現在も有効である。
朕閏年ニ関スル件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム神武天皇即位紀元年数ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス但シ紀元年数ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トスル
— 「閏年ニ関スル件」(明治31年5月11日勅令第90号)
この勅令中の規定のグレゴリオ暦との整合性からも、また算術的には260を引けばよいところをわざわざ660を引いていることから、神武天皇即位の年は紀元前660年と同じ年という前提があるといえる。
紀元前660年とする根拠
『日本書紀』神武天皇元年正月朔の条に「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」(読み下し文:辛酉(かのととり)の年の春正月(はるむつき)、庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)。天皇(すめらみこと)、橿原宮(かしはらのみや)に於いて即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳(このとし)を天皇元年(すめらみことのはじめとし)と為す)と記述がある。海外の文献と突合せると、『宋史』日本国伝(『宋史』491卷 列傳第250 外國7日本國)では「彥瀲第四子號神武天皇 自築紫宮入居大和州橿原宮 即位元年甲寅 當周僖王時也」とあり、即位は周の僖王(紀元前681年 - 紀元前677年)の時代の甲寅が即位元年とする。一方、三善清行は革命勘文において神武天皇即位を辛酉の年とし、これは僖王3年に当たると述べている。
記紀をはじめとする歴史的資料(乃至、現代の視点からは神話)中にある、年の記述は以上のような大陸伝来の十干十二支の組合せによる表現だけで、1000年といった長期(記紀の成立から神武天皇即位まで遡る時間はそれくらいになる)についての具体的な表現があるわけでは基本的にはない。
しかし、数十年以内の間隔であると考えられる記述を次々と拾ってゆけば、神武天皇即位の年まで遡って同定できる。
これを最初に行ったのは渋川春海による日本初の長暦『日本長暦』(1677年(延宝5年))で、同書は日本において暦が施行された以降の全ての暦のみならず、神武天皇即位紀元まで遡り暦法を推し量って暦を掲載した。これは渋川春海の思想にもとづいたものであった。
思想的には、後に「やまとごころ」を唱え中国伝来の影響のある思想を「からごころ」として退けた本居宣長は『真暦考』(1782年(天明2年))で、古来の日本にそのような日時の意識は無かったはずと批判している。
ともあれ『日本長暦』に大きな修正を加える理由も無く、以後「辛酉年」は紀元前660年に相当する年に同定することが定着し、王政復古後の政治・思想状況の中で前述のように規定されることとなった(近年の長暦である『日本暦日原典』の記事も参照のこと)。
讖緯説
以上のような、紀元前660年を神武天皇即位紀元とした記紀の記述の神話学的な分析として古いものとしては、1870年代初期に歴史学者の那珂通世が、『日本書紀』はその紀年を立てるにあたって中国の前漢から後漢に流行した讖緯説を採用しており、推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年(辛酉年)から1260年遡った紀元前660年(辛酉年)を、大革命である神武天皇即位の年として起点設定したとの説を立てた。
これは隋の煬帝により禁圧されて散逸した讖緯説の書(緯書)の逸文である『易緯』の鄭玄の注に、干支が一周する60年を1元(げん)といい、21元を1蔀(ぼう)として算出される1260年(=60×21)の辛酉年に、国家的革命(王朝交代)が行われる(辛酉革命)ということに因む。
これは隋の煬帝により禁圧されて散逸した讖緯説の書(緯書)の逸文である『易緯』の鄭玄の注に、干支が一周する60年を1元(げん)といい、21元を1蔀(ぼう)として算出される1260年(=60×21)の辛酉年に、国家的革命(王朝交代)が行われる(辛酉革命)ということに因む。
干支年について
干支による紀年は、前漢の太初元年(紀元前104年)は乙亥(『呂氏春秋』)、丙子(『漢書』賈誼伝)、丁丑(『漢書』翼奉伝)、甲寅(『史記』歴書)となっていた。太初暦では同年を丙子から丁丑としたが、三統暦では丙子に戻し、合わせて太始2年(紀元前95年)を乙酉から丙戌とするなど混乱があり、前漢以前は後の60周期にはなっていなかった。なお『日本書紀』の暦は小川清彦の「日本書紀の暦日に就いて(第五稿)」(『日本暦日原典』に収録)によれば450年までは儀鳳暦の平朔で後代は元嘉暦を使用しているとする。
皇紀2600年記念行事
「紀元二千六百年記念行事」を参照
制式名など
昭和に入って以降、戦時中まで、日本の陸海軍が用いた兵器の制式名称には、主に皇紀の末尾数字を用いた年式が用いられている。
航空機を例に取ると、「ゼロ戦」の通称で知られる大日本帝国海軍の「零式艦上戦闘機」は、皇紀2600年(西暦1940年)に採用されたことを示す名称である。したがって、同年の採用であれば、「零式三座水上偵察機」、「零式輸送機」など、同じ「零式」の名を冠することになる。ただし、この命名則には、陸海軍で若干の差があった。
大日本帝国陸軍の場合、航空機は皇紀2587年(1927年)採用であることを示す「八七式重爆撃機」、「八七式軽爆撃機」より皇紀を使用している(実際には両機とも翌1928年制式採用)。また海軍と異なり、皇紀2600年制式採用の場合は、一〇〇式重爆撃機、一〇〇式司令部偵察機、一〇〇式輸送機など、零ではなく百(一〇〇)を使用する。
皇紀2601年(西暦1941年)以降は、例えば一式戦闘機(通称隼)のように、皇紀末尾一桁のみを使用している。
銃砲、戦車等の場合も命名則の基本は同様(「九七式中戦車」、「一式機動四十七粍速射砲」など)。
また、皇紀による命名以前は、航空機はメーカーの略号+続き番号であったのに対し、銃砲等は、元号による年式を用いた(例:明治38年採用を示す「三八式歩兵銃」など)。
海軍
大日本帝国海軍の場合、制式名称における皇紀の使用は陸軍よりやや遅く、航空機では皇紀2589年(1929年)採用であることを示す「八九式飛行艇」、「八九式艦上攻撃機」より使用されている(実際には両機とも1932年に制式採用)。
それ以前は元号による年式を使用しており、「三式艦上戦闘機」は昭和3年(1928年)、一三式艦上攻撃機は大正13年(1924年)の採用を示す。
それ以前は元号による年式を使用しており、「三式艦上戦闘機」は昭和3年(1928年)、一三式艦上攻撃機は大正13年(1924年)の採用を示す。
また、海軍では皇紀2602年の「二式水上戦闘機」、「二式陸上偵察機」等を最後に航空機の年式名称を取り止め、「紫電」、「彩雲」、「天山」など、機種別にグループ分けされた漢字熟語の制式名称となった(これに対し、陸軍の「隼」「飛燕」などはあくまでも愛称であり、制式名称ではない)。
なお、海軍から各メーカーに対する開発要求については、「十二試艦上戦闘機」、「十八試局地戦闘機」など、一貫して元号が用いられている。
(資料ウィキぺデア)