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2016年10月

初代神 神武天皇
神武天皇即位紀元または神武紀元は、『日本書紀』の記述をもとに設定された日本の紀年法である。
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古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位は、日本書紀に辛酉の年とあり、紀元前660年1月1日 (旧暦) と比定されている(比定の詳細は注および後述)、この即位年を明治に入り神武天皇即位紀元の元年と制定した。

異称は、皇紀(こうき)、即位紀元、皇暦(すめらこよみ、こうれき)、神武暦(じんむれき)、日紀(にっき等。

なお、古事記や日本書紀のその神話的な内容や考古学上の確証がないことから、現在の歴史学では、神武天皇(古事記では137歳、日本書紀では127歳まで生存とある)が実在した人物と認めていない。またその内容・筋書きをそのまま史実であるとは考えられていない。
西暦2016年(本年)は、神武天皇即位紀元2676年に当たる。

神武天皇即位紀元は、キリスト紀元(西暦)に換算して紀元前660年とされている。明治5年(1872年)の太陽暦導入と同時に、神武天皇即位を紀元とすると定められた。暦の販売権をもつ弘暦者が改暦に伴い作成した『明治六年太陽暦』の表紙には「神武天皇即位紀元2533年」が使用されている。

日本の紀元を神武天皇の即位に求めること自体は、古代の『日本書紀』編纂以来、一般的な認識であった。ただし、それが何年前か定量的に求められたのは江戸期であり、制定は明治期である。

二次世界大戦前の日本では、単に「紀元」というと即位紀元(皇紀)を指していた。条約などの対外的な公文書には元号と共に使用されていた。ただし、戸籍など地方公共団体に出す公文書や政府の国内向け公文書では、皇紀ではなく元号のみが用いられており、皇紀が多用されるようになるのは昭和になってからである。他に第二次世界大戦前において神武天皇即位紀元が一貫して用いられていた例には国定歴史教科書がある。

第二次世界大戦後になると、単に「紀元」というと西暦を指す事も多い。現在では皇紀を見る機会はほとんどなく、政府の公文書でも用いられていないが、日本における閏年の算定方法は、神武天皇即位紀元を基に定めた「閏年ニ関スル件」(明治31年5月11日勅令第90号)が根拠となっている。

その他、一部の日本史や日本文学などのアマチュア愛好家、神道関係者、全日本居合道連盟などが使用している。
CIA(アメリカ中央情報局)のウェブサイトにある『ザ・ワールド・ファクトブック』(The World Factbook)のうち、「独立」(Independence)の項目では、日本国憲法の施行日1947年5月3日(3 May 1947)と、大日本帝国憲法の施行日1890年11月29日(29 November 1890)が独立日として記されているが、同時に、神武天皇に基づく紀元前660年(660 B.C.)が伝承的日付(traditional date)として併記されている。

神武天皇は古代の人物であるが、歴史学的には3世紀に即位したとされる応神天皇以前の初期の天皇の実在性は不明確である。古墳の出現年代などから考古学上はヤマト王権の成立は3世紀前後であるとされており、神武天皇が紀元前660年に即位したことが事実であるという一致した見解は成立していない。
なお、日本政府は質問主意書に対する答弁書で『「辛酉年春正月庚辰朔」は、暦学上、紀元前六百六十年二月十一日に当たる』としている。

考古学的には、紀元前660年は伝統的な土器様式などに基づく編年によれば縄文時代晩期、2003年以降に国立歴史民俗博物館の研究グループなどが提示している放射性炭素年代測定に基づく編年によれば弥生時代前期にあたる。

明治5年11月9日(1872年12月9日)に布告された「太陰暦ヲ廃シ太陽暦ヲ頒行ス」(改暦ノ布告、明治5年太政官布告第337号)に関連して、明治5年11月15日(1872年12月15日)に布告された「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付11月25日御祭典」(明治5年太政官布告第342号)で制定された。
今般太陽暦御頒行 神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト被定候ニ付其旨ヲ被爲告候爲メ来ル廿五日御祭典被執行候事
但當日服者参朝可憚事
— 「太陽暦御頒行神武天皇御即位ヲ以テ紀元ト定メラルニ付十一月二十五日御祭典」(明治5年太政官布告第342号)

「今般太陽暦ご頒行、神武天皇ご即位を以て紀元と定められ候につき、その旨を告げさせられ候ため、来たる25日ご祭典執り行われ候こと」つまり「このたび(天皇陛下が)太陽暦を頒布されるについて、神武天皇が即位された年を元年とすると定められたので、その旨を告知されるため、来たる25日に記念式典を執り行われることになった(ので参内する資格のある者はすべて出席すること)。
ただし25日が喪中となるものは参内を遠慮すること」というもので、文面からもわかるように具体的な数字は全く無く、単に神武天皇即位を紀元とするとのみ述べている(紀元前660年への同定自体は『日本長暦』により江戸時代になされている)。布告の本来の主旨は、天皇も列席して開かれる改暦を記念する式典への出席を命じる通知であった。

公文書で明治6年=神武天皇即位紀元2533年とする明確な表現があるのは、外務省外交史料館が所有する、明治5年(1872年)11月に外務省から各国公使・領事へ通知した史料の文書に存在する。

「閏年ニ関スル件」について

「改暦ノ布告」では、年については4年毎に閏年があることしか述べておらず、維新後の混乱の中たった1箇月の猶予期間で実施された日本の新しい暦は、本来のグレゴリオ暦ならば存在するべきである、閏年の100年と400年の規則を欠いていた。明治31年(1898年)5月11日の「閏年ニ関スル件」(明治31年5月11日勅令第90号)により正しく閏年を置くように補正を追加した。この勅令は現在も有効である。
朕閏年ニ関スル件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム神武天皇即位紀元年数ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス但シ紀元年数ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トスル
— 「閏年ニ関スル件」(明治31年5月11日勅令第90号)

この勅令中の規定のグレゴリオ暦との整合性からも、また算術的には260を引けばよいところをわざわざ660を引いていることから、神武天皇即位の年は紀元前660年と同じ年という前提があるといえる。

紀元前660年とする根拠

『日本書紀』神武天皇元年正月朔の条に「辛酉年春正月庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮是歳爲天皇元年」(読み下し文:辛酉(かのととり)の年の春正月(はるむつき)、庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)。天皇(すめらみこと)、橿原宮(かしはらのみや)に於いて即帝位(あまつひつぎしろしめ)す。是歳(このとし)を天皇元年(すめらみことのはじめとし)と為す)と記述がある。海外の文献と突合せると、『宋史』日本国伝(『宋史』491卷 列傳第250 外國7日本國)では「彥瀲第四子號神武天皇 自築紫宮入居大和州橿原宮 即位元年甲寅 當周僖王時也」とあり、即位は周の僖王(紀元前681年 - 紀元前677年)の時代の甲寅が即位元年とする。一方、三善清行は革命勘文において神武天皇即位を辛酉の年とし、これは僖王3年に当たると述べている。

記紀をはじめとする歴史的資料(乃至、現代の視点からは神話)中にある、年の記述は以上のような大陸伝来の十干十二支の組合せによる表現だけで、1000年といった長期(記紀の成立から神武天皇即位まで遡る時間はそれくらいになる)についての具体的な表現があるわけでは基本的にはない。
しかし、数十年以内の間隔であると考えられる記述を次々と拾ってゆけば、神武天皇即位の年まで遡って同定できる。
これを最初に行ったのは渋川春海による日本初の長暦『日本長暦』(1677年(延宝5年))で、同書は日本において暦が施行された以降の全ての暦のみならず、神武天皇即位紀元まで遡り暦法を推し量って暦を掲載した。これは渋川春海の思想にもとづいたものであった。
思想的には、後に「やまとごころ」を唱え中国伝来の影響のある思想を「からごころ」として退けた本居宣長は『真暦考』(1782年(天明2年))で、古来の日本にそのような日時の意識は無かったはずと批判している。

ともあれ『日本長暦』に大きな修正を加える理由も無く、以後「辛酉年」は紀元前660年に相当する年に同定することが定着し、王政復古後の政治・思想状況の中で前述のように規定されることとなった(近年の長暦である『日本暦日原典』の記事も参照のこと)。

讖緯説
 
以上のような、紀元前660年を神武天皇即位紀元とした記紀の記述の神話学的な分析として古いものとしては、1870年代初期に歴史学者の那珂通世が、『日本書紀』はその紀年を立てるにあたって中国の前漢から後漢に流行した讖緯説を採用しており、推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年(辛酉年)から1260年遡った紀元前660年(辛酉年)を、大革命である神武天皇即位の年として起点設定したとの説を立てた。
これは隋の煬帝により禁圧されて散逸した讖緯説の書(緯書)の逸文である『易緯』の鄭玄の注に、干支が一周する60年を1元(げん)といい、21元を1蔀(ぼう)として算出される1260年(=60×21)の辛酉年に、国家的革命(王朝交代)が行われる(辛酉革命)ということに因む。

干支年について
 
干支による紀年は、前漢の太初元年(紀元前104年)は乙亥(『呂氏春秋』)、丙子(『漢書』賈誼伝)、丁丑(『漢書』翼奉伝)、甲寅(『史記』歴書)となっていた。太初暦では同年を丙子から丁丑としたが、三統暦では丙子に戻し、合わせて太始2年(紀元前95年)を乙酉から丙戌とするなど混乱があり、前漢以前は後の60周期にはなっていなかった。なお『日本書紀』の暦は小川清彦の「日本書紀の暦日に就いて(第五稿)」(『日本暦日原典』に収録)によれば450年までは儀鳳暦の平朔で後代は元嘉暦を使用しているとする。

皇紀2600年記念行事
 
「紀元二千六百年記念行事」を参照

制式名など
昭和に入って以降、戦時中まで、日本の陸海軍が用いた兵器の制式名称には、主に皇紀の末尾数字を用いた年式が用いられている。
航空機を例に取ると、「ゼロ戦」の通称で知られる大日本帝国海軍の「零式艦上戦闘機」は、皇紀2600年(西暦1940年)に採用されたことを示す名称である。したがって、同年の採用であれば、「零式三座水上偵察機」、「零式輸送機」など、同じ「零式」の名を冠することになる。ただし、この命名則には、陸海軍で若干の差があった。

大日本帝国陸軍の場合、航空機は皇紀2587年(1927年)採用であることを示す「八七式重爆撃機」、「八七式軽爆撃機」より皇紀を使用している(実際には両機とも翌1928年制式採用)。また海軍と異なり、皇紀2600年制式採用の場合は、一〇〇式重爆撃機、一〇〇式司令部偵察機、一〇〇式輸送機など、零ではなく百(一〇〇)を使用する。
皇紀2601年(西暦1941年)以降は、例えば一式戦闘機(通称隼)のように、皇紀末尾一桁のみを使用している。
銃砲、戦車等の場合も命名則の基本は同様(「九七式中戦車」、「一式機動四十七粍速射砲」など)。
また、皇紀による命名以前は、航空機はメーカーの略号+続き番号であったのに対し、銃砲等は、元号による年式を用いた(例:明治38年採用を示す「三八式歩兵銃」など)。

海軍
大日本帝国海軍の場合、制式名称における皇紀の使用は陸軍よりやや遅く、航空機では皇紀2589年(1929年)採用であることを示す「八九式飛行艇」、「八九式艦上攻撃機」より使用されている(実際には両機とも1932年に制式採用)。
それ以前は元号による年式を使用しており、「三式艦上戦闘機」は昭和3年(1928年)、一三式艦上攻撃機は大正13年(1924年)の採用を示す。

また、海軍では皇紀2602年の「二式水上戦闘機」、「二式陸上偵察機」等を最後に航空機の年式名称を取り止め、「紫電」、「彩雲」、「天山」など、機種別にグループ分けされた漢字熟語の制式名称となった(これに対し、陸軍の「隼」「飛燕」などはあくまでも愛称であり、制式名称ではない)。
なお、海軍から各メーカーに対する開発要求については、「十二試艦上戦闘機」、「十八試局地戦闘機」など、一貫して元号が用いられている。
(資料ウィキぺデア)

サルトルのポジ、ディランのネガ
──GQ JAPAN編集長・鈴木正文
Author: 鈴木正文GQ JAPAN
毎週更新中のGQ JAPAN編集長・鈴木正文による「ウェブ版エディターズレター」。今週は、かつてノーベル文学賞受賞を拒否した文学者・哲学者のジャン=ポール・サルトルと、いままさに拒否せんとしているかのようなボブ・ディランについて。
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ジャン=ポール・サルトルが1964年にノーベル文学賞の受賞を拒否したころ、ボブ・ディランは「風に吹かれて」を歌っていた。1963年にリリースされてディランの名を全米に知らしめたこの曲を、まだ中学生になりたての僕が知ったのは、ラジオのFEN(米極東放送網)から流れてきたピーター・ポール&マリーの、ディランの歌いっぷりとはまったく異なる美しい混声ハーモニーによるカバー・バージョンによってだった。

JFK(ジョン・F・ケネディ第35代米大統領)の暗殺は1963年11月のことで、その報を日本人に最初に伝えたのは、奇しくも日米間の初の衛星テレビ中継の実験放送だった。この衛星中継は、宇宙中継といわれていて、それが仕組まれたのは、翌年の東京オリンピックの映像を世界に中継できるようにするためだった。そんなポジティヴな近未来の物語の最初のリアルな語り部となるべき宇宙中継の最大のニュースが、予想外にもネガティヴ100%の、若き米大統領の暗殺事件だったことは、どこか暗示的である。

さて、1964年にはおなじくディランの「ミスター・タンブリン・マン」をカバーしたザ・バーズの無感情的な唱法に魅力を感じたことをおぼえているけれど、そのまえに僕はザ・ビートルズの「抱きしめたい」や「プリーズ・プリーズ・ミー」にすっかり魂を奪われていた。それでも「ミスター・タンブリン・マン」というソング・タイトル(タンブリン・オトコさん)を忘れることができなかったのは、中学生でもわかった歌い出しの歌詞(「ねえ、タンブリン・マンさん、一曲僕のために歌ってくれないか」)の、ボヘミアン=根なし草的な虚無感ゆえだった。というのも、ザ・ビートルズの「君の手を握りたい、君の男になりたい」というストレートで、どこまでもポジティヴな求愛の歌に比すれば、タンブリン・マンにたいして一曲を所望するほかにとくに希望らしい希望もないような男の精神世界を歌ったこの曲は、まことにネガティヴ至極だったからだ。

「風に吹かれて」はしばしば、アメリカの公民権運動をシンボライズするプロテスト・ソングであるといわれるけれど、公民権運動のリーダーであったキング牧師の「I Have a Dream」(私には夢がある)という有名な、徹頭徹尾ポジティヴな演説が、ワシントンのリンカーン記念館の階段上でぶたれたのは1963年夏のことだった。「風に吹かれて」のリリースとほぼ同時期である。ちなみに、アメリカにおける人種差別の法律上の終焉を告げる公民権法が成立したのは、ほぼ1年後の1964年7月で、その3カ月後に、サルトルはノーベル賞の受賞を拒否したのである。

このノーベル賞拒否には前奏曲があった。アメリカで公民権法が成立したころ、サルトルは自伝的な小説である『言葉』の刊行に寄せて、「ル・モンド」紙のインタビューに応じ、そこで「飢えて死ぬ子どものまえで文学は有効か」と反語的に問いかけたのである。

そのころのサルトルは社会と世界の「不正」とたたかう行動派の文学者として自己を規定しており、人間性の悲惨にたいする告発を文学的にも行動的にも実行する「異議申し立て」の活動家であった。そして、そのような立場から、みずからの戦前における代表作のひとつである『嘔吐』は、なるほど人間の自由の本質を問う作品として、人間性のまえに無罪であるかもしれないが、げんに目前で進行している人間的不正としての飢餓のまえでは無力である、と認めた。

それはしかし、僕の解釈では、そのじつ、文学が人間的な悲惨にたいする異議申し立てであることを再確認するとともに、文学者が非文学的な異議申し立てにたいしても積極的であるべきことを、前向きに説いたものであった。という僕の理解の当否はひとまず置くとして、サルトルは、受賞拒否についてノーベル財団に宛てた手紙でいっている。

「いかなる芸術家、作家、人間も、存命中に神聖化される価値のある人間はいない。なぜなら、人はいつでもすべてを変えてしまう自由と力を持っているからだ」と。

これは人間の可塑性=つくりかえ可能性にたいするサルトルのポジティヴでロマンティックな信念を投影した発言だとおもう。いっぽう、ディランの、たとえば「転がる石のように」(Like a Rolling Stone)の世界は、サルトルのポジティヴな理想主義に照らすと、著しい対照をなす。サルトルの正確な陰画であるかのようにネガティヴである。

1965年発表のこの曲でディランは、地位も栄光も、その他いっさいの装飾記号をも失って人生の坂を裸で転げ落ちてゆく人間を歌にした。人間が良き方向へと変わっていくことができるというロマンティックな可能性を勇気づけるのではなく、高みから低みへと転落してゆく反ロマン的な人間的生の現実を突き出す。「風に吹かれて」にしても、そこに希望へのロマンティシズムは見いだせない。答えは風に吹かれているのだから。

サルトルがノーベル文学賞の受賞を拒否したのは、かれが59歳のときだった。そして、その15年後の74歳のときにこの実存主義者は没した。いま75歳のディランはサルトルが他界した年齢をすでにひとつ上回っているけれど、ノーベル賞発表後の沈黙状況などをみていると、59歳だったころのサルトルを想起したくなる。

というのは、人間にはいつだって、これまでの「すべてを変えてしまう自由と力」があるとしたサルトルの信念を、ディランもまた共有しているように僕にはおもえるからだ。ただ、サルトルの場合は人間に対するポジなロマンティシズムに発する信念だったのにたいして、ディランの場合はネガな反ロマンティシズムに貫かれる信念である、という違いはある。いずれにしても、そこで照射されているのは、ポジであれネガであれ、人間の実存がかかえる根源的な自由への信憑である、と僕はかんがえたい。
(記事引用)

田中角栄の政策は何をもたらしたのか?
斉藤淳×荻上チキ2016.10.17 Mon synodos
最近、続々と本が出版され、テレビでも特集が組まれるなど、今再び大ブームとなっている田中角栄・元総理。そのキャラクターが注目されがちだが、実際に行われた政策はどのような結果をもたらしたのか? そして日本はどう変わってきたのか。元イェール大学助教授で政治学者の斉藤淳氏が解説する。2016年8月22日放送TBSラジオ荻上チキ・Session-22「田中角栄の政策は、一体何をもたらしたのか?」より抄録(構成/大谷佳名)
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■荻上チキ・Session22とは
TBSラジオほか各局で平日22時〜生放送の番組。さまざまな形でのリスナーの皆さんとコラボレーションしながら、ポジティブな提案につなげる「ポジ出し」の精神を大事に、テーマやニュースに合わせて「探究モード」、「バトルモード」、「わいわいモード」などなど柔軟に形式を変化させながら、番組を作って行きます。あなたもぜひこのセッションに参加してください。
番組ホームページはこちら→ http://www.tbsradio.jp/ss954/
 
田中角栄の地域政策とは?
 
荻上 今日のゲストを紹介します。元イェール大学助教授で政治学者の斉藤淳さんです。よろしくお願いします。
 
斉藤 よろしくお願いします。
 
荻上 最近の田中角栄ブームについて、さっそくこんなメールが届いています。
 
「私は書店に勤めていますが、最近、たしかに田中角栄の本がよく売れています。買っていかれるのは当時を知る世代の方が多いようです。しかし私個人としては、田中角栄は金と権益誘導によって政治を牛耳り、現在までの密室的政治を確立した人物だと思っています。それなのになぜリアルタイムで見てきた人々に未だに支持されているのか、まったく理解できません。」
 
本が売れていても自分は支持できない、という率直なご意見をいただきました。斉藤さんは田中角栄という政治家に対して、どのように評価されていますか。
 
斉藤 書店に行くと、いつの時代も田中角栄の本は平積みで並んでいます。角栄は、高等教育を受けずに宰相まで上りつめた、日本近代・現代政治史上最もチャーミングな人物であることは、誰の目にも疑う余地のないことだと思います。一方で、これまで首相を務めた政治家の中で最も経済成長志向、そして農村近代化志向の強い政治家であったということも注目に値します。
 
荻上 農村近代化とはどういうことですか。
 
斉藤 農村社会を工業化するということです。現在の脱工業化社会においてはピンとこないかもしれませんが、日本全体の就業者の半分が農家だった時代に、経済成長を刺激し、都会も田舎も豊かにしようという発想でした。これを強力に推進し、初当選以来ずっと取り組んできたのが、田中角栄です。
 
1960年代までの日本の地域政策は、太平洋ベルト地帯、つまり雪の降らない地域に工場を立地して産業化を進めようというものでした。そうではなく、むしろ農作物が育ちやすい温暖な地域を農業地域とし、寒い地域に工業を誘導しようというのが、田中角栄が打ち上げた「日本列島改造」だったわけです。
 
荻上 どの地域にもそれぞれの産業をつくっていこうという政策だったのですね。最近、安倍総理も「アベノミクスの成長の果実を全国津々浦々にまで行き渡るようにする」と演説するなど、角栄を彷彿とさせるような政策を打ち出していますよね。
 
斉藤 安倍総理ご自身は、田中角栄の政敵であった福田赳夫の派閥の流れを汲んでいます。しかし、外交政策、経済政策、とくに地域政策においては、むしろ田中角栄の列島改造の理念を引き継いでいる側面が大きいと思います。
 
荻上 その地域政策について、リスナーの方々からこんなメールをいただいています。
 
「田中角栄の行動力はたしかに世の中を大きく動かしたと思います。しかし、結局は利益誘導によって(角栄の出身地である)新潟県だけが良い思いをすることも少なくなかったでしょう。良いところもあるが、悪いところも検証すべきです。」
 
「私は生まれも育ちも新潟県長岡市、田中角栄の地盤であった旧新潟三区の中心地です。都会の人からは「金権政治」「利益誘導」などと批判されていますが、彼のような政治家が中央からお金を持って来てくれなければ、田舎には本当に何もないままでした。田中角栄は、今でも新潟の誇りだと思っています。」
 
人によって評価はさまざまですが、やはり角栄の行った「地方へのばらまき」が注目されていますね。
 
斉藤 この点については、まず歴史的経緯を抑えておく必要があります。当時、東京オリンピックが開催された1964年までは、東京への行政投資が重点的に行われました。一方で、地方においてはまだインフラが未整備の段階であり、むしろ公共事業は都市偏重だったのです。
 
荻上 当時は、貧富の格差が都市部と地方にかなり比例する状況もあったので、角栄の政策には再分配の意味もあったわけですね。
 
斉藤 そうです。実際に、東京オリンピックの頃から1970年代中盤まで、地方と都市の所得格差が縮小していきます。つまり、田中角栄的発想に基づいて行われた農業政策、地域政策がある一定の再分配効果を持っていたと言えます。角栄は、全国の道路やダム、さまざまな生活基盤インフラを整えるための仕組み作りも積極的に進めました。
 
ただ、出身地である新潟県に公共事業が集中したという事実も確かにあります。1978年、1980年には、人口一人あたりの公共事業の金額が全国1位だったのです。私の出身地である山形県と比べても2倍に近い予算がありました。
 
荻上 そんなに他県との差があったのですね。
 
斉藤 田中角栄が大蔵大臣に就任した1960年代の中盤ごろから、新潟県は比較的、公共事業の予算が多く流れ込む県だったのです。ちょうど関越自動車道、上越新幹線などの大規模な事業が集中していたことも関係しています。
  
「闇将軍」「金権政治」
 
荻上 そんな中で、田中角栄といえば「金権政治」と批判されることも多いですよね。
 
斉藤 たしかに、「闇将軍」として議会民主主義を踏みにじるというイメージは、当時の報道においても根強くありました。しかし、田中角栄は総理になる以前に、日本の憲政史上、最も多く法律を通した議員であることは、あまり知られていません。実は、彼は議員立法で33本、共同提出も含めると84本も提出しています。
 
むしろ、議員立法を最も着実に推進し、選挙で民意を汲み取ることに最も心血を注いだ政治家であるとも言えるのです。だからこそ、少し飛躍だとは思いますが「政治は数であり、数は力、力は金だ」という言葉も角栄自身から出てきたわけです。
 
荻上 地方でインフラを作り、格差を是正していくためには、お金をどう配分するかが重要であり、それこそが政治なのだという、ある意味本質的なコメントでもあるのでしょうか。
 
斉藤 田中角栄は仕事をすることに非常に貪欲な政治家でした。その事前工作として、エンジンに潤滑油をオイルを回すように金を流し込んだところがあったようです。
 
荻上 また、角栄は演説も注目されていますね。やはり、その言葉は当時の人々の心に響いたのでしょうか。
 
斉藤 そう思います。とくに、高等小学校卒業で宰相に登りつめていく中で、大臣を務めながら一流大学卒業の幹部職員を掌握していく、そうした姿勢は見事だったと思います。一方で、「人に金を渡すときは頭を下げて渡せ」など、生々しい名言も吐いているわけですが。
 
荻上 一人一人の官僚の名前やプロフィールを覚えるなど、社交力が非常に高かったとも言われますね。
 
斉藤 以前、私も書店で20代のサラリーマンの方が角栄本を買っていくのを目撃したことがあります。社会人のマナーを田中角栄の生き様から学ぼうとしているのかなと想像しました。
 
 『日本列島改造論』と自民党のジレンマ
 
荻上 さて、角栄は総裁になる直前に『日本列島改造論』を出版し、さまざまな経済政策、地域政策を打ち出していきました。この本にはどういったことが書かれているのでしょうか。
 
斉藤 私は博士論文を書く時に、この本を隅から隅まで読みました。一言で言ってしまうと、当時の主な政策課題であった農村部の過疎化、都市部の過密、公害問題を解決するために産業を地方に分散しよう、ということが書かれています。それを実現するために、高速道路網、整備新幹線網といった情報と交通のネットワークを全国的に整備することを目指したわけです。
 
また、エネルギー政策においては火力から原子力への転換を主張しています。当時はまだ、原子力は「夢のエネルギー」として信じられていた時代だったのです。
 
荻上 具体的な手段としては、道路や鉄道の整備などの公共政策が中心になっていったのですね。
 
斉藤 はい。それもただ単に道路を作っただけではありません。田中角栄は自民党結党前の段階で、改正道路法(1951年)や、道路整備日の財源等に関する臨時措置法(1952年)、つまりガソリン税から道路整備の財源を生み出す法律を議員立法で通しているのです。
 
また、有料道路の通行料から得た財源を道路整備に回す仕組みも作っています。こうした道路特定財源はのちに一般財源化するわけですが、現在の道路の仕組みの大本はこの時に出来上がったものなのです。
 
荻上 そうした公共政策の効果はどうだったのでしょう。
 
斉藤 それが非常に皮肉なのです。というのも、田中派の議員が利益誘導をした地域ほど早く都市化が進んだわけですが、それにより自民党自身の集票基盤を崩してしまう結果になりました。自民党はもともと農村部を地盤にしていた政党でしたから。政策を進めれば進めるほど、自民党が弱体化するというジレンマがあったわけです。
 
さらに、田中派が行ったような、議員立法を通して予算をつけて関連の業界団体を集票マシーンとして手懐けるという手法は、経済全体が成長している時代にはそれほど軋轢を生み出さなかったのですが、低成長時代となり予算が限られていくと、その非効率性が目立つようになっていきました。だからこそ小泉政権での改革の遡上に挙げられてしまったわけです。田中角栄は戦後日本の政治経済を語る上で、功罪相半ばする存在なんですね。
 
荻上 いわゆる「族議員」といって、官僚と業界を議員が繋ぎながら献金政治を行いつつも、利益を誘導してさまざまな政策を実行していくというやり方だったのですね。ただ族議員は否定的な側面もありますが、政策通を生んでいく側面もありますよね。
 
斉藤 はい。要求・表出を法律として着実に実行していく、むしろ民主主義に忠実な姿勢ともとれるわけです。全体の利益の調整さえすれば肯定的に評価できる部分も多いです。
 
田中角栄は自身が族議員であっただけでなく、最盛期には140人いた派閥のメンバー全員に族議員化を促した「スーパー族議員」でした。そして「田中派は総合病院である」とも自ら豪語しています。
 
荻上 田中角栄のやり方から「その手腕こそが政治なんだ」と学んだ人たちが、チルドレンをたくさん生んでいったわけですね。
 
斉藤 ただ、「総合病院」というのは象徴的な表現で、病気が全快すればいいのですが、常に患者さんでごった返している病院こそ、大規模な院内感染を起こしてしまう可能性さえあります。実際、田中派的な政策は、特に地方における公共事業への依存状況を生み出した側面があります。この点は否定的に捉えるべきかもしれません。
 
荻上 つまり、産業をすべての地域に作ろうとしたことで、現在では補助金などに頼らなければ産業を継続できない地域が出てきてしまった。あるいは原発政策のように、この政策で本当に良かったのか、と問われるところもあるわけですよね。
 
斉藤 田中角栄が関わった議員立法の中には、地域経済の成長を促しうる交通インフラ関係のものから、あまり経済成長には貢献しそうにない分野のものまでいろいろとあります。ひとつひとつを精査していかなければ、なかなか全体的な評価や経済効果は分からないと思います。【次ページにつづく】

時代の転換点
 
荻上 1973年以降、高度経済成長がいったん落ち着き、安定成長と呼ばれる時期に入っていきます。ちょうどこの時期に角栄は総理を務めたわけですが、「田中角栄のせいで高度経済成長が早く終わったんだ」という批判もありますよね。一方で、「田中角栄がいたからこそ日本全国の経済基盤が安定し、総中流の社会が実現したんだ」という意見もある。このあたりの政策効果については、どうなのでしょうか。
 
斉藤 田中角栄が総理を務めた時期は、まさに時代の転換点だったのです。国際政治が大きく動き、その荒波の中で日本政治経済はかなり舵取りの難しい時期でした。米中国交正常化という非常に大きな出来事がありましたし、変動相場制に移行する準備期間に入ったということもあります。
 
また、自民党としても重要な時期でした。というのも、高度経済成長期は、岸、池田、佐藤と官僚出身の宰相が続いていました。1955年、保守合同で結党した時、自民党は過半数を大幅に上回る議席をもち、選挙の得票率でみても盤石でした。
 
しかし日本の人口が全体的に都市化を続けていく中で、自民党の集票基盤が弱体化していったのです。そんな中で、自民党の退潮を食い止めるべく、党人派の田中角栄が宰相に選出されたのです。つまり選挙で勝てる総裁を期待されていたのです。
 
ひとつ言えるのは、日本列島改造策を打ち出したことで地方の経済成長期待が大いに高まったということです。それが何を引き起こしたかというと、地方の土地価格の急激な値上がりでした。やがて資産価値の上昇に伴い、物価の値上がりが発生しました。
 
そこで、総需要全体を抑制する必要があるということになり、財政均衡主義者でもあり大蔵省出身である福田赳夫が、角栄の政敵であるにもかかわらず、田中内閣で大蔵大臣に就任するわけです。そこから先はどちらかというと日本列島改造策で膨らんだ期待を弾いてしぼませるような政策が取られていきました。
 
そして変動為替相場制に移行し、日本円がドルに対して切り上がっていく中で景気のスローダウンが始まる。それが、70年代以降の政治経済の流れになります。
 
荻上 こんなメールがきています。
 
「田中角栄の時代は、当時の日本列島を改造する伸び代があったからこそ、物事が上手くいったのでは? 今の日本は内需拡大が飽和して、安い労働力を求めて海外進出が進んだため、国内は廃れていくのだと思います。」
 
当時の経済状況はどこまでが田中角栄によるものだったのか、あるいは時代的な必然性だったのか、このあたりはどうでしょうか。
 
斉藤 評価を定めるのは難しいと思います。実際、田中角栄が宰相の座を降りてからインフラ開発への予算が若干減らされて、一方で選挙対策の福祉、農村構造改善などに力を入れるようになるなど、予算全体の組み替えが起こっていきます。つまり地方の経済成長促進というよりは、自民党の地盤を保守するような公共政策に転換していくわけです。それは田中角栄のせいなのか、あるいは後任の政治家たちのせいなのかは分かりません。
 
荻上 その転換による影響はどのようなものだったのでしょうか。
 
斉藤 仮に日本列島改造政策をより加速させる形で推進していれば、農村人口が多かった都道府県の経済成長率はもう少し高かったのではないかと思います。
 
一方で、そうした地域が都市化することによって、自民党が政権から転落するタイミングがもう少し早まったかもしれないと考えられます。実際、1993年の政界再編では、旧田中派の流れを受け継ぐ竹下派が分裂したことにより、自民党が過半数割れをして細川連立政権が出来上がりました。その渦の中心にいたのが、旧田中派の若手の面々だったのです。
 
荻上 なるほど。ということは、もし東京以外の各地域の都市化が進んでいれば、集中型の国家作りではなく、より分散型の国家モデルになっていた可能性もあるわけですね。同時に、田中角栄の政策のコアな部分というのは、本来それを進めていくと自ずと自民党を瓦解させ、別のスタイルの政治状況を生み得たものでもあったと。
 
斉藤 そこが、日本の自民党長期政権の終焉について考える中で、一番面白いところなんです。利益誘導の中にも、ただ単に選挙の集票基盤を保守するための利益誘導と、経済成長全体を刺激するような利益誘導と両方あるわけです。地域経済そのものを都市化する、あるいは産業競争力を強くするような政策をとりすぎると、むしろ自民党が弱体するというパラドクスがあったわけです。
 
荻上 とはいえ、日本全体にとってはその方が良かったわけですよね。
 
斉藤 恐らく産業競争力のみについて言えばそうだったのでしょう。一方で、冷戦時代において、日本国内の政治的安定性がより重要であったかもしれないなどという、メタな判断基準もあり得るでしょう。
 
荻上 そのあたりは政治の難しいところですね。
 
田中角栄以降の地域経済
 
荻上 小泉内閣で「角栄モデルを脱しよう」と言われたりもしましたが、結果的には今でも整備新幹線、高速道路網の建設が続くなど、政策が引き継がれている面は否めないですよね。田中角栄以降の地域経済への影響をどう評価するべきなのでしょう。
 
こんなメールも来ています。
 
「日本列島改造論で作られた高速道路のおかげで便利にはなりましたが、結果的にどの地方都市も似たようになってしまったと感じます。」
 
日本全国を平準化しようという政策によって、結果的に地域の特産物や観光による収益の減少を招くようなインフラを作ってしまったということでしょうか。
 
斉藤 田中角栄がいたから日本全国が同じになってしまったのかどうかは、なかなか微妙なところだと思います。たとえば、連邦制で地方分権の最たる例として紹介されるアメリカでも、どこに行っても同じようなダウンタウンや郊外のショッピングモールが風景です。グローバリゼーションが進んだ現代において、「財源を下ろして地域間競争を促進すれば平準化しなくなる」というのは、楽観的すぎるのではないかと思います。
 
荻上 平準化するのではなく、それぞれの地域で経済を回していくだけの適切なサイズの都市を作っていくことについては、どう思われますか。
 
斉藤 それは必要な施策と思います。とはいえ、これまでの背景として地方の住民が平準化したサービスを欲しがっていたという現実もあるんです。そこを否定して、「地方は地方で頑張れ」というのは少し大都市目線ですよね。
 
荻上 そんな中で、安倍政権のこれからの課題を考える上で田中角栄の政治から学ぶことがあるとしたら、どんなところでしょうか。
 
斉藤 田中角栄型の政治の負の側面といえば、やはり陳情政治です。当時は地方からたくさんの陳情団が東京にやって来て、頻繁にロビー活動を行っていました。それが、どこまで意味があったことなのでしょう。それよりは地方に権限を委譲し、地元で工夫しながら効率的に政策を実行していく。そうした姿に変わっていくべきだと思います。
 
荻上 ただ現在の地方創生においても、実際には交付金モデルが全面に出がちですよね。
 
斉藤 そうしたインセンティブの設計は非常に難しく、なかなか一筋縄にはいきませんね。ただ私としては、ばらまきはある意味で賢明なやり方だと思っています。田中角栄はよくばらまきを批判されますが、より最近の利益誘導政治の実態は、支持をしてくれた人に便益を切り売りする「えこひいき政治」だったのではないでしょうか。そうではなくて、基準に基づいてきちんとばらまくのなら、その方が機能するのではないかと考えます。
 
荻上 今、安倍総理は「成長と再分配の両輪を回していく」と言っていますが、この再分配というのは単に集票のためではなく、経済効果もあり、かつ弱者に優しい地方創生という意味で、是非やってほしいところですね。
 
斉藤 日本は課税による再分配後の貧困が緩和していないというデータもあります。地域的な再分配はもちろん、世代間の再分配も含めてその仕組みをきちんと設計していかなければいけません。
 
荻上 斉藤さん、今日はありがとうございました。

(記事引用)

「ベラルーシ」アレクサンドル・ルカシェンコ大統領の独裁

ノーベル文学賞にボブ・ディラン氏 2016年10月13日 NHK NEWSWEB
ことしのノーベル文学賞に、アメリカのシンガーソングライターのボブ・ディラン氏が選ばれました。スウェーデンのストックホルムにある選考委員会は、日本時間の13日午後8時すぎ、ことしのノーベル文学賞の受賞者にアメリカの歌の伝統に新たな詩的表現を生み出したとして、アメリカのシンガーソングライター、ボブ・ディラン氏を選んだと発表しました。 引用〆

いまもっとも新しいニュースと、この「ベラルーシ」の今は、 まったく別世界で展開している現事実だが、ほとんどリンクすることがない。

アメリカのシンガーソングライターの「ボブ・ディラン」については、私が10代のころより聴いていた音楽であり、当時「反戦歌」の代名詞として、最右翼的存在でありカリスマ性があった。


この時代の音楽の世界では「ビートルズ」旋風が世界を席巻していた時代であり、その強大な流行の影に埋もれてしまった感はあるが、それでも知る人ぞ知るの存在だった。
この年代にもし「ビートルズ」がいなかったら、「ボブ・ディラン」のノーベル賞受賞は、20年早まっていた、と思うくらいディランの足跡は確かなものがあった。

とかく「音楽」の世界では、ビートルズに代表されるように、まず売れるというセールスが一つの判定基準になり、どんなにいい歌でも、売れなければ価値がない、という一つの妄信的な価値観があった。

「ボブ・ディラン」も当然、そのカテゴリー内に入るわけだが、デビュー当時(1962年)より、世間また社会に対して「受けセールス」をただの一度も見せたことがない。俗説的にいえば媚びてない、ということだ。

この世界中「金オンリー」の中で世間に媚びずに、ひたすら自分の歌を60年間歌い続けるというのは、2000年来の西洋歴史の中でも、数人しかいないと思われるほど希少であり、また、その存在に気付かなかった世界を構成している社会人口バイアスも、視点の節穴が巨大であり、戦争にあけくれ金に翻弄され、政治という権威にしがみつき、妄想に生きている人々に贈った、それは強烈なメッセージである。

その「ボブ・ディラン」に対しての評価と判定基準を記述した。

スウェーデン・アカデミーのダニウス事務局長はボブディランのノーベル文学賞について次のように説明している。
「選考は予想外に思えるかもしれないが、過去にもホメーロス(紀元前8世紀の古代ギリシャ詩人)やサッポー(紀元前7世紀末の古代ギリシャの詩人)がなど音楽や演劇のなかに詩的テキストを書いていた偉大な人々がいた。これはボブディラン氏の場合も同じで我々は今日に至るまでホメーロスやサッポーを読みそこからわたし達は影響を受けている。
我々はボブディランを読めるし、読まないといけないと思う。」と語っている。そして「偉大なアメリカの歌の伝統の中で新たな詩的表現を創造してきた」事が今回ボブディランをノーベル文学賞に選んだ理由である。

201
5年に受賞したのはベラルーシの女性作家、スヴェトラーナ・アレクサンドロヴナ・アレクシエーヴィッチさん(1948~)。父はベラルーシ人、母はウクライナ人。独裁政権の圧力や言論統制を避けるため、2000年にベラルーシを脱出し、西ヨーロッパを転々とした。受賞理由は「我々の時代における苦難と勇気の記念碑と言える多声的な叙述に対して」。
作品『チェルノブイリの祈り』はベラルーシでは出版できなかった。

その対極に人間有史以来の独裁政治(君主政治)という人間の「性」がある。その象徴的存在としてドイツ、ヒットラーがいるが、このベラルーシ国の「ルカシェンコ」もまた、時代の申し子であり民主社会の憎まれっ子である。

その直接現場を「テレビカメラ」で追ったドキュメントが 「ベラルーシ自由劇場の闘い」だった。

番組内容は一口にいってしまえば、「反対勢力闘争」になってしまうが、世界的政治の傾向として「大国アメリカ」価値基準となっているいま、かつていわれた「独裁政治」は根絶されたかに見えたが、現実世界は、そう簡単にかわるものではなかった。
ただし、「ベラルーシ」は残された唯一の独裁国という形容表現で語っていたことは、東欧圏においてほかには存在しない、という観点にたつ。 

我々平和国家(とくに日本では)に暮す人間にとって、その彼らの生活をテレビを見ながら想像することはたやすいことだが、それが実際身に起きたらどうだろうか。

国内政治に対するうっぷんはいくらでもあって、今回の豊洲問題に限ったことではなく「金権政治腐敗政治」と揶揄するものの、合法政治の野党であっても、馴れ合い構造の政治体系で、真の意味で民主とは何か、と考えると、まったく答えが探し出せない。

翻って、そのベラルーシ国情を酌量してみれば、われわれの思想的呪縛から較べたら、雲泥の差があり、精神肉体の両極を弾圧されるという実態を実際に味わっているか、いないかの違いがある。

いま世界中でインターネットによる政権変革が進んでいるが、それらは結果的に成功したとは言い難い。そこに使われている「文明の利器」ネット端末を駆使して、既存政治を崩壊される力は実証されたが、その後の建設には遠く及んでいない。

子供のころ、ちゃんと動いていた「目覚まし時計」のカラクリを覗いてみようと、ばらばらに分解してみたものの、その手順記憶もすっかり忘れ、残ったのは散乱した部品だけだった。そんなことが、いま世界中に進行してる。かつてそれは強権独裁というスタイルで統治していたという歴史があった。

しかし時計をバラバラにする手間と速度があまりにも速いために、分解した本人も、壊れた時計も、さらにそれを可能にしたタブレット端末を提供している組織も国も、それは本来の使い方ではない、と知らん顔をしたところで、身にかかる火の粉は、天からバラバラ降り注いでくる。
そんな情況であることを誰も知らないか、また知っていても、知らん振りをして悪夢を忘却しようとしているのか、はなはだ疑問がある。

BS世界のドキュメンタリー「ベラルーシ自由劇場の闘い」
ベラルーシ自由劇団は、元ジャーナリストや元国立劇場所属の俳優たちが作った小劇団。20年以上も続くルカシェンコ大統領の独裁政権下で、自由と解放を求めて活動してきた。しかし、2010年の大統領選挙で対立候補を応援したことが原因で政府に目をつけられ、身の危険にさらされたメンバーは亡命を余儀なくされるが、国外から「表現の自由」を訴え続ける。(2015年国際エミー賞受賞)
ベラルーシ大統領選 「欧州最後の独裁者」ルカシェンコ氏が5選

11日、ベラルーシ・ミンスクで息子と一緒に大統領選の投票をするルカシェンコ氏(右)(AP=共同)産経ニュース
 旧ソ連ベラルーシで、任期満了に伴う大統領選が11日に行われ、中央選挙管理委員会は12日、現職アレクサンドル・ルカシェンコ大統領(61)が83・49%を得票し連続5選を決めたと発表した。投票率は86・75%。

 「欧州最後の独裁者」とも呼ばれるルカシェンコ氏の強権統治は1994年から続き、5年の任期を全うすれば四半世紀を超える。他に3人が立候補したが、実質的な対抗馬はいなかった。選挙から事実上排除された野党は投票棄権を呼び掛けていた。

 ロシアとの結び付きが強いベラルーシはロシア経済不振の影響の直撃を受けている。ルカシェンコ氏はロシアのウクライナ介入に批判的な見解を示し、ベラルーシでの人権侵害を批判してきた欧州連合(EU)との関係改善を意識して8月に政治犯を釈放した。EU側もルカシェンコ氏らの入国禁止の制裁緩和を検討しているもようだ。(共同)
(記事部分引用)

ソ連時代のベラルーシは白ロシア・ソビエト社会主義共和国
ベラルーシは日本の約半分の国土で900万人が暮らす。隣国のリトアニアとは歴史的な関わりが深く、過去にはポーランドとリトアニアの支配下に置かれた。

そして、ソビエト連邦の支配が始まる。その時のベラルーシの名前は白ロシア・ソビエト社会主義共和国。なぜ白かというと、方角を色で表す習慣から西を指す白、キリスト教化された地域を白いと呼んでいたことなどが由来だ。

ちなみにベラルーシ語でベラは白という意味、ルーシはルーシ人という意味を指す。ルーシ人は以前このベラルーシ辺りに住んでいた民族の名前だ。

また、ソ連時代にチェルノブイリで起きた原発事故の被害を一番受けたのは、このベラルーシだ。チェルノブイリはウクライナにあるが、風が南から北に吹いていたので一番被害を受けた。

ソ連崩壊によりベラルーシは独立を果たし独裁国家となる

1991年にソ連より独立を果たしベラルーシとなった。このときに大統領になったのがアレクサンドル・ルカシェンコだ。

アレクサンドル・ルカシェンコ大統領による独裁国家の始まり

バルト三国が親欧米だったのに対して、ベラルーシは親ロシアの政策を打つ。地理的にバルト三国とベラルーシは近いものの、外交面では対極になったのだ。

ベラルーシの街中には今でもレーニン像が建てられている、ソ連はとっくに崩壊しているにも関わらずだ。ルカシェンコ大統領は、今のベラルーシが白ロシアソビエト社会主義共和国から相続されたものだと強く思っているのだ。

ベラルーシはアレクサンドル・ルカシェンコ大統領の独裁国家なので、独裁者の意見が全て反映される。これが独裁国家の怖いところだ。なんとルカシェンコはヒトラーを真似てナチスの答礼をしたことがあるし、本人の髭はどこかヒトラーを想起させる。

果たしてヨーロッパ最後の独裁国家はいつまで存続できるのだろうか。


アレクサンドル・ルカシェンコ大統領
1954年8月30日 - )は、ベラルーシの政治家で大統領(1994年 - )。また、ベラルーシ・ロシア連合国家の初代最高国家評議会議長(2000年 - )でもある。欧米からは「ヨーロッパ最後の独裁者」と呼ばれる。

2015年4月2日には、国家財政の体力強化のため、半年間無職で納税しなかった人間に約360万ベラルーシ・ルーブル(約3万円)の罰金の支払いと、支払い命令に従わなかった場合は拘束され、強制的に社会奉仕活動をさせられるという、旧東ドイツを彷彿とさせる政策の大統領令に署名した。ただ、高齢者や障害者、学生などは対象外である。

2015年8月の中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利70周年記念式典に出席し、天安門広場を行進するベラルーシ軍を閲兵した。
2016年9月の下院選では野党への締め付けを緩め、20年ぶりに政権に批判的な野党系候補が2人当選した。欧米への配慮によるものとされる。
ヨシフ・スターリンと手を結んでポーランド領だったブレストをベラルーシ領にしたアドルフ・ヒトラーを「彼のおかげで(ドイツは)残骸から立ち直った」と賞賛し、「ユダヤ人は、ボブルイスク(ベラルーシ国内の一都市)を豚小屋に変えた」など、反ユダヤ的発言をしている(ベラルーシには約7万人ほどのユダヤ系住民がいる)。そして、「ドイツの歴史はベラルーシの歴史のコピーだ」と発言している。

17世紀にロシア帝国の支配下に入るとベロルシア(ロシア語:ビラルースィヤ)と名付けられ、日本語でもこれを訳した白ロシアの名で長らく定着していた(この場合の「ロシア」は「ロシア」のことではなく「ルーシ」の意味)。ソ連崩壊直後の1991年9月15日に正式な国号をベラルーシ語を尊重した「ベラルーシ」に定め、各言語でもこの語を用いるように要請している。

国名の由来
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ベラルーシ共和国()、通称ベラルーシは、東ヨーロッパに位置する共和制国家。東にロシア、南にウクライナ、西にポーランド、北西にリトアニア、ラトビアと国境を接する、世界最北の内陸国である。首都はミンスク。ソビエト連邦から独立した。国際連合にはウクライナと共に、ソ連時代からソ連とは別枠で加盟していた。
ベラルーシの人々は13世紀から16世紀にかけてモンゴルの支配を受けた(タタールのくびき)。その際、モンゴル人が中国から学んだ文化である「方角を色で呼ぶ方法(五行思想)」をルーシに持ち込んだため、赤ルーシ(南部ルーシすなわち現在のウクライナ西部)、白ルーシ(西部ルーシすなわち現在のベラルーシ)、黒ルーシ(北部ルーシすなわち現在のモスクワ周辺)という名称が生まれ、そのうちの白ルーシ(ベラルーシ)が国名として残った。
(資料ウィキぺデア)
 

長谷川豊アナMX「バラいろダンディ」も降板 レギュラー番組なくなる
スポニチアネックス10月5日(水)21時1分配信 
 元フジテレビのフリーアナウンサー・長谷川豊(41)がTOKYO MX「バラいろダンディ」(月~金曜後9・00)を4日の出演を最後に降板した。5日に放送された同番組で発表された。

 番組冒頭、アシスタントを務める元日本テレビの阿部哲子アナ(37)が長谷川アナの降板を伝え、「私個人としては今回のブログの件は長谷川さんが100%悪いと思いますし、フォローの余地は一切ないんですけれども、バカヤローと言いたい気持ちです。ただ、チームとして頑張ってきた仲間がいなくなってしまうのはすごくさびしい思いがします」と複雑な思いを明かした。

 長谷川アナは9月19日、「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」と題したブログを投稿し炎上。これを受け、テレビ大阪「ニュースリアルFRIDAY」、読売テレビ「上沼・高田のクギズケ!」を降板していた。

 「バラいろダンディ」3日放送回の冒頭には、人工透析患者を批判するブログを書いたことについて「個人的なブログ内で書きました人工透析患者の方に関する記事にまつわりまして、大変多くの方に多大なるご迷惑をおかけしております。大変申し訳ございませんでした」と謝罪した。

 長谷川アナは騒動前、「バラいろダンディ」、「ニュースリアル」、「上沼・高田のクギズケ!」、BS12チャンネル「未来展望」にレギュラー出演していたが、「未来展望」は9月に番組終了。残りの3番組を降板し、全てのレギュラーを失うことになった。

長谷川豊氏、「人工透析」ブログの「真意」語る
全腎協の謝罪要求は「断固拒否」
2016/9/25 11:40J-CAST
元フジテレビアナウンサーの長谷川豊さん(41)が2016年9月24日、J-CASTニュースのインタビューに応じ、ネット上で「炎上」している人工透析患者にまつわる一連のブログ記事について、あらためて「真意」を語った。

   長谷川さんの19日付のブログ記事をめぐっては、全国腎臓病協議会(全腎協)が9月23日に抗議文を公開し、謝罪を要求しているが、長谷川さんは「謝罪については断固拒否する」と語った。

「自堕落な患者」10人以上の医師に取材

   ブログでは、現状の健康保険制度および年金制度を問題視する中で、日本における人工透析患者に言及。その多くは、医師からの注意を無視して自堕落な生活を送り続けた結果、透析を受けざるを得なくなった「自業自得」な患者だと主張した。

   19日付記事のタイトルには「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!」という過激な表現があったこともあり、ネット上では批判が殺到。その後に更新されたブログも含めて物議を醸した。

   長谷川さんは24日、J-CASTニュースとのインタビューの中で「ブログの主旨は一貫して、『社会保障給付費の使い方を考えましょう』ということ」と話し、ブログを書くにあたっては透析病棟の現場で働く医師10人以上を取材し、そこで「自堕落な生活が原因の患者が相当な割合で存在する」といった話を聞かされたことを改めて強調した。

「この1年で医療費が1.5兆円増えたという記事を見たのが全ての入り口だった。適正に使っていかなければそう遠くない未来に破たんする。人工透析の予算はあらゆる病理に対する社会保障の中でも伸び率が断トツで高い。このままいくと本当に苦しんでいる透析患者まで3割負担、という話になってくる」
   その上で、長谷川さんのブログが「透析患者に対する誤った認識を社会に印象づけるものであり、強い憤りを覚えます」として、全腎協が「発言の撤回と謝罪の掲載」を求める抗議文を公表したことに対しては

「公開されている抗議文は『全員が(透析を)タダで受けられるように頑張ってきた、誤解を与えるな』という内容。こんなこと言っていたら社会保障給付費なんて際限がなくなる。全員守るなんて論外です」
と批判。「抗議文が手元に届き次第、謝罪については断固拒否し、会長への公開インタビューを要求する」と、あくまで自身の主張を貫く姿勢を示した。
sample6
人工透析ブログ「当社団の公式見解でない」
長谷川豊氏が理事の医師団体「医信」が謝罪 

J-CAST 2016/9/26 19:16 
元フジテレビアナウンサーの長谷川豊さん(41)が書いた人工透析患者にまつわるブログ記事の主張について、長谷川さんが理事を務める一般社団法人「医信」が2016年9月26日、公式サイト上で「(医信の)公式見解ではない」との文書を発表した。

   その上で「医信」は、同文書の中で「多くの方々に不快な思いや誤解を招く」表現があったことを認め、「代表理事ほか理事一同」名で謝罪を表明した。

長谷川豊さん(2016年9月24日撮影)「医信」公式サイトに掲載された文書
  
2016年6月結成の若手医師の団体

   「医信」は「メディカルリテラシーを、育む」を理念に掲げ、若手医師が中心となって16年6月に結成した団体。理事の1人である長谷川さんが「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!」というタイトルのブログ記事を書いて「炎上」したことを受け、医師の団体として見解を発表せざるを得なくなったとみられる。

   同団体はブログ記事の投稿について「長谷川自身が義憤に駆られ、独自の取材と倫理的判断に基づき行ったものであり、当社団の公式見解ではありません」と説明。その上で、

「該当記事の表現は、過激かつ扇情的であり、多くの方々に不快な思いや誤解を招く表現であったことを認め、当社団理事一同、深くお詫び申し上げます」
と、謝罪した。ただ一方で

「人工透析のみならず、現代の日本では個々の患者-医師関係から成り立つミクロな医療経済の積み重ねが、日本全体でのマクロな医療経済の圧迫につながっている現状があることは、事実です」
と、長谷川さんの主張について、問題提起としての理解も示している。

   最後には「当社団では現代の日本で実際に行われている医療行為・医療政策・医療システムなどに関して、医学的見地から精査を行った上での情報発信を続けていく所存です。その発信を基にして、今後の日本経済や医療のために論理的かつ実践的な議論の場が構築されることを社団理事一同、願っております」と締めくくった。
(記事引用)

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