いにしえの古楽 その理由.1
春日、伊勢いずれも古社として祭には雅楽舞楽が演奏されている。その理由は何か。さらにどうして「唐時代の雅楽」を未だに演奏しているのか、という問い、また疑問を解説してみたい。

しかしながら「聖徳太子」以来の話であり、また学者、研究者の諸説によって多少ことなる点もあり、総括的に説明はできないが、残された文献を元に復元してみると、ある程度の骨子が解読できる。
なんといっても「遣唐使」の功績が大きく、音楽に関しては「吉備真備」が膨大な学術文献を持ち帰ったことが評価される。
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雅楽研究所「研楽庵」
伎楽 2(歴史1)
『聖徳太子伝暦』によると、『日本書紀』と同様の文書に続いて、「太子は、「諸氏の子弟の壮年の男子に勅して、呉鼓(くれつづみ)を習わせるようにしましょう。また、天下に命じて鼓を撃ち、舞を習わせるようにしましょう。」と奏上しました。太子は落ち着いて左右の者に「三宝(仏・法・僧)を供養するには諸々の蕃楽(外国の音楽)を用いなさい。

あるいは学習せず、あるいは、習っても佳くないかもしれないので、今、永く習い伝えることを業とするならば、よろしく課役を免じるべきである。」と言い、すぐに大臣に命じて免じた。(鳳笛訳)」とあります。

また、『教訓抄』には、「古記によると、聖徳太子が我が朝にお生まれになられた後、百済国から舞師味摩子が渡ってきた。妓楽を写し留めて、大和国橘寺一具、山城国太秦寺(広隆寺)一具、摂津国天王寺(四天王寺)一具を寄せ置かれたところである。その後、百年余後に、七大寺に移し置いて、余所は皆絶えてしまった。東大寺、興福寺に残り留まる。また、天王寺、住吉社には形だけは今に伝えられている。また、雅楽を習い写してから、公家が一具寄進された。天王寺に一具を寄せ置かれた。かの寺の仏教供養の料としてである。今、秦氏の舞人・楽人が天王寺に住む。寄進の後、3度絶えてしまった。」とあります。
このように、伎楽は聖徳太子により、寺院での荘厳のための音楽とされ、各地で伝承されるようになります。しかし、雅楽伝来に従い、衰えていった事がわかります。
なお、七大寺とは、一般的には、興福寺・東大寺・西大寺・薬師寺・元興寺・大安寺・法隆寺とされています。しかし、法隆寺は平城京から外れるので、代わりに唐招提寺を入れる説、歴史的経緯から西大寺の代わりに川原寺を入れる説もあるようです。唐招提寺に林邑楽の他に伎楽もあったのかは判りませんが、川原寺に伎楽があったことは『日本書紀』の記述からわかります。
(記事引用)

真備は、留学中に儒学のほか、天文学や音楽、兵学などを学び、帰朝時には、経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻、『大衍暦立成』12巻)、日時計(測影鉄尺)、
楽器(銅律管、鉄如方響、写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、
弓(絃纏漆角弓、馬上飲水漆角弓、露面漆四節角弓各1張)、矢(射甲箭20隻、平射箭10隻)などを持ち帰り、朝廷に献上している。

『楽書要録』とは、7世紀末頃、唐の則天武后の命によって編纂され、8世紀前半に日本へ渡来した全10巻の音楽理論書である。
中国では散逸したが、日本では巻第五・巻第六・巻第七の3巻と残りの7巻の逸文が伝存する。本論文では、羽塚啓明「楽書要録解説」「校異楽書要録」(1940~42)を土台として、可能な限り全ての史料を調査し、本文の構造を分析した。その結果、理路整然とした内容と、複雑な伝存の過程とが明らかになった。

楽器(銅律管・鉄如方響・写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、など。
 
「蕃楽」(ばんがく)
古代中国思想の影響というよりも、殆ど直接的に思想導入した考えは既に先例がある。聖徳太子が国史を作るときに用いた讖緯説も陰陽五行思想が基礎にある。また、蕃楽を奨励して渡来音楽を積極的に導入している。

鎌倉、音楽の推移
 十二世紀の中ほどになると武士と宮廷貴族の均衡バランスが崩れ始める。続く戦乱で社会は荒み武家社会が隆盛すると宮廷公家社会は衰退する。
 
 併行して宮廷内の儀式である祭祀・節会に奉奏される雅楽が滞ってしまう。それはもっぱら京都の楽家に因っていたのである。
 
 そこで南都系の上、窪、奥、四天王寺系の東儀、薗、林、岡、などの楽人が宮廷に招かれて演奏するという歴史があった。1467年の「応仁の乱」は時代を象徴するような事件でその時、雅楽に関係していた楽人は戦禍を逃れて地方に散逸してしまった。

 いま地方に残る雅楽はその名残とされている。その「楽家」が一子相伝を世襲し明治維新まで雅楽を継承していた。

 近代歴史の大変革明治維新を境に今度は遷都に伴い主要な楽家は西から東へ移される。それら音楽一家は一子相伝を世襲し楽家として雅楽演奏に携わり、現在の宮内庁式部職楽部に名を連ね今日に至っている。多姓は古事記で著名な太安萬侶の後裔である。
 歴史的に雅楽が皇族貴族公家の音楽であったことが古い文献によって確かめられるが、特に印象的なのが平清盛と源頼朝が雅楽に特別な関心を寄せていたことである。

 平清盛は厳島神社を守護神として舞楽を興し、源頼朝は鎌倉幕府の創設者として知られるが家臣らに京都より下った楽人に雅楽を習わせ鶴岡八幡宮で雅楽を演奏させた。そのことを考え併せても平安朝の伝統である雅楽が武家政権に移行しても重要な政事の儀式に欠かせない音楽であることを物語っている。
 
 平安末期の武将として源氏を打ち破り平家勃興の立役者として名を馳せた平清盛は娘の徳子を高倉天皇の皇后として、皇室の外戚を利用して勢威を発揮した。

 平清盛に代表される武士政権が宮廷の雅楽に与えた影響は大きい。中世の歌舞である白拍子の様相が、それまで伝統的に継がれていた正統的型が平清盛政権を境にして微妙に変化し簡素化されたのである。
 頼朝が鎌倉幕府を開き鶴岡八幡宮で家臣らに雅楽を習わせ演奏させたのが1192年の事であったが、その7年前の1185年では『管絃音儀』という雅楽に関する重要な音楽理論の書物が涼金という僧によって書かれている。
 もともと中国の『呂氏春秋』を手本にした書とされ、その内容は五行思想が強く反映されている。その五行思想と音楽を一体化した音楽理論書である。
「音楽は天の気を和らげる」、また「それ管絃は萬物の祖なり、天地を絲竹(絃・管楽器)の間に篭め、陰陽を律呂の裏に和す」などの意味を込め、音を五行思想の方位・季節・色などと組合わせて一つの宇宙観を作り上げている。宮廷雅楽の秘儀的要素の一端を観ることができよう。

 その詳細を挙げると次のように具体化されている。 壹越調は中央で土、盤渉調は北の玄武・冬・黒、双調は東の青龍・春・青、黄鐘調は南の朱雀・夏・赤、平調は西の白虎・秋・白、 を用いて方位ごとに音程を現している。五つの各調子は和律名で曲を現す基音の音程を表記したものである。(キトラ古墳に確認された)
 雅楽をそのような宇宙観によって捉え五行思想と音の世界を結び一定の概念をつくった。

 古代中国思想の影響というよりも、殆ど直接的に思想導入した考えは既に先例がある。聖徳太子が国史を作るときに用いた讖緯説も陰陽五行思想が基礎にある。また、蕃楽を奨励して渡来音楽を積極的に導入している。
 
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春日大社は、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設された奈良県奈良市にある神社。旧称は春日神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「下がり藤」。
全国に約1000社ある春日神社の総本社である。武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。
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2016年11月7日 舞楽曲 南都楽所
「本殿遷座祭」の翌日に奉祝の舞楽が古式に則り奉納された。
開催日 平成28年11月7日(月)
開催時間
第1部:14:00~17:00
第2部:16:30~19:30
※1部、2部入れ替えとなります。それぞれ事前解説の時間を含む。
曲目
第1部 集会乱声(しゅうえらんじょう)
振鉾三節(えんぶさんせつ)
萬歳楽(まんざいらく)
延喜楽(えんぎらく)
賀殿(かてん)
地久(ちきゅう)
第2部 太平楽(たいへいらく)
狛桙(こまぼこ)
蘭陵王(らんりょうおう)
納曽利(なそり)
祝儀の口上(しゅうぎのこうじょう)
長慶子(ちょうげいし)

南都楽所 世界唯一の音色
産経west
 古都・奈良の夜に、冷たい空気を震わせるような笙(しょう)や龍(りゅう)笛(てき)、篳篥(ひちりき)の真っすぐな音が響いている。
古都・奈良の夜に、冷たい空気を震わせるような笙(しょう)や龍(りゅう)笛(てき)、篳篥(ひちりき)の真っすぐな音が響いている。

 5世紀以降、中国や朝鮮半島から日本に渡ってきた音楽や舞が取り込まれ、宮中や神社仏閣の催事に欠かせない音楽として今に伝わる雅楽。その歴史を伝える音楽団体が奈良市にある。

 近鉄奈良駅に連なる商店街の奥まった場所、春日大社境内「大宿所(おおしゅくしょ)」にその「南都楽所(なんとがくそ)」の稽古場がある。平安時代に奈良の寺社の法要、祭祀(さいし)音楽をつかさどるために設置された南都楽所だが、明治維新の影響で一時期その名は途絶えた。それが昭和43年に復興され、今に続く。

 楽所の復活に尽力し、現在も率いる楽頭の笠置侃一(かさぎかんいち)さん(86)は「ルーツであるアジア大陸ではもう失われた音楽が、唯一日本に残っている。その伝統をしっかり受け継いでいかなければ」と話す。

 今、南都楽所には笠置さんが名誉教授を務める奈良大学の学生やそのOBらも加わって伝統を継承する。大人たちが練習する傍らで、小学生の少女も一心に龍笛を吹いていた。

 「雅楽の始まりはアジア大陸の音楽が仏教とともに日本に伝わったころ。以来、社寺の法要や祭祀に必要なものとして音楽、舞踊がありました」と南都楽所の笠置侃一さんは説明する。

 奈良に都があった天平勝宝4(752)年、東大寺で開かれた大仏開眼法要も音楽で彩られた記録が残っているという。

 音楽舞踊の文化が花開き、やがて都が京都に移った平安時代以降、京都「大内楽所」と奈良「南都楽所」、大阪「天王寺楽所」の「三方楽所」と呼ばれる3つの組織に分かれた。南都と天王寺はそれぞれ興福寺や四天王寺に庇護(ひご)されたが、明治維新で楽人が東京に集められ、南都楽所の名は途絶えてしまった。

 市井の人々が細々と雅楽を継承し、南都楽所が社団法人として復活したのは昭和43年。今では、冬の風物詩「春日若宮おん祭」をはじめ年間約40の社寺の儀礼に奉仕している。

 宮内庁式部職楽部で首席楽長を務め、日本を代表する楽人だった東儀俊美(1929~平成2011年)は、おん祭を見てこう書き残している。「三方楽所は現在も続いている。そして立派に機能している」と。


 南都楽所の稽古場では10歳から12歳の少年たちが舞を習っていた。「やりたいというより、やらなあかんかなぁ」と、幼いながらも責任感を口にする。

 現代的なダンスとは異なった動き。ゆっくりとした独特の振りは難しく、つい動きが速くなる。「そうやって足がピュッといかないようにし」。体重移動のコツを80歳近い年長者が指導していた。

 高校時代に南都楽所に入り、今では楽人の一人として活躍する佐藤いずみさん(33)は「私は歴史の一コマにすぎない。たとえ私がいなくても誰かが必ず伝える。だからこそ途絶えなかったのではないでしょうか」。


 「雅楽を聴いたことある人、どれぐらいいるかな」

 この冬、奈良市立佐保川小学校で南都楽所による音楽鑑賞の授業が開かれた。教師が尋ねると、6年生の児童約60人のうち3分の1近くが手を挙げた。「お祭りで聴いた」「初詣で聴いた」と声があがる。

 衣装を身につけた楽人が音楽の教科書にも載っている演目「越天楽(えてんらく)」を演奏。笠置さんは「寺社の法要、祭礼があったから奈良に雅楽が残りました。これからも伝えていかなければなりません」と子供たちを前に熱く説いた。

 南都楽所の1年は元日の春日大社の歳旦祭で始まったばかり。今年も長い歴史の中の一歩を刻む。

文 安田奈緒美 写真 岡本義彦

 南都楽所 長保3(1001)年に組織され、明治3年に廃止。楽人は京都と大阪の楽人とともに東京に集められた。しかし、社寺での演奏の必要があったため、それまで一般には伝えられていなかった演奏が、一般の人も交えて稽古されるようになり、昭和7年には雅楽や田楽を伝承する「春日神社古楽保存会」が発足。43年には保存会から雅楽部門を独立させ「社団法人 南都楽所」が結成された。

南都楽家の舞譜『掌中要録』を舞う 
その1 記事
─平安・鎌倉時代の舞楽はこんな舞!? ─
1)中古・中世の文献にみえる音楽・舞の描写
あまりに有名な『源氏物語』紅葉賀の、光源氏・頭中将が舞う《青海波》をはじめとして、中古・中世の物語などには、雅楽・舞楽のシーンがたびたび描かれています。それらをよくよく読むと不可解な点がたくさんあります。今の雅楽を思い浮かべるかぎり、伴奏のような音型しか奏していない琵琶や箏を日常のなかで楽しそうに演奏していたり、また、(現行の)舞楽の舞はとても静止状態が長く、足の動きは極めて抑制された動きであるはずなのに、歩きながら─前進しながら─舞っていたり(『うつほ物語』)、蹴鞠の足の運びやタイミングを舞楽の “足踏”なるものや鞨鼓・太鼓のリズムに擬えて説明していたり(『革匊要略集』1286)。当時の雅楽(舞楽)の音楽・動作の様式は、現行とはまったく異なっていたと考えざるをえません。

では、中古・中世の雅楽(舞楽)の音楽・舞はどのようなものだったのでしょう。それは、研究者それぞれの研究方法、史料解釈によってかなり見解がことなります。もちろん時間の流れになかで一時的に存在する音楽や舞は、時代とともに変化するものであり、楽家によっても様式は異なるものです。のみならず同じ人物が演奏する音楽・舞でも若いころと晩年では異なり、朝と夕でも異なります。解釈の方法によっても、またそういった伝承の実態を考えても、唯一無二の答えはありえません。ここに提示する中古・中世の舞楽の姿は、あくまで無数に考えられる解釈のひとつです。

雅楽の六調子

 雅楽には調子が6つあります。洋楽の「ハ長調」や「イ短調」といった「調」に当たるもののことです。これもおそらく雅楽で「調子」という言葉を使うので、洋楽が入ってきたときに「調」の言葉を使うようになったと思います。

 雅楽では「壱越調」「平調」「双調」「黄鐘調」「盤渉調」「太食調」の6つの調子があり、「六調子(ろくちょうし・りくちょうし)」と呼ばれます。

壱越調 「壱越(D・レ)」呂旋 
平 調 「平調(E・ミ)」律旋 
双 調 「双調(G・ソ)」呂旋 
黄鐘調 「黄鐘(A・ラ)」律旋 
盤渉調 「盤渉(B・シ)」律旋 
太食調 「平調(E・ミ)」呂旋

 それぞれの音階は、理屈ではいろいろ言われてますが、実際は微妙に違います。これは師匠となる人に聞きながら音を合わせていくのが良いと思います。

 洋楽では、A=440Hzで演奏しますが、雅楽はA=430Hzに合わせますので、全体的に音が少し低くなります。どの調子にも特有の旋律があり、雅楽に親しむうちに、調の区別が自然にわかってくるもんだそうです…
 上に書いたのがメインの調子ですが、「枝調子」と呼ばれるものがあり、古代中国では、理論上、84もの調があったそうです。

 そのうち12の調子が日本に伝わりましたが、その後、六調子に整理されました。
 壱越調 「壱越性調(いちこつしょうちょう)」「沙陀調(さだちょう)」
 平調  「性調(しょうちょう)」と「道調(どうちょう)」
 黄鐘調 「水調(すいちょう)」
 太食調 「乞食調(こつじきちょう)」 

 調子には「陰陽五行(いんようごぎょう)」というのと深い関係があり、季節、音、色などなどが関係しているんだそうです。
 一例としては、
   春:双調  東方 木音 青色
   夏:黄鐘調 南方 火音 赤色
   秋:平調  西方 金音 白色
   冬:盤渉調 北方 水音 黒色
   壱越調   中央 土音 黄色 若紫色
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