上り列車の英雄”田中角栄はなぜ多くの人を惹きつけたのか?
どんな相手にも絶対に勝とうとする激烈な闘争心と、ライバルや敗者までをも包み込むような優しさ──。
今年ブームとなった田中角栄のエピソードを、元秘書・早坂茂三氏の著作から引く。
今年ブームとなった田中角栄のエピソードを、元秘書・早坂茂三氏の著作から引く。
文・東洋経済新報社 出版局 2016年12月18日
いま「田中角栄ブーム」といわれる。テレビや雑誌などで次々と“角栄特集”が組まれているほか、関連書も続々と刊行されている。田中氏の名言集や評伝などベストセラーになっているものも多い。
こうした“角栄本”の「ネタ元」といわれるのが、元秘書・早坂茂三氏(2004年逝去)の数々の著書である。早坂氏は、田中氏が病に倒れるまでの23年間、敏腕秘書として苦楽をともにした。最近の角栄ブームが追い風となって著書が続々と復刻されており、最後の書き下ろし『田中角栄と河井継之助、山本五十六』(旧題『怨念の系譜』)もこのたび復刊された。
この「角栄をもっともよく知る男」が語り遺した貴重な証言を、前回に引き続き『新・渡る世間の裏話』から抜粋して公開する。
闘争心と優しさのバランス
私があの人(田中角栄)を見て、いつも思ってきたのは、闘争心の塊であったことです。負けてたまるか。やっぱり、男は強くなければ生きていけない、とつくづく思いました。
もうひとつ、あの人は縄文人というか、心の底から温かい、優しい人であった。強さと優しさ、この2つを絶妙のバランスで持っていたのが田中角栄であったと思います。彼は立場の弱い人に威張ったり、鼻であしらうことをしなかった。だから、大勢の人が周りに集まったんでしょう。
それと、あの人はゴルフが大好きだった。照る日、曇る日、雨の日と言わず、本当によくやりました。普通の人はコースに出ると、たいてい、ワンラウンドやるんですが、角栄さんは最低でツーラウンドでした。1日で2里(約8キロ)か3里(約12キロ)も歩く勘定になります。走るように歩く人でした。
ある時、私と2人だけでやりましてね。私がまぐれ当たりでショートホールのグリーンの端っこにボールが乗ったら、自分が今まで1度も使ったことのないクラブを持って振り抜いた。すると、このボールがグリーンの旗が立っている穴の下2メートルぐらいにつけたんです。ワン・オン。ナイス・オンです。それを見て、10年以上も親方専門についているキャディさんがびっくりした。「あれ、乗った!」なんて叫んだ。そうしたら、私たちのほうを振り向いて、ニーッと笑いましてね。顔もポロシャツも首筋も汗がだらだら流れているのを拭こうともせず、走るように歩いていきました。
私がその後ろ姿を見て思ったのは、すさまじい闘争心です。自分より12も歳下でゴルフを始めて間もない下手くそがワン・オンした。「あいつに負けてたまるか。俺が負けるはずはない」。そう思ったのかどうか、それまで手にしたこともないクラブを持って、軽く2、3回、素振りをして見事に私をねじ伏せた。
この闘争心こそ貧しい家に生まれ育って、小学校高等科しか出ていない男を戦後日本の異能政治家、天下人にさせたエネルギーであったと思います。
もうひとつ、私は田中を「かわいいな」と思った。このプレーをしたのは、昭和59(1984)年の8月で親方が倒れる半年前でした。時に66歳。そのオッサンが家来に負けてたまるか、とムキになった。
稚気(ちき)愛すべし。この憎めない人柄が面倒見のよさを手伝って、周りに人垣をつくらせたと思います。懐が浅くて、脇の固い人間には他人様は寄ってきません。
飾らなさが人を惹きつける
あの人については、いろんなことを思い出しますけど、食べ物にまつわる面白いエピソードがたくさんあります。
たとえば昔、自民党の実力者だった保利(ほり)茂さんが亡くなって、選挙区の佐賀県唐津で胸像の除幕式があり、私が親方のお供をしました。
式が終わったあと、200年という歴史を持つ料理屋さんに田中が招かれましてね。県知事をはじめ、市長さんとか、保利さんの未亡人、ご令息の耕輔(こうすけ)さんとか、みんなで10人ぐらいの方が集まって歓待してもらいました。
立派な座敷に座ったら、大きなテーブルの上に見事な伊万里焼の大きな器が置かれていた。水が満々と張られて、白魚(しろうお)がぴちゃ、ぴちゃ、水を跳ね散らし、数えきれないほど泳いでいる。それを見た角栄さんが感心した。
「ほう、これは何と見事なもんだ。メダカですか」
このセリフに満座がドッと沸きました。がっくりしたお内儀(かみ)さんが、
「ご冗談ばっかり、先生、白魚ですよ」
「はあ、これが白魚か。わしは初めて見たもんで、びっくりした。どうやって食べるの」
「生のままピチピチ跳ねているのをお箸でつまんで、ちょいと酢醤油をつけて、口の中に放り込むんです。喉を通るときの感触が、とてもよろしいんですよ」
お内儀さんの話を聞いて、田中が絵にも描けない顔になりました。角栄さんは生ガキ、エビの踊り食いが鬼門です。生臭いのは一切ダメ。寿司も卵焼き、カンピョウ巻きが大好きで、生ものは赤身、ヒラメ、鯛がせいぜいです。
「悪いけど、わしは卵とじにしてくれないか。早坂は生きたのが好きだから、彼がたくさんいただきます」
真顔で言うもんですから、座敷がまた、笑いに包まれました。私は少し恥ずかしかったけど、そうしたセリフを何のてらいもなく言ってのける角栄さんは、やっぱり人さんを惹きつけるだろう、これでいいんだ、そう思いました。
「メシは早く食うもんだ」
昭和38(1963)年11月の総選挙で主従二人、当時の新潟三区を車で走り回ったことがあります。
大蔵大臣閣下と私の昼飯は握り飯でした。今はもう亡くなられた田中のお母さんが、生まれたての赤ちゃんの頭ほどもある大きなお握りに海苔をびっしり巻いたのを二つ用意してくれて、車の中で食べるのです。
「腹が減った。もう昼だろう。ばあさんが持たせた握り飯を出せ」
田中は朝昼晩、時分どきになると、メシをしっかり食べます。
あの人は口が大きい。私は口が小さくて、親分の半分しかありません。
「メシは早く食うもんだ。お前のようにノソノソ食ってると、戦争になったらいちばん先に殺されるぞ」
お握りにかぶりついたら、皮付き骨つきの塩鮭が一切れ、丸ごと入っていた。車の隣の大将が上手に骨を取り出して、一本ずつ丹念にしゃぶるんです。
「うまいなあ。うまいだろう」と家来に賛同を強要した。私は函館出身ですから塩鮭なんか珍しくも何でもない。だけど、腹が減っていたし、親方のスピードに追いつくため、二、三度、大きくうなずいて、黙々と食べました。
「選挙になって、料理屋に上がってふんぞり返って、昼から刺身だ、天ぷらだ、と言っている奴は必ず落ちる。選挙のときは握り飯に限る。昔から戦(いくさ)に握り飯は付きものだ」
食後の番茶を飲んで元気いっぱいな親方が、上機嫌で私に言ったのを覚えています。
自分を叩くマスコミもかばう
それと、田中と言えばやっぱりロッキード事件。6年9カ月、196回。皇居のお堀端にある東京地方裁判所に通いました。角栄さんは律儀な人で、熱が40度も超す風邪を引いた時も休まない。私は「弁護士に連絡して休みましょう」と繰り返し勧めたけど、「まあ、いいじゃないか、お上(かみ)の決めたことだ、行こう」。昔の小学校なら皆勤賞を貰ったところです。
事件が始まったあと、東京・目白台の田中邸は、カメラの脚立が林立し、報道陣2、300人に取り囲まれた。スポークスマンの私は精いっぱい、彼らの質問に答えたつもりですが、連中は私の話など上の空で、思い入れと偏見、独断にあふれた記事を洪水のように流した。私も頭にきて、いつも怒鳴りつけていた。そしたら、オヤジさんが私に言いましたよ。
「怒鳴るな。連中も俺のところに来たくて来るんじゃない。仕事で来るんだ。カメラマンは俺の写真、面白い顔をしたのをぱんと撮らなきゃ、社へ帰ってデスクに怒られるぞ。新聞記者だって、お前から無愛想に扱われ、つっけんどんけんやられて、俺が目白の奥で何をしゃべっているか、それも聞くことができないで記事に書けなけりゃあ、社に戻ってぶっ飛ばされるぞ。彼らも商売なんだ。少しは愛想よくしてやれ」
私はあの人の顔を見ましたよ。これだけすりこ木にかけられて、何でこの連中にそれだけサービスすることがある。だけど、それが角栄さんという人であったと思います。
上り列車の英雄
戦後の日本政治に一時期を画した田中政治については、平成5(1993)年に大将が亡くなって、論評が洪水のように流れました。功績四分、罪六分、これが一般的な受けとめ方だと思います。それはそれでいい。政治家の評価というのは、死後30年から40年、50年もたって、後の世の歴史家が過不足のない、きちんとした、客観的な評価を下すものでしょう。それでいい。
ただ私は今、改めて思っている。角栄さんが死んで戦後日本は終わった。上り列車の英雄の時代に幕が下りた。行儀は悪いけど、ここいちばんという時、頼りになる隣のオジさんがいなくなりました。全軍の先頭に立って、さあ、前進しよう、それでみんながワクワクして、一緒に動き出す、そういう時代は、田中が去って終わったと思います。
悪党と言えば悪党、それがいなくなりました。これからは真面目で善意だけど、気が小さくて度胸なし、小理屈は達者でも決断、実行、情熱の乏しい人たちがあふれるだろう、角さんのような人が再び出てくるのは難しい世の中になった。そう思います。
(記事引用)
朝食が好きな理由〜炊きたてのご飯か狐色のトーストか
河毛俊作 、 2016-12-21gqjapanコラム
主役は何と言っても炊きたての白く輝く、つやつや、ふっくらとしたご飯。洋食ならば……。
演出家による文と、写真家によるビジュアルが織りなす大人のエッセイ。
演出家による文と、写真家によるビジュアルが織りなす大人のエッセイ。
文: 河毛俊作
写真: 操上和美
朝めしに花を喰らいて二日酔い。(2016.10.25 操上和美)
私は1日の食事のうちで朝食を一番重視している。空腹を覚えて目覚め、
歯を磨き、トゥルフィット・アンド・ヒルのシェーヴィング・ソープを泡立ててゆっくりと髭を剃り、さっぱりしてから朝の澄んだ空気の中で暫し犬を散歩させてから朝食のテーブルに着く時、「ああ、本当に自分は幸せなんだなぁ」と実感して神に感謝する。
丁寧に出汁を引いた熱々の味噌汁、具は絹でも木綿でもよいが、豆腐が一番好きだ。辛子を利かせてたっぷりの刻みネギを添えた納豆、季節のお漬け物、パリパリの香り高い焼き海苔、そして主役は何と言っても炊きたての白く輝く、つやつや、ふっくらとしたご飯。洋食ならばトマトジュースにオーバーイージーに焼いた目玉焼きに、あまりカリカリにしないベーコンかボイルしたソーセージを添える。そしてこんがりと狐色に焼け、香ばしい匂いを漂わせるトースト。エシレのバターと美味しいマーマレードがあれば最高だ。勿論、パンの場合はクロワッサンやバゲットなど選択肢も増える。そこがパンの強みだ。
私が朝食を好きな理由の一つは、ご飯やパンが主役であるという点だ。ディナーではそうはいかない。私は無類の炭水化物好きで、ご飯やパンが主役を張れる朝食が好きなのだ。だからたまに高級旅館に泊まって朝からズラリとご馳走が並ぶと、ご飯の“主役感”が減ってしまって少し悲しい気持ちになる。
幼い頃にお米の大切さを祖母から徹底的に叩き込まれた。私がお米を粗末に扱うと、祖母は、昔は貧しい家では白米を日常的に食べることはできず、家族の誰かが重い病気になると、竹筒にお米を入れて病人の枕元でその竹筒を振り、サラサラとお米が擦れ合う音を聞かせ、元気になったらこのお米を炊いて食べさせるから頑張れ、と励ましたという話をした。幼いながらお米は日本人の“生きたい”という欲望に直結した大切なものなのだと感じたものだ。
そう遠くない昔、多くの日本人にとって白米を好きなだけ食べられるということは、かなり幸福なことだった。
だからと言うのも何だが、私は糖質ダイエットなど思いもよらない。現代人は、人類の生命をここまで支えてきた炭水化物に対する感謝の気持ちが足りないと地味に憤慨している今日この頃だ。
人生の早い時期からお米とは幸福な関係を築けたが、パンとはそうはいかなかった。それは多分、当時の学校給食によるところが大きい。パサパサで味のないパンに質の悪いマーガリン、そして悪名高い脱脂粉乳……あれでパン食に対する悪いイメージが自分の脳内に固定化されたと勝手に思っている。
次のページ私とお米の付き合いは“精神”から、パンとの付き合いは“ファッション”から始まった
そんなパンのイメージに変化が訪れたのは中学生になってファッションや音楽に興味を持つようになってからだ。アメリカの匂いを芳しく感じるようになった私は、やっとの思いで手に入れたボタンダウンシャツやコットンパンツ、チェリーブラウンのローファーは焼き魚定食とあまり相性がよろしくないのではないかと生意気なことを考えるようになった。ハンバーガーとコークの方がカッコイイと思うようになったのだ。
明るく開放的な雰囲気のアメリカン・スタイルのダイナーが当時のお洒落を気取った若者が集まる場所で、原宿のコープ・オリンピアにあったダイネット・オリンピアが一番人気だった。そこのカウンターに座ってスプレッド・バーガーやサブマリン・サンドイッチを食べ、チェリーコークを飲むことがカッコイイと思っていた。要するに私がパン食にシフトしたのは味というよりもカッコづけのためだった。
今思うとかなり恥ずかしいが、当時のダイナーのハンバーガーは甘酸っぱい思い出によって美化されている。“記憶の中の味”という点を割り引いても昨今のチェーン店のものより上等だったと思う。少なくともモロにアメリカだった。私とお米の付き合いは“精神”から、パンとの付き合いは“ファッション”から始まった。
サンドイッチといえば、レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』の中でフィリップ・マーロウが遅い昼食をとる場面が好きだ。
「私は階下のドラッグ・ストアへ行ってチキン・サラダ・サンドイッチを食べ、コーヒーを飲んだ。コーヒーは煮詰まっていて、サンドイッチは古いシャツを引きちぎったような強い匂いがした。アメリカ人は、トーストされていて、2本の楊枝がささっていて、レタスがはみ出しているものなら、なんでも食べる。そのレタスも少々しおれているくらいがいい」
大きな背中を少し丸めて不味いサンドイッチを黙々と煮詰まったコーヒーで流し込むマーロウの孤独と疲労感が漂ってくる。まったく食欲をそそらない内容だが、この文章を思うと無性にサンドイッチが食いたくなる時がある。それは、心のどこかで自分が少しばかりナルシスティックに“孤独”を欲している時かもしれない。
そんな時、私なら少し固くなったバゲットに生ハムを挟んだだけのサンドイッチを選ぶだろう。孤独を嚙みしめるように固いパンとハムを嚙みしめる……そんな感じだ。この感覚はご飯にはないもので、私にとってご飯は“掻っ込む”ものだ。映画『悪名』シリーズの一作で勝新太郎はライス・カレーを4口ぐらいで平らげる。まさに「カレーは飲み物だ」を実践していた。『トラック野郎』シリーズで菅原文太は焼きたての目刺しを丼飯にのせて猛烈な勢いで掻っ込んでみせる。
そんな食い方は下品極まりないと思われる方も多いだろうが私は好きだ。時々、家でそういうふうに食ってみる。それがうまいと感じられれば、まだ活力というものがあると信じられる。一方で、片手でナイフを器用に操りながらバゲットを切り取り、ゆっくりと口に運んでしかめっ面で嚙みしめるジャン・ギャバンも素敵だ!いずれにせよ炭水化物は素晴らしい。
さて、明日の朝は飯倉片町のメゾン・ランドゥメンヌのバゲットにするか、それとも一寸奮発して買った丸赤の鯵の干物でご飯にするか……悩ましいところだ。
(記事引用)