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2016年12月

上り列車の英雄”田中角栄はなぜ多くの人を惹きつけたのか?
どんな相手にも絶対に勝とうとする激烈な闘争心と、ライバルや敗者までをも包み込むような優しさ──。
今年ブームとなった田中角栄のエピソードを、元秘書・早坂茂三氏の著作から引く。
文・東洋経済新報社 出版局 2016年12月18日
いま「田中角栄ブーム」といわれる。テレビや雑誌などで次々と“角栄特集”が組まれているほか、関連書も続々と刊行されている。田中氏の名言集や評伝などベストセラーになっているものも多い。

こうした“角栄本”の「ネタ元」といわれるのが、元秘書・早坂茂三氏(2004年逝去)の数々の著書である。早坂氏は、田中氏が病に倒れるまでの23年間、敏腕秘書として苦楽をともにした。最近の角栄ブームが追い風となって著書が続々と復刻されており、最後の書き下ろし『田中角栄と河井継之助、山本五十六』(旧題『怨念の系譜』)もこのたび復刊された。
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この「角栄をもっともよく知る男」が語り遺した貴重な証言を、前回に引き続き『新・渡る世間の裏話』から抜粋して公開する。

闘争心と優しさのバランス

私があの人(田中角栄)を見て、いつも思ってきたのは、闘争心の塊であったことです。負けてたまるか。やっぱり、男は強くなければ生きていけない、とつくづく思いました。

もうひとつ、あの人は縄文人というか、心の底から温かい、優しい人であった。強さと優しさ、この2つを絶妙のバランスで持っていたのが田中角栄であったと思います。彼は立場の弱い人に威張ったり、鼻であしらうことをしなかった。だから、大勢の人が周りに集まったんでしょう。

それと、あの人はゴルフが大好きだった。照る日、曇る日、雨の日と言わず、本当によくやりました。普通の人はコースに出ると、たいてい、ワンラウンドやるんですが、角栄さんは最低でツーラウンドでした。1日で2里(約8キロ)か3里(約12キロ)も歩く勘定になります。走るように歩く人でした。

ある時、私と2人だけでやりましてね。私がまぐれ当たりでショートホールのグリーンの端っこにボールが乗ったら、自分が今まで1度も使ったことのないクラブを持って振り抜いた。すると、このボールがグリーンの旗が立っている穴の下2メートルぐらいにつけたんです。ワン・オン。ナイス・オンです。それを見て、10年以上も親方専門についているキャディさんがびっくりした。「あれ、乗った!」なんて叫んだ。そうしたら、私たちのほうを振り向いて、ニーッと笑いましてね。顔もポロシャツも首筋も汗がだらだら流れているのを拭こうともせず、走るように歩いていきました。

私がその後ろ姿を見て思ったのは、すさまじい闘争心です。自分より12も歳下でゴルフを始めて間もない下手くそがワン・オンした。「あいつに負けてたまるか。俺が負けるはずはない」。そう思ったのかどうか、それまで手にしたこともないクラブを持って、軽く2、3回、素振りをして見事に私をねじ伏せた。

この闘争心こそ貧しい家に生まれ育って、小学校高等科しか出ていない男を戦後日本の異能政治家、天下人にさせたエネルギーであったと思います。

もうひとつ、私は田中を「かわいいな」と思った。このプレーをしたのは、昭和59(1984)年の8月で親方が倒れる半年前でした。時に66歳。そのオッサンが家来に負けてたまるか、とムキになった。

稚気(ちき)愛すべし。この憎めない人柄が面倒見のよさを手伝って、周りに人垣をつくらせたと思います。懐が浅くて、脇の固い人間には他人様は寄ってきません。

飾らなさが人を惹きつける

あの人については、いろんなことを思い出しますけど、食べ物にまつわる面白いエピソードがたくさんあります。

たとえば昔、自民党の実力者だった保利(ほり)茂さんが亡くなって、選挙区の佐賀県唐津で胸像の除幕式があり、私が親方のお供をしました。

式が終わったあと、200年という歴史を持つ料理屋さんに田中が招かれましてね。県知事をはじめ、市長さんとか、保利さんの未亡人、ご令息の耕輔(こうすけ)さんとか、みんなで10人ぐらいの方が集まって歓待してもらいました。

立派な座敷に座ったら、大きなテーブルの上に見事な伊万里焼の大きな器が置かれていた。水が満々と張られて、白魚(しろうお)がぴちゃ、ぴちゃ、水を跳ね散らし、数えきれないほど泳いでいる。それを見た角栄さんが感心した。

「ほう、これは何と見事なもんだ。メダカですか」

このセリフに満座がドッと沸きました。がっくりしたお内儀(かみ)さんが、

「ご冗談ばっかり、先生、白魚ですよ」

「はあ、これが白魚か。わしは初めて見たもんで、びっくりした。どうやって食べるの」

「生のままピチピチ跳ねているのをお箸でつまんで、ちょいと酢醤油をつけて、口の中に放り込むんです。喉を通るときの感触が、とてもよろしいんですよ」

お内儀さんの話を聞いて、田中が絵にも描けない顔になりました。角栄さんは生ガキ、エビの踊り食いが鬼門です。生臭いのは一切ダメ。寿司も卵焼き、カンピョウ巻きが大好きで、生ものは赤身、ヒラメ、鯛がせいぜいです。

「悪いけど、わしは卵とじにしてくれないか。早坂は生きたのが好きだから、彼がたくさんいただきます」

真顔で言うもんですから、座敷がまた、笑いに包まれました。私は少し恥ずかしかったけど、そうしたセリフを何のてらいもなく言ってのける角栄さんは、やっぱり人さんを惹きつけるだろう、これでいいんだ、そう思いました。

「メシは早く食うもんだ」

昭和38(1963)年11月の総選挙で主従二人、当時の新潟三区を車で走り回ったことがあります。

大蔵大臣閣下と私の昼飯は握り飯でした。今はもう亡くなられた田中のお母さんが、生まれたての赤ちゃんの頭ほどもある大きなお握りに海苔をびっしり巻いたのを二つ用意してくれて、車の中で食べるのです。

「腹が減った。もう昼だろう。ばあさんが持たせた握り飯を出せ」

田中は朝昼晩、時分どきになると、メシをしっかり食べます。

あの人は口が大きい。私は口が小さくて、親分の半分しかありません。

「メシは早く食うもんだ。お前のようにノソノソ食ってると、戦争になったらいちばん先に殺されるぞ」

お握りにかぶりついたら、皮付き骨つきの塩鮭が一切れ、丸ごと入っていた。車の隣の大将が上手に骨を取り出して、一本ずつ丹念にしゃぶるんです。

「うまいなあ。うまいだろう」と家来に賛同を強要した。私は函館出身ですから塩鮭なんか珍しくも何でもない。だけど、腹が減っていたし、親方のスピードに追いつくため、二、三度、大きくうなずいて、黙々と食べました。

「選挙になって、料理屋に上がってふんぞり返って、昼から刺身だ、天ぷらだ、と言っている奴は必ず落ちる。選挙のときは握り飯に限る。昔から戦(いくさ)に握り飯は付きものだ」

食後の番茶を飲んで元気いっぱいな親方が、上機嫌で私に言ったのを覚えています。

自分を叩くマスコミもかばう

それと、田中と言えばやっぱりロッキード事件。6年9カ月、196回。皇居のお堀端にある東京地方裁判所に通いました。角栄さんは律儀な人で、熱が40度も超す風邪を引いた時も休まない。私は「弁護士に連絡して休みましょう」と繰り返し勧めたけど、「まあ、いいじゃないか、お上(かみ)の決めたことだ、行こう」。昔の小学校なら皆勤賞を貰ったところです。

事件が始まったあと、東京・目白台の田中邸は、カメラの脚立が林立し、報道陣2、300人に取り囲まれた。スポークスマンの私は精いっぱい、彼らの質問に答えたつもりですが、連中は私の話など上の空で、思い入れと偏見、独断にあふれた記事を洪水のように流した。私も頭にきて、いつも怒鳴りつけていた。そしたら、オヤジさんが私に言いましたよ。

「怒鳴るな。連中も俺のところに来たくて来るんじゃない。仕事で来るんだ。カメラマンは俺の写真、面白い顔をしたのをぱんと撮らなきゃ、社へ帰ってデスクに怒られるぞ。新聞記者だって、お前から無愛想に扱われ、つっけんどんけんやられて、俺が目白の奥で何をしゃべっているか、それも聞くことができないで記事に書けなけりゃあ、社に戻ってぶっ飛ばされるぞ。彼らも商売なんだ。少しは愛想よくしてやれ」

私はあの人の顔を見ましたよ。これだけすりこ木にかけられて、何でこの連中にそれだけサービスすることがある。だけど、それが角栄さんという人であったと思います。

上り列車の英雄

戦後の日本政治に一時期を画した田中政治については、平成5(1993)年に大将が亡くなって、論評が洪水のように流れました。功績四分、罪六分、これが一般的な受けとめ方だと思います。それはそれでいい。政治家の評価というのは、死後30年から40年、50年もたって、後の世の歴史家が過不足のない、きちんとした、客観的な評価を下すものでしょう。それでいい。

ただ私は今、改めて思っている。角栄さんが死んで戦後日本は終わった。上り列車の英雄の時代に幕が下りた。行儀は悪いけど、ここいちばんという時、頼りになる隣のオジさんがいなくなりました。全軍の先頭に立って、さあ、前進しよう、それでみんながワクワクして、一緒に動き出す、そういう時代は、田中が去って終わったと思います。

悪党と言えば悪党、それがいなくなりました。これからは真面目で善意だけど、気が小さくて度胸なし、小理屈は達者でも決断、実行、情熱の乏しい人たちがあふれるだろう、角さんのような人が再び出てくるのは難しい世の中になった。そう思います。
(記事引用)






 
朝食が好きな理由〜炊きたてのご飯か狐色のトーストか
河毛俊作 、 2016-12-21gqjapanコラム
主役は何と言っても炊きたての白く輝く、つやつや、ふっくらとしたご飯。洋食ならば……。
演出家による文と、写真家によるビジュアルが織りなす大人のエッセイ。
文: 河毛俊作
写真: 操上和美
朝めしに花を喰らいて二日酔い。(2016.10.25 操上和美)
私は1日の食事のうちで朝食を一番重視している。空腹を覚えて目覚め、
歯を磨き、トゥルフィット・アンド・ヒルのシェーヴィング・ソープを泡立ててゆっくりと髭を剃り、さっぱりしてから朝の澄んだ空気の中で暫し犬を散歩させてから朝食のテーブルに着く時、「ああ、本当に自分は幸せなんだなぁ」と実感して神に感謝する。

丁寧に出汁を引いた熱々の味噌汁、具は絹でも木綿でもよいが、豆腐が一番好きだ。辛子を利かせてたっぷりの刻みネギを添えた納豆、季節のお漬け物、パリパリの香り高い焼き海苔、そして主役は何と言っても炊きたての白く輝く、つやつや、ふっくらとしたご飯。洋食ならばトマトジュースにオーバーイージーに焼いた目玉焼きに、あまりカリカリにしないベーコンかボイルしたソーセージを添える。そしてこんがりと狐色に焼け、香ばしい匂いを漂わせるトースト。エシレのバターと美味しいマーマレードがあれば最高だ。勿論、パンの場合はクロワッサンやバゲットなど選択肢も増える。そこがパンの強みだ。

私が朝食を好きな理由の一つは、ご飯やパンが主役であるという点だ。ディナーではそうはいかない。私は無類の炭水化物好きで、ご飯やパンが主役を張れる朝食が好きなのだ。だからたまに高級旅館に泊まって朝からズラリとご馳走が並ぶと、ご飯の“主役感”が減ってしまって少し悲しい気持ちになる。

幼い頃にお米の大切さを祖母から徹底的に叩き込まれた。私がお米を粗末に扱うと、祖母は、昔は貧しい家では白米を日常的に食べることはできず、家族の誰かが重い病気になると、竹筒にお米を入れて病人の枕元でその竹筒を振り、サラサラとお米が擦れ合う音を聞かせ、元気になったらこのお米を炊いて食べさせるから頑張れ、と励ましたという話をした。幼いながらお米は日本人の“生きたい”という欲望に直結した大切なものなのだと感じたものだ。

そう遠くない昔、多くの日本人にとって白米を好きなだけ食べられるということは、かなり幸福なことだった。

だからと言うのも何だが、私は糖質ダイエットなど思いもよらない。現代人は、人類の生命をここまで支えてきた炭水化物に対する感謝の気持ちが足りないと地味に憤慨している今日この頃だ。

人生の早い時期からお米とは幸福な関係を築けたが、パンとはそうはいかなかった。それは多分、当時の学校給食によるところが大きい。パサパサで味のないパンに質の悪いマーガリン、そして悪名高い脱脂粉乳……あれでパン食に対する悪いイメージが自分の脳内に固定化されたと勝手に思っている。

次のページ私とお米の付き合いは“精神”から、パンとの付き合いは“ファッション”から始まった

そんなパンのイメージに変化が訪れたのは中学生になってファッションや音楽に興味を持つようになってからだ。アメリカの匂いを芳しく感じるようになった私は、やっとの思いで手に入れたボタンダウンシャツやコットンパンツ、チェリーブラウンのローファーは焼き魚定食とあまり相性がよろしくないのではないかと生意気なことを考えるようになった。ハンバーガーとコークの方がカッコイイと思うようになったのだ。

明るく開放的な雰囲気のアメリカン・スタイルのダイナーが当時のお洒落を気取った若者が集まる場所で、原宿のコープ・オリンピアにあったダイネット・オリンピアが一番人気だった。そこのカウンターに座ってスプレッド・バーガーやサブマリン・サンドイッチを食べ、チェリーコークを飲むことがカッコイイと思っていた。要するに私がパン食にシフトしたのは味というよりもカッコづけのためだった。

今思うとかなり恥ずかしいが、当時のダイナーのハンバーガーは甘酸っぱい思い出によって美化されている。“記憶の中の味”という点を割り引いても昨今のチェーン店のものより上等だったと思う。少なくともモロにアメリカだった。私とお米の付き合いは“精神”から、パンとの付き合いは“ファッション”から始まった。

サンドイッチといえば、レイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』の中でフィリップ・マーロウが遅い昼食をとる場面が好きだ。

「私は階下のドラッグ・ストアへ行ってチキン・サラダ・サンドイッチを食べ、コーヒーを飲んだ。コーヒーは煮詰まっていて、サンドイッチは古いシャツを引きちぎったような強い匂いがした。アメリカ人は、トーストされていて、2本の楊枝がささっていて、レタスがはみ出しているものなら、なんでも食べる。そのレタスも少々しおれているくらいがいい」

大きな背中を少し丸めて不味いサンドイッチを黙々と煮詰まったコーヒーで流し込むマーロウの孤独と疲労感が漂ってくる。まったく食欲をそそらない内容だが、この文章を思うと無性にサンドイッチが食いたくなる時がある。それは、心のどこかで自分が少しばかりナルシスティックに“孤独”を欲している時かもしれない。

そんな時、私なら少し固くなったバゲットに生ハムを挟んだだけのサンドイッチを選ぶだろう。孤独を嚙みしめるように固いパンとハムを嚙みしめる……そんな感じだ。この感覚はご飯にはないもので、私にとってご飯は“掻っ込む”ものだ。映画『悪名』シリーズの一作で勝新太郎はライス・カレーを4口ぐらいで平らげる。まさに「カレーは飲み物だ」を実践していた。『トラック野郎』シリーズで菅原文太は焼きたての目刺しを丼飯にのせて猛烈な勢いで掻っ込んでみせる。

そんな食い方は下品極まりないと思われる方も多いだろうが私は好きだ。時々、家でそういうふうに食ってみる。それがうまいと感じられれば、まだ活力というものがあると信じられる。一方で、片手でナイフを器用に操りながらバゲットを切り取り、ゆっくりと口に運んでしかめっ面で嚙みしめるジャン・ギャバンも素敵だ!いずれにせよ炭水化物は素晴らしい。

さて、明日の朝は飯倉片町のメゾン・ランドゥメンヌのバゲットにするか、それとも一寸奮発して買った丸赤の鯵の干物でご飯にするか……悩ましいところだ。
(記事引用)


 



ホッチキス針、外す必要ない?
「古紙再生で支障なし」箱の記載に驚きの声 メーカーや製紙会社に聞く
 2016年12月14日 7時0分 withnews http://news.livedoor.com/article/detail/12413169/
「ホッチキス針は古紙再生工程で支障ありません」。針が入った箱の裏面に書かれたこの一文が、ツイッター上で注目を集めています。「取らなくてもよかったんか……」「ショックすぎて言葉を失いました」などと、これまで外していた人たちを中心に驚きの声が上がっているのです。本当に外す必要はないのでしょうか? ホッチキス針のメーカーや、再生紙を製造している製紙会社に話を聞きました。(withnews・若松真平)

【画像】「支障ありません」の記載はこちら。裏カーボン紙・感熱紙など「古紙に混ぜてはいけない紙」一覧も

ホッチキスのメーカーに聞きました
 ホッチキス本体や針の大手メーカー「マックス」(東京都中央区)。1000本入りの箱の裏面を見ると、「ホッチキス針は古紙再生工程で支障ありません」の文字が書かれています。

 今月9日、この文字を写した画像がツイッターに投稿されると「俺の今までの苦労はなんだったんだ」「まさか箱に記載されていたなんて」「こんなに重要なことがなぜ周知されてないの」といった驚きの声が上がり、リツイートは6万2千を超えています。

 マックスによると、裏面の記載を始めたのは2001年9月1日出荷分からだといいます。そのきっかけについて、IR・広報セクションの担当者は、こう説明します。

 「ホッチキス針程度の金属であれば、古紙再生の過程において支障がないのですが、当時実施したアンケートによると、約8割の方が『ホッチキス針は古紙再生の過程で支障がないことを知らない』という結果が出ました。針を外す手間がかかることが原因で廃棄されていた書類などの紙資源がリサイクルに回ることによって、古紙再生が促進されることを期待して、メッセージを記載しました」
製紙会社に聞きました
 マックス製の針だけが特別なのでしょうか? この点については「弊社のホッチキス針が特別というわけではありません。弊社で訪問した製紙工場では、『古紙再生リサイクルに支障がない』ことを確認しておりますが、製紙工場の設備によっては条件が異なる場合もあります」とのことでした。

 実際に再生紙を製造している王子製紙と日本製紙に聞いたところ、「再生紙を製造する過程で除去する工程があるので、そのままでも問題ありません。しかし、できる限り外していただいた方がありがたいです」との回答でした。

 再生過程では、水とともに古紙を溶きほぐして繊維状にし、除去装置を複数組み合わせて、異物やインク粒子などを取り除いているそうです。除去作業の負担を軽くし、再生紙に混入する可能性をなくす意味で「できる限り外してほしい」としているそうです。
ホッチキス針だけじゃない
 一方、公益財団法人・古紙再生促進センターは「再生紙を作る工場の設備によっては除去できない可能性もあります。やはりホッチキス針は外してほしい」としています。

 多くの場合は支障がないようですが、外しておいた方がリサイクルが確実になり、再生過程での負担が減ることから、「できるだけ外した方がよい」というのが正解のようです。

 ある古紙回収業者はこう話します。「ホッチキス針を外す、外さないがこれだけ注目されるということは、みなさんのリサイクルに対する意識がそれだけ高いということの表れなんだと感じます。でも、古紙に混ぜられると困るものが他にも多くあるので、そのへんにも注目してもらいたいですね」

 古紙再生促進センターのホームページでは、「粘着物のついた封筒」「裏カーボン紙」「感熱紙」などが混ざると「紙を作る上で重大な障害が起こります」として注意を呼びかけています。

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「透けない白衣」中小企業が開発 特許も取得、一方で嫌がらせ電話も
  若松 真平 withnews編集部2016年12月12日
東京都内の中小企業が「透けない白衣」を開発しました。「どんな下着の色や柄も透けなくすることができる」とうたっていて、生地を分厚くするのではなく、白衣生地と裏地の色の組み合わせで透けない仕組みで、特許も取得しています。その技術や開発の経緯について、話を聞きました。
作ったのは「大真」
 透けない白衣を販売しているのは、東京都千代田区にある「大真(たいしん)」です。企業や事業所向けユニフォームの製造企画や販売を手がけています。

 商品名は、ストレートに「裏地付透けない白衣」。ワンピースタイプ、ジャケット、パンツの3種類があり、価格はいずれも税込みで14904円、12744円、9504円です。通常商品より2割ほど高く、ラインナップは女性用のみ。男性用は現在開発中だそうです。

 「どんな下着の色や柄も透けなくすることができる」と話すのは、開発に関わった営業担当の西原成幸さん(49)です。


水に濡れても生地が伸びても透けないそうです

水に濡れても生地が伸びても透けないそうです

 開発のきっかけは、市場の縮小でした。「最後までユニフォームが残るところはどこかと考え、病院だという結論になりました。そこでオリジナリティーのある白衣を作ることになったんです」と西原さん。

 他社製で「透けにくい」とうたう商品が多くあるなか、「透けない」と言い切れるものを目指しました。

 素材を厚くすれば透けなくできます。しかし、動きにくくなるため、白衣としての機能性を損ねてしまいます。

 一般財団法人「日本色彩研究所」から色彩指導者の認定を受けている西原さんが考えたのは、新しい素材探しではなく、「既存の白衣の生地と、既存の裏地の色の組み合わせ」で透けないようにする仕組みでした。

特許も取得

 色の三属性である「色相」「明度」「彩度」について研究して試すうちに、裏地の明度をあるラインより暗くすれば透けないことを数値で示すことに成功しました。

 「じゃあ、裏地を黒にすればいいと思った方もいるかもしれませんが、それだと白衣の下に裏地があることが見えてしまいます。白衣の側から見て裏地の存在もわからず、下着も透けない明度を探し出したんです」

 白衣に関するこの手法について、親会社の名義で特許も取得しました。

白衣の生地と裏地の組み合わせで「透けない」を実現
出典: 大真提供
でも「数えるほどしか売れていない」

 実はこの商品、昨年8月から販売していますが「数えるほどしか売れていない」(西原さん)のが実情です。

 ところが今年6月、東京都中小企業振興公社の「ニューマーケット開拓支援事業」の対象製品に選ばれたことを受けて、ニュースリリースを出したところ、ネットを中心に「下着が透けない白衣は助かる」「女性の視点から見たらこれは切実だったんじゃないか?」と話題になりました。

 一方で、「素晴らしい技術なんだけど男からしたら……」といった意見も上がっており、大真に対して「こんなもの作るな」と怒鳴る電話や、無言電話もかかってきたそうです。

 西原さんは「需要のある商品で自信もあります。モニターとして試すことも可能なので、お気軽にお問い合わせください」と話しています。
(記事引用)

大麻と麻の区別 古代繊維としての「アサ」
医療大麻を考える会
「縄文人の植物利用」 (2013年 新泉社)には、縄文時代にアサ(大麻)が繊維植物として栽培されていたことが書かれている。縄文人といえば、狩猟・漁猟と単純な野生植物の 採集が中心の時代で、それより文化度の高い弥生時代になって稲作などの栽培技術がすすんだと考えられてきた。しかし、最近の考古学の技術的進歩により、縄 文後期の下宅部遺跡(しもやけべいせき:約3700年前 現・東村山市)には、藍、栗、漆(うるし)などとともに、麻が栽培されていたことがわかってき た。遺跡の復元イラストは、当時の生活が偲ばれて、楽しい気分になる。ページ中央(画像)に「アサ」畑がみえる。
  遺跡から発見された麻の種のDNA解析をするにあたり、現在日本の大麻取締法が障害になったそうだ。
 
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  それより時代が下った奈良・平安時代の万葉集には、30首以上の麻にまつわる歌が掲載されている。
 
  「万葉植物事典」(1995年 北隆館)から
 
  ○ 庭に立つ麻手(あさで)刈り干し布さらす
       東女(あずまおみな)を忘れたまふな
   (刈って庭先に立てて並べて干してある麻の、あの皮を剥いで水で晒して白くする、こんな仕事をしているこの東国の女を忘れないでください)
 
  ○ 娘子(おとめ)らが続麻(うみを)のたたり打ち麻(そ)掛け
       うむ時なしに恋ひわたるかも
    (続麻は紡いだ麻糸、たたりは糸をよる時に使う道具で、台の上に一本棒を立て一組としたものである。打ち麻は木づちで打って柔らかくした麻の繊維。三 句までは「うむ時」の序。続(う)むと倦むとを掛けたもの。いやになる時もなく、いつも恋しく思いつづけていますという意味)。 すばらしい言語感覚。ど こかの国の単細胞の首相に聞かせてやりたい。
 
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  「植物世相史―古代から現代まで」(1971年 社会思想社)
 
   万葉集以外にも、古事記、日本書紀、常陸風土記、古今集、枕草子、方丈記、徒然草などにも麻が登場し、生活に欠かせない繊維植物として扱われている。江 戸時代の俳人芭蕉、一茶の俳句には、意外にも登場していないが、惟然(いぜん)には「ゆり出だす緑の波や麻の風」とあり、季語は夏。栃木県で見た風にそよ ぐ麻畑が眼に浮かぶ。
   諺(ことわざ)では、「麻の中の蓬(よもぎ)」があり、《「荀子」勧学の「蓬麻中に生ずれば扶(たす)けざるも直し」から》蓬のように曲がりやすいもの でも、まっすぐな性質の麻の中に入って育てば曲がらずに伸びる。人は善良な人と交われば自然に感化を受け、だれでも善人になるというたとえ。「麻につるる 蓬(よもぎ)」も同意。
 
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縄文と古代文明
●古代の日本と大麻
日本人と大麻の関係は縄文時代までさかのぼる。福井県の鳥浜遺跡という10000年前の縄文時代の遺跡からは、大麻の種が発見されている。食料や燃料に利用されたようだ。トルコの遺跡から5000年前の大麻の布が出土されているが、それよりさらに古く、世界最古と言えるだろう。
縄文時代は土器に縄を押しつけて模様(縄文)としたのだが、その縄も大麻の縄だった。大麻は植物繊維の中で最も長く、しかも強い。もし大麻の布がなければ、縄文の人々は寒さ厳しい冬を越せなかったかもしれない。大麻は我々の祖先の肌を暖かく包み、守ってきたのである。
奈良時代には、税金を大麻の布か絹で支払うこともできた。大麻は絹と同じくらい非常に貴重な産品として扱われていたのだ。奈良時代や平安時代には、大麻の畑があちらこちらにあって、万葉集には20首以上もある。
日本には「麻」の字がつく地名が多いが、この頃に付けられたものも多いだろう。麻の生えないところに、麻の地名がつくわけがないし、地名というのは1OOO年間で数%しか変わらないからである。「麻布(あざぶ)」「美麻」「麻植」などのほか、「大麻」というそのものずばりの地名も多い。人名でも「麻田」「麻生」という姓や、最近でも「麻実」「麻里」「麻子」などという名前をつけるひとは多い。しかし決して「麻薬」の麻ではない。素朴で素直といういいイメージが大麻にはあるのだ。

 縄文時代、何故土器に大麻の縄の模様をつけたかについては又の機会に考察していきます!

●日本人は大麻を神聖な植物として愛してきた
日本人は大麻には悪を祓う力があると感じてきた。神社のお祓いで、神主が振る大幣には大麻の繊維が使われている。秋の収穫の祭りにかつぐ神輿(みこし)の上にも、大麻の繊維が垂らされている。「大麻神社」という名前の神社も、日本には数十ある。大麻がなければ日本固有の宗教である神道は存在できない。
神社にいくと細長いたんざくのような紙に「神宮大麻」などと書かれたものを、お守りとして売っている。「麻薬の大麻とは関係ありません」と神社は言うがそんなことはない。確かに中には何も入っていない。しかし以前は大麻の穂や葉が実際に入っていたのである。腰につけるお守りのなかにも本物の葉っぱが入っていたそうだ。
山にこもって修行する山伏の修験道にとっても大麻は欠かせない。彼らが小屋にこもって祈りながら焚く「護摩(ごま)」は、もともとは大麻だったようである。大麻の煙は、彼らに意識変容をもたらし、宇宙の神秘を悟るのに役にたったに違いない。

 縄文時代も大麻のもつ神秘的な力について、認識していた可能性が高いですね。これについても又の機会に考察していきます!

●日本人は生まれてから死ぬまで、大麻のお世話になった
正確にはオギャーと生まれる以前から、日本人は大麻のお世話になった。というのは母親が子供を産むときの痛みを緩和するために、大麻の葉を食べさせることがあったからである。無事、生まれたら、神社にいって丈夫に育つように祈祷を受ける。このときに大麻の茎の繊維が使われる。
生まれて初めて着せる衣服(産着=うぶぎ)には、必ず大麻の葉の模様が入っている。これも赤ちゃんが病気をせずにすくすく育つようにという願いがこめられているのだ。子供があげる凧やコマの糸は丈夫な大麻製である。

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江戸時代の農民の衣服はほとんどが大麻の布だったし、武士も裃(かみしも)は大麻の布で作った。下駄のはなおも切れない大麻の紐だし、草履や座布団も大麻の布が使われた。女性の和服には麻の葉模様があしらわれたものが多い。また、家紋に大麻の葉を使ったものが非常に多いのも、日本人と大麻の関係の深さを物語っている。
大麻の実は七味唐辛子、つくね、がんもどき、ふりかけ、お粥などとして食べられてきた。長野県では「麻味噌」「麻の実の野菜煮」、島根県では「鯵のこはだ」「飛龍頭」、愛媛県では「ひろす」「いずみや」、大阪では「いなりずし」などとして食べられ、日本全国で郷土食として食べられてきたことがわかる。
麻の葉をおひたしにして食べていた地方もある。大麻は八穀(米、麦、大豆など)のひとつに数えられている。大麻は大豆より栄養価が高く、タンパク質や必須脂肪酸も豊富だ。外国でも飢饒のときは大麻の種がこぞって食べられたが、日本でも同じだったに違いない。
大麻の油は食用や燃料として利用された。日本の伝統文化の代表である相撲の横綱の化粧回しや、弓の弦も大麻製である。また夏の夜空を染める打ち上げ花火には、色を鮮やかにするために大麻の粉が混ぜられている。

 これほどまでに大麻が多岐にわたって役に立っていたとは驚きです。特に出産時の痛み止めとして利用していたのは驚きです。これも縄文時代からの伝統の可能性が高いのでは?と考えています。また大麻って食べられるんですね~知ってました?

●大麻は副作用の少ない伝統薬だ
忘れてならないのは薬としての利用である。大正14年に発行された「不思議によく利く薬草薬木速治療法」という本には、「大麻の葉を煙草にまぜて吸えば、喘息に特効あるのみならず、鎮痛・鎮痙および催眠剤ともなる」と書かれている。実際、昭和初期まで大麻煙草は喘息用に薬局で売られていた。

中国では1000年以上前の漢方薬の処方(本草綱目など)で、痛み止めや食欲増進、皮膚病、便秘などに効果があると書かれている。大麻は副作用の少ない安全な薬として、大昔から生活のなかで利用されてきたのである。
最近、欧米で大麻が末期ガンや慢性の痛みに効果があるとして、医療目的の使用が合法化されはじめたが、東洋では大昔からの庶民の知恵だったのである。注目すべきは大麻にはほとんど禁忌がないことである。

夾竹桃(きょうちくとう)や櫨(はぜ)の木にはかぶれるので触るなとか、彼岸花やとりかぶとの根やアジサイの葉には毒があるので、触った手でものを食べるななど、民間薬にはしてはならない注意がある。
しかし、大麻にはそれが見当たらない。ということは大麻にはほとんど毒性や危険性がないということだ。それも長い歴史と経験を通して知った庶民の知恵である。

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