不動産王の「壁作り」はなぜ支持されたのか?──内田樹の凱風時事問答舘 2017-01-29
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「これで日本も安心だ」
Author: 内田樹 Tag: コラム 、 国際政治 、 内田樹の凱風時事問答舘
構成: 今尾直樹 写真: 山下亮一(ポートレート)
イラスト: しりあがり寿
大方の予想を裏切り、ドナルド・トランプが第45代アメリカ合衆国大統領に決定しました。これについて、内田先生はどういう感想をお持ちでしょうか。

アンチ・グローバリズム

あちこちに書いたので、同じことの繰り返しになるんですけれど、歴史的な大きな文脈としてはイギリスのEU離脱、ヨーロッパ各国の極右勢力の伸長と同じ政治史的文脈の中に位置づけられる出来事だと思います。ただ、トランプのケースで際立つのは、「アンチ・グローバリズム」がアメリカで大衆的な人気を得たという点です。

この四半世紀、経済のグローバル化が急激に進行しました。それによって、従来の国民国家の枠組みが破壊された。ボーダーコントロールがなくなり、言語も通貨も度量衡も統一され、障壁がなくなってフラット化した世界市場を超高速で資本・商品・情報・ヒトが往来することになった。壊れたのは経済障壁だけじゃありません。それぞれの国民国家が自分たちの帰属する集団に対して抱いていた民族的アイデンティティーも破壊された。

グローバル化はそれ以外には経済成長の手立てがなくなったためにやむなく選ばれた道なんで、グローバル化の果てに何が起きるかについて見通しがあったわけじゃない。グローバル化しないと当期の売り上げが立たないという目先の損得で突っ走ってきただけです。でも、経済成長の条件がない環境の下で、無理強いに経済活動を加速してきたわけですから、いずれ限度を超える。現在の株取引は人間ではなく、アルゴリズムが1000分の1秒単位で行っています。金融経済については、もう変化のスピードが生物の受認限界を超えています。自分たちが何をしているのか、プレイヤー自身がもうわからなくなってしまった。昨日たまたま『マネーモンスター』というジョージ・クルーニー主演の映画を借りて観ていたんですけれども、株売買のアルゴリズムが暴走して、一夜にしてある企業の株価が暴落して、多くの投資家が大損害したというところから話が始まる。企業の広報担当がメディアに責め立てられるんだけれど、「どうしてかわかりません。機械が勝手に暴走しちゃったんですから」と言う他ない。誰も説明できない、誰も責任をとらない。暴落で全財産を失った若者が怒りの持って行き場がないので、この株を勧めたテレビの投資番組のキャスターに銃を突き付けて「いったい何が起きているのか、教えろ」と脅迫する……という話です。映画自体はどうということないんですけれど、株式市場における株価の乱高下には「人間的意味がない」というアメリカ市民の実感をよく映し出していました。

スローダウンしてくれ
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グローバル経済は金融中心です。カネで株を買い、債権を買い、石油を買い、ウランを買う。それらは貨幣の代替品ですから、貨幣で貨幣を買っているに等しい。そうでもしないともう売り買いするものがないのです。経済活動が人間たちの日々の衣食住の欲求を満たすことに限定されれば、どこかで「もう要らない」という飽和点がくる。そうすれば経済成長は止まる。それでは困る。だから人間の生理的欲求と無関係なレベルに経済活動の中心を移したのです。それが金融経済です。そこではもう人間的時間が流れない。腹が減ればへたり、寒ければ震え、疲れたら眠り込むという生身の身体の弱さや壊れやすさはもう経済活動のリミッターとしては機能しない。

経済活動が人間の日々の生活とここまで無縁になったことは歴史上ありません。だから、巨大なスケールの経済活動が行われているのだけれど、そこにどういう法則性があり、その成否が人間たちの生活に何をもたらすことになるのか、誰にもわからない。その「意味不明のシステム」が世界の基幹構造になっている。人間たちはそのシステムに最適化することを求められている。自分たちのライフスタイルも、職業選択も、身につけるスキルや知識も、すべてが金融経済ベースで決定される。だから、長期にわたって集中的に努力して身につけた技術が、業態の変化や技術的イノベーションのせいで一夜にして無価値になるというようなことが現に頻発します。これは人間を虚無的にします。

アメリカの「ラスト・ベルト」の労働者たちが経験したのは、まさにその虚無感だと思います。それが「グローバル疲れ」、変化に対する疲労感として噴出した。社会の変化に対して、「もうついていけない。スローダウンしてくれ」というのはアメリカ市民にとって切実な実感だった。オバマの最初の選挙のときのスローガンは「チェンジ」でした。それが8年かけて深い徒労感だけをアメリカ市民に残した。だから、トランプは「元に戻せ」と呼号して熱烈な支持を獲得したのだと思います。

ちょっと立ち止まって考えてみよう

グローバル化に対して「スピードダウンしてくれ」というのは、日本における2015年の安保法制反対の運動にも伏流していたと思います。SEALDsが多くの支持者を得たのは、彼らが掲げた政策の綱領的正しさゆえではなくて、その「穏やかな言葉づかい」や「立場の違う人たちの意見にも黙って耳を傾ける」マナーでした。同じように、15年は世界各地で「リベラルのバックラッシュ」が見られました。イギリス労働党の党首にジェレミー・コービンが選ばれ、スペインでは急進左派ポデモスが躍進し、米大統領選では社会民主主義者バーニー・サンダースが存在感を示し、カナダでは若いジャスティン・トルドー首相が登場した。そうやって見るとリベラル=左派的な流れが際立ったわけですけど、彼らの主張も共通するのは「スローダウン」でした。狂躁的なグローバル化の流れを一回止めて、いったいわれわれはどんなゲームをしているのか、なんのために「こんなこと」をしているのかを、ちょっと立ち止まって考えてみようと提案をした。それは政治思想というよりも「ビヘイビア」についての提案だったように思います。

「民主主義ってなんだ」というのがSEALDsの立てた問いでしたけれど、安倍政権はまさに民主的な手続きを経て誕生した政権です。強行採決だって多数決という民主主義のルールに準拠して行われている。法理的には彼らはみごとに民主主義的にふるまっている。でも、何か違う。民主主義的というのはほんとうは「そういうこと」じゃないだろうと国民の多くが感じていた。でも、それは政治思想としては言葉にならなかった。リベラル・左派の人たちは「民主主義を破壊するな」と言っていましたけれど、安倍晋三は民主主義を破壊なんかしていません。それを巧妙に活用しているだけです。彼ほど民主主義の恩恵をこうむり、その操縦に長けた政治家はいない。だから、彼に向かって「民主主義的にふるまえ」と言っても無駄なんです。「じゃあ、もっとやるぜ」と言うだけですから。そうじゃなくて、僕たちがうんざりしていたのは、その「スピードへの固執」に対してなんです。

なぜ、こんなに急いで次々と重要な国策を決定しなければいけないのか。なぜ議論をしないのか。なぜ「国権の最高機関」での審議を「時間つぶしのセレモニー」だと感じるのか。それは今の与党政治家たちも官僚もビジネスマンも「グローバル化に最高速で最適化する」ことが絶対善であると心の底から信じ切っているからです。

問題は制度そのものにではなく、それを運用するときの「ふるまい」にある。なぜもう少しじっくり時間をかけて、ことの適否について衆知を集めて吟味し、世界の動きをよく観察し、適切な政策的解を一つ一つ決定するという穏やかなふるまい方ができないのか。なぜ「バスに乗り遅れるな」と喚き立て、その「バス」がいったいどこに向かうものかを問題にしないのか。それは安保法案のときも、TPPのときも日本国民みんながひそかに感じていたことだと思います。

まずは君が落ち着け

トランプの主張で際立っていたのはメキシコとの国境に「長城」を作ろうという提案でした。国民国家間のすべての障壁をなくせというのがグローバル経済の要求でしたけれど、それに対する「ノー」でした。それを「保護貿易」というふうに言う人がいますけれど、僕はそれには尽くせないと思う。あれは経済的利益のための政策ではなく、むしろコスモロジカルなものなんです。壁を作って、商品や人間の行き来を止めるという図像にアメリカの有権者が「ほっとした」。そこが重要だと思います。人々は「利益」よりも「安心」を求めたのです。「いいから、この流れをいったん止めてくれ。世界をわかりやすい、見慣れた舞台装置の中でもう一度見させてくれ」というアメリカ市民たちの切望が「Make America great again」というスローガンには込められていた。もちろん、そんなのは一種の思考停止に過ぎません。世界はこの先も彼ら抜きにどんどん変化して行く。でも、取り残されてもいい、思考停止してもいいと思えるくらいにアメリカ人の「グローバル疲れ」は進行していた。その深い疲労感を政治学者たちは過小評価していたと思います。ヒラリーへの支持が弱かったのは、この「グローバル疲れ」という生理的泣訴を投票行動に結びつくファクターになると予測しなかったからでしょう。

これからしばらくは、この「グローバル疲れ」に対する「安心感」を提供できる政治家が世界各国で大衆的な人気を集めることになると僕は予測しています。その最悪のかたちは排外主義です。トランプの成功で「壁の再建」というアイディアが大衆に受けることを世界各地の極右政治家たちは学習した。

アンチ・グローバルが「落ち着け」という一言でわれに帰ることであればよいのですが、おそらく多くの社会では「超高速で壁を再建しなければならない。待ったなしだ。『壁作り』のバスに乗り遅れるな」というかたちで狂躁的なグローバル化の陰画としての狂躁的なアンチ・グローバル化が現象するでしょう。愚かなことですけれど、それくらいに「浮き足立つ」というマナーが深く内面化してしまった。

『シン・ゴジラ』の中の台詞で、僕が知る限りネット上で一番言及されたのは主人公の党内的パートナーである泉(松尾諭)の「まずは君が落ち着け」でした。それだけとれば特別に深い意味のない台詞ですけれど、なぜかこの一言が日本人観客の胸を衝いた。「まずは君が落ち着け」と言われて、はっとした。その自覚が日本人にあるといいんですけれど。
(記事引用)