Galapagos Japas

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2017年03月

「東芝」赤字1兆100億円の衝撃

「東芝」赤字1兆100億円の衝撃・・・
といわれても困ってしまう。何に困るかって、桁の多さ、それを隠し続けた会長社長役(以下監査役付等)の隠蔽体質と、それを知っていたであろう永田町上層級官僚の一蓮托生的体質など、切るにきれぬ、消すにけせない江戸幕府的な官僚機構が、これを隠蔽しそして作り続けた、と邪推している。

個人的にこの世界の人間でない素人の私が云うことだから、信頼に値する、というわけにはいかないが、それでも薩長・徳川「明治維新」を短期間集中的に勉強した。
そしてそれ以降の「新日本」形成にかかわった現在の「財閥」「大企業」といわれる経済界と、戦前戦後処理の軍の陰部と復興に拘わった、それら企業が、「豊洲」問題にみられるように、今日の新事業に思わぬインパクトを与えてしまうような「瑕疵」が地下に埋蔵され、それが死者怨霊がよみがえる様な毒薬物が採掘されるという歴史がひよっこり顔をだす。

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東芝の、その巨額損失と、それがどうリンクするのか、という疑問を抱くことだろうが、正当な遺伝子継承の嫡出子に対して、何らかの理由により「わが子ではない」と否定したところで科学的遺伝子解析をすれば、たちどころにそれは判明する。

それと同様に、東芝の1兆100億円の損出が判明した事実は、昨晩と昨日の話し合いで判ったはなしではなく、江戸時代の「田中 久重」よりスタートしていた、と私は推察する。
※田中 久重 寛政11年9月18日(1799年10月16日) - 明治14年(1881年)1月11日)は、江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれた。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者。田中製作所の設立
寛政11年9月18日(1799年10月16日)、筑後国久留米(現・福岡県久留米市)の鼈甲細工師・田中弥右衛門の長男として生まれた。幼名は儀右衛門。幼い頃から才能を発揮し、五穀神社(久留米市通外町)の祭礼では当時流行していたからくり人形の新しい仕掛けを次々と考案して大評判となり、「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになる。20代に入ると九州各地や大阪・京都・江戸でも興行を行い、各地にその名を知られるようになる。彼の作で現存するからくり人形として有名なものに「弓曳童子」と「文字書き人形」があり、からくり人形の最高傑作といわれている。
(ウイキペディア)

あまり立ち入った話しだから怪訝に思うだろうが、経験談として「東芝」の季節労働に1年間仕事をした経験から発言している。内容はともかくとして、「なるほどそれが土壌か」という思い当たる節はいたるところに散見していた。

また、ちまた世間で囁かれている、大きすぎて潰せない、国家的危機を招く、雇用問題で経済界に与える影響が大きすぎる等々、官僚が云いそうな言い訳が、そこかしこに表出している。

単純に考えて~、単純でなくてもだが、1兆100億円という巨額は、ある1国の国家予算に匹敵するし、(日本の国家予算決定一般会計予算過去最大95兆8823億円)その紙幣をダンプに積載して豊洲勝鬨橋梁を走ったら橋が崩落しそうな重量になる。

それを潰さないようにするには国家予算の中から、引当金項目計上して、それに当てがう、だろう。(あくまで推測でありそんな算段はいまのところどこにもない)

もちろんそれは政治問題化し、与野党攻防議題になるだろうが、国民はどうかというと、これまでの事例からして国に追随してきた。東芝社員(その配下の関連企業多数)の多さからして、否とはいえない事情もある。

そんな諸々を勘案してもなお、東芝役員の「株式総会」でみせた「苦渋の顔」は明日にでも「切腹」しそうな面持ちだが、そこは日本人的表裏使い分けのうまさで、福島「東電」侘び行脚で立証済みである。

これは今日的ニュースである。が、ここに掲示しても明日には忘れ去られる運命だ。それが報道の宿命。

しばらくこの問題を追って日本の企業体質を探ってみたい。昔(40年前)だったら新聞メディアがそれをしていた。いま、まったくやらない。やる以前に新聞が読まれないからだ。

じゃその穴埋めはネットがしているか、と問えば、「烏合の衆」「玉石混交まったくなし」の砂利ばかりで、好き勝手、自分の利益オンリー意見のオンパレードで、読むに値する記事もない。

そうやって「健全」メディアが完成している。よからぬ思想は、そうして排除されるからだ。

※参考にした人物「吉本 隆明」(1924年(大正13年)11月25日 - 2012年(平成24年)3月16日)は、日本の詩人、評論家。東京工業大学電気化学科卒業。学位は学士。東京工業大学世界文明センター特任教授(講義はビデオ出演のみ)。

東芝の経営危機 東芝 企業合併や買収(M&A)
shima 2017 03 30 ・ビジネスニュース
東芝の転落にみる買収ブームの危険性 M&A経営の落とし穴
2017年3月30日 17時0分 まぐまぐニュース!
ジャーナリストの「嶌信彦」氏が買収ブームに警鐘を鳴らした
手っ取り早いM&Aに資金を注ぎ失敗した企業の例は枚挙に暇がないと指摘
努力を強みとしていた農耕民族のDNAを忘れているとした

赤字1兆100億円の衝撃。死に体「東芝」はどこで踏み外したか

東芝は3月29日、巨額の損失を抱え同社の経営を悪化させていた子会社の原子力メーカー・ウエスチングハウス(WH)がアメリカの破産法適用の申請を行った影響で、今年度の決算の最終赤字が1兆100億円になる可能性があると発表しました。我が国を代表する大企業は、どこで道を誤ったのでしょうか。無料メルマガ『ジャーナリスト嶌信彦「時代を読む」』の著者・嶌さんは、東芝の栄光から転落までを振り返るとともに、日本における「買収ブーム」の危険性についても言及しています。

東芝の凋落に何を学ぶか M&A経営の落とし穴
 
東芝の凋落は、産業界だけでなく世間一般にも大きな衝撃を与えている。折り紙つきの超優良企業とみられていても、経営判断のミスからあっという間に転落してしまう事実をまざまざと見せつけたからだ。

東芝といえば、テレビや半導体、重電機、軍事・防衛関連、鉄道車両など家電から重電に至る総合電機メーカーとして、日本を代表する超優良巨大企業だった。1930年代から冷蔵庫、洗濯機、掃除機などの国産化製品を次々と生産、その後も電子レンジ、炊飯器など白物家電など日本人の家庭生活、ライフスタイルを変革する製品を作り、日本の生活文化をリードしてきた企業だった。

その東芝が2015年に明らかになった粉飾決算をきっかけに、一挙に転落への道をたどっている。わずか2年前のことながら、当初は白物家電事業の一部の売却で収拾するとみられていたが、東芝事業の両輪を支える半導体事業、原子力事業にまで及ぶ深刻な経営問題にまで発展してしまったのだ。

発端は2015年決算から
 
不祥事が発覚したのは2015年の決算からだった。決算発表の延期と配当の見送りを決め、第三者委員会が調査報告書を提出したところ、会社で「チャレンジ」と称して架空の売り上げや利益水増しの粉飾が明るみに出た。このため田中久雄社長や前社長の佐々木則夫副会長、さらにその前の西田厚聰元社長ら直近の3社長と経営陣9人が引責辞任し、東芝株は東証によって特設注意市場銘柄に指定されてしまった。まさに、あれよあれよという間に名門東芝は傷だらけの企業になってしまったのである。

2016年になると7,191億円の営業赤字と4,832億円の最終赤字を出すに至り、資金繰りまで苦しくなって3月までに白物家電、医薬品事業、映像事業などを次々に売却、従業員約1万人のリストラにまで及ぶこととなる。

WH買収で底なし沼へ
 
だが、本当に深刻な事態はその後にやってくる。2006年、西田社長時代に約6,000億円とも言われる金額で買収したアメリカ原子力メーカー・ウエスチングハウス(WH)でも、巨額の赤字を抱えていることが分かってきたからだ。WHの買収によって東芝は原子力事業を半導体と並ぶ将来の経営の柱とすることを公言し、世界から30基以上の原発の受注を取れると見込んでいた。

しかし、アメリカの原子力発電所建設の過程でWH関連子会社の工期が遅れ、その遅れによって生ずる損失は東芝が責任を負う契約となっていたため、7,000億円を超す赤字が見込まれることになってしまったのだ。

好調半導体分野も道連れに
 
その結果、債務超過のおそれも出てきたため、世界で2位のシェアを誇り年間1,100億円の利益を生み出す稼ぎ頭であった半導体部門の分社化と、株の放出に手をつけざるを得なくなってきたのである。こうして、東芝の今後の事業の核となる原子力分野と半導体部門はズタズタになってしまった。将来の成長分野とみた2分野。特に半導体部門の分社化、株売却は苦渋の決断だったようだが、債務超過を防ぎ、とにかく資金繰りを確保するにはやむを得ない処理方針だったようだ。

しかし、当面の資金繰り確保が出来たとしても今後の成長の柱を失ってしまえば、再生・再建の足がかりをどこにつかむか。その将来も厳しいものになると予想される。

日本は農耕民族型のDNAでは?
 
現在の日本は、どの業界も買収ブームである。バブル時代やその後にため込んだ内部留保は国内の消費不況から設備投資に向けることができず、結局売り上げ、利益を増やすには海外企業の買収に向かわざるをえない企業が目立つ。日本はもともと、農耕民族でコツコツと田畑を耕し、良い作物を作る工夫に知恵を絞り、努力を重ねてきたことを強みとしていた。それなのに本来のDNAを忘れ、手っ取り早いM&Aに資金を注ぎこみ失敗している企業の例は枚挙に暇がない。グローバル化、IT化、M&A時代の開発と企業成長のあり方をじっくり考えてみる時期かもしれない。

(TSR情報 2017年3月28日)

参考情報
なお、東芝は3月29日、米原子力子会社ウェスチングハウス(WH)など2社の連邦破産法11条の適用申請を受け、綱川社長が記者会見を行なった。これによって2017年3月期にWHグループは東芝の連結から外れる。

主な内容は以下の通り(日経新聞速報より抜粋)
WHなどの2社の負債総額は計98億ドル(約1兆900億円)。これによって東芝の2017年3月期の連結最終損益が最大で1兆100億円の赤字(従来予想は3,900億円の赤字)となる可能性を発表。赤字額は09年3月期に日立製作所が記録した7,873億円を上回り、国内製造業としては過去最大となる見通し。これにより東芝の債務超過額は17年3月末で6,200億円となる可能性も明らかとなった(これまでの債超超過額見通しは1,500億円)。
image by: Flickr
『ジャーナリスト嶌信彦「時代を読む」』
著者/嶌信彦(記事一覧/メルマガ)
ジャーナリスト嶌信彦が政治、経済などの時流の話題や取材日記をコラムとして発信。会長を務めるNPO法人日本ウズベキスタン協会やウズベキスタンの話題もお届けします。
出典元:まぐまぐニュース!
(記事引用)

東芝「WH破産申請」で露呈した再生計画のウソ
2017年3月29日 22時0分文春オンライン
 一通のメールが届いた。
【東芝】記者会見のご案内
 3月29日(水)17:45~18:30 受付開始 16:45
 30分で来い、というわけだ。
 
 16時50分に会見場(東芝本社)に到着。すでに会場は、報道陣で埋め尽くされていた。前方から10列目までの席には大手メディアの名刺が敷き詰められている。「花見の席取り」である。新人がいち早く会場に駆けつけ、名刺を置く。先輩記者たちは直前に悠然と現れ、最前列にどっかと陣取る。組織力のないフリーランスの悲哀を感じる場面である。
30分前の召集にもかかわらず超満員の会見場 c大西康之
 机の上にはすでにニュースリリースが配られている。
「当社海外連結子会社ウェスチングハウス社等の再生手続の申立について」
 東芝の原発子会社ウエスチングハウス(WH)が、米連邦破産法第11条(通称チャプター11)の適用をニューヨーク州連邦破産裁判所に申請したのだ。事実上の倒産である。
 WHのチャプター11申請は日本のメディアで既定路線になっており、一部の新聞は「現地時間の28日に申請」と書いた。このため28日の夜、東芝担当記者たちは東芝からのメールを待っていた。だが待てど暮らせどメールはこない。
 夜があけた。まだ米国は28日だ。担当記者たちは早朝からメールを待ち続けた。
 それでも、やはり来ない。 
 前述の通り、メールが来たのは29日の午後16時。申請は24時間受け付けられるため、手続き上は問題ないが、ニューヨーク州も日付は29日になっていた。東芝、WHのドタバタぶりがわかる。
「WHを連結から外した」というレトリック
 まず断っておきたいのは、現時点で東芝はチャプター11の適用を申請しただけであり、裁判所に再生計画が認められたわけではないということだ。
 東芝が3月中のチャプター11申請にこだわったのは、今期中にWHを連結対象から外し「これ以上損失は拡大しない」と金融機関にアピールしたかったからだろう。しかし米国の裁判所はそんなことは知ったことではない。申請を受理するかしないかは、今後の裁判所の判断にかかっている。WHが提出する再生計画を裁判所が認めなければ、話は振り出しに戻る。あたかも既にWHを連結から外したかのような東芝のアピールは、紳士的とは言えない。
製造業過去最悪の赤字額
 記者会見の出席者は綱川智社長、平田政善専務、畠澤守原発担当常務の3人。
淡々と話す綱川智社長 c大西康之
 綱川社長は淡々とした表情でこう説明した。
「WHに対する親会社保証などを求められた場合、東芝の2017年3月期の最終損益は1兆100億円の赤字になる」
 そうなれば、09年に日立製作所が発表した赤字額7873億円を抜き、製造業として過去最悪の赤字となる。
「WH買収から10年余。東芝はどこで間違えたのか」と問われると、綱川社長は寂しそうな顔で言った。
「私にはわかりません」
 原発事業の暴走が引き起こした巨額損失の穴埋めに、自分が育てたメディカル事業を売却せざるを得たかった綱川氏の本音だろう。
「インペア」の予兆
空を見つめる平田政善専務 c大西康之
 このタイミングでWHのチャプター11申請に踏み切ったことについて「金融機関から圧力があったのでは」と聞かれると、平田CFOの血相が変わった。
「絶対にありません」
 しかし平田氏の言葉を簡単に信じるわけにはいかない。粉飾決算騒動の最中に、東芝テックから呼び戻され、2015年9月にCFOに就任した平田氏は、この場所(東芝本社39階会議室)で、何度も嘘をついているからだ。

 2015年11月、平田氏はここで、こう言い切った。

「原子力発電関連などの社会インフラは当然、黒字にならないとおかしい。電力向けは送変電・配電のシステムなどの受注が増加している。ウエスチングハウスも減損の兆候はありません」

 1年半前に健全だった会社で、何が起きるといきなり倒産するのか。予兆は何年も前からあった。

「インペア、あるらしいぞ」

 東芝の原子力事業部門でそう囁かれ始めたのは2009年。「インペア」は「impairment(減損)」を指す。東芝がWHを買収したのは2006年のこと。3年後にはすでに社内で減損を意識していた。

 それから8年の長きに渡り、東芝は外部の目を欺き続ける。

 2012年3月末にはWHのCEO(最高経営責任者)に内定していたジム・ファーランドが突然、退職する。ファーランドは直前の3月まで、約1ヶ月かけて「次期CEOです」と、米国の電力会社で挨拶回りをしていただけに、業界にショックが走った。

「WHの内情はそれほどひどいのか」

 ファーランドの退職は「一身上の都合」とされ、会長の志賀重範が急遽CEOを兼務することになった。

 半年後の2012年9月、ダニエル・ロデリックがWHのCEOに就任する。ロデリックはゼネラル・エレクトリック(GE)で長く原発事業に携わった男で、業界では「やり手」と言われた。

「やり手」と期待されていたWHロデリックCEO cgetty

 東芝はWHを買収した後、志賀ら数名の役員を送り込んでWHの立て直しと一体化を進めようとした。だが「自分たちは世界で最初の商用原発を動かした会社だ」というプライドに凝り固まったWHは、東芝を格下に見て言うことを聞かない。

 おそらく買収から6年以上、東芝はWHの実態を把握できていなかった。

「これでようやくまともになるかも」

 東芝社内に安堵の空気が流れた。しかし“ミイラ取り”のロデリック氏は、自らがミイラになってしまう。CEOに就任してしばらく経って、メディアに露出し始めたロデリック氏は「WHは米国、中国だけでなく、インドでもトルコでも順調に受注を獲得している」と言い始める。
「嘘つけ」
 事情を知る東芝社員たちは落胆した。「やり手」と期待されたロデリック氏も、実のところは原発事業からフェードアウトを始めたGEの「窓際族」であり、原発にしがみついて生きていくしかない男だった。
スポンサーありきの「再生計画」
「海外原発事業のリスクは遮断した」

 綱川、平田、畠澤の3氏は1時間半の記者会見でそう繰り返した。

 だが真に受けることはできない。

 裁判所に駆け込むだけで、10年余の失敗のツケを払いきれるとは思えない。世界各国で建設中の原発を放り出し「あとは知りません」という無責任が通るほど世界は甘くないはずだ。

「もしスポンサーが見つからなかったら再生計画はどうなるのか」

 記者会見の終盤で本質を突く質問が出た。

「今回、減損対象になった米国で建設中の原発以外の事業は順調なので(スポンサーの登場は)十分、見込みがあると考えています」

 そう答えた畠澤氏の顔は「燃料とメンテナンス事業は堅調で、減損の兆候はありません」と1年半ものあいだ言い続けた平田氏の顔に重なって見えた。二人とも、サラリーマンの役目に徹する「能面」のような顔をしていた。
(大西 康之) 文春オンライン


「科学よりも風評」「安全より安心」な日本人の感情論が科学を停滞させる
2017年3月30日 7時0分 文春オンライン やまもといちろう
 自分の得意分野でニュースがあるとテレビや新聞雑誌の取材を受けたり、情報番組に呼ばれたり、月に2度ほど朝の番組でコメンテーターをやったりする私ですが、一番困るのは「得意でない話を振られたとき、自分でもクソみたいなコメントを言わざるを得なくなる現象」というものがあります。
とりわけ、どこかに台風が来た、地震が起きた、殺人事件があった、大変な交通事故だ、いろんな問題が起きたとき、MCの大御所から「どう思いますか」とか振られるわけですよ。もうね、ただただ「お大事に」としか言えなくなるわけです。面白いことを言おうとすれば不謹慎だし、何も語れなければ置物扱いされてしまいます。洪水が起きて家の前の道が濁流になっている映像を必死になって伝えているレポーターを見て「うわ、住人も仕事で現地行くディレクターさんもレポーターも大変だな」と思うけど、意見を求められる私に洪水の知識などあるはずもない。でも、メディアというのはそういう仕事がそれなりの割合を占めているのです。
(部分引用)



 

日本赤十字社のしごと

日本赤十字社 ご支援方法 寄付する(個人・法人)
活動を支援する 海外の緊急救援・復興支援国内の災害義援金
あなたの寄付は、災害が発生したとき、ただちに現地へと医療救護班や救援物資などを届けるために活用されます。赤十字のさまざまな活動を即座に、継続的に行うためには、皆さまからの寄付が必要です。ご協力をお願いいたします。
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画像 有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を受ける佐野常民  

日本赤十字社は、日本における赤十字社。1952年(昭和27年)に制定された日本赤十字社法昭和27年8月14日法律第305号によって設立された認可法人。社員と呼ばれる個人及び法人参加者の結合による社団法人類似組織である。略称は「日赤」(にっせき)。フランス語: Société de la Croix-Rouge du Japon、スペイン語: Sociedad de la Cruz Roja Japonesaである。
名誉総裁は皇后(現在は皇后美智子)。名誉副総裁には、代議員会の議決に基づき、各皇族が就任している。代表者である社長は近衞忠煇(旧公爵近衛家当主。夫人は、三笠宮崇仁親王第一女子である近衛やす子)。

日本赤十字社は全国に92の赤十字病院、79の血液センターを運営し、赤十字病院は第3次医療機関に指定され救急医療の最後の砦を担っている。血液事業は日本で唯一献血を原料とする製剤を製造する。
またセンター、病院、支部などには常備救護班(医師1名・看護師長1名・看護師2名・庶務(事務)担当の職員である主事2名の計6名で1個班が構成される)を複数個保有し、地震・台風などの災害時や旅客機墜落・公共交通機関の大事故など、消防で対応し切れない大人数の負傷者発生の際には救援活動を行っている。

赤十字のマークは、赤十字の標章及び名称等の使用の制限に関する法律により、日本赤十字社以外が使う事が禁じられている。もっとも、学校法人日本赤十字学園は「日本赤十字社以外の者」ではあるが、学章に赤十字のマークを入れている。
日本赤十字社章(赤十字竹桐鳳凰章)
種類 日本赤十字社法に基づく認可法人
(社団法人類似組織)
略称 日赤、赤十字 本社所在地
〒105-8521
東京都港区芝大門一丁目1番3号
設立 1877年(明治10年)5月1日
法人番号 6010405002452
事業内容 日本赤十字社法に基づく病院施設等の運営
災害救援活動 等
従業員数 66,129名
※2015(平成27)年4月16日現在
代表者 社長:近衞忠煇  近衛忠煇 このえ-ただてる
1939- 平成時代の日本赤十字社社長。
※昭和14年5月8日生まれ。細川護貞の次男,元首相細川護煕(もりひろ)の弟。近衛文麿の外孫。学習院大卒業後ロンドン大に留学し,1964年日本赤十字社に入社。1965年近衛家の養子。

法的地位
日本赤十字社法(以下、社法という)では、「日本赤十字社は、赤十字に関する諸条約及び赤十字国際会議において決議された諸原則の精神にのっとり、赤十字の理想とする人道的任務を達成することを目的とする(第1条)」とされ、また第2条は特に「国際性」の見出しのもと、「日本赤十字社は、赤十字に関する国際機関及び各国赤十字社と協調を保ち、国際赤十字事業の発展に協力し、世界の平和と人類の福祉に貢献するように努めなければならない。」と認可法人としては異例の定めを置いている。
日本赤十字社では社法第7条により、日本赤十字社定款を定めることとされ、同社の事業は定款の定める経営・業務・資産などの規定に基づき運営されている。日本赤十字社の基本精神は人道・公平・中立・独立・奉仕・単一・世界性である。

戦前の日本赤十字社は陸軍省、海軍省管轄の社団法人、戦後は厚生省管轄を経て現在は厚生労働省管轄の認可法人であり、伝統的に皇室の援助が厚く、皇后を名誉総裁とし皇太子ほかの皇族を名誉副総裁とする。
本社は東京都港区芝大門一丁目に所在し、全47都道府県に支部が設置されている。ほとんどの支部では知事が支部長に就任し、副支部長・事務局長などの役員も行政関係者(市町村長や現・元都道府県部長/局長)が多くを占めている。2010年(平成22年)3月末現在、個人社員1065万人、法人社員15万法人を数える。
 
法律上の位置付けとしては、日本赤十字社法に基づく認可法人で、災害対策基本法及び国民保護法上の指定公共機関に位置づけられており、災害時や有事に備え、防災基本計画及び国民保護業務計画の策定と閣議の承認を経ることが義務付けられているほか、災害時・有事はそれらの計画に基づいて国民の救済において国に協力することが定められている。
日本赤十字社発祥地(千代田区)
有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を受ける佐野常民
日本赤十字社の絵葉書(1900年)
日本赤十字創立75年記念切手

日本赤十字社の前身は西南戦争時の1877年(明治10年)に大給恒(おぎゅう ゆずる)と元老院議官で後に伯爵となった佐野常民(さの つねたみ)らが熊本洋学校(くまもと ようがっこう)に設立した博愛社(はくあいしゃ)である。大給と佐野は、戦争の悲惨な状況が拡大していることに鑑みて、陸軍省に、敵味方の区別なく救護を行う赤十字の精神を発現する博愛社として、救護班を派遣することを願い出た。
しかし、陸軍卿代行の西郷従道は、内戦は国家間戦争とは異なり、逆賊=犯罪者の救護は赤十字の救護とは言えないのではないかと、その精神に理解を示せず、設立を許可しなかった。そこで、佐野らは元老院議長で征討総督の有栖川宮熾仁親王に直接、設立と救護班の派遣を願い出る。逆徒であるが天皇の臣民である敵方をも救護するその博愛の精神を熾仁親王は嘉し、中央に諮る事なく設立を認可した。ただ敵味方ともに助けるというその思想が一般兵士にまでは理解されず、双方から攻撃もしくは妨害などを受け死者が出たと言われている。

「熊本洋学校教師館ジェーンズ邸」を参照

昭憲皇太后
博愛社は国際赤十字の精神を発現する団体として創設され、赤十字として認知されるよう活動していたが、1886年(明治19年)ジュネーヴ条約に調印した政府の方針により、翌1887年(明治20年)に日本赤十字社と改称し、特別社員および名誉社員制度を新設した。当時西欧の王室、皇室は赤十字活動に熱心であり、近代化を目指す日本でも昭憲皇太后(明治天皇皇后)が積極的に活動に参加し、正式紋章「赤十字竹桐鳳凰章」は昭憲皇太后の宝冠のデザインを模倣して制作され、また皇太后の示唆により後に制定された。華族や地方名望家が指導的立場に就いた。
1888年(明治21年)6月、支部設置を決定した他、有功章、社員章を制定した。 全国に赤十字運動への理解と普及を目指す最中、1888年(明治21年)7月、福島県磐梯山が、巨大な水蒸気爆発により山体崩壊を招き、大災害を引き起こした。 このため、当時国際紛争解決にむけた人道組織であった赤十字を、自然災害にも活用すべく政府に願い出た。赤十字として国際的にも例がない戦時以外の活動であったが、政府は了としたため、すぐさま救護班を現地に派遣、救援活動を行った。
日清戦争(1894年(明治27年) - 1895年(明治28年))時には、初めて国際紛争の医療救護班を戦地に送り出した。
日清戦争時、帝国陸軍近衛師団軍楽隊楽手でもあった加藤義清が出征する友人を見送りに駅に行った際、同じく大陸の戦地に向けて出発しようとしている日本赤十字社従軍看護婦達の凛々しい姿に強い感銘を受け、一夜で作詞したといわれている軍歌『婦人従軍歌』がある(従軍看護婦を唄った歌曲は世界的にも珍しく、同時に明治日本軍歌を代表する曲の一つに数えられている)。

1901年には勅令により日本赤十字社条例が設置され、日本の陸軍大臣・海軍大臣の指定する範囲内において陸海軍の戦時衛生勤務を幇助することができるようになった。
日露戦争(1904年(明治37年) - 1905年(明治38年))が起こると、日本赤十字社は旅順など満洲で投降したロシア人捕虜の人道的な待遇に尽力した。第一次世界大戦でも中国山東省の青島で捕虜となったドイツ人も日赤の援助により人道的な待遇を受けた。
また、第一次世界大戦(1914年(大正3年) - 1918年(大正7年))時には、連合国のフランス、イギリス、ロシアからの要請に応え、三カ国に救護班を派遣した。1934年(昭和9年)、第15回赤十字国際会議が東京で開催されている。
軍部の勢力が拡大するにつれ、日本赤十字社による戦争捕虜への援助が難しくなった。日中戦争(支那事変)(1938年(昭和13年) - 1945年(昭和20年))では宣戦布告なしの「事変」であったため、両軍はジュネーヴ条約を適用しなかった。
太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発すると、赤十字救護班は積極的に戦地に赴き、多くの殉職者を出すこととなった。
一方、日本軍が東南アジア方面で数十万人にのぼる欧米人(軍人、民間人を問わず)を収容所に収容したが、国際赤十字委員会や日本赤十字社が積極的な救護活動をしなかったとして連合国側のメディアから非難があった。
太平洋戦争終結後、捕虜とともに民間人として現地に抑留された救護班は、収容された日本人に対する救護をおこなった。
敗戦直前の原爆被害者に対して、国際赤十字委員会と日本赤十字社は積極的に救護を行い、現在でも、日本赤十字社は広島と長崎に原爆症患者を救護する病院を経営している。
また、占領下の日本では、衛生状態が深刻な状態にあり、赤十字では駅などに救護所を設けて、病院内外での救護活動を活発に行った。
(資料ウイキペディア)





 

近衞 秀麿

音楽家「近衞 秀麿」
近衞 秀麿(1898年11月18日 - 1973年6月2日)は、日本の指揮者・作曲家。元子爵。正三位勲三等。元貴族院議員。異母兄に近衞文麿(政治家・元内閣総理大臣)、実弟に近衞直麿(雅楽研究者)、水谷川忠麿(春日大社宮司)がいる。
220px-Anefo_911-7365_Repetitie_Tokyos日本のオーケストラにとってパイオニア的存在であり、「おやかた」という愛称で親しまれていた。評価がされない時期もあったが、2006年には初めて近衞に関するまとまった本が出版されるなど、再評価の動きも徐々に出てきている。
東京帝国大学文学部中退。
1898年11月18日、公爵近衞篤麿の次男として東京市麹町区(現:千代田区)に生まれる。近衞家は五摂家筆頭の家柄で、また皇室内で雅楽を統括する家柄でもあった。
音楽は文麿の影響で興味を持つようになった。学習院時代に犬養健らと親しくなり、1913年頃には東京音楽学校の分教場、次いで上野の本校によく遊びに出かけていたと言われている[誰によって?]。一時期飛行機に熱中した時期もあったが、やがて本格的に音楽の道を志すようになり、飛行機断ちの証としてヴァイオリンを正式に勉強することを許された。
1915年からは、牛山充の紹介で、ドイツでの作曲留学から帰国したばかりの山田耕筰に作曲を学ぶようになった。一方で東京音楽学校にあった交響曲を片っ端から写譜するなどオーケストラへの興味を強めていった。
1920年、瀬戸口藤吉が主宰していたアマチュアオーケストラを瀬戸口の代演で指揮し、指揮者デビューを果たしたが首尾よくは行かなかったようである。学習院初等科、中等科、高等科を経て、東京帝国大学文学部に入学するが中退した。
1923年、秀麿はヨーロッパに渡り、ベルリンで指揮をエーリヒ・クライバーらに、作曲をマックス・フォン・シリングス(フルトヴェングラーの師)ゲオルク・シューマンに学び、パリで作曲をダンディらに師事する。
ヨーロッパ滞在中の1924年1月18日に、かつて山田がそうしたように秀麿も自腹でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を雇い、ヨーロッパでの指揮者デビューを果たした。また、ドイツのインフレと著しいマルク安にも助けられて、おびただしい数のオーケストラ用の楽譜を買い込み、同年9月に帰国。
1925年には山田耕筰と協力し、日本交響楽協会を設立。定期演奏会や、ハルビン在住の楽士を加えた「日露交歓交響管弦楽大演奏会」も成功させた。
「常設オーケストラの設立」という山田の夢を直接的にかなえる役割を果たした秀麿であったが、マネージャーの原善一郎が不明朗経理を糾弾された際、秀麿は原の味方にまわった。当時山田は体調を崩しており、秀麿と原が山田の代わりに会計に携わっていたが、その際に5,400円(当時)もの謎の使途不明金が出て、原がそれを山田に尋ねたところ逆に不明朗経理を糾弾され、さらに解任を言い渡された。
この問題に関しては、後に関東軍の情報担当にもなった策士の原が金銭を罠にして山田を釣ったという説があるが、山田が儲けの半分を独占し、残り半分を楽員全員で山分けすることに不満の楽員を秀麿と原が自派に引き入れて分裂に至らしめた、という説もあって本当のところは不明である。
秀麿支持派は44名に達し、この集団を以って「新交響楽団」と名乗り、秀麿が常任指揮者となり、放送が開始されたばかりのJOAKと契約することになった。その後、新響は日本交響楽団を経て、1951年にNHK交響楽団(N響)となった。

マーラーの交響曲第4番の世界初録音の様子(日本パーロフォンスタジオ、1930年3月)。指揮:近衛秀麿、演奏:新交響楽団。写真左に久邇宮朝融王および朝融王妃知子女王が着席している。
1927年2月20日に、新響は初めての定期演奏会を秀麿の指揮で開いた。以後約10年もの間近衞は新響とともに、日本に交響楽を根付かせる運動に奔走すこととなる。演奏会ではベートーヴェンやモーツァルトなどの古典派音楽に加え、マーラーや当時における現代音楽などをレパートリーとして演奏している。また、1930年にはマーラーの交響曲第4番を世界初録音している。
1930年秋からヨーロッパに単身演奏旅行に出かけた秀麿はフルトヴェングラーやブルーノ・ワルター、クライバーらが指揮するベルリン・フィルやライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などの演奏を聴き、日本と海外のレベルがあまり縮まっていないことを痛感したという。折りしも、国内でも「新響はさほどレベルアップしていない」という評価が多く占めたこともあり、帰国後、秀麿は大鉈を奮って人員刷新に取り組むことになった。
楽員サイドと「革新実行委員会」を作り、どの楽員をリストラすべきか検討したが難航した。そこで、手っ取り早く塵を払うべく、原の提案で、待遇改善をしつこく訴えたり原の行動に不満をぶちまけた楽員をリストラすることになり、結果17名(23名説もある)の楽員をリストラした。解雇された楽員は新響や原を一度は告訴するも、やがて音楽評論家堀内敬三が面倒をみることになり、堀内が愛用していたタイプライターの名前にちなんで「コロナ・オーケストラ」と名乗った。後年、「東京放送管弦楽団」と改称し、幾度のメンバー変遷などを経て現在もNHKで活動をしている。この一連のリストラ騒動を「コロナ事件」という。この一件の後、新響は新楽員を入れたが、その際秀麿の提案で4名の女性楽員を入れた。これが、学校付属のものなどを除けば、日本のオーケストラに女性が入った嚆矢である。
「コロナ事件」を経て、再び新響の活動も順調になったはずであったが、1935年7月13日、楽員一同が原の不明朗経理を糾弾し、同時に新響を法律上の組合組織に改組する旨宣言した。楽員サイドは宣言文にさりげなく秀麿の名前を入れたが、秀麿自身は寝耳に水の話であった。JOAKは秀麿と原の味方をし、評論家は二分、音楽ファンは楽員サイドを応援した。評論家は挙って音楽雑誌で論陣を張り、この問題を取り上げた。
秀麿は7月18日、新響を解消して新オーケストラを結成する宣言を出したものの、今回は楽員サイドがまったくついてこず、結局秀麿は新響を退団。原も追放された。一方で新響もJOAKとの契約を一時解消され、8月13日には日比谷公園野外音楽堂で無指揮者演奏会を開き、8月末には契約も復活したが、秀麿の退陣で常任指揮者が不在となり、定期演奏会に出演する指揮者が度々変わった。この状態は1936年秋のヨーゼフ・ローゼンシュトック着任まで続くこととなる。

フリーの立場となった秀麿は中央交響楽団を短期間指揮したのち、1936年に新響と一応の和解を果たす。一時的に上海交響楽団などで活動した後、同年、首相広田弘毅によって音楽使節に任命され、再び海外に向かう。この件はレオポルド・ストコフスキーから秀麿に客演の要請があり、その流れで実現した話である。まずアメリカに向かい、ストコフスキーのほかユージン・オーマンディやアルトゥーロ・トスカニーニと面会、1936年11月にはヨーロッパへ移りBBC交響楽団やドレスデン、リガの歌劇場などに客演する。
1937年に入るとアメリカを経て一時帰国。日本とアメリカの幾度かの往復の後ヨーロッパに移動した。1938年に一時帰国し改めて親善大使に任ぜられたのち、再びアメリカ・ヨーロッパに向かった。NBC交響楽団の指揮者陣に加わったが、アメリカの対日感情悪化で話が流れ、即座にヨーロッパに移動。ヨーロッパでは有名無名問わず各国でおびただしい数のオーケストラを指揮した。第二次世界大戦勃発後も親交のあったユダヤ人を匿うなどをしたためドイツでの活動が1943年以降制限されたものの、華やかな演奏活動を繰り広げた。

1956年
帰国した秀麿は、40代半ばにしてすでに日本の指揮者界の長老格となっていた。1946年からは、上田仁とともに東宝の肝いりで創設された東宝交響楽団(東響)の常任指揮者となる。東響では、上田が現代ものを、秀麿が古典派やロマン派の作品を指揮するよう役割が決められていた。
1948年より日本芸術院会員となった秀麿は、1949年、知り合いの楽員を集め、学校での音楽教室を主眼とする「エオリアン・クラブ」を結成した。1950年、東宝が東宝争議を経て東響を縁切りするにあたり、秀麿は東響を半ば追放同然のように去った。
エオリアン・クラブでの活動に本腰を置くようになった秀麿は、1952年、このクラブを発展させ、第一生命の後援を受け、近衞管弦楽団(近響)に改組する。アルバイト奏者として近響に短期間在籍したことのある岩城宏之によれば、秀麿邸はオーケストラがすっぽり入れるほど大きかったという。第一生命や、当時第一生命が主要株主であったラジオ東京の支援も大きく効いたが、第一生命が当局の指示により、のちに近響のスポンサーを降りた。
その後、秀麿は、当時日本フィルハーモニー交響楽団(日本フィル)の専属オーケストラ化を計画していた文化放送に対し、近響を日本フィルの中核にするよう申し入れるが、文化放送社長水野成夫の横槍もあり、結局秀麿だけが除け者にされる結果に終わった。 晩年には日本フィルとの関係も好転し、1969年から70年の音源と映像には現在でも接することが出来る。
次に秀麿は、近響の演奏会をCBC(中部日本放送)ともども支援してきたABC(朝日放送)に契約を持ちかけ、近響は1956年、ABC交響楽団(ABC響)に改組する。しかしながらABC響の活動は順調とは言えず、待遇面で不満を持ったヴォルフガング・シュタフォンハーゲンら主だった楽員が別のオーケストラ「インペリアル・フィルハーモニー」を結成したりもし、ABC響崩壊の危機の原因にもなった。
そういった中、1960年秋にはABC響のヨーロッパ演奏旅行が挙行され、秀麿も指揮者として渡欧することとなった。同時期には、かつて自分がトップに君臨していたN響も世界一周旅行を計画しており、秀麿はN響が若手メインで構成されていたことを危惧し「あれが日本のトップ団体と思われては困る」という趣旨の発言をするなど余裕すら見せていたが、ABC響の演奏旅行はプロモーターに逃げられたり、そのために資金が底をつき楽員の一部がローマで立ち往生し(大使館のあっせんでオリンピック選手村跡地の施設に宿泊)、年を越して帰国するなど、大成功のN響とは裏腹に無残な結果となった。演奏評そのものは高く、秀麿もヨーロッパの旧友と再会するなど良い事もそれなりにあったが、一連のゴタゴタ騒ぎはABC響の息の根を止めるには十分であった。
なおABC響の名義は受け継ぐ者があり、1960年代半ばまでバレエ公演などに使用されていた。
ABC響の消滅以後、秀麿は再びフリーの指揮者になり、読売日本交響楽団や大阪フィルハーモニー交響楽団、さらに京都大学交響楽団などプロ・アマ問わず多くのオーケストラを指揮した。1967年にはN響の第484回、第485回定期演奏会に出演。翌1968年にはN響とともに「明治100年記念式典」に出席した。この年の7月には民社党から参議院議員選挙に立候補(京都地方区)したが落選(次点)している。息子の秀健の証言によると「僕は断固反対したんですよ。だけど親父は、公認料が欲しかったんです」という。なお、この時期に読売日本交響楽団を指揮したベートーヴェン、シューベルト、スメタナ、ドヴォルザークなどの作品を録音しており、現在CD化されている。
また、これに先立つ1966年には音楽学校設立に関する手形詐欺事件に巻き込まれ、金融業者から手形をだまし取られた上に京都地裁に訴えられ、1966年9月30日、京都地裁で6000万円の損害賠償を命じられた上、1967年には大阪地検特捜部から1000万円の手形詐欺容疑で任意出頭を求められ、最終的に800万円の負債を清算するため東京赤坂の自宅を手放すことを余儀なくされるなど苦難の連続でもあった。1969年には創設されたばかりの日本フルトヴェングラー協会から会長就任を懇願され、引き受け講演も行っている。この講演は、協会盤CDとして聞くことができる。
晩年の演奏活動としては、1970年に初来日したオーボエ奏者ハインツ・ホリガーの伴奏(日本フィル)を行なっており、ミヨーのオーボエ協奏曲はこの時が日本初演であった。
1973年6月2日、前日から世田谷区野毛の新居で就寝中に脳内出血を起こし急死した。秀麿が電話に出たら突然ヤクザのような男から「ばかやろう」とどなりつけられ、そのショックで死んだとのうわさもささやかれた。
オーケストラの運営は、自腹でインフラ整備をしたにもかかわらず困難と失敗の連続であったが、亡くなる直前まで指揮活動や後進の指導にあたり、晩年の不遇な事項を別にすれば、「おやかた」の愛称にふさわしい活動を繰り広げた。
秀麿の没後に行なわれた追悼演奏会では、前年に分裂した「日本フィル」と「新日本フィル(新日本フィルハーモニー交響楽団)」双方の楽員が、立場を超えて共に演奏した最初の機会であり、これも秀麿の人徳あっての出来事として記憶されている。
秀麿のオーケストラ運営
新響・近響→ABC響
戦前期の新響にせよ戦後の近響(近衞管弦楽団)→ABC響にせよ、秀麿が精魂こめて作り上げたオーケストラはすべて秀麿の手元には残らなかった。
日本交響楽協会分裂・「コロナ事件」・「新響改組事件」には策士・原善一郎が常に絡んでいたし、近響→ABC響では待遇問題や経済的な理由が常につきまとっていた。もっとも、「コロナ事件」で大鉈を振るったことに関しては、理由に違いはあれどアルトゥール・ロジンスキがニューヨーク・フィルハーモニックで行った大リストラに類似性を見出すことは出来る(もっとも、ロジンスキのニューヨーク時代はこの大リストラの祟り?のせいか短かった)。
己の理想と現実とのギャップに悩まされたのがオーケストラ運営の障害になったのは明らかだが、それ以上に周囲の人間にあまり恵まれなかった面もある。原に関しては朝比奈隆を見出した実績もあるのだが、戦後期の日本フィルを巡るやりとりやABC響でのゴタゴタではあまりにも秀麿に人の運がなかったか、秀麿の人柄を見透かしたかのように秀麿の元から人が離れていった。
秀麿の人柄を「貴族的な冷たさを持っていたがゆえに人がついていかなかった」と指摘する人もいる一方、晩年期に詐欺事件に巻き込まれた例などをみるに「人が良すぎ、策士や少々如何わしいプロモーターなどに気軽に乗っかってしまい、結果的に大火傷を負う結果となった」と見る人もいる。このように、秀麿の日本でのオーケストラ運営に関しては様々な見方があるが、秀麿の内弟子であった福永陽一郎は秀麿のオーケストラ運営を次のように語っている。
「近衞秀麿は終生、オーケストラとの関係を不首尾に終わらせている。本来の指揮者としての力量を承認しないものは一人もいなかったが、その対オーケストラの思考の方向は、いつもオーケストラ自体の首肯し難いほうへ進んだ」「天皇家よりも由緒の明確な千年の貴族というものの悲喜劇を、首相だった長兄の文麿公ともども体現した人だったといえる」(福永陽一郎「演奏ひとすじの道」『CONDUCTOR』CONDUCTOR編集部/山崎「秀麿蕩尽録」所収)
1944年4月に「オルケストル・グラーフ・コノエ」をパリで組織している。秀麿の回想によれば、ヨーロッパ各国の仕事がなくなった楽員やユダヤ系の楽員などをかき集め、主にフランドルを巡演して回ったオーケストラであるが、同年6月のノルマンディー上陸作戦前後に巡演先で解散した。このオーケストラには後にソリストや教授として有名になる人物も在籍していたようだが、「ドイツ寄り」の過去が明らかになるのを恐れ、その事実を伏せているようである。『音楽家近衞秀麿の遺産』によれば、ピエール・ピエルロやジャック・ランスロが在籍していたとある。
(資料ウイキペディア)


 

サウジアラビア政府サルマーン国王来日

サウジアラビア政府サルマーン国王来日(2017/3/12)
中東調査会公開日:2016/04/26
 4月25日、サウジアラビア政府は、サルマーン国王主宰による閣議を開き、経済開発評議会(ムハンマド・サルマーン副皇太子が議長)が作成した2030年までの経済改革計画「ビジョン2030」を承認した。同日、ムハンマド・サルマーン副皇太子が同計画について記者会見で発表した他、『Al-Arabiya』放送においてインタビューに答え、石油依存型経済から脱却し、投資収益に基づく国家を建設していくことを強調した。発表された同計画における目標は以下の表のとおりである。また、これらの目標を達成するための手段として、国営石油会社サウジアラムコの5%未満の新規株式公開(IPO)、民営化による透明性の向上と汚職抑制、軍事産業の育成による国内調達の軍装備品支出の割合を50%まで拡大、外国人による長期的な労働・滞在を可能するグリーンカード制度の5年以内の導入などがあわせて発表された。
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サウジアラビアの経済改革案については、今年に入ってからムハンマド・サルマーン副皇太子が欧米メディアとのインタビューにおいていくつかの案を明らかにしており、今回の発表の新規性は乏しい。しかし、改革の最大の目玉となっているサウジアラムコの新規株式公開(IPO)については、企業の資産価値は試算で2兆ドル以上あるとされており、その規模の大きさゆえに世界的な注目を集めていた。『Al-Arabiya』とのインタビューにおいて、同副皇太子は、例えアラムコの1%のIPOであったとしても史上最大のIPOになると豪語し、これを昨年6月に外国人投資家へも開放したサウジの株式市場で公開することで(詳細は「サウジアラビア:株式市場の外国人投資家への開放」『中東かわら版』No.40(2015年6月16日)を参照)、市場規模を倍化させ、更なる資金流入が起きることを狙っていると述べた。
 「ビジョン2030」では、「活気ある社会」、「盛況な経済」、「野心的な国家」という3つの柱が立てられ、それぞれにおいて達成目標が具体的な数値で示された。全体に貫かれている方針は、石油依存型経済から脱却し、投資や観光、製造業、物流など経済の多角化を目指すことであり、民間企業(特に中小企業)の役割を拡大させることで新たな雇用を創出し、国民の生活水準を向上させることにある。これらの目標は、長らくサウジ国内でも議論されていた課題であったが、その改革は遅々として進まなかった。今回、具体的な数値目標とともに2030年という時間的な達成期限が設けられたことは、改革に向けたサウジ政府の本気度として捉えることが出来よう。
 他方、こうした目標が達成されなければ、それは政府への批判に結びつくことになり、改革の旗振り役となっているムハンマド・サルマーン副皇太子への打撃にもなる。特に、観光部門の拡大や女性の権利拡大を巡っては、国内の保守派と対立することが予想される。同副皇太子は禁止されている女性の車の運転を認める方針であると報じられているが、4月10日、サウジの大ムフティーであるアブドゥルアジーズ・アール=シャイフは、女性の車の運転について女性を危険に晒すものとして明確に反対する立場を表明した。4月22日付の『Bloomberg』でのインタビューにおいて、同副皇太子は、本件について宗教機構との間に問題は発生していないと述べているが、両者の立場が異なることは明らかである。こうした反対勢力をいかに懐柔し、改革を現実のものにしていくかが、今後サウジ政府に問われることになるだろう。
(村上研究員)

築地の基準価超え「ヒ素」

築地市場の敷地内から基準超ヒ素…13年調査
2017年3月7日 15時4分読売新聞
 東京・築地市場(中央区)の敷地の南端から、環境基準の2・4倍となるヒ素などの有害物質が検出されていたことが、読売新聞の情報公開請求に対する都の開示資料でわかった。

 同市場敷地内の土壌調査結果が判明するのは初めて。

 土壌調査は、市場跡地を通る環状2号線の整備に向け、2013年5~6月に行われたが、結果は公表されていなかった。

 ヒ素は環境基準(1リットル当たり0・01ミリ・グラム)の2・4倍にあたる0・024ミリ・グラム、フッ化物は環境基準(1リットル当たり0・8ミリ・グラム)の1・6倍に当たる1・3ミリ・グラムが検出された。
(記事引用)

小池知事に踊らされる都議会 百条委設置も中身ナシの不安
 2017年2月23日 日刊ゲンダイ 
 百条委の委員長がこの調子で、審議は成り立つのか。そもそも、桜井都議は豊洲問題に「精通」しているわけじゃないし、本気で調査する姿勢を見せているのは共産党ぐらいだ。

「百条委設置が選挙向けの“ポーズ”だとすれば、中身のないものになる可能性があります。与野党問わず、どの会派も本気で調査するべきです」(都政に詳しいジャーナリストの鈴木哲夫氏)

 小池知事は百条委設置について「審議を見守る」と高みの見物を決め込んでいる。都議は皆、小池知事の手のひらの上で踊らされているようで、せっかく設置が決まった百条委が意味ナシ――に終わらないか心配だ。

追及の場を用意しただけで満足されては困る。都議会が22日の本会議で、豊洲市場問題を調査する「百条委員会」の設置を全会一致で可決した。百条委では出席する証人はウソをつけば偽証罪に問われる。これで石原慎太郎元都知事も万事休すかと思ったら、そうではない。

 本会議で百条委の設置が決まると、都議は「よしっ!」と声を上げ、威勢よく起立。設置に賛意を示していた。ところが、慎太郎氏を含めて、いつ、誰に何を追及するのか――といった中身については全くの“白紙”状態なのだ。

■慎太郎氏の呼び出しも未定

 百条委の委員長に就いた桜井浩之・自民党都議は、本会議終了後、今後の方針について「何も決まってない」と苦笑いし、報道陣から、慎太郎氏について問われると「誰を呼ぶかについてもこれから」とボソボソしていた。それもそのはずで、当選2期の桜井都議のホームページを見ると、桜井氏本人と慎太郎氏がガッチリ握手を交わしている写真が今も掲載されている。

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「小池百合子新知事の五輪選手村」跡地開発に壁高し
住居5650戸 建設費2倍/需給インパクト懸念
オリパラSelect 2016/8/2 日経産業新聞
 元防衛相の小池百合子氏(64)が東京都知事に選ばれた。3代連続で東京都知事が任期途中で辞職する異例の事態を経ての登板だ。最大の案件は2020年の東京五輪・パラリンピック。小池氏と対立関係にある有力都議の裏には不動産業界が控える。その不動産業界と共同で小池氏が越えなければならないのが選手村跡地開発問題だ。

 1万7000ベッドを用意して欲しい――。東京都都市整備局が提示した選手村の建設要件だ。日本は五輪開催に合わせ、約200カ国から集まってくる選手やコーチなどのために選手村を用意する必要がある。そのマネジメントを担うのは東京都だ。

 都は三井不動産など民間主導で選手村を立ち上げる計画だが問題は跡地開発だ。構想では選手村を建設した民間デベロッパーに再開発させ、新築マンションとして分譲(一部は賃貸)することを認める方針で「かなりの人気物件になる可能性が高い」(みずほ証券の石沢卓志・上級研究員)。

■東京・晴海の超一等地にドーム3個分

 確かに選手村の建設予定地は中央区晴海と超一等地。広さにして13万3900平方メートル。東京ドーム約3個分の広大な敷地を東京都が整備、129億6千万円でデベロッパーに譲り渡す。近隣の地価を考えれば、通常の「取引なら1平方メートルあたり60万円以上」(同)の土地を6分の1以下で売却するわけだから破格の安値だ。

 こうなれば「どんなデベロッパーでも手を出したくなる」と考えるのは早計だ。なぜか。

 理由は建設費だ。都が提示した1万7000ベッドを収容するには、21棟、住宅の戸数にして約4000戸強を建設する必要がある。その建設費はデベロッパーが負担しなければならない。

 選手村は五輪開催の半年前までに完成させて都に引き渡し、五輪後に戻してもらう約束。これをそのまま新築として分譲するのは難しい。アスリートたちの宿泊施設として1カ月程度、使っただけでも中古物件になる。「最低でも新築物件の7~8割の価格にまで値崩れする」(マンション調査会社のトータルブレインの久光龍彦社長)

 しかも、パラリンピックでも使用するため「4台の車いすが入る大型エレベーターを設置する計画」(清水建設の宮本洋一会長)。日常生活で使うには管理が大変でコストがかかり過ぎる。スケルトン(構造)を残し建て替えざるを得ない。

 東京都は余った敷地に2棟の超高層ビルを建設することを認めている。これにより選手村の4000戸強のほかに1500戸強のマンションを確保できる。約5650戸(推計69万平方メートル)を分譲することが可能になる。ただ、少なくても選手村として使用する4000戸強の部分については建て替え分を含め約2倍の建築費が必要になる。

 都の計画では1000戸程度は賃貸に回すことになっているが、仮にすべて分譲したとしてもデベロッパーの採算は怪しい。大手総合建設会社(ゼネコン)によると、高層マンションの建設費は現在、1坪(3.3平方メートル)あたり100万円。4000戸分に2倍の建築費がかかるとすると3570億円だ。

 マンション1戸あたり7000万円ですべて分譲できたとしても、売上高は3955億円にしかならず、土地代や販売費・一般管理費、支払利息を加味すると利益はほとんど出ない。

 もちろんこれは机上の計算。マンション市況が今よりも回復すれば分譲価格を引き上げることもできる。現段階で赤字プロジェクトと断定することはできない。

 ただ、五輪開催に向けて建設が活発になることが予想される。「建築費はさらに上昇する」(前田建設工業の岐部一誠常務執行役員)との見方が支配的だ。採算悪化がはっきりした段階で、デベロッパーがプロジェクトから降りるか、都が赤字を補填するのか、こじれる可能性もある。

■水素ステーション建設・維持コストも足かせに

 問題はこれにとどまらない。都は舛添要一前知事時代に選手村跡地を水素を燃料の中心に置くモデルタウンにすることを約束している。選手村跡地のすぐそばに水素ステーションを建設し、そこから得られる熱や電気を5650戸のマンションで有効活用する方法も検討せざるを得ない。

 住民の「足」にも水素を使う。晴海にある選手村は最寄りの地下鉄の駅まで徒歩15分程度。都は利便性の悪さを補うため京成バス(千葉県市川市)などと新会社を設立、燃料電池車(FCV)のバスを運行する。都心と臨海部を結ぶバス高速輸送システム(BRT)も整備する予定。水素ステーションの整備やパイプラインの敷設などにもお金がかかり費用負担をどうするかなどの問題も今後、浮上してくる。

 さらに決定的なのは、選手村跡地に建設する5650戸がマンションの需給を大きく緩和させてしまうことだ。東京都のプロジェクトが「民業」を大きく圧迫してしまう懸念がある。

 不動産経済研究所(東京・新宿)によれば、15年に供給されたマンション戸数は東京23区で約1万9000戸。その約30%に相当するマンションが東京・晴海の選手村跡地から放出される。

 顧客の中心部志向は高まる一方で郊外のマンションは振るわない。銀座からタクシーで15分の場所でマンションが出てくるなら需要は落ち込む。五輪開催前に選手村の跡地利用にどう道筋を付けるか。東京都がさじ加減を間違えると、デベロッパーは壊滅的な打撃を受けかねない。(前野雅弥、山根昭)[日経産業新聞2016年8月2日付]
(記事引用) 






映画 音楽家・坂本龍一

坂本龍一が「全てをさらけ出した」 ドキュメンタリー映画、11月に公開決定ローリングストーン日本版 2017年02月27日 13:30
音楽家・坂本龍一を追った、映画『RYUICHI SAKAMOTO DOCUMENTARY PROJECT(仮題)』が、今年11月に公開される。
震災・中咽頭ガン・アカデミー賞作品の映画音楽制作など、2012年から5年間に渡る本人への密着取材により制作された長編ドキュメンタリー。

世界で活躍する音楽家、坂本龍一を追ったドキュメンタリー映画『RYUICHI SAKAMOTO DOCUMENTARY PROJECT(仮題)』が今年11月に公開される。本作は、2012年から5年に渡る本人への密着取材と、幼少からの膨大なアーカイブ素材により構成されている。

3.11以後、宮城県名取市で被災ピアノと出会ったという坂本。自然の猛威によって水に溺れたピアノの音を聞き「痛々しくてその鍵盤に触れるのも辛かった」と語る坂本は、今はその壊れたピアノの音色がとても心地良く感じると語っている。時と共にその被災ピアノの「自然の調律」の音は、サンプリングを通じて坂本の作曲プロセスの一部になり、新たな表現へと生まれ変わっていく。そして過去の坂本龍一の音への探求の描写が、積み重なるコラージュのように、現在の坂本の作曲プロセスと見事に交差していく。

どこか脆い幻想のようなバブルの時代。坂本はYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の一員として、日本のエレクトロニクスやテクノロジーを象徴するポップアイコンとなり、「戦場のメリークリスマス」、「ラストエンペラー」に出演、その映画音楽をも手がけ、「戦場〜」では英アカデミー賞、「ラスト〜」では米アカデミー賞をそれぞれ受賞。2001年9月11日、ニューヨークの自宅近くで起きた米同時多発テロによる圧倒的な暴力、それが生み出す世界の不均衡と非対称を感じつつ、人間の暴力性の生物学的なルーツを追い求め、音楽の原点をも探したという。

2014年7月には中咽頭ガン罹患を公表。1年近くに及ぶ闘病生活を経て、山田洋次監督作『母と暮せば』、第88回アカデミー賞で3部門の受賞に輝いたアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督作『レヴェナント:蘇えりし者』の音楽を同時期に手がけ復帰した。2017年3月には、8年ぶりとなるオリジナル・アルバム(タイトル未定)がリリースされる。カメラは、楽曲制作の現場に密着し、そのアルバム制作の様子の一部始終を捉えており、坂本龍一の最終楽章の始まりがスクリーン上で奏でられる。
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坂本龍一は、本作に関して「2012年にNO NUKES 2012を撮影できないか?とスティーブン・ノムラ・シブルという映画制作者から連絡が入った。それ以来、官邸前のデモや、東北ユースオーケストラとのコンサート、そしてガンがわかって映画制作のスケジュールに大きな変更が余儀なくされても、僕の側にはいつもカメラがあった。スティーブンは僕に何を見たんだろう?プライベートスタジオも、自宅のピアノ室も、全てさらけ出した。こんな映画に坂本の私生活を覗くという以上の意味はあるんだろうか?果たして映画として「見れる」作品となっているんだろうか?-いま、僕は完成が待ち遠しい。」と、コメントを寄せている。

本作の監督を務めるのは、『ロスト・イン・トランスレーション』の共同プロデューサーを務め、エリック・クラプトンのドキュメンタリーなど、世界的に活躍するスティーブン・ノムラ・シブル。「震災後、坂本龍一さんの音楽表現がどのように変わるのか、新たにどのような曲を書かれるのか、もしそこまで密着可能であれば、何かカタルシスが生じるのではないかとの思いが、この映画を作り始めるきっかけでした。ご病気の事もあり、本格的な作曲プロセスの記録を始めたのは撮影開始から4年後の事、長い撮影期間となりましたが、映画を通じて、映像と共に音楽や音の魅力を表現できればと、今も願っております。是非皆さまに劇場で音楽的カタルシスを体験して頂きたく思います。」と語っている。

震災から3年を経た2014年3月11日には、自ら防護服を着用し福島第一原発を囲む特別警戒区を訪れ、無人の地と化した集落の残像の音に触れたという坂本。テクノロジーに頼る現代人の営みが、自然環境を蝕み、人間の生き場所をも奪ってしまうことへの悲しみが、彼自身の作曲プロセスの根底あるのだという。大病を経て、過去の旅路を振り返りながら、新たな楽曲が誕生するまでを追った本作。坂本龍一という音楽家の生き様がここにある。

『RYUICHI SAKAMOTO DOCUMENTARY PROJECT(仮題)』
監督/プロデューサー:スティーブン・ノムラ・シブル
出演:坂本龍一
配給:KADOKAWA
公開:2017年11月、角川シネマ有楽町ほか全国公開

Text by Kanako Mori(RSJ)

(記事引用)




 

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