名著 雨月物語
1953年製作の日本映画。監督溝口健二。「浅茅が宿」と「蛇性の婬」の2編を川口松太郎と依田義賢が脚色した。出演は京マチ子、水戸光子、田中絹代、森雅之、小沢栄など。舞台は近江国と京に設定されている。ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞した。また、スタッフも文部省芸術選奨を、そしてエディンバラ映画祭においてデヴィッド・O・セルズニック賞を受賞した。


『雨月物語』という題は、どこからきたのだろうか。秋成自身の序文には、書下すと「雨は霽れ月朦朧の夜、窓下に編成し、以て梓氏に畀ふ。題して雨月物語と云ふ」という一文があり、雨がやんで月がおぼろに見える夜に編成したため、ということが書いてある。物語中、怪異が現れる場面の前触れとして、雨や月のある情景が積極的に用いられていることにも注意したい。

一方、これを表向きの理由、作者の韜晦であるとして、別の説も出されている。山口剛は、西行がワキとして登場する謡曲の『雨月』がもとになっている、という説を提唱したが、これは長島弘明が「白峯」との内容面での関係性が薄いとして否定している。また重友毅は、『雨月物語』にもところどころで採用されている『剪灯新話』「牡丹灯記」にある一節「天陰リ雨湿(うるほ)スノ夜、月落チ参(さん)横タハルノ晨(あした)」から来てるのではないか、と唱えている。高田衛は、秋成はこの両者に親しんでいただろうことから、このどちらか一方と考えなくてもよい、という考えを示している。


「雨月物語」は上田秋成によって江戸時代後期に著わされた読本(よみほん)作品。
序は、『雨月物語』の序文の全文である。ここには、上田秋成の『雨月物語』にかける意気込み、創作経緯が書かれている。この文中で秋成は、『源氏物語』を書いた紫式部と『水滸伝』を書いた羅貫中を例に挙げ、2人が現実と見紛うばかりの傑作を書いたばかりにひどい目にあったという伝説をあげている(紫式部が一旦地獄に堕ちた、というのは、治承年間、平康頼によって書かれた『宝物集』や延応以降の、藤原信実によって書かれたとされる『今物語』により、羅貫中の子孫3代が唖になった、というのは、明代、田汝成編の『西湖遊覧志余』や『続文献通考』によっている)。そして、どう見ても杜撰な、荒唐無稽な作品である『雨月物語』を書いた自分は、そんなひどい目に遭うわけがない、と謙遜している、ように見える。しかし考えてみれば、そもそもくだらない作品を書いた、と自分で思っているなら、当時でもすばらしい作品であると考えられていた『源氏物語』や『水滸伝』と自分の作品を比べるわけはあるまい。


仏法僧」は、時を江戸時代に設定している。伊勢国の拝志夢然という人が隠居した後、末子の作之治と旅に出た。色々見て廻ったあと、夏、高野山へと向った。着くのが遅くなり、到着が夜になってしまった。で泊まろうと思ったけれど寺の掟により叶わず、霊廟の前の灯籠堂で、念仏を唱えて夜を明かすことに決めた。静かな中過ごしていると、外から「仏法仏法(ぶつぱんぶつぱん)」と仏法僧の鳴き声が聞こえてきた。珍しいものを聞いたと興を催し、夢然は一句詠んだ。「鳥の音も秘密の山の茂みかな」

もう一回鳴かないものか、と耳をそばだてていると、別のものが聞こえてきた。誰かがこちらへ来るようである。驚いて隠れようとしたが二人はやって来た武士に見つかってしまい、慌てて下に降りてうずくまった。多くの足音とともに、烏帽子直衣の貴人がやってきた。そして、楽しそうに宴会をはじめた。そのうち、貴人は連歌師の里村紹巴の名を呼び、話をさせた。話は、『風雅和歌集』にある弘法大師の「わすれても汲やしつらん旅人の高野の奥の玉川の水」[27]という歌の解釈に移っていった。紹巴の話が一通り終った頃、また仏法僧が鳴いた。これに、貴人は、紹巴にひとつ歌を詠め、と命じる。紹巴は、段下の夢然にさきほどの句を披露しろ、といった。夢然が正体を聞くと、貴人が豊臣秀次とその家臣の霊であることが分かった。夢然がようよう紙に書いたのを差出すと、山本主殿がこれを詠みあげた。「鳥の音も秘密の山の茂みかな」。秀次の評価は、なかなか良いよう。小姓の山田三十郎がこれに付け句した。「芥子たき明すみじか夜の牀」。紹巴や秀次はこれに、良く作った、と褒め、座は一段と盛り上がった。

家臣のひとり、淡路(雀部淡路守)が急に騒ぎ出し、修羅の時が近づいていることを知らせた。すると、今まで穏やかだった場が殺気立つようになり、皆の顔色も変ってきている。秀次は、段下の、部外者のふたりも修羅の世界に連れていけ、と配下に命じ、これを逆に諌められ、そのうち皆の姿は消えていった。親子は、恐ろしい心地がして、気絶してしまった。朝が来て、二人は起き、急いで山を下った。後に夢然が瑞泉寺にある秀次の悪逆塚の横を通ったとき、昼なのにものすごいものを感じた、とひとに語ったのを、ここにそのまま書いた、という末尾で物語を締めている。

吉備津の釜 
「吉備津の釜」冒頭の妬婦論は、『五雑俎』(五雑組とも)巻八による。吉備国賀夜郡庭妹(現在の岡山市北区 (岡山市)庭瀬)に、井沢正太夫というひとがいた。この息子の正太郎というのは、色欲の強い男で、父が止めるのも聞かず、遊び歩いていた。そこで、嫁を迎えて身持ちを固めさせようと、吉備津神社の神主、香央造酒の娘と縁組がまとめられた。幸を祈るために、御釜祓いをすることとなった。これは、釜のお湯が沸きあがるときに、牛が吼えるような音が出たら吉、音が出なかったときは凶、となっていた。はたして、全くなんの音もでなかったので、この婚姻は凶と判断された。このことを香央が自分の妻に伝えると、先方も娘も心待ちにしているのに、この様な不吉なことを公表すれば、どうなるかわからない、ふたりが結婚するのは変えられない、と言い、そのまま縁組は進められた。
この嫁に来た磯良というのは、大変できた女で、家に良く仕え、非の打ち所がなかった。正太郎も磯良のことをよく思っていた。しかし、いつのころからか、外に袖という遊女の愛人をつくり、これとなじみになって、家に帰らなくなった。井沢の父は、全く行動を改めない正太郎を一室に閉じ込めた。磯良は厚く正太郎を世話したが、逆に正太郎は磯良を騙し、金を奪って逐電してしまった。磯良はこのあまりの仕打ちに病気で寝込むようになり、日に日に衰えていった。
一方、袖と駆け落ちした正太郎は、袖の親戚の彦六の厄介となり、彦六の隣の家で仲睦まじく生活した。しかし、袖の様子がおかしい。物の怪にでも憑かれたように、狂おしげだ。これはもしや、磯良の呪い……、と思っているうちに、看病の甲斐なく七日後、袖は死んでしまった。正太郎は悲しみつつも、菩提を弔った。それから正太郎は、夕方に墓参りする生活が続いた。
ある日、いつものように墓にいくと、女がいた。聞くと、仕える家の主人が死に、伏せてしまった奥方の代りに日参しているのだという。美人であるという奥方に興味を持った正太郎は、女に付いていき、奥方と悲しみを分かち合おうと訪問することとなった。小さな茅葺の家のなか、屏風の向うに、その奥方はいた。正太郎がお悔やみのあいさつをすると、屏風から現れたのは、まさしく磯良だった。血の気のないその姿も恐ろしく、正太郎は気絶してしまった。
気づくとそこは、三昧堂だった。慌てて家に帰って彦六に話すと、陰陽師を紹介された。陰陽師は正太郎の体に篆籀を書いて埋め尽くし、今から四十二日間物忌みをし、死にたくなければ必ず一歩も外に出ては行けない、ということを言った。その夜、言われた通り物忌みをしていたところ、女の声がして、「あなにくや。こゝにたふとき符文を設つるよ」と言った。彦六と壁越しにその恐ろしさを語るなどした。そして続く声の恐ろしさを感じながら、やっと四十二日目を迎えた。やがて夜が明けたのを見、彦六は、正太郎を壁越しに呼び寄せると、「あなや」と正太郎の叫び声がする。慌てて外に出てみると、外はまだ真っ暗で、正太郎の家には壁に大きな血のあとが流れており、軒に髻がかかっているのみ。正太郎の行方は分らずじまいだった。このことを伝えられると、井沢も香央も悲しんだ。まこと、陰陽師も、釜の御祓いも、正しい結果を示したものである。
(資料ウイキペディア)



(♪ MDB425)