松本清張は、なぜ『火の路』で自身の古代史学説を“本気”で語ったのか?THE PAGE 2017年06月04日 15:11
政治や経済をはじめ様々な社会問題をテーマにした推理小説を数多く残した松本清張は、歴史や考古学についても興味や関心を示していました。それらもまた、小説のテーマにされることが多かったのですが、『火の路』に登場する古代史学説は、ほかの小説と明らかに違う扱いだったといいます。小説の中で、清張が“本気”で語ったという学説とその後日談について、ノートルダム清心女子大学文学部教授の綾目広治さんが解説します。
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 松本清張作品から「いま」を読み解く 

古代史の学説を“本気”で語った『火の路』
 前回扱った「東経139度線」は、ひょっとすると在り得たかも知れない古代史についての仮説を、作中の登場人物に語らせた小説であった。もっとも、その仮説は学説として検証に耐え得るようなものではなく、あくまで清張の想像空間における、遊びの要素も多分に混ざった珍説であった。長編の『火の路』(「朝日新聞」、1973年6月~1974年10月)も、古代史についての学説が作中に語られた小説であったが、しかしここではその学説は本気で語られているのである。

 その本気さは、物語の中で語られている研究論文に見ることができる。それは、ヒロインである若き古代史研究者の高須通子による、飛鳥地方に存在する謎の石造遺物についての論文である。これは、飛鳥地方には謎の石造遺物として、「酒船石」や「亀石」や「猿石」、さらには「益田岩船」や「道祖神像」などの実に不思議な石造遺物があるが、いったい、それらにはどのような意味があるのか、についての論文である。

 高須通子の論文は、小説中に二つ掲載されている。そのうちの一つは、謎の石造遺物で土木工事好きの女帝・斉明天皇が作る予定だった「両槻宮」(ふたつきのみや)に供されるはずの施設物だった。しかし「両槻宮」の工事が中止になったため施設物も未完成なままに放棄された。また「両槻宮」自体、「日本の古代宗教とは違った宗教的色彩を帯びていた」と考えられ、それは「たいそう日本離れした(朝鮮からも)異質な宗教である」と述べる。

 この論文を偶然に読んだ、かつては古代史研究の俊英として知られ、今は学界から離れて保険外交員をしている梅津信六から、高須通子は便箋二十枚を超える書簡を受け取る。二人は面識がなかったが、高須通子の論文の内容は梅津信六が懐いていた古代史の学説に通じるところがあったのである。梅津信六によれば、高須論文で指摘している「異質な宗教」とはゾロアスター教(けん教、もしくは拝火教とも言う)ではないかと考えられる。

 なお、小説では詳しく語られていないが、ゾロアスター教とは、前六世紀のイランに起こった宗教のことで、仏教やキリスト教にも影響を与えたとされている。ちなみに、ニーチェの著書『ツァラトゥストラはかく語りき』の「ツァラトゥストラ」は、ゾロアスターのことである。キリスト教を批判するニーチェは、キリスト以前に眼を向けたわけである。

登場人物の発表した古代史に関する2つの論文
 さて、この梅津の指摘にヒントを得た高須通子は、イランに行きゾロアスター教の遺跡等を自らの眼で見てきて第二論文を発表する。論文の題目は、「飛鳥文化のイラン的要素―とくに斉明紀を中心とする古代史考察と石造遺物について」というものであった。

 高須通子の第二論文の結論部分は次のような内容である。

 ――謎の石造遺物の一つである「益田岩船」の基壇上に並ぶ二つの方形穴は、イランのゾロアスター教の拝火檀を連想させる。また、『続日本紀』の天平八年八月条には「波斯人一人」が拝朝したとあり、この「波斯人」とはペルシャ人のことである。「結論から先にいえば、日本には仏教が六世紀後半に伝わったといわれているが、けん教はそれよりおくれても六世紀末までには日本に伝来していた」と考えられる。もっとも、それがけん教そのものだったかどうかは不明だが、その要素の濃い宗教だったと言える。――

 このように、高須通子は創見あふれる論文を発表したのだが、彼女がいた研究室の教授の学問傾向から逸脱した内容であったために、東京の大学に職を得ることができなくなり、またその学説も無視される。

 物語は、その後、梅津信六が古墳出土品の偽造に関わる仕事をしていたらしいことなどが明らかになり、やがて梅津と思われる中年男の白骨死体が発見されるというふうに急転回していく。学才がありながらも、梅津が学界から追放されることになったのは、女性関係のことがあったとされていて、『火の路』は古代史の大胆な仮説提示とともに、清張小説らしい、性愛をめぐる悲劇も語られている小説である。

『火の路』で発表した学説の訂正を後の評論で発表
 ここで注意したいのは、小説の中であっても、清張は古代史に関して自身が抱く学説を、登場人物を通して本気で語っていることである。後に『清張古代史記』(1982年11月)で『火の路』に言及して、「あれはどこまでも小説だが、そこに述べた仮説はわたしのものであ」ると述べている。また、『火の路』で指摘されている「両槻宮」についての説の訂正を、後に『ペリセポリスから飛鳥へ』(1975年5月)で行っている。普通ならば、小説中で語られている学説は訂正する必要がないはずだが、清張はそれを行っているのである。つまり、彼は小説であっても、本気で古代史に関する自身の学説を語っていたわけである。

 本来ならば、論文や学術書の中で展開されるべき学説を、松本清張はなぜ小説の中で語るのか。実は、そこには史実(ノンフィクション)と物語(フィクション)との厳密な線引きはできるのか、というような難しい問題があるが、清張は厳密な線引きはできないと考えていた。

 たとえば古代史では、資料のない「空白」の箇所が多いのだが、それを埋めるのは、歴史家の想像力による推理だと清張は考えていたのである。たしかにそうなると、史実と物語との間には、厳密な境目はないことになってくるだろう。   

(ノートルダム清心女子大学文学部・教授・綾目広)

(記事引用)


(♪ はれのち晴れ)