吉田松陰の実像?
幕末の思想4
日本を守る サイト 2012年08月07日 
吉田松陰は単なるテロリストに過ぎない!!

幕末の思想家と言えば、まずあげられるのが吉田松陰です。吉田松陰と言えば維新の志士を多数輩出した松下村塾の主宰者にして、維新の精神的支柱となった偉大な思想家、教育者であり、正義を貫き「安政の大獄」の犠牲となった悲劇の主人公。これが、私どもが学校教育、即ち公教育によって教え込まれた吉田松陰であるが、実態は全く違っていたようです。
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画像 Appare | 世界遺産松下村塾が評価される本当の理由。
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山口県萩市に現存する松下村塾



今日は、そんな吉田松陰の実態に迫っていこうと思います!
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■吉田松陰、その人を見る
「・・・政府はこうして早くも欧米の圧力からの民族独立という課題を、隣邦朝鮮・中国への侵略とむすびつけた。欧米には『信義』をたてるという名で従属しながら、朝鮮・中国の侵略をめざすというのは、幕末に長州藩士の指導者吉田松陰が説いたことである。
アメリカおよびロシアとの和親条約が結ばれた後の1855年、松陰が獄中から、『同士一致の意見』として兄に送った『獄是帳』に曰く、『魯(ロシア)墨(アメリカ)講和一定、我より是を破り信を夷狄に失うべからず。ただ章程を厳にし信義を厚うし、其間を以て国力を養い、取り易き朝鮮満州支那を切り随え、交易にて魯墨に失う所は、また土地にて鮮満に償うべし』と。木戸らは先師の教えに何と忠実であったことだろう。・・・」(井上清著-日本の歴史(中)より引用)

「松陰の思想の基本がどこにあったか?」
松陰は幼少時から、神国思想・尊皇思想を父からたたきこまれていた・・・
一般の多くの有識者にとって、神国思想は一般的であった。それが 松陰の中ではより以上に抽出・濃縮されてほとんどその思考によって「がんじがらめに」なっていたのである。その彼が、外国を知り、その脅威を肌で感じたその刹那に 皇国の危機を感じたのである。その危機意識が 松陰に『対外的膨張主義』を考え出させるに至る。

松陰が理想とする皇国は、天皇統治のもと対外膨張をすることで光輝を得る。ここには、軍事力による侵略主義の性格がある。この露骨な軍事力による海外雄飛は、ペリーの軍事的圧迫による開国要求と同じである。(高橋文博著 「吉田松陰」より引用)

これは、読めばわかるように 明治以降の政府の方針そのものではないか?松陰の父親から受けた教育のせいもあるが その思考は上に述べたように アメリカやイギリスなどの欧米諸国と同様 植民地政策を取りながら欧米の干渉を排除するのが、その方針だったのは明らかである。これが、明治政府の基本方針となった。明治政府のその方向性が誤っていたとしたら それは松陰の思考のゆがみによるものであろう。

次に、松陰の平等思想について述べてみよう。よく、松陰は「平等の思想を持っていた」という点で有名である。しかし、その平等な思想の中身を考えてみよう。

松下村塾において門弟の身分の上下を問わなかった点において確かに松陰は他の多くの武士とは違っていたであろう。しかし、その発想・武士としての考え方は 他の武士達と変わらない。
彼もまた幕府を廃し世の中を天皇を中心とした国に作り変えようとする場合に頼んだのはやはり武士であった。平等であろうとしながらも武士階級とその他の『農工商』の違いを念頭においており決して彼らと手を繋ごうという気持ちは無かった。(但し、これは松陰のみでなく他の多くの武士もそうであったが。)武士である自分達の特権階級にしがみついてしまい、そこから抜けられなかった。以下の文章を見てみよう。

「・・・だが、現実から遊離した自己の絶対化は、閉塞した状況を打開できない絶望と表裏する。松陰の次の言葉にはそうした様相が現れている。

『只今の勢にては諸侯は勿論捌けず、公卿も捌け難し、草莽に止まるべし。併し草莽も亦力なし。天下を跋渉して百姓一揆にても起こりたる所へ付け込み奇策あるべきか。・・・・』」(高橋文博著 「吉田松陰」より引用)

この文章に示されたように 松陰は 民衆を利用できるなら利用しても良いと考えているようである。しかし、民衆と手を取って戦おうとするような気持ちは見られない。あくまで 民衆とは違う自分達の武士としての立場から抜け出られないでいる。ここら辺が 松陰の限界と言えるかもしれない。そして、この師に教えられた 伊藤博文や山形有朋らが この限界を感じる事も知ることもできず ただ弾圧するしかなかったのも 当然だったろう。

■吉田松陰というウソ

私どもの世代が受け、現在も脈々と続いている「官軍教育」の中で、「吉田松陰」という存在はその代表的な偽りである。今も信じられている吉田松陰像とは、大ウソであると断じていい。
維新の志士を多数輩出した松下村塾の主宰者にして、維新の精神的支柱となった偉大な思想家、教育者であり、正義を貫き「安政の大獄」の犠牲となった悲劇の主人公。
これが、私どもが学校教育、即ち公教育によって教え込まれた吉田松陰である。

実像は全く違う。
一言で言えば、松陰とは単なる、乱暴者の多い長州人の過激派若造の一人に過ぎない。今で言えば、センスの悪い地方都市の悪ガキといったところで、何度注意しても暴走族を止めないのでしょっ引かれただけの男である。
ただ、仲間うちではほんの少し知恵のまわるところがあって、リーダーを気取っていた。とはいえ、思想家、教育者などとはほど遠く、それは明治が成立してから山縣有朋などがでっち上げた虚像である。長州藩自体がこの男にはほとほと手を焼き、遂には士分を剥奪している。つまり、武士の資格がないとみられたはみ出し者であった。
松陰と言えば、誰でも「松下村塾」を開いて維新の「志士」たちを育成した指導者、と答えるだろう。松陰と松下村塾という言葉は一体となっており、松陰=松下村塾と刷り込まれている。実は、松下村塾とは、陽明学者ともみられる玉木文之進の私塾である。

安政2(1855)年、またも実家預かりの身となったままで叔父であり師でもある玉木文之進の「松下村塾」の看板を掲げ、久坂玄瑞や前原一誠たちと交わる。これは、僅か3年で閉じられるが、世に言う吉田松陰=松下村塾という維新のシンボルとも言える言葉は、この時期のことを指している。
公教育では、久坂、前原以外に、木戸孝允や高杉晋作、品川弥二郎、伊藤博文、山縣有朋等が門下生として教えを受け、維新の英傑を輩出したことになっているが、このことが大いに史実と異なる。

木戸は明らかに門下生でも塾生でもなく、高杉も“門下生”と言うより“ダチ”と言った方が近い。そもそも、松陰の松下村塾とは、師が何かを講義して教育するという場ではなく、同志が集まって談論風発、「尊王攘夷」論で大いに盛り上がるという場であったようだ。そういう仲間のリーダー格が松陰であり、いろいろな縁で山縣有朋のようなどこにも教えを受ける場のない境遇の者も集まるようになり、後輩も生まれてきたということのようである。(尤も松陰は、山縣のことを殆ど知らない)

安政5(1858)年、日米修好通商条約が締結されると、松陰は老中;間部詮勝の暗殺を計画、藩は再び松陰を捕縛、投獄した。
安政6(1859)年、幕府は松陰の江戸への送致を命令、松陰は伝馬町の獄舎にて斬首刑。満29歳(享年30歳)であった。
松陰は、大老;井伊直弼の暗殺も主張していた。また、幕府転覆を堂々と主張し、藩に対して大砲を始めとする武器の支給を願い出たりしている。とにかく、暗殺、暗殺と喚く。これがまた、久坂や前原といった松陰同様の“跳ね上がり”には受けたようだ。
長州藩が、杉家の杉梅太郎(松陰の兄に当たる)に警告を出している。
『妄動してやまざれば投獄あるのみ』
藩や門下生と言われる者たちの一族にしてみれば、松陰の言動は文字通り「妄動」であり、このことは時の政治情勢から客観視しても変わらない。久坂の一族などは、何とか久坂を松陰から離そうと苦労したことが分かっている。(久坂の妻は、松陰の妹である)

安政の大獄の名で大老;井伊が松陰に目をつけ、彼を処刑したことになっているが、当時の松陰は世間に溢れ出した尊攘派の中の特に荒っぽい一人に過ぎず、井伊は松陰という男のことなど知らない。井伊は、松陰の処刑について長州藩に意向を聞いている。長州藩の回答が、松陰の行動を「暴発」とし、「斬首やむなし」というものであった。
当時の幕閣にしても、諸大名にしても、松陰処刑を殊更の事件とも何ともみていない。不逞の輩が一人処刑されただけである。

こういう松陰を「師」であると崇めだしたのは、維新が成立してしばらく経ってからのことである。
拾い上げたのは、日本軍閥の祖、長州閥の元凶、山縣有朋である。

中間(ちゅうげん)という足軽以下の出自をもつ山縣は、自然と累進するに従い、拠り所が欲しくなったのだろう。また、それが必要と感じたに違いない。権力欲の強い男は、己を引き上げるためにこういうことをやる。自分に自信のない権力者ほど、その傾向が強い。これによって、吉田松陰=松下村塾は一気に陽の当たる場所へ躍り出た。あとは、雪だるまが坂道を転がるようなもので、気がつけば松陰は「神様」になっていたのである。

高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠等が、松陰の「遺志」を継いだ“跳ね上がり”であったことを整理して述べれば、松陰の実像はもっと理解し易くなる筈である。
百歩譲って、松陰が何らかの思想をもっていたとしても、それは将来に向けて何の展望もない、虚妄と呼ぶに近いもので、ひたすら倒幕の機会を窺っていた長州藩そのものにとっても松陰は単なる厄介者に過ぎなかった。

例えば、松陰の外交思想というものは余り語られないが、実に稚拙なものであった。北海道を開拓し、カムチャッカからオホーツク一帯を占拠し、琉球を日本領とし、朝鮮を属国とし、満州、台湾、フィリピンを領有するべきだというのである。これを実行するのが、彼の言う「大和魂」なのである。一体、松陰はどういう国学を勉強したのか。 
 
■「維新」の“真犯人”;水戸藩の狂気(其の六 水戸の公家かぶれと司馬史観の罪)
司馬遼太郎氏はこれについては大変な罪を犯している。司馬氏は、すべての暗殺を否定すると断言する、その同じ舌で「ただ、桜田門外ノ変だけは「歴史を進展させた」珍しい例外」であると断じ、このテロを高く評価するのだ。
驚くべき稚拙な詭弁だと言わざるを得ない。「歴史を進展させた」という一言で、司馬氏がどういうスタンスで幕末史を語っているかが明白に顕れている。
司馬氏には、人物で言えば三つの過ちがある。坂本龍馬(司馬氏は「竜馬」という表記で逃げ道を作っている)、吉田松陰、勝海舟の三人を高く評価した点である。既に述べたことであるから繰り返さないが、司馬史観というものがあってその核に「桜田門外ノ変」とこの三人の存在があるとすれば、司馬史観とは大いなる罪を犯していると言わざるを得ない。そして、それは創作された虚構に過ぎない。 

【結論】
・このように、吉田松陰とは実は単なるテロリストに過ぎないということがわかります。
体制を批判し、悪い奴を排除すれば世の中は変わるという短絡思考の元に、幾多の暗殺計画を企てる「跳ね上がり者」です。

・明治政府を作り上げたのは薩摩と長州です。明治政府を正当化するために長州を正当化し、さらに長州を正当化するために吉田松陰を偉人として山縣有朋らが神話を広げていったという構造です。

・そして、戦後にこの神話を広げていったのが司馬遼太郎です。 「明治は偉い、幕府はダメ」「戦後は素晴らしい、戦前はダメ」という思想に立脚して書かれているのが司馬遼太郎の文章です。この偏った思想の背景を、次回の記事でまとめていきますので、楽しみにしていてください!!
・吉田松陰の思想についても、その実態を分析します。尊王攘夷運動⇒倒幕運動を主導したのは身分序列の上位にいた下級武士たちです。庶民(農民・町人)はそれを傍観していました。

そして、幕末の下級武士たちが尊皇攘夷に収束していったのは、前稿(「幕末の思想1 下級武士が西洋思想に収束したのはなぜか?」)と同じ理由です。

下級武士が明治維新を遂行した必然性
【1】都市(市場)の住人となった下級武士は共同体と社会的役割を喪失した遊民と化しており、自我私権欠乏が潜在していた。
【2】喪失した社会的役割の代償として施された理想主義的教育の結果、武士たちは現実の圧力から乖離した観念思考に傾斜していった。
【3】さらに下級武士は年々貧しくなる一方で、立身出世の可能性もないために幕藩体制に対する不満と反体制(反秩序)意識が強くなっていった。「封建制は親の敵なり」と言った福沢諭吉がその代表である。
元々は幕藩体制の維持と社会の秩序化を目指した水戸学が、正反対の倒幕と秩序破壊の尊皇攘夷運動へと変質していったのも、それを担った下級武士が、共同体と社会的役割を喪失し、自我・私権の主体となり、反体制・反秩序意識を強く孕んでいたからです。

「日本を守るのに右も左もない」 より引用

つまり下級武士の反体制、反秩序意識の急先鋒が吉田松陰である。ここから生まれてくる『否定意識』から暗殺を次々と計画したということです。
そして否定意識であるが故に、思想そのものに中味がない。尊皇攘夷を主張したかと思えば開国を主張したりと筋も全く通っていない。
これが吉田松陰という人物の実態です!!
(記事引用)

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