「アメリカ」重工業の経済史
アメリカ合衆国の経済史(アメリカ)では、主に17世紀にヨーロッパ人が現在のアメリカ合衆国となった地域に入ってきてからの経済の歴史を概説する。
1776年、イギリスの13植民地が合同してアメリカ合衆国となった。19世紀の間に、アメリカ合衆国の経済は外資へ依存しながら工業化された。第一次世界大戦後にアメリカは世界経済の債権国へ伸し上がった。資源国としても世界中から移民を惹きつけて、技術と産業を国際的に発展させた。20世紀後半には、成長しつづける機関投資家が多様な市場に変革をもたらしたので、合法的であれ19世紀に劣らないような経済格差が広まった。
USドルは基軸通貨として国際需要が絶えず、国内では証券を主要な交換手段とするようになった。やがて証券は国際流動性にまで昇華したが、とりわけ労働市場における格差を是正しないまま大衆の債務を証券化していたので、危険は世界金融危機として顕在化することになった。

植民前史
アメリカ州の先住民族は、ヨーロッパ人が到着するまでアメリカ州以外との接触がほとんど無く、種族の間で交易がある程度だった。その経済の仕組みは、イロコイ連邦の場合など狩猟採集と農業の様々な組合せだった。農産物としては既にトウモロコシが広く栽培されていた先住民族の経済はヨーロッパ人の到来とその結果として疫病が入り、ヨーロッパ製品の流入、毛皮貿易に関連したヨーロッパ人との交易関係、武器の獲得と戦争への関与、土地の喪失および居留地での拘束というように大きく変えられていった。

1492年、クリストファー・コロンブスがスペイン国旗の下でアジア発見のために出航して、たまたま「新世界」に到着した。続く100年間、イギリス人、スペイン人、ポルトガル人、オランダ人およびフランス人探検家がヨーロッパから新世界に航海し、金、富、宗教的利益、名誉および栄光を探った。しかし、北アメリカの荒野は初期探検家達にほとんど栄光をもたらさず、金もあまり見つからなかったので、大半はここに居住することが無かった。北アメリカに定着するための人々がやって来たのはだいぶ遅くなった。1565年に現在のアメリカ合衆国内となるフロリダ州セントオーガスティンにスペインの植民地が造られ、その後の1607年、バージニア州ジェームズタウンに、小さな一団の開拓者がイギリスの恒久的開拓地を建設した。

植民時代

マサチューセッツ州セイラムにおける船積み風景、1770年代

独立戦争時の漫画。アメリカ人が困惑した表情のイギリス人の前で牛の角を切っている(イギリス商圏からの分離を象徴)。他のヨーロッパ列強はミルクを集めようと待っている。

初期の開拓地は簡単には自立できなかった。ジェームズタウンの場合、最初に到着した者の半数は病気と飢えのために最初の冬を越せなかった。その後も少なくとも3年間は本国からの補給に頼る状態が続き、放棄寸前までいった。1520年にニューイングランドに作られたプリマス植民地にしても、最初の冬を越すことが大変だったのは同様であり、その中で先住民族との関係を築き、トウモロコシの栽培方法などを習って飢えを凌ぐ途を探った。どちらの植民地もイギリス本国には植民地から上がる収益を期待して投資した者達の存在があり、その見返りになるものはなかなか見つからなかった。そうした中でジェームズタウンでは、ジョン・ロルフが西インド諸島から持ち込んだタバコの栽培に成功した。これがイギリスにむけて出荷されて評判を呼び、換金作物の目処が着いた。

初期開拓者は様々な理由でアメリカに来ていた。マサチューセッツ湾植民地のピューリタンはニューイングランドで浄化された宗教を生み出そうと望んだ。バージニア植民地のような他の植民地は主に事業創造として植民地を建設した。アメリカ合衆国となった地域にイギリスが植民地化して成功したことには、特許会社を使ったことが大きく寄与した。
特許会社は一群の株主(通常は商人と裕福な土地所有者)が個人的経済利益を追求し、恐らくはイギリスの国としての目標にも適うことを欲して作ったものだった。民間部門が会社の財政を担い、国王がそれぞれの計画に経済的な権利と政治・司法の権限を与える特許あるいは認可を発行した。
しかし、植民地は概して直ぐには利益を生まなかったので、イギリス人投資家達はしばしばその植民地特許を開拓者達に渡した。当時は認識されていなかったものの、この政治的意味合いは大きなものだった。植民地の者達は自分達で生計を立て、自分達の社会を作り、つまりは自分達の経済の仕組みを作っていくままに任された。

初期植民地で成功したのは毛皮用動物の捕獲と交易から得られたものだった。しかし植民地全体では主に小さな農園で自給自足で暮らす者が多かった。数少ない都市やサウスカロライナおよびバージニアの大規模プランテーションの中では、幾つかの生活必需品や事実上贅沢品の全てがタバコ、米およびアイのような輸出品との見返りに輸入された。交換手段は絶対的に不足していた。

このような中で後のニューヨークが発展を始めた。当初、オランダ人がマンハッタン島に交易所を作り、1625年にニューアムステルダムと呼び始めた貿易の中継点だったが、イギリスが1664年に占領して、ニューヨークと改名した。天然の良港とハドソン川水系を抱えたこの地域は、内陸でビーバーの毛皮とヨーロッパ製品を交換して運び出し、大西洋貿易に船積みすることで発展して、1660年頃の人口1,000人が1690年には6,000人、独立後の1790年には3万人を越えるまでになっていった。

開拓地を開いていくためには、労働力が必要だった。初期にはかなりの数のヨーロッパ人が年季奉公として連れてこられた。年季奉公から人種を区別した奴隷制への移行は徐々に進んだ。アフリカからの奴隷輸入は18世紀に入って急増し、1720年のサウスカロライナ植民地では人口の65%が奴隷だった[5]。ロードアイランド植民地のニューポートは奴隷貿易(三角貿易)の上で重要な港となった。

新国家図1.経済成長の推移、1700年-1850年

1787年にアメリカ合衆国憲法が採択され、国全体が一つになり、共通の市場、すなわち州間の交易には国内の関税や税金が無くなった。それでも1790年に行われた第1回国勢調査では、総人口はわずか393万人、ニューヨーク市の33,000人が最大で、1万人以上の都市は5つしかなかった。広大な土地にこの人口では経済的にヨーロッパ列強に太刀打ちできる状態ではなかった。アレクサンダー・ハミルトンは初代財務長官としてたいへん広い見解を持っており、連邦政府の権限がおよぶ範囲が大いに議論された。ハミルトンは富裕で政治に関心のある階級(政府を健全な状態に保つことに関心があった)に保有される国債を元に強い国の信用を造り上げ、また輸入品にかける関税で資金を集めた。ハミルトンは、アメリカ合衆国が多角的な船舶運用、製造および金融を通じて経済の成長を追求すべきと考えた。政府の支出に資するために保護関税のような手段を提案したが、ウィスキーに掛かる税金には西部(この時代は現在の東海岸の西部山岳地)の農夫達が強く反発した(ウィスキー税反乱)。1791年には議会に働きかけて第一合衆国銀行(現シティグループ)を創設する認証を得た。その公認期間は1811年まで続いた。

トーマス・ジェファーソンとジェームズ・マディソンは強い中央政府に反対した(その結果ハミルトンの経済政策の大半に反対した)が、ワシントン政権で広大な権限と強い政治力を発揮するハミルトンを止めることはできなかった。しかし、1801年ジェファーソンが大統領になり、ジェファーソン流民主主義と呼ばれるより分散的で農本的な民主主義を推進するように変わった。この考え方は危機感に裏打ちされていた。
1803年末に外国が連邦債務の約56%(4870万ドル)を保有していたのである。アメリカは英仏の対立に乗じて、戦争をしている両大国に食料や原材料を輸出し、国内市場とカリブ海の植民地の間で商品を輸送することから利益を生み出そうとした。マディソンはジェファーソンの後を受けて大統領となり、合衆国銀行の公認が1811年に消滅するままにさせた。しかし、アメリカの海運に対するイギリスの干渉が続いていたことなどに端を発した米英戦争が国定銀行の必要性を証明することになった(連邦負債総額1億1960万ドル)。ここでマディソンは立場を変えた。第二合衆国銀行は1816年に、20年間の公認期間で創設された。1818年、外国は連邦政府債務9900万ドルの約26%を保有したが、およそ半分がイギリス投資家に保有されていた。

拡張と成長

"最初のコットン・ジン"、1869年の想像図。最初のコットン・・ジンは1826年ギブソン郡につくられた。
1803年のルイジアナ買収により、西部の農夫達はミシシッピ川を重要な水路として使うことが可能となり、合衆国の西部辺境からフランス人を追い出すことで開拓者は広大な農地の拡張が可能となった。グレートプレーンズをふくむ同地域は世界の大穀倉地帯に成長していった。一方、綿花は当初南部での小規模作物だったが、イーライ・ホイットニーが1793年に綿花原料から種とその他の廃棄物を分ける機械であるコットン・ジンを発明した事によって盛況となった。間もなく奴隷労働に基づく大規模プランテーションが両カロライナ州からテキサス州にかけての肥沃な土地に拡がった。

毛皮貿易で一大資産を築いたアメリカ毛皮会社の所有者ジョン・ジェイコブ・アスターは、その事業から撤退した後に、ニューヨーク市のマンハッタン地区を買占めて開発し、アメリカ合衆国では最初の大富豪になった。

フルトンの外輪蒸気船クラーモント号


Robert_Fulton


1807年、ロバート・フルトンがハドソン川で外輪蒸気船クラーモント号を試運転して、オールバニまで遡った。これが蒸気船の実用化に拍車を駆けて、水上交通に急速に普及していった。1818年には帆船によるニューヨーク・リヴァプール間の大西洋定期航路が開かれ、1838年からは蒸気船も加わり、1848年から蒸気船による定期航路も開かれて、ヨーロッパへの往来が速くなり、安全性も増した。は

多くの者がアメリカ合衆国中西部のより肥沃な農地に移って行った。カンバーランド道路(1818年)やエリー運河(1825年)など政府が創設した道路や水路によって新しい開拓者の西部への移住を促し、西部農場の産品を市場に送ることが可能になった。ヘンリー・クレイのアメリカ・システムを支持したホイッグ党は内陸の改良(道路、運河、港)、産業の保護、および強い国定銀行の創設を提案した。しかし、ホイッグ党の法制化計画は民主党に遮られた。

この時代のアメリカは保護貿易政策を強化し、国内産業の育成を進めた。1824年関税法は商品の価格に応じて35%という高い関税率を定めた。1828年関税法では鉄などの原材料の課税額を重くした。しかし、農業産品の輸出に頼っていたサウスカロライナ州など南部は、輸出ができなくなると反発し、1832年関税法でもその状況が改善されなかったために、サウスカロライナ州ではこれらの関税が州内では無効となることを宣言した。無効化の危機と呼ばれるこの紛争は、後の南北戦争の伏線となった。

アンドリュー・ジャクソン大統領(在位1829年-1837年)は、政敵の固定化した利益のためになると信じた第二合衆国銀行に反対した。ジャクソンは2期目に選ばれたときに合衆国銀行公認期間の延長に反対し、議会もこれを支持した。ジャクソンは紙幣の流通にも反対し、政府の得るべき金は金貨と銀貨で支払われるべきであると要求した。

1837年恐慌が3年間経済の成長を止めた。期間延長を働きかけたヘンリー・クレイは1824年にギリシャ独立戦争でギリシャ側を支援した。延長問題は国際問題であった。1838年までに各州債務残高は1億7200万ドルにのぼった。ルイジアナには外資が集中投下されていた。州債はマーチャント・バンクが引受けることにより発行されていた(私募債)。
公債市場の役者は、たとえばロスチャイルド、ベアリングス銀行(米英戦争から第二合衆国銀行と親密化)、ホープ商会、オーバレンド・ガーニー(現バークレイズ)、サミュエル・ロイド(Samuel Jones-Loyd, 1st Baron Overstone)であった。恐慌ではシティ・オブ・ロンドンが資金を供給しきれず、欧州へ資金を頼った州も続出したので、1848年革命まで国際的な不況が続いた。

鉄道は財務と進歩した管理技術を持つ都市工業国家への転換を可能にすることで、アメリカ経済に決定的な影響を与えた。鉄道が「不可欠な」ものであるかどうかを問われたとき、全ての人は事実上大変重要であることに同意したが、それではそれが無かったときどうだったろうか? ロバート・フォーゲルは代案は存在した、実現されることの無かった運河の仮想のネットワークであるとしている。存在しなかった運河と比較して、鉄道は合衆国の国内総生産 (GDP) に5%を追加しただけだと、フォーゲルは主張している(1820年代と1830年代に多くの運河が建設されたが、エリー運河は別として大半が破産した)。
プラス面を見ると、鉄道は大規模な事業を運営する現代的手法を発明させ、全ての大企業が基本的に従う青写真を創出した。鉄道は最初に、管理の複雑さ、労働組合問題および競合の問題に遭遇した。これら急激な革新のために鉄道は最初の大企業となった。

何度か恐慌や不況を経験しながらも、19世紀中の急速なアメリカ経済の成長は留まらなかった。長期にわたる人口の増大、新しい農地への拡張および新しい工場の建設が続いた。新しい発明や資本の投入によって新しい製造業を創出し経済成長をもたらした。
輸送力が改善されると常に新しい市場が開けた。蒸気船は川の交通を速く安くしたが、鉄道の発展はもっと大きな効果があり、広大な新しい領土を開発することを可能にした。運河や道路のように鉄道は初期の建設段階で土地の払い下げという形で政府の大きな援助を受けた。しかし、他の輸送形態とは異なり、鉄道は国内やヨーロッパの民間資本も大量に受け入れた。

それでも成長の展望と海外投資が組み合わさり、金鉱の発見やアメリカの公的および民間の富が大きく関与したこともあって、大規模な鉄道システムを発展させることが可能になり、国全体の工業化の基礎となった。

「アメリカ合衆国の鉄道」
表1: 州群ごとの鉄道営業キロの増加
          1850年 1860年 1870年 1880年 1890年
ニューイングランド 4,011  5,856  7,190  9,571 10,930
大西洋岸中部    5,123 10,728  17,542 25,395 34,458
南部州       3,258 14,141  17,907 23,645 46,734
西部州と準州    2,042 18,240  39,339 84,142 99,830
太平洋岸州と準州       37   2,683 6,528 15,686
合衆国合計     14,434 49,002 84,662 149,282 207,638
SOURCE: Chauncey M. Depew (ed.), One Hundred Years of American Commerce 1795–1895 p 111

資料ウイキペディア

■□兎にも角にも世界はアメリカ抜きでは語れない
換言すれば、すなわち「トランプを抜きに語れない」となる。
ガソリンが高騰し、その大もと原油価格が一気に暴騰している理由はなんだろうか。そう首を傾げる人は多いだろう。
そんなパターンを繰返して久しい年数が経つが、そのメカニズムを解き明かしたものがいない。それほど分析が難しい。

前述ブログ記載では「原油100ドル超えはあるか?先高観に覆われる相場の正体ガソリン、灯油も軒並み高騰、原油価格はどこまで上がるか」と題して記事を書いたが、シェールオイル相場も含めて、その予測が困難を極めている。いったいどこがとうしたというのか。

その一因に「トランプ」発信(Twitter)が理由の一つとして上げられるだろうが、それでも決定打とはいえない。もっともっと本質的な「なにか」が潜んでいるような気もする。

ここでは飽くまで「気もする」と封じておいて発言する。
抜粋記事~
トランプファーストの政策運営
現在、米国の潜在成長率は1%台半ばから後半と考えられる。潜在成長率とは、一国内の資本と労働力、テクノロジーの要素を動員した場合に達成可能と推計される成長率のレベルをいう。言い換えれば、景気循環などの影響を取り除いた経済の実力だ。足許、米国の実質GDP成長率は年率ベース2.5%であり、実力以上に良い。
トランプ氏はこの成長率を自らの手腕で引き上げようとしている。同氏の経済運営はステロイドを使って、無理やり筋力を増強しようとする考えに似ている。

しかも、トランプの財政政策は財政赤字を拡大させるものである。財政赤字と言えばそれは国債であり、大量発行すれば値崩れ=金利がさらに上昇させるものである。それは、リスクの根源の金利差=“傾斜”がさらにきつくなるのである。
トランプの政策が、金融危機=バブル崩壊のリスクを高めるというわけである。トランプ政権が北朝鮮を爆撃した場合も市場に冷や水を浴びせることになるのは、いうまでもない。
FRBでも新議長になると、市場の洗礼ともいわれる試練が良くあるものである。それは市場が新しい議長の能力を試すようなものである。グリーンスパンの時のブラックマンデー、イエレンは自信の演説による混乱などがあった。まさに、パウエルのその能力を、トランプ以下、米国議会は承認したはずである。
(記事複数引用)

このように「トランプ評」は未だに定まっていない。そうしてる間にも電光石火の火花がトランプから放たれる。

トランプ米大統領の元側近2人が脱税などの罪で有罪になったことで、大統領自身の「弾劾」つまりは罷免されることの可能性が浮上してきたと報じられるが、果たしてそうなのだろうか?
まず、「弾劾」は合衆国憲法第2条⒋項には次のように規定されている。
「大統領、副大統領及び合衆国のすべての文官は、反逆罪、収賄罪またはその他の重罪及び軽犯罪につき弾劾され、かつ有罪の判決を受けた場合はその職を免ぜられる」
手続き的には、まず下院で過半数の賛成があれば訴追でき、上院で裁判が行われ有罪の判決には出席議員の三分の二の賛成が必要。
木村太郎
[ニューヨーク 9日 ロイター BREAKINGVIEWS] - トランプ米大統領による最高裁判所判事の指名は、規制緩和面でビジネス界への贈り物となりそうだ。指名されたブレット・カバノー氏。
(記事引用)

IQの数化
政治中枢をこれほど物議とスキャンダルに巻き込み、そして延命している人物もないし仮にもそれは「ノーベル」フェイクものだ。
また北の金正恩(キム・ジョンウン)、と再度交渉も画策していて、世界と「ホワイトハウス」が右往左往し翻弄されている。

果たして氏は頭がいいのか悪いのか、と判定すれば「いい」の部にはいると私は見ている。そのわけを書くために、この枠外ページを割いて記述した。

氏が一貫して主張しているのはアメリカ国益であり、世界は対等に戦うべきだと述べている。その旗印が貿易高関税だった。これで各国貿易享受国は一瞬にしてフリーズした(といっても実施されるかどう疑問で得意のTwitter発言の脅しもある)。

その施策にしてみても、アメリカの昔に戻す、というのであり特別論外な政策を押し付けているわけでもない。しかし長年やってきたその貿易黒字で潤ってきた国は、ドル箱を失うことになる。

サラリーマンがマイホームを買うのに銀行からローン30年.6000万円借りて、やっと三分の一を返済したころ、いきなり全額返せ、と迫られたようなものだった。それだって違法ではない、契約約款にはそう書いてある。自分がそれを確認もしないのに、一方的に悪徳高利貸し金融呼ばわりし、おれは犠牲者(大アクションクレーマー)だと言いふらす様に似る。

どちらが正しいか~世間的、世相的にみれば犠牲者が同情を買い、悪徳金融が炎上するのが当世流だ。だから理論的にはアメリカトランプは理不尽なことを他人様に吹っかけているわけではないことになる。

この話題で思い出したのが江戸の盗賊悪党「ねずみ小僧・鼠小僧次郎吉」だった。

ドラマ定番、桜吹雪の「遠山の金さん」こと「遠山金四郎景元」と同様、日本を代表する二者は、実在の人物で後に本に脚色されベストセラーとなる。
遠山金四郎景元、官位従五位下左衛門少尉文化6年(1809年)、父の通称であった金四郎に改める。

鼠小僧(ねずみこぞう、寛政9年(1797年) - 天保3年8月19日(1832年9月13日))は、江戸時代後期(化政期)に大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯。本名は次郎吉(じろきち)。鼠小僧次郎吉として知られる。本業は鳶職であったといわれ、義賊の伝承で知られる。 
生い立ち - 盗人稼業へ・1度目の捕縛
歌舞伎小屋・中村座の便利屋稼業を勤める貞次郎(定吉・定七とも)の息子として元吉原(現在の日本橋人形町)に生まれる。10歳前後で木具職人の家へ奉公に上がり、16歳で親元へ帰った。その後は鳶人足となったが、不行跡のため父親から25歳の時に勘当される。その後は賭博で身を持ち崩し、その資金稼ぎのために盗人稼業に手を染めるようになったと伝わる。

文政6年(1823年)以降、武家屋敷の奥向に忍び込むこと28箇所32回に及んだが、文政8年(1825年)に土浦藩上屋敷(現:日本橋蛎殻町二丁目。当時の藩主は奏者番の土屋彦直)に忍び込んだ所を捕縛された。南町奉行所の尋問を受けるが、「初めて盗みに入った」と嘘をついて切り抜け、入墨を入れられた上での中追放の刑を受ける。
なおも続く盗人稼業 - 2度目の捕縛・処刑
一時は上方へ姿を消し、江戸に密かに舞い戻ってからは父親の住んでいる長屋に身を寄せる。しかし、賭博の資金欲しさにまたもや盗人稼業に舞い戻る。
その後7年にもわたって武家屋敷71箇所、90回にわたって忍び込みついに天保3年5月5日(1832年6月3日)(日付については8日(6日)などの諸説あり)、日本橋浜町の上野国小幡藩屋敷(当時の藩主は松平忠恵)で捕縛された。

北町奉行・榊原忠之の尋問に対し、10年間に荒らした屋敷95箇所、839回、盗んだ金三千両余り。と鼠小僧は供述したが、本人が記憶していない部分もあり、諸書によっても違うので正確な金額は未だに不明である。

3ヵ月後の8月19日(9月13日)に市中引き回しの上での獄門の判決が下される。この刑は本来なら凶悪犯(放火や殺人)に適用される刑であり、この判決は面子を潰された武家の恨みの産物という見方もできる。なお、引き回しの際には牢屋敷のある伝馬町から日本橋、京橋のあたりまで有名人の鼠小僧を一目見ようと野次馬が大挙して押し寄せた。市中引き回しは当時一種の見世物となっており、みずぼらしい外見だと見物人の反感を買いかねなかった為、特に有名な罪人であった鼠小僧には美しい着物を身に付けさせ、薄化粧をして口紅まで注していたという。五尺に満たぬ小男で、動作敏捷といい、捕まったときは碌な家財道具もなく金もなかった。

処刑は小塚原刑場にて行われた。
鼠小僧墓(両国回向院)
当時の重罪には連座制が適用されていたが、鼠小僧は勘当されているために肉親とは縁が切れており、数人いたという妻や妾にも捕縛直前に離縁状(離婚証明)を渡していたため、天涯孤独の身として刑を受けた。この自らの行いに対しあらゆる人間を巻き込まずに済ませたという点も、鼠小僧が義賊扱いされる要因のひとつとなっている。
墓は両国の回向院にある。参拝客は長年捕まらなかった幸運にあやかろうと、墓のお前立ちを削って持ち帰り、お守りにしている[2]。また愛知県蒲郡市の委空寺にも母親の手によるとされる墓を移設したものがある。その他、南千住の小塚原回向院、愛媛県松山市、岐阜県各務原市等にも義賊に恩義を受けた人々が建てた等と伝えられる墓がある。
鼠小僧について「金に困った貧しい者に、汚職大名や悪徳商家から盗んだ金銭を分け与えた」という伝説がある。この噂は彼が捕縛される9年も前から流れていた。事実、彼が捕縛された後に役人による家宅捜索が行われたが、盗まれた金銭はほとんど発見されなかった。傍目から見ると彼の生活が分をわきまえた慎ましやかなものであったことから盗んだ金の行方について噂になり、このような伝説が生まれたものと考えられる。しかし現実の鼠小僧の記録を見るとこのような事実はどこにも記されておらず、現在の研究家の間では「盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着している。

鼠小僧は武士階級が絶対であった江戸時代に於いて、大名屋敷を専門に徒党を組むことなく一人で盗みに入ったことから、江戸時代における反権力の具現者のように扱われたり、そういったものの題材して使われることが多い。しかし、これについて資料が残されていない中で鼠小僧自身にその様な意図が無かったという推測もある。彼が大名屋敷を専門に狙った理由については、敷地面積が非常に広く一旦中に入れば警備が手薄であったことや、男性が住んでいる表と女性が住んでいる奥がはっきりと区別されており金がある奥で発見されても女性ばかりで逃亡しやすいという理由が挙げられている。また町人長屋に大金は無く、商家は逆に金にあかせて警備を厳重にしていた。大名屋敷は参勤交代等に代表される江戸幕府の経済的な締め付けや謀反の疑いを幕府に抱かせるおそれがあるという理由で警備を厳重に出来なかったものと考えられ、また面子と体面を守るために被害が発覚しても公にしにくいという事情もあった。
※資料ウィキペディア

解説が長くなったが、実在人物として詳細が必要だと思った。大方、二者架空の人物と認識している方々のために参考にした。

これはまったくアメリカ大統領トランプとはなんの関連性もないが、昨今、アメリカで「忍者」ブームが流行っていて、それに併せて書きたした。
しかしこの年代のアメリカは蒸気船による定期航路が開通した年代であり、その差が歴然である。

話題が飛んでしまったが、そうした時代の比較でアメリカの本質が見え、また欧米経済スタートラインの線が、どこにあったのかがよくわかる。

遠山の金さん、鼠小僧次郎吉にこの話しを持ち出して設問したところで、解答は出ないだろうが、デジタル通貨また世界の1パーセント富裕者の富が、世界を覆っている現在、それら1%からおすそ分けをいただいたとしてもバチは当たらないだろうが、法律的には窃盗であり処罰される。
方法論として仮想通貨の巨額窃盗ハッキングがその「鼠小僧」に似ているだろうが、いまのところそれを礼賛するものは誰も居ない。
もし、と仮定してそのおこぼれが一般市民になんらかのカタチで還元されたとしたら、また違った展開がおこると思慕しているが、所詮かなわぬ願いだろう。
しかしこのまま1%富裕層がさらに貯め込んだとすると世界経済の将来はダークサイト化していくことが必至だ。それは実際の戦争よりもっとおそろしい修羅図が描かれるにちがいない。

それを警告してこの仮想サイトを閉める。