「戦争と武力紛争の兵器」としての性暴力――ナディア・ムラド氏自伝『THE LAST GIRL』 - 末近浩太 / 中東地域研究
2018年12月06日 15:54
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今年度のノーベル平和賞を受賞したナディア・ムラド氏の自伝、『THE LAST GIRL:イスラム国に囚われ、闘い続ける女性の物語』(ジェナ・クラジェスキとの共著、吉井智津訳、東洋館出版社、2018年)が刊行された。イラク出身のムラド氏は、2014年8月、故郷のコーチョ村で過激派組織「イラクとシリアのイスラーム国(ISIS)」の戦闘員たちに捕えられ「奴隷」にされた。

ISISの戦闘員たちは、ムラド氏らヤズィディ教徒(後述)にイスラームへの改宗を強要した。それを拒否した男性や老人は虐殺され、若い女性たちは「奴隷」として売買された。改宗を拒んだ彼女は、その「奴隷」の1人として、ISISの実効支配地域のなかでわずかな金銭で繰り返し取引され、戦闘員たちによる壮絶な性暴力の被害を受けた。

同年11月、彼女は、監禁場所のあったイラクのモスルを脱出することに成功、ある家族の支援によってクルド人地域の難民キャンプにたどり着き、その後、ドイツで保護されることとなった。

それからのムラド氏は、人権活動家としての活動を開始する。自身の体験を語ることを通して、ISISによる凄惨な暴力の実態を全世界に伝え、また、自分と同じようにISISに捕えられた人びとの解放を訴えた。

最近、ジャーナリストの紛争地への渡航の是非が再び論議を呼んでいるが、いかなる立場をとるにせよ、確かなことは、「誰かが伝えなければ伝わることはない」という単純な事実であろう。

ムラド氏にとって、性暴力の被害者である自身の体験を語ることは、筆舌に尽くしがたい苦しみと困難をともなうものである。しかし、それでもなお、彼女は、文字通り自分の身を挺して、全世界に向けて紛争地における性暴力の根絶を訴え続けた。もし、彼女の訴えがなければ、国際社会によるイラクやシリアのISISへの対応はもっと鈍いものになったかもしれない。

こうした勇気ある活動が高く評価され、このたびのノーベル平和賞の受賞となったのである。受賞の理由は、「戦争と武力紛争の兵器として用いられる性暴力を終結させるための努力に対して」であり、性暴力被害に遭った人びとの治療に尽力してきたコンゴ民主共和国の医師デニ・ムクウェゲ氏との同時受賞となった。

なお、ムラド氏は、ノーベル平和賞に先駆けて、2016年にはヴァーツラフ・ハヴェル人権賞とサハロフ賞も受賞している。

ISISにとってのヤズィディ教徒
なぜ、ISISは、ヤズィディ教徒に対してかくも凄惨な暴力を振るったのだろうか。そこには、どのような論理があるのだろうか。

ISISは、過激派と呼ばれるが、思想的に見れば、イスラーム主義の一種である。イスラーム主義とは、イスラームの教えに基づく社会変革や国家建設を目標とする政治的イデオロギーである。ただし、ISISは、この目標を暴力でもって実現しようとしたこと、そして、その根拠となる「イスラームの教え」を恣意的かつ極端なかたちで解釈したことを特徴とする。言い換えれば、暴力と不寛容がISISの特徴であり、それこそが過激派たるゆえんであった。

ISISは、恣意的かつ極端なかたちで解釈した「イスラームの教え」を振りかざし、そこから逸脱するものを徹底的に否定した。ムラド氏が信仰するヤズィディ教も、その1つであった。

ヤズィディ教とは、イラク北部のクルド人地域を中心に奉じられている民族宗教(原則、他宗教の信者が入信することはできない)である。世界を司る孔雀天使の崇拝と輪廻転生の死生観を特徴としており、そのルーツはミトラ教やゾロアスター教にあると言われているが、実際には、キリスト教、ユダヤ教、イスラームといった一神教の影響も受けているとされる。教典を持たずその教義は口承によって伝えられてきており、信者は太陽に向かって礼拝する。

イスラーム教徒が人口の大半を占める今日のイラクにおいて、ヤズィディ教徒は紛れもなく宗教的なマイノリティであり、ムラド氏自身も、その信者の数は「世界全体でも100万人ほどしかいない」(p. 20)と述べている。

ISISは、ヤズィディ教徒を「不信仰者」や「悪魔崇拝者」として殲滅すべき者たちと考えていた。2014年10月にインターネット上で流布されたISISの機関誌『ダービク』第4号の特集「奴隷制の復活」では、ヤズィディ教徒を「奴隷」とすることがイスラーム法的に「合法」であるとの見解が示され、特に女性の「奴隷」の扱いについて詳細な「ルール」が設定された。そこでは、ヤズィディ教徒はイスラーム教徒ではないため、単なる所有物として(結婚することなしに)性行為が可能であること、複数人を所有することが可能であること、売買が自由であることなどが示された。

ムラド氏は、その「奴隷」の1人として、捕らえられてから脱出するまでの約3ヶ月のあいだにも何度も売買され、そのたびにISISの戦闘員たちによる凄惨な性暴力を受けた。彼女は、その「奴隷」を指す「サビーヤ」というアラビア語は「はじめて聞く言葉だった」と述べている(p. 169)。ISIS以前のイラクでは、少なくとも、彼女の暮らしていた地域では、「奴隷」など言葉としても存在していなかったのだろう。

「戦争と武力紛争の兵器」としての性暴力
こうしたISISによるヤズィディ教徒への暴力については、眉をひそめるイスラーム教徒が多い。いや、むしろ、世界中のほとんどすべてのイスラーム教徒がISISの振りかざす独自のイスラーム解釈を認めていない、というのが実情であろう。

しかし、それゆえに、ムラド氏が告発した凄惨な性暴力の実態が、ISISという狂信的で異常な集団による「特殊なもの」として見られがちとなる。あるいは、中東以外に暮らす人びとには、そもそもイラクやシリアで続く政治的混乱自体が「特殊なもの」に見える場合もあるだろう。

ムラド氏が人権活動家となった背景には、自身がISISによる性暴力の被害者であるという「当事者性」が横たわる(ただし、彼女が自ら望んでそうなったわけではないことは、繰り返し強調しておかなければならない)。そのため、彼女の活動に関する報道では、「ISISの性奴隷」といった表現がしばしば用いられてきた。

ここには、世界を震撼させた「ISIS」と世界には存在してはならない「性奴隷」という2つのセンセーショナルな言葉が含まれており、結果として、多くの人びとの関心を集めてきた半面、彼女の発するメッセージが持つ普遍性をスポイルしてきたように思う。

すなわち、「戦争と武力紛争の兵器として用いられる性暴力」がISIS実効支配下のイラクやシリアの地でしか起こりえない「特殊なもの」であるかのような印象を助長してしまうのである(その意味では、筆者のような中東を対象とする地域研究者がムラド氏を語ること自体に、ジレンマや葛藤がつきまとう)。

だが、ムラド氏が訴えているのは、イラクやISISに限定されない、紛争地一般で発生し続けている性暴力の撲滅である。自伝のタイトルである『THE LAST GIRL』 には、彼女自身こそがこうした性暴力の最後の被害者となる、つまり、これ以上の性暴力の拡大を許さない、という強い意思が込められている。

ムラド氏は、上述のISISの機関誌『ダービク』における「奴隷」に関する記述について、「ISISはその構成員らが思っているほど独創的なわけではない。レイプが戦争の武器として使われるのは、歴史上これがはじめてのことではないのだから」と述べている(p. 192)。

2016年9月、彼女は、人身売買の被害者らの尊厳を訴える国連親善大使に就いた。そして、世界各地の紛争で起こっている性暴力が「戦争と武力紛争の兵器」として用いられていることをあらためて強く非難し、その根絶を訴えた。

ムラド氏のメッセージが持つ普遍性
私たちは、ムラド氏のメッセージを「特殊なもの」に矮小化せず、その普遍性を持つものとして受け止めなければならない。「ISISの性奴隷」といったセンセーショナルな話題として消費され尽くすことを避けるためだけではない。米国や欧州をはじめとする世界各国で伸張しつつある反イスラーム感情や移民・難民を敵視する排外主義に簡単に利用されてしまうことを防ぐことにもつながるからである。

2014年に同じくノーベル平和賞を受賞したパキスタン出身の人権活動家マララ・ユースフザイ氏(中学校からの下校途中にパキスタン・ターリバーン運動による銃撃を受け瀕死の重傷を負った)がそうであったように、過激派による暴力の被害者は、イスラームを嫌悪・敵視する人びとによって利用されてしまうことがある。

そうした人びとは、イスラームという宗教の「残虐性」や「野蛮さ」を示すために、過激派による暴力の被害者を「証拠」として利用する。特に、ムラド氏は(ユースフザイ氏の場合とは異なり)イスラーム教徒ではなかったため、「イスラームが他宗教に対して敵意を抱いている」「イスラームは他宗教と共存不可能である」といった言説やヘイトスピーチに利用されかねない。

ムラド氏のメッセージは(そして、マララ氏のそれも同様に)、特定の宗教や国に限定されるものではない。仮にそれを特定の宗教や国を貶めるためや、自分と他者を峻別するためだけに利用してしまえば、それはもはやISISによるヤズィディ教徒への差別と暴力の論理と変わらないものとなってしまう。そして、新たな差別と暴力の被害者が生まれることになる。

ムラド氏が親善大使を務めている国連による報告書(2018年4月)を見てみると、「確認できる(verifiable)情報がある」ケースに限ってみても、「紛争地における性暴力」が問題となっている国の数は19にも上っている。そして、その行為主体のほとんどすべてが非政府主体であり、その内訳を見ても、ISISのような過激派やイスラーム主義を掲げる組織・団体に限られているわけではなく、宗教もイデオロギーも多種多様である。

2018年10月5日、ノーベル平和賞の受賞が決まった日、彼女はロイター通信のインタビューに対して、次のように述べている。

「この賞を、すべてのヤズィディ教徒、イラク人、クルド人、すべてのマイノリティ、そして、世界中のすべての性暴力に遭った人びとと共有する。」


ムラド氏の自伝は、彼女自身の個人的な体験に紙幅のほとんどがさかれている。そして、読者は、その過酷な体験に胸が潰れるような思いを抱くだろう。しかし、どれだけ感情を揺さぶられても、苦しみと困難をともなう語りを通して発せられる彼女のメッセージが持つ普遍性をしっかりと受け止める必要がある。

末近浩太(すえちか・こうた)
中東地域研究 / イスラーム政治思想・運動研究
中東地域研究、イスラーム政治思想・運動研究。1973年名古屋市生まれ。横浜市立大学文理学部、英国ダーラム大学中東・イスラーム研究センター修士課程修了、京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科5年一貫制博士課程修了。博士(地域研究)。日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、現在立命館大学国際関係学部教授。この間に、英国オックスフォード大学セントアントニーズ・カレッジ研究員、京都大学地域研究統合情報センター客員准教授、、英国ロンドン大学アジア・アフリカ研究学院(SOAS)ロンドン中東研究所研究員を歴任。著作に、『現代シリアの国家変容とイスラーム』(ナカニシヤ出版、2005年)、『現代シリア・レバノンの政治構造』(岩波書店、2009年、青山弘之との共著)、『イスラーム主義と中東政治:レバノン・ヒズブッラーの抵抗と革命』(名古屋大学出版会、2013年)、『比較政治学の考え方』(有斐閣、2016年、久保慶一・高橋百合子との共著)、『イスラーム主義:もう一つの近代を構想する』(岩波新書、2018年)がある。
(記事引用)

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読み書き、そろばんはすでに「死語」か
それはおどしのようにも取れるしまた、それは実際ホンとなんだろうと疑心暗鬼になるが。

そこではたと考えたが、「読み書き」の必須とは何か、を考えるとまず少し前のリテラシーとして「新聞」を読むこと、じゃなかったか。

いま新聞は読まない。

ソロバンで計算はしない、電卓だ。

ニュースは何から取得する、スマホ端末で、暇があればゲームして音楽聴いたり、とか。

会話とか人とのコミニケーションはsnsで「いいね」してもっぱらで会話しない。面倒だし相手が誰だかわからないし。

恋人??? それが同姓だった場合社会的に排他的に除外される。

普通の結婚でもセックスがしたくないし子供もそだてられないし、生活に余裕ないし国もあてにならないから。

若者からそんな返事が帰ってきたら、読み書き電卓も必要ないし、そのうちAIが全部請け負ってくれるので心配ない。

それを誰がしたって、戦後の世界経済を作った人たちが全部やってくれたし、私たち、何もしてない。

これを訳して自己責任、自業自得という。

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言ってはいけない!「日本人の3分の1は日本語が読めない」
2019年2月16日 11時0分 文春オンライン
OECDによる国際調査で「先進国の成人の半分が簡単な文章を読めない」という衝撃の結果が明らかになった。人間社会のタブーを暴いた『もっと言ってはいけない』の著者が知能格差が経済格差に直結する知識社会が、いま直面しつつある危機に警鐘を鳴らす。

以下削除 ◆◆◆