斉藤実 伝
1 大陸に吹きすさぶ嵐  著者北山敏和
 1929年(昭和4)秋アメリカから始った経済恐慌が、たちまち全世界に波及し、日本も不況に陥った。
 先進諸国はそれから脱出する途として、海外市場獲得の目的を立て軍備拡充の熱が昂まった半面、第一次世界大戦の反動と、財政難のために、軍備縮少が強く望まれた。
 ジュネーブ会議(斎藤実全権委員)といい、パリに於ける大国間に結ばれた不戦条約といい、英の招請で開かれたいわゆるロンドン会議というものも、すべて目的とする所は、地球上から戦争をなくす念願から出ているのだった。
 わが国はそのいずれにも加盟したのであるが、そのうちロンドン会議での結果として、日本海軍の保有艦数は、米国に対して、補助艦全体で7割、重巡洋艦は6割、潜水艦に於て米国と同量が許される、という割当てで落着したが、軍拡を希う人々は収まらなかった。
 まず軍令部が『これを呑むというのは統師権を侵犯する不屈な越権である』として怒り出し、やがて右翼が騒いだ。
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米国公使館時代(海軍大尉)

 そしてこれは政府の軟弱外交のせいだとし『財閥と組んで腐敗堕落の政治を行う議会政治そのものが悪いのだ』と政治制度の否定を明らさまに唱える者もあった。
 経済不況も政策が良くないからだと解釈して、その立場からの議会政治不信の徒も出て来た。
 当時続出した右翼のうち北一輝らの一派は、軍部という一大組織を動かすことによってしか、理想的な社会的改造成就は不可能と考え、軍部内に喰い込んで青年将校群と提携し、まず皇室中心の軍部独裁政権樹立を目論んだ。
 これは政府の大官や要人の暗殺を前提とした恐るべき陰謀であったが、事露われて未然に終ったが、軍部では極秘に処理して首謀者の処刑もなく、これら三月事件とか十月事件といわれたものもうやむやのうちに葬られてしまった。
 
 しかしこの時すでに後の二・二六事件の先例が、そっくりそのまま不発で行われていたのである。
 軍部内で以前から夢想していた軍部独裁政権欲は右翼のそそのかしもあり、陰に陽に議会否認の態度をとる軍部官僚が中堅将校以下に多くなって行った。

 満洲事変は斎藤実が第2回目の朝鮮総督をやっていた昭和6年(1931年)9月に関東軍が起したものだったが、張学良軍の敵対行為であると称してそのまま戦線を満鉄全沿線に拡げて占領してしまい、事変勃発当初から日本政府が指令した不拡大方針を全く無視して関東軍は全満洲に進撃していった。

 日本軍が大苦戦した上海事変も軍部の独走で中国国民政府は国際連盟に日本の侵略行為を提訴し、リットン調査団が現地調査に来ても軍事行動を止めず、むしろ挑戦するかの如き態度で、清朝最後の皇帝溥儀を執政とする五族協和制の満洲国を建国しやがて帝政に切りかえた。
 当然の帰結だが国際連盟を日本は脱退して、以後は道義的顧慮も制肘(せいちゅう)を受ける何物もないと、大陸侵略政策に突進して行ったのである。

2 再び朝鮮総督に就任  

 昭和3年は彼にとって、叔父の死という哀しみはあったけれど、比軟的のびやかな年であった。
 秋11月には今上陛下の即位大礼式に参列し、楽しい忙しさの中に平穏に暮れた。
 翌けて4年8月に図らずも、2度目の朝鮮総督の大命を受けた。
 陸軍大将の山梨半造のあとである。
 1度目の朝鮮総監は8年半も勤めたのであるが、それから僅か1年半での復帰は、他に適任者が得られないと共に現地朝鮮の彼を慕う民衆の声に動かされての人事であった。
 全く慈父の如く半島人はなつき、また各般の施策よろしきを得たから、数年にして半島の全貌が昔の俤(おもかげ)と異ってしまった程である。
 山梨も格別ヘマをやったのではなかったが、斎藤の物凄い人気に当てられてしまって嫌気がさしてしまったのだろう。
 しかし昭和6年5月中旬、東京に帰って私邸で入浴後に卒倒し、医師から絶対安静と言渡されたため朝鮮生活を打切ることを決心した。
 その時の病気は案外軽く済んだが、そのまま辞表を提出し故郷の水沢にも帰ったりなど暢気に静養して健康を回復した。そしてその年の秋には朝鮮に戻り、永年の交誼を謝すために知友を訪ね、思い出探い各地の山川を歩いた。

3 祖国日本の変容  

 彼が前後10ヶ年以上も、植民地朝鮮半島の整備繁栄に心魂を傾けている間に、日本国内は目ざましい躍進を逐げて、世界の1等国と自負するまでの実力を蓄積していた。
 しかしそれと共に、そのうぬぼれの孕(はら)む恐るべき危険性も増長していた。
 朝鮮に在っても彼には掌を指すように判ってはいたであろうが、帰って見て肌身に感じて、予想以上に憂うべき実体と知って驚いたであろう。
 彼が前の朝鮮総督の間(昭和2)に全権委員として務めたジュネーブ会議(結果は決裂したが)も、翌年パリで主要諸国間に、国際紛争解決の手段として戦争に訴えないという不戦条約も、2年後のロンドン会議(英の主唱で日米仏伊が招請された)も目的とする処は非戦和平の為めで、世界共通の風潮だったが日本海軍の増強に怖れを懐いてのものでもあった。
 殊に米軍艦より下まわる艦積を強いられたロンドン会議は明らかに日本を押えておく魂胆のものだった。
 軍縮は平和を願う気持からだけでなく、当時の世界は経済恐慌に見舞われていた点からも必要であったが、わが軍部は強気一点張りでありロンドン会議の結果に対しては非難が昂まった。

ジュネーブ軍縮会議途上の斎藤実夫妻

 民間の右翼もこれに同調したが、民政党の浜口雄幸内閣はそれらの反対をおさえて批准した。従来の右翼は一種の暴力団だったが、その頃から変貌して、政府や社会の動揺に乗じて国内のファッシズムの体制を固めようとする徒党的政治結社となり、たえず軍の若手将校に喰い入っていた。

 軍も右翼も政府の軟弱外交を憤慨し、昭和5年2月にはロンドン軍縮を批准した浜口首相は東京駅頭で右翼団員のため重傷を受け、やがて死んだ。
 
 北一輝などは天皇制を背景に、軍部独裁制と戦争による現状打破を主張し、一部青年将校らに強い影響を与えていた。
 いわゆる三月事件とか十月事件と称されるものは、それの実行運動(いずれも失敗に終ったが)の現れであった。
 斎藤は軍部の青年将校たちの変りように最も驚き、将来を憂えたに違いない。
 全く彼らの思い上りようは内地はもとより外地、たとえば関東軍の青年将校層などにも共通するもので、政令無視を平然とやる程にまで増長していた。
 関東軍が柳条溝の満鉄線路で起した小爆発事件をきっかけに(張学良の関東軍にする敵対行為と主張して)軍事行動を起し、無際限の拡大を示した。
 浜口の後継の若槻首相が不拡大の方針を指令しても無視して(陸軍中央部も政府を圧迫し)全満洲にわたって進撃した。
 若槻内閣は(8ヶ月で)こうした軍の圧迫に退陣して犬養毅が首相となったが、荒木陸相が代表となってファシストの圧迫は依然たるものだった。
 戦火は中国南部に拡大され、上海事変と呼ばれる激しいものとなり、長くかかってやっと収まった。
 中国は国際連盟に日本の侵略行為を提訴したので、リットン調査団が現地調査して日本の侵略行為を認め、満洲を国際管理下に置くことを求めた。
 そこで国際連盟を脱退して自主外交だとして、なおも中国侵略を進めるという軍の無理押しの方針に、政府も引きずられていった。
 満洲国を建国し溥儀(はくぎ)を執政に迎えて五族共和の宣言をしたのは、リットン調査団が満州に乗込んで調査に廻ってる最中に強行したのであった。
 軍の眼中には政府もなければ、国際連盟もないという鼻息だったのである。
 実際に満洲事変の緒戦の頃は連戦連勝という具合で、国内からも喝采の声が上ったものである。
 従ってこうした軍の推進力と支援役であった血盟団や、愛郷塾、神武会、国本社等々の狂信的な右翼団体が勢力を得て、彼らの主張と相反し、又はためらう支配者層に対して、個人的テロをどんどん実行した。

 昭和7年に前蔵相井上準之助が、その翌月には三井財閥の大番頭団琢磨が血盟団に暗殺された。
 続いて5月15日、右翼団体と常日ごろ深い関係をもっていた数人の海軍将校らのために、首相犬養毅が有名な『話せばわかる』『問答無用』のやりとりの上でピストルの引金を引き暗殺された。
 これが五・一五事件で、それまでの数多くの暗殺のうちでも有名なのは、臨終の芝居がかっているせいによろうか。
4 斎藤内閣の組閣から二・二六事件まで  

 斎藤はもともと軍人ではあるが当時の若手将校は肚に飛んでもない野心を待っているのだから、理屈や正論などの通る相手ではなく、扱い方はひと通りやふた通りのものではなかった。

 右翼という存在も軽視出来ず、政党はやむを得ず後退した形といっても尊重せねばならず、という考えから時勢の要望と観て、挙国一致体勢の内閣を組織することにした。
 後藤文夫という官僚の代表が中心で人選したのだが、後藤にそういう大事な仕事を任したのは、彼は元来右翼と関係深い男であることも、考慮に入れていたのであろう。
 斎藤の寛大さは、朝鮮に渡って最初の下僚集めの時も全部人任せでやり、自分は文句もいわずにしかもあの善政10ヶ年以上の成果を収めたのだから、何とも不可思議な測り知られない超人という外はない。
 斎藤内閣には高橋是清が政友会から蔵相として入閣した。高橋是清は首相級の貫録の人で斎藤とは古くから肝胆相照した仲でもあり、片腕的存在として内閣に重みを増した。
 斎藤内閣は9月に満洲国を承認し、日本の独占的権益及び日本軍の駐屯とを確認させる「日清議定書」に調印した。
 日本軍の中国に於ける侵攻はかなり進んでいて、一応この上げ潮と見える情勢に妥協の必要があっだろう。 中国大陸で共産党討伐に主力を注いでいた蒋介石との間に塘沽停戦協定を結び、中国に於ける日本に対するそれまでの悪感情が一旦は収まった程であった。

犬養毅内閣
s6/12/13~ 斎藤実内閣
s7/5/26~ 岡田啓介内閣
s9/7/8~
総理
外務
内務
大蔵
陸軍

海軍

司法
文部
農林
商工
逓信
鉄道
拓務
内閣書記官長
法制局長官 犬養毅
吉沢謙吉
中橋徳五郎
高橋是清
荒木貞夫

大角岑生

鈴木喜三郎
鳩山一郎
山本悌二郎
前田米蔵
三土忠造
床次竹二郎
秦 豊助
森 恪
島田俊雄 斎藤実
内田康哉
山本達雄
高橋是清
荒木貞夫
林銑十郎 
岡田啓介
大角岑生
小山松吉
鳩山一郎
後藤文夫
中島久万吉
南 弘
三土忠造
永井柳太郎
柴田善三郎
堀切善次郎 岡田啓介
広田弘毅
後藤文夫
高橋是清
林銑十郎 

大角岑生

小原 直
松田源治
山崎達之輔
町田忠治
床次竹二郎
内田信也
児玉秀雄
吉田 茂
金森徳次郎
①第2次若槻内閣がリットン調査団報告で退陣し、犬養毅内閣発足
②五・一五事件(s7/5/15)で犬養毅が総理官邸で射殺され、斎藤実内閣発足
③帝人事件で斎藤内閣は総辞職し、岡田啓介内閣発足
④二・二六事件(s11.2.26)で岡田内閣は総辞職し、広田弘毅内閣発足
⑤二・二六事件で官邸が襲われるも、秘書を首相と見間違ったため、辛くも岡田首相は助かる。

 しかし斎藤実内相、高橋是清蔵相等が射殺された。
 また鈴木貫太郎侍従長も瀕死の重傷を受ける。
 この時助かった岡田啓介、鈴木貫太郎両氏は戦争終結論者で、彼等の活躍で昭和20年8月の終戦を迎えることができた。
 しかし日本軍の進攻の勢いは依然として止まず、深入りし過ぎていた。
 財政方面に於ける高橋の施策も積極策に転じていて、軍需インフレのきざしも当然やむか得なかったが、輸出ダンピングも、従来の息の詰まるような緊縮政策に伴う不況を一掃して、明るい気分を国民にもたらし、満洲国の建設が順調堅実に進捗しているとの朗報は、日本人全体が急に大国民に生長したかのような心強を持たせた。
 しかし日本国内と広漠たる満洲国との双方に亘って軍需産業の建設を強行したので、当然貿易の収支は急激に悪化を見るに至って、最後の段階ではこの無理が斎藤内閣の命を縮めた形になってしまった。
 第一、日本の財政を傾ける程にして後援して建国した満洲国の皇帝薄儀と日本軍との間に救うべからざる溝が出来、王道楽土の建設も失敗の様相を呈し始めた。
 国内に於ては数年前から続いていた農業恐慌は益々深刻さを増して来た。
 そして三土忠造鉄相と鳩山一郎文相に疑惑が掛けられた帝人事件が起こり斎藤内閣は退陣するに至った。
 しかし斎藤内閣が歴代の内閣の中でも立派な方であったことは、帝人事件がでっちあげであったことから明らかである。
 斎藤内閣は2年4ヶ月持続したが斎藤は重臣会議で、後継者として自分の信頼する海軍大将岡田啓助を推し、全員の賛成を得て安心して退いた。
 前閣僚も多数留任したが後藤文夫は内相として残った。
 軍部は一層強く政治に関与して来て、後藤を通じて殆ど内閣を己れの思うがままの干渉と注文をつけて来るようになったという。
 或は『我等の多年の夢の実現の日近ずけり』と図に乗らせたかも知れない。
 そしてそろそろその支度というムードを醸し出していたらしい。
 当時、陸軍部内には派閥があることは世間にも知れ渡っていたが、荒木貞夫、真崎甚三郎を中心とする皇道派と、永田鉄山、東条英機らを中心とする統制派との2つに割れての勢力争いが激化していたのだ。
 期する目標は両派とも大陸主義という領土拡大の点は共通だが、手段に於ては前者はいきなり天皇の親政と軍部独裁体制による方法に対し、後者は従来の政治体制を基礎に考えて、重臣、官僚、財閥の協力の上に天皇を置く方法で、勿論実権は軍部の掌中に握って、というのである。
 2派の勢力は時に従って消長を繰返して来ていたが、満洲事変の当初は皇道派が勢いを得ていたけれど、満洲国建設期に入ると共に統制派が軍の要職を多く占めるようになった。
 この両派の確執がハツキリと世間に暴露されたのは、昭和10年8月に陸軍省内で軍務局長の永田鉄山少将が斬殺された事件である。
 白昼、警備の厳重な陸軍省の役所へ押かけてこの凶行を演じたのは、青年将校相沢中佐で彼は皇道派だった。
 自派の領袖真崎甚三郎教育総監(二・二六事件の黒幕といわれている)が突然の罷免されたは、敵派の永田局長の差し金だと考えた怨みの刃であった。
 しかし実際は斎藤内閣時代に陸相が荒木貞夫から林銑十郎に代わり、林陸相が真崎を辞めさせたのだった。
 青年将校のうちには純真な憂国心から動いてるものも勿諭少くはなかったが、軍部独裁の考えは彼等の政治運動となり、この傾向は士官学校生にまで及んでいた。
 これを軍幹部や士官学校の幹事(当時少将だった東条英機)が心配して、軍及び士官学校を粛正するため多数の将校を退役させたり放校させたため、これが却って統制派軍首脳部への反感を深める結果になっていった。
 その中には二・二六事件を実行した村中大尉や磯部主計などもいて、復讐心を燃やしクーデターの決心に油を注いだ具合となった。
 そして第一師団を満洲に移駐することになったのを『我々を要注意と睨んで北満の荒野に追っ払うのだな』と邪推したので、それらが合体して満州へ移駐の前に決行となったのが二・二六事件であるといわれる。
 彼等の社会革新の理念によれば天皇親政と軍の独裁にあるのだから、重臣も財閥も官僚も無用のもの、むしろ最大の障碍と目しているのだからマ-クした人々が、まず国家の、陛下の側近の重臣級になったのは当然の結論であった。
 不幸なる日が来た。
 昭和11年2月25日の夜半から、牡丹雪が帝都の空を蔽っていた。
 その中を、野中中尉に引率された第一師団の兵隊が戦時武装で粛々と行進した。
 近衛師団からやその他からも出て来て一師団に合流した形になり、その後別れて四方に散って行った。
 すべて周到な計画のもとに行動されたようだが、果して末端の兵隊に至るまで重臣と大官を屠る出征と知って従ったのであろうか。
 彼等の携帯した趣意書には『内外重大危意の際、元老、重臣、財閥、軍閥、官僚、政党等の国体破壊の元兇を排除し、以て大義を正し、国体を擁護開顕せんとするにあり』とあり、このビラをまきながら歩いた。
 野中の主力部隊は総理官邸を襲い、永田町、霞ヶ関及び溜池一帯を占拠し、警視庁、参謀本部、内務省陸軍省を占領した。
 しかし岡田首相でなくて秘書の松尾の従兄弟が、よく似てるので本人と見まちがえられて殺され、あとで首相が現われるという悲惨中のユーモラスな場面もあった。
 興津の西園寺公は襲撃の寸前に情報を受け避難した。
 湯河原に滞在中の牧野前内府も夜中に襲撃を受け、護衛警官の勇敢な働きで危機を脱したが、警官の殉職は痛ましかった。
 高橋蔵相は自宅で重傷を負い間もなく死亡し、教育総監で真崎の後任の渡辺錠太郎大将も自宅でやられた。゛
 侍従長鈴木貫太郎大将(終戦時の首相)は官邸で瀕死の重傷を負った。
 そしてわが斎藤実も、26日未明、四谷の自邸の2階寝室で、一味の兇弾に、倒れたのである。
 5時を少し廻った頃であった。
 天に哭し地に叫んでも哀しみ足らぬ呪われた26日未明の真相は、影と形の如く生涯の最後までかたわらを離れず、そして自らも同じ兇弾を蒙った春子夫人より外、知る人はこの世にいない。
 しかも慎み深い夫人は、思っただけでも戦慄する痛恨の追憶などを、今まで誰にも語ったことがなかった。
 従って斎藤実の伝記は既に数多く出ているが、一つとしてその日のことを伝えているものがない。
 示し得なかったからである。
 空想で書いたものもあるが、そんな作りごとは却ってこの斎藤夫妻を冒涜し、後世の史家を惑わす行為でなくて何であろう。
 筆者はこの点を恐れるので、超人斎藤実臨終の真相を努めて正確に伝えるため、幸いに生存中の夫人を訪ねお願いしたところ、外ならぬ銅像復元の記念出版という点で快くご了承を得た次第である。
 この粗雑な冊子も次の一節によって、千金に価する遺言書となり得たことを読者は了解されたい。

5 斎藤夫人からの真相聞書  

 私どもは事件の前日の昼はメキシコ大使の親任状捧呈式後の宮中の午餐会に、2人ともお召しにあずかり、陛下のお隣の席を賜りまして、恐縮しながら、ご陪食にあずかったのでございました。
 食後のお茶の席で皇后さまが私に、大変有難たいお言葉(特に内大臣に任ぜられた為のおぼしめし)を親しく賜ったのでございました。
 帰りまして斎藤にそのことを話しましたら何度も『有難いことだ』とか『恐れ多い』などと申しまして、2人で感激しながら話し合ったことでございました。(内大臣就任は2ヶ月まえから)
 その晩はまた、米国大使ヨセフ・グルーさんから、御招待を受けて大使館に参り、大変なおもてなしを頂きました上、余興として当時はまだ珍しかったト-キー(音声付映画)を見せて貰いました。

斎藤春子夫人、昭和38年

 はじめは会話がよく判りませんでしたが、段々聞きとれるようにもなり、とても面白うございました。 
 斎藤も非常に喜びまして、つい長居いたして、いつもよりも帰宅が遅くなったくらいでした。
 11時頃でしたでしょうか、帰りましても『珍しいものを見せて貰った』といってト-キーの話を繰返えして申し、今夜はほんとうに愉快だったと、上機嫌で寝床に就いたのでした。
 外は大雪がボタボタ降り出していました。寝室は2階の奥にございました。
 朝、私どもは一旦4時に眼を醒ましました。
 何か外がふだんと違って騒がしいように思いましたが、まさか自分の邸の内外が恐ろしい兵隊達に、取り捲かれはじめていようなどとは、夢にも想像しませんでした。
 斎藤も別段気にもとめぬ風で、ただいつも私の寝床の方にもぐり込んでいる猫が、その晩に限って斎藤の方に寝ていたのを見つけまして、『ミイが珍らしく俺のところに来て寝ているよ』と、さも可愛げに呟くので私ものぞいて見たりして、またふせりました。
 5時少し前、外のただならぬ音響に夢を破られ、引続いての異様な騒がしさに私はベツトから体を起しました。
 がまだ、恐ろしいものがそこまで追っているとは気がつきませんで、不審げな顔でいる斎藤に『なあに、また戸袋のうちに鳩が巣を作りでもして、戸が明かず、それで騒いででもいるんでしょう』と、私は申しましたんです。
 以前そういうことがありまして、早朝から女中や書生たちが騒いでいたことがありましたものですから――。
 でも一体、下に何が起ったというのだろうと、私は寝台から立ったのでございました。
 寝室は2階にあり、南北に連なる各12畳敷の2間で、2つとも板の間でして、前後2部屋の中仕切は4枚だての唐紙で仕切ってあり、前部屋には箪司などの調度が片寄せてありましたが、そこを通って外仕切の板戸を開けて廊下に出るようになっており、つまり板戸2枚が出入口というわけでございます。
 廊下から直ぐに下へ降りる階段が続き、階下の廊下はずつと折廻しで書生部屋が途中にあったりして、茶の間と呼んでおります建物まで続いていたのでございます。
 その辺は自宅での裏口にあたります部分で、近くに土蔵もありまして、門を入って玄関などのある表側からは遠く奥に廻った方なのです。
 常に20人ほど警視庁から派遣されている警官の溜り、守衛所も少し離れてですが、その辺にもあったのです。
 その外、邸内のあちこちに分散して、常時40人ぐらいの警備の人がいつもいたのですけれど、当日は私共だけで、200人以上の兵隊が下の各建物を厳重に取囲んで、中にいる者に銃を突き付けて動けぬように全部してしまっていたのですから、やむを得なかったのです。
 暴徒は、表から裏へ廻って、その茶の間の雨戸を軽機関銃で打ち破って、その口から中へ入り込んだのでした。
 書生部屋では銃で書生を脅して2階の寝室に斎藤のいるのを確かめ、軍靴でガタガタ廊下伝いに上って来たのでした。
 私共が目を覚ました轟音は茶の間を破る音だったのです。
 寝台は洋式の脚のあるベッドで後の部屋に東を枕に2台並べてあり、一番奥が斎藤のものです。
 東の隅に鏡台があり、私共の脚の方の壁ぎわにストーブや猫のベッドなどがありました。
 寒い朝でしたし、真綿入りの厚い寝巻の襟元をかき合せながら、立って中仕切の唐紙を開けたまま、前の部屋をまっすぐに通って出入口に近寄りましたら、外にガタガタ乱暴な靴音がしたのです。
 ヒョイと開けましたら、イキナリ眼の前に、4人の兵隊が、つつ立っているじゃあありませんか。
 若い陸軍将校ばかりで、1人は抜身のサーベルを構え、1人は軽機関銃を突き付け、残りの2人は各々ピストルをかざしていました。
 『何しにいらしたんですか!』と私の口からそういう叫びが、飛び出ていました。
 恐ろしい者たちの侵入だと突差に気が付いたので、すぐ戸を閉めようとしましたら、私を押し退けてドヤドヤ中へ踏み込み、もう機関銃を打ち始めたのです。
 打ちながら奥へ進んだような具合でした。
 私の体は押されて後向きに倒れかかりましたが、中仕切と東壁との隅に置いてあった箪笥のあたりで、一瞬間気絶してしまいました。
 その時がピストルの第1弾を背中に受けたのだったらしいです。
 夢中でしたためかその時は大して痛くも思わず、すぐ気がついて斎藤の傍へ行こうと、奥の寝台のところまで戻りました時、兵隊はもう4人ともそこにいて、下の方を向けて機銃を打ち続けているのです。
 斎藤はと見ると、寝台の上にはなく下の床上に、あおむけの姿で横たわっています。
 駈け寄って斎藤に取りすがった時は、もう完全にこと切れておりましたのです。
 恐らく入口で私が高声を発したりしてました時、何ごとかと思って彼もベッドの傍に立上ったのでしようが、その姿が開けたままの中仕切の隙を通して侵入者の眼の前に真正面から見えたもので、構えていた銃の引金をすぐ引いたのでありましよう。
 多分最初の一弾が斎藤の額を射抜き、これが致命傷だったらしゅうございました。
 斎藤はベッドの上にでも倒れようとしたものやら、かがみ加減のまま下に転ろげ落ちた恰好で、いつも東枕で寝る人が、頭を西に足を東へ伸ばして倒れていたのです。
 足の先に見下す形で4人の兵隊が死体に対してT字型の位置に、一列横体(最初にサーベルを抜いた坂井とかいう中尉、次に機関銃をかまえた者、3番目と4番目はピストルを持った兵隊が)のように立っていました。
 私が双方の真中にしゃがんでいる形でした。
 すると全く身じろぎもせぬ斎藤に、まだ油断は出来ぬというのか、それともとどめをさすというつもりか、またもや機銃を構えて打ち出すではありませんか。
 私もあまりのことに腹が立ちまして、立ち上って、その銃身を掴んで叫びました。
 『そんなことをなすってはいけないぢやあありませんか』(筆者註、”死者に鞭うつ鬼畜の所業”との最高の侮蔑を放ったつもりであったらしいが、彼女の高い教養は、この床しい表現がせい一杯のものであったらしい。)
 すると、その若者は『何が悪いんだ!』といい、射撃を止めようとしません。
 私は銃身から手を放し彼ら4人の縦列の前に、もろ手を拡げて進み寄りました。
 その前後に第2弾のピストルを、右肱に受けたのです。
 私は既に覚悟を決めてしまってましたから、血がどっとほとばしり出ましたけれど痛くも何とも感じない位でした。
 銃を掴んだりの私を猪口才な女めとでも思ったんでしようか。
 ピストルでしたから横合の者が、打ったのです。私は彼らに詰め寄って申しました。
 『打つならこの私を打って下さい!』と。
 左右に大きく拡げたその左手めがけて、また第3弾が飛び、手首のあたりから血が噴き散りました。
 が、それっきりで彼らは暗殺成功を安心したのか、間もなく乱暴な足どりで引揚げて行きました。
 こう細かに説明いたしますと大変長い時間のようですけれど、全く、チョッとの間の出来ごとで、入口で私が出会いましてから彼らの立退きますまで、ものの5分とかかっていない瞬間の出来事だったんでございます。
 全く悪夢を見たような夜明けでございました。
 あとで検屍の際数えて見ましたら、斎藤の体の中の弾だけで48とかあったそうで、最初に致命傷を受けたらしいので、一言も物を申す暇もなしにこと切れたのでございました。
 何しろ機関銃のバラバラという弾丸でございますから、そこらじゅうが弾痕だらけでして、奥の部屋の隅に置いてあった鏡のガラスも、反対側の隅のストーブの辺にも床は申すに及ばず寝室の天井にも弾丸の跡があったのですから、彼らも余程度を失っていた様に察しられるのです。
 下を向けましたのは横たわっている死体の上から浴びせたので、それが床を打ち抜いて、階下の座敷の天井まで無数の穴をあけていた程ですから、滅茶苦茶に打ったと申してよろしいんですねえ。
 鏡のガラスの弾痕で美くしい模様が浮き上っていたのが、今も思い出されますですよ。
 私の負傷の順序にも、いささか正確を欠く点のありますのは、こちらも逆上ぎみでしたし、何ぶん刹那の出来ごとでございますから、ご了承下さいませ。
 しかし機関銃と挙銃との両方をもって来て、恐らくあらかじめ受持を分担してあったようで、私の受けましたのは挙銃の方ばかりでございました。
 下はどうなっているかと女中たちの身も案じられて降りて参りましたら、兵隊はみんな引揚げましてもまだ慄えている最中でしたが、そこへ血だらけの私の姿が現れたものですから一層の騒ぎと成りました。
 私はそれまで傷の方は一向に痛みを覚えなかった位に気を張っていたのですが、そこでやっと3ヶ所が痛み出した具合でした。
 幸いにいずれも弾が体に入っていませず貫通したのでした。
 背中の傷が一番大きうございましたけれどそれは真綿入の寝巻のおかげで、真綿が弾をくるんで喰止めてあったのでした。 左腕の傷跡には、ピストルの弾丸の中にこめてある紙片、このよじれがほどける力で弾が長い巨離を飛ぶんだそうですが、私が打たれました距離が近過ぎたために、ほどけずにその紙片の方が腕の肉に残ったので、後でこれが化膿して2回も高熱を出したりして、酷い目に遭いました。
 大槻博士にやっとその小さな紙片を後日とって頂きました。
 何しろ当初は両腕ともの負傷でして三角布で両方を吊ってましたから、着物を着るのも大変でお見舞客の前に出るのにも大弱り致しました。
 その日の未明大雪の降りしきる中、自宅のまわりを大勢の兵隊が往ったり来たりするのを、ご近所では演習だろうと少しも不審に思わず眺めていらした方もあったそうですけれど、無理もございませんでしたでしよう。
 何しろ自宅を取囲みました数だけでも200名以上の兵隊だったそうで、警備の方々を40人ぐらいは邸内のあちこちに分散していっもいてくれたのですけれど、どこもかしこも兵隊に取囲まれてしまってどうにもならなかったことが後で判ったのです。
 彼等の住居も邸の門の方にあったんですが、勿論、兵隊の重囲の中ですから、どちらからもどうしようもなかったんですが、その時の心細さったらありませんでした。
 誰一人手伝いに来てくれる者がなかったんですものねえ。
 暴徒らが屋内に上り込んだ茶の間というのは2部屋の建物でして、女中たちの住居に当ててあったのでした。
 手前の部屋にも陰の部屋にも寝ていたところを、外からイキナリ銃撃されて、弾道が蒲団の表に、焼け焦げの筋を引いてあった具合でしたが、弾が真向の壁を打ち抜き、なお壁裏にある次の部屋の押入まで突き抜けてありました程で、恐ろしい偉力をもつものと驚きましたが、怪我がなかったのは幸いでした。
 寝ていた者が驚いて蒲団から首でも出していたら大変な事になったわけでした。
 4人の暴徒の名前は今も忘れず覚えております。
 坂井という中尉が頭分でやって来たのでしたが、サーベルの男がそれだったようです。
 後で考えますと残念でなりませんが、実は2日程前に内閣書記官長の柴田さんからご注意がございまして、どうもこの頃危っかしい空気が濃くなって来てる様に思えるから、内大臣官邸の方にお住いなさっては、とおっしやって下さったのでした。
 そちらの方が四谷の自宅より警備のご都合がいいというのらしかったのですが、住み慣れた四谷の方が便利でもありますし、まさかそれ程の陰謀が行なわれていようとは、私には思われませんでしたので――。
 何しろ私は至って迂潤な方ですし、世の中がそれ程険悪になってる事などはっきりどなたも教えて下さる方もなかったものですから、つい申訳ない結果をし出かしてしまったんでございます。
 でもああいう周到な計画を前々からたてて、ああいう暴力でやって来られたんでは、恐らく官邸の方へ引移っていたと致しましても、無事に済まし得ましたでしようかねえ――。
 とにかく日本の国にとって呪われた時代の始まる第一歩の不幸な朝だったと、今でも忘れようとしても忘れ得られぬ生涯の哀しい思い出でございます。

二・二六事件で機銃射撃された斎藤実元首相
(斎藤実追想録 樋口正文編 斎藤実銅像復元会刊行 昭和38年刊 p218-241)
1 大陸に吹きすさぶ嵐
2 再び朝鮮総督に就任
3 祖国日本の変容
4 組閣から二・二六事件まで
5 斎藤夫人からの真相聞書 斎藤実(まこと)経歴
安政5(1858)年 岩手県水沢に生まれる
明治10年 海軍兵学校卒、海軍軍人となり昇進
明治39~大正3年の第1次西園寺、第2次桂、第2次西園寺、第3次桂、第1次山本内閣の海軍大臣
大正8年 朝鮮総監、在任中ジュネーブ軍縮会議へ
昭和7年 総理大臣就任
昭和9年 帝人事件で内閣総辞職
昭和10年12月 右大臣
昭和11(1936)年2月 二・二六事件で自宅で銃殺される。享年78歳

右:昭和38年に故郷水沢市に斎藤実の銅像が復元された。その時に銅像復元会から刊行された”斎藤実追想録”の表紙で、写真は水沢公園に現存する銅像。

著者 北山敏和
1940年奈良県五條市生れ
1959年県立五條高校卒、1963年大阪大学工学部卒→国鉄勤務、 
鉄道車両の設計開発、外国の鉄道技術協力(JICAチリ国鉄派遣等)に従事、その間1977年井深賞受賞、1979年オーム賞受章、
1987年民営化で国鉄退職後、東急車両(工場長:土岐実光:S20東工大卒後国鉄工作局)
(記事引用)


放課後ホンネの日本史
第8章 教科書が教えない軍人伝 第69回 斎藤実
 岩手県水沢市は、日本史上に名前を残す人物を数多く輩出しています。幕末の蘭学者・高野長英、東京市長などを歴任した後藤新平、戦後、日韓国交樹立に尽力した椎名悦三郎、そして、海軍出身の政治家として活躍した斎藤実(1858~1936)がいます。

 斎藤は安政5(1857)年、藩士の家に生まれました。自ら私塾を開いていた教育熱心な父の下で斎藤は成長しました。一歳年上の後藤とは幼なじみでした。斎藤は、明治6(1873)年、海軍兵学寮(後の海軍兵学校)予科に合格し、海軍軍人としての道を歩み始めました。
 
 明治10 年、初代アメリカ公使館付武官を皮切りに、4年に及ぶ海外在勤生活を経験しました。その間、薩長藩閥政治家と交流を深め、その資質を見いだされました。

 日清戦争時に、広島におかれた大本営で、侍従武官として明治天皇にお仕えした斎藤は、大佐になって間もない明治31年に、40 歳の若さで、山本権兵衛海軍大臣の下、次官に大抜擢されました。7年以上の長期にわたり、その職を全うし、その間、日露戦争を舞台裏から支えました。

 明治39年、第1次西園寺公望内閣が成立 すると、斎藤は海相として入閣しました。今度は8年以上もの間、5つの内閣で大臣を務めました。斎藤の実力もさることながら、その人柄が、長期にわたって海軍のトップに立つことができた理由でしょう。
 
しかし、大正3(1914)年、海軍高官の汚職事件(シーメンス事件)の余波を受けて、斎藤は予備役に編入されてしまいました。

 さて、大正8年3月1日、2日後に行われる元大韓帝国皇帝高宗の国葬のために、朝鮮各地から多くの人が京城(現在のソウル)に集まっていました。このタイミングを狙って、キリスト教、天道教(東学党の流れを汲む宗教結社)などの代表者が独立宣言を発表し、これが朝鮮全域に広がって、民族主義的大暴動となりました。いわ ゆる三一運動(万歳事件)です。

 その直後の困難な時期に、朝鮮総督に就任したのが斎藤でした。
 彼は寺内正毅初代総督以来のいわゆる武断政治を文治政治に転換したのですが、この大功績は教科書には登場しません。
 斎藤は、警察制度を憲兵警察から文民警察に改め、非常に制限された範囲ではありました が、選挙で地方議会議員を選ぶ制度を創設しました。また、朝鮮教育令を改正して、第6番目の帝国大学、京城帝国大学を設立しました。これは、大阪大学、名古屋大学よりも早い設立でした。

 昭和6(1931)年に朝鮮総督を辞任した斎藤は、翌年、5.15 事件で倒れた犬養毅内閣の後を受けて、挙国一致内閣を組織しました。
 教科書は斎藤が軍人だからというだけで批判しますが、当時の国民やマスコミが政党内閣よりも、彼を大歓迎したことを無視しています。
 
 満州事変の後始末に奔走した斎藤でしたが、「帝人事件」のために辞職しました。この事件は、「斎藤降ろし」の陰謀だという説もあります。
 その後昭和8年12月に、内大臣に任命さ れた斎藤でしたが、翌年の2.26事件で反乱軍将校に殺害されました。「革新政治」を目指した青年将校にとって、国民に人気のある穏健思想の持ち主は、最も邪魔な存在だったのです。