高橋是清と財政政策と2.26事件
日本史世界史 
『5・15事件と政党政治の衰退』の項目では、陸海軍の青年将校の義憤や国家主義的な右翼勢力によって緊迫する昭和期の政治情勢を解説しましたが、日本でそういった軍事拡張政策や政府転覆のクーデターに一定の支持が集まりだした要因として『昭和恐慌(世界恐慌)』を考えることができます。
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景気の後退が激しくなり雇用が減少して失業者が町に溢れるのと同時に、物価と労賃が連動して下落するデフレスパイラルが起こり労働者も農家も悲惨な生活状況に陥りました。

日本は欧米の帝国主義列強と比較すると、より早い段階で世界恐慌の景気低迷から抜け出すことが出来たのですが、昭和恐慌(昭和恐慌)の克服に極めて大きな役割を果たしたのが首相を経験したこともある当時の大蔵大臣・高橋是清(たかはしこれきよ,1854-1936)でした。

幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子の是清は、仙台藩の足軽高橋覚治の養子となって高橋是清となりました。
高橋是清は『アメリカ留学・留学先で騙されてカリフォルニアのブドウ園で奴隷的労働・文部省や農商務省の官僚・ペルー銀山事業の失敗・日本銀行に入行・閣僚・総理大臣』といった特異な人生のキャリアを積んだことでも知られますが、日露戦争の時には日銀副総裁として英国の公債引受を実現して戦費を調達しました。

1927年(昭和2年)に昭和金融恐慌が発生した時には、田中義一内閣(1927年4月20日~1929年7月2日)で三度目の大蔵大臣を勤めて、モラトリアム(支払猶予制度)や紙幣の大量印刷によって当面の金融危機を回避しました。昭和6年(1931年)には、政友会総裁の犬養毅内閣において4度目の大蔵大臣となります。

犬養内閣では金輸出の再禁止(12月13日)をして『管理通貨制度』への移行を促しましたが、これは日本の通貨が兌換紙幣から不換紙幣へと切り替わる『金本位制度の放棄』を意味しておりイギリスに次ぐ移行の早さでした。
金本位制を放棄して管理通貨制度に移行したことで、『金の保有量』に制約されないフレキシブル(柔軟)な積極財政政策を行いやすくなり、大量の国公債発行による公共事業や軍事への投資が可能になりました。

高橋是清はケインズ政策の先駆けとも言える公共事業・軍事予算を活用した『積極財政政策』を実行して、大量の国際を日銀に引き受けさせることで財政規模を拡大しましたが、国債・通貨の大量発行によってインフレが発生してデフレスパイラルの大不況を離脱する原動力となりました。

国民経済を破綻させないレベルのマイルドなインフレを発生させることで、デフレスパイラルによる物価・労賃の下落や雇用の減少を堰き止めることができるのですが、これを『リフレーション政策・インフレターゲット』といいます。
時代を先取りするかのような高橋是清のリフレーション政策で、日本は欧米諸国よりも早く世界恐慌から離脱することができたのですが、高橋蔵相は六度目の大蔵大臣に就任した岡田啓介内閣において『2・26事件(1936年)』の被害に遭い、赤坂にある自宅の二階で陸軍青年将校に暗殺されてしまいました。

高橋是清が二・二六事件において標的にされたのは、国民生活を圧迫する高率のインフレーション(物価上昇)を抑制するために、赤字国債と国家予算を縮小しようとして(軍部の怒りを買う)『軍事費の削減』に手をつけたからだとも言われています。

アダム・スミスのような『古典的自由主義(自由放任主義)』では、政府が市場に政策介入せずに市場の競争原理に任せたほうが経済は成長すると考えますが、公共投資・公共事業のケインズ政策を先取りしたかのような高橋是清は、赤字公債発行を辞さない政府の積極的な財政支出によって景気は回復すると考えました。
経済政策として『緊縮財政』よりも『積極財政』のほうが景気回復効果が優れているという当たり前の事実に着目した財政政策ですが、このことは財政負担と歳出の小さい『小さな政府』から財政負担・歳出の大きい『大きな政府』への転換を進めました。

高橋是清が特に公共投資・公共事業として積極的に資金を投入したのは、『財閥系の大企業の基幹産業』と『対外的な軍事費の増大』であり、高橋是清が大蔵大臣を務めていた1930年代後半から急速に『歳出に占める軍事費の割合』と『歳入に占める国公債・借金の割合』が増大しました。

第二次世界大戦(太平洋戦争)の終戦が迫っていた劣勢の日本では、1943年に歳出に占める軍事費の割合が6割を越えており、歳入に占める国債の比率も7割に迫る勢いで、財政状況は赤字が累積する極めて厳しい状況になっていました。

1932年には国内産業を保護するために関税の引き上げが為され、『日満自給圏(日本と満州・朝鮮のブロック経済圏)』の構想によって日本は欧米諸国からの輸入に頼らなくても良い『重化学工業の発展』に国家の歳出を重点的に振り向けていきました。
 
日本は基幹産業を国営企業や公共事業で育成して、軍事支出と雇用を増大させる積極財政政策によって『大きな政府』への道を歩み始めますが、当時の軍部や革新官僚の多くは自由市場主義を否定して、国家が主要な産業分野を管理統制して国民の労働力を動員できるようにする『統制経済論』を支持していました。

1930年代の軽工業から重化学工業への転換が日本の不況克服の原動力となりましたが、この重化学工業の発展と需要の多くは軍拡財政・満州国への投資といった『軍需』によって支えられていたことにも留意しておく必要があるでしょう。
三井・三菱・住友といった財閥資本が、鉄鋼・造船・機械・化学といった巨額の設備投資(初期資本)がかかる重化学工業を経営することとなり、1936年の自動車製造事業法などの保護政策によって日産自動車やトヨタ自動車が軍需と結びついて躍進する契機が生まれました。

日本窒素や日本曹達、理研、日立、日産、豊田といった新興財閥系の企業も、軍部の外地開発や利権と結びつくことで急速な発展を成し遂げることになります。

日本政府は1929年の『産業合理化政策』によって企業の合併や独占的なカルテルの形成を奨励していましたが、1931年に『重要産業統制法』が成立すると、政府が重要産業と認定した分野での自由競争を抑制して独占的なカルテル・コンツェルンを保護育成しました。

政府は財閥系・政府系の大企業を保護して系列支配のカルテルやコンツェルンを巨大化させる政策を取ったので、1930年代以降には中小零細企業が大企業(財閥)の系列に『下請け企業』として組み込まれる独占支配的な経済体制が確立していきました。
重化学工業分野の工場では労働力の機械化や生産効率の向上が図られることになり、対人的な暴力・上下関係によって労務管理をする『親方―子方制度』や住み込みで過酷な労働をさせる『飯場制度・納屋制度』などは衰退していきました。

二・二六事件と昭和維新の挫折

1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて起こった陸軍皇道派の青年将校らによる『二・二六事件』は、近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊の1483名の兵士を動員した大規模なクーデター未遂事件でした。
急進的な国家主義者・北一輝(きたいっき,1883-1937)の国家改造論思想の影響を受けた皇道派の陸軍青年将校たちが、『昭和維新・尊皇討奸』のスローガンを掲げて“君側の奸”を取り除くために起こした軍事クーデターであり、『政官財の癒着・元老重臣の専横による腐敗』を正して天皇親政によって国家の王道を実現することが目的でした。

北一輝の国家改造論や右翼的な国粋思想の影響を受けていた青年将校には、安藤輝三、野中四郎、香田清貞、栗原安秀、中橋基明、丹生誠忠、磯部浅一、村中孝次らがいます。

天皇の側にいる奸臣・逆賊を誅滅することで、天皇の大御心を安んじ再び明治維新のような王政復古を果たそうとした2・26事件の青年将校たちは、高橋是清蔵相、斎藤実内相、渡辺錠太郎教育総監の暗殺を成し遂げました。

当時の首相だった岡田啓介も暗殺の標的とされていましたが、義弟の松尾伝蔵が襲撃隊の前に走り出て銃殺されたため、松尾伝蔵を岡田啓介と誤認した青年将校らによって岡田首相は何とか一命を取り留めました。
2・26事件を起こした部隊は『決起趣意書』を作成して天皇に奏請することで自らを正規軍(官軍)と認めてもらおうとしましたが、昭和天皇はクーデターに与することはなく反乱軍と認識して『即座の鎮圧』を政府・軍部に命じました。

反乱が鎮圧された後には2・26事件に参加した青年将校の多くは、国家体制を転覆させようとした『反乱罪』で死刑に処されることになり、小規模な5・15事件と比較すると極めて厳しい厳罰主義の方針が示されました。

2・26事件を引き起こした青年将校らに理論的・思想的に大きな影響を与えたとされた国家社会主義者の大物・北一輝と西田税(にしだみつぐ)も、クーデターの理論的指導者として軍隊を煽動した反乱罪の罪で死刑になりました。

シーメンス事件
5月19日軍法会議は、松本和前艦政本部長に対し三井物産からの収賄の容疑で懲役3年、追徴金40万9800円を、また沢崎寛猛大佐に対し海軍無線電信所船橋送信所設置に絡みシーメンスから収賄した容疑で懲役1年、追徴金1万1500円の判決を下した。
東京地方裁判所は7月18日山本条太郎ら全員に有罪判決を下し(控訴審では全員執行猶予)、9月3日の軍法会議では藤井光五郎に対し、ヴィッカース他数社から収賄したとして、懲役4年6ヶ月、追徴金36万8000余円の判決を下し、司法処分は完了した。

しかし、折から第一次世界大戦の勃発もあって、3名の海軍軍人を有罪としただけでこの事件は終結した。「産業界と軍部との癒着構造の根源にまで追及すべきだった」という見方と「全く無実であった山本権兵衛と斉藤実を引責辞任、予備役編入したことは有力なリーダーなくして第一次世界大戦に突入することになり、また海軍衰退の元を作り
第二次世界大戦を陸軍主導で開戦する遠因になった」という見方がある。

三井高弘(三井八郎次郎)は事件後に三井物産社長職を引責辞任した。

シーメンス社
日本における事業展開(戦前)
1861年、ドイツ外交使節が徳川将軍家へシーメンス製電信機を献上し、ここに初めてシーメンス製品が日本に持ち込まれた。
1887年にはシーメンス東京事務所が開設され、以降、シーメンス社の製品は広く日本に浸透することになる。19世紀の主な納入実績には、足尾銅山への電力輸送設備設置、九州鉄道株式会社へのモールス電信機据付、京都水利事務所など多数の発電機供給、江ノ島電気鉄道株式会社への発電機を含む電車制御機および電車設備一式の供給、小石川の陸軍砲兵工廠への発電機供給、などがある。

1901年にはシーメンス・ウント・ハルスケ日本支社が創立された。
その後も発電・通信設備を中心とした製品供給が続き、八幡製鐵所、小野田セメント、伊勢電気鉄道、古河家日光発電所、曽木電気(のちの日本窒素肥料)等へ発電設備を供給した。また、逓信省へ、電話関係機器の多量かつ連続的な供給を行なった。

軍需関係では、陸軍へ口径60センチシーメンス式探照灯、シーメンス・レントゲン装置、各種無線電信機、海軍へ無線装置・信号装置・操舵制御装置等を納入している。
1914年には海軍省の注文で千葉県船橋に80~100キロワットテレフンケン式無線電信局を建築したが、この無線電信局の納入をめぐるリベートが、「シーメンス事件」として政界を揺るがす事件に発展することになる。

第一次世界大戦中は日独が交戦状態に入ったため営業を停止したが、1920年頃から営業を再開した。1923年には古河電気工業と合弁して富士電機製造株式会社を設立、1925年には電話部門を富士電機に譲渡した。

その後も、日本全国の都市水道局へのシーメンス量水器の納入、逓信省への東京大阪間電話ケーブルに依る高周波多重式搬送電話装置の供給などが続いた。関東大震災後には、シーメンスの電話交換機が各都市の官庁、ビル・商社に多数設置された。

1929年には、大連逓信局に軽量物搬送装置を供給。以降、1936年に満州国電信電話会社がシーメンス式ベルトコンベアを採用するなど、日本、台湾、満洲の電信局・郵便局のほとんどがこの様式を採用することとなる。

1931年には八幡市水道局にシーメンス製オゾン浄水装置が納入された。1932年には日本活動写真株式会社にトーキー設備40台を納入、以降全国各地の映画館にトーキー映写装置を販売することになる。

1932年、上野帝国図書館は日本最初のシーメンス式自動書類複写機を採用した。1936年には大阪市にも採用された。
満洲事変以降、富士電機は探照燈・特殊電気機器・船舶航空器材など軍需兵器関係の製作に力を入れることになり、シーメンスから専門技師を招致するなどして、シーメンス関連企業が設計製作を行なっていたその種の装置の国産化に努めた。

1938年頃から、アルミニウム工場が日本国内、満洲、朝鮮の各地に建設・増設されたが、シーメンス社はその設備・資材供給で多忙を極めることとなった。発電設備関係では、1939年、満洲国各地、鴨緑江水電株式会社などに、相次いで大型発電設備を供給した。

1941年、ドイツとソ連が交戦状態に入り、シベリア鉄道経由での貨物輸送が不可能になった。続く日米開戦により、東京シーメンスはほとんど全部の製品を国産化することとなった。
この時期の納入実績としては、シーメンス水素電解槽の住友電気工業、日本カーバイド工業、鐘淵紡績等への供給、逓信省への大型短波放送設備の納入等がある。戦争が続く中で、資材の獲得が困難となり、戦時中は保守業務が中心となった。