日本最大銀行三井銀行誕生 
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( 2006年5月22日 TANAKA1942b )
江戸時代における信用機構は、両替商を中心として高度な発達を見せていたが、幕末維新期の動乱と変革によって、その多くが崩壊したため、明治政府は改めて欧米の銀行制度を導入し、信用機構の再構築につとめたとされてきた。
Japanese_1st_National_Bank_Note
確かに1868年(明治元年)の銀目廃止措置を契機に大阪の両替商の多くが倒産したが、両替商による金融が全面的に崩壊したわけではない。
とくに幕末の横浜開港以降の貿易品の流通を金融的に支えてきたシステムは、外国商人の内地侵入を阻止し、日本商人の資本蓄積を可能にした点で、重大な意義をもっていた。
明治政府は、1871年の廃藩置県によって全国の租税を集中管理しなければならなくなったが、中央銀行はもとより民間銀行もなかった当時、頼りにしたのが三井・小野・島田のいわゆる為替方御三家の信用ネットワークであった。 しかし、小野・島田両組は、1874年(明治7年)の官金抵当増額令によって破綻を余儀なくされ、三井組だけが存続し、76年には当時日本最大規模の三井銀行を設立する。
 
<三井両替店の創業>
店前売りや切り売りをはじめとして、越後屋の商法は本町の呉服屋たちから見れば、横紙破りのものばかりであった。
そのために同業者から取引を停止されたり、「無法の商ひ」をすると訴えられたり、店員の引き抜きを策されるなど、さまざまの妨害を受けながらも、 三井の新店は着々と業績を伸ばしていった。
そして、たまたま、開店後10年目の天和2年(1682)12月28日の大火に、本町の町並みは一夜にして灰尽に帰したのである。

「三井高利」は、この機会に店舗を隣町の両替屋街である駿河町に移して、翌天和3年5月に、有名な「現金安売掛売なし」の看板を掲げて、はなばなしく開店した。 
店の位置はちょうど現在の三越本店のあるところである。当行の前身である三井両替店が創業したのは、まさにこの時であった。それは西暦1683年、今年、昭和31年から数えて実に273年の昔である。 店は表口3間1尺6寸、奥行8間、呉服店の西隣であった。やはり現在の三越のビルの一部にふくまれるた位置である。(中略)  このようにして三井両替店は、越後屋のための補助的な機関として、ここに発足した。そして、これこそが当行の起源であった。 

(『三井銀行八十年史』から) 
<三井銀行の創立> 
江戸時代に巨大な富を築き上げた大商人の中には、幕末維新の激動にあたって昔日の面影を失う者も少なくなかった。そのなかにあって、三井が威信政府の為替方として活躍し得たのは、大商人の中で朝廷方に加担する態度を最初に鮮明にした功績によると言われる。
しかし、その三井にしても江戸時代には幕府御用をつとめ、成長してきたことは前述のとおりであり、文久3年(1863)年11月ごろまでは幕府方との連携を強化にて、経営危機を乗り切ろうとする気運の強かった。
一方、京都の大元方は勤皇派の情報収集につとめ、大坂両替店は慶応元年(1865)薩摩藩のため、琉球通宝の引替御用を新に引き受けた。いわば三井は、幕府・朝廷双方の動きを慎重に見守っていたのである。 三井が最終的決断を迫られたのは、慶応3年(1867)12月の王制復古の発令、維新政府成立のときであった。

すなわち、新政府が最初に直面した緊急問題は財政問題であって、ただちに大蔵省の前身となる金穀出納所を設置して、三井三郎助(高喜=たかよし)・小野善助・島田八郎左衛門にその御用達を命じたのに対し、三井は率先してこれを受諾したのである。
ついで慶応4年正月、三井三郎助は出納所為替御用達となり、2月には金穀出納所の改称にともない会計事務局御為替方に任命された。

そしれ、これと同時に御為替方三井組を称するようになった。(中略)  維新以来、三井は為替方として政府の金融事務を担当、あるいは為替会社の総頭取の地位につき、着実に近代的銀行業者としての体験を重ねたが、さらに明治4年(1871)6月、政府の新貨鋳造事業の一翼を担うことになった。地金回収と新旧貨幣交換の御用を命ぜられたのがそれである。

政府は、幕末以来の極度に混乱した貨幣制度を整理統一するために、明治2年7月慈雨閉局を設ける一方、大蔵少輔(しょうゆう)伊藤博文の献策に基づいて金本位制を決定し、4年5月「新貨条例」を発布、鋳造すべき新貨幣の品位・量目・種類を定めた。
(中略)
第一国立銀行が設立された後も、三井組は単独で銀行設立の準備を進めた。明治8年(1875)3月、三井組を三井バンクと改称し、部内に対し三井バンクをもって全三井の中枢とする旨を通達した。ここにおいて、宝永7年(1710)以来の大元方の役割は否定され、三井バンク大元締役場がこれを引き継いだのである。(中略)  明治8年7月、三井八郎右衛門(高福)らを発起人とし、三井組総取締三野村利左衛門の名をもって、銀行設立願書を東京府知事あてに提出した。 

この三井銀行創立願書に対して、政府はどのような態度をとったか。国立銀行条例は、国立銀行以外に「銀行」と称する異を禁止していた。
したがって、三井銀行の創立出願についても当然この点が問題になった。 しかし国立銀行の設立は、政府の予期に反して第1・第2・第4・第5の4行にとどまり、しかもこれらの国立銀行も内外の経済環境の変化により、明治7年ごろから兌換銀行券を発行しても、ただちに正貨に兌換されるありさまであった。 

このような情勢のなかにあって、大蔵省は明治8年3月31日、ようやく東京府に対し条件付認可の指令を与えた。三井組の修正に対し、政府は明治9年5月23日付をもって許可の指令を与え、ついで6月30日、三井組大元方代表の三井三郎助(高喜)と三井銀行代表の今井友五郎との間に事務引継ぎが行われ、翌明治9年7月1日を期して三井銀行は開業した。 

(『三井銀行100年のあゆみ』から) 
<三井銀行の貸出金と預金額> 単位千円 
年月末 貸出金 預金額10.12 7,607 7,62311.12 5,796 6,41612.12 4,220 5,23413.12 4,283 5,34214.12 5,124 6,15715.12 8,291 14,34416. 6 8,076 14,78817. 6 7,382 10,59024. 6 17,974 16,39026.12 10,938 16,77530.12 20,406 25,06434.12 18,469 29,04838.12 35,232 49,38842. 6 64,872 78,319  

これによってみると、明治10年代における当行の貸出金額は、官金取扱制度の改正による資金量の減退に伴って、停滞状態を続けていたことが知られる。
特に10年代の初期には、創立当初に比して相当の減少傾向を示し、その後次第に回復したあとが認められる。
明治26年12月期の合名会社としての当行最初の決算において、1,090万円であった貸出金は、その後、日清・日露の両戦争を経た明治42年6月には6,400万円巨額にまで累増を見たのである。
 これは、もっぱら当時の日本経済の急速な発展に負うところであって、預金の場合と同じく、同業者間に一般に見られた現象である、 試みに同期間における主要な同業者の貸出金の動勢をみても、その増加はいずれも顕著なものがあり、当行の増加は必ずしも特異な現象ではない。
特に増加率の点では住友・安田両銀行の進出が著しく、金額では第一銀行が当行とほとんど肩を並べるに至っている。
  
<安田銀行の創業者=安田善次郎> 
当行の創業者安田善次郎は富山の出身である。安田家は江戸中期の宝永2年(1705)に備後国福山から越中国婦負(ねい)郡安田村に移り、農業を営んだ。 
この地は現在の富山市の中心部から約5キロメートルを隔てた婦負郡婦中(ふちゅう)町安田である。
元文2年(1737)に一家の三男楠三郎が、富山藩の城下婦負郡富山の新町という場所に分家し、「安田屋」という屋号を用いて商業に従事した。 楠三郎から4代のちの善悦は、新町から婦負郡富山の鍋屋小路に居を移し、ここで天保9年(1838)10月9日に善次郎(幼名岩次郎)が誕生した。
そのころの一家は半農半商の生活を営んでいた。(中略)  善次郎は16歳のときに、郷里から江戸への出奔を企てた。当時、富山から神通川をさかのぼり飛騨に入り、飛騨から野麦峠越えなどの方法で信州に至る交通路があった。

この第1回目の出奔では、飛騨の山中で一夜の宿を借りた家の主人から無断で家出をした点を諄々と諭され、両親の元に引き返した。しかし都会に出たいという善次郎の気持ちは強く、18歳のときに再び江戸を目指し、いったんは江戸に到着したが父の依頼で追ってきた叔父に引き戻されてしまった。 

父は富山藩士の地位を善次郎に継がせたかったのである。  善次郎がようやく父の許しを得て江戸に出たのは安政5年(1858)、19歳のときであった。
安政5年といえば、ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀に来航してから5年後であり、日米修好通商条約が調印され、次いで他の列強諸国とも同様の条約が結ばれて、日本の鎖国政策が完全に終わりを告げた年であった。これから10年のちに、日本は明治維新を迎えることになる。 

奉公時代 江戸に出た善次郎は、江戸の地理人情を飲み込む必要があると考え、江戸中の至る所にあった玩具屋に卸売する玩具問屋に奉公人として2年あまり住み込み、さらに海苔屋兼両替屋に3年勤めた。

海苔屋兼両替屋では、金銀鑑定眼を身につけ、両替業務の手代に昇進した。このころ、鰹節屋に勤めていた大倉喜八郎(のちの大倉財閥の創始者)と知り合っている。 
江戸に出て5年余の奉公ののち、善次郎は元治元年(1864)に25両の資本で独立し、人形町通り乗物町(現在の中央区日本橋掘留町)に家を借りて、銭両替と海苔、鰹節、砂糖の小売を営むことにした。

間口2間、奥行5間余りの家で、安田屋と称した。善次郎はこのとき25歳であった。銭両替は一般に日用品の小売業を兼営したが、これは小売りによるたまり銭を金銀貨の両替に用いることができるという利点があったからである。 

のちに江戸町奉行所から東京府に引き継がれた『諸問屋名前帳』によると、善次郎が元治元年3月18日、三組両替の組合員の権利を取得したと記されている。

また、立会所単位の組合組織のなかでは、善次郎は両替町組に加入していたと『富の礎』で述べている。善次郎は得意先(商家や武家)を巡回して、金銀貨と銭貨を交換して手数料を得、また同業者との銭貨の売買によって差益を得た。
「江戸では湯屋の客が随分朝早くから来る、だから客の来ない暇に湯屋を回り、小銭を集めるとすれば、殆ど夜の明けぬ暗い間にせねばならなかった。ところが善次郎は根気よくこれを続けた」(保善社内伝記編纂所『安田善次郎全伝』昭和2年刊)。
やがて善次郎は早朝から両国、浅草、芝の両替屋仲間を巡回し、交換の用に応ずるようになった。
「仲間の方でも至極これを便利とし、私を歓迎するので、段々利益を得た」(『富の礎』)と述べている。 安田屋開業の翌年、慶応元年(1865)には、善次郎は仲間から両替町組の肝煎(きもいり=幹事)に選ばれていた。
元治元年3月に開店したとき、店員は1名であったが、1ヶ月後に2名となり、11月に善次郎は結婚した。店は繁盛して、年末までの9ヶ月間に68両の純益を挙げたといわれる。 

幕末の商機=安田商店の発足 安田屋開業から3年目の慶応2年(1866)4月に、善次郎はかねて目をつけていた小舟町3丁目(のち昭和7年9月の町丁名整理により1丁目となる)に家を買って、店を移転した。 土蔵付きの家で、店は間口2間半、奥行3間半、広さ約9坪(30平方メートル)という規模であった。

当時の地図を見ると、すぐ前の、てりふり町の通りは商店街であったばかりでなく、荒布(あらめ)橋を渡ると魚河岸、その先は日本橋であり、また荒布橋の下を流れる西掘留川の岸には米屋が多く、商用の人たちがてりふり町を往来して、賑やかな通りであった。 

為替方と官金預金 明治政府が、為替会社や国立銀行制度の導入をはかっている間、善次郎は着々と安田商店の基礎を築いていった。最大の課題は資金源である預金の増加であった。
 安田商店の預金高は、慶応3年末、8口、1,751両から3年後の明治3年末に11口、2万1,659両となり、さらに3年後の6年末には31口、6万710円(4年の新貨条例で1両は1円となった)に増加した。
明治初期の金融機関は官庁などの為替方としての役割を果たした。為替方というのは「国庫ニ収納スル金銭ノ鑑定収入逓送若クハ支出ノ事務ヲ掌ルモノ」(『明治財政史』第4巻)である。
為替方の指定を受けた金融機関には、結果として多額の官金預金が滞留した。 

新政府ができたころの、当初の会計事務所の為替方には、三井組、小野組、島田組といった歴史のある本両替屋が任命された。
為替会社や国立銀行制度の導入にあたり、官金出納取扱いの特典が与えられた。 国庫金を総括する大蔵省の官金出納は6年7月、第1国立銀行の開業とともに同行に委託された。
大蔵省以外の各省、各府県は、それまで随意に民間の商会または豪商に現金収支事務を委ねてきたが、このときから為替方の任命には大蔵省の許可を要し、かつ第1国立銀行の契約に準じ契約を締結することが必要になった。

次いで同年12月、経費出納方法が定められ、省については常額経費の年額を12に分割し、毎月初めに大蔵省から交付するという方法がとられ、府県については申請によって半年分を交付することとした。これらの資金は民間の為替方を通じて受払いが行われた。
官金の取扱いには、預金高の3分の1に相当する担保(公債証書または不動産)を要したが、7年10月、規則が厳重になり、預金高の全額に担保を要することになった。

この結果、有力な為替方であった小野組、島田の両組は、増し担保の提供が不可能となったため、同年12月までに相次いで廃業に至った。
8年1月、大蔵省は小野、島田両組に為替方を命じていた府県に対し、第1国立銀行に委託先を帰ることを令示した。一方、大蔵省事態の官金出納については、9年3月から第1国立銀行の取扱いを廃し、大蔵省出納局が自ら管掌することになった。

このように官金取扱いの厳正化がはかられている時期に、善次郎は司法省為替方(7年10月)、東京裁判所為替方(翌8年8月)、栃木県為替方(同12月)に相次いで指名された。 

為替業務の開始 江戸時代には、物資の集散地であった大坂を中心として為替業務が著しい発達を遂げた。大坂と江戸との間では、①諸藩が自国の物資を大坂で売り捌いた代金、あるいは大坂で金策した資金を江戸の藩邸に送金する。
 
②江戸の商人が大坂から積送された商品代金を大坂に送金する、といった目的の為替のほか、③幕府の御用金を江戸に送金する公金為替が行われた。

公金為替も一般為替も、その取扱いは本両替屋が主で、銭両替屋には「為替といふものは僅かしかなかった」(『富の礎』)。しかし明治維新前後の動乱期を経て、大坂、江戸双方の両替商に盛衰があり、従来、為替を取り仕切ってきた組織が崩れたために、為替業務の分野でも善次郎の実力が発揮されるようになった。安田商店が初めて隔地間の為替業務を手がけたのは、明治8年となっている。 

第三国立銀行の開業 当初の国立銀行制度について事態の経過を見守っていた善次郎は、国立銀行条例の改正で金禄公債を資本に銀行券が発行でき、しかも銀行券の金貨との兌換が免ぜられるという新制度の利点に着目、改正条例が布告される前日の9年7月31日に、主な出資者となる人たちと出願の手筈を決め、8月2日にいち早く国立銀行創立願を提出した。 
認可は明治9年9月6日付で下りたが、東京国立銀行という名称は許可されなかったので、改めて第三国立銀行を願い出て9月14日に決定をみた。国立銀行はすべて願書受付の番号を名称としており、第三の名称は、5年に大阪の鴻池家に許可済であったが、都合によって設立が中止されていた。

善次郎は安田家の祖先が三善姓を名乗っていたという来歴から、三の数次に特別の愛着をもっていたといわれる。
第三国立銀行は明治9年12月5日、安田商店と道路をはさんだ向かい側、西掘留川沿いに開業した。当初の建物は善次郎所有の土蔵を改造したものであった。 

国立銀行設立指導 明治10年以降国立銀行が各地に誕生したが、地方における国立銀行設立当事者の大多数は銀行についての知識がなく、事情に精通する国立銀行設立経験者に意見や助言を求める向きが多かった。したがって、第三国立銀行設立の体験を積んだ善次郎に対し、設立指導を請う国立銀行が後を絶たなかった。 

安田商店の近代化 善次郎は第三国立銀行頭取に就任することによって名実ともに銀行家としての第1歩を踏み出した。

しかし、第三国立銀行への出資金は、安田商店が蓄積した資金の中から投下されたものであり、安田商店が母体であつ点に変わりはない。

善次郎は第三国立銀行を設立する一方で、安田商店の近代化に取り組んだ。
善次郎が第三国立銀行を設立した明治10年には、国立銀行の数は20行となり、このうち京浜地区に本店または支店のある銀行は10行で、9年7月に開業した私立三井銀行を加えると敬11行が営業していた。 

同一区域内に多数の銀行が開設されるにつれ、同業者間の強調と親睦が必要となり、指導的立場にあった第一国立銀行頭取渋沢栄一は、銀行業者の団体組織の結成を提唱した。
 このとき善次郎(第三国立銀行頭取)は、原善三郎(第二国立銀行頭取)、三野村利助(三井銀行副長、副頭取にあたる)と供にただちに賛意を表明、その他の同業者も全員が賛同して、10年7月、京浜地区銀行家の団体として択善会が発足した。 

合本安田銀行の設立 明治12年4月に設立願を出した共立銀行(同年6月認可、資本金15万円、開業後間もなく閉店)を発端として、13年6月までに共立銀行を含めて24行の私立銀行が設立を認可され、以後私立銀行の設立が急増した。
こうした私立銀行設立の気運が高まるなかで、明治12年11月11日、善次郎は安田商店を改組することとし、「合本安田銀行設立願」を東京府知事に提出した。

合本安田銀行の設立認可は、明治12年12月」26日、東京府知事から認可が下りた。私立銀行としては三井銀行から数えて5番目であった。

設立資本金については安田商店から引き継いだ資本金15万円、積立金1万円に善次郎の拠出4万円を加えて20万円とした。頭取には善次郎の養子、安田卯之吉(明治14年善四郎と改名)が就任、善次郎は監事に就いた。善次郎は当時第三国立銀行頭取の地位にあり、国立銀行条例の精神に基づいて、私立銀行との兼務を避けたものと考えられる。
                  
<合本安田銀行の誕生> 
明治13年1月1日、合本安田銀行は輝かしく開業の門出を迎えた。開業時の大略を述べると、まず本店を日本橋小舟町3丁目10番地の旧安田商店店舗に定め栃木、宇都宮の2店を安田商店から継承して銀行の支店とし、資本金は20万円、株主は安田一族のみであった。 

株主公正からみれば、安田銀行は安田一族の私利追求銀行として設立された観があるが、善次郎の真の意図は、あくまでも大衆一般の商業銀行を目的とし、安田商店の精神を新しい視野に立って刷新し、 社会的銀行としての使命を全うすることを念願としたものだった。

つまり、運用利益をもって安田一門将来の資本充実に備えたのであって、このことは、株主全員が無限責任者として全責任を負い、利益をうるの余地を与えざる態勢とし、 また純益の40%を社内留保とし、50%の株主配当も現実には分配せず、銀行の別段預金として内部資本の蓄積に努めたことによっても知られる。

役員は選挙の結果、頭取に安田卯之吉(明治14年善四郎と改名)、監事に善次郎、取締役には安田忠兵衛が就任し、使用人は支配人、手代、見習役(注、当時はこれらも役員と称した)の3段階に分け、旧安田商店店員31名全員がそのまま銀行に移行した。

善次郎があえて頭取に就任しなかった理由は、当時第三国立銀行頭取として同行の業務執行責任者であり、「国立銀行条例」成規により他銀行との兼職禁止を規制されていたからであった。 後年(注、明治20年7月)保善社規則制定の際に、保善社総長は安田銀行頭取を兼職し得ない条項を規定し、安田銀行の事務については、すべて頭取の責任に委せ、監事の地位にとどまったのも、その延長なのであった。
 
<銀行設立への助走──並合業から始まった住友銀行>
住友銀行が設立されたのは明治28年(1895)だが、その発端はそれより20年ほど前の住友家が並合業(なみあいぎょう)を始めた明治6年か7年にまでさかのぼることができる。
両替屋が行う町人貸しには、信用のみの「素貸(すがし)」と担保をとる「並合(なみあい)」があった。明治2年に江戸出店を閉鎖して金融から完全に手を引いていた住友家は、この「並合」をひとつの業として金融を再開した。  

明治6年に住友家は富島に出店を設置した。この出店はやがて住友の門点となるところだ。富島は現在の大阪市西区川口にあたり安治川に面した水運の要地だ。

そこには多くの雑穀問屋や回船問屋が集まり長州藩の蔵屋敷もあった。 また税関と税務署と外交をかねた機能をもつ役所である運上所も設置されていた。

富島の住友家には、別子銅山および神戸支店送りの貨物を藏置きするための土蔵があったが、それはごく一部が利用されるにとどまっていた。 
富島の問屋たちはこれに目をつけ、その空いた土蔵の利用を申し出て商品を寄託するとともに、そこに寄託した商品を担保に金融を求めるようになった。

本店にはかつて江戸詰で両替商の任にあたっていた香村(こむら)分之助が在籍していたので、商人の申し出にこたえて商品担保金融へ進出するのは容易だった。こうして始めた並合業の主任に香村があたった。これが住友銀行の発端である。 

当時大阪では、維新後衰退していた大阪経済を復興させるため、同業者が団結して大阪商法会議所をつくり、そこで同業者組合設置運動が行われていた。
ところが「並合業」という独立した業種はもちろんそれに類似のものもなく、並合業はしかたなく質屋商仲間組合に編入されることになった。

当時の法令では、この業務をいとなむのに質屋ろしての許可が必要だった。そのため住友家はやむなく質屋商営業の鑑札を受けたが、「並合業」は小口の庶民金融を行ういわゆる質屋とは大きく異なり、おもに問屋を相手にした大口の商業金融だった。

明治8年の記録の中に、米並合と炭並合の前年度未回収金の繰り越しがあるので、7年には並合取引が若干行われていたことははっきりしている。 

このことから富島に出店を出した6年にもおそらく並合業は行われていたものと考えられる。8年の記録に「3月6日 米並合、東嶋孝兵衛 2000円」、「4月7日 中国米1882俵並合、井上治郎兵衛・那須長蔵 4450円」などの記録が見られる。

そのあと並合業務は次第に増えて、13年末には融資残高が4万9075円となり、ほかの勘定と区別されて記録されるようになった。翌14年末には11万6879円と1年間で2倍以上に増加している。(中略) 

明治18年末の銀行の規模を見ると、国立銀行139行の1行あたり平均貸出額が46万7000円であったかた、住友の並合業はその4分の3に相当した。
個別に見ても、三井など一部を除けば当時の銀行は零細なものが多かったので、住友の並合は当時の中堅クラスの銀行に比肩する規模にまでなっており、これが全額自己資金によることを考えると、住友の並合は相当規模の金融業務を行っていたことになる。

住友家は願書どおり明治28年11月1日、資本金百万円を用意するとともに住友本店にあった貸付債権115万7247円余を移管して、銀行業務を個人経営として開始した。資本金と貸付債権との差額は住友本店が別段預金として預けた。 
 
<三菱各事業の独立─三菱合資会社からの独立>
第1次大戦中におけるわが国経済の興隆に呼応して、三菱合資会社各事業の発展は目覚ましいものがあり、そのため前述の通り合資会社は漸次組織を分化して各事業に独立性を付与しつつあった。

そして遂に一大英断に出て、各事業を合資会社から分離して、独立の会社となし、あわせて外部資本導入の道をひらくこととなった。
すなわち先ず大正6年10月造船部門および朝鮮兼二浦の製鉄業を夫々三菱造船株式会社、三菱製鉄株式会社とし、続いて7年4月鉱山、炭鉱部門および営業部門を夫々三菱鉱業株式会社、三菱商事株式会社として独立させた。

他方合資会社自体も7年5月資本金1,500万円から3,000万円に増加し、従来の総合事業会社から有価証券および不動産の保有、運用を主とする持株会社に転向を開始した。
斯くて銀行部門も三菱合資会社から独立することに決定し、翌8年8月株式会社三菱銀行の創立をみた。 これに就いてはこのような合資会社の全事業独立の方針の他に、次ぎのような、当時の銀行界と合資会社首脳が抱いて居た銀行事業の積極的拡充の意図とを見逃すことができない。

当時一般に銀行の規模は各種企業の勃興、拡張に即応して漸次拡大し、増資、合同並びに改組が盛んに行われた。 

即ち銀行拡張計画資本は6年以降大幅に増加して大正8年には6億4,000万円となり、また銀行合同も盛んに行われ、合同参加銀行は8年には104行に達し、且つこれ等増資、合同の結果として、1行当たり資本金も倍増した。

また銀行業にあっても他の事業におけると同様従来の合資、合名組織を株式会社に変更するもの多く、新に設立する場合は原則として株式会社を採用する傾向がみられた。このような情勢の下にあって三菱合資会社首脳部は銀行部の画期的な拡充を意図した。 

銀行部は明治28年創設以来その業績著しく躍進し、大正8年6月末には預金2億2,800万円、貸出金1億9,500万円、所有有価証券2,000万円となり繰越金も実に1,459万余円に達した。 

然るに資本金は発足当時の100万円に変化なく、店舗数は第1次大戦中の増設店舗を併せても僅かに本店他9店に過ぎず、従って大戦の経過と共に現れた三菱関係諸事業並びに一般諸事業の膨張発展に対応し、且つ将来の発展を図るためにはその資本金を大幅に増加し、一層広く一般の信用を獲得する必要があった。

而して資本金の増加は銀行部が独立せず合資会社の1部門としてでも可能であり、寧ろこれが銀行部の発展を期する所以であるとする意見もあったが、銀行業の国民経済に占める役割が増大し、その公共的使命が加重されたことに鑑み、個人的色彩の強い合資会社の1部門として利業することはもはや一般の信用を得る上に適当でないと判断され、 茲に大正6年以来三菱各事業に就いて実施されてきた分離独立の方針に従い大正8年8月株式会社三菱銀行の創立となるに至ったのである。
(記事引用)
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