太閤検地 天正20年(1592年) 
太閤検地(たいこうけんち)は、豊臣秀吉が日本全土で行なった検地(田畑(山林は除く)の測量及び収穫量調査)。天正の石直し、文禄の検地ともいう。
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領主が自領内に課税するにあたり、その基礎資料として自領内の地勢を把握することは非常に重要ではあったが、家臣や領内の有力一族の抵抗が大きいため実施は難しいとされていた。
しかし北条早雲に始まる戦国大名の出現で、自らの軍事力と裁判権を背景に独自の領地高権を行使することを可能とした。この行使の一例が検地であった。

織田信長も検地を実施していた(これを信長検地とよぶことがある。)が、このとき奉行人であった木下藤吉郎(後の秀吉)もすでに実務を担当していたことが知られており、その重要性を把握していたとみられる。
天正9年(1582年)、信長を襲った明智光秀を山崎で討った後には、山崎周辺の寺社地から台帳を集め権利関係の確認を行うなど検地を本格化させていく。これらの、太閤を名乗る天正19年(1591年)以前からのものを含め、秀吉が関わった検地を太閤検地とよぶ。
この集大成として関白を辞して太閤となった秀吉は、将軍に上納されて叡覧に備用される「御前帳」になぞらえ、検地によって得られた膨大な検地帳を元に、国ごとに秀吉が朱印状で認めた石高を絵図を添えて提出するよう指令を出して徴収させた。これを「天正御前帳」という。
後述するように太閤検地の成果は、権利関係の整理や単位統一が図られた革新的な意味をもつのみでなく、農民への年貢の賦課、大名や家臣への知行給付、軍役賦課、家格など、その後の制度、経済、文化の基礎となる正確な情報が中央に集権されて把握されたことであり、その意義は大きい。

後に徳川家康も、慶長9年(1604年)に単位を国から郷に改めて御前帳と国絵図を徴収している(慶長御前帳)。

特徴 土地の権利関係
 
戦国時代の日本では、個々の農民が直接領主に年貢を納めるのではなく、農民たちは「村(惣村)」という団体として領主に年貢を納めることがほとんどであった(地下請)。

この体制では1つの村が複数の領主に年貢を納めていたり、農民が有力農民に年貢を納め、そこからさらに領主に年貢が納められるといった複雑な権利関係が存在した。

太閤検地ではこういった権利関係を整理し、ひとつの土地にひとりの耕作者=納税者を定めようとしたが、帳簿の上ではそうなっても、実際には依然として農村内で様々な権利関係が存在しており、領主に提出するものとは別に、村内向けのより実態に近い帳簿が作成されていた。

単位の統一

太閤検地は以下のような基準で行われた。
結果は石高で計算する。(それまでの貫高から改めた)

数の単位
6尺3寸=1間(約191cm)
1間四方=1歩
30歩=1畝
10畝=1反
10反=1町
田畑は上・中・下・下々の4つに等級づけする。
升は京升を使う。
これによって表示が全て石高になるなど(石高制)、日本国内で土地に用いる単位がおおまかに統一された。
ただし、この基準で行われたのは天正17年(1589年)の美濃検地が最初で、それ以前の検地がどういった基準で行われたのかは不明である。また、その後の検地でも例外は多数存在する。
数字の正確さ
戦国時代までは農村側が自己申告する形式の検地(指出検地)が多かったが、太閤検地では多くの田畑が実際に計測された(丈量検知)。ただし、越後の上杉氏の領地など、実際に計測していない例も多く存在する。
なお「それまでの石高が年貢を表していたのに対し、太閤検地の石高は生産高を表している」と説明されることがあるが、これは誤りである。また、ほとんどの場合この石高から「免(=年貢の一定額免除)」が差し引かれた上で年貢が納められた。この事実も石高が生産高ではなく年貢高と認識されていたことを証明している。
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印旛沼二期農業水利事業所
承応3年 1654年      
徳川幕府は、江戸を水害から守るとともに新田開発や舟運などに利用するため、文禄3年(1594)の「会の川」の締切りにより利根川の付替工事を開始しました。

承応3年 1654年
 関東郡代の伊奈氏のもと、元和7年(1621)からは三度にわたって赤堀川(備前堀)を開削し、東に流すことにより、江戸湾(現在の東京湾)に注いでいた利根川の流れを銚子付近の太平洋へ変える「利根川東遷」を行いました。
 この利根川の付替工事によって、利根川で洪水が発生したら、その水は全て印旛沼に流れ込むようになりました。そのためそれ以降印旛沼周辺の地域は水害の歴史を繰り返すことになります。
また、利根川上流から印旛沼へ運ばれる土砂量が増え、次第に湖沼化が進み現在のW字型の系となっていきます。

享保9年 1724年
下総国郡平戸村の農民である染谷源右衛門等は、幕府の許可を得て、新田開発のため平戸地点と検見川の間(16.9km,698万m3)の開削工事に着手しましたが、資金不足のため挫折しました。

天明6年 1786年
老中田沼意次は、印旛開疎のため平戸地点と検見川の間の堀割りを行いました。(天明の堀割工事)しかし同年6~7月に発生した利根川の大洪水により工事現場が破壊されてしまいました。その後老中の罷免もあり、ついに事業は放棄されました。

天保11年 1840年
老中水野忠邦は、開国に伴う水運整備としての堀工事(平戸地点と検見川の間:約20kmの開削)を天保14年に着手しました。計画の7~8割を完成させましたが、またもや老中罷免により中止となりました。この工事は印旛疎水路の礎となったもので、現在の新川、花見川、弁天池等はこの工事の名残です。

明治31年 1898年
千葉県知事の阿部浩は、県営事業(国庫補助)にて疎水路掘削(63万m3,沼埋立 24万坪)の計画を策定しました。しかし工費が膨大なため結局着工されませんでした。

明治44年 1911年
明治43年に発生した大洪水をきっかけに、印旛手賀両沼の農民が「至誠会」を組織し、外資導入計画(仏国公共事業会社)による事業実施を政府に陳情しました。

大正8年 1919年
政府は、「中央開墾株式会社」を設立し、印旛沼北部約1000haの開墾埋立工事に着手しましたが、財界変動により大正14年にその1割を完成させたところで中止となりました。

大正9年 1920年
農商務省は、印旛手賀両沼の土地利用計画を樹立しました。(印旛疎水路開削8~27m,毎秒4.3m3の水を東京湾に流下,沼の開田 3374ha,土地改良 686.9ha,海面干拓 704ha)

大正11年 1922年
長門川逆水門が完成しました。
昭和2年 1927年
農林省は、長門逆水門が完成されたことを踏まえ、印旛手賀両沼の大規模開拓計画を樹立しました。(印旛疎水路:水路幅 20~34m 107m3/s,開田 2,276ha,改良 903ha,海面干拓 535ha)

昭和18年 1943年

印旛手賀両沼沿岸の農民は、昭和10年、13年、16年の大洪水により甚大な被害を被ったことから疎水路開削を求め、嘆願書を東条陸軍大臣に提出しました。農商務大臣内田信也は願いを聞き入れ、県とも協力し、技術者を派遣し、学者の意見を集めて事業実施を決定することを約束しました。
昭和21年 1946年
農林省は、国営印旛沼手賀沼干拓事業に着手しました。これは終戦後の食糧対策と海外からの引き揚げ者の就労対策として国家的な施策として行われました。これによって湖周辺農民の悲願であった花見川、新川筋の水路開削工事が干拓工事の着工により開始されました。
 (資料)印旛沼二期農業水利事業所