太宰治の書いた「魚服記」
1280px-初冬の早池峰山1.
 本州の北端の山脈は、ぼんじゅ山脈というのである。せいぜい3.4百米メートルほどの丘陵が起伏しているのであるから、ふつうの地図には載っていない。むかし、このへん一帯はひろびろした海であったそうで、義経よしつねが家来たちを連れて北へ北へと亡命して行って、はるか蝦夷えぞの土地へ渡ろうとここを船でとおったということである。そのとき、彼等の船が此の山脈へ衝突した。突きあたった跡がいまでも残っている。山脈のまんなかごろのこんもりした小山の中腹にそれがある。約一畝歩せぶぐらいの赤土の崖がけがそれなのであった。
 小山は馬禿山まはげやまと呼ばれている。ふもとの村から崖を眺めるとはしっている馬の姿に似ているからと言うのであるが、事実は老いぼれた人の横顔に似ていた。
 馬禿山はその山の陰の景色がいいから、いっそう此の地方で名高いのである。麓ふもとの村は戸数もわずか2.30でほんの寒村であるが、その村はずれを流れている川を二里ばかりさかのぼると馬禿山の裏へ出て、そこには十丈ちかくの滝がしろく落ちている。夏の末から秋にかけて山の木々が非常によく紅葉するし、そんな季節には近辺のまちから遊びに来る人たちで山もすこしにぎわうのであった。滝の下には、ささやかな茶店さえ立つのである。
 ことしの夏の終りごろ、此の滝で死んだ人がある。故意に飛び込んだのではなくて、まったくの過失からであった。植物の採集をしにこの滝へ来た色の白い都の学生である。このあたりには珍らしい羊歯しだ類が多くて、そんな採集家がしばしば訪れるのだ。[#「訪れるのだ。」は底本では「訪れるのだ」]
 滝壺は三方が高い絶壁で、西側の一面だけが狭くひらいて、そこから谷川が岩を噛かみつつ流れ出ていた。絶壁は滝のしぶきでいつも濡れていた。羊歯類は此の絶壁のあちこちにも生えていて、滝のとどろきにしじゅうぶるぶるとそよいでいるのであった。
 学生はこの絶壁によじのぼった。ひるすぎのことであったが、初秋の日ざしはまだ絶壁の頂上に明るく残っていた。学生が、絶壁のなかばに到達したとき、足だまりにしていた頭ほどの石ころがもろくも崩れた。崖から剥はぎ取られたようにすっと落ちた。途中で絶壁の老樹の枝にひっかかった。枝が折れた。すさまじい音をたてて淵ふちへたたきこまれた。
 滝の附近に居合せた四五人がそれを目撃した。しかし、淵のそばの茶店にいる十五になる女の子が一番はっきりとそれを見た。
 いちど、滝壺ふかく沈められて、それから、すらっと上半身が水面から躍りあがった。眼をつぶって口を小さくあけていた。青色のシャツのところどころが破れて、採集かばんはまだ肩にかかっていた。
 それきりまたぐっと水底へ引きずりこまれたのである。

2.

 春の土用から秋の土用にかけて天気のいい日だと、馬禿山から白い煙の幾筋も昇っているのが、ずいぶん遠くからでも眺められる。この時分の山の木には精気が多くて炭をこさえるのに適しているから、炭を焼く人達も忙しいのである。
 馬禿山には炭焼小屋が10いくつある。滝の傍にもひとつあった。此の小屋は他の小屋と余程はなれて建てられていた。小屋の人がちがう土地のものであったからである。茶店の女の子はその小屋の娘であって、スワという名前である。父親とふたりで年中そこへ寝起しているのであった。
 スワが13の時、父親は滝壺のわきに丸太とよしずで小さい茶店をこしらえた。ラムネと塩せんべいと水無飴みずなしあめとそのほか2.3種の駄菓子をそこへ並べた。
 夏近くなって山へ遊びに来る人がぼつぼつ見え初めるじぶんになると、父親は毎朝その品物を手籠てかごへ入れて茶店迄まではこんだ。スワは父親のあとからはだしでぱたぱたついて行った。父親はすぐ炭小屋へ帰ってゆくが、スワは一人いのこって店番するのであった。遊山の人影がちらとでも見えると、やすんで行きせえ、と大声で呼びかけるのだ。父親がそう言えと申しつけたからである。しかし、スワのそんな美しい声も滝の大きな音に消されて、たいていは、客を振りかえさすことさえ出来なかった。1日50銭と売りあげることがなかったのである。
 黄昏時たそがれどきになると父親は炭小屋から、からだ中を真黒にしてスワを迎えに来た。
「なんぼ売れた」
「なんも」
「そだべ、そだべ」
 父親はなんでもなさそうに呟つぶやきながら滝を見上げるのだ。それから二人して店の品物をまた手籠へしまい込んで、炭小屋へひきあげる。
 そんな日課が霜のおりるころまでつづくのである。
 スワを茶店にひとり置いても心配はなかった。山に生れた鬼子であるから、岩根を踏みはずしたり滝壺へ吸いこまれたりする気づかいがないのであった。天気が良いとスワは裸身になって滝壺のすぐ近くまで泳いで行った。泳ぎながらも客らしい人を見つけると、あかちゃけた短い髪を元気よくかきあげてから、やすんで行きせえ、と叫んだ。
 雨の日には、茶店の隅でむしろをかぶって昼寝をした。茶店の上には樫かしの大木がしげった枝をさしのべていていい雨よけになった。
 つまりそれまでのスワは、どうどうと落ちる滝を眺めては、こんなに沢山水が落ちてはいつかきっとなくなって了しまうにちがいない、と期待したり、滝の形はどうしてこういつも同じなのだろう、といぶかしがったりしていたものであった。
 それがこのごろになって、すこし思案ぶかくなったのである。
 滝の形はけっして同じでないということを見つけた。しぶきのはねる模様でも、滝の幅でも、眼まぐるしく変っているのがわかった。果ては、滝は水でない、雲なのだ、ということも知った。滝口から落ちると白くもくもくふくれ上る案配からでもそれと察しられた。だいいち水がこんなにまでしろくなる訳はない、と思ったのである。
 スワはその日もぼんやり滝壺のかたわらに佇たたずんでいた。曇った日で秋風が可成りいたくスワの赤い頬を吹きさらしているのだ。
 むかしのことを思い出していたのである。いつか父親がスワを抱いて炭窯すみがまの番をしながら語ってくれたが、それは、三郎と八郎というきこりの兄弟があって、弟の八郎が或る日、谷川でやまべというさかなを取って家へ持って来たが、兄の三郎がまだ山からかえらぬうちに、其のさかなをまず一匹焼いてたべた。食ってみるとおいしかった。二匹三匹とたべてもやめられないで、とうとうみんな食ってしまった。そうするとのどが乾いて乾いてたまらなくなった。井戸の水をすっかりのんで了って、村はずれの川端へ走って行って、又水をのんだ。のんでるうちに、体中へぶつぶつと鱗うろこが吹き出た。三郎があとからかけつけた時には、八郎はおそろしい大蛇だいじゃになって川を泳いでいた。八郎やあ、と呼ぶと、川の中から大蛇が涙をこぼして、三郎やあ、とこたえた。兄は堤の上から弟は川の中から、八郎やあ、三郎やあ、と泣き泣き呼び合ったけれど、どうする事も出来なかったのである。
 スワがこの物語を聞いた時には、あわれであわれで父親の炭の粉だらけの指を小さな口におしこんで泣いた。
 スワは追憶からさめて、不審げに眼をぱちぱちさせた。滝がささやくのである。八郎やあ、三郎やあ、八郎やあ。
 父親が絶壁の紅い蔦の葉を掻かきわけながら出て来た。
「スワ、なんぼ売れた」
 スワは答えなかった。しぶきにぬれてきらきら光っている鼻先を強くこすった。父親はだまって店を片づけた。
 炭小屋までの三町程の山道を、スワと父親は熊笹を踏みわけつつ歩いた。
「もう店しまうべえ」
 父親は手籠を右手から左手へ持ちかえた。ラムネの瓶がからから鳴った。
「秋土用すぎで山さ来る奴もねえべ」
 日が暮れかけると山は風の音ばかりだった。楢ならや樅もみの枯葉が折々みぞれのように二人のからだへ降りかかった。
「お父ど」
 スワは父親のうしろから声をかけた。
「おめえ、なにしに生きでるば」
 父親は大きい肩をぎくっとすぼめた。スワのきびしい顔をしげしげ見てから呟いた。
「判らねじゃ」
 スワは手にしていたすすきの葉を噛みさきながら言った。
「くたばった方あ、いいんだに」
 父親は平手をあげた。ぶちのめそうと思ったのである。しかし、もじもじと手をおろした。スワの気が立って来たのをとうから見抜いていたが、それもスワがそろそろ一人前のおんなになったからだな、と考えてそのときは堪忍してやったのであった。
「そだべな、そだべな」
 スワは、そういう父親のかかりくさのない返事が馬鹿くさくて馬鹿くさくて、すすきの葉をべっべっと吐き出しつつ、
「阿呆、阿呆」
 と呶鳴どなった。

3.

 ぼんが過ぎて茶店をたたんでからスワのいちばんいやな季節がはじまるのである。
 父親はこのころから4.5日置きに炭を脊負って村へ売りに出た。人をたのめばいいのだけれど、そうすると15銭も20銭も取られてたいしたついえであるから、スワひとりを残してふもとの村へおりて行くのであった。
 スワは空の青くはれた日だとその留守に蕈きのこをさがしに出かけるのである。父親のこさえる炭は一俵で五六銭も儲もうけがあればいい方だったし、とてもそれだけではくらせないから、父親はスワに蕈を取らせて村へ持って行くことにしていた。
 なめこというぬらぬらした豆きのこは大変ねだんがよかった。それは羊歯類の密生している腐木へかたまってはえているのだ。スワはそんな苔を眺めるごとに、たった一人のともだちのことを追想した。蕈のいっぱいつまった籠の上へ青い苔をふりまいて、小屋へ持って帰るのが好きであった。
 父親は炭でも蕈でもそれがいい値で売れると、きまって酒くさいいきをしてかえった。たまにはスワへも鏡のついた紙の財布やなにかを買って来て呉れた。
 凩こがらしのために朝から山があれて小屋のかけむしろがにぶくゆすられていた日であった。父親は早暁から村へ下りて行ったのである。
 スワは一日じゅう小屋へこもっていた。めずらしくきょうは髪をゆってみたのである。ぐるぐる巻いた髪の根へ、父親の土産の浪模様がついたたけながをむすんだ。それから焚火たきびをうんと燃やして父親の帰るのを待った。木々のさわぐ音にまじってけだものの叫び声が幾度もきこえた。
 日が暮れかけて来たのでひとりで夕飯を食った。くろいめしに焼いた味噌をかてて食った。
 夜になると風がやんでしんしんと寒くなった。こんな妙に静かな晩には山できっと不思議が起るのである。天狗てんぐの大木を伐り倒す音がめりめりと聞えたり、小屋の口あたりで、誰かのあずきをとぐ気配がさくさくと耳についたり、遠いところから山人やまふとの笑い声がはっきり響いて来たりするのであった。
 父親を待ちわびたスワは、わらぶとん着て炉ばたへ寝てしまった。うとうと眠っていると、ときどきそっと入口のむしろをあけて覗のぞき見するものがあるのだ。山人が覗いているのだ、と思って、じっと眠ったふりをしていた。
 白いもののちらちら入口の土間へ舞いこんで来るのが燃えのこりの焚火のあかりでおぼろに見えた。初雪だ! と夢心地ながらうきうきした。

 疼痛とうつう。からだがしびれるほど重かった。ついであのくさい呼吸を聞いた。
「阿呆」
 スワは短く叫んだ。
 ものもわからず外へはしって出た。
 吹雪! それがどっと顔をぶった。思わずめためた坐って了った。みるみる髪も着物もまっしろになった。
 スワは起きあがって肩であらく息をしながら、むしむし歩き出した。着物が烈風で揉もみくちゃにされていた。どこまでも歩いた。
 滝の音がだんだんと大きく聞えて来た。ずんずん歩いた。てのひらで水洟みずばなを何度も拭った。ほとんど足の真下で滝の音がした。
 狂い唸うなる冬木立の、細いすきまから、
「おど!」
 とひくく言って飛び込んだ。

4.

 気がつくとあたりは薄暗いのだ。滝の轟とどろきが幽かすかに感じられた。ずっと頭の上でそれを感じたのである。からだがその響きにつれてゆらゆら動いて、みうちが骨まで冷たかった。
 ははあ水の底だな、とわかると、やたらむしょうにすっきりした。さっぱりした。
 ふと、両脚をのばしたら、すすと前へ音もなく進んだ。鼻がしらがあやうく岸の岩角へぶっつかろうとした。
 大蛇!
 大蛇になってしまったのだと思った。うれしいな、もう小屋へ帰れないのだ、とひとりごとを言って口ひげを大きくうごかした。
 小さな鮒ふなであったのである。ただ口をぱくぱくとやって鼻さきの疣いぼをうごめかしただけのことであったのに。
 鮒は滝壺のちかくの淵をあちこちと泳ぎまわった。胸鰭むなびれをぴらぴらさせて水面へ浮んで来たかと思うと、つと尾鰭をつよく振って底深くもぐりこんだ。
 水のなかの小えびを追っかけたり、岸辺の葦あしのしげみに隠れて見たり、岩角の苔をすすったりして遊んでいた。
 それから鮒はじっとうごかなくなった。時折、胸鰭をこまかくそよがせるだけである。なにか考えているらしかった。しばらくそうしていた。
 やがてからだをくねらせながらまっすぐに滝壺へむかって行った。たちまち、くるくると木の葉のように吸いこまれた。

底本:「晩年」新潮文庫、新潮社
   1947(昭和22)年12月10日初版1刷
   1985(昭和60)年10月5日70刷改版
   1987(昭和62)年11月25日75刷
初出:「海豹」 1933(昭和8)年3月号
入力:中嶋壮一
校正:鈴木厚司
2003年4月9日作成
2013年4月6日修正
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漁服記 太宰治


遠野物語 柳田国男
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『遠野物語』(とおのものがたり)とは、柳田國男が明治43年(1910年)に発表した岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集である。 遠野地方の土淵村出身の民話蒐集家であり小説家でもあった佐々木喜善より語られた、遠野地方に伝わる伝承を柳田が筆記、編纂する形で出版され、『後狩詞記』(1909年)『石神問答』(1910年)とならぶ柳田國男の初期三部作の一作。日本の民俗学の先駆けとも称される作品である。

遠野物語における遠野、あるいは遠野郷とは、狭義には藩政時代の旧村が明治の町村制によって編制された遠野、松崎、綾織、土淵、附馬牛、上郷、を指すが、広義には上閉伊郡宮守村、釜石市橋野町、上閉伊郡大槌町、下閉伊郡川井村などの隣接地域も含まれ、その地で起きたとされる出来事も取り上げられている。
内容は天狗、河童、座敷童子など妖怪に纏わるものから山人、マヨヒガ、神隠し、臨死体験、あるいは祀られる神とそれを奉る行事や風習に関するものなど多岐に渡る。 作成過程で3つの原稿が存在し、佐々木の話を都度書き記すかたちで作られた草稿にあたる毛筆本、実際に遠野に赴き、自ら得た見聞を加えて人名、地名、数字などの事実関係を補完して作られた清書本。
毛筆本の段階では107話であったが清書本の段階で12話が追加され119話となった。そして清書本をもとに初稿が印刷され、初稿を再考し、一部伏字となっていた固有名詞などに手を加えられ完成本となった。 

これら3つの原稿は、長野県松本市で政治家を務めていた池上隆祐が昭和7年に『石神問答』の刊行に対する記念として『石』の特集号を発行した際、折口信夫、金田一京助らの署名を入れた特装本を柳田へ贈った事に対する謝礼として柳田より池上へ贈られた。池上の没後に遺族より遠野市へ寄贈され、それ以降は遠野市立博物館が保管している。
『遠野物語』の反響により、昭和10年(1935年)には各地から寄せられた拾遺299話を追加した『遠野物語増補版』が発表された。

柳田國男が初めて遠野を訪れたのは明治42年(1909年)8月23日の夜のこと。8月22日(日曜日)午後11時、上野発海岸回り青森行きの列車に乗った柳田は、翌23日に到着した花巻駅で下車。人力車に乗り換え、矢沢村、土沢、宮守、と経て鱒沢の沢田橋のたもとにあった木造三階建ての宿屋で食事と人力車を乗り継ぎ、遠野に到着したのは夜の8時であった。 
柳田は遠野では高善旅館に宿をとり、主人の高橋善次郎から馬を借りて伊納嘉矩や佐々木喜善を訪ね、南部家所縁の地などを回ったが、これらの日程には諸説存在しており、定説があるわけではない。ここでは便宜上、岩崎敏夫による説を主として解説を行う。

24日の朝、鍋倉神社近くにあった上閉伊郡役所を訪ね、郡内の説明を地図を貰いうけ、まず土淵村山口の佐々木喜善宅を目指した。あいにく喜善は東京にいたため不在で、家には養母のイチと叔母のフクヨがおり、柳田は来意を伝えると、二人から土淵村で助役を務めていた北川清を紹介された。
来た道を1kmほど戻り、訪れた北川家で清より話を聞き、翌日、清の代わりに附馬牛小学校で教員を務めていた息子の真澄が附馬牛まで柳田の案内をすることになった。その日の晩には新屋敷まで伊納嘉矩を訪ねているが伊納は不在であった。
25日、北川真澄の案内で早池峰山道を通り附馬牛に辿り着いた柳田は上柳の附馬牛役場を訪れ、役場書記の末崎子太郎と附馬牛小学校から呼び寄せられた福田恵次郎の二人より附馬牛村の成り立ちや歴史について聞き、附馬牛の源流のひとつである東禅寺跡へと案内された。
帰りは石羽根から大袋を通り、その道すがら菅原神社でしし踊りが行われているのを目撃し、また掲げられたムカイトロゲに旅情を感じ、忍峠へと入っていった。宿に戻ると伊能が訪ねてきたという事であったが、附馬牛を発った時点で黄昏時であったので宿に着いたのは夜の8頃と推測され、既に遅い時間であった事からこの日はそのまま休む事にした。

26日には先日宿を訪ねてきた新屋敷の伊能の家を訪問し、伊能の台湾研究に関する研究資料、および『阿曾沼興廃記』や『旧事記』といった遠野に関する資料、オシラサマや雨風祭の藁人形、あるいは遠野周辺に伝わる妖怪に関する伝承や住人達の生活の在り方を聞いた。

27日に伊能は高善旅館まで再び出向き、柳田を南部男爵邸へ案内し、屋敷の保守にあたっていた及川忠兵、郷土資料家の鈴木吉十郎の案内で男爵家に伝わる古文書や受け継がれてきた宝物を見た。その後、昼過ぎに人力車に乗り、来たときとは異なり下組町から愛宕橋を渡り、綾織村の小峠を越えて日詰街道を盛岡へ向かった。
後の『現代随想全集』で「帰りに横手から五色温泉に遊ぶ」と述懐されていることから、盛岡から秋田へ行き、帰京したのは31日とされている。
上記の説のほか、遠野に到着した翌日の24日にまず伊能を訪ねたとする説。山口の佐々木家を訪問し「土淵村山口から附馬牛に出る時でした。あそこは南部公の寺があるんで、それを見に行ったのです。ちょうどシシ踊りなんかしてました」という『民俗学と岩手』における記述から、土淵から附馬牛へ向かったと推測し、一連の行程は25日に行われたとする説。当時の柳田の立場を考慮すると郡役所に立ち寄って何もなく送り出されるのは不自然であるとし、郡役所に立ち寄る事は無かったとする説。あるいは遠野を離れたのは26日であったとする説などが存在する。

神の始 (2話)
早池峰山 遠野物語の位置
遠野の町は南北の川の落合にあり、以前は七七十里として、月に6度開かれる市には7つの渓谷、70里(およそ28km)の距離から売買の為に商人1000人、馬1000頭が集まる賑わいをみせていた。
周囲には遠野三山と呼ばれる山々があり、早池峰山、六角牛山、石上山(石神山)、これらには成り立ちに関する神話が存在する。大昔に女神とその3人の娘が遠野を訪れ、来内村の伊豆権現のある所に宿った際、女神は娘達に良い夢を見た娘に対して良い山を与えると伝えた。夜深く天から霊華が舞い降り、姉の胸の上にこれが降りるも、末の娘が目を覚まし、これを自分の胸の上に移すことで最も美しいとされる早池峰山を手に入れた。そして姉達はそれぞれ六角牛山と石上山を得た。

草稿版には夢の中でそれぞれの娘にそれぞれの山が宛がわれたという記載は無く、姉から奪うことで利益を得たという妹の行為に対して柳田の手が加えられたと考えられている。
早池峰山はその経緯より、盗みを働いた者がその発覚を免れるよう願掛けをする、といったことでも霊験を得られると考えられ、早地峰信仰の普及に一役買ったとされている。また、これら3つの山は女神が住まう山である為、遠野の人たちは神罰を恐れ、戦前までこの山には女性が入ることが禁じられていた。かつて神職であるため差支えがないと石上山に入った巫女はその琴線にふれ、大雨風が起こり、姥石と牛石になってしまったという逸話も残されている。
(参照ウィキぺデア)